FC2ブログ

観仏日々帖

古仏探訪~2015年・今年の観仏を振り返って〈その2〉  【2015.12.6】


2015年・今年の観仏を振り返って【その2】は、4月から6月までの観仏先をご紹介します。


[4月]

飲み友達3人で、1泊2日で近江京都方面に遊びに行こうということになりました。
仏像愛好仲間ではありませんので、観仏旅行というわけにはいきません。
せっかく京都方面に出かけるのに、観仏しないのはもったいないと、私は前日から出かけました。

丸一日かけて、龍谷ミュージアムの「聖護院門跡の名宝展」、宇治の三室戸寺、高槻市立しろあと歴史館の「人とほとけのきずな展」をまわりました。



【峯定寺の宋風・釈迦像、超絶技巧截金の不動明王像が大きな収穫~龍谷ミュージアムの「聖護院門跡の名宝展」】

観仏リスト2・聖護院展

聖護院といわれると、ついつい「聖護院八つ橋」とか「聖護院大根・かぶら」などが頭に浮かんでしまいます。
聖護院門跡の名宝展

仏像とか文化財では、ちょっとなじみが薄いのかもしれません。
聖護院は、900年の歴史を誇る修験の総本山で、門跡寺院でもあるという由緒、格式を誇る古刹です。
立派な仏像、文化財が数多く残されていて当然なのでしょうが、意外と知られていないようです。

聖護院ゆかりの平安後期から鎌倉時代の仏像が数多く出展され、なかなか充実した展観でした。

なかでも、峯定寺の、正治元年(1199)作の釈迦如来立像を観ることが出来たのは収穫でした。
この像は、ビラビラと異様に波打つ衣の襞が眼を惹く像で、吊り上がった眼も印象的、ちょっと特異な造形です。
一度、じっくり観たいと思っていたのです。
この表現は、南宋仏画をもとに造形されたといわれ、ねっとりとした宋風、異国風を強く感じさせる、注目の像です。
本像の造立には、解脱坊貞慶の関与が想起されているそうです。

峯定寺・釈迦如来立像
峯定寺・釈迦如来立像

峯定寺・不動明王二童子像(久寿元年・1154)の、細密な截金文様のコンピュータグラフィックスによる鮮やかな細密復元を観ることが出来たのも、もう一つの収穫でした。
華麗な超絶技巧の截金の世界に、感嘆の声をあげるとともに、その美しさを堪能することが出来ました。

峯定寺・不動明王三尊像.超絶美麗な截金文様の峯定寺・不動明王像
峯定寺・不動明王三尊像と超絶技巧の截金文様


三室戸寺へ行きました。

観仏リスト1・三室戸寺

良い天気でさわやかな春の風がそよぐ中、京阪電車・三室戸駅から、のんびり歩いて20分ほどで到着です。

宇治・三室戸寺
宇治・三室戸寺

実は、三室戸寺の仏像を拝するのは初めてなのです。
よく知られたお寺なのに、どうしてか機会がなく、行きそびれていました。
毎月17日のみが、仏像を安置する宝物殿の公開日ですが、やっとのことで諸仏を拝することが出来ました。



【唐風・奈良風を実感の慶瑞寺・菩薩坐像~高槻市立しろあと歴史館「ひととほとけのきずな展」】

観仏リスト3・人とほとけのきずな展

高槻市まで足を延ばして、しろあと歴史館で開催されていた「人とほとけのきずな展」へ行きました。
人とほとけのきずな展

高槻市内の社寺で、新たに調査した仏像仏画などを中心とした展覧会です。
展示仏像は、ほとんどが無指定の在地仏像ばかりという、こじんまりした企画展でした。

わざわざ出かけたのは、慶瑞寺・菩薩坐像が特別出展されていたからです。
慶瑞寺・菩薩坐像は、像高87.7㎝、檀像風のカヤの一木彫で、8~9世紀の制作といわれる出来の良い像です。
切れ長で鋭い眼差し、細身の体躯で、若々しい厳しさと霊的な雰囲気を醸し出す像です。
この慶瑞寺像、従来、平安前期の制作とされていましたが、近年は奈良時代とみてよいのではないか云われるようになっています。
2006年、東博開催の「一木彫展」解説でも、奈良~平安時代(8~9C)と記されています。

慶瑞寺には、二度訪れ拝したことがあるのですが、高い壇上に祀られ見上げるように拝するものですから、眼近にじっくり観てみたいと思って出かけたのです。

壇上に見上げる慶瑞寺・菩薩坐像
壇上に見上げるように祀られる慶瑞寺・菩薩坐像

唐風、異国風のエキゾチズムを感じました。
天平風の造形、シルエットであることにも気付きました。
お寺で見上げて拝すると、平安初期的な硬くてシャープな感じのイメージが残ったのですが、目線と同じ高さで観ると、展示された像を眼近に観ると、ずいぶん印象が変化しました。

慶瑞寺・菩薩坐像.慶瑞寺・菩薩坐像
慶瑞寺・菩薩坐像

特に天平風を感じたのは、真横から観た姿です。
背中の丸め方、頭部の深い面奥、形状など、そのシルエットは、まるで天平仏という感じがしました。
膝前の衣文線のふくらみある造型も、乾漆仏を思わせます。
「8世紀の作といわれるのも納得!」
そのように感じました。



翌日からは、飲み友達3人で、一泊二日の近江・京都美食旅行。
初日は、八日市の「招福楼」でゆっくりと、飲みながら昼食。

八日市・招福楼
八日市・招福楼

流石「招福楼」、しつらえ、料理、応対、すべて文句のつけようのない至福の時でありした。
そのあと、奈良前期の三重石塔のある石塔寺、ヴォーリズ建築の近江八幡教会、日牟礼八幡宮などを巡って京都泊。

石塔寺・三重石塔.ヴォリーズ建築・近江八幡教会
石塔寺・三重石塔               ヴォーリズ建築・近江八幡教会

翌日は、西陣の老舗帯地屋「渡文」旧宅店舗にある「織成館(おりなすかん)」、野村美術館の「高麗茶碗展」に行きました。

西陣・織成館
西陣・織成館

ついでに、仏像も見たいという同行の友のリクエストに応えて、西陣に近い大将軍八神社、雨宝院に寄りました。

観仏リスト4・大将軍八神社、雨法院

いずれも、ポピュラーではありませんが、魅力ある平安の神仏像が祀られており、私のお気に入りの社寺です。

大将軍八神社社殿

大将軍八神社・大将軍神像
大将軍八神社社殿と大将軍神像

とりわけ、雨法院の千手観音像は、私の一押しの魅力ある平安前期仏です。
もう、何度訪れたことでしょうか。

西陣・雨法院

雨法院・千手観音立像
西陣雨法院と千手観音立像


この日の朝食とランチは、私のお気に入り定番の、寺町二条「進々堂」と、木屋町御池「レストラン・おがわ」。

近江京都の春と美食を堪能した、大満足の旅となりました。



【新町地蔵保存会の地蔵坐像の迫力にビックリ~新指定国宝・重要文化財展】

4月は、毎年恒例、東京国立博物館で新指定国宝重要文化財展が開催される月です。
平成27年度(2015)は、ご覧のような仏像彫刻が、国宝・重要文化財に新たに指定されました。

観仏リスト5・新指定文化財展

毎年必見の展覧会です。

今年は、醍醐寺・虚空蔵菩薩立像、東大寺・弥勒仏坐像(試みの大仏)が、国宝指定になりました。

醍醐寺・虚空蔵菩薩立像.東大寺・弥勒仏坐像
醍醐寺・虚空蔵菩薩立像                    東大寺・弥勒仏坐像

平安初期の檀像風彫刻の名品がそろい踏みで国宝指定です。
いずれも、鋭く切れ味の良い彫技が、これでもかと冴えわたる素木像で、その魅力に強く惹かれています。
醍醐寺・虚空蔵像は、長らく聖観音像と称されていましたが、近年、来歴が明らかになり虚空蔵像であることが判明しましたが、そのことが国宝指定される一因になったのでしょうか。


大注目だったのが、新町地蔵保存会の地蔵菩薩像です。

新町地蔵保存会・地蔵菩薩坐像
新町地蔵保存会・地蔵菩薩坐像

京都市左京区、下鴨の小さな地蔵堂に伝わった仏像なのだそうですが、その存在を全く知りませんでした。
像高47.5㎝、カヤ材の一木彫で、9世紀後半の制作と考えられるそうです。
粘りのある彫り込まれた衣文、厚みと張りがある体躯の迫力はなかなかで、惹きつけるものがあります。
驚きました。
こんな仏像が京都にあったのかと、ビックリです。
平安前期一木彫の魅力をしっかり備えた仏像に、また一つ出会うことが出来ました。



[5月]


【日向薬師・薬師三尊、弘明寺・十一面観音の二つの鉈彫り像を、じっくり拝観】

観仏リスト6・鉈彫シリーズ

同好の方々と、神奈川県立金沢文庫で開催された「日向薬師・秘仏鉈彫本尊開帳展」と横浜市南区弘明寺町の弘明寺・十一面観音像拝観に出かけました。
鉈彫りシリーズの観仏です。

金沢文庫・日向薬師秘仏鉈彫本尊開帳展

金沢文庫の日向薬師展は、昨年10月からの開催予定でしたが、館内収蔵庫の一部にカビの発生が判明、開催延期となっていたものです。
弘明寺・十一面観音立像
弘明寺・十一面観音立像
日向薬師・本尊薬師三尊像は、年に5日に限りご開帳されるだけですので、眼近に観ることが出来るこのチャンスを愉しみにしていたものです。

日向薬師像と弘明寺像を連続して拝することが出来たのは、大変良い観仏でした。
日向薬師像はしっかり丁寧に造られており、弘明寺像の方は霊木の野性味のようなものをそのまま伝えているようです。

鉈彫り像は、その昔の完成・未完成論議から、近年は、何故鉈彫り像が作られたのか、何故縞目なのかといった成立事由論議に展開してきています。
東国の気風、嗜好に合ったというような事由だけでは、なかなか説明がつきにくいように思えますが、まだまだ興味深い謎だと云えるのでしょう。


鉈彫り観仏シリーズを終え、まだ陽の高い4時前から弘明寺商店街の中華料理店で酒盛り。
鉈彫り談議、観仏談議で盛り上がり、帰り途、新横浜のブラッスリーに寄ってワインで飲み直し、すっかり出来上がってしまいました。



【二体の朝鮮渡来仏~関山神社・菩薩像、観松院・菩薩半跏像をめざし、長野の展覧会へ】

今年は、7年に一度の善光寺・前立本尊の御開帳の年でした。

この御開帳には、わざわざ出かける気はなかったのですが、御開帳期間に合わせて長野で二つの仏像展覧会が開かれました。
長野市博物館の「信仰のみち展」と、長野県信濃美術館の「信濃の仏像と国宝土偶展」です。
共に、なかなか興味深い仏像が出展されることになっていましたので、同好の方々と長野観仏旅行に1泊2日で出かけました。

観仏リスト7・信仰のみち展

観仏リスト8・いのりのかたち展

展覧会には、ご覧のような長野の仏像が出展され、それぞれに興味深く愉しむことが出来ました。

長野市博物館・信仰のみち展.長野県信濃美術館・信濃の仏像と国宝土偶展

二体の日本海沿岸や信濃に伝わる古代朝鮮渡来の金銅仏を、両展覧会で観ることが出来ました。
そのために、わざわざ長野までやってきたようなものです。

関山神社の菩薩立像は、宝珠捧持形式であったらしく、各所に法隆寺夢殿・救世観音像に近い形式を持つとされています。

関山神社・菩薩立像...関山神社・菩薩立像
関山神社・菩薩立像

側面の「くの字」状シルエットも、夢殿観音に通じます。
昭和30年代になって初めて知られるようになった関山神社のご神体ですが、6~7世紀の朝鮮渡来仏とみられています。

観松院・菩薩半跏像も一目して朝鮮渡来仏と思われる金銅仏です。
形式は神野寺・菩薩半跏像に似たスタイルですが、6~7世紀の渡来金銅仏とみられています。

観松院・菩薩半跏像..観松院・菩薩半跏像
観松院・菩薩半跏像

関山神社は、日本海沿岸に近い妙高市に、観松院は安曇野・北安曇郡松川村にあります。
絶対秘仏の善光寺本尊も朝鮮三国時代の金銅三尊仏である可能性を考えると、古代朝鮮から日本海沿岸、信濃という文化伝播ルート、渡来人の来訪ルートがあったのかもしれないという想像が拡がっていきます。
共に、20㎝そこそこの金銅仏で、単眼鏡などで目を凝らさないと観ることが出来ない小像ですが、「これを目指してやってきたのだ」と、じっくり鑑賞しました。



展覧会に出かけたついでというわけでもないのですが、松代清水寺、保科清水寺、知識寺を巡って、仏像を拝しました。
もちろん、善光寺の前立本尊も、長い行列に並んでチラリと拝しました。

観仏リスト9・信濃観仏


【違和感ある迫力~強い自己主張が不思議な魅力の、松代清水寺の仏たち】

松代清水寺は、太平洋戦争末期に建設された松代大本営跡の近くの小さな集落に、ほとんど目立つことなくあります。
松代清水寺の仏像は、信濃一番の古仏で、貞観の余風を色濃く残す平安中期の像です。
毎度感じることですが、コンクリート造りの本堂兼収蔵庫が開かれると、眼前に諸仏が一列に立ち並び、「違和感ある迫力」が伝わってきます。

松代清水寺・安置諸像
松代清水寺・安置諸像

なかでも聖観音像は、「違和感ある迫力」の代表選手です。
生々しい量感・迫力で、ちょっと引いてしまうほどです。

松代清水寺・聖観音立像
松代清水寺・聖観音立像

目鼻の造りが大きくアクの強い顔、肩・胸を張って胴を極端に細く絞った、誇張したモデリングなどが独特の造形です。
信濃の仏師の、強い自己主張の声が聞こえるようで、不思議な魅力を感じる仏たちです。

松代清水寺・新発見天部形立像
松代清水寺・新発見天部形立像
この清水寺で、今年(2015)3月に、平安前期の天部形像が発見されました。
ご住職にお話を伺うと、
「60年以上前に建替えた本堂の天井裏に、多数の破損仏像が保管されていたうちの一体で、調査をしていただいたら平安前期の古像だと判明したのですよ。」
ということでした。

この天部像は、ちょうど長野県信濃美術館の「信濃の仏像と国宝土偶展」に特別出展されていて、そちらで観ることが出来ました。
独特のアクの強い造形でしたが、大変古様でインパクトある像でした。



【奈良・桜井から信濃の地にやってきた、保科清水寺の仏たち】

もう一つの清水寺、保科清水寺は、松代清水寺の東5~6キロのところにあります。

保科清水寺には、平安後期の立派な仏像が、数多く祀られています。
しかし、これらの仏像は当地で造られたものではありません。
奈良桜井の石位寺から本尊千手観音像ほか10余体が移安されたものなのです。
大正5年(1916)、清水寺は大火に遭い全山焼失しました。
その折、保科清水寺が、石位寺の古仏群を7千円で買い取り、当地に移安されてきたものなのです。
奈良の石位寺では、お堂の修理費の工面が必要となって、仏像を処分することとしたのでした。
石位寺とは、あの白鳳の三尊石仏で知られるお寺です。

仏像は皆、平安後期らしいおだやかなお姿ですが、奈良南部の地方作的雰囲気がある像です。

保科清水寺・千手観音坐像.保科清水寺・安置諸像
保科清水寺・千手観音坐像と安置諸像

あの石位寺から、どんなふうにして十数体の仏像が、遠路長野の地まで運ばれてきたのでしょうか?
山腹の観音堂にある千手観音坐像の、清楚で穏やかな姿を拝していると、こんな由来物語とは関わり無く、この信濃の地に、昔からずっと祀られてきたかのように、しっくりなじんで見えてきます。



【素朴さに惹かれる立木仏~知識寺・十一面観音像】

知識寺の十一面観音像は、大御堂と呼ばれる 木立ちに佇む茅葺の風情あるお堂の厨子に祀られています。

知識寺・大御堂
知識寺・大御堂

知識寺・十一面観音立像
知識寺・十一面観音立像

ケヤキの立木に直彫りした、3mを越える「立木仏」です。
豪快で寸胴のような巨像が、大御堂の床をえぐりぬいた一段と低いところから、自然木に近い岩座を踏まえ、厨子一杯に立ち上がっています。
いかにも、立木がそのまま真直ぐすくっと伸びているような荒削りの素木像で、この地の人々の信仰を集める像に相応しく感じます。
何度来ても、その素朴さにひかれてしまいます。



観仏のほかには、信州の鎌倉と呼ばれる「塩田平」に寄ってきました。
心安らぐ眺望の田園風景です。

塩田平の田園風景
塩田平の眺望

前山寺三重塔のほか、信濃デッサン館、無言館へ行きました。

信濃デッサン館、無言館は、窪島誠一郎氏が私財を投じて運営しているユニークな美術館です。
窪島誠一郎氏は、作家・故水上勉の子息で、戦争の混乱期に父・水上勉と別離し、スナックや画廊を含むいろいろな仕事をしてから、1979年に長野県に信濃デッサン館を設立しました。
父との再会や確執、信濃デッサン館・無言館を題材にたくさんの著作があるのはご存知の通りです。
信濃デッサン館では、窪島氏収集の村山槐多、関根正二、野田英夫など夭折画家の小品が展示されています。

信濃デッサン館
信濃デッサン館

無言館には、戦没画学生たちの遺作となった絵画・作品・絵の道具・手紙などが展示されています。

無言館
無言館

無言館という名付けは、
「展示される絵画は何も語らず『無言』ではあるが、観る側に多くを語りかけるという意味で命名したということですが、客もまた展示される絵画を見て『無言』になるという意味をも含んでいる」
そうです。
戦没画学生の作品を観ていると、抑えてもこみ上げてくるものを感じざるを得ません。


塩田平を巡った後は、上田駅まで戻り、お土産とランチ。

お土産は、江戸時代創業の水飴、ジャムの老舗、「みすず飴本舗・飯島商店」に寄りました。

石造りのみすず飴本舗・飯島商店本店
石造りのみすず飴本舗・飯島商店本店

本店の建物は、国指定有形文化財という石造りの格調高いものです。

ランチは、この飯島商店の店員さんに教えていただいた近所のイタリアン。

このお店が、なんとも美味かったのです。

トラットリアノンノ

トラットリアノンノ内観
トラットリア・ノンノ

雰囲気といい、料理の美味さといい、上田にこんな素敵なイタリアンの店が何故あるのだろうと、本当にびっくりです。
東京都心でも、十二分に勝負できる味だと思いました。
想定外の美味さに、ワインもグイグイ進んでしまい、あっという間にいい気分になってしまいました。
お店の名前は、「トラットリア ノンノ」
飯島商店の店員さんに大感謝です。




[6月]

5月の信濃の次は、飽きもせずに、今度は西へ。
同好の方々と、四国、徳島、香川の観仏に、3泊4日で出かけました。
徳島観仏は、45年ほど前以来で、本当に懐かしい観仏旅行です。


〈四国:第1日目〉


観仏リスト10・徳島香川観仏1


【45年ぶりの懐かしの再会に感動!~井戸寺・十一面観音像と願興寺・聖観音像】

まずは、井戸寺。

ご住職のご都合もあり、朝の8時半からご拝観となりました。
徳島市内に前泊して、朝一番に出動です。
井戸寺の十一面観音像は、9世紀末から10世紀の制作で、徳島県最古の木彫像と言われています。
誰が見ても独特の惹きつけるインパクトを感じさせる一木彫像です。
その特異さから、奈良時代の制作とみる説もあるのです。

井戸寺・十一面観音を拝するためならと、前泊も勿論厭わず、徳島に乗り込んだのでした。

井戸寺
四国八十八箇所霊場第十七番札所・井戸寺

45年前、学生時代にこの像を拝した時は、口をへの字に結び唇を突き出した顔貌、中心線から体躯が大胆に歪んでくねっている姿を見て、
「へんてこな造形の仏像だな・・・・仏師の腕が悪かったのだろうか?」
などと思った記憶がありますが、なにやら不思議なパワーを感じたのが、今も心に残っています。

井戸寺・十一面観音立像(1972年撮影写真)
井戸寺・十一面観音立像(1972年撮影写真)

十一面観音像は、六角堂・観音堂に安置されています。
いよいよ再会、ご対面です。
果たして、やっぱり、なかなかの迫力でした。

井戸寺・十一面観音立像
井戸寺・十一面観音立像

異形の仏像です。
「歪んでいます。」
「えもいわれぬ惹きつけるものがあります。内からこみ上げて来る迫力とでもいうのでしょうか?」
への字に結んだ口は、顔面の中央からずれて曲がっているし、体躯の線も中心線から歪んでくねっています。

井戸寺・十一面観音立像
井戸寺・十一面観音立像~顔部

歪んではいますが、彫り口は鋭く、ボリュームもなかなかです。
この不均衡な造型が、緊張感、野性味を発散させているのでしょう。
待望の再会を裏切ることのなかった、井戸寺・十一面観音像でした。



もう一つの45年ぶりの再会は、香川さぬき市・願興寺の聖観音坐像です。

願興寺・聖観音坐像
願興寺・聖観音坐像

この像は、奈良時代の美しい脱活乾漆像と云うことで、よく知られています。
いかにも天平の脱活乾漆像という理想的な姿が、清新で活き活きと表現されています。

願興寺・聖観音坐像
瓔珞が美しい願興寺・聖観音坐像
胸前にかかる瓔珞の装飾の美麗さには、とりわけ惹き付けられます。

四国地方唯一の脱活乾漆像ですが、これだけの第一級レベルの像が、奈良ではなくて讃岐の地に遺されているのに、不思議な感じを覚えます。
東大寺や唐招提寺と深い関係のあった、讃岐の国の歴史を物語るといってもよいのでしょう。

ご住職の案内で、立派な収蔵庫に祀られる聖観音坐像を拝することが出来ました。
やはり、これぞ天平という、美麗な仏様で、見惚れてしまいます。
「45年ほど前に伺ったことがあるんですよ!」
とお話しすると、
「昭和40年代からの拝観記帳簿が、まだ残っていてここに置いてあるのですよ。」
と、記帳簿を見せていただきました。
「ありました!ありました!」
昭和46年10月15日のところに、私が大学の同好会6名で訪れた時の記帳が、ちゃんと残されていました。

1971年10月の拝観記帳が残されている記帳簿
1971年10月の拝観記帳が残されている記帳簿

これまた、45年ぶりの懐かしい出会いとなりました。
「このころは、まだ古い収蔵庫に祀っていた頃でしたね。」
との、ご住職のお話に、今より随分小さな収蔵庫で、この観音像を拝した思い出が、ふつふつと懐かしく蘇ってきました。

願興寺・聖観音坐像(1971年撮影写真)
願興寺・聖観音坐像(1971年撮影写真)



【丈六巨像の堂々たる存在感に圧倒された、丈六寺・聖観音座像】

堂々たる観音坐像に圧倒されたのが、丈六寺・聖観音坐像でした。

観音堂には、丈六寺、その名の通りの丈六の聖観音坐像が祀られています。
像高310㎝の寄木造の巨像で、平安後期の制作です

丈六寺・聖観音坐像
丈六寺・聖観音坐像

「でかい」のです。
でかいのですが、破綻の無い造型バランスで、見事に仕上げられている出来の良い像です。
11世紀、定朝の平等院阿弥陀像の頃に近い制作かとみられるようですが、空気感はずいぶん違います。

丈六寺・聖観音坐像の指
丈六寺・聖観音坐像の指
眼鼻や衣などの表現は、いわゆる藤原彫刻そのものなのですが、定朝様仏の醸し出す、繊細優美、絵画的で軽やかという感覚とは、ずいぶん違います。
むしろ、ずっしりした重量感、豊満感を感じさせる造形です。
指なども、しっかり太めでもっちり、繊細優美とは縁遠い感じです。
出来の良い藤原仏なのに、ドーンと構えた堂々たる存在感を強く感じるのです。
大変気に入ってしまいました。

実は、この丈六寺の聖観音坐像、我々が訪れた一月後、56年ぶりの修復ということで、奈良博の修理工房に搬出されました。
3年間かけての修理になるそうです。
修理直前に、拝することが出来たのは、なんともラッキー、嬉しいことでした。



この日は、高松泊。
夜は、高松で最近評判の居酒屋「喰うくう」。
取りにくいという予約がラッキーに取れて、いざ出動!
評判通りで、本当に美味かった。
値段もまずまずお手頃、高松では絶対のお薦めの店でした。

高松居酒屋「喰うくう」
高松居酒屋「喰うくう」




〈四国:第2日目〉


観仏リスト11・徳島香川観仏2


【唐招提寺・衆宝王菩薩像の兄弟分、正花寺・菩薩像の見事さに見惚れる】

四国2日目の観仏先はごらんのとおりです。

何といっても、この日の目玉は、高松市西山崎町にある正花寺の菩薩立像です。
この正花寺・菩薩像、唐招提寺講堂に安置されていた衆宝王菩薩像に瓜二つの像として、よく知られています。
姿かたちはもちろんのことですが、カヤ材の一木彫で蓮肉まで一材で彫り上げられているところまでそっくりです。

唐招提寺・衆宝王菩薩立像..正花寺・菩薩立像
唐招提寺・衆宝王菩薩立像            正花寺・菩薩立像

四国の地に、このような名像が遺されているというのは、本当にびっくりです。
この像は、たまには展覧会に出展されますので、ご覧になったことのある方も多いのではないかと思います。
直近では、2006年に東博で開催された「一木彫展」に出展されました。

仏像は古いお堂から移された収蔵庫に収められていますが、普段は誰もいらっしゃいません。

正花寺・収蔵庫
正花寺・収蔵庫

ご高齢のご住職が、お孫さんご夫妻の車でわざわざお見えいただきました。
ここまで、何十分もかかるところにお住まいだそうです。
ご住職のお話を伺っていると、心よりの愛情をこめて、この菩薩像を大切におお守りされていることが、伝わってきます。
ご面倒をかけたことに感謝しつつ、菩薩像のご拝観です。

正花寺・菩薩立像
正花寺・菩薩立像

何度拝しても、その出来のすばらしさ、見事さに、感嘆の声をあげてしまいます。
何とも言えない、お顔の表情には見惚れます。
体躯の中心に木心を持ってきているからでしょうか、頬や胸に顕れる木目の線が見事にシンメトリーに整っています。
当代、一流の仏工の手になったものに違いありません。
兄貴分の衆宝王菩薩像と比べてみると、衆宝王像には石彫的な硬質感があり、大陸風の空気感がありますが、弟分の正花寺像のほうは、木彫的なふくらみ、柔らかさがあり、異国風の雰囲気は感じられません。

正花寺・菩薩立像

正花寺・菩薩立像
正花寺・菩薩立像

唐招提寺衆宝王像が、中国工人の関与によって制作された像だとすれば、正花寺像は、これを踏まえた日本人仏師の手によって消化されて造られたのではないでしょうか?
これだけの出来栄えの第一級作品ですので、南都の地で制作されたのは間違いないでしょう。
当地は、奈良時代、東大寺の封戸があった処で、また讃岐の国の封戸が唐招提寺施入されたりしています。
そのようなことから、きっと奈良の地からもたらされてきたのでしょう。

唐招提寺像が8世紀・奈良後期の制作とすれば、正花寺像はどれほどの時間差で造られたのでしょうか?



【横幅がすごい~重量感・存在感が腹にこたえる屋島寺・千手観音像】

屋島寺・十一面観音像は、源平合戦古戦場の屋島山上にある屋島寺の宝物館に展示されています。
この像は、屋島寺のご本尊なのですが、宝物館のガラス張りの展示棚に他の像と並べてさりげなく置かれています。
この像を目指してこなければ、数ある展示物の中の一つという感じでおかれていて、まさかご本尊とは気が付きません。
ちょっと気の毒のような気がしてしまいます。

屋島寺・千手観音坐像
屋島寺・千手観音坐像

いつ見ても、ぶっといボリューム感が、前面に押し出してきて圧倒されます。
横幅がすごいのです。
目鼻も、お顔も、胸も、脇手も、全て横拡がりです。
そして、皆、分厚く、太いのです。

屋島寺・千手観音坐像
屋島寺・千手観音坐像~顔部

ちょっとアンバランスな造形ですが、そのことが、平安前期特有の、重量感、存在感を発散させています。
忘れられない仏像です。



【凛とした八頭身クールビューティ~切れ味に魅せられる堂床区・十一面観音像】

堂床区・十一面観音像も、記憶に残る仏像です。

現在は、綾川町役場内にある「ふるさと資料館」に展示されています。
展示室の中央、360度ビューで鑑賞できる立派なガラスケースの中に展示されています。
「ふるさと資料館」の看板展示になっています。
像高176.3cm、すらりとしたスリムで長身の観音像です。
ヒノキの一木彫で内刳り無し、平安後期とか10世紀頃の制作とみられているようです。

堂床区・十一面観音立像
堂床区・十一面観音立像

痩身なのに、なよなよとしたところが全くありません
堂床区・十一面観音立像
堂床区・十一面観音立像~顔部
「キリリと締りがある!」
まずもって、この像から受ける印象です。
切れ上がった眼、きりっと通った鼻筋、引き締まった口元、「クールビューティ」とでも称したいような秀麗なお顔です。
胴はハイウエストでキュッとしまってくびれて、脚がすごく長くて八頭身です。
裳、衣文の彫もシャープで鎬立ち、のびやかです。
表現がむつかしいですが、
「スリムでクールで、キレキレ!」
なのです。

こんな風に書いていると、
「知的でクールで美しい、冴えわたったキャリアウーマン」
そんな女性のことを綴っているような気になってしまいました。

シャープで厳しい印象の表現の仏像は、平安前期特有のボリュームがあり分厚いといった重量感ある造形の延長線上にあるものが多いように思います。
ところが、堂床区・十一面観音像は、スリムで八頭身なのに平安前期風のシャープさ、厳しさを十分備えています。
あまり見ない造形、と云って良いのかもしれません。

堂床区・十一面観音立像.堂床区・十一面観音立像
堂床区・十一面観音立像

こうした、凛としてクール、シャープな観音像の魅力に、惹きつけられてしまいました。
大好きな仏像になりました。

この仏像は、龍燈院綾川寺の本尊でしたが、明治初年の神仏分離令(1868年)によって、綾川寺が廃寺となり、それ以後は堂床地区の人々が集落の滝宮神社境内の観音堂本尊として譲り受け、地区管理の仏像として大切に守られてきました。
私も、昔、滝宮神社の収蔵庫で拝した思い出があります。
平成24年(2012)から、新たに竣工した役場の「ふるさと資料館」で展示されるようになったそうです。


四国第2日目、充実濃厚の香川観仏の後、高松の夜は、スパニッシュバル「バルブルラッテ」。
これまたなかなかの味、ワインでいい気分。

スパニッシュバル「バルブルラッテ」
スパニッシュバル「バルブルラッテ」



〈四国:第3日目〉

徳島・香川観仏旅行も3日目。
観仏先は、ご覧のとおりです。
中高年にとっては、だいぶ疲れてきました。
もうひと頑張り。

観仏リスト12・徳島香川観仏3


【こめられた気迫が静かに迫りくる~見事な優作、神谷神社隋身像との出会い】

坂出市神谷町にある、神谷(かんだに)神社を訪れました。

田園の続く鄙びた村落にありました。
規模もあまり大きくなく村の神社といったような雰囲気で、ちょっと判りにくい場所にありました。
全く目立たない神社なのですが、本殿は建保7年(1219年)築で、建造年の明らかな神社建築としては日本最古で、国宝に指定されています。
また、隋身像2躯は、鎌倉前期の制作で、重要文化財に指定されているのです。

神谷神社・本殿(国宝)
神谷神社・本殿(国宝)

判ったようなことを書いていますが、そんな話は、神谷神社を訪ねることになるまで全く知りませんでした。
「ふーん、重文の隋身像があるんだ。」
そんな気分で訪れたのです。

隋身像を拝して、驚いてしまいました。
見事な優作です。

神谷神社・隋身像
神谷神社・隋身像

2躯ともに、まっすぐ正面立ちで動きはないのですが、静かに迫りくる気迫に、押されてしまいます。
御神像の類ですので、着衣の表現もシンプルですが、造形バランスは見事で、刀痕鋭く鮮やかに彫り上げられています。
とりわけ、阿形像のお顔の表現は気迫にみなぎり、じっと凝視していると、静謐なのですが後ずさりしてしまいそうな厳粛さが込められています。

神谷神社・隋身像~阿形像.神谷神社・隋身像~阿形像
神谷神社・隋身像~阿形像

隋身像の遺例としては、岡山津山市の高野神社隋身像と本像の2例が遺されているだけだそうです。
高野神社隋身像のほうは、よく知られており展覧会に出展されることがありますが、神谷神社像のほうは、ほとんど知られていないのではないかと思います。
これだけの優作、もっと世に知られてもよいのではと感じてしまいました。

ご案内、ご説明いただいた宮司様は、なるべく静かにお守りしていたいので、所謂宣伝のようなことはやりたくないのだとおっしゃっておられました。
国宝、重文を有しながらも、鄙びた当地にひっそり静かに在る、それもあらまほしき姿との思いを抱きつつ、神谷神社を後にしました。



【三豊市の鄙の地で、一流の技の美仏に出会う~法蓮寺・不空羂索観音像】

三豊市の法蓮寺は、高松から西へ約50キロ、農村地帯の田園風景の中にぽつりとあります。
本当に、のどかな鄙の地の村落にあり、広い立派なお宅の庭の隅に、収蔵庫が立っているといった感じです。

法蓮寺
法蓮寺

お訪ねすると、家人の女性の方が、どうぞご勝手に拝んでくださいとおっしゃって、ゆっくり拝することができました。

そんな田舎の仏像なのですが、これがびっくり、素晴らしく出来の良い不空羂索観音坐像です。

法蓮寺・不空羂索観音坐像
法蓮寺・不空羂索観音坐像

写真をご覧いただいたら一目瞭然ですが、張りのあるモデリング、均整の取れた体躯のバランス、彫技の入念さ、それぞれに見事で、堂々たる安定感、重厚感は、一流の仏師の腕になるものに違いないという気がします。

腕や、胸から腹にかけての肉付けには、ほれぼれしてしまいます。
膝の厚みや、衣文の彫の入念さも、なかなかです。

法蓮寺・不空羂索観音坐像

法蓮寺・不空羂索観音坐像
法蓮寺・不空羂索観音坐像

カヤ材の一木彫で、10~11世紀の制作とみられています。
一面二目八臂の不空羂索観音像で、全国でも数少ない作例となるそうです。

「こんなところに、どうしてこんな像が?」

と、つい思ってしまいます。
四国観仏旅行のフィナーレを飾るに、ふさわしい仏像に出会いました。



讃岐の地は、すごいレベルの仏像ぞろいだと、今更ながらに感じました。
四国の残りの三県と比べて、ダントツに粒ぞろいの仏像が遺されています。
今回は訪ねた古仏のほかにも、聖通寺、根来寺、金刀比羅宮、志度寺など、優れた平安古仏が遺されていることはご存じのとおりです。

讃岐の地は、東大寺や唐招提寺の封戸があったことなど、古代、都の寺院にとって、経済的に重要な地であったことを物語るといってよいのでしょう。



「今年の観仏を振り返って」は、やっと6月までのご紹介をすることができました。
ダラダラと、随分長く綴ってしまいました。

まだ半分しかご紹介できていないのかと思うと、少々疲れてきてしまいました。

元気を出してあと半分。
【その3】では、7~9月の観仏を振り返ります。

古仏探訪~2015年・今年の観仏を振り返って〈その1〉  【2015.11.28】


平成27年(2015年)も、そろそろひと月余りとなってきました。

今年も、飽きもせずというのか、他にすることもなく、観仏探訪に精を出してしまいました。
もう60代半ば、この年になると、未体験ゾーンにチャレンジするのに臆病になってくるようで、ついついホームグラウンドの観仏探訪の世界に、どっぷり漬かってしまいます。

昨年に引き続き、今年の観仏先を総まくりで振り返ってみたいと思います。

他人が訪れた一年間の観仏シリーズをダラダラと掲載されても、面白くもなんともないと思いますが、一年の締めくくりということで、我慢してお付き合いいただければ有り難き限りです。


[1月]


【大磯・六所神社の神像に、初詣で】

観仏リスト1

今年は、正月三が日に、早くも観仏に出動です。

1月3日、初詣がてらに神奈川大磯町の六所神社の御神像特別公開に、妻と出かけてみました。
六所神社の男女神像は、近年その存在が明らかになった神像で、年に一回、1月3日限りで、特別公開されます。

初詣の参詣客でにぎわう六所神社本殿
初詣の参詣客でにぎわう六所神社本殿

初詣の人々でにぎわう社殿の脇、小さな宝物殿に目立たぬ感じで、祀られていました。
六所神社・御神像特別公開のポスター

年に一日限りの特別公開だというのに、ほとんど注目されずという感じです。
なんだか可哀想になってしまいました。
両像共、70センチ前後の像高で、平安後期らしいバランスの良い造形です。

神像のイメージに似合わぬ男女神像です。
男神像は「憂愁に満ちた青年」というか、「眉根を寄せて苦悩煩悶する」といっても良いような表情をしているのです。
女神像も「憂鬱そうに苦悩する」表情をしています。
こんな神像表現の領域があるのでしょうか?
造立時、どのような制作背景があったのでしょう?

どのような思いを込めて造られたのか、
「憂愁に満ち、苦悩煩悶する神像」
そんな不思議な世界の神像に、出会った気分になりました。

六所神社・男神像六所神社・女神像
六所神社・男女神像

瞑想苦悩するご神像に、本年の我が家の平穏と健勝を、心を込めてお祈りしました。

観仏日々帖に「六所神社・御神像の初詣探訪記」を掲載しています。



【圧巻の三大薬師像に見とれた東博「みちのくの仏像」展】

観仏リスト2

東京国立博物館で開催された「みちのくの仏像」展に出かけました。
みちのくの仏像展ポスター

主な展示仏像はご覧の通りで、勝常寺、黒石寺、双林寺の東北三大薬師像が一堂に展示されました。
見どころあるみちのくの平安古仏が勢ぞろいで、充実の特別展でした。
皆さんも、お出かけになったことと思います。
私は、2回も出かけてしまいました。

本館一階の大階段裏の展示室が会場でしたが、このくらいの規模の仏像展示が、じっくりと鑑賞するには、程良いものだと思います。
平成館を使った大規模展だと、数が多すぎて目移りしてしまい、なかなか心に残りません。

勝常寺、黒石寺、双林寺の薬師像を、ぐるりと見渡せば全部眼前に観ることができるのは、初めてです。
本当に圧巻でした。
何といっても、最大の収穫は、この三薬師像を、真横、側面からじっくり観ることができたことです。
新たな驚き、発見がありました。


やはり、勝常寺薬師像は迫力満点、国宝に指定されたことだけの事のことはあると納得です。
出来の良さといい、重厚さといい、群を抜いて輝いています。
「ウーン!」と声をあげて唸ってしまったのは、側面に回って観た体奥の分厚さです。
この分厚さは、並大抵のものではありません。

勝常寺・薬師如来坐像勝常寺・薬師如来坐像
勝常寺・薬師如来坐像

それも、膝前までケヤキの一木割矧ぎというのですから、想像を超えた巨木を用いたに違いありません。
お寺では、本堂の厨子内に安置された姿で拝しますので、この異様な分厚さが実感されません。
中央の平安初期仏と云えども、これだけの異常ともいえる分厚い体奥の像は、あまり無いのではないでしょうか?
この分厚さが、勝常寺像の内から発散するエネルギーを感じさせるのでしょう。


もう一つ、びっくりしたのは、双林寺薬師像の胸の厚さ、肩太りの造形です。
双林寺の薬師像は、衣文の彫りは浅く、顔貌が穏やかな感じがしますので、10世紀以降の制作であろうと思っておりました。
解説書にもそのように書かれているものが、多かったと思います。

双林寺・薬師如来坐像双林寺・薬師如来坐像
双林寺・薬師如来坐像

ところが、真横に回って側面から観ると、その胸の張りの分厚さ、逞しさに見惚れてしまいます。
肩太りの肉付きも、並々ならぬものがあります。
展覧会図録を見ると「9世紀の制作」と解説されていました。
「双林寺像が9世紀を考える見方が、有力になってきたのか!」
と、ちょっとびっくりしましたが、この体躯を眼前にすると、そんな気になってきます。

もう一度薬師像の姿をじっくり眺めてみました。
9世紀とするには、顔貌が穏やかで頭部が不釣り合いに小さいのと、衣文の彫りが浅くて整然としているのが、やはり気になってしまいます。
首から下の造形感からすると、もう少し頭部が大きく迫力ある造型であって良い気がします。
ひょっとしたら、首から上の頭部を後に全体的に削り、彫り直して、小さめの頭、穏やかな顔になってしまったということもあり得るのでしょうか?
よく判らなくなってしまいました。


一番、気になったのは、黒石寺薬師像です。
黒石寺像は、勝常寺、双林寺像の分厚い体躯に比べると、びっくりするほどに体奥が薄っぺらいのです。
3躯の薬師像を並べて側面から観てみると、黒石寺像の面奥・体奥が、あまりに貧相で重厚感不足です。

黒石寺・薬師如来坐像黒石寺・薬師如来坐像
黒石寺・薬師如来坐像

この像の体奥が薄い話は、前から判っていたはずなのですが、こうして眼前に見比べてみると、今更ながらのその差の激しさに、驚いてしまったというのが本音のところです。
正直、パワー不足という印象です。
黒石寺薬師像の面奥・体奥の薄さについての話は、観仏日々帖「岩手・黒石寺の薬師如来像の発見」でふれていますので、ご覧ください。

黒石寺・薬師如来像
魁偉な威相の黒石寺薬師像の顔貌
今から45年ほど前の学生時代、黒石寺で薬師像を拝し、荒々しき螺髪、目尻の強烈に吊りあがった厳しい眼、その魁偉な異貌を眼の前にしたときの、強烈なインパクトは、今もこの眼に焼きつき忘れられません。
それ以来、「私のこころの仏像」になっていたのです。

ところが、あらためて「みちのく三大薬師像」を一堂にて拝してみて、このイメージもちょっと揺らいでしまいました。
黒石寺のあの魁偉な威相が、迫力不足で、平板な表現のような感じが、心の隅によぎるような気持ちに襲われました。
この違和感、ギャップ感、このとき限りのつかの間のものなのでしょうか?
これからも続くのでしょうか?


秋田・小沼神社の聖観音立像に再会できたのも、嬉しいことでした。
ただ、大仙市豊岡の小沼神社を訪れて拝した時の、あの感動はよみがえってはきません。
この仏像は、人里離れた山中にある社殿で拝さないと、その良さを味わうことは難しいようです。

小沼神社・聖観音立像..小沼のほとりに佇む小沼神社社殿
小沼神社・聖観音立像と小沼のほとりに佇む小沼神社社殿

欝蒼とした杉林に囲まれ、緑深く染められた小沼のほとりの社殿という、霊境空間で拝してこそ、「心洗われ揺さぶられる仏像」なのだと、実感しました。

小沼神社の探訪は、観仏日々帖「「秋田県大仙市 小沼神社・観音菩薩像【その1】【その2】」でご紹介しています。



[2月]

この年、初めての関西往きです。
寒さにもめげず、播磨方面の古仏を探訪し、翌日には天平会主催の孝恩寺・道明寺探訪に参加してきました。


【念願の川西市・栄根寺の薬師如来像に初対面】

観仏リスト3

「阪神・淡路大震災20年~災害と歴史遺産」展ポスター
姫路市の兵庫県歴史博物館で「阪神・淡路大震災20年~災害と歴史遺産」展という企画展が開催されました。
仏像の展覧会でも何でもないのですが、なんとこの展覧会に、兵庫県川西市の栄根寺・薬師如来坐像が出展されたのです。
阪神大震災で、栄根寺のお堂が完全に倒壊し、跡地が「栄根寺廃寺遺跡公園」として整備されたことなどから、この企画展に出展されたのです。

実は、この栄根寺薬師像、一度は拝観してみたい念願の仏像だったのです。

私は、井上正氏が古密教関係古仏として採り上げている仏像に、大変関心があり、訪ねまわっています。
井上氏の言う奈良時代の制作にさかのぼらせる説には、ちょっと賛同できないのですが、そこで紹介される「烈しい霊威表現の仏像」、「尋常ならざる精神性を発する表現の仏像」が発散する不思議なオーラ、迫力に、強く惹かれる魅力を感じているからです。
井上氏の連載シリーズ
「古仏巡歴」「古密教彫像巡歴」「古仏への視点」(共に「日本美術工芸」に連載、2作は「古仏」「続古仏」と題し単行本化~法蔵館刊)
に掲載されている仏像を、何とか全部この眼で観てやろうと、励んでいます。

そこで採り上げられているのが、栄根寺・薬師如来像なのでした。

栄根寺・薬師如来坐像
栄根寺・薬師如来坐像

ところが、阪神大震災でのお堂倒壊以来、川西市文化財資料館の収蔵庫で保管されるようになりました。
以来、めったに公開されることがありません。
久方ぶりに出展されるという情報を知って、
「これは、なんとしてでもこのチャンスを逃すわけにはいかない」
と、姫路まで駆けつけたのでした。

博物館で、待望のご対面です。
もっと、強烈なオーラの発散を期待したのですが、実は、ややガッカリという感じでした。

井上正氏の「古仏巡歴」(単行本署名:古仏)には、
「本像の不可思議な精神をのぞかせる相貌、一種の熱気を宿す剛直な体型」
「このお像を拝した時の第一印象として、高雄神護寺の本尊薬師如来立像を思い浮かべる人は多いであろう。・・・・・同じ精神世界を感じさせるのである。」
と記されています。

博物館のガラス越しだからでしょうか?
井上正氏の語るような、不可思議な精神、熱気というのが、あまり伝わってこないのです。
正直、ちょっと拍子抜けという感じになってしまいました。
どちらかといえば、古様な地方作の、やや硬い感じの造形いう印象です。
確かに、不気味そうな空気感を漂わせ、粗豪な野趣を感じさせるのですが、強烈な迫力ある造形のようには、感じられませんでした。
むしろ、地方的な野太さとか、泥臭い粗野さの方が勝っているように、私には思えてしまいました。
古様な像ですが、10~11世紀の地方的要素のある平安仏なのかなと感じました。


これでまた、井上正ワールドの古密教仏像の実見を、一つクリアーです。
井上氏が、3作の連作の中で紹介している古密教像は、95件ほどあります。
これまで頑張って観て回ってきて、私の未見仏像は、あとちょうど10件になりました。
なかなか拝観が難しい仏像が、多く残ってしまっていますが、何とか身体の動くうちに、オールクリアーを達成したいものです。



【播磨の古仏探訪~大覚寺・毘沙門像の出来の良さに目をみはる】

兵庫県歴史博物館の栄根寺・薬師如来像を目指して、姫路まで突進してきたついでに、播磨の古仏をいくつか、同好の方々と探訪しました。

観仏リスト4

ご覧の通りです。

魁量感ある、堂々たる10世紀作の書写山円教寺講堂・釈迦三尊像や、鎌倉後期の典型的なスタイルの斑鳩寺・日光月光菩薩立像などを訪ねました。

円教寺講堂・釈迦三尊像
円教寺講堂・釈迦三尊像

斑鳩寺・日光月光菩薩立像.....斑鳩寺・日光月光菩薩立像
斑鳩寺・日光月光菩薩立像

想定外の出会いは、姫路市網干区にある大覚寺・毘沙門天像でした。

この毘沙門像、市指定文化財ということなので、さほど期待はしていませんでした。
若いご住職に本堂にご案内いただきました。
この毘沙門像を拝したいと訪れる愛好家はめったにないようで、関東からやってきたとお話しすると、少々あきれ顔でびっくりされてしまいました。

大覚寺本堂
大覚寺本堂

毘沙門天像は、お堂の左奥脇の壇上に、ひっそりと祀られていました。
像高61.7㎝の小像です。

大覚寺・毘沙門天立像
大覚寺・毘沙門天立像

眼近に拝してみて、びっくりしました。
すらりとした立ち姿、活き活きした動勢で、見事なバランスに処理されています。
甲冑や衣の造形、彫り口も巧みで、肉付けもなかなかのリアル感です。
顔貌もはつらつとしたものがあり、良い眼をしています。

大覚寺・毘沙門天立像.大覚寺・毘沙門天立像
大覚寺・毘沙門天立像

後世のものでしょうか?
像の表面の上塗りが厚くコーティングされているようで、鑑賞を少し妨げているのが残念です。
それでも、腕の良い慶派仏師の作品であることは、私にでも見て取れます。

兵庫県歴史博物館の神戸佳文氏は、このように解説しています。
高知雪蹊寺・毘沙門天立像(湛慶作)
雪蹊寺・毘沙門天立像(湛慶作)

「表情は端正で気迫に富み、高知雪蹊寺の湛慶作毘沙門天像に似ている。
体部は均整がとれ、しかも動静があり見事な作風を示している。
これらの点や、技法から、鎌倉中期以前の慶派仏師による造立と思われる。」
(ふるさとのみほとけ~播磨の仏像展図録・1991兵庫県立歴史博物館刊解説)

なるほど、解説の通りの毘沙門像。
市指定ではもったいないというのが、正直な実感です。
思いのほかの、素晴らしい毘沙門天像に出会うことが出来、大変うれしい播磨古仏探訪となりました。


観仏を終えた後は、大阪まで戻り、梅田の土佐料理「司」で、探訪の疲れを癒しました。
同好の方々との仏像談議が酒の肴で、土佐の銘酒「酔鯨」の銚子の本数が、度過ぎてしまったのは、いうまでもありません。



【強烈個性の孝恩寺仏像群に圧倒され、道成寺の三本尊に思いを致した、天平会バスツァー】

播磨古仏探訪の翌日は、「天平会」主催の、「孝恩寺・勝楽寺・道成寺の仏像」バスツァーに参加しました。
天平会は、70年以上も続いている、超老舗の仏像愛好・研究会です。
毎月、探訪例会が開催されているのですが、横浜からは年に1~2回参加するのがやっとというところです。
今回は、孝恩寺、道成寺という私の関心高い仏像探訪ということで、参加させていただきました。

観仏リスト5

総勢40人以上、大型バスをチャーターしての探訪旅行です。
同行講師は、HP「観仏三昧」で皆さんご存知の、和歌山県立博物館の大河内智之氏です。


まずは、貝塚市木積にある孝恩寺です。
アクが強いというか、強烈な個性というか、一度拝したらこの眼に焼き付いて、決して忘れることのできない孝恩寺仏像群。
約10年ぶりの再会です。

孝恩寺・本堂
孝恩寺・本堂

ご住職のご講話を拝聴した後、収蔵庫に立ち並ぶ20躯程の異形仏を拝しました。

初対面の時、その迫力に「ガツン!」というインパクトを感じても、もう一度訪れてみると、それほどに強く迫ってくるものを感じなくて、ちょっとガッカリということがよくあります。
ところが、この孝恩寺の仏像は、何度拝しても、こちらに訴えてくるパワーというか、オーラのようなものが、まったく変わることがありません。
「強い精神性が込められた仏像」とか「霊威力を発する仏像」とかよく言われますが、孝恩寺の古仏は、そうした意味での「本物」の仏像だというように感じます。

収蔵庫に入って、ぐるりと立ち並ぶ古佛たちを眺めると、なんだか異様な気分におそわれます。
「アクが強い」というか「濃いい」というか、何ともいえぬ妖しさや土着的呪力のようなものが迫ってくるのです。
弥勒菩薩坐像、跋難陀龍王立像と呼ばれる像の、クセのある顔の表情、抉りこんだ彫り口などは、他では見たことのない強烈な個性を主張しています。

孝恩寺・弥勒菩薩坐像.孝恩寺・跋難陀龍王立像
孝恩寺・弥勒菩薩坐像(左)    跋難陀龍王立像(右)

「腹にこたえるというか、ズシリとくる。
発散してくる〈気〉に押されてしまう」
孝恩寺にやってくると、いつも思う素直な感想です。

一般には、平安前期の地方的作風の一木彫と言われているように思います。
近年は、奈良時代の制作にさかのぼる可能性があるのではないかという考えの方も、何人かいらっしゃるようです。
この貝塚・木積の地は、河内の地に生まれた行基にとって、造寺造仏などに必要とした木材の集積地、すなわち兵站基地であったに違いありません。
奈良時代の後期、行基ゆかりの地で、こんな異形仏が造立されていたのではないか、そんな夢想イメージも、現実味を帯びてくるような気もしてくるのです。

「奈良時代か?平安時代か?」という話はさておいても、孝恩寺の仏像は、ミステリアスな世界に惹きこまれるような、不可思議な仏像たちだという思いを今更ながらに強くして、孝恩寺を後にしました。


次に訪れた勝楽寺の仏像のことは、まったく知りませんでした。
有田川に近い有田郡湯浅町別所という処にありました。
当地は、平安後期以降、有田川下流域中心に大きな勢力を有した武士団・湯浅党の中心拠点であったそうです。

勝楽寺・本堂
勝楽寺・本堂

お堂に伝来する諸像は、その威勢を十二分に偲ばせる、堂々たる仏像でした。
阿弥陀、地蔵坐像は、2メートルをはるかに超える巨像で、しかも造形の出来も優れたものです。

勝楽寺・阿弥陀如来坐像.勝楽寺・地蔵菩薩坐像
勝楽寺・阿弥陀如来坐像(左)        地蔵菩薩坐像(右)

「こんなに見事な仏像の存在を全く知らなかったのは、ちょっと恥ずかしい。」

眼前の仏像を見上げながら、そんな気持ちになりました。

土産に買った湯浅町特産の「金山寺味噌」。
我が家に戻って、試してみると、これがまた美味かった。



最後は、娘道成寺で名高い道成寺です。
久しぶりの道成寺です。

道成寺・伽藍
道成寺・伽藍

伊東史郎氏著「道成寺の仏たちと『縁起絵巻』」
伊東史郎著・道成寺の仏たちと『縁起絵巻』
今回の訪問は、昨年(2014.9)に発刊された、伊東史郎氏の著書「道成寺の仏たちと『縁起絵巻』」を、興味深く読ませていただいた後でしたので、新たなる関心、期待を覚えての道成寺諸仏の拝観です。
楽しみにしていたのです。

伊東史郎氏著の「道成寺の仏たちと『縁起絵巻』」の内容については、観仏日々帖~新刊旧刊案内で、紹介させていただきましたのでご覧ください。


道成寺には、その歴史の変遷の中で造立された、3つの本尊・千手観音像が残されています。
伊東氏はその造立時期を、次の表のように考えられています。

道成寺の三本尊・千手観音像

この日は、本堂の根本本尊も公開されており、宝仏殿の国宝・千手観音像とともに、拝することが出来ました。
根本本尊は、昭和62年(1987)に北向き本尊の体内から発見された、バラバラに破損した断片から復元修理された像です。

道成寺根本本尊・千手観音立像
道成寺根本本尊・千手観音立像

クスノキ材の木彫乾漆併用像です。
奈良時代、8世紀前半の木彫像の遺例とされる像は無いように思いますが、その姿を偲ばせる像と云ってよいのかもしれません。
白鳳風のおだやかな像容に復元されていますが、本当はどのような姿だったのでしょうか?
本堂のほの暗いお堂の内陣に、浮かび上がるようにライティングされて祀られていました。

道成寺本堂に安置されている根本本尊・千手観音立像
道成寺本堂に安置されている根本本尊・千手観音立像

そのお姿は、白鳳時代からの歴史を有する道成寺のご本尊として似つかわしい、そのように感じさせるような落ち着いた雰囲気を漂わせていました。

国宝・千手観音三尊像は、明るい収蔵庫、宝仏殿に祀られています。

道成寺宝仏殿・千手観音立像.道成寺宝仏殿・千手観音立像
道成寺宝仏殿・千手観音立像

さすが国宝、文句なしの国宝とでもいうべき、見事な仏像です。
何度拝しても、見惚れてしまいます。
奈良京都の都中央でも、これだけの堂々たる充実した造形の巨像は、そうあるものではありません。
月並みな言葉ですが、正直、感動してしまいます。

宝仏殿内には、所狭しと言ってよいほどに、20躯近い仏像が林立しています。
多くは平安前期を見られる、迫力ある古仏ばかりで、圧倒されてしまいます。
これだけの第一級レベルの巨像が、この日高川の海近くという地に造立されたということは、当地の勢力が大変大きなものであったことを物語っているのでしょう。

良き仏像を拝した満足感に浸った道成寺拝観でした。
大河内先生の解説も、懇切で判り易く、また熱のこもったもので、大変勉強になりました。
参道では、名物「釣鐘饅頭」を売り込み、呼び込む声がにぎやかに飛び交うなか、道成寺を後にしました。

釣鐘饅頭を勧める店が並ぶ道成寺参道
釣鐘饅頭を勧める店が並ぶ道成寺参道


天平会バスツァーを終え、その日の夜は、京都で別行動の妻と合流。

翌日、京都の朝食は、寺町通竹屋町下の「進々堂」のモーニングメニュー、ランチは木屋町御池上ルの「レストラン・おがわ」。
我が家のお気に入りの、定番お食事処になっています。
何回来ても、美味しく落ち着けるお店です。

寺町通竹屋町下「進々堂」...木屋町御池上ル「レストラン・おがわ」
寺町通竹屋町下「進々堂」       木屋町御池上ル「レストラン・おがわ」

本当に久しぶりに、大徳寺の大仙院の名庭を観て、帰京しました。



[3月]

二つの仏像の展覧会に出かけました。

一つは、根津美術館で開催された「救いとやすらぎのほとけ~菩薩」展を観ました。
根津美術館所蔵の仏教美術コレクションから仏像、仏画、約40件が展示されていました。
飛鳥から江戸時代までの所蔵仏像の出展でした。
こじんまりした落ち着いた展覧会でした。

菩薩展ポスター


もう一つは、東京国立博物館で開催された「コルカタ・インド博物館所蔵~インドの仏・仏教美術の源流」展です。
インドの仏展ポスター
「博物館所蔵の仏教美術名品、約90点が来日、インド美術発生の歴史をたどる展覧会」
ということです。
超一級品ばかりという展示ではなかったのでしょうが、インド古代仏像を愉しむことが出来ました。
表慶館での開催でしたが、結構大勢の人出で混雑していたのにはビックリです。

私は、3年前の2012年、インドの仏像、仏跡探訪旅行に出かけました。
エレファンタ島、アジャンタ、エローラ、オーランガバード、サンチー、ウダヤギリなどを訪れました。
展覧会での展示仏像を見ていると、インド旅行のことが懐かしく思い出されました。



【伊豆下田の法雲寺・秘仏御開帳~思いがけずの見処ある平安古仏に遭遇】

3月21日に、静岡県下田市北の沢・法雲寺(下田市須原973-1)の秘仏本尊・如意輪観音坐像が60年に一度のご開帳との情報をキャッチ。
10世紀に遡る可能性のある平安古仏という話で、「これは行かねばならない」と、同好の方々と、伊豆下田まで出かけました。

観仏リスト6

観仏先はご覧のとおりです。

なんといっても目指すは、法雲寺の秘仏・如意輪観音坐像の御開帳です。
60年に一度の御開帳ということです。
当日は、上原仏教美術館の学芸員・田島整氏の現地解説もあるということで、結構拝観に訪れる人が多いのかと思ったのですが、遠方からやってきたのは我々の他に10人以内ぐらいという処でありました。

集会所兼用の法雲寺のお堂
集会所兼用の法雲寺のお堂

「無指定」の仏像でもありますし、そんなところということなのでしょう。
地元の村落の皆さんは集会所兼用のお堂でお坊さんと一緒にお経を唱えられています。
お汁粉、モツ煮汁のふるまいもあって、和気藹々とした「村人総出の賑やかな記念行事」といった風情のご開帳でした。

秘仏・如意輪観音像については、田島氏の解説によれば、
「これまで古様な作風を留める、平安後期の制作とみられていたが、調査の結果、10世紀に遡る可能性があると考えられる。
これほど古い時代の如意輪観音像の造像例は、静岡県内では知られておらず、東日本でも最古級とみられる。」
というお話でした。

法雲寺・如意輪観音坐像の解説をする田島整氏
法雲寺・如意輪観音坐像の解説をする田島整氏

このあたりの観仏探訪記については、観仏日々帖「古仏探訪~伊豆下田市・法雲寺の秘仏・如意輪観音坐像 拝観記」に記していますので、ご覧ください。

ほんの眼近に近寄って、じっくりと拝することが出来ました。
如意輪観音像は、見るからに地方作ですが、なかなかの見所ある平安古仏です。

法雲寺・如意輪観音坐像

法雲寺・如意輪観音坐像
法雲寺・如意輪観音坐像

全体の造形は、結構アンバランスなところがあり、地方の在地仏師の手になる仏像でしょう。
しかし、腰から下の造形は、ボリューム感はたっぷりで、衣文の彫り口も、鋭く抉ったシャープ、平安前期の厳しさを感じさせるものがあるのです。

「これは、古様でパワフル、惹きつけるものがある造形だ。
10世紀の制作ということで、OKじゃないんだろうか?」

ちょっと依怙贔屓に過ぎるかもしれませんが、そのような気持ちになってしまいました。

わざわざ出かけて来た甲斐がありました。

「伊豆の田舎の村落に、10世紀までさかのぼりそうな平安古仏発見!」

我々が発見したわけでも何でもないのですが、そんな気分になりました。


満ち足りた気分で、帰路は下田から「踊り子号」に乗車。
しっかり買い込んだおつまみとお酒で、愉しく車内で酒盛り。
「10世紀でいいと思うか?」「結構、時代が下がるんじゃないの?」「でもあのグリグリとした彫り口は魅力的」
などなどと、酒も入ってやかましく盛り上がり、他の乗客の方には迷惑だったのかもしれません。
ちょっと反省。


「今年の観仏を振り返って」【その1】は、1月~3月までの観仏探訪先のご紹介でした。
まだ3か月分、このままでは、いつ終わることやら・・・・・


次回【その2】は、4月からです。


古仏探訪~豊後高田市・内野区の焼損痛々しい聖観音立像 【2015.5.29】


今回も国東の知られざる古仏のご紹介です。

「ウーン!わざわざ足を運んで観に行くほどだろうか?」

この仏像の写真を最初にパッと見たとき、ちょっと唸ってしまいました。

内野区観音堂・聖観音立像

内野区観音堂・聖観音立像
内野区観音堂・聖観音立像

【焼け焦げ痕、痛々しい観音像】

大きなあばたのような焼け焦げの痕が、あちこちに残っているのが、まず目に入ってきます。
お顔の部分の眼、鼻、口にかけての焦げ跡は、大きく尊容を損ねてしまっており、痛々しいばかりです。
焼け焦げ跡の方に気をとられてしまい、仏像そのものの姿が、眼に入らなかったといっても良いのかもしれません。

一瞬、間をおいて、もう一度この観音像の写真を見直してみました。
よく見ると、なかなか魅力的な像であることに気がついてきました。

「この仏像は、結構古いぞ!」
「元は、すごく出来の良い仏像だったのじゃないだろうか?」
「力感充分で締りがあり、体躯のシルエットのバランス感が抜群だね!」

そんな感じがするのです。

「これは、一度自分の眼でみて、どのような仏像か確かめてみたい。」

と、思ったのでした。


地区管理の仏像ということで、豊後高田市の教育委員会に拝観についてお伺いしました。
ご担当の方に、大変親切にして頂き、管理の方にご確認いただくなど、お世話になりました。

地図などをお送りいただいたメールに、
「『国東のヴィーナス』とも称されているように、スラリとした美しい体躯は健在です。    是非、心ゆくまで堪能ください。」
との言葉が添えてありました。

「国東のヴィーナス、と呼ばれているのか!」

ますます、これは一度拝さねばと、期待感が高まってきたのでした。


内野観音堂への案内標識
内野区の観音堂は、豊後高田市の中心地、市役所などがある処から南東へ5~6キロほど、車で15分ぐらいのところにあります。

JR宇佐駅からは、東に10キロほどという処でしょうか。
観音堂の近辺まで往くと、「聖観音立像(内野焼仏)」と書かれた、案内標識を見つけました。

そこから細道を入っていくと、収蔵庫兼用のような小さな観音堂がありました。

聖観音像が祀られる内野区・観音堂
聖観音像が祀られる内野区・観音堂

観音堂下には、案内看板があります。

観音堂下に設置されている聖観音像の解説看板
観音堂下の案内看板


【元・西叡山高山寺の本尊であった聖観音像】

案内看板にはこのように書かれていました。

内野聖観音立像(県指定有形文化財)

六郷山寺院の本山本寺格、西叡山高山寺に安置されていたと伝えられる本像は、9世紀に製作されたものと考えられ、六郷山寺院の平安仏の中では最も古い仏像に入ります。
腰が横にはり下半身にボリュームがあるといった特徴を持ち、その流麗な姿から『国東のヴィーナス』とも称される秀作です。

西叡山高山寺はかつて六郷山寺院の僧が出家する灌頂所が置かれており、六郷山寺院の中心的な寺院の一つでしたが、江戸時代の初め頃(元和年間)に焼失したといわれています。
この火災の際に辛うじて難を逃れた本像は、地元で厚く信仰され現在に伝えられています。
(豊後高田市)」

西叡山高山寺という廃寺の名は、初めて知りました。

その昔には、京都の比叡山・延暦寺、 東の東叡山・寛永寺、西の西叡山・高山寺と並び称され、三大叡山と言われていた大寺であったそうです。
西叡山は、この内野区観音堂の真南2~3キロの処に見える、海抜570mの小高い山です。

西叡山
西叡山

現在、高山寺というお寺が西叡山の中腹にあるそうですが、そのお寺は昭和59年に建てられた新寺だそうです。

新高山寺・山門
新高山寺・山門

この観音像、西叡山高山寺の本尊であったと伝えられているそうです。
安貞2年(1228)の「六郷山諸謹行并諸堂役祭等目録」という文書に、高山寺の本尊として記されている
「本尊薬師如来並びに聖観音菩薩」
の聖観音に該当するものと考えられています。
写真で見た焼け焦げの後が大きく残っているのは、西叡山高山寺が江戸初期に焼失した時に、この仏像が火中した跡なのでしょう。


【内野観音堂の古仏を眼近に拝して】

早速、観音堂に上がって、仏像の拝観です。
お堂の扉を開けると、真正面に6体の古仏が祀られています。

観音堂内に安置されている聖観音像と破損仏

焼損の跡が痛々しい聖観音立像
観音堂内に安置されている聖観音像と破損仏

地元の方が、毎日お世話されているのでしょう。
可憐なひな菊の花が、観音様の前に供えられており、ホッと心が和みます。

目指す聖観音立像は、真ん中のひときわ背の高い像です。
観音像の両脇には、破損が甚だしい菩薩像、天部像が祀られていました。
観音像以外の破損仏も、かつては高山寺に祀られていたものだということです。

共に祀られている天部像..共に祀られている破損仏
共に祀られている破損仏

聖観音像は、県指定文化財(昭和44年・1965指定)で、像高193cm、カヤ材の一木彫で、内刳りは全く施されていません。
焼損が激しくはっきりしませんが、素地仕上げであったかとみられるそうです。

聖観音像の焼損は、やはりかなり激しいものでした。
真正面から火炎を受けたのでしょうか?
腰から下の前面は、ほとんどが焼け焦げています。

前面が火中焼損している聖観音立像

焼け焦げ痕が痛々しい聖観音像上半身
前面が火中焼損し、焼焦げ痕が痛々しい聖観音立像

胸から上は、顔面に至るまで、大きな痣があるかのような焼け焦げ痕が、何か所も残っています。
とりわけ右眼のあたりと鼻から口にかけての焦げ痕が、尊容を著しく損ねてしまっていて痛々しいばかりです。
そのことがこの古仏の鑑賞を大きく妨げているといえるでしょう。


【なるほど、「国東のヴィーナス」と称されるだけの優作】

近づいてじっくり拝すると、大変出来の良い平安古仏です。
焼損痕に惑わされないようにして鑑賞すると、力感みなぎるバランスの良い像であることに気がつきます。
その堂々たる姿は、流石に西叡山高山寺の本尊として祀られていた仏像だけのことはあると、納得させられるものがあります。

内野区聖観音像・上半身...内野区聖観音像・脚部衣文の様子
堂々たるプロポーションの聖観音立像(上半身と下半身)

腰高なプロポーション、豊かな腰の張り、締まりある肉付けの上半身の造形は、大変魅力的で、グッと惹き付けられてしまいます。
「国東のヴィーナス」
と称されるだけのことはある、魅惑的な仏像だと感じました。
朽損、摩耗していますが、腰の衣文の彫り口も結構鋭く、ダイナミックなものがあります。
平安前期仏の魅力をしっかり備えた、優れた一木彫であったに違いないと思いました。

「焼損せずに、朽損せずに、遺されていたとしたら、どんなに素晴らしい魅惑の仏像であったことだろうか!」

今のお姿を前に、そんな溜息が出てきました。
残念なことです。

なんといっても、豊かでパンチのある腰の張りが魅力的です。
この腰の張りの造形は、あの有名な唐招提寺のトルソーの一木彫を思い出してしまいます。
唐招提寺像よりはボリューム感が控えめで、大人しい感じですが、似たものがあると感じました。

内野区聖観音像・正面全身...唐招提寺如来形像・トルソー正面全身
内野区聖観音立像と唐招提寺如来形像・トルソー(正面全身)

内野区聖観音像・張のある腰部側面...唐招提寺如来形像・腰部側面
内野区聖観音立像と唐招提寺如来形像・トルソー(腰部側面)

また、腰高でウエストから胸あたりを絞ったプロポーションは、天平仏のシルエットを連想させなくもありません。
同じ大分県・宇佐の天福寺奥院の菩薩形塑像のシルエットを連想させるような気がするのですが如何でしょうか?
天福寺奥院の菩薩形塑像は、天平後期、8世紀後半の制作とされています。

内野区聖観音像・全身像
内野区聖観音像・全身像

天福寺奥院・塑像菩薩形立像...天福寺奥院・塑像菩薩形立像
天福寺奥院・塑像菩薩形立像

この聖観音像、平安に入ってしばらくたってからの制作だと思うのですが、その造形のフィーリングをみていると、天平の名残をそこはかとなく留めている古像のような気がします。


【聖観音像の制作年代は?】

制作年代は、どのように考えられているのでしょうか?
結構古いのでしょうか?

「大分の古代美術」(大分放送・1983年刊)には、鷲塚泰光氏がこのように解説がされています。

「顔は肉付きの良い瓜実型で、面奥も深く上瞼のふっくらとした穏やかな眼が浅く刻まれている。
・・・・・・・・・
胸部にくくりの線を刻み、腹部はやや前方に突き出す形にしぼり、これに豊かな腰が続き、下半身は膝に部分で一旦細め、天衣でたくられた裳裾が左右と後方に拡がる安定した形で、正側面共に動きがあって、像はみごとな均衡を保っている。

髻や耳輪の丸みの強い彫り口や、裳に断面が半円状の襞を繁く刻む手法は、福岡浮嶽神社に伝わる如来坐像、同立像、地蔵菩薩立像(いずれも重要文化財)の作風に近い特色のある表現である。

10世紀に遡るまとまりの良い本格的な一木造の作例として注目されるが、面相部や躰部前面に焼損が大きくひろがっているのがいかにも惜しまれる。」

内野区聖観音像・頭部側面..内野区聖観音像・脚部衣文
内野区聖観音像・頭部側面と脚部衣文

浮嶽神社如来坐像・頭部側面
浮嶽神社如来坐像・頭部側面

浮嶽神社・如来形立像...浮嶽神社・地蔵菩薩立像
浮嶽神社・如来形立像(左)と地蔵菩薩立像(右)

2006年に大分県立博物館で開催された「み仏の美とかたち展」図録では、渡辺文雄氏のこのような解説が載せられていました。

「丸く大ぶりの髻や厚く張りのある腹部から腰にかけての肉付け、裳裾両面のしのぎ立った衣文などに、平安前期一木彫成像の名残をとどめ、10世紀も前半頃の製作と考えられます。
数多い国東半島の平安仏では、最古の木彫仏です。」

観音堂前の説明看板には、
「9世紀に製作されたものと考えられ」
と書かれていましたが、
「大分の古代美術」「「み仏の美とかたち展図録」共に、10世紀の制作と考えられているようです。

たしかに、9世紀の制作とするには、造形に少し硬直化が見られ、平安前期のダイナミックな迫力が後退しているように感じます。
浮嶽神社の諸像と較べてみると、納得がいくところです。

この聖観音像、当地の製作ということで少し年代が下がるのかもしれませんが、その中でも大変古様を留めた、魅力ある秀作といって良いのではないでしょうか。



私は、この「国東のヴィーナス」を、大変気に入ってしまいました。

国東半島の鄙の地に在り、地元でひっそりと管理されている、知られざる古仏といって良いでしょう。
それに、焼け焦げ痕で、著しく尊容を損ね、なかなか愛好者の関心を惹くこともないかもしれません。
わざわざ、訪れる人もそうはいないのではないかと思います。

「素晴らしい仏像なのに、見た目で損をして可哀想だなあ!」

眼前に拝してみて、そんな気持ちが込み上げてきました。

国東方面へ出かけられた時には、一度は必見の、魅力ある像だと思います。
是非訪ねてみていただければと思います。


最後に、やってはならない禁じ手なのですが、写真に修整を加えて、焼け焦げ痕を隠してみました。

内野区聖観音像の焼焦げ痕を隠した修正写真

内野区聖観音像の焼焦げ痕を隠した修正写真
内野区聖観音像の焼焦げ痕を隠した修正写真

如何でしょうか?

目障りな焼け焦げ痕を隠してみると、この観音像の魅力あるプロポーションのシルエット、古様で締りある造形表現のイメージを、感じていただけるのではないかと思います。

大きな焼け焦げ痕で、余りに尊容を損ね、痛ましく可哀想なので、本来の造形をイメージしていただきたく、敢えてやってはいけない写真修正を試みてみました。

お赦しいただき、「国東のヴィーナス」本来の姿をイメージしていただければ幸いです。

古仏探訪~国東市国見町の古仏たち(平等寺、万福寺、千燈寺の如来像)  【2015.5.16】


前回に引き続き、宇佐、国東方面の古仏をご紹介してみたいと思います。

今回は、国東半島の知られざる古仏のご紹介です。

国東の仏像と云えば、まず思い浮かぶのは、真木大堂の阿弥陀如来、大威徳明王などの諸仏、富貴寺の阿弥陀如来像、長安寺の太郎天像あたりでしょう。
あとは、熊野磨崖仏の巨大石仏といったところでしょうか?

今回の国東探訪では、こうした有名諸寺も訪ねたのですが、国東半島を代表する諸仏像は、ガイドブックや解説書に良く紹介されていますので、「観仏日々帖」では、有名仏像はスキップして、国東半島の東北端にある国見町の古仏を採り上げてみたいと思います。

ご紹介するのは、国東市国見町にある、平等寺講中の釈迦如来像・二天像(平安時代)、万福寺の薬師如来像(平安時代) 、千燈寺の如来形像(鎌倉時代)です。
共に、県指定文化財に指定されています。

国東半島と国見町
国東半島と国見町エリアのイメージ

国見町というのは、国東半島の東北のはずれにあたるところで、国東観光に出かけられる人もなかなかそこまで足を伸ばす方は少ないかもしれません。
私も、国見町のこれらの古仏については、全く知りませんでした。
国東で、一見に値する平安古仏はないかと、「大分の古代美術」という本を調べていたら、平等寺講中と万福寺の古仏の写真が目にとまりました。
折角、国東半島まで出かけるのだから、思い切って訪ねてみようかと、足を伸ばしたのでした。


【平等寺講中の釈迦如来像を訪ねて】

まずは、平等寺をめざします。

平等寺(講中)は、国東市国見町野田という場所にあります。
国東半島のメイン、富貴寺からは、車で30分ほど北東へ走ったあたりです。
観光ルートからは完全に外れていて、随分鄙の地まで来た感じで、のどかな山村が続きます。

「平等寺講中」という名称でご想像がつくように、今は無住で、地区の講中の方々によって管理されています。
国東市の教育委員会のご担当の方にご連絡して、拝観お願いの労をとっていただきました。
教育委員会の方に頂いた地図をたよりに、県道からほど近いところの「平等寺入口」と書かれた標識を見つけました。
そこから橋を渡って曲がりくねった細道をしばらく登って行って、やっと小さなお堂に辿りつきます。
収蔵庫を兼ねた簡素なお堂で、一見、集会所のような建物です。
入り口には、「国東六郷満山霊場 第二十四番札所」というちょっと古ぼけた木札が懸けられていました。

平等事講中のお堂..「国東六郷満山霊場 第二十四番札所」の札
平等事講中の簡素なお堂と、「国東六郷満山霊場 第二十四番札所」の木札

お堂のなかには、講中の女性が二人、我々をお待ちいただいておりました。
わざわざ、お堂を開いてご準備いただいたことにお礼を申し上げ。早速ご拝観です。

堂内に安置されている平等寺諸仏
堂内に安置されている平等寺諸仏

仏像は、お堂の正面奥に、並んで祀られています。
まずは、釈迦如来坐像のご拝観です。
像高82.5cm、カヤ材の一木彫で、内刳りは施されていません。

平等寺・シャカ如来坐像
平等寺・釈迦如来坐像

如何にも平安の地方作の如来坐像といった雰囲気です。
地方作ではありますが、一見してなかなか優れた出来の仏像であることが判ります。
平安前期のダイナミックさやボリューム感は薄れてしまっていますが、いわゆる定朝様の藤原仏のような様子はまだ感じられません。
丁度その中間のような感じです。

平等寺・釈迦如来坐像

平等寺・釈迦如来坐像..平等寺・釈迦如来坐像
平等寺・釈迦如来坐像

お顔の造形をみても、藤原の円満相ではなく、けっこう鼻筋がしっかり通ってキリリとした表情です。
野趣を感じさせる風貌でもあります。

平等寺・釈迦如来坐像~顔部..平等寺・釈迦如来坐像~顔部
平等寺・釈迦如来坐像~顔部

造形を見ると、上体は割合薄めに造られていて、厚みやボリューム感は感じられませんし、衣文の彫りもさほど凌ぎは立てず丸みを帯びたものになっています。
しかし、定朝様の仏像にみられるような、ととのえられた浅い衣文線の処理というのではありません。
シンプルな衣文の処理ですが、それなりのダイナミックさが表現されているように思われます。

平等寺・釈迦如来坐像~衣文
シンプルだがダイナミックさを感じさせる衣文の彫り口

全体の造形や衣文の表現から受ける印象は、「モッチリした」とか「ムッチリした」という言葉が似合うような、粘りのある造形表現、彫口のように感じられました。
ボリュームある造形ではないのに、「軽量感」は感じません。
むしろ、力感があるというか、「質量感」を感じさせます。
この像が、カヤ材の一木彫で、内刳りも施さないという造形であるから、そう感じさせるのでしょうか?


この釈迦如来坐像を拝していると、「平安彫刻の地方伝播」という彫刻史の教科書のひとつの典型を見ているような気になってきます。

中央の彫刻をたどると、平安中期になると、平安前期彫刻の塊量感、森厳性、鋭い彫口がだんだん失われ、落ち着いたバランス感重視の穏やかさを強調する表現になっていきます。
そして平安後期には、定朝様といわれるような整った均整な優美さや軽量感を感じさせる表現へと展開していきます。

平等寺の仏像をみると、それらの要素が折衷され混ざり合っているようです。
上体や造形バランスは平安中後期のボリュームを抑えた穏やかな表現となっているのですが、
顔貌のキリリとした表現、モッチリムッチリした質感ある彫り口に、平安前期の余風を残しています。
膝前も、そこそこのボリューム感です。
それに、地方特有の、野趣、田舎臭さがミックスされています。
古様がミックスされた、出来の良い地方仏の典型といって良いように思いました。

脇侍の二天像も、なかなかの出来で、本尊と一具とみられているということです。

平等寺・二天像
平等寺・二天像


〈平等寺・釈迦如来像の制作年代は〉

これらの仏像の制作年代は、どのように考えられているのでしょうか?

実は、脇侍の文殊菩薩像の像底に、後補の近世の追銘ではありますが「康平7年」(1064年)の墨書が見つかっています。
この墨書を全面的に信用することはできないのですが、何らかの拠り所があって記されたのかと思われています。
釈迦如来像の造形の印象も、その頃の制作と考えると、ぴったりという感じもします。

この像を採り上げた本を見ると、このように解説されています。

「面長の相好で、丸昧の強い両肩、厚い膝、中尊の左肩から垂れる納衣の端の折り返しなどに古様がみられ、郷山には一木造りで地方色の濃い仏像が多く伝わるが、その中の典型的な佳作ということができよう。」

(「大分の古代美術」岩男順氏執筆、大分放送1983刊)

「高めの肉髻、厚い膝、中尊の左脇の衲衣の折り返しなどに古様が見られ、後世の追銘であるが、文殊像像底の康平7年(1064)の墨書銘を首肯させるものがある。
一木造の地方色の濃い国東平安仏の中にあって、最も古様かつ典型的な作例といえよう。」

(「大分県の文化財」大分県教育委員会1991刊)

いずれにせよ、11世紀初頭ごろ当地で製作された出来の良い像で、真木大堂や富貴寺の仏像に先立つ、国東半島最古級の木彫像ということになろうかと思います。


〈盗難に遭い、行方知れずの両脇侍像〉


両脇侍が失われた平等寺釈迦三尊像
両脇侍が失われた平等寺釈迦三尊像

ところで、仏像が祀られている写真をご覧になってお気付きかもしれませんが、釈迦如来像の両脇侍、普賢菩薩、文殊菩薩像の姿が見えません。
仏さまを乗せていた、獅子と象の像が置かれているだけです。

平等寺釈迦三尊像~盗難前の姿
平等寺釈迦三尊像~盗難前の姿

実は、この両脇侍は、平成6年(1994)に盗難に遭い、未だに行方知れずになっているのです。
誠に、残念なことです。
今は、防犯のため、仏様の前面に鉄格子の扉が取り付けられています。
拝観に際して、扉の鍵を外して、開けていただきました。

やはり、無住のお寺は、このように盗難の危険にいつもさらされているということなのでしょう。
博物館などに寄託すれば、盗難リスクは回避されるわけですが、地域の住民の方々にとってみれば、この地に在ってこその村人を守る仏様であるわけで、信仰と文化財のハザマの問題は、なかなか難しいのだと思います。


〈平等寺、近年の歴史を振り返る〉

この平等寺の仏様も、近年の歴史をたどると、このようないきさつがありました。

平等寺は、江戸中期に衰微一度無住となり、その後一時期、寺運を持ち直したものの、明治 大正へと近代化の激浪の中で再び無住、廃屋の様相を呈してしまいました。
仏像を安置するのも厳しいというような状況に至り、昭和45年(1970)に、釈迦三尊像、二天像は京都国立博物館に委託保管されることになりました。
地方作の平安古仏で、釈迦、普賢、文殊の三尊がそろった仏像は珍しく、京博展示室に展示されていたということです。

博物館に大切に保管されておれば、管理という意味ではこの上ないのですが、当地国見町野田の人々にとってみれば、先祖代々苦楽を共にしてきた村の仏さまを、遠く持ち去られていることは淋しいかざりです。
また、土地の人々を守っていただける仏様でもあります。
そこで昭和47年(1972)、地元の人々は力を合わせて浄財を募り、また県や町の援助も得て収蔵庫の釈迦堂を新築し、これらの仏像の里帰りを実現したのでした。
釈迦堂を守る村の講中が中心となって、仏様をお祀りし、管理をしていくようになりました。

昭和54~55年(1979~80)には、顕彰会の援助によって、大修理もされたようです。
この大修理の時に、文珠菩薩像像底に康平7年(1064)の墨書銘があるのが発見されたのです。

ところが、仏様の里帰りを実現したことがアダとなってしまったような、盗難事件が起こってしまいました。
平成6年(1994)、普賢、文殊菩薩の両脇侍像が、盗み取られてしまうという災難に遭ってしまったのでした。
盗難後の二菩薩像の行方は杳として知れず、残念ながら行方不明のままだということだそうです。

ご拝観の段取りをいただいた女性方にお話をお聞きすると、昔は、諸行事も行われ、釈迦堂へお参りする人も頻繁であったが、土地在住の人々が減るようになり、高齢の方が多くなるにしたがって、このお堂を訪れる人も無くなりがちだそうです。
長い坂を登って、ポツンとたてられたこのお堂まで歩いてお参りするのは、高齢の方には結構きつくて、訪れる人も本当に少ないということの様でした。
この日は、我々が来るというので、わざわざ講中の女性方がお堂まで赴いて、鍵を開けてお待ちいただいたということでした。

こうした無住のお堂の文化財を、過疎化、高齢化が進む地で、村人の手で守っていくということが、そう簡単なことではなく、本当に難しい時代になったのだなと、実感した次第です。



【万福寺・薬師如来像を訪ねて】

次に、国見町櫛海にある万福寺・薬師如来坐像をご紹介します。

万福寺は、平等寺から車で15分ぐらいのところにあります。
もうあと2キロほど行けば、国東半島の東北の先端の海岸という場所です。
平等寺は、民家から離れた高台山中にポツリとありましたが、万福寺さんの方は村落の民家に軒を並べてありました。
国東特有の、石造の仁王像が立つ山門をくぐると、簡素な本堂があります。
村落の人々と共に在る鄙びたお寺という感じです。

万福寺山門の石造仁王像

万福寺・本堂
万福寺山門の石造仁王像と本堂

ご本尊の薬師如来像は、普段は年2回のご開帳の時だけしか拝観が叶わないようですが、国東市の教育委員会のご担当から拝観のお願い連絡をしていましたので、ご住職がご拝観の段取りをしてお待ちいただいていました。

早速、薬師如来像のご拝観です。
本堂中央の立派な厨子内の少し高いところに、お祀りされています。

本堂に祀られた万福寺・薬師如来像

万福寺・薬師如来像...万福寺・薬師如来像
本堂に祀られた万福寺・薬師如来像

像高71cm、カヤ材の一木彫で、内刳りはされていません。

この薬師像については、解説書には、このように記されています。

「大粒の螺髪に肉厚のモデリングなど古様であるが、丸顔の面相は穏やかな童顔に表わされ、腹前から両膝に至る翻波風の衣文も形式化が著しい。
平安前期木彫の伝統を受け継ぎながらも、和様化と形式化が進んだ12世紀前半の造立であろう。」

(「大分県の文化財」大分県教育委員会1991刊)

万福寺・薬師如来像
万福寺・薬師如来像

「衣文の彫りには簡略化が見られる。
衣のひだは溝状に刻み込むが、ひだとひだの間には小さく降起を見せる。
これはいわゆる貞観彫刻にみられる翻波の彫法を踏襲しているものである。
特に膝のひだを平行楕円曲線に表わしているのが目につく。

これは奈良元興寺や、京都神龍寺薬師如来保など9世紀仏像の大腿部のひだの表現に見られるものと同様なものであるがそれを、著しく形式化したものである。
8世紀末唐招提寺旧講堂如来立像に始まり、9世紀に盛んに行なわれた様式が地方に伝わりその終末を示す資料としても興味深いものがある。
しかしながら左肩を覆う衣の端の折り返しの軽妙な彫法などには、地方仏師の創意工夫の跡が見られる。
彩色はわずかに白下地を残す他は、ほとんど剥落している。
・・・・・・・・・・・・・・
総体的に形式化が明らかであるが、
いかにも地方作らしい素朴さの中に、どっしりと落着きを示す特色ある作である。制作年代は平安末期と推測される。」

(「大分の古代美術」岩男順氏執筆、大分放送1983刊)

眼近にじっくりと拝させていただきました。
たしかに、造形や表現は、解説にあるとおりの平安古仏だなと感じました。

平等寺の釈迦像が、平安前期の余風を残しながら、その造形が地方化、形式化していった、11世紀初頭の地方の一木彫像の典型的な像だとすれば、
この万福寺像・薬師像はその地方化と形式化が、更にもう一歩進んで、温和さ、穏やかさがも増してきた11世紀末~12世紀の国東地方の地方作古像ということになるのでしょう。

地方作の匂いがくっきりと漂い、「国東半島の地に在る古仏」という表現がピッタリくる仏様だなと思いました。

この仏様は、海底から出現したという「海上渡来の伝承」があるそうで、古来、近郷の人々の厚い信仰を受けてきたとのことです。
彩色像であったのでしょうが、いまは素木像のようで、手先も亡くなっています。
お顔も、穏やかな童顔のような優しさをたたえています。
そうした飾らぬ素朴さが、この古仏の魅力といえるのでしょう。
素晴らしく出来がよい像というのではないのですが、「飾らぬ素朴さ」に何とも言えない親近感を覚えてしまいました。

美しい姿に撮られた万福寺・薬師如来像

美しい姿に撮られた万福寺・薬師如来像...美しい姿に撮られた万福寺・薬師如来像
万福寺で拝見した、美しく撮影された薬師如来像の写真

いつもはインパクトのある仏像に惹かれてしまうのですが、万福寺・薬師如来像を拝して、何やら、国東・国見町の山村風景の雰囲気のような、のどかで優しい気持ちになりました。



【千燈寺・如来坐像を訪ねて】

国見町の古仏ご紹介の最後は、千燈寺・如来坐像です。

千燈寺には、鎌倉初期の県指定文化財の如来坐像が祀られているということでしたが、スケジュールの都合もあり、鎌倉期の像でもありということで、パスをするつもりでした。

県道31号山香国見線を走って、平等寺へ向かって車を走らせていたところ、県道沿いの左手に千燈寺が見えてきました。
天台宗六郷満山・千燈寺と刻された大きな石碑が見えます。
少し時間もあるので、ダメもとでご拝観をお願いしてみようと、山門をくぐりました。

千燈寺・山門

千燈寺・本堂
千燈寺・山門と本堂

本堂には誰もいらっしゃらないようで、あきらめかけていた処、地元のウォーキング・ハイキングかと思われる10~20人の団体さんがやってきました。
これはラッキーと後ろについて、お堂に上がりました。

団体のリーダの方のお話では、
「御住職は行事があって留守にされており誰もいないのだが、我々が来るということで、仏像をはじめ寺宝をお堂に並べておいていただいているんですよ。」
ということだそうです。

堂内に取り揃えられた千燈寺の宝物
本堂内に並べられた千燈寺の寺宝

お目当ての如来坐像も、本堂内に台が置かれて、祀られていました。

我々は、拝観が叶いラッキーだったのですが、開け放たれたお堂にこんなに無造作に置かれていて、防犯上大丈夫なのでしょうか?
のどかな山村ならでは、ということなのかもしれませんが、本当に心配になってしまいます。


それはさておき、仏像のご拝観です。
像高51.5cm、ヒノキの寄木造の漆箔像で、鎌倉初期の制作とされています。
左右2材を頭体の正中線で矧ぎ、頭部を割り首にしているということです。

千燈寺・如来坐像

千燈寺・如来坐像
千燈寺・如来坐像

小ぶりで、可愛らしいという雰囲気の仏像です。
定朝風の典型のようなお姿をしていますが、よく見ると、体躯、肉取り、衣文の処理に鎌倉の空気感をはっきり感じさせます。
両手先が欠失しており、当初の尊像名が良く判らず、「如来坐像」という指定名称になっています。
「キリリとした少年の、清新な空気感を感じさせる」
とでもいうのでしょうか?
小品ながら可愛くすっきりした古仏という印象でした。

千燈寺・如来坐像...千燈寺・如来坐像
千燈寺・如来坐像

千燈寺は、かつては六郷満山の大寺で、16の末寺を有し六郷満山の中核を成す寺院として栄え、「西の高野山」とも称されました。
天正年間に大友宗麟による焼き討ちに遭って大規模な伽藍は焼失し、文禄年間に再建されたものの往時の繁栄を取り戻すことはなかったということです。
現在の千燈寺は、旧千燈寺の坊が昭和初期に山麓に移転したもので、旧千燈寺址は六郷満山ふれあい森林公園として整備されているということです。
現在は、国東六郷満山霊場第二十三番札所になっています。

この仏像は、元々千燈寺の末寺の法教寺(下払坊)の本尊であったのですが、後に旧千燈寺本堂に安置され、さらに本堂の破損がひどくなったため、現在の千燈寺に移されたということのようです。


今回は、国東市の東北端、国見町の古仏を三躯ご紹介しました。

皆、如来坐像のご紹介でしたが、こうして順にみていくと、平安中後期から鎌倉へと変化していく、国東の地方仏の有様の典型を見ているように感じました。

地方特有の野趣や土臭さの匂いをしっかりと刻みこんで、のどかな親近感を発散させているようです。


国東・国見町の古仏を訪ねて、何やらホッとしたような、ほのぼのしたような、そんな優しい気分になることが出来ました。



【追加の写真掲載】

コメントにてご確認のありました、平等寺釈迦如来坐像の趺坐の様子を別の角度から撮った写真です。
ご参考までにご覧ください。

平等寺釈迦如来坐像の趺坐の様子

古仏探訪~大分県宇佐市・龍岩寺奥院の三尊仏像 【2015.5.2】


昨年(2014年)11月、大分県宇佐・国東方面の観仏探訪に出かけました。
福岡市博物館で開催された「九州仏~1300年の祈りとかたち展」に、同好の方々と出かけたのですが、それにあわせて大分県まで足を伸ばしたのです。

探訪した古寺、仏像はご覧のとおりです。

大分県観仏探訪先のリスト

2日間で拝して回りましたが、その前に福岡市博物館、九州歴史資料館の仏像特別展などを観た後だけに、
「もう目一杯!」「腹一杯の満腹状態!」
という感じになってしまいました。

これらの古仏のうちから、いくつか印象に残った仏像をご紹介してみたいと思います。


まず最初は、宇佐市院内町の龍岩寺の三尊仏です。
平安後期の制作で、重要文化財に指定されています。


【異次元の幽玄空間、岩窟礼堂に祀られる三尊仏】

一度、この三尊仏を拝すると、きっと誰もが忘れることが出来ないことでしょう。

しっかりと記憶に刻まれる仏像です。
山腹の岩窟の礼堂奥に、すっくりと佇む三体の巨像を目の当たりにすると、心撃たれずにはいられません。

龍岩寺・三尊仏像
龍岩寺奥院礼堂・三尊仏像

急峻な岩壁に貼り付いたような龍岩寺・礼堂
岩壁に貼り付いたような龍岩寺・礼堂

45年前、学生時代に、この龍岩寺を訪ねたことがあります。
急峻な岩壁に貼り付いたような礼堂に、堂々たる三尊仏が祀られるというたたずまいは、鮮烈に目に焼き付きました。
その時の有様は、今でも映像を見るように蘇ってくるような気がします。

昭和47年(1972)当時撮影の龍岩寺三尊像
昭和47年(1972)当時撮影の龍岩寺阿弥陀如来像..昭和47年(1972)当時撮影の龍岩寺不動明王像
昭和47年(1972)に訪れた時撮影した、龍岩寺三尊仏像写真

思い出の龍岩寺に、再訪を果たすことが出来ました。


龍岩寺は、大分県宇佐市院内町大門という処に在ります。
宇佐八幡のある宇佐市街から東南に15キロぐらいのところの、山間の山村といったところです。
「龍岩寺参道」の標識がある石段を往くと、すぐに右手に住居兼用のような本堂があり、ここで拝観のお願いをします。

龍岩寺参道・入口..龍岩寺参道・入口
龍岩寺参道・入口

ここから、三尊仏がある奥院までは、細い急な山道を15分ほど登って行かなければなりません。
御住職なのでしょうか、管理されている方なのでしょうか、有難いことに、奥の院までご一緒にのぼってきていただきました。
巨岩がくりぬかれたトンネルを抜けると、奥院の礼堂が目に入ってきます。

奥院礼堂への山道.奥院礼堂への山道
奥院礼堂への険しい山道・トンネル

思わず息を呑むような景色です。
転げ落ちそうな急峻な岩壁の巌窟に、礼堂の建物が貼り付いたように建てられているのです。

急峻な岩壁に建てられた龍岩寺・奥院礼堂

龍岩寺奥院・礼堂
急峻な岩壁に建てられた龍岩寺・奥院礼堂

鳥取三仏寺の投入堂のことが、すぐに思い浮かびます。

鳥取・三仏寺投入堂
鳥取三仏寺・国宝投入堂

この建築様式、三仏寺投入堂と同じで「懸造り」というのだそうです。
鎌倉時代の建築で、重要文化財に指定されています。

山腹の岩窟は緑の木々に囲まれ、礼堂に佇むと静寂そのものです。
わずかにそよぐ風が、心地よく通り抜けていきます。
礼堂の奥には、格子戸越しに、3メートルほどもある巨大な木彫の三尊の坐像がどっしりと坐っているのが見えます。

礼堂内陣の格子戸越しに拝する三尊仏
礼堂内陣の格子戸越しに拝する三尊仏

中央に阿弥陀如来、向かって右に薬師如来、左に不動明王の三尊です。
礼堂の屋根と巌窟の間から程よい光が差し込んで、三尊仏が岩窟から浮かび上がって映えるようです。

龍岩寺奥院・三尊仏
龍岩寺奥院・三尊仏

幽玄というのでしょうか
神秘的というのでしょうか。
なにやら、異次元の空間、世界に浸ったような気持ちとなります。

45年前に訪れたときと、何も変わっていません。
この空間に身を置くと
「やっぱり、また来てよかった」
という実感が込み上げてきます。


さて、仏像のご拝観です。
普段は、外陣から格子戸越しにしか拝することが出来ないようですが、今日はわざわざ内陣のカギを開けて招じ入れていただき、目の前で巨大な三尊を拝することが出来ました。

これだけの巨像、本来なら離れた場所から拝するものなのでしょうが、そばに近づき仰ぎ見るように拝すると、本当に圧倒されてしまいます。


【石仏を思わせる木彫仏の三尊仏】

「石仏をみているようだ」

このように感じられることと思います。

龍岩寺奥院・三尊仏

龍岩寺奥院・不動明王像
石仏を思わせるような龍岩寺・三尊仏

螺髪や細かな衣文の線などを大胆に省略して、大まかにざんぐりと彫りあげられています。
目鼻口などお顔の作りも、思い切ってシンプルに表現されています。
とても木彫の彫像とは思えない仕上げ方です。
木塊を、石の塊のように造形したようです。

このざんぐりとした石仏風の表現が、背面の巌窟のゴツゴツした岩場と、見事に調和しているように感じます。
この巌窟を開いた人は、この山腹の急峻な岩場の巌窟に、出来得ることなら巨大な石仏を祀りたかったのではないでしょうか?
臼杵の古園石仏は、岩壁から彫り出した大きな大日如来の石仏などが礼堂で覆われ祀られています。

臼杵の古園石仏・礼堂

臼杵・古園石仏
礼堂に覆われた臼杵・古園石仏

そのようにつくりたかったのが、急峻な山腹では到底かなわず、石仏風の木彫像を祀ることにしたのかも知れません。

この三尊仏像は、共に素木作りで、クスノキの巨材を用いて造られています。
仏像に用いたクスノキは、山下に在る祇園社境内の神木を伐って刻んだという伝えがあります。
神仏習合の霊木信仰によるものかと思われます。

用材がクスノキで彫られていることが、この木彫像に「石仏の風合い」を感じさせるのに大きく作用しているように思えます。
クスノキは広葉樹の散孔材ですが、肌目、質感が粗く、硬質感を感じさせるところがあり、風化していっても、木目がささくれたりするようなことがありません。
今では年を経て、体躯に細かなヒビ割れがたくさん入っていますが、石仏的な硬質感は、しっかり保たれています。

ひび割れがが生じているクスノキ材の木地
ひび割れが入っているが石仏の風合いを感じさせるクスノキ材の木地

もしヒノキのような針葉樹材で彫られていたら、縦の木目に沿って割れやささくれが激しく生じて、とても石仏のような風合い、雰囲気は出なかったと思われます。

九州ではクスノキ材が使われることが多いのですが、石仏的風合いを出す効果も考えて、クスノキ材が用いられたのかもしれません。


【修験から生まれた?急峻岩壁の奥院礼堂】

どうして、このような三尊仏像がこのような急峻な岩窟に造られたのでしょうか?

龍岩寺の歴史については、良く判りません。
寺に残された龍岩寺縁起によると、

「天平18年(746)に行基菩薩が開き、鎮守牛頭(ごず)宮から木を切り出して一刀三礼のもとに三尊を刻んだ」

という内容が記されていますが、到底信用できるものではありません。
やはり、天台修験の信仰に絡んで、造像されたものと考えられているようです。

鷲塚泰光氏は、

「阿弥陀、薬師、不動を三尊とする組み合わせは、他に例がほとんどなく、当地方の天台修験と民間信仰の複雑な結びつきによる造像と考えられる。
・・・・・・・・
難解な教義はともかくとして、人びとの安寧を願う気持ちのあらわれと考えるべきであろう。」

(「大分の古代美術」1983年大分放送刊所収)

と述べています。

平坦に礼堂にたどり着けるようにされた通路
今では平坦に礼堂に
たどり着けるようにされた通路
修験がらみとすれば、奥院礼堂にたどり着くのも、昔は、結構険しかったのかもしれません。
今では、岩のトンネルを抜け比較的平坦な細道を往くと、そのまま礼堂にたどり着きます。
昔は、そうでもなかったようです。

建築史学者の福山敏男氏は、このように拝したと記しています。

「岩の洞門を抜け、左手に少し回ってのぼると、間もなく東南向きの岩窟のがけ下に達する。
舞台造の建物の正面が仰がれ、その脚下に沿って右に、鉄の鎖につかまって岩面を上ると北側から堂前面の広縁に入るようになっている。
さらに正面の扉を開いてうす暗い礼堂の内部に入ると、思いもかけない光景に驚かせれる。」

(「古寺の旅・西日本編」1973年東京美術刊所収)

この文章は、1953年に書かれたものです。
当時は、建物の脚下から鉄の鎖につかまって登っていかねばならなかったようです。

礼堂にのぼるクスノキ材の「きざはし」
急峻な崖を礼堂にのぼる「きざはし」

三仏寺投入堂に登る険しさには比べものにならないでしょうが、修験の奥院に参る険しさがあったのでしょう。
今でも脚下には、梯子のようなクスノキ材の「きざはし」(市指定有形文化財)が遺されています。
三尊仏を刻んだ残りの丸太を削って造られたものと伝えられている、原始的作法の階段だそうです。
昔は、参詣道として利用されていたのでしょう。


【三尊仏を彫ったのは石仏仏師?】

三尊仏の造形を見てみましょう。

龍岩寺奥院・薬師如来像
龍岩寺奥院・薬師如来像

龍岩寺奥院・阿弥陀如来像
龍岩寺奥院・阿弥陀如来像

龍岩寺奥院・不動明王像
龍岩寺奥院・不動明王像

造形表現は、面貌も体躯も、誰が見ても藤原仏のおだやかな表現です。
12世紀の制作とみられています。

しかし、都の定朝風の仏像のような、優美さとか繊細さというものは感じさせません。
「単純化の美、省略の美、抽象化の美」とでもいうのでしょうか?
温和なのだけれども、素朴な粗野さ、堂々たる雄大さを強く感じます。
なかでも、不動明王の顔貌の造形は、何とも言えない魅力があり、心惹かれるものがあります。
修験の岩窟に祀られるのに相応しい造形です。


三躯共にクスノキの一木彫で、後頭部と背面から内刳りを行って蓋板を当て、両肩からは別材、膝前は横一材と構造になっているそうです。
「頭部の耳の後ろで前後に矧いでいる」(国宝重要文化財「仏教美術」奈良国立博物館編1976年小学館刊)と書かれているものもあります。
どちらが正しいのかは良く判りません。

ただ、正面から見たときの堂々たる雄大さに比べて、横から見たときの体奥の薄さには、ちょっとびっくりしてしまいます。
不釣り合いというほどに薄っぺらいのです。
藤原仏だからというよりも、石仏の浮彫的な表現の延長というか、背後の岩壁を意識した正面性をとりわけ強調した造形表現になっているように思います。

体奥が薄っぺらい如来坐像..頭部が大きく造られた不動明王像
体奥が薄っぺらい如来坐像と、頭部が大きく造られた不動明王像

また、どの像も、頭部、顔部が不釣り合いなほどに大きく造られています。
狭い巌窟礼堂で、見あげるように拝むことが想定されているからでしょうか。

巌窟の狭い礼堂で、間近に、真正面から巨像を仰ぎ見て拝するという視覚的効果が、最大限計算されているようです。
薄っぺらい体奥、頭部の不釣り合いな大きさも、そう考えれば、納得できます。

こんな石仏のような木彫仏は、ほかの地方では見かけることがありません。
やはり龍岩寺・三尊仏の石仏的な彫刻表現、岩壁浮彫的な正面観照表現は、臼杵石仏に代表される当地の石仏造像と深い関係があるのでしょうか?
石仏を彫った工人と龍岩寺仏を彫った仏師は同じ工人なのでしょうか?

専門家は、こうした点について、どのように考えているのでしょうか。

鷲塚泰光氏は、
「像は木彫でありながら、その質感と立体としての微妙な凹凸起伏を否定した彫り口で、あたかも磨崖仏のように、概形のみを明確に刻む手法を示している。
この手法は、木彫としては小作り仕上げに至る以前で像を完成したように思え、作者を当地方の石造仏師に擬することもできよう。」

(「大分の古代美術」1983年大分放送刊所収)
このように、述べています。

軟質凝灰岩に丸彫風に彫られた臼杵石仏

木仏師の制作を思われる彫口の臼杵石仏
軟質凝灰岩に丸彫風に彫られ、木仏師の制作を思わせる臼杵石仏

臼杵石仏などの制作者については、これらの石仏が、
・きわめて丸彫り的に彫られていること、
・その様式が同時代の木彫仏に近いこと、
・当地の軟質凝灰岩の石質がやわらかで木彫で使うノミでも制作可能であること
などから、木仏師の手による制作ではないかといわれています。

こうした木仏師系の石仏製作者が、龍岩寺三尊仏もまた製作したと考えれば、大変納得のいく話です。

久野健氏は、一歩進めて、このようにも考えられています。

「大分県の石仏の制作はかなり長期間にわたっている。
はじめは木仏師のような仏師の手になった石仏も、次第に石彫の専門の仏師も出現したろうし、また磨崖石仏に適する様式も生まれていったことは、その遺品を通観すると明瞭に知ることが出来る。

次第に丸彫り的石仏から、浮彫的な磨崖仏へとかわり、衣文なども省略的な大まかな表現が行われるようになっていった。
この龍岩寺の薬師如来、阿弥陀如来、不動明王像などは、今度は逆に磨崖石仏を多数制作しているうちに生まれた石仏的表現が、木彫に影響し、生まれたものではないかと私は考えている。
三像共通の大まかな彫法や、面相の特異な表現などは、まさに石彫的である。」

(「仏像の旅」久野健著 1975年芸艸堂刊)


【三尊仏は、明かり射すように祀られていたのか?】

礼堂の格子戸の向こうに坐した三尊仏を拝した時、

「礼堂の屋根と巌窟の間から程よい光が差し込んで、三尊仏が岩窟から浮かび上がって映える」

私は、このような感じがして、異次元の幽玄世界に身を置くような感動を覚えました。
冒頭に、記したとおりです。

地方仏行脚で知られる丸山尚一氏も、同じ思いをいだかれたようで、意図的にこの光射す光景がつくられたと考え、こう語っています。

屋根と岩壁の間から光が射し込む礼堂
屋根と岩壁の間から光が射し込む礼堂
「背面の岩窟と、礼堂の片流れの屋根との間がかなりあいているので、仏像達の頭上から柔らかな陽光があたって、いい効果を創り出している。
仏像の作者は、十分にこの光の効果を意識していたように思える。」

「阿弥陀像の伏し目がちな眼が最も特徴的なのだが、下から見たときに、上からの光の陰影で目をはっきり浮き出させるために、単純な彫りで処理している。
これが、上からの光線に、実によく生きている。
こんな表現方法からも、野外で石仏を彫る工人と同じ作者を想像していいのかもしれない。」

(「生きている仏像たち」丸山尚一著 1970年読売新聞社刊)


ところが、昭和初年には、そのような光景ではなかったようなのです。
お堂のなかは、真っ暗であったというのです。

龍岩寺は、昭和2年(1927)に田中一松氏によって調査され、その仏像の価値が認められたのだそうです。
その時発表された、「大分県龍岩寺仏像」(中央美術151号・1928.6)と題する文章に、当時の状態が記されています。

ご紹介すると、このように語られています。
真っ暗な礼堂で明りに照らされた龍岩寺阿弥陀如来像(中央美術151号掲載)
真っ暗な礼堂で明りに照らされた
龍岩寺阿弥陀如来像(中央美術151号掲載)


「燭をともして禮拝した後、内陣に入ったが、薄暗くて殆ど何も見えない。
用意した懐中電燈でてらしてみると驚くべし、一丈ばかりの三尊佛が目の前に迫っているではないか。

『蝋燭を』という日名子氏の声に応じて、村の人々は各々蝋燭の裸か火を手にして佛像の左右を照らして呉れた。
岩壁を背にして、おぼろおぼろに浮き出す三尊の山の如き姿を目の前にして、私はしばし声もなく立ち尽くした。」

暗くて、蝋燭、懐中電灯を灯し、やっとのことでその姿を見ることが出来たというのです。
堂内は、現在とは全く様子が違っていたのでした。

昭和2年(1927)当時の奥院礼堂(中央美術151号掲載)
昭和2年(1927)当時の奥院礼堂(中央美術151号掲載)

後に礼堂が改修され、今のような光景になったようです。

この幽玄異次元世界の三尊像、造立された当時は、真っ暗な中で燈明の明かりにほの暗く照らし出されて、拝されたのでしょうか?
それとも、
屋根の上から程よい柔らかな光が射し込んで、上からの光に映える姿を拝したのでしょうか?

ちょっと、興味深い処です。


岩窟に坐す巨像の三尊仏に見惚れている間に、ずいぶん時間がたってしまいました。
急坂を上ってくるときにびっしょりかいた汗も、森のなかを通り抜ける涼しげなそよ風に、すっかり引いてしまいました。

「やはり、もう一度来てよかった!」

そんな気持ちに満たされながら、奥院礼堂を後に急坂を下りました。


【お気に入りの可愛らしい十二神将像】

最後に、ふもとの本堂に祀られている、かわいい十二神将像を拝させていただきました。
龍岩寺参道口にある本堂
龍岩寺参道口にある本堂

大変お気に入りの十二神将なのです。
十二神将は、本堂内の奥の祭壇に、他の色々な仏像と一緒に、ごちゃごちゃとぞんざいともいえそうな感じで祀られていました。
30~40㎝の小像です。
この十二神将、本当に無邪気ないたずらっ子が、ちょっと悪さをしているようにも見える姿です。

龍岩寺本堂に祀られる十二神将像

龍岩寺本堂に祀られる十二神将像
龍岩寺本堂に祀られる、可愛らしい十二神将像

なんとも可愛らしいのです。
わが家に連れて帰ってしまいたくなりそうです。
実は、この十二神将に再会できるのも、楽しみにしていました。

鎌倉時代の制作といわれ、県指定文化財となっています。

龍岩寺本堂に祀られる十二神将像
龍岩寺・十二神将像(鎌倉時代・県指定文化財)

この十二神将、かつては、奥院の薬師如来坐像の前に祀られていたと、久野健氏が回想文で語っています。
そんなことをしたら、すぐに盗難に遭ってしまいそうで、危なくて仕方ないところでしょうが、一昔前は、随分のどかであったようです。



念願であった「龍岩寺、再訪」を果たすことが出来ました。
45年前に味わった感動を、色褪せることなく、また同じように味わうことが出来ました。

「また来てみたいけれど、もうなかなかここまで来ることはないのかな?」

そんな気持ちになりながら、ちょっと名残惜しく、龍岩寺を後にしました。

前のページ 次のページ