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観仏日々帖

古仏探訪~「左京区大原上野町・浄楽堂の十一面観音像」京のかくれ仏探訪① 【2016.6.4】



【ご紹介してみたい~私のとっておきの「京のかくれ仏」】


「京のかくれ仏探訪」と題して、あまり知られていない京都の古仏を、いくつかご紹介していきたいと思います。

「この観仏日々帖、これまで、どんな京都の仏像をご紹介してきただろうか?」

ちょっと振り返ってみました。
京都府全域に広げてみると、南山城の仏像とか亀岡市の仏像とか、いろいろご紹介しているのですが、
京都市内に限ってみると、意外に少なくて、ちょっとびっくりです。

北区上賀茂神光院町の神光院・薬師来立像(2012.5.22)

下京区中堂西寺町の勝光寺・聖観音立像(2012.6.22)

神光院・薬師如来立像.勝光寺・聖観音立像
神光院・薬師如来立像(左)  勝光寺・聖観音立像(右)

こ の二つだけでした。

この観仏日々帖では、一般のガイドブック、仏像本にはふれられていないような仏像を採り上げるように心がけています。
京都市内には、沢山の仏像が残されているのですが、私の好きな平安前期・中期の仏像となると、著名な寺院に在るものが多く、あまり知られていない仏像が、少ないからなのかもしれません。

ただ、たった二つだけ採り上げた、京の平安古仏、
ご紹介したときには共に「無指定」だったのですが、その後、平安前期制作の仏像として「京都市指定文化財」に新たに指定されました。
「ご紹介してみた甲斐があった!」
と、心密かに思っている次第です。


そこで、もう少し京都市内の知られざる仏像を、これまでの観仏探訪の中から、ご紹介してみようかと思いました。
「京のかくれ仏」などと、大それた題をつけるほどでもないのですが、

「あまり訪ねる人はいないけれども、心惹かれる仏像、魅力あふれる仏像」

そんな、心に残る仏像をご紹介できればと思います。

京都市内には、大好きな平安前期・中期の仏像がそれほど多くなく、一生懸命、くまなく訪ね歩いたわけではありませんので、私の個人的な思い出の仏像ということで、ご容赦ください。



【その存在を全く知らなかった美仏~浄楽堂・十一面観音像】


第一回目のご紹介は、左京区大原上野町にある、浄楽堂の十一面観音立像です。

私は、この仏像について、長らく、その存在を知りませんでした。
7~8年近く前でしょうか、古本屋でこんな京都の仏像の本を、たまたま見つけました。

「京の古仏~里にいきづくみ仏たち」 京都市文化財ブックス第3集

という、図録風の冊子本です。

「京の古仏~里にいきづくみ仏たち」

1988年に、京都市文化観光局文化財保護課の編集発行になっていました。

「まえがき」によると
「ここで取り上げた仏像は、そのほとんどが古くから地域の人々によって守り継がれきたもの、あるいは無住になった寺院に伝わるものであり、地元の人々の生活と密着した身近な文化財と云えるものです。」
ということです。

「地域の人々とともに在る、『京のかくれ仏』選集」といった感じです。

この冊子の、冒頭のカラー写真頁に、ご覧のような写真が掲載されていました。

浄楽堂・十一面観音立像(「京の古仏~里にいきづくみ仏たち」掲載写真)
「京の古仏~里にいきづくみ仏たち」に掲載されている浄楽堂・十一面観音像の写真

如何でしょうか?

「オッ!これは凄そう!なかなかの迫力、魅力十分。」

そう感じました。
どう見ても、平安中期ごろまでの仏像に違いないようにみえます。
こんな写真を見せられては、平安古仏好きとしては、見逃すわけにはいきません。

「大原三千院の近くに、こんな古仏がのこされていたのか。」
「いつか、チャンスを見つけて、是非とも拝したいものだ。」

と思っていたのでした。

「京の古仏~里にいきづくみ仏たち」という冊子は、「あとがき」によると、昭和58~61年度(1983~86)に、京都市が京都彫刻調査研究会(代表・井上正氏)に委託した調査成果を取りまとめたものだそうです。
浄楽堂・十一面観音像も、この時に調査されたものらしく、昭和59年(1984)に、京都市指定文化財に新たに指定されています。



【京都・大原の静かな山里に、ひっそりと在る浄楽堂】


浄楽堂の十一面観音立像を、実際に拝することが出来たのは、ちょうど6年前、2010年の冬のことでした。

京都市の教育委員会・文化財担当の方にお願いをして、地元の管理者の方にご連絡を取っていただき、特別に拝観のご了解をいただきました。
浄楽堂の十一面観音像は、地区の人々の管理で守られており、通常は、公開されていません。
年に2回、オコナイがある成人の日と地蔵盆(8/24)に近い日曜日にのみ、御開帳されているとのことでした。

期待に胸膨らませて、浄楽堂へと向かいました。
浄楽堂は、左京区大原上野町という処にあります。
市内から大原を目指すと、もうあと5~600ⅿで三千院というあたりを、東に少し入った処です。
国道から2~300m入っただけなのですが、そこは観光客とは全く無縁の静かな山村の世界です

大原の山里風景
洛北大原の山里風景

「洛北大原の、四季の自然に囲まれた山里」

というのは、このようなところのことを云うのでしょうか。

NHKのテレビ番組「ベニシアさんの大原の暮らし~猫のしっぽカエルの手」に登場していた風景が、思い起こされます。

浄楽堂あたりの田園風景
浄楽堂あたりの田園風景

一本杉の巨木が目印で、ひっそりと小さな無住のお堂があります。
そこが、浄楽堂です。

浄楽堂傍の一本杉の巨木
浄楽堂傍の一本杉の巨木

浄楽堂
浄楽堂

地区の管理をされている何人かの方が、わざわざお待ちいただいていました。
十一面観音像は、堂内の白木の厨子の中に祀られています。
開扉いただくと、真ん中にめざす十一面観音像、両脇に地蔵菩薩像、阿弥陀如来像が安置されていました。

浄楽堂内厨子に祀られる観音像
浄楽堂内厨子に祀られる観音像



【ほのかな翳りをさした、クールビューティ~想定以上の美仏・十一面観音像】


眼前に拝した十一面観音像、一見しただけで、期待に違わぬ平安古仏です。

浄楽堂・十一面観音像

浄楽堂・十一面観音像
浄楽堂・十一面観音像

すらりと痩身、ハイウエスト、八頭身で、穏やかながらもキリリと締まった美しさです。
とりわけ、お顔の表情に惹かれてしまいます。

浄楽堂・十一面観音像浄楽堂・十一面観音像
浄楽堂・十一面観音像

美しいお顔ですが、ちょっと翳りをさしたような表情が印象的です。
目鼻口の線の彫りがくっきりして、理知的でキリリと締まった面立ちです。

「ほのかな翳りを漂わす、クールビューティ」

こんな表現が似つかわしそうです。

浄楽堂・十一面観音像浄楽堂・十一面観音像
浄楽堂・十一面観音像~顔部

平安前期特有の、分厚いボリューム感や、デフォルメ表現、抉ったような鋭い彫り口はみられません。
むしろ、「すらりとスリムなプロポーションで美しい。」と云った方が当たっている感じです。
そういうと、穏やかな和様の藤原仏のような表現になってしまいますが、決してそうではなくて、
「締りのある緊張感!」「凛とした気品!」
が、強く漂っています。

資料の解説によると、平安中期頃の作とみられているようです。
たしかに、平安前期の厳しい迫力と、優美でおだやかな美しさを、併せ持つ仏像のように思えます。

私は、この「翳りさすキリリとした美しさ」の十一面観音像に、惹き付けられる魅力を感じ、大好きになりました。



【ほとんど見当たらなかった本像の解説~ご紹介】


この浄楽堂の十一面観音像、本・資料などでは、どのように解説されているのでしょうか。
この観音像、これほどの美しい古像なのに、採り上げている本が、ほとんど見当たりませんでした。

私が見つけたのは、先にご紹介した、「京の古仏~里にいきづくみ仏たち」の他では、
同じ京都市文化観光局発刊の「京都市の文化財~京都市指定・登録文化財集(美術工芸品)」(1992刊)、と
「京都の美術工芸~京都市内編・上」(1985年・京都府文化財保護基金刊)
だけでした。

像高168.7㎝、彩色、ヒノキ一木彫、内刳り無し、頭上面など後補

ということです。

ちょっとピックアップして、解説をご紹介します。

「丸顔で、肩幅広く、肘をゆるやかに体から離して、すらりとした体躯で立ち、小ぶりな眼、低い鼻、平明な肉どりをもつ面相には日本的な優しさがうかがえる。
また、肉身の穏やかな膨らみと、それをあらわに示す条帛の流れ、数少ない裳の衣文の巧みな設定など、美しい間合いが図られている。
奈良時代以来の古密教彫刻に新しい和風の情感を盛り込んだ美作であり、9世紀後半から10世紀前半にかけての制作と推定される。
また、当初の板光背を遺している点も貴重である。」
(「京の古仏~里にいきづくみ仏たち」解説)

浄楽堂・十一面観音像~全身

浄楽堂・十一面観音像~側面...浄楽堂・十一面観音像~側面
浄楽堂・十一面観音像~正面・側面写真

「頭部を品よく小ぶりにまとめ体躯は長身でしかも腰高に造っており全体のプロポーションは誠に整っている。
彫技は巧みで、前面の天冠台下地髪には細かく毛筋を刻み、面相部の彫りは鎬立たせ端正な表情に作っている。
もとは天衣遊離部もすべて共木から彫り出していたと考えられる。
天衣や裳には先端或いは縁に波形の襞を混えながら翻派風の衣文を刻むが総体には彫は浅く細身になっており制作は10世紀も末頃と考えられる。
胸から腹にかかる条帛部は肉身のくびれにそって彫り込みを作るのは不思議である。
頭上面が替わっているが平安中期の等身大の美しい十一面観音として注目される。」
(「京都の美術工芸~京都市内編・上」解説)


解説を読むと、それぞれに、

「古密教彫刻に新しい和風の情感を盛り込んだ美作」
「平安中期の等身大の美しい十一面観音として注目」

と述べられ、
この浄楽堂像が、注目すべき「美しい作品」であることを特記しています。
私も、全くの同感です。



【制作時期はいつ頃?~9~10世紀前半なのか、10世紀末頃なのか】


ただ、制作時期については、
前者(京の古仏)では、「9世紀後半から10世紀前半にかけての制作」
と推定されているのに対して、
後者(京都の美術工芸)では、「制作は10世紀も末頃と考えられる」
としています。

皆さんは、どのように感じられるでしょうか?

この時代の、制作年の判る仏像を、ちょっと見較べてみたいと思います。
9世紀後半から10世紀末頃までで、制作年代が推定できる代表選手と云えば、このような仏像が挙げられるでしょうか?

9世紀末から10世紀前半の制作年代が明らかな代表的仏像

10世紀半ばから末頃の制作年代が明らかな代表的仏像

日本彫刻史の教科書のような感じになってしまいました。
今更、こんなリストアップをするのも、ちょっと子供じみた感じがしないでもないのですが、これらの仏像の造形と比較してみて、どのように感じられるでしょうか?
一番の見どころのお顔のアップ写真を並べてみました。

慈尊院・弥勒仏像(寛平4年・892)清凉寺・釈迦如来像(寛平8年・896)
慈尊院・弥勒仏像(寛平4年・892)   清凉寺・釈迦如来像(寛平8年・896)

醍醐寺・薬師如来像(延喜7~13年・907~913)法性寺・千手観音像(承平4年・934)
醍醐寺・薬師如来像(延喜7~13年・907~913)   法性寺・千手観音像(承平4年・934))

六波羅蜜寺・十一面観音像(天暦5年・951)遍照寺・十一面観音像(永祚元年・989)
六波羅蜜寺・十一面観音像(天暦5年・951)    遍照寺・十一面観音像(永祚元年・989)

善水寺・薬師如来像(正暦4年・993)禅定寺・十一面観音像(長徳元年・995)
善水寺・薬師如来像(正暦4年・993)    禅定寺・十一面観音像(長徳元年・995)

たしかに、「京都の美術工芸」解説文の
「翻派風の衣文を刻むが、総体には彫は浅く細身になっており」
という通りなのですが、

穏やかなお顔の表情の遍照寺像や禅定寺像などと、同じ頃に下がるというのは、この浄楽堂像の顔貌の、
「翳りを帯びて、キリリと締りのある造形」
の顔貌をみると、ちょっと可哀想なのではないかなと思ったりします。

浄楽堂・十一面観音像浄楽堂・十一面観音像
浄楽堂・十一面観音像~顔部

むしろ、法性寺像や清凉寺像にみられるような、締まったキリリとした顔の表情の面影を留めているように感じます。

たしかに、都・京都の地の仏像といっても、大原の鄙の地の、一流ではないというか、在地性が強い作の仏像であろうことを考えると、古様な表現が、時が下っても残されているという見方もできるのかもしれません。
ただ、10世紀末の代表的観音像の造形と較べると、浄楽堂像は、どうしても10世紀中頃以前に遡る像なのではないかと、私には思えてきます。

いずれにせよ、心に残る平安古仏の美仏で、

「ここまで拝しに来て、本当に良かった。」

という気持ちで一杯になりました。

「知られざる、京のかくれ仏」といって、過言ではありません。



【よく判らない観音像の由来~惟喬親王ゆかりの美仏か?】


この古仏の由来は、明らかなのでしょうか?
これだけの観音像ですが、どうして当地に遺され、守られてきたのかについては、よく判りません。

今は、無住のお堂を、地区の皆さんで管理して守っておられるようです。
今のお堂は、、昭和11年(1936)に、大原に別荘を持っていた大阪の谷川という方が、地元と協力して再建したものだそうです。
また、浄楽堂という名前は、惟喬親王が住職をしていた寺の名を継いだといわれています。

たしかに、浄楽堂から2~300mのすぐ近い処に、「惟喬親王の墓所」が残されています。

惟喬親王の墓所

惟喬親王の墓所
惟喬親王の墓所

ご存じのとおり、惟喬親王(844~897年)は、悲運の皇子として知られています。
惟喬親王は、文徳天皇の第一皇子でありながら、生母が紀氏であることや、藤原氏の娘である皇后・明子に惟仁親王(清和天皇)が生まれたことから、出家を余儀なくされ、小野郷の地に隠棲したと伝えられます。
その小野郷の地が当地であるとされ(北区・北山小野郷ともされる)、墓所も残されているのです。

「惟喬親王の墓所」については、「ブログ~ノンさんのテラピスト」に「悲運の皇子・惟喬親王の墓 2013.8.28」という探訪記事・写真が掲載されているので、参考にご覧ください。


「京の古仏~里にいきづくみ仏たち」の解説では、
「本像と惟喬親王との関係は定かではないが、時期的に一致することから、関係遺仏とする考え方もある。」
と記されています。

惟喬親王在世時の像となると9世紀後半の仏像ということになり、そこまで製作時期を遡らせるのは、ちょっと難しいのではという風に感じます。
惟喬親王を偲ぶなど、何らかのゆかりの仏さまなのかどうかは、全く判りませんが、ロマンチックにそう考えたくなるような、ちょっと影のある表情の美仏であることは、間違いありません。



想定以上の美しく魅力ある平安古仏を拝することが出来ました。

「翳り漂う、キリリと美しいお顔」を拝していると、なかなか立ち去り難いものがあります。
後ろ髪をひかれつつ、開扉のご面倒をおかけした地区の方々に心よりの御礼を申し上げて、浄楽堂を後にしました。

もう一度、訪れたいものです。

今度は、オコナイの日か、地蔵盆の日に訪ね、地域の人々の信仰とともに在る観音様のお姿を、是非とも拝したいものです。


古仏探訪~山梨・福光園寺の吉祥天坐像と、満願寺の十一面観音像  【2016.5.22】


1.福光園寺の吉祥天・二天像

もう2か月も前、3月(2016/3)のことになりますが、山梨県笛吹市にある、福光園寺を訪れました。


【鄙にはまれな、堂々たる見事な吉祥天坐像】


福光園寺といっても、ご存じの方はそう多くないかもしれませんが、ここには鎌倉時代前期の素晴らしい吉祥天の坐像が遺されているのです。
寛喜3年(1231)、仏師蓮慶によって制作されたことが、像内墨書銘によって知られています。

福光園寺・吉祥天坐像

福光園寺・吉祥天坐像
福光園寺・吉祥天坐像


初めて訪れたのは、もう30年以上前のことになるでしょうか?
ほとんど予備知識なく訪れたのですが、想定外の見事な造形の仏像に出会い、本当にびっくりしました。

「こんな鄙の地に、どうしてこんなに見事な出来の像が遺されているのだろうか?」

吉祥天坐像を、初めて拝したときの、驚きの記憶が、今も鮮明に残っています。

その後も、山梨県立博物館で2006年に開催された「祈りのかたち~甲斐の信仰~展」や、2013年に同じく開催された「山梨の名宝展」にも出展されましたので、その折にご覧になった方もいらっしゃるのではないかと思います。

この吉祥天坐像、何度拝しても、その堂々たる造形に心惹かれるものを感じる仏像です。
私は、何といっても平安古仏好きなので、鎌倉時代の地方に残された仏像彫刻に、心惹かれることは、あまり無いのですが、何故か鮮明に心に刻みつけられている仏像です。

この福光園寺で、3月19日に「歴史シンポジウム・ 吉祥天信仰 ~祈りとかたち~」が開催されるという情報を知りました。
シンポジウムの内容は、次のようなものになっていました。

「歴史シンポジウム・ 吉祥天信仰 ~祈りとかたち~」概要

大変失礼ながら、こんな鄙の地のお寺で、専門家による歴史シンポジウムが開催されるということに、意外感を感じたのですが、

「あの、心に残る吉祥天坐像に、またお会いできるのか!」

そんな思いもあり、思い切って、同好の方と、山梨県笛吹市にある福光園寺まで出かけてみることにしたのでした。



【堂々たる威厳さえ感じる吉祥天像~類例のない坐像の吉祥天像】


福光園寺は、笛吹市御坂町大野寺という処にあります。
甲府駅の南東、石和温泉駅から南に5キロぐらいの処で、小高い山の中腹にあります。
車で急な坂を上っていくと、福光園寺の山門が見えてきました。

福光園寺・山門
福光園寺・山門

福光園寺・本堂
福光園寺・本堂

めざす吉祥天像は、収蔵庫の中に安置されているのですが、この日はシンポジウム開催日ということで、収蔵庫の扉が開かれ、自由に拝観させていただくことが出来ました。

福光園寺・吉祥天二天像が祀られる収蔵庫
福光園寺・吉祥天二天像が祀られる収蔵庫

久しぶりの、再会です。
朝から土砂降りだったのですが、到着した午後にはすっかり晴れ、陽光が収蔵庫の中まで降り注いで、吉祥天像のお姿が、ひときわ映えて輝くようです。

福光園寺~主尊・吉祥天坐像と脇侍・持国多門天像
福光園寺~主尊・吉祥天坐像と脇侍・持国多門天像

何といっても印象的なのは、その堂々たる姿です。
「どっしりと・・・、堂々として・・・、雄々しく力強い・・・」
こんな言葉が似つかわしい吉祥天像です。

福光園寺・吉祥天坐像

福光園寺・吉祥天坐像
福光園寺・吉祥天坐像

吉祥天は、本来女神ですから、女性らしい美神のように造られるのが当たり前で、鎌倉時代の吉祥天と云えば、誰もが浄瑠璃寺の吉祥天像のような、まさに美女像を想像してしまいます。

浄瑠璃寺・吉祥天立像(鎌倉時代)
浄瑠璃寺・吉祥天立像(鎌倉時代)

こんなに堂々たる、力強い男性的な(鎌倉の)吉祥天像は、他に観た記憶がありません。

そして、これまたビックリなのは、立像ではなく「坐像」として造られていることです。
坐像の吉祥天像は、図像の中ではそれなりにみられるそうなのですが、彫像で坐像で造られた吉祥天像の作例遺像は、この福光園寺像だけなのだそうです。

福光園寺の吉祥天像は、脇侍に二天像を伴う中尊・主尊として造立されたという、珍しい作例だそうです。

「圧力感がある!」とでも表現するのでしょうか?
吉祥天坐像を眼前に拝すると、女神である吉祥天像なのに、威厳や威力といったような発散パワーを、感じてしまいます。
それが、この吉祥天像の、惹きつける魅力になっているのではないでしょうか。

福光園寺・吉祥天坐像~側面

福光園寺・吉祥天像福光園寺・吉祥天坐像~顔部
福光園寺・吉祥天像~側面部と顔部

モデリングや一つひとつの造形表現をしっかり見ていくと、リアルでダイナミックな表現、絶妙の肉身の抑揚表現といった慶派彫刻の超一流レベルの造形に較べると、もう一歩という印象は拭えません。

私には、この「絶妙の出来ではない」ところが、この吉祥天像に、飾らぬ堂々たる威力を感じさせるのだと思えてくるのです。
そこが、惹きつける魅力と云えるのでしょう。

脇侍の二天像も、なかなかバランスよく整った造形ですが、出来のレベルも、迫力も、中尊・吉祥天坐像には、かなり追いついていないなという印象でした。

福光園寺・持国天像...福光園寺・多門天像

福光園寺・持国天像福光園寺・多門天像
福光園寺・持国天像(左)、多聞天像(右)



【寛喜3年(1231)、仏師・蓮慶作の吉祥天・二天像~概要・解説のご紹介】


ここで、この吉祥天坐像・脇侍二天像の概要を、少しご紹介しておきます。

昭和58年(1983)に、重要文化財に指定されています。
2006年秋に山梨県立博物館で開催された「祈りのかたち~甲斐の信仰~展」解説が、大変コンパクトにまとまっていますので、この解説をご紹介します。

「吉祥天坐像:像高108.8㎝、脇侍・持国天像:像高116.8㎝、多聞天像:像高118.7㎝

福光園寺は、古くは駒岳山大野寺と号し、一時衰退したものの、保元年中(1156~8)領主大野対馬守重包によって再興されたという。

吉祥天を中尊とし、持国天、多聞天を脇侍とした三尊像を構成する。
いずれも檜材の寄木造で玉眼を嵌入する。
制作当初の彩色や載金文様が細部に残る。
吉祥天の像内に残された銘文から、本像は寛喜3年(1231)仏師蓮慶によって制作されたことが知られる。
蓮慶は大善寺十二神将像を手かけた仏師であり、本像はそれに3年ほど遅れた制作となる。

檀越として名を記す三枝氏や橘氏は、当地を基盤とした在庁宮人で、特に三枝氏は大善寺を氏寺とした、古くから勢力を持つ豪族であり、両寺の像を同じ仏師が手かけたことも領ける。
制作年代、作者が明らかな、鎌倉前期の基準作として貴重である。

吉祥天は福徳を司る女神として信仰を集め、奈良時代には鎮護国家、五穀豊穣を祈念する『吉祥悔過会』の本尊として重要な位置にあった。
奈良東大寺法華堂の塑造吉祥天像を最古の遺例として、京都浄瑠璃寺の吉祥天女像などが知られるが、いずれも立像で独尊像である。
本像のように、坐像にして脇侍を伴う形式は他に類が無く、その依拠する所も不明である。
しかし墨書に「二天」と記されることや、それぞれの作風からみても、同時一具の作と考えてよいであろう。」(解説執筆:近藤暁子氏)


吉祥天像の像内に残された墨書銘は、ご覧のとおりです。

福光園寺吉祥天坐像・像内墨書銘
福光園寺吉祥天坐像・像内墨書銘

吉祥天坐像像内膝部に遺る墨書銘~左下に大仏師蓮慶の文字が見える
吉祥天坐像像内膝部に遺る墨書銘~左下に大仏師蓮慶の文字が見える



【大仏師・蓮慶とは?】


さて、像内墨書に記される、制作者、大仏師蓮慶というのは、どういう仏師だったのでしょう。

おそらく慶派の仏師に間違いはなく、この吉祥天像の出来栄えを見ても、相当の技量の仏師であったのでしょうが、その系譜は明らかになっていません。

ご紹介した、図録解説にも記されているように、山梨県甲州市勝沼町にある大善寺の十二神将像の制作者であることが判っています。
近年、十二神将像の解体修理によって、丑神、巳神、酉神、亥神各像の像内に造像銘記として「仏師蓮慶、嘉禄3年(1227)、安貞2年(1228)」などの文言が確認されました。

大善寺・十二神将像~丑神像・蓮慶作大善寺・十二神将像~未神像・蓮慶作
大善寺・十二神将像・蓮慶作~(左)丑神像、(右)未神像

「蓮慶」という名前は、後の時代、「運慶」と取り違えられるというか、間違えられることになったようで、福光園寺、大善寺に関する後世の記録には、どちらの仏像も、作者が「運慶」であると記されてしまっていたのですが、像内墨書の発見などによって、「蓮慶作」であることが明らかになったものです。

この蓮慶作の仏像、偶々、山梨の二つの寺に残されているので、蓮慶は関東在地で活躍した仏師なのかなと思ってしまいそうですが、実は、都、中央の仏師であったようです。

この福光園寺の堂々たる見事な吉祥天坐像に、仏師・蓮慶の並々ならぬ技量を偲ぶことが出来るのは、嬉しいことです。
この吉祥天・二天像が、山梨の鄙の地ではなく、同じ東国でも鎌倉あたりに遺されていたならば、きっと鎌倉を代表する見事な美仏として、誰でも知っている有名な仏像になったのだろうと思いますし、「仏師・蓮慶」の名も、もっと広く知られることになっていたのではないでしょうか。



【福光園寺に残る、吉祥天かも知れない古像~謎の仏像?】


さて、福光園寺には、重文の吉祥天・二天像の他に、

「吉祥天像かも知れない? かなりの古像かもしれない?」

とも考えられる二つの仏像が遺されています。

私は、今回、再訪するまで、その二つの像の存在を全く知りませんでした。
今回の、「歴史シンポジウム・ 吉祥天信仰 ~祈りとかたち~」の中で、これらの像についてのご説明、言及があり、「そんな像があったのだ」と知りました。

この日は、各堂が開扉され、これらの像を眼近に拝することが出来ました。

その1躯は、石造の吉祥天女像と呼ばれている像です。

福光園寺・石造吉祥天女像福光園寺・石造吉祥天女像
福光園寺・石造吉祥天女像

50~60センチぐらいの、丸彫りの石像です。
残念なことに、かなり損耗して像容がはっきりしません。
本堂の一角に祀られていました。

もう1躯は、香王観音像と呼ばれている木彫像です。

福光園寺・香王観音像~吉祥天像か?

福光園寺・香王観音像~吉祥天像か?福光園寺・香王観音像~吉祥天像か?
福光園寺・香王観音像~吉祥天像か?

境内の、観音堂に祀られています。
像高は139.4センチ、内刳りのない一木彫のようです。県指定文化財に指定されています。
この像も相当朽損していますが、平安期の像であることに間違いありません。
平安中期以前に遡る可能性がある古像ではないでしょうか?
お寺では、香王観音像と呼ばれていますが、像容は天部形をしており、もともとは観音像ではなかったようです。



【3躯の古像は、奈良時代以来の吉祥悔過に因む吉祥天像なのか?】


シンポジウムでの講演では、

福光園寺は「吉祥天の寺」とも称してもよい寺院で、石造・吉祥天像、一木彫・香王観音像、吉祥天・二天像は、福光園寺の創立以来の歴史のそれぞれの時代々々に、吉祥天像として造立され祀られてきたものではないだろうか?

というお話がありました。

福光園寺の歴史を振り返ってみると、このように云われています。

寺伝では、聖徳太子創立、行基行脚滞在、弘法大師空海滞在などの由緒が云われているようですが、創建時については全く不明のようです。
「甲斐国志」によれば、古くは駒岳山大野寺と号したが、その後一時廃絶し、保元年中(1156~8)に賢安上人を中興開山として、領主大野対馬守重包により再興されたと伝えられています。

シンポジウム基調講演「吉祥天の寺・福光園寺の歴史」を行った、室伏徹氏(甲州市教育委員会)からは、福光園寺の歴史と三つの吉祥天像?について、このような見方のご説明がありました。

8世紀半ばに創建された甲斐国分寺が、平安時代に衰微していく過程で、福光園寺は大善寺(甲州市勝沼)に相対する寺院として国衛近傍に開創された。

甲斐国分寺址史跡
福光園寺の近郊にある甲斐国分寺址史跡

本来、国司、国分寺が担っていた、吉祥悔過・薬師悔過を、この両寺に分担させたものと考えられる。
当初から「吉祥天の寺」として出発した福光園寺は、その後、在庁官人三枝氏の庇護を受け、伊豆山神社の開創者、竹居賢安とも深く関わりながら独自の発展を遂げていく。

現在、福光園寺に残されている三つの吉祥天像は、こうした歴史の中で、時々の吉祥悔過に由来する古像の可能性がある。

・石造・吉祥天像は、奈良~平安時代の吉祥天像。

・一木彫・香王観音は、この石像に代わって9世紀ごろに制作された吉祥天像。

・蓮慶作吉祥天・二天像は、平安末期再興以降、在庁官人三枝氏の庇護のもとに制作された吉祥天像

このように、考えることが出来るのではないだろうか?

というお話がありました。

もし、遺された三つの吉祥天?像が、本当に「吉祥天の寺の吉祥悔過の本尊」として、奈良時代以来受け継がれてきた像だとすれば、大変な驚きというか、興味深い遺産だと思います。
ただ、そのように見做すというには、ちょっと根拠が弱いかなとも感じました。
でも、大変ロマンあふれる話です。


また、「福光園寺における吉祥天の造像と信仰」という講演を行った、海老沢るりは氏(三井記念美術館・学芸員)の説明では、室伏氏の仮説には、慎重なコメントのようでしたが、

石造・吉祥天像の制作年代は、損耗した現況からは、何とも言えるものではなく、古いとも新しいとも判断できない。

一木彫・香王観音像は、経典、作例等から見てみると、観音像として制作されたものではなく、天部形像として制作されたのであろう。
制作時期は、平安中期頃ではないかとみられ、像容から類推すると、広隆寺・吉祥薬師像、薬薗寺。吉祥薬師像などの天部形像の系譜にある像の可能性も考えられる。

というお話がありました。

広隆寺・勅封吉祥薬師立像(平安前期)薬薗寺・吉祥薬師立像(平安前期)
広隆寺・勅封吉祥薬師立像(左)、薬薗寺・吉祥薬師立像(右)~共に平安前期

現在の、蓮慶作・吉祥天像が、吉祥天の姿のイメージに似合わぬ、堂々と威厳あふれる姿に造られている背景には、福光園寺が「古代からの吉祥悔過を担う寺」としての歴史があり、その主尊として造立された所以なのかもしれないと、勝手にイメージを膨らませてしまいました。



【福光園寺主催の歴史シンポジウム~地方の歴史文化研究への素晴らしい取り組み】


このシンポジウム「吉祥天信仰 ~祈りとかたち~」、お寺の広間を会場に使ったものだったのですが、地元の郷土史愛好家の方々をはじめ、3~40人ほどでしたか、多くの方が参加されていました。

福光園寺・歴史シンポジウム開催風景
福光園寺・歴史シンポジウム開催風景

冒頭にもふれましたが、こんな鄙の地のお寺で、どうしてこんな専門的シンポジウムが開催されるのだろうかと、不思議に思ったのですが、実は、今回が、なんと第3回目ということなのです。

「大野山福光園寺・歴史シンポジウム」と称して開催されており、

第1回:2014年6月「古代甲斐と馬~『甲斐の黒駒』をめぐって~」
第2回:2015年2月「古代甲斐と官道~東海道『甲斐路』をめぐって~」

に続く、第3回ということだそうなのです。

福光園寺の、若い副住職の方が、歴史文化の研究、地域振興などに大変熱心な方で、市の教育員会などと連携して、シンポジウムの連続開催などを推進されているようなのです。

是非、こうした地域での意欲的な歴史文化研究の取り組みが、長く続き、より盛り上がっていくことになれば、本当に意義深く、嬉しいことだと心より感じました。


シンポジウム終了後、収蔵庫に差し込む夕陽の朱に染まるように、輝くように映えて坐す吉祥天像の姿を拝し、その魅力に再び心撃たれながら、福光園寺を後にしました。




2.満願寺の十一面観音立像~ずっしりとした存在感の平安古像


この日、同じ笛吹市にある、満願寺・十一面観音像を拝しに訪れましたので、ごく簡単にご紹介しておきたいと思います。

満願寺には、平安中期、10世紀頃の制作と云われる十一面観音像が遺されています。
像高169.6㎝、ケヤキ材の一木彫で、県指定文化財に指定されています。

満願寺・十一面観音立像
満願寺・十一面観音立像

山梨県では珍しい、平安中期以前に遡る可能性のある古像です。
かつて、「祈りのかたち~甲斐の信仰~展」(2006年、山梨県立博物館開催)で、観たことがあるのですが、今回は現地まで訪れてみました。

市の教育委員会を通じて、拝観をお願いしました。

満願寺は、笛吹市一宮町竹原田という処にあり、かつて甲斐の国の国衙があった近くに位置しています。

ご覧の通りの、立派な平安古仏です。

満願寺・十一面観音立像

満願寺・十一面観音立像

満願寺・十一面観音立像満願寺・十一面観音立像
満願寺・十一面観音立像

ちょっと土臭い地方作の雰囲気はするのですが、ずっしり骨太でボリューム感充分な造形です。
ケヤキ材の一木彫という感触が、そのまま目に映るという印象で、きっと大変重たいのだろうなという重量感を強く感じます。
頭上の十一面は失われ、お顔には後世の手が入っているようで、眼は玉眼に改変されています。
また、後世の彩色、金泥が塗られているなど、当初の姿を偲ぶには、ちょっと残念なのですが、平安前中期の空気感をしっかり漂わせています。
ボリュームあふれる体躯の割には、渦文を残す衣文の彫りは意外と浅く、身体に張り付いたような衣文線の表現になっています。
若干、時代が下がるのかもしれません。

「ずっしり存在感を感じる観音様」

そんな印象が残っています。

この観音像、お堂の中に祀られているのですが、お寺のお堂という建物ではなくて、簡素な民家という感じの建物です。

満願寺のお堂満願寺のお堂
民家のような満願寺のお堂

満願寺・十一面観音像の安置の様子
満願寺の堂内の十一面観音像安置の様子

ご案内いただいた管理されている方にお伺いすると、この観音像をお守りするために、地域の檀家でお金を出し合って建てたお堂なのだそうです。

「その檀家も、今は3軒しかないのですよ。」

というお話をお聞きしました。

地元で、貴重な文化財を大切に守っていくことの大変さ、厳しさというのを、今更ながらに痛感しました。
三軒の檀家さんだけで、この観音様を守っておられることに、本当に頭が下がりました。



今回は、山梨の地のあまり知られない名像、福光園寺・吉祥天像と歴史シンポジウムのお話と、満願寺・十一面観音像探訪のご紹介をさせていただきました。


古仏探訪~埼玉・浄山寺の地蔵菩薩像~重要文化財に新指定  【2016.3.26】


埼玉・浄山寺の地蔵菩薩像が、この3月11日の文化財審議会の答申で、重要文化財に指定されることが決定しました。
(新指定・国宝重要文化財となる仏像については、神奈川仏教文化研究所・特選情報「平成28年新指定・国宝重要文化財答申」で、ご紹介しています)

実は、この重文指定決定直前の2月に、越谷市にある浄山寺・地蔵菩薩像の観仏に訪れたのです。
その観仏探訪記をご紹介したいと思います。

まずは、仏像の写真をご覧ください。

浄山寺・地蔵菩薩立像

浄山寺・地蔵菩薩立像
浄山寺・地蔵菩薩立像

答申では、平安時代の制作で、
「9世紀前半に遡る可能性が考えられる。」
とされています。



【重要文化財に新指定? 突然知ったビックリ情報に、急遽訪ねた秘仏御開帳】


この浄山寺・地蔵菩薩像の存在を知ったのは、去年のことでした。

NETを見ていると、

「木造地蔵菩薩立像が県文化財に・浄山寺、平安初期のもの」(東武よみうりWEB・2016.3.16)

という見出しの新聞記事を見つけたのです。

「平安初期の地蔵菩薩、そんなの埼玉にあるのだろうか?これは必見!!」
と、しっかりマークしたのでした。

秘仏で、毎年2月・8月の24日、年2回の御開帳ということです。

ただ、県指定文化財になったこともあり、
「来年、開基1155年の記念の年なので、来年(2016)2月24日から、1年間公開し、多くの方に見てもらいたい。」
と、ご住職が語っていると記事に書いてありました。

それなら、今年のいずれかの時期に観仏に行けば良いと思っていたのです。
今年のご開帳予定の確認に、浄山寺さんにTELしてみたのが、2月20日頃のことでした。

ところがです。
「今年1年間のご開帳は、取り止めになりました。
2月の24日には、いつも通り開帳いたしますが、その後のことはよく判りません。」
とのお話です。

あれっ!話が違うなと、その訳をお尋ねした処、
「まだ、未定なのですが、文化財指定となるかもしれないので・・・・・・」
ということです。
「文化財指定? 去年、県指定になったばかりじゃないか、その間違い?」
と思って、よくお聞きしてみると、
「国の重要文化財に指定される可能性があって云々・・・・」
ということなのです。
「本当なのだろうか?」
と、一瞬信じ難く、またビックリしてしまいました。

去年、無指定から県指定になったばかりです。
それが重要文化財指定となると、超々スピード出世の仏像で、これを見逃すわけにはいきません。
慌てて、2月24日のご開帳に、急遽駆けつけることにしたのでした。



【越谷市郊外にある古刹、野島地蔵尊・浄山寺~貞観2年(860)創建の伝承】


同好の方、数人に声をかけて、出かけました。

浄山寺は、東武線越谷駅からバスで25分ほど、越谷市野島というところにあります。

地元では、野島地蔵尊「子育て地蔵」として知られているようです。
バス停から田園風景のなかを5分ほど歩くと、山門が見えてきます。
葵の御紋の幕が掛けられています。

葵の御紋の幕が張られた浄山寺・山門
葵の御紋の幕が張られた浄山寺・山門

浄山寺境内と本堂
浄山寺境内と本堂

浄山寺は、江戸時代、徳川家康が鷹狩に来た際、寺領300石の御朱印状を与えようとしたところ、時の住職が過分であると断ったため、鼻紙に3石と記載した朱印状(鼻紙朱印状と云い現存しています)を与えられたと伝えられます。

浄山寺に残されている徳川家康の鼻紙朱印状
浄山寺に残されている徳川家康の鼻紙朱印状

天台宗慈福寺と号していましたが、以来、寺名を浄山寺と改めたということです。
それで葵の御紋の幕が張られているのでしょう。
創建は貞観2年(860)、慈覚大師の開山と伝えられます。

浄山寺の歴史については、越谷市のはなし「越谷市の古刹・野島山浄山寺」というHPをご参照ください。
お寺の縁起から江戸時代の出開帳の有様など、今日に至るまでの歴史が、豊富な資料図版と写真とともに大変詳しく判りやすく記されています。

地蔵菩薩像の重文指定についてもふれられています。



【眼近に、秘仏・地蔵菩薩像をご拝観~まとまりの良い、平安の一木彫像】


早速、本堂に上がってご拝観です。

お参りに来た地元の皆さん方で賑わっていましたが、この平安の地蔵菩薩像を目指して、遠路、観仏にやってきたのは、我々ぐらいのようでした。
地蔵菩薩像は、本堂拝殿の壇上の厨子の中に祀られています。

浄山寺本堂の厨子に祀られる秘仏・地蔵菩薩像
浄山寺本堂の厨子に祀られる秘仏・地蔵菩薩像

壇上まで階段を上がって、厨子の眼近で、じっくり拝することが出来ました。

厨子内の地蔵菩薩像
厨子に祀られる秘仏・地蔵菩薩像

像高は、91.2㎝。カヤ材とみられる針葉樹の一木彫で、内刳りはありません。

なかなか出来の良い仏像です。
この完成度は、平安前期に関東・武蔵の地で造られた仏像とは到底思えません。
きっと畿内で造られ、当地にもたらされた像なのではないでしょうか。
これほどの仏像が、埼玉・越谷の地に遺されているというのは、ビックリというところです。

浄山寺・地蔵菩薩像浄山寺・地蔵菩薩像

浄山寺・地蔵菩薩立像
浄山寺・地蔵菩薩立像

第一印象は、平安前期の一木彫像としては、穏やかで、まとまった造形という感じです。
平安前期の一木彫像というので、もっとパワフルだとか、厳しさ、鋭さを感じさせるのかなと予想したのですが、むしろ「落ち着いた空気感」を強く感じる像です。

全体として、ふっくらした造形で、とりわけ頭部の丸みを帯びた処、お顔の目鼻立ちの穏やかさ(後の手が入っているのかよく判りません)が印象的です。

浄山寺・地蔵菩薩立像~顔部浄山寺・地蔵菩薩立像~顔部
浄山寺・地蔵菩薩立像~顔部

胸から脚部にかけての衣文表現も、厳しいく鋭い鎬を立てるのではなく、少し丸みがあり、これまた穏やかな造形です。
そのあたりにウェイトをおいて観ていると、
「出来は良い像だが、9世紀、平安前期なのだろうか?
もう少し時代が下がって、10~11世紀のような気分もするけれども・・・・・・」
というようにも見受けます。

ところが、両側面の衣文の表現、造形を見ると、そんな気分が、がらりと変わってしまいます。

浄山寺・地蔵菩薩立像~胸から脚部の造形浄山寺・地蔵菩薩立像~衣文の造形
浄山寺・地蔵菩薩立像~体部と衣文の造形

深くダイナミックに彫り込んだ、抑揚充分な表現です。
「この躍動感、ダイナミックさは、平安前期らしい雰囲気といってもよいかも。」
と、唸ってしまいます。
斜めから見た側面の衣文表現が、この像の魅力です。
9世紀に遡る制作と考えられるキーポイントかも知れません。

この両側面の衣文表現、
「やや煩雑でうるさく、わざとらしい感じがしないでもない。」
という感想が、同好の方の声にありましたが、皆さんどのように感じられたでしょうか?

個人的には、
「9世紀前半は、ちょっと厳しくて、10世紀に入って暫らくしてからぐらいの制作ではないだろうか?」
根拠はあまりないのですが、そんな雰囲気を感じました。

いずれにせよ、古代武蔵の地、鄙には稀な、出来の良い平安古仏を拝することが出来ました。



【これまで、全く注目されていなかった、浄山寺・秘仏地蔵菩薩像】


これだけの平安古仏、どうしてこれまで全く注目を浴びなかったのでしょうか??

この地蔵菩薩像、江戸時代には、何度も江戸市中・湯島神社などで出開帳されるなど、昔から世に知られた地蔵尊であったようです。
ただ、古来秘仏として守られていたようで、近年では、2月24日と8月24日に、厨子が開かれ、土地の人々に参拝されていました。
明治以降も、秘仏ということで、文化財調査などが行われることは無かったようなのです。

多分、それほど古い仏像ではないのだろうとみられていたのだと思います。
1977年に発刊された、越谷市仏像調査報告書(越谷市教育委員会刊)の野島浄山寺の項には、このように記されています。

「古くから信仰のあつかった本尊地蔵菩薩は、現在秘仏とされているため、調査の際写真撮影や法量測定を中止し、燈明及び小さな懐中電灯で特に拝見させていただいた。
像は木造で像高1メートル程の一木造とも見えるがっしりとした体躯の像である。
彩色は極めてよく残っているのは秘仏のためであろうか。
時代は室町期を遡るとは考えにくいが、詳細は機会を改めたい。」

写真撮影も許されない秘仏だったようですが、調査した人の眼には「時代は室町期を遡るとは考えにくい」と映ったようなのです。



【無指定から超スピード出世で重文指定へ~埼玉県最古の木彫像発見のいきさつは?】



≪東日本大震災での仏像破損が、新発見のきっかけに≫

その仏像が、平安古仏のようだと注目を浴びたのは、4年前、2012年のことでした。

2011年3月の東日本大震災によって、両足を台座に固定するホゾなどが壊れたのです。
2011年8月の開帳時、厨子を開けると、仏像が前のめりになっていました。
姿勢を戻したのですが。翌年2月の開帳で厨子を開けると、今度は、ほぼ倒れた状態だったそうです。

櫻庭裕介氏
櫻庭裕介氏
そこで「仏像の修理」を実施することとなり、修理には早稲田大学・講師の櫻庭裕介氏が当たることになりました。
ご住職のお話によれば、
「教育委員会に相談したら、ちょうど櫻庭先生が当地で修理をされているので、ご紹介しましょう。」
ということになったそうです。

解体修理に当たった櫻庭氏は、
「本像は、平安前期の制作像に違いない。」
と判断しました。

教育委員会も調査に乗り出し、「埼玉最古の平安古仏発見」と、にわかに注目を浴びることになったのです。
当日、お目にかかったご住職は、
「大震災で、仏像が破損することがなかったら、平安時代の仏像だと発見されることは無かったはずで、何が縁となるのかはわからないものですね。」
とおっしゃっていました。


≪とんとん拍子の超スピード出世で、重要文化財指定へ≫

そして昨年、2015年3月、埼玉県指定文化財に指定されるようになったのです。
埼玉県では、これまで、毛呂山町の桂木寺・如来坐像が、10世紀中後半の制作とされ、県内最古の木彫仏とされていました。

桂木寺・如来坐像桂木寺・如来坐像
桂木寺・如来坐像(平安時代・県指定文化財)

浄山寺・地蔵像の発見によって、本像が埼玉県最古の木彫仏像となったことになります。

目出度く県指定文化財となり、通常ならば、これで一段落という処なのでしょう。
ところが、そうではなかったのです。

ご住職のお話では、
「去年、文化庁の奥さん(奥健夫氏:美術学芸課・主任文化財調査官)と、井上さん(井上大樹氏:美術学芸課文化財調査官)が、この地蔵様の調査に来られて、その後、国の重要文化財指定へという話になっているのですよ。
このご開帳が終わると、3月からしばらく地蔵像を、文化庁にお預けする予定になっているのですよ。」
とのお話でした。

無指定から、県指定後、翌年、即座に国の重文指定というのは、めったにあることではないのかと思いますが、間違いのない話のようです。

果たして、3月12日の新聞で、「浄山寺・地蔵菩薩像、重要文化財指定へ・・・」と報道され、無指定から超スピード出世の仏像となったのでした。



【浄山寺・地蔵菩薩像の制作年代は9世紀? 地蔵菩薩の重要な現存古例?】


さて、この浄山寺の地蔵菩薩像、専門家の眼では、どのような像とみられているのでしょうか?
制作年代、造形についてコメントされている資料を調べて、ピックアップしてみました。

この像の発見者、櫻庭裕介氏は、本像の調査研究結果報告を行い、制作年代等について、以下のようにコメントしています。

「浄山寺像は、貞観2年に円仁が制作したとの伝承がある。
これを踏まえて細部をみれば、平安時代前期に多用された衣文表現、全体に太づくりにして量感を強調していること、さらにカヤの一木造などの点から、伝承に近い9世紀後半の制作として違和感はない。
日本における地蔵菩薩信仰は9世紀から盛んになったとされている。
制作時期が確実な作例としては京都・広隆寺講堂の地蔵菩薩坐像が挙げられ、9世紀中頃の作例とみられている。

広隆寺講堂・地蔵菩薩像
広隆寺講堂・地蔵菩薩像

これを中心として、各地に9世紀制作の作例が存在する。
浄山寺像は関東地方に残る9世紀の地蔵菩薩の作例として、その価値は大きい。
浄山寺像は朝廷から遠く離れた地に伝えられた作例であるが、近畿地方の作例に比肩するほどの水準でもってつくられた。
もちろん作者が畿内か土着の仏師であるかという問題はあるものの、関東における当時の仏像制作事情に一考を迫るきわめて貴重な作例といえよう。」
(早稲田大学奈良美術研究会「国際シンポジウム~文化財の解析と保存への新しいアプローチⅫ」での調査報告 2015年9月)

浄山寺・地蔵菩薩像~側面浄山寺・地蔵菩薩像~側面
浄山寺・地蔵菩薩像~側面


本像を、県指定文化財に指定した、埼玉県文化財保護審議会委員の林宏一氏(元埼玉県立博物館長)のコメントは以下の通りです。

「内刳のない丸彫りによる一木彫成の技法、ズングリとした重厚感ある立体構成、天平彫刻の余風を伝えて調子強く端正に彫り付けられた衣文表現、髪際線の特徴ある波形表現等に平安初期―木彫刻の特色が強く表れており、大らかで健康的な造形は奈良木彫の伝統を覗わせる。
作風の特色から9世紀にさかのぼり、縁起に説く貞観2年(860)は一つの目安となる。
現在のところ武蔵最古の木彫仏といえる。」
(越谷市郷土研究会50周年記念歴史講演会・講演レジュメ「浄山寺のお地蔵さま」2015.10.17)


そして、今回の重要文化財指定の文化財審議会・答申の解説は、次の通りです。

「野島地蔵尊として知られる古刹の秘仏本尊として伝えられた地蔵菩薩像。
肉付豊かな体軀,深く鋭い衣文表現に平安前期の特色をよく見せ,定型化されない彫り口から9世紀前半に遡る可能性が考えられる。
奈良笠区薬師如来像(重要文化財)と作風が類似し,畿内よりもたらされたと推定される。
当代の優品であり,また地蔵菩薩像の屈指の古例としても重要である。」


この3つのコメントに共通するのは、本像の制作が、「9世紀にさかのぼる可能性がある」と、指摘していることです。
造形表現の捉え方などには、それぞれニュアンスの違いがありますが、9世紀の制作ということでは、一致しています。
文化財審議会の答申では、9世紀前半の可能性まで言及しています。
そうなると、慈覚大師円仁が浄山寺(元慈福寺)を開山という伝承、すなわち貞観2年(860)当時の制作が、イメージされてくるのです。

わが国で制作年代が判明している最古の地蔵菩薩像の現存例は、広隆寺講堂の地蔵菩薩で、道昌の願により承和3年(836)から貞観4年(862)に造立されたとされています。

広隆寺講堂・地蔵菩薩像
承和3年(836)から貞観4年(862)に造立された広隆寺講堂・地蔵菩薩像

浄山寺・地蔵像は、我が国の現存地蔵像の最古作例に比肩する、きわめて貴重な地蔵像ということになるのです。
文化財審議会・答申でも
「地蔵菩薩像の屈指の古例としても重要である。」
と、この点が強調されています。

また、9世紀の制作にさかのぼるとみられる事由としては、

・深く鋭い衣文表現に平安前期の特色がみられること
・肉付豊かで、太造り、重厚感ある体躯の造形

があげられています。



【9世紀か、10世紀以降か? 迷ってしまう私の直感的印象】


「うーん、9世紀、それも半ばごろの制作?」

そんな独り言を、ブツブツ呟いてしまいしまいそうな気分になりました。

所詮、素人のフィーリングなのですが、私の感覚的には9世紀半ばというのは、ちょっとしっくりこないのです。
冒頭にも書きましたが、眼近に拝したときの私の直感的印象は、10世紀以降の制作かなというものでした。

奈良時代彫刻の余韻を色濃く残したようにも、平安初期彫刻の鋭角的な厳しさとも、ちょっと違うような感じがしました。
「大人しくまとまっている」とでもいうのでしょうか?
落ち着きと、ふくらみある穏やかさの方が、私の眼には印象的に残ったのですが・・・・・・
皆様方は、写真図版をご覧になって、どのような印象を持たれたでしょうか?

文化財審議会・答申には、
「奈良笠区薬師如来像(重要文化財)と作風が類似し,畿内よりもたらされたと推定される。」
と、述べられていました。

これまた、私の印象とはずいぶん違うのです。
自分の仏像を見る眼に、ちょっと自信がなくなってきました。

奈良笠区・薬師如来像というのは、桜井駅の北東5~6キロの山中に祀られる仏像です。

笠区・薬師如来立像

笠区・薬師如来立像~頭部
笠区・薬師如来立像と頭部

この薬師像を拝したとき、その圧倒的な見事さに、のけぞりそうになりました。
「まさに、平安前期彫刻の優品といって過言ではないだろう。
のびやかで鋭く深い衣文の彫口は、力強く見事というほかなく、全体として完成度の大変高い傑作だ。」
このような、強い印象が残っています。

笠区・薬師如来立像~体部笠区・薬師如来立像~衣文
笠区・薬師如来立像の鋭く力強く伸びやかな衣文表現


浄山寺・地蔵菩薩像~ダイナミックで粘りある衣文浄山寺・地蔵菩薩像~ダイナミックで粘りある衣文
浄山寺・地蔵菩薩像の衣文表現

たしかに、浄山寺・地蔵像の両側面の衣文の、ダイナミックで抑揚ある衣文表現と類似する処はあるとは思うのですが、全体として発散する空気感が、随分と違うように感じます。
笠区・薬師像の方が、はるかに力強く迫力ある造形のように思えてしまうのです。

その笠区像も、造形としては、量感も少し和らぎ、まとまりも良いことから、10世紀に入ってからの制作ではないかとみられているようです。
浄山寺像は、笠区像に較べると、衣文の彫口も、体躯の造形も、穏やかで落ち着きもあり、伸びやかさ、力強さが薄れて小ぢんまりした造形のように感じてしまうのです。
「この笠区像より、浄山寺像の方が、かなり古い制作とみられる。」
といわれると、
「まだまだ、自分の仏像の見る眼が養われていないのかな?」
と、やや情けない気持ちになってしまいました。


そこで、もう一度、深呼吸をしっかりして、心落ち着けて、虚心に浄山寺・地蔵像の写真をじっくりとみてみました。

浄山寺・地蔵菩薩像
浄山寺・地蔵菩薩像

そうすると、実際に、眼近に地蔵像を拝したときの、実感のフィーリングよりも、確かに古様な造形のように見えてきたのです。
「9世紀の古像」という気持ちになって写真を見ると、全体のふくよかなボリューム感、ねっとりと粘りがあり、躍動感ある衣文の表現など、それぞれが古様に見えてくるのです。

写真で見た方が、実見したときよりも、9世紀の造形感を強く感じるように思えます。

「奈良様の伝統を残した9世紀の木彫像」

そう言われると、そんな気分になってきたのも事実です。

第一印象の直感を大切にすべきでしょうか?
拡大写真などをじっくりと眺めた、造形感を大切にすべきでしょうか?

まだまだ修行が足りないなと反省しつつ、是非この地蔵像を、もう一度じっくりとみてみたいものだと思った次第です。


いずれにせよ、「埼玉県最古の平安・木彫像の新発見」となった、浄山寺の地蔵菩薩像です。
地蔵菩薩像の、我が国最古の現存作例に比肩される可能性ある、地蔵菩薩像でもあります。
今回の、新指定重要文化財となる仏像の中でも、最も注目される像ではないかと思います。


本像は、毎年恒例で東京国立博物館で開催される、「新指定国宝・重要文化財展」で、展示される予定です。
開催期間は、2016年年4月19日(金)~5月7日(土)となるようです。


皆さん、是非、お出かけいただいて、眼近にご覧ください。
私も、もう一度、じっくり見てみようと思います。



古仏探訪~2015年・今年の観仏を振り返って 〈その4〉  【2015.12.27】


「2015年・今年の観仏を振り返って」の最終回です。

10月から12月までの観仏先を、ご紹介します。


[10月]


【新発見の古仏に興味津々~大津市歴博・比叡山~みほとけの山展】

大津市歴史博物館で開催された「比叡山~みほとけの山展」へ行きました。

「比叡山~みほとけの山展」ポスター
比叡山の仏像と云えば、横川中堂の聖観音像や、檀像風の千手観音像などが思い浮かびますが、今回の展覧会は、比叡山の山麓に伝わる仏像や仏画を中心に、比叡山周辺にスポットがあてられた展覧会でした。
2003年には、この大津歴博で「比叡山麓の仏像展」という興味深い展覧会が開催されましたが、今回の「比叡山~みほとけの山展」も、またまた意欲的な企画展で、逃すわけにはいかないと、勇んで出かけました。

大津市歴史博物館は、三井寺園城寺の隣にあり、出かけるにはちょっと不便なのですが、最近は、なじみの博物館になっています。
近年では、
「比良山麓の文化財展」(2006)、「石山寺と湖南の仏像展」(2008)、「湖都大津 社寺の名宝展」(2009)、「神仏います近江~日吉の神と祭展」(2011)、「三井寺~仏像の美展」(2014)
といった、仏像好きにはこたえられない必見の仏像展が続々と開催されており、都度都度出かけているうちに、すっかり慣れ親しんでしまいました。


今回の「「比叡山~みほとけの山展」も、未見の仏像、見どころある仏像がいくつも出展され、大変興味深い展覧会でした。
多くの出展仏像の中で、私の注目仏像をいくつかご紹介したいと思います。

観仏リスト①「比叡山~みほとけの山展」

松禅院・観音菩薩像(99.3㎝)は、きわめて古様で迫力十分な一木彫像です。
この像は、折々、関連展覧会に展示されていますが、強く惹き付けるものを感じる私の注目仏像です。

松禅院・観音菩薩立像
松禅院・観音菩薩立像

松禅院は、比叡山中横川飯室谷の山中にある山坊で、この像は近年の調査で新たに確認されたものです。

図録解説には、
「本像は円仁が活躍した9世紀前半に造像されたと考えられ、比叡山の中でも屈指の古像ということができます。」
と述べられています。

まさに、同感で、単に古様というのではなく、内から発散する霊力のようなパワーを強く感じさせます。
「市指定文化財」では、勿体ないですね。


伊崎寺・不動明王像、この仏像は、初めて観ると、アクの強さに「ギョ!ギョ!」としてしまいます。

伊崎寺・不動明王坐像
伊崎寺・不動明王坐像

一見、出来が今一歩のように見受けてしまいますが、よく観ると、そんなことはありません。迫
力ある造形でなかなかの腕の手になるようです。
各所にデフォルメの効いた表現は、「インパクトの塊」とでもいうのでしょうか。
2006年に重要文化財に指定されました。
本像は、近江八幡の伊崎寺に、厳重なる秘仏として大切にまつられていましたが、重文に指定されて以降、比叡山国宝殿に安置され、観ることができるようになりました。


西教寺・聖観音像は、皆さんよくご存じの仏像かと思います。

西教寺・聖観音立像
西教寺・聖観音立像

安定感のある穏やかな造形の仏像で、10世紀後半ごろかなという感じです。
普段は拝観できない仏像で、久しぶりのご対面となりました。


さて、今回の本当の注目は、ここからです。

所有者名非公開という菩薩立像。
新発見、初公開の仏像だということです。
像高38.1㎝の小像で、9~10世紀の制作とみられます。

所有者名非公開・菩薩立像
所有者名非公開・菩薩立像

解説には、
「大津市の仰木地区に伝来した菩薩立像で観音像と呼ばれています。
本像は極めて独特な図像と作風を持っています。
・・・・・・
仰木は延暦寺ゆかりの仏像が多く伝来しており、本像もおそらく比叡山に安置されていたことが想像されます。」
と、述べられています。

パッと見ただけで、興味深い仏像だと感じました。
短躯で頭部が大きい檀像風の造形ですが、さほどに細密精緻というわけではありません。
むっちりとした豊かな肉付けは、赤ちゃんの身体や、腕を見ているようです。
お顔は、ほのかにエキゾチックさを漂わせています。

所有者名非公開・菩薩立像.所有者名非公開・菩薩立像
所有者名非公開・菩薩立像

印象的なのは、左肩から右腰にかけての「花をつなげたような飾り」です。
こんなの、見たことありません。
「あの仏像に似ている」というというのも、なかなか思いつきません。
如何なる系譜の仏像なのでしょうか、注目の新発見仏像です。


もう一つ。
大津市・西方寺の十一面観音像(像高54.6㎝)です。

大津市西方寺・十一面観音像
大津市西方寺・十一面観音像

奈良時代の木心乾漆像ということなのです。
この像も、初公開だと思います。
比良山系の打見山の山上にかつてあった、木戸の西方寺に客仏として伝来したとのことです。
近江にもいくつか乾漆像が遺されていますが、また新たなる木心乾漆像の出現となりました。



この日の夜は、お知り合いと京都祇園の「割烹・梅津」で、一杯飲りました。
4~5年前に開店とのことですが、最近評判の店です。
初めて訪れましたが、評判通りの美味で、趣のある良き店でした。

京都祇園「割烹・梅津」
京都祇園「割烹・梅津」



【近江湖南の粒ぞろいの平安古仏との出会いに、大満足】

翌日からは、私が受講しているカルチャーセンターの仏像講座の、観仏旅行でした。
二日間で、ご覧の通りのところに訪れました。

観仏リスト②湖南観仏旅行

湖南の、見どころ充分の平安古仏シリーズです。
皆、何度か訪れたことがある観仏先ではありますが、粒ぞろいの仏像ばかりで、愉しい観仏となりました。

櫟野寺の十一面観音坐像は、何度見ても、一流の仏像ですね。
3mを超える巨像です。

櫟野寺・十一面観音坐像
櫟野寺・十一面観音坐像

安定感、安心感を感じる、どっしり堂々たる体躯で、頼りがいがある印象です。
練達の技の仏師の手になるのでしょう、見事な造形です。

実は、この像は不思議な造り方がされています。
ヒノキの一木造りなのですが、頭体部の丸太状の原木の周りに、十数枚の薄板を桶状に矧ぎつけ、体部の太さを増すようにしているのです。
何かの由緒ある霊木のヒノキ丸太を用いて造られており、その霊木を活かしてつくり上げるために、こんな異色の木寄せを行なわざるを得なかったのだろうといわれています。
当地は、比叡山延暦寺の杣山でした。
そのような重要な場所であったからこそ、このような霊木を用いた、一流の仏像が作られたのでしょうか。

一つ耳寄りな情報です。
櫟野寺の本堂兼収蔵庫が修理されることになり、その修理中に櫟野寺の仏像が全部東京へやってくるのです。
東京国立博物館で、特別展「平安の秘仏~滋賀・櫟野寺の大観音とみほとけたち」が、来年(2016)9月13日~12月11日に開催される予定とのことです。
必見の楽しみな展覧会です。


大岡寺の薬師如来像は、不思議なパワーで我々を惹き付けます。

大岡寺・薬師如来坐像
大岡寺・薬師如来坐像

平安前中期の制作とされています。
「分厚い、デフォルメ、量感」そんな言葉を、そのまま当て嵌めたような造形です。
ちょっとアンバランスな「下手上手(ヘタウマ)」という感じの像ですが、マッチョな体躯が力感ある迫力を発散しています。
膝前までカヤの一木から彫り出しており、その分、窮屈な感じだと言わざるを得ませんが、そうした造り方をしているのも、この像が椿神社の本地仏であったことを考え合わせると、「神宿る霊木」を以って造られたのかもしれません。
私のお気に入りの仏像です。


次は、蓮長寺の十一面観音像。
キュッと、強く腰をひねった、美麗な観音様です。

蓮長寺・十一面観音立像
蓮長寺・十一面観音立像

この観音像は、井上靖著の小説「星と祭」で採り上げられてから、有名になりました。
ご存じのとおり、この物語の中では、近江の十数ヶ寺の十一面観音と主人公との出会いが、情感をこめて描かれています。
その中に、蓮長寺の十一面観音像が登場するのです。

「厨子の中から現れてきたものは、思い切って大きく腰を捻った観音さまだった。
胸も、腰も、肉付きはゆたかで、目も、鼻も、口許も、彫りは深くはっきりしていた。
姿態も、表情も、できるだけ単純化してあり、その点いかにも余分なところは棄ててしまったといった観音様だった。」

「星と祭」には、このように描かれています。
お姿を拝すると、だれもが好きになってしまう、美しい観音様です。


翌日は、金勝寺、永昌寺、善水寺を訪れました。

金勝寺は、「深山幽谷に静かに佇む、秘かなる寺」です。

霊気が立ち込めているような金勝寺・参道
霊気立ち込めるような金勝寺・参道

参道は、連なる緑濃き杉の大樹かこまれ、苔むす自然石の石段が続きます。
吸い込まれるように漂う自然の霊気が、あたりに立ち込めているような気がします。
そして、二月堂と呼ばれる小堂に、どっかと立つ巨像、軍荼利明王像を拝すれば、山岳信仰の持つ神秘の力を、肌で感じます。

金勝寺二月堂に祀られる軍荼利明王立像
金勝寺二月堂に祀られる軍荼利明王立像

3m余の巨像です。
見上げると、強烈な迫力で眼前に迫ってきます。
でかいのです。
そして得もいわれぬ、奇怪で異様なパワーを発散してきます。
軍荼利像のオーラに、ノックアウトされてしまうのです。

金勝寺・軍荼利明王立像
金勝寺・軍荼利明王立像

金勝寺の魅力を味わうには、境内の漂う深山の霊気に触れ、この軍荼利明王像を眼の当たりにすれば、もうそれで十分と云っても過言ではありません。


永昌寺の地蔵菩薩像は、平安前期仏像の余風を残しながら、大変美しく仕上げられた地蔵像です。

永昌寺・地蔵菩薩立像..善水寺・帝釈天立像
永昌寺・地蔵菩薩立像(左)と、作風が似通る善水寺・帝釈天立像(右)

穏やかさの中にも、彫技の冴えを感じさせる、すっきりと整った像です。
善水寺の梵天、帝釈天と作風が似通っており、10世紀末ごろの作と云われています。


最後は善水寺。

善水寺本堂
善水寺本堂

ご本尊、薬師三尊像は秘仏で拝することができませんでしたが、本堂内に林立する平安中期古仏の諸像を、ゆっくり愉しむことができました。



[11月]

韓国に、出かけました。

韓国国立中央博物館「古代仏教彫刻大展」ポスター
ソウルにある国立中央博物館で、「古代仏教彫刻大展」が開催されているのです。
この展覧会には、韓国、アメリカ、ヨーロッパ、日本、中国の18機関が持っている古代の仏教彫刻の名品200点余りが展示されるというのです。
これだけの中国、朝鮮、日本を中心とした古代仏像を、一堂に観ることが出来、仏像様式の伝播を考えることが出来る展覧会は、そうあるものではないということでした。

とはいっても海外の展覧会、関心はあるものの、わざわざ出かけたいというほどでもなかったのです。
同好の方から、是非行こうと誘われ、ご一緒するかと、思い切って出掛けたのでした。

2泊3日で出かけました。
1日は百済の石仏を観て、もう1日は「古代仏教彫刻大展」を見るというプランです。


【百済を代表する古代石仏を巡り、百済経由の仏像様式伝播に想いを致す】

百済の石仏は、ご覧のところを巡りました。

観仏リスト③韓国百済方面磨崖仏

昔、慶州に行って、石窟庵など新羅の仏像を観たことはあったのですが、百済を訪れたことはありませんでした。

瑞山の磨崖三尊仏は、古代朝鮮仏の本には、必ず写真が載っている磨崖仏です。
一度観てみたいと思っていたものです。
この磨崖三尊像が、文化財調査により世に知られることになったのは、1959年のことだそうです。
西暦600年頃、三国末葉の百済時代のものとされています。
丸顔で、パッチリ見開いた眼と微笑みが印象的です。

瑞山・磨崖三尊仏像

瑞山・磨崖三尊仏.瑞山・磨崖三尊仏像~中尊顔部
瑞山・磨崖三尊仏像

山の中腹のようなところにありますが、大変きれいに整備されています。
訪れる人も結構多いようで、この日も、学生さんが大勢仏像の前で説明に聞き入っていました。


次は、泰安磨崖三尊仏です。
この磨崖仏を調査し、世に知らしめたのは、韓国の仏教美術史学者・黄寿永氏でした。
1961年のことということです。
この像もまた、西暦600年頃の制作とみられています。

泰安・磨崖三尊仏像
泰安・磨崖三尊仏像

丸彫りに近いように掘り出されていますが、破損、損耗が進んで、随分やつれてしまっていて、克明な像容を伺うことのできないのは残念です。
斜めの方から観てみると、そのシルエットを偲ぶことが出来ます。
土地の人々からは、熱い信仰を受けているようで、この日も三尊像の前で、伏して祈る女性の姿がありました。

泰安・磨崖三尊仏像~斜めから見たシルエット..泰安・磨崖三尊仏像に伏して祈る女性
泰安・磨崖仏像~斜めから見たシルエットと仏像に伏して祈る女性


もう一つ、礼山花田里・四面石仏を訪れました。
この石仏が発見されたのは、1983年のことです。
横転して地中に埋もれていたようで、発掘調査により四面石仏であったことが確認されたということです。
破損が随分激しいのが残念ですが、古い年代に造られたであろうことは、私にも感じとれます。

礼山花田里・四面石仏

礼山花田里・四面石仏
礼山花田里・四面石仏

瑞山、泰安の磨崖石仏より古い時期に制作とみられており、遅くとも7世紀には下らないとみられているようです。

私は、百済の石仏などについては、知識が乏しく、皆目わからないので、ただただ眺めるというだけでありましたが、関心の深い同好の方々には、興味津々、こたえられない観仏であったようです。
近年、飛鳥時代の仏像は、中国南朝~百済~日本というルートでその様式が伝えられたという考え方が、有力になりつつあるように思うのですが、その様式伝播の匂いを嗅げただけでも、来てみて良かったと思いました。



【思い切ってやってきた甲斐があった、韓国国立中央博物館の「古代仏教彫刻大展」】

翌日は、ソウルの韓国国立中央博物館です。
韓国国立中央博物館を訪れるのは初めてです。
巨大なのにびっくりしてしまいました。

韓国国立中央博物館の内部
韓国国立中央博物館の内部

東京国立博物館など、全く比べ物にならない規模です。
東博の3 倍30 万点以上の所蔵品を有しており、世界的にも有数の規模を誇る博物館なのだそうです。

目指すは、「古代仏教彫刻大展」。

「古代仏教彫刻大展」前の壁面パネル~法隆寺献納宝物・一光三尊像の写真が掲げられている
「古代仏教彫刻大展」前の壁面パネル~法隆寺献納宝物・一光三尊像の写真が掲げられている

結構、人がいっぱいで混雑していました。
インド、中国、朝鮮、日本の古代仏像が、一堂に並んでいます。
メトロポリタン美術館の北魏5 世紀五台山将来弥勒仏像など見覚えのある像も展示されています。
日本からは、法隆寺献納宝物の金銅仏、一光三尊像(143号像)や如来立像(151号像)、甲寅銘光背(196号像)などが、出展されていました。

メトロポリタン美術館・北魏5 世紀五台山将来弥勒仏像..法隆寺献納宝物・如来立像(151号像)
メトロポリタン美術館・弥勒仏像(左)    法隆寺献納宝物・如来立像

四川省成都萬仏寺諸像など中国南朝といわれる仏像や、近年発見された山東省・龍興寺の石仏も、いくつも出展されていました。

山東省・龍興寺址出土の仏像..山東省・龍興寺址出土の仏像
山東省・龍興寺址出土の仏像

「中国南朝仏~朝鮮仏~日本飛鳥仏」という仏像様式伝播をイメージした展示のように感じました。

もう一つ、気になったのは、ベトナムの仏像がいくつか出展されていたことです。
中国風の金銅仏もあれば、インド風のものもあり、また折衷風のものもあります。

扶南(ベトナム・カンボジア方面)もしくは中国作の如来立像(6世紀)
扶南(ベトナム・カンボジア方面)もしくは中国作の如来立像(6世紀)

そして、図録解説には、このような図が掲載されていました。

図録掲載図「6世紀中国における様式の多様性」(Angela F. Howard)からの転載

「6世紀中国における様式の多様性」(Angela F. Howard)という著作からの転載のようです。

この点線を見ると、インドからインドシナ半島を回って中国へ至り、山東省から朝鮮に至っています。
ハングルが読めないので、何を書いてあるのか全く分からないのですが、仏教文化の南回りルートの重要性を指摘しているのではないだろうかと思えます。
たとえば山東省・龍興寺出土の石仏群などを見ると、いかにもこの南回りルートの文化伝播による造形を思わせます。
そして、飛鳥、白鳳仏にも、龍興寺諸仏の表現を思い起こさせるものが見受けられます。

私たちは仏教文化の日本への伝播を考えるとき、ついついシルクロードルートをメインルートとしてイメージしてしまいがちです。
しかし、この南回りルートのことも、十分に意識していく必要があるのだろうと、強く感じさせられました。

展覧会には、韓国を代表する2体の金銅仏が展示されていました。

一室に展示される、韓国を代表する2体の金銅仏
一室に展示される、韓国を代表する2体の金銅仏

韓国国宝、78号像と83号像です。

78号像は、通称、日月飾三山冠半跏思惟像と呼ばれている金銅像です。

韓国国宝78号像・日月飾三山冠半跏思惟像

韓国国宝78号像・日月飾三山冠半跏思惟像.韓国国宝78号像・日月飾三山冠半跏思惟像
韓国国宝78号像・日月飾三山冠半跏思惟像

83号像は、広隆寺・弥勒半跏像と瓜二つといわれる、有名な像です。

広隆寺・弥勒半跏像と瓜二つといわれる韓国国宝83号半跏思惟像

韓国国宝83号半跏思惟像.韓国国宝83号半跏思惟像
広隆寺・弥勒半跏像と瓜二つといわれる韓国国宝83号半跏思惟像

皆様も、おなじみの金銅仏だと思います。
一室に、二躯だけ並べてあり、工夫された照明の中で、じっくりと心行くまで鑑賞することが出来ました。
おまけに、写真も撮り放題。
誘われていった「古代仏教彫刻大展」でしたが、来てみた甲斐がありました。


そして、韓国で、飲んだ話です。
一日目は、百済方面、泰安半島の海辺に泊まりました。
地元の海鮮の店に行きましたが、これがびっくりするほど美味かった。
ワタリガニとエビを茹で上げたものと、海鮮鍋を食べましたが、流石に海辺の店。
新鮮で活きが良くて、絶品のうまさでした。
おまけに安い。
マッコリの進んだこと進んだこと、すっかり酔っぱらってしまいました。

二日目は、ソウルで焼き肉。
これは定番の韓国焼肉というところで、想定の範囲内というところでしょうか。
これまた、気持ちよく飲んでしまいました。



【想定外の力感あふれる平安古像に出会う~東京都檜原村の五社神社】

「人里・五社神社」

この名前をご存知の方はいらっしゃるでしょうか?
「ヘンボリ・ゴシャジンジャ」と読みます。
東京都西多摩郡檜原村人里というところにあり、奥多摩といわれる処です。
南の方は、もう山梨県です。

この五社神社に、平安時代の蔵王権現像のほか、数体の古像が遺されているのです。

観仏リスト④五社神社

五社神社で秋の祭礼があり、その時、年に一度だけご開帳されるので、皆で行ってみないかと、同好の方からお声がかかりました。
「五社神社の平安古像」という話を聞いて、
「昔、本で読んだ、あの仏像のことだ!」
と、記憶がふつふつとよみがえってきました。

古い本に、「人里・五社神社の古仏探訪記」が綴られていたことを思い出したのです。
久野健著  「仏像の旅」    昭和50年(1975)  芸艸堂刊
という本に書かれているのです。
たしか、久野健氏が、辺鄙な山奥を訪ね仏像調査をした処、なかなか見どころある平安古像であった、というようなことが語られていたように思います。

この五社神社像、気にはなっていたのです。
しかし、神社に厳重に祀られているということで、きっと拝することは難しいに違いないと、初手から諦め気味で、そのうち記憶も薄れていたのでした。

「あの、五社神社の仏像、拝することが出来るのですか! それは、是非とも行きましょう。」

と、俄然前のめりになってしまいました。

無住で神主さんもおられないので、総代の方にご連絡を取り、拝観事情について伺ったところ、
「ゆっくり拝したいのなら祭礼以外の日に来れば、開扉しましょう。」
というありがたいお話をいただいて、同好7~8人で、檜原村人里まで出かけたのでした。

JR武蔵五日市の駅から、バスで1時間という辺鄙な山奥に五社神社はあります。
道路沿いにある鳥居の処から、25分ほど急坂を山登りをすると、五社神社社殿に到着です。

五社神社の参道入り口
五社神社の参道入り口

五社神社・本殿
五社神社・本殿

本殿の狭めの厨子の中に、6躯の仏像が、押し込められるようにひしめき合っています。

五社神社本殿内厨子に祀られた諸像
五社神社本殿内厨子に祀られた諸像

厨子の中は薄暗く、古仏の姿がはっきりしませんでしたが、ライトを照らすとその姿が鮮やかに浮かび上がってきました。
「オウォ-!」という声が上がりました。
なかなかの迫力の古像です。
事前に、本で観ていた写真だと、粗略で田舎っぽい像で、拙い出来なのかなという印象でした。
はるかに「想定以上、期待以上」のパワーのこもった古仏です。
とりわけ、蔵王権現像は、力感十分で太造り、重量感があり、逞しく魅力的です。

五社神社・蔵王権現立像

五社神社・蔵王権現立像
五社神社・蔵王権現立像

厨子の中心に据えられた、菩薩形坐像も、惹きつけるものがあります。

五社神社・菩薩形坐像
五社神社・菩薩形坐像
五社神社・菩薩形坐像

菩薩形像は、全体としては、やや拙く線が弱いようなところもありますが、顔貌の迫力には注目してしまいます。
いずれにせよ、平安時代にさかのぼる、魅力充分の古像であることに間違いありません。

よくぞ、今日に至るまで、これらの古像が、この地に遺されたものです。
きっと、地元の人々の守り神として信仰され、大切に護られてきたのでしょう。

これからも、博物館などに移されることなく、東京都の鄙の地、檜原村人里の守り神として、村の人々ととともに在ってほしいものだと、念ずるばかりでした。

五社神社を後にして、バス停まで戻ると、見事なシクラメンの大群に遭遇しました。

見事なシクラメンの花畑
見事なシクラメンの花畑

当地の園芸農家のようです。
見事なシクラメンが咲き誇る光景に、しばしウットリというところでした。
何人かが、買い求めましたが、あまりの想定外の安さに、これまたウットリとなりました。

帰りは、立川の居酒屋で、愉しく反省会。



[12月]

師走になりました。

関西へ出かけましたので、ついでというわけではないのですが、大阪大学で開催された、国際シンポジウム「金銅仏の制作技法の謎にせまる」と、奈良まで出かけました。


【「金銅仏きらきらし展」と国際シンポジウム「金銅仏の制作技法の謎にせまる」へ~シンポジウムは難しすぎて・・・・】

金銅仏きらきらし展ポスター国際シンポジウム「金銅仏の制作技法の謎にせまる」ポスター

大阪大学総合学術博物館では、「金銅仏きらきらし~いにしえの技にせまる展」が、開催されていました。
金銅仏の制作技法にスポットライトを当てた、大変興味深い企画展で、東京芸術大学美術館、白鶴美術館、大阪市立美術館、逸翁美術館など所蔵の古代金銅仏、約40点が展示されていました。

国際シンポジウム「金銅仏の制作技法の謎にせまる」のほうは、科研費成果報告「5~9世紀東アジアの金銅仏に関する日韓共同研究」の発表の一環として開催されたものです。
古代金銅仏の、制作技法、成分分析などについての、興味深い研究報告がありました。
内容が、なかなか難しくて、素人の私などには、よくわからなかったというのが本音の処です。

ただ、感じたことは、
金銅仏の制作年代の判定をしていくうえで、科学的な分析結果に頼りすぎるのも難しい、
造形表現の類型や系譜に頼りすぎるのもまた難しい、
なかなか絶対的な決め手とか判定基準を示すというのは、そう容易なことではないのであろう、
といったようなことです。

「科学分析と、モノを見る眼」これを融合昇華させるのは、なかなかに難しそうです。


翌日は、奈良。
奈良博と東大寺ミュージアムに出かけました。


【奈良博で、かねがね観たかった仏像たちに、ラッキーにも遭遇】

奈良博のなら仏像館は、改修工事で閉館中。
新館に、少しだけ平常陳列の仏像が展示されていましたが、これが偶々なのですが、かねがね一度観てみたいと思っていた仏像ばかりでした。

私の注目の展示仏像は、ご覧のとおりです。

観仏リスト⑤奈良博平常展

うれしいことに、普段は、めったに出展されていない仏像が、いくつか展示されていました。

法明寺・吉祥天像は、京都府相楽郡笠置町の法明寺に遺された仏像で、釈迦如来立像、増長天立像(共に重要文化財)とともに、平安中期頃の制作とされています。

法明寺・吉祥天立像
法明寺・吉祥天立像

3躯とも、奈良博に保管されていますが、常時は展示されていません。
吉祥天像は、初めて拝することが出来ました。
以前観たのを、覚えていないだけかもしれませんが・・・・。


奈良博・観音菩薩像は、亀岡市の大宮神社に伝来した仏像です。
亀岡市の大宮神社には、10体もの平安古仏が遺されていたのですが、30年以上前に9体が売却されて、巷間に流出しました。
その後、そのうちの天王像と吉祥天像は、東京国立博物館所蔵となり、天王像は2012年、重要文化財に指定されました。
また観音菩薩像は、奈良国立博物館の所蔵となっているのです。

奈良国立博物館・観音菩薩立像(亀岡大宮神社伝来).東京国立博物館・天王立像(亀岡大宮神社伝来)
奈良国立博物館・観音菩薩立像(左)  東京国立博物館・天王立像(右)~共に亀岡大宮神社伝来

大宮神社伝来の仏像については、以前、観仏日々帖「亀岡市・大宮神社伝来の諸仏像」で紹介させていただきました。
その、大宮神社伝来の観音菩薩像が、展示されていたのです。
一度、観てみたいと思っておりましたので、これはラッキーでした。


善福寺・阿弥陀如来坐像も展示されていました。

天理市善福寺・阿弥陀如来坐像
天理市善福寺・阿弥陀如来坐像

善福寺は、天理市和爾町にあり、阿弥陀如来像は12世紀初頭ぐらいの端正な仏像です。
かつて、拝観がかなわなかったことがあり、一度拝する機会があればと思っておりましたので、これまたラッキーなことでした。



【四月堂千手観音像と旧眉間寺伝来諸仏を観に、東大寺ミュージアムへ】

東大寺ミュージアムに行きました。

東大寺ミュージアム壁面看板(四月堂・千手観音像)
東大寺ミュージアム入口の壁面看板(四月堂・千手観音像)

ここへ来たのは、四月堂・千手観音像と旧眉間寺伝来の諸仏を観たかったからです。

観仏リスト⑥東大寺ミュージアム

四月堂・千手観音像は、法華堂そばの四月堂に安置されていた時には、何度も拝したのですが、最近、東大寺ミュージアムのほうに展示されるようになりました。
名作ぞろいの東大寺の仏像の中では、あまり知られていないのですが、私は隠れた名作だと考えているのです。
ミュージアムの明るい照明の中で観てみると、どのように感じるだろうかと出かけたのです。

東大寺四月堂・千手観音立像
東大寺四月堂・千手観音立像

像高が270cm近くある像ですので、四月堂の小さなお堂に祀られていた時には、周りを圧する威圧感というか、ボリューム感をすごく感じていました。
ところが、ミュージアムの広い展示場に安置されると、圧力を感じるような迫力は、ちょっと霞んでしまったように思いました。

むしろ、豊満で穏やか、柔らかというフィーリングです。
丸顔で頬が膨らみ、童顔っぽいところがあります。
平安前期の重厚感をもっと感じると思っていたのですが、随分イメージが変わりました。
体躯の豊かな横幅に対して、身長が少し足りない感じで、ちょっと寸詰まりの印象です。
豊かな体躯に、これまた豊かな四十二手が付けられているのですが、その割には、横拡がりで扁平な感じがしません。
これだけのボリュームある脇手をつけながら、見事な全体バランスに造形されています。
斜めから見ると、脇手が極めて立体的につけられています。
腕を一度奥の方へぐっと引き、前へ突き出してくるようにしています。
これが、奥行きのある立体的な千手像となる、見事な造形となっているようです。
「上手い!」
今回、四月堂千手観音像に感じた印象です。

やはり、東大寺の隠れた名作だという思いは変わりませんでしたが、
「重量感、圧力感ある仏像」から「豊満な造形の上手さが光る仏像」
というイメージに変化しました。
観る環境や角度によって、仏像のイメージは変わるものですが、また新たな発見となりました。


東大寺ミュージアムに来たもう一つの目的は、旧眉間寺伝来の三躯の如来像を観ることでした。
眉間寺は、明治初年の廃仏毀釈で廃寺となってしまった、佐保路にあったお寺です。
明治初年に跡形もなくなり、祀られていた諸仏像も、すべて散逸してしまったのです。
その眉間寺本堂に安置されていたという3躯の如来像が、東大寺ミュージアムに特別展示されているのです。

旧眉間寺伝来・東大寺勧進所阿弥陀如来坐像

旧眉間寺伝来・東大寺勧進所釈迦如来坐像.旧眉間寺伝来・東大寺勧進所薬師如来坐像
旧眉間寺伝来~東大寺勧進所・三如来坐像

眉間寺から、東大寺に移され、現在は東大寺の勧進所に祀られているのです。
普段は、拝せませんが、勧進所阿弥陀堂が修理される機会に、特別展示されることになったものです。
この話は、観仏日々帖「廃寺となった旧眉間寺の三如来像が、東大寺ミュージアムで展示」で紹介させていただきました。

仏像彫刻としては、藤原、鎌倉彫刻の類型的タイプといったものなのですが、明治の廃仏毀釈や、流出した仏像の行方などに、関心がある私にとっては、このチャンスに是非観ておきたいと思っていたものです。



【2日間限りの展覧会~「仏像写真家・永野太造の軌跡展」をめざして】

実は、この日の奈良行は、別にもう一つ目的がありました。

「仏像写真家・永野太造の軌跡展」ポスター
奈良県文化会館で開催された「仏像写真家・永野太造の軌跡展」を観に行くことでした。
なんと、12/12・13の二日間限りの開催ということなのです。
永野太造氏については、私が特に関心のある仏像写真家です。
ちょうど関西行とタイミングがあったので、これは是非とも行かねばと、頑張って出かけたのです。

ご存知の通り、永野太造氏は奈良国立博物館前で古美術写真販売・出版の「鹿鳴荘」を営んだ仏像写真家です。
奈良六大寺大観や大和古寺大観の写真撮影者の一人で、仏像写真家としてよく知られていましたが、平成2年(1990)、68歳で没しました。
奈良の仏像写真の嚆矢といわれる工藤精華の遺品のガラス乾板(現在重要文化財)の、保存に力を尽くした人物としても、知られています。
「鹿鳴荘」は、現在では、古美術写真店は廃業し、飲物土産物販売店として営業されています。

今般、永野太造氏撮影のガラス乾板約7000点が、帝塚山学園に寄贈されることになり、本格的な調査研究が始められることになったことから、展覧会開催の運びとなったようです。
飛鳥園・小川晴暘や入江泰吉は、写真集や評伝、回顧文が数多く出されていますが、鹿鳴荘・永野太造については、書かれたモノがなく、その業績がほとんど知られていません。

今回の展覧会が、永野太造個人を採り上げたものとしては、初めてではないかと思います。
会場には、仏像写真作品のほか、ガラス乾板、関連図書、愛用した写真機材などが展示されていました。

永野太造の軌跡展~会場風景
永野太造の軌跡展~会場風景

今後の、帝塚山学園による調査研究により、永野太造氏の業績を回顧する出版物がまとめられることが、期待されます。


この日は、近鉄奈良駅近くにある、フレンチビストロ「プティ・パリ」で、一人ランチをして、帰京しました。
知人の勧めで訪ねてみた、初体験のお店でしたが、リーズナブルプライスでなかなかの美味でした。
お薦めです。

ビストロ「プティ・パリ」
ビストロ「プティ・パリ」



【今年の観仏納めは、冬至の日のご開帳~秩父・常楽院の軍荼利明王像】

12月22日、冬至の日、埼玉県飯能市にある高山不動尊・常楽院を訪れました。
師走も押し詰まり、今年の観仏の大トリです。

観仏リスト⑦常楽院

常楽院には平安時代の軍荼利明王像(重要文化財)が祀られているのですが、4月15日と冬至の日、それぞれ一日だけご開帳となるのです。
写真で見ると、いかにも地方作という感じの仏像ですが、これだけ大きな独尊の軍荼利明王像(像高228㎝)というのは、珍しい作例です。
軍荼利像の巨像と云えば、10月に行った、滋賀・金勝寺の軍荼利明王像が思い浮かびます。
関東では、古代にさかのぼる軍荼利像は、この常楽院像と、千葉県一宮町の東浪見寺像だけが残されているだけなのです。

今年ももう終わりだというのに、まだ観仏に行くのかと呆れられそうですが、同好の方と出かけてしまいました。

常楽院は、西武秩父線の吾野駅から北へ歩いて1時間半以上という、秩父の山間にあります。

高山不動尊・常楽院からの眺望
高山不動尊・常楽院からの眺望

普段は、徒歩しか交通手段がないのですが、ご開帳の冬至の日には、お寺までのマイクロバスが運行されます。
吾野駅につき、常楽院用意のマイクロバスに乗せていただき、25分ほどで到着しました。
本堂まで、百段以上ある急な石段をフウフウ云って登ります。

常楽院本堂に向かう急な石段
常楽院本堂に向かう急な石段

やっとこさで本堂に着くと、ご開帳の読経が始まっていました。

本堂内で営まれる、ご開帳の読経の様子
本堂内で営まれる、ご開帳の読経の様子

軍荼利像は、本堂の裏の急石段上の、収蔵庫に安置されています。
読経が終わると、僧侶の方々は、収蔵庫の方に移って、軍荼利像の前で再び読経です。
厳粛な儀式が、滞りなく終わり、ご拝観となりました。

拝観のために出かけてこられた方は、意外に少なく、全部で20~30人というところでした。
軍荼利像の眼近まで近づいて、じっくり拝することが出来ました。

常楽院・軍荼利明王立像
常楽院・軍荼利明王立像

「地方作の田舎風の仏像だなあ・・・・」
というのが、第一印象です。

動勢がなく、直立して突っ立っている風で、ちょっとぎこちない感じがします。
全体に痩身で、上半身の厚みが極端に薄く扁平になっています。
地方仏師による、11世紀頃の制作とみられているようです。

造形技量的には、そうなのかもしれませんが、静かに拝していると、山岳信仰の仏の「野趣あふれた凄み」を強く感じます。

常楽院・軍荼利明王立像
常楽院・軍荼利明王立像

不気味な神秘性というまではいかないのですが、存在感ある凄みが、伝わってきました。
特徴的なのは、その顔貌です。

常楽院・軍荼利明王立像~顔部
常楽院・軍荼利明王立像~顔部

鼻が異常に高く大きく、歯をむき出しにしています。
なかなかの造形力を感じます。
また、膝から下の造形は見事で、逞しくダイナミックです。
たくしあげた裾の衣文は、彫り口が深く鋭く、平安初期彫刻をみているようです。
脛やふくらはぎ、足先の造形は、写実的で太く逞しく、インドの古代彫刻の脚を思い起こさせます。
この軍荼利像は、お顔と脚の造形勝負と云えそうです。


常楽院の観仏を終え、池袋まで戻り、今年の観仏納めということで、イタリアンで一杯飲りました。
まだ日の高いうちから、ワインをぐいぐい飲んで、愉しく今年の観仏を振り返り合いました。
おかげで、少々二日酔い。



これで、「2015年・今年の観仏を振り返って」も、本当におしまいです。
我ながら、よくこんなに沢山、観仏探訪に回ったものです。

今年も、飽きもせず、凝りもせず、観仏三昧的生活にどっぷりつかって過ごしてしまいました。
仏像の世界ほかに、好きなこと、興味関心のあることもあるのですが、最近どうも観仏への傾斜が激しいようです。
来年は、どうなることでしょうか?


4回にもわたって、ダラダラ長々、今年一年の観仏探訪記録を自己満足的に綴らせていただきました。
辛抱してご覧いただき、ありがとうございました。

来年も、HP「神奈川仏教文化研究所」、ブログ「観仏日々帖」に、気ままな仏像記事を連ねていきたいと思っております。
よろしくお付き合いいただけますよう、お願いいたします。


皆様、良き年を迎えられますよう!!


古仏探訪~2015年・今年の観仏を振り返って 〈その3〉  【2015.1218】


ここからは、7~9月の観仏先のご紹介です。

真夏、炎暑のシーズンですが、凝りもせず、3回も奈良を訪れてしまいました。


[7月]

今年、最大の仏像展覧会が、奈良国立博物館で開かれました。
云うまでもなく「白鳳展」です。

仏像愛好研究会「天平会」の7月例会は、「白鳳展」鑑賞のプログラムとなっていました。これは、ぜひ参加しようと、出かけてみることにしました。

天平会の前日、中山寺と満願寺に出かけました。

観仏先リスト①中山寺・満願寺


【異国風のエキゾチズムが遠目にも伝わる、中山寺・十一面観音像】

中山寺・十一面観音は、月に一回、毎月18日のご開帳です。
ちょうどご開帳の日にタイミングがあったので、出かけたのです。

阪神間の人であれば、「中山寺」という名前を知らない人はいないのではと思います。
最寄りの駅名も「中山観音」という名前です。
安産祈願のお寺さんとして、超有名です。

安産祈願で知られる、西国三十三ヶ所第24番の札所~中山寺
安産祈願で知られる、西国三十三ヶ所第24番の札所~中山寺

西国三十三ヶ所、第24番の札所で、そのご本尊が十一面観音像なのです。
平安前期、9世紀頃の特異な秀作として知られていますが、これだけ有名なお寺さんのご本尊なので、寺外に出たことはなく、ご開帳といっても、本堂拝殿の処から、はるか遠くに拝するだけです。

本尊・十一面観音像が厨子内に祀られる、中山寺本堂
本尊・十一面観音像が厨子内に祀られる、中山寺本堂

立派なお厨子の中に祀られ、ほの暗い中に祀られたお姿が、何とか判るというところでしょうか。
それでも、異国的というか、他では見たことのない変わったお顔の表情であることは判ります。

中山寺・秘仏本尊・十一面観音像
中山寺・秘仏本尊・十一面観音像

写真図版で見ると、彫口が鋭くシャープであること、極端に吊り上がった眼や、表情、全体のシルエットなどが、日本離れしたエキゾチックな表現であることがよくわかると思います。

中山寺・十一面観音像
中山寺・十一面観音像~図版写真

瞳には、盛り上がった鉄の傘鋲が打たれており、そのことからも唐渡来の中国工人かその系譜の仏工によって制作されたのではないかと思われる像です。
遠くから、おぼろげながらという観仏ですが、それでも、やはり直に目にして拝すると、十一面観音像の発するエキゾチックな特異な雰囲気は、十分に伝わってきました。

この日も、中山寺は、安産祈願で腹帯を授かる人、赤ちゃん抱いた初参りの人が沢山いて、にぎやかな境内でした。



【異貌と霊威表現~奇妙な魅力に惹きつけられる満願寺の薬師像、天部像】

満願寺は、中山寺から二駅という近くにあります。

満願寺・山門
満願寺・山門

満願寺には、秘仏の本尊・千手観音立像(県指定・平安~春秋一週間のみご開帳)をはじめ、数多くの平安古仏が残されています。

それぞれの仏像は、出来が良いとか、美麗とかという世界からは、かなり縁遠い仏像ばかりです。
秘仏の千手観音像は、なかなかの出来のようですが、そのほかの平安古仏は、古様だが「田舎風とか、地方的」といったような言葉で理解されるものばかりです。
独特の、土臭さがするような空気感があります。

なかでも、とりわけ異形というか、奇形というか、独特の個性を主張している仏像が2躯あるのです。
薬師如来坐像と天部形立像です。
共に、指定文化財になっている訳ではなく、無指定の仏像です。

満願寺・薬師如来坐像

満願寺・薬師如来坐像.満願寺・薬師如来坐像
満願寺・薬師如来坐像

満願寺・天部形像

満願寺・天部形像.満願寺・天部形像
満願寺・天部形像

ごく一般的な見方からすると、
「一見古様だが、粗っぽい田舎作で造形が破綻しており、制作年代も下がるし造形レベルも低い」
ということになるのでしょう。

この2躯の像に注目したのは、井上正氏でした。
井上氏は、個性的な異貌表現、異常なボリューム感、強い精神性、霊威表現などに注目し、奈良時代の制作にさかのぼる可能性に言及しました。
帝釈天像とされる像は、初期の天部形「神像」ではないかと考えました。

私には、奈良時代の制作にさかのぼるとは思えませんが、特異な異貌表現、発散する霊威感には、惹かれるものがあります。
数年前にも、満願寺を訪れて、これらの像を拝したのですが、その時のインパクトが忘れられなくて、また来てしまいました。
じっくり眼近に拝しましたが、やはり得も言われぬ奇妙な魅力に、何故か惹き付けられてしまいました。

満願寺・薬師如来坐像の造形、空気感に似た坐像が、二つあります。
いずれも井上正氏が採り上げていますが、ご紹介しておきたいと思います。

和歌山県有田郡の法音寺・伝釈迦如来坐像、奈良県大和郡山市の西方寺・如来形坐像です。

和歌山県有田郡・法音寺・伝釈迦如来坐像
和歌山県有田郡・法音寺・伝釈迦如来坐像

奈良県大和郡山市・西方寺・如来形坐像
奈良県大和郡山市・西方寺・如来形坐像

写真をご覧いただいて、如何でしょうか?
醸し出す雰囲気に、同じ系譜のようなものを感じられるのではないかと思います。
特に、うるさいように並行に密集した、肩から腹にかけての衣文線は、満願寺像、西方寺像に共通しています。

私も、法音寺、西方寺を訪れたことがありますが、自然に、この満願寺の如来坐像のことが、自然に頭に浮かんできました。

あまり見かけないパターンの造形表現だと思います。
「満願寺の薬師如来坐像や、天部形像の造形表現は、どのような系譜から造り出されてきたのだろうか?」
「それにしても、不可思議な仏像達だなあ!」
そんな気持ちを抱きながら、満願寺を後にしました。



翌日は、奈良で天平会例会に参加です。
五劫院のそば、北御門町の小さなホテル「奈良倶楽部」に泊まりました。
集合は午後でしたので、午前中はホテルの近所をゆっくり散策です。

今年3月から一般公開された、水門町の入江泰吉旧宅を訪れました。
東大寺戒壇堂の石段を下って、住宅が並ぶ静かな道を往くと、右手に入江邸が見えてきます。

一般公開された入江泰吉旧宅
一般公開された入江泰吉旧宅

門には、「入江泰吉旧居」と墨書きされた真新しい横看板と表札が架けられていました。
ちょうど訪問者は私だけで、ボランティアの方に、大変親切に邸内の案内をいただきました。
戦後を代表する奈良の仏像写真家は、入江泰吉をおいてはなでしょう。
立派な邸宅というわけではありませんが、入念な心配りが行き届き、落ち着いた瀟洒な和風のたたずまいで、いかにも入江らしさを感じます。

入江泰吉旧宅~室内の様子
入江泰吉旧宅~室内の様子

この旧居を訪れると、入江という写真家は、奈良に生まれ、古き奈良を愛し、奈良の四季と共に生きた人、という思いがあらためてよぎってきました。


その足で、戒壇院の裏通りにある、「工場跡事務室」へ寄りました。
ご存じの方はお判りでしょうが、「工場跡事務室」というのは、カフェ・喫茶店なのです。
大正年間から昭和50年代まで「フトルミン」という乳酸菌飲料を作っていた工場の跡です。

カフェ「工場跡事務室」.工場跡事務室内と「フトルミン」
カフェ「工場跡事務室」と室内・フトルミン

20年以上も廃工場としてそのまま眠っていましたが、2009年から『工場跡事務室』というカフェとして営業しています。
レトロでなかなか雰囲気のあるカフェで、落ち着きます。
ここで軽食を取りました。

ところで、「フトルミン」というのは、その名の通り、これを飲むと太るという乳酸飲料なのです。
栄養失調対策とか栄養補給ということが、重要なテーマだった時代があったのだなと、飽食の世を生きる身には、何とも言えぬ感慨に浸ってしまいます。



午後からは、天平会例会に参加です。
杉崎貴英先生のご説明で、般若寺、五劫院を訪れました。

観仏先リスト②般若寺他

コスモス寺の名で有名な般若寺では、シンボル十三重石塔、本尊文殊菩薩像などを拝しました。

般若寺・十三重石塔
般若寺・十三重石塔

十三重の石塔から発見された、白鳳時代の金銅仏、伝阿弥陀像は白鳳展に出展中です。
この、小金銅仏の十三重石塔からの発見物語については、観仏日々帖「般若寺・伝阿弥陀如来像の発見物語」で紹介させていただきましので、ご覧いただければと思います。

般若寺・伝阿弥陀如来像
般若寺・伝阿弥陀如来像



【空前の名品勢揃い、奈良博「白鳳展」~白鳳という時代を考えさせられる】

そして、奈良国立博物館の「白鳳展」です。

奈良博「白鳳展」ポスター
奈良博「白鳳展」ポスター
本年最大のビッグイベントといえる、大展覧会です。
開催を心待ちにしていましたが、スタート二日目に来ることができました。

皆さんも、この「白鳳展」には行かれたことと思いますので、ここで出展仏像をご紹介するのは、止めておきます。

それにしても、よくぞこれだけの白鳳期の名品仏像を一堂に集められたものです。
これだけの白鳳仏像を、一度に鑑賞することができる機会は、もう当分はないでしょう。
少なくとも、私の元気なうちは、難しいのではと思ってしまいました。

ところで、これまで、「国立博物館」で「白鳳」という名を冠した展覧会はあったのでしょうか?
「白鳳」という仏教美術の時代の定義には、いろいろな考え方や異論があって、国立博物館では、使いにくいのかなとも思っていました。
「奈良博の白鳳展」は、白鳳時代をどのような視点で見ているのだろうかと、興味深く感じながら、鑑賞しました。

展覧会図録冒頭の主催者ご挨拶には、このように書かれていました。

「昨今、自鳳という言葉が使われる機会が少なくなりました。
美術様式に関する評価もいまだ流動的です。
しかし、白鳳が飛鳥時代前期や奈良時代とも違う独自の個性を持つ文化を築いた時代であったことは、この展覧会を通してご理解いただけるものと確信しております。」

びっくりしたのは、薬師寺金堂・薬師三尊の制作年代を、持統年間の制作、本薬師寺からの移坐と、断じていることでした。
非移坐、天平新鋳説が、結構有力なのではないかと思うのですが、「諸説あり議論のある処」といった解説ではなく、「白鳳時代、持統朝の制作」と決め打ちで、堂々と宣言されているのです。

薬師寺金堂・月光菩薩像
白鳳展に展示された薬師寺金堂・月光菩薩像
他の出展白鳳仏に較べ、突出して高度な完成度、成熟度を示す造形です


どちらが有力妥当か云々の話は、ちょっと置いておくとして、よく思い切って断じたなというのが、素直な感想です。

これまで、白鳳という時代は、「抒情的とか清明とか」という造形概念で括られる時代と云われてきたように思います。
しかし、この展覧会を観て、白鳳という時代は、
一つの時代様式概念で括るとか、時系列的発展的様式論や、制作技術の段階的発展論という概念では、とらえることができない時代であった。
多種多様なものが同居する、混沌たる時代であった。
そんな考え方も、必要なのではないかという風にも、強く感じたりもしました。


そんな思いを巡らせていると、直近の「奈良国立博物館だより95号」に掲載された、こんな記事が目に留まりました。
「白鳳展を終えて」と題する記事です。
白鳳展の彫刻担当として参加された、奈良博学芸部の岩井共二氏の執筆です。

ちょっと長くなりますが、引用紹介させていただきます。

この展覧会の企画に彫刻担当として参加して感じたことは、自鳳時代は「一筋縄ではいかない」という事であった。

飛鳥時代(7世紀前半)から奈良時代(8世紀)までの仏像の様式変遷は、ギリシア彫刻の様式変遷になぞらえて、古拙から古典の完成へという流れで説明されることがある。
そこでは、自鳳時代の様式は「過渡期」の様式と位置づけられる。
そのこと自体は誤りとは言えないが、ともすると、白鳳時代の金銅仏などを形容する、「若々しい」「瑞々しい」「可愛らしい」という言葉が、「未熟な」「発展途上」「稚拙な」という意味にとられ、相対的に自鳳美術の評価は低く貶められていたのではないだろうか。

白鳳期の典型とされる深大寺・釈迦如来倚像
白鳳期の典型とされる深大寺・釈迦如来倚像

白鳳期の典型とされる法隆寺・伝橘夫人念持仏阿弥陀三尊像
白鳳期の典型とされる法隆寺・伝橘夫人念持仏阿弥陀三尊像

本展には薬師寺金堂の月光菩薩立像が出陳された。
この像は白鳳説と、天平説とがある。
本展では、文献史料や様式の検討から自鳳時代に位置づけたが、高度に完成された写実性を持つこの像を自鳳展に出陳するということは、白鳳時代を古典以前の様式とする位置づけへのアンチテーゼでもあったように思う。

白鳳仏は、古拙から古典へという一本の直線の上にきれいに編年して並ばせることが出来ないものであった。
写実性が高いものほど新しいとは、必ずしも言いがたい。
中国や朝鮮半島から渡ってきた新旧様式の複合化した様式もあっただろうし、遣唐使が持ち帰った唐代の最新様式もあっただろう。
制作者も色々で、中央と地方のレベル格差も大きかっただろう。
白鳳は一筋縄では語れないのである。

担当していても、わからないことだらけであつた。
しかし、一堂に会して見ることで、新たな視点も浮かび上がってくるだろう。
近年使われなくなってきた「白鳳」という言葉が今後どう扱われるのかも含めて、この展覧会の意義が問われるのは、これからである。

今回の白鳳展を企画、主催された方々の、白鳳時代と云うものの見方、考え方が、ここに凝縮してまとめられているように思えます。

確かに、近年の仏像彫刻史の研究発展を見ると、ある時代を一つの様式概念で括るとか、仏像の造形を時系列的発展的様式論の中で考えていくのは、難しくなってきているように思えます。
多様性の同居、新旧の同居という視点が、ますます必要になってきているのでしょう。

そんな中で、ちょっとばかり違和感を覚えるのは、「白鳳」という時代呼称です。

昔読んだ本には、「政治史の時代区分」と「美術史の時代区分」は、一致するものではない。
美術史上の時代と云うのは、造形感覚、スタイルなどに、「一つの時代様式という概念」で整理できる時代のことを云うのだ。
そんなことが書いてあったように思います。

「白鳳」という時代呼称は、美術史の世界でもっぱら使われている呼称です。
飛鳥後期と呼ばれたり、奈良前期と呼ばれたりもしました。
「白鳳時代は存在するか?」という論争も、随分盛り上がったように覚えます。

一般に用いられる「白鳳時代」と云うのは、
単に大化の改新(645)から平城京遷都(710)までの区切られた時期のことを云うのか、
そこに美術史的な意味・意義のある特色、独自性を認めるから白鳳時代を設定するのか、
この辺りを、もっとはっきりさせておくことも必要な気がします。

重ねて言うと、
年代としての白鳳時代が先にあって、この時期を論じるのか、
この時期に仏教美術史上の特色を認めて、白鳳時代を設定するのか、
ということです。
前者の考え方であれば、「白鳳」という時代呼称を、わざわざ使う必要がないのではと思います。
仏教美術史上、新旧、各種要素が同居する「多様性が特色の時代」として、白鳳時代を設定するのでしょうか?

「白鳳展」を振り返っているはずが、話がちょっと変な方に行ってしまいました。

「白鳳時代とは、何なのだろうか?」

かねがね、頭の中の整理がついていませんでしたので、こんな話になってしまいました。
白鳳時代についての話が、長々、ダラダラ、退屈なものになってしまいました。
申し訳ありません。



[8月]

8月第一週は、毎年恒例の大学時代の同窓会。
折角、奈良まで出かけましたが、夜、しこたま飲んで泊まっただけでとなりました。

翌日は、同窓会メンバーで、宇治の平等院へ出かけました。

観仏先リスト③平等院

しばらく鳳凰堂の大改修で拝観できませんでしたが、昨年(2014年)4月から鳳凰堂内部の拝観が再開されました。
拝観再開後は、初めての訪問です。
これまで古色で渋い色だった鳳凰堂ですが、朱の色鮮やかな派手な姿に生まれ変わっていました。

修復成った平等院鳳凰堂
修復成った平等院鳳凰堂

定朝作の阿弥陀如来坐像の見事な出来で優美な姿は、言うまでもなく、これまでと変わらぬものでした。


同窓会解散後は、京都で妻と合流。

夕食は、夜の我が家の定番、木屋町四条の「しる幸」。

京都四条河原町・志る幸
京都四条河原町・志る幸

古くからの店ですが、何十年たっても食材、味のレベルが変わることがありません。
美味でリーズナブルプライス、お気に入りのお店です。
翌日の朝食、ランチも、これまた我が家の定番、寺町「進々堂」と木屋町御池の「レストラン・おがわ」

翌日は、久しぶりに銀閣寺道近くの、「白沙村荘」へ寄ってみました。

白沙村荘庭園
白沙村荘庭園

白沙村荘は日本画家、橋本関雪が、自身の制作を行うアトリエとした邸宅です。
15年か20年ぐらい行ってなかったと思うのですが、大変きれいに整備され、美術館までできているのにびっくりしました。
ゆったり風情のある庭をぶらぶら歩いていると、静かで落ち着いた気持ちになってきます。



【再度出動、奈良博「白鳳展」へ~一度だけでは勿体なくて】

8月下旬、再度奈良まで出動しました。
白鳳展は、一回だけでは、いくらなんでも勿体なく、物足りないということで、再度白鳳展に出かけたのです。

この日は、同好の方々と、奈良博の記念講演会に参加しました。
藤岡穣氏による「東アジアの中の白鳳仏」と題する公開講座です。

野中寺・丙寅銘弥勒半跏像
野中寺・丙寅銘弥勒半跏像
テーマは「東アジアの中の白鳳仏」だったのですが、講演の中身の半分以上というか、かなりの部分は、野中寺・弥勒菩薩半跏思惟像の制作年代についての考証のお話でした。
藤岡氏は、野中寺像が近年の偽名、擬古作ではないかとの疑問が提起されていた問題に対して、昨年、白鳳期(丙寅・666年)の制作の像とみなすのが妥当とする、詳細な研究論文を発表されたばかりです。
「野中寺弥勒菩薩像について(藤岡穣)ミューゼアム649号2014.4」

演題から期待した内容とはちょっと違ったのですが、野中寺・弥勒半跏像の制作年代の考証についての話を詳しく聞くことができ、勉強になりました。

野中寺弥勒半跏像の発見と制作年代議論については、観仏日々帖「野中寺・弥勒半跏像の発見とその後【その1】  【その2】」で紹介させていただいています。

本命の白鳳展については、じっくり鑑賞することができました。
おかげで、腰が痛くなってしまいました。

夜は、同好の方々と、西木辻町の「利光」で、心地よく飲りながらの、白鳳談議に熱が入ってしまいました。

奈良・利光
奈良・利光



翌日、翌々日は、同好の方々と、京都方面、奈良宇陀方面に、それぞれ観仏に出かけました。

京都方面の観仏先は、ご覧のとおりです。

観仏先リスト④慰称寺・安楽寺他


【知られざる秀作仏像に出会いビックリ!慰称寺・地蔵菩薩像~実は重文】

「慰称寺の地蔵菩薩像??   そんな仏像、聞いたことがないなあ・・・」

一緒に出かけた同好の方から、洛北・慰称寺の地蔵菩薩が、地蔵盆の8月23日に年に一度だけご開帳になる。
平安前期の制作という話もあるので、拝観に出かけようと誘われ、出かけたのでした。

ちょっと仏像関係本を探しても見当たりませんし、
「多分、無指定の仏像なのだろう。」
と思い、期待もせずに出かけたのでした。

慰称寺は、有名な高雄神護寺に行く最寄りバス停から、歩いて数分のところにありました。
地元の方々が地蔵盆で寄り合っておられ、お堂兼用の小さな収蔵庫の扉が開かれていました。

地蔵盆で地元の方々が寄り合う、慰称寺
地蔵盆で地元の方々が寄り合う、慰称寺

地蔵菩薩像のお姿を見て、ビックリしてしまいました。
素晴らしく見事な出来なのです。

慰称寺・地蔵菩薩像
慰称寺・地蔵菩薩像

1メートル弱の像ですが、造形バランス良さといい、肉付けの巧みさといい、彫技の冴えといい、どれをとっても一流です。
これだけの秀作を造れる腕のある仏師は、並みの仏師ではないだろうと思わせます。

出かける前に、やっと見つけた資料(京の古仏~京都市文化財ブックス3集)に、
「太秦広隆寺の埋木地蔵(重文・平安前期9C)の霊験譚が広まった鎌倉時代以降に、同像を忠実に模刻したものと考えられる。」
と、書いてありました。

広隆寺・地蔵菩薩像(埋木地蔵)~9C・重文
広隆寺・地蔵菩薩像(埋木地蔵)~9C・重文

確かに、パッと見ると、平安前期の造形表現のように感じますが、眼近にじっくり観ていくと、「鎌倉時代の模刻像」というのは、その通りだと思います。
鎌倉時代の空気感が、間違いなく漂っています。
ただ、鎌倉時代の模刻だとしても、「見事な出来の仏像」であることは、間違いありません。
これだけの出来栄えの模刻、そうザラにできるものではありません。
どうして、これだけの秀作仏像が、ほとんど知られずに埋もれているのだろうと、不思議に思ったのでした。

慰称寺・地蔵菩薩像
慰称寺・地蔵菩薩像
慰称寺・地蔵菩薩像


ところが、ところがです!

この「今年の観仏を振り返って」を書くので、もう一度よく調べてみたら、なんと慰称寺・地蔵菩薩像は、重要文化財に指定されていたのでした。
昭和10年(1935)4月30日に重要文化財(旧国宝)に指定されています。
そして、毎日新聞社刊「重要文化財第3巻・彫刻Ⅲ」には、制作年代が「平安時代」と記されているのです。

これまた、二度ビックリです。
平安前期らしいという情報も、もっともな話であったわけです。

「平安時代なのでしょうか? 鎌倉時代なのでしょうか?」

皆さん、どう思われるでしょうか?
私は、間違いなく鎌倉だと思いますが・・・・・・

それにしても、重要文化財に指定されている、これだけの秀作仏像が、ほとんどの仏像本に採り上げられていないのは、ますます不思議、謎のようにも思えます。
制作年代が曖昧だからなのでしょうか?

思いもかけず、興味深い、見事な秀作仏像に、出会うことができました。
この慰称寺・地蔵菩薩像、「観仏日々帖」で、いずれ改めてご紹介できればと思っております。



【これぞ、井上正ワールドの異形仏~安楽寺の諸像】


安楽寺は、北区大森東町といって、高雄神護寺あたりから、まだ車で20~30分北のほうへ行った、北山の奥の村落にあります。
途中、左右に北山杉の美しい杉林が、ずっと続きます。

安楽寺のお堂
安楽寺のお堂

ポツリと在るお堂に祀られた諸仏像は、まさに「異形仏」という名にふさわしい、異貌の仏像です。

安楽寺のお堂に祀られる諸像
安楽寺のお堂に祀られる諸像

この仏像を採り上げ、広く世に紹介したのは、井上正氏です。
井上氏は、薬師如来像の存在感、重量感、その他の像の強い霊威表現などに着目して、
「安楽寺に伝わる四躯の像は、奈良時代に、この山中の集落に根づいた古密教のありようを示す唯一の遺品であり、・・・・・・」
(「古仏」井上正著・1986年法蔵館刊所収)
と述べています。

写真をご覧いただくと、「異形・異貌」であることはお分かりいただけることと思います。
まさに、異形の古密教仏を主張する、井上正ワールドの仏像といえそうです。

安楽寺・薬師如来像

安楽寺・薬師如来像
安楽寺・薬師如来像


安楽寺・如来立像.安楽寺・如来立像
安楽寺・如来立像

安楽寺・天部形像
安楽寺・天部形像

安楽寺・僧形像
安楽寺・僧形像

皆さん、どのように感じられるでしょうか?
「アクの強い奇形の仏像」「粗略な地方仏」「田舎の仏像」「相当時代が下りそう」
こんな風に感じられる方も多いかと思います。

一方、そうはいっても、
「不可思議な存在感がある」「異形さが強い迫力になっている」「霊威表現そのものだ」「結構古様で、古い時代かもしれない」
このような印象を受けられる方もいらっしゃるでしょう。

確かに、普通の彫刻史の中では、取り上げられることがない「変わった仏像、変な仏像」です。
じかに拝すると、田舎風で粗略なのは間違いないのですが、アクの強い存在感、得も言われぬ迫力、不思議な霊威感といったものを、なぜか感じるのは事実です。

一度拝すると、何故か頭の中に妙にこびりついて、忘れ去ることができない仏像となってしまいます。

私は、8年前(2007)に、この仏像を初めて拝したのですが、それ以来、ずーっと心の中に澱のように引っかかって、妙に気になる仏像となっていました。
今回、もう一度訪ねてみたのですが、「妙に気になる仏像」という感覚は、さらに強くなったような気がします。
変な仏像ですが、なぜか強く惹かれるものを感じ、心に残るものを訴えかけてくる仏像達です。
また、いつか訪ねてみたくなってしまいました。

安楽寺の諸像、いずれ古仏探訪記で、ご紹介してみたいと思っています。



地蔵院・椿寺に寄りました。

北区、北野天満宮の近くにあります。
ここには、無指定ですが平安前期の十一面観音像があるというので、一度拝したいと思っていたのです。
お正月、お彼岸、地蔵盆の時、それぞれ数日開帳され、普段は拝せない秘仏になっています。
今日はちょうど地蔵盆、このタイミングを逃すわけにはいきません。

十一面観音像は、観音堂の奥の厨子に祀られています。

地蔵院椿寺の観音堂に祀られる十一面観音像
地蔵院椿寺・十一面観音像
地蔵院椿寺の観音堂に祀られる十一面観音像

ご拝観は観音堂の外から格子越しで、かなり遠く、間近に拝することはできませんでした。
ちょっと残念。
お姿のシルエットは、確かに平安前期風なのですが、近年の修復の手が相当入っているように見受けました。
見た目、きれいに整えられたお姿になっているのですが、当初の造形、彫り口を観てみたかったものです。


真夏の炎暑の中の、京都行脚、行軍でいささか疲れました。
宿の奈良まで戻って、近鉄奈良駅近くの居酒屋「おちゃけや」で一杯。

奈良・おちゃけや
奈良・おちゃけや

暑さで疲れた体に生ビールがしみ込んで、生き返りました。
安くて美味い居酒屋で、またまた大いに盛り上がりました。



【素朴な穏やかさが心に沁みとおる、大蔵寺・薬師如来像~白洲正子「かくれ里」の世界に浸る】

翌日は、奈良県の南部、宇陀の大蔵寺へ向かいました。

観仏先リスト⑤大蔵寺

目指すは、大蔵寺のご本尊、薬師如来像のご拝観です。

皆さんご存知の通りですが、大蔵寺の薬師如来像は、白洲正子氏の著書「かくれ里」で紹介され、世に知られるようになりました。
白洲正子は、「宇陀の大蔵寺」という章で、このように語っています。

「正直なところ、私は、大蔵寺の環境や建築に感心しても、中身の仏像にはあまり期待が持てなかった。
藤原時代の仏像にもピンからキリまである。
こんな山奥に、ろくな彫刻があるわけがないと、内心そう思っていたのだが、本堂の扉が開かれた時、それは見事に裏切られた。
実に美しい仏なのである。
といっても、特別すぐれた彫刻というのではなく、明らかに地方的作なのだが、そこにいうにいわれぬうぶさがあって、時代とか技術を超越したものが感じられる。
殊にお顔がいい。
推古仏に似た表情で、八尺八寸の長身から、無心に見おろしていられるのが、藤原初期よりずっと古様に見える。
・・・・・・・・
完全無欠な仏像より、私には、こういう仏像のほうが親しめる。」
(「かくれ里」1971年新潮社刊)

一度は、拝したいものと思っていたのですが、秘仏でなかなかご拝観がむつかしいといったようことも聞いていましたので、これまで訪ねてみようとしたことはなかったのです。
2011年に世田谷美術館で開かれた「白洲正子、神と仏、自然への祈り展」にも、地蔵像、天部像は出展されましたが、薬師如来像が出展されることはありませんでした。

最近、大蔵寺へ伺って拝観させていただいたという人の話を知り、早速、伺うこととしたのです。
大蔵寺さんのHPを拝見すると、単なる「拝観」は受け付けず、御祈願での秘仏本尊ご拝顔に限る旨書かれておりましたので、お願いのご連絡をして、恐る恐る同好の方と伺いました。

伺うと、ご住職は、お若い方でしたが、有難いことに、大変ご親切に受け入れていただき、丁寧なお話なども伺うことができました。

狭い山道を辿っていく、宇陀の山奥にある静かなお寺でした。
辺鄙ともいえるところで、まさに「かくれ里」という言葉がふさわしいような、佇まいです。
訪れる人も、そうはいないでしょう。

大蔵寺本堂
大蔵寺・大師堂
大蔵寺本堂(上)と大師堂(下)

杮(こけら)葺きの本堂、お堂の中は薄暗く、幽玄な雰囲気が漂う中、じっくりと薬師如来像に拝することができました。

大蔵寺・薬師如来像(「かくれ里」掲載写真)
大蔵寺・薬師如来像(「かくれ里」掲載写真)

薬師如来像については、白洲正子の「かくれ里」の文章に語りつくされていると思いますので、それ以上のことを綴る必要はないと思います。
語られている通りの、素朴な穏やかさが心に沁みとおるような仏さまでした。
心撃たれるものがありました。
ぜひとも、再訪したいものです。



[9月]


東京の展覧会を二つ見に行きました。

藤田美術館の至宝展ポスター.蔵王権現と修験の秘宝展ポスター

一つは、サントリー美術館で開かれた「藤田美術館の至宝~国宝曜変天目茶碗と日本の美展」です。
目玉は、曜変天目茶碗や交趾大亀香合といった焼き物、茶道具、書画骨董で、これはなかなか凄いものでした。
仏像では、法隆寺五重塔伝来塑像・羅漢像(奈良時代)、興福寺伝来の千体仏の一体(平安後期)、快慶と行快の墨書がある地蔵菩薩像などが展示されていました。

もう一つは、根津美術館で開催された「蔵王権現と修験の秘宝展」です。
数多くの蔵王権現像が出展されました。
吉野・金峯山寺の諸仏像と鳥取・三仏寺の蔵王権現諸像が多数展示されていました。
三仏寺の仁安3年(1168)造立、正本尊・蔵王権現像が出展されなかったのは、残念でした。

私の注目は、金峯山寺・釈迦如来坐像(県文・10C)でした。

金峯山寺・釈迦如来坐像
金峯山寺・釈迦如来坐像

近年行われた年輪年代測定法によると、制作年代が930年代半ばから後半頃であると推定されています。
吉野最古の木彫像とされますが、ちょっと不気味そうな面貌が、魅力的です。



【20年ぶりの秘仏開帳に、静岡まで日帰り出動~智満寺・千手観音像】

静岡県島田市にある智満寺の秘仏本尊・千手観音立像が、20年ぶりに開帳されました。

智満寺・秘仏本尊千手観音立像ご開帳ポスター
智満寺本尊・千手観音像は、厳重秘仏として知られ、60年に一度の御開帳となっています。
今回は、前回開帳から20年目に当たりますが、このたび新たに制作された「頼朝杉・弥勒菩薩像」が完成安置されたことを記念し、また本年が智満寺本堂を再建した徳川家康公の四百回忌に当たることから、本尊が特別ご開帳されることになったということです。

智満寺本尊は、平安中期の制作といわれ、写真で見ると、なかなかの惹きつける魅力があるように感じられます。
何とか一度は拝したいものと念じていた仏像なのです。

この機会を逃してはならじと、同好の方と、頑張って、東京から車で日帰りで島田市まで出かけたのでした。
あいにくの雨、悪天候でしたが、参拝の方が結構いらっしゃいました。

智満寺・参道の階段
智満寺本堂
智満寺・参道の階段と本堂

ご本尊は、明るい本堂内の立派な厨子の中に祀られていましたが、比較的眼近に拝することができました。

像高185センチ、立派な千手観音です。

智満寺本尊・千手観音像
智満寺本尊・千手観音像

丸顔で優しそうな穏やかなお顔ですが、全体的には堂々とした、重量感も感じさせます。
大きく横に広がった脇手が、堂々とした感じを際立たせているようです。
左右の真手に大きく広がった衣をかけているスタイルは、あまり見かけたことがありません。
双眼鏡で見ると、お顔全体や首のあたりは、荒彫り風のノミ痕を残しています
平安中期の制作というのは、納得というところです。

智満寺本尊・千手観音像
智満寺本尊・千手観音像

なかなかの秀作だと思いました。
雨の中、東京から日帰りで出かけてきた値打ちは十分ありました。

堂内には、近年、自然倒木した天然記念物「頼朝杉」の材から彫り出した、江里康慧(えりこうけい)仏師作の、弥勒菩薩坐像も安置されていました。
約2年を要して、優美なお姿に截金装飾が施された崇高な弥勒菩薩像となったということです。



「今年の観仏を振り返って」、7~9月の観仏先ご紹介は、ここまでです。

次回は、10月~12月の観仏を振り返らせていただきます。


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