廣智寺の観音菩薩像。
この仏像は、是非、皆さんにご紹介しておきたい、興味深い仏像です。
あまり知られていませんが、魅力あふれる仏像です。
大変出来の良い、見事な仏像だと思います。
実は、廣智寺の観音立像のことは、8年前までは、その存在を全く知りませんでした。
8年前、平成18年(2006年)に、同好の方数名で「摂津の古仏探訪」に出かけました。
いくつもの摂津の古仏を拝しましたが、その折、目当てのお寺のご都合がつかず、空いてしまった時間の埋め草に訪ねることになったのが、広智寺なのでした。
大阪府の指定文化財に指定(平成5年・1993指定)されている古仏があるというので、訪ねてみたのです。
まったくノーマークの仏像でした。
廣智寺の本堂に祀られたこの仏像を眼前に拝した時、思わず「オゥー!」という声を上げてしまいました。
その見事さに、本当に驚いたのです。
「これはすごい。これだけの古像が、どうして知られていないのだろうか?」
と、びっくりするとともに、見惚れてしまいました。
皆さん、写真をご覧になった、印象はいかがでしょうか?
「大変出来の良い、一流の腕の手による仏像だ。」
「ボリューム感充分、相当古い時期に造られた一木彫に違いない。」
きっと、こんな印象を感じられたのではないでしょうか。
像高は、ほぼ等身の164.5cm。
カヤ材の一木彫で、内刳りはありません。
全体の姿は、ボリューム感豊かで、堂々たるものです。
どっしりとした重量感と、きりっとした締まりある緊張感を併せ持っているようです。
真横からは拝せませんが、かなりの奥行きがあるように思われ、相当の肥満体といっても良い、太造りです。
とりわけ、肩から胸にかけては、肩太りで豊満でむっちりした肉付きですが、肥満の緩みとか弛みといったものがなく、締りと緊張感ある造形に仕上がっています。
一番の魅力は、お顔の造形でしょう。
ちょっと下膨れで、引き締まった口唇、真ん中に寄せたキリリとした目鼻立ちは、クォリティー高く見事なものです。
惹きつけるものがあります。
面貌や上半身の体躯の造形をみると、唐招提寺講堂の伝衆宝王菩薩像や伝獅子吼菩薩像の造形や雰囲気を思い起こします。
大陸風のエキゾチックな雰囲気を醸し出しているところが、そのように感じさせるのでしょう。
宝菩提院の菩薩踏下像(国宝)や、道明寺の十一面観音立像(国宝)を思い起こされた方も、結構いらっしゃるのではないかと思います。
宝菩提院像、道明寺像は、
・唐渡来かと思わせるエキゾチックな風貌、
・しつこいほどの粘りのある衣文表現、
・彫技の冴えを競い誇るかのような鋭い彫口
が印象的です。
何やらヌメッとしたというか、ねっとりした粘着質の感覚表現は、唐代彫刻特有のもののように思えます。
廣智寺像をみると、頭上の髻の結い方は、宝菩提院像にそっくりですし、幅の広い天冠台は道明寺像に類似しています。
また、瞳に石か練物を嵌入していたと思われますが、この点も両像と同じです。
それよりも何よりも、宝菩提院像、道明寺像の持つ、中国風というか唐風の匂いがぷんぷんとする、独特の雰囲気、空気感を、廣智寺像にも色濃く感じられることと思います。
異国風の表現というのでしょう。
廣智寺観音像の衣文表現や彫技の冴えの程は、像の表面が相当傷んですり減っているため、良く判りませんが、宝菩提院像や道明寺像を思わせるようなものであったのかもしれません。
唐招提寺の伝衆宝王菩薩像・伝獅子吼菩薩像は、奈良時代後期の制作です。
宝菩提院像、道明寺像は、9世紀半ば頃の作ともいわれますが、近年、長岡京時代(延暦3~13年・784~794)か、それに近い平安初期の制作という見方もされています。
これをそのまま引き直せば、廣智寺観音像も、奈良時代末期から平安時代初期(8末~9世紀)の制作と考えられるということになります。
皆さん、どのように感じられるでしょうか?
いずれにせよ、廣智寺多臂観音菩薩立像は、相当の修理の手は入っていますが、大変レベルの高い造形の仏像であることには間違いなく、当代一流の仏工の手によるものであろうと思われます。
その、異国風のエキゾチックな造形表現は、この像が渡来系か、唐渡来の彫刻技術を受け継いだ仏工の手による像であることを物語っているのでしょう。
廣智寺は、大阪と京都のちょうど中間点あたり、高槻市天神町に在ります。
古代の摂津の国の地です。
JR高槻駅から真北へ500メートルほど、歩いて6~7分の市街地の真ん中にあります。
階段を上っていくと山門があり、その姿を見ると禅宗の寺院であることが、すぐにわかります。
曇華山広智寺といい、黄檗宗の寺院です。
観音像は、本堂の大きな厨子の中に祀られています。
観音様のご拝観については、事前に連絡を入れてお願いすると、ご都合がつく限り気軽にご了解いただけるようです。
私は、平成18年と今年(平成26年)の二度、お伺いしましたが、いずれの時も快く拝観のご了解をいただきました。
堂内は、少々暗いですが、観音像の祀られている厨子の中は適度の照明がされており、眼近にじっくりと拝することができます。
この像が、かつてあまり知られていなかったのは、像の痛みが相当に激しくその尊容を著しく損じていたことにあるようです。
廣智寺さんで拝見した修理前の写真を見ると、多臂の腕は皆亡くなってしまっており、肉身部には後補の金泥が塗られていたとのことです。
余りに痛みが激しいため、平成3~5年(1991~1993)に、美術院国宝修理所で解体修理が行われました。
修理前は、六臂の十一面観音に改変されていましたが、解体修理の結果、八臂の観音菩薩立像であることが判明しました。
修復にあたっては、八臂に戻され腕・手先が新たに造られるとともに、足先も後補されました。
一面八臂の「不空羂索観音」を意識して、修復されたとのことです。
観音像は、この修理修復で、すっかり像容を一新し、その堂々たる見事な造形がよみがえることになりました。
そして、奈良末平安初期の制作、唐風の優れた彫技を思わせる仏像であることが注目されるようになったのではないかと思います。
平成5年(1993)当時の、美術院での修理結果を伝えるとともに、奈良時代にさかのぼりうる古像であることを報じる新聞記事を、ご紹介します。
見出しには、
「広智寺・十一面観音。実は不空羂索観音だった!」
「解体修理で判明、重文級・・・奈良時代にさかのぼる!」
と書かれています。
井上正氏の、次のようなコメントが載せられています。
「衣の衣文などから、奈良時代にさかのぼるのではないか。
近くにある霊松寺は、奈良時代に活躍した僧、行基開創の伝承を持っており、行基に関わる像とも考えられる。」
井上氏は、行基に関わる像とのコメントですが、どうなのでしょうか?
これは、ちょっと無理筋のような気がします・・・・・・
ただ、修理結果の知見によると、相当の古像であることは間違いないような感じです。
この像の、来歴は辿れるのでしょうか?
元々不空羂索観音なのか?
という問題についても、気になります。
この点について、浅見隆介氏は、このように述べられています。
本像が、平成13年(2001)、「天神様の美術展」(大阪市立美術館)に出展された時の、図録の解説です。
近年の修理を経て、現在、不空羂索観音像としてまつられるが、額に第三眼がないこと、鹿皮をまとわないことから、その確証はない。
髻の形は宝菩提院の菩薩踏下像、醍醐寺の聖観音菩薩立像に、天冠台の形は道明寺十一面観音立像などに通じる。
一木造りで内刳りを施さず、瞳に黒い石などを嵌めていたらしい。
制作は、奈良時代末から平安時代初頭とみられ、地理的に長岡京と近いことが興味を引く。」
もともと不空羂索観音であったかどうかは、さて置くとして、廣智寺観音像は、井上氏の云う行基関連というよりは、天満宮に関わるとみたほうが、納得的に思えます。
廣智寺は江戸時代の開創ですので、観音像は隣接の上宮天満宮から移されたことは間違いないようです。
しかし、天満宮は、903年に没した菅原道真を祀る神社です。
観音像は、それよりもはるかに古い年代の制作と考えられますので、つじつまが合いません。
ただ、上宮天満宮は、菅原道真を祀るとともに、その始祖である野見宿禰をともに祀っています。
また、近接して、菅原氏・土師氏の始祖・野見宿禰を祀った野身神社があります。
この野身神社は、野見宿禰の墳墓と伝わる小墳丘(宿禰塚古墳)の上に位置しています。
当地は土師氏に関わる地であり、この観音像は、土師氏由来の仏像として、古来、当地に伝わってきた古像ではないかという見方もあるようです。
そのように見てみると、当地に奈良末・平安初期にさかのぼり得る古像が残されていることも、土師氏ゆかりの像と考えれば、納得できるように思えてきます。
ご存じのことかと思いますが、土師氏は野見宿禰を祖先とする有力豪族です。
土師氏は、桓武天皇にカバネを与えられ、大江氏・菅原氏・秋篠氏に分かれていきます。
「野見宿禰⇒土師氏⇒菅原氏」は、一本の系譜でつながっており、天神信仰は土師氏につながっていくのです。
因みに、土師氏の氏寺は、国宝・十一面観音像を祀る道明寺で、道明寺天満宮が隣接しています。
ここまで、平安初期以前にさかのぼる可能性のある、廣智寺観音像が、この摂津・高槻の地に遺されている訳について、想像を逞しくしてきました。
ここで、廣智寺観音像の異国風、唐風といった「エキゾチックな造形表現」について、もう少し深めて考えてみたいと思います。
二つの視点から、見てみたいと思います。
一つは、瞳に石や練物などの異物を嵌入するという、特異な造形表現についてです。
もう一つは、桓武天皇・土師氏・紀氏の血脈トライアングルと長岡京遷都に関わる仏像という観点です。
先ず、瞳に異物を嵌め込んだ木彫像についてです。
廣智寺観音像のほかには、どのような例があるのでしょうか?
主なものを、ピックアップしてリストにしてみました。
奈良時代の塑像や乾漆像には、黒い石やガラス玉を瞳に使った例が多くあるのは、ご存じのとおりですが、奈良~平安期の木彫像で、瞳を嵌め込んだ例はそう多くはなく、主には次のようなものが見られます。
ご覧いただくと、一目瞭然ですが、どの仏像も中国(唐)からの渡来像か、中国風(唐風)の匂いがプンプンとするエキゾチックな仏像ばかりです。
元興寺薬師像、新薬師寺薬師像、神護寺薬師像をはじめとした、いわゆる奈良末平安前期の有名どころの一木彫像の表現、空気感と一線を画する処があると思います。
木彫像の瞳に何かを嵌入するという技法は、中国渡来(系)の像特有にみられるもののようです。
宝菩提院像や法華寺像などは、唐からの渡来像ではないかとの考え方もあるようです。
いずれにせよこれらの像は、わが国で製作された像だとしても、唐代木彫の技術を持った渡来系工人の技術をそのまま受け継いだ仏工の手による像なのは間違いないでしょう。
廣智寺観音像も、失われてしまってはいますが、瞳が嵌入されていました。
この点だけを見ても、広智寺の観音像が唐渡来風一木彫の範疇に属する仏像であることが、明らかなのだと思います。
もう一つ、廣智寺観音像の制作背景について、桓武天皇、長岡京、土師氏といったキーワードから、想像を逞しくしてみたいと思います。
先ほど、廣智寺観音像は、高槻の地に縁ある豪族、土師氏ゆかりの古像として、上宮八幡宮の本地仏という形で伝わってきた可能性があることについてふれました。
また一方、浅見龍介氏は、
「土師氏」とか「長岡京」というキーワードからは、道明寺・十一面観音像、宝菩提院・菩薩踏下像のことが、すぐに思い浮かんできます。
いずれの像も、廣智寺観音像と同系統の造形表現、雰囲気を持つ仏像です。
道明寺は、菅原道真の祖先である土師氏によって創建された寺院です。
古くは土師寺と呼ばれていました。
道明寺天満宮が隣接するのも、廣智寺のケースを連想させます。
そして十一面観音像は、道真の自刻像と伝えられています。
制作年代は、9世紀半ばごろではといわれてきましたが、唐風そのものの像で、平安初期にさかのぼるという見方もされるようになっています。
宝菩提院は、長岡京内の北端に在った願徳寺の後身寺院といわれています。
願徳寺は、7世紀創建の秦氏の関係寺院でした。
宝菩提院は、鎌倉時代(13世紀)にこの土地に、願徳寺の後身寺院として再興されたお寺なのです。
現在は、大原野の地に移転されています。
宝菩提院・菩薩踏下像は、元々この長岡京内に在った願徳寺の安置仏で、桓武天皇による長岡京遷都の延暦3年(784)からの10年間に制作されたものではないかという考えが、有力になってきています。
南都・平城京の地を去って、長岡京に都を移し、新たなる時代の風を吹き込む新様式で造られた仏像ということになるのでしょうか。
それ故に、南都の旧来の仏工ではなく、唐渡来の中国工人かその系譜の仏工によって、唐風色濃いエキゾチックな仏像が造られたのかもしれません。
そしてまた、長岡京に都を移した桓武天皇の母方の祖母は土師氏の出身、父方の祖母は紀氏の出身なのです。
系図を見ると、ご覧のとおりです。
父方の祖母、紀氏のゆかりの寺である、奈良・璉城寺にも唐風の色濃い観音菩薩立像が残されています。
こうしてみてみると、桓武天皇、土師氏、紀氏という血脈のトライアングルと、新京・長岡京に関わるとみられる仏像に、中国風・唐風のエキゾチックな造形表現の仏像が残されているような気がします。
これらに関係しそうな仏像をまとめると、次のようなものです。
いずれの仏像も、唐風のエキゾチックなにおいプンプンの木彫像です。
技法的な面もありますが、何やらねっとりとした粘着的な感覚表現は、唐代彫刻特有の空気感を感じさせるものばかりです。
秋篠寺・十一面観音像は、そこまでのエキゾチックさは感じさせませんが、彫技の冴えをこれでもかと誇るかの、煩雑なまでのうねりと粘りのある衣文表現は、唐風そのものといえるでしょう。
桓武天皇の、長岡京遷都・平安京遷都の一つの動機は、朝廷の保護の下、力を持ちすぎた奈良仏教の影響を排除することにあったといわれています。
そのことが、桓武天皇周辺に関わりそうな仏像に、いわゆる奈良風の系譜にある仏像があまり見られず、唐風のエキゾチックな表現の仏像が目立つということと、関係しているということになるのでしょうか?
「桓武天皇と周辺氏族、長岡京遷都」という括りと、
「唐風渡来新様の色濃い仏像群」には、
結構深いかかわりがあるような気がしてきました。
都合の良さそうな話ばかりをピックアップして、ストーリーを繋げていったような感じもなきにしもあらずですが、ちょっと大胆に想像を逞しくしてみました。
このように考えると、廣智寺観音像の仏教彫刻史的上の意味や位置づけは、ずいぶん重みを増してくるように思えます。
まことに興味深い、唐風一木彫像だと云えるのでしょう。
廣智寺を訪ね、思いもかけず見事な観音菩薩像を拝することができました。
そのことをきっかけに、長岡京時代・平安初期の「唐風色濃いエキゾチックな表現の仏像」について、あれこれ考えてみることができました。
皆さん、拝されると、きっと
「なかなかの一流の一木彫像」「興味深い仏像」
だと、感じられることと思います。
是非、一度、廣智寺を訪ねて見られることを、お勧めします。