【その1】では、
古代の木彫仏の用材の樹種が、時代とともにどのように変遷してきたか?
クスノキ⇒⇒カヤ⇒⇒ヒノキと変遷していく事由について、どの様に考えられているか?
について振り返ってみました。
そろそろ、「木彫仏の実像と変遷」の著者、本間紀夫氏の考え方、主張を見てみたいと思います。
私が、本間氏の考えに、大いに興味、関心を持ったのは、本間氏が彫刻家、仏師といった制作者、実技者であるからです。
【「木彫仏の実像と変遷」の用材に関する詳しい目次】
本間氏は、この問題について、自著「木彫仏の実像と変遷」の中で、「木彫仏の構造と用材」という大項目を立てて、自論を展開しています。
約140ページにわたって、大変詳しく、用材問題を主に論じられています。
その部分の、詳しい目次をご紹介すると、次のようなものになっています。
この目次に挙げられた項立てを読んでいくと、どの様な話が展開されているのか、ご想像がつくことと思います。
私は、大変興味深く惹きつけられて読みました。
というのも、用材・樹種の問題を、
「木彫仏を彫る実技者(仏師)の立場に立てば、どの様な樹種を、良材、適材として選んだのであろうか?」
という視点で、
彫りやすい樹種、求められる木彫表現に相応しい樹種は何か?
について、述べられているからです。
これまでの、木彫仏の樹種についての議論は、
「古来、クスノキは神木、霊木と見做されていた。」
「古代の神仏習合信仰」や、「中国渡来の経典の縛り」に注目して、「用材樹種に対する宗教的視点」から論じられているように思います。
この考え方にたてば、
他の樹種を用いて彫ることも選択肢として十分可能であったけれども、
そのなかから宗教的な事由によって、クスノキやカヤを選択した。
たしかに、こうした考え方には「なるほど!」と納得するのですが、
一方で、
「ちょっと、難しく考えすぎていないだろうか?」
「それぞれの時代に、木彫仏を彫るのに、一番彫りやすい樹種、表現に適した樹種を、技術者が選択しただけなのではないのだろうか?」
「クスノキ、カヤが、その時、最適な樹種だったということなのかもしれない。」
といった疑問です。
【本間氏の考え方の紹介と、私の感想】
本間氏の著作、「木彫仏の実像と変遷」は、こうした私の疑問に答えるかのように、実技者の立場から、樹種の選択事由について論じられているのです。
詳しくご紹介をしていると、キリがなく膨大なものになってしまいますので、エッセンスのみをご紹介したいと思います。
【飛鳥時代のクスノキ材の選択について】
まずは、飛鳥時代の木彫仏の用材に、クスノキが選択された理由です。
このように述べられています。
・飛鳥時代のクスノキ使用は、「日本書紀に云う処の有用材4材」のなかで、唯一、彫刻に向く広葉樹であったことが、選択の決め手となった。
(有用材4材とは、ヒノキ、槇、杉、クスノキ~クスノキ以外は針葉樹~)
・中国江南では、木彫仏はクスノキ材で多く造られていたと思われ、たまたま、中国でのクスノキ使用と重なったために様式と用材を共に受容した形であるが、もし中国の用材がクスノキでなくとも、我が国ではクスノキが用いられた可能性が高いと考えられる。
・ヒノキは、当時の技術では、縦の木目に沿って割り放ちやすく、建築材に最適であった。
即ち、割裂性と耐久性が良く、建築材、構造材として用いられた。
・一方、クスノキは割裂性が悪く、材質は適度の軟度を持ち彫りやすい。
質感もあり、彫刻材としては優れた材であると云える。
・飛鳥時代、香気のある檀木の代用材として、クスノキが香木として選択されたという可能性は低いと思われる。
・その証拠に、飛鳥時代には、仏像本体以外でも、彫刻部分(台座蓮弁など)にはクスノキを用いている。
台座や厨子本体はヒノキ材だが、蓮弁など彫刻部分はクスノキ材を用いている。
・奈良時代以降、クスノキ材が使われなくなるのは、用材の地域内の枯渇と、遷都に伴う造像方式の転換(大量造仏可能な塑造、乾漆像への転換)が大きな要因であろう。
ここで本間氏が強調しているのは、
飛鳥時代有用材とされていた4材のなかでは、彫刻材として使えるのは広葉樹であるクスノキしかなかった。
ヒノキ(針葉樹)は、建築材としては優れるが、縦割れしやすく、彫刻には向いていなかっった。
ということではないかと思います。
私も、これに似た疑問を、ずっと持っていました。
それは、仏像本体だけではなく、台座蓮弁などにも、クスノキが使われているということです。
クスノキが、「霊木であるとか、香木であるから、仏像に用いられた」というのなら、仏像以外の所に、クスノキを使う必要がないのではないかと思ったからです。
・クスノキを使ったのは、香木とか、霊性とかとは関係なく、当時の木彫技術でカーブした曲面を彫り出すには、広葉樹(散孔材~半環孔材)であるクスノキが、技術的に最適であったためではないか?
・針葉樹(ヒノキなど)は、建築材としては適するが、木目に沿って縦割れしやすく、当時の刃物の鋭利さでは彫刻には向いていなかったのでは?
・だから、仏像本体に限らず、蓮弁などカーブした彫刻が必要な処は、彫りやすく縦割れしないクスノキを使っているのでは?
こんな私の疑問に、答えてくれたような気がしました。
また、クスノキという材は、一見硬い材のように見えますが、適度な軟度を持つ彫りやすい材だそうです。
飛鳥時代の鑿(ノミ)は、まだまだ進んだものではなく、鋭さや切れ味も後の時代に較べれば鈍いものであったようです。
クスノキは、木肌の緻密さという面には欠け、粗めの肌になるようですが、飛鳥時代の刃物の切れ味で、彫刻に最も適した材が、クスノキであったということなのでしょうか。
【一木彫時代のカヤ材の選択について】
次に、奈良時代後半から平安前期に「カヤの時代」に入ることについて、本間氏はどのように考えているのでしょうか?
エッセンスをまとめると、このように述べられています。
・奈良後期、平安前期の木彫仏に、カヤ材が用いられたのは、一木素木系木彫像が台頭してくる時代の要請に対応して、必然的に選択された用材であるからである。
・カヤ材は、我が国の用材の中では、緻密で粘り気があり、強い存在感、ボリューム感の表現が出来る樹種で、一木素木木彫を彫るには最適材である。
・渡来経典「十一面神呪心経義疏」に説く、白檀の代用材として、我が国ではカヤが選択された、唐招提寺などの中国工人がカヤを選択した、という考え方には諸事由から賛同できない。
・乾漆像、塑像などの捻塑系全盛の時代から、日本霊異記にあるように、民間において一木素木系の木彫造仏が行われていたとみるべきであり、その用材としてわが国特有の材であるカヤが、用いられていた。
・カヤが、仏像用材として奈良末・平安初期に突然現れたとは考えられない。
この時期に至り、マグマが噴出したかのようなカヤ材の造像は、カヤ・一木素木像の底流が次第に大きくなりながら上昇していった可能性を強く感じさせる。
奈良後期から、一木素木像が一気に台頭してくるに際し、唐招提寺、大安寺の木彫にカヤが用いられているのも、日本のカヤ・一木素木像の底流が表舞台に出てきたものであろう。
・ヒノキ材は、木心乾漆像の木心材として用いられていたが、当時は、あくまでも構造材としての位置づけで使われており、ヒノキが一木彫の最適材、良材として選択されることは無かった。
木屎漆のモデリングを行った乾漆系一木彫像(観心寺如意輪観音像など)においても、木彫材としてのカヤ材が多く用いられることになったと考えられる。
まとめが上手くなくて、ちょっとややこしいかも知れません。
本間氏の考え方で注目するのは、ヒノキはいつの時代にも木彫材としては、良材・最適材ではないと主張されていることです。
本間氏は、一木素木系木彫像と呼んでいますが、「木彫らしい木彫用材」というのは、存在感のある質量のある用材で彫られたものだと主張しています。
・我が国では、質量感、存在感のある用材は、カヤと広葉樹(カツラ、サクラ、ケヤキ、クスノキなど)なのであって、それ故、平安前期までの一木彫像は、これらの用材樹種が選ばれている。
・ヒノキは質量感に弱点があり、肌理細かく美しい材ではあるが、質量感に欠けるため、素木系の主材とはなり得なかったのだ。
と述べています。
この考えを読んでいると、同じ実技者の辻本干也氏の発言を、思い出しました。
辻本氏は、美術院国宝修理所で、長らく国宝・重文仏像の修理修復にあたっていた人です。
青山茂氏との対談共著「南都の匠 仏像再見」で、ヒノキという用材の特性について、このように語っています。
「ヒノキのような針葉樹よりは、クスノキやケヤキのような広葉樹材を用いた彫刻のほうがはるかにボリュームがありますね。
ですからヒノキを使って彫ったものは、どうしても表面に着色しなければいけないですし・・・・
(今の道具は)ヒノキに都合がよいように薄刃につくられていますし、…ヒノキの方が彫りやすいです。
特に藤原期の彫り方、盛上ってくる感じが強いボリュームじゃなしに、静かで上品な彫り方にたいしては、ヒノキで彫るのに、・・・・ずっと彫りやすくできています。
クスノキを彫るとなると時間がかかります。・・・・
ヒノキの場合は、・・・漆をかけたり、金箔を押さないことには、どうしてもボリュームが強く出ないんです。
クスノキの場合は、タッチなんかもあまり気にしなくても、木地のままでグッと押し出してきます。
ヒノキの出来上がった像を見たら、なにか上にかぶせないとボリュームが出ない。」
「だから平安前期の密教系の木彫の場合には、カヤとかサクラとか、檀木を使いますね。
ヒノキではないですよ。
やはりなかからグッとボリュームが出てくる材質を選んでいます。
(貞観あたりは)カヤを沢山使っていますね。
カヤの方が、目もつんでますし、ボリュームも出ますね。ヒノキはきれいですけれども、なにかフワッと浮くような感じがしますね。
私はこの頃つくづく思うんですけど、ヒノキが沢山あったからという理由でヒノキに落ち着いたんでしょうが、本当に彫刻として木を選ぶんだったら、ヒノキでない材を選ぶほうがよかったのではないかと思います。」
ヒノキは質量感が乏しくて、漆や金箔を施すというコーティングをしないと、木彫としてのボリューム感が出ないというのを、仏師の実感として語っています。
本間氏も、辻本氏も、実技者、製作者の立場からは、ヒノキは彫刻材としては最良材ではなく、カヤ、サクラ、ケヤキといった用材の方が、彫刻材として優れているのだと語っているのです。
この話は、大変考えさせられる話で、我々は、ヒノキと云えば、何と云っても最良の用材で、ヒノキこそ「日本の木の文化」の象徴というふうに思い込んでいますが、木彫の世界では、そうではないようです。
本間氏は
「従来の彫刻史では、ヒノキとカヤの区別をさほど重要視せず、カヤはヒノキの代用材位に位置付けられていた。」
と記していますが、研究者の論考を読んでいると、確かにそのように思えます。
辻本氏の話は、S54(1979)に語られたもので、近年「カヤの時代の発見」とでもいえる金子氏や岩佐氏の研究発表がなされるずっと以前の話です。
実技制作の立場にある人は、どんな用材樹種が木彫仏に使われているのかということを、良く知っていたということなのでしょう。
我々は、奈良後期以降の一木彫用材として、ヒノキ材を用いるのが自然の流れであったのにもかかわらず、わざわざ流れに反して意図的にカヤ材を選択したような感じに考えてしまいがちのように思いますが、
実技者の立場に立てば、カヤ材を選ぶ方が自然の流れであったと云えそうです。
もうひとつの論点として、唐招提寺の工人など中国の工人がカヤ材を選択したのではないかという考え方があります。
「十一面神呪心経義疏」に説く、白檀の代用材「栢木」にカヤを宛てたという話です。
本間氏は、中国の工人が木彫用材に針葉樹材であるカヤを選択するというのは、考えられないのではないかと論じています。
・中国における木彫仏の用材は硬木の広葉樹で、中国からの請来または輸入材で彫られたと考えられる木彫像、すなわち唐招提寺梵天・帝釈天、東寺・五大虚空蔵菩薩像、東寺・兜跋毘沙門天像、清凉寺釈迦如来立像などは、全て硬木の広葉樹で造られている。
・また、「十一面神呪心経義疏」は白檀の十一面観音についてのみ説いたものであって、唐招提寺木彫群は、必ずしもこうした檀像と結びつかない。
このように考え、唐招提寺木彫群が白檀代用の栢木としてカヤ材を選択し、そのことにより、我が国一木彫にカヤ材が選択されるようになったという議論には、否定的です。
本間氏の、一木素木系木彫に、カヤ材が選択された訳の考え方については、このくらいにしておきたいと思います。
【カヤ材からヒノキ材への転換について】
最後に、平安中期以降、ヒノキ材に転換していく事由についての本間氏の考え方をご紹介したいと思います。
・カヤもしくは広葉樹が主流であった木彫は、平安中後期にヒノキ材に大転換する。
![]() |
平等院・阿弥陀如来~寄木造構造図 |
・寄木造の木彫像には、ヒノキ材が最適であった。
・寄木造は、大きさの異なる複数材から同一寸法の製材の必要性を迫られることも多く、楔を入れて割放す当時の製材法では、割裂性の良さは必須の条件であった。
・優れた建材から発し、彫刻材へ転身したヒノキは、まさにその要求に叶った材であった。
また、寄木造は木心乾漆系の流れをひくものであり、その心木として生まれ、優れた彫刻材として生長した針葉樹のヒノキが選ばれてゆくのは必然の流れであった。
このように述べています。
カヤ材や広葉樹からヒノキ材への転換について、実技者の立場から語ったこの考え方は、結構「なるほど」と思ってしまいます。
先程の辻本氏の「ヒノキ材の特性についての話」にもあるように、カヤ・広葉樹とヒノキには特性に本質的な差があり、一木彫から寄木造へという造像技法や木彫表現の本質的転換に対応して、ヒノキ材に転換していったという考え方は、納得的に感じます。
また、ヒノキの質量感の乏しさという問題も、素木像では適材ではなくとも、漆箔というコーティングがなされる寄木造の木彫になることによって、克服され適材になったのでしょう。
藤原彫刻は、平等院阿弥陀像にみられるように、「優美な穏やかさ」を追求する時代です。
金色の仏像ですが、そこには軽やかさやまろやかさを感じこそすれ、硬質感や重量感、塊量感は、微塵も感じられません。
それは、ヒノキという材の特質と、寄木造という技法が、なせる技によるに違いないような気がします。
ヒノキという材の「繊細・柔軟なやわらかさという特質」を活かして、「軽やかで、優美な表現を可能にした」のではないのでしょうか?
こうして見てみると、
「クスノキの時代」から「カヤの時代へ」そして「ヒノキの時代」へ
と変遷していった我が国の古代の木彫仏の用材は、それぞれの持つ特質、特性の差が、その変遷に大きくかかわっているようです。
本間氏は、本書で、この三つの樹種の特性の差を要素別に一表に整理しています。
判りやすい要素だけをピックアップしてまとめるとご覧のようになります。
この樹種による特性の一覧表を見ると、クスノキ、カヤ、ヒノキという用材が、それぞれの時代の造型表現の要請などに対応して選ばれ、変遷していった事由が、大変よく理解できるように思います。
この3つの用材の、製材したものと木目断面の写真は、次のとおりです。
それぞれの用材の特性の感じが、お判りになるのではないかと思います。
ただ、用材樹種の変遷は、現実には、「クスノキの時代」を除けば、「カヤの時代」も「ヒノキの時代」も、全ての木彫仏がカヤ材やヒノキ材一色で造られた訳ではありません。
平安前期にヒノキ材を用いた例もありますし、ヒノキ材の一木彫は結構つくられています。
広葉樹のカツラやサクラを用いた寄木造りの例も間々あります。
大きな流れとして、用材の変遷をとらえた方が良いということだと思います。
私は、仏像のことに興味が深まるにつれて、
「木彫仏の用材は、何故変遷していったのだろうか??」
という問題について、強い関心を持つようになりました。
そして、いろいろな本を読んでみると、その多くが、
「中国からの渡来受容」とか「我が国固有のカミの信仰との融合」とか「渡来経典の説くところによる」
といった要因、影響により、仏像の彫刻用材の樹種が選択されていったと、論ぜられていました。
渡来や信仰、思想といったファクターで樹種が選択されていくという話は、誠に興味深く、魅力的な考え方で、惹き込まれていくものがありました。
しかし、最近は、こうした考え方に少々疑問を感じるようになってきました。
「その時々、一番彫りやすく、適した用材で木彫仏を彫る。」
大変現実的な考え方が、用材の樹種選択に大きく影響しているのではないのだろうか?
そんな思いが強くなってきました。
本間氏の「木彫仏の実像と変遷」を読んでみて、
「なるほど!」
と、うなずき納得することが、数多くありました。
本間氏の考え方の全てに「そのとおりだな」と感じるわけではありません。
また、単に、工人の都合だけで最適用材が選ばれたというわけではなく、中国渡来や、信仰、経典などのファクターも、用材選択に絡み合ったものがあるのだろうと思います。
ただ、渡来とか信仰とか、難しいことをあまり考えずに、当時の実技者・工人の立場に立って、
「時代時代で、求められる木彫仏像を彫るのに、最良最適な用材樹種を、我が国に多く繁殖している大木の中から選んで行ったのだ」
という考え方に軸足を置いた方が、用材樹種の変遷の問題は、判りやすいのではないか。
そのように、感じた次第です。
新刊案内のはずが、ダラダラと「木彫仏の用材樹種の変遷と、その事由についての議論」と長く書いてしまいました。
散漫な文章で、お判りになり難かったではないかと思いますが、お赦しください。
このテーマや議論にご関心のある方は、是非、一度「木彫仏の実像と変遷」 という本を、読んでみていただければと思います。
最後に、ついでの話ですが、つい最近、大変興味深い話が書かれたHPを見つけました。
「鈴木金物店のHP」で、代表の鈴木俊昭氏が、「道具の歴史」というシリーズを掲載されています。
この中に、
という文章が掲載されているのを見つけました。
鈴木氏は、この論考を掲載するについて、
「優れた仏像を彫るには、良く切れる鑿とそれを鍛つ鍛治職がいなければなりません。
しかし、当時の仏師たちが使った各種の鑿は残されていません。
これらの鑿を鍛った鍛治職の記録も残されていません。
木彫仏像製作と鑿の発達との関連についての研究も、ほとんど行われていません。
そこで、私が調べた日本における木彫仏像製作の変遷と鑿の発達との関連を、『日本における仏像彫刻と鑿について』と題して書き上げました。」
と述べられています。
大変興味深く、勉強になる話が、ぎっしり盛り込まれています。
こうした切り口から仏像彫刻を論じた文章を初めて知りました。
古代の木彫仏の用材樹種選択には、鑿をはじめとする木工工具の発達の歴史が、深く関連していることは、間違いないことだと思います。
用材樹種変遷については、今後は、この側面からも、深く考えていかなければならないことだと思います。
その内容について、ここでご紹介する余裕はありませんが、ご覧になっていただければと思います。