~観仏日々帖【目次】はこちら~
【11 月】
【高田寺の秘仏御開帳と名古屋方面の観仏へ】
待ちに待った高田寺の秘仏本尊・薬師如来坐像が御開帳になりました。
高田寺・本尊御開帳にあわせて、同好の方と名古屋方面の3つの古仏を訪ねました。
観仏先は、ご覧のとおりです。
【待ちに待った高田寺の秘仏薬師如来像の御開帳
~「行基開創時の本尊か?」という見解もある、興味津々像】
高田寺の薬師像は50年に一度だけ開扉の厳重秘仏とされているのですが、11/3~6までの4日間、御開帳となったのでした。
50年に一度だけの厳重秘仏の御開帳というだけでもワクワクしてしまうのですが、この薬師如来像、かつて井上正氏が、
「本像は奈良時代前期(行基の活躍時代)に制作されたものと思われる。
着衣の表現は、我が国における「呉動玄流の風動表現」の初期作例とみられる。」
との見解を示し、一躍大注目の像となったのでした。着衣の表現は、我が国における「呉動玄流の風動表現」の初期作例とみられる。」
実は、2020年3月に待望の御開帳予定だったのですが、新型コロナの感染拡大で中止となり、やっとのことで2年半遅れの御開帳となりました。
何としても見逃すわけにはいかないと、満を持して、高田寺へ出かけたという訳です。
【思いの外に「おだやかで落ち着いた」第一印象だった薬師像】
高田寺は、名古屋駅から北へ6~7キロ、北名古屋市高田寺という地名の処にあります。
養老4年(720)に僧・行基によって開かれたと伝える天台宗の古刹です。
御開帳最終日(11/6)に訪ねたのですが、多くのご参拝の方々で結構混み合っていました。
目指す薬師如来像は、茅葺の立派な本堂(薬師堂:鎌倉~室町・重要文化財)に祀られています。
ご拝観の列に並んで堂内に入ると、内陣中央の立派な厨子のなかに薬師像の姿が見えます。
御厨子からは少し離れた処からのご拝観ではありましたが、念願の薬師像の姿をはっきりと拝することが出来ました。
お姿を拝した第一印象は、
「おだやかで落ち着いたというか、大人しい感じがする。」
というのが、率直な処でした。もっと強い存在感とか、迫ってくるものがあるように感じるのではと予想していたのですが、ちょっと意外感がありました。
そんな第一印象になってしまったのは、念願の御開帳が延期になってしまい、御開帳を待ちに待っているうちに、どんどん気持ちだけが盛り上がってしまったからなのかもしれません。
【不思議な造形の薬師如来像・・・異なった要素が、何故だか同居
~平安前期制作の奈良様捻塑的表現か?】
カツラ材の、量感のある一木彫像で、
「粘っこく執拗に密集し、うねうねと翻り、渦を巻く衣文」
が印象的です。一方で、着衣の造形が、
「塑像を思わせるような捻塑的表現」
で、奈良時代の乾漆・塑像の造形と、平安前期にみられる一木彫像の表現がミスマッチ的に同居しているのが大きな特徴です。
このあたりの問題については、観仏日々帖「高田寺の秘仏本尊・薬師如来像御開帳~拝観記」でご紹介しましたので、そちらをご覧いただければと思います。
ちょっと離れたところからの御拝観での、印象的感想にすぎませんが、
井上正氏のいう
「奈良前期、行基時代にさかのぼる制作で、風動表現の初期作例」
と考えるよりも、「平安前期に、伝統的奈良様の粘塑的表現と、新しいムーブメントの造形表現スタイルが同居、混交する形でつくられた一つの作例」
と考えたほうが、スッキリと判りやすいように思えるのですが・・・・・・如何でしょうか?
念願の、高田寺の秘仏本尊・薬師如来像を、とうとう拝することが出来ました。
長きにわたり、一度はその姿を拝してみたいと念じていた厳重秘仏をこの眼でしっかりと観ることが出来たというだけで、満足感一杯という処でした。
【2020年に重文新指定の賢林寺・十一面観音像
~パワフルなエネルギーで拝者を圧倒する小像】
小牧市にある賢林寺を訪ねました。
賢林寺には、当地では珍しい9世紀の制作に遡るという十一面観音坐像が祀られているのです。
かつて2006年に名古屋市博物館で開催された「比叡山と東海の至宝」に出展されたことはあるのですが、お寺では秘仏とされている仏像です。
2020年に、この賢林寺・十一面観音坐像が国の重要文化財に指定されました。
重文指定に際し、東京国立博物館で例年開催の「新指定国宝・重要文化財展」で展示される予定であったのですが、新型コロナで開催中止となり、残念ながら観ることがかなわなかったのです。
何とか一度お寺で拝したいものと思っていたのですが、この日、念願の御拝観が叶うことになったのです。
十一面観音像は、ご本堂の大変立派なお厨子の中に祀られていました。
80センチぐらいの小像なのですが、すごいパワフルでボリューム感満点の造形に圧倒されてしまいます。
両脚部まですべて一材から彫り出された、カヤ材とみられる一木彫像だそうです。
なかなか個性的な造形です。
豊かな肉付けで豊満ではちきれるように造られた身体を、ギューッと一つの木の塊に圧縮したようで、それが内から漲ってくるようなパワーとなっているような気がします。
お顔もパンパンに張った球体を上下に圧縮したようで、これまた強い圧を感じます。
力強いエネルギーのようなものを発散させて、拝者にグーっと迫ってくるとでもいうのでしょうか。
9世紀の一木彫像とされるのも、重文指定されたというのも、なるほどと納得です。
拝観させいただいたご住職に感謝しつつ、賢林寺を後にしました。
【流れるような衣文線が美しい、定朝様の如来像~一宮市・禅林寺の薬師如来像】
一宮市にある禅林寺を訪ね、薬師如来像を拝しました。
大変立派な本堂のわきに、コンクリート造りの収蔵庫があり、そこに薬師如来坐像が安置されていました。
江戸期のものかなと思われる日光月光の両脇時と十二神将像も安置されています。
明るい収蔵庫で眼近に薬師如来像を拝することができました。
いわゆる典型的な定朝様の如来坐像で流れるようなきめ細やかな衣文線がとても美しく印象的です。
ふくよかな丸顔で、なで肩、安定感のある造形です。
定朝様の平安後期(12世紀前半)の制作との見方もあるようですが、鎌倉に近い12世紀後半との見方もあるようです。
藤末鎌初の空気感というのが、私の受けた印象でしたが、いかがでしょうか。
伝承によると、このお寺は藤原実頼(900~970)の追福のために、領国尾張に薬師仏を祀ったのがはじまりで、当初は極楽寺と称したそうです。
その後、大洪水のため伽藍は流出、仏像も沼底に埋没という厄に遭ったにですが、光明の奇瑞により再び出現し、明応6年(1497)領主の所願により修理を加えられたと伝えられているそうです。
像の脚裏部には、明応6年の修理墨書銘が遺されています。
【名古屋市最古の平安仏~成願寺・十一面観音像】
名古屋市北区にある成願寺を訪ねました。
成願寺の十一面観音立像は、名古屋市に残る仏像で最も古い時期の制作で、平安中期以前に遡る像といわれています。
成願寺に着いて、最初に驚かされたのは、超モダンな造りの建物が眼前に出現したことでした。
現代のコンサートホールかミュージアムギャラリーのような建物です。
ここが目的の成願寺で大丈夫なのだろうかと戸惑いましたが、間違いないようです。
ご住職からお伺いしたところ、2009年に当時中興の山田重忠(1221没)から800年の節目で建て替えをすることになり、どのようなお堂にするのかいろいろとお悩みになった結果、このようなモダンなものにすることに決断されたということでした。
【妖しい存在感を漂わせる平安中期の一木彫像
~図録写真の穏やかな雰囲気とは異なる印象が】
十一面観音像は、これまた現代センスのお厨子の中に祀られていました。
すらりとスタイルの良い観音立像です。
腰高という程でもないのですが、下半身が長くスリムな造形です。
事前に図録の写真を見ていた感じでは、優しく穏やかな雰囲気の表現の像という印象がして、平安中期までさかのぼるようには感じないように思えました。
ところが、実際に眼前に拝すると、結構、印象が違いました。
「優しく穏やか」というよりも「マイルドだけれども、妖しさを漂わせる」という感じです。
お顔に、何とも言えない土俗的な妖しい雰囲気があるようです。
下半身の衣文表現も、結構鎬立って鋭いものがあります。
カヤ材と思われる一木彫像で、内刳りもありません。
10~11世紀の制作とみられているようですが、想定していたよりも、なかなかの存在感を感じさせ、記憶に残る古像でした。
この日は京都に泊まって、翌日は一人で滋賀方面の観仏に出かけました。
【久方ぶりに延暦寺の国宝殿へ
~古写真から桜井興善寺伝来と判明した薬師像の姿を再確認】
久方ぶりに比叡山に上って、延暦寺の「国宝殿」に行きました。
何度も観たことのある国宝殿の仏像なのですが、今回は、薬師如来坐像の姿をもう一度観てみたかったのです。
昨年6月に、この薬師如来像の伝来について観仏日々帖「古写真を読み解く⑦」に採り上げさせていただきました。
この薬師像は、像内の修理銘から「佐賀県の大興善寺伝来」の仏像とされてきたのですが、近年、「桜井の興善寺伝来」の仏像であったことが判明しました。
奈良桜井の興善寺に残された古写真が、本像の写真に間違いないことが判ったのです。
大正~昭和初年に、桜井興善寺から出て、何人かの所蔵者の手を経て昭和54年(1979)に延暦寺に寄進されています。
薬師如来像は、宝物館(第1展示室)の一番奥、一段と高い台座の上に、鎌倉時代の梵天帝釈天、十二神将像を従えるような形で安置されていました。
平安時代、10世紀の堂々たる一木彫像で、なかなかの重厚感と存在感を感じさせます。
これまで何度も観ているものの、自身の記憶にはそれほど残っていなかったのですが、今回はじっくりとその姿を目に焼き付けました。
こうした数奇な伝来物語を知った後に観ると、印象の残り方が随分と違うものです。
【多くの有名な尊像の中でも目を惹いた松禅院・観音像
~迫力十分の叡山屈指の古像】
国宝殿には有名処の平安前期の千手観音像(重文)や維摩居士像(重文)なども展示されていましたが、私の目を惹いたのは、松禅院の観音像でした。
松禅院は、比叡山中横川飯室谷の山中にある山坊で、この像は近年の調査で新たに確認されたものです。
9世紀の制作、叡山屈指の古像とみられ、内から発散する霊力のようなパワーを強く感じさせます。
折々の叡山関連展覧会に出展されていますが、いつ観ても強く惹き付けるものを感じる私の注目仏像です。
【東近江市の古仏を観仏へ】
【一番の目的は、法雲寺の帝釈天像のご拝観
~「この日お堂が開く」という、ご連絡に駆け付ける】
叡山の後は、この日の観仏の一番の目的である、東近江市の蒲生にある法雲寺に向かいました。
法雲寺には10世紀の制作とされる帝釈天像があるのです。
重要文化財に指定されているのですが、ほとんど知られていないといってもよい仏像ではないかと思います。
図録の写真を見ると、結構パワフルで重量感を感じる一木彫像です。
私の調べてみたところでは、1993年に栗東歴史民俗博物館で開催の「かみとほとけのかたち展」、2013年に安土城考古博物館で開催の「蒲生郡の風土と遺宝展」に出展されているのですが、私はまた拝したことがないのです。
チャンスがあれば一度拝してみたいものと思って、市の教育委員会を通じて拝観のお願いもしたのですが、無住のお堂で普段は拝することができないということなのです。
ご開扉される日があればお教えいただけるようお願いしていたところ、管理されている方から、
「この日に寄り合いがあってお堂を開けることになったので、当日来られるのであれば拝することができる。」
とご連絡をいただいたのです。そこで、このチャンスを逃すまじと、近江の蒲生まで出かけることとしたというわけです。
【期待に違わぬパワフルで堂々たる迫力に圧倒される
~直立した硬い表現、森厳な表情が発散させる霊威感】
法雲寺は近江八幡駅の南東10キロほどの蒲生野と呼ばれる処にあります。
田園風景の広がる片田舎です。
法雲寺は、静かな木立の中に旭野神社と並んで、ひっそりとありました。
「國寶 帝釋天 天台宗 法雲寺」と刻された石標があり、そこに帝釈天の祀られる観音堂がありました。
帝釈天像は小さな観音堂の中のお厨子に祀られていました。
眼近に近寄ってじっくりと拝することができました。
期待に違わぬ堂々たるお姿です。
造形表現を見ると、ちょっと硬直したように直立していて、着衣、衣文の表現も直線的で硬いといえるように思えます。
そこだけを見ると、抑揚や弾力性に欠け、定型化、硬直化した表現となっているといえるのかもしれません。
しかし、お像の姿を眼前にすると、そのパワフルな迫力に圧倒されてしまいます。
怒らせるように張った肩、固く引き締まった体躯は重量感満点です。
直立硬直化したような表現が、量感と相まって、堂々たる雰囲気を発散させているようです。
お顔の彫りも深くはないのですが、目線や口元に強い森厳感を漂わせています。
本像に「強い神威を感じる。」と述べた解説もありましたが、そんな印象もまさに納得です。
初めて拝した法雲寺の帝釈天像ですが、私はグッと惹かれるものを感じ、すっかり気に入ってしまいました。
たしかに10世紀に入ってからの制作だろうと思うのですが、平安中期の像に通例な「穏やかさ」が滲みだすことなく、「硬質の強さ、重さ」が前面に出た、誠に興味深い像だと思いました。
本像は、修験の霊場として名高い飯道山から移安されたと伝えられ、江戸時代(元文2年・1737)には法雲寺に伝来していたとそうです。
また、本来は帝釈天像ではなくて初期の神像として造られた像であるという見方もあります。
期待以上にインパクトを感じる仏像でした。
是非また拝したいものだと念じ、後ろ髪をひかれながら、法雲寺を後にしました。
【宝冠阿弥陀像の最古例といわれる梵釈寺・阿弥陀如来像
~じっくり目を凝らすと鋭い風貌の緊張感ある造形】
法雲寺から車で3~5分の所に、梵釈寺があります。
梵釈寺の阿弥陀如来像は、現存する宝冠阿弥陀如来像のうちの最古作例として知られています。
承和4年(847)に唐から帰国した円仁が、比叡山の常行三昧堂に安置した宝冠阿弥陀像に最も近い形式の古像であろうとみられています。
私がこのお像を拝するのはもう4度目なのですが、法雲寺のすぐ近くなので寄ってみることにしました。
10世紀の宝冠阿弥陀像の優品とされているのですが、一見すると、通肩のバランスの良い如来像という程度の印象しかせず、それほど強く惹き付ける魅力を感じないのかもしれません。
じっくり目を凝らすと、弾力感、張りのある造形で量感にあふれ、切れ長で吊り上がった目の鋭い風貌は、なかなかの緊張感があります。
仏像の数を沢山見ていけばいくほど、この仏像の良さというか、優れたところが判ってくるような気がします。
【いつも温かく迎えていただける梵釈寺の方々
~今回もいただいた、手造りイチゴストラップ】
梵釈寺さんは、いつ訪れてもお寺の方々が、親切に温かく接していただけ、本当に有り難い限りです。
かつて訪ねた時には、優しいお婆さんがフェルトで手造りされたイチゴのストラップを、折々頂戴して、気に入って大切に使わせてもらっていました。
家人の方にお尋ねすると、お婆さんはもう亡くなられたそうなのですが、ご近所の方がフェルトイチゴ造りを引き継がれているそうで、今回も、可愛らしいのをいくつか頂戴しました。
お寺を守る皆さんの温かさに、ほっと和んだ気分にさせてもらいました。
【ほのぼのした温かみを感じる石塔寺・三重石塔】
石塔寺にも寄ってみました。
もう何度訪れたことでしょうか。
三重石塔を見上げていると、なんとも云えないほのぼのとした温かみに、心撃たれてしまいます。
古代の帰化人たちの喜び、哀しみに直にふれているような気持ちに惹き込まれるようです。
【東近江市の興福寺で、半丈六の立派な五智如来像を拝観】
最後に、同じ東近江市にある興福寺を訪ねました。
お堂には、平安後期の半丈六の五智如来坐像がちょっと窮屈そうに肩を並べて祀られています。
当地の地名も五智町で、興福寺は五智如来の寺として親しまれ信仰されているようです。
中尊の大日如来像は重要文化財、周りの4如来像は市の文化財に指定されています。
中尊以外はだいぶ後世の手が入っているようですが、立派な半丈六の五智如来像を拝することができました。
【東京長浜観音堂に出張展示の洞戸自治会・地蔵菩薩像
~並んで展示されていた鞘仏と胎内仏】
東京日本橋にある「東京長浜観音堂」に行きました。
「東京長浜観音堂」は、上野にあった「びわ湖長浜 KANNON HOUSE」が2020年に閉館したあと、2021年に再開された長浜市の仏像の出張展示施設です。
長浜市高月町の洞戸自治会が管理する地蔵菩薩像が出展されていました。
この地蔵像は、鞘仏となっていて背部が大きく刳られて胎内仏を納めるように造られています。
鞘仏の地蔵像は江戸時代の制作、胎内仏は室町時代の制作ということです。
胎内仏は、素朴な造りで在地の民衆か僧の手によるもののように思えます。
10月に訪ねた、同じ高月町の冷水寺の観音像も、珍しい鞘仏でした。
またまた高月町の鞘仏に出会ったことになります。
当地の人々の信仰の深さを実感したような気持になりました。
「東京長浜観音堂」は、ビルの中のわかりにくい事務所の一室のようなところにありました。
残念ながら、訪れる人も余り多くはないようです。
もっと多くの人に知られ、今後もずっと出張展示が続けられていって欲しいものです。
【年に一日の「勅封薬師如来像」の御開帳日に広隆寺へ
~初期神像か?といわれる、吉祥天のような霊験薬師仏像】
11月22日に広隆寺に出かけました。
年に一日、この日限りで御開帳される「勅封薬師如来像」を拝するためです。
私は、これまで何度も何度も広隆寺を訪ねているのですが、未だ秘仏薬師如来像を拝したことがなかったのです。
一度は拝しておかなければならないと、意を決してこの日京都へ出かけたのでした。
「勅封薬師如来像」は平安前期の制作で、その名の通り、清和天皇(850~880)により勅封秘仏とされ、長らく広隆寺の御本尊の「霊験薬師仏」として信仰されてきたと伝えられる由緒ある尊像なのです。
そして、吉祥天像のような姿かたちをしているのに、何故だか「薬師如来像」として祀られているという不可思議な像なのです。
このあたりの不思議な謎についての話は、観仏日々帖「広隆寺の秘仏・薬師如来立像 御開帳拝観記 〈その1〉 〈その2〉」で紹介させていただきましたので、そちらをご覧いただくことにして、ここでふれないこととさせていただきます。
貴重な初期神像の作例ではないかといわれる広隆寺・勅封薬師如来像を、ようやく眼近に拝することができました。
自分で「仏像愛好です」と話しているのに、広隆寺の「勅封薬師如来像」をいまだに拝したことがないというのは、ちょっと気恥ずかしくて大きな声で言いにくかったのですが、やっとのことでこの宿題をクリアーすることができました。
お昼を広隆寺からほど近い、「ほそ井」といううどん屋さんで食べました。
予備知識なくNET検索で見つけたのですが、これがなかなかの美味なるおうどんでした。
ご主人は、河原町三条の割烹「日吉野」におられた方だそうで、饂飩にもなかなかのこだわりがあるようです。
きつねうどんが1100円といい値段でしたが、広隆寺に来た時にはまた寄ってみたいお店です。
【神光院・薬師如来像を目指して佛大ミュージアムの「ほとけのドレスコード」展へ
~近年、大注目の上賀茂神社にかかわる9C一木彫像】
広沢の池のそばの佛教大学宗教文化ミュージアムに行きました。
「ほとけのドレスコード」と題する興味深い特別展が開催されているのっですが、この展覧会に北区西賀茂にある神光院の薬師如来像が出展されているというので、これは必見と出かけたのでした。
神光院・薬師如来像は、平安前期(9C前半)の制作とみられる一木彫像なのですが、近年までその存在が知られていませんでした。
2011年に皿井舞氏により研究誌に初めて紹介され、大注目となった仏像です。
皿井氏論考では、
「本像は、上賀茂神社にかかわる仏堂「岡本堂」安置仏で、その後、上賀茂社神宮寺に祀られ、慶応4年(1868)、神仏分離で神光院に移されたものと思われる。
制作年代は、岡本堂再建期の天長年間(824~833)頃と想定される。」
(「京都 神光院蔵 木造薬師如来像」美術研究404号2011年)
という見解が示されています。制作年代は、岡本堂再建期の天長年間(824~833)頃と想定される。」
(「京都 神光院蔵 木造薬師如来像」美術研究404号2011年)
私は11年前に、皿井論文でこの仏像の存在を知り、神光院まで拝しに出かけたことがあります。
こんな凄い仏像が、これまで全く知られていなかったことに大ビックリでした。
両腿のたくましい隆起や、胸から腹にかけての量感あふれる肉身の表現は迫力十分、
「バリバリの9世紀平安前期彫刻に間違いない」
と云って良い古像です。観仏日々帖「京都・神光院 薬師如来立像」にてご紹介をしたことがありますので、ご覧いただければと思います。
【360度ビューで、じっくりと観仏~発散するオーラに強く惹き付けられる】
「ほとけのドレスコード」展では、明るい照明の中、360度ビューで観ることができました。
神光院で拝すると、脇壇の奥に祀られ、足元や側面からは観ることが出来なかったのですが、展覧会では、足元から背面まで眼近にジックリと克明に目にすることができました。
皿井氏は、本像を「仏力をもって神威を増す」という習合思想の下で制作されたと述べていますが、たしかに、この像を凝視していると、発散する「霊威」とか「オーラ」を強く感じる気持ちになってきます。
お寺で拝した時以上に、強く強く惹き付けられるものを感じました。
【目を惹く、特異で不可思議な旋転文の群れ
~霊威感など、特別な意味が籠められた表現なのか?】
もう一つ目を惹くのは、着衣に「特異な旋転文(渦文)」が多数(10個程)表されていることです。
平安前期彫刻の特徴ともいえる渦文ですが、こんなにグルグル渦巻きが折り重なって大量に表されるのは異様です。
私は、京都では、このよう渦文の群れのある像を二つみたことがあります。
北区大森東町にある安楽寺の薬師如来像と南区久世殿城町にある福田寺の釈迦如来像です。
福田寺のほうは渦文の数が少なめで、時代も下るのではないかと思いますが、安楽寺の薬師如来像の渦文の群れは、神光院像とそっくりです。
このような表現の像は、ごく稀れのようで福井の諦応寺・薬師如来像(私は未見の仏像です)、妙楽寺・聖観音像にわずかに見いだされるだけということです。
なんとも奇異というか、不思議な旋転文(渦文)の群れなのです。
何か特別の意味が込められているのでしょうか?
皿井舞氏は、この特異な表現について、
「あくまでも憶測にすぎないが、本像(神光院・薬師像)の異例とも言える旋転文に、神のための仏にふさわしい何か特別な意味が籠められていた可能性がある。
それはある意味で、仏教信仰とも、神祇信仰ともつかない、それらの信仰のさらに背後にある何かに呼応したものであるのかもしれない。」
(皿井舞「なぜ、今「かたち」なのか」~「かたち」再考・開かれた語りのために・平凡社刊2014刊所収)
と述べています。それはある意味で、仏教信仰とも、神祇信仰ともつかない、それらの信仰のさらに背後にある何かに呼応したものであるのかもしれない。」
(皿井舞「なぜ、今「かたち」なのか」~「かたち」再考・開かれた語りのために・平凡社刊2014刊所収)
たしかにこの折り重なるような旋転文には、霊像から発散させるオーラを表そうとする意味が籠められているように思えます。
神光院の薬師如来像を克明にジックリ見ることができ、大満足の「ほとけのドレスコード」展でした。
【9C末の最高級レベル秀作像の清凉寺・阿弥陀三尊像
~あまり有名ではないのが、ちょっと可哀想】
その足で嵯峨の清凉寺まで歩いて、本堂の釈迦如来像(宋時代・国宝)を拝し、霊宝館の諸仏を見てきました。
霊宝館に安置されている阿弥陀三尊像(平安前期・国宝)は、私の好きな仏像のランキングの上位に入ってくる仏像です。
清凉寺の前身、棲霞寺の本尊であった仏像で、源融が発願し二人の子息が遺志を継いで寛平8年(896)に完成させたものです。
月並みな誉め言葉ですが、
「極めて優れた造形の、9世紀末では最高級レベルの出来の秀作仏像」
だと思っています。造形を見ると、超一流レベルの仏師の手になる像であることは明らかです。
量感あふれる堂々たる体躯ですが、張りのある固く引き締まった造形で、ピリッとした緊張感を感じさせます。
ちょっと面長で端正な顔立ちは、「ますらおぶり」という言葉がぴったり当てはまるような良い男ぶりで、惚れこんでしまいます。
これだけの見事な仏像で、国宝にも指定されているのですが、清凉寺の清凉寺の霊宝館では壁際に窮屈な感じで安置されていて、なんだか可哀そうな気持ちになってしまいます。
清凉寺といえば、奝然将来の三国伝来釈迦如来像が超有名ですが、その陰に隠れてしまって、よく知られていないようです。
もっともっと、この阿弥陀三尊像が卓抜の優作であることを、広く知られてほしいものといつも思ってしまいます。
【我国私立美術館の嚆矢「よみがえる川崎美術館」展に神戸市博へ
~高濃度の充実展覧会に大満足】
翌日は、神戸市立博物館で開催された「よみがえる川崎美術館」展に行きました。
この展覧会は、仏像とは関係ないのですが、是非とも観てみたいと思い神戸まで足を延ばしたのです。
川崎美術館はわが国で最初に開設された私立美術館です。
川崎美術館は、川崎造船の創業者、川崎正蔵(1837~1912)が、神戸市布引の自邸に明治23年(1990)に開館しました。
一般的には、わが国最初の私立美術館は「大倉美術館・大倉集古館」とされているのですが、正確には、我国私立美術館の嚆矢は、「川崎美術館」なのでした。
大倉集古館は一般公開されたのですが、川崎美術館は年に数日の公開日に招待客のみが観覧できる限定的な公開であったので、そのように云われているというわけです。
川崎美術館の所蔵品には、誰もが知っている顔輝筆「寒山拾得図」(東博蔵・元時代・重文)や、国宝の宮女図(元時代)をはじめ、膨大な名品がコレクションされていたのですが、昭和2年(1927)の金融恐慌をきっかけにコレクションは散逸し、美術館の建物も水害や戦災によって全て失われてしまいました。
今回の展覧会は、この失われた川崎美術館を100年ぶりに蘇らせようと、神戸市立博物館の40周年を記念して企画された展覧会でした。
日本近代の美術品コレクターや美術品移動しに興味関心の深い私にとっては、見逃すわけにいかない必見展覧会でした。
博物館の総力を挙げて開催されたと思われる充実の展覧会でした。
分厚い展覧会図録は研究資料さながらの凄い濃度のもので、「渾身の図録」というものでした。
「本当に観に来てよかった!」と大満足の展覧会でした。
展覧会の後に、三ノ宮駅近の「茜屋珈琲店」に行きました。
神戸の人ならきっと知っている老舗の静かな珈琲店です。
軽井沢や東京にもお店がありますが、この三宮が一号店、発祥の地です。
学生時代以来、50数年ぶりの三宮の「茜屋珈琲店」です。
その頃、学生には値段が超高くて、滅多に入ることができませんでした。
今も、当時と店内の雰囲気は全く変わらず、静かにクラシックが流れるカウンターで、美味いコーヒーを懐かしく味わいました。
【12 月】
【本年の見納め観仏は、大倉集古館の国宝・普賢菩薩像】
2022年の観仏の見納めは、大倉集古館の普賢菩薩像でした。
ご存じの通り、藤原彫刻の名品、国宝です。
この普賢菩薩像、大倉集古館が2019年に改装されるまでは、常時展示されていて、いつでも観ることが出来たのですが、リニューアルオープン後は普段は展示されないようになってしまい、現在は、限られた時にしか公開されていません。
11月~1月に「大倉コレクション~信仰の美」という企画展が開催され、国宝・普賢菩薩像が展示されるというので、久しぶりに会いに出かけました。
流石、院政期の傑作です。
藤原彫刻の代名詞である「華麗で繊細優美」という言葉は、この像のためにあるような気がします。
私は、定朝様をはじめとする所謂藤原彫刻は、さほどに強く惹きつけられるものを感じないというか、好みから云うと今一歩というのが本音の処です。
しかしながら、この普賢菩薩像だけは別格で、難しい理屈抜きにお気に入りで素晴らしいと感じています。
リニューアル後に普賢菩薩像を観るのは初めてです。
改装前は照明がちょっと暗くて観づらいところもありましたが、明るい照明の中で、素晴らしい普賢菩薩像の姿を堪能することができました。
本像は、大倉集古館の創始者・大倉喜八郎が、明治10年代に町田久成から譲り受けたものだそうですが、その来歴由緒は全く判りません。
仏像の来歴由緒が全く不明なのに「国宝」に指定されている仏像は、この普賢菩薩像ぐらいではないかと思われ、それだけでも本像が如何に優れた名作であることを物語っているように思います。
この普賢菩薩像と大倉喜八郎については、観仏日々帖「博物館の気になる仏像あれこれ⑤~大倉集古館・普賢菩薩坐像」で採り上げたことがありますのでご覧いただければと思います。
「2022年の観仏を振り返って」は、これでおしまいです。
振り返ると、コロナ禍のなかでありましたが、あちこち観仏に訪れたようです。
ダラダラと気ままに綴らせていただいているうちに、5回もの連載という長いものになってしまいました。
ご覧いただいている皆さんも、読み疲れてしまわれたのではないかと思います。
お付き合いいただき、有難うございました。
書いている私のほうも、自業自得とは言うものの、結構、書き疲れてしまいました。
今年は、そろそろ気兼ねなく、気ままに観仏に出かけられるようになりそうな様子です。
健勝で、あちこち出かけられればと念じております。
本年も、よろしくお願いいたします。
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