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【7 月】
暑い盛りの真只中でしたが、横須賀美術館と鎌倉国宝館へ行きました。
【横須賀美術館の「運慶」展へ~観音崎にある現代感覚の美術館】
横須賀美術館では「運慶 鎌倉幕府と三浦一族展」が開催されていました。
横須賀市内に残る、運慶および運慶工房作と見られる仏像を中心に展示する特別展です。
横須賀美術館は三浦半島の突端、観音崎灯台のある公園にあるガラス張りのアートな外観が魅力的な現代感覚の美術館です。
仏像の展覧会とはちょっとミスマッチ感もあるのですが、館内は白い壁面に、凄く高い天井の展示スペースで、こういう明るく広々とした空間で仏像を観るというのも、新感覚でなかなか良いものでした。
横須賀市内に残る運慶もしくは運慶派の仏像と云えば、浄楽寺の諸蔵、満願寺の諸像、曹源寺の十二神将像です。
【浄楽寺の運慶作・毘沙門天像などが出展
~願成就院像(運慶作)の方が優れた出来映えに感じる訳は?】
浄楽寺からは、不動明王像と毘沙門天像が出展されていました。
この2像を観ると、ついつい伊豆韮山の願成就院の不動・毘沙門像と比較してしまいます。
共に正真正銘の「運慶作」の仏像であることは間違いのない事実なのですが、その出来映えの素晴らしさにはどうしても差があるように思えます。
特に、願成就院と浄楽寺の毘沙門天像を較べてみると、願成就院像の方がはるかに優れた造形で、ググっと惹きつけるものがあるように感じるのです。
願成就院像が文治2年(1186)、浄楽寺像が文治5年(1189)の作ですから、たった3年しか差がありません。
やはり願成就院像は運慶自身が主体的に制作に携わった像で、浄楽寺像は門下の小仏師が主体となって制作した像ということなのでしょうか。
【近年、運慶(工房)作とする見方もある満願寺の観音・地蔵像
~運慶作とするには、ちょっと大味に感じるのは私だけ?】
満願寺の観音菩薩、地蔵菩薩像が展示されていました。
2メートルを超える大型像が、高い天井の部屋にゆったり展示されているのは壮観でした。
観る者を圧倒する存在感、迫力を感じます。
これらの像は、運慶周辺の慶派仏師の作という見方がされてきていましたが、近年は優れた出来映えから、もっと運慶に惹き付けて考えられるのではないかとされてきているようです。
本展の図録では、瀬谷貴之氏が、
「満願寺は三浦義明供養堂として源頼朝が発願し、運慶一門が造仏にあたり、三浦一族の中心的な寺院として機能したものとみられる。」
として、運慶作と見做しても良いのではないかとするとともに、いわゆる運慶作品との造形感の違いについて、
「満願寺像は、運慶工房の作行の広さを示し、この結果、運陸作品は従来よりも幅広く捉えることができる。」
と述べ、曹源寺・十二神将像なども運慶作と見做せる可能性は高まったと論じています。このような視点に立つと、先にふれた願成就院と浄楽寺の毘沙門天像の造形感の差も
「運慶工房の作行の広さ」
ということになるのかなと感じた次第です。確かに満願寺像は、運慶工房の制作と云われると
「なるほど、そうなのだろう・・・・・」
という気にもなる、堂々たる優れた出来映えの像だと思うのですが、運慶作というには
「やや大味な感じ、生々しい野卑な色合い」
を感じてしまうのは、私だけなのでしょうか?美術館には、人気のイタリアンレストラン「アクアマーレ」が併設されています。
ここでランチをしようかと思ったら、なんと大賑わいで満杯。
一時間待ちということで断念しました、残念!
【実慶作の二像を並んで眼近に観ることが出来た、鎌倉国宝館「北条氏展」】
横須賀美術館へ行ったその足で、鎌倉の鎌倉国宝館にも寄り、開催中の「北条氏展~北条義時とその時代」を観てきました。
北条氏をテーマに連続3回開催される特別展の第1回展で、「義時と頼朝・頼家」と題するものです。
展覧会には、仏師実慶の作であることが明らかになっている2像が揃って出展されていました。
修善寺・大日如来像(重文)、かんなみ仏の里美術館・阿弥陀三尊像(重文)です。
実慶は、「運慶願経」(1183年)に結縁者として快慶などと共に名前の見える、慶派の仏師です。
生没年は不詳ですが、運慶周辺の仏師で東国に下向した慶派仏師の一人と考えられます。
両像共に、1984年に仏像修理が実施された際、「実慶作」の像内墨書銘が発見されました。
修善寺・大日像の方は、承元4年(1210)の年紀が記されていました。
修善寺は二代将軍頼家が北条氏により幽閉され非業の死を遂げた寺で、本像は側室、辻殿の供養のために造立されたものと見られています。
像内から発見された納入品に毛髪・かもじがあり、辻殿ものではないかと、発見当時新聞報道されるなど大きな話題となりました。
かんなみ仏の里美術館・阿弥陀三尊像は、美術館隣地の桑原薬師堂に伝わった像で、北条氏ゆかりの像である可能性が高いと見られています。
薬師堂の諸仏像は、管理する桑原区から函南町に寄贈され、2012年開館のかんなみ仏の里美術館に展示されています。
【「強く若々しい」かんなみ仏の里像と、「渋く重たい」修善寺像
~この違いのわけに、想いをめぐらせる】
実慶の二つの作品を、揃ってみることが出来たのは初めてのことです。
同時に並べてみてみると、
「同じ実慶でも、随分造形表現の印象が違うな!」
と感じました。阿弥陀三尊像の方が肉身の抑揚、弾力性が豊かで、顔つきも眼がつり上がるなど鋭く締まったものを感じます。
一方、大日如来像は、全体的に硬いというか、平板で重たい感じの表現で、顔付きには暗さを感じるように思えます。
片や「強く鋭く若々しく」、片や「渋く重たく暗く」とでもいうのでしょうか?
この差は、制作時の実慶の年齢の差によるものなのでしょうか、それとも修善寺像の方は非業の死に関わるという造立事情の差のよるものなのでしょうか?
いろいろと、想いを巡らせてしまいました。
【頼朝の姿を最もよく伝えると云われる、甲斐善光寺・源頼朝像も出展】
展覧会には、解体修理を終えた甲斐善光寺の源頼朝像が展示されていました。
近年の研究で、頼朝の肖像彫刻として最古のものとされ、その真の姿を最も良く伝えるものとして注目を集めている像です。
初老の穏やかな男性の顔付きという感じで、所謂、頼朝イメージとはフィットしない感じですが、イメージというものはそういうものなのでしょう。
【9 月】
【願成就院本堂・阿弥陀如来像が、鎌倉国宝館に短期特別出展
~超有名な運慶作・阿弥陀像とは別の非公開像】
またまた鎌倉国宝館に行きました。
「北条氏展」第2回特別展に、なんと願成就院の本堂本尊・阿弥陀如来坐像(鎌倉・県指定)が出展されたのです。
「願成就院の阿弥陀如来像」といえば、運慶作の国宝・阿弥陀如来坐像のことが思い浮かばれることと思います。
運慶作の阿弥陀如来像、毘沙門天像、不動三尊像が安置されているのは大御堂というお堂なのですが、出展されたのは、これに隣接して寛政元年(1789)に建立された本堂御本尊の阿弥陀如来坐像なのです。
普段は一般公開されておらず拝観が叶わず、私も拝したことがなかったのです。
この本堂本尊・阿弥陀如来坐像が、9/3~9/14の10日間たけの期間限定で鎌倉国宝館に出展されたのです。
情報を知って、このチャンスを逃すまじと、あわてて鎌倉国宝館に出かけたのでした。
【運慶作像から30年後に制作された、運慶系統の仏師による作か】
本像は、建保3年(1215)に供養された南新御堂の阿弥陀三尊像の中尊であったものだと見られています。
作風から運慶系統の仏師の製作と見られていて、像底の構造も、運慶系の像にみられる「上げ底式内刳り」になっています。
国宝館では、眼近に阿弥陀如来像を観ることが出来ました。
大御堂の運慶作・阿弥陀像に比べると、躍動感がなくて随分おとなしく纏まった感じの造形です。
確かにヨコ、ナナメから見た体躯のシルエットは運慶作像に相通じるものを感じますが、グッと惹きつけるものが随分違ってしまっています。
願成就院で運慶が阿弥陀像を制作(文治2年・1186)してから約30年後の制作ですが、このくらい時間が経つと、随分定型化してしまうというのを、今更ながらに実感しました。
それはそれとして、一度拝したいと思っていた、願成就院本堂の阿弥陀像をジックリ観ることが出来ました。
【「東博の模写・模造~草創期の展示と研究展」へ
~大観作・浄瑠璃寺吉祥天写生画と住吉作・奈良博十一面観音模写に眼を惹かれる】
東京国立博物館の企画展「東京国立博物館の模写・模造~草創期の展示と研究」を観に行きました。
私の興味関心の深いフィールドです。
創立150年記念事業の一環の企画展示で、明治5年(1872)の博物館の創立以降、昭和22年(1947)に国立博物館となるまでに制作された模写・模造作品が展示されていました。
絵画、工芸品などの模造作品展示も多数ありましたが、
仏教美術関係では
森川杜園作・法隆寺九面観音模造、住吉広一作・奈良博蔵十一面観音画像模写、菱田春草作・醍醐寺普賢菩薩画像模本、横山大観作・浄瑠璃寺吉祥天像写生、新納忠之介作・中尊寺一字金輪像模造、関野聖運作・浄瑠璃寺吉祥天像模造
といったあたりが目を惹きました。仏像の模造作品は何度も見慣れていたものだったのですが、横山大観の浄瑠璃寺・吉祥天像写生素描4幅は、初めて観たような気がします。(覚えていないだけかも・・・・)
写生なのですがなかなかの迫力でちょっと圧倒されました。
住吉広一作の奈良博蔵十一面観音画像模写も、本物にははるかに及ばないのですが、精緻入念な模写で、見入ってしまいました。
明治期の一連の仏像模造作品(法華堂・執金剛神像、月光菩薩像、北円堂・無著世親像等々)が展示されていなかったのは残念だったのですが、大型像なので展示室のスペースの関係で展示できなかったということのようです。
【東博彫刻室平常展示にも、いくつもの目を惹く仏像が
~珍しく厨子入りで展示、内山永久寺伝来・愛染明王像】
本館1Fの彫刻展示室に寄ると、こんな仏像が目を惹きました。
いつも東洋館に展示されている多武峰伝来檀像・十一面観音像(唐・重文)や、一時運慶作かと話題となった浄瑠璃寺伝来・十二神将像5躯が展示されていました。
内山永久寺伝来の愛染明王像(鎌倉・重文)は、いつもは像単体で展示されているのですが、今回は、大変華麗な厨子のなかに安置された形で展示されていました。
この見事なお厨子とセットであってこそ、この愛染明王像の素晴らしさが映えるのだというのを実感した次第です。
【東博蔵彫刻の「未来の国宝」に選ばれていた、善円風の菩薩像
~仏像評価のモノサシに、新しい視点の到来を予感】
東博の彫刻展示ではお馴染みの東博蔵・菩薩立像(鎌倉・重文)も展示されていました。
ビックリしたのは、本像が「未来の国宝」というキャッチフレーズで展示されていたことでです。
この時本館に「未来の国宝~彫刻、工芸、考古の逸品」と称して展示されていたのは、本像の他、
伝安閑陵古墳出土・白瑠璃腕、吉野宮蒔絵書棚、川端康成旧蔵・汝窯青磁盤
の、全部で4点でした。東博蔵・菩薩立像は、鎌倉時代に南都諸寺院の造像に携わった仏師善円の作風に近いと云われる美しく華麗な仏像です。
東博所蔵の数ある彫刻作品(部門)の中から、この菩薩像が唯一「未来の国宝」に選ばれたというわけです。
私が驚いた理由は、現代の仏像評価のモノサシが、かつてと比べて変化しつつあるのかなという思いがしたということです。
以前にHP日々是古仏愛好に「近代仏像評価の変遷」という連載を掲載して、明治以降の仏像評価のモノサシが時代とともに変化することをたどったことがあります。
この時振り返ってきた「従来の仏像評価の規範」からすると、
東博蔵の仏像では、
多武峰伝来・十一面観音像、宝慶寺伝来石仏龕・十一面観音像、法隆寺献納・四十八体仏
あたりが「未来の国宝」にリストアップされるのではないでしょうか。これらを差し置いて、善派風と云われる菩薩像がクローズアップされているのは、新感覚という印象です。
そういえば、2013年の刊行された山本勉氏著「日本仏像史講義」の表紙写真は、この東博蔵・菩薩立像のアップ写真でした。
鎌倉時代と云えば、「慶派に始まり慶派に終わる」というのが、これまでの仏像評価のモノサシであったように思います。
これからの鎌倉彫刻やそれ以降の仏像彫刻の評価は、新しい視点で大きく変わっていくのかもしれないなという予感のようなものを強く感じた次第です。
【10 月】
【龍角寺・薬師如来像が「下総龍角寺展」(早稲田会津八一記念館)に出展】
早稲田大学會津八一記念博物館で開催された「下総龍角寺展」に行きました。
下総龍角寺と云えば、白鳳~奈良時代の数少ない大型金銅仏の遺品である薬師如来像(重文)で知られています。
展覧会に、この薬師如来像(重文)が出展されたのです。
會津八一記念博物館は早大内のやや小規模な博物館ですので、まさか薬師如来像が展示されるとは予想していなかったのですが、大変嬉しい出展でした。
龍角寺は、千葉県印旛郡栄町という辺鄙な処にあり、薬師像は年2回、限られた日だけの開帳で、なかなか拝するのが大変なのです。
早稲田大学では1947年以降、継続して下総龍角寺の調査を行ってきたそうで、これまでの調査成果を踏まえて、下総龍角寺の歴史を様々な分野から紹介する展覧会となっていました。
出土遺品など考古学的調査研究の成果の展示が主でしたが、薬師如来像だけは別室に1躯だけドーンと展示されていました。
制作当初部分は首から上の頭部だけで、体部は近世の後補なのですが、それでも流石の存在感です。
この仏像が(美術史的に)新発見となったのは、昭和7年(1932)のことです。
~この発見についてはHPの「龍角寺・薬師如来坐像 発見物語」ご紹介したことがあります。~
それ以来、
「当地での制作か、奈良中央での制作か?」
「白鳳期の制作か、奈良時代に入っての制作か?」
という議論が続いてきたようですが、「白鳳期の制作か、奈良時代に入っての制作か?」
近年では7世紀歳末から8世紀初頭の頃、下総の当地で制作されたという見方が有力になっているのではないかと思います。
【下野薬師寺址と「鑑真和上と下野薬師寺展」(栃木県博)に、宇都宮へ】
宇都宮市の栃木県立博物館で開催された、特別企画展「鑑真和上と下野薬師寺~天下の三戒壇でつながる信仰の場」に出かけました。
ご存じのとおり、下野薬師寺は、東大寺(奈良市)、観世音寺(太宰府市)と並び、天下三戒壇と称された古刹です。
【天下の三戒壇の一つだった下野薬師寺
~往時を偲び難かったが、現地を訪ねたことで満足】
折角宇都宮まで出かけるので、このチャンスに下野薬師寺の現地にも寄ってみることにしました。
下野薬師寺は、宇都宮駅からは20キロほど離れた場所にあります。
現在の下野薬師寺には、観るべきというものは何も残されておらず、傍に小さな下野薬師寺歴史館があるだけでした。
わざわざ出かける値打ちがあったのかという気もしますが、
「天下の三戒壇、下野薬師寺の現地に行ったことがある。」
ということに意味があるということで、自身を納得させたという処でしょうか。【「下野薬師寺展」には、栃木に残る2躯の平安前期一木彫像が出展
~17年ぶりの再会に、勇んで出かける】
展覧会には、唐招提寺から、一木彫群の薬師如来立像、伝獅子吼菩薩立像、伝増長天像(奈良・国宝)などが出展されていましたが、私がこの展覧会に出かけたのは、栃木県にわずかに残る平安前中期一木彫像と云われる2像が、揃って出展されたからです。
宇都宮市にある能満寺(羽下薬師堂)・薬師如来立像と、大関観音堂(西刑部観音堂)・菩薩立像です。
この両像は。17年前の2006年にそれぞれのお寺を訪れて拝したことがあるのですが、思いの外の迫力を感じ、心に残っている仏像です。
また再会できるということで、勇んで出かけたというわけです。
両像共に、カヤ材の一木彫像で、9~10世紀の制作とみられています。
地方的な野趣はあるものの、堂々たるボリューム感、ダイナミックな造形感を感じさせる魅力十分の平安古仏です。
【大変古様ながらも、ちょっと穏やかな感じの能満寺・薬師如来像】
能満寺・薬師如来立像の方は、造像以来幾度も修理が行われてきたということですが、見た目の造形、Y字型衣文の着衣などはまさに平安前期の形式です。
ボリューム感も十分なのですが、後世の修理のよるものもあってか、表現がやや形式的で彫りも浅目で、少々穏やかでパワー不足かなというように感じました。
大変古様ながらも、10世紀に入っているかもしれないなという気がしました。
【パワフルさに圧倒される大関観音堂・菩薩立像
~野性味、凄味あふれる、雄大な奈良時代風一木彫像】
一方、大関観音堂・菩薩立像の発散する強烈なパワー、迫力には圧倒されてしまいました。
腰高でくびれた体型、肉付けは奈良時代風のもので、優れた造形力を感じさせます。
雄大な造形で、どこか大陸風のエキゾチズムといった匂いもするようです。
それよりも何よりも、野性味あふれるというか、凄味のあるパワーを発散させるというか、グイグイと迫ってくる威力には、思わず後ずさりをしてしまいそうです。
これほどの力感で迫ってくる地方の仏像にはめったに出会わないというのは言い過ぎかもしれませんが、強く惹きつけるものがある一木彫像だと思いました。
9世紀の制作で納得という処かなという気がしました。
大関観音堂・菩薩立像を観ていると、ふと滋賀草津の宝光寺観音堂に祀られていた聖観音像のことを思い出しました。
無指定の仏像なのですが、平安前中期、10世紀頃かと思わせる一木彫像です。
大関観音堂像よりは、随分穏やかな造形です。
迫力では圧倒的に大関観音堂像に軍配が上がるのですが、何処かしら相通ずる雰囲気、空気感を感じるような気がしました。
皆さんは、如何でしょうか?
【年紀銘がないと、鎌倉時代の作とは思いもつかない但馬薬師寺・薬師像
~まだまだ至らぬ、仏像を観る眼力】
展覧会で、もう一つ気になったのは、福島県南会津町の田島薬師寺・薬師如来像(鎌倉・県指定)でした。
この仏像のことはあまり知らなかったのですが、下野薬師寺から飛来した「生身の秘仏」との伝承がある仏像だそうです。
胎内墨書から、建治4年(1278)に源資保と源頼資が大檀那となり、仏師橘定光が造像したことが明らかになっています。
驚いたのは、
「この仏像が、鎌倉時代に制作されたもので、間違いないのだ。」
ということです。私の印象では、どう見ても鎌倉時代に遡る仏像のようには思えなかったのです。
もっともっと時代の下がる制作像のように感じられます。
鎌倉時代制作像ということがはっきりしていなければ、一瞥しただけで、そっけなく通り過ぎてしまうに違いありません。
自らの仏像を見る眼、眼力がまだまだ至らないと、情けなくなると共に、仏像の制作年代イメージのモノサシというものも、なかなか既成概念にはまるものではないと思い知らされたという処でした。
帰りは、やはり「宇都宮ギョウザ」。
ご一緒した3人で、宇都宮駅前の餃子店で、反省会と称して愉しく一杯飲りました。
一泊二日で、滋賀方面の観仏に出かけました。
【百済寺と岩間寺の秘仏本尊の御開帳に、近江方面へ】
初日は、百済寺・十一面観音像と岩間寺・千手観音像の秘仏御開帳に出かけました。
百済寺御開帳は、10/1~10/16、岩間寺御開帳は10/15~12/4となっていましたので、両方の秘仏御開帳を同時に拝することが出来るピンポイントの10/15に出かけたというわけです。
この二尊像の御開帳観仏記については、観仏日々帖「近江:百済寺・十一面観音と岩間寺・千手観音、二つの秘仏本尊ご開帳拝観記」に詳しく紹介させていただきましたので、そちらをご覧いただくことにして、ここではアッサリふれるだけに致します。
【重文指定記念で特別御開帳の百済寺・十一面観音
~素朴な温かみを感じる、奈良時代の民間造像作例】
百済寺・十一面観音像は、55年に一度開扉の厳重秘仏だったのですが、近年はたまに記念開帳されるようになりました。
今回の御開帳は、本像が2021年に重要文化財に指定され、重文指定記念の意味合いが強いものだと思います。
前回、2006年の御開帳に駆け付けた時は、多くの御参拝者の混雑の中で、何とかお姿を拝しただけということでしたが、今回はそれほどの混雑もなく、ゆっくりジックリ観音像を拝することが出来ました。
本像は「奈良時代に遡る一木彫像」とみられると共に、「在地社会での民間造像的な作例」ではないかと考えられています。
確かに、その通りの感じがする、素朴、古朴な造形表現の不思議な古像です。
奈良時代の民間造像については、さまざまな議論が闘わされてきていますが、百済寺・十一面観音像を眼近に拝していると、こうした問題についていろいろと考えさせられるものがありました。
ただ、そんな難しい話はさておいて、観音像のお姿は、中央のバリバリの一流仏像とは趣きの違う、素朴ななごみや温かみを感じさせてくれるものがあります。
肩の力を抜いて、穏やかに拝することが出来る仏像と云えるのかもしれません。
【開山1200年記念御開帳の、岩間寺・千手観音
~極小像で、良く判らなかったお姿の造形】
岩間寺の千手観音像は厳重な秘仏として守られていて、かつては御開帳されることは無かったのですが、1990年(平成元年)に、なんと365年ぶりに開帳されました。
今回のご開帳(10/15~12/4) は12年ぶりで、岩間寺開山1300年の記念御開帳ということです。
秘仏御本尊は、本堂に祀られいたのですが、堂内にあがっても何処に祀られているのかよく判りませんでした。
よく見ると、御前立本尊の前に、ちょっと気が付かないほどの小さな厨子が置かれていて、その中に、指を広げたくらいの極々小さな千手観音像が祀られていました。
元正天皇(680~748)の念持仏であったとの伝承のある小金銅仏なのですが、私が双眼鏡を取り出し覗いて目を凝らしてみた感じでは、ずーと時代が下がる制作で平安~鎌倉といった時代よりも、もっと後世の制作のような気がしました。
御本尊についての詳しい解説資料も見当たらず、お姿も小さすぎてはっきりとはわからず、ちょっと残念な秘仏御拝観となりました。
今回は
「めったに拝することのできない秘仏御本尊を、直に拝することが出来た。」
ということで納得という処でしょうか。二つの秘仏御開帳に訪ねたついでに、野洲市歴史民俗博物館で開催されていた「近江湖南に華開く宗教文化~野洲・守山の神と仏」展に寄りました。
特段に目を惹く仏像は無かったのですが、旧野洲郡の奈良~鎌倉時代の仏像が10躯程展示されていました。
この日は大津泊まりでしたので、最後に大津市内にある「三橋節子美術館」を訪ねました。
三橋節子は、癌により利き手の右腕を失い、その後、左手で創作を続け35歳で夭折した画家です。
近江の昔話を題材に、幼い子らを残して逝かねばならない境地から描いた情感ある絵画を描きました。
随分昔の話になりますが、私は、1977年に出版された梅原猛著「湖の伝説 画家・三橋節子の愛と死」(新潮社)を読んで、心撃たれるものがありました。
そんなことから、三橋節子美術館には1995年の開館以来、時々訪ねています。
三橋節子の近江昔話の絵は、何度見ても、心に染み入るものがあります。
夜は、大津の「成」で、独り酒。
「成」は小さな割烹で、このお店が6年前に開店した頃に、紹介されて飲みによったことがあるのです。
魚の活きの良さ、よく吟味された食材などベリーグッドで、大津にこんなに美味い店があるのかとビックリした思い出があるのです。
その時以来で訪ねてみたのですが、期待に違わずクオリティが保たれていて美味しく飲ることが出来、大満足でした。
【「観音の里ふるさとまつり」で、当地の古仏が一斉御開帳される湖北へ】
二日目は、観仏同好の会「天平会」の例会に参加しました。
関東からでかけるのはちょっと大変で、めったに参加できないのですが、今回は「湖北・高月~観音の里散策」という例会で、久しぶりにご一緒させていただくことにしました。
この日は、毎年開催の「観音の里ふるさとまつり」の日で、長浜市高月町を中心とした多くのお堂の仏像が一斉に開帳されるのです。
午後スタートの例会の前に、木之本町黒田にある、いも観音・安念寺と黒田観音寺を訪ねてみました。
【村人が、戦火から永年守り抜いてきた安念寺の朽損仏・いも観音
~摩耗したお顔が、微笑みかけているよう】
安念寺には、10躯の朽ち果てた木彫仏が残されています。
安念寺は信長の比叡山の焼討ち(1571)と賤ヶ岳合戦(1583)により、2度、焼失しましたが、村人たちがお堂から仏像を救出、田畑に埋めて隠し守り抜いたと伝えられます。
埋められていた仏像は朽損し、顔の判別もできないほどの姿となりましたが、近くの余呉川で泥土を洗い清め、仮堂に安置。
イモ洗いのように洗い清めたことから、村人は「いも観音」と呼ぶようになったということです。
現在も村落の人々で管理され、近年、お堂の修理費用をクラウドファンディングで募り、350万円程の寄附が集まり、やっと修理に漕ぎ付けることが出来たということです。
この日も、村落の方がお堂に詰められて、拝観のお世話をされていました。
堂内には、平安古仏と思われる朽損仏が立ち並んで祀られています。
顔かたちもはっきりしないほどに朽ちて摩耗していますので、仏教彫刻作品としての評価は難しい処です。
そんなことよりも、千年を超えてこの朽ちた仏像を村人たちが信仰し、戦火を越えて守り抜いてきたということに感慨深いものを感じます。
無残に朽ちておぼろげになってしまったお顔ですが、永年守り抜いてくれた村人たちに、みんな穏やかに微笑みかけているように思えました。
【秀抜で見事な平安前期一木彫の黒田観音寺・観音像
~もっともっと知られて欲しい名作像】
同じ村落にある黒田観音寺を訪ねました。
黒田観音寺には、2メートルもある伝千手観音像が祀られています。
千手観音と伝えられていますが、准胝観音像の作例だと云われています。
こちらの方は、秀抜と云って良いほどの見事な平安前期の一木彫像です。
私は、湖北の仏像の中では、渡岸寺の十一面観音像(国宝)は、別格として置いておくとすると、黒田観音寺の伝千手観音立像が、一番優れた造形で魅力あふれる一木彫像だと思っています。
除く渡岸寺像では、湖北で最もお気に入りの仏像なのです。
ちょっと万人受けのする姿かたちとは言えないのと、御厨子に祀られ真正面からしか拝することが出来ないので、広く評価されないというか、人気が出ないということなのかも知れません。
渡岸寺・十一面観音像が多くの人々から絶賛され、魅惑の仏像として圧倒的な人気を誇っているのと比べると、近所にある黒田観音寺の観音像がさほどに知られていないのは、あまりに可哀想で、もっともっと評価されて然るべきだと思っているのですが・・・・・・
【6年前、東京藝大美術館に初めて寺外出展
~惚れ惚れする素晴らしい優作なのを再認識】
薄暗いお堂の厨子内に祀られている時には強く惹かれるものがあっても、お堂の外に出て博物館に展示され明るい照明のなかで観ると、出来映えが今一歩なのに気づいてガッカリさせられることが時々あります。
黒田観音寺像は、2016年に初めて厨子から出されて、東京藝大美術館で開催された「観音の里の祈りとくらし展Ⅱ」に出展されました。
この時、初めて360度ビューで観ることが出来ました。
果たして、お堂で見た時よりも、はるかに素晴らしい出来の見事な像であることに気づかされました。
とりわけ、背面の衣文の彫りの見事さには、見惚れてしまいました。
9世紀の半ば頃か、もう少し後の制作ではないかと感じるのですが、間違いなく「湖北屈指の優作」だと思います。
「凛とした男らしさを感じる、緊張感あふれる、堂々たる傑作像」
です。【渡岸寺をはじめ、高月町の古仏を巡る
~久々に観仏同好の会「天平会」に参加】
午後からは天平会の例会で、渡岸寺・十一面観音像をはじめ、「観音の里ふるさとまつり」で開帳されていた、近隣の大円寺高月観音堂と浄光寺の仏像など拝観しました。
講師の長浜市歴史遺産課の秀平文忠先生の懇切なご説明で、愉しく興味深く拝観することが出来ました。
渡岸寺・十一面観音像は言わずもがなの超有名仏像、高月観音堂、浄光寺の仏像は室町時代の制作像でした。
【16年前、胎内仏が発見された冷水寺の鞘仏・十一面観音像
~胎内仏は賤ケ岳合戦で焼損したと伝える、平安の焼け仏】
このあと、30分ほど歩いて冷水寺を訪ねました。
冷水寺の十一面観音坐像は、その体内に焼けた仏像を納める鞘仏であることが判明し、注目を浴びている仏像です。
冷水寺観音堂の十一面観音像は江戸時代の仏像なのですが、伝承によると
「このお像は、元禄15年(1702)に京都で制作されたもので、賤ケ岳の合戦(1583)で焼けてしまった本尊の観音像を、御開帳法要の際にその胎内と台座内深く納めた。」
と伝えられていたのです。平成8年(1996)に観音堂の屋根を修復することになり、十一面観音坐像が「町立観音の里民俗資料館」に一時保管されることになったとき、焼損した鞘仏が伝承通り胎内・台座内から発見されたのでした。
胎内仏は、焼損して痛ましい姿になっていますが、平安時代の一木彫像だと見られています。
発見された胎内仏は、元通り鞘仏と台座内に戻されて、今は観ることは叶いません。
鞘仏の十一面観音像は、小さな観音堂に祀られていて、眼近に拝することが出来ました。
【「世界一小さな博物館」の資料館で、胎内仏発見の写真資料などを拝見】
観音堂のすぐそばには、「世界一小さな博物館」と銘打った「冷水寺胎内仏資料館」がありました。
一間、8畳ほどの極々小さな展示場ですが、胎内仏発見時の写真や、胎内に納まっている様子の合成写真が展示されていました。
一度、この鞘仏を見に訪ねてみたいと思っていた冷水寺。
天平会例会に参加させてもらったお蔭で、拝観を果たすことが出来ました。
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