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観仏日々帖

トピックス~「聖徳太子と法隆寺展」 出展仏像余話 〈法起寺の飛鳥仏・木造如来立像〉  【2021.04.09】


私が、その存在を全く知らなかった飛鳥時代の木彫像が、「聖徳太子と法隆寺展」に出展されます。

230法隆寺展法起寺:「聖徳太子と法隆寺」展チラシ


【存在すら全く知らなかった、法起寺の飛鳥仏・木彫如来像】


法起寺の如来立像というものです。

奈良博HP掲載の出展目録には
「如来立像 1躯  飛鳥時代 7世紀 木造 漆箔 奈良法起寺」
と記されています。

考えてみても、
「法起寺に、そんな木彫像があったっけ?」
と、全く頭に思い浮かびません。

230法隆寺展法起寺:法起寺
斑鳩・法起寺

飛鳥白鳳期の木彫像と云えば、10件ちょっとしか遺されていないはずで、極めて重要なものだと思いますが、恥ずかしながら、その存在すら知りませんでした。
「どんな像なのだろうか?」
と、気にかかっていた処、奈良国立博物館からこんなプレスリリースが発表されました。



【奈良博が、CTスキャン調査知見をプレスリリース
~法起寺・如来像は間違いなく飛鳥時代の仏像】


「聖徳太子1400年遠忌記念 特別展「聖徳太子と法隆寺」

と題するもので、この法起寺の如来像についての新知見が発表されていました。
(プレスリリースの内容は、奈良国立博物館HP お知らせプレスリリースに掲載されています~2021.2.25~)

掲載されている、法起寺・如来像の写真をご覧ください。

230法隆寺展法起寺:法起寺・木造如来立像(飛鳥時代)
「聖徳太子と法隆寺」展に出展される
法起寺・木造如来像(飛鳥時代)


なるほど、いかにも飛鳥白鳳期の仏像、という造形の木彫像です。
像高104㎝もある大きな像です。

プレスリリースの主旨は、
展覧会出展に先立って、本像のCTスキャン調査を行ったところ、
「面部をはじめ後補部分は多いものの、飛鳥時代の制作像であることに間違いないことが確認された」
というものです。

具体的には、CTスキャン調査により、
・後補部分は、面部、右体側部、背面のすべて、脚部の下方。
・当初材部分は、後頭部、左体側部を含む体部全面材で、下腹部に当てる左手は指先まで木目が通っている。
ことが、確認されたとともに、
用材は、飛鳥時代特有のクスノキ材と考えられ、造形表現などからも飛鳥時代の作であることは疑いないということです。



【何故だか「知られざる飛鳥仏」となっている、法起寺・如来像】


プレスリリースでも、
「制作が飛鳥時代にさかのぼるとすれば、木彫の如来立像としては屈指の古像であり、像高1メートルを超える点も他に例をみない。」
と、述べられています。

そんな、「飛鳥時代の屈指の古像」の存在が、どうして、これまで広く知られることがなかったのでしょうか?

なんとも不思議な話です。



【「知られざる飛鳥仏」となったいきさつは?
~かつて発見報道直後に訂正発表、顔部が後補と判明】

その訳は、プレスリリース冒頭に、

「この像は平成5年(1993)に奈良国立博物館の調査で「わが国最古の弥勒如来像」と評価されて一躍脚光を浴びた。
しかし、直後に現在の面相とは異なる姿が古写真で確認され、面相部は補作と訂正されたため、以降は広く公開される機会がなかった。」

と、述べられているいきさつにあるようです。
このことが「知られざる飛鳥仏」となってしまっていた事由らしいのです。

どんな話だったのでしょうか?

この話、当時の新聞記事があることを、ある方から教えていただき、ちょっと関心が沸いてきて調べてみました。
なかなか興味深い、いきさつの話であったことが判ってきました。

ご紹介してみたいと思います。



【1993年、奈良博が最古級飛鳥仏・弥勒如来像と発表
~大発見と新聞各紙が一斉に報道】

平成5年(1993)10月、こんな見出しの記事が、新聞各紙に掲載されました。

「最古級の飛鳥仏発見 奈良法起寺 木造の弥勒如来 保存良好 微笑などに特徴」
(京都新聞 1993.10.19付朝刊)

「日本最古の弥勒如来像 奈良・法起寺に7世紀中ごろの作~奈良国立博物館が発表」
(毎日新聞 1993.10.19付大阪朝刊)

「最古の「弥勒如来」? X線撮影で確認 奈良・斑鳩の法起寺」
(読売新聞 1993.10.19付朝刊)


「飛鳥時代の木彫仏像、日本最古の弥勒如来像作例の大発見」という報道です。

230法隆寺展法起寺:法起寺・如来像発見新聞記事(京都新聞)
京都新聞 1993.10.19付朝刊掲載記事

230法隆寺展法起寺:法起寺・如来像発見新聞記事(毎日新聞)
毎日新聞 1993.10.19付朝刊掲載記事

230法隆寺展法起寺:法起寺・如来像発見新聞記事(読売新聞)
毎日新聞 1993.10.19付朝刊掲載記事

京都新聞の記事のリード文が、コンパクトにまとめられていますのでご紹介します。

「奈良国立博物館は18日、聖徳太子ゆかりの奈良県生駒郡斑鳩町の法起寺(高田良信住職)に伝わる木造の如来立像が、飛鳥時代(6世紀末~7世紀中ごろ)につくられた弥勒如来像と分かった、と発表した。

日本の仏教文化が始まったばかりの飛鳥時代の木彫仏像は、法隆寺の国宝・百済観音像など十数点が残るだけで、関係者らは
「同時代の木彫仏像が確認されるケースはほとんどない」
と驚いており、日本最古級で重文クラスの貴重な発見。

弥勒如来像は、これまで白鳳時代(七世紀後半)が最古とされており、古代仏教美術史、宗教史研究に大きな影響を与えそうだ。」



【X線調査結果、顔立ちなどから飛鳥仏と判定、弥勒如来の最古例との見解】


各社の新聞報道ポイントをまとめると、次のようなものです。

・奈良国立博物館は、法起寺・如来像が、飛鳥時代(7世紀中頃~650年頃)の制作で、日本最古の弥勒如来とみられると発表した。
・顔立ちをはじめとした像の造形表現は、飛鳥時代の制作と思われる。
・後世の模古作という見方もあったが、X線調査の結果、補修クギなどから、中世以降の後補部分はあるものの、主要な体幹部は飛鳥時代の特徴であるクスノキの一木彫像であることが確認された。
・左手の指先を下にして手の甲を見せることから、弥勒如来像と考えられ、「弥勒如来のわが国最古例」と考えられる。

これは、大変な大発見です。

飛鳥時代の木彫の大型像が発見されたというだけでも、超ビックリです。
新聞写真をみると、いかにも飛鳥時代の仏像らしい顔立ちです。
「一見しただけで飛鳥仏という姿かたちの大型像が、どうして、今まで知られることがなかったのだろうか?」
というのが、率直な実感ですが、これまでは鎌倉時代以降の模古作と見られていたということのようです。

かけて加えて、この像が弥勒如来だというのですから、これまた凄い話です。

ただ、弥勒像かどうかの、はっきりした決め手はなかったようです。
両手の印相が、東大寺・弥勒仏像など、弥勒像に見られるものであることや、法起寺塔露盤銘に舒明10年(638)に弥勒像を造ったと記されることなどから、そのように想起されたものではないかと思われます。

230法隆寺展法起寺:東大寺・弥勒像(国宝・平安前期)
東大寺・弥勒如来像(国宝・平安前期)
左手の指先を下にして手の甲を見せる印相となっている


異論もあったようで、新聞記事によると、高田良信住職は「釈迦如来像にあたると推測される」とのコメントを行っています。
もし弥勒如来像だったとすれば、従来最古とされたのが当麻寺・弥勒如来像(天武10年・681)ですから、現存最古例の大発見となるという訳です。

230法隆寺展法起寺:当麻寺・弥勒像(国宝・白鳳時代)
現存の弥勒如来の最古例とされている当麻寺・弥勒仏像
天武10年(681)の制作とされる(国宝・白鳳時代)


この発見発表で、一躍脚光を浴びた法起寺・如来像は、法隆寺の聖徳会館で、12月15日から4日間、一般公開展示される運びとなりました。



【2か月後に、奈良博が衝撃的な訂正発表!
~「顔部は、昭和新補だったと判明」】

ところが、一般公開初日の12月15日、なんと奈良国立博物館から、衝撃の訂正・謝罪発表が行われました。

飛鳥時代の制作とした法起寺・如来像の顔は、
「昭和に造られた新補であったことが判明した」
というものです。

新聞各社は、このような見出しで報じています。

「顔面は昭和に制作」 法起寺の弥勒如来像 首に張り合わせた跡」
(奈良新聞 1993.12.15付朝刊)

「「日本最古」法起寺の弥勒如来 顔面に昭和の補修 奈良国立博物館が謝罪」
(読売新聞 1993.12.15付朝刊)

「“最古”の弥勒如来、顔は昭和製 奈良博物館が異例の訂正~斑鳩の法起寺」
(毎日新聞 1993.15.15付朝刊)


230法隆寺展法起寺:法起寺・如来像奈良博訂正記事(奈良新聞)
奈良新聞 1993.12.15付朝刊掲載記事

230法隆寺展法起寺:法起寺・如来像奈良博訂正記事(読売新聞)
読売新聞 1993.12.15付朝刊掲載記事

230法隆寺展法起寺:法起寺・如来像奈良博訂正記事(毎日新聞記事)
毎日新聞 1993.12.15付朝刊掲載記事

奈良新聞のリード文は、このように報じています。

「奈良国立博物館は14日、10月18日に最古級の飛鳥仏として発表した法起寺(斑鳩町岡本、高田良信住職)の弥勒如来像に関して
「耳から前の顔面部分は昭和になってからそっくり造り替えられたものだった」
と異例の訂正発表を行った。

この仏像の以前の顔を知る文化庁職員の指摘により再調査した結果分かったもので、調査にあたった同博物館は
「今後二度とこういったことが起こらないよう調査活動を慎重に行いたい」
と平身低頭。

仏像が造られた時代に合わせるよう、アルカイックスマイルをたたえた表情に造り替えられた顔相は、現代の学者の目をも誤らせるほどの出来栄えだった。」



【顔部が現在と異なる昭和初期写真の存在が指摘される
~石田茂作著「飛鳥時代寺院址の研究」に掲載】

新聞記事によると、如来像の顔が昭和製だと判明したのは、昭和11年(1936)刊の「飛鳥時代寺院址の研究」(石田茂作著)に、この如来像の写真が掲載されていて、その顔が、明らかに現在の顔とは異なるものであることが、文化庁の若手研究者から指摘があったことによるものでした。

指摘を受けて、奈良博で、再度、肉眼観察とX線で調べた処、顔面は後頭部だけを残して、耳の後ろから切り離し飛鳥仏に似せた顔を漆のようなもので接着したらしいとわかった、ということです。

奈良博のコメントとして、
(註:顔部の補修を)だれが、どういう意図で、いつ行ったのかは、全く不明。
(註:奈良国立)博物館では、
「推測の域を出ないが決して悪意ではなく、寺の関係者か結縁のある人が造り替えられていた顔相を当初の姿に戻そうと飛鳥仏の顔相に造り直させたのでは」
と話している。」
(奈良新聞)
と、報じられています。

「飛鳥時代寺院址の研究」に掲載されていた、昭和11年以前の法起寺如来像の写真は、次の通りです。

230法隆寺展法起寺:「飛鳥時代寺院址の研究」掲載~法起寺・如来像写真

230法隆寺展法起寺:「飛鳥時代寺院址の研究」掲載~法起寺・如来像写真
「飛鳥時代寺院址の研究」に掲載されている法起寺・如来像写真

顔は、誰がみても明らかに違います。

230法隆寺展法起寺:「飛鳥時代寺院址の研究」掲載~法起寺・如来像顔部230法隆寺展法起寺:法起寺・如来像~顔部新補後の写真
(左)「飛鳥時代寺院址の研究」掲載写真、(右)顔部新補後の写真
右手先も新補されたと思われる


古い写真お顔は、時代もかなり下がるのは間違いありません。



【石田茂作氏は、執筆当時「鎌倉以後の擬古作」との見解】


石田茂作氏は、本像について、このように述べて、「鎌倉以後の擬古作である」と論じています。

「像全体の様子は如何にも古朴に見えるもので、・・・・・・・
推古仏のにほひを多分にもっている。
然しその製作年代を飛鳥時代と断ずることは六(ママ)かしく、寧ろ鎌倉以後の擬古作とすべきであろうが、それにしても彫刻史上興味ある資料である。」
(石田茂作著「飛鳥時代寺院址の研究」1936年聖徳太子奉賛会刊)

ご存じの通り、石田茂作氏の「飛鳥時代寺院址の研究」は、古代寺院址研究の定本中の定本と云っても良い著作です。
本書に、古い写真が掲載されていたことに、研究者が気付かなかったというのは、ちょっと「迂闊」と云われても、仕方ないような気がします。



【世の注目度が、一気に萎んでしまった、法起寺・如来像
~その後、展示公開されず】

それにしても、「飛鳥時代らしい顔つき」との発表をした顔貌が、「昭和新補の模古作の顔」であったというのですから、ダメージが大きかったのではないでしょうか。
この訂正・謝罪発表で、脚光を浴びた法起寺・如来像に対する世の注目度は、一気に萎んでしまったようです。

冷静に考えてみると、顔部が昭和の新補だったということをさておけば、
「主要な体躯は飛鳥時代の制作とみられる」
という見解なのですから、貴重な飛鳥時代の木彫如来像であることには変わりはないのですが、この「事件?」以降、本像については、採り上げられたり、展示公開されたりすることは無かったようです。

石田茂作氏のいう鎌倉以後の模古作なのか、飛鳥時代の制作なのかは、その後の議論がされなかった法起寺・如来像ですが、今回の奈良博プレスリリースで、
「主要な体躯は飛鳥時代の制作とみて間違いない」
ことが、ハッキリしたということなのだと思います。



【過去の著作で本像に言及していた、仏像修復・研究家の太田古朴氏】


ところで、この法起寺・如来立像。

石田茂作氏が「飛鳥時代寺院址の研究」で採り上げた他には、言及した人はいなかったのでしょうか?

私のわかる範囲で、本や論考にあたってみたりしてみましたが、本像にふれたものは、なかなか見当たりませんでした。
唯一、太田古朴氏の著作に、この法起寺・如来像にふれた記述を見つけました。
ほんの一行だけなのですが、次の通りです。

太田古朴著「仏像研究三十年」1965年(綜芸社刊)に掲載された「新発見新紹介仏像目録」リストに
弥勒如来木彫 (新納先生) 斑鳩・法起寺   (カッコ内は発見者・発見協力者)
と記されていました。

また、太田古朴著「飛鳥 奈良」1981年(綜芸社刊)に掲載された、「日本の彫刻の主なもの」リストの「飛鳥時代の項」に、
弥勒仏立像 (頭部失) (近年補) 法起寺
と記されていました。

230法隆寺展法起寺:太田古朴著「飛鳥 奈良」「仏像研究三十年」



【飛鳥時代の制作で、頭部は近年の補作とした太田古朴氏
~1993年の奈良博発表・訂正より以前からの見解】

二著の記述からすると、太田古朴氏は、奈良博が調査結果発表を行った1993年以前から、
「本像は、飛鳥時代の制作で、頭部は近年の新補、尊像名は弥勒仏像である。」
と考えていたようです。

太田古朴氏(1914~2000)は、奈良美術院で仏像修理を学び、その後は在野の仏像修復家、仏像研究家として活動した人物です。

230法隆寺展法起寺:太田古朴氏
太田古朴氏

また、ここに名前が出てくる「新納先生」というのは、長らく美術院の総責任者として仏像修理に携わった新納忠之介氏(1869~1954)のことです。

これらの記述からすると、太田古朴氏、新納忠之介氏は、この如来像の頭部が昭和に入ってから飛鳥時代風の模古作に新補されたことを知っていたということになります。
想像を逞しくすると、仏像修復家として、新補に何らかのかかわりを持っていたのかもしれません。
奈良博で本像の発見・訂正発表があった1993年当時、太田古朴氏はまだ79歳で存命でしたので、この時に太田氏に訊ねれば、その事情が判ったのかもしれません。

研究者でも見間違ってしまう程の出来の模古新補ということであれば、美術院レベルの関係者が携わっていてもおかしくないのではという気がしますが・・・・・。


「知られざる飛鳥仏」といえる、法起寺の如来立像。

本像にまつわる、ちょっとややこしくなってしまった発見物語をたどってみました。



【「聖徳太子と法隆寺展」で、初めて法起寺・如来像を観るのが愉しみ】


法起寺の如来立像が俄かに注目を浴びてから、20年近くが経ちました。

振り返ってきたいきさつによるものか、広く公開されることのなかったようなのです。
そして、ようやくというのか、やっとというのか、此度の「聖徳太子と法隆寺展」に出展されることになったという訳です。

展覧会で、眼近に観ることが出来るのが、愉しみです。

如来像のお顔が、「昭和の新補、模古作」であることを、自分の眼で見分けることが出来るのでしょうか?


コメント

ご無沙汰しております。
仏像のドラマ、詳しくご説明いただき、ありがとうございます。
私は、奈良の古刹の仏像なら、なおさら、仏像にはモデルがいたのではないかと思うのです。
元の法起寺如来像、のんびりした感じのお顔ですね。通常、モデルにされたのは高貴な身分の方ではないかと思うのですが。

  • 2021/04/26(月) 21:43:13 |
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  • ライラック #boCFdjYk
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