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観仏日々帖

トピックス~「聖徳太子と法隆寺展」出展仏像余話〈金堂・薬師如来像と奈良博覧会〉 【2021.03.27】


今年、奈良国立博物館と東京国立博物館で、聖徳太子1400年遠忌記念~特別展「聖徳太子と法隆寺」が開催されます。

229法隆寺展薬師:「聖徳太子と法隆寺」チラシ

奈良国立博物館:4月27日~6月20日 開催

東京国立博物館:7月13日~9月05日 開催


奈良博展では、

「明治11年(1878)に、法隆寺から皇室へと献納された「法隆寺献納宝物」が、奈良へまとまって里帰りする」

と、話題になっています。



【展覧会の一番の目玉は、金堂・薬師如来像の出展実現】


やはり、なんといっても、この展覧会の一番の目玉は、

「国宝・薬師如来坐像 (飛鳥白鳳時代)の出展」

でしょう。

229法隆寺展薬師:法隆寺金堂・薬師如来像
法隆寺金堂・薬師如来像(国宝・飛鳥白鳳時代)

薬師如来像は法隆寺金堂の内陣東の間に安置されていますが、金堂内で拝すると安置位置までの距離が結構遠く、また薄暗いので、はっきり観ることが出来ません。

その薬師如来像が、なんと寺外へ出て展覧会へ出展されるというのです。
これまで、無かったことです。
明るい照明の中で、眼近にじっくりとその姿を観ることが出来る得難いチャンスです。
大変な愉しみで、今から、待ち遠しい思いです。



【用明天皇勅願の造像銘がある薬師像~法隆寺再建後の擬古作説が有力】


この薬師如来像、ご存じの通り、光背に造像銘が刻されています。

銘文には、
「用明元年(586)に、用明天皇が病気平癒のために寺と薬師像を誓願したが、天皇は果たせず崩御、託された推古天皇、聖徳太子が遺詔を受けて、推古15年(607)にこれらを完成させた。」
旨が記されています。

かつては、この造像銘に則り、607年頃の製作像とされていましたが、昭和に入ってからは、銘文の文言研究、造形表現の研究などが進められ、現在では、推古年代の制作ではなく、後の模古作、擬古作だと考えられています。
制作年代は、法隆寺の天智9年(670)の火災以降の作とみる説が有力のようですが、それ以前に遡るとする説もあります。



【差し替え訂正された、薬師像写真掲載の展覧会チラシ】


この特別展の展覧会チラシをご覧になってください。

229法隆寺展薬師:展覧会チラシ・修正前229法隆寺展薬師:展覧会チラシ・修正後
法隆寺・薬師如来像写真が掲載された展覧会チラシ

「薬師如来像」の単体写真が使われています。
やはり、大注目の目玉出展ということです。

全く同じチラシ写真を2枚並べさせていただきましたが、左右で、どこかが違うのにお気づきになったでしょうか?
間違い探しのクイズのつもりで、違う処を探してみてください。

そうです。
右下の小さな円の中の文言が違うのです。

229法隆寺展薬師:展覧会チラシ・修正前(寺外初公開)229法隆寺展薬師:展覧会チラシ・修正後(傑作)

左の方は 「寺外初公開」
右の方は 「古代仏像彫刻の傑作」
と記されています。

どうして、文言が違うのでしょうか?

実は、左は昨年(2020)10~11月ごろ作成されたチラシ、右は、その後、12月に訂正されて作成されたチラシなのです。



【正確には「寺外初公開」ではなかった薬師像
~明治8年の奈良博覧会へ出展されたことが・・・・】


特別展「聖徳太子と法隆寺」のツイッター(12月10日)に、次のように書かれていました。

「10/28と11/6のツイートで掲載したチラシ画像の中に訂正がありました。
国宝 薬師如来坐像について、「寺外初公開」と表記されていましたが、明治8年(1875)の第一次奈良博覧会の目録に当該作品とみられる表記がありましたので、訂正させていただきます。」

このチラシを作った方は、
金堂の薬師如来像は、かつて一度も寺の外へ出て展示されたことは無く、「今回寺外初出展」と思い込んでいた処、実は150年弱前の明治8年の「奈良博覧会」に出展されていたことが判明したので訂正した。
ということなのです。

150年も前の博覧会に出たことがあるだけで、所謂、美術館、博物館の展覧会に出展されるのは今回が初めてということなのですから、「寺外初公開」の表記でも、大目に見て良いじゃないか思わないわけではないですが、どなたかからの指摘があったということなのでしょう。



【「奈良博覧会」展示目録にはっきり記される「用明天皇勅願 金銅 薬師如来」】


明治8年(1875)に開催された「(第一次)奈良博覧会」なのですが、ツイッターにあるように、その展示目録が作成されて残されているのです。

ご覧の目録が、「薬師如来像の展示」が記されているページです。

229法隆寺展薬師:第1次奈良博覧会目録
第1次奈良博覧会目録~法隆寺薬師像か記されているページ

右下の方に、
「用明天皇 勅願
金銅 薬師如来     法隆寺
有銘数字ナル故ニ不記載」
と、はっきり書かれています。

229法隆寺展薬師:第1次奈良博覧会目録・薬師掲載箇所
第1次奈良博覧会目録~法隆寺薬師像掲載箇所

これは、間違いなく「金堂東の間の薬師如来像」のことです。

私は、この薬師像が「奈良博覧会」に出たことがあるということを、たまたま知っていましたので、
「やはり、そういうことになるのだろうな!」
と、一人、納得した次第です。



【大仏殿と回廊で開催された「奈良博覧会」
~勅封・正倉院宝物の出陳などで大盛況】

後にも先にも寺外に出たことのない金堂・薬師如来像が出展された「奈良博覧会」というのは、どのような博覧会であったのでしょうか?

「奈良博覧会」は、明治8年(1875)に第1次(第1回)奈良博覧会が開催され、その後、明治27年の第18次奈良博覧会まで、開催されました。
博覧会は、なんと東大寺にて開催され、大仏殿内と回廊が展示会場となっていました。

229法隆寺展薬師:明治14年頃の東大寺大仏殿古写真
奈良博覧会開催当時の東大寺大仏殿~明治14年頃の古写真

博覧会には、社寺や旧家が所蔵する什宝や書画の他に、商工業品、名産品などが出展されています。
そして、特筆すべきことは、勅封正倉院宝物が開封され、多数の宝物が出展されたことです。
正倉院宝物は、第1次から第5次まで、第4次を除いて、4回に亘って出展されており、その後は、出展されることは無くなっています。
第1次の時には、目録によれば、220件、1700点以上の正倉院宝物が出展されていて、これだけの名品が勢揃いして出展されたなどというのは、今では考えられないことです。

229法隆寺展薬師:正倉院宝物(黄熟香~蘭奢待)229法隆寺展薬師:正倉院宝物(黒漆水瓶~漆胡瓶)

229法隆寺展薬師:正倉院宝物(紫檀碁局)229法隆寺展薬師:正倉院宝物(楓蘇芳染螺鈿槽琵琶)
奈良博覧会に出品された正倉院宝物
上段:(左)黄熟香~蘭奢待、(右)黒漆水瓶~漆胡瓶
下段:(左)紫檀碁局、(右)黒漆水瓶~楓蘇芳染螺鈿槽琵琶


この奈良博覧会こそ、戦後、昭和21年(1946)にスタートした、奈良博開催「正倉院展」の元祖と云っても良いものだと思います。

また、法隆寺、東大寺をはじめとした社寺や、個人蔵の古器旧物は、正倉院宝物の数をはるかに倍する膨大な量が陳列されました。
まさに、考えられないような超大規模な古美術展覧会と云って良いものだと思います。

この奈良博覧会、想定以上の大人気、大盛況となったようで、第1次博覧会は、80日間で17万人を超える観客数が記録されています。
まだ、鉄道など無い、明治8年に、これだけの人々が詰めかけたという訳ですから、盛り上がりのほどが伺われます。



【奈良博覧会への大規模な文化財出展をアレンジした町田久成・蜷川式胤】


どういう訳で、これだけ大規模に古器旧物が集められた大規模古美術展が開催されたのでしょうか。

当時、明治初期は、各地で地方博覧会が盛んに開催されていて、奈良博覧会もその一つと云えるものだと思います。
こうした地方博覧会は、殖産興業、地元経済活性化的な目的が強くて、商工業品、工芸品、物産品の展示に重点が置かれるものであったようです。

一方、奈良博覧会が大規模な文化財展観を行う博覧会となった訳には、町田久成、蜷川式胤の果たした役割が、大変大きかったようです。

229法隆寺展薬師:町田久成229法隆寺展薬師:蜷川式胤
(左)町田久成、(右)蜷川式胤

町田、蜷川と云えば、明治5年に、政府としての近代初の文化財調査である近畿東海地方古社時調査(壬申宝物検査)を行った人物です。
この調査の時に、勅封正倉院を開封し、9日間にわたり丹念に宝物調査を実施しているのです。



【奈良の地への博物館新設構想を持っていた町田久成
~奈良博覧会は博物館建設への布石】

町田、蜷川は、国家による文化財保護を進めるために、奈良に博物館を建設し、正倉院宝物や古社寺の宝物などを、新設の博物館で展示する構想を持っていました。
そして、その布石として、奈良博覧会においてこれらの宝物を展示し、博物館建設実現の第一歩としたいと考えたようなのです。

町田久成は、明治15年に開設された、上野の「博物館」の初代館長に就任している人物で、文部官僚として大きな力を持っていました。
こうした町田、蜷川の働きかけにより、正倉院宝物までもが出展されるという、大古美術展覧会的な博覧会の実現に至ったという訳です。



【法隆寺から際立って多くの宝物が博覧会に出品
~出品目録には、ピンとくる品々の名前がズラリと】

もう一つ、奈良博覧会といえば、落とすことが出来ないのは、「法隆寺と奈良博覧会との関わり」の話です。
冒頭にふれた、薬師如来像の出展にも関係する話です。

第1次、第2次の奈良博覧会の時に作成された出品目録が現在も残されているのですが、その目録には、際立って数多くの法隆寺からの宝物出品物が記載されています。

229法隆寺展薬師:第一次奈良博覧会目録
第一次奈良博覧会目録~冒頭ページ

(この目録は、奈良県立図書情報館・まほろばライブラリーに収録されておりNET上で観ることが出来ます。
奈良博覽會物品目録 [明治8年]   奈良博覽會物品目録 [明治9年] )


法隆寺の根本本尊的な薬師如来像まで出品されているのですから、ちょっと驚きです。
その他も、持ち運び易い小型の宝物は、根こそぎ博覧会に運び出されている観があります。

丹念に目録を見ると、このような出品物の記述があるのに気が付きます。

聖徳太子四巻義疏、聖徳太子像 阿佐太子筆
金銅佛四十八体、摩耶夫人肖像、天人三躯、妓楽面、舞楽面

名前をご覧になると、これらが何を指すのかすぐに気づかれたことと思います。
それぞれ、

御物の法華義疏(紙本墨書4巻)、唐本御影(聖徳太子及び二王子像)
東博・法隆寺宝物館にある金銅四十八体仏像、摩耶夫人・天人像、伎楽面・舞楽面

のことに間違いないと思われます。

229法隆寺展薬師:御物・法華義疏229法隆寺展薬師:唐本御影(聖徳太子及び二王子像)
(左)御物・法華義疏、(右)御物・唐本御影(聖徳太子及び二王子像)

229法隆寺展薬師:東博法隆寺宝物館・如来像229法隆寺展薬師:東博法隆寺宝物館・丙寅銘菩薩半跏像
東博法隆寺宝物館(左)如来像、(右)丙寅銘菩薩半跏像

229法隆寺展薬師:東博法隆寺宝物館・摩耶夫人天人像229法隆寺展薬師:東博法隆寺宝物館・伎楽面
東博法隆寺宝物館(左)摩耶夫人天人像、(右)伎楽面

これらの法隆寺の宝物が奈良博覧会に出展された時に撮影されたものだと推測される古写真が、不思議なことにイギリスに残されています。

イギリス王室所有(ロイヤル・コレクション・トラスト保管)の文化財写真です。
英王室のアルバート王子、ジョージ王子の二人が明治14年(1881)に日本に来訪したとき入手した写真の中に、何枚も「奈良博覧会出展時の四十八体仏や伎楽面など」と思われる写真があり、HPに掲載されているのです。

229法隆寺展薬師:奈良博覧会出展時の法隆寺四十八体仏古写真

229法隆寺展薬師:奈良博覧会出展時の法隆寺四十八体仏古写真

229法隆寺展薬師:奈良博覧会出展時の法隆寺伎楽面古写真
奈良博覧会出品時に撮影されたと思われる法隆寺宝物写真
明治14年ごろ撮影~四十八体仏・伎楽面~
イギリス王室所有(ロイヤル・コレクション・トラスト保管)の文化財写真

(「ROYAL COLLECTION TRUST」 HP の NEAR YOUページ を開いて、MAPの位置を日本の奈良に合わせると掲載写真をみることが出来ます。)


【法隆寺の博覧会出品宝物は、一括して皇室への「献納宝物」へ
~アレンジしたのは町田久成?】

どういうことなのか、皆さんお気づきになったことと思います。

そうなのです。
これらの品々は、明治11年(1878)に、法隆寺から皇室に献納された「法隆寺献納宝物」そのものなのです。
「法隆寺献納宝物」は総数332点ですが、そのほとんどは、
「奈良博覧会への出品物が、皇室へ献納された」
という訳です。

法隆寺では、明治維新後の財政困窮を乗り越えるため、千早定朝管主の決断によって宝物を献納し、皇室より1万円の下賜金を得ることになります。

この宝物献納をアレンジしたのが、町田久成であったようです。
町田は、法隆寺からの多数の宝物を奈良博覧会に出品させて、その出品物を丸ごと一括して、皇室への献納宝物とするというストーリーを描いたということなのでしょう。



【博覧会終了後、正倉院宝庫にそのまま保管された献納宝物
~寺に戻ったのは薬師如来像など限られたものだけ】

そういう訳で、博覧会に出展された法隆寺献納宝物は、第2次奈良博覧会終了後も法隆寺に戻されることは無く、献納が決まった後は、正倉院の宝庫に移され保管されたのでした。

ただし、法隆寺の博覧会出品宝物のうち、お寺の方でどうしても必要なもの、ごくわずかは持ち帰られたようです。
冒頭でご紹介した用明天皇勅願薬師如来像の他にも、玉虫厨子、土偶人(五重塔塔本塑像)、持国天・多聞天木像(金堂・四天王像)なども、博覧会に出品されていますが、これらは献納されずに法隆寺に戻されています。

事と次第によっては、薬師如来像も玉虫厨子も献納宝物となっていたことも、あり得たのかもしれません



【正倉院宝物、法隆寺献納宝物を、奈良新設の博物館展示品に
~町田久成のビジョン】

町田久成が、「奈良に博物館を建設する構想」を持っていたことは、先にふれましたが、町田は、その新設博物館において、正倉院宝物や法隆寺献納宝物を展示することを目論んでいたのだと思います。

奈良博覧会への正倉院宝物の陳列や、法隆寺宝物の出品と献納宝物化は、その布石であったと云えるのでしょう。
そう考えれば、献納された法隆寺宝物が、正倉院の宝庫で保管され続けていたことも納得が行く処です。

残念ながら、奈良の地への博物館建設は、早々に実現することは叶いませんでした。
奈良帝国博物館が竣工開館したのは、明治28年(1895)のことでした。



【上野に開設された「博物館」の陳列品となった法隆寺献納宝物】


一方、明治15年(1882)に東京上野に「博物館」が開館することになりました。

229法隆寺展薬師:明治15年に開館した上野の「博物館」
明治15年に開館した上野の「博物館」

正倉院宝庫に保管されていた法隆寺献納宝物は、この時に、上野の博物館に移されることになったのです。
そして、皇室御物を博物館に貸与するという形で、陳列品に加えられることになりました。

上野の博物館の初代の館長には町田久成が就任していますので、法隆寺献納宝物の奈良から東京への移送についても、町田の関与や意向によるものかもしれません。

229法隆寺展薬師:東博平成館前の初代館長・町田久成胸像
東博平成館前に設置された初代館長・町田久成胸像

奈良博覧会や法隆寺献納宝物の話が、ちょっと長くなってしまいました。



【画期的と云える、薬師如来像の展覧会出展の実現】


話を、「聖徳太子と法隆寺展」への薬師如来像の出展の方に戻したいと思います。

これまで、博物館に決して出展されることのなかった「薬師如来像」の展覧会出展が実現したことは、まさに画期的なことだと思います。

金堂中の間の釈迦三尊像に比べると、ちょっと目立たない存在なのかもしれませんが、大変優れた国宝仏像です。
博物館の明るい照明の中で、薬師如来像を眼近にすると、法隆寺の金堂で拝するのとは、違った印象、新たな発見を感じることが出来ることと思います。
法隆寺の金堂では決して観ることのできない、光背背面の造像銘も、直に目にすることが出来るかもしれません。

一見、止利仏師の作と云われても納得してしまいそうな薬師如来像。
「白鳳期の擬古作」ということを、実感することが出来るでしょうか?



【寺外公開未実現なのは金堂・釈迦三尊と夢殿・救世観音だけに
~展覧会出展は叶わぬ夢?】

今回の薬師如来像の博物館出展実現で、未だ法隆寺から寺外に出て、博物館展示されたことのない仏像は、

「金堂・釈迦三尊像」「夢殿・救世観音像」

の二像だけとなったと思います。

(西円堂・薬師如来坐像、上御堂・釈迦三尊像、大講堂・薬師三尊像も、寺外に出たことは無いのかと思いますが、まあこれは別として・・・・・)


釈迦三尊像、救世観音像も、いつの日にか、展覧会で眼近に観ることが出来る時が来るのでしょうか?

これは、叶わぬ夢のような気がしますが・・・・・・・




【追 記】


奈良博覧会と正倉院宝物展観、法隆寺献納宝物に至る経緯などについては、次のような記事が参考になろうかと思います

ご関心のある方は、ご覧ください

奈良県立図書情報館・図書展示「正倉院展と奈良博覧会 〜正倉院宝物公開の歴史〜 」(2018.11)
展示パネル資料

日々是古仏愛好HP・埃まみれの書棚から
明治の文化財保存・保護と、その先駆者~町田久成・蜷川式胤【3/7】

日々是古仏愛好HP
法隆寺献納宝物と「四十八体仏」について【第1回】



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