FC2ブログ

観仏日々帖

こぼれ話~天龍山石窟の発見と石仏流出物語〈その3〉 【2021.02.20】


4.石仏流出前の全貌を伝える唯一の写真集の刊行~「天龍山石窟」


関野貞によって発見された天龍山石窟ですが、この発見を、欧米に先んじて日本人の手によって広く世に知らしめたいという機運が、国内で盛り上がってきたようです。

雲岡石窟のように、欧米人に発見紹介者の名をなさしめることにならぬようという思いが強かったのだと思います。



【関野発見の4年後に実施された、石窟現地調査と写真撮影】


関野発見の4年後、1922年(大正11年)に、天龍山石窟のしっかりした現地調査と写真撮影が行われることになりました。
関野貞の発見時には、調査旅行中の偶々の発見であったこともあり、一泊だけの慌ただしい調査で、撮影された写真もわずかの数だけであったのです。

この調査と撮影は、約1週間にわたるもので、田中俊逸、外村大治郎、平田饒の3名によって行われました。

田中俊逸(萬宗)は、「運慶」の著作でも知られる研究者で、小野玄妙、望月信享の声がかりで石窟調査に出かけることになったようです。
外村大治郎は北京・東華照相材料行(写真館?)の主人、平田饒は技師です。

3名は、3月に天龍山に赴き、現地では、大変な苦労をしながら、石窟の調査と写真撮影を行ったようです。

田中俊逸は、調査に赴くにあたってのことを、このように回顧しています。

当時、欧米人の東洋美術研究者(アンドリエス博士)が支那古文化の実地踏査研究をし、奥地に入るとの新聞報道があり、天龍山石窟の調査もされてしまうのではと心配していた処、自分たちが調査出来ることとなり、
「之れより天龍山は小なりと雖も、世界的に發表し得ることと相成」
「天龍山石窟が又(註:雲岡石窟のような)前轍を踏まねばならぬことに遭遇する羽目に堕る」
ことがなくなるであろう。
(「支那山西省天龍山仏龕調査通信」「天竜山石窟調査報告」佛教学雑誌3巻3・4号1922年)

欧米人に対する対抗意識というか、東アジア・中国の文化研究は日本人の手によって先んじて行われるべきという、強い自負心が伺えます。



【想像以上の大変な困難ななか、進められた調査、撮影】


現地での調査、撮影は、想像以上に困難なものであったようです。
田中によると、このような厳しい環境であったようです。

「天龍山探検には三悪苦難あり。

一、洞窟附近に豹や狼の猛獣が棲んで居る。

二、洞窟に達するに数百尺の断嵯絶壁を攀るに従って、岩石崩壊して、梯子登りや綱渡り軽業を敢えてせねばならぬこと。

三、・・・・・・~略~・・・・・・」
(「支那山西省天龍山仏龕調査通信」佛教学雑誌3巻3号1922.04)



【語られることの殆ど無い、田中の調査成果~諸窟の新発見と体系的整理】


大変な調査、写真撮影であったのですが、最大の収穫は、関野貞が到達出来なかった新たな諸窟が発見されたことでした。
関野は、時間の制約もあり14の窟までしか発見調査出来ていなかったのですが、田中は18窟(現在の窟番号)以西21窟まで、総数24の窟龕を発見調査し、1~21窟までの窟番号を付したのでした。
(現在も、この窟番号が用いられています。)

225天龍山石窟③:田中俊逸「天龍山石窟」所載~天龍山石窟平面見取図
田中俊逸作成の天龍山石窟平面図~「天龍山石窟調査報告」佛教学雑誌3巻4号1922.05所載

新発見の18窟以西の窟は唐時代のもので、18・21窟などは、関野が絶賛した14窟に匹敵する優れた造形で、これら諸窟の発見なしには「天龍山様式」の呼称は生まれなかったと云われています。

田中は帰国後すぐに、調査結果をまとめた長文の「天竜山石窟調査報告」(佛教学雑誌3巻4号1922.05)を発表しています。

225天龍山石窟③:田中俊逸「天龍山石窟」掲載誌~佛教学雑誌3巻4号1922.05225天龍山石窟③:田中俊逸「天龍山石窟」所載写真
田中俊逸「天龍山石窟調査報告」佛教学雑誌3巻4号1922.05表紙と所載写真

天龍山石窟については、発見者たる関野貞の功績がよく語られるところですが、田中俊逸による新発見、調査成果も多大なものがあり、今日、田中の名が語られることが殆ど無いのは、ちょっと寂しい気持ちになります。



【石窟の撮影写真を収録した、豪華本「天龍山石窟」の刊行(1922年)


この天龍山石窟の調査終了から約半年後、10月に、この時の撮影写真を収録した豪華写真集、「天龍山石窟」が刊行されました。

「天龍山石窟」 外村大治郎著 金尾文淵堂 大正11年(1922)刊 金38円

225天龍山石窟③:写真集「天龍山石窟」(外村太治郎)金尾文淵堂刊1922
225天龍山石窟③:写真集「天龍山石窟」(外村太治郎)金尾文淵堂刊1922

本写真集「天龍山石窟」は、大変力の入った出版であったようです。
40×31センチの大判で、全88ページ、コロタイプ80葉の写真が収録され、定価は38円という高価です。
(当時の、ほぼ大卒初任給に相当する金額です)

本書は、現在では、極めて貴重な写真集となっています。
というのは、天龍山石窟が盗鑿に遭う前の窟内と石仏の姿の旧状の全貌を伝える、唯一の写真集となっているからです。

本書刊行後、数年もたたぬうちに、天龍山石窟の徹底的な盗鑿が行われたのでした。



【窟内石仏、80カットのコロタイプ写真を収録
~盗鑿前の石窟の全貌を伝える、唯一の貴重な写真集】

各窟の窟内石仏、80カットの大判写真が収録されています。

現在、海外流出した天龍山石窟石仏の盗鑿前の原位置を特定するには、本書に頼るしかないという極めて重要な写真資料となっているのです。
本書掲載の流出前の窟内石仏写真を、いくつかご覧ください。
現在の、盗鑿されてしまった痛々しい写真も、ご参考に合わせてご覧ください。

225天龍山石窟③:「天龍山石窟」掲載写真~東峰諸窟全景
「天龍山石窟」掲載写真~東峰諸窟全景

225天龍山石窟③:「天龍山石窟」掲載写真~第10窟西壁
「天龍山石窟」掲載写真~第10窟西壁

225天龍山石窟③:天龍山石窟・第10窟西壁の現状
天龍山石窟・第10窟西壁の現状

225天龍山石窟③:「天龍山石窟」掲載写真~第16窟東壁
「天龍山石窟」掲載写真~第16窟東壁

225天龍山石窟③:「天龍山石窟」掲載写真~第17窟正面北壁
「天龍山石窟」掲載写真~第17窟正面北壁

225天龍山石窟③:天龍山石窟・第17窟正面北壁の現状
天龍山石窟・第17窟正面北壁の現状

225天龍山石窟③:「天龍山石窟」掲載写真~第17窟右脇侍菩薩
「天龍山石窟」掲載写真~第17窟右脇侍菩薩

225天龍山石窟③:「天龍山石窟」掲載写真~第18窟東壁
「天龍山石窟」掲載写真~第18窟東壁

ご覧のように、天龍山石窟内に美しく見事な石仏尊像が勢揃いしていた頃の、往時をしのぶことが出来ます。

他の出版物でも天龍山石窟盗鑿前の写真を掲載したものがありますが、ごく一部だけが掲載されているだけで、その全貌を知ることは出来ません。
色々な研究論文も、盗鑿前の当初の状況は、なべて本書の写真が用いられていますし、此度の東博企画展「珠玉の中国彫刻」展示の仏頭と共に掲出されていた流出前の古写真も、本書の写真が用いられていました。

余談ですが、NET「日本の古本屋」で本書を検索すると、なんと150万円という驚くべき高値がつけられていました。
如何に貴重な稀覯本かということを、物語っていると云えるのでしょう。

なお、本書は、早稲田大学図書館の古典籍総合データベース「天竜山石窟 / 外村太治郎 著」に、全頁のカラー図版が収録されていて、嬉しいことに、NET上でいつでも閲覧することができます。



【序文には、錚々たる顔ぶれが
~いずれも「日本人の手による天龍山石窟発見紹介」の意義を強調】

本書の序文には関野貞、高楠順次郎、常盤大定、望月信享、跋文には小野玄妙と、これでもかという程の錚々たる顔ぶれが名を連ねています。

この序文の記述を見ると、これまた誠に興味深いものがあります。
こぞって、天龍山石窟の発見と本写真集の発刊が、「日本人の手によってなされたこと」の喜び、意義を強く訴えているのです。

関野貞は、

「燉煌の石窟はペリオ氏により、雲崗、龍門の遺蹟はシャヴァンヌ氏より既に世界的に宣傳されたが、天龍山の石窟は幸に田中、外村両氏の努力により、其眞相を廣く内外に紹介して世人の研究に資することゝなったのは實に我學界の大慶事である。
・・・・・・
余は東洋人の當に爲すべき研究が往々歐米人に先鞭を着けらるゝを見て、毎に殘念に思ってゐたから、今回両氏の此事業に對しては特に世人と共に滿腔感謝の意を表せんと欲するのである。」


常盤大定は、

「猶、伊東博士の發見に係る大同雲崗が外人によって世界的になった如く、この天龍山も、同一の運命を繰り返すでは無からうかと、記して置いた所が、今度外村氏が一切の準備を調へ、大膽な企圖を試みて、首尾よく、天龍山石窟の全部を吾人の前に展開する様にしたのは、予の希望を滿足せしめたものといはねばならぬ。」


高楠順次郎は

「洞窟寺院の發見、研究、發表、倶に我國の學者に成りしものは唯この天龍山寺あるのみ。
予は、・・・・この研究を祝福し、これを世に推奨するに於いて、決して人後に落つるものに非ず。」


望月信享は、

「近来欧米の学者中、東洋学藝の研究に従事する者が益々多い。
・・・・・
それに比して、我が邦人の探検的業績と見るべきものが甚だ少い。
東洋の研究は当然東洋人がなさねばならぬ所である。」

以上のような通りです。



【「文化財研究においても、我国が東洋の盟主たるべき」という自負心の投影か?】


本書が出版された大正11年(1922)頃というのは、日清、日露戦争(1894~95・1904~05)の勝利を経て、第一次世界大戦(1914~18)の戦勝国に名を連ねた処という時期です。
日本が、明治維新以来の近代化を成し遂げ、世界の一等国の仲間入りをし、東洋の盟主たるべきという国民意識が盛り上がりを見せていたころではないかと思います。

こうした中で、東洋文化研究は欧米人の手によってならせるべきものではなく、就中、
「東アジア・中国の文化史研究は、日本人の手によってなされなければならない」
という、過剰なまでの強い自負心が、色濃く投影していることが見て取れます。

豪華写真集「天龍山石窟」は、
「天龍山石窟を日本人研究者が発見したという事実を、内外に広く知らしめる」
という、気運の大きな盛り上がりによって、発刊に至ったものではないでしょうか。



【解説ページの全くない、写真集「天龍山石窟」~不本意だった田中俊逸】


なお、不思議なことにこの写真集には、解説ページが全くありません。
序文と写真だけで構成されているのです。
何故、このような構成になったのか?
何故、共に調査した田中俊逸の調査報告・解説が掲載されていないのか?
の経緯はよく判りません。
刊行企画当初の発売予告広告には、田中俊逸の解説が掲載される予定であると記されていたのですが、事情の変化があったようです。

田中俊逸自身は、このようは発刊が極めて不本意なものであったようで、後に執筆した「天龍山石窟探検思い出の記」でこのように語っています。

「私の苦心惨憺した写真は帰朝の上、無断で出版せられ、この解説書すら附さなかったのです。
處が彼の大震災で写真も烏有に帰して、私の涙はどうやら紛れる内突々、大震災以上に驚いたことは天龍山石窟の石仏の首、即ち仏頭が続々輸入されて・・・・・・・・
一仏を残さず悉くを空洞としたことは、天龍山は私にとっては、己身的にも、学術的にも涙で始まり涙で終わるのでありました。」
(「天龍山石窟探検思ひ出の記(上・下)」日本美術協会報告23・24輯1932.01・04)

石窟調査に一番貢献したのが田中俊逸であっただけに、経緯はどうあれ、憤懣やるかたなき事であったろうと察せられます



【本書の刊行が、凄まじいまでの盗鑿の一つの契機に
~天龍山石窟の存在を、世に知させることになった写真集】

一方で、この写真集「天龍山石窟」の発刊によって、天龍山石窟の名は世に広く知られ、世界に知れ渡ることになったと思います。

然し乍ら、そうしたことが、美しい彫刻を獲得しようとする凄まじいまでの盗鑿が始まる、大きな契機の一つとなってしまいました。

知られざる天龍山石窟であっただけに、何とも、皮肉な結果となったといわざるを得ません。



【間もなく刊行された、シレン著「中国彫刻」でも紹介された天龍山石窟
~欧米における中国彫刻研究の大定本】

「天龍山石窟」の発刊の3年後、スウェーデンの美術史学者・オズワルド・シレン著の 「中国彫刻」 (CHINESE SCULPTURE~FROM THE FIFTH TO THE FOURTEENTH CENTURY)  が、ロンドンで発刊されました。

225天龍山石窟③:オズワルド・シレン著「中国彫刻」全4巻1925
オズワルド・シレン著「中国彫刻」全4巻1925年

シレン著の「中国彫刻」は、「中国彫刻研究の定本中の定本」と云われている4巻の大著です。
シレンは、1922年、田中俊逸等の調査実施と同じ年に、天龍山石窟を訪れ調査しています。
交流のあった関野貞から、天龍山の情報を得たのかもしれません。

225天龍山石窟③:オズワルド・シレン
オズワルド・シレン

本書には、天龍山石窟が採り上げられ、25葉の石仏像写真が掲載され、簡単な解説が附されています。

225天龍山石窟③:シレン著「中国彫刻」掲載天龍山石窟写真

225天龍山石窟③:シレン著「中国彫刻」掲載天龍山石窟写真

225天龍山石窟③:シレン著「中国彫刻」掲載天龍山石窟写真
シレン著「中国彫刻」掲載天龍山石窟写真

日本の研究者が危惧したように、写真集「天龍山石窟」の刊行がなければ、シレンが天龍山石窟の初めての調査紹介者として、欧米で語られるようになったのかもしれません。



【本書の三名の献呈者に、名前が連ねられている「関野貞」】


ただ、注目すべきは、本書には、

「感謝の気持ちに捧げる」 (DEDICATED WITH GRATITUDE)

として、3人の献呈者の名前が記されているのですが、そこに、「関野貞」の名前が挙げられていることです。

225天龍山石窟③:シレン著「中国彫刻」表紙頁
225天龍山石窟③:シレン著「中国彫刻」~献呈者名所載ページ
シレン著「中国彫刻」表紙と献呈者名所載ページ
「T.SEKINO」と関野貞の名が記されている


関野貞の他には、ポール・ペリオ(東洋学者・敦煌文書の発見請来者)、ジョゼフ・アッカン(探検家・ギメ東洋美術館のキュレーター)の名前が記されています。

関野貞とシレンは、ずっと面識、交流があり、関野はシレンに対して中国での調査情報などの提供を行なうなど、本著の成立にもかかわっていたようです。
本書掲載の写真図版の一部にも、関野提供の写真が用いられています。

シレンは、関野貞が天龍山石窟の発見者であることを十分に認識していたことは間違いないでしょうし、当時、関野が、ペリオ、アッカンという著名研究者と並んで、中国の仏教史蹟の有数の研究者として認められていたことは、銘記しておきたいことだと思います。


コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
https://kanagawabunkaken.blog.fc2.com/tb.php/227-301490e4
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)