FC2ブログ

観仏日々帖

こぼれ話~天龍山石窟の発見と石仏流出物語〈その2〉 【2021.02.13】



3.注目を浴びた天龍山石窟の発見~調査・研究の盛上がり


ここまで、関野貞による「天龍山石窟の発見」の物語をたどってきました。

ここからは、この発見が、国内でどれほどの注目を浴び、その後の調査研究や出版物刊行がされていったのかをたどってみたいと思います。

天龍山石窟の発見経緯、研究史、石仏流出などについては、次の二つの論考に大変詳しく述べられていました。

神谷麻里子氏 「天龍山石窟の研究~研究史と問題点」 愛知県立芸術大学紀要34号 2004年

斎藤龍一氏 「関野貞による山西・天竜山石窟「発見」をめぐって」 大阪市立美術館紀要18号 2018年

この二つを読むと、関野貞の発見から天龍山石窟がどのように注目され、研究が進められ、石仏流出に至っていくかなどが丸わかりと云って良いほどに、詳しく論じられています。

私のご紹介する「発見、流出物語」の多くは、この二つの論考からのつまみ食いとでも云って良いものになっていますが、ご容赦願いたいと思います。

2論考ともNET上に公開され、読むことができますので、ご関心のある方はご覧ください。



【天龍山発見以降の調査訪問者と、主な発表論文・刊行物~一覧リスト】


さて、関野貞の天龍山石窟発見以降、どのような人物が天龍山石窟を訪れ、その調査研究報告や天龍山石窟紹介出版物が刊行されていったのでしょうか?

大正7年(1918)の発見から戦前、昭和15年(1940)までの、主なものを一覧表にしてみると、以下のようになっています。

224天龍山石窟②:天龍山石窟発見からの訪問者・論文刊行物一覧


如何でしょうか?

天龍山石窟の発見から10年間ぐらいの間に、いろいろな研究者が天龍山石窟を訪れているのに、また数多くの論文や出版物が刊行されているのに、驚かれたのではないでしょうか。
わが国では、「天龍山石窟の発見」が大きな注目を浴び、広く世に紹介され、論じられていたことがよく判ります。



【発見翌々年には、早くも木村荘八と木下杢太郎が訪問】


関野貞の天龍山石窟発見の翌々年、大正9年(1920)には、木村荘八・木下杢太郎と常盤大定が天龍山石窟を訪れています。

木村荘八と木下杢太郎は、9月に雲岡石窟、10月に天龍山石窟を訪れています。
ご存じの通り、木村荘八は洋画家・随筆家、木下杢太郎は医者・文化人で知られる人物です。

224天龍山石窟②:木村荘八224天龍山石窟②:木下杢太郎
(左)木村荘八  (右)木下杢太郎

この時の雲岡石窟紀行を、共著で出版した「大同石仏寺」(1922年・日本美術学院刊)は、名著として知られています。

224天龍山石窟②:木下杢太郎著「大同石仏寺」
木下杢太郎著「大同石仏寺」(1938年・座右宝刊行会刊)
この本は、共著の「大同石仏寺」から木下執筆分を抜出し、再刊されたものです


驚いたのは、専門の研究者でもない二人が、早くも天龍山石窟を訪ねていることでした。
関野貞の調査報告論文「天龍山石窟」が、まだ発表されていない時期です。

天龍山石窟の発見情報が、当時、随分注目を浴びていた証左のような気もします。



【木村荘八には、評価が厳しかった天龍山石窟石仏像】


木村荘八は、「天龍山石窟を見る」(中央美術7-2・1921年)と題する探訪紀行文を発表しています。

興味深かったのは、木村の天龍山の石仏像への評価が、大変厳しいものであることです。
224天龍山石窟②:木村荘八の天龍山石窟石仏スケッチ
木村荘八の天龍山石窟石仏スケッチ
「天龍山石窟を見る」収録

宗教的意相の石窟の場に、美術品の仏像を嵌め込んだようなチグハグ感があってつまらないと、語っているのです。

「只「美術」から見て、つまらぬと思ふ。
・・・・・・
東方第六窟の唐佛はそれぞれ作も気品も、面白いとは思ったが、然し何も之を見にわざわざ辛い思いをしてこんな山中へ来るに當らないと、苦笑して思った。
・・・・・・
世に有用な美術とは思へなかった。」

と、糞味噌と云って良いほどのこき下ろし方です。

随分苦労して訪ねた割には、期待したほどではなかったのでしょうか?
木村が、仏教石窟に抱いていた「あるべき宗教的イメージ」にマッチしていなかったのかもしれません。
これだけ優れた石仏像が、どうしてこんな印象になったのかはよく判らず、ちょっと不思議な感じです。



【美しい石仏像のスケッチを残した木下杢太郎】


共に訪れた木下杢太郎は、天龍山石窟石仏像のスケッチを何枚も残しています。
天龍山石窟石仏像の美しさ、魅力が、良く引き出されています。

そのいくつかをご覧ください。

224天龍山石窟②:木下杢太郎スケッチの天龍山石窟・石仏(木下杢太郎画集収録)

224天龍山石窟②:木下杢太郎スケッチの天龍山石窟・石仏(木下杢太郎画集収録)

224天龍山石窟②:木下杢太郎スケッチの天龍山石窟・石仏(木下杢太郎画集収録)

224天龍山石窟②:木下杢太郎スケッチの天龍山石窟・石仏(木下杢太郎画集収録)
木下杢太郎スケッチの天龍山石窟・石仏
(「木下杢太郎画集・第1巻~仏像」1985年用美社刊所載)




【同じ年に天龍山石窟を調査した、常盤大定
~中国の仏教史蹟を徹底調査した仏教史学者】

木村荘八等と同じ年、常盤大定が天龍山石窟を訪れ調査を行っています。

常盤大定は、僧侶で東京大学の教授も務めた、著名な仏教史学者です。

大正9年(1920)、50歳を過ぎて初めて中国大陸に渡り、仏教遺跡を中心に文化史蹟の訪問調査を行いました。
以来、中国の調査は、昭和3年(1928)まで5回に亘り、その調査成果は、関野貞との共著「支那佛教史蹟」(図版・評釈各5冊・1925~1928刊)、「支那文化史蹟」(全12分冊・1939~1941)という大著が刊行されています。
この2著作は、中国大陸の文化史蹟を広範にカバーした、空前絶後の調査記録書として長く語り継がれているものです。

常盤大定は第一回目(1920年)、約100日に亘る中国調査の中で、天龍山石窟を訪れました。
そして帰国後、調査報告ともいうべき「支那佛蹟踏査 古賢の跡へ 第一」を金尾文淵堂から刊行しました。

224天龍山石窟②:常盤大定著「「支那佛蹟踏査 古賢の跡へ 第一」  224天龍山石窟②:常盤大定著「「支那佛蹟踏査 古賢の跡へ 第一」
常盤大定著「「支那佛蹟踏査 古賢の跡へ 第一」(1921年・金尾文淵堂刊)



【雲岡石窟発見同様、欧米人が天龍山石窟紹介者とされるのを、危惧した常盤大定】


本書では、天龍山石窟についても述べられているのですが、注目されるのはその章の冒頭に、このように記されていることです。

「大同雲岡の石佛寺は伊東博士の發見にかゝり、天龍山の石窟は關野博士の發見にかゝる。
發見はしても、時間と資金の爲であらう、雲岡は却つてシャヴァンヌの研究によつて世界的になつて居る。
天龍山も他日そんな運命になるかも知れぬ。
何とかしたいものである。」

雲岡石窟の発見者は伊東忠太なのに、シャヴァンヌにその名声をとってかわられてしまった。
今度こそ、天龍山石窟の発見者は関野貞だということを、広く世に知らしめなければならないと、訴えているのです。



【仏人学者・シャヴァンヌによって、世に広く知らしめられた雲岡石窟
~発見者・伊東忠太の名は知られず】

「雲岡石窟の発見」に関わるいきさつは、こんな話です。

雲岡石窟は、明治35年(1902)、伊東忠太によってはじめて発見されました。

224天龍山石窟②:中国史蹟調査時の伊東忠太(向かって右)224天龍山石窟②:雲岡石窟発見時、露坐仏前の伊東忠太(向かって右)
(左)中国史蹟調査時の伊東忠太 (右)雲岡石窟発見時、露坐仏前の伊東忠太~共に向かって右

伊東は雲岡石窟の発見について、国内の研究誌(「建築雑誌」「国華」)に発表掲載したのですが、欧米などに広く知られることにはなりませんでした。

この雲岡石窟発見の話は、ハノイにある極東学院に伝わり、研究員であった仏人、エドゥアール・シャヴァンヌが雲岡現地に出張調査し、1909~15年に刊行した自著、「華北考古図譜・全5巻」(Mission archéologique dans la Chine septentrionale)に、雲岡石窟を採り上げました。

224天龍山石窟②:エドゥアール・シャヴァンヌ224天龍山石窟②:「華北考古図譜」(Mission archéologique dans la Chine septentrionale)
(左)エドゥアール・シャヴァンヌ、(右)「華北考古図譜」

この本には、雲岡石窟に関する図版が多数掲載され、全容が世に広く知らしめられ、雲岡石窟寺の名は 急に世界の注目を集めるようになったのです。,

224天龍山石窟②:「華北考古図譜」収録の雲岡石窟写真224天龍山石窟②:「華北考古図譜」収録の雲岡石窟写真
「華北考古図譜」収録の雲岡石窟写真

こうした経緯で、雲岡石窟の真の発見者は伊東忠太であったにも関わらず、欧米においてはシャヴァンヌが発見者のように受け止められ、その名を成さしめることになったというものです。

伊東忠太は、後に、
「こういう点では、欧米人はなかなか抜け目がないね。
日本人はいつも損をする。」
と、述懐していたということです。

常盤大定は、天龍山石窟の発見が、「第二の雲岡石窟の発見」になってしまうことを危惧していたのでした。

天龍山石窟については、その発見当初から、一種のブームのような盛り上がりを見せ、多くの研究者が天龍山を訪れ、論考や関係出版物が続々と発表刊行されています。

その背景には、日本におけるこのような欧米への対抗意識が、色濃く反映していたのかもしれません。


コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
https://kanagawabunkaken.blog.fc2.com/tb.php/226-cfaf640f
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)