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観仏日々帖

こぼれ話~天龍山石窟の発見と石仏流出物語〈その1〉~東博「館蔵 珠玉の中国彫刻展」によせて 【2021.02.07】


1. は じ め に

【東博館蔵の天龍山石窟・流出石仏が、企画展でまとめて展示】


東京国立博物館で開催されている企画展「館蔵 珠玉の中国彫刻展」(12/1~2/21)を観に行ってきました。

223天龍山石窟①:東博「珠玉の中国彫刻展」パンフレット
東博企画展「珠玉の中国彫刻展」パンフレット

東博所蔵の中国彫刻のうちで、普段あまり展示されないものをまとめて公開するという企画展です。

私のお目当ては、天龍山石窟の石仏展示でした。
天龍山石窟から流出した石仏で東博所蔵の7点のうち、6点がまとめて展示(1点は東洋館で展示)されているのです。
これは、是非とも観に行かねばと出かけたわけです。

というのも、私は以前に、
「天龍山石窟の関野貞による発見と、その後の盗鑿による石仏の海外流出」
についての話を、日々是古仏愛好HPに採り上げたことがあり、大いに関心があったのです。
この話は、HP「埃まみれの書棚から~中国三大石窟を巡る人々をたどる本」の 【天龍山石窟の発見】 【盗鑿され海外流出した石仏】 で紹介させていただきました。

企画展会場には、天龍山石窟の石仏首が5つ、横に並んで展示されていました。

223天龍山石窟①:東博「珠玉の中国彫刻展」に展示される5体の天龍山石窟・石仏首
東博「珠玉の中国彫刻展」に展示される5体の天龍山石窟・石仏首(東博蔵)

223天龍山石窟①:東博・東洋館にて展示されている天龍山石窟・如来倚像
東博・東洋館にて展示されている天龍山石窟・如来倚像(東博蔵)

主に唐時代の石仏で、初唐の理知的で溌溂、豊かな頬と切れ長の眼の面貌が印象的です。
まさに、日本の天平彫刻の源流となる造形と云えるでしょう。



【興味深かった、セットで掲出された石仏流出前古写真
~盗鑿され、海外流出した天龍山石窟石仏】

大変興味深かったのは、展示された石仏が元々天龍山石窟にあった時、即ち流出以前の当該石窟内の古写真がセットで掲出されていたことです。

223天龍山石窟①:東博企画展展示~天龍山石窟・菩薩頭部(第8窟)223天龍山石窟①:天龍山石窟・菩薩頭部(第8窟)の流出前古写真
東博企画展展示~天龍山石窟・菩薩頭部(第8窟)と流出前古写真

223天龍山石窟①:東博企画展展示~天龍山石窟・菩薩頭部(第14窟)223天龍山石窟①:天龍山石窟・菩薩頭部(第14窟)の流出前古写真
東博企画展展示~天龍山石窟・菩薩頭部(第14窟)と流出前古写真(向かって左)

天龍山石窟は、石仏首などが徹底的な盗鑿に遭い、現在は、ほとんどの石仏が削り取られ、見る影もない痛々しい有様になっています。
しかし、盗鑿前の古写真と付け合せると、その元あった位置が特定できるようなのです。

展覧会のパンフレットには、このように書かれていました。

「20世紀初めに外国人が次々とここ(註:天龍山石窟)を訪れたことで、窟内の彫刻が削り取られて海外に流出し、今も100件近くが欧米や日本に収蔵されています。

その中には原位置が確認できないものもあります。
ここに紹介する天龍山石仏は、当館受け入れの経緯は様々ですが、原位置は判明しており、東魏、隋、唐時代の特色をそれぞれ伝えています。」

223天龍山石窟①:東博「珠玉の中国彫刻展」パンフレットの天龍山石窟ページ
「珠玉の中国彫刻展」パンフレットの天龍山石窟ページ


【俄然、興味が盛り上がって来た、天龍山石窟発見と石仏流出の経緯の話】


パンフレットの記述や、展示石仏や古写真に刺激されたのでしょうか、俄然、天龍山石窟への興味が盛り上がってきました。
以前、石窟発見や石仏流失についてふれたときは、その経緯などあまり深く知らなかったので、割とあっさりと紹介させていただいただけでした。

丁度、コロナ自粛で暇を持て余していますので、いろいろな関連資料にあたってみることができました。
このテーマにふれた論文や当時の関係する出版物などを調べてみると、これまで知らなかった出来事がいろいろあることが判りました。
石仏流出のいきさつや、その後のエピソードも興味津々でした。
調べていくほどに、結構、のめり込んでしまいました。


そこで、 「天龍山石窟の発見と石仏流出物語」 と題して、石窟発見から石仏流出、その後の所蔵先などにまつわるいきさつや出来事などを、ちょっと詳しくご紹介してみたいと思います。

長めの連載話になるかもしれませんが、お付き合いいただければと思います。



1. 天 龍 山 石 窟


【山西省太原市近郊の山上にある天龍山石窟~6~8世紀の開鑿】


天龍山石窟は、山西省太原市の西南30キロほどに位置する、天竜山東西両峰山頂近くの断崖にあります。

223天龍山石窟①:天龍山石窟遠望
天龍山石窟遠望

太原市、かつての晋陽は、東魏・北斉時代の都であった鄴(ぎょう)の別都として栄え、また、皇帝の庇護の下に仏教の非常に興隆した地です。
標高1500mの天龍山山頂に近い山腹の東西の峰、結構厳しい断崖面に石窟が穿たれています。

223天龍山石窟①:天龍山石窟・厳しい断崖面にある第8窟
厳しい断崖面に穿たれている第8窟

石窟は、東魏(6世紀中頃)から北斉・隋・唐代の盛唐期(8世紀中頃)にかけて開鑿され、24の石窟・龕に200体を超える仏・菩薩・天人像が彫出されました。
主要な窟は21窟あるのですが、そのうち14~5の窟は8世紀前半、唐時代に開かれたものと考えられています。

これらの石仏像の中国彫刻史上に占める位置ははなはだ高く、とりわけ唐時代の諸窟の石仏像は、唐前期の仏教美術を代表する高い芸術性を備えたものと云われています。

223天龍山石窟①:天龍山石窟の美しい唐代彫刻(第14窟)根津美術館蔵223天龍山石窟①:天龍山石窟の美しい唐代彫刻(第14窟)メトロポリタン美術館蔵
天龍山石窟を代表する美しい唐代彫刻・仏首
(左)第14窟・菩薩像(根津美術館蔵)・(右)第14窟・菩薩像(メトロポリタン美術館蔵)


窟内にいくつもの見事な石仏尊像が刻された有様は、誠に、華麗で壮観そのものであったことと思います。



【昭和初年(1920年代)に徹底的な盗鑿に遭い、見る影もない無残な有様に】


しかし、この天龍山石窟の諸石仏像は、後に詳しくふれますが、昭和初年(1920年代)に徹底的な盗鑿に遭い、ほとんどの石仏首、仏体などが削り取られ、海外流出してしまいました。
雲岡や龍門の石窟でも相当数の石仏の盗鑿が行われていますが、ここまで跡形もないほどに盗鑿しつくされたのは、天龍山石窟ぐらいかもしれません。

現在、天龍山石窟を訪れると、まともな姿を遺した窟はほとんどなくて、削り取られた後の無残な様子になっているということです。

223天龍山石窟①:無残に石仏が削り取られた現在の石窟(第6窟)

223天龍山石窟①:無残に石仏が削り取られた現在の石窟(第14窟)
無残に石仏が削り取られた現在の石窟
(上)第6窟  (下)第14窟


石窟が発見された当時は、辿り着くのも大変な険しい処であったということですが、現在は比較的簡単に訪れることができるようです。
私は、天龍山石窟に行ったことは無いのですが、訪ねた方によると、観光客でも車で近くまで行くことが可能だということです。

日々是古仏愛好HPにも、沼田保男氏の天龍山石窟探訪記「中国山西省 雲岡石窟・古寺・古仏 感動の旅~その4」を掲載させていただいていますので、ご覧いただければと思います。

天龍山石窟は、初唐時代の美麗な石仏が造像された中国石窟として知られてはいますが、数ある中国石窟の中では、さほど規模が大きなものではありません。
超有名な雲岡石窟や龍門石窟の規模の大きさに比べると、10分の1にも満たない程度の小規模な石窟です。

にもかかわらず、その名がこれだけ世に広く知られるようになったのは、欧米、日本の博物館などに石仏首などが数多く所蔵されていることもあるでしょうが、徹底的に盗鑿しつくされ海外流出してしまった誠に不幸な歴史の石窟として、深く記憶されていることによるものではないのでしょうか。



2.天龍山石窟の発見


【関野貞が発見した天龍山石窟~当地方面調査旅行の際、偶々発見(1918年)】


天龍山石窟を初めて発見したのは、建築史学者・関野貞でした。

223天龍山石窟①:関野貞
関野貞(1868~1935)

大正7年、1918年の6月末のことです。

関野貞は、研究誌「国華」に掲載した調査報告「天龍山石窟」の冒頭、このように記しています。

「去大正七年春夏の頃支那に遊びし時、余は偶然太原縣の天龍山に於て、北齊時代の比較的大規模なる石窟を發見し、併せて隋唐時代の優秀なる石佛多數を調査する事を得たり。
此天龍山石窟は山間僻陬の地に在るを以て、從來人の知る者少く、且造象銘を有する者僅に一處に過ぎざるにより、特に金石文を重視するの風ある彼國學者の注意を惹く事も少なかりき。
余は當時かゝる重要なる石窟あるを豫想せず、其發見は寧偶然とも稱すべかりしなり。」
(関野貞「天龍山石窟」国華375号1921.08)

関野貞は、大正7年(1918)2月~9月、官命による中国へ調査に赴きました。
32歳の頃です。
満州、河北、山西方面を訪ね、雲岡、竜門石窟をはじめ各地の仏教遺跡、建築物を調査しました。

そして太原を訪れた時、天龍山石窟を発見することとなります。

関野自身は、偶然の発見として、
「其の發見は、寧ろ、偶然とも稱すべかしなり」
と語っていますが、
実際には事前に「山西通志」や「太原縣志」などの地誌により予備知識を得て、あたりをつけていたことが判っていて、その発見は周到な準備がもたらした成果であったようです。



【山崖を苦心惨憺よじ登り、執着心で発見した石窟、石仏像】


とはいっても、その探索調査は、相当に大変なものであったようです。

天龍山山上に聖寿寺というのがあるのを聞き、馬と徒歩で4時間半を費やしてたどり着いたところ、その山崖絶頂近くに石窟が列なるのを見て、苦心惨憺よじ登り、いくつもの石窟、石仏像を発見したということです。
大変な執念、執着心での新発見というものでありました。

223天龍山石窟①:関野発見当時の天龍山石窟(「国華」論文掲載写真)

223天龍山石窟①:関野発見当時の天龍山石窟(「国華」論文掲載写真)
関野発見当時の天龍山石窟(「国華」論文掲載写真)

探索発見の状況について、関野は、このように記しています。

「石窟石仏等に就き、知縣及び多くの土民に問ひ質せしも、知る者全く無かりき。」
(関野貞「天龍山石窟」国華375号1921.08)

(断崖は)峻急なるを以って崩壊せる岩片流砂の如く、殆ど足を留むべからず。
石窟に達するは極めて困難の事なり。
・・・・・・
是等の石窟は砂岩石より成れるを以って、風雨のために摩損せる處少なからずとも、僻遠の地且つ登攀困難なるが為訪ふ人も少なく、故意に仏像を破壊せる所なく、比較的よく保存せられたるは喜ぶべし。」

「余、今回太原に遊び、図らず天龍山に於て石窟を調査し、之を学界に紹介するを得たるを喜ぶ。」
(関野貞「西遊雑信・上」建築雑誌384号1918)

苦労して石窟を発見した、関野の感激が眼に浮かぶようです。

このような経緯による発見でありましたが、「天龍山石窟」は、

「未知の、斉~唐代仏教石窟遺蹟の大発見」

というものでありました。



【短時日で満足には行えなかった石窟調査
~研究誌に発表された発見調査報告は、充実の内容】

関野貞は、、その年(1918)の「建築雑誌384号」に掲載された「西遊雑信・上」のなかで、簡単に石窟発見についての概要を記したうえで、3年後の1921年に「国華375号」に「天龍山石窟」と題した調査報告論文を掲載発表しました。

関野の天龍山石窟発見調査は、一泊二日という極々短い間で、18窟以西の窟は調査されていないのですが、「国華」に発表された論文は、そんな短期間の調査とは思えぬほどの大変充実した内容で、スケッチされた諸窟の平面見取図まで掲載されています。

223天龍山石窟①:関野貞作成の天龍山石窟見取り図(「国華」論文掲載図)

223天龍山石窟①:関野貞作成の天龍山石窟見取り図(「国華」論文掲載図)
関野貞作成の天龍山石窟・平面見取り図(「国華」論文掲載図

ただ、時間も準備も不足なあわただしい調査で、撮影用のガラス乾板も1ダースしか持参しておらず、満足な写真撮影も行うことも出来ないものでした。



【関野が最も感銘、絶賛したのは、唐代の美麗な踏下菩薩像(14窟)】


関野が、最も感銘し評価したのは、第14窟の唐代の踏み下げ菩薩坐像(関野論文では11窟と表記)で、

「蓋、唐初の傑作、姿勢整い權衡美に、其衣文の優雅にして而も勁健・・・・・・
其面相の豊麗にして體躯衣文の写実の妙を極めたる、之を龍門幾千の唐作仏像に比するに、殆ど之に比肩する者稀なりを覚ゆ。」
(関野貞「天龍山石窟」国華375号1921.08)

と、龍門石窟の唐代石仏よりも見事なものと絶賛しています。

論文冒頭には、本像の一面写真が掲載されています。

223天龍山石窟①:関野貞が絶賛した14窟菩薩踏下像(「国華」論文掲載写真)
関野貞が絶賛した14窟菩薩踏下像(「国華」論文掲載写真)

なお、この像も流出していて、現在は、東京国立博物館の所蔵となっています。

223天龍山石窟①:現在東京国立博物館蔵となっている第14窟・踏下菩薩像

223天龍山石窟①:現在東京国立博物館蔵となっている第14窟・踏下菩薩像
現在東京国立博物館蔵となっている第14窟・踏下菩薩像



【天龍山石窟発見者として名を残すことになった関野貞
~~雲岡石窟の発見も日本人研究者、伊東忠太】


こうして、関野貞は、「天龍山石窟の発見者」として、その名を残すことになりました。

ご存じの通り、「雲岡石窟の発見者」は伊東忠太で、明治35年(1902)に北清建築調査のため山西省大同を訪れたときに発見したものです。

223天龍山石窟①:伊東忠太223天龍山石窟①:雲岡石窟発見時露座大仏前の伊東忠太(向かって右)
(左)伊東忠太(1867~1954)
(右)雲岡石窟発見時露坐大仏前写真~向かって右が伊東忠太)


雲岡石窟に続いて天龍山石窟も、日本人研究者によって発見されたということになります。



【関野の発見以前に、欧米人が天龍山を訪ねているとの一説もあり】


ちょっと付けたりですが、関野貞が発見するよりも前に、欧米人が天龍山石窟を訪れたとしている論述があります。

シカゴ大学のハリー・バンダースタッペンとマリリン・リーの天龍山石窟に関する共著論考(The Sculpture of T'ien Lung Shan: Reconstruction and Dating:1965)に、典拠は示されていないのですが、

「1908年にドイツの建築家で中国建築の調査を行ったエルンスト・ベーシュマン、次いで1910年にアメリカ・フリーア美術館にその名を残す実業家でコレクターのチャールズ・ラング・フリーアが、天龍山石窟を訪問した。」

と、記されているそうです。

ただ、この二人が本当に天龍山石窟を訪れることがあったのかは不確かなようで、一つの説ではあるものの、

「天龍山石窟の発見者は、関野貞」

ということで、定着していると云って良いと思われます。


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