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観仏日々帖

トピックス~龍峰寺・千手観音像   「相模川流域のみほとけ展」一番の注目像 【2020.11.03】


現在、神奈川県立歴史博物館で 「相模川流域のみほとけ展」 (10/10~11/29) が開催されています。

217.龍峰寺:「相模川流域のみほとけ展」チラシ


展覧会場に入ると、いの一番にドーンと展示されているのが、海老名市にある龍峰寺の千手観音立像です。

217龍峰寺:龍峰寺・千手観音像

217.龍峰寺:龍峰寺・千手観音像
龍峰寺・千手観音像~「相模川流域のみほとけ展」図録掲載写真


像高:192㎝の堂々たる木彫像で、重要文化財に指定されています。



【「奈良~鎌倉時代」というキャプションにビックリ!
~注目展示の龍峰寺・千手観音像】

ビックリしたのは、この観音像の制作年代のキャプションです。

「奈良~鎌倉時代」

となっているのです。
「エーッ!! こんな時代設定ってありうるの?」
と、声を挙げそうになってしまいました。

奈良時代の末から鎌倉時代までは、なんと400年以上もあります。
どのように考えればよいのでしょうか?

この千手観音像の写真をご覧になって、どう感じられたでしょうか?

まず目に付くのは、次のようなところではないでしょうか。



【仏手を頭上に上げる、清水寺式千手観音像】


一番目には、仏手を頭上にあげ、手を組んでその上に化仏をのせる千手の姿だと思います。

所謂、清水寺式の千手観音像です。
清水寺式千手観音というのは、ご存じの通り、僧・賢心(後に延鎮と改名)と坂上田村麻呂が協力して、延暦17年(798)に伽藍を造営した京都・清水寺の本尊像が、このスタイルであったとされることから、そのように名づけられているものです。

現在、京都・清水寺に祀られる秘仏本尊は、鎌倉時代制作のものですが、当然のことながら、清水寺式の千手観音の像容となっています。
このスタイルの千手観音像は、結構珍しくて、あまり見かけることはありません。



【玉眼のお顔の造形は、鎌倉彫刻そのもの】


二番目には、お顔の造形が、いかにも「鎌倉彫刻そのもの」ということではないでしょうか。

キリリと男性的な顔立ちは、まさに鎌倉様という面貌です。
そして、眼には玉眼が嵌め込まれています。

誰がみても、典型的な鎌倉彫刻で、異論をさしはさむ余地など全くありません。



【腰から下のプロポーション、衣文表現は大変古様~奈良様の系譜か?】


三番目は、腹部、腰から下の造形と衣文表現でしょう。

大変に古様なのです。
ちょっと腰高でバランスの良い下半身のプロポーションは、所謂、奈良様の仏像を思わせるものがあります。
とりわけ目を惹くのは、腰から下の衣文表現です。
鎬を立てず、丸みを帯びて粘りのある衣文は、乾漆像のそれを連想させる、ふくらみと弾力ある表現なのです。
これまた奈良様を想起させる造形表現なのです。

下半身の写真だけを見れば、これは平安前中期までの古像に間違いないと感じることと思います。
それも、平安前期のボリューム感ある体躯、鋭い彫り口、鎬だった衣文という造形タイプではなくて、奈良時代の乾漆像の系譜にある造形表現の像だと感じることでしょう。



【従来の見解は、鎌倉時代制作の古様に倣った模古的像】


「鎌倉時代の典型」と「奈良様の造形表現」が、何故だか同居している不思議な龍峰寺の千手観音像。
どのように考えればよいのでしょうか。

この観音像、私自身は、2008年に奈良国立博物館の「西国三十三ヶ所展」に出展された時に観ているはずなのですが、まったく記憶の片隅にもありませんでした。

そこで、これまでどのように解説されていたのか調べてみた処、
「神奈川県文化財図鑑・彫刻編」(1975刊)、「仏像集成・第1巻」(1989刊)、「海老名市史・第2巻中世篇」(1998刊)、「西国三十三ヶ所展図録」(2008刊)
に、本像が採り上げられていました。

いずれの解説も、鎌倉の典型と云える面貌と、古様な体躯、衣文表現が同居していることを認めながらも、

「鎌倉時代制作の古様に倣った像」

と述べられていました。

「この像の制作のときについては、なかなかすぐ結論を出しにくい。
それについては、一応二説が考えられよう。
つまり、一木彫成像らしい特色を重視して、その制作を平安朝のものとみとめ、いまの玉眼を入れた面相部を後補のものとみるか、または鎌倉の後期ころに、何らかのわけによって損傷ないし亡失した一木造りの古い本尊にならってそれを再興したかのいずれかである。
この像には、ぜんたいに古様を模したような特色が見のがせないので、あるいは鎌倉再興説が当っているのではあるまいか。」
(「神奈川県文化財図鑑・彫刻編」神奈川県教育委員会刊1975.03解説)


(註:造形、衣文表現などを見ると)奈良時代の仏像をみるような表現形式を示す。
このような古式の衣褶表現の選択には、なんらかの古像の模刻という製作事情が想定できようか。
・・・・・
玉眼の技法や古式の構造技法と併せ考えると、製作は鎌倉時代初期かと推測される。」
(「西国三十三ヶ所展図録」奈良国立博物館2008.03解説)

このような解説です。

新旧両様が同居している問題に言及しながらも、

「何らかの理由で、古像に倣って鎌倉時代に模古的に造られた像ではないか。」

と解説されていますが、なかなか断定的に鎌倉作と言い切れない悩ましさを感じないわけではありません。
鎌倉時代の制作との見方がされているのは、典型的鎌倉様の面貌、玉眼が、決め手になっているのでしょうか。

因みに、本像が大正14年(1925)に旧国宝に指定された時以来、文化財指定は「鎌倉時代」となっています。



【奈良様の優作、広隆寺・千手観音像を想起させる造形、衣文表現~私の印象】


私が、この観音像を眼近に観て、最も目を惹きつけられたのは、腰から下、下半身の造形でした。
想定外の古様なのです。

この観音像の腰から下の衣文表現や、造形プロポーションを観ていると、京都広隆寺の不空羂索観音立像の表現を連想してしまいました。

217.龍峰寺:広隆寺・不空羂索観音像
広隆寺・不空羂索観音像~乾漆像を思わせる造形

ご存じの通り、広隆寺・不空羂索観音像は、奈良末~平安前期に制作された像(弘仁9年(818)の火災以前に造立)で、奈良時代の乾漆像の表現をそのまま木彫像に置き換えたような、「所謂奈良様の造形表現の優作」として知られています。
衣文の表現などは、まさに乾漆像の衣文かと見紛うようです。

龍峰寺像は、広隆寺像のような弾力的で粘りのある衣文表現や、腰高でスリムな見事なプロポーションには、到底及ばないのですが、どこかしら通じるものを強く感じてしまいました。

急に興味が沸いてきて、奈良時代の乾漆像や、奈良様乾漆系表現をとどめるといわれる平安の菩薩立像の腰から下の衣文表現の写真を並べてみてみました。


【 奈良様乾漆像の系譜といわれる諸像の脚部写真】

217.龍峰寺:聖林寺・十一面観音像~脚部217.龍峰寺:矢田寺金剛山寺・十一面観音像~脚部217.龍峰寺:広隆寺・不空羂索観音像~脚部
(左)聖林寺・十一面観音像:8C、(中)矢田寺・十一面観音像:奈良末、(右)広隆寺・不空羂索観音像:818年以前


217.龍峰寺:広隆寺・千手観音像~脚部217.龍峰寺:黒田観音寺・伝千手観音像~脚部217.龍峰寺:雨宝院・千手観音像~脚部
(左)広隆寺・千手観音像:9C、(中)黒田観音寺・伝千手観音像:9C、(右)雨宝院・千手観音像:10C初

如何でしょうか?
それぞれ傑作、優作と認められている諸像です。

龍峰寺の観音像は、奈良様の系譜にある像の中でも、やはり広隆寺の不空羂索観音像の表現に一番似た雰囲気を持っているように感じます。

217.龍峰寺:龍峰寺・千手観音像~脚部
龍峰寺・千手観音像~脚部

龍峰寺像は、これら諸像と比べると、衣文の表現の抑揚も浅く、平板な感は否めません。
また、後世の手が入っているのかもしれませんが、古様な表現だと改めて納得した次第です。



【カヤ材の一木彫で、内刳り無し~平安前期以前の古像の特徴か?】


このほかにも、龍峰寺・千手観音像は、材質、構造などに注目すべきものがあるのです。

本像は、カヤ材の一木彫像で、髻から地付きまで一材 (千手は別材、後補) 、内刳りも目視の限りでは無いようだということなのです。
また、頭部、面部は、内刳りを施した内部から玉眼を嵌めるのではなくて、能面をつけるように、耳の前で面部を矧ぎつけて、玉眼の顔を造っているということです。
面部を矧ぎつけて玉眼を入れるのは、大変珍しい技法です。
(六波羅蜜寺・地蔵菩薩坐像、鎌倉寿福寺・地蔵菩薩立像、醍醐寺金堂・薬師三尊像脇侍像等の例あり)

内刳りのない一木彫というのは、鎌倉時代では一般的に考えられない古様な構造です。
用材が平安前期以前の像に特徴的なカヤ材ということも、本像が、平安前中期以前の古像であることを示唆しているように思えます。



【模古作特有の匂いが感じられない古様な衣文表現
~古像を鎌倉時代に改修か?】

ご紹介した「解説文」では、
「鎌倉時代に、古様に倣って制作された像」
と思われるということでしたが、
「果たして、本当にそうなのだろうか?」
そんな気がしてきます。

一般的には、後の時代に古様に倣って模作的に造った像だとしても、どこかしら新しい時代の雰囲気の表現が、自然と滲みだしてしまうというものだと思います。
本像でいえば、模古作だとしても、衣文表現などに鎌倉的雰囲気が滲みだすのが常なのではないでしょうか。
ところが、この観音像は、玉眼を入れるなどバリバリの鎌倉時代の面貌表現となっているのにもかかわらず、衣文の造形表現などは古様な表現そのもので、鎌倉的なものが何処かに顔を出すという感じが全くしないなというのが、私の印象です。

むしろ、
「平安前中期以前の古像が、鎌倉時代に大幅に修復、後補され、面部が玉眼に改造されるなどして、今の姿になったのではないか」
と考えた方が、
ごく自然なのではないかというのが、私の率直な感想でした。



【「奈良~鎌倉時代」とした展覧会の作品解説は~奈良時代制作像を示唆】


さて、展覧会の制作年代キャプションが、
「奈良~鎌倉時代」
となっていて、驚いた話を冒頭にご紹介しました。

このような制作年代表記とされたことについての作品解説は、どのように述べられているのでしょうか。

展覧会図録の解説文を、一部ご紹介します。

「本像の製作年代は、面部に玉眼の技法が用いられることを重視し鎌倉時代とされ、随所にみられる古い形式は古像を手本に鎌倉時代に模刻されたと評価される。

しかし、その古い形式に目をむけてみると、裙の膝前にみえる翻波式衣文、裾の正面打ち合わせ部の渦文、背面で一度たるませてから両肩に懸る天衣等に奈良時代後期から平安時代前期の特徴が認められる。
また、構造はカヤ材を用いた一木造り(内刳りの有無は不明、目視の限り内刳りは無い)で、髻から地付までを一材で彫り出す点に、同じく奈良末から平安時代の仏像に近い要素があると言える。

このように形状や構造から素直にみれば、鎌倉時代の模古作と考えるよりも奈良時代後期から平安時代前期に造られたと考えた方が自然ではないだろうか。
・・・・・・・・
脇手やその持物は全て後補で、何度も修理を経てきたことを考慮すれば、本体の大部分に奈良時代の遺風を留めていると考えられないだろうか。」
(「相模川流域のみほとけ展図録」2020.10~解説執筆:神野佑太氏)

キャプションが「奈良~鎌倉時代」と大きな幅を持たせているのは、このような訳ということです。
制作年代を奈良時代まで遡らせることを示唆しつつ、平安前中期以前の古像と見るべきではないかとの問題提起をされているようです。

この解説には、私も「基本的には、同感!」です。
個人的な感想で、何の根拠もないのですが、私は、10世紀前半ぐらいの、奈良様を継承した古様な一木彫像なのかなというフィーリングがしましたが・・・・・・・



【奈良時代の制作に遡るなら、驚きの「関東最古の木彫像」に!】


もし龍峰寺・千手観音像が、奈良時代までさかのぼり得るとすると、「関東最古の木彫像」ということになろうかと思います。

現在、関東地方で最古の木彫像は、9世紀の制作とされる箱根神社の万巻上人像です。
また、9世紀の制作の可能性が語られる像も数少なく、私の思いつく像は、埼玉県 浄山寺・地蔵菩薩像、千葉県 小松寺・薬師如来像、東京都豊島区 勝林寺・薬師如来像ぐらいではないでしょうか。

これらの像より一段と古いということになれば、修復像であったとしても、何といっても「大注目の古像」ということになるわけです。



【本像の伝来、由来は?~頼朝建立の清水寺本尊と伝えられる】


本像の伝来由来などは、たどれるのでしょうか?

この観音像は、元々当地にあった「清水寺」の御本尊でした。
清水寺は、明治初年に廃寺になり、近世には本寺となっていた龍峰寺が、昭和に入って清水寺の地に移転してきて現在に至っているそうです。

確かな伝来は判らないようなのですが、近世の地誌「新編相模国風土記稿」には、本像は、京都清水寺本尊造立と同時期に造られたものであったが、文治2年(1185)に相模川下流で発見され、源頼朝が堂宇を造らせ「清水寺」に安置したと伝えられています。

また、もう一つ気になることは、この清水寺のあった近くには、相模国分寺・国分尼寺があったことです。
国分寺跡・国分尼寺跡は、現在も史跡として保存されています。



【国分寺ゆかりの古像を、鎌倉時代に清水寺式千手観音像に改修か?
~一つの空想ストーリー】

このよう話から、勝手に空想を逞しくすると、次のようなストーリーを想像することも、可能なのかもしれません。

・龍峰寺・千手観音像は、そもそもは「国分寺・国分尼寺」ゆかりの像で、奈良末~平安頃に造立された。

・その像が、何らかのいきさつで、鎌倉時代に建立された「清水寺」の御本尊として祀られることになった。
この時、仏手が清水寺式の千手観音像に改修され、面部も新たに玉眼にされて矧ぎつけられた。

・そのような経緯で、平安以前の古様と鎌倉新様が同居した清水寺式千手観音像の姿となり、今日まで伝えられてきた。



【急に興味津々となり、龍峰寺、相模国分寺跡を訪ねる】


博物館で、龍峰寺の千手観音像を観て、急に興味津々になって、海老名まで車で出かけて、龍峰寺と相模国分寺・国分尼寺跡を訪ねてみました。

龍峰寺は、現在清水寺公園となっている処の隣りにある、静かで落ち着いたお寺でした。

217.龍峰寺:龍峰寺・観音堂
龍峰寺・観音堂

217.龍峰寺:龍峰寺・観音堂内陣
御前立千手観音像(室町時代)が祀られる観音堂内陣
本尊千手観音像は、現在は収蔵庫に安置されている


相模国分寺跡は、礎石などが遺されていて、公園のように整備保存されていましたが、その広大な敷地は往時の伽藍の壮大さを偲ばせるものでした。

217.龍峰寺:相模国分寺跡
保存整備されている相模国分寺跡

217.龍峰寺:相模国分寺・伽藍復元模型
相模国分寺・伽藍復元模型~隣設の海老名市温故館に展示

秋深まるなか、龍峰寺や国分寺跡をぶらぶらと散策していると、こんな空想のような千手観音像の伝来話が、本当であってほしいと願うような気持ちになってきました。


コメント

龍峰寺の千手観音 及び その他の出品作も含めて

私が感じたことと全く同じご感想(さらに広隆寺不空羂索観音と千手観音、黒田観音寺准胝観音への連想まで同じ)に少し驚きました。
私はこの展覧会が始まる前に入手していたパンフレットを見て、奈良~鎌倉時代という時代判定を疑問に思い、その真意を確かめた上で、同展に行ったら関連資料と見比べるつもりでした。そして、この像について持っていたのは久野健編「関東彫刻の研究」だけ(解説は鎌倉時代の復古作:水野敬三郎氏)だったので、開催直後に神野氏に問い合わせをしました。神野氏のご回答は図録解説とほぼ同じでしたが、これを聞いて基礎資料集成平安時代重要作品編2と同朋舎メディアプラン「国宝広隆寺の仏像9」から、広隆寺不空羂索観音と千手観音の部分のコピー、芸大美術館「びわ湖・長浜の仏像展Ⅱ」の図録から黒田観音寺准胝観音の写真を準備して行きました。現地でも神野氏から話を聞く機会があったので、実物を見て疑問に思ったことを質問したところ、「脇手や頭上面だけでなく、頭部・本体にも後世の手が入っている」「玉眼の入れ方はどのようにしているのかよく分らない。面部を割り離しているかどうかは不明」、(髪の毛の筋彫りが練り物のように見えたので、乾漆製か聞いたところ)「乾漆ではなく木製である」「腰部両脇の品字形衣文折り返しは各時代にあるので、これによる時代判定はできない」「清水寺式の頭上手は、形は少し違うが中国では唐時代ぐらいからの類似作例がある」「X線撮影やCTスキャンの予定はないが、実施されれば結果を知りたい」とのことでした。なお、貴ブログの文中で「能面をつけるように、耳の前で面部を矧ぎつけて玉眼を~」とありますが、これは何に書いてあったのでしょうか? 神野氏の話では「面部を割り離しているかどうかは不明」とのことでした。

私の感想は、下半身の形で一番近いものは広隆寺不空羂索観音であり、相模国分寺に近い場所にあること、カヤの一木造りということから、平安時代のごく早い頃の作でもいいかという気がしています。そして、頭部がどの程度後世の彫り直しを受けているか、玉眼をどのように入れているのかを知りたいところです。
なお、開催後2週間ぐらいはCh.OPEN YOKOHAMAという地方局のホームページで、神野氏が出品作品を解説する動画が見られ、主にこの千手観音を取り上げていたのですが、今はもう削除されてしまいました(ご覧になりましたか?)。

この他の出品作では、海老名市・国分寺の不動明王坐像がパンフレットの写真で玉眼のように見えたので、これも合わせて玉眼が後補かどうか神野氏に聞いたところ、「後補ではなく、初期の玉眼嵌入像であり、奈良仏師の作と推定される」、「同時期頃の奈良仏師の不動明王の作例として、京都北向山不動院の不動、香川県與田寺の不動の2例のうち、北向山不動院像の方に近い」とのことでした。このため、北向山不動院像と與田寺像の各方向からの写真等も準備していったのですが、実物を見たら想像していたよりもかなり小さい像だったので、この像についてはあまりよく分らないというのが正直な感想です。表情は確かに北向山不動院像に近いという気がします。これも相模国分寺に伝わったことから、中央からもたらされた可能性を考えていいと思うし、将来の解体修理に期待したいと思います。

また、南北朝時代の肖像彫刻で山梨県古長禅寺の夢窓疎石像が初めて見る作品であり、鎌倉市瑞泉寺の夢窓疎石も出るので、比較できると期待していました。両者の表現の違いや時代差も感じられ、2体並んでの展示はとても良かったと思います。南都仏師康俊、康成の弟子行成の作品は初めて見ました。そして、南北朝時代の仏像は型にはまった造形として出来が悪いが、肖像には優れた作品が多いということを、同時に出ていた山梨県棲雲寺の中峰明本像とともに実感しました。一方で、2体の夢窓疎石像の差というものも感じられ、これは作者系統の違いか、生前の寿像と没後七回忌の像という違いか、その辺の解釈が今後の課題と感じました。

この他、全く事前情報がなくて、現地で見て驚いたのが、平塚市宝積院薬師堂の鎌倉時代の十二神将巳神立像です。この像に注目したのは、運慶周辺の作とされる横須賀市曹源寺の十二神将の巳神像にとても近い形をしているということからです。タブレット端末で、すぐに曹源寺の巳神像の画像を出して比べたら、体勢、甲の装飾、脚部と沓などがそっくりでした。宝積院薬師堂像の方がやや簡略な作りであるので、神野氏に聞いたところ、「両肩から先は後補であるが、頭部は玉眼も含んで当初のもの」とのことなので、宝積院薬師堂像も曹源寺像の肩喰い(獅噛み)と同様の表現であったかもしれません。表情は曹源寺像が運慶とその周辺の毘沙門天像(願成就院像、湛慶作高知雪蹊寺像、肥後定慶作東京芸大像)と近いとされるのに対して、宝積院薬師堂像は人間的な表情ではあってもやや異なる印象です。私が特に注目したのは、脚部の脛当を覆って足首まで垂らす袴の扱いと紐で編んだ沓の形式です。この両方の特徴を備えている武装形神将像は2017年の東博運慶展に出品された京都東福寺の多聞天、興福寺旧南円堂多聞天、曹源寺の巳神像の3例しか私は知りません。この3体はいずれも運慶との関連が議論されている像であり、今回出品されている宝積院薬師堂像はその4件目の事例ではないかと思います。
山本勉氏(ぎょうせい 日本の美術No.537)や奥健夫氏(MUSEUM 668号)が提唱しているように、曹源寺巳神像の元となった像は、永福寺薬師堂に運慶が作った可能性のある十二神将ではないかということなので、今回出品の宝積院薬師堂像も、曹源寺像からの写しではなく、永福寺薬師堂像からの写し(少なくともその系統の像)と思っています。

なお、塩澤氏の「大仏師運慶」、私もこれを読んで工房作と個人の作の考え方など、西洋美術の事例も含め、いろいろと思うことがあります。コメントを書くつもりでいたのですが、このところ忙しかったので順番が逆になりました。近いうちに投稿させていただきます。

  • 2020/11/03(火) 20:42:35 |
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  • むろさん #PMoz9hdc
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龍峰寺千手

復古像でなく古像改造像だとのお考えに私も同感です。
奇しくも和歌山県博で開催中の粉河寺絵巻展では、平安古像の十一面(又は聖観音)を「上半身の背面に材を足して厚みを増し、全ての手を新たに作るという大胆な改造を行って、千手観音に変更していることが判明した(図録解説)」という粉河寺後戸安置の千手観音像が出陳されています。古い霊像を模して復古像を造ると同様に、一部が毀損した古い像を再活用した造像も結構あったのではないかと思われます。
むきだしの腹部にダボダボのモンペをはいたように上端折り返し部分で膨らむシルエットを示して直立するとでも表現すればよいのでしょうか、そんな特長でみると唐招提寺伝宝生如来立像や室生寺弥勒菩薩立像なども同じグループに含まれるかもしれません。800年を前後する時期に一定の様式的拡がりがあったそんな古像がどこで造られ祀られていたのか、国分寺遺仏の空想は実に楽しいですね。
仏像の造形そのものが語るところから空想のロマンを自由に拡げて楽しむのが仏像趣味の醍醐味だと思います。その自由を制約されて学問的論拠の乏しい発言には慎重にならざるを得ない研究者には気の毒ですが、愛好家の皆さんと仏像鑑賞の面白さを共有して謳歌すべく、今後も大胆な空想の発信を期待しております。

Re: 龍峰寺の千手観音 及び その他の出品作も含めて

むろさん様

龍峰寺・千手観音像には、やはりご関心を持たれたようですね

お尋ねの、「面部を矧いで玉眼を嵌入している」というのは、以下の4つの文献に、いずれも面部を矧いでいる旨の解説がされていました。

・神奈川県文化財図鑑・彫刻編
・海老名市史2資料編(薄井和男氏執筆)
・仏像集成~第1巻・学生社刊(薄井和男氏執筆)
・西国三十三ヶ所展図録・奈良国立博物館(鈴木喜博氏執筆)

一番具体的に詳しく書かれていたのは「神奈川県文化財図鑑」の解説で
「頭部と体部とを切り離して内刳りをした上でなされているものではなく、面部を耳の前で、ちょうど能面のように割りはなし、その内面を刳って玉眼を嵌め込んだものである」
と述べられていました。
複数の文献にそのように書かれていましたので、ご紹介したのですが「面部を割り離しているかどうかは不明」ということでしたら、本当の処はどうなのでしょうか??

ついでの話でですが、「西国三十三ヶ所展図録」には、
「背面から大きく内刳りを施し、さらに背板材を貼る構造」
と書かれていて、これまた「内刳りがないと思われる」というのと、どちらが本当なのかよく判りません。

おっしゃるように黒田観音寺の伝千手観音にも、相通じるものを感じますね
奈良様の衣文の造形表現だけではなく、背面の衣の処理、表現も龍峰寺像と近いものがあるように思い、興味深く感じています。

いずれにせよ、大変興味津々の像ですね。
今後、何時の時にか科学的調査などが進められて、問題が解明されていくのかもしれませんね
もし、奈良末~平安の古像ということが明らかになれば、大きな話題を呼ぶことと思います

  • 2020/11/04(水) 20:07:41 |
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Re: 龍峰寺千手

藤鎌天平様

コメント、有難うございます。

「復古像でなく古像改造像だとのお考えに私も同感」ということ、私も、きちっとした確信なしに書いてみたのですが、大変心強く感じた次第です。

「唐招提寺伝宝生如来立像や室生寺弥勒菩薩立像」のこと、頭に浮かんでいなかったのですが、言われてみれば、ウエストからの脚へのシルエット、衣文表現に、すごく相通じるものを感じますね
従来、初期一木彫と云うと、「塊量的、鋭角的、デフォルメ」などといったキーワードで語られることが多かったように思いますが、近年、奈良時代に遡るかも?などといわれる諸々の木彫像をみていると、初期の一木彫像にはもっともっと多様な系譜の造形世界があったことの想定が必要かと感じる此の頃です。

いずれにせよ、いろいろな根拠のない勝手な空想をめぐらせて愉しめるというのが、仏像愛好趣味人の特権という処でしょうか。
段々、齢と共に空想力も衰え気味という処ですが、このブログが、ご覧いただいている方の、何ほどかのお役に立つようでしたら、嬉しき限りです。

  • 2020/11/04(水) 20:42:07 |
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面部を割り矧いで玉眼嵌入

「面部を割り矧いで玉眼を嵌入」の説明が掲載されている資料について、ご回答ありがとうございます。この4件の資料を考えてみると、まず神奈川県文化財図鑑彫刻編は1975年というやや古い発行であり、私がコピーを持っている一部のページ(運慶作品等に関連する部分のみ)を見ると、例えば横須賀市清雲寺の毘沙門天を鎌倉後期の作としていたり、曹源寺の十二神将を(修理前なので仕方ないのですが)南北朝時代頃としているなど、現在の研究水準とはそぐわない部分も散見されます(だから龍峰寺の千手観音の解説が信用できないということにはなりませんが)。このように古い資料の扱いには慎重さが必要かと思います。次の2点の薄井和男氏執筆の資料については、薄井氏は現在同館の館長であり、今回の展覧会の準備段階において、当然神野氏と同行して現地調査を行っていると思われます。千手観音の運び出しの映像も公開されていましたが、横に寝かせた状態で梱包しているので、間近で頭部や顔面も観察しているはずです。神野氏の解説と薄井氏の考えは同じであると考えられるので、薄井氏は今回の展示に当たり、以前に書いた本の内容は訂正すべきと考えていると思います。4点目の奈良博鈴木喜博氏解説については、これは全くの推定ですが、展覧会の図録作成に当たり、それ以前の上記3資料などそれまでの資料に基づいて執筆されたのではないでしょうか。以上ほとんど推測ばかりですが、やはり最新の調査結果により、面部を割り矧いでいるかどうかは現段階では不明というのが実際のところだと思います。体部の内刳りがあるのかどうかも含め、今後のX線撮影等に期待したいと思います。

「面部を割り矧いで玉眼を嵌入」の話題を出したついでにもう一つ。ブログ本文の中で鎌倉時代にこの方式を採用している像の例として挙げられた3件のうち、醍醐寺金堂薬師三尊の両脇侍については、岩波の醍醐寺大観第1巻2002年の同像解説(山本勉氏)によると「檜材一木造り。頭・体の幹部は一材で造り、内刳りは施さない。頭部前面を割り矧いで、玉眼を嵌入する」とあります。一方、最近発行された醍醐寺叢書研究編醍醐寺の仏像第1巻如来(勉誠出版2018年 副島弘道編)の同像解説によると「カヤ材か。頭体の幹部は縦木一材で造り、後頭部から内刳りし、蓋板を当てる。内側から玉眼を嵌入する」(執筆久保田綾氏)とあります。この解説には参考文献として上記醍醐寺大観も取り上げられているので、当然山本氏の解説を踏まえて執筆されたものです。ともに醍醐寺当局の全面的な協力の下に調査を実施して作られた本ですが、ここはやはり最新の調査結果の方を信用すべきかと思います。

  • 2020/11/05(木) 22:24:56 |
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  • むろさん #PMoz9hdc
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Re: 面部を割り矧いで玉眼嵌入

むろさん 様

早速に、いろいろ詳しく、ご教示、ご示唆を戴き、有難うございます。
きちっとした文献確認や専門的な世界というのは、踏み込めば踏み込むほど、いろいろと難しそうですね

観仏日々帖では、趣味の古仏愛好のブログということで、個人的な印象や感じたことなどを、同好の方のお役に立てばと、自由に綴らせていただいております。
知っていることや確認してみた資料のつまみ食いレベルの話で、きちっとした文献確認や検証などは及びもつきませんが、何卒ご容赦いただければ・・・・・・・。
そんなことでも、勝手気ままに綴れるのが、また趣味のブログの愉しく良い処ですね。

今後ともよろしくお願いいたします。

  • 2020/11/06(金) 19:57:01 |
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  • 観仏日々帖 #-
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Re: Re:面部を割り矧いで玉眼嵌入

海老名温故館で開催されている展覧会に修理図解が展示されています。それには、赤の斜線で、矧ぎ目の修復箇所が示されています。それをみれば、いまさら面部を割り矧いでいるか不明とはいえないとおもいます。あくまでも、研究者は、ファクトとエビデンスにもとづいて語らなければなりません。
時代判定の平安~鎌倉時代のキャプションについて、拙フェイスブックで10月15日と17日に書いたところ、山本勉氏から釈明がありましたが、私の考えは、氏にたいして、返答したとおりです。

Re:面部を割り矧いで玉眼嵌入

加藤春秋様


「海老名温故館に展示の修理図解」で、面部の矧ぎ目の修復箇所が示されているとのお話、ご教示いただきまして有難うございます

小生、フェイスブックは縁がない(やらない)ものですから、加藤様のお考え読めなくて残念ですが・・・・・・

この千手観音像については、私も含めて皆さん、やはりご興味、ご関心が高そうですね!

  • 2020/11/13(金) 13:49:59 |
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  • 観仏日々帖 #-
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Re: Re:Re:面部を割り矧いで玉眼嵌入

拙フェイスブックには、修理図解の写真を掲載していますので、是非アクセスしていただきたいと思います。
とりあえず、拙フェイスブック10月15日のやりとりを掲載します。これは、公開情報ですので、山本氏は了解しているとみなします。

加藤春秋 10月15日
久しぶりの神奈川県博、龍峰寺の千手観音像をキャプションでは、奈良~鎌倉時代と記しています。いくらなんでもこれじゃあ、ほぼ全時代のいつかの作ということ? わからないのなら、具体的にどの部分がわからないのか書かないと、読む側もなんだかわからない。

山本勉
「奈良~平安時代または鎌倉時代 八~九世紀または十二~十三世紀」と表記すべきところだったでしょう。キャプションにおける時代表記はどうあるべきかを考える、いい事例になったかと思います

加藤春秋
基本的には間違いを恐れず時代判定はすべきだとおもいます。昔、M氏が調査報告で「時代未詳」を連発していましたが、実物を見ていない読者にとってこの表現ではまるで想像がつきません。

山本勉
加藤春秋様  ご返信ありがとうございます。上のコメントは、解説執筆者が解説中で述べているところを時代表記に示すとしたらどうなるかについての意見を述べたまでで、時代判定がどうあるべきかを述べたものではないことをご理解いただければさいわいです

Re: Re: Re:Re:面部を割り矧いで玉眼嵌入

加藤春秋様

フェイスブックでのやり取り、わざわざ転載いただきまして、有難うございます。
お手間をおかけいたしました

今後ともよろしくお願いいたします

  • 2020/11/14(土) 09:16:38 |
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