新刊予定情報を知って、発刊されるのを愉しみに待っていた本でした。
「大仏師運慶~工房と発願主そして写実とは」
【前著「仏師たちの南都復興」に続く、興味津々の問題提起の本】
というのも、塩澤氏の前著、 「仏師たちの南都復興」(2016年吉川弘文館刊) が、「~鎌倉時代彫刻史を見なおす~」との副題の通り、興味津々の問題提起となっている本であったからです。
私は、この前著に大いなる知的興奮を覚え、惹き込まれるように読みふけってしまいました。
そんなわけで、今度はどんなことが書いてあるのだろうかと、新著「大仏師運慶」を心待ちにしていたという訳です。
前著の内容とかぶるところもありましたが、またまた大変興味深く読むことができました。
【「鎌倉彫刻の完成者、運慶」という常識の、見直しを問題提起】
前著は、南都復興造像の担い手の再検証などを通じて 「鎌倉時代彫刻≒慶派の時代」 という既成概念を見直そうとする問題提起でした。
新著「大仏師運慶」では、その慶派の象徴ともいえる「運慶」にスポットを当てて、その実像に迫りつつ、 「運慶によって完成を遂げた鎌倉彫刻」 という既成概念の見直しの必要性にも言及するという興味津々の内容です。
本書の表紙と、帯には、このようなキャプションが付されています。
「鎌倉時代の大仏師、運慶とはいかなる存在だったのか。
・・・・・・
朝廷・幕府という二元的支配構造による時代の大きな変動期、・・・・・・
様々な造像に関わった、その実情と、工房主催者としての制作力とは?
後に「天才」とも冠される運慶の実像に迫る。」
「運慶は常に鎌倉彫刻研究の中心であり、一般の人気も高い、いわばスター的存在である。
・・・・・・・
近代以降の鎌倉彫刻史を総括すると、主要な論点はほとんど運慶が主役となり、逆に運慶論を総括すると、鎌倉彫刻史の主要な論点が含まれる。
・・・・・・・
明治以来の大枠を見直し、定説的な見方にとらわれずに・・・・改めて考えてみたい。
すると、伝統的な運慶論や鎌倉彫刻論の修正を迫るいくつかの問題点が浮かび上がる。」
このキャプションで、本書のテーマが凡そご想像がついたのではないかと思いますが、具体的内容については、次の目次をご覧ください。
【一番の関心テーマは、「慶派」「運慶」の近現代評価と、鎌倉期当時位置付けとのギャップ】
各項立の中身にふれていくとキリがありませんので、本書をお読みいただきたいのですが、どのテーマも大変興味深く、新鮮な気持ちで読むことができました。
私が、本書で、一番関心を持ったテーマは、
「鎌倉時代彫刻」「慶派」「運慶」の近現代における評価や位置付けと、鎌倉時代当時のそれぞれの実態には、かなりのギャップがあるのではないか?
という問題提起について、どのように論じられているかでした。
本書「大仏師運慶」と前著「仏師たちの南都復興」で論じられた内容のポイントを、ご紹介したいと思います。
【常識的定説は「鎌倉彫刻は慶派の時代、鎌倉新様式の完成者は運慶」】
まずは、鎌倉時代彫刻における「慶派」と「運慶」の位置付け、語られ方です。
一般的には、次のような論述が、常識的な鎌倉彫刻史観になっていると思います。
・鎌倉時代彫刻の新様式は、運慶・快慶らの慶派によって推進、完成された。
・それまで優位にあった円派、院派は、南都復興造像における慶派の活躍を契機に、主役の座を慶派にとってかわられることとなり、以後の鎌倉時代彫刻では慶派が覇を唱えるに至った。
・慶派を中心とする鎌倉時代彫刻の特質は写実性にあり、実在感、力強さなども加え、天平復古、宋風摂取がみられる新様式で、日本彫刻史の総決算ともいえるものである。
・鎌倉彫刻は、偉大なる天才「運慶」の創り上げた表現に代表され、「運慶」によって完成を遂げたものである。
【塩澤氏による定説への問題提起
こうした常識ともいえる定説に疑問を投げかけ、問題提起を行ったのが、塩澤氏の二著です。
その論旨のエッセンスをご紹介します。
まず、
塩澤氏は、次のように論じています。
・鎌倉時代の造像は、新様式の慶派の一人勝ちで、慶派のみが圧倒的優位に立ったという訳ではない。
・当時の造像は、院派、円派、慶派の正系三派体制の下で行われており、南都復興造像においても正系三派体制の原則は守られていた。
・鎌倉時代は、「京都の朝廷と、鎌倉の幕府」という、東西二つの中心がある二極構造社会となっていて、仏像造像もこれを反映した二元的構造であった。
・京都奈良における朝廷中心の造像においては、院派、円派、慶派の正系三派体制がしっかりとまもられ、鎌倉幕府中心の造像においては、慶派が主役となった。
・「鎌倉彫刻≒慶派の時代」と受け止められているが、京都を中心とする諸寺の造像においては、「伝統様式を受け継ぐ院派、円派」と「新様式の慶派」の三派が鼎立してシェアするという、正系三派体制が守られていたというのが、現実の姿であった。
このあたりまでは、以前の観仏日々帖・新刊案内「仏師たちの南都復興」で、詳しく紹介させていただいた通りです。
【運慶没後、後世になってから喧伝、確立されていった伝説的名声
次に、
「運慶一タヒ出テ天下復タ彫刻ナシ」
これは、明治23年(1890)刊、国華11号掲載の「東大寺南大門金剛力士像解説」の冒頭の言葉です。
このフレーズに象徴されるように、明治時代、運慶は、天下無双の天才仏師としての評価が確立されていたのは間違いありません。
ところで、仏師運慶への高い評価、名声は、運慶が活躍した鎌倉時代には、もうすでに確立していたのでしょうか?
塩澤氏は、
・生前の運慶は、一定の評価を受けていたのは事実だが、同時代の円派や院派の仏師に比して隔絶するほど、高い名声があった訳ではない。
・南都復興造像でも、運慶は必ずしも最大の功績を挙げた仏師とは言えない。
鎌倉幕府関係造仏での運慶の名声はあったものの、朝廷関与の造像では、後鳥羽院院政期でも第一人者たる活躍を果たしたとは言えない。
・「七条仏師」と云われた運慶後継者たちは、「東寺大仏師職の代々継承」を固守することにより勢力の保持拡張を果たしてきたが、その正当性を示すために「東寺大仏師職が運慶に始まる」ことを広く世に喧伝、流布した。
近世に至っても「七条仏師」たちが自己の系譜を正当化するために運慶の権威付けを行い、運慶の名声の伝承者の役割を果たした。
・このように、運慶の名声は、没後に次第に高まり、近世には偉大な仏師との伝説的名声が確立されることになった。
以上の通り、運慶の名声は、その活躍時代は他を圧するほど高くなかったが、没後後代、近世に至るまでに権威づけられ、圧倒的名声が神話的に創り上げられていった。
そして、明治以降の近代美術史の中でも、
【定着している 「鎌倉彫刻≒慶派の仏像≒運慶」 という彫刻史観】
著名な美術史学者の慶派と運慶についての論述を見ても、大胆に云うと
「鎌倉彫刻はほとんど運慶派のみによってつくられたのではないかと思われるほど旺盛」
「運慶は、鎌倉彫刻の創始者であると同時に、またその完成者」
(小林剛「鎌倉彫刻史概観」日本彫刻史研究・養徳社刊1947)
「鎌倉彫刻が運慶一派によって代表され」
「鎌倉時代の中心的彫刻様式は運慶によって完成を遂げた」
(毛利久「仏師快慶論」吉川弘文館刊1961)
このような論述に代表される鎌倉彫刻史観が、一般的に定着していると云って良いと思います。
【近代日本美術史の評価観形成の4つポイント~西欧芸術評価の規範を採り入れ】
塩澤氏は、本書で、「近現代の慶派・運慶中心の鎌倉彫刻史観」と「鎌倉時代当時の正系三派体制造像の実態」との間に、このようなギャップが生じたのは、近現代における美術の価値観、評価基準が大きくかかわり、鎌倉彫刻史観を形成したからではないかと論じています。
近代の日本美術史評価における価値観のポイントとして、次の4点が挙げられています。
①変化の肯定
②独創性、オリジナリティーの優越
③作家の立場の重視
④リアリズム(写実主義)の重視
こうした価値観は、、西欧近代社会における芸術評価の規範そのものと云ってもよいものです。
明治以降の我が国の近代美術史は、この評価規範をそのまま採り入れることによって形成、確立されてきたことによるものと云って良いのでしょう。
【近代評価観にピッタリ合致する慶派と運慶の仏像】
確かに、この価値観に則れば、慶派と運慶が、圧倒的にクローズアップされ評価されるのは当然の理と云えるのでしょう。
東大寺南大門・仁王像、願成就院・毘沙門天像、興福寺北円堂・無著世親像などは、まさにこの4つの価値観にピッタリとハマる典型像のように思えます。
一方で、院派、円派の仏像が、
加えて、南都復興造像期の現存像が慶派の仏像ばかりに片寄っていることや、院派、円派の有力な現存仏像の遺品が、慶派と比べて大変少ないことも、このような鎌倉彫刻評価観を形成する要因となったとも見られるということです。
「仏像の美術的評価」というのは、今日現在の美的感覚「美のモノサシ」でなされるものであることは言うまでもありません。
また、その美の価値観、評価観というものは、時と共に移ろい変化していくものであることも間違いないものです。
近現代の感覚でいえば、慶派の仏像、運慶の仏像が、鎌倉彫刻を代表する優れた新様式の造形と感じるのは、私自身も同様ですし、当たり前の一般的美意識だと思います。
円派や院派の仏像を高く評価しろと言われても、肌感覚として納得いかないというのが、率直な実感です。
しかし、塩澤氏が問題提起する、鎌倉時代当時の正系三派の仏師集団の位置付けの実態がどうであったのかということを正しく理解しておくことも、これまた大変重要なことであると思います。
以前に、近現代の仏像評価観について「近代仏像評価の変遷をたどって」という連載を、日々是古仏愛好HPに掲載させていただいたことがあります。
この話に関連して、ご参考になればと思います。
【「偉大な天才」と論じられた、明治以来、近代「運慶評価の言説」】
もう一つ、この話に加えて注目しておかなければならないことは、近現代美術史における「運慶評価の言説」についてです。
これまで触れたように、明治期に日本美術史が論じられるようになって以来、
「運慶は、鎌倉彫刻の完成者で偉大なる天才」
という圧倒的評価は揺るがぬものとなり、今日に至っています。
明治23年の国華誌で「「運慶一タヒ出テ天下復タ彫刻ナシ」と称された通りです。
【運慶作品の発見特定のほとんどは昭和戦後期以降
ところが、不可思議で驚くべきことは、現在、運慶作品と特定されている仏像で、明治時代に運慶作が明らかになっていたのは、唯一、東大寺南大門・仁王像だけであったのです。
現在、一般に運慶作品に間違いないと特定されている作品は、13件35躯と云われていますが、そのほとんどは、昭和戦後に運慶作と発見特定されたものなのです。
明治期に運慶作かと思われていた仏像のほとんどは、運慶作ではなかったことが判明しているのです。
ご参考までに、 「運慶作とされる作品の「発見・判明」にかかわるトピックス年表」 を作ってみました。
ご覧の通りです。
【近世までの名声イメージ先行ともいえる、近代の運慶圧倒的評価の言説】
リストでもよく判るように、明治~昭和戦前まで、運慶作品と特定されていたのはわずか3件で、「運慶は偉大」と評価されながらも、運慶作品とはどのような仏像なのかが、明確にはなっていなかったという訳です。
明治期に始まる「鎌倉彫刻の完成者、偉大なる運慶」という言説は、近世までの圧倒的名声の既成概念に引きずられた、イメージ先行であったといわざるを得ないことになってしまいます。
確かに、「定朝様」、「快慶の安阿弥様」というのは、作風パターンが判り易いのですが、「運慶様」「運慶風」というのは、いかなる作風を指すのかと問われると、なかなか難しい処です。
昭和30年代の浄楽寺、願成就院像発見以来、近年、運慶作品が続々と発見特定されるに至って、ようやく運慶の造形、作風の研究が進んできたと云っても過言ではないのではないでしょうか。
【今日も、新たな運慶伝説を創り出し、喧伝しているかもしれない、近年の風潮】
運慶は、明治以来卓越した評価を得てきたことに加えて、近年は、新発見も相次ぎ、運慶フィーバーといった観があるようです。
こうした風潮に対して、根立研介氏は自著「運慶」の末尾を、このように記して締めくくっています。
「運慶研究は明治以降すでに百年以上続けられ、現在情報はかなり集積されてきているが、いまだわれわれは運慶の足跡を追うのに手いっぱいといってよいかもしれない。
その一方で、われわれは私を含め、運慶に関して数多くの言説をなしてきた。
そこには、言説者の思いに似たものも散りばめられ、運慶を讃える。
われわれは運慶の姿をなお暖味にしか把握できていないのにかかわらず、運慶像を巨大に膨れ上がらせているようにもみえる。
現在も、過去と同じように、新たな伝説を創出し運慶の名声を喧伝している時代なのかもしれない。」
近現代の運慶の評価観について、冷静に見つめた傾聴に値する指摘だと強く感じた次第です。
【本著「大仏師運慶」の、問題提起ポイントをまとめると】
塩澤氏の著書「大仏師運慶」の話に戻りたいと思います。
その終章に、本書の論旨のまとめが記されています。
終章のインデックスをご紹介すると、次の通りです。
・近代以降の言説と運慶
・造像構造の二元化
・鎌倉彫刻の表現特徴は「写実」ではなかった
・「中央」と「東国」という偏見
・天下無双ではなかった運慶
・運慶天才論の危うさ
・大仏師運慶の真実
・新しい運慶像と鎌倉彫刻像の先へ
誠に刺激的なインデックスです。
そこに問題提起されているテーマの片鱗は、ここまでご紹介した話で、少しだけ伺えたのではないかと思いますが、ご関心、ご興味が沸かれた方は、是非、本書を一読されることをお薦めします。
本書「大仏師運慶」を先に読まれてから、より詳しく論じられた前著「仏師たちの南都復興」の順で読まれると、塩澤氏の所論を判り易く知ることができるのではないかと思います。
【一読をお薦めしたい、新視点のもう一冊~根立研介氏著「運慶」】
新刊案内のついでに、もう1冊、ご紹介です。
この問題提起にご関心を持たれた方に、一読をお薦めしたいのが、根立研介氏の著作 「運慶~天下復タ彫刻ナシ」 (2009年 ミネルヴァ書房刊) です。
運慶を採り上げた本が数多ある中で、塩澤氏の問題提起に近い視点で、運慶の作品、事績を論じた著作です。
【冒頭「はしがき」ふれられた、運慶評価への鋭い視点の指摘】
本の冒頭の「はしがき」には、このように述べられています。
「こうした(注記:運慶の)伝承や名声は近代にも持ち越され、平安時代後期の和様彫刻の伝統から脱却して鎌倉時代の新様式を打ち立てた仏師として彼を位置づける今日の一般的な評価も、その萌芽は日本で美術史学が成立してくる明治20年代頃から認められる。
・・・・・・
確かに、東大寺南大門の仁王像と、武を持って政権を誕生させた武士たちの気風を結びつけることは、ある意味わかりやすい言説である。
ただ、運慶が生きていた時代の人々も、現在のわれわれと同じように彼の彫刻を見ていたのであろうか。
あるいは、運慶の造形は武士の晴好のみを反映したようなものだったのであろうか。
こうしたことを突き詰めていくと、あまりに単純化した文化史記述の危うさの問題に至るが、本書に直接関わる問題として自覚しなければならないのは、平安時代から鎌倉時代へと展開する彫刻史を、従来はあまりに運慶を中心とする慶派の彫刻史として語っていた点であり、その語り口に問題があるように思われる。
そして、こうした彫刻史の語り口は、運慶を正確に評価することをむしろ妨げてきたのではなかろうか。
・・・・・・・
最近の運慶にかかわるマスコミ報道や、インターネットのブログの書き込みなどを見ると、現代は運慶神話を再び創出する時代かと疑いたくなるところもある。
・・・・・・・
今この評伝を書くに当り意識しなければならないのは、先に触れたようないささか騒がしい運慶をめぐる環境に少し距離を置いて、冷静な議論を行うよう努めることであろう。」
引用が少し長くなりましたが、運慶と鎌倉彫刻を考える上での、誠に鋭い視点の指摘だと思います。
是非、併せてご一読ください。