美術史の時代区分の話の最後に、所謂「白鳳期」の話を採り上げてみたいと思います。
大化改新から平城遷都(645~710)までの期間の話です。
【奈良学の提唱者、青山茂氏も嘆じる、何とも判りにくい「白鳳の時代区分」】
この「時代区分の話」をご覧いただいたある方から、「奈良学」の提唱者で知られる青山茂氏が、自著にこんなことを書かれていると教えていただきました。
「ああ、白鳳時代の時代区分 ~ 書物と筆者で支離滅裂 」
(「大和寸感」2005年青垣出版刊所載~初出執筆1984年4月)
と題する短文です。
![]() |
「日本美術史関係の本を読んでいて、かねがね心にひっかかるというか、気にかかることの一つに「白鳳時代」という時代区分がある。
・・・・・・
読む本の種類、つまりその本の著者によって、その「白鳳時代」という時代の示す客観年代が区々まちまちで、いったいこの著者の書いている白鳳時代はどの“尺度”による白鳳時代なのか、よく頭にいれて読まないとこちらの頭の中の方が混乱してくることしばしばなのである。
・・・・・・・
世間一般の多くの古美術愛好家のことを考えると、混乱するのは読む方の頭が悪い、と決めつけるのは官尊民卑の思いあがり。
白鳳時代についてコンセンサスの得られない美術史学者や当事者こそ責められるべきであろうと私は思う。」
と述べ、様々な白鳳期の時代区分画期の見解があることを、具体的に例示したうえで、このように語って締めくくられています。
「ここまでくると、混乱するなという方がむしろ無理難題だとご理解いただけよう。
ことのついでに“仏教美術入門展”を常設展としている奈良国立博物館を訪ねてみたが、粗雑な筆者の脳細胞が従来以上にますます支離滅裂になったことだけを報告しておこう。」
この文章を読んで、青山氏の云う「世間一般の古美術愛好家」である私も、
「まさに、その通り! 同感! 同感!」
と、思わず膝を打ってしまいました。白鳳期というのは、これまで振り返ってきた「美術史独自の時代区分」という問題の論点や議論の悩ましさを、凝縮して象徴しているといってもよいと思います。
青山茂氏が語っているように、
「白鳳期をどう位置づけ、時代区分と画期をどのように設定するか」
の考え方には、こんなに色々あるのかとビックリする程に、様々な見解が提唱されています。
【バラエティに富む、多様な造形表現が存在する白鳳期】
白鳳期の議論が難しいのは、前後の飛鳥時代、奈良時代の造形が、比較的単一な造形様式をもっているのに対して、それに挟まれる白鳳期は、造形表現がバラエティに富んで多様なものとなっているからだと思われます。
大化改新から平城遷都の60年余の期間に、これが凝縮されているのです。
前後の時代については、
飛鳥時代は、止利様式に代表される古拙で正面観照性の様式時代
奈良時代は、古典的写実的造形が完成する様式時代
というキーワードで一括りにすることができるのではないかと思います。
白鳳期は、そのように一括りにできる造形様式というものが設定しにくく、色々なスタイルの仏像が多種多様に存在します。
例えば、
法隆寺六観音のような童児形像、
四十八体仏のなかに見られるインド風像、
隋様風を漂わせるとされる観心寺観音像や野中寺弥勒像、
瑞々しく清楚と云われる深大寺釈迦像や新薬師寺香薬師像、
明朗、秀麗と形容される興福寺仏頭像、
などがこの時期の仏像です。
これに、成熟した造形の薬師寺の聖観音像、金堂薬師三尊像を加えたとすると、そのバラエティの多彩さは大変なものです。
飛鳥時代と奈良時代が単色塗りの時代だとすると、白鳳期は多色塗りの彩り豊かな時代とでもいえるのでしょう。
それだけにこの時期をどのように捉えるかの問題は、様々な考え方が提起され、議論を呼ぶところになるわけです。
【美術文化史特有の時代呼称「白鳳」~元号「白雉」(650~4)の別称】
ところで、ご存じの通り「白鳳」という時代区分は、美術文化史の特有の呼称です。
政治史の世界で用いられることはありません。
そもそも「白鳳」というの言葉は、元号「白雉」(650~654)の別称として用いられたものでした。
後代には、白雉以降も引き続き白鳳が使われたとか、天武朝の別年号だとも云われるようになりました。
この「白鳳」という呼称が、時代区分に用いられるようになったのは、何時頃のことなのでしょうか。
【初めて「白鳳」の時代呼称を用いたのは関野貞、美術史書では「国宝帖」】
![]() |
関野貞 |
明治34年(1901)に、「薬師寺金堂及講堂の薬師三尊の製作年代を論ず」(史学雑誌12-4)という論文の中で、大化改新以降を寧楽時代とし、その前期を白鳳、後期を天平と呼んだのが始まりと云われています。
美術史書において、「白鳳」という時代区分呼称が初めて用いられたのは、明治43年(1910)に刊行された「特別保護建造物及国宝帖」(通称:「国宝帖」)に於いてです。
解説執筆の中川忠順(ただより)は、「飛鳥・白鳳・天平」という時代区分を設定しています。
ただ注目されるのは、関野貞も国宝帖(中川忠順)も共に、「白鳳」は天武朝(673~385)の年号だと考えていたことです。
「国宝帖」では、白鳳時代を大化改新から平城遷都の期間としながらも、
「芸術上白鳳時代という白鳳は天武天皇御宇の年号なり
唐風直写の芸術、精熟の域に進める時としてかくは名づけしなり」
と、述べられています。唐風直写の芸術、精熟の域に進める時としてかくは名づけしなり」
「白鳳」という時代呼称が用いられ始めた明治期は、天武朝の頃が白鳳時代のメインというイメージで、唐文化の移入影響に対応する時期と考えられていたという訳です。
白鳳という呼称は、大化改新から平城遷都までの時代区分呼称として用いられ始めたのですが、白鳳の正しい実年代、即ち白雉年(650~654)と、天武朝(673~685)をイメージしたものであった時代区分呼称との間には、少々年代ギャップがある処からスタートしたのでした。
ところが、白鳳という名称は、字形が美しく快い響きをもつものであり、当時の美術文化を表現する呼称として相応しく感じられたのでしょう。
飛鳥⇒白鳳⇒天平 という組み合わせで、広く世の中で用いられ親しまれるようになっていたのだと思われます。
【主要美術書、それぞれの代表的飛鳥白鳳期仏像の時代区分は?】
さて、この白鳳期、一般的には大化の改新から平城遷都までの期間を区分する時代とされているのですが、近現代の主要美術史書によって、時代区分の呼称、画期に様々なバリエーションがあることは、 〈その2〉 でご紹介した通りです。
そこで、飛鳥白鳳期の代表的仏像が、これらの美術史書でどのような時代区分に仕分けられているのかを確認してみました。
一覧にまとめてみたのが、以下の
「代表的飛鳥白鳳仏像 の 主要美術書における時代区分」
です。仏像のラインアップは、飛鳥白鳳期の超代表的仏像に独善的に絞り込み、凡そ制作年代の推定順に並べてみたものです。
並べた順序には、議論があろうかと思いますが、最も一般的と思われる順としてみたものです。
これらの仏像を、どのような様式タイプと考え、どの時代区分カテゴリーに入れるかに、いろいろ見方のバリエーションがあることが、お判りいただけるのではないかと思います。
皆さんは、これらの仏像の時代区分の仕分け方について、どのように感じられたでしょうか。
【美術史独自の時代区分設定の議論が盛り上がった、昭和前半期】
美術史の時代区分の問題、就中、白鳳期の区分呼称や画期の問題について、最も議論が盛んであったのは、昭和前半期、とりわけ昭和30年代の頃ではないのかなと思います。
「時代様式の捉え方、位置づけのあるべき論」
「政治史の時代区分にとらわれない、美術史独自の時代区分の設定」
という議論が数多く戦わされたようです。
論点の中心は、所謂白鳳期(大化の改新~平城遷都)は、
「白鳳時代という一時代様式の時代区分を設定できるのか」
「飛鳥時代の後期的時期と、奈良時代の前期的時期に二分されるのではないか」
「この時期は奈良時代(天平時代)に包含されるのではないか」
といった問題でした。
昭和33年(1958)の芸術新潮誌(8月号)には、「白鳳論争特集」が組まれたりしています。
本号には、久野健氏の「白鳳時代は存在する」、安藤更生氏の「白鳳時代は存在しない」といったセンセーショナルな題名の論説が掲載されるといった盛り上がりを見せています。
【諸研究者提唱の白鳳期時代区分見解を、パターン化分類してみると】
それでは、白鳳期の時代区分の設定、即ち呼称と画期の考え方には、具体的にどのような諸説があったのでしょうか?
諸研究者の提唱した説を、思い切ってパターン化し分類して
【「大化改新~平城遷都」(所謂白鳳期)時代区分論の分類と提唱者】
という簡易リストにしてみました。ご覧の通りです。
「簡易リスト」の分類を観ていただくとお判りのように、所謂白鳳期、大化改新(645)~平城遷都(710)の美術史上の時代区分設定の見解は、4つのパターン分類できます。
【分類Ⅰ】 独立した一つの時代区分として設定し「白鳳時代」とするもの
【分類Ⅱ】 後半期のみを白鳳時代とし、前半期は飛鳥時代に包含されるとするもの
【分類Ⅲ】 前半期は飛鳥時代に、後半期は奈良時代に包含されるとし、白鳳時代設定の必要を認めないもの
【分類Ⅳ】 この全期間は奈良時代への先駆的過渡的時期で、奈良時代に包含されるとするもの
想定できるすべての組合せがあるような多様な見解で、この白鳳期の時代区分の問題が、「美術史独自の時代区分設定の悩ましさ」を凝縮したものになっていることを、今更ながらに思い知らされる気持ちとなります。
このリストは、話を分かりやすくするために、諸説を大胆に割り切ってパターン化し、独善的に分類してみたものです。
それぞれの見解は、正確にはこの分類に当てはまらなかったり、微妙なニュアンスのものであったりして、こんな整理の仕方では問題多いと思うのですが、シンプルな判り易さということでご容赦ください。
この簡易リストをもう少し詳しくした、「諸説の論旨のポイント、画期、代表的仏像の時代区分」を整理した 「詳細一覧リスト」 を作成してみました。
それぞれの説を一つ一つ説明していくとキリがありませんので、 「詳細一覧リスト」 をご覧いただければと思います。
【白鳳期時代区分問題を代表する、3者の見解をご紹介】
ここでは、この白鳳期時代区分問題を理解するのに、私が最も判り易いと考える3者の見解をご紹介したいと思います。
安藤更生氏、町田甲一氏、久野健氏の見解です。
【「白鳳時代は存在しない」とする安藤更生氏
~前半は飛鳥時代、後半は奈良時代】
![]() |
安藤更生氏 |
その論旨の要点は以下の通りです。
・所謂白鳳期は、前後期の間に大きな断層がある。
前期は斉隋様、後期は隋末初唐様の影響下の造形となっている
・前期・斉隋様像には、野中寺・弥勒像(666年)を下限に、法隆寺・六観音、法隆寺・四天王像をはじめ、大化以前(飛鳥時代)の古様な中宮寺・菩薩半跏像、法隆寺・百済観音が含まれる。
・後期・隋末初唐様像には、山田寺・仏頭(678)、深大寺・釈迦倚像、新薬師寺・香薬師像等が挙げられ、これが山田寺以降の唐様式の造像につながっていく。
・したがって、前期は飛鳥時代に、後期は奈良時代に包摂されるべきと考えられる。
所謂白鳳期の仏像は、造形的に大まかに前後半に区分されるのは、それまでも云われていました。
安藤更生氏は、その区分時期を明快に示し、それぞれが飛鳥時代様式、奈良時代様式に属し、白鳳という一時代を設定するのは不合理で、必要がないと主張したのでした。
【アルカイックからクラシックへの様式展開のなかに、「白鳳」を位置づけた町田甲一氏】
![]() |
町田甲一氏 |
「上代彫刻史上における様式時期区分の問題」という論文です。
町田氏も、安藤更生氏と同様に、この時期は前後に二分されるという様式区分の考え方に立っているのですが、後期は「白鳳時代」という独立した一様式時代を設定すべきとしています。
(前期は安藤氏同様、飛鳥時代に包摂されるという見解です)
論旨の要点は以下の通りです。
・飛鳥から天平への造形は、アルカイック(古拙)からクラシック(古典的写実)への様式展開として理解される。
・所謂白鳳期の前半(天智朝迄)は飛鳥時代に含め、静止的視覚活動の造形様式の時代と考える。
・飛鳥時代も、前後期に区分され、前期は北魏様に影響された正面観照的造形、後期は斉隋様に影響された側面観照的造形の時期である。
・法隆寺焼亡(天智9年・670)の頃以降平城遷都までを、一造形様式の時代として設定し、白鳳時代とする。
・白鳳時代は、静止的視覚活動から、リアルな肉身モデリングの触知的視覚活動表現への変化が具現された様式時代である。
・天平時代は、触知的表現が飛躍的に発展し、クラシック(古典的写実美)の完成の域に達した時代で、薬師寺・金堂三尊像は「天平様式の父」である。
白鳳時代のスタートを、大化改新頃とするのではなく天智朝頃に設定し、平城遷都までを白鳳時代として区分画期したのでした。
この見解は、その後も現在に至るまで、有力な一つの見解となっています。
ご紹介した平成以降の主要美術書の3書 (日本美術全集、カラー版日本美術史、日本仏像史講義) も、町田説同様、天智朝~平城遷都を、一時代様式として画期した時代区分を設定しています。
(各書によって、用いる時代区分呼称は異なっています。)
【「白鳳」を、多様な造形様式の集中的渡来期と画期した久野健氏】
![]() |
久野健氏 |
芸術新潮誌の白鳳論争特集で「白鳳時代は存在する」と題され発表された論説です。
久野健氏は、所謂白鳳期は前後期で特色を異にすることは認めながらも、この期間を一括りにして「白鳳時代」という一時代区分を設定すべきであると主張しました。
要旨は、以下の通りです。
・白鳳時代は、壬申の乱(672)あたりを境目に前後期に分けられる。
・前半期は、飛鳥様式の強いもの(辛亥銘観音像等)もあるが、観心寺・観音像、野中寺・弥勒像のような新様も現れてくる。
・後半期は、山田寺仏頭、鶴林寺・観音像、四十八体仏中の童子形像など多様なタイプの像が制作され、これに唐様式が明確に入ってきた橘夫人念持仏、夢違観音、薬師寺金堂・薬師三尊などが加わる。
(久野氏は、薬師寺金堂三尊像は藤原京造立、持統年間制作説です。)
・この時期は、飛鳥様式の強いもの、斉隋様式、唐様式等々、多様な造形表現、新技術の集中的渡来期で、様式の混在併存期とみられる。
・こうした多様な造形時期として、従来の通り、大化改新~平城遷都を白鳳時代と設定し、時代区分すべきである。
久野健氏は、白鳳時代を多様な造形様式が集中的に渡来した時期として括り、一時代区分として設定すべきとしたわけです。
【近年の奈良博「白鳳展」も、多様性の時代「白鳳」の考え方を継承】
これまた一つの有力な見解で、近年では、2015年に奈良国立博物館で開催された「白鳳展」に受け継がれているのではないでしょうか。
「白鳳展」では、7世紀半ば(大化改新頃)から710年(平城遷都)の期間を「白鳳時代」と区分しています。
展覧会図録所載の「総論 白鳳の美術」と題する論説には、白鳳時代をこのように設定する事由として、次のように述べられています。
「明治時代以来、白鳳美術を天平美術への過渡期ととらえ、白鳳美術の特徴をこの時代の仏像に代表されるような素朴さや可愛らしさ、あるいは未完成さに求める傾向がある。
このような一面が白鳳美術にあることは筆者も認めるところであるが、白鳳美術はそれだけに留まらず、様々な様式が共存した多様性に満ちた時代であったと考えることができる。
一口に白鳳時代と言っても、その期間は飛鳥時代や奈良時代に匹敵する60年間に及び、しかもその60年はクーデター、敗戦、内乱、渡来人の大量移住、本格的な都城の建設、律令体制の整備など、激動と変化の時代であった。
めまぐるしく変転する社会に呼応するかように、美術にも様々なスタイルが生まれたのではなかろうか。
白鳳美術の多様性の中には、飛鳥時代や奈良時代の美術には見られない独自のスタイルを見出すことができる。
このことは、白鳳美術が飛鳥美術と奈良美術の中間にある過渡期的な性格のものではなく、一つの独自性のある世界を持っていたことを我々に示しているように思える。」
(内藤栄「総論 白鳳の美術」特別展・白鳳~花開く仏教美術 図録所収2015.07)
白鳳期の時代区分設定の諸見解のご紹介は、以上の通りです。
皆さんは、どの考え方に賛同されたでしょうか?
私などは、どの見解を読んでみても、それぞれに、なるほどと素直に納得してしまいそうになってしまいます。
この白鳳期を、美術史上でどのように位置づけ、時代区分をどのように考えるかというのは、本当に難しく、悩ましい問題であることを、今更ながらに痛感させられます。
【「美術史の時代区分設定」への、二つの立ち位置
~様式の編年的発展論か、多様式併存論か?】
ここまで、
「美術史上の時代区分をそのように画期するのか、とりわけ白鳳期をどのように位置づけるのか」
という諸々の見解をたどってきましたが、その時代区分の考え方には、大きく「二つの立ち位置」があるように思いました。
一つは、
造形様式は、編年的に自律的発展展開していくもので、その共通様式時期を括って時代区分すべきという立場
もう一つは、同時期に多様な造形様式が混在併存する時代も存在し、そのような時代区分もあるとする立場
ではないかと思われます。前者の立場は、町田甲一氏の見解に代表されるのではないでしょうか。
町田氏は、飛鳥から天平は、アルカイック(古拙)からクラシック(古典的写実)へと、時代を追って造形様式が順次発展展開していくとしています。
時々の主流となる一つの造形様式があり、それが時代様式を形成しているということなのだと思います。
大胆に例えれば、造形様式というのは、一本のレールの上を往くように、時代を追って自律的、編年的に発展展開していくもので、その展開変化を的確に把握することによって、美術史の時代区分が設定されると考える立ち位置と云えるのでしょうか。
後者の立場は、久野健氏や「白鳳展」の見解だと思います。
美術史の時代区分の設定は、主流となる一つの時代様式の存在のみによるものではなくて、多様な造形様式が混在併存する時期もまた一時代として区分画期すべきであるという立場ではないでしょうか。
白鳳時代が、まさにこの様式の混在併存期に該当するということだと思います。
これまた大胆に例えれば、造形様式というのは、時代によって単線のレールを往く時もあれば、複線、複々線に分岐して交差する時もあり、それぞれを一時代として区分設定する方が妥当であると考えるということになるのでしょうか。
【なかなか相容れそうにない二つの立ち位置~コンセンサスは難しい?】
「一時代一様式」とか「多様式併存」という言葉を、美術史書などで眼にすることもあります。
こうして「二つの立ち位置」の考え方を見てみると、両者には「美術史の時代様式、時代区分」というものの概念や認識に、ベーシックな違いがあるのかなという気もします。
そうだとすると、両者の一致点というのは、なかなか見出しにくいのかもしれません。
こんな興味深いコメントがあります。
「飛鳥時代(7世紀前半)から奈良時代(8世紀)までの仏像の様式変遷は、ギリシア彫刻の様式変遷になぞらえて、古拙から古典の完成へという流れで説明されることがある。
そこでは、白鳳時代の様式は「過渡期」の様式と位置づけられる。
・・・・・・・・
白鳳仏は、古拙から古典へという一本の直線の上にきれいに編年して並ばせることが出来ないものであった。
写実性が高いものほど新しいとは必ずしも言いがたい。
中国や朝鮮半島から渡ってきた新旧様式の複合化した様式もあっただろうし、遣唐使が持ち帰った唐代の最新様式もあっただろう。
制作者も色々で、中央と地方のレベル格差も大きかっただろう。
白鳳は一筋縄では語れないのである。」
(岩井共二「白鳳展を終えて」奈良国立博物館だより95号2015.10)
このコメントは、「多様式混在期としての白鳳時代」を積極的に認める立場からのものですが、美術史の様式展開、時代区分のあり方の問題が内包する悩ましさを、いみじくも端的に示唆するものなのではないでしょうか。
【今更ながらに難しく悩ましい、美術史の時代区分問題】
3回に亘って、美術史の時代区分の問題について採り上げてみました。
国立博物館の時代区分の表示が政治史時代区分に統一されている話からはじまって、「美術史独自の時代区分の設定」の近現代史的なものを振り返り、最後に、「所謂白鳳期の時代区分設定」の様々な見解などを整理してみました。
この問題、たどればたどるほど、その難しさを思い知らされました。
冒頭にご紹介した、青山茂氏の、
「混乱するなという方が、むしろ無理難題」
という言葉が、素直な実感という処です。美術史の時代区分などというのは、所詮、どう仕分けるかという話で、
「そんな細かいことに、そこまで拘らなくても良いじゃないか!」
と云われてしまいそうです。私自身も、重箱の隅をつつくような話を並べ立てているような気にもなりましたが、一方で、日頃、あまり深く考えることのない「美術史の時代区分」のあり方について、しっかり考えてみる良い機会にもなりました。
コロナ自粛のヒマに任せて、ご紹介した「こぼれ話」でしたが、「美術史の時代区分」という古くて新しい問題について、皆様に関心を持っていただく、ご参考の一助にでもなったのであれば、有り難き限りです。