ここからは、
「室生寺・十一面観音像の光背は、何時、誰がつくったのだろうか?」
という話に入りたいと思います。
地蔵菩薩像と十一面観音像の光背とを比べてみると、絵柄や文様の精緻さの調子が違っていて、地蔵像の方は平安時代の当初のもの、十一面観音像の方は後世の新補(後補)のものであることは、前話の冒頭でご紹介した通りです。
【公開講座で聴いた、興味津々の「室生寺十一面観音光背の作者」の謎解き話】
今年(2020年)の2月、奈良東生駒の帝塚山大学で、こんなテーマの公開講座が開催されました。
「室生寺の近代、ふたつの名作の誕生
講師は、同大教授の杉崎貴英氏です。
私の興味関心の深いフィールドの演題で、是非とも聴いてみたいものと、思い切って東京から出かけることにしました。
どんな話が聴けるのか愉しみに出かけたのですが、果たして、時間が経つのを忘れさせるほどの興味津々の内容で、わざわざ出かけてきた甲斐がありました。
この講座で、
初めて聴いた話でした。
「知的関心をくすぐる謎解き」のような面白い話でした。
この公開講座で聴いた話を、そのままなぞるような話になってしまうのですが、ご紹介したいと思います。
【江戸時代の後補、仏師山本茂祐の作とされてきた十一面観音光背】
室生寺十一面観音像の光背が後補のものであることは、以前からよく知られています。
後補の光背がつくられたのは江戸時代末期のことで、仏師・山本茂祐の手になるものとされています。
「大和古寺大観」には、このように記されています。
「寺蔵文書「天保九戊戌年普請仕用帳」に
現光背はこの時に造られたものであろう。」
(大和古寺大観 第6巻「室生寺」1976年岩波書店刊 水野敬三郎氏解説)
「魅惑の仏像・十一面観音 奈良室生寺」では、このように解説されています。
「十一面観音像にも板光背がとりつけられていますが、他の光背のようなすばらしい彩色のものではなく、時代の特色もあまりはっきりしないものです。
これは室生寺に伝えられる江戸時代1838年(天保9年)の修理記録によって、京都の仏師山本茂祐がこの時こわれていた古い光背にかえて新造したものであることがわかります。」
(魅惑の仏像 第21巻「十一面観音 奈良室生寺」1992年毎日新聞社刊 小川光三写真・西川杏太郎氏解説)
室生寺を採り上げた、他の多くの美術書も、これと同様の解説がされています。
いわゆる定説というものなのだと思います。
【わずかにみられた「光背は明治修理時の新補」とする記述】
ところが、そうではなくて、今の光背は明治時代の修理の時に新補されたものだとする記述が、僅かですが存在するのです。
美術院で長年仏像修理に携わった明珍恒夫氏の著書「仏像彫刻」には、このように記されています。
「光背は所謂挙身光、極彩色で宝相華文様を描く。
但しこれは明治の修理に際し古式に倣うて捕捉したものである。」
(明珍恒夫著「仏像彫刻」1936年大八州出版刊)
日本国宝全集の解説には、
「その光背は近年の新補で、他の諸仏に擬して作ったものである。」
(「日本国宝全集 第31輯」文部省編 1933年日本国宝全集刊行会刊)
とあり、明治期の新補を匂わせる表現となっています。
なんと、明治に入ってからの新補だというのです。
共に、明治修理からあまり年数を経ていない昭和初期の記述なので、信頼性はありそうです。
実は、この十一面観音像は、明治42年(1909)に美術院の修理を受けているのですが、その時の修理記録には設計・精算書だけが残されているだけで、光背が新補されたのかどうかはわかりません。
江戸末期の制作か、明治修理の制作か、どちらが真実なのか確かなことははっきりしないという状況でした。
【新たに見つかった、明治修理前の十一面観音の古写真~現在の光背とは別物】
そうしたなか、この光背が明治の新補であることが明らかとなる古写真が見つかったのです。
古い「室生寺金堂仏像の絵葉書」です。
この絵葉書、杉崎教授が、昨年(2019)入手したそうです。
撮影年は不明ながら、明治42年(1909)の修理以前の古写真に間違いないようです。
その絵葉書には、十一面観音とその光背が写されていました。
光背の形をよくよく見ると、現在の光背の形とは、ちょっと違うことが判ります。
宝珠形の頭光の先端の尖り方、船形光背と重なるラインなどが明らかに異なります。
【現光背は明治新補であることが明らかに~古写真は江戸後補の光背】
この古写真に写っている光背が、江戸時代の後補光背と思われます。
この古い絵葉書で確認できた事実から、現在の十一面観音像の光背は、
【杉崎教授は、光背は「久留春年」の手になるものと推定】
さて、明治に新補された光背は、誰の手になるものなのでしょうか?
杉崎教授は、この作者を「久留春年」(ひさとめしゅんねん)であろうと推定しています。
「久留春年」という人の名前をご存じの方は、ほとんどいらっしゃらないことと思います。
杉崎貴英氏は、ごく最近、
この論考には、「久留春年の業績と、室生寺観音像光背の作者である可能性」について、詳しく論じられています。
これまた、その論考をなぞるようなそのつまみ食いとなりますが、話を進めさせていただきたいと思います。
【奈良の美術院で「画工」をつとめていた久留春年】
久留春年というのは、国宝修理、仏像修理を行う「奈良の日本美術院第二部」で、画工として絵画彩色に携わった人物だそうです。
その経歴などにふれたものはほとんどないのですが、このような記述が残されています。
「【久留春年】鹿児島の人。
美術院では絵画彩色の方面を担当し、光背には久留氏描く所が多く存する。
よく古画を研究し、模写に巧みで、薬師寺吉祥天画像は知られている。
佐保会蔵百虫譜はたしかな写実でありユーモアに富む。
不退寺多宝塔支輸の復原図は晩年の作。
古美術の研究も深く、独自の見解があり、その説痛快なものがあった。
昭和11年没56歳。」
「大和百年の歩み~文化編」(1971年大和タイムス社刊)の美術院の項に、以上のように述べられています。
もう一つ、高田十郎執筆「奈良百話」(「奈良叢記」1942年駸々堂書店刊所収)には、第86話に、
「久留春年
昭和11年10月7日、56歳で没した古典画人・久留春年君は、一種特別な存在だった。
薩摩人で京都美術学校出身、明治34年から奈良の人になる。
初め若干年は美術院にも入り、又其後も時々古社寺修理にたづさはり、すべて古美術と共に生涯を送った。
変屈者と云はれながら、中々常識家で顔が広く、骨董商人の活字引ともなる。
・・・・・・・」
と記されています。
この経歴を裏付けるように、明治39年(1906)の「日本美術院第二部」発足当時メンバーの記念写真には、責任者、新納忠之介と共に、久留春年の姿が写されています。
【明治修理で多くの光背を描いた久留春年~室生寺・十一面観音光背も久留の手の可能性大】
この久留春年が、室生寺・十一面観音像の光背の制作者として、絵柄、文様を描いた人物ではないかと思われるのです。
久留がこの光背を描いたという記録が、残されているわけではありません。
ただ、明治大正年間の美術院の仏像修理記録のいくつかに、「画工」として久留の名前がみられますし、
また、
(「大和百年の歩み~文化編」)
これらのことから、杉崎教授は、
「明治42年に修理され新補された室生寺・十一面観音の光背は、久留春年の手になる可能性が高い」
と考えたわけです。
【法輪寺諸像、法隆寺金堂天蓋・天人光背も久留春年の手になるもの?】
杉崎教授によると、久留春年の手によって新補された古仏の光背には、次のようなものがあるとみられるとしています。
法輪寺の諸像~薬師如来像、虚空蔵菩薩像、聖観音像の光背
法隆寺金堂天蓋天人像のうち、多くの新補された光背
法輪寺諸像の光背が久留春年の手によると考えられる訳は、
これらの像の光背が明治42年(1909)の修理の時の新補であることが、「法隆寺大鏡」「大和古寺大観」の解説から伺われることに加えて、小島貞三著「史蹟と古美術 大和巡礼」(1955年大和史蹟研究会・再刊)の、法輪寺諸像の解説の項に、
法隆寺金堂天蓋天人像光背の方は、明治39年(1906)竣工、西の間天蓋修理に関する棟札に「画工 久留春年」と記されていることによるものです。
くどくどと綴ってきましたが、以上の通り、
「室生寺・十一面観音像の光背は、江戸末期の後補ではなくて、明治42年の修理時に、美術院によって新補されたものである。」
「この光背は久留春年の手になる可能性が高く、法輪寺諸像、法隆寺金堂天蓋天人像など明治期修理時の新補の光背の多くは、久留春年作とみられるであろう。」
ことが、明らかになったと云えるのでしょう。
こんな話は、杉崎教授の帝塚山大学公開講座を聴くまでは、全く知りませんでした。
後補の光背が、「江戸末期のものなのか、明治修理のものなのか」などというのは、わざわざ採り上げて議論するほどのものではない、マイナー、マニアックな話かもしれませんが、私には、知的好奇心を凄くくすぐる話でした。
これほどに謎解きのような興味津々のものであろうとは、思いもよりませんでした。
皆さんは、どのように感じられたでしょうか?
【二冊の図譜、拓本集の編著者~久留春年】
ところで、「久留春年」という人。
その経歴などは全く知らなかったのですが、私の頭の片隅にかすかに残った名前でありました。
久留春年という名前に記憶があったのは、こんな二つの本の編著者であったからです。
「正倉院式文様集」全5集 (大正14年木原文進堂刊)
「古代芸術拓本稀観」全3集 (昭和2~3年木原文進堂刊)
明治大正期の図譜や拓本の愛好者の方は、この図集のことをご存じかも知れません。
正倉院の古裂文様の図譜集と、久留春年蒐集仏教美術拓本の図葉集です。
ご覧の通りの、味わいのある美麗な図譜、拓本集で、私も端本ですが、入手したことがあります。
私は、編著者となっている久留春年という名前に何の知識もなく、
【古画家、古美術研究家として多方面に活躍した久留春年】
ところが、杉崎氏の論考「久留春年探索序章」を読んでみて、単なる趣味人などという人物でないことが、よく判りました。
久留春年は、奈良の美術院の絵画彩色担当(画工)に留まらず、日本画家・古典画家、古裂文様研究家として、また図集の編著者として、古美術研究への多方面の才能、造詣を以て活躍した人物であったのです。
奈良の古美術研究誌「寧楽」との関りも深かったようです。
寧楽誌のいくつかの表紙を飾っている「正倉院古裂文様」は久留春年の手によるものですし、第10号・天平文化史論の表紙「正倉院樹下美人図」は、久留春年の描いたものです。
また、「正倉院古裂文様に就いて」(4・5号)、「峰の薬師像と其脱乾漆」(6号)と題する久留の小論も掲載されています。
この話を書くのに、架蔵の「寧楽」を取り出して見ていたら、第4号にこんなチラシが挟まっているのに気が付きました。
ご覧の通りに久留春年「正倉院式文様集」の発刊案内チラシです。
発刊趣意文には
この紹介文を読むと、久留春年は、単なる画工というのではなく、「奈良古美術研究家」として当時知られていたことがよく判りました。
【「久留春年」~近代奈良文化史を語る上で、忘れてはならない人物】
今では、その名前が語られることのない、久留春年。
こうした様々な業績をたどってみると、近代奈良文化史を語る上では、忘れてはいけない人物であることを痛感した次第です。
室生寺金堂の板光背にかかわる「こぼれ話」を、紹介させていただきました。
10回に亘って連載させていただきました「光背の話」でしたが、これでおしまいとさせていただきます。
無理無理ひねり出した光背がらみのこぼれ話も、もうネタ切れです。
仏像の光背という、結構地味なテーマで、どうでもいいようなマニアックな話ばかりになってしまいましたが、新型コロナ下の自粛生活の中で、時間つぶしの一助にお読み戴けたのであれば、有り難い処です。