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観仏日々帖

こぼれ話~光背の話⑨ 室生寺金堂・十一面観音、地蔵菩薩像の板光背の話 〈その1〉 【2020.07.19】


【東博に出展された、美しい板光背の二像~室生寺・十一面観音、地蔵菩薩像】

昨年(2019年)、東京国立博物館で「奈良大和四寺のみほとけ展」が開催されました。
岡寺、室生寺、長谷寺、阿倍文殊院の四寺の諸仏像が出展されました。

「奈良大和四寺のみほとけ展」チラシ

会場となった本館11室の真正面の奥には、見事な板光背の室生寺金堂の2像が、並んで展示されていました。

東博に並んで展示された室生寺金堂の地蔵菩薩像・十一面観音像
東博「奈良大和四寺のみほとけ展」に並んで展示された
室生寺金堂の(左)地蔵菩薩像・(右)十一面観音像


十一面観音像(平安前期・国宝)と地蔵菩薩像(平安前期・重文)の2体です。

十一面観音像の方は、奈良大和路のポスターなどによく使われる大人気の仏像でです。
ご覧の写真の通り、2像が背負う板光背の美しい絵文様も、ライティングに映え一段と鮮やかです。
沢山の人が、その魅力にひき込まれるように、足を止めて見入っていました。

皆さんも、この展覧会、愉しまれたのではないかと思います。

さて、揃って並んだ見事な、平安の一木彫像。
二つの板光背をご覧になって、どこかちょっと気になる処を感じられなかったでしょうか?

お気づきの方も、多いのではないかと思います。



【光背と仏像のサイズが、不釣り合いの地蔵菩薩像】


一つは、地蔵菩薩像の光背のサイズが、仏像本体の像高と釣り合っていないことです。

板光背の頭光の中心と地蔵像の頭の位置とがズレていて、光背の方が大きすぎるのです。
光背は現在の像のものではなく、元々、この光背と一体であった仏像がある筈です。

本来の仏像は、どうなったのでしょうか? 今も存在するのでしょうか?



【ちょっと調子が違う、十一面観音の板光背絵文様~実は後補】


もう一つは、十一面観音像と地蔵像の板光背に描かれた、絵柄、文様の調子が、ちょっと違うことです。

地蔵像の板光背は平安時代当初のままのもので、絵文様も生き生きとして華麗、見事な出来栄えのものです。
これに較べて、十一面観音像の板光背の絵文様は美しいのですが、大柄でやや粗さ、甘さを感じられるのではないかと思います。
実は、十一面観音像の光背は、後世に新しく造られた後補のものなのです。

この後補の光背、何時頃、誰の手で、制作されたのでしょうか?


今回のこぼれ話は、この二つの疑問点にまつわる話たどって、ご紹介させていただきたいと思います。



【平安時代、奈良地方を中心に流行した板光背】


本題に入る前に、今回テーマにした「板光背」について、ちょっとだけふれておきたいと思います。

「板光背」というのは、平らな一枚板か数枚の板を寄せて造られ、化仏、唐草などの文様を彩色あるいは墨彩によって描いた光背のことです。
平安時代に、奈良地方を中心に、主に西国一帯で流行ししました。

室生寺の諸仏群の板光背、當麻寺曼荼羅堂発見の多数の板光背など、多数が知られています。
年紀の分かる最古作例は、和歌山慈尊院・弥勒仏像(寛平4年・892)の光背です。
板光背の作例は、都が京都にあった時、奈良大和の外周的エリアで、中規模以下の寺院に多く存在しているのが特徴です。



【室生寺金堂に立ち並ぶ、美しい板光背の五尊像】


室生寺の金堂には、この板光背を背負った平安古仏が、五尊安置されています。
中尊の釈迦如来像の左右に、薬師如来、地蔵菩薩像と文殊菩薩、十一面観音像が安置されています。

金堂内に、立派な板光背の五尊が、ずらり立ち並ぶ姿は壮観です。
9~10世紀の制作とされていますが、像高バランスは不揃いで、作風からも一具像ではなくて、制作年代に少し幅があるようです。
板光背は、十一面観音像の後補光背を除いて、4躯のものは当初の平安時代のものが残されています。
なかでも、釈迦像と地蔵像の板光背は、華麗で入念な彩色が施され、とりわけ見事なものです。

ご存じの通り、今年(2020年)、室生寺では仁王門のそばに宝物殿が完成しました。
金堂内の諸仏は保存環境の問題などから、宝物殿に移されることになり、金堂では拝することができなくなってしまいましたが、その分、眼近で拝せるようになるのではないでしょうか。


本題に入りたいと思います。


【地蔵像光背と本来セットであった仏像の行方は?】


一つ目のテーマ
「地蔵菩薩の光背と本来セットであった仏像は?」
の話です。

地蔵菩薩像の光背は大きすぎて、本来一体であったのは別の仏像であったのは明らかです。
元々、セットであった地蔵菩薩像は、現存するのでしょうか?



【何故か寺外に出ていた、本来の地蔵像~中村区の安産寺に】


なんと、その像は、室生寺の外の場所に残されていることが、明らかになっているのです。

室生寺から5~6キロ離れた、三本松中村区という処に安産寺という小さなお堂があります。
そこに祀られている地蔵菩薩像が、本来セットであった仏像に間違いないと考えられています。

中村区安産寺・地蔵菩薩像(平安・重文)
中村区安産寺・地蔵菩薩像(平安・重文)
元々、室生寺金堂に安置されていたとみられる像


よく知られている話ですので、ご存じの方も多いことかと思います。



【金堂・伝釈迦像とそっくりの作風の安産寺・地蔵像~まさに室生寺様式】


堂々たる平安前期の一木彫の地蔵菩薩像です。
切れ長の眼、鼻筋が通った彫りの深い横顔が魅力的です。

この地蔵菩薩像、造形表現の特徴、作風が、室生寺金堂の本尊・釈迦如来像と大変似通ったものがあり、一連の仏像として制作されたものだと思われるのです。

「漣波式」(れんぱしき)と呼ばれるサザナミのような衣文表現は、まさに室生寺様式とも呼ばれるものです。



【光背のサイズもピッタリ一致する安産寺像】


そして、室生寺金堂・地蔵菩薩の光背の大きさと、安産寺・地蔵像の大きさとが、ばっちりとフィットするのです。
中村区・安産寺像の像高は、177.5㎝で、頭の位置が、室生寺の光背の頭光の中心に、見事、ピタリと一致するのです。

室生寺金堂に在った安産寺・地蔵菩薩像は、どういう訳か、仏像の方だけ寺外に出てしまい、その後室生寺に遺された光背に、現在の地蔵菩薩像が組み合わされて安置されたということになります。

この室生寺に遺る光背と、安産寺の地蔵菩薩像、同時に博物館で展示されたことがあります。
1993年、東京国立博物館で開催された「大和古寺の仏たち展」で双方同時に出展されました。

この展覧会、私は見に行っていないので、地蔵像と光背が本来の形で組み合わされて展示されたのかどうかは判らないのですが、展覧会図録には、中村区・安産寺像と本来の光背とを、当初の姿に組合わせた写真が掲載されていました。
(掲載写真の注釈に「撮影・奈良国立博物館」と記されていました。)

本来の光背(室生寺・地蔵像光背)と組み合わされた安産寺・地蔵像
本来の光背(室生寺・地蔵像光背)と組み合わされた安産寺・地蔵像

ご覧の通りで、サイズだけではなく、仏像と板光背の造形、絵文様とがピッタリとフィットしていることが実感できます。

本尊・釈迦如来像(本来は薬師如来として造像)と中村区・安産寺像は、一具として造立されたものとみられています。
十一面観音像と3躯セットの一具という見方もあります。



【宇陀川の増水で流れ着いたと伝えられる安産寺・地蔵像】


ところで、どうして室生寺金堂に祀られていた地蔵像が、中村区・安産寺に在るのでしょうか?

村落に伝わる伝承では、
「宇陀川が増水した時、この仏さまが対岸に流れ着き、村人が引き上げ現在の地にお堂を造って祀った。」
と、伝えられます。

しかし、地蔵像は、大した損傷もなく伝えられていますので、川を流れてきたというのはあり得ず、何らかの事情で室生寺を出たのだと思われますが、その経緯は全く判りません。
像内に貞享5年(1688)の修理銘を墨書した木札がおさめられていて、中村の人々の名が記されていることから、その頃にはもう三本松中村区の地にあったことが知られています。

この安産寺・地蔵菩薩像が世に知られ、優作像だと認識されたのは昭和10年代のことのようです。
昭和15年(1940)に、旧国宝(現在は重要文化財)に指定されています。
旧国宝指定時には、室生寺金堂の旧仏であろうと推察されていたようで、昭和16年には丸尾彰三郎氏が、初めてその旨に言及しているようです。
(丸尾彰三郎「吉野宇陀飛鳥巡礼」画説9号1941年刊所収)

この地蔵像が、室生寺金堂の旧仏に絶対に間違いないことを証する古記録や墨書銘などが遺されているわけではないのですが、先ほどふれたような造形様式の類似性などから、現在に至るまで異論はないようです。



【中村区の村人の手で、長らく大切に守られてきた地蔵像】


安産寺を訪ねると、どうしてこんな鄙なる村落に、これほどの見事な仏像が遺されてきたのかと驚くとともに、よくぞ今日まで、この仏像が村落に人々の手で守られてきたものだと、感慨を覚えてしまいます。

中村区安産寺のお堂~地区の集会所にもなっている
中村区安産寺のお堂~地区の集会所にもなっている

安産寺という寺名はあるのですが、実際には、三本松中村区の村民の方々で管理され、守られていて、お堂は、地区の集会所としても使われているのです。
お堂の奥に収蔵庫がしつらえられ、地蔵像がポツンと一体だけが安置されています。

安産寺で地区の管理の方にお話を伺うと、この地蔵像が、厚い信仰の元に村落の人々によって、長らく大切にお守りされてきたことが実感されます。

地蔵像は、奈良国立博物館に預けられていた時期がありました。
第二次大戦中の一時期と、戦後、昭和25年(1950)から53年(1978)まで奈良国立博物館に預けられていました。
文化財保護の観点から、お堂での安置は防火防災上問題があるという事由であったようです。
村落では、何とかこの地にお地蔵さまが戻ってきてほしいものと、返却要請をしたところ、収蔵庫建設を条件に戻されることになり、何年もかかって待望の収蔵庫が完成、念願が叶ったということです。

お堂の奥に設えられた収蔵庫内の地蔵菩薩像は、照明も明るく、眼近に見事な姿をじっくりと拝することができます。
是非一度は訪ねて、室生寺の美しい板光背を頭に浮かべながら、地蔵菩薩像の魅力を堪能されることをお薦めします。

この安産寺の地蔵像が、室生寺の金堂に安置され、本来の光背を背に本尊・釈迦像などと共に立ち並ぶ姿を一度見てみたいような想いもよぎるのですが、それよりも何よりも、この中村区の村落の人々の手で、これからも長らく大切に守られていって欲しいという気持ちを強く感じた次第です。



〈その2〉では、
「室生寺・十一面観音像の光背は、何時頃、誰の手で造られたのか?」
という謎を解く話を、ご紹介したいと思います。


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