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観仏日々帖

こぼれ話~光背の話⑧ 聖林寺・十一面観音像の光背残欠と復元 〈その2〉 【2020.07.11】


ここからは、聖林寺・十一面観音像の光背残欠から、当初の姿を復元する試みについての話に入りたいと思います。

聖林寺・十一面観音像光背残欠..聖林寺・十一面観音像
聖林寺・十一面観音像と光背残欠


【西陣織で復元された、聖林寺・十一面観音像の光背】


いまから6年前、2014年11月に、こんな見出しの新聞記事ニュースがありました。

「国宝観音像に西陣織の光背復元 奈良・聖林寺」

記事の一部をご紹介すると、次のように報じられています。

西陣織の復元光背が背面に掛けられた聖林寺・十一面観音像
西陣織の復元光背が背面に掛けられた
聖林寺・十一面観音像
「桜井市の聖林寺に祀られている国宝「十一面観音立像」の光背が西陣織で復元され1日、開眼法要が営まれた。
全国から多くの参拝者が訪れ、復元された光背が掛けられた十一面観音立像に手を合わせた。
・・・・・・
今回、西陣織の光背(縦4m、横2m)の復元図を手掛けたのは、長年復元図を研究している仏像研究家、池田久美子さん(66)=桜井市
東京芸術大の大学院で研究中、光背について書いた修士論文が聖林寺の先々代住職、倉本弘玄氏の目にとまり平成13年、復元図の作成を依頼されたという。

以来、育児の傍ら天平期に造られた光背の文様などを研究。
当初は原物と同じヒノキでの再現を検討したが、費用や材料面などの課題もあり頓挫。
京都の西陣織工房での協力を得て先月末、当時の文様の特徴を忠実に再現した西陣織での再現がようやく完成した。」
(2014年11月5日付 産経新聞ニュース)

池田久美子氏が手掛けた、聖林寺・十一面観音像の光背復元図による西陣織の再現光背が完成して、聖林寺において、十一面観音像の背面に掲げられたという報道です。
1ヶ月間に亘って、十一面観音像が安置される聖林寺の収蔵庫「大悲殿」にて公開されました。

聖林寺・十一面観音が祀られる大悲殿
聖林寺・十一面観音が祀られる大悲殿

西陣織の復元光背が十一面観音像背面に掲げられた様子の写真は、ご覧の通りです。

西陣織の復元光背が背面に掛けられた聖林寺・十一面観音像
西陣織の復元光背が背面に掛けられた聖林寺・十一面観音像

織物による几帳のようなスタイルとはいいながらも、誠に華麗で荘厳な様子が伺えます。
これがもし当初の本物の光背であったならば、どれほど見事なものであったでしょうか。
想像がつかぬほどに、煌びやかなものであったことと思います。



【聖林寺・観音像の光背復元に取り組んだ池田久美子氏】


池田久美子氏が、聖林寺・十一面観音像の光背断片残欠から、当初の光背の姿の復元に取り組み、西陣織の光背の再現に至ったのは、どのようないきさつによるものだったのでしょうか。

池田氏は、これまでに聖林寺・十一面観音光背の復元について、3本の研究論文を発表しています。

昭和49年(1974) 「聖林寺十一面観音立像光背残欠の復原」 仏教芸術99号
平成17年(2005) 「聖林寺十一面観音立像光背残欠復元の再考察について」 デアルテ21号
平成23年(2011) 「奈良時代仏像荘厳「光」の復元についての再考察」 デアルテ27号

最初の論文は、40年以上前に書かれたものです。
新聞記事にもふれられているように、池田氏が東京藝術大学在学中の修士論文がもとになったものです。
池田氏がまだ20歳代だった頃で、当時の担当教授、西村公朝氏の指導の下に、光背断片のX線調査、同時代の光背構造、文様との比較研究などによって、聖林寺・光背の復元研究に取り組んだ研究論文です。

この論文では、この光背残欠は聖林寺像の光背に間違いないこと、光背総高が約4mと考えられることなどが述べられています。
そして、次のような光背復元の想定図が提示されています。

聖林寺・十一面観音の光背復元想定図(1974年池田久美子氏作成・仏教芸術99号掲載)
聖林寺・十一面観音の光背復元想定図
(1974年池田久美子氏作成・仏教芸術99号掲載)


この修士論文は大変高く評価されたようで、なんと「仏教芸術」に掲載されたのでした。
ご存じの通り、「仏教芸術」は、著名な研究者が論文掲載する当代一流の仏教美術研究誌で、20歳代の若手の論文が採り上げられたというのは、この論文が余程注目評価されたのだと思います。



【四半世紀を経て、光背復元の再考察を決意】


池田氏の回想によれば、その後は研究生活を諦めることにして、家族の世話を中心にする生活に入ったそうでが、子育てがほぼ終わった頃に、聖林寺のご住職から研究の続きをするように勧められたそうです。

きっかけは、1998年に奈良国立博物館で開催された「天平展」に、聖林寺・十一面観音像と光背残欠が特別展示された時のことだそうです。
当時の聖林寺住職、倉本弘玄氏から光背の復元研究を進めて欲しいとの話があり、光背復元再考察の研究に入ることを決意したのでした。

昭和49年(1974)の論文では、光背の詳細な文様まで描いた具体的な図面を完成させるには至らなかったのですが、新たな再考察では、極めて困難な形態、文様などの想定復元の研究に取り組んだということです。
そして、平成17・23年(2005・2011)、九州藝術学会研究誌「デアルテ」に2本の研究論文を発表、想定の修正を重ねながら、「復元想定図面」を完成させました。

最終的に完成した「聖林寺・十一面観音像光背の復元想定図」は、ご覧のようなものです。

2011年に完成した聖林寺・十一面観音の光背復元想定(池田久美子氏作成)
2011年に完成した聖林寺・十一面観音の光背復元想定
(池田久美子氏作成)


昭和49年(1974)当時の復元想定と較べると、外観も大分変化したものになっています。



【2014年、西陣織による光背再現制作が実現】


完成した復元想定図に基づいた光背の復元制作ですが、当初と同じものを模造制作するというのは、技術的にも費用面でも難しいものがあったのでしょう。

西陣織の壁掛けスタイルで再現制作されることとなりました。
制作費用は奉賛者を募り、約800人の寄附により制作が実現したそうです。
京都の西陣織企画・販売会社「京都企画会議」によって、西陣織の技術を駆使して制作されました。

こうして完成した西陣織再現光背が、2014年、聖林寺・十一面観音像の背後に掲げられて、一般公開されるに至ったというのが、冒頭にご紹介した、新聞記事のニュースという訳です。



【奈良博でも研究が進められた、聖林寺・観音像光背の復元想定】


実は、池田久美子氏の想定復元図とは別の、聖林寺・十一面観音像光背の想定復元図が、もう一つ存在します。
奈良国立博物館を中心に進められた2000~2002年に科研費補助基盤研究 「日本上代における仏像の荘厳」 という研究成果によるものです。

その想定復元図は、次のようなものです。

聖林寺・十一面観音光背復元想定図(「日本上代における仏像の荘厳」2005年奈良国立博物館刊掲載)聖林寺・十一面観音光背復元想定図(「日本上代における仏像の荘厳」2005年奈良国立博物館刊掲載)
聖林寺・十一面観音光背復元想定図
(「日本上代における仏像の荘厳」2005年奈良国立博物館刊掲載)


「日本上代における仏像の荘厳」研究成果報告書は、2005年に奈良博によって刊行されました。
聖林寺・十一面観音、法華堂・不空羂索観音&宝冠化仏、二月堂・本尊光背、法隆寺伝法堂・光背など奈良時代の現存光背の詳細な調査研究結果ならびに諸論考が掲載されています。

この中で、聖林寺・十一面観音像の光背の想定復元図の作成が行われていて、山崎隆之氏を中心に復元図の作成が行われたものです。



【二つの想定復元~異なる挙身光と頭光の配置位置】


この想定復元図と池田久美子氏の復元図との、大きな違いにお気づきでしょうか。

挙身光と頭光の配置位置が、大きく違うのです。

聖林寺・十一面観音光背復元想定図(「日本上代における仏像の荘厳」2005年奈良国立博物館刊掲載)2011年に完成した聖林寺・十一面観音の光背復元想定(池田久美子氏作成)
聖林寺・十一面観音光背復元想定図
(左)「日本上代における仏像の荘厳」(奈良博刊)掲載、(右)池田久美子氏作成


奈良博の復元図では、大きな蓮弁形光背(船形光背)の挙身光上部の内側に円形の頭光が配置されています。
池田氏の復元図では、蓮弁形挙身光の上部にはみ出して突出するように円形の頭光が配置されているのです。
池田氏は、この光背のスタイルを「二重層の輪光」と呼称しています。

いずれの想定も、奈良時代の現存光背の詳細な研究結果から導き出された推定なのだと思います。
現存の奈良時代の主要光背の姿の写真は、ご覧の通りです。

東大寺法華堂・不空羂索観音像光背
東大寺法華堂・不空羂索観音像光背

東大寺法華堂・不空羂索観音像の宝冠化仏光背東大寺二月堂・十一面観音像光背断片
(左)東大寺法華堂・不空羂索観音宝冠化仏光背、(右)東大寺二月堂・十一面観音像光背断片

奈良博の復元想定は、法華堂・不空羂索観音像の光背と同じスタイルのイメージのようです。
一方、池田氏の復元想定は、法華堂・不空羂索観音像の宝冠の銀製化仏の光背と似たイメージです。
池田氏は、奈良時代の光背は、本来 「二重層の輪光」スタイルのものであったとの考え方で、二月堂本尊の光背も、法華堂不空羂索観音の光背も、制作当初は円形頭光部が、蓮弁形の挙身光の上部にはみ出して配置されていた可能性が大きいと論じています。

奈良時代の光背の、蓮弁挙身光と円形頭光の組合せの標準形というのは、本当の処はどのようなスタイルであったのでしょうか?



【もう一つの聖林寺・観音像光背の復元想定の研究】


もう一つ、違う視点で、聖林寺・十一面観音像の光背の復元想定を論じた論考があります。

「八世紀制作の立像光背に関する一考察~聖林寺十一面観音立像の光背残欠を中心に」 (小林裕子) 仏教芸術288号 2006.09

という論考です。

この論文を執筆した小林裕子氏は、池田久美子氏、奈良国立博物館の光背復元想定が、蓮弁形の挙身光の中心部あたりに円相を配した形になっていることに注目しました。
頭部の円形頭光の他に、腹部あたりにもう一つ円相が配されているのです。

大正年間に日本美術院によって復元され並べ置かれた光背断片の姿を、そのまま適用すると、円相の部分が丁度観音像の腹部あたりに位置するのです。



【残欠の円相部分は、本来は頭光部分と想定~断片間に欠落?】


小林氏は、この円相が挙身光の中心部(仏像の腹部)に来ることに疑問を呈しました。

像の頭部と腹部に二つの円相を配した蓮弁形の挙身光の現存作例は、ほかに例を見ないこと。
光背残欠の円相上部は花弁の先のように尖っており、あたかも蓮弁形光背の先端の如き形状であること。

などからです。

光背残欠は3箇の断片を並べ置いたものなのですが、断片間に本来あったはずの部分の欠落があり、腹部の円相と想定されたものは、本来は頭光部分にあたるのではないかと想定したのでした。

論文掲載の「光背断片の現状と本来位置想定図」は、次のようなものです。

聖林寺十一面観音の「光背断片の現状と本来位置想定図」(小林裕子氏想定・仏教芸術288号掲載)
聖林寺十一面観音の「光背断片の現状と本来位置想定図」
(小林裕子氏想定・仏教芸術288号掲載)



【奈良時代の立像の、光背高と像高とのバランス比率は?】


そして小林氏は、奈良時代の立像の光背の高さと像高との高さのバランス比率には、一定の法則が存在するとし、聖林寺像の本来の光背位置をこのように想定した場合、その法則に合致すると論じています。

小林氏による、8世紀立像の像高と光背高との比率検証データをご紹介すると次の通りです。

8世紀立像の現存作例の像高と光背高

ご覧のように、8世紀に制作された立像の光背高は、像高(髪際高)の4分の1をプラスした1.25倍の比率法則に則っている蓋然性が高いとというものです。
このことからも聖林寺像の断片光背には欠落があり、円相部分が頭光部分に位置すると考えられる重要な判断材料になるとしています。

この小林氏の説に対しては、反論もなされていて、池田久美子氏の論文には、
小林氏が、欠落があるとしている二つの断片の接合部分は、その割折部分の木目の形状、断裂面の状況などから、上下で繋がるものであることは確実で、そこに別材が入ることはあり得ない。
との旨が述べられています。(「奈良時代仏像荘厳「光」の復元についての再考察」 デアルテ27号)


以上の3つの聖林寺像の光背復元の想定、皆さんは、どのような感想を持たれたでしょうか?
素人の私には、どの想定が当初の姿に近いのかすら、全く想像もつきません。

いずれにせよ、光背の残欠断片から、1300年前の奈良時代の当初の姿を想定し復元していくということが、いかに困難なことで、いくつもの想定がありうるのだということを、つくづく実感させられました。

仏像をはじめとする文化財の修理修復が

「欠損部の復元や追補は、最小限にとどめる」という「現状維持修理の原則」

に則り、行われていることの意味、意義の重要性を、今更ながらに納得させられました。



【光背が破損したのは、鎌倉時代以前か?】


最後に付けたりですが、この十一面観音像の光背が破損して断片になってしまったのは、随分、古い時代のことだと考えられています。

十一面観音が祀られていた大御輪寺は、草創が奈良時代まで遡り、大神神社の神宮寺として大神寺と呼ばれましたが、鎌倉時代、弘安8年(1285)西大寺叡尊の復興参詣を機に大御輪寺と改められたものです。
この大御輪寺本堂は、現存していいて、神社境内の大直禰子神社社殿となっています。

元大御輪寺本堂の建物(現大直禰子神社社殿)
元大御輪寺本堂の建物(現大直禰子神社社殿)

大御輪寺本堂(現大直禰子神社社殿)は、重要文化財に指定されていて、解体修理、地下遺構調査によって、奈良時代から6度の大きな改修があったことが判明しています。
そしてこの調査結果によると、十一面観音像は当初の光背が備え付けられた状況での4m近い総高(台座から光背先端までの高さ)では、少なくとも鎌倉時代のお堂には、内陣天井までの高さが足りず、天井につかえて安置することが不可能であったと判断されているのです。

現聖林寺・十一面観音像が祀られるようになった時期については、鎌倉時代、叡尊が復興した時期に大御輪寺に移入されたという考え方と、奈良時代から大神寺に安置されていたものという二つの見方もあります。

いずれにせよ、少なくとも鎌倉時代以降は、造立当初の光背を背負うことなく、十一面観音像本体だけが大御輪寺に安置されていたことになります。
鎌倉時代には、既に、当初の光背は破損して、現在の断片のようになってしまっていたことが推測されるのです。

その壊れてしまった破損光背が、その後、800年以上大切に保管され、聖林寺に移されるときにまで、一緒に移されてきたということには、驚きを禁じえません。
破損してしまったとはいえ、ご本尊と一体の付属光背として、いかに大切なものとして護られてきたかを物語っているようです。

ちょっと感慨深いものを覚えた次第です。



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