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観仏日々帖

こぼれ話~光背の話⑦ 聖林寺・十一面観音像の光背残欠と復元の話 〈その1〉 【2020.07.04】


【私の一番のお気に入りの「拓本」】

この「葉文様の拓本」、我が家の玄関に飾ってあります。

聖林寺・十一面観音像光背残欠の拓本
我が家にある聖林寺・十一面観音像光背残欠の拓本

私の一番のお気に入りの拓本です。
我が家には、他にも仏教美術がらみの拓本がいくつもあるのですが、この拓本がとりわけ良い味わいがあります。

聖林寺・十一面観音像光背残欠の拓本
聖林寺・十一面観音像光背残欠拓本

何の拓本か、お判りでしょうか?
そうです、聖林寺・十一面観音像の破損した光背残欠の拓本なのです。
残欠の丁度真ん中あたり、上向きに配されたアカンサス様の葉の処を採拓したものです。

この拓本を手に入れたのは30年近く前のことであったでしょうか。
一人で聖林寺を訪ねた時に、お寺さんから頒けていただいたものです。
その時、拓本はもう数枚しか残っていないとおっしゃっていたように記憶しています。

マクリで持ち帰ったのですが、早速、額装に仕立てました。
期待以上に、品良く出来上がって、それ以来、大のお気に入りになり、よく飾っています。



【破損残欠が残されている、聖林寺・十一面観音像の光背】


聖林寺の十一面観音像。

奈良時代の木心乾漆像を代表する国宝仏像で、この名作を知らない人はいないでしょう。

聖林寺・十一面観音像
聖林寺・十一面観音像(奈良時代・国宝)

この十一面観音像の光背であった破損残欠を、ご覧になったことがあるでしょうか?

聖林寺・十一面観音光背残欠(奈良国立博物館寄託)
聖林寺・十一面観音光背残欠(奈良国立博物館寄託)

全長244㎝もある大きなものです。
奈良時代の光背残欠で、十一面観音像の当初からの付属光背であったことは間違いないものとされています。
元々は、大きく広がった見事な透かし彫りの光背であったのでしょうが、今では、そのほとんどが失われてしまっています。
光背の中心軸であったようなところだけがかろうじて遺されている状況で、下の方から、柄、光脚、身光部の茎上の処、円光の中心となっています。
かなりの痛々しい感じというのが、正直なところです。

その昔は、聖林寺で、ガラス張りの漆塗りの箱に入れられて保管されていたようなのですが、現在は、奈良国立博物館に寄託されています。

我が家にある光背拓本は、聖林寺に保管されていたころに採拓されたものなのでしょうか?

光背残欠の拓本が採拓された部分聖林寺・十一面観音像光背残欠拓本
光背残欠の拓本が採拓された部分

最近は、博物館でもあまり見かけませんが、関連する特別展があるときなどには、展示されています。
奈良博で、この光背残欠をご覧になった頃がある方も、結構いらっしゃるのではないかともいます。


この6月に東京国立博物館で開催予定になっていた、特別展「国宝 聖林寺十一面観音 ~三輪山信仰のみほとけ」では、国宝・十一面観音像と共に、光背残欠もきっと出展されるであろうと期待していました。
新型コロナウイルスの感染拡大で、開催延期となってしまいましたので、愉しみが、一年間先送りになってしまいました。



【大神神社の神宮寺・大御輪寺に祀られていた聖林寺の十一面観音】


この光背残欠と、当初の姿への復元の話に入る前に、聖林寺・十一面観音像の伝来などについて、ちょっとだけおさらいしておきたいと思います。

皆さんご存じの通り、十一面観音像は、三輪山をご神体とする大神神社(おおみわじんじゃ)の神宮寺、大御輪寺に安置されていた像です。

大神神社(おおみわじんじゃ)
大神神社(おおみわじんじゃ)

今更、ここでご紹介するまでもない話ですが、大御輪寺から十一面観音像が、聖林寺に移されたいきさつや大御輪寺旧仏の行方にまつわる話は、次の通りです。

聖林寺・山門
聖林寺・山門


【しばしば語られる「廃仏毀釈で打ち棄てられていた」とのエピソード】


一昔前までは、この十一面観音像は、明治維新の時の神仏分離、廃仏毀釈の嵐の中で打ち棄てられていたのを、聖林寺の僧が引き取ってお祀りしたなどと伝えられていました。

和辻哲郎は、名著「古寺巡礼」(1919年刊)で、
「路傍に放棄され誰も拾い手がなかったのを、聖林寺の僧が寺に持ち帰った。」
と語っています。

白洲正子は、自著「十一面観音巡礼」(1975年刊)で、
「大神神社・神宮寺の縁の下に捨てられていたのを、フェノロサが見つけて聖林寺に移すことにした。」
という話を、昭和7~8年頃、聖林寺の住職から聞いたと記しています。

天下の名作仏像が、廃仏毀釈の嵐を偶々潜り抜けたエピソードとして、しばしば語られてきた昔ばなしだと思います。

実は、これらの言い伝えは、まさに創り話で、真実ではありませんでした。



【神仏分離で正式に聖林寺に預けられていた観音像~見つかった預り証文】


事実は、神仏分離に際し、慶応4年(1868)に大御輪寺から聖林寺に、正式に預けられたものだったのです。

このことは、当時の大御輪寺の僧:廓道が記した、
「秘仏十一面観音を神仏分離で聖林寺に移した」
旨の書付(遺書)が存在することが、昭和20年代に紹介され、明らかになりました。

さらには、昭和34年(1959)頃、聖林寺からご覧の通りの預かり証文「覚書」が発見されたのです。

聖林寺に残される大御輪寺からの仏像等預かり覚書
聖林寺に残される大御輪寺からの仏像等預かり覚書

見つかった書付には、

「秘仏本尊・十一面観音、前立・十一面観音、脇侍・地蔵菩薩などを、慶応4年(1868)5月に大御輪寺から御一新につき当分預かった」

旨が、「覚」としてはっきりと記されています。

神仏分離令発布(慶応4年4月)に、早々に大御輪寺が対処して、聖林寺に預られたのでした。
当時の聖林寺住職:大心は、大御輪寺僧:廓道とは兄弟弟子で、その関係から聖林寺に預けられたようです。



【地蔵菩薩像は、その後、法隆寺へ移される】


「脇侍・地蔵菩薩」というのは、現在法隆寺の大宝蔵院に展示されている、平安前期一木彫像の地蔵菩薩像(国宝)のことです。

法隆寺・地蔵菩薩像(大御輪寺旧仏)
法隆寺・地蔵菩薩像・大御輪寺旧仏(平安前期・国宝)

明治6年(1873)に、法隆寺の塔頭北室院に移されました。
大御輪寺に仏像が戻る可能性がなくなり、北室院僧:一源も大心の兄弟弟子で、その縁で法隆寺に移されたのでしょう。



【「前立 十一面観音」は、神戸市の金剛福寺に移されていたことが明らかに】


「前立・十一面観音」の方は、現在、神戸市の金剛福寺の御本尊として祀られているそうです。

金剛福寺・十一面観音像(大御輪寺旧仏「前立十一面観音」)
金剛福寺・十一面観音像(大御輪寺旧仏「前立十一面観音」)
「廃寺のみ仏たちは、今」掲載写真


像高:約80㎝の総金箔の十一面観音像で、江戸時代の制作のようです。

金剛福寺は、第二次大戦の神戸空襲で建物、仏像すべてが焼失してしまいました。
先代住職同士が縁者であったことから、終戦後の混乱期に、聖林寺にしまわれていた前立観音像が金剛福寺に移され、本尊として迎えられたということです。

神戸市・金剛福寺
神戸市・金剛福寺

この話、ごく最近、初めて知ってビックリしました。
最新刊の 「廃寺のみ仏たちは、今~奈良県東部編」(小倉つき子著) に、その事実が書かれていて、ずっと気になっていた、
「「前立・十一面観音」は、どこに行ったのだろうか?」
という疑問が、解決しました。

この観仏日々帖の前話・新刊案内~「廃寺のみ仏たちは、今」で、ご紹介させていただいた通りです。



【大御輪寺旧仏の現在の行方は】


このほか大御輪寺伝来で、現在の所在が明らかになっている仏像は、次の通りです。

大御輪寺伝来旧仏の一覧


【正暦寺にも、大御輪寺の「寄附受取証文」が残されていたことが明らかに】


正暦寺の菩薩像2躯も大御輪寺から移された像であることは知られていましたが、近年、大御輪寺から正暦寺への仏像、仏具などの「寄附証文」が遺されていたことが明らかになりました。

正暦寺・菩薩像(大御輪寺旧仏)正暦寺・菩薩像(大御輪寺旧仏)
正暦寺・菩薩像2躯・大御輪寺旧仏(平安・県指定文化財)

慶応4年(1868)年の「寄附証文」3通で、
「御一新につき仏像仏具を正暦寺に寄附し、冥加金として金55両、金40両をそれぞれ受け取った」
旨が記されています。

三輪若宮(大御輪寺)から正暦寺宛の、寄附受取証のような書付です。
この寄附証文、以前に正暦寺を訪ねたときに、現物をご住職のご厚意で拝見させていただいたことがあります。



【神仏分離令に即応して、きちんと他寺に移されていた大御輪寺旧仏】


こうしてみると、大神神社神宮寺の大御輪寺では、神仏分離令発布後、即座にこれに対応し、主要な安置仏像を縁のあるの寺に、きっちりと移したのであろうことが想像されます。

大御輪寺においては、巷間伝えられるような、廃仏毀釈で仏像が破却されたり焼かれたりしたというようなことは、無かったのではないかと思われます。



【「長岳寺・二天像は大御輪寺旧仏」の伝えは、誤りか?】


なお、天理市長岳寺にある増長天・多聞天像は、長らく大御輪寺伝来の仏像が、神仏分離で移されたものであるとされてきました。
私も、かつて日々是古仏愛好HP「埃まみれの書棚から〈第143回〉~廃仏毀釈で消えた奈良の寺々」で、そのように紹介しています。

ところが、平成27年(2014)に、両像の修理がされた際に、台座に長岳寺の山内を示す「大和釜之口成就院」と書かれた明治期以前の墨書銘が見つかり、古くから長岳寺山内にあった可能性が高くなりました。
大御輪寺伝来というのは、創られた言い伝えであったようです。


こうした聖林寺・十一面観音像の来歴や、大御輪寺伝来の仏像の行方などについては、書物や研究誌でも取り上げられていますが、NET上にも数多くの紹介記事が掲載されています。

その中でも、次のHP記事が、興味深く判り易いものではないかと思います。

「聖林寺十一面観音と大御輪寺」 せきどよしおの仏像探訪記HP掲載コラム
「聖林寺 十一面観音菩薩像」 なら再発見(奈良まほろばソムリエの会)HP連載記事
「聖林寺の十一面観音。「古寺巡礼」のフェイク挿話」 ブログ掲載記事

御関心がありましたら、ご覧になってみてください。



【聖林寺・十一面観音像を初めて見出したのは、岡倉天心、フェノロサ~明治19年】


慶応4年(1868)に、聖林寺に移されてきた十一面観音像なのですが、大御輪寺で秘仏とされていたのを承けて、引き続き秘仏として祀られていたようです。

この十一面観音像を、初めて見出したのは、岡倉天心でした。
明治19年(1883)の奈良地方古美術調査の時で、岡倉天心は自筆の古社時調査手帳に、

「本尊十一面観音・・・元ト三輪村大御輪寺ニアリ・・・・光背台座非凡ニシテ日本第一保存ノ像カ  新発明ナリ」

と記して、この時、新発見の優作像であることを特筆しています。

この調査に同行していたフェノロサは、ビゲローと共に、十一面観音像を保存するための厨子制作の費用として50円を寄進し、明治21年に新しい厨子(木箱)が完成しました。

観音像は、長らくこの寄進された厨子に祀られていたのですが、昭和34年(1959)に、新しい収蔵庫、大悲殿が完成して、今の通りに安置されることになりました。



【バラバラに壊れていた、光背残欠】


十一面観音像の来歴などのおさらい話はこれぐらいにして、光背の話に戻りたいと思います。

大御輪寺から聖林寺に十一面観音像が移された時、付属の光背はすでにバラバラに壊れた破損断片の状態であったようです。

そうだとすれば、破損光背は本当に十一面観音像の光背であったものかという疑問も出てくる訳ですが、光背の造形表現や、光背下部の枘の形が観音像の台座下框に設けられた枘穴とピッタリ一致することなどから、十一面観音像の付属光背に間違いないと見られています。



【大正年間の美術院修理で、現在の姿に光背を復元】


この光背が、現在のような形に復元的に組み合わされたのは、大正年間に入ってからでした。
それまでは、バラバラの破損断片のまま保管されていました。
大正4~5年(1915~16)に、日本美術院によって十一面観音像の本格的修理が行われました。
この時、バラバラになっていた破損光背が、現在の形に復元されたのです。
日本美術院の修理記録には光背復元について、次のように記されています。

修理前の光背の状態については、

「光背ハ最も大破にして、少しく形の纏まりありしは最下の茎より受花のみにして、他数箇の破片を有せしなり。」

という状況で、修理復元については、

「光背ハ現在遺存せる破片を研究して之を纏め、堅牢に修理し、落板を有する大なる箱を造りて之に納む。
落板ニハ綿入白布を貼り、纏めたる破片を之にとり付く。
箱は桧材、栗色、漆塗り、金具及び紐付。」
(「日本美術院彫刻等修理記録Ⅲ」奈良国立文化財研究所・1977年刊 所収)

と記されています。

美術院による聖林寺・光背残欠復元修理図解..美術院による復元光背の写真
美術院による聖林寺・光背残欠復元図解と撮影写真

復元された光背は、本堂の中、お地蔵様の左側の回廊に、ガラス板が上面に張られた漆塗りの長い木箱の中に、寝かせて置かれていたそうです。
聖林寺でこの光背をご覧になった方も、いらっしゃるのではないでしょうか。
私も、学生時代には、聖林寺で観ているはずなのですが、まったく記憶にありません。



【昭和50年から奈良博に寄託、折々展示~偲ばれる往時の壮麗な姿】


その後、昭和50年(1975)に、奈良国立博物館の寄託品となり、木箱から身光部のみを取り外して展示台のバックパネルに固定され、平常展・特別展で展示されるようになりました。
頭光部やそのほかの断片は、元の木箱に入れたままで、博物館の収蔵庫内で管理されているということです。

博物館で展示された、この光背を観ると、残欠ながら見事なものであることがすぐわかります。
身光の中心部、光脚部、茎部などの中軸部分が遺されているだけですが、のびやかで生命感あるアカンサス様の唐草の表現などは、流石に奈良時代の光背という感じです。
光脚以下は木心乾漆、上部は木彫漆箔となっているとのことです。

今は、中軸部だけしか残されていませんが、造像当初の光背は、法華堂不空羂索観音の光背のような、華麗な透かし彫り唐草がふんだんに配された、それはそれは壮麗なものであったことは間違いありません。


〈その2〉では、聖林寺十一面観音の光背の、「当初の姿への復元への試み」の話をご紹介したいと思います。


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