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観仏日々帖

こぼれ話~光背の話⑥ 東大寺二月堂の本尊光背と二躰の秘仏観音像 【2020.06.19】


奈良国立博物館に、断片を繋ぎ合わせた「銅造の光背」が展示されているのをご覧になったことがあるでしょうか?


【破損断片が遺されている、二月堂・秘仏本尊十一面観音の光背】


全長2メートルを超える大きさで、蓮弁形の身光部と円形の頭光部の破損した断片が、復元的に貼り付けられたものです。

東大寺二月堂・秘仏大観音十一面観音像光背(奈良時代・重文)

東大寺二月堂・秘仏大観音十一面観音像光背(奈良時代・重文)
東大寺二月堂・秘仏「大観音」十一面観音像光背(奈良時代・重文)
(上段)身光部、(下段)頭光円光部


この壊れた光背、東大寺二月堂の絶対秘仏本尊・十一面観音(大観音)の光背なのです。

現在は、奈良国立博物館に寄託されています。
常時展示されているわけではありませんが、毎年恒例で開催される「お水取り展」には、必ず展示されています。
破損しているとはいえ、素晴らしい線刻画像が刻された、見事な奈良時代の光背です。

どうして絶対秘仏の観音像の光背だけが、このような形で遺されているのでしょうか?
その話は、また後で詳しくふれたいと思います。



【絶対秘仏の二月堂の二躰のご本尊~「大観音・小観音」】


奈良に春を告げる「お水取り」修二会の行法で知られる東大寺二月堂。

東大寺二月堂
東大寺二月堂

その御本尊が、秘仏として祀られていることは、よくご存じのことと思います。

御本尊は、大小二躰の十一面観音像とされ、「大観音」(おおがんのん)、「小観音」(こがんのん)と称されていますが、これまで何人も拝したことがない絶対秘仏として守られています。


世の中に「秘仏」とされている仏像は、随分沢山ありますが、「秘仏」は云ってもほとんどは何年かに一度はご開帳が行われ、その像容が知られています。
50年、60年に一度の御開帳とか、厳重秘仏で開帳されたことがないといわれる仏像でも、文化財調査などにより撮影された写真があって、その姿を知ることができます。



【何人も拝したことのない絶対秘仏~三大絶対秘仏は、善光寺、浅草寺、二月堂】


こうした中で、未だに何人もその姿を拝したことがない「絶対秘仏」とされる仏像があるのです。

二月堂の秘仏本尊は、その絶対秘仏の一つです。
当然、どんなお姿なのか誰も判りませんし、写真などは全くありません。

世に広く知られている「絶対秘仏」と云えば、そのほかには長野・善光寺、東京・浅草寺のご本尊の名が挙げられるのでしょう。
「三大絶対秘仏」 と云って良いのではないかと思います。

ここで、ちょこっとだけ、善光寺と浅草寺の絶対秘仏についてふれておきたいと思います。



【「善光寺式阿弥陀三尊」で尊容が伝えられている、善光寺・秘仏本尊~飛鳥時代の渡来金銅仏か?】


善光寺の御本尊は、一光三尊の阿弥陀如来像とされています。

善光寺・本堂
長野 善光寺・本堂

善光寺縁起によると、あくまでも伝承ですが、百済の聖明王から贈られた日本最古の仏像を、信濃の本田善光が都から持ち帰り祀ったものとされています。
鎌倉時代から秘仏化されたようで、内々陣の厨子に祀られ、現在では絶対秘仏とされています。

本尊は、飛鳥時代に伝来した一光三尊形式の金銅三尊仏像であろうとされています。
本尊の姿を模したという、いわゆる「善光寺式阿弥陀如来像」の像容から、そのように推察されているわけです。
「善光寺式阿弥陀如三尊像」の姿については、皆さんもお馴染みのものだと思います。
鎌倉時代から室町時代にかけて盛んに造像され、現在、全国に200体以上の作例が残されています。
善光寺にも、鎌倉時代の善光寺式一光三尊の姿のお前立本尊(重要文化財)が祀られています。

お前立本尊も秘仏になっているのですが、足掛け7年に一度ご開帳が行われ、ご開帳の時には物凄い参詣の人々が詰めかけるのは、ご存じのとおりです。



【江戸時代に、一度だけ厨子が開かれる~偽物出現騒動で検分】


厳重秘仏としてされてきたご本尊なのですが、江戸時代に一度だけ厨子が開かれたことがあります。

元禄5年(1692)に、真の本尊を騙る偽物出現の大騒動があり、柳沢吉保の仲介で、敬諶(けいたん)という僧侶が秘仏の善光寺本尊を拝見したということが「善光寺由来記」に記されているのです。
検分によると、像高:一尺五寸、重量:六貫三匁であったそうです。

それ以来、今日に至るまで、何人もその姿を拝したことがない絶対秘仏として祀られています。



【一寸八分の金色観音像と伝える、浅草寺の絶対秘仏本尊】


浅草寺のご本尊は、聖観音像です。

浅草寺・本堂(観音堂)
浅草寺・本堂(観音堂)

一寸八分の金色像とか金無垢像であるという伝えもあるようですが、絶対秘仏とされているだけに、その実体は明らかではありません。
寺伝、浅草寺縁起によると、推古36年(628)に、宮戸川(現在の墨田川)で漁師の網にかかった金色の仏像を、土師中知(はじのなかとも、「土師真中知」(はじのまなかち)とも)が堂を建て祀ったのが、浅草寺のはじまりと伝えます。

その後、東国を巡遊していた勝海上人が、大化元年(645)に本堂を再建し、観音の夢告により本尊を秘仏と定め、以来今日まで、他見を許さない絶対秘仏とされていると伝えられています。



【明治初年、強引に開扉されたことのある秘仏本尊~神仏分離の本尊改め】


大化年間以来、千数百年の絶対秘仏とされる本尊像ですが、過去一度だけ、開扉され検分されたことがあるのです。

明治維新後間もない、明治2年(1969)のことです。
神仏分離令に伴う社寺局の本尊改めがあり、役人が縁起閲覧、秘仏開扉を強引に要求したのでした。
浅草寺にとっては未曽有の事件で、徹底固辞するも許されず、やむなく開扉されたのでした。
当時、秘仏本尊は実は神体であるとの噂が立っており、本尊改めで仏像であることが確認され、役人は「大切ニ護持候様」に、申しつけたと伝えられているようです。

現在は、本堂内陣中央の御宮殿のなかに、秘仏本尊の厨子と、お前立本尊とが安置されています。

浅草寺・秘仏本尊小観音が祀られる御厨子
浅草寺・秘仏本尊小観音が祀られる御厨子

お前立本尊は、慈覚大師円仁の作と伝える木彫像で、平安時代の仏像のようです。
お前立本尊の方も、慶事の際に限り開帳される厳重秘仏であったのですが、現在では、毎年12月13日、御宮殿の煤払い開扉法要の際に、ごく短時間だけ開扉され拝することができます。



【二月堂の二躰の本尊は、南北朝室町期に絶対秘仏に‥‥】


そろそろ、二月堂の秘仏本尊の話に戻りたいと思います。

二月堂は、寺伝では、天平勝宝4年(752)、実忠による創建と伝えられます。
二月堂の内陣には大小二躰の十一面観音が安置され、それぞれ「大観音」(おおがんのん)、「小観音」(こがんのん)と称されています。

東大寺・二月堂
東大寺・二月堂

共に、絶対秘仏として厳重に結界され、他見は許されず、参籠する練行衆と云えどもその姿を拝することは出来ません。

現在の安置状態は、次のようになっているとのことです。
大観音は、内陣須弥壇の中央に祀られ、四本の柱で支えられた天蓋の下に帳で掩われています。

扉のある厨子ではないのですが、帳の中をのぞくこともできません。
須弥壇の下は岩座で、直接岩盤の上に立っているらしいと云われています。

小観音のほうは、大観音の前に安置されています。
須弥壇の上に小型の厨子があり、この中に納められていますが、この厨子は扉もなく、絶対に開かれることはありません。

二つの観音像が、いつごろから秘仏化されたのかははっきりしないのですが、鎌倉時代には図像として記録されているようで、二月堂の本尊も、全国各地の霊仏が秘仏化されていった南北朝から室町期に秘仏化されていったのではないかと推測されているようです。



【奈良博に寄託されている「大観音」の破損光背~台板に復元的配列】


この絶対秘仏であるはずの本尊ですが、先にご紹介したように、何故だか、大観音像の光背の壊れた断片が奈良国立博物館に寄託保管されているのです。

冒頭でご紹介した通り、船形の身光部と丸い頭光部との破損断片で、現在は復元的に配列されて台板に張り付けられたものになっています。
身光は高さが226㎝あり、銅製で鍍金されています。
その表裏には千手観音を中心とする群衆や、大仏蓮弁と類似する須弥山図などの図様が線刻されています。

現在は、身光部と頭光部は別々に保管されていますが、「南都七大寺大鏡・東大寺大鏡」(昭和3年・1928刊)に、頭光と身光とを組み合わせた形にして撮影しためずらしい写真が掲載されています。

身光と頭光が組み合わされた二月堂・光背写真~「南都七大寺大鏡・東大寺大鏡」(昭和3年・1928刊)掲載写真
身光と頭光が組み合わされた二月堂・光背写真
「南都七大寺大鏡・東大寺大鏡」(昭和3年・1928刊)掲載写真




【明治33年(1900)に、法華堂前の経庫の中から発見された光背断片】


この光背断片、実は、明治時代になってから偶々発見されたものなのです。

建築史学者、関野貞が奈良県技師時代、明治33年(1900)頃に、法華堂前の校倉造の経庫を調査したときに発見したものです。

二月堂・光背の破損断片が発見された、法華堂前の経庫
二月堂・光背の破損断片が発見された、法華堂前の経庫

発見された時の有様について、浜田耕作は明治40年に発表した論考「二月堂本尊光背の毛彫」の中でこのように記しています。

「此の火災(注記:寛文7年・1667の二月堂の火災)の時、本尊は無事なりしも、その光背は粉砕されしかば、之を法華堂の校倉に蔵したり。
然るにその後誰人も之に、注意するものなかりしに、明治33年のころ、関野貞氏同校倉を調査せしに、内に叺(かます)あり、之を開けば即ち此の二月堂本尊光背の破片にして、その数凡て67片、大なるは一、二尺より、小なるは一、二寸に至る。
全形の十中七、八を具備せり。

而して其表面と裏面とには、全部細密なる毛彫りを施し、仏像等を表せり。
之れ実に此の破残の光背をして重大なる価値を有せしむる所以なり。」
(「二月堂本尊光背の毛彫」国華202号・1907、「日本美術史研究」1940年座右宝刊行会刊所収)

光背の破片は、法華堂前の経庫に、叺、即ち藁蓆(わらむしろ)を二つ折りにした袋に入れられて、保管されていたようです。



【寛文7年(1667)の二月堂大火災で、火中破損した光背】


二月堂は、寛文7年(1667)修二会中の早朝に火災があり、それを記した練行衆日記によると、
「甍瓦、梁棟が倒落するほど相当の大火災であったが、不可思議なことに、尊像はいささかの毀損もなかった。」
旨が、記されています。

発見された光背断片は、この火災の時に破損した大観音の光背であったのでした。
光背には、焼け焦げたり溶けた跡などがあり、この時の火災の時に火中、破損したが、その後大切に保管されていたものだと思われます。



【「大観音」の天衣の断片も遺され保管されていた~平成3年(1991)に初公開】


実は、大観音の付属物であったものが、もう一つ遺されたいるのです。
大観音像の天衣の4個の破片です。

二月堂・秘仏「大観音」の天衣の断片
二月堂・秘仏「大観音」の天衣の断片

大観音の天衣断片については、ご存じの方は少ないのかもしれません。
この天衣破片が初めて公開されたのは、平成3年(1991)に奈良国立博物館で開催された「国宝南大門仁王尊像修理記念 東大寺展」に出展された時でした。
その後も、めったに公開されることは無くて、2010年東博開催の「東大寺大仏~天平の至宝展」に出展された時ぐらいしか、展示されたことは無いのではと思います。

断片は、蓮肉の縁にかかって垂下する部分とみられています。
この断片が、どのようにして発見されたのかは、私が確認した資料ではよく判りませんでした。
明治33年に発見された光背破片と一緒に保管されていたのでしょうか?



【寛文の大火災でも。全く無傷で守られたとされる「大観音」】


現在眼にすることができる光背や天衣の断片から推察すると、大観音像は等身大ぐらいの、奈良時代の金銅仏像であると考えられます。

大観音像は寛文7年(1667)の火災時に

「不可思議なことに、尊像はいささかの毀損もなかった。」

と記録されていますが、光背の火中損傷状況や、天衣の破損などから想像すると、像本体も火中損傷している可能性はあるのかもしれません。



【奈良時代金工絵画の代表作とされる大観音光背~天平宝字年間(760年代)の制作か?】


大観音像の光背は、奈良時代の金工絵画の代表作として、重要文化財に指定されています。

二月堂・「大観音」十一面観音光背
二月堂・「大観音」十一面観音光背

緊密な画面構成、流麗な動きを見せる刻線は精彩に富んだもので、天平勝宝8年(756)頃の制作の大仏蓮弁線刻画に比肩されるべき名品と云われています。

二月堂・「大観音」十一面観音光背二月堂・「大観音」十一面観音光背
二月堂・「大観音」十一面観音光背の線刻画

光背に線刻された図様については、図様の復元、主題の検討など様々な研究が行われているのですが、私には不案内な苦手分野で、ここではパスさせていただきます。
一言でいえば、裏面には盧舎那浄土が刻され、表面には補陀落浄土あるいは阿弥陀浄土が刻されているということだそうです。

二月堂「大観音」光背の描き起こしトレース図(中神敬子氏作成).二月堂「大観音」光背の描き起こしトレース図(中神敬子氏作成)
二月堂「大観音」光背の描き起こしトレース図(中神敬子氏作成)

二月堂「大観音」光背の復元図(平田陽子氏復元作成).二月堂「大観音」光背の復元図(平田陽子氏復元作成)
二月堂「大観音」光背の復元図(平田陽子氏復元作成)

また、光背の制作年代は、線刻図様などから、大仏蓮弁線刻画よりもやや遅れる760年代、天平宝字年間頃の制作ではないかとされています。

東大寺・大仏蓮弁の線刻図(模造の写真)
東大寺・大仏蓮弁の線刻図(模造の写真)

余談ですが、光背は板面に復元的に貼り付けられた形で保存されていたため、裏面の盧舎那浄土は見ることができず、過去に採られた拓本や復元図で推測するしかありませんでした。
2016年に保持する板が透明なアクリル板に取り替えられ、現在では表裏両面を見ることができるようになっています。

アクリル板展示で裏表両面を鑑賞可能となった二月堂・光背

アクリル板展示で裏表両面を鑑賞可能となった二月堂・光背
東大寺法華堂・不空羂索観音像



【「大観音」は、きっと官営工房制作の第一級の等身大金銅観音像】


いずれにせよ、大観音の銅製光背は、奈良時代金工作品の秀作、第一級品であることには間違いありません。
その光背を背負う大観音像、等身大の金銅仏像であった訳ですから、当時の官営工房の作、即ち造東大寺司鋳仏所の制作によるものであったのでしょう。

上代の官営工房の手になる第一級の等身大金銅観音像と云えば、薬師寺・東院堂の聖観音像が頭に浮かびます。

姿を拝することのできない大観音像ですが、それはそれは見事な、天平時代の超一流レベルの十一面観音像であろうと思われます。



【いずれが本当の二月堂のご本尊? 「大観音」と「小観音」】


二月堂には大観音と小観音の大小二体の十一面観音像が、絶対秘仏として祀られています。

小観音は、大観音の祀られる須弥壇の前の厨子に安置されていますが、大観音のお前立という訳ではないようです。
「二月堂絵縁起」などの伝承によると、小観音の方が二月堂開基の実忠によって難波津で、観音の坐す補陀落山で勧請され、二月堂に安置されたとされています。
大観音光背が破損焼損した寛文7年(1667)の火災の際も、何はさておいて、小観音が真っ先に救出されています。

小観音は、二月堂草創と修二会創始を物語る根本本尊として神聖視されてきたわけです。
七寸の銅造であると伝えられています。



【修二会の前後半で、本尊が入れ替わる二躰の観音様】


ところで、いわゆるお水取り、修二会の行法おいては、前半と後半で二つの本尊が入れ替わることをご存じでしょうか?
全14日間の行法のうち、上七日の間は大観音を、下七日の間は小観音を、それぞれ本尊として勤修されるのです。

このことは、二月堂の本尊が祀られる、歴史的経緯を示唆しているようなのです。
修二会7日目、「小観音出御」という法要が行われます。
小観音の厨子が内陣から礼堂に出て、その後外陣を一回りぐるりと巡って、元の内陣に安置されるのです。

小観音の厨子は、御輿のように持ち運べるようになっているのです。
「小観音出御」の日以降、大観音と本尊が交替し、下7日間の本尊は小観音が勤めることとなるのです。



【「小観音出御」の行法は、修二会時専用の御本尊であった名残り?】


この「小観音出御」の行法は、本来、小観音が二月堂に常置されていたものではなくて、修二会の期間のみ二月堂に迎えられる修二会専用の本尊であったことを物語っているとされています。

古記録の研究などによると、小観音は東大寺の「印蔵」に在って、修二会の際に印蔵の小観音を二月堂に迎え奉じられていたことがわかるということです。
印蔵というのは、食堂の北にあり4つの倉の一つで、東大寺内の重要文書を納める倉のことです。
小観音は、もともとは、修二会の都度二月堂に迎えられていたのが、平安末期のある年を境に印蔵に再び帰ることがなくなったもので、「小観音出御」の行法は、その名残の儀礼となっていると考えられています。

そうだとすると、二月堂本来の本尊は大観音ということになるのですが、大観音の制作年代も天平宝字年間(760年代)以降かとみられ、二月堂草創とされる天平勝宝4年(752)との間に年差もあるなど、二月堂の二つの本尊問題は、なかなか確定的な結論には至っていないようです。



【二躰の絶対秘仏の観音様の、尊容を伺い知る図像は?】


最後に、二つの秘仏、十一面観音像の尊容を伺い知ることのできるものはあるのでしょうか?

まず、小観音像ですが、「類秘抄」という図像集に、この像容を示すと思われる図像が描かれているのです。
「類秘抄」というのは勧修寺の法務寛信が保安4年(1123)年に編纂した図像集なのですが、その中に「東大寺印蔵像」と墨書された十一面観音像が描かれており、この像が「小観音像」に該当するとされています。

奈良博蔵「類秘抄」(鎌倉時代・重要文化財)に描かれた二月堂「小観音」の尊容
奈良博蔵「類秘抄」(鎌倉時代・重要文化財)に描かれた二月堂「小観音」の尊容

奈良国立博物館の収蔵品データベースに、奈良博蔵「類秘抄」(鎌倉時代・重要文化財)が掲載され、小観音とみられる画像も掲載されています。

その解説には
「「東大寺印蔵像」と墨書される二臂の十一面観音像が、二月堂修二会下七日の本尊となる小観音を描いたものである。
寛信は秘仏であった印蔵像を実見する機会を得たとみられ、図像の傍らに「本面を加えて十一有り、堂本と異なる」という注記を加えてその頭上面に注目している。」
と、述べられています。

大観音像の方は、どうでしょうか。

川村知行氏は、大観音の頭部のかたちを写し取った図像が存在するとしています。
高野山西南院本「覚禅抄」の十一面巻裏書に、二月堂とされる十一面観音の図像が2躰掲載されていることを指摘したものです。

高野山西南院本「覚禅抄」十一面巻裏書に描かれた、二月堂「大小観音」の頭部尊容
高野山西南院本「覚禅抄」十一面巻裏書に描かれた、
二月堂「大小観音」の頭部尊容


一方に「補陀落の跡」と墨書され、小観音が「補陀落観音」という称を持ったことから、こちらが小観音の図像と思われる。
大観音の図像は、もう一方の「頂上仏面无化仏」と墨書された図像と思われる。
というものです。

いずれの図像も白描画で、これから奈良時代の金銅仏像の造形をイメージというのも、なかなか難しいと思うのですが、絶対秘仏の二月堂の二つの本尊の尊容を、かろうじて想像させる図像ということになります。


今回は、二月堂の本尊光背と二つの絶対秘仏観音像の話でしたが、なんだか、とりとめのない話になってしまいました。


本尊像の姿を拝することが出来るような機会が来ることは、今後ともあり得ないことでしょうから、見事な線刻造形の復元光背から、その姿を想像するしかないことと思います。


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