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観仏日々帖

こぼれ話~光背の話⑤ 東大寺法華堂・不空羂索観音像の光背を巡る謎の話 〈その2〉 【2020.06.07】


ここからは、「光背切り詰めの謎」の話に入っていきたいと思います。

法華堂・不空羂索観音像
東大寺法華堂・不空羂索観音像


【光背切り詰めの事由は? その時期は?~安置仏変遷の謎を解くカギ】


先に、不空羂索観音像の光背の位置が、50~60㎝程ズリ下げたようになっていることにはふれました。
この光背、いつ頃、どういう理由で、切り詰められ位置が下げられたのでしょうか?

この問題は、本尊をはじめとした安置仏像がいつ頃、どのような事情で変遷していったのかという謎を解く、大変重要なカギとなるものなのです。



【従来の考え方~後に八角二重基壇を追加据付け、光背を切り詰め】


従来、光背が切り詰められ位置が下げられたのは、不空羂索観音像造立以降のいずれに時期かに、
「八角二重基壇が事後的に据え付けられた」
ことが、その事由であると考えられていました。

例えば、次のような考え方が示されています。

福山敏男氏は、

この基壇は、古記録から「東大寺南阿弥陀堂八角宝殿の“基二階”」であったもので、延喜20年(920)以降に法華堂に移入され、本尊の基壇に据えられた。
(「東大寺法華堂に関する問題」東洋美術23号1926年)

金森遵氏は、

脱活乾漆の梵天帝釈天像は、本尊に対して像高が過大であり、2像は後世の移入像と考えられる。
この際に本尊との像高バランスをとるために、他所にあった八角二重基壇が転用して据え付けられた。
(「法華堂諸像の一考察」東大寺法華堂の研究 1948年 大八洲出版刊所収)

小林剛氏は、(先に紹介した通りですが)

脱活乾漆8護法神像は、すべて後世の移入像で、大きな護法神諸像に本尊を釣り合わせるために、(八角基壇を新たに据えて) 光背を切り詰めてまで本躯を高く持ち上げた。
(「東大寺」1952年 毎日新聞社刊)



【基壇を据えても切り詰める必要なかった光背?~天井につかえるというのは先入観】


このように、いずれの説も、八角二重基壇が後付けで据え付けられ、その際、

「そのまま本尊と光背をスライドして持ち上げると、光背の方が天井につかえてしまうので、光背下部を切り詰めて位置を下げざるを得なかった」

と想定したものでした。

ところが、この推測は、思い込みに過ぎなかったことが明らかになりました。
天井と光背先端との間隔は、相当に広いのです。
光背をスライドして持ち上げても、天井につかえるということは全く無かったのです。

〈その1〉で、本尊修理の際に、光背を本来の位置に吊り上げてみた写真をご覧いただきました。

本来の位置まで吊り上げられた光背と不空羂索観音像
本来の位置まで吊り上げられた光背と不空羂索観音像
「東大寺法華堂八角二重壇小考」(仏教芸術誌306号)掲載写真


ご覧の通り、光背の先端は天井までまだ余裕がありますし、その間隔が、とりわけ窮屈になってしまうということもなかったのです。



【実は、屋蓋から几帳が垂れる宝殿スタイルだった二重基壇】


それでは、どうして光背をスライドさせずに切り詰めざるを得なかったのでしょうか?

その訳は、この八角二重基壇が、元々どういう構造、姿のものだったのかに深くかかわっているようなのです。

実は、八角二重基壇の上の壇に、8個の穴の痕があるのです。

法華堂本尊の八角二重基壇~基壇修理時撮影写真
法華堂本尊の八角二重基壇~基壇修理時撮影写真
上段の外縁近くに柱穴があけられているのが判る


丁度8角形の角にあたる部分に、柱を挿していたような穴があけられています。

八角二重基壇に遺されている柱穴
八角二重基壇に遺されている柱穴

この八角基壇、元々は、8本の柱が立てられ、その上の屋蓋を支えているという「宝殿」の姿をしていたのでした。
きっと、屋蓋からカーテンのような帳が下ろされ、その中に本尊像が安置されるという、八角几帳形式の厨子であったと想定されるのです。



【几帳形式が普通だったと思われる、古代の仏像安置厨子】


仏像の厨子というと、普通は四方壁面に囲われて扉をきっちりと閉じることができるものをイメージしてしまいますが、奈良~平安時代の厨子というのは、密閉型ではなくて几帳形式のものであったようです。

厳重秘仏で知られる法隆寺夢殿・救世観音像も、大江親道の「七大寺日記」(1106)には、
「宝帳の内に安置さる」
と記されていて、平安後期には、宝殿形式の几帳が下りた厨子に安置されていたようなのです。

法隆寺夢殿・救世観音像厨子
法隆寺夢殿内の厨子に安置される救世観音像
平安時代には宝殿に几帳が下りた形で祀られていた


八角二重基壇に柱穴が穿たれていることは、以前から、知られていたようで、福山敏男氏も基壇制作時には「屋蓋を柱が支えていたことを物語る」と記しています。

しかし、他の研究者も含めて、法華堂への基壇移入時には、柱と屋蓋は取り払われていたとみていたようで、このことに注目した議論は、ほとんどなかったと思われます。



【宝殿内に本尊を安置するために、光背を切り詰め~奥健夫氏の新見解】


この八角二重基壇が、柱屋蓋付きの宝殿形式であったことに着目して、光背の切り詰めの謎に論及したのが、奥健夫氏でした。

先にご紹介した、 「東大寺法華堂八角二重壇小考」 (仏教芸術306号・2009) では、修理時に得られた新たな知見を踏まえて、この光背切り詰め問題について詳しく言及されています。

奥氏は、次のように考えました。

・八角二重壇は、開放型の宝殿の基壇で、後世に移入されたものではなく、当初から、法華堂の為に制作されたものである。
上段の左右幅が堂の中央間の桁行と合致する事など、調査結果からそう考えられる。

・不空羂索観音像の光背が切り詰められているのは、この宝殿のなかに据え付けるために、已む無く為されたものだと考えられる。

・屋蓋がなければ、光背は切り詰めなくても天井につかえることは無い。
また、不空羂索観音像が、当初から法華堂に安置するために制作されたものなら、このようなことは起こりえない。



【不空羂索観音像は、奈良時代に他所から移安~その際、二重基壇設置との考え方】


これらのことから、

「法華堂は建立当初、不空羂索観音像とは別の本尊を安置していたが、のち(かなり早い時期であろう)に当初の本尊に替えて他所より光背・台座付きの不空羂索観音像を本尊に迎え、その際に二重基壇をもつ八角宝殿を設置し、そこに収まるように光背の基部を撤去して光背の位置を引き下げ、基壇下段には六躯の塑像を安置した。」
(「東大寺法華堂八角二重壇小考」~この段階では、背後の北面執金剛神の安置の痕跡は未調査でした。)

と、結論付けたのでした。

・法華堂建立当初の本尊は別の像だったが、奈良時代中に他所にあった現不空羂索観音像に交替した。
・不空羂索観音像の移入安置に際して、光背が切り詰められた。

という訳です。

結構、ビックリの結論でした。

ただ一方で、

・元あったといわれる法華堂の本尊というのは、どうなったんだろう?
・あれほどの見事な不空羂索観音像は、そもそも何処に安置されるために造立されたのだろうか?
・乾漆8天王像の安置と、光背切り詰めは、本当に無関係なのだろうか?

私ごときでも、こんな疑問が自然と沸いてきます。

奥氏自身も、この論考は、史料などからの東大寺と法華堂の状況、性格や、諸尊像との関係を考察したものではなく、疑問点もあるとしながらも、

実証的な調査に基づいて検討すると、
「寸法的にそうしないと宝殿に屋蓋を載せることが困難である以上、この結論にならざるを得ない。」
と述べられています。

奥健夫氏の論考「東大寺法華堂八角二重壇小考」は、日光月光(梵天帝釈天)像、戒壇堂四天王像が不空羂索観音の当初一具像であったという大発見よりも、むしろ八角二重壇の調査研究成果や光背の切り詰め事由の検討の方にウエイトが置かれて論じられていました。

しかし、光背切り詰め問題の方は、新聞等であまり採り上げられずニュースにならなかったので、広くは知られていないのではないかと思います。



【前説を翻す新説を発表~本尊他所移安説から当初安置仏説へ】


これで、一つの見解が出たと思われたかの、「光背切り詰め問題、法華堂安置諸仏問題」であったのですが、それから6年半後、奥健夫氏自身が、前説を翻して、新たな見解を発表しました。

結論から先に言うと、

・不空羂索観音像が他所から移入されたとした考え方は撤回し、造立当初からの法華堂安置仏と考える。

・本尊像は、光背を切り詰めることなく、宝殿のある基壇に安置されていた。

・乾漆8天像が後世に移入された際(10C以降か?)に、内陣を一段高くして須弥壇が設けて安置されることになり、宝殿の屋蓋が天井につかえないよう、基壇や支え柱が縮められた。

・その際、本尊を高さを縮めた宝殿内に収めるために、光背の切り詰めが行われた。

というものです。

2016年に「東大寺の新研究Ⅰ・東大寺の美術と考古」(法蔵館刊)という本が出版され、奥氏は 「東大寺法華堂諸尊像の再検討」 という論考を所載、この新見解が述べられています。



【後世に、基壇下部が削り詰められていたことが、調査で明らかに】


新たな見解に訂正された最大のファクターは、

「八角二重基壇の台座下框が、後世に削り詰められていたこと」

が、その後の調査によって明らかになったことでした。

削られた下框の高さは、9㎝程とみられ、その削られた部位の痕跡から、基壇制作後、相当に長い時間を経てからの所為であるとみられたのでした。
そうだとすると、この時に宝殿の高さを低くする必要が生じたことになります。



【乾漆八天王像移入のタイミングで、須弥壇を新たに設置】


奥氏は、その必要が生じたのは、乾漆8天王像の移入のタイミングであったと想定しました。

諸像の移入に際して、これらを床の上に直置きするわけにいかないので、内陣に須弥壇を設置することにし、それまで床に据えられていた八角二重基壇の宝殿も須弥壇上に置かれることになったという訳です。
(なお須弥壇は、創建当初から設置されていたという見方もあるようです。)

内陣「須弥壇」上に安置されている法華堂諸像
内陣「須弥壇」上に安置されている法華堂諸像

法華堂堂内平面図
法華堂堂内平面図



【須弥壇上に本尊安置で、宝殿の高さを縮めたと想定~光背も併せて切り詰め】


須弥壇上に据え付けるには、宝殿が高すぎて天井につかえるために、下框を削り落とすとともに、屋蓋を支える柱も短く詰めることになった。
低くなった宝殿のなかに、本尊像と光背を安置するために、やむなく光背下部を切り詰めておさめた。

法華堂安置仏の変遷と光背が切り詰められた訳を、このように考えたということです。



【乾漆八天王像は、旧講堂安置仏であった可能性も?】


もう一つ、奥氏は、後世に移入された乾漆8天王像は、当初は東大寺講堂に安置された諸像であった可能性に言及しました。

東大寺講堂の本尊・十一面観音像は、像高二丈五尺(約7.6m)の乾漆造りの巨像で、天平宝字年間、760年代に造立されたと見られています。
法華堂乾漆8天王像は、像高が3~4mの巨像で、像高バランス、様式から東大寺講堂安置像であった可能性が考えられるというものです。

講堂は、延喜17年(917)に焼亡しており、この時に搬出、法華堂に移入されて、承平5年(935)の講堂再建供養時には戻されずに、現在に至っているという経緯も想定し得るとしているのです。

東大寺・講堂址
東大寺・講堂址


【最新の法華堂安置仏変遷と光背切り詰めの謎の、想定ストーリーは?】


以上のような想定を、もう一度まとめなおすと、

「法華堂安置仏の変遷と八角二重基壇設置、光背切り詰めに関する経緯」

については、次のようなストーリーになるのではないでしょうか。

・不空羂索観音像と八角二重基壇は天平年間に造立、制作され、法華堂に安置された。

・八角二重基壇は、8本の柱に支えられた屋蓋のある宝殿で、屋蓋からカーテンのような帳が下ろされ、その中に本尊像が安置されるという、八角几帳形式の厨子であった。

・二重基壇の下段には、本尊を取り囲むように7躯の塑像が安置されていた。
梵天帝釈天像(日光月光菩薩像)、現戒壇堂・四天王像、執金剛神像の7躯が、不空羂索観音像造立時の当初一具像ということとなる。

・脱活乾漆8天王像は、当初は天平宝字年間に造立された講堂本尊・十一面観音像との一具像で、延喜17年(917)講堂焼亡後に、法華堂に移入安置された可能性がある。

・乾漆8天王像移入安置に際して、床上に内陣須弥壇が設置され、八角二重基壇宝殿を壇上に据えると宝殿が高すぎて天井につかえるために、下框を削り落とすとともに、屋蓋を支える柱も短く詰めることになった。

・低くなった宝殿のなかに、本尊像と光背を安置するために、やむなく光背下部を切り詰めておさめた。

・二重基壇下段に安置されていた7躯の塑像は、いつの時かに、梵天帝釈天像(日光月光菩薩)は基壇上段に安置され、四天王像は法華堂を離れて最終的に戒壇堂に移された。
執金剛神像は、北面に造られた厨子のなかに祀られ秘仏化された。

・宝殿は、時期不明ながら、柱、屋蓋の破損などにより取り払われ、現在のような安置の姿となった。

以上が、最新の想定ストーリーということになるのではないかと思います。


私のようなものでも、素直になるほどと納得してしまうストーリーです。

ただ、このストーリーが真実だと確定したわけではありません。
またいつの日にか、新発見によって大きく覆されたり、違った見解が発表されることもあるのかもしれません。


「不空羂索観音の光背は、何故切り詰められたのか!」


この謎は、法華堂の当初の安置仏、その後の変遷を解明していく上での、大きなカギを握っているのだということを、今更ながらに、思い知らされることになりました。


コメント

2019年の藤岡論文 その他

既にご覧になっていると思いますが、2019年7月に阪大の藤岡先生が「東大寺法華堂伝来の天平期諸像に関する一考察」(古代寺院史の研究 思文閣出版所収)という論文を出して、2016年の奥氏の論を受ける形でこの問題を考察しています。私はこの中に出てくる「本尊と護法神との像高比較」の表が、興福寺北円堂の四天王に関する運慶説(最近南円堂から中金堂へ移った四天王の当初の安置場所が北円堂の弥勒仏・無著世親と一具の運慶一派の作?)に関連して何かヒントにならないかという観点で興味を持ったのですが、この論文末尾に出てくる蟹満寺釈迦と「法華堂釈迦三尊」の行方についての「想像」が意外でありとても面白いと感じました。

また、グレイト・ブッダ・シンポジウム論集第3号特集「カミとほとけ」(2005年)所収の三橋正「大仏造立と日本の神観念」では、神仏習合、神祇信仰の観点から法華堂不空羂索観音についても取り上げていますが、法華堂の解体修理で得られた新知見と、こういった異なる視点からの検討結果の整合が取れるかというスタンスでの検討も重要かと考えています。

  • 2020/06/08(月) 00:31:46 |
  • URL |
  • むろさん #PMoz9hdc
  • [ 編集 ]

Re: 2019年の藤岡論文 その他

むろさん様

藤岡穣氏も、乾漆八天王像は奥氏と同意見で、東大寺講堂安置像の移入とみられているようですね。
法華堂の本尊については、本尊交替という見方とか、現不空羂索観音像の移安説とか、いろいろあるようでなかなか難しい問題のようです。
藤岡先生が「まったくの憶説ながら・・・・・」とされながらも、法華堂(丈六堂)の当初中尊が蟹満寺釈迦如来像であった可能性に言及されていたのは、ビックリしました。
専門的なことはよく判りませんが、法華堂諸像については、これからまだまだ色々な議論がされていくのでしょうね。

  • 2020/06/08(月) 22:33:32 |
  • URL |
  • 観仏日々帖 #-
  • [ 編集 ]

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