東京青山にある根津美術館が所蔵している、「戊午年」の造像銘のある光背をご存じでしょうか。
今回は、この戊午年銘の光背にまつわる、いくつかのこぼれ話をたどってみたいと思います。
ちょっとマイナーな話になりそうですが、お付き合いください。
【観心寺の小金銅仏・観音像に取付けられていた、戊午年銘光背】
この小さな光背は、小金銅仏に取り付けられていたもので、銘記にある「戊午年」は、斉明天皇4年(658年)にあたると考えられています。
飛鳥白鳳期の造像銘記が残されている、貴重な作例です。
宝珠形の光縁部に、放射光、八葉蓮華が銅板の切り抜きで造られ、重ね合わせられています。
優れた意匠で、いかにも飛鳥白鳳の小金銅仏の光背という印象をうけます。
実は、この戊午年銘の光背、河内観心寺にある金銅・観音菩薩立像の光背であったと伝えられるものなのです。
観心寺に4躯のこされている小金銅仏像の一つで、像高33㎝、飛鳥白鳳期の小金銅仏像です。
古様な感じながらも、肉身の造形、胸飾の表現や三面頭飾など、戊午年(658年)の制作と云われると、丁度ピッタリ感のある像です。
【離れ離れとなった観音像と光背~奈良博「白鳳展」(2015年)で再会】
この光背と観音菩薩像、離れ離れになっていることもあって、一般には意外に馴染みがないのかもしれません。
観心寺の金銅観音像は、霊宝館に展示されいつでも観ることができますが、根津美術館の戊午年光背は、普段は展示されておらず、仏教美術にゆかりのある企画の時にしか出展されませんので、たまにしか観ることができません。
近年、離れ離れになってしまった観心寺の「光背と観音像」が再会することがありました。
2015年に奈良博で開催された「白鳳~花開く仏教美術展」で、並んで展示されたのです。
覚えていらっしゃる方も多いのかもしれません。
私も、観心寺を訪ねた時も、根津美術館でも、金銅仏、光背ともに実見しているはずなのですが、ほとんど覚えていませんでした。
白鳳展で、セットで展示されたのを観て、
【失われてしまうことが普通の小金銅仏の光背】
この金銅・観音像と戊午年光背は、本当に当初からのセットだったのでしょうか?
飛鳥白鳳期の小金銅仏の光背が、造像当初のままで取り付けられているというのは、極めて稀と云って良いと思います。
ほとんどの小金銅仏は、光背が失われてしまっており、光背が付いていたとしても、当初のものではなく、別の像の光背であったものが取り付けられているという例が多いのです。
【法隆寺献納・四十八体仏の光背も、どの像のものだったか不明確】
例えば、法隆寺献納宝物の四十八体仏と呼ばれる小金銅仏に付属していた光背です。
法隆寺宝物館に、三十数個が所蔵されています。
後世の後補とみられる光背も含まれています。
これらの光背のほとんどは、かつては四十八体仏のいずれかに取り付けられていたのですが、必ずしも本体像と一致するものではないので、現在では取り外されて別に保管されています。
昭和22年(1947)発刊の東京国立博物館刊「御物金銅佛像」掲載の写真をみると、多くの像に光背が取り付けられたものを見ることができます。
そのいくつかは、ご覧の通りです。
現在では、光背無しで展示されています。
確かに、私の眼で見ても、このセットでは一寸フィット感が無いなという感じのものがあります。
後補のものだったり、他の像の光背が替わって取り付けられたということなのでしょう。
【当初からセットだったのかどうか微妙な、観音像と戊午年銘光背】
観心寺伝来の戊午年銘光背の話に戻ると、お寺では金銅観音像の光背であるとされてきたのですが、本当に、当初からこのセットであったと判断できるかどうかは、微妙なようです。
造像銘には、
「成午年十二月に伊之沙古の妻汗麻尾古が亡き夫のために阿弥陀仏像を敬造した」
旨が刻されています。
銘文に「弥陀仏像」(阿弥陀如来)とあるために観音像の光背であることを否定する意見と、阿弥陀三尊の脇侍像である観音像光背に刻されたものとの解釈とがあって、現在では、金銅観音像を「戊午年、658年制作の基準作例」と明確に位置付けることは難しいようです。
【よく判らない、光背が観心寺から出た経緯】
さて、この戊午年銘光背は、いつ頃、どのようないきさつで観心寺を出て、現在、根津美術館の所蔵になっているのでしょうか?
明治、大正年間に観心寺から出たように推測されるのですが、そのいきさつも含めて、よく判りません。
当時のことですから、ごく一般的には、光背だけが、何らかの事情で流失したとか、こっそりと売られたということが想像されます。
しかしそうとも限らないのかなと気になるのは、観心寺にはこの戊午年銘光背と瓜二つの模造品が残されていることです。
わざわざ模造まで造って本物が寺外に出るというのもちょっと違和感がありますし、後年に模造が造られたものなのかもよく判りません。
ちょっと不思議という処です。
ブログ「春秋堂日録~旧観心寺蔵光背」には、
「この光背が観心寺から離れたいきさつについて、どこかで書かれていた記憶はあるのですが、思い出せません。
かすかな記憶をたどると、観心寺からこの光背を離れる時、かわりに模造品を作ったと書かれていたようです。」
と記されていて、なかなか興味深い処です。
ブログ「春秋堂日録~旧観心寺蔵光背」には、光背の来歴や模造の話など、大変興味深い話が語られています。
ちなみに、「春秋堂日録」は、仏像文献検索HP「春秋堂文庫」と共に、大変役立ち、勉強になるサイトです、是非、ご覧になってください。
戊午年銘光背は、奈良の古美術商の老舗、玉井大閑堂から昭和初期に根津嘉一郎の所蔵になったようです。
観心寺から大閑堂主・玉井久次郎氏が入手したのかどうかはよく判りません。
大正~昭和の古い図録などをあたってみると、この光背について、次のような掲載記録がありました。
・大正15年(1926)刊 「第4回 推古会図録」 金銅光背 玉井久次郎氏蔵 (光背写真掲載)
・昭和 4年(1929)刊 「天寶留眞」 某氏蔵 (写真掲載)
【昭和初期、古美術商・玉井大閑堂から根津嘉一郎の所蔵へ】
こうしてみると、大正年間には玉井久次郎氏の所蔵となっていて、昭和4年までには根津嘉一郎が玉井大閑堂から購入したものと推測されます。
玉井大閑堂は、当時、奈良では随一の仏教美術の古美術商でした。
名だたるコレクターが、玉井大閑堂から古美術品を購入しています。
根津嘉一郎は、昭和3年(1928)に、玉井大閑堂から興福寺伝来の定慶作・帝釈天像を購入しています。
明治39年(1906)に、興福寺から益田鈍翁が譲り受けた破損仏のなかの一体で、その後玉井久次郎氏の所蔵となっていた像です。
戊午年銘光背も、先の古い図録の記録などからみて、この頃(昭和3年前後)に、根津嘉一郎が玉井から購入したのではないでしょうか。
【模造品が観心寺に残されている、戊午年銘光背】
もう一つ、ちょっと不思議というか、興味深い話があります。
先にもふれましたが、戊午年銘の光背は、根津美術館に所蔵されているものの他に、観心寺にも全く同じ形の模造品が残されているのです。
観心寺にある模造品がいつつくられたのかは、私は知らないのですが、昭和9年(1934)の美術研究誌の論考に、両者が存在することが記されていますので、その時点で模造品があったことは間違いありません。(菅沼貞三「金銅佛4躯・大阪府観心寺蔵」美術研究32号1934.08)
数多くの美術書、研究書には、観心寺伝来で金銅観音像に付属していたと伝える光背が、根津美術館所蔵の戊午年銘光背であると断じていて、観心寺にある模造品の光背には言及されていません。
一般には、観心寺に模造品が存在する事すら、あまり知られていないのではないかと思います。
観心寺に残された光背にふれた本なども、これは模造であると、はっきり断言しています。
【「根津美術館と観心寺」どちらの光背が模造なのか、はっきりしないとの見解も】
ところが、根津美術館所蔵のものと観心寺にあるものと、
「どちらが本物でどちらが模造であるかは、よく判らない、はっきりしない。」
とする見解もあるようなのです。
私が知っている処では、望月信成氏、久野健氏の二氏が、そのように論じています。
望月信成氏は、
(「大阪の文化財」毎日放送文化双書第3巻・1973年毎日放送刊 所収)
久野健氏も、
(久野健著「古代小金銅仏」1982年小学館刊、久野健編「造像銘記集成」1985年東京堂出版刊の両書他に、上記と同文記述が所収されています)
こういう見解があるとすると、明治年間に戊午年銘光背の模造品がつくられて、そちらの方が本物と称されて古美術商から根津に渡った可能性だってあるということになるのでしょうか。
小金銅仏の模造品、贋物というのは、本当に真贋鑑定が難しいようです。
久野健氏は、自著「古代小金銅仏」のあとがきで、このように述べています。
「この種の小金銅仏は、明治以来、古美術愛好家の収集欲の対象となり、その需要を満たすために盛んに模造品がつくられた。
そのため、真に7、8世紀に制作された小金銅仏と明治以降の模造品との真偽の判定もむずかしく、この方面の研究の障害となっている。」
(久野健著「古代小金銅仏」1982年小学館刊)
戊午年銘光背についても、こうした観点からの、慎重を期した発言なのかもしれません。
【「観心寺のものは模造」というのが、ごく一般的な定説】
一方、1979年刊の「飛鳥白鳳の在銘金銅仏」の記述では、観心寺にある光背は模造であると明快に断じていて、根津美術館蔵光背の刻銘の文字とのわずかな相違についても、
「一行目の「名」を「治」、最後を「是」とするものがあるが、これは観心寺にあるこの光背の模造が写し誤っているためである。」
(奈良国立文化財研究所飛鳥史料館編「飛鳥白鳳の在銘金銅仏」1979年同朋舎刊)
と明言されています。
その他にも、私の知る限りの書物や論考では、皆、根津美術館蔵の戊午年銘光背が観心寺伝来で白鳳時代の制作と述べられています。
こうしてみると、
「根津美術館が本物、観心寺が模造」
というのが、当たり前の定説になっていることは間違いないようです。
ちょっと不思議だなと思うのは、どの書物、論考にも、望月信成氏、久野健氏の「どちらが模造なのかは確定できないとする見解」に言及したものが、見当たらないことです。
両氏ともに、著名な大家ともいうべき仏教美術史学者なのですから、
【何故だか「無指定」の戊午年銘光背~観心寺の観音像は重文指定】
実は、根津美術館蔵の戊午年銘光背は、文化財指定されておらず、「無指定」になっています。
飛鳥白鳳時代の造像銘記が遺されている作品・遺品は、法隆寺・金堂釈迦三尊光背銘を筆頭に、全部で12件で、いずれも美術史的には大変貴重な作例です。
そのうち仏像本体は無くなっていて、光背や造像記銅板だけが残されているものは3件です。
戊午年銘光背を除いては、すべて(11件)が国宝か重要文化財に指定されています。
「根津美術館の戊午年銘光背」も、重要文化財に指定されていても全く不思議はないと思うのですが、何故だかいまだに「無指定」のままです。
因みに、観心寺の銅造・観音菩薩立像の方は、重要文化財に指定されています。
ちょっと気になるところです。
随分マニアックでマイナーな話になってしまいましたが、観心寺伝来の「戊午年銘光背」にまつわる話をご紹介させていただきました。
この話、もう少し詳しく関係書や資料など確認してみたかったのですが、緊急事態宣言下、図書館が休館中で、調べてみることができませんでした。
他の資料などにあたると、もっと詳しいいきさつや事情などが判ることがあったのかもしれませんが致し方なく、ご容赦ください。