「法隆寺夢殿の救世観音像の光背は、聖徳太子の怨霊を封じるため、
後頭部に打ち込まれた太い釘によって、取り付けられている。」
梅原猛氏著の 「隠された十字架」(新潮社刊) で語られている、有名な一節です。
皆さん、ほとんどの方が、ご存じの話ではないかと思います。
「今時、こんな古い話、何を今更!」
自分でもそう思うのですが、「光背についてのこぼれ話」ということで、少し振り返ってみたいと思います。
【大ベストセラーになった「隠された十字架」~法隆寺は聖徳太子・怨霊封じの寺】
梅原猛氏が書き下ろした「隠された十字架」は、30年近く前、1972年に発刊されました。
梅原氏は哲学者でしたが、古代史の世界にユニークな着想で切り込んだのが本書でした。
その衝撃的な内容は、大反響を呼び、当時、ビックリするほどのベストセラーになりました。
古代史や法隆寺にちょっとでも関心がある人で、この本を読まなかった人はいないのではないかと思います。
今更、本書の論旨を振り返るまでもなく、先刻ご承知の通りだと思いますが、一言にまとめると次のようななるのでしょうか。
「再建法隆寺は、聖徳太子の怨霊封じ込めるために、藤原氏(とくに不比等)によって建てられた寺である。」
・聖徳太子の子の山背大兄王とその一族を殺害した黒幕は、中臣(藤原)鎌足であった。
・それゆえに、藤原氏一族は、聖徳太子の亡霊、怨霊におののかなければならなかった。
・再建された法隆寺は、太子の怨霊封じの場ととして造営され、寺僧は怨霊の牢番であった。
・法隆寺についての様々な事実は、このことを明らかにしており、夢殿と救世観音像は太子の怨霊封じのためにつくられた。
言葉足らずながら、以上の通りです。
私自身も、このユニークな着想、刺激的内容に、興奮気味に一気に読んだ思い出があります。
【夢殿・救世観音は、怨霊としての太子封じ込めの像】
そして、本書のストーリーのクライマックスというか、最大の盛り上がりを見せる場面が、「夢殿の秘仏・救世観音造立の謎」が語られる処です。
梅原猛氏は、救世観音像が「怨霊としての聖徳太子の姿」を表現したものであると考え、その祟りを封じ込めるために造られたことを示す重要な証拠として、次の点を挙げています。
・救世観音の体は背や尻などが欠如した中空に造られている。
それは、人間としての太子ではなく、「怨霊としての太子」を表現した故である。
・光背が、大きな釘によって、頭に直接打ち付けられている。
それは、太子の怨霊がさまよい出ることが出来ないよう、封じ込めるために故意になされた仕業なのだ。
驚きを通り越して、ひっくり返ってしまうような、衝撃的事実です。
【 怨霊封じ込めの証拠は、光背の取り付け方~意図的に後頭部に釘で打付け】
梅原氏は、
そう考えた論拠について、少し詳しく見てみたいと思います。
まず、同じ法隆寺の百済観音像の光背の取り付けスタイルとの違いに着目します。
「日本ではふつう光背は百済観音のように、支え木で止められるのが常である。」
と述べ、救世観音の光背がそのような通例のスタイルをとらずに、頭に直接取り付けられているのは、故意、意図的になされたものとしています。
その有様や理由について、
「重い光背をこの仏像に背負わせ、しかも頭の真後ろに太い釘を打ち付ける。
いったい、こともあろうに仏像の頭の真ん中に釘を打つというようなことがあろうか。
釘をうつのは呪詛の行為であり、殺意の表現なのである
・・・・・
今まで、誰一人として、この釘と光背の意味について疑おうとしなかった。
・・・・・・
この仏像は重い光背を太い釘で頭の後ろに打ち込まなければならない運命を持っていたのである。
これは想像するだに恐ろしいことである。」
と、語っています。
なんとも、センセーショナルでショッキングな想定です。
【 救世観音は行信、夢殿建立時の天平時代の作】
そして、このような釘が打たれた理由は、藤原氏祟りを為す聖徳太子の怨霊が、さまよい出ることが出来ないようにするためであって、そのように救世観音をつくったのは、夢殿を建てた行信の手によるものだと考えます。
救世観音像は、飛鳥時代の制作ではなく、夢殿創建期、なんと天平時代の制作だとするのです。
(救世観音、天平時代制作とみる説は、全く無いわけではありませんが、ちょっと無理筋かなと思います。)
【 法隆寺だけに特有の、頭に取り付けられる光背~それには深い意味が?】
梅原氏は、法隆寺の他の仏像の光背の取り付け方にも言及して、金堂の薬師如来像、阿弥陀如来像、釈迦三尊像の両脇侍、四天王像の光背が頭部に直接取り付けられていることは、特別な意味があると推測し、
「法隆寺に存在する仏像に限って、頭の真ん中に穴があけられているというのでは、疑問を起こすのが当然であろう。」
「いかなる理由があるとはいえ、仏様の頭に穴をあけたり、釘を打ったりするのはあまりに恐れ多いことではないか。
夢殿の救世観音には、この恐れ多い行為がハッキリなされている。
大きな釘が頭の真後ろから深く突き刺さっている。
金堂の四天王においては、釘は金具で止められている。
しかし夢殿では、まさしく釘は奥深く打ち込まれているのである。
その例は、金堂の釈迦の脇侍にあるとはいえ、全く恐ろしいことである。」
と考えました。
梅原氏は、夢殿・救世観音の造立の謎について語った章を、このように締めくくっています。
「こうして夢殿と、その本尊の救世観音はつくられた。
太子の怨霊は見事に閉じ込められ、行信の厭魅は成功し、ここに光明皇后はじめ、藤原氏の血を引く権力者は不安から解放されたのである。」
【 世間からの大反響と、学者からの痛烈批判を呼んだ梅原新説「隠された十字架」】
この救世観音が太子の怨霊封じのための像であるというストーリーは、「隠された十字架」の核心部分という感じで、大変な反響、評判となりました。
素直に読んでいくと、
この光背の話をご紹介しようと思って、ネット検索をしてみたら、いまでも、この梅原説が真実のように書かれたブログやHPが余りにも多いので、ビックリしてしまいました。
この梅原新説というべきものは、確かにユニークな着想で、フィクション的な仮説の物語としては、誠に面白く興味深いものであったのですが、学問的立場の世界からは、史実に基づかず誤った事実認識によることが多すぎて、「創られたストーリー」といってもよいものと見做されたと思います。
世間の反響があまりにも大きかったので、何人かの古代史の学者から、痛烈な批判が発表されたりしました。
この「こぼれ話」では、そのあたりのことはさておいて、
【光背を後頭部に取り付けるのは、特異なスタイルなのか?】
まず、
・仏像の光背は支え木で止められるのが通例で、救世観音の光背が頭に直接取り付けられているのは異例のことである。
これは、故意、意図的になされた仕業である。
・法隆寺の仏像に限って、こうした頭に直接取り付けるスタイルが存在する。
このことに特別な意味があろうとの疑問が生じる。
(金堂・薬師像、釈迦三尊脇侍像、四天王像などを例示)
という指摘は、どうでしょうか?
確かに、仏像の光背は、梅原氏が一般例に挙げた百済観音像のように、支柱に取り付けるスタイルが多いことは事実です。
しかし、ちょっと仏像に詳しい方は、
【飛鳥白鳳の金銅仏では、むしろ一般的なスタイル】
むしろ飛鳥白鳳期の金銅仏では、後頭部に直接光背を取り付けるスタイルの方が一般的といってもよいぐらいかと思います。
東京国立博物館に陳列されている法隆寺献納宝物・四十八体仏を見てみると、多数の金銅仏に、後頭部に明らかな突起があったり、枘穴が空いていたりします。
ここに光背を取り付けていたことが明らかです。
そのいくつかの例を、写真でご覧ください。




両像こもに救世観音像と類似した形姿の小金銅仏像
【朝鮮の大型古代金銅仏でも、同じ取り付けスタイルが】
四十八体仏のような小金銅仏に限らず、大型の金銅仏でも、この光背取り付けスタイルのものは、いくつも見られます。
法隆寺金堂の薬師如来像もそうですが、韓国を代表する二体の有名な半跏思惟金銅仏像(韓国国宝78号、83号像)も後頭部に光背を直接取り付けていた明らかな痕跡がみられます。
日月飾三山冠半跏思惟像78号像は後頭部には穴が空いており、広隆寺宝冠弥勒像瓜二つと云われる83号像の後頭部には大きな突起があります。
共に、ここに光背が取り付けられていた痕跡であることが判ります。





78号像の後頭部には光背を取り付けた穴が、8号像には取り付け用の大きな突起がある
中国、朝鮮の古代金銅仏では、多くの仏像がこの光背の取り付け方で、それらの仏像のスタイルを見倣ってつくられた日本の仏像も、当然にこうした手法で造られたことが容易に想像されます。
【木彫像の光背に支柱取り付けが多いのは、保持する強度の問題か】
木彫像の場合には、この後頭部に光背を直接取り付けるスタイルは、光背の重さを保持する構造的な強度の問題から、支柱に光背を取り付けるスタイルが多くなるようです。
飛鳥白鳳の木彫像では、梅原氏が例示した百済観音像だけでなく、中宮寺の菩薩半跏像も支柱で支えるスタイルですし、広隆寺の宝冠弥勒像も同様であったと思われます。
飛鳥白鳳の木彫像の現存例では、法隆寺金堂・四天王像と夢殿・救世観音像の2像が、後頭部に光背を直接取り付けるスタイルの像となっています。
飛鳥白鳳期の仏像制作は、舶載の金銅仏が手本となっていたでしょうから、木彫像でも、強度的に光背を後頭部に取り付け可能な場合は、それに倣ったスタイルをとったのではないでしょうか。
こうしてみると、光背を支柱で固定するのか、頭部に金具などで取り付けるのかというのは、単純に技術的な技法の問題で、保持する強度などの構造的な観点から選択されたと考えられます。
救世観音像の光背が後頭部に取り付けられているのは、仏像を生かすか殺すかといったような次元の問題とは全く違うものであったというのは、明らかだと思われます。
【救世観音の頭部には、釘が打ち込まれているのか?】
もう一つ、
・救世観音の後頭部には、大きな太い釘が打ち込まれている。
・重い光背を背負わせて、それを頭の真ん中に釘で打ち込んでいる。
という点は、どうなのでしょうか?
確かに、救世観音像を真横かから撮った側面写真をみると、後頭部に太い釘が打ち込まれているように見えないわけではありません。
【釘ではなく、L字型金具で後頭部に取り付けられた光背】
結論から言えば、救世観音の光背は、釘ではなくて、
「L字型の金具を、後頭部の枘穴に差し込むことによって取り付けられている」
のです。
一見は、似ているように見えたとしても、
奈良六大寺大観(第4巻)は、救世観音光背の取り付け方について、このように解説されています。
「宝珠形の光背は、後頭部中央の四角の枘孔に差し込んだ銅製懸金具の立ち上り部を、光背中央蓮肉部の上下につけられてた銅製の壷金具に差込んで懸吊する形である。」
この解説文だけでは、ちょっとわかりにくいのですが、当該部分の写真を見るとその様子がほぼ理解できます。
光背には、クネッと曲がったL字型の懸金具が取り付けられていて、その水平部分を像の後頭部に造られた「枘孔」に差込むことによって、像本体とつなぎ合わせ保持しているのです。
この懸金具のことを、「頭の真後ろから奥深く打ち込まれた釘」というのは、事実に反するといわざるを得ません。
【法隆寺金堂・四天王像も同スタイルの金具で光背取り付け】
木彫像の光背を後頭部に取り付ける方法としては、金銅仏と違って強度が弱いことから、このような金具が用いられたようです。
法隆寺金堂の四天王像の光背は、二つのL字の組み合わせのように曲げられた金具で、後頭部に取り付けられています。
こちらも、当該部分写真で、状況がよくわかると思います。
梅原氏が、衝撃の事実とした「後頭部へ打ち込まれた釘」とされた問題も、木彫像の頭部への金具による光背の取り付け技法の問題が、一見そのように見えたに過ぎなかったということになります。
【「釘打付け説」に厳しい批判を寄せた、直木孝次郎氏】
世間に大反響をもたらした「救世観音の後頭部に打ち込まれた釘」説については、専門の研究者からも手厳しい批判が述べられました。
直木孝次郎氏は、救世観音像の光背の取り付けが呪詛の行為であるという梅原説が誤解に基づくものであることを、具体的に一つ一つ指摘したうえで、このように語っています。
「いくら言論の自由であるといっても、光背が大きな釘でみ仏の後頭部に打ち込まれているという、事実にもとづかない人騒がせな妄説を提出することは、遠慮してもらいたいものである。」
(「法隆寺は怨霊の寺か~梅原猛氏『隠された十字架批判』」 直木孝次郎古代を語る 第9巻~飛鳥寺と法隆寺・2009年吉川弘文館所収)
直木孝次郎氏は上記著作の他、自著「法隆寺の里」「私の法隆寺」に同様の梅原説批判論を掲載しています。
その中で、救世観音像の光背の取り付け方についての論及、事実検証が丁寧になされており、この「こぼれ話」の大いなる参考にさせてもらいました。
【中空ではなかった救世観音の体部造形~これまた痛烈批判が】
光背の話ではないのですが、梅原氏が、
救世観音の体は背や尻などが欠如した中空に造られている。
それは、人間としての太子ではなく、「怨霊としての太子」を表現した故である。
と論じた問題も、事実とは相違するようです。
救世観音像は痩身の像ではありますが、その肉体はしっかりと造形されています。
正面からは鰭状天衣に隠れて肉身の状況が判りにくいのですが、背面から撮られた写真をみると背中もお尻も、しっかりと穏やかに造形されています。
梅原氏は
「救世観音の体は空洞であることである。
つまりそれは、前面からは人間に見えるが、実は人間ではない。
背や尻などが、この聖徳太子等身の像には欠如しているのである。」
と記しているのですが、これも、事実と相違すると云わざるを得ません。
梅原氏がこのように語ったのは、絶対秘仏・救世観音像を明治17年に開扉したフェノロサが、自著「東亜美術史綱」に、
町田甲一氏は、このように述べています。
「これ(注:フェノロサが背後は中空と記していること)を梅原(猛)氏は、像背を確かめもせずに・・・・・・、「怨霊説」の有力な前提の一つにしている。
実物をみないでものを書くのならば、せめて写真ででも確かめるくらいの労は当然払うべきであり、真面目な新説の提唱であるならば、その論拠については、前もって充分なる学問的検討が必要であろうと思う。」
(「大和古寺巡歴」1976年有信堂高文社刊~のちに講談社学術文庫にて再刊)
これまた、痛烈で手厳しい批判です。
【 救世観音の光背の取り付け方は、実の処は、飛鳥白鳳期に良く有るスタイル】
大反響を呼んだ「隠された十字架」での救世観音・太子怨霊封じ込め像論。
今回は、その核心ともいえる、
「救世観音の光背は、怨霊封じ込めのため、意図的に後頭部に釘打たれている。」
という梅原説についての、検証、振り返りをしてみました。
結局のところは、救世観音像の光背の取り付け方は、不思議なものでも、特別なものでも全くなくて、飛鳥時代当時の制作技法として、ごくごく普通の一般的技法であったということが、よくお判りいただけたのではと思います。
30年近く前に出た本で論じられた、古い話を持ち出してしまいました。
よくご存じの判り切った話を、何を今更という感が強かったのですが、「光背のこぼれ話」ということで、あえて採り上げさせていただきました。