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観仏日々帖

こぼれ話~光背の話① 法隆寺・釈迦三尊像の光背と飛天について 【2020.04.23】


新型コロナウィルス感染拡大で、ついに全国緊急事態宣言になってしまいました。

美術館、博物館もすべて閉館となり、各地の御開帳も中止が相次いでいます。

HP「日々是古仏愛好」に掲載している仏像展覧会や秘仏御開帳情報なども、当分ご紹介出来るものも無く、しばらくは記事更新も叶いませんが、ご容赦ください。

私も、不要不急の外出自粛で巣ごもり的状態、ストレスも溜まり気味です。
そこで、ちょっと肩の凝らない気楽にご覧いただけるような話を掲載してみようかという気になりました。

まずは、普段、仏像を拝するときに目をやることが少ない、「光背」にまつわる、ちょっと面白そうなこぼれ話を、いくつかご紹介させていただこうかと思います。
皆さん、よくご存じの話ばかりではないかと思いますが、気を紛らわせる、ヒマつぶし代わりにでもなれば幸いです。



まずは、法隆寺金堂の釈迦三尊像の光背についてのこぼれ話です。


【ご存じでしょうか?  ~釈迦三尊像の大光背周縁に穿たれた「枘(ホゾ)穴」の存在】


法隆寺金堂の釈迦三尊像。
中学生でも知っている、飛鳥時代の傑作、国宝の金銅三尊仏像です。

法隆寺金堂・釈迦三尊像
法隆寺金堂・釈迦三尊像

この釈迦三尊像の光背の周縁に、小さな穴がいくつも穿たれているのをご存じでしょうか?

一光三尊形式の蓮弁型の立派な大光背で、裏面には、推古31年(623)に聖徳太子夫妻の冥福を祈って止利仏師の手によって造られたことが記される、有名な造像銘が刻されています。

この光背の外周の縁に、長方形の穴が左右に各々13個ずつ穿たれているというのです。
小さな穴で、幅8ミリm、縦25ミリぐらいの大きさだそうです。

光背に、こんな枘穴が穿たれているというのは、法隆寺の暗い金堂で拝しても、全く判りません。
奈良六大寺大観などの鮮明な写真を、目を凝らして見てみても、枘穴があることを見分けることはなかなかできません。
光背写真を大きく拡大してみると、かろうじて枘穴が穿たれていることが判ります。

法隆寺金堂・釈迦三尊像光背~周縁部の小さなホゾ穴があるのが判る

法隆寺金堂・釈迦三尊像光背~周縁部の小さなホゾ穴があるのが判る
大光背の拡大写真
周縁部に小さな枘穴があるのが、かろうじて判る




【光背左右の各13個の枘穴が、しっかり確認できる大光背の拓影】


古い資料をあたってみると、この枘穴が穿たれていることがハッキリと確認できるものを見つけました。
昭和24年(1949)刊の 「法隆寺金堂釈迦三尊像~法隆寺資料彫刻編第1輯」 (岩波書店刊) に、大光背の拓影が掲載されていて、枘穴の形がしっかりと拓されているのです。

光背周縁部のホゾ穴の存在がはっきりとわかる拓影

光背周縁部のホゾ穴の存在がはっきりとわかる拓影..光背周縁部のホゾ穴の存在がはっきりとわかる拓影
光背周縁部に穿たれた、多数の枘穴の存在がはっきりとわかる拓影
「法隆寺金堂釈迦三尊像~法隆寺資料彫刻編第1輯」掲載拓本画像


ご覧の通りで、多数の四角い枘穴が、よく見て取れると思います。

この枘穴は、何のために穿たれたものであったのでしょうか?



【 「光背周縁には飛天が取り付けられていた」 との卓見を示した、平子鐸嶺】


明治時代、この枘穴の存在を知っている人は、ほとんどいなかったようです。
これに気付いて、枘穴の意味を明らかにしたのは、平子鐸嶺でした。

平子鐸嶺
平子鐸嶺
平子鐸嶺といえば、いわゆる「干支一運説」と云われる法隆寺非再建論を展開したことで著名です。
「干支一運説」というのは、日本書紀が法隆寺の火災を、庚午年、天智9年(670)としたのは誤りで、干支が同じ推古18年(610)このことであったという画期的説でした。
鋭い論考を矢継ぎ早に発表しましたが、明治44年、35歳の若さで惜しくも早世しました。

平子鐸嶺は、

「当初、この大光背の周縁は “飛天” で飾られていていて、枘穴は飛天を取り付けるための差し込み穴であったのだ。」

と論じたのです。

平子は、明治40年(1907)に、

「法隆寺金堂本尊釈迦佛三尊光背の周囲にはもと飛天ありしというの説」 (考古界6の9号 後に「仏教芸術の研究」所収)

という短文の論文を発表して、そのことを初めて指摘しました。

この論文で平子は、次のような主旨を述べています。

光背の周辺に、一側13孔が穿たれていることを、多くの人が知るところでは無い。

法隆寺村の老大人北畠翁は、この孔に十方光の細い條金がさされていたというけれども、それでは大変おさまりが悪くなる。

博物館にある「法隆寺献納宝物の甲寅銘光背」をみると、周縁左右に各7個の飛天が取り付けられている。
法隆寺・釈迦三尊像の光背も、甲寅銘光背のスタイルと同形式の飛天が取り付けられていたのに違いなく、失われた飛天の痕跡の枘穴が遺されているのだ。

中国、竜門石窟の北魏式仏像の光背は、周縁を飛天で囲まれたものが一般的であることからも、そのことは明らかであろう。

枘穴の存在に気付いたのもさることながら、周縁が飛天で飾られていたとみたのは、平子鐸嶺ならではの慧眼です。
当時31歳の若さで、流石の鋭さです。

余談ですが、「法隆寺村の老大人北畠翁」というのは、法隆寺の大御所、雷親父として知られた男爵・北畠治房のことです。
北畠治房については、日々是古仏愛好 「埃まみれの書棚から~法隆寺の大御所 北畠治房」 で、詳しくふれたことがありますので、ご覧いただければと思います。



【大光背には、法隆寺献納宝物・甲寅銘光背と同じスタイルの飛天が?】


平子鐸嶺が想定した 「法隆寺献納宝物の甲寅銘光背」 というのは、ご覧の通りのものです。

法隆寺献納宝物・甲寅銘光背

法隆寺献納宝物・甲寅銘光背
法隆寺献納宝物・甲寅銘光背

東京国立博物館の法隆寺宝物館へ行けば、いつでも観ることができます。
(現在、東博は臨時休館中です。)

光背裏面に甲寅の干支が記された造像銘が刻されていて、甲寅は594年と考えられています。
高さ31センチの小さな光背で、本体の三尊像は失われてしまっています。
銘文の内容等から、朝鮮半島からの舶載仏像だったのではないかと云われています。

この甲寅銘光背の周縁は、透かし彫りの飛天群像で飾られているのです。
これと同じスタイルのものが、法隆寺金堂釈迦三尊の光背にも取り付けられていたという話は、なるほどと大いに納得できるところです。

メトロポリタン美術館蔵の北魏正光5年(524)の小金銅三尊仏像の光背も、甲寅銘光背とスタイルがちょっと違いますが、周縁に飛天が取り付けられた例として知られています。

メトロポリタン美術館蔵 北魏正光5年銘・金銅三尊仏像
メトロポリタン美術館蔵 北魏正光5年銘・金銅三尊仏像



【両脇侍が横にはみ出してしまう、現在の大光背】


そういわれて、法隆寺釈迦三尊像を観ると、両脇侍が一光三尊形式の大光背から一寸はみ出してしまっています。

法隆寺金堂・釈迦三尊像
法隆寺金堂・釈迦三尊像~正面写真
両脇侍が大光背の周縁からはみ出してしまっている


大光背のサイズが、ちょっと小さすぎるのです。
周縁に飛天が取り付けられて、全体が一回り大きな姿だったとすると、両脇侍が大光背の中に、丁度良い塩梅で納まりそうな感じです。



【飛天が失われたのは、天智9年の若草伽藍焼亡の時?
~光背先端の折れ曲りもこの時の損傷か】

残念ながら、光背周縁にあったはずの飛天は、すべて失われてしまいました。
釈迦三尊像は、ほぼ完全と云って良いほどの保存状態で今日まで伝えられているのに、周縁の飛天だけが、いつ頃どうして悉く失われてしまったのかは、よく判りません。

実は、この釈迦三尊の光背には、先端部が前方に折れ曲がって大きなひび割れがあるのです。

光背先端部の折れ曲り損傷

光背先端部の折れ曲り損傷
損傷して折れ曲ってひび割れが生じた光背先端部

このひび割れが生じたのは、天智9年(670)の創建法隆寺(若草伽藍)焼亡の時ではないかと云われ、その時に周縁の飛天も失われたのではないかという見方があるようです。

町田甲一氏は、このひび割れ損傷と飛天が失われた時期と理由について、次のような仮説を語っています。
ちょっと長くなりますが、面白い話なので、紹介させていただきます。

「恐らくそれ(注:飛天が失われたこと)は、蓮弁型の挙身光の先端部に認められる大きなヒビ割れと、同じ時の損傷と思われるが、その先端部が大きく前に折れ曲ってヒビ割れを生ずるに至った災害について、香取秀真氏が古く(昭和6年)
「梁などが墜落した時の大損傷かと想像される」
と述べられて以来、その時を天智9年4月のかの法隆寺焼亡の時と解し、香取氏の想像されたような事情で、この損傷を受けたと考えている人が多い。

私も、その時期については同意見だが、その直接受けたショックについては、そうではないだろうと想像している。
その点について述べてみたい。

留意すべきことは、この釈迦三尊が光背を含めて、火の中にあった形跡はまったくないことである。
しかし火災の実情では(消防署の人にただしたところによると)、火を受けて天井ないし梁が落下してきた場合、火は急に回って一瞬にして火の海となるのが普通である。
したがって梁や天井の落下によって損傷を受けたのちに、この三尊を大光背ともども火を受けることなく救出することは不可能である。

そこで私は次のように考えている。
まず金堂の隣の塔に落雷し(むかしの寺の火事は、大部分が塔への落雷による)、その塔の炎上中、金堂への類焼まえに、この三尊を救出すべく、まず光背を像よりはずし、高い台座上の像よりその背後に落して救出をはかったのであろう。
その際、光背は仰向けに一回転して先の方から台座下に落ちたわけで(光背の上方は、もともと多少のカーブをもって前出していた)その折りみずからの重味で、その先端を大きく前に折り曲げて損傷したのであろうと思われる。

頂上の透かし彫りの宝塔部はもとより、周縁の何体かの飛天の像も、この時に損なわれたものであろう。
しかし幸いに、光背そのものは火中に帰すことなく、本尊につづいて、金堂への火の及ぶ前に救出されたのではなかろうか。

飛天を失い、光背先端部を損傷した折りの事情について、このように想像した人は、いままで一人もいなかった。
私は、この推測に、かなりの自信をもっている。」
(「大和古寺巡歴」1976年有信堂高文社刊~のちに講談社学術文庫にて再刊)

なかなか、面白く興味深い仮説です。
町田氏は、奈良六大寺大観の解説でも、同趣旨のことを記しています。

(なお、現在では、釈迦三尊像は創建若草伽藍に祀られていたのではなかったのではないかとする異説もあります。)

それにしても、この光背飛天の残欠などが全く遺されてこなかったのは、残念なことです。

大変物持ちの良い法隆寺のことですから、いつの日か、倉の中からカケラでも見つかるようなことがあれば、驚きの大発見となることは、間違いないのですが・・・・・・・



【復元制作された光背周縁の飛天~東京藝術大学の「クローン文化財」制作プロジェクト】


2017年。
周縁の飛天を再現した、大光背の復元制作が行われました。

東京藝術大学が取り組んでいる文化財の超精密複製、通称「クローン文化財」制作プロジェクトによって、法隆寺釈迦三尊像のクローン文化財が制作されたのです。
その制作にあたって、大光背周縁の飛天も、甲寅銘光背などを参考にして、復元制作されたのでした。

このクローン文化財・釈迦三尊像復元像は、2017年秋に東京藝術大学美術館で開催された、シルクロード特別企画展「素心伝心~クローン文化財 失われた刻の再生」(各地を巡回)などで展示されましたので、ご記憶のある方も多いのではないかと思います。

復元像は、ご覧の通りです。

光背周縁飛天が復元制作された、精密復元像(クローン文化財)
光背周縁飛天が復元制作された、精密復元像(クローン文化財)

大光背の周縁は、甲寅銘光背とそっくりの飛天で取り囲まれて、華やかな荘厳さが一段と増しています。

3D計測や3Dプリンターといったデジタル技術を駆使して制作された超精密複製像で、本物と見まがう程の、素晴らしい出来です。
飛天の復元などの他、美術史の研究を踏まえ、左右の脇侍を入れ替えて制作されました。



【全体バランスが見事に釣り合った復元制作像~見慣れた姿からはちょっと違和感】


普段、周縁部の飛天がない光背の姿の法隆寺釈迦三尊像を見慣れているだけに、復元制作像を観ると、立派な光背の方ばかりに目が行ってしまって、なんだか違和感を覚えてしまいます。

光背周縁飛天が復元制作された、精密復元像(クローン文化財)
法隆寺金堂・釈迦三尊像~復元製作像(クローン文化財)

法隆寺金堂・釈迦三尊像
法隆寺金堂・釈迦三尊像~現状像


この姿だと、両脇侍像も一光三尊の大光背の幅の中に、丁度うまく納まって、全体バランスが良くなるようです。

大光背周縁の飛天の形姿が、本当にこのようなものであったかどうかの確証はないのですが、法隆寺釈迦三尊像の制作当時の全体の姿を、目の当たりに実感できるようになったのでした。



ついでに、全くの余談、付けたりの話です。


【薬師寺東院堂・聖観音像の台座に穿たれた、多数の枘穴】


「穿たれた枘穴の痕」と云われて思い出すのは、薬師寺東院堂の聖観音像の台座に残されたいくつもの枘穴のことです。

この聖観音像を拝すると、その凛とした青年の清々しさを感じさせる美しさに、誰もが魅了されてしまいます。

薬師寺東院堂・聖観音像薬師寺東院堂・聖観音像
薬師寺東院堂・聖観音像


美しい姿の方に目を奪われて、足元の台座をじっくり見ることは無いのかもしれませんが、実は、台座の仰蓮弁の根元の上框のところに、小さな丸い穴が沢山穿たれているのです。



【台座八角上框に、規則正しく3周して、二孔一組の丸穴が】


八角上框には、二孔一組になった小さな丸い穴が、規則正しく3周して穿たれているのです。

内側の2周は8組(16孔)ずつ、外側の3周目は16組(32孔)が、穿たれています。
台座の拡大写真をご覧いただくと、孔が穿たれた様子が、よくわかると思います。

聖観音像の台座~上框に小さな穴が穿たれているのが判る

聖観音像の台座~上框に小さな穴が穿たれているのが判る
東院堂・聖観音像の台座拡大写真
上框に小さな穴が穿たれているのが判る


小さくて目立たないので、この穴に気が付かれた方は、それほどいらっしゃらないのではないかと思います。
私は、聖観音像が博物館に出展された時に、この台座の穴を、自分の眼でしっかりと確認することができました。



【台座は、5重の仰蓮弁で飾られていた~遺された別鋳蓮弁の差し込み穴】


この2孔一組の穴は、別鋳の蓮弁が挿し込まれていた痕だと考えられています。

現在の台座には、蓮肉部の周辺に8葉の仰蓮が二重に配されています。
当初の台座には、この仰蓮の外を取り巻くように、あと3重の蓮弁が取り付けられていたのです、
現存部分と合わせると、内側4重が各8葉、最外周5重目が16葉の蓮弁で飾られていたことになります。

聖観音像は、「5重に花開いた蓮弁」の上に立っていたのでした。
それはそれは、見事で華やかなものであったことでしょう

挿し込まれていた筈の別鋳の蓮弁は、すべてが失われ、残欠すら遺されていません。

聖観音像の当初の光背も失われてしまっています。

もし光背も台座も、造立当初の形のものが遺されていたならば、眼をみはるような絢爛豪華な荘厳のなかに、観音像が佇むというお姿であったのでしょう。


コメント

法隆寺金堂釈迦三尊像光背拓本

法隆寺金堂釈迦三尊像光背拓本は、早稲田大学会津八一記念博物館に所蔵されています。これは、当大学教員だった沢柳大五郎教授が、戦後美術研究所(現東京文化財研究所)にいた頃、専門の西洋美術の研究ができなくて、ひまだったので、美術研究所で行っていた法隆寺調査に参加したときに拓本を打ったという話です。たまに、博物館で展示していますが、枘穴は、はっきりと確認できます。

Re: 法隆寺金堂釈迦三尊像光背拓本

加藤春秋様

コメント有難うございます
ご紹介した拓本の本物は、早稲田大学会津八一記念博物館にあるのですか。
澤柳大五郎氏がされた採拓されたというのも、全く知りませんでした。

拓本が掲載されている「法隆寺資料彫刻編第一輯・法隆寺金堂釈迦三尊像」をみると、確かに、「田沢担、澤柳大五郎、久野健、坂本万七編」となっていますね
本書には、この光背だけでなく、諸々の拓影が掲載されており、当時は、随分自由自在に採拓したものだと、妙な関心をした次第です
記念館に展示された時に、一度、現物を見てみたいものです

  • 2020/04/27(月) 17:35:41 |
  • URL |
  • 観仏日々帖 #-
  • [ 編集 ]

クローン文化財・法隆寺釈迦三尊の光背周縁部飛天

2017.6.24付けのトピックス「京都・新町地蔵保存会の地蔵像、3Dプリンタ・レプリカをお堂にお祀り」の記事に、コメントとして7.10付けでクローン文化財・法隆寺釈迦三尊の製作に関わった芸大の方から聞いた話を投稿しています(下記URL)。光背周縁部飛天の再現(計画)についても触れていますのでご参考まで。
https://kanagawabunkaken.blog.fc2.com/blog-entry-140.html#comment

  • 2020/05/04(月) 22:38:12 |
  • URL |
  • むろさん #PMoz9hdc
  • [ 編集 ]

法隆寺、広隆寺、四天王寺、斑鳩寺など太子の関わるお寺と仏像に大変興味を持っております。
この穴と飛天のことは、とても勉強になり、ありがとうございます。炎に見えて、飛天だとは思ってみたこともありませんでした。
脇侍菩薩が実際は左右反対だったのですか?
法隆寺金堂の天蓋にも飛天が付いていますが、お顔は童子のように可愛らしいのに、背景に蓮の上が炎になっており、不思議に思っております。法隆寺救世観音像も、手にお持ちの香炉?の上に炎があります。拝火教の影響なのでしょうか?
中山市朗という作家が、四天王寺と籠神社の前には牛市が立っており、1番良い牛を捧げて屠ったらしく、牛王尊という地図に載らない小さい社があり、ミトラ教の影響ではないか、と書かれていました。「古代倭王の正体」小林惠子 祥伝社新書 2016には神武天皇以来の出自の歴史が書かれていて面白いです。

  • 2020/05/08(金) 09:58:34 |
  • URL |
  • ライラック #GcVV6teI
  • [ 編集 ]

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