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観仏日々帖

新刊旧刊案内~たまたま手に入れた「関野貞の仏像スケッチ集」 【2020.02.29】


【NETオークションで手に入れた、「関野貞 写 佛像線図」】

こんな、古い仏像スケッチを手に入れました。

たまたまNETオークションに出品されていたのです。

「関野貞 写 佛像線図」

という表題がつけられていました。

ご覧のような、仏像の線画スケッチ集です。

「関野貞 写 佛像線図」タトウ
「関野貞 写 佛像線図」がおさめられたタトウ

思いの外の安値で落札することができました。

色紙大のタトウに16葉の仏像の顔部や衣文の線画のスケッチが納められていました。
残念ながら、原図ではなくて、複写図です。

タトウに納められていた16葉の仏像線図
納められていた16葉の仏像線図

スケッチに載せられている仏像をながめてみました。

中国と日本の仏像の代表的な作例が、時代を追ってピックアップされているようです。
中国の方は、北魏から唐までの著名石窟仏がラインアップされています。
日本の仏像は、飛鳥から鎌倉時代までの時代を代表する仏像です

面相、衣文の特徴、断面のラインなどが、手書きで描写されています

「関野貞 写 佛像線図」

「関野貞 写 佛像線図」
関野貞 写 佛像線図



【関野貞の子息、克氏が抜粋複写したスケッチ資料】


「関野 貞 セキノタダス 氏 略歴」と題された経歴書が一枚添えられていました。
慶応3年(1867)生まれ、昭和10年(1935)に69歳で没しています。

添えられていた「関野 貞 セキノタダス 氏 略歴」

そこには、このように記されています。

「この『関野貞写仏像線図』は関野貞氏の研究資料〈自筆〉から、子息克氏が抜粋され、複写されたもの。
関野貞氏は終生、専門の建築以外にも、早くから関連の対象物にも注目し研究されていた一端を示す貴重な資料である。
題簽の文字は関野克氏の筆跡である。」



【近代建築史学、美術史学草創期の泰斗、「関野貞」】


「関野貞」という名前をご存じでしょうか?

古建築史に関心のある方や、法隆寺再建非再建論争をご存じの方には、大変なじみある名前だと思います。

関野貞
関野貞(1867~1935)

近代日本の建築史学の草創期に、建築様式史の体系を確立した人物として、伊東忠太と並び称される大建築史学者です。
また、美術史研究においても多大な業績を残しています。

その業績を上げるとキリがないのですが、いくつかをアットランダムに挙げると、次のようなものが知られるのではないでしょうか。

・奈良県技師として古社寺をくまなく調査、古建築の時代判定、修理を推進。 (明治29~34年)

・平城宮跡・大極殿址を発見。 (明治33年)

・「法隆寺非再建論」を初めて発表、その後、歴史的大論争に発展。 (明治38年)

・官委嘱により朝鮮古蹟調査を実施。その後大著、朝鮮古蹟図譜15冊などを刊行。 (明治42年~)

・中国山西省「天龍山石窟」を発見、その存在を世に紹介。 (大正7年)

これだけをみても、我国の建築史学、美術史学の草創期に、如何に多大な業績を残したかが、容易に想像がつきます。



【「関野貞 仏像線図」とは何者なのか?~その由来を探る】


ところで、この関野貞の手描きという「仏像線図」スケッチというのは、どういうものなのでしょうか?
よくわかりませんでした。

現物が手元に到着してから、このスケッチの由来について書かれた資料などがないかと、暇を見て、関野貞について採り上げた本などをあたってみました。

「有りました!!」

このスケッチが、何者なのかについて触れられた文章を、いくつか見つけたのです。

3つの資料に、書かれていました。
ご紹介します。



【明治末年、東京帝国大・日本美術史講義のため作られたスケッチ集】


1つ目は、「関野貞アジア踏査」という本に、次のように触れられていました。

「関野貞アジア踏査」東京大学出版会2005年刊
「関野貞アジア踏査」東京大学出版会2005年刊

「関野克旧蔵資料には、自筆の『仏像のスケッチ』16枚が残る。
南北朝、隋、唐代の仏像、飛鳥時代、奈良時代の仏像及びその細部の図で、各紙の端に『不許転載関野貞写』と記されている。

関野貞逝去時帝大の助手であった木村貞吉によれば、『仏像のスケッチ』は、『奈良県在任中のノートより東大文学部講義用として浄書されたもの』である。
関野は、明治42年度から44年度『日本美術史』、大正12年度『考古学』を帝大文科大学において講義したが、図は、『日本美術史』講義のために浄書されたのであろう。」
(「関野貞と日本美術史」大西純子執筆 「関野貞アジア踏査」東京大学出版会2005年刊所収)


私が手に入れたのは、まさに此処で触れられた「仏像のスケッチ」に間違いありません。
枚数も、ピタリ16枚でした。
そして「関野貞アジア踏査」という本の冒頭には、なんと寸分違わぬ本物のスケッチのカラー写真が掲載されていました。

「関野貞アジア踏査」に掲載されていた、関野貞「佛像線図」のカラー写真
「関野貞アジア踏査」に掲載されていた、関野貞「佛像線図」のカラー写真

入手した図は、明治末年に、関野が東京帝大の講義用に作成した、自筆のスケッチ集(複写)だったのでした。



【顔面、衣文の細部、断面描写という、特異なスケッチの訳は?】


この仏像スケッチを観ると、際立った特徴があります。

それは描かれた図が、単に仏像の姿かたちのスケッチではなくて、

「顔面部と衣文の一部分に、特化した図であること。」

「顔面側面のシルエット、衣文の断面凹凸図がスケッチされていること。」

です。

関野貞「佛像線図」①
法隆寺五重塔・謄本塑像、薬師寺金堂・薬師如来像スケッチ

関野貞「佛像線図」②
東大寺法華堂・不空羂索観音像、日光菩薩像スケッチ

関野貞「佛像線図」③
唐招提寺金堂・廬舎那仏像、新薬師寺・薬師如来像スケッチ

どうして、このようなスケッチ図が描かれたのでしょうか?
その特徴について触れた資料を、2つ見つけました。

関野逝去当時、帝大の助手であった木村貞吉が記した文です。

「茲に申し添へて置きたき事は、先生の彫刻様式に於ける研究方法の解剖的とでも申すべき一種特別なる方法であります。

其方法と申しまするものは、先生が奈良県技師として同県へ御在職中、同県下に於ける各時代の優秀なる仏像の相貌より纏衣の皺襞に至る迄、悉く精密に『スケッチ』をされ、又要所要所は断面図によりて、時代の特徴とする其刀法の剛柔・深浅等迄指示され、一目瞭然たらしめたる其研究方法の微に入り細に渉りたる事は、実に博士に依て始めて試みられたる独特の手法と称すべきであると思います。」
(「関野先生の思いで」木村貞吉・建築雑誌49輯605号1935年)


もう一つ、関野貞の子息、関野克(建築史学者)が記した文です。

「関野の彫刻様式の講義の一端をみると,奈良県技師時代のスケッチと拓本などの資料をもとにして,時代別に整理された。

これは特徴を捕らえて仏像の相貌,纏衣の皺襞に至るまでことごとく精密にスケッチし、又これらの要所要所は断面図によって時代の特徴を示すよう、図面で様式を客観化した。
これは独得の方法であって,後に支那も加えて講義のため十数枚の青写真として学生に配布している。」
(「建築の歴史学者 関野貞」関野克著・上越市立総合博物館1988年刊)

「建築の歴史学者 関野貞」関野克著
「建築の歴史学者 関野貞」関野克著


【細部の比較検証で時代様式・展開を実証、「様式観」を確立した関野貞】


これを読むと、

「こうしたスケッチは、関野が明治30年代、奈良県技師時代に描いたもの。」

「仏像の相貌・衣文の細密なスケッチ・断面図で、時代の特徴をつかむという様式研究の手法は、関野貞が初めて試みた独特な手法であった。」

と、述べられています。

ちょっと驚くのは、関野がこうした細部を検証する手法で仏像彫刻の様式研究を行っていたのが、明治時代の30年代であったということです。
この頃は、近代仏教美術史学の揺籃期ともいうべき頃です。
まだまだザックリとした感覚的な理解で、仏教美術史が論じられていた時期なのだと思います。
関野貞は、実証的に現物にあたり、緻密に細部を検証することによって様式観を確立することを試みたのでした。

関野貞は、
「時代により一貫した様式が存在すると考え、時代様式の発展、展開という様式理論、様式観を確立した人物」
と云われます。

建築史においても、美術史においても、細部を検証し、その変化から時代特有の様式を見出していくというものです。
「様式の展開」を基軸にした建築史観、美術史観、というべきものだと思います。



【関野の「法隆寺非再建論」「薬師寺金堂・薬師三尊天平新鋳論」も、その時代様式展開観に基づくもの】


関野が、明治30年代に「法隆寺非再建論」を強く主張したのも、この様式観に基づくものです。
当時、一般的には、日本書記の罹災記録を認め再建と考えられていました。

ご存じの通り、法隆寺再建非再建論争は、飛鳥時代当初建築を主張する関野貞の非再建論と、文献史学の雄、喜田貞吉の再建論とが、火花を散らすことから始まり、世紀の大論争と云われるまでにも白熱化していきます。

関野の非再建論の根底にあるものは、建築様式の展開観にありました。

法隆寺(飛鳥時代)→薬師寺・東塔(白鳳時代)→新薬師寺・唐招提寺(奈良時代)

と展開してゆく建築様式を考えると、法隆寺の建築を天智朝(690)以降の再建と見ることは、決して出来ることではなかったのだろうと思います。


仏像の制作時代の考え方も、関野の様式展開史観に基づくものです。

「仏像スケッチ図」に描かれた仏像についての、関野の展開推移考え方は、次の通りです。

法隆寺・薬師如来→法隆寺・釈迦三尊→夢殿・救世観音、法隆寺四天王→薬師寺東院堂・聖観音、橘夫人念持仏(阿弥陀)→法隆寺五重塔・塑像→薬師寺金堂・薬師三尊→東大寺法華堂・不空羂索観音

薬師寺金堂・薬師三尊は薬師寺平城京移転後の天平期の改作、講堂の薬師三尊を白鳳創鋳と論じています。

関野貞「佛像線図」~薬師寺講堂・薬師三尊像
関野貞「佛像線図」~薬師寺講堂・薬師三尊像

このような諸像の年代設定は、今にしてみれば認められないものも多いのですが、関野の様式展開観によると、
「薬師寺金堂・薬師三尊は、天平時代の制作」
というのは、揺るがすことの出来ない処だったのではないでしょうか。



【近代建築史、美術史学揺籃期の様式史研究の一端を知る
~明治中期、早くも細部比較が行われていたことに、大きな驚き】

今回、「関野貞の仏像スケッチ図」を手に入れたことをきっかけに、新しく興味深い事実を知ることができました。

関野貞という学者は、明治という時代に、いわゆる文献史学の分野とは一線を画した、実証的な様式年代観を確立した権威者であると云われています。
そして、明治30年代、奈良在任中に調査した古建築の年代比定が、極めて的確であったことは、今でも驚きを込めて語られています。

こうした関野貞の実証的な様式展開観が、決して概念的なものではなくて、この「仏像スケッチ図」にみられるように、細部の形の精密な観察とその変化の詳細な比較検証に基づいたものであることに、少々、驚きを禁じえませんでした。


たまたま手に入れた、ちょっと珍しい明治時代の「仏像スケッチ図」。

この「スケッチ図」の由来や、作成経緯をたどってゆくなかで、明治の中頃、近代建築史学も美術史学も、まだまだ緒に就いたばかりという時期、時代様式観を確立してゆく取り組みの一端を伺い知ることができました。


関野貞が、我国建築史学、美術史学揺籃期の大功労者、泰斗として語られることについて、今更ながらに、むべなるかなと納得した次第です。


コメント

おひさしぶりに投稿します。
かつて取り上げて居られた勝光寺の菩薩立像、
一気に重要文化財指定です。おめでたいです。
https://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/pdf/92093401_03.pdf

  • 2020/03/19(木) 19:58:40 |
  • URL |
  • ななしさん #-
  • [ 編集 ]

Re: タイトルなし

「ななしさん」様

勝光寺・聖観音像は、長らく無指定の時代から大注目でお気に入りの仏像であっただけに、
今回の重要文化財指定への出世は、感慨ひとしおというか、嬉しき限りです

無指定時代は、客仏だけに自由に拝させていただけ、終わったらお住まいの方へ声掛けという感じで拝ませていただいてましたが、重文指定となると、そうはいかなくなっているのでしょうね

東博の、春の新指定文化財展で観ることができるのが、愉しみです

  • 2020/03/25(水) 09:11:07 |
  • URL |
  • 観仏日々帖 #-
  • [ 編集 ]

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