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観仏日々帖

トピックス~平安時代の双身毘沙門天立像が新発見~奈良博「毘沙門天展」で展示 【2020.02.06】



「平安時代の双身毘沙門天立像、多治見で見つかる」

という仏像発見ニュースが、飛び込んできました。


【初めて耳にした「双身毘沙門天」という名前】


「双身毘沙門天像?」

そんな名前、私は聞いたこともありません。

「双身像」と云えば、聖天と呼ばれる歓喜天ぐらいしか知りません。

それはそれとして、平安時代の古像発見となれば、大変興味深いニュースです。



【平安時代の双身毘沙門天新発見の報道記事~岐阜多治見の長福寺】


この新発見を報じたのは、1月31日付の「中日新聞WEBニュース」です。

次のような記事で報じられました。

「12世紀ごろの平安時代に作られたとみられる銅製の双身毘沙門天立像が、岐阜県多治見市の長福寺で見つかった。
2体の毘沙門天が背中合わせにくっついており、銅製の双身毘沙門天立像の発見は全国で初めてとみられる。

多治見市の長福寺で発見された銅造・双身毘沙門天像(平安)
多治見市の長福寺で発見された銅造・双身毘沙門天像(平安)

奈良国立博物館で2月4日から開催される特別展「毘沙門天-北方鎮護のカミ-」展で展示される。

 仏像は高さ9.9センチで、手で握れるほどの小ささ。かぶとと甲冑を身に着け、片方の像は両手を胸の辺りで合掌し、反対側の像は指先を下にして合掌している。
指先や顔の一部には穴が開いており、もともとあった武器の一種の輪宝や牙が失われたとみられる。

 住職の良盛(ややもり)快正さん(57)によると、5年前に蔵の掃除をしていたところ、古文書などの書類の中に小さな木製の厨子があり、中に古い仏像を見つけた。
来歴を示す文書などはなく、仏像にも作者がだれかを示すものは刻まれていなかった。

数年前に奈良大などに金属組成の分析を依頼したところ、体の部位によって銅が67~86%を占め、他にスズやマンガン、鉄などが混じっていたことが分かった。
しかし江戸時代以降の銅像に含まれる亜鉛が検出されず、それ以前の制作とみられるという結果が出たことから、昨年になって京都国立博物館に正式に調査を依頼した。

仏像を見た同館の浅湫毅研究員は、腰回りの肉付きが良く、豊かな体形であることに着目。
「12世紀の平安時代の特徴的な作りで、史料価値は高い」
と話す。
特別展の企画を担当する岩井共二・奈良国立博物館学芸部情報サービス室長は
「木像の双身毘沙門天立像で存在が分かっているのは5、6体のみで、銅像は全国初。制作時期も最古級と考えられる」
と断言する。

長福寺は1333年ごろに創建された古刹。
武運長久を祈る寺として、美濃を治めた戦国武将、斎藤道三の息子か弟とされる長井道利が祈祷に訪れたという記録が残る。
奈良国立博物館での展示は3月22日まで。」

以上の通りです。


「平安時代の金銅仏像の新発見」

「大変珍しい双身毘沙門天像で、最古級」

といわれると、何やら興味が沸いてきました。



【奈良博「毘沙門天展」では、新発見像ほか、3躯の双身毘沙門天像が出展】


奈良博で開催されている「毘沙門天~北方鎮護のカミ展」に出展されているということですから、「毘沙門天展」に出かける愉しみが、一つ増えました。

「毘沙門天展」の出展目録を見ると、「双身毘沙門天像」という章が設けられて、3躯も出展されています。

奈良博展示・3体の双身毘沙門天像リスト

奈良博の「展覧会ページ」を確認してみると、浄瑠璃寺像と東大寺像の画像と解説が掲載されていました。


〈浄瑠璃寺・馬頭観音像体内から発見された双身毘沙門天像~平安古像〉


浄瑠璃寺・双身毘沙門天像の解説のエッセンスは、次のようかと思います。

本像は、仁治2年(1241)造立の馬頭観音立像(重文)の修理時に像内から発見された。
(明治44年・1911の美術院による修理の時に発見されました。)

浄瑠璃寺・双身毘沙門天像(平安・重文)
浄瑠璃寺・双身毘沙門天像(平安・重文)

像内に双身毘沙門天像が納められていた浄瑠璃寺・馬頭観音像(鎌倉・重文)
像内に双身毘沙門天像が納められていた浄瑠璃寺・馬頭観音像(鎌倉・重文)

腹前上向き合掌と股間下向き合掌の2体の武装形合体像。
この像容は、 双身毘沙門天を本尊とする双身法について記す、阿娑縛抄(巻第137)に則っている。
従来、馬頭観音と同時期制作と考えられてきたが、体型肉取りなどの作風から平安時代後期(12C)に遡ると思われる。


〈後鳥羽院の幕府調伏像か?~近年発見の東大寺・勝敵毘沙門天像〉


東大寺・勝敵毘沙門天立像の解説のエッセンスは、次のようかと思います。

宝塔と宝棒を執る形と羂索と戟を執る形の前後二体の武装天部形。

東大寺・勝敵毘沙門天立像
東大寺・勝敵毘沙門天立像(鎌倉)

像容は、京都・観智院本「仏菩薩等図像」中の図像と一致し「勝敵毘沙門天」の添書きがあることから尊名(勝敵毘沙門天像)が判明する。

制作年代は、作風などから鎌倉時代とみられる。
文献考証によると、後鳥羽院周辺が幕府調伏祈願の「勝軍地蔵像、勝敵毘沙門天像」を造立したことが推定される。
本像も、そうした願意の秘密修法の本尊となる尊像であろう。



【「双身毘沙門天」を“にわか勉強”~あまり見当たらなかった資料】


初めて名前を耳にした「双身毘沙門天像」。
ちょっと関心が沸いてきました。

「仏像図典」(佐和隆研著)をみても、「双身毘沙門天」という尊像名は、掲載されていません。

「双身毘沙門天像」について採り上げられた資料がないかどうか、ちょっとあたってみたのですが、私が調べた限りでは、次の4つの資料だけしか見つかりませんでした。

「金銅双身毘沙門天像立像」  (村田靖子) 大和文華 第94号 1995.09
「東アジアの金銅仏」展図録  (村田靖子解説) 大和文華館 1999.10刊
「双身毘沙門天小像の諸相」  (村田靖子) 「密教図像」第28号 2003.12刊所収
「東大寺・木造双身毘沙門天像」  (岩田茂樹) MUSEUM第665号 2016.12刊所収

全くの、にわか勉強で、いい加減なのですが、「双身毘沙門天像」というのは、次のようなもののようです。



【密教の秘法にかかわる像、数少ない現存作例】


密教による特殊な毘沙門天像に、双身四臂の像があり、最澄将来の台蜜の秘法によるとされるのだそうです。
この双身毘沙門天像は、密教の最神秘の手法である浴油供に用いるため、小像で秘仏であることが多く、また遺例もわずかしか知られていなかったとのことです。

村田靖子氏は、このように記しています。

「僅かに京都浄瑠璃寺と大阪・八尾市の大聖将軍寺の像が知られていた。
奈良・大和文華館にも古くから金銅像があり、近年数点の新たな像の発見が筆者に伝えられ、所蔵者のご好意により調査の機会を得て、国内の20体近くの所在が明らかになった。」
(「双身毘沙門天小像の諸相」2003年)

村田氏の調査により新出像が紹介される20年ぐらい前までは、ほんの数点しか双身毘沙門天像の存在が知られていなかったということでしょうか。
大変、珍しい尊像ということのようです。

今回展覧会出展の、東大寺・木造双身毘沙門天像の存在が明らかになったのも、近年のことだそうです。
2006年、奈良博開催「重源展」の準備調査の時に、東大寺勧進所内の経庫に保管されていたのが発見されたとのことです。



【二つの系統の図像がある双身毘沙門天~双身に造られる訳は?】


この新発見の勝敵毘沙門天像と呼ばれるものと、それまでに知られていた双身毘沙門天像は、図像を異にする別系統のものでした。

両口辺から牙が長く下に出るという特異なスタイルは変わらないのですが、
浄瑠璃寺像に代表される既出作例は、正面背面像共に合掌し、一方は下向き(独鈷を執る)、一方は上向き(金輪を執る)像容です。
勝敵毘沙門天像のほうは、宝塔と宝棒を執る形と、羂索と戟を執る形の二体合体スタイルになっています。

どうして、このような双身の毘沙門天という特異な像容が造られたのでしょうか。

双身の歓喜天像の場合は、男女交合によって妙成就が達成されるという密教思想によるもののようです。
双身の毘沙門天についても、一方を毘沙門天、もう一方を毘沙門の妃とする吉祥天に通じるものとし、両天が密教に取り入れられて、より強い福徳、敬愛神の性格を表すために合体されたとする見方があるようです。
また、それとは別に、この2体は半天婆羅門と多聞天であり、多門天は法性を、半天婆羅門は無明を表し、無明と法性は一対の法であるから背中合わせに立って離れないという違う見方もあるとのことです。

つまみ食いで要約してみたのですが、こうした尊容の意味や図像学的なものは、全く疎くて、また難しすぎて何が何だかわかりません。

とにもかくにも、密教の手法に絡んだ、大変珍しい尊容の像だということには間違ないということは理解できました。



【双身毘沙門天像の現存作例は?
~平安期の最古例は、木像:浄瑠璃寺、銅像:新発見長福寺】

もう一つ、双身毘沙門天像の具体的作例についてです。

中日新聞記事には、

「木像の双身毘沙門天立像で存在が分かっているのは5、6体のみで、銅像は全国初。
制作時期も最古級と考えられる」

との、岩井共二氏のコメントが載せられていました。

一方で、村田靖子氏の「金銅双身毘沙門天像立像」「双身毘沙門天小像の諸相」を読むと、20体近くの所在が明らかになったとし、具体作例としては、14作例が紹介されていました。

その材質の内訳は、木製8件、銅製5件、銀製1件となっていました。
材質と制作年代の件数はご覧の通りです。

双身毘沙門天像作例の件数リスト

村田氏紹介では、銅製像が5件示されていて、
「銅像の双身毘沙門天像は、今回発見の岐阜・長福寺像が、全国初」
という新聞報道コメントとは、ちょっと見方が異なるようですが、私には、難しいことはわかりません。

NETで検索をしてみると、以上の他にも、双身毘沙門天像をお祀りする寺院が、もっとあるようなのですが、そのあたりの話になると、ますますよくわかりません。


村田氏の紹介による、鎌倉時代以前とみられる古像は、次の通りです。
(東大寺・勝敵毘沙門天像(2006年発見)は、未発見当時の話です。)

木製は、
京都府・浄瑠璃寺像(平安~鎌倉)、大阪府八尾市・大聖将軍寺像(鎌倉~室町)

浄瑠璃寺・双身毘沙門天像(平安・重文)八尾市 大聖将軍寺・双身毘沙門天像(鎌倉~室町)
(左)浄瑠璃寺・双身毘沙門天像、(右)八尾市 大聖将軍寺・双身毘沙門天像

銅製は、
岡山県総社市教育委員会像(平安)、大和文華館像(鎌倉~南北朝)

双身毘沙門天とみられる岡山県総社市教育委員会所蔵像(平安)大和文華館所蔵・双身毘沙門天像(鎌倉~南北朝)
(左)双身毘沙門天とみられる岡山県総社市教育委員会所蔵像、(右)大和文華館所蔵・双身毘沙門天像

以上の通りです。

平安期の銅像遺例とされる、岡山県総社市教育委員会の像は、1994年に総社市桜井古墳から発掘されたそうです。
現状は双身ではなく、合掌する手を上に向ける一体のみが円座に立っているのですが、兜と合掌する手などが双身毘沙門天諸像の尊容と類似することから、本像は双身毘沙門天の一方であると判断されるということだそうです。

(なお、「東アジアの金銅仏」展図録解説では、銅製個人蔵像を平安時代とされていたのですが、「双身毘沙門天小像の諸相」では江戸~明治時代の作としておくとされていて、見方が変わっているようです)



【にわか勉強では、なんだかよく判らなかった「双身毘沙門天像」】


「双身毘沙門天像 新発見!」のニュースに反応して、見たことも聞いたこともない「双身毘沙門天像」について、超々にわか勉強をしてみたのですが、結局、何が何だかという感じになってしまいました。

ご覧いただいた皆さんも、「よくわからん」という実感だと思います。

私が理解できたのは、

「双身毘沙門天像」は、密教の秘法儀式にかかわる秘像であること。

勝敵毘沙門天とも称されるように、敵の調伏祈願の尊像として、造立、祈祷されることもあったこと。

遺作例は数少なく、平安~鎌倉期の現存作例は、稀であること。

といったことぐらいでしょうか。


いずれにせよ、「毘沙門天展」で、この興味深い「双身毘沙門天像」を3躯も実見できるというのは、大変愉しみです。

また、展覧会図録には、どのような解説がされているのでしょうか?
これまた、興味津々です。


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あなたの知らない日本史をどうぞ。
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読み通すには一頑張りが必要かも。
読めば日本史の盲点に気付くでしょう。
ネット小説も面白いです。

  • 2020/02/07(金) 12:20:12 |
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