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観仏日々帖

こぼれ話~興福寺仏頭 発見の日はいつか?  〈興福寺仏頭発見物語~付けたり〉 【2017.10.21】


「興福寺仏頭発見の日はいつか?」

こんな表題が、ふと目にとまりました。

「論文検索サイトCiNii」で、他のテーマを検索していたら、偶然に、見つけたのです。
こんな論考があったとは、全く知りもしませんでした。

「どのような話が書かれているのでしょうか?」
「興福寺仏頭が発見されたいきさつは、はっきりしているはずなのに、何をいまさら・・・・」

と、一瞬思いましたが、読まないわけにはいきません。

興福寺仏頭(山田寺旧仏)
興福寺仏頭(山田寺旧仏)

このような論考です。

「研究余禄 興福寺仏頭発見の日はいつか」吉崎瑞光執筆  
奈良美術研究第15号 2014年3月刊所載

早速図書館へ出かけて、読んでみました。

吉崎瑞光執筆「研究余禄 興福寺仏頭発見の日はいつか」
吉崎瑞光氏執筆「研究余禄 興福寺仏頭発見の日はいつか」



【仏頭の本当の発見日は一日違うのか ~10/29か? 10/30か?】


論考の中身は、興福寺仏頭の「本当の発見の日」については、

・新出の興福寺「寺務所日誌」には「昭和12年10月29日」と記載されている。

・従来は、「興福寺東金堂佛頭佛手發見記」(黒田曻義氏執筆)記載の「昭和12年10月30日発見、31日取出し」とされてきた。

「いずれの日が正しいのか、信憑性があるのかを、検討、検証する」というものでした。

「一日違うかどうかなんて、どうでもいいじゃないか!」
「一日違ったところで、興福寺仏頭発見の意義だとか、美術史上の位置づけが、変わったりするのか?」

このようにおっしゃる皆さんも、沢山いらっしゃるのではないかと思います。

そのとおりなのですが、現在、神奈川仏教文化研究所HPに「仏像発見物語」を連載中で、今年7月に「【第6話】興福寺・仏頭(山田寺旧仏) 発見物語」を掲載させていただいたばかりなので、放っておける問題ではありません。

実は、私もHP掲載時に、新出の「寺務所日誌」の日付と、黒田曻義氏執筆「発見記」の日付が相違することに気づいたのですが、そう気に留めはしませんでした。



【新たに明らかになった「興福寺寺務所日誌」の仏頭発見の記載日~10/29】


新出の「寺務所日誌の記録」というのは、2013年9~11月に東京藝大美術館で開催された「国宝興福寺展」に合わせて、興福寺が行った調査によって、初めて明らかになったものだということです。

この「寺務所日誌」の仏頭発見の記録の日付が、「昭和12年10月29日」と記されていたのです。

展覧会開催時の仏頭展公式ホームページ(現在、このHPは抹消され見ることは出来ません)には、この新出の事務所日誌の当該日付部分の画像が掲出され、このような説明が付されていました。

新たに確認された興福寺寺務所日誌の「仏頭発見」の記載(10/29之条)
新たに確認された興福寺寺務所日誌の「仏頭発見」の記載(10/29之条)
2013年開催・仏頭展公式ホームページに掲載


「昭和12年に仏頭が発見された当初は、史実の確認などのため報道は直ちにされず、数日後に報じられた新聞や研究論文などでは、発見された日を10月30日や31日とするものが散見されましたが、本展開催に合わせて興福寺が行った事前調査で、寺の公式記録である寺務所日誌に仏頭が10月29日に発見されたとする記載が残されていることが確認されました。」


吉崎氏は、論考「興福寺仏頭発見の日はいつか」の中で、

「興福寺では、10月29日を『仏頭発見の日』と決められたようである」

と述べ、「本当に10月29日で良いのか」という問題意識で、この論考を執筆されたようです。



【「仏頭発見日」について、語られた資料を振り返る】


「仏頭発見日」に関わる資料の内容についてみながら、吉崎氏の論考のポイントの要約を、ご紹介したいと思います。


仏頭の発見日が、昭和12年(1937)10月30日の夕刻で、翌31日に台座内から取り出したというのは、これまで、疑いのない事実とされていました。



【発見者自ら執筆の「発見記」によると、10/30夕刻に発見】


これは、東寺興福寺東金堂の解体修理を担当し、発見の現場にいた黒田曻義氏が自ら執筆した「興福寺東金堂佛頭佛手發見記」に、はっきりと書かれているからです。

黒田曻義氏執筆「興福寺東金堂佛頭佛手發見記」
黒田曻義氏執筆「興福寺東金堂佛頭佛手發見記」

このように語られています。

黒田曻義氏
黒田曻義氏
「10月30日のそれもタ冷えのする秋の暮色がひそひそと堂内に漂ひ初めた頃であった。
そしてその来迎壁の撤去によって、はしなくも本尊重座内部に、木箱とその上に正面に對って奉安せられた鋳銅の仏頭とを発見したのである。
・・・・・・・・・
翌31日は日曜日であったが、技師も早朝から出て来られ、寺にも通告して総務板橋良玄師、事務長樋口定俊師、信徒総代中村雅眞氏等の立曾いを得て、先づ仏頭を取出した。」

この文章は、昭和12年12月発行の「東洋美術」25号に、「昭和12年11月23日稿」として掲載されたものです。

興福寺仏頭が東金堂薬師像台座下から発見された時の状況
興福寺仏頭が東金堂薬師像台座下から発見された時の状況

自ら発見調査した黒田氏が、その驚きも冷めやらぬ、発見からひと月もたたぬ頃に書かれたものですから、発見日を間違うなどということは、考えられないことだと思われます。



【新たに公開された「興福寺寺務所日誌」には、10/29之条に発見記録が】


ところが、今般、発見日が「昭和12年10月29日」という、興福寺寺務所日誌の記述が発見されたというのです。
仏頭展公式ホームページに掲載された寺務所日誌の画像を見ると、このように記されています。

興福寺寺務所日誌「10/29之条・仏頭発見の記載」
興福寺寺務所日誌「10/29之条・仏頭発見の記載」

「十月二十九日  雨天
目下修繕工事足場取付中ノ東金堂本尊蓋座下ヨリ
旧本尊ノ御首并ニ御首ノ台中唐櫃ノ中ヨリ一尺五寸
位ノ銀ノ御手ヲ発見ス
御首ハ何時代ノ鋳造ナリヤ不明ナレトモ文献ヲ綜合スルニ
治承四年災焼ノ折東金堂衆ニ依テ山田寺ヨリ持
チ来リシモノナラン東金堂本尊ハ山田寺ノモノナリトハ諸
処ニ散見スル所ナリ山田寺最初ノ本尊トスレハ天武天皇
ノ御願ニ依リ石川麿追福ノ為ニ鋳造セラレシモノ也
・・・・・・・・・・」

寺務日誌の「10月29日之条」に記されているのですから、こちらを信用すれば、10月30日ではなくて、一日前の10月29日ということになります。



【発見の後日に書かれたとみられる、寺務所日誌の発見記録~日付相違か?】


仏頭展公式ホームページのコメント作者は、

「発見当初から数日間の鑑定結果を踏まえた形で、後日まとめて詳細に記したと見られ、淡々とした文章ながら、寺内を揺るがす今世紀の発見。であったことが読み取れます」

と、後日、「10月29日付けの記述」がなされたのであろうと推定しています。



【「10/30、仏頭発見の事実は動かず」~吉崎氏の検証の結論】


吉崎氏は、論考において、寺務日誌の記述内容の検討検証を行ったうえで、

「『十月二十九日  雨天』の筆跡と本文の筆跡が、私のような素人でも明らかに異なることがわかるので、29日の記述は、仏頭が旧山田寺本尊であるとの見解が一致したのちに書かれたのであろう」

「恐らく、30日の条に記入すべきものが、29日の条に紛れたものと思わざるを得ない。」

と述べています。

そして、
寺務日誌の日付から、「仏頭発見日を10月29日」とすることは疑問といわざるを得ず、「10月30日発見、翌31日取り出し」とする、当時の修理工事関係者の記録を否定することは不可能だと思われる
と、結論付けています。


また、吉崎氏は、

「10月29日付けの寺務所日誌がいつ頃記入されたと考えられるか?」

という点については、このように述べてています。

「先に紹介した仏頭発見前の足立康の2編の論文や、発見時の関係者の見解が事前に内容を興福寺に開示しているとすれば、11月上旬頃までには、10月29日のような記事ができていたと言うことはなかろうか。」

ここにふれられた、「足立康の2編の論文」というのは、仏頭発見以前に書かれた「興福寺東金堂再建年代考」(「史蹟名勝天然記念物第7集9号・1932.09)と「石川麻呂追福の仏像」(史学雑誌46巻2号・1935)という論文です。
足立康氏は論文で、興福寺東金堂衆が山田寺から薬師三尊像を奪取し東金堂本尊としたことや、その像が蘇我倉山田石川麻呂追福の像であることに言及しています。

吉崎氏は、寺務所日誌の記録者が、この足立説があることを、発見日当日までに既に知っていて、そのように記すことが出来たとは到底思えないと述べ、発見時の関係者の見解が興福寺に示されて以降に、この寺務日誌が書かれたと推定しています。


以上が、「仏頭発見日」に関わる、二つの資料「興福寺東金堂佛頭佛手發見記」「興福寺寺務所日誌」の内容についてと、吉崎瑞光氏の論考「興福寺仏頭発見の日はいつか」の要約ポイントのご紹介です。



【仏頭発見新聞記事に報じられた発見日は?~発見2日後に10/30と報道】


最後に、私が、当時の新聞記事に書かれたことから、確認できたことについて、付け加えさせていただきたいと思います。

まず、仏頭発見日についてです。

「興福寺仏頭の発見」について、初めて新聞報道されたのは、11月2日の夕刊・大阪毎日新聞等々でした。

大阪毎日新聞11月2日夕刊の発見報道記事
大阪毎日新聞11月2日夕刊の発見報道記事

この大阪毎日新聞の記事には、

「去る10月31日その内陣を解体工事中、本尊薬師如来台座の内部に二重の木箱を発見・・・・・」

と書かれています。

また、11月3日付け大阪朝日新聞記事には、

「去月(注:10月)30日内陣の一部を取り除き、本尊薬師如来後方の十二神将の厨子のはめ板を取外したところ本尊台座の中の箱の上に・・・・・・
古びた仏頭一つが載せてあり、翌31日興福寺、社寺課関係者立会裡に箱を開くと・・・・・・・」

と書かれています。

11月3日付け大阪朝日新聞の発見報道記事
11月3日付け大阪朝日新聞の発見報道記事

これは、発見後2日目の新聞記事であり、黒田氏が、後に発見記に記した「30日発見、翌31日取出しというのが記憶相違」ということはあり得ないでしょう。

万が一にもの可能性としては、興福寺サイドが、なんらかの特別の事情で
「29日の発見を、一日遅れの30日として発表するよう要請した。」
ということもありましょうが、これも考えられないことでしょう。



【仏頭の由来も発見記事と同時に報道~「山田寺旧仏、石川麻呂追福の像」~】


もう一つ、興福寺の寺務所日誌の記録者が、発見された仏頭が「山田寺旧仏、蘇我倉山田石川麻呂追福の像」である可能性を、すぐに認識していたのかどうかということです。

大阪朝日新聞11月3日(11/2夕刊?)の発見報道記事
大阪朝日新聞11月3日
(11/2夕刊?)の発見報道記事
11月3日付(11/2夕刊記事か?)の大阪朝日新聞記事には、

「岸古社寺技師、足立康博士らが調査した結果、文治3年に東金堂衆が大挙して山田寺に押し寄せ、講堂から奪取した丈六の薬師如来像の仏頭ではないかと見られるに至った。

この山田寺の薬師堂は、天武天皇が創立者の石川麿御追福のために御寄進あらせられたもので、東金堂に移されその本尊として安置され後に罹災したものである。・・・・・」

と、早くもその伝来について、はっきり記されています。

寺務所日誌の記録者は、発見後すぐ調査関係者からの報告により、「山田寺旧仏、蘇我倉山田石川麻呂追福の像」である可能性を知ることとなったでしょうし、もしかしたら、仏頭発見以前から、この伝来についての話も知っていたかもしれません。



このような新聞報道の記事を振り返ってみても、仏頭の「30日発見、翌31日取出し」の事実は、動くことがないようです。

また、「10月29日付けの寺務所日誌」の事後記入のタイミングについても、発見から数日後もたたぬうちということも、十分考えられるのではないでしょうか。



いずれにしても、冒頭にふれさせていただきましたように、仏頭発見の日が、たった一日違ったところで、何の影響もないと云って差し支えないでしょう。

余りに些細なことにこだわった話でしたが、HP連載「興福寺仏頭発見物語」に関連するテーマとして、紹介させていただきました。


今後、興福寺において、10月29日を「仏頭発見の日」とするようになるとすれば、これから多くの年月を重ねていくうちに「10月29日発見」が、定説、事実として語られていく時が来るのかもしれません。


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