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待ちに待った高田寺の秘仏本尊・薬師如来坐像が御開帳になりました。
この薬師像は50年に一度だけ開扉の厳重秘仏とされているのですが、11/3~6までの4日間、御開帳となったのでした。
【「行基開創時の本尊か?」という見解もある、興味津々の高田寺・薬師像】
私がこの薬師像の存在を知ったのは、もう20年近く前のことだったと思います。
井上正氏が日本美術工芸という雑誌の「古密教彫像巡歴」という連載のなかで、この像を採り上げていたのです。
連載では、井上氏が「制作時期が奈良時代に遡る」と考える、特異な個性や霊威感ある木彫像が紹介されています。
井上正氏は、高田寺の薬師如来像を、
「高田寺が行基により開創されたと伝える、養老2年(720)以来の本尊の仏像ではないか。」
と論じていたのでした。そうだとすると、なんと奈良時代前期に遡る一木彫像だという、驚くべき話になります。
以来、
「これは何としても、一度は直に拝してみたいもの!!」
と思ったのですが、厳重秘仏で長らく拝観が叶わなかったのでした。【待ちに待った、待望の厳重秘仏の御開帳~21年ぶりの特別御開帳】
前回の御開帳は1991年のこと、本堂改修屋根吹替竣工を記念して特別開帳された21年前のことでした。
そして、2020年3月、「高田寺開創1300年記念の特別開帳」が行われることになりました。
待望の高田寺・薬師像の拝観が叶うと、勇んで出かけようとしていた直前のことです。
新型コロナの感染拡大で、御開帳が中止となってしまいました。
その後も延期が続き、この秋、やっとのことで2年半遅れの特別御開帳となったのでした。
まさに、待ちに待って満を持して、高田寺へ出かけたという訳です。
高田寺は、名古屋駅から北へ6~7キロ、北名古屋市高田寺という地名の処にあります。
養老2年(720)に僧・行基によって開かれたと伝える天台宗の古刹です。
御開帳最終日(11/6)に訪ねたのですが、多くのご参拝の方々で結構混み合っていました。
境内には立派な回向柱が立てられています。
【思いの外に「おだやかで落ち着いた」第一印象だった薬師像
~御開帳待ちの間に、膨らみ過ぎていた?期待感】
目指す薬師如来像は、茅葺の立派な本堂(薬師堂:鎌倉~室町・重要文化財)に祀られています。
ご拝観の列に並んで堂内に入ると、内陣中央の立派な厨子のなかに薬師像の姿が見えます。
御厨子からは少し離れた処からのご拝観ではありましたが、念願の薬師像の姿をはっきりと拝することが出来ました。
像高は75.3㎝と、やや小ぶりな坐像です。
カツラ材の一木彫だということです。
お姿を拝した第一印象は、
「おだやかで落ち着いたというか、大人しい感じがする。」
というのが、率直な処でした。写真で見ていたイメージでは、もっと強い存在感とか、迫ってくるものがあるように感じるのではと予想していたのですが、ちょっと意外感がありました。
目鼻立ちや僅かに微笑んだようお顔の表情が、随分穏やかで整ったように見受けられるからなのかもしれません。
また、本像の特色は、衣文の表現がウネウネと執拗なほどに粘っこく、複雑な衣文が密度濃く埋め尽くしている処とみられています。
その衣文表現が、独特の粘着感、躍動感、重厚感を感じさせるというのが見どころなのですが、少し遠目からのご拝観で照明も無かったので、一番のアピールポイントを実感しにくかったこともあるようです。
実物を拝した途端に、強い個性を発散する存在感が、ビシビシと直に伝わってくるものと思っていたのでが、それほどのインパクトを感じることは無く、予想に反してむしろ「大人しく穏やか」という印象を受けたという訳です。
そんな第一印象になってしまったのは、念願の御開帳が延期になってしまい、御開帳を待ちに待っているうちに、どんどん気持ちだけが盛り上がってしまったからなのかもしれません。
直に対面すると、どんなにインパクトを感じることかと、想像と期待に胸をふくらませ過ぎてしまったというのが正直な処なのでしょう。
【不思議な造形の薬師如来像~異なった表現要素が、何故だか同居】
この薬師像、心を落ち着付けて、ジックリそのお姿を拝していると、何とも不思議な造形のように感じます。
制作年代のイメージが掴み難くて、戸惑ってしまうのです。
一番の特徴は、くどくしつこく粘りのある衣文の表現で、衣の先端がウネウネを翻っていることです。
もう一つ、衣文表現の特徴は、木彫像なのに塑像や乾漆像なのではないかと思わせるような造形になっていることです。
木彫像ですから、本来は彫刻的表現(カーヴィング)になるはずなのですが、わざわざ粘塑的表現(モデリング)で造形しているのです。
それも、塑像の表現に近いような重々しい感じがします。
首から下だけを見ていると奈良時代の塑像を見ているようです。
ところが、お顔の方を見ると、卵型の輪郭に細い目鼻立ちで、抑揚の少ない整った顔立ちとなっています。
くどくしつこい衣文の表現とは裏腹の、アクの無い穏やかな顔貌表現で、随分ミスマッチ感があるように思えます。
「しつこい粘着質の衣文表現」「塑像のような粘塑的造形」「穏やかな顔立ち」
これらが同居しているという、何とも不思議な仏像です。
何時頃の制作の像とみたらよいのでしょうか?
【制作年代には、ビックリするほど異なった見方が
~専門家見解も、奈良、平安、鎌倉時代と大きな相違】
実はこの仏像の制作年代については、専門家のなかでも様々な見方があるのです。
なんと
「奈良時代前期」「平安時代前期」「鎌倉時代」
という、ビックリするほどの異なった見解が示されています。「奈良時代前期」というのは、冒頭ご紹介した井上正氏の見解なのですが、この説については後回しにして、平安時代、鎌倉時代とする見解をご紹介したいと思います。
【一番オーソドックスに思われる、平安前期制作という見解
~造形感に加えての特色は、完全一木彫へのこだわり】
まずは、平安時代とする見方です。
薬師如来像は、大正11年に旧国宝に指定され、昭和25年(1950)に重要文化財に指定替えされていますが、「平安時代」として文化財指定されています。
ほぼ完全な一木彫で量感ある造形から、平安時代前期頃の制作とする見方が一番多いようです。
近年では、伊東史朗氏が、
「奈良時代後半を視野に入れた、平安時代前期を中心とする時期の作といえる。」
(「愛知県史別編」文化財3彫刻2013年刊)
との見解を示ししています。(「愛知県史別編」文化財3彫刻2013年刊)
着衣表現が誠に古様で、翻波式衣文や渦文を多用し、立体感を以って深く彫出され、初期一木彫の特徴を遺憾なくうかがわせる像とされています。
加えて、この像は両脚部を別材(横材)で矧ぐのではなく、脚部を含めて一材から彫り出していて、両膝頭部と裳先部だけを別材で寄せているのですが、この別材も縦材を用いているのです。
あくまでもすべてを一材から彫り出した完全な一木彫であることを目指しているようなのです。
新薬師寺・薬師如来像も、脚部などに別材数材を寄せながらも、すべて縦材を用い、巨像を全て一材から彫り出したかのような、一木へのこだわり執着を示しています。
(新薬師寺・薬師像の一材への執着については、観仏日々帖「仏像の手の話⑤」でご紹介していますのでご覧ください。)
伊東氏は、本像が、こうした初期一木彫の「一材へのこだわり」という特色を備えていることからも、奈良時代後半もあり得る平安初期像と考えられるとしています。
平安前期頃の制作と見るのが、現在。一番オーソドックスで、リーズナブルな見方になっているのではないでしょうか。
【クネクネと繁雑な衣文表現を「宋風の影響」と見る、鎌倉時代制作の見解】
次に、鎌倉時代の制作とする見解です。
「師勝の文化財」(1973年刊)の解説では、
「衣褶は一見古調をとどめ、端々にみられる翻転には宋風の影響の煩雑さもあるが、刀法そのものは鋭く、かつ、深い。・・・・・鎌倉時代の特色を示している。
おそらく、本堂建立の時期(註:鎌倉時代末期)に属するものであろう。」
(「師勝の文化財・第1集」1973年師勝町教育委員会刊)
おそらく、本堂建立の時期(註:鎌倉時代末期)に属するものであろう。」
(「師勝の文化財・第1集」1973年師勝町教育委員会刊)
「仏像集成・第2巻」(1992年刊)の解説では、
「衣文は複雑に乱れ、刀法も鋭い。
鎌倉時代に宋風の影響を多少うけて制作された彫像であろう。」
(久野健氏解説「仏像集成・第2巻」1992年学生社刊)
との見解が示されています。鎌倉時代に宋風の影響を多少うけて制作された彫像であろう。」
(久野健氏解説「仏像集成・第2巻」1992年学生社刊)
繁雑で、うねうねクネクネした衣文の表現を、宋風の影響とみて、鎌倉時代の制作と考えるということのようです。
鎌倉時代の像だとすると、
「鎌倉時代に、この大きさの像を寄木造りではなくて、膝前を含めた完全一木彫で造ることはあるのかな?」
というのが、私の素直に気になる点ではあるのですが、専門家でもこれほどに制作年代の見解が分かれる、難しい仏像ということなのでしょう。
【奈良前期、行基時代の本尊とする井上正氏の見解
~奈良時代の古密教系霊威像とする、センセーショナルな主張】
そして極めつけのビックリは、井上正氏の見解です。
井上氏は、本像を、
「奈良時代前期の制作で、高田寺が行基により開創されたと伝える養老2年(720)頃の本尊像ではないか。」
と論じているのです。井上正氏は、
「従来、平安時代の制作とされてきた一木彫像のなかには、奈良時代の制作に遡るものが存在する。
民間布教系の寺院で造立された古密教系の霊威表現像には、そうした作例が見られ、行基開基伝承のある寺院の古像には、行基時代制作の一木彫像と考えられるものも存在する。」
という、美術史の常識をひっくり返すようなセンセーショナルな見解を主張しています。民間布教系の寺院で造立された古密教系の霊威表現像には、そうした作例が見られ、行基開基伝承のある寺院の古像には、行基時代制作の一木彫像と考えられるものも存在する。」
こうした奈良時代前半期に遡る一木彫像の作例として、
金剛山寺・十一面観音像、羽賀寺・十一面観音像、観菩提寺・十一面観音像、東明寺・薬師如来像、海住山寺・十一面観音像
などが挙げられているのですが、高田寺・薬師如来像もその一つであるとしているのです。井上氏の新見解は、芸術新潮1991年1月号「特集~美術史の革命 出現!謎の仏像」や、著作「古仏~彫像のイコノロジー」(1986年法蔵館刊)「続・古仏~古密教彫像巡歴」(2012年法蔵館刊)で、詳しく知ることが出来ます。
【奈良時代前期とする考え方のポイントは?
~奈良時代全盛期の造形表現、新入の密教図像を典拠など】
それでは、井上氏の高田寺像についての見解を、ちょっとだけ見ていきたいと思います。
井上氏が奈良時代前期の像とするポイントを、私流に思い切って纏めると次のようなものかと思います。
・構造は、膝前を含める完全一木彫で、極めて古様である。
・像の肉身部は金銅仏像を思わせる造形表現、着衣部は塑像的な粘塑表現で、木彫仏にこのような表現の移し替えが行われるのは塑像、乾漆像、金銅像全盛期の奈良時代でしかあり得ない。
・小さな目鼻立ち顔の表現は無表情に近く、尋常ではない精神を感じる神秘相と見て取れる。
・重く執拗に流れ、翻転、旋転する特異な衣文表現は、奈良時代の初めに中国からもたらされた新しい密教尊像図像を拠り所にして表現されたものと考えられ、唐代第一と称せられた画家、呉道玄の風動表現を想像されるものがある。
こうした諸点を総合すると、奈良時代の制作像で行基開創時代の像とみてもおかしくないと考えられるとしているのです。
(「愛知高田寺薬師如来坐像について」学叢6号1984、「続古佛~古密教彫像巡礼」法蔵館2012年刊に詳しく論じられています。)
ちょっと大胆過ぎて、私などにはついていけない感じもあるのですが、大変鋭い視点からの指摘に、強く惹き込まれるものがあります。
【顔貌の表現は、当初の神秘相か?後世の修理によるものか?】
なお、井上氏が神秘相としている顔貌の表現については、伊東史郎氏は頭部と体部が後世に切り離されていると見られ、
「面部表面が修理されているので、細い目・鼻や薄い唇といった時代の下降を示唆する面相は参考程度」
と述べています。いずれが正しいのか判りませんが、伊東氏の見解の方が、お顔と体部の表現のミスマッチ感が説明できるように思います。
【特異な衣文の表現は、呉道玄流「呉帯当風」?
~新来の密教図像を典拠にした翻転・旋転する風動表現】
最後に、井上氏が想起されるという「呉道玄流の風動表現」について、ちょっとふれておきたいと思います。
井上氏は、薬師像の
「粘っこく執拗に密集した衣文、うねうねと翻る衣文、渦を巻く衣文」
に、とりわけ注目しました。この尋常でないような特異な衣文表現の意味と淵源について、次のように想定しています。
・この衣文表現は、8世紀前半中国で流布した、2種の初期密教尊像図像が典拠になっていると思われる。
・蜜に並行する衣文、翻転・旋転する衣文は「求問持法根本尊図像」(醍醐寺蔵)に、左脇下の縦長の渦巻き表現衣文は「胎蔵図像」(奈良博蔵)の図像にそれぞれ描かれる、特異な衣文スタイルに共通するものが見いだされる。
・こうした特異な表現は、内面の強い精神性、即ち「気」の発する精神形象の表現と云えるもので、その淵源は「呉帯当風」と評され唐代第一と称された、奇才呉道玄の画風に求められる。
以上のようなことから、
「新式の密教尊像として、養老4年高田寺像が造立されることはあり得ることであろう。
高田寺像にみる異様な表現は、当時のもっとも斬新な密教尊像のかたちを物語っているように思われるのである。」
(「愛知高田寺薬師如来坐像について」学叢6号1984)
と、結論付けられています。高田寺像にみる異様な表現は、当時のもっとも斬新な密教尊像のかたちを物語っているように思われるのである。」
(「愛知高田寺薬師如来坐像について」学叢6号1984)
【「気」の発露が可視化された、呉道玄流の風動表現「呉帯当風」
~高田寺像は、我国の最初期の作例】
呉道玄という名前をご存じでしょうか?
中国絵画に全く疎い私には、唐代第一と称せられた大画家という話程度しか知らないのですが、この呉道玄の「呉帯当風」と評された風動表現が、高田寺・薬師像の特異な衣文表現の淵源ではないかと井上氏は論じているのです。
「呉帯当風」というのは、呉道玄が描いた人物の衣装の画法のことで、
「曲転する線で、衣服が風にたなびき舞う様子」
を、そう称するのだそうです。呉道玄の真蹟は現在残っていなので、どんな描き方なのかは正しく知ることは出来ませんが、井上氏は、薬師寺・吉祥天画像、法華寺・十一面観音像、宝菩提院・菩薩半跏像などに、この「呉帯当風」の風動表現が伝えられていると考えています。
この風動表現というのは、本当に風が吹いてたなびいているのではなくて、「気」の発露を可視化したもので、髪、天衣、裳、帯など,風によって動くことのできるすべてを用いて「気」を表現したものなのだそうです。
あの法華寺・十一面観音像の風になびく着衣、反転して翻る天衣や、宝菩提院・菩薩半跏像のしつこいほど粘って翻転する衣文表現は、不可思議な霊気や心惹きつける魅力を感じさせますが、それこそが呉道玄流の「気」の風動表現によるものだそうです。
そして、唐からこの表現が日本に伝わった最初期のものが、高田寺・薬師像の特異な衣文表現と考えられると論じています。
ちょっと長ったらしくなってしまいましたが、井上正氏が高田寺・薬師像を奈良前期の制作とし、その特異な衣文表現の意味や淵源をどのように考えたかという話をご紹介しました。
なかなか興味深い視点からの見解で、興味津々という処です。
皆さんは、どのように感じられたでしょうか。
【なかなか難しい、高田寺・薬師像の特異な造形表現の考え方
~一番わかりやすい、平安前期の伝統的奈良様との混交作例との見方】
高田寺の薬師像の特異な造形表現をどのように考えるかというのは、それだけ難しく、悩ましいものがあるということなのだと思います。
私などには、難しいことは判りませんが、本像の制作時期について、奈良時代前期に、わざわざ遡らせることをしなくても、
「平安前期に、伝統的奈良様の粘塑的表現と、新しいムーブメントの造形表現スタイルが同居、混交する形でつくられた一つの作例」
と考えた方が、スッキリと判りやすいように思えるのですが・・・・・・念願の、高田寺の秘仏本尊・薬師如来像を、とうとう拝することが出来ました。
そして、今更ながらに、不思議な造形の仏像であることに思いを致すことが出来ました。
御開帳では、遠目からのご拝観で、特異な衣文表現など強い個性や存在感を、十分実感できなかったのは残念だったのですが、長きにわたり何とか一度はその姿を拝してみたいと念じていた厳重秘仏をこの眼でしっかりと観ることが出来たというだけで、満足感一杯という処でした。
50年に一度の開扉ですから、
「もう一度薬師像を拝する機会は、もう来ないのかな?」
という思いをいだきながら、まだまだ参拝の人々で混み合う高田寺を後にしました。~観仏日々帖【目次】はこちら~