5.天龍山石窟の盗鑿、石仏海外流出と山中商会
【徹底的に盗鑿され、無残な姿になった天龍山石窟】
天龍山石窟の石仏像は、徹底的な盗鑿に遭い、日本と欧米に流出してしまいました。
21ある石窟の石仏のほとんどが被害に遭っており、ことに石仏の首、即ち仏頭は悉く削り取られ、見るも無残な姿になっています。
こうした石窟の盗鑿は、1923年から24年(大正12~13年)頃にかけて、一番大規模に行われたと見られています。
この頃、1920年代から30年代は、中国の混乱期に乗じ、中国文化財の大量の海外流出が起こった時期でした。
石窟美術もそのターゲットとされ、なかでも目を覆うばかりの破壊を蒙ったのが、龍門石窟と天龍山石窟でした。
関野貞の天龍山石窟発見の時期が、中国文化財の略奪的な大量海外流失のタイミングに遭遇したことは、ある意味不幸であったとも云えるのかもしれません。
【写真集「天龍山石窟」の発刊(1922)が、石仏盗鑿の一つの契機に】
関野の発見まで、全くその存在を知られていなかった天龍山石窟であったのですが、
「天龍山石窟を日本人研究者が発見したという事実を、内外に広く知らしめたい。」
という機運が大きく盛り上がりました。そして、豪華写真集「天龍山石窟」が1922年(大正11)に刊行され、美麗な石窟彫刻の存在が、国内のみならず欧米にも広く知れ渡るようになったことは、前回ご紹介した通りです。
このことが、また石仏盗鑿の大きな契機の一つになってしまったのでした。
写真集「天龍山石窟」の刊行が、未知の天龍山石窟の存在を世に知らしめ、凄まじいまでの石仏盗鑿の引き金となってしまうという、何とも皮肉で、割り切れない結果を招くことになってしまったのかもしれません。
関野貞自身も、このように語っています。
「(註:自身が天龍山石窟を発見して後)忽ち世の注意を惹き内外の学者の往訪者益多く、石窟に施されし彫刻の美に驚殺され、之を讃仰歎美するの声は愈々高くなった。
無知の土民これを奇貨とし、其の佛菩薩の頭部を破壊し去りて、之を外人に售(う)るの悪習を生じ、石窟内外幾百の佛頭は忽ちにして烏有に帰するに至った。」
(山中定次郎「天龍山石仏集」(1928)の関野貞執筆序文)
【多くの天龍山石仏を日本、欧米にもたらした、世界的古美術商「山中商会」】
この盗鑿された天龍山石仏を、日本、欧米に数多くもたらしたのは、「世界的古美術商・山中商会」でした。
現在、百数十点の天龍山石窟石仏が、日本、欧米の博物館などに所蔵されていますが、その多くは山中商会の手を経て、コレクターに渡ったものと云われています。
古美術商「山中商会」の名は、よくご存じのことと思います。
東洋美術を扱う世界的古美術商として、明治30年代には、早くもニューヨーク・ボストン・ロンドン・シカゴ・北京などに支店を置くなど、明治年間から昭和初期戦前まで隆盛を極めました。
中国美術を最も得意とし、中国文物の取り扱いでは他の追随を許しませんでした。
そういった意味では、中国古美術品の海外流出にもっとも大きな役割を果たした美術商ということになるのでしょう。
山中商会は、興隆の立役者であった山中定次郎の死後(1936・S11)、日中戦争の泥沼化、日米開戦などにより海外資産を失うこととなり、戦後は中国からの文物将来の道も閉ざされ衰微の途をたどることとなりました。
(山中商会の歴史、山中定次郎の業績などについては、朽木ゆり子氏著「ハウス・オブ・ヤマナカ~東洋の至宝を欧米に売った美術商」(2011年新潮社刊)に、大変詳しく述べられています。)
【天龍山石窟に傾倒し「天龍山仏蹟石窟踏査記」を叙した山中定次郎
~二度の天龍山石窟訪問】
この山中商会が、天龍山石仏を数多く扱うことになるのですが、それには社主の山中定次郎の天龍山石窟への傾倒ぶりが、随分関わっているようです。
山中定次郎は、1924年(大正13年)の6月と、1926年(大正15年)10月の2回に亘って、天龍山石窟を訪れ、自ら丹念に各石窟の調査を行っています。
そして、その訪問調査記を 「山西省天龍山仏蹟石窟踏査記」 (1928・S3刊)と題し、自費出版しました。
(この踏査記は、山中定次郎没後に刊行された「山中定次郎傳」(1939年・S14刊)に収録されています。)
また、入手した盗鑿流出仏頭など45点の写真を掲載した 「天龍山石仏集」 (1928・S3刊)を刊行しています。
【盗鑿された石仏首を自ら探し求め、数多く買集めたと語る山中定次郎】
山中定次郎は、この2著で、
初めて天龍山石窟を訪ねた時、その素晴らしさに驚き感銘した石仏像群が、2年後に再訪したときには、幾体となく仏首が掻き落されているのを発見し、痛切な哀感を覚えた。
そこで、盗鑿された仏首を各所で探し求め発見し、やっと数十個を集めることが出来た。
旨を語っています。
そのあたりの処を、「山西省天龍山仏蹟石窟踏査記」序文の抜き書きで、見てみたいと思います。
初回の天龍山石窟訪問(1924年・大正13年)についての感動を、このように綴っています。
「見るからに仏教美術の一大殿堂であって、久しく憧れていた私の心は驚異と喜悦とに満たされ、取るものも取り敢えず直に懐中電灯を以って、一物も剰すなく隅から隅まで幾回となく、繰り返して之を看た・・・・」
そして、1926年(大正15年)に再訪したときの有様については、
「その後、愛慕の念尚止み難く・・・第2回の天龍山探求をなしたが、
・・・・
第一回の時には慥(たしか)にあった筈のある佛が痛ましくも、その麗しい御首を、何者かに掻き落され見るも気の毒な姿で淋しく並んで居るのを幾體となく発見した。
・・・・・
かかる名作に対し、不埒にも斯うした惨虐な行為を敢えてした者を憎まずには居られなかった。」
と、たった2年のうちに、数多くの盗鑿がなされたことへの嘆きが語られています。
そして、自ら探し求めて、盗鑿された石仏首を集めたとして、
「その首を求めて歩いたのであったが、私のこうした心が通じたといふのか、ある佛の首を東で求め、ある佛の首を西で発見し、随分かけ離れた土地で、忘れんとして忘れ得ぬ、その馴染み深い石佛の首を発見したのであった。
・・・・・
斯かる思いをつづけて漸く今数十の麗しい首を集め得たが、尋ぬるものを獲た欣びを深く感じ・・・・・この天龍山紀行をものし、私の記念塔とすることにした。」
と語り、このようにして数十個の仏首を入手したと語っています。
【山中収集の石仏首を収録した、写真集図録「天龍山石仏集」(1928)】
「天龍山石仏集」は、山中定次郎が探し求めたという盗鑿石仏首、45点を収録した写真集です。
「天龍山の記」と題する、山中定次郎の各窟踏査録が附されています。
本写真集は、一方では、美術商としての石仏販売用図録の意味合いを持つものであったようです。
また、山中商会では、この「天龍山石仏集」掲載の石仏の他にも、多くの天龍山石仏を扱い、主催の「展観」などを通じて販売しています。
【山中商会と天龍山石窟盗鑿との関わりは?
~現代中国では、山中商会が盗鑿先導の張本人と指弾】
山中定次郎は、何者かに盗鑿された石仏首が散逸するのが忍びなく、義侠心的なものから買い集めたのだと語っていますが、この話が、その通りなのか、実の処は「創られたストーリー」なのかは、議論のある処なのかもしれません。
今日の中国では、山中商会、山中定次郎が、盗掘人を先導して天龍山石仏を盗鑿させたもので、天龍山石窟の破壊、略奪的流出の張本人であると、厳しく指弾されています。
今になってしまえば、いずれが真実なのかは闇の中ということなのかもしれませんが、多くの天龍山石仏が、山中商会の手を経て海外に流出し、コレクターなどに売り捌かれたというのは間違いのない事実です。
あれだけ多くの天龍山石窟石仏を扱った山中商会が、石窟の盗鑿と全く関わりがないということは、考えられないことだと思います。
ただ、山中商会が、単なる商売上の儲けという欲得の為だけに、ブローカーとして天龍山石仏を盗鑿させたとは、一概に思えないような気もします。
山中の叙した「山西省天龍山仏蹟石窟踏査記」「天龍山石仏集」の訪問調査記を読んでいると、天龍山石仏へ寄せる思い入れ、心からの愛着を感じてしまうのも、正直な処です。
天龍山石窟への傾倒と、美術商としての立場とが、ないまぜになった複雑なものを感じないでもありません。
【山中商会主催「展観」で、売りに出された「天龍山石仏集」掲載石仏首(1928)】
「天龍山石仏集」に掲載された石仏首などは、1928年(昭和3年)に山中商会が大阪美術倶楽部で開催した「支那古陶金石展観」に展示、販売されました。
山中商会では、「展観」と呼ぶ収集古美術品の展覧会をしばしば催し、多くの人が入場できる展示会且つ、コレクター向け販売会としていましたが、「支那古陶金石展観」もその一つです。
ここに、天龍山石窟石仏が一挙に45点展示されました。
展観目録・図録の冒頭には、
「天龍山石窟のコレクションの如きは、本展覧会出品中の最も誇りとすべき處のものにして、・・・・・・
彼の、天龍山石窟を茲に移した観のある此のコレクション・・・・・」
と記されていて、展覧の大目玉となったようです。
【石仏大量流出への憤り、哀しみを綴った木下杢太郎
~「展観」を題材にした小篇「売りに出た首」】
この「支那古陶金石展観」は、随分話題になったようで、志賀直哉の短編「万暦赤絵」(1933.09中央公論所載・単行本1936年中央公論社刊)の題材とされていますし、木下杢太郎は「売りに出た首」(美術雑誌アルト1928.12所載・単行本1949年角川書店刊)と題する随筆小篇を発表しています。
木下杢太郎は、木村荘八と共に、天龍山石窟発見後、早くも1920年(大正9年)に当地を訪れている人物です。
「売りに出た首」という表題は、まさに展観に山中商会が天龍山石仏を一括で売りに出したことを指しています。
小篇には、このように語られています。
「四十五個といへば、天龍山の彫刻像のほとんど全部と云って良い。
かうも一つの手に全部揃ったことは蒐集者の非常な努力と謂ふべく、せめてそれが散らばらないで、一つの国民的の博物館に集められて欲しいことだ。
然しこの一面には、支那現地に於て計画的な略奪が行われたという疑を起こすことも出来る。
・・・・・・
木村君、僕は極めて平静に以上の記を作った。
然し心の中には怨恨の如き、憤懣の如き、いろいろの感情が回転してゐるといふことは、嘗て倶(とも)にあの山に登った君の無論直ぐ感づいてくれるだろうと思ふ。」
天龍山石仏の大量流出への、木下杢太郎の憤りの混じった哀しみ、割り切れない心情が語られています。
そして、その散逸を懸念しています。
【「展観」展示の石仏40数点を、一括して買い取った根津嘉一郎】
この売りに出た天龍山石仏コレクションは、どうなったのでしょうか?
実は、根津嘉一郎が、これらの石仏を一括して全部買い取りました。
根津嘉一郎は東武鉄道の経営など「鉄道王」と呼ばれた実業家で、有数の古美術コレクターとして知られた人物です。
コレクションの多くは、現在、根津美術館に所蔵されています。
山中商会では、この天龍山石仏をアメリカへの売却する事が考えられていたようです。
根津嘉一郎は、
「このような古代の貴重品が海外へ流出するのは残念だと思い、其の時そっくり買い取って、爾来十年間、私の家に収蔵しておいた」
(根津嘉一郎著「世渡り体験談」実業之日本社1938年刊)
と、回顧しています。(根津嘉一郎著「世渡り体験談」実業之日本社1938年刊)
根津が購入したのは46点とされており、その後、昭和4年(1929)の「月光殿 大師会」や、昭和6年(1931)の「美術協会展」などに、一括して展示されたりしているようです。
(「大師会」というのは、三井物産の創始者で、数奇者、大コレクターの益田鈍翁が主催創始した、大茶会のことです。)
山中商会では、その後主催した「世界古美術展」(昭和7年・1932)や「支那朝鮮古美術大展覧会」(昭和9年・1934)にも、天龍山石仏を多数展示しています。
「支那古陶金石展観」(昭和3年・1928)以降も、多くの天龍山石窟から流出した石仏を扱っていることが見て取れます。
【欧州6ヶ国に、30点の天龍山石仏を寄贈した根津嘉一郎(1937)】
根津嘉一郎の手に渡った天龍山の石仏は、その後どうなったのでしょうか。
根津は、昭和12年(1937)に、これらの石仏の多くを、国際親善のため西欧の6ヶ国に寄贈しました。
この寄贈について根津は、こう語っています。
「私は先年、支那天龍山の石仏の首を42個蒐集したが、今度感ずるところがあって、美術親善のためそのうちの数個を、欧羅巴(ヨーロッパ)の五、六ヶ国に贈呈した。
・・・・・
併し、私は国際親善の一つとしては、貴重な美術品を役立てる事も、強ち意義の無い事ではないと信じて、その石佛の首を各国に贈呈した次第である。」
(根津嘉一郎著「世渡り体験談」実業之日本社1938年刊)
昭和12年と云えば、前年に日独防共協定が成立し、7月に盧溝橋事件が勃発、日中戦争がはじまった時期です。
西欧諸国との国際関係が緊張していく中、このような美術親善が企図されたのかもしれません。
当時の新聞でも、この石仏寄贈について、
「秘境の逸品 三十個を 国際親善に提供 愛好者垂涎の古代石佛の首 根津翁 太っ腹の発心~国民外交に朗報」
(昭和12年・1937年3月27日付 東京朝日新聞朝刊)
という見出しで、大きく報道されています。
新聞記事によれば、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、オランダ、スウェーデンの6ヶ国に、それぞれ仏首5個ずつ、計30個が寄贈されることになったということです。
この時、併せて、東京帝室博物館にも4個が寄贈されたと報じられています。
(現在の、東京国立博物館所蔵の天龍山石窟石仏は7点ですが、寄贈者が「根津嘉一郎」と記されているのは3点となっています。)
なお、現在、根津美術館には、7点の天龍山石仏仏首が所蔵されています。