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観仏日々帖

こぼれ話~天龍山石窟の発見と石仏流出物語〈その4〉 【2021.02.27】


5.天龍山石窟の盗鑿、石仏海外流出と山中商会


【徹底的に盗鑿され、無残な姿になった天龍山石窟】


天龍山石窟の石仏像は、徹底的な盗鑿に遭い、日本と欧米に流出してしまいました。

21ある石窟の石仏のほとんどが被害に遭っており、ことに石仏の首、即ち仏頭は悉く削り取られ、見るも無残な姿になっています。

226天龍山石窟④:盗鑿された現在の天龍山石窟(第18窟)

226天龍山石窟④:盗鑿された現在の天龍山石窟(第20窟)

226天龍山石窟④:盗鑿された現在の天龍山石窟(第21窟)
盗鑿された現在の天龍山石窟の有様
(上段)第18窟、(中段)第20窟、(下段)第21窟


こうした石窟の盗鑿は、1923年から24年(大正12~13年)頃にかけて、一番大規模に行われたと見られています。

この頃、1920年代から30年代は、中国の混乱期に乗じ、中国文化財の大量の海外流出が起こった時期でした。
石窟美術もそのターゲットとされ、なかでも目を覆うばかりの破壊を蒙ったのが、龍門石窟と天龍山石窟でした。

関野貞の天龍山石窟発見の時期が、中国文化財の略奪的な大量海外流失のタイミングに遭遇したことは、ある意味不幸であったとも云えるのかもしれません。



【写真集「天龍山石窟」の発刊(1922)が、石仏盗鑿の一つの契機に】


関野の発見まで、全くその存在を知られていなかった天龍山石窟であったのですが、
「天龍山石窟を日本人研究者が発見したという事実を、内外に広く知らしめたい。」
という機運が大きく盛り上がりました。

そして、豪華写真集「天龍山石窟」が1922年(大正11)に刊行され、美麗な石窟彫刻の存在が、国内のみならず欧米にも広く知れ渡るようになったことは、前回ご紹介した通りです。
このことが、また石仏盗鑿の大きな契機の一つになってしまったのでした。

226天龍山石窟④:「天龍山石窟」(1922年刊)
写真集「天龍山石窟」(1922年刊)

写真集「天龍山石窟」の刊行が、未知の天龍山石窟の存在を世に知らしめ、凄まじいまでの石仏盗鑿の引き金となってしまうという、何とも皮肉で、割り切れない結果を招くことになってしまったのかもしれません。

関野貞自身も、このように語っています。

(註:自身が天龍山石窟を発見して後)忽ち世の注意を惹き内外の学者の往訪者益多く、石窟に施されし彫刻の美に驚殺され、之を讃仰歎美するの声は愈々高くなった。

無知の土民これを奇貨とし、其の佛菩薩の頭部を破壊し去りて、之を外人に售(う)るの悪習を生じ、石窟内外幾百の佛頭は忽ちにして烏有に帰するに至った。」
(山中定次郎「天龍山石仏集」(1928)の関野貞執筆序文)



【多くの天龍山石仏を日本、欧米にもたらした、世界的古美術商「山中商会」】


この盗鑿された天龍山石仏を、日本、欧米に数多くもたらしたのは、「世界的古美術商・山中商会」でした。

現在、百数十点の天龍山石窟石仏が、日本、欧米の博物館などに所蔵されていますが、その多くは山中商会の手を経て、コレクターに渡ったものと云われています。

古美術商「山中商会」の名は、よくご存じのことと思います。
東洋美術を扱う世界的古美術商として、明治30年代には、早くもニューヨーク・ボストン・ロンドン・シカゴ・北京などに支店を置くなど、明治年間から昭和初期戦前まで隆盛を極めました。

226天龍山石窟④:山中商会・ニューヨーク支店(外観)

226天龍山石窟④:山中商会・ニューヨーク支店(店内)
山中商会・ニューヨーク支店~外観と店内
「ハウス・オブ・ヤマナカ」掲載写真


中国美術を最も得意とし、中国文物の取り扱いでは他の追随を許しませんでした。
そういった意味では、中国古美術品の海外流出にもっとも大きな役割を果たした美術商ということになるのでしょう。
山中商会は、興隆の立役者であった山中定次郎の死後(1936・S11)、日中戦争の泥沼化、日米開戦などにより海外資産を失うこととなり、戦後は中国からの文物将来の道も閉ざされ衰微の途をたどることとなりました。

226天龍山石窟④:山中定次郎
山中定次郎(1866~1936)


(山中商会の歴史、山中定次郎の業績などについては、朽木ゆり子氏著「ハウス・オブ・ヤマナカ~東洋の至宝を欧米に売った美術商」(2011年新潮社刊)に、大変詳しく述べられています。)

226天龍山石窟④:朽木ゆり子著「ハウス・オブ・ヤマナカ」(2011年刊)
朽木ゆり子著「ハウス・オブ・ヤマナカ」(2011年刊)


【天龍山石窟に傾倒し「天龍山仏蹟石窟踏査記」を叙した山中定次郎
~二度の天龍山石窟訪問】

この山中商会が、天龍山石仏を数多く扱うことになるのですが、それには社主の山中定次郎の天龍山石窟への傾倒ぶりが、随分関わっているようです。

山中定次郎は、1924年(大正13年)の6月と、1926年(大正15年)10月の2回に亘って、天龍山石窟を訪れ、自ら丹念に各石窟の調査を行っています。
そして、その訪問調査記を 「山西省天龍山仏蹟石窟踏査記」 (1928・S3刊)と題し、自費出版しました。

(この踏査記は、山中定次郎没後に刊行された「山中定次郎傳」(1939年・S14刊)に収録されています。)

226天龍山石窟④:「山中定次郎傳」(1939年刊)

226天龍山石窟④:「山西省天龍山仏蹟石窟踏査記」山中定次郎傳1939年刊所収
「山中定次郎傳」(1939年・S14刊)と、本書所収の「山西省天龍山仏蹟石窟踏査記」ページ


また、入手した盗鑿流出仏頭など45点の写真を掲載した 「天龍山石仏集」 (1928・S3刊)を刊行しています。



【盗鑿された石仏首を自ら探し求め、数多く買集めたと語る山中定次郎】


山中定次郎は、この2著で、

初めて天龍山石窟を訪ねた時、その素晴らしさに驚き感銘した石仏像群が、2年後に再訪したときには、幾体となく仏首が掻き落されているのを発見し、痛切な哀感を覚えた。
そこで、盗鑿された仏首を各所で探し求め発見し、やっと数十個を集めることが出来た。

旨を語っています。

そのあたりの処を、「山西省天龍山仏蹟石窟踏査記」序文の抜き書きで、見てみたいと思います。

初回の天龍山石窟訪問(1924年・大正13年)についての感動を、このように綴っています。

「見るからに仏教美術の一大殿堂であって、久しく憧れていた私の心は驚異と喜悦とに満たされ、取るものも取り敢えず直に懐中電灯を以って、一物も剰すなく隅から隅まで幾回となく、繰り返して之を看た・・・・」

226天龍山石窟④:天龍山石窟を訪ねた山中定次郎

226天龍山石窟④:天龍山石窟を訪ねた山中定次郎
天龍山石窟を訪ねた山中定次郎
(上)「天龍山石仏集」所載写真、(下)「山中定次郎伝」所載写真


そして、1926年(大正15年)に再訪したときの有様については、

「その後、愛慕の念尚止み難く・・・第2回の天龍山探求をなしたが、
・・・・
第一回の時には慥(たしか)にあった筈のある佛が痛ましくも、その麗しい御首を、何者かに掻き落され見るも気の毒な姿で淋しく並んで居るのを幾體となく発見した。
・・・・・
かかる名作に対し、不埒にも斯うした惨虐な行為を敢えてした者を憎まずには居られなかった。」

と、たった2年のうちに、数多くの盗鑿がなされたことへの嘆きが語られています。

そして、自ら探し求めて、盗鑿された石仏首を集めたとして、

「その首を求めて歩いたのであったが、私のこうした心が通じたといふのか、ある佛の首を東で求め、ある佛の首を西で発見し、随分かけ離れた土地で、忘れんとして忘れ得ぬ、その馴染み深い石佛の首を発見したのであった。
・・・・・
斯かる思いをつづけて漸く今数十の麗しい首を集め得たが、尋ぬるものを獲た欣びを深く感じ・・・・・この天龍山紀行をものし、私の記念塔とすることにした。」

と語り、このようにして数十個の仏首を入手したと語っています。



【山中収集の石仏首を収録した、写真集図録「天龍山石仏集」(1928)


「天龍山石仏集」は、山中定次郎が探し求めたという盗鑿石仏首、45点を収録した写真集です。

226天龍山石窟④:「天龍山石仏集」(1928年刊)
「天龍山石仏集」(1928年刊)

226天龍山石窟④:「天龍山石仏集」収録写真

226天龍山石窟④:「天龍山石仏集」収録写真

226天龍山石窟④:「天龍山石仏集」収録写真
「天龍山石仏集」収録されている石仏首写真等

「天龍山の記」と題する、山中定次郎の各窟踏査録が附されています。
本写真集は、一方では、美術商としての石仏販売用図録の意味合いを持つものであったようです。
また、山中商会では、この「天龍山石仏集」掲載の石仏の他にも、多くの天龍山石仏を扱い、主催の「展観」などを通じて販売しています。



【山中商会と天龍山石窟盗鑿との関わりは?
~現代中国では、山中商会が盗鑿先導の張本人と指弾】

山中定次郎は、何者かに盗鑿された石仏首が散逸するのが忍びなく、義侠心的なものから買い集めたのだと語っていますが、この話が、その通りなのか、実の処は「創られたストーリー」なのかは、議論のある処なのかもしれません。

今日の中国では、山中商会、山中定次郎が、盗掘人を先導して天龍山石仏を盗鑿させたもので、天龍山石窟の破壊、略奪的流出の張本人であると、厳しく指弾されています。

今になってしまえば、いずれが真実なのかは闇の中ということなのかもしれませんが、多くの天龍山石仏が、山中商会の手を経て海外に流出し、コレクターなどに売り捌かれたというのは間違いのない事実です。
あれだけ多くの天龍山石窟石仏を扱った山中商会が、石窟の盗鑿と全く関わりがないということは、考えられないことだと思います。

ただ、山中商会が、単なる商売上の儲けという欲得の為だけに、ブローカーとして天龍山石仏を盗鑿させたとは、一概に思えないような気もします。
山中の叙した「山西省天龍山仏蹟石窟踏査記」「天龍山石仏集」の訪問調査記を読んでいると、天龍山石仏へ寄せる思い入れ、心からの愛着を感じてしまうのも、正直な処です。
天龍山石窟への傾倒と、美術商としての立場とが、ないまぜになった複雑なものを感じないでもありません。



【山中商会主催「展観」で、売りに出された「天龍山石仏集」掲載石仏首(1928)


「天龍山石仏集」に掲載された石仏首などは、1928年(昭和3年)に山中商会が大阪美術倶楽部で開催した「支那古陶金石展観」に展示、販売されました。

226天龍山石窟④:山中商会主催「支那古陶金石展観」目録(1928)
山中商会主催「支那古陶金石展観」目録(1928)

山中商会では、「展観」と呼ぶ収集古美術品の展覧会をしばしば催し、多くの人が入場できる展示会且つ、コレクター向け販売会としていましたが、「支那古陶金石展観」もその一つです。
ここに、天龍山石窟石仏が一挙に45点展示されました。

226天龍山石窟④:「支那古陶金石展観」目録に所載されている天龍山石仏写真
「支那古陶金石展観」目録に所載されている天龍山石仏写真
見出しに「天龍山石佛 四十五個ノ内」と記される


展観目録・図録の冒頭には、

「天龍山石窟のコレクションの如きは、本展覧会出品中の最も誇りとすべき處のものにして、・・・・・・
彼の、天龍山石窟を茲に移した観のある此のコレクション・・・・・」

と記されていて、展覧の大目玉となったようです。



【石仏大量流出への憤り、哀しみを綴った木下杢太郎
~「展観」を題材にした小篇「売りに出た首」】

この「支那古陶金石展観」は、随分話題になったようで、志賀直哉の短編「万暦赤絵」(1933.09中央公論所載・単行本1936年中央公論社刊)の題材とされていますし、木下杢太郎は「売りに出た首」(美術雑誌アルト1928.12所載・単行本1949年角川書店刊)と題する随筆小篇を発表しています。

226天龍山石窟④:木下杢太郎著「売りに出た首」(1949年刊)226天龍山石窟④:木下杢太郎
木下杢太郎著「売りに出た首」(1949年刊)と木下杢太郎

木下杢太郎は、木村荘八と共に、天龍山石窟発見後、早くも1920年(大正9年)に当地を訪れている人物です。
「売りに出た首」という表題は、まさに展観に山中商会が天龍山石仏を一括で売りに出したことを指しています。
小篇には、このように語られています。

「四十五個といへば、天龍山の彫刻像のほとんど全部と云って良い。
かうも一つの手に全部揃ったことは蒐集者の非常な努力と謂ふべく、せめてそれが散らばらないで、一つの国民的の博物館に集められて欲しいことだ。
然しこの一面には、支那現地に於て計画的な略奪が行われたという疑を起こすことも出来る。
・・・・・・
木村君、僕は極めて平静に以上の記を作った。
然し心の中には怨恨の如き、憤懣の如き、いろいろの感情が回転してゐるといふことは、嘗て倶(とも)にあの山に登った君の無論直ぐ感づいてくれるだろうと思ふ。」

天龍山石仏の大量流出への、木下杢太郎の憤りの混じった哀しみ、割り切れない心情が語られています。
そして、その散逸を懸念しています。



【「展観」展示の石仏40数点を、一括して買い取った根津嘉一郎】


この売りに出た天龍山石仏コレクションは、どうなったのでしょうか?

実は、根津嘉一郎が、これらの石仏を一括して全部買い取りました。
根津嘉一郎は東武鉄道の経営など「鉄道王」と呼ばれた実業家で、有数の古美術コレクターとして知られた人物です。
コレクションの多くは、現在、根津美術館に所蔵されています。

226天龍山石窟④:根津嘉一郎
根津嘉一郎

山中商会では、この天龍山石仏をアメリカへの売却する事が考えられていたようです。

根津嘉一郎は、
「このような古代の貴重品が海外へ流出するのは残念だと思い、其の時そっくり買い取って、爾来十年間、私の家に収蔵しておいた」
(根津嘉一郎著「世渡り体験談」実業之日本社1938年刊)
と、回顧しています。

根津が購入したのは46点とされており、その後、昭和4年(1929)の「月光殿 大師会」や、昭和6年(1931)の「美術協会展」などに、一括して展示されたりしているようです。
(「大師会」というのは、三井物産の創始者で、数奇者、大コレクターの益田鈍翁が主催創始した、大茶会のことです。)

山中商会では、その後主催した「世界古美術展」(昭和7年・1932)や「支那朝鮮古美術大展覧会」(昭和9年・1934)にも、天龍山石仏を多数展示しています。

226天龍山石窟④:「支那朝鮮古美術大展覧会」(1934)での石仏展示風景
「支那朝鮮古美術大展覧会」(1934)での石仏展示風景
「ハウス・オブ・ヤマナカ」所載写真


「支那古陶金石展観」(昭和3年・1928)以降も、多くの天龍山石窟から流出した石仏を扱っていることが見て取れます。



【欧州6ヶ国に、30点の天龍山石仏を寄贈した根津嘉一郎(1937)


根津嘉一郎の手に渡った天龍山の石仏は、その後どうなったのでしょうか。

根津は、昭和12年(1937)に、これらの石仏の多くを、国際親善のため西欧の6ヶ国に寄贈しました。
この寄贈について根津は、こう語っています。

「私は先年、支那天龍山の石仏の首を42個蒐集したが、今度感ずるところがあって、美術親善のためそのうちの数個を、欧羅巴(ヨーロッパ)の五、六ヶ国に贈呈した。
・・・・・
併し、私は国際親善の一つとしては、貴重な美術品を役立てる事も、強ち意義の無い事ではないと信じて、その石佛の首を各国に贈呈した次第である。」
(根津嘉一郎著「世渡り体験談」実業之日本社1938年刊)

昭和12年と云えば、前年に日独防共協定が成立し、7月に盧溝橋事件が勃発、日中戦争がはじまった時期です。
西欧諸国との国際関係が緊張していく中、このような美術親善が企図されたのかもしれません。

当時の新聞でも、この石仏寄贈について、

「秘境の逸品 三十個を 国際親善に提供 愛好者垂涎の古代石佛の首 根津翁 太っ腹の発心~国民外交に朗報」
(昭和12年・1937年3月27日付 東京朝日新聞朝刊)

という見出しで、大きく報道されています。

226天龍山石窟④:根津の天龍山石仏寄贈を報じる朝日新聞記事(1937)

新聞記事によれば、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、オランダ、スウェーデンの6ヶ国に、それぞれ仏首5個ずつ、計30個が寄贈されることになったということです。

226天龍山石窟④:在日ドイツ大使館で寄贈石仏と共に立つ根津嘉一郎(1937)
在日ドイツ大使館で寄贈石仏と共に立つ根津嘉一郎(1937)
「根津青山の至宝」展図録(根津美術館・2015刊)所載写真


この時、併せて、東京帝室博物館にも4個が寄贈されたと報じられています。
(現在の、東京国立博物館所蔵の天龍山石窟石仏は7点ですが、寄贈者が「根津嘉一郎」と記されているのは3点となっています。)

226天龍山石窟④:東京国立博物館所蔵・根津嘉一郎寄贈天龍山石窟菩薩像(第8窟)

226天龍山石窟④:東京国立博物館所蔵・根津嘉一郎寄贈天龍山石窟菩薩像(第14窟)226天龍山石窟④:東京国立博物館所蔵・根津嘉一郎寄贈天龍山石窟如来像(第18窟)
東京国立博物館所蔵・根津嘉一郎寄贈天龍山石窟菩薩像
(上)菩薩像(第8窟)、(左下)菩薩像(第14窟)、(右下)如来像(第18窟)



なお、現在、根津美術館には、7点の天龍山石仏仏首が所蔵されています。

226天龍山石窟④:根津美術館所蔵・天龍山石窟菩薩像(21窟)

226天龍山石窟④:根津美術館所蔵・天龍山石窟菩薩像(18窟)226天龍山石窟④:根津美術館所蔵・天龍山石窟如来像(16窟)
根津美術館所蔵・天龍山石窟菩薩像
(上)菩薩像(21窟)、(左下)菩薩像(18窟)、(右下)如来像(16窟)




こぼれ話~天龍山石窟の発見と石仏流出物語〈その3〉 【2021.02.20】


4.石仏流出前の全貌を伝える唯一の写真集の刊行~「天龍山石窟」


関野貞によって発見された天龍山石窟ですが、この発見を、欧米に先んじて日本人の手によって広く世に知らしめたいという機運が、国内で盛り上がってきたようです。

雲岡石窟のように、欧米人に発見紹介者の名をなさしめることにならぬようという思いが強かったのだと思います。



【関野発見の4年後に実施された、石窟現地調査と写真撮影】


関野発見の4年後、1922年(大正11年)に、天龍山石窟のしっかりした現地調査と写真撮影が行われることになりました。
関野貞の発見時には、調査旅行中の偶々の発見であったこともあり、一泊だけの慌ただしい調査で、撮影された写真もわずかの数だけであったのです。

この調査と撮影は、約1週間にわたるもので、田中俊逸、外村大治郎、平田饒の3名によって行われました。

田中俊逸(萬宗)は、「運慶」の著作でも知られる研究者で、小野玄妙、望月信享の声がかりで石窟調査に出かけることになったようです。
外村大治郎は北京・東華照相材料行(写真館?)の主人、平田饒は技師です。

3名は、3月に天龍山に赴き、現地では、大変な苦労をしながら、石窟の調査と写真撮影を行ったようです。

田中俊逸は、調査に赴くにあたってのことを、このように回顧しています。

当時、欧米人の東洋美術研究者(アンドリエス博士)が支那古文化の実地踏査研究をし、奥地に入るとの新聞報道があり、天龍山石窟の調査もされてしまうのではと心配していた処、自分たちが調査出来ることとなり、
「之れより天龍山は小なりと雖も、世界的に發表し得ることと相成」
「天龍山石窟が又(註:雲岡石窟のような)前轍を踏まねばならぬことに遭遇する羽目に堕る」
ことがなくなるであろう。
(「支那山西省天龍山仏龕調査通信」「天竜山石窟調査報告」佛教学雑誌3巻3・4号1922年)

欧米人に対する対抗意識というか、東アジア・中国の文化研究は日本人の手によって先んじて行われるべきという、強い自負心が伺えます。



【想像以上の大変な困難ななか、進められた調査、撮影】


現地での調査、撮影は、想像以上に困難なものであったようです。
田中によると、このような厳しい環境であったようです。

「天龍山探検には三悪苦難あり。

一、洞窟附近に豹や狼の猛獣が棲んで居る。

二、洞窟に達するに数百尺の断嵯絶壁を攀るに従って、岩石崩壊して、梯子登りや綱渡り軽業を敢えてせねばならぬこと。

三、・・・・・・~略~・・・・・・」
(「支那山西省天龍山仏龕調査通信」佛教学雑誌3巻3号1922.04)



【語られることの殆ど無い、田中の調査成果~諸窟の新発見と体系的整理】


大変な調査、写真撮影であったのですが、最大の収穫は、関野貞が到達出来なかった新たな諸窟が発見されたことでした。
関野は、時間の制約もあり14の窟までしか発見調査出来ていなかったのですが、田中は18窟(現在の窟番号)以西21窟まで、総数24の窟龕を発見調査し、1~21窟までの窟番号を付したのでした。
(現在も、この窟番号が用いられています。)

225天龍山石窟③:田中俊逸「天龍山石窟」所載~天龍山石窟平面見取図
田中俊逸作成の天龍山石窟平面図~「天龍山石窟調査報告」佛教学雑誌3巻4号1922.05所載

新発見の18窟以西の窟は唐時代のもので、18・21窟などは、関野が絶賛した14窟に匹敵する優れた造形で、これら諸窟の発見なしには「天龍山様式」の呼称は生まれなかったと云われています。

田中は帰国後すぐに、調査結果をまとめた長文の「天竜山石窟調査報告」(佛教学雑誌3巻4号1922.05)を発表しています。

225天龍山石窟③:田中俊逸「天龍山石窟」掲載誌~佛教学雑誌3巻4号1922.05225天龍山石窟③:田中俊逸「天龍山石窟」所載写真
田中俊逸「天龍山石窟調査報告」佛教学雑誌3巻4号1922.05表紙と所載写真

天龍山石窟については、発見者たる関野貞の功績がよく語られるところですが、田中俊逸による新発見、調査成果も多大なものがあり、今日、田中の名が語られることが殆ど無いのは、ちょっと寂しい気持ちになります。



【石窟の撮影写真を収録した、豪華本「天龍山石窟」の刊行(1922年)


この天龍山石窟の調査終了から約半年後、10月に、この時の撮影写真を収録した豪華写真集、「天龍山石窟」が刊行されました。

「天龍山石窟」 外村大治郎著 金尾文淵堂 大正11年(1922)刊 金38円

225天龍山石窟③:写真集「天龍山石窟」(外村太治郎)金尾文淵堂刊1922
225天龍山石窟③:写真集「天龍山石窟」(外村太治郎)金尾文淵堂刊1922

本写真集「天龍山石窟」は、大変力の入った出版であったようです。
40×31センチの大判で、全88ページ、コロタイプ80葉の写真が収録され、定価は38円という高価です。
(当時の、ほぼ大卒初任給に相当する金額です)

本書は、現在では、極めて貴重な写真集となっています。
というのは、天龍山石窟が盗鑿に遭う前の窟内と石仏の姿の旧状の全貌を伝える、唯一の写真集となっているからです。

本書刊行後、数年もたたぬうちに、天龍山石窟の徹底的な盗鑿が行われたのでした。



【窟内石仏、80カットのコロタイプ写真を収録
~盗鑿前の石窟の全貌を伝える、唯一の貴重な写真集】

各窟の窟内石仏、80カットの大判写真が収録されています。

現在、海外流出した天龍山石窟石仏の盗鑿前の原位置を特定するには、本書に頼るしかないという極めて重要な写真資料となっているのです。
本書掲載の流出前の窟内石仏写真を、いくつかご覧ください。
現在の、盗鑿されてしまった痛々しい写真も、ご参考に合わせてご覧ください。

225天龍山石窟③:「天龍山石窟」掲載写真~東峰諸窟全景
「天龍山石窟」掲載写真~東峰諸窟全景

225天龍山石窟③:「天龍山石窟」掲載写真~第10窟西壁
「天龍山石窟」掲載写真~第10窟西壁

225天龍山石窟③:天龍山石窟・第10窟西壁の現状
天龍山石窟・第10窟西壁の現状

225天龍山石窟③:「天龍山石窟」掲載写真~第16窟東壁
「天龍山石窟」掲載写真~第16窟東壁

225天龍山石窟③:「天龍山石窟」掲載写真~第17窟正面北壁
「天龍山石窟」掲載写真~第17窟正面北壁

225天龍山石窟③:天龍山石窟・第17窟正面北壁の現状
天龍山石窟・第17窟正面北壁の現状

225天龍山石窟③:「天龍山石窟」掲載写真~第17窟右脇侍菩薩
「天龍山石窟」掲載写真~第17窟右脇侍菩薩

225天龍山石窟③:「天龍山石窟」掲載写真~第18窟東壁
「天龍山石窟」掲載写真~第18窟東壁

ご覧のように、天龍山石窟内に美しく見事な石仏尊像が勢揃いしていた頃の、往時をしのぶことが出来ます。

他の出版物でも天龍山石窟盗鑿前の写真を掲載したものがありますが、ごく一部だけが掲載されているだけで、その全貌を知ることは出来ません。
色々な研究論文も、盗鑿前の当初の状況は、なべて本書の写真が用いられていますし、此度の東博企画展「珠玉の中国彫刻」展示の仏頭と共に掲出されていた流出前の古写真も、本書の写真が用いられていました。

余談ですが、NET「日本の古本屋」で本書を検索すると、なんと150万円という驚くべき高値がつけられていました。
如何に貴重な稀覯本かということを、物語っていると云えるのでしょう。

なお、本書は、早稲田大学図書館の古典籍総合データベース「天竜山石窟 / 外村太治郎 著」に、全頁のカラー図版が収録されていて、嬉しいことに、NET上でいつでも閲覧することができます。



【序文には、錚々たる顔ぶれが
~いずれも「日本人の手による天龍山石窟発見紹介」の意義を強調】

本書の序文には関野貞、高楠順次郎、常盤大定、望月信享、跋文には小野玄妙と、これでもかという程の錚々たる顔ぶれが名を連ねています。

この序文の記述を見ると、これまた誠に興味深いものがあります。
こぞって、天龍山石窟の発見と本写真集の発刊が、「日本人の手によってなされたこと」の喜び、意義を強く訴えているのです。

関野貞は、

「燉煌の石窟はペリオ氏により、雲崗、龍門の遺蹟はシャヴァンヌ氏より既に世界的に宣傳されたが、天龍山の石窟は幸に田中、外村両氏の努力により、其眞相を廣く内外に紹介して世人の研究に資することゝなったのは實に我學界の大慶事である。
・・・・・・
余は東洋人の當に爲すべき研究が往々歐米人に先鞭を着けらるゝを見て、毎に殘念に思ってゐたから、今回両氏の此事業に對しては特に世人と共に滿腔感謝の意を表せんと欲するのである。」


常盤大定は、

「猶、伊東博士の發見に係る大同雲崗が外人によって世界的になった如く、この天龍山も、同一の運命を繰り返すでは無からうかと、記して置いた所が、今度外村氏が一切の準備を調へ、大膽な企圖を試みて、首尾よく、天龍山石窟の全部を吾人の前に展開する様にしたのは、予の希望を滿足せしめたものといはねばならぬ。」


高楠順次郎は

「洞窟寺院の發見、研究、發表、倶に我國の學者に成りしものは唯この天龍山寺あるのみ。
予は、・・・・この研究を祝福し、これを世に推奨するに於いて、決して人後に落つるものに非ず。」


望月信享は、

「近来欧米の学者中、東洋学藝の研究に従事する者が益々多い。
・・・・・
それに比して、我が邦人の探検的業績と見るべきものが甚だ少い。
東洋の研究は当然東洋人がなさねばならぬ所である。」

以上のような通りです。



【「文化財研究においても、我国が東洋の盟主たるべき」という自負心の投影か?】


本書が出版された大正11年(1922)頃というのは、日清、日露戦争(1894~95・1904~05)の勝利を経て、第一次世界大戦(1914~18)の戦勝国に名を連ねた処という時期です。
日本が、明治維新以来の近代化を成し遂げ、世界の一等国の仲間入りをし、東洋の盟主たるべきという国民意識が盛り上がりを見せていたころではないかと思います。

こうした中で、東洋文化研究は欧米人の手によってならせるべきものではなく、就中、
「東アジア・中国の文化史研究は、日本人の手によってなされなければならない」
という、過剰なまでの強い自負心が、色濃く投影していることが見て取れます。

豪華写真集「天龍山石窟」は、
「天龍山石窟を日本人研究者が発見したという事実を、内外に広く知らしめる」
という、気運の大きな盛り上がりによって、発刊に至ったものではないでしょうか。



【解説ページの全くない、写真集「天龍山石窟」~不本意だった田中俊逸】


なお、不思議なことにこの写真集には、解説ページが全くありません。
序文と写真だけで構成されているのです。
何故、このような構成になったのか?
何故、共に調査した田中俊逸の調査報告・解説が掲載されていないのか?
の経緯はよく判りません。
刊行企画当初の発売予告広告には、田中俊逸の解説が掲載される予定であると記されていたのですが、事情の変化があったようです。

田中俊逸自身は、このようは発刊が極めて不本意なものであったようで、後に執筆した「天龍山石窟探検思い出の記」でこのように語っています。

「私の苦心惨憺した写真は帰朝の上、無断で出版せられ、この解説書すら附さなかったのです。
處が彼の大震災で写真も烏有に帰して、私の涙はどうやら紛れる内突々、大震災以上に驚いたことは天龍山石窟の石仏の首、即ち仏頭が続々輸入されて・・・・・・・・
一仏を残さず悉くを空洞としたことは、天龍山は私にとっては、己身的にも、学術的にも涙で始まり涙で終わるのでありました。」
(「天龍山石窟探検思ひ出の記(上・下)」日本美術協会報告23・24輯1932.01・04)

石窟調査に一番貢献したのが田中俊逸であっただけに、経緯はどうあれ、憤懣やるかたなき事であったろうと察せられます



【本書の刊行が、凄まじいまでの盗鑿の一つの契機に
~天龍山石窟の存在を、世に知させることになった写真集】

一方で、この写真集「天龍山石窟」の発刊によって、天龍山石窟の名は世に広く知られ、世界に知れ渡ることになったと思います。

然し乍ら、そうしたことが、美しい彫刻を獲得しようとする凄まじいまでの盗鑿が始まる、大きな契機の一つとなってしまいました。

知られざる天龍山石窟であっただけに、何とも、皮肉な結果となったといわざるを得ません。



【間もなく刊行された、シレン著「中国彫刻」でも紹介された天龍山石窟
~欧米における中国彫刻研究の大定本】

「天龍山石窟」の発刊の3年後、スウェーデンの美術史学者・オズワルド・シレン著の 「中国彫刻」 (CHINESE SCULPTURE~FROM THE FIFTH TO THE FOURTEENTH CENTURY)  が、ロンドンで発刊されました。

225天龍山石窟③:オズワルド・シレン著「中国彫刻」全4巻1925
オズワルド・シレン著「中国彫刻」全4巻1925年

シレン著の「中国彫刻」は、「中国彫刻研究の定本中の定本」と云われている4巻の大著です。
シレンは、1922年、田中俊逸等の調査実施と同じ年に、天龍山石窟を訪れ調査しています。
交流のあった関野貞から、天龍山の情報を得たのかもしれません。

225天龍山石窟③:オズワルド・シレン
オズワルド・シレン

本書には、天龍山石窟が採り上げられ、25葉の石仏像写真が掲載され、簡単な解説が附されています。

225天龍山石窟③:シレン著「中国彫刻」掲載天龍山石窟写真

225天龍山石窟③:シレン著「中国彫刻」掲載天龍山石窟写真

225天龍山石窟③:シレン著「中国彫刻」掲載天龍山石窟写真
シレン著「中国彫刻」掲載天龍山石窟写真

日本の研究者が危惧したように、写真集「天龍山石窟」の刊行がなければ、シレンが天龍山石窟の初めての調査紹介者として、欧米で語られるようになったのかもしれません。



【本書の三名の献呈者に、名前が連ねられている「関野貞」】


ただ、注目すべきは、本書には、

「感謝の気持ちに捧げる」 (DEDICATED WITH GRATITUDE)

として、3人の献呈者の名前が記されているのですが、そこに、「関野貞」の名前が挙げられていることです。

225天龍山石窟③:シレン著「中国彫刻」表紙頁
225天龍山石窟③:シレン著「中国彫刻」~献呈者名所載ページ
シレン著「中国彫刻」表紙と献呈者名所載ページ
「T.SEKINO」と関野貞の名が記されている


関野貞の他には、ポール・ペリオ(東洋学者・敦煌文書の発見請来者)、ジョゼフ・アッカン(探検家・ギメ東洋美術館のキュレーター)の名前が記されています。

関野貞とシレンは、ずっと面識、交流があり、関野はシレンに対して中国での調査情報などの提供を行なうなど、本著の成立にもかかわっていたようです。
本書掲載の写真図版の一部にも、関野提供の写真が用いられています。

シレンは、関野貞が天龍山石窟の発見者であることを十分に認識していたことは間違いないでしょうし、当時、関野が、ペリオ、アッカンという著名研究者と並んで、中国の仏教史蹟の有数の研究者として認められていたことは、銘記しておきたいことだと思います。


こぼれ話~天龍山石窟の発見と石仏流出物語〈その2〉 【2021.02.13】



3.注目を浴びた天龍山石窟の発見~調査・研究の盛上がり


ここまで、関野貞による「天龍山石窟の発見」の物語をたどってきました。

ここからは、この発見が、国内でどれほどの注目を浴び、その後の調査研究や出版物刊行がされていったのかをたどってみたいと思います。

天龍山石窟の発見経緯、研究史、石仏流出などについては、次の二つの論考に大変詳しく述べられていました。

神谷麻里子氏 「天龍山石窟の研究~研究史と問題点」 愛知県立芸術大学紀要34号 2004年

斎藤龍一氏 「関野貞による山西・天竜山石窟「発見」をめぐって」 大阪市立美術館紀要18号 2018年

この二つを読むと、関野貞の発見から天龍山石窟がどのように注目され、研究が進められ、石仏流出に至っていくかなどが丸わかりと云って良いほどに、詳しく論じられています。

私のご紹介する「発見、流出物語」の多くは、この二つの論考からのつまみ食いとでも云って良いものになっていますが、ご容赦願いたいと思います。

2論考ともNET上に公開され、読むことができますので、ご関心のある方はご覧ください。



【天龍山発見以降の調査訪問者と、主な発表論文・刊行物~一覧リスト】


さて、関野貞の天龍山石窟発見以降、どのような人物が天龍山石窟を訪れ、その調査研究報告や天龍山石窟紹介出版物が刊行されていったのでしょうか?

大正7年(1918)の発見から戦前、昭和15年(1940)までの、主なものを一覧表にしてみると、以下のようになっています。

224天龍山石窟②:天龍山石窟発見からの訪問者・論文刊行物一覧


如何でしょうか?

天龍山石窟の発見から10年間ぐらいの間に、いろいろな研究者が天龍山石窟を訪れているのに、また数多くの論文や出版物が刊行されているのに、驚かれたのではないでしょうか。
わが国では、「天龍山石窟の発見」が大きな注目を浴び、広く世に紹介され、論じられていたことがよく判ります。



【発見翌々年には、早くも木村荘八と木下杢太郎が訪問】


関野貞の天龍山石窟発見の翌々年、大正9年(1920)には、木村荘八・木下杢太郎と常盤大定が天龍山石窟を訪れています。

木村荘八と木下杢太郎は、9月に雲岡石窟、10月に天龍山石窟を訪れています。
ご存じの通り、木村荘八は洋画家・随筆家、木下杢太郎は医者・文化人で知られる人物です。

224天龍山石窟②:木村荘八224天龍山石窟②:木下杢太郎
(左)木村荘八  (右)木下杢太郎

この時の雲岡石窟紀行を、共著で出版した「大同石仏寺」(1922年・日本美術学院刊)は、名著として知られています。

224天龍山石窟②:木下杢太郎著「大同石仏寺」
木下杢太郎著「大同石仏寺」(1938年・座右宝刊行会刊)
この本は、共著の「大同石仏寺」から木下執筆分を抜出し、再刊されたものです


驚いたのは、専門の研究者でもない二人が、早くも天龍山石窟を訪ねていることでした。
関野貞の調査報告論文「天龍山石窟」が、まだ発表されていない時期です。

天龍山石窟の発見情報が、当時、随分注目を浴びていた証左のような気もします。



【木村荘八には、評価が厳しかった天龍山石窟石仏像】


木村荘八は、「天龍山石窟を見る」(中央美術7-2・1921年)と題する探訪紀行文を発表しています。

興味深かったのは、木村の天龍山の石仏像への評価が、大変厳しいものであることです。
224天龍山石窟②:木村荘八の天龍山石窟石仏スケッチ
木村荘八の天龍山石窟石仏スケッチ
「天龍山石窟を見る」収録

宗教的意相の石窟の場に、美術品の仏像を嵌め込んだようなチグハグ感があってつまらないと、語っているのです。

「只「美術」から見て、つまらぬと思ふ。
・・・・・・
東方第六窟の唐佛はそれぞれ作も気品も、面白いとは思ったが、然し何も之を見にわざわざ辛い思いをしてこんな山中へ来るに當らないと、苦笑して思った。
・・・・・・
世に有用な美術とは思へなかった。」

と、糞味噌と云って良いほどのこき下ろし方です。

随分苦労して訪ねた割には、期待したほどではなかったのでしょうか?
木村が、仏教石窟に抱いていた「あるべき宗教的イメージ」にマッチしていなかったのかもしれません。
これだけ優れた石仏像が、どうしてこんな印象になったのかはよく判らず、ちょっと不思議な感じです。



【美しい石仏像のスケッチを残した木下杢太郎】


共に訪れた木下杢太郎は、天龍山石窟石仏像のスケッチを何枚も残しています。
天龍山石窟石仏像の美しさ、魅力が、良く引き出されています。

そのいくつかをご覧ください。

224天龍山石窟②:木下杢太郎スケッチの天龍山石窟・石仏(木下杢太郎画集収録)

224天龍山石窟②:木下杢太郎スケッチの天龍山石窟・石仏(木下杢太郎画集収録)

224天龍山石窟②:木下杢太郎スケッチの天龍山石窟・石仏(木下杢太郎画集収録)

224天龍山石窟②:木下杢太郎スケッチの天龍山石窟・石仏(木下杢太郎画集収録)
木下杢太郎スケッチの天龍山石窟・石仏
(「木下杢太郎画集・第1巻~仏像」1985年用美社刊所載)




【同じ年に天龍山石窟を調査した、常盤大定
~中国の仏教史蹟を徹底調査した仏教史学者】

木村荘八等と同じ年、常盤大定が天龍山石窟を訪れ調査を行っています。

常盤大定は、僧侶で東京大学の教授も務めた、著名な仏教史学者です。

大正9年(1920)、50歳を過ぎて初めて中国大陸に渡り、仏教遺跡を中心に文化史蹟の訪問調査を行いました。
以来、中国の調査は、昭和3年(1928)まで5回に亘り、その調査成果は、関野貞との共著「支那佛教史蹟」(図版・評釈各5冊・1925~1928刊)、「支那文化史蹟」(全12分冊・1939~1941)という大著が刊行されています。
この2著作は、中国大陸の文化史蹟を広範にカバーした、空前絶後の調査記録書として長く語り継がれているものです。

常盤大定は第一回目(1920年)、約100日に亘る中国調査の中で、天龍山石窟を訪れました。
そして帰国後、調査報告ともいうべき「支那佛蹟踏査 古賢の跡へ 第一」を金尾文淵堂から刊行しました。

224天龍山石窟②:常盤大定著「「支那佛蹟踏査 古賢の跡へ 第一」  224天龍山石窟②:常盤大定著「「支那佛蹟踏査 古賢の跡へ 第一」
常盤大定著「「支那佛蹟踏査 古賢の跡へ 第一」(1921年・金尾文淵堂刊)



【雲岡石窟発見同様、欧米人が天龍山石窟紹介者とされるのを、危惧した常盤大定】


本書では、天龍山石窟についても述べられているのですが、注目されるのはその章の冒頭に、このように記されていることです。

「大同雲岡の石佛寺は伊東博士の發見にかゝり、天龍山の石窟は關野博士の發見にかゝる。
發見はしても、時間と資金の爲であらう、雲岡は却つてシャヴァンヌの研究によつて世界的になつて居る。
天龍山も他日そんな運命になるかも知れぬ。
何とかしたいものである。」

雲岡石窟の発見者は伊東忠太なのに、シャヴァンヌにその名声をとってかわられてしまった。
今度こそ、天龍山石窟の発見者は関野貞だということを、広く世に知らしめなければならないと、訴えているのです。



【仏人学者・シャヴァンヌによって、世に広く知らしめられた雲岡石窟
~発見者・伊東忠太の名は知られず】

「雲岡石窟の発見」に関わるいきさつは、こんな話です。

雲岡石窟は、明治35年(1902)、伊東忠太によってはじめて発見されました。

224天龍山石窟②:中国史蹟調査時の伊東忠太(向かって右)224天龍山石窟②:雲岡石窟発見時、露坐仏前の伊東忠太(向かって右)
(左)中国史蹟調査時の伊東忠太 (右)雲岡石窟発見時、露坐仏前の伊東忠太~共に向かって右

伊東は雲岡石窟の発見について、国内の研究誌(「建築雑誌」「国華」)に発表掲載したのですが、欧米などに広く知られることにはなりませんでした。

この雲岡石窟発見の話は、ハノイにある極東学院に伝わり、研究員であった仏人、エドゥアール・シャヴァンヌが雲岡現地に出張調査し、1909~15年に刊行した自著、「華北考古図譜・全5巻」(Mission archéologique dans la Chine septentrionale)に、雲岡石窟を採り上げました。

224天龍山石窟②:エドゥアール・シャヴァンヌ224天龍山石窟②:「華北考古図譜」(Mission archéologique dans la Chine septentrionale)
(左)エドゥアール・シャヴァンヌ、(右)「華北考古図譜」

この本には、雲岡石窟に関する図版が多数掲載され、全容が世に広く知らしめられ、雲岡石窟寺の名は 急に世界の注目を集めるようになったのです。,

224天龍山石窟②:「華北考古図譜」収録の雲岡石窟写真224天龍山石窟②:「華北考古図譜」収録の雲岡石窟写真
「華北考古図譜」収録の雲岡石窟写真

こうした経緯で、雲岡石窟の真の発見者は伊東忠太であったにも関わらず、欧米においてはシャヴァンヌが発見者のように受け止められ、その名を成さしめることになったというものです。

伊東忠太は、後に、
「こういう点では、欧米人はなかなか抜け目がないね。
日本人はいつも損をする。」
と、述懐していたということです。

常盤大定は、天龍山石窟の発見が、「第二の雲岡石窟の発見」になってしまうことを危惧していたのでした。

天龍山石窟については、その発見当初から、一種のブームのような盛り上がりを見せ、多くの研究者が天龍山を訪れ、論考や関係出版物が続々と発表刊行されています。

その背景には、日本におけるこのような欧米への対抗意識が、色濃く反映していたのかもしれません。


こぼれ話~天龍山石窟の発見と石仏流出物語〈その1〉~東博「館蔵 珠玉の中国彫刻展」によせて 【2021.02.07】


1. は じ め に

【東博館蔵の天龍山石窟・流出石仏が、企画展でまとめて展示】


東京国立博物館で開催されている企画展「館蔵 珠玉の中国彫刻展」(12/1~2/21)を観に行ってきました。

223天龍山石窟①:東博「珠玉の中国彫刻展」パンフレット
東博企画展「珠玉の中国彫刻展」パンフレット

東博所蔵の中国彫刻のうちで、普段あまり展示されないものをまとめて公開するという企画展です。

私のお目当ては、天龍山石窟の石仏展示でした。
天龍山石窟から流出した石仏で東博所蔵の7点のうち、6点がまとめて展示(1点は東洋館で展示)されているのです。
これは、是非とも観に行かねばと出かけたわけです。

というのも、私は以前に、
「天龍山石窟の関野貞による発見と、その後の盗鑿による石仏の海外流出」
についての話を、日々是古仏愛好HPに採り上げたことがあり、大いに関心があったのです。
この話は、HP「埃まみれの書棚から~中国三大石窟を巡る人々をたどる本」の 【天龍山石窟の発見】 【盗鑿され海外流出した石仏】 で紹介させていただきました。

企画展会場には、天龍山石窟の石仏首が5つ、横に並んで展示されていました。

223天龍山石窟①:東博「珠玉の中国彫刻展」に展示される5体の天龍山石窟・石仏首
東博「珠玉の中国彫刻展」に展示される5体の天龍山石窟・石仏首(東博蔵)

223天龍山石窟①:東博・東洋館にて展示されている天龍山石窟・如来倚像
東博・東洋館にて展示されている天龍山石窟・如来倚像(東博蔵)

主に唐時代の石仏で、初唐の理知的で溌溂、豊かな頬と切れ長の眼の面貌が印象的です。
まさに、日本の天平彫刻の源流となる造形と云えるでしょう。



【興味深かった、セットで掲出された石仏流出前古写真
~盗鑿され、海外流出した天龍山石窟石仏】

大変興味深かったのは、展示された石仏が元々天龍山石窟にあった時、即ち流出以前の当該石窟内の古写真がセットで掲出されていたことです。

223天龍山石窟①:東博企画展展示~天龍山石窟・菩薩頭部(第8窟)223天龍山石窟①:天龍山石窟・菩薩頭部(第8窟)の流出前古写真
東博企画展展示~天龍山石窟・菩薩頭部(第8窟)と流出前古写真

223天龍山石窟①:東博企画展展示~天龍山石窟・菩薩頭部(第14窟)223天龍山石窟①:天龍山石窟・菩薩頭部(第14窟)の流出前古写真
東博企画展展示~天龍山石窟・菩薩頭部(第14窟)と流出前古写真(向かって左)

天龍山石窟は、石仏首などが徹底的な盗鑿に遭い、現在は、ほとんどの石仏が削り取られ、見る影もない痛々しい有様になっています。
しかし、盗鑿前の古写真と付け合せると、その元あった位置が特定できるようなのです。

展覧会のパンフレットには、このように書かれていました。

「20世紀初めに外国人が次々とここ(註:天龍山石窟)を訪れたことで、窟内の彫刻が削り取られて海外に流出し、今も100件近くが欧米や日本に収蔵されています。

その中には原位置が確認できないものもあります。
ここに紹介する天龍山石仏は、当館受け入れの経緯は様々ですが、原位置は判明しており、東魏、隋、唐時代の特色をそれぞれ伝えています。」

223天龍山石窟①:東博「珠玉の中国彫刻展」パンフレットの天龍山石窟ページ
「珠玉の中国彫刻展」パンフレットの天龍山石窟ページ


【俄然、興味が盛り上がって来た、天龍山石窟発見と石仏流出の経緯の話】


パンフレットの記述や、展示石仏や古写真に刺激されたのでしょうか、俄然、天龍山石窟への興味が盛り上がってきました。
以前、石窟発見や石仏流失についてふれたときは、その経緯などあまり深く知らなかったので、割とあっさりと紹介させていただいただけでした。

丁度、コロナ自粛で暇を持て余していますので、いろいろな関連資料にあたってみることができました。
このテーマにふれた論文や当時の関係する出版物などを調べてみると、これまで知らなかった出来事がいろいろあることが判りました。
石仏流出のいきさつや、その後のエピソードも興味津々でした。
調べていくほどに、結構、のめり込んでしまいました。


そこで、 「天龍山石窟の発見と石仏流出物語」 と題して、石窟発見から石仏流出、その後の所蔵先などにまつわるいきさつや出来事などを、ちょっと詳しくご紹介してみたいと思います。

長めの連載話になるかもしれませんが、お付き合いいただければと思います。



1. 天 龍 山 石 窟


【山西省太原市近郊の山上にある天龍山石窟~6~8世紀の開鑿】


天龍山石窟は、山西省太原市の西南30キロほどに位置する、天竜山東西両峰山頂近くの断崖にあります。

223天龍山石窟①:天龍山石窟遠望
天龍山石窟遠望

太原市、かつての晋陽は、東魏・北斉時代の都であった鄴(ぎょう)の別都として栄え、また、皇帝の庇護の下に仏教の非常に興隆した地です。
標高1500mの天龍山山頂に近い山腹の東西の峰、結構厳しい断崖面に石窟が穿たれています。

223天龍山石窟①:天龍山石窟・厳しい断崖面にある第8窟
厳しい断崖面に穿たれている第8窟

石窟は、東魏(6世紀中頃)から北斉・隋・唐代の盛唐期(8世紀中頃)にかけて開鑿され、24の石窟・龕に200体を超える仏・菩薩・天人像が彫出されました。
主要な窟は21窟あるのですが、そのうち14~5の窟は8世紀前半、唐時代に開かれたものと考えられています。

これらの石仏像の中国彫刻史上に占める位置ははなはだ高く、とりわけ唐時代の諸窟の石仏像は、唐前期の仏教美術を代表する高い芸術性を備えたものと云われています。

223天龍山石窟①:天龍山石窟の美しい唐代彫刻(第14窟)根津美術館蔵223天龍山石窟①:天龍山石窟の美しい唐代彫刻(第14窟)メトロポリタン美術館蔵
天龍山石窟を代表する美しい唐代彫刻・仏首
(左)第14窟・菩薩像(根津美術館蔵)・(右)第14窟・菩薩像(メトロポリタン美術館蔵)


窟内にいくつもの見事な石仏尊像が刻された有様は、誠に、華麗で壮観そのものであったことと思います。



【昭和初年(1920年代)に徹底的な盗鑿に遭い、見る影もない無残な有様に】


しかし、この天龍山石窟の諸石仏像は、後に詳しくふれますが、昭和初年(1920年代)に徹底的な盗鑿に遭い、ほとんどの石仏首、仏体などが削り取られ、海外流出してしまいました。
雲岡や龍門の石窟でも相当数の石仏の盗鑿が行われていますが、ここまで跡形もないほどに盗鑿しつくされたのは、天龍山石窟ぐらいかもしれません。

現在、天龍山石窟を訪れると、まともな姿を遺した窟はほとんどなくて、削り取られた後の無残な様子になっているということです。

223天龍山石窟①:無残に石仏が削り取られた現在の石窟(第6窟)

223天龍山石窟①:無残に石仏が削り取られた現在の石窟(第14窟)
無残に石仏が削り取られた現在の石窟
(上)第6窟  (下)第14窟


石窟が発見された当時は、辿り着くのも大変な険しい処であったということですが、現在は比較的簡単に訪れることができるようです。
私は、天龍山石窟に行ったことは無いのですが、訪ねた方によると、観光客でも車で近くまで行くことが可能だということです。

日々是古仏愛好HPにも、沼田保男氏の天龍山石窟探訪記「中国山西省 雲岡石窟・古寺・古仏 感動の旅~その4」を掲載させていただいていますので、ご覧いただければと思います。

天龍山石窟は、初唐時代の美麗な石仏が造像された中国石窟として知られてはいますが、数ある中国石窟の中では、さほど規模が大きなものではありません。
超有名な雲岡石窟や龍門石窟の規模の大きさに比べると、10分の1にも満たない程度の小規模な石窟です。

にもかかわらず、その名がこれだけ世に広く知られるようになったのは、欧米、日本の博物館などに石仏首などが数多く所蔵されていることもあるでしょうが、徹底的に盗鑿しつくされ海外流出してしまった誠に不幸な歴史の石窟として、深く記憶されていることによるものではないのでしょうか。



2.天龍山石窟の発見


【関野貞が発見した天龍山石窟~当地方面調査旅行の際、偶々発見(1918年)】


天龍山石窟を初めて発見したのは、建築史学者・関野貞でした。

223天龍山石窟①:関野貞
関野貞(1868~1935)

大正7年、1918年の6月末のことです。

関野貞は、研究誌「国華」に掲載した調査報告「天龍山石窟」の冒頭、このように記しています。

「去大正七年春夏の頃支那に遊びし時、余は偶然太原縣の天龍山に於て、北齊時代の比較的大規模なる石窟を發見し、併せて隋唐時代の優秀なる石佛多數を調査する事を得たり。
此天龍山石窟は山間僻陬の地に在るを以て、從來人の知る者少く、且造象銘を有する者僅に一處に過ぎざるにより、特に金石文を重視するの風ある彼國學者の注意を惹く事も少なかりき。
余は當時かゝる重要なる石窟あるを豫想せず、其發見は寧偶然とも稱すべかりしなり。」
(関野貞「天龍山石窟」国華375号1921.08)

関野貞は、大正7年(1918)2月~9月、官命による中国へ調査に赴きました。
32歳の頃です。
満州、河北、山西方面を訪ね、雲岡、竜門石窟をはじめ各地の仏教遺跡、建築物を調査しました。

そして太原を訪れた時、天龍山石窟を発見することとなります。

関野自身は、偶然の発見として、
「其の發見は、寧ろ、偶然とも稱すべかしなり」
と語っていますが、
実際には事前に「山西通志」や「太原縣志」などの地誌により予備知識を得て、あたりをつけていたことが判っていて、その発見は周到な準備がもたらした成果であったようです。



【山崖を苦心惨憺よじ登り、執着心で発見した石窟、石仏像】


とはいっても、その探索調査は、相当に大変なものであったようです。

天龍山山上に聖寿寺というのがあるのを聞き、馬と徒歩で4時間半を費やしてたどり着いたところ、その山崖絶頂近くに石窟が列なるのを見て、苦心惨憺よじ登り、いくつもの石窟、石仏像を発見したということです。
大変な執念、執着心での新発見というものでありました。

223天龍山石窟①:関野発見当時の天龍山石窟(「国華」論文掲載写真)

223天龍山石窟①:関野発見当時の天龍山石窟(「国華」論文掲載写真)
関野発見当時の天龍山石窟(「国華」論文掲載写真)

探索発見の状況について、関野は、このように記しています。

「石窟石仏等に就き、知縣及び多くの土民に問ひ質せしも、知る者全く無かりき。」
(関野貞「天龍山石窟」国華375号1921.08)

(断崖は)峻急なるを以って崩壊せる岩片流砂の如く、殆ど足を留むべからず。
石窟に達するは極めて困難の事なり。
・・・・・・
是等の石窟は砂岩石より成れるを以って、風雨のために摩損せる處少なからずとも、僻遠の地且つ登攀困難なるが為訪ふ人も少なく、故意に仏像を破壊せる所なく、比較的よく保存せられたるは喜ぶべし。」

「余、今回太原に遊び、図らず天龍山に於て石窟を調査し、之を学界に紹介するを得たるを喜ぶ。」
(関野貞「西遊雑信・上」建築雑誌384号1918)

苦労して石窟を発見した、関野の感激が眼に浮かぶようです。

このような経緯による発見でありましたが、「天龍山石窟」は、

「未知の、斉~唐代仏教石窟遺蹟の大発見」

というものでありました。



【短時日で満足には行えなかった石窟調査
~研究誌に発表された発見調査報告は、充実の内容】

関野貞は、、その年(1918)の「建築雑誌384号」に掲載された「西遊雑信・上」のなかで、簡単に石窟発見についての概要を記したうえで、3年後の1921年に「国華375号」に「天龍山石窟」と題した調査報告論文を掲載発表しました。

関野の天龍山石窟発見調査は、一泊二日という極々短い間で、18窟以西の窟は調査されていないのですが、「国華」に発表された論文は、そんな短期間の調査とは思えぬほどの大変充実した内容で、スケッチされた諸窟の平面見取図まで掲載されています。

223天龍山石窟①:関野貞作成の天龍山石窟見取り図(「国華」論文掲載図)

223天龍山石窟①:関野貞作成の天龍山石窟見取り図(「国華」論文掲載図)
関野貞作成の天龍山石窟・平面見取り図(「国華」論文掲載図

ただ、時間も準備も不足なあわただしい調査で、撮影用のガラス乾板も1ダースしか持参しておらず、満足な写真撮影も行うことも出来ないものでした。



【関野が最も感銘、絶賛したのは、唐代の美麗な踏下菩薩像(14窟)】


関野が、最も感銘し評価したのは、第14窟の唐代の踏み下げ菩薩坐像(関野論文では11窟と表記)で、

「蓋、唐初の傑作、姿勢整い權衡美に、其衣文の優雅にして而も勁健・・・・・・
其面相の豊麗にして體躯衣文の写実の妙を極めたる、之を龍門幾千の唐作仏像に比するに、殆ど之に比肩する者稀なりを覚ゆ。」
(関野貞「天龍山石窟」国華375号1921.08)

と、龍門石窟の唐代石仏よりも見事なものと絶賛しています。

論文冒頭には、本像の一面写真が掲載されています。

223天龍山石窟①:関野貞が絶賛した14窟菩薩踏下像(「国華」論文掲載写真)
関野貞が絶賛した14窟菩薩踏下像(「国華」論文掲載写真)

なお、この像も流出していて、現在は、東京国立博物館の所蔵となっています。

223天龍山石窟①:現在東京国立博物館蔵となっている第14窟・踏下菩薩像

223天龍山石窟①:現在東京国立博物館蔵となっている第14窟・踏下菩薩像
現在東京国立博物館蔵となっている第14窟・踏下菩薩像



【天龍山石窟発見者として名を残すことになった関野貞
~~雲岡石窟の発見も日本人研究者、伊東忠太】


こうして、関野貞は、「天龍山石窟の発見者」として、その名を残すことになりました。

ご存じの通り、「雲岡石窟の発見者」は伊東忠太で、明治35年(1902)に北清建築調査のため山西省大同を訪れたときに発見したものです。

223天龍山石窟①:伊東忠太223天龍山石窟①:雲岡石窟発見時露座大仏前の伊東忠太(向かって右)
(左)伊東忠太(1867~1954)
(右)雲岡石窟発見時露坐大仏前写真~向かって右が伊東忠太)


雲岡石窟に続いて天龍山石窟も、日本人研究者によって発見されたということになります。



【関野の発見以前に、欧米人が天龍山を訪ねているとの一説もあり】


ちょっと付けたりですが、関野貞が発見するよりも前に、欧米人が天龍山石窟を訪れたとしている論述があります。

シカゴ大学のハリー・バンダースタッペンとマリリン・リーの天龍山石窟に関する共著論考(The Sculpture of T'ien Lung Shan: Reconstruction and Dating:1965)に、典拠は示されていないのですが、

「1908年にドイツの建築家で中国建築の調査を行ったエルンスト・ベーシュマン、次いで1910年にアメリカ・フリーア美術館にその名を残す実業家でコレクターのチャールズ・ラング・フリーアが、天龍山石窟を訪問した。」

と、記されているそうです。

ただ、この二人が本当に天龍山石窟を訪れることがあったのかは不確かなようで、一つの説ではあるものの、

「天龍山石窟の発見者は、関野貞」

ということで、定着していると云って良いと思われます。