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観仏日々帖

新刊案内~仏像の修理修復にまつわる新刊書、二冊ご紹介 【2020.11.28】


仏像の修理修復をテーマにした本が、2冊、立て続けに出版されました。

それぞれ、全くタイプが違う本なのですが、ご紹介させていただきます。


「仏像さんを師とせよ~仏像修理の現場から」  八坂寿史著
2020年11月 淡交社刊 1870円 【231P】

218仏像の修理修復:「仏像さんを師とせよ」


「東京藝大 仏さま研究室」  樹原アンミツ著 
2020年10月 集英社文庫刊 748円 【336P】

218仏像の修理修復:「東京藝大 仏さま研究室」



【美術院国宝修理所・工房長の書下ろし~「仏像さんを師とせよ」】


まずは、
「仏像さんを師とせよ~仏像修理の現場から」
についてです。

著者の八坂寿史氏は、京都の美術院国宝修理所の工房長の任にある方です。

ご存じの通り、美術院国宝修理所は、主に国宝、重要文化財級の仏像や絵画、美術工芸品の修理修復を行っている処です。
正式には公益財団法人「美術院」と云い、明治期に岡倉天心が創設した美術院において、美術工芸品の模造、修理修復を担う部門として発祥し、現在に至っています。

国宝、重文級の仏像の修理修復は、全て美術院国宝修理所が担っているのではないかと思います。

「美術院の仏像修理の歴史」については、以前に、日々是古仏愛好HPの「明治の仏像模造と修理【修理編】」でご紹介したことがありますので、ご関心がおありの方はご覧ください。

八坂寿史氏は、1955年生まれ。
1980年に美術院入所以来、40年にわたって仏像修理に従事してきた現場の技術者で、東大寺南大門仁王像、東寺講堂諸仏、唐招提寺千手観音像など近年の美術院を代表する仏像修理に携わり、現在工房長としてご活躍中です。



【国宝・重文仏像修理現場の技術者・仏師ならではの、興味深い話が盛り沢山】


本の帯には、

「仏像修理のスペシャリスト集団、美術院工房長の奮闘記」
「多くの国宝、重要文化財の仏像を修理してきた筆者が40年にわたり書き綴った仏像修理秘話」

というリード文がつけられています。

目次をご覧ください。

218仏像の修理修復:「仏像さんを師とせよ」目次


早速、一読したのですが、リード文どおりの内容で、仏像修理の現場に長く携わってきた技術者・仏師ならではの、興味津々の話が豊富に語られています。

愉しく、面白く、読むことができました。

218仏像の修理修復:「仏像さんを師とせよ」掲載・唐招提寺千手観音像解体修理時写真
「仏像さんを師とせよ」掲載・唐招提寺千手観音像解体修理時写真



【一番興味深かったのは、修理技法や道具、工具の話】


私が、一番興味深かったのは、有名仏像の修理物語よりも、
「様々な材料と修理の方法」や「現場で使う道具」
などについてふれた話でした。

「修理仏像を解体するときの釘や鎹を抜く工具の話、矧ぎ目を接着している漆や膠の話、彫刻刀や砥石などの道具の話」

などは、普通の仏像彫刻の本には全く書いていない話で、まさに現場で修理にあたっている著者のような人からでないと聴くことができない、面白い話です。



【仏像造像技法の展開と「刃物と砥石」との関わり合いの話は、興味津々】


なかでも、一番興味深かったのは「砥石」の話でした。

彫刻刀など刃物の切れ味にとって、砥石の果たす役割の重要性が、いかに大きなものであるかを知りました。
仏像の造像技法の展開と「刃物と砥石」との関わり合いについて、著者自身の見方、考え方ということで、こんなことが述べられていました。
造像技法が、白鳳奈良時代から平安時代にかけて、塑像・乾漆像から一木彫像へ展開していく理由についてです。

「当時(註:白鳳奈良時代)、鋼はあっても良い砥石はまだ無く、木を彫るのは難しかったようです。
しかし楠(くすのき)で彫られたお像がいくつかおられることから、刃物が荒砥ぎの状態でも結構彫ることができる木だったのでしょう。」

「当時(註:奈良時代)、刃物はビンビンに砥げないので、きれいな木彫像は彫れません。
漆で造ろうにも材料は高価でした。
そこで、新たに生み出された技法で「木心乾漆像」というお像がつくられるようになります。」

「9世紀頃、京都市右京区鳴滝で世界に誇れる仕上げ砥石「本山砥石」が発見されました。
日本の仏師たちはこぞってこの砥石を使い始めたようで、木彫像は爆発的に広がりました。
一本の大木からお像を彫り出すことも可能となり、そのお像を「一木彫」といいます。
その反面、土由来のお像の造像はピタリと止まってしまいます。」

「刃物と砥石の発達」が、仏像の造像技法の展開、木彫像の隆盛に大きくかかわっているという話です。

白鳳、奈良時代の塑像、乾漆像から奈良末、平安時代の一木彫像へ展開した理由については、これまでも様々な要因が論じられています。

「刃物と砥石」の観点からだけでこれを語るのは、ちょっと無理があるように感じますが、
「彫刻技法の展開と、道具の発展と、素材用材との関係」
を、刃物などの道具、工具の発達との関係で捉えた見方には、誠に興味深いものがあります。
自ら鑿を執って仏像を彫る人ならではのコメントではないかと思います。

私は、かねがね、仏像彫刻技法の展開、木彫像の用材樹種の選択といった問題が、刃物など工具の発達展開といった現場工人の技術的問題と大きくかかわっているのではないかと思っているのですが、著者の「刃物と砥石」の話も、このような観点から誠に興味津々でした。
また、飛鳥時代木彫像の用材樹種がクスノキである事由についての、一つの有力な考え方にもなるように感じた次第です。


美術書にはあまりふれられることのない、仏像修理の現場の話を、気楽に愉しく読むことができる一書としてお薦めです。



【クスっと笑えてグっとくる青春ストーリー~「東京藝大 仏さま研究室」】


二番目は、
「東京藝大 仏さま研究室」
についてです。

AMAZONには、このような紹介文が載っています。

「2浪、3浪は当たり前、時には10浪以上の学生も・・・・
パンダと桜で賑わう上野公園に隣接する東京藝術大学。
通っている学生も教授も少し変わった人ばかり。
そんな東京藝大で、仏像の保存について研究する通称「仏さま研究室」の修了課題は、なかなか過酷で学生泣かせだ。
様々な思いを抱え、真心を込めながらも、「模刻」に悪戦苦闘する学生たちを描く、クスっと笑えてグっとくる青春ストーリー。」

紹介文で判るように、この本は、仏像の修理修復について書かれた本でもなんでもなくて、「東京藝大 仏さま研究室」を舞台にした、青春ストーリー小説のようです。



【小説のモデルは「東京藝大 保存修復彫刻研究室」
~地味な世界が、小説モデルの表舞台に】

実はこの本、まだ読んではいないのですが、舞台のモデルが「東京藝大 仏さま研究室」となっていたので、採り上げてみることにしました。

「東京藝大 仏さま研究室」というのは、正確には、

「東京藝術大学 大学院美術研究科 文化財保存学専攻 保存修復彫刻研究室」

のことです。
仏像の保存修復や模造などを通じて、日本の古典彫刻の学術的理論と実技の両方がわかる人材を育成するという研究室です。

「仏像の保存修復や模造研究」といった世界は、そもそもあまり知られていない地味な分野です。
東京藝大でも、絵画、音楽、建築といったトレンディーで「華のある世界」と違って、こっちの方は、言い方は良くないのですが、なかなか陽のあたらない日陰的な存在のような感じがします。

そんな「仏さま研究室」にスポットライトが当てられ、集英社文庫の青春小説の舞台に採り上げられたというのですから、私にとってはかなりのビックリでした。

どんな青春ストーリーが描かれているのでしょうか?
読んでみるのが愉しみです。



【近年、研究室活動の話題が、マスコミでいくつも採り上げに!】


さて、舞台となっている「東京藝術大学 保存修復彫刻研究室」
どんな活動をしているのか、ご存じでしょうか?

近年は、結構、マスコミに取り上げられたりしているのです。

・奈良県のマスコットキャラクター「せんとくん」の制作者、籔内佐斗司氏は、この「保存修復彫刻研究室の主任教授」です。

218仏像の修理修復:せんとくん
奈良県のマスコットキャラクター「せんとくん」

・2018年、会津磐梯町の慧日寺跡に、草創期(9世紀初)の本尊薬師如来像の巨像が復元制作され、話題を呼びましたが、本像の復元制作も、この研究室によるものです。
(この話は、観仏日々帖「会津・慧日寺跡に、草創当初の薬師如来復元像を安置」で紹介させていただきました。)

218仏像の修理修復:会津慧日寺・本尊薬師如来~復元製作像
会津慧日寺・本尊薬師如来~復元製作像

・今年(2020年)には、「天平時代が令和に蘇る!東大寺法華堂執金剛神像 完全復元プロジェクト」というクラウドファンディングが募られ、目標額を大幅に上回る17百万円余の寄附が集まりました。
新聞紙上でも度々採り上げられましたが、この復元制作プロジェクトも、本研究室によって推進されているものです。

218仏像の修理修復:東大寺法華堂執金剛神像完全復元プロジェクト・チラシ
東大寺法華堂執金剛神像完全復元プロジェクト・チラシ


こうした活動をはじめとした「東京藝術大学 保存修復彫刻研究室」の活動、研究成果についてご関心のある方は、 【本研究室のHP】 を、是非、ご覧になってください。



【実に興味深く、勉強になる「研究室HP」のコンテンツ】


このHPについては、よくご存じの方が多いのではないかと思いますが、実に興味深く、勉強になるウエッブサイトです。
本研究室の制作発表展、研究成果発表など、いろいろな活動が豊富に掲載されています。

コンテンツを読んでいると、若き研究室メンバーたちが古典彫刻の技法習熟、研究へ取り組む熱き情熱が、直に伝わってくるような感じがします。

なかでも、私が興味関心があるのは、  「Online Lecture」  「O.B Introduction」 のページです。

「Online Lecture」には、仏像の製作技法や工程についての、様々な研究成果のエッセンスが掲載されています。

「O.B Introduction」には、仏像の修理修復に携わってきた著名な研究家の、「来し方の思い出や貴重な経験談」などがインタビュー形式で掲載されています。
山崎隆之氏、松永忠興氏(元美術院国宝修理所)、小野寺久幸氏(元美術院国宝修理所長)、本間紀夫氏などのO.B Introductionは、大変興味深く読むことができました。

「東京藝術大学 保存修復彫刻研究室」のHPを、まだご覧になっておられない方は、是非一度、ジックリご覧になってみることをお薦めします。


いずれにせよ、日頃はあまり目立たない「東京藝術大学 保存修復彫刻研究室」が、文庫本の青春小説になり表舞台へ出てきたことが、ちょっと嬉しくなって、ご紹介させていただいた次第です。


トピックス~龍峰寺・千手観音像   「相模川流域のみほとけ展」一番の注目像 【2020.11.03】


現在、神奈川県立歴史博物館で 「相模川流域のみほとけ展」 (10/10~11/29) が開催されています。

217.龍峰寺:「相模川流域のみほとけ展」チラシ


展覧会場に入ると、いの一番にドーンと展示されているのが、海老名市にある龍峰寺の千手観音立像です。

217龍峰寺:龍峰寺・千手観音像

217.龍峰寺:龍峰寺・千手観音像
龍峰寺・千手観音像~「相模川流域のみほとけ展」図録掲載写真


像高:192㎝の堂々たる木彫像で、重要文化財に指定されています。



【「奈良~鎌倉時代」というキャプションにビックリ!
~注目展示の龍峰寺・千手観音像】

ビックリしたのは、この観音像の制作年代のキャプションです。

「奈良~鎌倉時代」

となっているのです。
「エーッ!! こんな時代設定ってありうるの?」
と、声を挙げそうになってしまいました。

奈良時代の末から鎌倉時代までは、なんと400年以上もあります。
どのように考えればよいのでしょうか?

この千手観音像の写真をご覧になって、どう感じられたでしょうか?

まず目に付くのは、次のようなところではないでしょうか。



【仏手を頭上に上げる、清水寺式千手観音像】


一番目には、仏手を頭上にあげ、手を組んでその上に化仏をのせる千手の姿だと思います。

所謂、清水寺式の千手観音像です。
清水寺式千手観音というのは、ご存じの通り、僧・賢心(後に延鎮と改名)と坂上田村麻呂が協力して、延暦17年(798)に伽藍を造営した京都・清水寺の本尊像が、このスタイルであったとされることから、そのように名づけられているものです。

現在、京都・清水寺に祀られる秘仏本尊は、鎌倉時代制作のものですが、当然のことながら、清水寺式の千手観音の像容となっています。
このスタイルの千手観音像は、結構珍しくて、あまり見かけることはありません。



【玉眼のお顔の造形は、鎌倉彫刻そのもの】


二番目には、お顔の造形が、いかにも「鎌倉彫刻そのもの」ということではないでしょうか。

キリリと男性的な顔立ちは、まさに鎌倉様という面貌です。
そして、眼には玉眼が嵌め込まれています。

誰がみても、典型的な鎌倉彫刻で、異論をさしはさむ余地など全くありません。



【腰から下のプロポーション、衣文表現は大変古様~奈良様の系譜か?】


三番目は、腹部、腰から下の造形と衣文表現でしょう。

大変に古様なのです。
ちょっと腰高でバランスの良い下半身のプロポーションは、所謂、奈良様の仏像を思わせるものがあります。
とりわけ目を惹くのは、腰から下の衣文表現です。
鎬を立てず、丸みを帯びて粘りのある衣文は、乾漆像のそれを連想させる、ふくらみと弾力ある表現なのです。
これまた奈良様を想起させる造形表現なのです。

下半身の写真だけを見れば、これは平安前中期までの古像に間違いないと感じることと思います。
それも、平安前期のボリューム感ある体躯、鋭い彫り口、鎬だった衣文という造形タイプではなくて、奈良時代の乾漆像の系譜にある造形表現の像だと感じることでしょう。



【従来の見解は、鎌倉時代制作の古様に倣った模古的像】


「鎌倉時代の典型」と「奈良様の造形表現」が、何故だか同居している不思議な龍峰寺の千手観音像。
どのように考えればよいのでしょうか。

この観音像、私自身は、2008年に奈良国立博物館の「西国三十三ヶ所展」に出展された時に観ているはずなのですが、まったく記憶の片隅にもありませんでした。

そこで、これまでどのように解説されていたのか調べてみた処、
「神奈川県文化財図鑑・彫刻編」(1975刊)、「仏像集成・第1巻」(1989刊)、「海老名市史・第2巻中世篇」(1998刊)、「西国三十三ヶ所展図録」(2008刊)
に、本像が採り上げられていました。

いずれの解説も、鎌倉の典型と云える面貌と、古様な体躯、衣文表現が同居していることを認めながらも、

「鎌倉時代制作の古様に倣った像」

と述べられていました。

「この像の制作のときについては、なかなかすぐ結論を出しにくい。
それについては、一応二説が考えられよう。
つまり、一木彫成像らしい特色を重視して、その制作を平安朝のものとみとめ、いまの玉眼を入れた面相部を後補のものとみるか、または鎌倉の後期ころに、何らかのわけによって損傷ないし亡失した一木造りの古い本尊にならってそれを再興したかのいずれかである。
この像には、ぜんたいに古様を模したような特色が見のがせないので、あるいは鎌倉再興説が当っているのではあるまいか。」
(「神奈川県文化財図鑑・彫刻編」神奈川県教育委員会刊1975.03解説)


(註:造形、衣文表現などを見ると)奈良時代の仏像をみるような表現形式を示す。
このような古式の衣褶表現の選択には、なんらかの古像の模刻という製作事情が想定できようか。
・・・・・
玉眼の技法や古式の構造技法と併せ考えると、製作は鎌倉時代初期かと推測される。」
(「西国三十三ヶ所展図録」奈良国立博物館2008.03解説)

このような解説です。

新旧両様が同居している問題に言及しながらも、

「何らかの理由で、古像に倣って鎌倉時代に模古的に造られた像ではないか。」

と解説されていますが、なかなか断定的に鎌倉作と言い切れない悩ましさを感じないわけではありません。
鎌倉時代の制作との見方がされているのは、典型的鎌倉様の面貌、玉眼が、決め手になっているのでしょうか。

因みに、本像が大正14年(1925)に旧国宝に指定された時以来、文化財指定は「鎌倉時代」となっています。



【奈良様の優作、広隆寺・千手観音像を想起させる造形、衣文表現~私の印象】


私が、この観音像を眼近に観て、最も目を惹きつけられたのは、腰から下、下半身の造形でした。
想定外の古様なのです。

この観音像の腰から下の衣文表現や、造形プロポーションを観ていると、京都広隆寺の不空羂索観音立像の表現を連想してしまいました。

217.龍峰寺:広隆寺・不空羂索観音像
広隆寺・不空羂索観音像~乾漆像を思わせる造形

ご存じの通り、広隆寺・不空羂索観音像は、奈良末~平安前期に制作された像(弘仁9年(818)の火災以前に造立)で、奈良時代の乾漆像の表現をそのまま木彫像に置き換えたような、「所謂奈良様の造形表現の優作」として知られています。
衣文の表現などは、まさに乾漆像の衣文かと見紛うようです。

龍峰寺像は、広隆寺像のような弾力的で粘りのある衣文表現や、腰高でスリムな見事なプロポーションには、到底及ばないのですが、どこかしら通じるものを強く感じてしまいました。

急に興味が沸いてきて、奈良時代の乾漆像や、奈良様乾漆系表現をとどめるといわれる平安の菩薩立像の腰から下の衣文表現の写真を並べてみてみました。


【 奈良様乾漆像の系譜といわれる諸像の脚部写真】

217.龍峰寺:聖林寺・十一面観音像~脚部217.龍峰寺:矢田寺金剛山寺・十一面観音像~脚部217.龍峰寺:広隆寺・不空羂索観音像~脚部
(左)聖林寺・十一面観音像:8C、(中)矢田寺・十一面観音像:奈良末、(右)広隆寺・不空羂索観音像:818年以前


217.龍峰寺:広隆寺・千手観音像~脚部217.龍峰寺:黒田観音寺・伝千手観音像~脚部217.龍峰寺:雨宝院・千手観音像~脚部
(左)広隆寺・千手観音像:9C、(中)黒田観音寺・伝千手観音像:9C、(右)雨宝院・千手観音像:10C初

如何でしょうか?
それぞれ傑作、優作と認められている諸像です。

龍峰寺の観音像は、奈良様の系譜にある像の中でも、やはり広隆寺の不空羂索観音像の表現に一番似た雰囲気を持っているように感じます。

217.龍峰寺:龍峰寺・千手観音像~脚部
龍峰寺・千手観音像~脚部

龍峰寺像は、これら諸像と比べると、衣文の表現の抑揚も浅く、平板な感は否めません。
また、後世の手が入っているのかもしれませんが、古様な表現だと改めて納得した次第です。



【カヤ材の一木彫で、内刳り無し~平安前期以前の古像の特徴か?】


このほかにも、龍峰寺・千手観音像は、材質、構造などに注目すべきものがあるのです。

本像は、カヤ材の一木彫像で、髻から地付きまで一材 (千手は別材、後補) 、内刳りも目視の限りでは無いようだということなのです。
また、頭部、面部は、内刳りを施した内部から玉眼を嵌めるのではなくて、能面をつけるように、耳の前で面部を矧ぎつけて、玉眼の顔を造っているということです。
面部を矧ぎつけて玉眼を入れるのは、大変珍しい技法です。
(六波羅蜜寺・地蔵菩薩坐像、鎌倉寿福寺・地蔵菩薩立像、醍醐寺金堂・薬師三尊像脇侍像等の例あり)

内刳りのない一木彫というのは、鎌倉時代では一般的に考えられない古様な構造です。
用材が平安前期以前の像に特徴的なカヤ材ということも、本像が、平安前中期以前の古像であることを示唆しているように思えます。



【模古作特有の匂いが感じられない古様な衣文表現
~古像を鎌倉時代に改修か?】

ご紹介した「解説文」では、
「鎌倉時代に、古様に倣って制作された像」
と思われるということでしたが、
「果たして、本当にそうなのだろうか?」
そんな気がしてきます。

一般的には、後の時代に古様に倣って模作的に造った像だとしても、どこかしら新しい時代の雰囲気の表現が、自然と滲みだしてしまうというものだと思います。
本像でいえば、模古作だとしても、衣文表現などに鎌倉的雰囲気が滲みだすのが常なのではないでしょうか。
ところが、この観音像は、玉眼を入れるなどバリバリの鎌倉時代の面貌表現となっているのにもかかわらず、衣文の造形表現などは古様な表現そのもので、鎌倉的なものが何処かに顔を出すという感じが全くしないなというのが、私の印象です。

むしろ、
「平安前中期以前の古像が、鎌倉時代に大幅に修復、後補され、面部が玉眼に改造されるなどして、今の姿になったのではないか」
と考えた方が、
ごく自然なのではないかというのが、私の率直な感想でした。



【「奈良~鎌倉時代」とした展覧会の作品解説は~奈良時代制作像を示唆】


さて、展覧会の制作年代キャプションが、
「奈良~鎌倉時代」
となっていて、驚いた話を冒頭にご紹介しました。

このような制作年代表記とされたことについての作品解説は、どのように述べられているのでしょうか。

展覧会図録の解説文を、一部ご紹介します。

「本像の製作年代は、面部に玉眼の技法が用いられることを重視し鎌倉時代とされ、随所にみられる古い形式は古像を手本に鎌倉時代に模刻されたと評価される。

しかし、その古い形式に目をむけてみると、裙の膝前にみえる翻波式衣文、裾の正面打ち合わせ部の渦文、背面で一度たるませてから両肩に懸る天衣等に奈良時代後期から平安時代前期の特徴が認められる。
また、構造はカヤ材を用いた一木造り(内刳りの有無は不明、目視の限り内刳りは無い)で、髻から地付までを一材で彫り出す点に、同じく奈良末から平安時代の仏像に近い要素があると言える。

このように形状や構造から素直にみれば、鎌倉時代の模古作と考えるよりも奈良時代後期から平安時代前期に造られたと考えた方が自然ではないだろうか。
・・・・・・・・
脇手やその持物は全て後補で、何度も修理を経てきたことを考慮すれば、本体の大部分に奈良時代の遺風を留めていると考えられないだろうか。」
(「相模川流域のみほとけ展図録」2020.10~解説執筆:神野佑太氏)

キャプションが「奈良~鎌倉時代」と大きな幅を持たせているのは、このような訳ということです。
制作年代を奈良時代まで遡らせることを示唆しつつ、平安前中期以前の古像と見るべきではないかとの問題提起をされているようです。

この解説には、私も「基本的には、同感!」です。
個人的な感想で、何の根拠もないのですが、私は、10世紀前半ぐらいの、奈良様を継承した古様な一木彫像なのかなというフィーリングがしましたが・・・・・・・



【奈良時代の制作に遡るなら、驚きの「関東最古の木彫像」に!】


もし龍峰寺・千手観音像が、奈良時代までさかのぼり得るとすると、「関東最古の木彫像」ということになろうかと思います。

現在、関東地方で最古の木彫像は、9世紀の制作とされる箱根神社の万巻上人像です。
また、9世紀の制作の可能性が語られる像も数少なく、私の思いつく像は、埼玉県 浄山寺・地蔵菩薩像、千葉県 小松寺・薬師如来像、東京都豊島区 勝林寺・薬師如来像ぐらいではないでしょうか。

これらの像より一段と古いということになれば、修復像であったとしても、何といっても「大注目の古像」ということになるわけです。



【本像の伝来、由来は?~頼朝建立の清水寺本尊と伝えられる】


本像の伝来由来などは、たどれるのでしょうか?

この観音像は、元々当地にあった「清水寺」の御本尊でした。
清水寺は、明治初年に廃寺になり、近世には本寺となっていた龍峰寺が、昭和に入って清水寺の地に移転してきて現在に至っているそうです。

確かな伝来は判らないようなのですが、近世の地誌「新編相模国風土記稿」には、本像は、京都清水寺本尊造立と同時期に造られたものであったが、文治2年(1185)に相模川下流で発見され、源頼朝が堂宇を造らせ「清水寺」に安置したと伝えられています。

また、もう一つ気になることは、この清水寺のあった近くには、相模国分寺・国分尼寺があったことです。
国分寺跡・国分尼寺跡は、現在も史跡として保存されています。



【国分寺ゆかりの古像を、鎌倉時代に清水寺式千手観音像に改修か?
~一つの空想ストーリー】

このよう話から、勝手に空想を逞しくすると、次のようなストーリーを想像することも、可能なのかもしれません。

・龍峰寺・千手観音像は、そもそもは「国分寺・国分尼寺」ゆかりの像で、奈良末~平安頃に造立された。

・その像が、何らかのいきさつで、鎌倉時代に建立された「清水寺」の御本尊として祀られることになった。
この時、仏手が清水寺式の千手観音像に改修され、面部も新たに玉眼にされて矧ぎつけられた。

・そのような経緯で、平安以前の古様と鎌倉新様が同居した清水寺式千手観音像の姿となり、今日まで伝えられてきた。



【急に興味津々となり、龍峰寺、相模国分寺跡を訪ねる】


博物館で、龍峰寺の千手観音像を観て、急に興味津々になって、海老名まで車で出かけて、龍峰寺と相模国分寺・国分尼寺跡を訪ねてみました。

龍峰寺は、現在清水寺公園となっている処の隣りにある、静かで落ち着いたお寺でした。

217.龍峰寺:龍峰寺・観音堂
龍峰寺・観音堂

217.龍峰寺:龍峰寺・観音堂内陣
御前立千手観音像(室町時代)が祀られる観音堂内陣
本尊千手観音像は、現在は収蔵庫に安置されている


相模国分寺跡は、礎石などが遺されていて、公園のように整備保存されていましたが、その広大な敷地は往時の伽藍の壮大さを偲ばせるものでした。

217.龍峰寺:相模国分寺跡
保存整備されている相模国分寺跡

217.龍峰寺:相模国分寺・伽藍復元模型
相模国分寺・伽藍復元模型~隣設の海老名市温故館に展示

秋深まるなか、龍峰寺や国分寺跡をぶらぶらと散策していると、こんな空想のような千手観音像の伝来話が、本当であってほしいと願うような気持ちになってきました。