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観仏日々帖

新刊案内~「大仏師運慶~工房と発願主そして写実とは」 塩澤寛樹著 【2020.10.18】


新刊予定情報を知って、発刊されるのを愉しみに待っていた本でした。


「大仏師運慶~工房と発願主そして写実とは」

塩澤寛樹著 講談社選書メチエ 2020年9月刊 【268P】 1750円


216.大仏師運慶・「大仏師運慶」



【前著「仏師たちの南都復興」に続く、興味津々の問題提起の本】


というのも、塩澤氏の前著、 「仏師たちの南都復興」(2016年吉川弘文館刊) が、「~鎌倉時代彫刻史を見なおす~」との副題の通り、興味津々の問題提起となっている本であったからです。

私は、この前著に大いなる知的興奮を覚え、惹き込まれるように読みふけってしまいました。

216.大仏師運慶・「仏師たちの南都復興」

その要旨や興味深かったポイントなどについては、観仏日々帖・新刊案内「仏師たちの南都復興」で、ご紹介させていただいた通りです。


そんなわけで、今度はどんなことが書いてあるのだろうかと、新著「大仏師運慶」を心待ちにしていたという訳です。
前著の内容とかぶるところもありましたが、またまた大変興味深く読むことができました。



【「鎌倉彫刻の完成者、運慶」という常識の、見直しを問題提起】


前著は、南都復興造像の担い手の再検証などを通じて 「鎌倉時代彫刻≒慶派の時代」 という既成概念を見直そうとする問題提起でした。

新著「大仏師運慶」では、その慶派の象徴ともいえる「運慶」にスポットを当てて、その実像に迫りつつ、 「運慶によって完成を遂げた鎌倉彫刻」 という既成概念の見直しの必要性にも言及するという興味津々の内容です。

本書の表紙と、帯には、このようなキャプションが付されています。

「鎌倉時代の大仏師、運慶とはいかなる存在だったのか。
・・・・・・
朝廷・幕府という二元的支配構造による時代の大きな変動期、・・・・・・
様々な造像に関わった、その実情と、工房主催者としての制作力とは?
後に「天才」とも冠される運慶の実像に迫る。」

「運慶は常に鎌倉彫刻研究の中心であり、一般の人気も高い、いわばスター的存在である。
・・・・・・・
近代以降の鎌倉彫刻史を総括すると、主要な論点はほとんど運慶が主役となり、逆に運慶論を総括すると、鎌倉彫刻史の主要な論点が含まれる。
・・・・・・・
明治以来の大枠を見直し、定説的な見方にとらわれずに・・・・改めて考えてみたい。
すると、伝統的な運慶論や鎌倉彫刻論の修正を迫るいくつかの問題点が浮かび上がる。」

このキャプションで、本書のテーマが凡そご想像がついたのではないかと思いますが、具体的内容については、次の目次をご覧ください。

216.大仏師運慶・「大仏師運慶」目次①
216.大仏師運慶・「大仏師運慶」目次②



【一番の関心テーマは、「慶派」「運慶」の近現代評価と、鎌倉期当時位置付けとのギャップ】


各項立の中身にふれていくとキリがありませんので、本書をお読みいただきたいのですが、どのテーマも大変興味深く、新鮮な気持ちで読むことができました。

私が、本書で、一番関心を持ったテーマは、

「鎌倉時代彫刻」「慶派」「運慶」の近現代における評価や位置付けと、鎌倉時代当時のそれぞれの実態には、かなりのギャップがあるのではないか?

という問題提起について、どのように論じられているかでした。

本書「大仏師運慶」と前著「仏師たちの南都復興」で論じられた内容のポイントを、ご紹介したいと思います。



【常識的定説は「鎌倉彫刻は慶派の時代、鎌倉新様式の完成者は運慶」】


まずは、鎌倉時代彫刻における「慶派」と「運慶」の位置付け、語られ方です。

一般的には、次のような論述が、常識的な鎌倉彫刻史観になっていると思います。

・鎌倉時代彫刻の新様式は、運慶・快慶らの慶派によって推進、完成された。

・それまで優位にあった円派、院派は、南都復興造像における慶派の活躍を契機に、主役の座を慶派にとってかわられることとなり、以後の鎌倉時代彫刻では慶派が覇を唱えるに至った。

・慶派を中心とする鎌倉時代彫刻の特質は写実性にあり、実在感、力強さなども加え、天平復古、宋風摂取がみられる新様式で、日本彫刻史の総決算ともいえるものである。

・鎌倉彫刻は、偉大なる天才「運慶」の創り上げた表現に代表され、「運慶」によって完成を遂げたものである。



【塩澤氏による定説への問題提起
~正系三派(院派、円派、慶派)体制が守られていた、鎌倉時代造像】

こうした常識ともいえる定説に疑問を投げかけ、問題提起を行ったのが、塩澤氏の二著です。
その論旨のエッセンスをご紹介します。

まず、
「鎌倉時代彫刻は、慶派が主役となり覇を唱えた。」
という点については、
塩澤氏は、次のように論じています。

・鎌倉時代の造像は、新様式の慶派の一人勝ちで、慶派のみが圧倒的優位に立ったという訳ではない。

・当時の造像は、院派、円派、慶派の正系三派体制の下で行われており、南都復興造像においても正系三派体制の原則は守られていた。

・鎌倉時代は、「京都の朝廷と、鎌倉の幕府」という、東西二つの中心がある二極構造社会となっていて、仏像造像もこれを反映した二元的構造であった。

・京都奈良における朝廷中心の造像においては、院派、円派、慶派の正系三派体制がしっかりとまもられ、鎌倉幕府中心の造像においては、慶派が主役となった。

・「鎌倉彫刻≒慶派の時代」と受け止められているが、京都を中心とする諸寺の造像においては、「伝統様式を受け継ぐ院派、円派」と「新様式の慶派」の三派が鼎立してシェアするという、正系三派体制が守られていたというのが、現実の姿であった。


このあたりまでは、以前の観仏日々帖・新刊案内「仏師たちの南都復興」で、詳しく紹介させていただいた通りです。



【運慶没後、後世になってから喧伝、確立されていった伝説的名声
~運慶活躍時代は、他を圧するほどではなかった?】

次に、
「鎌倉彫刻は、偉大な天才「運慶」によって創り上げられ完成した。」
という定評については、どうでしょうか。

「運慶一タヒ出テ天下復タ彫刻ナシ」
これは、明治23年(1890)刊、国華11号掲載の「東大寺南大門金剛力士像解説」の冒頭の言葉です。
このフレーズに象徴されるように、明治時代、運慶は、天下無双の天才仏師としての評価が確立されていたのは間違いありません。

ところで、仏師運慶への高い評価、名声は、運慶が活躍した鎌倉時代には、もうすでに確立していたのでしょうか?

塩澤氏は、
「鎌倉時代当時、運慶は、圧倒的名声を得ていた訳ではなかった。」
と問題提起し、このように論じています。

・生前の運慶は、一定の評価を受けていたのは事実だが、同時代の円派や院派の仏師に比して隔絶するほど、高い名声があった訳ではない。

・南都復興造像でも、運慶は必ずしも最大の功績を挙げた仏師とは言えない。
鎌倉幕府関係造仏での運慶の名声はあったものの、朝廷関与の造像では、後鳥羽院院政期でも第一人者たる活躍を果たしたとは言えない。
(南都復興造像では、第一が院尊、ついで康慶、明円、運慶といった顔ぶれ、その後の朝廷関与造像では院派が主流)

・「七条仏師」と云われた運慶後継者たちは、「東寺大仏師職の代々継承」を固守することにより勢力の保持拡張を果たしてきたが、その正当性を示すために「東寺大仏師職が運慶に始まる」ことを広く世に喧伝、流布した。
近世に至っても「七条仏師」たちが自己の系譜を正当化するために運慶の権威付けを行い、運慶の名声の伝承者の役割を果たした。

・このように、運慶の名声は、没後に次第に高まり、近世には偉大な仏師との伝説的名声が確立されることになった。

以上の通り、運慶の名声は、その活躍時代は他を圧するほど高くなかったが、没後後代、近世に至るまでに権威づけられ、圧倒的名声が神話的に創り上げられていった。

そして、明治以降の近代美術史の中でも、
「鎌倉彫刻の代表者、完成者たる偉大な天才」
という評価を今日までも得続けているという訳です。



【定着している 「鎌倉彫刻≒慶派の仏像≒運慶」 という彫刻史観】


著名な美術史学者の慶派と運慶についての論述を見ても、大胆に云うと
「鎌倉彫刻≒慶派の仏像≒運慶 (快慶)
という評価は、明らかなようです。

「鎌倉彫刻はほとんど運慶派のみによってつくられたのではないかと思われるほど旺盛」
「運慶は、鎌倉彫刻の創始者であると同時に、またその完成者」
(小林剛「鎌倉彫刻史概観」日本彫刻史研究・養徳社刊1947)

「鎌倉彫刻が運慶一派によって代表され」
「鎌倉時代の中心的彫刻様式は運慶によって完成を遂げた」
(毛利久「仏師快慶論」吉川弘文館刊1961)

このような論述に代表される鎌倉彫刻史観が、一般的に定着していると云って良いと思います。



【近代日本美術史の評価観形成の4つポイント~西欧芸術評価の規範を採り入れ】


塩澤氏は、本書で、「近現代の慶派・運慶中心の鎌倉彫刻史観」と「鎌倉時代当時の正系三派体制造像の実態」との間に、このようなギャップが生じたのは、近現代における美術の価値観、評価基準が大きくかかわり、鎌倉彫刻史観を形成したからではないかと論じています。

近代の日本美術史評価における価値観のポイントとして、次の4点が挙げられています。

①変化の肯定
②独創性、オリジナリティーの優越
③作家の立場の重視
④リアリズム(写実主義)の重視

こうした価値観は、、西欧近代社会における芸術評価の規範そのものと云ってもよいものです。
明治以降の我が国の近代美術史は、この評価規範をそのまま採り入れることによって形成、確立されてきたことによるものと云って良いのでしょう。



【近代評価観にピッタリ合致する慶派と運慶の仏像】


確かに、この価値観に則れば、慶派と運慶が、圧倒的にクローズアップされ評価されるのは当然の理と云えるのでしょう。
「武家社会への転換のなかでの鎌倉新様式、写実的ダイナミック表現、天才運慶」
といったキーワードが、見事に当てはまります。

東大寺南大門・仁王像、願成就院・毘沙門天像、興福寺北円堂・無著世親像などは、まさにこの4つの価値観にピッタリとハマる典型像のように思えます。

216.大仏師運慶・東大寺南大門・仁王像216.大仏師運慶・東大寺南大門・仁王像
東大寺南大門・仁王像

216.大仏師運慶・願成就院・毘沙門天像
静岡 願成就院・毘沙門天像

216.大仏師運慶・興福寺北円堂・無著像216.大仏師運慶・興福寺北円堂・世親像
興福寺北円堂・無著世親像

一方で、院派、円派の仏像が、
「旧来勢力(朝廷貴族)依拠、保守的・守旧的、ワンパターン的画一表現、没個性」
というキーワードで象徴され、美術史上あまり評価されなかったことも、当然の納得という処です。

216.大仏師運慶・長講堂・阿弥陀三尊像(院派・院尊作?)
京都 長講堂・阿弥陀三尊像(院派・院尊作か)

216.大仏師運慶・宝積寺・十一面観音像(院派・院範作?)
京都 宝積寺・十一面観音像(院派・院範作か)

加えて、南都復興造像期の現存像が慶派の仏像ばかりに片寄っていることや、院派、円派の有力な現存仏像の遺品が、慶派と比べて大変少ないことも、このような鎌倉彫刻評価観を形成する要因となったとも見られるということです。


「仏像の美術的評価」というのは、今日現在の美的感覚「美のモノサシ」でなされるものであることは言うまでもありません。
また、その美の価値観、評価観というものは、時と共に移ろい変化していくものであることも間違いないものです。

近現代の感覚でいえば、慶派の仏像、運慶の仏像が、鎌倉彫刻を代表する優れた新様式の造形と感じるのは、私自身も同様ですし、当たり前の一般的美意識だと思います。
円派や院派の仏像を高く評価しろと言われても、肌感覚として納得いかないというのが、率直な実感です。

しかし、塩澤氏が問題提起する、鎌倉時代当時の正系三派の仏師集団の位置付けの実態がどうであったのかということを正しく理解しておくことも、これまた大変重要なことであると思います。

以前に、近現代の仏像評価観について「近代仏像評価の変遷をたどって」という連載を、日々是古仏愛好HPに掲載させていただいたことがあります。
この話に関連して、ご参考になればと思います。



【「偉大な天才」と論じられた、明治以来、近代「運慶評価の言説」】


もう一つ、この話に加えて注目しておかなければならないことは、近現代美術史における「運慶評価の言説」についてです。

これまで触れたように、明治期に日本美術史が論じられるようになって以来、

「運慶は、鎌倉彫刻の完成者で偉大なる天才」

という圧倒的評価は揺るがぬものとなり、今日に至っています。
明治23年の国華誌で「「運慶一タヒ出テ天下復タ彫刻ナシ」と称された通りです。



【運慶作品の発見特定のほとんどは昭和戦後期以降
~明治期、運慶作確定像は、東大寺南大門・仁王像だけ】


ところが、不可思議で驚くべきことは、現在、運慶作品と特定されている仏像で、明治時代に運慶作が明らかになっていたのは、唯一、東大寺南大門・仁王像だけであったのです。

現在、一般に運慶作品に間違いないと特定されている作品は、13件35躯と云われていますが、そのほとんどは、昭和戦後に運慶作と発見特定されたものなのです。
明治期に運慶作かと思われていた仏像のほとんどは、運慶作ではなかったことが判明しているのです。

ご参考までに、 「運慶作とされる作品の「発見・判明」にかかわるトピックス年表」 を作ってみました。

216.大仏師運慶・運慶作品発見特定年リスト


ご覧の通りです。



【近世までの名声イメージ先行ともいえる、近代の運慶圧倒的評価の言説】


リストでもよく判るように、明治~昭和戦前まで、運慶作品と特定されていたのはわずか3件で、「運慶は偉大」と評価されながらも、運慶作品とはどのような仏像なのかが、明確にはなっていなかったという訳です。
明治期に始まる「鎌倉彫刻の完成者、偉大なる運慶」という言説は、近世までの圧倒的名声の既成概念に引きずられた、イメージ先行であったといわざるを得ないことになってしまいます。

確かに、「定朝様」、「快慶の安阿弥様」というのは、作風パターンが判り易いのですが、「運慶様」「運慶風」というのは、いかなる作風を指すのかと問われると、なかなか難しい処です。
昭和30年代の浄楽寺、願成就院像発見以来、近年、運慶作品が続々と発見特定されるに至って、ようやく運慶の造形、作風の研究が進んできたと云っても過言ではないのではないでしょうか。



【今日も、新たな運慶伝説を創り出し、喧伝しているかもしれない、近年の風潮】


運慶は、明治以来卓越した評価を得てきたことに加えて、近年は、新発見も相次ぎ、運慶フィーバーといった観があるようです。
こうした風潮に対して、根立研介氏は自著「運慶」の末尾を、このように記して締めくくっています。

「運慶研究は明治以降すでに百年以上続けられ、現在情報はかなり集積されてきているが、いまだわれわれは運慶の足跡を追うのに手いっぱいといってよいかもしれない。
その一方で、われわれは私を含め、運慶に関して数多くの言説をなしてきた。
そこには、言説者の思いに似たものも散りばめられ、運慶を讃える。
われわれは運慶の姿をなお暖味にしか把握できていないのにかかわらず、運慶像を巨大に膨れ上がらせているようにもみえる。
現在も、過去と同じように、新たな伝説を創出し運慶の名声を喧伝している時代なのかもしれない。」

近現代の運慶の評価観について、冷静に見つめた傾聴に値する指摘だと強く感じた次第です。



【本著「大仏師運慶」の、問題提起ポイントをまとめると】


塩澤氏の著書「大仏師運慶」の話に戻りたいと思います。
その終章に、本書の論旨のまとめが記されています。
終章のインデックスをご紹介すると、次の通りです。

・近代以降の言説と運慶
・造像構造の二元化
・鎌倉彫刻の表現特徴は「写実」ではなかった
・「中央」と「東国」という偏見
・天下無双ではなかった運慶
・運慶天才論の危うさ
・大仏師運慶の真実
・新しい運慶像と鎌倉彫刻像の先へ

誠に刺激的なインデックスです。

そこに問題提起されているテーマの片鱗は、ここまでご紹介した話で、少しだけ伺えたのではないかと思いますが、ご関心、ご興味が沸かれた方は、是非、本書を一読されることをお薦めします。

本書「大仏師運慶」を先に読まれてから、より詳しく論じられた前著「仏師たちの南都復興」の順で読まれると、塩澤氏の所論を判り易く知ることができるのではないかと思います。



【一読をお薦めしたい、新視点のもう一冊~根立研介氏著「運慶」】


新刊案内のついでに、もう1冊、ご紹介です。
この問題提起にご関心を持たれた方に、一読をお薦めしたいのが、根立研介氏の著作 「運慶~天下復タ彫刻ナシ」 (2009年 ミネルヴァ書房刊) です。

運慶を採り上げた本が数多ある中で、塩澤氏の問題提起に近い視点で、運慶の作品、事績を論じた著作です。

216.大仏師運慶・「運慶」根立研介著


【冒頭「はしがき」ふれられた、運慶評価への鋭い視点の指摘】


本の冒頭の「はしがき」には、このように述べられています。

「こうした(注記:運慶の)伝承や名声は近代にも持ち越され、平安時代後期の和様彫刻の伝統から脱却して鎌倉時代の新様式を打ち立てた仏師として彼を位置づける今日の一般的な評価も、その萌芽は日本で美術史学が成立してくる明治20年代頃から認められる。
・・・・・・
確かに、東大寺南大門の仁王像と、武を持って政権を誕生させた武士たちの気風を結びつけることは、ある意味わかりやすい言説である。
ただ、運慶が生きていた時代の人々も、現在のわれわれと同じように彼の彫刻を見ていたのであろうか。
あるいは、運慶の造形は武士の晴好のみを反映したようなものだったのであろうか。

こうしたことを突き詰めていくと、あまりに単純化した文化史記述の危うさの問題に至るが、本書に直接関わる問題として自覚しなければならないのは、平安時代から鎌倉時代へと展開する彫刻史を、従来はあまりに運慶を中心とする慶派の彫刻史として語っていた点であり、その語り口に問題があるように思われる。

そして、こうした彫刻史の語り口は、運慶を正確に評価することをむしろ妨げてきたのではなかろうか。
・・・・・・・
最近の運慶にかかわるマスコミ報道や、インターネットのブログの書き込みなどを見ると、現代は運慶神話を再び創出する時代かと疑いたくなるところもある。
・・・・・・・
今この評伝を書くに当り意識しなければならないのは、先に触れたようないささか騒がしい運慶をめぐる環境に少し距離を置いて、冷静な議論を行うよう努めることであろう。」

引用が少し長くなりましたが、運慶と鎌倉彫刻を考える上での、誠に鋭い視点の指摘だと思います。

是非、併せてご一読ください。


こぼれ話~美術史の時代区分の呼称と表記についての話〈その3〉 【2020.10.02】


美術史の時代区分の話の最後に、所謂「白鳳期」の話を採り上げてみたいと思います。

大化改新から平城遷都(645~710)までの期間の話です。



【奈良学の提唱者、青山茂氏も嘆じる、何とも判りにくい「白鳳の時代区分」】


この「時代区分の話」をご覧いただいたある方から、「奈良学」の提唱者で知られる青山茂氏が、自著にこんなことを書かれていると教えていただきました。

「ああ、白鳳時代の時代区分 ~ 書物と筆者で支離滅裂
(「大和寸感」2005年青垣出版刊所載~初出執筆1984年4月)

と題する短文です。

215.美術史の時代区分③大和寸感(青山茂著)
一節をご紹介します。

「日本美術史関係の本を読んでいて、かねがね心にひっかかるというか、気にかかることの一つに「白鳳時代」という時代区分がある。
・・・・・・
読む本の種類、つまりその本の著者によって、その「白鳳時代」という時代の示す客観年代が区々まちまちで、いったいこの著者の書いている白鳳時代はどの“尺度”による白鳳時代なのか、よく頭にいれて読まないとこちらの頭の中の方が混乱してくることしばしばなのである。
・・・・・・・
世間一般の多くの古美術愛好家のことを考えると、混乱するのは読む方の頭が悪い、と決めつけるのは官尊民卑の思いあがり。
白鳳時代についてコンセンサスの得られない美術史学者や当事者こそ責められるべきであろうと私は思う。」

と述べ、様々な白鳳期の時代区分画期の見解があることを、具体的に例示したうえで、このように語って締めくくられています。

「ここまでくると、混乱するなという方がむしろ無理難題だとご理解いただけよう。
ことのついでに“仏教美術入門展”を常設展としている奈良国立博物館を訪ねてみたが、粗雑な筆者の脳細胞が従来以上にますます支離滅裂になったことだけを報告しておこう。」


この文章を読んで、青山氏の云う「世間一般の古美術愛好家」である私も、
「まさに、その通り! 同感! 同感!」
と、思わず膝を打ってしまいました。

白鳳期というのは、これまで振り返ってきた「美術史独自の時代区分」という問題の論点や議論の悩ましさを、凝縮して象徴しているといってもよいと思います。

青山茂氏が語っているように、

「白鳳期をどう位置づけ、時代区分と画期をどのように設定するか」

の考え方には、こんなに色々あるのかとビックリする程に、様々な見解が提唱されています。



【バラエティに富む、多様な造形表現が存在する白鳳期】


白鳳期の議論が難しいのは、前後の飛鳥時代、奈良時代の造形が、比較的単一な造形様式をもっているのに対して、それに挟まれる白鳳期は、造形表現がバラエティに富んで多様なものとなっているからだと思われます。
大化改新から平城遷都の60年余の期間に、これが凝縮されているのです。

前後の時代については、

飛鳥時代は、止利様式に代表される古拙で正面観照性の様式時代

奈良時代は、古典的写実的造形が完成する様式時代

というキーワードで一括りにすることができるのではないかと思います。

白鳳期は、そのように一括りにできる造形様式というものが設定しにくく、色々なスタイルの仏像が多種多様に存在します。

例えば、

法隆寺六観音のような童児形像、
四十八体仏のなかに見られるインド風像、
隋様風を漂わせるとされる観心寺観音像や野中寺弥勒像、
瑞々しく清楚と云われる深大寺釈迦像や新薬師寺香薬師像、
明朗、秀麗と形容される興福寺仏頭像、

などがこの時期の仏像です。

215.美術史の時代区分③法隆寺・六観音像..215.美術史の時代区分③観心寺・観音菩薩像
(左)法隆寺・六観音像、(右)観心寺・観音菩薩像

215.美術史の時代区分③深大寺・釈迦如来像215.美術史の時代区分③興福寺・仏頭(山田寺旧仏)
(左)深大寺・釈迦如来像、(右)興福寺・仏頭(山田寺旧仏)

これに、成熟した造形の薬師寺の聖観音像、金堂薬師三尊像を加えたとすると、そのバラエティの多彩さは大変なものです。

215.美術史の時代区分③薬師寺金堂・薬師三尊像
薬師寺金堂・薬師三尊像

飛鳥時代と奈良時代が単色塗りの時代だとすると、白鳳期は多色塗りの彩り豊かな時代とでもいえるのでしょう。

それだけにこの時期をどのように捉えるかの問題は、様々な考え方が提起され、議論を呼ぶところになるわけです。



【美術文化史特有の時代呼称「白鳳」~元号「白雉」(650~4)の別称】


ところで、ご存じの通り「白鳳」という時代区分は、美術文化史の特有の呼称です。
政治史の世界で用いられることはありません。

そもそも「白鳳」というの言葉は、元号「白雉」(650~654)の別称として用いられたものでした。
後代には、白雉以降も引き続き白鳳が使われたとか、天武朝の別年号だとも云われるようになりました。

この「白鳳」という呼称が、時代区分に用いられるようになったのは、何時頃のことなのでしょうか。



【初めて「白鳳」の時代呼称を用いたのは関野貞、美術史書では「国宝帖」】


215.美術史の時代区分③関野貞
関野貞
「白鳳」という呼称を、初めて時代呼称に用いたのは、建築史家の関野貞でした。
明治34年(1901)に、「薬師寺金堂及講堂の薬師三尊の製作年代を論ず」(史学雑誌12-4)という論文の中で、大化改新以降を寧楽時代とし、その前期を白鳳、後期を天平と呼んだのが始まりと云われています。

美術史書において、「白鳳」という時代区分呼称が初めて用いられたのは、明治43年(1910)に刊行された「特別保護建造物及国宝帖」(通称:「国宝帖」)に於いてです。
解説執筆の中川忠順(ただより)は、「飛鳥・白鳳・天平」という時代区分を設定しています。

ただ注目されるのは、関野貞も国宝帖(中川忠順)も共に、「白鳳」は天武朝(673~385)の年号だと考えていたことです。

「国宝帖」では、白鳳時代を大化改新から平城遷都の期間としながらも、
「芸術上白鳳時代という白鳳は天武天皇御宇の年号なり
唐風直写の芸術、精熟の域に進める時としてかくは名づけしなり」
と、述べられています。

「白鳳」という時代呼称が用いられ始めた明治期は、天武朝の頃が白鳳時代のメインというイメージで、唐文化の移入影響に対応する時期と考えられていたという訳です。

白鳳という呼称は、大化改新から平城遷都までの時代区分呼称として用いられ始めたのですが、白鳳の正しい実年代、即ち白雉年(650~654)と、天武朝(673~685)をイメージしたものであった時代区分呼称との間には、少々年代ギャップがある処からスタートしたのでした。

ところが、白鳳という名称は、字形が美しく快い響きをもつものであり、当時の美術文化を表現する呼称として相応しく感じられたのでしょう。
飛鳥⇒白鳳⇒天平 という組み合わせで、広く世の中で用いられ親しまれるようになっていたのだと思われます。



【主要美術書、それぞれの代表的飛鳥白鳳期仏像の時代区分は?】


さて、この白鳳期、一般的には大化の改新から平城遷都までの期間を区分する時代とされているのですが、近現代の主要美術史書によって、時代区分の呼称、画期に様々なバリエーションがあることは、 〈その2〉 でご紹介した通りです。

そこで、飛鳥白鳳期の代表的仏像が、これらの美術史書でどのような時代区分に仕分けられているのかを確認してみました。

一覧にまとめてみたのが、以下の
「代表的飛鳥白鳳仏像 の 主要美術書における時代区分」
です。

215.美術史の時代区分③代表的飛鳥白鳳仏像の主要美術書における時代区分

仏像のラインアップは、飛鳥白鳳期の超代表的仏像に独善的に絞り込み、凡そ制作年代の推定順に並べてみたものです。
並べた順序には、議論があろうかと思いますが、最も一般的と思われる順としてみたものです。
これらの仏像を、どのような様式タイプと考え、どの時代区分カテゴリーに入れるかに、いろいろ見方のバリエーションがあることが、お判りいただけるのではないかと思います。

皆さんは、これらの仏像の時代区分の仕分け方について、どのように感じられたでしょうか。



【美術史独自の時代区分設定の議論が盛り上がった、昭和前半期】


美術史の時代区分の問題、就中、白鳳期の区分呼称や画期の問題について、最も議論が盛んであったのは、昭和前半期、とりわけ昭和30年代の頃ではないのかなと思います。

「時代様式の捉え方、位置づけのあるべき論」
とか
「政治史の時代区分にとらわれない、美術史独自の時代区分の設定」

という議論が数多く戦わされたようです。

論点の中心は、所謂白鳳期(大化の改新~平城遷都)は、

「白鳳時代という一時代様式の時代区分を設定できるのか」
「飛鳥時代の後期的時期と、奈良時代の前期的時期に二分されるのではないか」
「この時期は奈良時代(天平時代)に包含されるのではないか」

といった問題でした。

昭和33年(1958)の芸術新潮誌(8月号)には、「白鳳論争特集」が組まれたりしています。
本号には、久野健氏の「白鳳時代は存在する」、安藤更生氏の「白鳳時代は存在しない」といったセンセーショナルな題名の論説が掲載されるといった盛り上がりを見せています。



【諸研究者提唱の白鳳期時代区分見解を、パターン化分類してみると】


それでは、白鳳期の時代区分の設定、即ち呼称と画期の考え方には、具体的にどのような諸説があったのでしょうか?

諸研究者の提唱した説を、思い切ってパターン化し分類して
【「大化改新~平城遷都」(所謂白鳳期)時代区分論の分類と提唱者】
という簡易リストにしてみました。

215.美術史の時代区分③所謂白鳳期時代区分論の分類と提唱者

【リストの詳細バージョンはこちらをクリック】

ご覧の通りです。

「簡易リスト」の分類を観ていただくとお判りのように、所謂白鳳期、大化改新(645)~平城遷都(710)の美術史上の時代区分設定の見解は、4つのパターン分類できます。

【分類Ⅰ】  独立した一つの時代区分として設定し「白鳳時代」とするもの

【分類Ⅱ】  後半期のみを白鳳時代とし、前半期は飛鳥時代に包含されるとするもの

【分類Ⅲ】  前半期は飛鳥時代に、後半期は奈良時代に包含されるとし、白鳳時代設定の必要を認めないもの

【分類Ⅳ】  この全期間は奈良時代への先駆的過渡的時期で、奈良時代に包含されるとするもの

想定できるすべての組合せがあるような多様な見解で、この白鳳期の時代区分の問題が、「美術史独自の時代区分設定の悩ましさ」を凝縮したものになっていることを、今更ながらに思い知らされる気持ちとなります。

このリストは、話を分かりやすくするために、諸説を大胆に割り切ってパターン化し、独善的に分類してみたものです。
それぞれの見解は、正確にはこの分類に当てはまらなかったり、微妙なニュアンスのものであったりして、こんな整理の仕方では問題多いと思うのですが、シンプルな判り易さということでご容赦ください。

この簡易リストをもう少し詳しくした、「諸説の論旨のポイント、画期、代表的仏像の時代区分」を整理した 「詳細一覧リスト」 を作成してみました。
【「詳細一覧リスト」は、こちらをクリック】

それぞれの説を一つ一つ説明していくとキリがありませんので、 「詳細一覧リスト」 をご覧いただければと思います。



【白鳳期時代区分問題を代表する、3者の見解をご紹介】


ここでは、この白鳳期時代区分問題を理解するのに、私が最も判り易いと考える3者の見解をご紹介したいと思います。


安藤更生氏、町田甲一氏、久野健氏の見解です。


【「白鳳時代は存在しない」とする安藤更生氏
~前半は飛鳥時代、後半は奈良時代】


215.美術史の時代区分③安藤更生
安藤更生氏
安藤更生氏は、芸術新潮誌の白鳳論争特集で「白鳳時代は存在しない」と題する論説を発表しました。
その論旨の要点は以下の通りです。

・所謂白鳳期は、前後期の間に大きな断層がある。
前期は斉隋様、後期は隋末初唐様の影響下の造形となっている

・前期・斉隋様像には、野中寺・弥勒像(666年)を下限に、法隆寺・六観音、法隆寺・四天王像をはじめ、大化以前(飛鳥時代)の古様な中宮寺・菩薩半跏像、法隆寺・百済観音が含まれる。

・後期・隋末初唐様像には、山田寺・仏頭(678)、深大寺・釈迦倚像、新薬師寺・香薬師像等が挙げられ、これが山田寺以降の唐様式の造像につながっていく。

・したがって、前期は飛鳥時代に、後期は奈良時代に包摂されるべきと考えられる。

所謂白鳳期の仏像は、造形的に大まかに前後半に区分されるのは、それまでも云われていました。
安藤更生氏は、その区分時期を明快に示し、それぞれが飛鳥時代様式、奈良時代様式に属し、白鳳という一時代を設定するのは不合理で、必要がないと主張したのでした。



【アルカイックからクラシックへの様式展開のなかに、「白鳳」を位置づけた町田甲一氏】


215.美術史の時代区分③町田甲一
町田甲一氏
次に、町田甲一氏の見解です。
「上代彫刻史上における様式時期区分の問題」という論文です。

町田氏も、安藤更生氏と同様に、この時期は前後に二分されるという様式区分の考え方に立っているのですが、後期は「白鳳時代」という独立した一様式時代を設定すべきとしています。
(前期は安藤氏同様、飛鳥時代に包摂されるという見解です)

論旨の要点は以下の通りです。

・飛鳥から天平への造形は、アルカイック(古拙)からクラシック(古典的写実)への様式展開として理解される。

・所謂白鳳期の前半(天智朝迄)は飛鳥時代に含め、静止的視覚活動の造形様式の時代と考える。

・飛鳥時代も、前後期に区分され、前期は北魏様に影響された正面観照的造形、後期は斉隋様に影響された側面観照的造形の時期である。

・法隆寺焼亡(天智9年・670)の頃以降平城遷都までを、一造形様式の時代として設定し、白鳳時代とする。

・白鳳時代は、静止的視覚活動から、リアルな肉身モデリングの触知的視覚活動表現への変化が具現された様式時代である。

・天平時代は、触知的表現が飛躍的に発展し、クラシック(古典的写実美)の完成の域に達した時代で、薬師寺・金堂三尊像は「天平様式の父」である。

白鳳時代のスタートを、大化改新頃とするのではなく天智朝頃に設定し、平城遷都までを白鳳時代として区分画期したのでした。

この見解は、その後も現在に至るまで、有力な一つの見解となっています。
ご紹介した平成以降の主要美術書の3書 (日本美術全集、カラー版日本美術史、日本仏像史講義) も、町田説同様、天智朝~平城遷都を、一時代様式として画期した時代区分を設定しています。
(各書によって、用いる時代区分呼称は異なっています。)



【「白鳳」を、多様な造形様式の集中的渡来期と画期した久野健氏】


215.美術史の時代区分③久野健
久野健氏
最後に、大化改新から平城遷都までを白鳳時代として画期すべきとする、久野健氏の見解をご紹介します。
芸術新潮誌の白鳳論争特集で「白鳳時代は存在する」と題され発表された論説です。

久野健氏は、所謂白鳳期は前後期で特色を異にすることは認めながらも、この期間を一括りにして「白鳳時代」という一時代区分を設定すべきであると主張しました。

要旨は、以下の通りです。

・白鳳時代は、壬申の乱(672)あたりを境目に前後期に分けられる。

・前半期は、飛鳥様式の強いもの(辛亥銘観音像等)もあるが、観心寺・観音像、野中寺・弥勒像のような新様も現れてくる。

・後半期は、山田寺仏頭、鶴林寺・観音像、四十八体仏中の童子形像など多様なタイプの像が制作され、これに唐様式が明確に入ってきた橘夫人念持仏、夢違観音、薬師寺金堂・薬師三尊などが加わる。
(久野氏は、薬師寺金堂三尊像は藤原京造立、持統年間制作説です。)

・この時期は、飛鳥様式の強いもの、斉隋様式、唐様式等々、多様な造形表現、新技術の集中的渡来期で、様式の混在併存期とみられる。

・こうした多様な造形時期として、従来の通り、大化改新~平城遷都を白鳳時代と設定し、時代区分すべきである。

久野健氏は、白鳳時代を多様な造形様式が集中的に渡来した時期として括り、一時代区分として設定すべきとしたわけです。



【近年の奈良博「白鳳展」も、多様性の時代「白鳳」の考え方を継承】


これまた一つの有力な見解で、近年では、2015年に奈良国立博物館で開催された「白鳳展」に受け継がれているのではないでしょうか。

215.美術史の時代区分③白鳳展チラシ

「白鳳展」では、7世紀半ば(大化改新頃)から710年(平城遷都)の期間を「白鳳時代」と区分しています。
展覧会図録所載の「総論 白鳳の美術」と題する論説には、白鳳時代をこのように設定する事由として、次のように述べられています。

「明治時代以来、白鳳美術を天平美術への過渡期ととらえ、白鳳美術の特徴をこの時代の仏像に代表されるような素朴さや可愛らしさ、あるいは未完成さに求める傾向がある。
このような一面が白鳳美術にあることは筆者も認めるところであるが、白鳳美術はそれだけに留まらず、様々な様式が共存した多様性に満ちた時代であったと考えることができる。

一口に白鳳時代と言っても、その期間は飛鳥時代や奈良時代に匹敵する60年間に及び、しかもその60年はクーデター、敗戦、内乱、渡来人の大量移住、本格的な都城の建設、律令体制の整備など、激動と変化の時代であった。
めまぐるしく変転する社会に呼応するかように、美術にも様々なスタイルが生まれたのではなかろうか。
白鳳美術の多様性の中には、飛鳥時代や奈良時代の美術には見られない独自のスタイルを見出すことができる。

このことは、白鳳美術が飛鳥美術と奈良美術の中間にある過渡期的な性格のものではなく、一つの独自性のある世界を持っていたことを我々に示しているように思える。」
(内藤栄「総論 白鳳の美術」特別展・白鳳~花開く仏教美術 図録所収2015.07)


白鳳期の時代区分設定の諸見解のご紹介は、以上の通りです。

皆さんは、どの考え方に賛同されたでしょうか?
私などは、どの見解を読んでみても、それぞれに、なるほどと素直に納得してしまいそうになってしまいます。

この白鳳期を、美術史上でどのように位置づけ、時代区分をどのように考えるかというのは、本当に難しく、悩ましい問題であることを、今更ながらに痛感させられます。



【「美術史の時代区分設定」への、二つの立ち位置
~様式の編年的発展論か、多様式併存論か?】


ここまで、
「美術史上の時代区分をそのように画期するのか、とりわけ白鳳期をどのように位置づけるのか」
という諸々の見解をたどってきましたが、
その時代区分の考え方には、大きく「二つの立ち位置」があるように思いました。

一つは、
造形様式は、編年的に自律的発展展開していくもので、その共通様式時期を括って時代区分すべきという立場
もう一つは、
同時期に多様な造形様式が混在併存する時代も存在し、そのような時代区分もあるとする立場
ではないかと思われます。

前者の立場は、町田甲一氏の見解に代表されるのではないでしょうか。
町田氏は、飛鳥から天平は、アルカイック(古拙)からクラシック(古典的写実)へと、時代を追って造形様式が順次発展展開していくとしています。

時々の主流となる一つの造形様式があり、それが時代様式を形成しているということなのだと思います。
大胆に例えれば、造形様式というのは、一本のレールの上を往くように、時代を追って自律的、編年的に発展展開していくもので、その展開変化を的確に把握することによって、美術史の時代区分が設定されると考える立ち位置と云えるのでしょうか。


後者の立場は、久野健氏や「白鳳展」の見解だと思います。
美術史の時代区分の設定は、主流となる一つの時代様式の存在のみによるものではなくて、多様な造形様式が混在併存する時期もまた一時代として区分画期すべきであるという立場ではないでしょうか。
白鳳時代が、まさにこの様式の混在併存期に該当するということだと思います。

これまた大胆に例えれば、造形様式というのは、時代によって単線のレールを往く時もあれば、複線、複々線に分岐して交差する時もあり、それぞれを一時代として区分設定する方が妥当であると考えるということになるのでしょうか。



【なかなか相容れそうにない二つの立ち位置~コンセンサスは難しい?】


「一時代一様式」とか「多様式併存」という言葉を、美術史書などで眼にすることもあります。

こうして「二つの立ち位置」の考え方を見てみると、両者には「美術史の時代様式、時代区分」というものの概念や認識に、ベーシックな違いがあるのかなという気もします。
そうだとすると、両者の一致点というのは、なかなか見出しにくいのかもしれません。

こんな興味深いコメントがあります。

「飛鳥時代(7世紀前半)から奈良時代(8世紀)までの仏像の様式変遷は、ギリシア彫刻の様式変遷になぞらえて、古拙から古典の完成へという流れで説明されることがある。
そこでは、白鳳時代の様式は「過渡期」の様式と位置づけられる。
・・・・・・・・
白鳳仏は、古拙から古典へという一本の直線の上にきれいに編年して並ばせることが出来ないものであった。
写実性が高いものほど新しいとは必ずしも言いがたい。
中国や朝鮮半島から渡ってきた新旧様式の複合化した様式もあっただろうし、遣唐使が持ち帰った唐代の最新様式もあっただろう。
制作者も色々で、中央と地方のレベル格差も大きかっただろう。
白鳳は一筋縄では語れないのである。」
(岩井共二「白鳳展を終えて」奈良国立博物館だより95号2015.10)

このコメントは、「多様式混在期としての白鳳時代」を積極的に認める立場からのものですが、美術史の様式展開、時代区分のあり方の問題が内包する悩ましさを、いみじくも端的に示唆するものなのではないでしょうか。



【今更ながらに難しく悩ましい、美術史の時代区分問題】


3回に亘って、美術史の時代区分の問題について採り上げてみました。

国立博物館の時代区分の表示が政治史時代区分に統一されている話からはじまって、「美術史独自の時代区分の設定」の近現代史的なものを振り返り、最後に、「所謂白鳳期の時代区分設定」の様々な見解などを整理してみました。

この問題、たどればたどるほど、その難しさを思い知らされました。

冒頭にご紹介した、青山茂氏の、
「混乱するなという方が、むしろ無理難題」
という言葉が、素直な実感という処です。

美術史の時代区分などというのは、所詮、どう仕分けるかという話で、
「そんな細かいことに、そこまで拘らなくても良いじゃないか!」
と云われてしまいそうです。

私自身も、重箱の隅をつつくような話を並べ立てているような気にもなりましたが、一方で、日頃、あまり深く考えることのない「美術史の時代区分」のあり方について、しっかり考えてみる良い機会にもなりました。


コロナ自粛のヒマに任せて、ご紹介した「こぼれ話」でしたが、「美術史の時代区分」という古くて新しい問題について、皆様に関心を持っていただく、ご参考の一助にでもなったのであれば、有り難き限りです。