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観仏日々帖

こぼれ話~美術史の時代区分の呼称と表記についての話〈その2〉 【2020.09.19】


〈その1〉では、

・国立博物館の時代区分表記が、近年、教科書の時代区分、即ち政治史の時代区分表記に統一されるようになっている話

・美術史独自の時代区分設定については、諸学説があり統一見解表記とするのは悩ましい話

についてご紹介しました。


〈その2〉では、明治期以来、これまで美術史の時代区分について、どのような呼称、画期についての考え方が示されてきたのかを振り返ってみたいと思います。



【学生時代、鮮烈な刺激を受けた「町田甲一氏の様式時期区分論」】


ちょっと余談ですが、私が、美術史の「時代区分の設定」という問題について、関心を持ったのは学生時代に 「上代彫刻史における様式時期区分の問題」 という論考を読んだのが、きっかけであったように思います。
昭和34年(1959)に、「仏教芸術」誌(38・39号)に掲載されたものです。

当時、町田甲一氏の著作が好きで、一生懸命に読み漁っていました。
少々かぶれ気味に、その考え方に惚れ込んでいたように思います。
その論文の一つに、「上代彫刻史における様式時期区分の問題」というのがあったのです。

読んでみるとドイツの美術史学理論、学者名やドイツ語が一杯出てきて、素人の私には、難解でチンプンカンプンでしたが、鮮烈な刺激を受けた記憶があります。

そこには、

・美術史、彫刻史を理解しようとするならば、作品の芸術的価値判断力と「様式」への理解が必要である。

・そこで形成される時代様式の展開は、一般史の時代区分をそのまま適用して対応できるものではなく、美術史独自の時代区分を設定することによって説明されなければならない。

といった趣旨のことが、強く主張されていたように思います。

論文中に、

「現行の様式時期区分が、政治史上の時代区分をそのまま借用して、ただ便宜的に行なわれ、そのために様式史上具体的な多くの矛盾を持っていると見るからである。
けだし、美術史上の様式時期の区分は、あくまで具体的な様式史上に、その画期の根拠を求めなければならない。」

と述べられていたことは、〈その1〉で、ご紹介した通りです。



【時代様式の自律的展開と、「様式の父」の把握を強調】


町田氏は、 「飛鳥→白鳳→天平→弘仁貞観→藤原」 という時代区分を設定しています。
その美術様式と時代区分の考え方を、独善的自己流で要約すると、次のようなものになろうかと思います。

・仏像彫刻の造形には「時代様式」というものがあり、この時代様式をもって一つの時代区分として設定されるべきである。
そして時代様式は、自律的に発展展開していく。

・日本の仏像彫刻の造形は、飛鳥から平安にかけて、「アルカイック→クラシック→バロック」へと展開する。
飛鳥から天平へは、静視的視覚活動から触知的視覚活動への展開、天平から平安初期へは古典的調和から反古典バロックへの展開として理解される。

・新しい時代様式のスタートは「様式の父」と称されるものに象徴され、飛鳥様式の父は「止利仏師」、天平様式の父は「薬師寺・金堂三尊像」と見ることができる。
(明確に指摘はありませんが、弘仁貞観様式の父は「神護寺・薬師如来像」とみているように思います。)

・時代区分の画期(年)は、こうした視点から考えれば、「法隆寺の焼亡、造東大寺司の廃止、遣唐使の廃止」といった文化史上の重要事象を設定すべきである。

飛鳥時代とか奈良時代といった時代区分について、それまで何の疑問も感ぜずに、極々当たり前に受け止めていた私にとっては、

「美術史の様式展開、時代区分というのは、このような眼で見ていかなければならないのか!」

と、鮮烈な刺激を受けたという訳です。


ご紹介した、町田甲一氏の様式時期区分の考え方は、うまく説明出来ていなくて、よく判らなかったのではないかと思いますが、

「美術史の時代区分を、如何に設定するか!」

というテーマが、美術史を論ずるうえで重要問題と位置付けられ、諸々の考え方や議論が存在するのだということは、ご理解いただけたのではないかと思います。


話が、ちょっと個人的な思い出話にそれてしまいました。



【明治から平成までの、主要美術書の時代区分を振り返る】


ここからは、本来のテーマに戻して、近代美術史学が始まった明治時代から、平成の現代にいたるまで、「美術史の時代区分の呼称、画期」がどのように説明されてきたのかを、主要な美術史書を確認することによって、振り返ってみたいと思います。

時々の代表的な美術史書、彫刻史書かなと思われるものを選んでみたつもりですが、手元にある本の中からピックアップしたものなので、的確な選定になっているかどうかはちょっと疑問です。

ご覧いただくと、時代区分の設定の考え方に、いろいろなバリエーションがあることは、おおよそお判りいただけるのはないかと思います。



【明治から昭和戦前期を見る~画期は政治史の時代区分】


まずは、明治期から昭和戦前期までの主要美術史書の時代区分について、見てみたいと思います。

214.美術史の時代区分②美術史書の区分表記(明治~昭和戦前)

ご覧の通りですが、図表が小さ過ぎて見にくくなってしまいました。
大きな図表に拡大したものは 【コチラ】をクリック してご覧ください。



【皇国的政治史時代区分の「稿本帝国日本美術略史」(M33)】


一番目の「稿本帝国日本美術史」は、我国の日本美術史書の嚆矢、初の官制日本美術史書とされるものです。
明治33年(1900)に、我国がパリ万国博覧会に参加するのを機に、我が国美術を西欧に知らしめるため編纂・出版されました。

時代区分を見ると、推古天皇時代からはじまって「**天皇時代」とされるか、「藤原摂関時代・鎌倉幕政時代」といった政治権力体制で表記されています。

本書が、
「西欧諸国に日本が東洋の一等国であると認知されるために、国家の威信をかけて皇国的な史観にもとづいて編纂された初の官制日本美術史書」
であることからすれば、「**天皇時代」といった時代区分とされたことは、当然に納得できるものです。

一方で「稿本帝国日本美術史」が、近代における日本美術史観、美術史学の揺るがぬ規範となったことも事実で、今日まで、この区分の考え方が基本的に継承されてきたと云っても良いのではないでしょうか。



【明治期、日本美術史の集大成確立と云える「国宝帖」(M43)】


明治43年には、「特別保護建造物及国宝帖」(通称:「国宝帖」)が刊行されます。
ロンドンで開催された「日英博覧会」に出品するため編纂されたもので、我国官製日本美術史書の第2弾となるものです。

本書は、明治期における日本美術史研究の集大成と云えるもので、天平彫刻偏重至上主義的だった「稿本帝国日本美術史」に比べて、各時代の良質作品(彫刻)がまんべんなくしっかりリストアップされており、次のような評価が語られています。

「ここ(註:国宝帖の刊行)に、その後の仏像の語りの大きな枠組みが出来上がったのを見ることが出来る。」
(「『仏像の語り方の境界』~弘仁・貞観彫刻の語りが示すもの」長岡龍作:「語る現在。語られる過去~日本美術史学の百年」1999年平凡社刊所収)

「日本美術史がほんとうに確立したのは、その後(註:「稿本帝国日本美術史」の刊行後)10年、すなわち1910年の日英博覧会のために当時内務省が『国宝帖』という3帙の大出版物を出版したときであった。」
(矢代幸雄著「日本美術の再検討」1988年新潮社刊所収)



【美術文化史特有の時代呼称が用いられた「国宝帖」
~「白鳳」の呼称が初めて登場】


印象的なことは、 「推古→白鳳→天平→貞観→藤原」 という時代区分呼称が用いられていることです。
政治史の呼称ではなく、美術、文化史の区分呼称が用いられているのです。
まさに「美術史らしさ」を感じさせるネーミングと云えるでしょう。

一番に特記されることは「白鳳」という時代区分呼称が、初めて用いられてことです。

「白鳳」というのは政治史の時代区分には無く、美術史(文化史)の世界のみで用いられる呼称です。
「白鳳」という言葉は、「白雉」(650~654)の元号の別称とされています。

「白鳳」の呼称を初めて提唱したのは建築史家の関野貞だったのですが、美術史書において正式に「白鳳時代」という区分が用いられたのは、国宝帖が初めてのことです。
大化改新(645)~平城遷都(710)の期間が「白鳳時代」に区分されました。
「白鳳」という呼称は、字形が美しく、快い響きを持つことから、美術文化史の時代呼称として相応しく感じられたのか、その後、世に広く用いられることになっていきました。

「白鳳時代」の呼称や時代区分の考え方については、様々な見解があり、今日まで議論されていている悩ましい問題です。
この「白鳳問題」のテーマについては、〈その3〉で、改めて採り上げてみたいと思います。

美術史(文化史)特有の時代区分呼称を用いた「国宝帖」でしたが、その画期そのものは、政治史の画期と特に変わることは無く、藤原時代の前期、後期を藤原摂関政治期と院政期とで区分しており、彫刻史では定朝様の隆盛期を分断したような画期となっています。
美術史(文化史)特有の時代呼称は用いたものの、区分画期そのものは政治史の区分に準拠したともいえそうです。



【大化改新以降を「奈良時代」と位置付ける時代区分も】


昭和に入ってから戦前までの2冊、「図説日本美術史」「日本美術史体系・彫刻」を見ると、大化改新までを「飛鳥時代」、それ以降を基本的には「奈良時代」と位置付けています。
前者は、平城遷都を「奈良前期(白鳳)」と「奈良本期(天平)」との区分の画期としており、後者では大化改新(645)~延暦元年(782)までを、一括りの「奈良時代」と区分設定しています。

政治史の時代区分では、宮都が飛鳥地方にあった平城遷都までを「飛鳥時代」と区分しています。
一方、美術史(文化史)の世界では、大化改新までを「飛鳥時代」とし、それ以降は中国、斉隋、唐の文化の影響を受け、造形表現にはっきりした変化が現れてゆくという様式展開、時代区分の考え方が、基本的なベースにあると思います。

「図説日本美術史」「日本美術史体系・彫刻」の2書では、いわゆる白鳳期も奈良時代の天平様式の造形へ発展展開していくプロセスの途上時期と位置づけて、大化改新以降を「奈良時代」として括りたい気持ちが示されているという気がします。



【昭和戦後を見る~美術史独自の時代区分設定への盛上がり】


次に、昭和戦後の40年間の主要美術史書の時代区分についてみてみましょう。

214.美術史の時代区分②美術史書の区分表記(昭和戦後)
【拡大図はこちらをクリック】

ご覧の通りで、時代区分の大きなフレームワークは、明治~昭和戦前までのものとさほど変わってはいないのですが、じっくりと見ていると、時代区分の画期年の設定が、それまでと違っているものが目に付くのに気付きます。



【美術文化史上の出来事を、時代区分の画期とする動きが】


美術史の時代区分の画期年をよく見ると、
「法隆寺焼亡(670)」「白村江の戦(664)」「造東大寺司廃止(789)「遣唐使廃止(894)」
といった出来事が、設定されているのです。

それまで(戦前まで)は、あくまでも政治史上の重要出来事の事象年を以て画期されていました。
「天皇即位年、遷都年、政権体制変化年」
などが画期年になっています。

そこに、新たに
「美術文化史上の重要出来事」
を以て、時代区分の画期年を設定しようとする動きが現れたように思えます。

戦後、昭和の時代は、美術史、とりわけ彫刻史の世界において、「美術史独自の時代区分の設定」への議論が、盛り上がりを見せた時期であったような気がします。

昭和30年代には、先にご紹介した、町田甲一氏の「上代彫刻史における様式時期区分の問題」と題する論文が発表されたり、芸術新潮誌で、白鳳時代は存在するのかといった「白鳳論争特集」(1958.8月号)が組まれたりしています。

また、〈その1〉でもご紹介したように、研究者からの、

「美術史の時代区分も、造型様式の歴史的体系から求められるべきで、政治史その他に依存しない独自の立場が必要である。」

「美術史上の様式時期の区分は、あくまで具体的な様式史上に、その画期の根拠を求めなければならない。」

といった問題提起、議論も活発であったようです。

そうした考え方に基づいた時代区分、画期への見解が、ご覧のように、美術史書に折り込まれるようになったのではないでしょうか。



【奈良~平安時代の画期年設定も、なかなか悩ましい】


飛鳥と白鳳の画期も、大化改新ではなく、大陸、半島から新様式が一気にもたらされたであろう天智朝頃(法隆寺焼亡、白村江の戦など)とするものが多くなっています。

また、奈良・天平と平安・貞観との画期についても、平安京遷都(794)ではなく、長岡京遷都(787)や造東大寺司廃止(789)に設定するものが、見られるようになります。
所謂、平安初期一木彫の代表作品の出現時期を鑑みると、天平様式から弘仁貞観様式への転換の画期を平安京遷都に置いてしまうと、遅くなり過ぎてしまうことによるからだと思われます。
所謂、平安初期一木彫の代表作品が、奈良時代に区分されてしまうのです。



【神護寺・薬師像は、厳密には「奈良時代」の制作?】


神護寺・薬師如来像といえば、平安初期一木彫の代表選手というべき傑作です。

214.美術史の時代区分②神護寺・薬師如来像
神護寺・薬師如来像

ところが本像は、延暦12年(793)までに制作されたと考えられていますので、平安遷都を画期とすると、「奈良時代の作品」ということになってしまいます。

戦前の話ですが、本像が延暦12年までに創建された神願寺本尊であることを論証した足立康氏は、その論文において、

「その(註:神護寺薬師像の)造顕年代は延暦の中頃を降り得ぬもの、すなわち平安遷都を限界とする年代区分では、とにかく奈良時代の造顕ということになる。
(足立康「神護寺薬師如来像の造顕年代」考古学雑誌29巻12号・1939年)

と、時代区分問題の悩ましさを吐露しています。

現在の、国立博物館の時代区分表記からすると、「神護寺薬師如来像:奈良時代」ということになってしまうのでしょうか。

もし、展覧会でそのように表記されたとしたら、まさに違和感で、個人的感覚ではビックリしてしまうことと思います。



【長岡京時代の仏像の時代区分表記にも、難しさが】


また、平安初期の優作と見られている、宝菩提院・菩薩像や道明寺・十一面観音像も、長岡京時代(784~794)の製作とみられることから、同じ問題に遭遇してしまいます。

214.美術史の時代区分②宝菩提院・菩薩像
宝菩提院・菩薩像

宝菩提院・菩薩像や道明寺・十一面観音像の、近年の国立博物館の展示キャプションを見ると次のようになっていました。

214.美術史の時代区分②長岡京時代仏像の時代区分

図録の解説には、両像共に「長岡京時代の制作と考えられる」と述べられています。

奈良~平安の時代区分の悩ましさを物語っているようです。



【平成以降の美術史書を見る~目立たなくなってきた美術史特有の時代区分呼称】


最後に、平成に入ってからの美術史書を見てみましょう。

214.美術史の時代区分②美術史書の区分表記(平成)
【拡大図はこちらをクリック】


ここに挙げた3冊だけを見てみると、美術史(文化史)特有の時代区分呼称、即ち「白鳳、天平、弘仁貞観、藤原」という呼称が、目立たなくなっているように思えます。

平成以降の美術史書、彫刻史書を幅広く沢山あたってみたわけではありませんので、そのような傾向と云って良いのかどうかは、よく判らないのですが、個人的な実感としては、「白鳳とか貞観」といった呼称が使われているのが、あまり見られなくなってきたような気がしています。
「飛鳥(前後期)、奈良、平安(前後期)、鎌倉」
という時代区分呼称が、割と多く用いられているのではないでしょうか?

この区分呼称は、政治史の一般的時代区分の呼称に準拠しただけということのようです。
決して、「飛鳥時代」や「平安時代」の時代様式が一括りにされて、前期が先駆的過渡期的で、後期が発展的成熟的という位置づけとして用いられている訳ではありません。
一般的には、「飛鳥後期」は白鳳様式的な一時代、「平安前期」は弘仁貞観・平安初期様式的な一時代として、明確に区分され解説されています。

戦後昭和期に議論が盛り上がった「美術史独自の時代区分の設定」の問題は、諸説が提起されたものの、結局の処、なかなか安定的な統一見解を確立するというのも難しく、悩ましい問題であることから、このような形に落ち着いていったような気がしています。

「昨今、自鳳という言葉が使われる機会が少なくなりました。」
(白鳳展図録~冒頭「主催者ごあいさつ」所収・2015年)

(白鳳という呼称は、そもそも美称で)宮都や政治の中心の地名にちなむ他の時代名と不統一であることからすれば、時代名としての使用は避けるべきだと思うが・・・・」
(山本勉著「日本仏像史講義」講談社刊2013年)

といった記述も見られるようです。

「弘仁とか貞観」という時代区分呼称も、同じように、9世紀全体を括る呼称としてはふさわしくないということで、使われることが少なくなってきたように思います。



【現実には、なかなか難しい「美術史独自の時代区分設定」の確立】


このようにして振り返ってみると、「美術史独自の時代区分の設定」という考え方は、本来あるべき論としては、極めて全うで、誠にその通りなのですが、一方で、統一した一つの見解として確立することは、現実的には困難なことというのが、私の率直な感想という処です。

むしろ、美術史の時代区分設定という問題は、美術作品の造形様式や美術史上の位置づけについての様々な見解があって当然で、国定教科書のような統一見解などを設けるべきものではないのではないでしょうか。

そう考えると、かつて、

「現行の様式時期区分が、政治史上の時代区分をそのまま借用して、ただ便宜的に行なわれ」

と、非難めいた問題提起がされてきた時代区分方法というものが、、

「現実的には、一番妥当、穏当な時代区分表記方法」

に落ち着くのではないかと、秘かに感じるようになってきました。

国立博物館では、現在、政治史の時代区分を用いて「**時代 *世紀」というキャプション表記がされています。
まずは、このように表記をして、個別の作品解説の処で、所謂「飛鳥・白鳳・天平・貞観、平安初期」といった造形様式のなかで、どのように位置づけられるのか等々が説明されるというのが、一番良い方法なのかなという気がしています。


明治以来の主要な美術史書の時代区分設定をたどってみましたが、結局、焦点の定まらないとりとめのない話になってしまいました。
なんだか訳が分からないのですが、このテーマがなかなかに悩ましい問題なのだということだけは、お判りいただけたのではないでしょうか。

展覧会に出かけられた時には、時代区分のキャプションにちょっと関心を持って見ていただくと、別の面白さがあるのではないかと思います。
国立博物館の時代表記は統一されていますが、そのほかの美術館では、いろいろなバラエティーがあるようです。
「白鳳」も、随分使われています。



〈その3〉では、美術史の時代区分で、一番議論のある「白鳳時代」の時代呼称や画期の問題について、ふれてみたいと思います。


こぼれ話~美術史の時代区分の呼称と表記についての話 〈その1〉 【2020.09.05】


コロナ禍で観仏探訪に出かけることもままならず、自粛生活が続いて持て余し気味の毎日です。

ヒマついでに、日頃ちょっと気になっていた、美術史の時代区分とその呼称の問題についてふれてみたいと思います。

このテーマ、簡単そうでなかなか悩ましい話なのです。



【「薬師寺・金堂三尊~飛鳥時代」のキャプション表記に、ちょっと違和感】



「 薬師寺・薬師三尊像 7~8世紀 飛鳥時代後期~奈良時代 」


今年(2020年)7月、新聞掲載写真に、このようなキャプションがつけられていたのが、目に留まりました。

213.美術史時代区分①:薬師寺金堂・薬師三尊像
薬師寺金堂・薬師三尊像

日本経済新聞の文化欄に「奈良 祈りの美」と題して掲載された連載コラムでのキャプションです。
10回連載の第8回の採り上げられたのが、薬師寺金堂の薬師三尊像でした。
奈良国立博物館学芸部長 内藤栄氏の執筆です。

掲載された薬師寺・薬師三尊像の写真のキャプションに書かれていたのが、冒頭のものです。
時代区分名が「飛鳥時代後期~奈良時代」とされていました。

執筆者の内藤氏は、この薬師三尊像を藤原京、本薬師寺からの移坐と考える立場で、本コラムでも、
「持統のために発願されたという寺の由緒を考えれば、本尊は持統のための像(藤原京の像)がふさわしい。」
と述べていますので、「飛鳥時代後期」の制作という見方になります。

この薬師三尊像を「飛鳥時代」(後期)と表記されると、やはりちょっと「違和感を覚える」というのが正直な実感です。
「白鳳時代」と書かれているなら、まだわかるような気がするのですが。

「飛鳥時代の仏像」という語感には、法隆寺金堂・釈迦三尊像や夢殿・救世観音像といった、いわゆるアルカイックで正面観照性の強い造形イメージがあります。
一方、天平様式に近い造形感を感じる薬師寺・薬師三尊像は、飛鳥様式のイメージとは縁遠い感があり、「飛鳥時代」と表記されていると違和感を強く覚えてしまうのだと思います。



【同じ執筆者なのに、「飛鳥時代後期」「白鳳時代」表記を、何故だか使い分け】


5年前、2020年に奈良国立博物館で開催された特別展「白鳳~花開く仏教美術」(以後「白鳳展」と表記)に、薬師寺・薬師三尊像の脇侍・月光菩薩像が出展されました。

213.美術史時代区分①:白鳳展チラシ

この時の月光菩薩像のキャプションには、

「白鳳時代 (7~8世紀)」

と表記されていました。
この特別展の開催企画担当も、同じく、内藤栄氏なのです。

同じ人が採り上げているのに、時代区分表記が、

白鳳展では「白鳳時代」
日経新聞コラムでは「飛鳥時代後期」

と記されているわけです。

こうした表記になっているのを、

「なるほど、そうだろうね! 
どうしてもこのような表記にならざるを得ないのだろう」

と、思われた方は、この時代区分表記にまつわる問題と、その悩ましさについて、よくご存じの方だろうと思います。



【国立博物館では、教科書の時代区分に表記を統一
~奈良博「白鳳展」は唯一の例外】

美術史の時代区分というと、一般的には、どのような呼称が思い浮かぶでしょうか?

「飛鳥⇒白鳳⇒天平⇒弘仁貞観or平安初期⇒藤原⇒鎌倉」

というのが、美術史らしいというか、仏教彫刻史の時代呼称としては、一番馴染みがありそうな気がします。

ところが、国立博物館の時代区分表記には、白鳳、天平とか藤原とかいった呼称が、一切使われていないことにお気づきになったことがあるでしょうか。
実は、

「飛鳥⇒奈良⇒平安⇒鎌倉」

という呼称表記に統一されています。
国立博物館の時代呼称は、いわゆる政治史(一般史)の時代区分呼称を用いることに決まっているのです。

白鳳展を担当した内藤栄氏は、白鳳展図録所載の冒頭解説「総論 白鳳の美術」で、そのことについて、このように述べています。

「平成16年(2004)、東京・京都・奈良・九州の国立博物館4館で、展示室内及び出版物等における時代表記を日本史の教科書で用いられている表記に統一する方針が打ち出された。
これによって、国立博物館において白鳳時代は「飛鳥時代後期」もしくは「飛鳥時代(自鳳期)」などと表記されることになり、それは今日も続いている。
・・・・・・
本展では白鳳が一つの時代精神を有し、固有の文化を作り上げたと考え、時代表記に「白鳳時代」を用いた。」

白鳳展での「白鳳時代」の表記は、「この時だけの特別」ということだったのです。

新聞記事のコラムは、「奈良博・学芸部長」の立場で執筆されたものです。
となると、薬師寺金堂三尊の時代区分表記は、「飛鳥時代後期」とならざるを得ないのでしょう。

「なるほど、そういうことか!!」

と納得した次第です。



【見解が統一されていない、美術史の時代区分の呼称と画期】


国立博物館の時代区分表記がこのように統一された訳は、ご想像がつくと思いますが、美術史、彫刻史の時代区分の呼称、画期設定については、研究者によってさまざまな見解があって、統一見解というものが確立されていないからだと思います。

例えば「白鳳時代」といっても、その開始時期、期間について、様々な見解が示されています。
そもそも「白鳳」という美術史の時代区分を設ける必要はないという主張もされています。

平安初期・弘仁貞観という時代区分についても、その開始時期を平安京遷都(794)に置くのではなくて、造東大寺司の廃止(789)や長岡京遷都(784)とする考え方もあります。


それでは、平成16年(2004年)以降に、国立博物館での時代区分表記が統一される以前は、どのように表記されていたのでしょうか?



【時代区分表記統一以前の、奈良博・東博展覧会の時代表記を振り返ってみると】


ちょっと興味が沸いてきて、手元にある過去の展覧会図録を引っ張り出して、奈良国立博物館中心に、東京国立博物館のものも少し加えて、

「所謂、白鳳期と云われる出展仏像の時代区分表記がどうなっているのか?」

ピックアップしてみました。

採り上げてみた出展仏像は、制作年代判断にまず異論がない、いわゆる白鳳期(大化の改新から平城遷都:645~710年)の仏像とされる代表的仏像です。
野中寺・弥勒菩薩像、鶴林寺・観音菩薩像、法隆寺の六観音像、夢違観音像、橘夫人念持仏などです。
これに、制作年代に論争がある、薬師寺・金堂薬師三尊像、東院堂・聖観音像を加えてみました。

手元の奈良博、東博の展覧会図録からのピックアップリストの一覧は、ご覧の通りです。

過去の展覧会を時系列で整理したものと、白鳳期の代表的仏像の各展覧会における時代表記を整理したものと、2種類作ってみました。

213.美術史時代区分①:奈良博・東博展覧会の白鳳仏像時代表記

213.美術史時代区分①:白鳳仏像の展覧会別時代表記


如何でしょうか?



【展覧会によって3通りある、所謂「白鳳期」の時代区分表記】


開催年順のリストを見ると、展覧会によって時代区分表記がまちまちになっています。

いわゆる白鳳期の制作年代のものが、「飛鳥時代」「白鳳時代」「奈良時代」と3通りの時代区分表記がされていいます。
それぞれの展覧会を企画運営した国立博物館の担当者の方の、時代区分の考え方、呼称表記の仕方が、まちまちであったということなのでしょう。

1977年の「観音菩薩展」、1978年の「仏教美術の源流展」では、
この時期の仏像が、「奈良時代」
と表記されています。
この時期を奈良時代(天平時代)の前期的性格の時代とみたことによるのかもしれません。

1987年の「菩薩展」では、
野中寺・弥勒像(丙寅年・666年)は、「飛鳥時代」
法隆寺・六観音像は、「白鳳時代」
と表記されています。

213.美術史時代区分①:野中寺・弥勒半跏像213.美術史時代区分①:法隆寺・六観音像(文殊菩薩)
(左)野中寺・弥勒半跏像~666年、(右)法隆寺・六観音像(文殊菩薩)

一般的には大化の改新(645)以降を、白鳳期とすることが多いのですが、白鳳期のスタートを天武朝(673~)あたりとするという見方なのでしょうか。



【同じ仏像でも、展覧会によって「飛鳥、白鳳、奈良」の3通りの時代表記が】


尊像別のリストを見ると、もっと興味深いものがあります。

同じ仏像なのに、展覧会によって時代区分の表記がまちまちになっていることが、一目でわかると思います。
手元にある図録をピックアップしただけなのですが、

法隆寺・六観音像、鶴林寺・観音菩薩像、法隆寺・夢違観音像の3躯は、「飛鳥時代」「白鳳時代」「奈良時代」の3通りの表記

がされています。

213.美術史時代区分①:鶴林寺・聖観音像213.美術史時代区分①:法隆寺・夢違観音像
(左)鶴林寺・観音菩薩像、(右)法隆寺・夢違観音像



【国立博物館での時代区分表記統一の事情にも、なるほど納得】


同じ作品が、展覧会によって時代表記が異なるということになると、展覧会を見に来る人の立場になってみれば、間違った理解となったり、戸惑ってしまうことになってしまいます。

この状況を見ると、「表記を統一する」ことは、当然に求められることだと思います。

「平成16年(2004)、東京・京都・奈良・九州の国立博物館4館で、展示室内及び出版物等における時代表記を日本史の教科書で用いられている表記に統一する方針が打ち出された。」

というのも、なるほどと納得できるものがあります。



【美術史に、政治史の時代区分をそのまま当てはめるのも、大きな問題が】


しかしながら、美術史の時代区分の仕方について、政治史の時代区分をそのまま当てはめてしまう訳にはいかない問題だというのも、また事実です。

宮都の場所が変わったから、政権の交代があったからといって、美術作品の造形表現、様式が、これに伴ってすぐさま変化するというものではありえないことは、言うまでもないことです。
仏像など美術作品の造形様式は、もっと別のファクターで変化しているはずです。

政治史の時代区分とは別に、「美術史の時代様式」というものを考え、それに則った時代区分がなされるべきだとされるのは当然のことです。
そこで、美術史の世界では、「美術史独自の時代区分の設定」への試み、取り組みが数々なされてきています。



【これまでも語られてきた、美術史独自の時代区分設定の必要性】


仏教彫刻史の時代区分設定のあるべき姿について、次のように語られているのが、こうした考え方を代表しているものと云えるのでしょう。

「わが国の美術史の時代区分は、政治史その他の時代史の区分に基づき、それに合わせるように時代を立てており、美術史独自の立場からの体系ではない。
従って便宜的、任意的の嫌いがあり、単に解説的な区分法にすぎない。
博物館にゆくと、平安初期の仏像も、藤原末期の仏像も平安時代と説明している。もとより博物館当局に独自の見識があってのこととは思うが・・・・・・
・・・・・
美術史の時代区分も、造型様式の歴史的体系から求められるべきで、政治史その他に依存しない独自の立場が必要である。」
(日本彫刻史論(中野忠明)木耳社刊1978.11)


「現行の様式時期区分が、政治史上の時代区分をそのまま借用して、ただ便宜的に行なわれ、そのために様式史上具体的な多くの矛盾を持っていると見るからである。
けだし、美術史上の様式時期の区分は、あくまで具体的な様式史上に、その画期の根拠を求めなければならない。」
(上代彫刻史上における様式区分の問題(町田甲一)日本上代彫刻の研究・吉川弘文館刊1977.05所収)

仏像彫刻を中心とした美術史の時代区分についても、このような考え方に基づいて、これまで時代様式の見方と時代区分の時期設定について、諸々の考え方、学説が提起されてきました。

ご存じの通り、いわゆる白鳳時代を、
「一時代様式とみるか、奈良時代天平様式の前期的なものとみるか、飛鳥時代の後期的なものとみるか」
によって、時代呼称も、時代区分も違ってしまうというのが、最も代表的な例と云えるのでしょう。



【美術史時代区分の統一的表記の悩ましさ~存在する諸説】


そして、最も悩ましいのは、美術史の時代呼称、時代区分の考え方には、現在もなお、統一見解として確立したものがなくて、学説が諸説存在するということです。

2004年以前の国立博物館の時代区分の呼称表記が、展覧会によって違いバラツキがあったのも、このような事情を投影していたということなのでしょう。

現在、国立博物館の時代区分表記が、「日本史の教科書で用いられている表記」、即ち政治史の時代区分表記に統一されていることは、美術史上の時代区分が、統一見解として確立されたものがない状況を鑑みれば、当然というか、致し方ないということになるのでしょうか。



〈その2〉では、明治以降現在に至るまでの代表的な美術史解説書が、どのような時代区分の呼称と画期としてきたのかを、振り返ってみたいと思います。