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観仏日々帖

こぼれ話~光背の話⑩ 室生寺金堂・十一面観音、地蔵菩薩像の板光背の話 〈その2〉 【2020.07.26】


ここからは、

「室生寺・十一面観音像の光背は、何時、誰がつくったのだろうか?」

という話に入りたいと思います。

室生寺・十一面観音像
室生寺金堂・十一面観音像~光背は後補

地蔵菩薩像と十一面観音像の光背とを比べてみると、絵柄や文様の精緻さの調子が違っていて、地蔵像の方は平安時代の当初のもの、十一面観音像の方は後世の新補(後補)のものであることは、前話の冒頭でご紹介した通りです。



【公開講座で聴いた、興味津々の「室生寺十一面観音光背の作者」の謎解き話】


今年(2020年)の2月、奈良東生駒の帝塚山大学で、こんなテーマの公開講座が開催されました。

「室生寺の近代、ふたつの名作の誕生
~室生寺十一面観音像の光背と、小川晴暘撮影『室生寺大観』と」

講師は、同大教授の杉崎貴英氏です。

私の興味関心の深いフィールドの演題で、是非とも聴いてみたいものと、思い切って東京から出かけることにしました。
どんな話が聴けるのか愉しみに出かけたのですが、果たして、時間が経つのを忘れさせるほどの興味津々の内容で、わざわざ出かけてきた甲斐がありました。

この講座で、
「室生寺十一面観音像の後補の光背は何時、誰がつくったのだろうか?」
という話があったのです。

初めて聴いた話でした。
「知的関心をくすぐる謎解き」のような面白い話でした。

この公開講座で聴いた話を、そのままなぞるような話になってしまうのですが、ご紹介したいと思います。



【江戸時代の後補、仏師山本茂祐の作とされてきた十一面観音光背】


室生寺十一面観音像の光背が後補のものであることは、以前からよく知られています。

室生寺・十一面観音像の板光背彩色
美しい彩色文様の室生寺金堂・十一面観音の光背(後補)

後補の光背がつくられたのは江戸時代末期のことで、仏師・山本茂祐の手になるものとされています。

「大和古寺大観」には、このように記されています。

「寺蔵文書「天保九戊戌年普請仕用帳」に
「金弐分 十一面尊躰損之処。 拵御持物之不足分足し、尊像古色仕上ケ、舟後光破損ニ付仕替并箱厨子塗代共ニ而」
とあり、この年に京都仏師山本茂祐による修理が施されたことが記されている。
現光背はこの時に造られたものであろう。」
(大和古寺大観 第6巻「室生寺」1976年岩波書店刊 水野敬三郎氏解説)


「魅惑の仏像・十一面観音 奈良室生寺」では、このように解説されています。

「十一面観音像にも板光背がとりつけられていますが、他の光背のようなすばらしい彩色のものではなく、時代の特色もあまりはっきりしないものです。
これは室生寺に伝えられる江戸時代1838年(天保9年)の修理記録によって、京都の仏師山本茂祐がこの時こわれていた古い光背にかえて新造したものであることがわかります。」
(魅惑の仏像 第21巻「十一面観音 奈良室生寺」1992年毎日新聞社刊 小川光三写真・西川杏太郎氏解説)

室生寺を採り上げた、他の多くの美術書も、これと同様の解説がされています。
いわゆる定説というものなのだと思います。



【わずかにみられた「光背は明治修理時の新補」とする記述】


ところが、そうではなくて、今の光背は明治時代の修理の時に新補されたものだとする記述が、僅かですが存在するのです。

美術院で長年仏像修理に携わった明珍恒夫氏の著書「仏像彫刻」には、このように記されています。

「光背は所謂挙身光、極彩色で宝相華文様を描く。
但しこれは明治の修理に際し古式に倣うて捕捉したものである。」
(明珍恒夫著「仏像彫刻」1936年大八州出版刊)

日本国宝全集の解説には、

「その光背は近年の新補で、他の諸仏に擬して作ったものである。」
(「日本国宝全集 第31輯」文部省編 1933年日本国宝全集刊行会刊)

とあり、明治期の新補を匂わせる表現となっています。

なんと、明治に入ってからの新補だというのです。
共に、明治修理からあまり年数を経ていない昭和初期の記述なので、信頼性はありそうです。

実は、この十一面観音像は、明治42年(1909)に美術院の修理を受けているのですが、その時の修理記録には設計・精算書だけが残されているだけで、光背が新補されたのかどうかはわかりません。
江戸末期の制作か、明治修理の制作か、どちらが真実なのか確かなことははっきりしないという状況でした。



【新たに見つかった、明治修理前の十一面観音の古写真~現在の光背とは別物】


そうしたなか、この光背が明治の新補であることが明らかとなる古写真が見つかったのです。
古い「室生寺金堂仏像の絵葉書」です。

明治修理以前の室生寺金堂諸仏の古写真絵葉書
明治修理以前の室生寺金堂諸仏の古写真絵葉書
公開講座配布資料掲載写真


この絵葉書、杉崎教授が、昨年(2019)入手したそうです。
撮影年は不明ながら、明治42年(1909)の修理以前の古写真に間違いないようです。
その絵葉書には、十一面観音とその光背が写されていました。

古写真絵葉書の十一面観音像光背
古写真絵葉書の十一面観音と光背の拡大写真
現在の光背と形がちょっと異なっている


光背の形をよくよく見ると、現在の光背の形とは、ちょっと違うことが判ります。
宝珠形の頭光の先端の尖り方、船形光背と重なるラインなどが明らかに異なります。



【現光背は明治新補であることが明らかに~古写真は江戸後補の光背】


この古写真に写っている光背が、江戸時代の後補光背と思われます。

この古い絵葉書で確認できた事実から、現在の十一面観音像の光背は、
「江戸時代末期、仏師・山本茂祐の手になるもの」
ではなくて、
「明治時代の美術院の修理の際に新補されたもの」
に違いないことが、明らかになったのでした。



【杉崎教授は、光背は「久留春年」の手になるものと推定】


さて、明治に新補された光背は、誰の手になるものなのでしょうか?
杉崎教授は、この作者を「久留春年」(ひさとめしゅんねん)であろうと推定しています。

「久留春年」という人の名前をご存じの方は、ほとんどいらっしゃらないことと思います。

杉崎貴英氏は、ごく最近、
「久留春年探索序章」   奈良学研究22号2020年2月刊所載
という論考を執筆されています。

この論考には、「久留春年の業績と、室生寺観音像光背の作者である可能性」について、詳しく論じられています。
これまた、その論考をなぞるようなそのつまみ食いとなりますが、話を進めさせていただきたいと思います。



【奈良の美術院で「画工」をつとめていた久留春年】


久留春年というのは、国宝修理、仏像修理を行う「奈良の日本美術院第二部」で、画工として絵画彩色に携わった人物だそうです。

その経歴などにふれたものはほとんどないのですが、このような記述が残されています。

「【久留春年】鹿児島の人。
美術院では絵画彩色の方面を担当し、光背には久留氏描く所が多く存する。
よく古画を研究し、模写に巧みで、薬師寺吉祥天画像は知られている。
佐保会蔵百虫譜はたしかな写実でありユーモアに富む。
不退寺多宝塔支輸の復原図は晩年の作。
古美術の研究も深く、独自の見解があり、その説痛快なものがあった。
昭和11年没56歳。」

「大和百年の歩み~文化編」(1971年大和タイムス社刊)の美術院の項に、以上のように述べられています。


もう一つ、高田十郎執筆「奈良百話」(「奈良叢記」1942年駸々堂書店刊所収)には、第86話に、

「久留春年
昭和11年10月7日、56歳で没した古典画人・久留春年君は、一種特別な存在だった。
薩摩人で京都美術学校出身、明治34年から奈良の人になる。
初め若干年は美術院にも入り、又其後も時々古社寺修理にたづさはり、すべて古美術と共に生涯を送った。
変屈者と云はれながら、中々常識家で顔が広く、骨董商人の活字引ともなる。
・・・・・・・」

と記されています。

この経歴を裏付けるように、明治39年(1906)の「日本美術院第二部」発足当時メンバーの記念写真には、責任者、新納忠之介と共に、久留春年の姿が写されています。

日本美術院第二部の集合写真
日本美術院第二部の集合写真(美術院紀要・創刊号掲載)
後列、右から二番目が久留春年


日本美術院第二部発足当時の写真
日本美術院第二部発足当時の集合写真(美術院紀要・創刊号掲載)
部分拡大~後列中央が久留春年




【明治修理で多くの光背を描いた久留春年~室生寺・十一面観音光背も久留の手の可能性大】


この久留春年が、室生寺・十一面観音像の光背の制作者として、絵柄、文様を描いた人物ではないかと思われるのです。
久留がこの光背を描いたという記録が、残されているわけではありません。
ただ、明治大正年間の美術院の仏像修理記録のいくつかに、「画工」として久留の名前がみられますし、
また、
「美術院では絵画彩色の方面を担当し、光背には久留氏描く所が多く存する。」
(「大和百年の歩み~文化編」)
との記述も残されています。。


これらのことから、杉崎教授は、

「明治42年に修理され新補された室生寺・十一面観音の光背は、久留春年の手になる可能性が高い」

と考えたわけです。



【法輪寺諸像、法隆寺金堂天蓋・天人光背も久留春年の手になるもの?】


杉崎教授によると、久留春年の手によって新補された古仏の光背には、次のようなものがあるとみられるとしています。

法輪寺の諸像~薬師如来像、虚空蔵菩薩像、聖観音像の光背

法隆寺金堂天蓋天人像のうち、多くの新補された光背

法輪寺諸像の光背が久留春年の手によると考えられる訳は、
これらの像の光背が明治42年(1909)の修理の時の新補であることが、「法隆寺大鏡」「大和古寺大観」の解説から伺われることに加えて、小島貞三著「史蹟と古美術 大和巡礼」(1955年大和史蹟研究会・再刊)の、法輪寺諸像の解説の項に、
「光背中には久留春年氏彩色のものがある。」
という記述があることによるものです。

法輪寺・虚空蔵菩薩像~光背は明治新補
久留春年の手によると思われる明治新補光背の法輪寺・虚空蔵菩薩像
太陽仏像仏画シリーズ「奈良」所載


法隆寺金堂天蓋天人像光背の方は、明治39年(1906)竣工、西の間天蓋修理に関する棟札に「画工 久留春年」と記されていることによるものです。


くどくどと綴ってきましたが、以上の通り、

「室生寺・十一面観音像の光背は、江戸末期の後補ではなくて、明治42年の修理時に、美術院によって新補されたものである。」

「この光背は久留春年の手になる可能性が高く、法輪寺諸像、法隆寺金堂天蓋天人像など明治期修理時の新補の光背の多くは、久留春年作とみられるであろう。」

ことが、明らかになったと云えるのでしょう。


こんな話は、杉崎教授の帝塚山大学公開講座を聴くまでは、全く知りませんでした。

後補の光背が、「江戸末期のものなのか、明治修理のものなのか」などというのは、わざわざ採り上げて議論するほどのものではない、マイナー、マニアックな話かもしれませんが、私には、知的好奇心を凄くくすぐる話でした。
これほどに謎解きのような興味津々のものであろうとは、思いもよりませんでした。

皆さんは、どのように感じられたでしょうか?



【二冊の図譜、拓本集の編著者~久留春年】


ところで、「久留春年」という人。

その経歴などは全く知らなかったのですが、私の頭の片隅にかすかに残った名前でありました。

久留春年という名前に記憶があったのは、こんな二つの本の編著者であったからです。

「正倉院式文様集」全5集 (大正14年木原文進堂刊)

「古代芸術拓本稀観」全3集 (昭和2~3年木原文進堂刊)

明治大正期の図譜や拓本の愛好者の方は、この図集のことをご存じかも知れません。
正倉院の古裂文様の図譜集と、久留春年蒐集仏教美術拓本の図葉集です。

ご覧の通りの、味わいのある美麗な図譜、拓本集で、私も端本ですが、入手したことがあります。

久留春年著「正倉院式文様集」「正倉院式文様集」収録図版

「正倉院式文様集」収録図版
久留春年著「正倉院式文様集」第1集と収録図版


久留春年編「古代芸術拓本稀観」

「古代芸術拓本稀観」収録拓本~法隆寺夢殿・救世観音光背
久留春年編「古代芸術拓本稀観」と収録拓本(法隆寺夢殿・救世観音光背)


私は、編著者となっている久留春年という名前に何の知識もなく、
「奈良の好古家、趣味人のような人なのかな?」
と勝手に想像し、あまり気に留めたことがありませんでした。



【古画家、古美術研究家として多方面に活躍した久留春年】


ところが、杉崎氏の論考「久留春年探索序章」を読んでみて、単なる趣味人などという人物でないことが、よく判りました。

久留春年は、奈良の美術院の絵画彩色担当(画工)に留まらず、日本画家・古典画家、古裂文様研究家として、また図集の編著者として、古美術研究への多方面の才能、造詣を以て活躍した人物であったのです。

奈良の古美術研究誌「寧楽」との関りも深かったようです。
寧楽誌のいくつかの表紙を飾っている「正倉院古裂文様」は久留春年の手によるものですし、第10号・天平文化史論の表紙「正倉院樹下美人図」は、久留春年の描いたものです。

古美術研究誌「寧楽」~表紙は久留春年「正倉院古裂文様」
古美術研究誌「寧楽」第3・4・5号(大正14年刊)
表紙は久留春年「正倉院古裂文様」


「寧楽」第10号(昭和3年刊)表紙久留春年筆「正倉院樹下美人図」
「寧楽」第10号(昭和3年刊)表紙
久留春年筆「正倉院樹下美人図」



また、「正倉院古裂文様に就いて」(4・5号)、「峰の薬師像と其脱乾漆」(6号)と題する久留の小論も掲載されています。

この話を書くのに、架蔵の「寧楽」を取り出して見ていたら、第4号にこんなチラシが挟まっているのに気が付きました。

久留春年「正倉院式文様集」の発刊案内チラシ
久留春年「正倉院式文様集」の発刊案内チラシ
「寧楽」第4号に折り込みの久留春年「正倉院式文様集」の発刊案内チラシ

ご覧の通りに久留春年「正倉院式文様集」の発刊案内チラシです。

発刊趣意文には
「然るに其期間(註:奈良帝室博物館での正倉院御物古裂類臨時陳列期間)に、優秀なるものを悉く臨写された奈良古美術研究家として知られる久留春年画伯は・・・・・・・・」
と記されていました。

この紹介文を読むと、久留春年は、単なる画工というのではなく、「奈良古美術研究家」として当時知られていたことがよく判りました。



【「久留春年」~近代奈良文化史を語る上で、忘れてはならない人物】


今では、その名前が語られることのない、久留春年。

こうした様々な業績をたどってみると、近代奈良文化史を語る上では、忘れてはいけない人物であることを痛感した次第です。

室生寺金堂の板光背にかかわる「こぼれ話」を、紹介させていただきました。




10回に亘って連載させていただきました「光背の話」でしたが、これでおしまいとさせていただきます。
無理無理ひねり出した光背がらみのこぼれ話も、もうネタ切れです。

仏像の光背という、結構地味なテーマで、どうでもいいようなマニアックな話ばかりになってしまいましたが、新型コロナ下の自粛生活の中で、時間つぶしの一助にお読み戴けたのであれば、有り難い処です。



こぼれ話~光背の話⑨ 室生寺金堂・十一面観音、地蔵菩薩像の板光背の話 〈その1〉 【2020.07.19】


【東博に出展された、美しい板光背の二像~室生寺・十一面観音、地蔵菩薩像】

昨年(2019年)、東京国立博物館で「奈良大和四寺のみほとけ展」が開催されました。
岡寺、室生寺、長谷寺、阿倍文殊院の四寺の諸仏像が出展されました。

「奈良大和四寺のみほとけ展」チラシ

会場となった本館11室の真正面の奥には、見事な板光背の室生寺金堂の2像が、並んで展示されていました。

東博に並んで展示された室生寺金堂の地蔵菩薩像・十一面観音像
東博「奈良大和四寺のみほとけ展」に並んで展示された
室生寺金堂の(左)地蔵菩薩像・(右)十一面観音像


十一面観音像(平安前期・国宝)と地蔵菩薩像(平安前期・重文)の2体です。

十一面観音像の方は、奈良大和路のポスターなどによく使われる大人気の仏像でです。
ご覧の写真の通り、2像が背負う板光背の美しい絵文様も、ライティングに映え一段と鮮やかです。
沢山の人が、その魅力にひき込まれるように、足を止めて見入っていました。

皆さんも、この展覧会、愉しまれたのではないかと思います。

さて、揃って並んだ見事な、平安の一木彫像。
二つの板光背をご覧になって、どこかちょっと気になる処を感じられなかったでしょうか?

お気づきの方も、多いのではないかと思います。



【光背と仏像のサイズが、不釣り合いの地蔵菩薩像】


一つは、地蔵菩薩像の光背のサイズが、仏像本体の像高と釣り合っていないことです。

板光背の頭光の中心と地蔵像の頭の位置とがズレていて、光背の方が大きすぎるのです。
光背は現在の像のものではなく、元々、この光背と一体であった仏像がある筈です。

本来の仏像は、どうなったのでしょうか? 今も存在するのでしょうか?



【ちょっと調子が違う、十一面観音の板光背絵文様~実は後補】


もう一つは、十一面観音像と地蔵像の板光背に描かれた、絵柄、文様の調子が、ちょっと違うことです。

地蔵像の板光背は平安時代当初のままのもので、絵文様も生き生きとして華麗、見事な出来栄えのものです。
これに較べて、十一面観音像の板光背の絵文様は美しいのですが、大柄でやや粗さ、甘さを感じられるのではないかと思います。
実は、十一面観音像の光背は、後世に新しく造られた後補のものなのです。

この後補の光背、何時頃、誰の手で、制作されたのでしょうか?


今回のこぼれ話は、この二つの疑問点にまつわる話たどって、ご紹介させていただきたいと思います。



【平安時代、奈良地方を中心に流行した板光背】


本題に入る前に、今回テーマにした「板光背」について、ちょっとだけふれておきたいと思います。

「板光背」というのは、平らな一枚板か数枚の板を寄せて造られ、化仏、唐草などの文様を彩色あるいは墨彩によって描いた光背のことです。
平安時代に、奈良地方を中心に、主に西国一帯で流行ししました。

室生寺の諸仏群の板光背、當麻寺曼荼羅堂発見の多数の板光背など、多数が知られています。
年紀の分かる最古作例は、和歌山慈尊院・弥勒仏像(寛平4年・892)の光背です。
板光背の作例は、都が京都にあった時、奈良大和の外周的エリアで、中規模以下の寺院に多く存在しているのが特徴です。



【室生寺金堂に立ち並ぶ、美しい板光背の五尊像】


室生寺の金堂には、この板光背を背負った平安古仏が、五尊安置されています。
中尊の釈迦如来像の左右に、薬師如来、地蔵菩薩像と文殊菩薩、十一面観音像が安置されています。

金堂内に、立派な板光背の五尊が、ずらり立ち並ぶ姿は壮観です。
9~10世紀の制作とされていますが、像高バランスは不揃いで、作風からも一具像ではなくて、制作年代に少し幅があるようです。
板光背は、十一面観音像の後補光背を除いて、4躯のものは当初の平安時代のものが残されています。
なかでも、釈迦像と地蔵像の板光背は、華麗で入念な彩色が施され、とりわけ見事なものです。

ご存じの通り、今年(2020年)、室生寺では仁王門のそばに宝物殿が完成しました。
金堂内の諸仏は保存環境の問題などから、宝物殿に移されることになり、金堂では拝することができなくなってしまいましたが、その分、眼近で拝せるようになるのではないでしょうか。


本題に入りたいと思います。


【地蔵像光背と本来セットであった仏像の行方は?】


一つ目のテーマ
「地蔵菩薩の光背と本来セットであった仏像は?」
の話です。

地蔵菩薩像の光背は大きすぎて、本来一体であったのは別の仏像であったのは明らかです。
元々、セットであった地蔵菩薩像は、現存するのでしょうか?



【何故か寺外に出ていた、本来の地蔵像~中村区の安産寺に】


なんと、その像は、室生寺の外の場所に残されていることが、明らかになっているのです。

室生寺から5~6キロ離れた、三本松中村区という処に安産寺という小さなお堂があります。
そこに祀られている地蔵菩薩像が、本来セットであった仏像に間違いないと考えられています。

中村区安産寺・地蔵菩薩像(平安・重文)
中村区安産寺・地蔵菩薩像(平安・重文)
元々、室生寺金堂に安置されていたとみられる像


よく知られている話ですので、ご存じの方も多いことかと思います。



【金堂・伝釈迦像とそっくりの作風の安産寺・地蔵像~まさに室生寺様式】


堂々たる平安前期の一木彫の地蔵菩薩像です。
切れ長の眼、鼻筋が通った彫りの深い横顔が魅力的です。

この地蔵菩薩像、造形表現の特徴、作風が、室生寺金堂の本尊・釈迦如来像と大変似通ったものがあり、一連の仏像として制作されたものだと思われるのです。

「漣波式」(れんぱしき)と呼ばれるサザナミのような衣文表現は、まさに室生寺様式とも呼ばれるものです。



【光背のサイズもピッタリ一致する安産寺像】


そして、室生寺金堂・地蔵菩薩の光背の大きさと、安産寺・地蔵像の大きさとが、ばっちりとフィットするのです。
中村区・安産寺像の像高は、177.5㎝で、頭の位置が、室生寺の光背の頭光の中心に、見事、ピタリと一致するのです。

室生寺金堂に在った安産寺・地蔵菩薩像は、どういう訳か、仏像の方だけ寺外に出てしまい、その後室生寺に遺された光背に、現在の地蔵菩薩像が組み合わされて安置されたということになります。

この室生寺に遺る光背と、安産寺の地蔵菩薩像、同時に博物館で展示されたことがあります。
1993年、東京国立博物館で開催された「大和古寺の仏たち展」で双方同時に出展されました。

この展覧会、私は見に行っていないので、地蔵像と光背が本来の形で組み合わされて展示されたのかどうかは判らないのですが、展覧会図録には、中村区・安産寺像と本来の光背とを、当初の姿に組合わせた写真が掲載されていました。
(掲載写真の注釈に「撮影・奈良国立博物館」と記されていました。)

本来の光背(室生寺・地蔵像光背)と組み合わされた安産寺・地蔵像
本来の光背(室生寺・地蔵像光背)と組み合わされた安産寺・地蔵像

ご覧の通りで、サイズだけではなく、仏像と板光背の造形、絵文様とがピッタリとフィットしていることが実感できます。

本尊・釈迦如来像(本来は薬師如来として造像)と中村区・安産寺像は、一具として造立されたものとみられています。
十一面観音像と3躯セットの一具という見方もあります。



【宇陀川の増水で流れ着いたと伝えられる安産寺・地蔵像】


ところで、どうして室生寺金堂に祀られていた地蔵像が、中村区・安産寺に在るのでしょうか?

村落に伝わる伝承では、
「宇陀川が増水した時、この仏さまが対岸に流れ着き、村人が引き上げ現在の地にお堂を造って祀った。」
と、伝えられます。

しかし、地蔵像は、大した損傷もなく伝えられていますので、川を流れてきたというのはあり得ず、何らかの事情で室生寺を出たのだと思われますが、その経緯は全く判りません。
像内に貞享5年(1688)の修理銘を墨書した木札がおさめられていて、中村の人々の名が記されていることから、その頃にはもう三本松中村区の地にあったことが知られています。

この安産寺・地蔵菩薩像が世に知られ、優作像だと認識されたのは昭和10年代のことのようです。
昭和15年(1940)に、旧国宝(現在は重要文化財)に指定されています。
旧国宝指定時には、室生寺金堂の旧仏であろうと推察されていたようで、昭和16年には丸尾彰三郎氏が、初めてその旨に言及しているようです。
(丸尾彰三郎「吉野宇陀飛鳥巡礼」画説9号1941年刊所収)

この地蔵像が、室生寺金堂の旧仏に絶対に間違いないことを証する古記録や墨書銘などが遺されているわけではないのですが、先ほどふれたような造形様式の類似性などから、現在に至るまで異論はないようです。



【中村区の村人の手で、長らく大切に守られてきた地蔵像】


安産寺を訪ねると、どうしてこんな鄙なる村落に、これほどの見事な仏像が遺されてきたのかと驚くとともに、よくぞ今日まで、この仏像が村落に人々の手で守られてきたものだと、感慨を覚えてしまいます。

中村区安産寺のお堂~地区の集会所にもなっている
中村区安産寺のお堂~地区の集会所にもなっている

安産寺という寺名はあるのですが、実際には、三本松中村区の村民の方々で管理され、守られていて、お堂は、地区の集会所としても使われているのです。
お堂の奥に収蔵庫がしつらえられ、地蔵像がポツンと一体だけが安置されています。

安産寺で地区の管理の方にお話を伺うと、この地蔵像が、厚い信仰の元に村落の人々によって、長らく大切にお守りされてきたことが実感されます。

地蔵像は、奈良国立博物館に預けられていた時期がありました。
第二次大戦中の一時期と、戦後、昭和25年(1950)から53年(1978)まで奈良国立博物館に預けられていました。
文化財保護の観点から、お堂での安置は防火防災上問題があるという事由であったようです。
村落では、何とかこの地にお地蔵さまが戻ってきてほしいものと、返却要請をしたところ、収蔵庫建設を条件に戻されることになり、何年もかかって待望の収蔵庫が完成、念願が叶ったということです。

お堂の奥に設えられた収蔵庫内の地蔵菩薩像は、照明も明るく、眼近に見事な姿をじっくりと拝することができます。
是非一度は訪ねて、室生寺の美しい板光背を頭に浮かべながら、地蔵菩薩像の魅力を堪能されることをお薦めします。

この安産寺の地蔵像が、室生寺の金堂に安置され、本来の光背を背に本尊・釈迦像などと共に立ち並ぶ姿を一度見てみたいような想いもよぎるのですが、それよりも何よりも、この中村区の村落の人々の手で、これからも長らく大切に守られていって欲しいという気持ちを強く感じた次第です。



〈その2〉では、
「室生寺・十一面観音像の光背は、何時頃、誰の手で造られたのか?」
という謎を解く話を、ご紹介したいと思います。


こぼれ話~光背の話⑧ 聖林寺・十一面観音像の光背残欠と復元 〈その2〉 【2020.07.11】


ここからは、聖林寺・十一面観音像の光背残欠から、当初の姿を復元する試みについての話に入りたいと思います。

聖林寺・十一面観音像光背残欠..聖林寺・十一面観音像
聖林寺・十一面観音像と光背残欠


【西陣織で復元された、聖林寺・十一面観音像の光背】


いまから6年前、2014年11月に、こんな見出しの新聞記事ニュースがありました。

「国宝観音像に西陣織の光背復元 奈良・聖林寺」

記事の一部をご紹介すると、次のように報じられています。

西陣織の復元光背が背面に掛けられた聖林寺・十一面観音像
西陣織の復元光背が背面に掛けられた
聖林寺・十一面観音像
「桜井市の聖林寺に祀られている国宝「十一面観音立像」の光背が西陣織で復元され1日、開眼法要が営まれた。
全国から多くの参拝者が訪れ、復元された光背が掛けられた十一面観音立像に手を合わせた。
・・・・・・
今回、西陣織の光背(縦4m、横2m)の復元図を手掛けたのは、長年復元図を研究している仏像研究家、池田久美子さん(66)=桜井市
東京芸術大の大学院で研究中、光背について書いた修士論文が聖林寺の先々代住職、倉本弘玄氏の目にとまり平成13年、復元図の作成を依頼されたという。

以来、育児の傍ら天平期に造られた光背の文様などを研究。
当初は原物と同じヒノキでの再現を検討したが、費用や材料面などの課題もあり頓挫。
京都の西陣織工房での協力を得て先月末、当時の文様の特徴を忠実に再現した西陣織での再現がようやく完成した。」
(2014年11月5日付 産経新聞ニュース)

池田久美子氏が手掛けた、聖林寺・十一面観音像の光背復元図による西陣織の再現光背が完成して、聖林寺において、十一面観音像の背面に掲げられたという報道です。
1ヶ月間に亘って、十一面観音像が安置される聖林寺の収蔵庫「大悲殿」にて公開されました。

聖林寺・十一面観音が祀られる大悲殿
聖林寺・十一面観音が祀られる大悲殿

西陣織の復元光背が十一面観音像背面に掲げられた様子の写真は、ご覧の通りです。

西陣織の復元光背が背面に掛けられた聖林寺・十一面観音像
西陣織の復元光背が背面に掛けられた聖林寺・十一面観音像

織物による几帳のようなスタイルとはいいながらも、誠に華麗で荘厳な様子が伺えます。
これがもし当初の本物の光背であったならば、どれほど見事なものであったでしょうか。
想像がつかぬほどに、煌びやかなものであったことと思います。



【聖林寺・観音像の光背復元に取り組んだ池田久美子氏】


池田久美子氏が、聖林寺・十一面観音像の光背断片残欠から、当初の光背の姿の復元に取り組み、西陣織の光背の再現に至ったのは、どのようないきさつによるものだったのでしょうか。

池田氏は、これまでに聖林寺・十一面観音光背の復元について、3本の研究論文を発表しています。

昭和49年(1974) 「聖林寺十一面観音立像光背残欠の復原」 仏教芸術99号
平成17年(2005) 「聖林寺十一面観音立像光背残欠復元の再考察について」 デアルテ21号
平成23年(2011) 「奈良時代仏像荘厳「光」の復元についての再考察」 デアルテ27号

最初の論文は、40年以上前に書かれたものです。
新聞記事にもふれられているように、池田氏が東京藝術大学在学中の修士論文がもとになったものです。
池田氏がまだ20歳代だった頃で、当時の担当教授、西村公朝氏の指導の下に、光背断片のX線調査、同時代の光背構造、文様との比較研究などによって、聖林寺・光背の復元研究に取り組んだ研究論文です。

この論文では、この光背残欠は聖林寺像の光背に間違いないこと、光背総高が約4mと考えられることなどが述べられています。
そして、次のような光背復元の想定図が提示されています。

聖林寺・十一面観音の光背復元想定図(1974年池田久美子氏作成・仏教芸術99号掲載)
聖林寺・十一面観音の光背復元想定図
(1974年池田久美子氏作成・仏教芸術99号掲載)


この修士論文は大変高く評価されたようで、なんと「仏教芸術」に掲載されたのでした。
ご存じの通り、「仏教芸術」は、著名な研究者が論文掲載する当代一流の仏教美術研究誌で、20歳代の若手の論文が採り上げられたというのは、この論文が余程注目評価されたのだと思います。



【四半世紀を経て、光背復元の再考察を決意】


池田氏の回想によれば、その後は研究生活を諦めることにして、家族の世話を中心にする生活に入ったそうでが、子育てがほぼ終わった頃に、聖林寺のご住職から研究の続きをするように勧められたそうです。

きっかけは、1998年に奈良国立博物館で開催された「天平展」に、聖林寺・十一面観音像と光背残欠が特別展示された時のことだそうです。
当時の聖林寺住職、倉本弘玄氏から光背の復元研究を進めて欲しいとの話があり、光背復元再考察の研究に入ることを決意したのでした。

昭和49年(1974)の論文では、光背の詳細な文様まで描いた具体的な図面を完成させるには至らなかったのですが、新たな再考察では、極めて困難な形態、文様などの想定復元の研究に取り組んだということです。
そして、平成17・23年(2005・2011)、九州藝術学会研究誌「デアルテ」に2本の研究論文を発表、想定の修正を重ねながら、「復元想定図面」を完成させました。

最終的に完成した「聖林寺・十一面観音像光背の復元想定図」は、ご覧のようなものです。

2011年に完成した聖林寺・十一面観音の光背復元想定(池田久美子氏作成)
2011年に完成した聖林寺・十一面観音の光背復元想定
(池田久美子氏作成)


昭和49年(1974)当時の復元想定と較べると、外観も大分変化したものになっています。



【2014年、西陣織による光背再現制作が実現】


完成した復元想定図に基づいた光背の復元制作ですが、当初と同じものを模造制作するというのは、技術的にも費用面でも難しいものがあったのでしょう。

西陣織の壁掛けスタイルで再現制作されることとなりました。
制作費用は奉賛者を募り、約800人の寄附により制作が実現したそうです。
京都の西陣織企画・販売会社「京都企画会議」によって、西陣織の技術を駆使して制作されました。

こうして完成した西陣織再現光背が、2014年、聖林寺・十一面観音像の背後に掲げられて、一般公開されるに至ったというのが、冒頭にご紹介した、新聞記事のニュースという訳です。



【奈良博でも研究が進められた、聖林寺・観音像光背の復元想定】


実は、池田久美子氏の想定復元図とは別の、聖林寺・十一面観音像光背の想定復元図が、もう一つ存在します。
奈良国立博物館を中心に進められた2000~2002年に科研費補助基盤研究 「日本上代における仏像の荘厳」 という研究成果によるものです。

その想定復元図は、次のようなものです。

聖林寺・十一面観音光背復元想定図(「日本上代における仏像の荘厳」2005年奈良国立博物館刊掲載)聖林寺・十一面観音光背復元想定図(「日本上代における仏像の荘厳」2005年奈良国立博物館刊掲載)
聖林寺・十一面観音光背復元想定図
(「日本上代における仏像の荘厳」2005年奈良国立博物館刊掲載)


「日本上代における仏像の荘厳」研究成果報告書は、2005年に奈良博によって刊行されました。
聖林寺・十一面観音、法華堂・不空羂索観音&宝冠化仏、二月堂・本尊光背、法隆寺伝法堂・光背など奈良時代の現存光背の詳細な調査研究結果ならびに諸論考が掲載されています。

この中で、聖林寺・十一面観音像の光背の想定復元図の作成が行われていて、山崎隆之氏を中心に復元図の作成が行われたものです。



【二つの想定復元~異なる挙身光と頭光の配置位置】


この想定復元図と池田久美子氏の復元図との、大きな違いにお気づきでしょうか。

挙身光と頭光の配置位置が、大きく違うのです。

聖林寺・十一面観音光背復元想定図(「日本上代における仏像の荘厳」2005年奈良国立博物館刊掲載)2011年に完成した聖林寺・十一面観音の光背復元想定(池田久美子氏作成)
聖林寺・十一面観音光背復元想定図
(左)「日本上代における仏像の荘厳」(奈良博刊)掲載、(右)池田久美子氏作成


奈良博の復元図では、大きな蓮弁形光背(船形光背)の挙身光上部の内側に円形の頭光が配置されています。
池田氏の復元図では、蓮弁形挙身光の上部にはみ出して突出するように円形の頭光が配置されているのです。
池田氏は、この光背のスタイルを「二重層の輪光」と呼称しています。

いずれの想定も、奈良時代の現存光背の詳細な研究結果から導き出された推定なのだと思います。
現存の奈良時代の主要光背の姿の写真は、ご覧の通りです。

東大寺法華堂・不空羂索観音像光背
東大寺法華堂・不空羂索観音像光背

東大寺法華堂・不空羂索観音像の宝冠化仏光背東大寺二月堂・十一面観音像光背断片
(左)東大寺法華堂・不空羂索観音宝冠化仏光背、(右)東大寺二月堂・十一面観音像光背断片

奈良博の復元想定は、法華堂・不空羂索観音像の光背と同じスタイルのイメージのようです。
一方、池田氏の復元想定は、法華堂・不空羂索観音像の宝冠の銀製化仏の光背と似たイメージです。
池田氏は、奈良時代の光背は、本来 「二重層の輪光」スタイルのものであったとの考え方で、二月堂本尊の光背も、法華堂不空羂索観音の光背も、制作当初は円形頭光部が、蓮弁形の挙身光の上部にはみ出して配置されていた可能性が大きいと論じています。

奈良時代の光背の、蓮弁挙身光と円形頭光の組合せの標準形というのは、本当の処はどのようなスタイルであったのでしょうか?



【もう一つの聖林寺・観音像光背の復元想定の研究】


もう一つ、違う視点で、聖林寺・十一面観音像の光背の復元想定を論じた論考があります。

「八世紀制作の立像光背に関する一考察~聖林寺十一面観音立像の光背残欠を中心に」 (小林裕子) 仏教芸術288号 2006.09

という論考です。

この論文を執筆した小林裕子氏は、池田久美子氏、奈良国立博物館の光背復元想定が、蓮弁形の挙身光の中心部あたりに円相を配した形になっていることに注目しました。
頭部の円形頭光の他に、腹部あたりにもう一つ円相が配されているのです。

大正年間に日本美術院によって復元され並べ置かれた光背断片の姿を、そのまま適用すると、円相の部分が丁度観音像の腹部あたりに位置するのです。



【残欠の円相部分は、本来は頭光部分と想定~断片間に欠落?】


小林氏は、この円相が挙身光の中心部(仏像の腹部)に来ることに疑問を呈しました。

像の頭部と腹部に二つの円相を配した蓮弁形の挙身光の現存作例は、ほかに例を見ないこと。
光背残欠の円相上部は花弁の先のように尖っており、あたかも蓮弁形光背の先端の如き形状であること。

などからです。

光背残欠は3箇の断片を並べ置いたものなのですが、断片間に本来あったはずの部分の欠落があり、腹部の円相と想定されたものは、本来は頭光部分にあたるのではないかと想定したのでした。

論文掲載の「光背断片の現状と本来位置想定図」は、次のようなものです。

聖林寺十一面観音の「光背断片の現状と本来位置想定図」(小林裕子氏想定・仏教芸術288号掲載)
聖林寺十一面観音の「光背断片の現状と本来位置想定図」
(小林裕子氏想定・仏教芸術288号掲載)



【奈良時代の立像の、光背高と像高とのバランス比率は?】


そして小林氏は、奈良時代の立像の光背の高さと像高との高さのバランス比率には、一定の法則が存在するとし、聖林寺像の本来の光背位置をこのように想定した場合、その法則に合致すると論じています。

小林氏による、8世紀立像の像高と光背高との比率検証データをご紹介すると次の通りです。

8世紀立像の現存作例の像高と光背高

ご覧のように、8世紀に制作された立像の光背高は、像高(髪際高)の4分の1をプラスした1.25倍の比率法則に則っている蓋然性が高いとというものです。
このことからも聖林寺像の断片光背には欠落があり、円相部分が頭光部分に位置すると考えられる重要な判断材料になるとしています。

この小林氏の説に対しては、反論もなされていて、池田久美子氏の論文には、
小林氏が、欠落があるとしている二つの断片の接合部分は、その割折部分の木目の形状、断裂面の状況などから、上下で繋がるものであることは確実で、そこに別材が入ることはあり得ない。
との旨が述べられています。(「奈良時代仏像荘厳「光」の復元についての再考察」 デアルテ27号)


以上の3つの聖林寺像の光背復元の想定、皆さんは、どのような感想を持たれたでしょうか?
素人の私には、どの想定が当初の姿に近いのかすら、全く想像もつきません。

いずれにせよ、光背の残欠断片から、1300年前の奈良時代の当初の姿を想定し復元していくということが、いかに困難なことで、いくつもの想定がありうるのだということを、つくづく実感させられました。

仏像をはじめとする文化財の修理修復が

「欠損部の復元や追補は、最小限にとどめる」という「現状維持修理の原則」

に則り、行われていることの意味、意義の重要性を、今更ながらに納得させられました。



【光背が破損したのは、鎌倉時代以前か?】


最後に付けたりですが、この十一面観音像の光背が破損して断片になってしまったのは、随分、古い時代のことだと考えられています。

十一面観音が祀られていた大御輪寺は、草創が奈良時代まで遡り、大神神社の神宮寺として大神寺と呼ばれましたが、鎌倉時代、弘安8年(1285)西大寺叡尊の復興参詣を機に大御輪寺と改められたものです。
この大御輪寺本堂は、現存していいて、神社境内の大直禰子神社社殿となっています。

元大御輪寺本堂の建物(現大直禰子神社社殿)
元大御輪寺本堂の建物(現大直禰子神社社殿)

大御輪寺本堂(現大直禰子神社社殿)は、重要文化財に指定されていて、解体修理、地下遺構調査によって、奈良時代から6度の大きな改修があったことが判明しています。
そしてこの調査結果によると、十一面観音像は当初の光背が備え付けられた状況での4m近い総高(台座から光背先端までの高さ)では、少なくとも鎌倉時代のお堂には、内陣天井までの高さが足りず、天井につかえて安置することが不可能であったと判断されているのです。

現聖林寺・十一面観音像が祀られるようになった時期については、鎌倉時代、叡尊が復興した時期に大御輪寺に移入されたという考え方と、奈良時代から大神寺に安置されていたものという二つの見方もあります。

いずれにせよ、少なくとも鎌倉時代以降は、造立当初の光背を背負うことなく、十一面観音像本体だけが大御輪寺に安置されていたことになります。
鎌倉時代には、既に、当初の光背は破損して、現在の断片のようになってしまっていたことが推測されるのです。

その壊れてしまった破損光背が、その後、800年以上大切に保管され、聖林寺に移されるときにまで、一緒に移されてきたということには、驚きを禁じえません。
破損してしまったとはいえ、ご本尊と一体の付属光背として、いかに大切なものとして護られてきたかを物語っているようです。

ちょっと感慨深いものを覚えた次第です。



こぼれ話~光背の話⑦ 聖林寺・十一面観音像の光背残欠と復元の話 〈その1〉 【2020.07.04】


【私の一番のお気に入りの「拓本」】

この「葉文様の拓本」、我が家の玄関に飾ってあります。

聖林寺・十一面観音像光背残欠の拓本
我が家にある聖林寺・十一面観音像光背残欠の拓本

私の一番のお気に入りの拓本です。
我が家には、他にも仏教美術がらみの拓本がいくつもあるのですが、この拓本がとりわけ良い味わいがあります。

聖林寺・十一面観音像光背残欠の拓本
聖林寺・十一面観音像光背残欠拓本

何の拓本か、お判りでしょうか?
そうです、聖林寺・十一面観音像の破損した光背残欠の拓本なのです。
残欠の丁度真ん中あたり、上向きに配されたアカンサス様の葉の処を採拓したものです。

この拓本を手に入れたのは30年近く前のことであったでしょうか。
一人で聖林寺を訪ねた時に、お寺さんから頒けていただいたものです。
その時、拓本はもう数枚しか残っていないとおっしゃっていたように記憶しています。

マクリで持ち帰ったのですが、早速、額装に仕立てました。
期待以上に、品良く出来上がって、それ以来、大のお気に入りになり、よく飾っています。



【破損残欠が残されている、聖林寺・十一面観音像の光背】


聖林寺の十一面観音像。

奈良時代の木心乾漆像を代表する国宝仏像で、この名作を知らない人はいないでしょう。

聖林寺・十一面観音像
聖林寺・十一面観音像(奈良時代・国宝)

この十一面観音像の光背であった破損残欠を、ご覧になったことがあるでしょうか?

聖林寺・十一面観音光背残欠(奈良国立博物館寄託)
聖林寺・十一面観音光背残欠(奈良国立博物館寄託)

全長244㎝もある大きなものです。
奈良時代の光背残欠で、十一面観音像の当初からの付属光背であったことは間違いないものとされています。
元々は、大きく広がった見事な透かし彫りの光背であったのでしょうが、今では、そのほとんどが失われてしまっています。
光背の中心軸であったようなところだけがかろうじて遺されている状況で、下の方から、柄、光脚、身光部の茎上の処、円光の中心となっています。
かなりの痛々しい感じというのが、正直なところです。

その昔は、聖林寺で、ガラス張りの漆塗りの箱に入れられて保管されていたようなのですが、現在は、奈良国立博物館に寄託されています。

我が家にある光背拓本は、聖林寺に保管されていたころに採拓されたものなのでしょうか?

光背残欠の拓本が採拓された部分聖林寺・十一面観音像光背残欠拓本
光背残欠の拓本が採拓された部分

最近は、博物館でもあまり見かけませんが、関連する特別展があるときなどには、展示されています。
奈良博で、この光背残欠をご覧になった頃がある方も、結構いらっしゃるのではないかともいます。


この6月に東京国立博物館で開催予定になっていた、特別展「国宝 聖林寺十一面観音 ~三輪山信仰のみほとけ」では、国宝・十一面観音像と共に、光背残欠もきっと出展されるであろうと期待していました。
新型コロナウイルスの感染拡大で、開催延期となってしまいましたので、愉しみが、一年間先送りになってしまいました。



【大神神社の神宮寺・大御輪寺に祀られていた聖林寺の十一面観音】


この光背残欠と、当初の姿への復元の話に入る前に、聖林寺・十一面観音像の伝来などについて、ちょっとだけおさらいしておきたいと思います。

皆さんご存じの通り、十一面観音像は、三輪山をご神体とする大神神社(おおみわじんじゃ)の神宮寺、大御輪寺に安置されていた像です。

大神神社(おおみわじんじゃ)
大神神社(おおみわじんじゃ)

今更、ここでご紹介するまでもない話ですが、大御輪寺から十一面観音像が、聖林寺に移されたいきさつや大御輪寺旧仏の行方にまつわる話は、次の通りです。

聖林寺・山門
聖林寺・山門


【しばしば語られる「廃仏毀釈で打ち棄てられていた」とのエピソード】


一昔前までは、この十一面観音像は、明治維新の時の神仏分離、廃仏毀釈の嵐の中で打ち棄てられていたのを、聖林寺の僧が引き取ってお祀りしたなどと伝えられていました。

和辻哲郎は、名著「古寺巡礼」(1919年刊)で、
「路傍に放棄され誰も拾い手がなかったのを、聖林寺の僧が寺に持ち帰った。」
と語っています。

白洲正子は、自著「十一面観音巡礼」(1975年刊)で、
「大神神社・神宮寺の縁の下に捨てられていたのを、フェノロサが見つけて聖林寺に移すことにした。」
という話を、昭和7~8年頃、聖林寺の住職から聞いたと記しています。

天下の名作仏像が、廃仏毀釈の嵐を偶々潜り抜けたエピソードとして、しばしば語られてきた昔ばなしだと思います。

実は、これらの言い伝えは、まさに創り話で、真実ではありませんでした。



【神仏分離で正式に聖林寺に預けられていた観音像~見つかった預り証文】


事実は、神仏分離に際し、慶応4年(1868)に大御輪寺から聖林寺に、正式に預けられたものだったのです。

このことは、当時の大御輪寺の僧:廓道が記した、
「秘仏十一面観音を神仏分離で聖林寺に移した」
旨の書付(遺書)が存在することが、昭和20年代に紹介され、明らかになりました。

さらには、昭和34年(1959)頃、聖林寺からご覧の通りの預かり証文「覚書」が発見されたのです。

聖林寺に残される大御輪寺からの仏像等預かり覚書
聖林寺に残される大御輪寺からの仏像等預かり覚書

見つかった書付には、

「秘仏本尊・十一面観音、前立・十一面観音、脇侍・地蔵菩薩などを、慶応4年(1868)5月に大御輪寺から御一新につき当分預かった」

旨が、「覚」としてはっきりと記されています。

神仏分離令発布(慶応4年4月)に、早々に大御輪寺が対処して、聖林寺に預られたのでした。
当時の聖林寺住職:大心は、大御輪寺僧:廓道とは兄弟弟子で、その関係から聖林寺に預けられたようです。



【地蔵菩薩像は、その後、法隆寺へ移される】


「脇侍・地蔵菩薩」というのは、現在法隆寺の大宝蔵院に展示されている、平安前期一木彫像の地蔵菩薩像(国宝)のことです。

法隆寺・地蔵菩薩像(大御輪寺旧仏)
法隆寺・地蔵菩薩像・大御輪寺旧仏(平安前期・国宝)

明治6年(1873)に、法隆寺の塔頭北室院に移されました。
大御輪寺に仏像が戻る可能性がなくなり、北室院僧:一源も大心の兄弟弟子で、その縁で法隆寺に移されたのでしょう。



【「前立 十一面観音」は、神戸市の金剛福寺に移されていたことが明らかに】


「前立・十一面観音」の方は、現在、神戸市の金剛福寺の御本尊として祀られているそうです。

金剛福寺・十一面観音像(大御輪寺旧仏「前立十一面観音」)
金剛福寺・十一面観音像(大御輪寺旧仏「前立十一面観音」)
「廃寺のみ仏たちは、今」掲載写真


像高:約80㎝の総金箔の十一面観音像で、江戸時代の制作のようです。

金剛福寺は、第二次大戦の神戸空襲で建物、仏像すべてが焼失してしまいました。
先代住職同士が縁者であったことから、終戦後の混乱期に、聖林寺にしまわれていた前立観音像が金剛福寺に移され、本尊として迎えられたということです。

神戸市・金剛福寺
神戸市・金剛福寺

この話、ごく最近、初めて知ってビックリしました。
最新刊の 「廃寺のみ仏たちは、今~奈良県東部編」(小倉つき子著) に、その事実が書かれていて、ずっと気になっていた、
「「前立・十一面観音」は、どこに行ったのだろうか?」
という疑問が、解決しました。

この観仏日々帖の前話・新刊案内~「廃寺のみ仏たちは、今」で、ご紹介させていただいた通りです。



【大御輪寺旧仏の現在の行方は】


このほか大御輪寺伝来で、現在の所在が明らかになっている仏像は、次の通りです。

大御輪寺伝来旧仏の一覧


【正暦寺にも、大御輪寺の「寄附受取証文」が残されていたことが明らかに】


正暦寺の菩薩像2躯も大御輪寺から移された像であることは知られていましたが、近年、大御輪寺から正暦寺への仏像、仏具などの「寄附証文」が遺されていたことが明らかになりました。

正暦寺・菩薩像(大御輪寺旧仏)正暦寺・菩薩像(大御輪寺旧仏)
正暦寺・菩薩像2躯・大御輪寺旧仏(平安・県指定文化財)

慶応4年(1868)年の「寄附証文」3通で、
「御一新につき仏像仏具を正暦寺に寄附し、冥加金として金55両、金40両をそれぞれ受け取った」
旨が記されています。

三輪若宮(大御輪寺)から正暦寺宛の、寄附受取証のような書付です。
この寄附証文、以前に正暦寺を訪ねたときに、現物をご住職のご厚意で拝見させていただいたことがあります。



【神仏分離令に即応して、きちんと他寺に移されていた大御輪寺旧仏】


こうしてみると、大神神社神宮寺の大御輪寺では、神仏分離令発布後、即座にこれに対応し、主要な安置仏像を縁のあるの寺に、きっちりと移したのであろうことが想像されます。

大御輪寺においては、巷間伝えられるような、廃仏毀釈で仏像が破却されたり焼かれたりしたというようなことは、無かったのではないかと思われます。



【「長岳寺・二天像は大御輪寺旧仏」の伝えは、誤りか?】


なお、天理市長岳寺にある増長天・多聞天像は、長らく大御輪寺伝来の仏像が、神仏分離で移されたものであるとされてきました。
私も、かつて日々是古仏愛好HP「埃まみれの書棚から〈第143回〉~廃仏毀釈で消えた奈良の寺々」で、そのように紹介しています。

ところが、平成27年(2014)に、両像の修理がされた際に、台座に長岳寺の山内を示す「大和釜之口成就院」と書かれた明治期以前の墨書銘が見つかり、古くから長岳寺山内にあった可能性が高くなりました。
大御輪寺伝来というのは、創られた言い伝えであったようです。


こうした聖林寺・十一面観音像の来歴や、大御輪寺伝来の仏像の行方などについては、書物や研究誌でも取り上げられていますが、NET上にも数多くの紹介記事が掲載されています。

その中でも、次のHP記事が、興味深く判り易いものではないかと思います。

「聖林寺十一面観音と大御輪寺」 せきどよしおの仏像探訪記HP掲載コラム
「聖林寺 十一面観音菩薩像」 なら再発見(奈良まほろばソムリエの会)HP連載記事
「聖林寺の十一面観音。「古寺巡礼」のフェイク挿話」 ブログ掲載記事

御関心がありましたら、ご覧になってみてください。



【聖林寺・十一面観音像を初めて見出したのは、岡倉天心、フェノロサ~明治19年】


慶応4年(1868)に、聖林寺に移されてきた十一面観音像なのですが、大御輪寺で秘仏とされていたのを承けて、引き続き秘仏として祀られていたようです。

この十一面観音像を、初めて見出したのは、岡倉天心でした。
明治19年(1883)の奈良地方古美術調査の時で、岡倉天心は自筆の古社時調査手帳に、

「本尊十一面観音・・・元ト三輪村大御輪寺ニアリ・・・・光背台座非凡ニシテ日本第一保存ノ像カ  新発明ナリ」

と記して、この時、新発見の優作像であることを特筆しています。

この調査に同行していたフェノロサは、ビゲローと共に、十一面観音像を保存するための厨子制作の費用として50円を寄進し、明治21年に新しい厨子(木箱)が完成しました。

観音像は、長らくこの寄進された厨子に祀られていたのですが、昭和34年(1959)に、新しい収蔵庫、大悲殿が完成して、今の通りに安置されることになりました。



【バラバラに壊れていた、光背残欠】


十一面観音像の来歴などのおさらい話はこれぐらいにして、光背の話に戻りたいと思います。

大御輪寺から聖林寺に十一面観音像が移された時、付属の光背はすでにバラバラに壊れた破損断片の状態であったようです。

そうだとすれば、破損光背は本当に十一面観音像の光背であったものかという疑問も出てくる訳ですが、光背の造形表現や、光背下部の枘の形が観音像の台座下框に設けられた枘穴とピッタリ一致することなどから、十一面観音像の付属光背に間違いないと見られています。



【大正年間の美術院修理で、現在の姿に光背を復元】


この光背が、現在のような形に復元的に組み合わされたのは、大正年間に入ってからでした。
それまでは、バラバラの破損断片のまま保管されていました。
大正4~5年(1915~16)に、日本美術院によって十一面観音像の本格的修理が行われました。
この時、バラバラになっていた破損光背が、現在の形に復元されたのです。
日本美術院の修理記録には光背復元について、次のように記されています。

修理前の光背の状態については、

「光背ハ最も大破にして、少しく形の纏まりありしは最下の茎より受花のみにして、他数箇の破片を有せしなり。」

という状況で、修理復元については、

「光背ハ現在遺存せる破片を研究して之を纏め、堅牢に修理し、落板を有する大なる箱を造りて之に納む。
落板ニハ綿入白布を貼り、纏めたる破片を之にとり付く。
箱は桧材、栗色、漆塗り、金具及び紐付。」
(「日本美術院彫刻等修理記録Ⅲ」奈良国立文化財研究所・1977年刊 所収)

と記されています。

美術院による聖林寺・光背残欠復元修理図解..美術院による復元光背の写真
美術院による聖林寺・光背残欠復元図解と撮影写真

復元された光背は、本堂の中、お地蔵様の左側の回廊に、ガラス板が上面に張られた漆塗りの長い木箱の中に、寝かせて置かれていたそうです。
聖林寺でこの光背をご覧になった方も、いらっしゃるのではないでしょうか。
私も、学生時代には、聖林寺で観ているはずなのですが、まったく記憶にありません。



【昭和50年から奈良博に寄託、折々展示~偲ばれる往時の壮麗な姿】


その後、昭和50年(1975)に、奈良国立博物館の寄託品となり、木箱から身光部のみを取り外して展示台のバックパネルに固定され、平常展・特別展で展示されるようになりました。
頭光部やそのほかの断片は、元の木箱に入れたままで、博物館の収蔵庫内で管理されているということです。

博物館で展示された、この光背を観ると、残欠ながら見事なものであることがすぐわかります。
身光の中心部、光脚部、茎部などの中軸部分が遺されているだけですが、のびやかで生命感あるアカンサス様の唐草の表現などは、流石に奈良時代の光背という感じです。
光脚以下は木心乾漆、上部は木彫漆箔となっているとのことです。

今は、中軸部だけしか残されていませんが、造像当初の光背は、法華堂不空羂索観音の光背のような、華麗な透かし彫り唐草がふんだんに配された、それはそれは壮麗なものであったことは間違いありません。


〈その2〉では、聖林寺十一面観音の光背の、「当初の姿への復元への試み」の話をご紹介したいと思います。