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観仏日々帖

新刊案内~「廃寺のみ仏たちは、今」 小倉つき子著 【2020.06.26】


私のような、隠れ仏好き、仏像の来歴発掘好きには、応えられない興味津々の本です。

それよりも何よりも、昨今の厳しい出版事情の中で、「知られざる鄙なる仏像の来歴をたどる」といった、こんな地味な本が出版されたということを、まずは喜ぶべきと思いました。

国宝仏から秘仏まで 廃寺のみ仏たちは、今 ~奈良県東部編

小倉つき子著 2020年6月 京阪奈情報教育出版社刊 【246P】 950円


小倉つき子著「廃寺のみ仏たちは、今」



【奈良の廃寺となった寺々の、旧仏の行方をたどる本】


本の題名から、充分察しが付くと思いますが、奈良東部の廃寺となってしまった寺々の旧仏の現在をたどる本です。

NETでの出版紹介には、

「廃仏毀釈のあおりを受けた仏像、寺院の衰退や伽藍の消失、寺院同士の権力争いの犠牲になったものなど、さまざまな理由で流出を余儀なくされた仏像と廃寺を紹介。」

「奈良まほろばソムリエの会会員、小倉つき子氏著。
様々な理由で多くのドラマを背負った仏像の、軌跡の物語の数々。」

とありました。

私の仏像愛好の興味関心があるフィールドの、ツボにはまったような本です。
早速、AMAZONで注文しました。

到着した本のページをめくると、期待通りというか、期待以上の興味津々の内容です。
一気に読み通してしまいました。



【廃寺旧仏が伝わる寺々を、自分の脚で丹念に訪ねた記録書】


目次の構成は、次のようなものになっています。

「廃寺のみ仏たちは、今」目次

ご覧のような地域の、廃寺や旧仏が伝わるお寺や地域の集会所などを訪ねて、ご住職や関係者から直に来歴やエピソードなどをヒヤリングした内容などが、まとめられています。

採り上げられている仏像の多くは、知られざるかくれ仏ともいうべきですが、割合知られているものでは、

大神神社の神宮寺・大御輪寺の旧仏(聖林寺・十一面観音、法隆寺・地蔵菩薩など)、山田寺旧仏(興福寺仏頭、東金堂・日光月光菩薩像)、山添村西方寺廃寺・快慶作阿弥陀如来像、岩淵寺旧仏(新薬師寺・十二神将像)、勝願寺廃寺旧仏(新薬師寺・景清地蔵・おたま地蔵像)

などが登場します。

旧廃寺から現在のお寺に移されていった軌跡などが、丹念に語られています。



【「ドラマを背負った廃寺の仏さま」の現状をまとめようと思い立つ】


著書、小倉つき子氏は、NPO法人・奈良まほろばソムリエの会会員で、「ドラマチック奈良」という著作もある方ですが、仏教美術や地域史の専門家という訳ではないようです。

その小倉氏が、こんなちょっと風変わりでマニアックな本をまとめようとした、きっかけや思いについて、本書の「まえがき・あとがき」で、次のように語られています。

「「NPO法人・奈良まほろばソムリエの会」の保存継承グループが2017年から行っていた、奈良県指定の仏像や建造物などの現状調査に参加していました。
特に仏像に関心を寄せながらまわっていたのですが、山間部や僻地で無住の寺や公民館の収蔵庫にポツンと安置されている指定仏にしばしば出合い、感慨深いものがありました。
・・・・・・
仏教伝来の地である奈良に住み、奈良の歴史やよもやま話を楽しみながら県下を巡ってきた者として、多くのドラマを背負った「廃寺の仏像」だけでも取り上げ、現状をまとめてみようと思い立ちました。
・・・・・・・
奈良県下の廃寺となった寺院の旧仏をつぶさに追い、読み物としてはもちろん、ひとまとめにした記録書になればと、県東部の桜井市、宇陀市、宇陀郡、山添村、奈良市東部から取材を始めました」

「廃寺のみ仏たちは、今」

「無住寺となっている寺院の檀家さんたちからは
「廃寺の仏像をまとめていただけるのはありがたい。
今、私たちが知っていることを記録しておかないと次世代には伝わっていかないでしょう。」
というご意見をたくさんいただきました。
本書が記録書としてもお役に立つことができれば幸いです。」



【圧巻の「粟原廃寺旧仏」の行方追跡の記録】


私が、本書のなかで最も興味深く読ませてもらい、圧巻であったのは、冒頭の「粟原(おうばら)廃寺の旧仏と、今に伝わる仏像の行方」を追った章でした。

桜井市にある粟原寺跡は、今では塔・金堂跡の礎石などだけが残されている廃寺です。

粟原寺跡
粟原寺跡~礎石だけが残され石碑が立てられている

ご存じかと思いますが、江戸中期に、談山妙楽寺(現在の談山神社)の宝庫から粟原寺三重塔の露盤の伏鉢(国宝)が発見され、その刻銘から、仲臣朝臣大嶋が草壁皇子を忍んで発願され、持統年間に起工した由緒ある寺院であることが知られています。

談山神社・粟原寺三重塔露盤伏鉢(奈良時代・国宝)奈良国立博物館寄託
談山神社・粟原寺三重塔露盤伏鉢(奈良時代・国宝)奈良国立博物館寄託

この粟原寺の旧仏が転々としていった行方が、丹念に追跡されています。
その詳しい内容については、是非、本書を読んでみていただきたいのですが、どんなイメージなのかのさわりを知っていただくために、

「粟原廃寺の旧仏と伝わる諸像」の章の目次

をご覧になっていただきたいと思います。

「粟原廃寺の旧仏と伝わる諸像」目次①

「粟原廃寺の旧仏と伝わる諸像」目次②



【粟原廃寺旧仏の数と拡がりの大きさにビックリ】


いかがでしょうか?
粟原寺旧仏の数が随分多くて、大きな拡がりがあることに驚かれたのではないでしょうか。
目次の項建てに名前が出てくるお寺の名前、仏像の名前をご覧いただくと、廃寺となった粟原寺伝来という仏像がどのようなものなのかご想像がつくことと思います。

ちょっと詳しい方は、
延暦寺国宝殿・薬師如来像、石位寺・三尊石仏像、長野保科清水寺の諸仏、外山区(とびく)報恩寺・阿弥陀如来像
などの名前を見て、
これらの像も粟原寺伝来と伝えられる仏像なのかと、認識を新たにされたのではないかと思います。

延暦寺国宝殿の薬師如来像は、昨年(2019)、延暦寺で開催された「比叡山の如来像」展ポスターになった平安古仏の優作です。

「比叡山の如来像」展ポスター
延暦寺国宝殿・薬師如来像(平安・重文)
「比叡山の如来像」展ポスター


石位寺・三尊石仏像は、白鳳時代の美麗な石仏像として有名です。

石位寺・石位寺・伝薬師三尊石仏像(白鳳~奈良・重文)
石位寺・石位寺・伝薬師三尊石仏像(白鳳~奈良・重文)

長野保科清水寺の諸仏は、長野県有数の平安古仏として知られています。

長野県保科清水寺・千手観音像(平安・重文)長野県保科清水寺・地蔵菩薩像(平安・重文)
長野県保科清水寺・千手観音像(平安・重文)、地蔵菩薩像(平安・重文)

外山区(とびく)報恩寺・阿弥陀如来像は、数年前に奈良博・なら仏像館にしばらく展示されていた定朝様の見事な丈六坐像です。

外山区報恩寺・阿弥陀如来像(平安後期・県指定文化財)
外山区報恩寺・阿弥陀如来像(平安後期・県指定文化財)

小倉氏は、これら粟原寺伝来とされる諸仏像が現在安置されているお堂などを一つ一つ訪れて、その伝来ルート、行き先をたどっています。
管理されている方々からの聴き取りだけでなく、市町村史にあたったり、研究者から調査情報を得たりして、丹念にトレースして、粟原寺伝来仏像の全容とも云える姿が解明されています。

なかでも、延暦寺国宝殿の薬師如来像(平安時代10C・重文)が、従来、云われていた佐賀県大興善寺伝来仏ではなくて、粟原寺旧仏で桜井市興善寺にあった仏像であることが、新たに解明されていったいきさつの話は、ちょっと感動的なものがありました。

興善寺に残されていた3枚の古写真が、解明のきっかけになったということです。
私も、2015年に興善寺を訪ねていて、その時撮った堂内写真には、問題の古写真が写り込んでいるのですが、全く関心を払うことはありませんでした。

桜井興善寺堂内(薬師如来像・毘沙門天像)
2015年に訪れた時の桜井興善寺堂内写真
薬師如来像・毘沙門天像の前に3枚の古写真が置かれている


桜井興善寺堂内の古写真
興善寺堂内の古写真
真ん中が現延暦寺国宝殿・薬師如来像
左右の天部像写真は、粟原寺旧仏・現サンブランシスコアジア美術館蔵像




【フィールドワークの大成果~粟原寺旧仏の伝来トレース図】


こうしたご苦労の結果、小倉氏が作成した、 「粟原寺伝来仏像のトレース図」 は、次の通りです。

粟原寺伝来仏像のトレース図

粟原寺の旧仏が転々としながら、それぞれの居場所に祀られるようになった有様が、一目瞭然で判る労作です。



【初耳のビックリ話~大御輪寺旧仏「前立 十一面観音」は、今、神戸のお寺に】


こんな諸々の興味深い話をご紹介していると、もうキリがありません。
もう一つだけ、本書で初めて知ったビックリの話にふれておきたいと思います。

それは、大御輪寺から聖林寺に移された「前立 十一面観音」の行方です。

ご存じの通り、明治維新時の神仏分離で、大神神社の神宮寺・大御輪寺から聖林寺に、

「秘仏・十一面観音、前立・十一面観音、脇侍・地蔵菩薩」

の3体の仏像が移されたことは、聖林寺に慶応4年(1868)の「預かり覚え」の書付が残されていることで、よく知られています。

「秘仏・十一面観音」は、国宝の聖林寺・十一面観音像
「脇侍・地蔵菩薩」は、その後、法隆寺に移った、国宝の地蔵菩薩像
です。

残りのもう1体「前立・十一面観音」が、どうなったのかは、私は全く知りませんでした。

前立観音の行方は、これまでよく判らないとされていて、桜井市 平等寺の秘仏十一面観音像がこれにあたるのではないかという見方もあったのではないかと思います。

本書では、「前立・十一面観音」は、神戸市灘区にある金剛福寺の本尊・十一面観音像であることが明らかにされていました。

神戸市灘区にある金剛福寺
神戸市灘区にある金剛福寺

金剛福寺のご住職によると、
「第二次大戦の神戸空襲で建物も仏像もすべて焼失。
終戦後の混乱期に、先代住職同志が縁者であることから、聖林寺にしまわれていたお前立像を頂戴し、ご本尊としてお迎えしました。」
ということなのだそうです。

この十一面観音像は、江戸時代の制作とみられる、像高:約80㎝の総金箔のお像です。

金剛福寺・本尊十一面観音像
金剛福寺・本尊十一面観音像
大御輪寺「前立十一面観音」で、聖林寺から金剛福寺に移された
(「廃寺のみ仏たちは、今」掲載写真)


この観音像が大御輪寺の伝来像に間違いないことが、阪神大震災で本尊を搬出した際、厨子裏に記された墨書が発見されたことで、確実なものとなりました。

厨子裏の墨書には、
「弘化4年(1847)に、海龍王寺の住職が厨子を新調し、大御輪寺に寄進した」
旨が、はっきりと記されていたのでした。

この大御輪寺の「前立・十一面観音」が、聖林寺から神戸の金剛福寺に移されていたという話は、全くの初耳、初めて知ったビックリの新事実でした。

このことが明らかになったのも、著者小倉氏が、自ら諸寺を訪ね、直に関係する方の話を聴くという努力の賜物なのではないかと敬服した次第です。



奈良の廃寺の旧仏の行方と、今の地に祀られるに至ったいきさつを、自らの脚で丹念にたどった記録という、得難い本だと思います。
奈良まほろばソムリエの会員ならではという、フィールドワークの賜物とも云って良い本でしょう。

皆さん、是非ご一読をお勧めします。

本書は「奈良県東部編」ということですので、続編の発刊が待たれるところです。

そのためにも、本書の売れ行きが伸びることを願うばかりです。


こぼれ話~光背の話⑥ 東大寺二月堂の本尊光背と二躰の秘仏観音像 【2020.06.19】


奈良国立博物館に、断片を繋ぎ合わせた「銅造の光背」が展示されているのをご覧になったことがあるでしょうか?


【破損断片が遺されている、二月堂・秘仏本尊十一面観音の光背】


全長2メートルを超える大きさで、蓮弁形の身光部と円形の頭光部の破損した断片が、復元的に貼り付けられたものです。

東大寺二月堂・秘仏大観音十一面観音像光背(奈良時代・重文)

東大寺二月堂・秘仏大観音十一面観音像光背(奈良時代・重文)
東大寺二月堂・秘仏「大観音」十一面観音像光背(奈良時代・重文)
(上段)身光部、(下段)頭光円光部


この壊れた光背、東大寺二月堂の絶対秘仏本尊・十一面観音(大観音)の光背なのです。

現在は、奈良国立博物館に寄託されています。
常時展示されているわけではありませんが、毎年恒例で開催される「お水取り展」には、必ず展示されています。
破損しているとはいえ、素晴らしい線刻画像が刻された、見事な奈良時代の光背です。

どうして絶対秘仏の観音像の光背だけが、このような形で遺されているのでしょうか?
その話は、また後で詳しくふれたいと思います。



【絶対秘仏の二月堂の二躰のご本尊~「大観音・小観音」】


奈良に春を告げる「お水取り」修二会の行法で知られる東大寺二月堂。

東大寺二月堂
東大寺二月堂

その御本尊が、秘仏として祀られていることは、よくご存じのことと思います。

御本尊は、大小二躰の十一面観音像とされ、「大観音」(おおがんのん)、「小観音」(こがんのん)と称されていますが、これまで何人も拝したことがない絶対秘仏として守られています。


世の中に「秘仏」とされている仏像は、随分沢山ありますが、「秘仏」は云ってもほとんどは何年かに一度はご開帳が行われ、その像容が知られています。
50年、60年に一度の御開帳とか、厳重秘仏で開帳されたことがないといわれる仏像でも、文化財調査などにより撮影された写真があって、その姿を知ることができます。



【何人も拝したことのない絶対秘仏~三大絶対秘仏は、善光寺、浅草寺、二月堂】


こうした中で、未だに何人もその姿を拝したことがない「絶対秘仏」とされる仏像があるのです。

二月堂の秘仏本尊は、その絶対秘仏の一つです。
当然、どんなお姿なのか誰も判りませんし、写真などは全くありません。

世に広く知られている「絶対秘仏」と云えば、そのほかには長野・善光寺、東京・浅草寺のご本尊の名が挙げられるのでしょう。
「三大絶対秘仏」 と云って良いのではないかと思います。

ここで、ちょこっとだけ、善光寺と浅草寺の絶対秘仏についてふれておきたいと思います。



【「善光寺式阿弥陀三尊」で尊容が伝えられている、善光寺・秘仏本尊~飛鳥時代の渡来金銅仏か?】


善光寺の御本尊は、一光三尊の阿弥陀如来像とされています。

善光寺・本堂
長野 善光寺・本堂

善光寺縁起によると、あくまでも伝承ですが、百済の聖明王から贈られた日本最古の仏像を、信濃の本田善光が都から持ち帰り祀ったものとされています。
鎌倉時代から秘仏化されたようで、内々陣の厨子に祀られ、現在では絶対秘仏とされています。

本尊は、飛鳥時代に伝来した一光三尊形式の金銅三尊仏像であろうとされています。
本尊の姿を模したという、いわゆる「善光寺式阿弥陀如来像」の像容から、そのように推察されているわけです。
「善光寺式阿弥陀如三尊像」の姿については、皆さんもお馴染みのものだと思います。
鎌倉時代から室町時代にかけて盛んに造像され、現在、全国に200体以上の作例が残されています。
善光寺にも、鎌倉時代の善光寺式一光三尊の姿のお前立本尊(重要文化財)が祀られています。

お前立本尊も秘仏になっているのですが、足掛け7年に一度ご開帳が行われ、ご開帳の時には物凄い参詣の人々が詰めかけるのは、ご存じのとおりです。



【江戸時代に、一度だけ厨子が開かれる~偽物出現騒動で検分】


厳重秘仏としてされてきたご本尊なのですが、江戸時代に一度だけ厨子が開かれたことがあります。

元禄5年(1692)に、真の本尊を騙る偽物出現の大騒動があり、柳沢吉保の仲介で、敬諶(けいたん)という僧侶が秘仏の善光寺本尊を拝見したということが「善光寺由来記」に記されているのです。
検分によると、像高:一尺五寸、重量:六貫三匁であったそうです。

それ以来、今日に至るまで、何人もその姿を拝したことがない絶対秘仏として祀られています。



【一寸八分の金色観音像と伝える、浅草寺の絶対秘仏本尊】


浅草寺のご本尊は、聖観音像です。

浅草寺・本堂(観音堂)
浅草寺・本堂(観音堂)

一寸八分の金色像とか金無垢像であるという伝えもあるようですが、絶対秘仏とされているだけに、その実体は明らかではありません。
寺伝、浅草寺縁起によると、推古36年(628)に、宮戸川(現在の墨田川)で漁師の網にかかった金色の仏像を、土師中知(はじのなかとも、「土師真中知」(はじのまなかち)とも)が堂を建て祀ったのが、浅草寺のはじまりと伝えます。

その後、東国を巡遊していた勝海上人が、大化元年(645)に本堂を再建し、観音の夢告により本尊を秘仏と定め、以来今日まで、他見を許さない絶対秘仏とされていると伝えられています。



【明治初年、強引に開扉されたことのある秘仏本尊~神仏分離の本尊改め】


大化年間以来、千数百年の絶対秘仏とされる本尊像ですが、過去一度だけ、開扉され検分されたことがあるのです。

明治維新後間もない、明治2年(1969)のことです。
神仏分離令に伴う社寺局の本尊改めがあり、役人が縁起閲覧、秘仏開扉を強引に要求したのでした。
浅草寺にとっては未曽有の事件で、徹底固辞するも許されず、やむなく開扉されたのでした。
当時、秘仏本尊は実は神体であるとの噂が立っており、本尊改めで仏像であることが確認され、役人は「大切ニ護持候様」に、申しつけたと伝えられているようです。

現在は、本堂内陣中央の御宮殿のなかに、秘仏本尊の厨子と、お前立本尊とが安置されています。

浅草寺・秘仏本尊小観音が祀られる御厨子
浅草寺・秘仏本尊小観音が祀られる御厨子

お前立本尊は、慈覚大師円仁の作と伝える木彫像で、平安時代の仏像のようです。
お前立本尊の方も、慶事の際に限り開帳される厳重秘仏であったのですが、現在では、毎年12月13日、御宮殿の煤払い開扉法要の際に、ごく短時間だけ開扉され拝することができます。



【二月堂の二躰の本尊は、南北朝室町期に絶対秘仏に‥‥】


そろそろ、二月堂の秘仏本尊の話に戻りたいと思います。

二月堂は、寺伝では、天平勝宝4年(752)、実忠による創建と伝えられます。
二月堂の内陣には大小二躰の十一面観音が安置され、それぞれ「大観音」(おおがんのん)、「小観音」(こがんのん)と称されています。

東大寺・二月堂
東大寺・二月堂

共に、絶対秘仏として厳重に結界され、他見は許されず、参籠する練行衆と云えどもその姿を拝することは出来ません。

現在の安置状態は、次のようになっているとのことです。
大観音は、内陣須弥壇の中央に祀られ、四本の柱で支えられた天蓋の下に帳で掩われています。

扉のある厨子ではないのですが、帳の中をのぞくこともできません。
須弥壇の下は岩座で、直接岩盤の上に立っているらしいと云われています。

小観音のほうは、大観音の前に安置されています。
須弥壇の上に小型の厨子があり、この中に納められていますが、この厨子は扉もなく、絶対に開かれることはありません。

二つの観音像が、いつごろから秘仏化されたのかははっきりしないのですが、鎌倉時代には図像として記録されているようで、二月堂の本尊も、全国各地の霊仏が秘仏化されていった南北朝から室町期に秘仏化されていったのではないかと推測されているようです。



【奈良博に寄託されている「大観音」の破損光背~台板に復元的配列】


この絶対秘仏であるはずの本尊ですが、先にご紹介したように、何故だか、大観音像の光背の壊れた断片が奈良国立博物館に寄託保管されているのです。

冒頭でご紹介した通り、船形の身光部と丸い頭光部との破損断片で、現在は復元的に配列されて台板に張り付けられたものになっています。
身光は高さが226㎝あり、銅製で鍍金されています。
その表裏には千手観音を中心とする群衆や、大仏蓮弁と類似する須弥山図などの図様が線刻されています。

現在は、身光部と頭光部は別々に保管されていますが、「南都七大寺大鏡・東大寺大鏡」(昭和3年・1928刊)に、頭光と身光とを組み合わせた形にして撮影しためずらしい写真が掲載されています。

身光と頭光が組み合わされた二月堂・光背写真~「南都七大寺大鏡・東大寺大鏡」(昭和3年・1928刊)掲載写真
身光と頭光が組み合わされた二月堂・光背写真
「南都七大寺大鏡・東大寺大鏡」(昭和3年・1928刊)掲載写真




【明治33年(1900)に、法華堂前の経庫の中から発見された光背断片】


この光背断片、実は、明治時代になってから偶々発見されたものなのです。

建築史学者、関野貞が奈良県技師時代、明治33年(1900)頃に、法華堂前の校倉造の経庫を調査したときに発見したものです。

二月堂・光背の破損断片が発見された、法華堂前の経庫
二月堂・光背の破損断片が発見された、法華堂前の経庫

発見された時の有様について、浜田耕作は明治40年に発表した論考「二月堂本尊光背の毛彫」の中でこのように記しています。

「此の火災(注記:寛文7年・1667の二月堂の火災)の時、本尊は無事なりしも、その光背は粉砕されしかば、之を法華堂の校倉に蔵したり。
然るにその後誰人も之に、注意するものなかりしに、明治33年のころ、関野貞氏同校倉を調査せしに、内に叺(かます)あり、之を開けば即ち此の二月堂本尊光背の破片にして、その数凡て67片、大なるは一、二尺より、小なるは一、二寸に至る。
全形の十中七、八を具備せり。

而して其表面と裏面とには、全部細密なる毛彫りを施し、仏像等を表せり。
之れ実に此の破残の光背をして重大なる価値を有せしむる所以なり。」
(「二月堂本尊光背の毛彫」国華202号・1907、「日本美術史研究」1940年座右宝刊行会刊所収)

光背の破片は、法華堂前の経庫に、叺、即ち藁蓆(わらむしろ)を二つ折りにした袋に入れられて、保管されていたようです。



【寛文7年(1667)の二月堂大火災で、火中破損した光背】


二月堂は、寛文7年(1667)修二会中の早朝に火災があり、それを記した練行衆日記によると、
「甍瓦、梁棟が倒落するほど相当の大火災であったが、不可思議なことに、尊像はいささかの毀損もなかった。」
旨が、記されています。

発見された光背断片は、この火災の時に破損した大観音の光背であったのでした。
光背には、焼け焦げたり溶けた跡などがあり、この時の火災の時に火中、破損したが、その後大切に保管されていたものだと思われます。



【「大観音」の天衣の断片も遺され保管されていた~平成3年(1991)に初公開】


実は、大観音の付属物であったものが、もう一つ遺されたいるのです。
大観音像の天衣の4個の破片です。

二月堂・秘仏「大観音」の天衣の断片
二月堂・秘仏「大観音」の天衣の断片

大観音の天衣断片については、ご存じの方は少ないのかもしれません。
この天衣破片が初めて公開されたのは、平成3年(1991)に奈良国立博物館で開催された「国宝南大門仁王尊像修理記念 東大寺展」に出展された時でした。
その後も、めったに公開されることは無くて、2010年東博開催の「東大寺大仏~天平の至宝展」に出展された時ぐらいしか、展示されたことは無いのではと思います。

断片は、蓮肉の縁にかかって垂下する部分とみられています。
この断片が、どのようにして発見されたのかは、私が確認した資料ではよく判りませんでした。
明治33年に発見された光背破片と一緒に保管されていたのでしょうか?



【寛文の大火災でも。全く無傷で守られたとされる「大観音」】


現在眼にすることができる光背や天衣の断片から推察すると、大観音像は等身大ぐらいの、奈良時代の金銅仏像であると考えられます。

大観音像は寛文7年(1667)の火災時に

「不可思議なことに、尊像はいささかの毀損もなかった。」

と記録されていますが、光背の火中損傷状況や、天衣の破損などから想像すると、像本体も火中損傷している可能性はあるのかもしれません。



【奈良時代金工絵画の代表作とされる大観音光背~天平宝字年間(760年代)の制作か?】


大観音像の光背は、奈良時代の金工絵画の代表作として、重要文化財に指定されています。

二月堂・「大観音」十一面観音光背
二月堂・「大観音」十一面観音光背

緊密な画面構成、流麗な動きを見せる刻線は精彩に富んだもので、天平勝宝8年(756)頃の制作の大仏蓮弁線刻画に比肩されるべき名品と云われています。

二月堂・「大観音」十一面観音光背二月堂・「大観音」十一面観音光背
二月堂・「大観音」十一面観音光背の線刻画

光背に線刻された図様については、図様の復元、主題の検討など様々な研究が行われているのですが、私には不案内な苦手分野で、ここではパスさせていただきます。
一言でいえば、裏面には盧舎那浄土が刻され、表面には補陀落浄土あるいは阿弥陀浄土が刻されているということだそうです。

二月堂「大観音」光背の描き起こしトレース図(中神敬子氏作成).二月堂「大観音」光背の描き起こしトレース図(中神敬子氏作成)
二月堂「大観音」光背の描き起こしトレース図(中神敬子氏作成)

二月堂「大観音」光背の復元図(平田陽子氏復元作成).二月堂「大観音」光背の復元図(平田陽子氏復元作成)
二月堂「大観音」光背の復元図(平田陽子氏復元作成)

また、光背の制作年代は、線刻図様などから、大仏蓮弁線刻画よりもやや遅れる760年代、天平宝字年間頃の制作ではないかとされています。

東大寺・大仏蓮弁の線刻図(模造の写真)
東大寺・大仏蓮弁の線刻図(模造の写真)

余談ですが、光背は板面に復元的に貼り付けられた形で保存されていたため、裏面の盧舎那浄土は見ることができず、過去に採られた拓本や復元図で推測するしかありませんでした。
2016年に保持する板が透明なアクリル板に取り替えられ、現在では表裏両面を見ることができるようになっています。

アクリル板展示で裏表両面を鑑賞可能となった二月堂・光背

アクリル板展示で裏表両面を鑑賞可能となった二月堂・光背
東大寺法華堂・不空羂索観音像



【「大観音」は、きっと官営工房制作の第一級の等身大金銅観音像】


いずれにせよ、大観音の銅製光背は、奈良時代金工作品の秀作、第一級品であることには間違いありません。
その光背を背負う大観音像、等身大の金銅仏像であった訳ですから、当時の官営工房の作、即ち造東大寺司鋳仏所の制作によるものであったのでしょう。

上代の官営工房の手になる第一級の等身大金銅観音像と云えば、薬師寺・東院堂の聖観音像が頭に浮かびます。

姿を拝することのできない大観音像ですが、それはそれは見事な、天平時代の超一流レベルの十一面観音像であろうと思われます。



【いずれが本当の二月堂のご本尊? 「大観音」と「小観音」】


二月堂には大観音と小観音の大小二体の十一面観音像が、絶対秘仏として祀られています。

小観音は、大観音の祀られる須弥壇の前の厨子に安置されていますが、大観音のお前立という訳ではないようです。
「二月堂絵縁起」などの伝承によると、小観音の方が二月堂開基の実忠によって難波津で、観音の坐す補陀落山で勧請され、二月堂に安置されたとされています。
大観音光背が破損焼損した寛文7年(1667)の火災の際も、何はさておいて、小観音が真っ先に救出されています。

小観音は、二月堂草創と修二会創始を物語る根本本尊として神聖視されてきたわけです。
七寸の銅造であると伝えられています。



【修二会の前後半で、本尊が入れ替わる二躰の観音様】


ところで、いわゆるお水取り、修二会の行法おいては、前半と後半で二つの本尊が入れ替わることをご存じでしょうか?
全14日間の行法のうち、上七日の間は大観音を、下七日の間は小観音を、それぞれ本尊として勤修されるのです。

このことは、二月堂の本尊が祀られる、歴史的経緯を示唆しているようなのです。
修二会7日目、「小観音出御」という法要が行われます。
小観音の厨子が内陣から礼堂に出て、その後外陣を一回りぐるりと巡って、元の内陣に安置されるのです。

小観音の厨子は、御輿のように持ち運べるようになっているのです。
「小観音出御」の日以降、大観音と本尊が交替し、下7日間の本尊は小観音が勤めることとなるのです。



【「小観音出御」の行法は、修二会時専用の御本尊であった名残り?】


この「小観音出御」の行法は、本来、小観音が二月堂に常置されていたものではなくて、修二会の期間のみ二月堂に迎えられる修二会専用の本尊であったことを物語っているとされています。

古記録の研究などによると、小観音は東大寺の「印蔵」に在って、修二会の際に印蔵の小観音を二月堂に迎え奉じられていたことがわかるということです。
印蔵というのは、食堂の北にあり4つの倉の一つで、東大寺内の重要文書を納める倉のことです。
小観音は、もともとは、修二会の都度二月堂に迎えられていたのが、平安末期のある年を境に印蔵に再び帰ることがなくなったもので、「小観音出御」の行法は、その名残の儀礼となっていると考えられています。

そうだとすると、二月堂本来の本尊は大観音ということになるのですが、大観音の制作年代も天平宝字年間(760年代)以降かとみられ、二月堂草創とされる天平勝宝4年(752)との間に年差もあるなど、二月堂の二つの本尊問題は、なかなか確定的な結論には至っていないようです。



【二躰の絶対秘仏の観音様の、尊容を伺い知る図像は?】


最後に、二つの秘仏、十一面観音像の尊容を伺い知ることのできるものはあるのでしょうか?

まず、小観音像ですが、「類秘抄」という図像集に、この像容を示すと思われる図像が描かれているのです。
「類秘抄」というのは勧修寺の法務寛信が保安4年(1123)年に編纂した図像集なのですが、その中に「東大寺印蔵像」と墨書された十一面観音像が描かれており、この像が「小観音像」に該当するとされています。

奈良博蔵「類秘抄」(鎌倉時代・重要文化財)に描かれた二月堂「小観音」の尊容
奈良博蔵「類秘抄」(鎌倉時代・重要文化財)に描かれた二月堂「小観音」の尊容

奈良国立博物館の収蔵品データベースに、奈良博蔵「類秘抄」(鎌倉時代・重要文化財)が掲載され、小観音とみられる画像も掲載されています。

その解説には
「「東大寺印蔵像」と墨書される二臂の十一面観音像が、二月堂修二会下七日の本尊となる小観音を描いたものである。
寛信は秘仏であった印蔵像を実見する機会を得たとみられ、図像の傍らに「本面を加えて十一有り、堂本と異なる」という注記を加えてその頭上面に注目している。」
と、述べられています。

大観音像の方は、どうでしょうか。

川村知行氏は、大観音の頭部のかたちを写し取った図像が存在するとしています。
高野山西南院本「覚禅抄」の十一面巻裏書に、二月堂とされる十一面観音の図像が2躰掲載されていることを指摘したものです。

高野山西南院本「覚禅抄」十一面巻裏書に描かれた、二月堂「大小観音」の頭部尊容
高野山西南院本「覚禅抄」十一面巻裏書に描かれた、
二月堂「大小観音」の頭部尊容


一方に「補陀落の跡」と墨書され、小観音が「補陀落観音」という称を持ったことから、こちらが小観音の図像と思われる。
大観音の図像は、もう一方の「頂上仏面无化仏」と墨書された図像と思われる。
というものです。

いずれの図像も白描画で、これから奈良時代の金銅仏像の造形をイメージというのも、なかなか難しいと思うのですが、絶対秘仏の二月堂の二つの本尊の尊容を、かろうじて想像させる図像ということになります。


今回は、二月堂の本尊光背と二つの絶対秘仏観音像の話でしたが、なんだか、とりとめのない話になってしまいました。


本尊像の姿を拝することが出来るような機会が来ることは、今後ともあり得ないことでしょうから、見事な線刻造形の復元光背から、その姿を想像するしかないことと思います。


こぼれ話~光背の話⑤ 東大寺法華堂・不空羂索観音像の光背を巡る謎の話 〈その2〉 【2020.06.07】


ここからは、「光背切り詰めの謎」の話に入っていきたいと思います。

法華堂・不空羂索観音像
東大寺法華堂・不空羂索観音像


【光背切り詰めの事由は? その時期は?~安置仏変遷の謎を解くカギ】


先に、不空羂索観音像の光背の位置が、50~60㎝程ズリ下げたようになっていることにはふれました。
この光背、いつ頃、どういう理由で、切り詰められ位置が下げられたのでしょうか?

この問題は、本尊をはじめとした安置仏像がいつ頃、どのような事情で変遷していったのかという謎を解く、大変重要なカギとなるものなのです。



【従来の考え方~後に八角二重基壇を追加据付け、光背を切り詰め】


従来、光背が切り詰められ位置が下げられたのは、不空羂索観音像造立以降のいずれに時期かに、
「八角二重基壇が事後的に据え付けられた」
ことが、その事由であると考えられていました。

例えば、次のような考え方が示されています。

福山敏男氏は、

この基壇は、古記録から「東大寺南阿弥陀堂八角宝殿の“基二階”」であったもので、延喜20年(920)以降に法華堂に移入され、本尊の基壇に据えられた。
(「東大寺法華堂に関する問題」東洋美術23号1926年)

金森遵氏は、

脱活乾漆の梵天帝釈天像は、本尊に対して像高が過大であり、2像は後世の移入像と考えられる。
この際に本尊との像高バランスをとるために、他所にあった八角二重基壇が転用して据え付けられた。
(「法華堂諸像の一考察」東大寺法華堂の研究 1948年 大八洲出版刊所収)

小林剛氏は、(先に紹介した通りですが)

脱活乾漆8護法神像は、すべて後世の移入像で、大きな護法神諸像に本尊を釣り合わせるために、(八角基壇を新たに据えて) 光背を切り詰めてまで本躯を高く持ち上げた。
(「東大寺」1952年 毎日新聞社刊)



【基壇を据えても切り詰める必要なかった光背?~天井につかえるというのは先入観】


このように、いずれの説も、八角二重基壇が後付けで据え付けられ、その際、

「そのまま本尊と光背をスライドして持ち上げると、光背の方が天井につかえてしまうので、光背下部を切り詰めて位置を下げざるを得なかった」

と想定したものでした。

ところが、この推測は、思い込みに過ぎなかったことが明らかになりました。
天井と光背先端との間隔は、相当に広いのです。
光背をスライドして持ち上げても、天井につかえるということは全く無かったのです。

〈その1〉で、本尊修理の際に、光背を本来の位置に吊り上げてみた写真をご覧いただきました。

本来の位置まで吊り上げられた光背と不空羂索観音像
本来の位置まで吊り上げられた光背と不空羂索観音像
「東大寺法華堂八角二重壇小考」(仏教芸術誌306号)掲載写真


ご覧の通り、光背の先端は天井までまだ余裕がありますし、その間隔が、とりわけ窮屈になってしまうということもなかったのです。



【実は、屋蓋から几帳が垂れる宝殿スタイルだった二重基壇】


それでは、どうして光背をスライドさせずに切り詰めざるを得なかったのでしょうか?

その訳は、この八角二重基壇が、元々どういう構造、姿のものだったのかに深くかかわっているようなのです。

実は、八角二重基壇の上の壇に、8個の穴の痕があるのです。

法華堂本尊の八角二重基壇~基壇修理時撮影写真
法華堂本尊の八角二重基壇~基壇修理時撮影写真
上段の外縁近くに柱穴があけられているのが判る


丁度8角形の角にあたる部分に、柱を挿していたような穴があけられています。

八角二重基壇に遺されている柱穴
八角二重基壇に遺されている柱穴

この八角基壇、元々は、8本の柱が立てられ、その上の屋蓋を支えているという「宝殿」の姿をしていたのでした。
きっと、屋蓋からカーテンのような帳が下ろされ、その中に本尊像が安置されるという、八角几帳形式の厨子であったと想定されるのです。



【几帳形式が普通だったと思われる、古代の仏像安置厨子】


仏像の厨子というと、普通は四方壁面に囲われて扉をきっちりと閉じることができるものをイメージしてしまいますが、奈良~平安時代の厨子というのは、密閉型ではなくて几帳形式のものであったようです。

厳重秘仏で知られる法隆寺夢殿・救世観音像も、大江親道の「七大寺日記」(1106)には、
「宝帳の内に安置さる」
と記されていて、平安後期には、宝殿形式の几帳が下りた厨子に安置されていたようなのです。

法隆寺夢殿・救世観音像厨子
法隆寺夢殿内の厨子に安置される救世観音像
平安時代には宝殿に几帳が下りた形で祀られていた


八角二重基壇に柱穴が穿たれていることは、以前から、知られていたようで、福山敏男氏も基壇制作時には「屋蓋を柱が支えていたことを物語る」と記しています。

しかし、他の研究者も含めて、法華堂への基壇移入時には、柱と屋蓋は取り払われていたとみていたようで、このことに注目した議論は、ほとんどなかったと思われます。



【宝殿内に本尊を安置するために、光背を切り詰め~奥健夫氏の新見解】


この八角二重基壇が、柱屋蓋付きの宝殿形式であったことに着目して、光背の切り詰めの謎に論及したのが、奥健夫氏でした。

先にご紹介した、 「東大寺法華堂八角二重壇小考」 (仏教芸術306号・2009) では、修理時に得られた新たな知見を踏まえて、この光背切り詰め問題について詳しく言及されています。

奥氏は、次のように考えました。

・八角二重壇は、開放型の宝殿の基壇で、後世に移入されたものではなく、当初から、法華堂の為に制作されたものである。
上段の左右幅が堂の中央間の桁行と合致する事など、調査結果からそう考えられる。

・不空羂索観音像の光背が切り詰められているのは、この宝殿のなかに据え付けるために、已む無く為されたものだと考えられる。

・屋蓋がなければ、光背は切り詰めなくても天井につかえることは無い。
また、不空羂索観音像が、当初から法華堂に安置するために制作されたものなら、このようなことは起こりえない。



【不空羂索観音像は、奈良時代に他所から移安~その際、二重基壇設置との考え方】


これらのことから、

「法華堂は建立当初、不空羂索観音像とは別の本尊を安置していたが、のち(かなり早い時期であろう)に当初の本尊に替えて他所より光背・台座付きの不空羂索観音像を本尊に迎え、その際に二重基壇をもつ八角宝殿を設置し、そこに収まるように光背の基部を撤去して光背の位置を引き下げ、基壇下段には六躯の塑像を安置した。」
(「東大寺法華堂八角二重壇小考」~この段階では、背後の北面執金剛神の安置の痕跡は未調査でした。)

と、結論付けたのでした。

・法華堂建立当初の本尊は別の像だったが、奈良時代中に他所にあった現不空羂索観音像に交替した。
・不空羂索観音像の移入安置に際して、光背が切り詰められた。

という訳です。

結構、ビックリの結論でした。

ただ一方で、

・元あったといわれる法華堂の本尊というのは、どうなったんだろう?
・あれほどの見事な不空羂索観音像は、そもそも何処に安置されるために造立されたのだろうか?
・乾漆8天王像の安置と、光背切り詰めは、本当に無関係なのだろうか?

私ごときでも、こんな疑問が自然と沸いてきます。

奥氏自身も、この論考は、史料などからの東大寺と法華堂の状況、性格や、諸尊像との関係を考察したものではなく、疑問点もあるとしながらも、

実証的な調査に基づいて検討すると、
「寸法的にそうしないと宝殿に屋蓋を載せることが困難である以上、この結論にならざるを得ない。」
と述べられています。

奥健夫氏の論考「東大寺法華堂八角二重壇小考」は、日光月光(梵天帝釈天)像、戒壇堂四天王像が不空羂索観音の当初一具像であったという大発見よりも、むしろ八角二重壇の調査研究成果や光背の切り詰め事由の検討の方にウエイトが置かれて論じられていました。

しかし、光背切り詰め問題の方は、新聞等であまり採り上げられずニュースにならなかったので、広くは知られていないのではないかと思います。



【前説を翻す新説を発表~本尊他所移安説から当初安置仏説へ】


これで、一つの見解が出たと思われたかの、「光背切り詰め問題、法華堂安置諸仏問題」であったのですが、それから6年半後、奥健夫氏自身が、前説を翻して、新たな見解を発表しました。

結論から先に言うと、

・不空羂索観音像が他所から移入されたとした考え方は撤回し、造立当初からの法華堂安置仏と考える。

・本尊像は、光背を切り詰めることなく、宝殿のある基壇に安置されていた。

・乾漆8天像が後世に移入された際(10C以降か?)に、内陣を一段高くして須弥壇が設けて安置されることになり、宝殿の屋蓋が天井につかえないよう、基壇や支え柱が縮められた。

・その際、本尊を高さを縮めた宝殿内に収めるために、光背の切り詰めが行われた。

というものです。

2016年に「東大寺の新研究Ⅰ・東大寺の美術と考古」(法蔵館刊)という本が出版され、奥氏は 「東大寺法華堂諸尊像の再検討」 という論考を所載、この新見解が述べられています。



【後世に、基壇下部が削り詰められていたことが、調査で明らかに】


新たな見解に訂正された最大のファクターは、

「八角二重基壇の台座下框が、後世に削り詰められていたこと」

が、その後の調査によって明らかになったことでした。

削られた下框の高さは、9㎝程とみられ、その削られた部位の痕跡から、基壇制作後、相当に長い時間を経てからの所為であるとみられたのでした。
そうだとすると、この時に宝殿の高さを低くする必要が生じたことになります。



【乾漆八天王像移入のタイミングで、須弥壇を新たに設置】


奥氏は、その必要が生じたのは、乾漆8天王像の移入のタイミングであったと想定しました。

諸像の移入に際して、これらを床の上に直置きするわけにいかないので、内陣に須弥壇を設置することにし、それまで床に据えられていた八角二重基壇の宝殿も須弥壇上に置かれることになったという訳です。
(なお須弥壇は、創建当初から設置されていたという見方もあるようです。)

内陣「須弥壇」上に安置されている法華堂諸像
内陣「須弥壇」上に安置されている法華堂諸像

法華堂堂内平面図
法華堂堂内平面図



【須弥壇上に本尊安置で、宝殿の高さを縮めたと想定~光背も併せて切り詰め】


須弥壇上に据え付けるには、宝殿が高すぎて天井につかえるために、下框を削り落とすとともに、屋蓋を支える柱も短く詰めることになった。
低くなった宝殿のなかに、本尊像と光背を安置するために、やむなく光背下部を切り詰めておさめた。

法華堂安置仏の変遷と光背が切り詰められた訳を、このように考えたということです。



【乾漆八天王像は、旧講堂安置仏であった可能性も?】


もう一つ、奥氏は、後世に移入された乾漆8天王像は、当初は東大寺講堂に安置された諸像であった可能性に言及しました。

東大寺講堂の本尊・十一面観音像は、像高二丈五尺(約7.6m)の乾漆造りの巨像で、天平宝字年間、760年代に造立されたと見られています。
法華堂乾漆8天王像は、像高が3~4mの巨像で、像高バランス、様式から東大寺講堂安置像であった可能性が考えられるというものです。

講堂は、延喜17年(917)に焼亡しており、この時に搬出、法華堂に移入されて、承平5年(935)の講堂再建供養時には戻されずに、現在に至っているという経緯も想定し得るとしているのです。

東大寺・講堂址
東大寺・講堂址


【最新の法華堂安置仏変遷と光背切り詰めの謎の、想定ストーリーは?】


以上のような想定を、もう一度まとめなおすと、

「法華堂安置仏の変遷と八角二重基壇設置、光背切り詰めに関する経緯」

については、次のようなストーリーになるのではないでしょうか。

・不空羂索観音像と八角二重基壇は天平年間に造立、制作され、法華堂に安置された。

・八角二重基壇は、8本の柱に支えられた屋蓋のある宝殿で、屋蓋からカーテンのような帳が下ろされ、その中に本尊像が安置されるという、八角几帳形式の厨子であった。

・二重基壇の下段には、本尊を取り囲むように7躯の塑像が安置されていた。
梵天帝釈天像(日光月光菩薩像)、現戒壇堂・四天王像、執金剛神像の7躯が、不空羂索観音像造立時の当初一具像ということとなる。

・脱活乾漆8天王像は、当初は天平宝字年間に造立された講堂本尊・十一面観音像との一具像で、延喜17年(917)講堂焼亡後に、法華堂に移入安置された可能性がある。

・乾漆8天王像移入安置に際して、床上に内陣須弥壇が設置され、八角二重基壇宝殿を壇上に据えると宝殿が高すぎて天井につかえるために、下框を削り落とすとともに、屋蓋を支える柱も短く詰めることになった。

・低くなった宝殿のなかに、本尊像と光背を安置するために、やむなく光背下部を切り詰めておさめた。

・二重基壇下段に安置されていた7躯の塑像は、いつの時かに、梵天帝釈天像(日光月光菩薩)は基壇上段に安置され、四天王像は法華堂を離れて最終的に戒壇堂に移された。
執金剛神像は、北面に造られた厨子のなかに祀られ秘仏化された。

・宝殿は、時期不明ながら、柱、屋蓋の破損などにより取り払われ、現在のような安置の姿となった。

以上が、最新の想定ストーリーということになるのではないかと思います。


私のようなものでも、素直になるほどと納得してしまうストーリーです。

ただ、このストーリーが真実だと確定したわけではありません。
またいつの日にか、新発見によって大きく覆されたり、違った見解が発表されることもあるのかもしれません。


「不空羂索観音の光背は、何故切り詰められたのか!」


この謎は、法華堂の当初の安置仏、その後の変遷を解明していく上での、大きなカギを握っているのだということを、今更ながらに、思い知らされることになりました。