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観仏日々帖

こぼれ話~光背の話④ 東大寺法華堂・不空羂索観音像の光背を巡る謎の話 〈その1〉 【2020.05.29】


東大寺法華堂の不空羂索観音像、今更言うまでもなく、天平彫刻の最高傑作といえる脱活乾漆像です。

法華堂・不空羂索観音像
東大寺法華堂・不空羂索観音像

この像をはじめから好きになる人は少ないのかもしれませんが、「締りのある緊張感」漲る見事な造形力には、見れば見るほどに見惚れるものがあります。

今回は、この不空羂索観音像の光背を巡る謎の話です。

「謎の話」と題したのは、この光背の、

「高さの位置のズレ」   「制作年を示唆する史料」

が、本尊像の制作年や堂内諸仏の安置像変遷のカギを握る可能性があるかもしれないと見られているからです。



【見事な不空羂索観音像の透彫り光背~2010年に初めて堂外で展示】


「不空羂索観音像の光背」

法華堂の堂内で諸仏を拝すると、本尊像の背後にある光背にはなかなか眼が行かないのではないかと思います。

この光背、後の時代のものではなく、天平時代当初のものがしっかりと残されているのです。
本尊像の見事さに劣らぬ素晴らしいものです。

法華堂の不空羂索観音像と光背は、これまで一度も堂外に出たことは無かったのですが、2010年5月から法華堂の須弥壇等の修理実施が行われることとなり、初めて堂外に出ることになりました。
不空羂索観音像の方が、2010~11年に東大寺ミュージアムで公開展示されたのは、皆さんよく覚えておられることと思います。
光背の方は、2010年10月に東京国立博物館で開催された「東大寺大仏~天平の至宝展」に出展されました。

「東大寺大仏~天平の至宝展」図録表紙
「東大寺大仏~天平の至宝展」図録表紙

東博「天平の至宝展」では、光背だけが単体で展示されました。

法華堂・不空羂索観音像~光背
法華堂・不空羂索観音像~光背

暗い堂内で本尊の背後に隠れ気味の光背を、明るい照明のなかで、眼近にじっくり見ることができました。

法華堂・不空羂索観音像~光背
法華堂・不空羂索観音像~光背

身光の透彫りの唐草文は葉や蔓がぐんぐん伸びていくような勢いがあり、いかにも天平盛期の傑作に相応しい見事な造形でした。



【何故だか、ずり下がっている光背の位置~安置仏変遷のカギを握るのか?】


この光背、堂内で不空羂索観音像を拝すると、ズリ落ちたように、その位置が下にズレていることは、皆さんもよくご存じのことと思います。

頭光の位置がが肩の位置まで下がっている光背
頭光の位置がが肩の位置まで下がっている不空羂索観音像の光背

本尊像の頭の位置と、光背の頭光の中心とが大きくズレています。
円光の中心が肩口の処にまで、50~60㎝程ズリ下げられているのです。
このことが、不空羂索観音像の本来の美しさの鑑賞を妨げてしまっているのです。

光背の下部が切り詰められたことによるものですが、いつ頃、どういう事情で、そのようなことが行われたのでしょうか?
この切り詰めには、本尊足元に据えられる八角二重の基壇が関係していて、法華堂の当初安置仏像の問題やその変遷の謎を解くための、大きなカギの一つになっているようなのです。
そのあたりのことは、後程、ふれさせていただきたいと思います。



【一度だけ、本来の位置に吊り上げられたことがある光背】


この光背を吊り上げて、本来の位置セットした写真が、残されています。
2006~9年に諸尊像の剥落止め修理行われ、不空羂索観音像の光背が台座から取り外され、後方に移動されました。

その折に、本来の高さであった位置まで吊り上げられたことがあるのです。
その状態で撮影された写真です。

本来の位置まで吊り上げられた光背と不空羂索観音像~「東大寺法華堂八角二重壇小考」(仏教芸術誌306号)掲載写真
本来の位置まで吊り上げられた光背と不空羂索観音像
「東大寺法華堂八角二重壇小考」(仏教芸術誌306号)掲載写真


モノクロ写真ではありますが、見事な後光のなかに映えて凛と立つ観音像の姿のすばらしさを発見した気分で、感嘆の声をあげてしまいそうでした。



【光背の制作年は天平19年?~本尊造立年推定の有力史料】


もう一つ、この光背についての重要な事実は、本尊像の造立年に関係しそうな史料が残されていることです。

正倉院文書にみえる「金光明寺造物所解」に、

「天平十九年(747)正月八日に、金光明寺の造仏所が「羂索菩薩」の光柄、花萼などを造るために「鉄二十挺」を請求した」

ことが記されているのです。

この記述が、法華堂不空羂索観音の光背制作にかかわるものであるというのです。
これを拠り所にすると、東大寺要録の「桜会縁起」に法華会が行われたと記される天平18年(746)が、観音像の造立年と考えられるという見方です。
この見解は、「金光明寺造物所解」の記述を見出した源豊宗氏が、昭和8年(1933)に示したものです。
「金光明寺造物所解」に書かれた内容は、法華堂不空羂索観音の光背にかかわるものではないと否定する見解もあるのですが、天平18年前後の造立説は、現在でも一番有力な見解になっていると思います。

法華堂の創建年代にも諸説があり、不空羂索観音像の造立年についても天平5年(733)説、天平12年(740)説、天平18年(746)説など諸説があるのですが、ややこしくなるので、ここではふれないでおきたいと思います。



【どちらが客仏?~脱活乾漆諸像と塑像諸像】


そして、不空羂索観音像の造立年代や光背の位置のズレの問題にかかわって、どうしてもふれておかなければいけない話があります。

法華堂に祀られる諸像の当初安置仏と後世の移入仏に関することです。



【2013年から現在の堂内安置仏に~かつては多くの乾漆像、塑像が立ち並ぶ】


現在の法華堂内には不空羂索観音像と脱活乾漆の巨像8躯、北面厨子内秘仏・執金堂神像が安置されています。
(巨像8躯は、梵天帝釈天像、四天王像、金剛力士二像です。)

現在の法華堂の堂内安置仏像
現在の法華堂の堂内安置仏像

現在の法華堂・堂内安置仏像~模式図
現在の法華堂・堂内安置仏像~模式図

法華堂修理完成後の2013年から、このような安置になっています。
この修理が始まる前には、不空羂索観音像の左右には、大変有名な塑像の日光・月光菩薩像が両脇侍のように安置されていました。
その以前には、厨子に入った塑像の吉祥天像、弁財天像も置かれていました。

2013年修理前の法華堂・堂内安置仏像
2013年修理前の法華堂・堂内安置仏像

2013年修理前の法華堂・堂内安置仏像~模式図
修理前の法華堂・堂内安置仏像~模式図

この安置スタイルの方に長らくなじんでこられた方のほうが圧倒的に多いでしょうから、現在の安置像を拝すると、ちょっと違和感というか調子が狂ったように感じてしまう気もします。

ご存じの通り、現在、塑像の4躯(日光月光菩薩、吉祥天、弁財天)は、法華堂から移されて「東大寺ミュージアム」に展示されています。



【長らくの定説~当初安置仏は脱活乾漆の本尊・八天王像】


さて、法華堂の当初の安置仏像は、現在の安置スタイルのものであったというのが、長らくの定説というものでした。
即ち、不空羂索観音像と巨像の8天王像が当初安置像だという訳です。

法華堂安置の8躯の脱活乾漆像(向かって左側).法華堂安置の8躯の脱活乾漆像(向かって右側)
法華堂安置の8躯の脱活乾漆像~堂内本尊の左右両側

本尊の不空羂索観音像が脱活乾漆像ですから、同じ脱活乾漆の技法で制作された8躯の諸天王像が一具のセット像であることは疑いのない常識と考えられたのです。
8躯の脱活乾漆像の制作年代には、作風から若干のズレがあるかもしれないが、一具として造られた像であるとされました。



【日光月光菩薩像などの塑像は客仏とみるのが常識に】


日光月光菩薩などの塑像の諸像については、脱活乾漆の本尊と材質がミスマッチだし、像高バランスも良くないことから当初の安置仏ではないとされていました。

不空羂索観音像と本尊両脇に安置される日光月光菩薩像(梵天帝釈天像)
不空羂索観音像の両脇に安置される日光月光菩薩像(梵天帝釈天像)"

本尊と材質を異にする塑像5躯は、いずれの時期に法華堂に安置されるようになったのかはわからないが、元は他のお堂から移されてきた客仏であると考えられたのです。
(執金剛神像だけは、当初から北面に安置されていたとする見方もあります。)

私も、若い時に、
「日光・月光菩薩は、超有名な仏像だけれども、実は梵天帝釈天で、これは他所から移された像なんだよ。」
と、したり顔で友人に話していたことを思いだします。



【定説を覆す、驚きの発見~八角二重基壇に当初安置像の台座痕跡が】


いまから10年ほど前、この常識を覆す驚きの発表がありました。

奥健夫氏が、2009年に発表した 「東大寺法華堂八角二重壇小考」 (仏教芸術誌306号) と題する論考です。
これが「小考」どころか、衝撃の大発見というものでした。

奥氏によると、一連の法華堂修理に際して、本尊の「八角二重基壇」を調査したところ、外側下の壇に6箇所の正八角形の台座が置かれていた痕跡が発見されたのでした。

法華堂本尊の八角二重基壇~基壇修理時撮影写真
法華堂本尊の八角二重基壇~基壇修理時撮影写真
外側下壇に台座の痕跡が見える




【7つの痕跡は、日光月光菩薩、戒壇堂四天王、執金剛神の八角台座と一致】


そして驚くべきことに、その痕跡は、上の壇に置かれている日光月光菩薩像(梵天帝釈天像)の台座、戒壇堂の四天王像の台座の輪郭と、サイズがぴったり一致するものだったのです。

八角二重基壇下段に遺された八角形の台座の痕跡
八角二重基壇下段に遺された八角形の台座の痕跡

この発見時には、執金剛神が安置される北面部は確認できなかったのですが、この後の須弥壇修理時の調査によって、本尊背後の八角二重壇下壇からも、八角台座の痕跡が発見されました。
執金剛神像が安置されていた痕跡と考えられるものでした。

また、年輪年代測定分析によって、八角二重基壇の桟木の伐採年が729年であることも判明、基壇が不空羂索観音像造立と同時期に制作された傍証にもなりました。



【法華堂の当初安置仏は、塑像七尊像と判明~乾漆八天王像の方が移安仏】


この結果から、八角二重基壇は不空羂索観音が造立された頃のもので、外側の基壇には本尊を取り囲んで、
塑像の7尊像、即ち日光月光菩薩像(梵天帝釈天像)、戒壇堂・四天王像、執金剛神像
が安置されていた可能性が極めて高いことが、明らかになったのです。

この大発見は、当時多くの新聞等でビッグニュースとして報道され、随分話題になりましたので、皆さんもよく覚えておられることと思います。

法華堂の当初の安置仏は、脱活乾漆の8天王像ではなくて、なんと、塑像の7尊像であったのです。

法華堂・八角二重基壇上の当初亜安置仏と現安置仏~模式図
法華堂八角二重基壇上の当初安置仏(7塑像)と現在(修理前)安置仏・日光月光像~模式図

戒壇堂の四天王像(近世に指図堂から移安)と日光月光菩薩像は、作風が似通っていることは、これまでも指摘されていたのですが、当初安置堂はいずれも不明とされていました。

「まさか、法華堂が造立当初の安置堂だったとは!」

と、本当に驚かされる大発見となったのです。

脱活乾漆の8天王像の方は、いずれの時にか、法華堂に追加で安置されたということになります。


この新発見、法華堂安置仏変遷の常識、定説を、完全に覆すものとなった訳です。



【「先見の明」があった小林剛氏の説~新発見どおりの当初安置仏と主張】


ちょっと興味深い話があります。
実は、昭和20年代に、「当初安置仏は、新発見の事実通りのもの」と主張した人がいたのです。

当時、奈良文化財研究所・美術工芸研究室長であった小林剛氏です。
小林剛氏は、著書 「東大寺」 (1952年毎日新聞社刊) において、

「法華堂の当初安置仏は、日光月光菩薩など塑像の諸仏で、脱活乾漆諸像の方が後の移入である。」

と、述べているのです。

この説を主張したのは、私の知る限りでは、小林剛氏だけでした。
塑像の方が客仏であるという定説に対して、常識的ではない特異な意見とされ、同調する人はいなかったのではないかと思います。

小林氏は、次のような主旨の見解を述べています。

・本尊像と一具なのは乾漆諸像というのが定説であるが、隋従像としては大きすぎる。

・本尊像が乾漆造りで、隋具する護法神像が塑像であっても、一向差し支えない。

・日光月光と呼ばれる梵天帝釈天像と近世に戒壇院に移された四天王像は、不空羂索観音像と様式手法的に似通ったものがあり、これらの像が本堂の元からの護法神像ではなかったかと考えられる。

・乾漆の護法神諸像は、いつのころか本堂に移入されたもので、移入された際に本尊像の光背を切り詰めてまで本躯を高く持ち上げ、大きな護法神像に無理に釣り合わせようとしたものと思われる。

小林氏の見解を読んでいると、今回の新発見の事実を、そのままなぞってコピーしたかのごとくにピッタリと合致することに驚かされます。
戒壇堂四天王像が法華堂当初安置仏であったと思われることまで、適中しています。

これまで小林氏のみが主張した異説という扱いであったものでしたが、新発見の事実が明らかになってみると、

「まさに先見の明があった」

ということになろうかと思います。



【素人考えながら、ちょっと気になることは・・・・・】


驚きの大発見ともいえる法華堂の当初安置仏が明らかになった話。

「なるほど!」とすごく納得したのですが、個人的には、ちょっと気になることがあります。

全くの素人考えの思い付きの疑問なのですが、本尊と7躯の塑像が安置されていた八角二重基壇左右の外側の広いスペースはどうなっていたのでしょうか?

堂内は結構広いので、だだっ広い内陣の真ん中に八角二重基壇があり、そこに本尊と7天王塑像が寄せ合うように安置されていたことになります。
基壇左右の空いたスペースに、何の仏像も安置されていなかったとすると、見た目がちょっとばかりアンバランスな感じもするのですが・・・・・



【その2】では、不空羂索観音の光背が切り詰められ、位置が下げられた訳の謎についての話を見てみたいと思います。


こぼれ話~光背の話③ 根津美術館の観心寺伝来・戊午年銘光背の話 【2020.05.15】


東京青山にある根津美術館が所蔵している、「戊午年」の造像銘のある光背をご存じでしょうか。

根津美術館蔵・観心寺伝来戊午年銘光背

根津美術館蔵・観心寺伝来戊午年銘光背~裏面造像銘
根津美術館蔵・観心寺伝来戊午年銘光背
光背裏面に戊午年(658)の年紀のある造像銘が刻されている



今回は、この戊午年銘の光背にまつわる、いくつかのこぼれ話をたどってみたいと思います。
ちょっとマイナーな話になりそうですが、お付き合いください。



【観心寺の小金銅仏・観音像に取付けられていた、戊午年銘光背】


この小さな光背は、小金銅仏に取り付けられていたもので、銘記にある「戊午年」は、斉明天皇4年(658年)にあたると考えられています。
飛鳥白鳳期の造像銘記が残されている、貴重な作例です。
宝珠形の光縁部に、放射光、八葉蓮華が銅板の切り抜きで造られ、重ね合わせられています。
優れた意匠で、いかにも飛鳥白鳳の小金銅仏の光背という印象をうけます。


実は、この戊午年銘の光背、河内観心寺にある金銅・観音菩薩立像の光背であったと伝えられるものなのです。
観心寺に4躯のこされている小金銅仏像の一つで、像高33㎝、飛鳥白鳳期の小金銅仏像です。

観心寺・小金銅仏 観音菩薩立像
観心寺・小金銅仏 観音菩薩立像

古様な感じながらも、肉身の造形、胸飾の表現や三面頭飾など、戊午年(658年)の制作と云われると、丁度ピッタリ感のある像です。



【離れ離れとなった観音像と光背~奈良博「白鳳展」(2015年)で再会】


この光背と観音菩薩像、離れ離れになっていることもあって、一般には意外に馴染みがないのかもしれません。
観心寺の金銅観音像は、霊宝館に展示されいつでも観ることができますが、根津美術館の戊午年光背は、普段は展示されておらず、仏教美術にゆかりのある企画の時にしか出展されませんので、たまにしか観ることができません。

近年、離れ離れになってしまった観心寺の「光背と観音像」が再会することがありました。
2015年に奈良博で開催された「白鳳~花開く仏教美術展」で、並んで展示されたのです。
覚えていらっしゃる方も多いのかもしれません。

私も、観心寺を訪ねた時も、根津美術館でも、金銅仏、光背ともに実見しているはずなのですが、ほとんど覚えていませんでした。

白鳳展で、セットで展示されたのを観て、
「この二つが本当に造像当初からのセットなのであれば、飛鳥白鳳期の極めて貴重な基準作例になるんだけれども・・・・」
と、まじまじと見入りました。



【失われてしまうことが普通の小金銅仏の光背】


この金銅・観音像と戊午年光背は、本当に当初からのセットだったのでしょうか?

飛鳥白鳳期の小金銅仏の光背が、造像当初のままで取り付けられているというのは、極めて稀と云って良いと思います。
ほとんどの小金銅仏は、光背が失われてしまっており、光背が付いていたとしても、当初のものではなく、別の像の光背であったものが取り付けられているという例が多いのです。



【法隆寺献納・四十八体仏の光背も、どの像のものだったか不明確】


例えば、法隆寺献納宝物の四十八体仏と呼ばれる小金銅仏に付属していた光背です。

法隆寺宝物館に、三十数個が所蔵されています。

東博 法隆寺宝物館~献納宝物光背東博 法隆寺宝物館~献納宝物光背

東博 法隆寺宝物館~献納宝物光背東博 法隆寺宝物館~献納宝物光背
東博 法隆寺宝物館に所蔵されている献納宝物の光背の一部

後世の後補とみられる光背も含まれています。
これらの光背のほとんどは、かつては四十八体仏のいずれかに取り付けられていたのですが、必ずしも本体像と一致するものではないので、現在では取り外されて別に保管されています。

昭和22年(1947)発刊の東京国立博物館刊「御物金銅佛像」掲載の写真をみると、多くの像に光背が取り付けられたものを見ることができます。
そのいくつかは、ご覧の通りです。
現在では、光背無しで展示されています。

光背がつけられた献納宝物・四十八体仏(S22年刊「御物金銅仏」掲載写真)光背がつけられた献納宝物・四十八体仏(S22年刊「御物金銅仏」掲載写真)

光背がつけられた献納宝物・四十八体仏(S22年刊「御物金銅仏」掲載写真)光背がつけられた献納宝物・四十八体仏(S22年刊「御物金銅仏」掲載写真)
光背が取付けられていたころの献納宝物・四十八体仏写真
「御物金銅佛像」S22(1947)東京国立博物館刊掲載写真


確かに、私の眼で見ても、このセットでは一寸フィット感が無いなという感じのものがあります。
後補のものだったり、他の像の光背が替わって取り付けられたということなのでしょう。



【当初からセットだったのかどうか微妙な、観音像と戊午年銘光背】


観心寺伝来の戊午年銘光背の話に戻ると、お寺では金銅観音像の光背であるとされてきたのですが、本当に、当初からこのセットであったと判断できるかどうかは、微妙なようです。

造像銘には、

「成午年十二月に伊之沙古の妻汗麻尾古が亡き夫のために阿弥陀仏像を敬造した」

旨が刻されています。

戊午年銘光背裏面に刻された造像銘(根津美術館蔵)
戊午年銘光背裏面に刻された造像銘(根津美術館蔵)

銘文に「弥陀仏像」(阿弥陀如来)とあるために観音像の光背であることを否定する意見と、阿弥陀三尊の脇侍像である観音像光背に刻されたものとの解釈とがあって、現在では、金銅観音像を「戊午年、658年制作の基準作例」と明確に位置付けることは難しいようです。



【よく判らない、光背が観心寺から出た経緯】


さて、この戊午年銘光背は、いつ頃、どのようないきさつで観心寺を出て、現在、根津美術館の所蔵になっているのでしょうか?

明治、大正年間に観心寺から出たように推測されるのですが、そのいきさつも含めて、よく判りません。
当時のことですから、ごく一般的には、光背だけが、何らかの事情で流失したとか、こっそりと売られたということが想像されます。
しかしそうとも限らないのかなと気になるのは、観心寺にはこの戊午年銘光背と瓜二つの模造品が残されていることです。
わざわざ模造まで造って本物が寺外に出るというのもちょっと違和感がありますし、後年に模造が造られたものなのかもよく判りません。

ちょっと不思議という処です。

ブログ「春秋堂日録~旧観心寺蔵光背」には、

「この光背が観心寺から離れたいきさつについて、どこかで書かれていた記憶はあるのですが、思い出せません。
かすかな記憶をたどると、観心寺からこの光背を離れる時、かわりに模造品を作ったと書かれていたようです。」

と記されていて、なかなか興味深い処です。

ブログ「春秋堂日録~旧観心寺蔵光背」には、光背の来歴や模造の話など、大変興味深い話が語られています。
ちなみに、「春秋堂日録」は、仏像文献検索HP「春秋堂文庫」と共に、大変役立ち、勉強になるサイトです、是非、ご覧になってください。


戊午年銘光背は、奈良の古美術商の老舗、玉井大閑堂から昭和初期に根津嘉一郎の所蔵になったようです。
観心寺から大閑堂主・玉井久次郎氏が入手したのかどうかはよく判りません。

玉井大閑堂(S2年刊「大和乃栞」水木要太郎著・玉井久次郎刊~掲載写真)
玉井大閑堂(S2年・1927刊「大和乃栞」水木要太郎著・玉井久次郎刊~掲載写真)"

大正~昭和の古い図録などをあたってみると、この光背について、次のような掲載記録がありました。

・大正15年(1926)刊 「第4回 推古会図録」 金銅光背 玉井久次郎氏蔵 (光背写真掲載)

・昭和 4年(1929)刊 「天寶留眞」 某氏蔵 (写真掲載)
「天寶留眞」は、私は未見なのですが、NETデータによると、玉井久次郎が飛鳥園から発刊した図録のようです。
・昭和11年(1936)刊 「飛鳥文化展覧会目録」 観音菩薩光背 金銅 根津嘉一郎氏蔵   
飛鳥文化展覧会には、大阪朝日会館で開催され、光背とセットであった観心寺・金銅観音像も出展されています。


【昭和初期、古美術商・玉井大閑堂から根津嘉一郎の所蔵へ】


こうしてみると、大正年間には玉井久次郎氏の所蔵となっていて、昭和4年までには根津嘉一郎が玉井大閑堂から購入したものと推測されます。

根津嘉一郎
根津嘉一郎

玉井大閑堂は、当時、奈良では随一の仏教美術の古美術商でした。
名だたるコレクターが、玉井大閑堂から古美術品を購入しています。
根津嘉一郎は、昭和3年(1928)に、玉井大閑堂から興福寺伝来の定慶作・帝釈天像を購入しています。

根津美術館蔵・興福寺伝来 定慶作帝釈天像
根津嘉一郎が玉井大閑堂から購入した
興福寺伝来・定慶作帝釈天像(根津美術館蔵)


明治39年(1906)に、興福寺から益田鈍翁が譲り受けた破損仏のなかの一体で、その後玉井久次郎氏の所蔵となっていた像です。

玉井久次郎別邸に陳列されている現根津美術館蔵・帝釈天像(S2年刊「大和乃栞」水木要太郎著・玉井久次郎刊~掲載写真)
玉井久次郎別邸に陳列されていた頃の現根津美術館蔵・帝釈天像
(S2年・1927刊「大和乃栞」水木要太郎著・玉井久次郎刊~掲載写真)"


戊午年銘光背も、先の古い図録の記録などからみて、この頃(昭和3年前後)に、根津嘉一郎が玉井から購入したのではないでしょうか。



【模造品が観心寺に残されている、戊午年銘光背】


もう一つ、ちょっと不思議というか、興味深い話があります。

先にもふれましたが、戊午年銘の光背は、根津美術館に所蔵されているものの他に、観心寺にも全く同じ形の模造品が残されているのです。

根津美術館蔵・戊午年銘光背~飛鳥・白鳳小金銅仏の発願者、制作者(久野健)美術研究309号1979掲載写真観心寺蔵の戊午年銘光背(模造)~飛鳥・白鳳小金銅仏の発願者、制作者(久野健)美術研究309号1979掲載写真

根津美術館蔵・戊午年銘光背造像銘~飛鳥・白鳳小金銅仏の発願者、制作者(久野健)美術研究309号1979掲載写真観心寺蔵の戊午年銘光背(模造)造像銘~飛鳥・白鳳小金銅仏の発願者、制作者(久野健)美術研究309号1979掲載写真
(左)根津美術館蔵・戊午年銘光背及び造像銘、(右)観心寺蔵・戊午年銘光背(模造)及び造像銘
久野健「飛鳥・白鳳小金銅仏の発願者、制作者」美術研究309号1979掲載写真


観心寺にある模造品がいつつくられたのかは、私は知らないのですが、昭和9年(1934)の美術研究誌の論考に、両者が存在することが記されていますので、その時点で模造品があったことは間違いありません。(菅沼貞三「金銅佛4躯・大阪府観心寺蔵」美術研究32号1934.08)

数多くの美術書、研究書には、観心寺伝来で金銅観音像に付属していたと伝える光背が、根津美術館所蔵の戊午年銘光背であると断じていて、観心寺にある模造品の光背には言及されていません。
一般には、観心寺に模造品が存在する事すら、あまり知られていないのではないかと思います。

観心寺に残された光背にふれた本なども、これは模造であると、はっきり断言しています。



【「根津美術館と観心寺」どちらの光背が模造なのか、はっきりしないとの見解も】


ところが、根津美術館所蔵のものと観心寺にあるものと、

「どちらが本物でどちらが模造であるかは、よく判らない、はっきりしない。」

とする見解もあるようなのです。

私が知っている処では、望月信成氏、久野健氏の二氏が、そのように論じています。

望月信成氏は、
「この光背(注記:観心寺にある光背)と全く同形で、しかも銘も同文のものが刻まれている光背が東京根津美術館にあり、両者のいずれかが模造品であることは明らかで、今後の比較研究に俟たなければならない。」
(「大阪の文化財」毎日放送文化双書第3巻・1973年毎日放送刊 所収)
このように述べています。

久野健氏も、
「根津美術館にも同形、同文の光背があり、どちらがオリジナルかという問題も、まだ解決していない。」
(久野健著「古代小金銅仏」1982年小学館刊、久野健編「造像銘記集成」1985年東京堂出版刊の両書他に、上記と同文記述が所収されています)
と述べています。

こういう見解があるとすると、明治年間に戊午年銘光背の模造品がつくられて、そちらの方が本物と称されて古美術商から根津に渡った可能性だってあるということになるのでしょうか。
小金銅仏の模造品、贋物というのは、本当に真贋鑑定が難しいようです。

久野健氏は、自著「古代小金銅仏」のあとがきで、このように述べています。

「この種の小金銅仏は、明治以来、古美術愛好家の収集欲の対象となり、その需要を満たすために盛んに模造品がつくられた。
そのため、真に7、8世紀に制作された小金銅仏と明治以降の模造品との真偽の判定もむずかしく、この方面の研究の障害となっている。」
(久野健著「古代小金銅仏」1982年小学館刊)

戊午年銘光背についても、こうした観点からの、慎重を期した発言なのかもしれません。



【「観心寺のものは模造」というのが、ごく一般的な定説】


一方、1979年刊の「飛鳥白鳳の在銘金銅仏」の記述では、観心寺にある光背は模造であると明快に断じていて、根津美術館蔵光背の刻銘の文字とのわずかな相違についても、

「一行目の「名」を「治」、最後を「是」とするものがあるが、これは観心寺にあるこの光背の模造が写し誤っているためである。」
(奈良国立文化財研究所飛鳥史料館編「飛鳥白鳳の在銘金銅仏」1979年同朋舎刊)

と明言されています。
その他にも、私の知る限りの書物や論考では、皆、根津美術館蔵の戊午年銘光背が観心寺伝来で白鳳時代の制作と述べられています。

こうしてみると、

「根津美術館が本物、観心寺が模造」

というのが、当たり前の定説になっていることは間違いないようです。

ちょっと不思議だなと思うのは、どの書物、論考にも、望月信成氏、久野健氏の「どちらが模造なのかは確定できないとする見解」に言及したものが、見当たらないことです。

両氏ともに、著名な大家ともいうべき仏教美術史学者なのですから、
「望月氏、久野氏のこのような見解もあるけれども、かくかくしかじかという事実や理由で、観心寺のものは模造品であることがハッキリしている。」
という趣旨が述べられた解説や論考があってもよいように思うのですが・・・・・



【何故だか「無指定」の戊午年銘光背~観心寺の観音像は重文指定】


実は、根津美術館蔵の戊午年銘光背は、文化財指定されておらず、「無指定」になっています。

飛鳥白鳳時代の造像銘記が遺されている作品・遺品は、法隆寺・金堂釈迦三尊光背銘を筆頭に、全部で12件で、いずれも美術史的には大変貴重な作例です。
そのうち仏像本体は無くなっていて、光背や造像記銅板だけが残されているものは3件です。

戊午年銘光背を除いては、すべて(11件)が国宝か重要文化財に指定されています。
「根津美術館の戊午年銘光背」も、重要文化財に指定されていても全く不思議はないと思うのですが、何故だかいまだに「無指定」のままです。

因みに、観心寺の銅造・観音菩薩立像の方は、重要文化財に指定されています。

ちょっと気になるところです。


随分マニアックでマイナーな話になってしまいましたが、観心寺伝来の「戊午年銘光背」にまつわる話をご紹介させていただきました。


この話、もう少し詳しく関係書や資料など確認してみたかったのですが、緊急事態宣言下、図書館が休館中で、調べてみることができませんでした。
他の資料などにあたると、もっと詳しいいきさつや事情などが判ることがあったのかもしれませんが致し方なく、ご容赦ください。


こぼれ話~光背の話② 頭に釘打たれている? 夢殿・救世観音像の光背 【2020.05.02】



「法隆寺夢殿の救世観音像の光背は、聖徳太子の怨霊を封じるため、
後頭部に打ち込まれた太い釘によって、取り付けられている。」

法隆寺夢殿・救世観音像
法隆寺夢殿・秘仏 救世観音像

梅原猛氏著の 「隠された十字架」(新潮社刊) で語られている、有名な一節です。

皆さん、ほとんどの方が、ご存じの話ではないかと思います。

「今時、こんな古い話、何を今更!」

自分でもそう思うのですが、「光背についてのこぼれ話」ということで、少し振り返ってみたいと思います。



【大ベストセラーになった「隠された十字架」~法隆寺は聖徳太子・怨霊封じの寺】


梅原猛氏が書き下ろした「隠された十字架」は、30年近く前、1972年に発刊されました。

梅原猛著「隠された十字架」1972年新潮社刊
梅原猛著「隠された十字架」 1972年新潮社刊

梅原氏は哲学者でしたが、古代史の世界にユニークな着想で切り込んだのが本書でした。
その衝撃的な内容は、大反響を呼び、当時、ビックリするほどのベストセラーになりました。
古代史や法隆寺にちょっとでも関心がある人で、この本を読まなかった人はいないのではないかと思います。

今更、本書の論旨を振り返るまでもなく、先刻ご承知の通りだと思いますが、一言にまとめると次のようななるのでしょうか。

「再建法隆寺は、聖徳太子の怨霊封じ込めるために、藤原氏(とくに不比等)によって建てられた寺である。」

・聖徳太子の子の山背大兄王とその一族を殺害した黒幕は、中臣(藤原)鎌足であった。

・それゆえに、藤原氏一族は、聖徳太子の亡霊、怨霊におののかなければならなかった。

・再建された法隆寺は、太子の怨霊封じの場ととして造営され、寺僧は怨霊の牢番であった。

・法隆寺についての様々な事実は、このことを明らかにしており、夢殿と救世観音像は太子の怨霊封じのためにつくられた。

言葉足らずながら、以上の通りです。

私自身も、このユニークな着想、刺激的内容に、興奮気味に一気に読んだ思い出があります。



【夢殿・救世観音は、怨霊としての太子封じ込めの像】


そして、本書のストーリーのクライマックスというか、最大の盛り上がりを見せる場面が、「夢殿の秘仏・救世観音造立の謎」が語られる処です。

法隆寺 夢殿
秘仏救世観音像が祀られる 法隆寺 夢殿

梅原猛氏は、救世観音像が「怨霊としての聖徳太子の姿」を表現したものであると考え、その祟りを封じ込めるために造られたことを示す重要な証拠として、次の点を挙げています。

・救世観音の体は背や尻などが欠如した中空に造られている。
それは、人間としての太子ではなく、「怨霊としての太子」を表現した故である。

・光背が、大きな釘によって、頭に直接打ち付けられている。
それは、太子の怨霊がさまよい出ることが出来ないよう、封じ込めるために故意になされた仕業なのだ。

驚きを通り越して、ひっくり返ってしまうような、衝撃的事実です。



【 怨霊封じ込めの証拠は、光背の取り付け方~意図的に後頭部に釘で打付け】


梅原氏は、
「救世観音の光背の取り付け方は、極めて特異で、異常なものである」
と、見て取りました。

そう考えた論拠について、少し詳しく見てみたいと思います。

まず、同じ法隆寺の百済観音像の光背の取り付けスタイルとの違いに着目します。

「日本ではふつう光背は百済観音のように、支え木で止められるのが常である。」

と述べ、救世観音の光背がそのような通例のスタイルをとらずに、頭に直接取り付けられているのは、故意、意図的になされたものとしています。

法隆寺・百済観音像~側面写真..法隆寺夢殿・救世観音像~側面写真
法隆寺・百済観音像(左)と救世観音像(右)の側面写真
百済観音の光背は支柱に取り付けられ、救世観音は頭に取り付けられている


その有様や理由について、

「重い光背をこの仏像に背負わせ、しかも頭の真後ろに太い釘を打ち付ける。
いったい、こともあろうに仏像の頭の真ん中に釘を打つというようなことがあろうか。
釘をうつのは呪詛の行為であり、殺意の表現なのである
・・・・・
今まで、誰一人として、この釘と光背の意味について疑おうとしなかった。
・・・・・・
この仏像は重い光背を太い釘で頭の後ろに打ち込まなければならない運命を持っていたのである。
これは想像するだに恐ろしいことである。」

と、語っています。

なんとも、センセーショナルでショッキングな想定です。



【 救世観音は行信、夢殿建立時の天平時代の作】


そして、このような釘が打たれた理由は、藤原氏祟りを為す聖徳太子の怨霊が、さまよい出ることが出来ないようにするためであって、そのように救世観音をつくったのは、夢殿を建てた行信の手によるものだと考えます。

救世観音像は、飛鳥時代の制作ではなく、夢殿創建期、なんと天平時代の制作だとするのです。

(救世観音、天平時代制作とみる説は、全く無いわけではありませんが、ちょっと無理筋かなと思います。)



【 法隆寺だけに特有の、頭に取り付けられる光背~それには深い意味が?】


梅原氏は、法隆寺の他の仏像の光背の取り付け方にも言及して、金堂の薬師如来像、阿弥陀如来像、釈迦三尊像の両脇侍、四天王像の光背が頭部に直接取り付けられていることは、特別な意味があると推測し、

「法隆寺に存在する仏像に限って、頭の真ん中に穴があけられているというのでは、疑問を起こすのが当然であろう。」

「いかなる理由があるとはいえ、仏様の頭に穴をあけたり、釘を打ったりするのはあまりに恐れ多いことではないか。
夢殿の救世観音には、この恐れ多い行為がハッキリなされている。
大きな釘が頭の真後ろから深く突き刺さっている。

金堂の四天王においては、釘は金具で止められている。
しかし夢殿では、まさしく釘は奥深く打ち込まれているのである。
その例は、金堂の釈迦の脇侍にあるとはいえ、全く恐ろしいことである。」

と考えました。

法隆寺金堂・薬師如来像.法隆寺金堂・四天王像(広目天)
法隆寺金堂・薬師如来像(左)、四天王像・広目天(右)

梅原氏は、夢殿・救世観音の造立の謎について語った章を、このように締めくくっています。

「こうして夢殿と、その本尊の救世観音はつくられた。
太子の怨霊は見事に閉じ込められ、行信の厭魅は成功し、ここに光明皇后はじめ、藤原氏の血を引く権力者は不安から解放されたのである。」



【 世間からの大反響と、学者からの痛烈批判を呼んだ梅原新説「隠された十字架」】


この救世観音が太子の怨霊封じのための像であるというストーリーは、「隠された十字架」の核心部分という感じで、大変な反響、評判となりました。

素直に読んでいくと、
「救世観音像に、そんな恐ろしく凄い事実が隠されていたとは知らなかった。」
と、多くの人が、新事実が明らかにされたというイメージで受け取ったのだと思います。

この光背の話をご紹介しようと思って、ネット検索をしてみたら、いまでも、この梅原説が真実のように書かれたブログやHPが余りにも多いので、ビックリしてしまいました。

この梅原新説というべきものは、確かにユニークな着想で、フィクション的な仮説の物語としては、誠に面白く興味深いものであったのですが、学問的立場の世界からは、史実に基づかず誤った事実認識によることが多すぎて、「創られたストーリー」といってもよいものと見做されたと思います。
世間の反響があまりにも大きかったので、何人かの古代史の学者から、痛烈な批判が発表されたりしました。


この「こぼれ話」では、そのあたりのことはさておいて、 
「夢殿・救世観音像の光背にかかわる問題」
に絞って、梅原氏が、謎的に指摘、主張している諸点が、本当に事実なのかということを確認してみたいと思います。



【光背を後頭部に取り付けるのは、特異なスタイルなのか?】


まず、

・仏像の光背は支え木で止められるのが通例で、救世観音の光背が頭に直接取り付けられているのは異例のことである。
これは、故意、意図的になされた仕業である。

・法隆寺の仏像に限って、こうした頭に直接取り付けるスタイルが存在する。
このことに特別な意味があろうとの疑問が生じる。
(金堂・薬師像、釈迦三尊脇侍像、四天王像などを例示)

という指摘は、どうでしょうか?

確かに、仏像の光背は、梅原氏が一般例に挙げた百済観音像のように、支柱に取り付けるスタイルが多いことは事実です。

しかし、ちょっと仏像に詳しい方は、
「光背を頭に直接取り付けた仏像は、法隆寺だけでなくてもいくらでもあるよ!」
とおっしゃることだと思います。



【飛鳥白鳳の金銅仏では、むしろ一般的なスタイル】


むしろ飛鳥白鳳期の金銅仏では、後頭部に直接光背を取り付けるスタイルの方が一般的といってもよいぐらいかと思います。

東京国立博物館に陳列されている法隆寺献納宝物・四十八体仏を見てみると、多数の金銅仏に、後頭部に明らかな突起があったり、枘穴が空いていたりします。
ここに光背を取り付けていたことが明らかです。

そのいくつかの例を、写真でご覧ください。

法隆寺献納宝物(四十八体仏)150号如来立像法隆寺献納宝物(四十八体仏)155号菩薩半跏像
法隆寺献納宝物(四十八体仏)150号如来立像(左)、155号菩薩半跏像(右)


法隆寺献納宝物(四十八体仏)165号辛亥銘観音菩薩立像.法隆寺献納宝物(四十八体仏)166号観音菩薩立像
法隆寺献納宝物(四十八体仏)165号辛亥銘観音菩薩立像(左)、166号観音菩薩立像(右)
両像こもに救世観音像と類似した形姿の小金銅仏像




【朝鮮の大型古代金銅仏でも、同じ取り付けスタイルが】


四十八体仏のような小金銅仏に限らず、大型の金銅仏でも、この光背取り付けスタイルのものは、いくつも見られます。

法隆寺金堂の薬師如来像もそうですが、韓国を代表する二体の有名な半跏思惟金銅仏像(韓国国宝78号、83号像)も後頭部に光背を直接取り付けていた明らかな痕跡がみられます。
日月飾三山冠半跏思惟像78号像は後頭部には穴が空いており、広隆寺宝冠弥勒像瓜二つと云われる83号像の後頭部には大きな突起があります。
共に、ここに光背が取り付けられていた痕跡であることが判ります。

法隆寺金堂・薬師如来像(奈良六大寺大観第2巻掲載写真)
法隆寺金堂・薬師如来像(奈良六大寺大観第2巻掲載写真)


韓国国宝78号像・日月飾三山冠半跏思惟像.韓国国宝83号半跏思惟像

韓国国宝78号像~背面頭部韓国国宝83号像~背面頭部
韓国国宝78号像・日月飾三山冠半跏思惟像(左)、韓国国宝83号半跏思惟像(右)
78号像の後頭部には光背を取り付けた穴が、8号像には取り付け用の大きな突起がある


中国、朝鮮の古代金銅仏では、多くの仏像がこの光背の取り付け方で、それらの仏像のスタイルを見倣ってつくられた日本の仏像も、当然にこうした手法で造られたことが容易に想像されます。



【木彫像の光背に支柱取り付けが多いのは、保持する強度の問題か】


木彫像の場合には、この後頭部に光背を直接取り付けるスタイルは、光背の重さを保持する構造的な強度の問題から、支柱に光背を取り付けるスタイルが多くなるようです。
飛鳥白鳳の木彫像では、梅原氏が例示した百済観音像だけでなく、中宮寺の菩薩半跏像も支柱で支えるスタイルですし、広隆寺の宝冠弥勒像も同様であったと思われます。

中宮寺・菩薩半跏像
光背を支柱で支える中宮寺・菩薩半跏像

飛鳥白鳳の木彫像の現存例では、法隆寺金堂・四天王像と夢殿・救世観音像の2像が、後頭部に光背を直接取り付けるスタイルの像となっています。
飛鳥白鳳期の仏像制作は、舶載の金銅仏が手本となっていたでしょうから、木彫像でも、強度的に光背を後頭部に取り付け可能な場合は、それに倣ったスタイルをとったのではないでしょうか。

こうしてみると、光背を支柱で固定するのか、頭部に金具などで取り付けるのかというのは、単純に技術的な技法の問題で、保持する強度などの構造的な観点から選択されたと考えられます。
救世観音像の光背が後頭部に取り付けられているのは、仏像を生かすか殺すかといったような次元の問題とは全く違うものであったというのは、明らかだと思われます。



【救世観音の頭部には、釘が打ち込まれているのか?】


もう一つ、

・救世観音の後頭部には、大きな太い釘が打ち込まれている。

・重い光背を背負わせて、それを頭の真ん中に釘で打ち込んでいる。

という点は、どうなのでしょうか?

確かに、救世観音像を真横かから撮った側面写真をみると、後頭部に太い釘が打ち込まれているように見えないわけではありません。



【釘ではなく、L字型金具で後頭部に取り付けられた光背】


結論から言えば、救世観音の光背は、釘ではなくて、

「L字型の金具を、後頭部の枘穴に差し込むことによって取り付けられている」

のです。

一見は、似ているように見えたとしても、
「太い釘が、奥深く打ち込まれている」
というのと
「接続金具で取り付けられている」
というのでは、大違いです。

奈良六大寺大観(第4巻)は、救世観音光背の取り付け方について、このように解説されています。

「宝珠形の光背は、後頭部中央の四角の枘孔に差し込んだ銅製懸金具の立ち上り部を、光背中央蓮肉部の上下につけられてた銅製の壷金具に差込んで懸吊する形である。」

この解説文だけでは、ちょっとわかりにくいのですが、当該部分の写真を見るとその様子がほぼ理解できます。

救世観音像~頭部側面(「救世観音」1997年法隆寺・小学館刊掲載写真).救世観音像~側面(「古代金銅仏と飛鳥仏」久野健著1979年東出版刊掲載写真)
救世観音像~側面写真(左)「救世観音」1997年法隆寺・小学館刊掲載
(右)「古代金銅仏と飛鳥仏」久野健著1979年東出版刊掲載
L字状の取り付け金具の様子がよく判る


光背には、クネッと曲がったL字型の懸金具が取り付けられていて、その水平部分を像の後頭部に造られた「枘孔」に差込むことによって、像本体とつなぎ合わせ保持しているのです。
この懸金具のことを、「頭の真後ろから奥深く打ち込まれた釘」というのは、事実に反するといわざるを得ません。



【法隆寺金堂・四天王像も同スタイルの金具で光背取り付け】


木彫像の光背を後頭部に取り付ける方法としては、金銅仏と違って強度が弱いことから、このような金具が用いられたようです。
法隆寺金堂の四天王像の光背は、二つのL字の組み合わせのように曲げられた金具で、後頭部に取り付けられています。
こちらも、当該部分写真で、状況がよくわかると思います。

法隆寺金堂四天王像~頭部側面(奈良六大寺大観第2巻掲載写真)
法隆寺金堂四天王像~頭部側面(奈良六大寺大観第2巻掲載写真)

梅原氏が、衝撃の事実とした「後頭部へ打ち込まれた釘」とされた問題も、木彫像の頭部への金具による光背の取り付け技法の問題が、一見そのように見えたに過ぎなかったということになります。



【「釘打付け説」に厳しい批判を寄せた、直木孝次郎氏】


世間に大反響をもたらした「救世観音の後頭部に打ち込まれた釘」説については、専門の研究者からも手厳しい批判が述べられました。

直木孝次郎氏は、救世観音像の光背の取り付けが呪詛の行為であるという梅原説が誤解に基づくものであることを、具体的に一つ一つ指摘したうえで、このように語っています。

「いくら言論の自由であるといっても、光背が大きな釘でみ仏の後頭部に打ち込まれているという、事実にもとづかない人騒がせな妄説を提出することは、遠慮してもらいたいものである。」
(「法隆寺は怨霊の寺か~梅原猛氏『隠された十字架批判』」 直木孝次郎古代を語る 第9巻~飛鳥寺と法隆寺・2009年吉川弘文館所収)


直木孝次郎氏は上記著作の他、自著「法隆寺の里」「私の法隆寺」に同様の梅原説批判論を掲載しています。
その中で、救世観音像の光背の取り付け方についての論及、事実検証が丁寧になされており、この「こぼれ話」の大いなる参考にさせてもらいました。



【中空ではなかった救世観音の体部造形~これまた痛烈批判が】


光背の話ではないのですが、梅原氏が、

救世観音の体は背や尻などが欠如した中空に造られている。
それは、人間としての太子ではなく、「怨霊としての太子」を表現した故である。

と論じた問題も、事実とは相違するようです。

救世観音像は痩身の像ではありますが、その肉体はしっかりと造形されています。
正面からは鰭状天衣に隠れて肉身の状況が判りにくいのですが、背面から撮られた写真をみると背中もお尻も、しっかりと穏やかに造形されています。

救世観音像~背面写真(奈良六大寺大観第4巻掲載写真)
救世観音像~背面写真(奈良六大寺大観第4巻掲載写真)

梅原氏は

「救世観音の体は空洞であることである。
つまりそれは、前面からは人間に見えるが、実は人間ではない。
背や尻などが、この聖徳太子等身の像には欠如しているのである。」

と記しているのですが、これも、事実と相違すると云わざるを得ません。

梅原氏がこのように語ったのは、絶対秘仏・救世観音像を明治17年に開扉したフェノロサが、自著「東亜美術史綱」に、
「像形は人体より少し大なるも、背後は中空なり」
と書いているのを踏まえて、そのように理解してしまったのかもしれません。

町田甲一氏は、このように述べています。

「これ(注:フェノロサが背後は中空と記していること)を梅原(猛)氏は、像背を確かめもせずに・・・・・・、「怨霊説」の有力な前提の一つにしている。
実物をみないでものを書くのならば、せめて写真ででも確かめるくらいの労は当然払うべきであり、真面目な新説の提唱であるならば、その論拠については、前もって充分なる学問的検討が必要であろうと思う。」
(「大和古寺巡歴」1976年有信堂高文社刊~のちに講談社学術文庫にて再刊)

これまた、痛烈で手厳しい批判です。



【 救世観音の光背の取り付け方は、実の処は、飛鳥白鳳期に良く有るスタイル】


大反響を呼んだ「隠された十字架」での救世観音・太子怨霊封じ込め像論。

今回は、その核心ともいえる、

「救世観音の光背は、怨霊封じ込めのため、意図的に後頭部に釘打たれている。」

という梅原説についての、検証、振り返りをしてみました。

結局のところは、救世観音像の光背の取り付け方は、不思議なものでも、特別なものでも全くなくて、飛鳥時代当時の制作技法として、ごくごく普通の一般的技法であったということが、よくお判りいただけたのではと思います。


30年近く前に出た本で論じられた、古い話を持ち出してしまいました。

よくご存じの判り切った話を、何を今更という感が強かったのですが、「光背のこぼれ話」ということで、あえて採り上げさせていただきました。