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観仏日々帖

こぼれ話~光背の話① 法隆寺・釈迦三尊像の光背と飛天について 【2020.04.23】


新型コロナウィルス感染拡大で、ついに全国緊急事態宣言になってしまいました。

美術館、博物館もすべて閉館となり、各地の御開帳も中止が相次いでいます。

HP「日々是古仏愛好」に掲載している仏像展覧会や秘仏御開帳情報なども、当分ご紹介出来るものも無く、しばらくは記事更新も叶いませんが、ご容赦ください。

私も、不要不急の外出自粛で巣ごもり的状態、ストレスも溜まり気味です。
そこで、ちょっと肩の凝らない気楽にご覧いただけるような話を掲載してみようかという気になりました。

まずは、普段、仏像を拝するときに目をやることが少ない、「光背」にまつわる、ちょっと面白そうなこぼれ話を、いくつかご紹介させていただこうかと思います。
皆さん、よくご存じの話ばかりではないかと思いますが、気を紛らわせる、ヒマつぶし代わりにでもなれば幸いです。



まずは、法隆寺金堂の釈迦三尊像の光背についてのこぼれ話です。


【ご存じでしょうか?  ~釈迦三尊像の大光背周縁に穿たれた「枘(ホゾ)穴」の存在】


法隆寺金堂の釈迦三尊像。
中学生でも知っている、飛鳥時代の傑作、国宝の金銅三尊仏像です。

法隆寺金堂・釈迦三尊像
法隆寺金堂・釈迦三尊像

この釈迦三尊像の光背の周縁に、小さな穴がいくつも穿たれているのをご存じでしょうか?

一光三尊形式の蓮弁型の立派な大光背で、裏面には、推古31年(623)に聖徳太子夫妻の冥福を祈って止利仏師の手によって造られたことが記される、有名な造像銘が刻されています。

この光背の外周の縁に、長方形の穴が左右に各々13個ずつ穿たれているというのです。
小さな穴で、幅8ミリm、縦25ミリぐらいの大きさだそうです。

光背に、こんな枘穴が穿たれているというのは、法隆寺の暗い金堂で拝しても、全く判りません。
奈良六大寺大観などの鮮明な写真を、目を凝らして見てみても、枘穴があることを見分けることはなかなかできません。
光背写真を大きく拡大してみると、かろうじて枘穴が穿たれていることが判ります。

法隆寺金堂・釈迦三尊像光背~周縁部の小さなホゾ穴があるのが判る

法隆寺金堂・釈迦三尊像光背~周縁部の小さなホゾ穴があるのが判る
大光背の拡大写真
周縁部に小さな枘穴があるのが、かろうじて判る




【光背左右の各13個の枘穴が、しっかり確認できる大光背の拓影】


古い資料をあたってみると、この枘穴が穿たれていることがハッキリと確認できるものを見つけました。
昭和24年(1949)刊の 「法隆寺金堂釈迦三尊像~法隆寺資料彫刻編第1輯」 (岩波書店刊) に、大光背の拓影が掲載されていて、枘穴の形がしっかりと拓されているのです。

光背周縁部のホゾ穴の存在がはっきりとわかる拓影

光背周縁部のホゾ穴の存在がはっきりとわかる拓影..光背周縁部のホゾ穴の存在がはっきりとわかる拓影
光背周縁部に穿たれた、多数の枘穴の存在がはっきりとわかる拓影
「法隆寺金堂釈迦三尊像~法隆寺資料彫刻編第1輯」掲載拓本画像


ご覧の通りで、多数の四角い枘穴が、よく見て取れると思います。

この枘穴は、何のために穿たれたものであったのでしょうか?



【 「光背周縁には飛天が取り付けられていた」 との卓見を示した、平子鐸嶺】


明治時代、この枘穴の存在を知っている人は、ほとんどいなかったようです。
これに気付いて、枘穴の意味を明らかにしたのは、平子鐸嶺でした。

平子鐸嶺
平子鐸嶺
平子鐸嶺といえば、いわゆる「干支一運説」と云われる法隆寺非再建論を展開したことで著名です。
「干支一運説」というのは、日本書紀が法隆寺の火災を、庚午年、天智9年(670)としたのは誤りで、干支が同じ推古18年(610)このことであったという画期的説でした。
鋭い論考を矢継ぎ早に発表しましたが、明治44年、35歳の若さで惜しくも早世しました。

平子鐸嶺は、

「当初、この大光背の周縁は “飛天” で飾られていていて、枘穴は飛天を取り付けるための差し込み穴であったのだ。」

と論じたのです。

平子は、明治40年(1907)に、

「法隆寺金堂本尊釈迦佛三尊光背の周囲にはもと飛天ありしというの説」 (考古界6の9号 後に「仏教芸術の研究」所収)

という短文の論文を発表して、そのことを初めて指摘しました。

この論文で平子は、次のような主旨を述べています。

光背の周辺に、一側13孔が穿たれていることを、多くの人が知るところでは無い。

法隆寺村の老大人北畠翁は、この孔に十方光の細い條金がさされていたというけれども、それでは大変おさまりが悪くなる。

博物館にある「法隆寺献納宝物の甲寅銘光背」をみると、周縁左右に各7個の飛天が取り付けられている。
法隆寺・釈迦三尊像の光背も、甲寅銘光背のスタイルと同形式の飛天が取り付けられていたのに違いなく、失われた飛天の痕跡の枘穴が遺されているのだ。

中国、竜門石窟の北魏式仏像の光背は、周縁を飛天で囲まれたものが一般的であることからも、そのことは明らかであろう。

枘穴の存在に気付いたのもさることながら、周縁が飛天で飾られていたとみたのは、平子鐸嶺ならではの慧眼です。
当時31歳の若さで、流石の鋭さです。

余談ですが、「法隆寺村の老大人北畠翁」というのは、法隆寺の大御所、雷親父として知られた男爵・北畠治房のことです。
北畠治房については、日々是古仏愛好 「埃まみれの書棚から~法隆寺の大御所 北畠治房」 で、詳しくふれたことがありますので、ご覧いただければと思います。



【大光背には、法隆寺献納宝物・甲寅銘光背と同じスタイルの飛天が?】


平子鐸嶺が想定した 「法隆寺献納宝物の甲寅銘光背」 というのは、ご覧の通りのものです。

法隆寺献納宝物・甲寅銘光背

法隆寺献納宝物・甲寅銘光背
法隆寺献納宝物・甲寅銘光背

東京国立博物館の法隆寺宝物館へ行けば、いつでも観ることができます。
(現在、東博は臨時休館中です。)

光背裏面に甲寅の干支が記された造像銘が刻されていて、甲寅は594年と考えられています。
高さ31センチの小さな光背で、本体の三尊像は失われてしまっています。
銘文の内容等から、朝鮮半島からの舶載仏像だったのではないかと云われています。

この甲寅銘光背の周縁は、透かし彫りの飛天群像で飾られているのです。
これと同じスタイルのものが、法隆寺金堂釈迦三尊の光背にも取り付けられていたという話は、なるほどと大いに納得できるところです。

メトロポリタン美術館蔵の北魏正光5年(524)の小金銅三尊仏像の光背も、甲寅銘光背とスタイルがちょっと違いますが、周縁に飛天が取り付けられた例として知られています。

メトロポリタン美術館蔵 北魏正光5年銘・金銅三尊仏像
メトロポリタン美術館蔵 北魏正光5年銘・金銅三尊仏像



【両脇侍が横にはみ出してしまう、現在の大光背】


そういわれて、法隆寺釈迦三尊像を観ると、両脇侍が一光三尊形式の大光背から一寸はみ出してしまっています。

法隆寺金堂・釈迦三尊像
法隆寺金堂・釈迦三尊像~正面写真
両脇侍が大光背の周縁からはみ出してしまっている


大光背のサイズが、ちょっと小さすぎるのです。
周縁に飛天が取り付けられて、全体が一回り大きな姿だったとすると、両脇侍が大光背の中に、丁度良い塩梅で納まりそうな感じです。



【飛天が失われたのは、天智9年の若草伽藍焼亡の時?
~光背先端の折れ曲りもこの時の損傷か】

残念ながら、光背周縁にあったはずの飛天は、すべて失われてしまいました。
釈迦三尊像は、ほぼ完全と云って良いほどの保存状態で今日まで伝えられているのに、周縁の飛天だけが、いつ頃どうして悉く失われてしまったのかは、よく判りません。

実は、この釈迦三尊の光背には、先端部が前方に折れ曲がって大きなひび割れがあるのです。

光背先端部の折れ曲り損傷

光背先端部の折れ曲り損傷
損傷して折れ曲ってひび割れが生じた光背先端部

このひび割れが生じたのは、天智9年(670)の創建法隆寺(若草伽藍)焼亡の時ではないかと云われ、その時に周縁の飛天も失われたのではないかという見方があるようです。

町田甲一氏は、このひび割れ損傷と飛天が失われた時期と理由について、次のような仮説を語っています。
ちょっと長くなりますが、面白い話なので、紹介させていただきます。

「恐らくそれ(注:飛天が失われたこと)は、蓮弁型の挙身光の先端部に認められる大きなヒビ割れと、同じ時の損傷と思われるが、その先端部が大きく前に折れ曲ってヒビ割れを生ずるに至った災害について、香取秀真氏が古く(昭和6年)
「梁などが墜落した時の大損傷かと想像される」
と述べられて以来、その時を天智9年4月のかの法隆寺焼亡の時と解し、香取氏の想像されたような事情で、この損傷を受けたと考えている人が多い。

私も、その時期については同意見だが、その直接受けたショックについては、そうではないだろうと想像している。
その点について述べてみたい。

留意すべきことは、この釈迦三尊が光背を含めて、火の中にあった形跡はまったくないことである。
しかし火災の実情では(消防署の人にただしたところによると)、火を受けて天井ないし梁が落下してきた場合、火は急に回って一瞬にして火の海となるのが普通である。
したがって梁や天井の落下によって損傷を受けたのちに、この三尊を大光背ともども火を受けることなく救出することは不可能である。

そこで私は次のように考えている。
まず金堂の隣の塔に落雷し(むかしの寺の火事は、大部分が塔への落雷による)、その塔の炎上中、金堂への類焼まえに、この三尊を救出すべく、まず光背を像よりはずし、高い台座上の像よりその背後に落して救出をはかったのであろう。
その際、光背は仰向けに一回転して先の方から台座下に落ちたわけで(光背の上方は、もともと多少のカーブをもって前出していた)その折りみずからの重味で、その先端を大きく前に折り曲げて損傷したのであろうと思われる。

頂上の透かし彫りの宝塔部はもとより、周縁の何体かの飛天の像も、この時に損なわれたものであろう。
しかし幸いに、光背そのものは火中に帰すことなく、本尊につづいて、金堂への火の及ぶ前に救出されたのではなかろうか。

飛天を失い、光背先端部を損傷した折りの事情について、このように想像した人は、いままで一人もいなかった。
私は、この推測に、かなりの自信をもっている。」
(「大和古寺巡歴」1976年有信堂高文社刊~のちに講談社学術文庫にて再刊)

なかなか、面白く興味深い仮説です。
町田氏は、奈良六大寺大観の解説でも、同趣旨のことを記しています。

(なお、現在では、釈迦三尊像は創建若草伽藍に祀られていたのではなかったのではないかとする異説もあります。)

それにしても、この光背飛天の残欠などが全く遺されてこなかったのは、残念なことです。

大変物持ちの良い法隆寺のことですから、いつの日か、倉の中からカケラでも見つかるようなことがあれば、驚きの大発見となることは、間違いないのですが・・・・・・・



【復元制作された光背周縁の飛天~東京藝術大学の「クローン文化財」制作プロジェクト】


2017年。
周縁の飛天を再現した、大光背の復元制作が行われました。

東京藝術大学が取り組んでいる文化財の超精密複製、通称「クローン文化財」制作プロジェクトによって、法隆寺釈迦三尊像のクローン文化財が制作されたのです。
その制作にあたって、大光背周縁の飛天も、甲寅銘光背などを参考にして、復元制作されたのでした。

このクローン文化財・釈迦三尊像復元像は、2017年秋に東京藝術大学美術館で開催された、シルクロード特別企画展「素心伝心~クローン文化財 失われた刻の再生」(各地を巡回)などで展示されましたので、ご記憶のある方も多いのではないかと思います。

復元像は、ご覧の通りです。

光背周縁飛天が復元制作された、精密復元像(クローン文化財)
光背周縁飛天が復元制作された、精密復元像(クローン文化財)

大光背の周縁は、甲寅銘光背とそっくりの飛天で取り囲まれて、華やかな荘厳さが一段と増しています。

3D計測や3Dプリンターといったデジタル技術を駆使して制作された超精密複製像で、本物と見まがう程の、素晴らしい出来です。
飛天の復元などの他、美術史の研究を踏まえ、左右の脇侍を入れ替えて制作されました。



【全体バランスが見事に釣り合った復元制作像~見慣れた姿からはちょっと違和感】


普段、周縁部の飛天がない光背の姿の法隆寺釈迦三尊像を見慣れているだけに、復元制作像を観ると、立派な光背の方ばかりに目が行ってしまって、なんだか違和感を覚えてしまいます。

光背周縁飛天が復元制作された、精密復元像(クローン文化財)
法隆寺金堂・釈迦三尊像~復元製作像(クローン文化財)

法隆寺金堂・釈迦三尊像
法隆寺金堂・釈迦三尊像~現状像


この姿だと、両脇侍像も一光三尊の大光背の幅の中に、丁度うまく納まって、全体バランスが良くなるようです。

大光背周縁の飛天の形姿が、本当にこのようなものであったかどうかの確証はないのですが、法隆寺釈迦三尊像の制作当時の全体の姿を、目の当たりに実感できるようになったのでした。



ついでに、全くの余談、付けたりの話です。


【薬師寺東院堂・聖観音像の台座に穿たれた、多数の枘穴】


「穿たれた枘穴の痕」と云われて思い出すのは、薬師寺東院堂の聖観音像の台座に残されたいくつもの枘穴のことです。

この聖観音像を拝すると、その凛とした青年の清々しさを感じさせる美しさに、誰もが魅了されてしまいます。

薬師寺東院堂・聖観音像
薬師寺東院堂・聖観音像


美しい姿の方に目を奪われて、足元の台座をじっくり見ることは無いのかもしれませんが、実は、台座の仰蓮弁の根元の上框のところに、小さな丸い穴が沢山穿たれているのです。



【台座八角上框に、規則正しく3周して、二孔一組の丸穴が】


八角上框には、二孔一組になった小さな丸い穴が、規則正しく3周して穿たれているのです。

内側の2周は8組(16孔)ずつ、外側の3周目は16組(32孔)が、穿たれています。
台座の拡大写真をご覧いただくと、孔が穿たれた様子が、よくわかると思います。

聖観音像の台座~上框に小さな穴が穿たれているのが判る

聖観音像の台座~上框に小さな穴が穿たれているのが判る
東院堂・聖観音像の台座拡大写真
上框に小さな穴が穿たれているのが判る


小さくて目立たないので、この穴に気が付かれた方は、それほどいらっしゃらないのではないかと思います。
私は、聖観音像が博物館に出展された時に、この台座の穴を、自分の眼でしっかりと確認することができました。



【台座は、5重の仰蓮弁で飾られていた~遺された別鋳蓮弁の差し込み穴】


この2孔一組の穴は、別鋳の蓮弁が挿し込まれていた痕だと考えられています。

現在の台座には、蓮肉部の周辺に8葉の仰蓮が二重に配されています。
当初の台座には、この仰蓮の外を取り巻くように、あと3重の蓮弁が取り付けられていたのです、
現存部分と合わせると、内側4重が各8葉、最外周5重目が16葉の蓮弁で飾られていたことになります。

聖観音像は、「5重に花開いた蓮弁」の上に立っていたのでした。
それはそれは、見事で華やかなものであったことでしょう

挿し込まれていた筈の別鋳の蓮弁は、すべてが失われ、残欠すら遺されていません。

聖観音像の当初の光背も失われてしまっています。

もし光背も台座も、造立当初の形のものが遺されていたならば、眼をみはるような絢爛豪華な荘厳のなかに、観音像が佇むというお姿であったのでしょう。


あれこれ~「観仏日々帖」 おかげさまで200回を超えました 【2020.04.11】


新型コロナウィルスの感染拡大で、緊急事態宣言が出され、深刻な日々が続いています。

不要不急の外出自粛ということで、私も、ここ一月程、ほとんど出かけることがありません。
どこまで、こんな日々が続くのでしょうか。
一日も早い終息を願うばかりです。


こんな気が重くなる日々のなかで、わざわざお知らせするほどの話では無いのですが、この 「観仏日々帖」 の掲載記事が、おかげさまで200回の大台を超えることができました。

前回掲載の
「我国初の官製日本美術史書「稿本日本帝國美術略史」について〈その2〉」
が、丁度200回目となりました。

過去200回の掲載記事は、 「観仏日々帖・総目次」 をご覧いただければと思います。


このブログ「観仏日々帖」をスタートしたのは、2012年4月のことでした。
ちょうど8年前になります。
振り返ると、1年間に約25回の記事掲載となり、2週間に一度の記事掲載のペースを曲がりなりにも守ってこられたようです。

この「観仏日々帖」は、リンクのHP 「日々是古仏愛好」(旧名称:神奈川仏教文化研究所) を、前運営管理人の早世により、私が受け継ぐことになったのを機に、新たにスタートさせていただいたものです。

「観仏日々帖」も「日々是古仏愛好」も、一般の仏像解説書や仏像随筆にちょっと飽き足らなくなった仏像愛好の皆さんに、

「一歩踏み込んだ、仏像についての興味深い話、面白そうな話」
「仏像解説書などに、あまり採り上げられていない切り口の話」

を、気ままに思いつくままに綴らせていただいています。

HPやブログの作り方さえ全く判らないところからのスタートでしたが、おかげでスキルもそこそこ上がりました。
また、記事にして掲載するというのは、自分自身にとって大変勉強になり、レベルアップになるもので、自己研鑽効果抜群という副次的効果を生んでいます。

皆さんに、どれほどご関心をお持ちいただき、満足いただいているのかは、はなはだ心持たないのですが、よく8年間も継続してこられたものと、我ながら驚いております。


振り返って、とりわけ 「思い出深い記事」 を挙げると、次のようなものでしょうか。

「観仏日々帖」 では、

「回想の地方仏探訪 〈その1~8〉」

「日々是古仏愛好」 では、

「埃まみれの書棚から~近代奈良と古寺・古文化をめぐる話 〈その1~9〉」

「近代『仏像発見物語』をたどって 〈第1話~12話〉」

「近代仏像評価の変遷をたどって 〈全30回〉」

こんなところかと思います。


「回想の地方仏探訪」 は、

私の、地方仏探訪遍歴を、振り返って綴らせていただいたものです。

学生時代、初めて東北の地方仏探訪に出かけた話からはじまって、長らく縁がなくなっていた地方仏探訪を中高年になってから再開、再び熱中するまでの思い出話を、勝手気ままに綴らせていただきました。
唯々、年寄りのノスタルジー、自己満足的な回想話ではありましたが、さまざまな心に残る地方仏との出会いを、しみじみと思い起こすことができました。


「日々是古仏愛好」 に掲載させていただいた3つの連載話 は、

全部、「近代と仏像」といったものにまつわる話です。
近代仏像文化史がらみの話と云って良いのかもしれません。

私は以前から、明治以降の近現代文化史における仏像にまつわる話が、強い関心分野になっています。
我々が、仏像を観て、その「美しさや魅力を語る感性や、評価観」というものは、明治以降150年程の近代仏像文化史的な諸々の事柄が積み重なって形成されてきて、今日があるというように感じているからです。

「3つの連載話」で、かねてから近代仏像文化史がらみで採り上げてみたいと思っていたテーマは、ひと通りふれることができたのではないかと思っています。
唯の、エピソード話や薀蓄話のようなものもありますが、それなりに興味深いものではないかと自己満足しています。

とりわけ  「近代仏像評価の変遷をたどって」  で採り上げたテーマは、私が長らくずーっと頭の中をめぐらせていた、最も興味津々の問題でした。
仏像の美の評価観、美のモノサシの時代の変化、移ろいをたどってみた話でしたが、やっと曲がりなりにもまとめることができて、ずっと頭の中に引っ掛かっていた荷物を下ろしたような、ホッとした気持ちになりました。


これまで、仏像愛好の皆さんにお役に立つような興味深い話を、できるだけ判り易くと、努めてきたつもりですが、マニアックに過ぎたり、面白味のない話になってしまったものも随分ありました。

皆さんには、だらだらとした自己満足的な話を、我慢してご覧いただき、有難うございます。


そろそろ話しのテーマもネタ切れで、頭のなかも空っぽに近づいてきた感じがしています。

これまで通りの記事掲載を続けられるかどうか、少々心持たない処ではありますが、気ままに、地道に続けられればと思っております。


よろしく、お付き合いいただけますようお願いいたします。


新刊・旧刊案内~我国初の官製日本美術史書「稿本日本帝國美術略史」について(その2) 【2020.04.04】


ここからは、「稿本日本帝國美術略史」刊行に至るいきさつなどについて、振り返ってみたいと思います。

先にふれたように、「稿本日本帝國美術略史」は、近代日本において、初めて編纂された「日本美術史書」です。
日本初の「国家の手になる日本美術史」というもので、その美術史観、概念が、その後長らく日本美術史の規範となっていくものです。

驚くことに、なんとこの本は、日本で出版されたのではなくて、フランス・パリにおいて仏文版で刊行されました。

どのような事情、いきさつでそうなったのでしょうか。



【はじめて体系的に日本美術史を講じたのは、岡倉天心~東京美術学校講義(明治23年)


岡倉天心
岡倉天心
近代日本において、初めて体系的に日本美術史が論じられたのは、岡倉天心による東京美術学校における「日本美術史講義」であったとされます。
明治23年(1890)のことでした。

この日本美術史の講義は、岡倉が明治10年代からフェノロサらと共に、奈良・京都を中心とした古社寺、古美術調査を推し進めてきた成果を反映し、日本美術史を初めて組み立て、講じたと云われています。
一方、明治21年(1888)には、「臨時全国宝物取調局」が設置され、政府の手で全国の文化財、美術品調査が進められることになります。
すなわち、「文化財保護のための宝物調査」と「宝物の価値判定、体系化を担う美術史学」という相互関係と云え、政府の古美術保護と日本美術史、美術史学の成立は、表裏一体の関係にあったという訳です。

岡倉天心の「日本美術史」は、あくまでも講義で出版物になったものではありませんでした。
現在、「岡倉天心著・日本美術史」と題して刊行されている本は、当時、岡倉の講義を受けた学生が筆記した講義録を書籍化したものです。

岡倉天心講義ノート「日本美術史」~原安民筆記
岡倉天心講義ノート「日本美術史」~原安民筆記



【パリ万博(明治30年)に、日本美術史書編纂出品を決定~西洋列国への日本美術紹介を目的】


このころから、日本美術史を編纂し刊行しようと動きが始まります。
明治24年(1891)には、岡倉天心を中心に帝国博物館による日本美術史編纂が進められることになりますが、予算不足などにより遅々として進まず、挫折状態のようになってしまいます。

そうした中で、明治33年(1900)に開催されるパリ万国博覧会に、「日本美術史書」を編纂、出版し、これを出品することが決定されるのです。
明治30年(1897)のことで、岡倉天心を編纂主務として進められます。
途中、天心がスキャンダルにより帝室博物館美術部長を罷免され、東京美術学校校長を追われたことにより、その後は、福地復一が執筆編纂の中心となりました。

我が国初の日本美術史書は、なんと

「西洋列国に日本美術を紹介すること」

を目的とすることによって、その刊行が実現することになったものでした。

そのため、日本語ではなくフランス語で出版されることになったのです。



【東洋の一等国への認知と殖産興業をめざし、数多くの美術工芸品を博覧会出展】


パリ万国博覧会(第5回)は、19世紀の締めくくりの年、1900年に史上最大規模の博覧会として開催されました。

1900年パリ万国博覧会~パノラマビュー
1900年パリ万国博覧会~パノラマビュー

日本は、この万博に、西洋先進国に東洋の一等国として認知されるべく、国家の威信をかけて参加出展します。
日本の美術工芸品の輸出を中心とする殖産興業を目指すものでもありました。
法隆寺金堂を模した日本館が建設され、800点ほどの絵画、彫刻、工芸品など古美術品が展示されました。
横山大観、黒田清輝、高村光雲をはじめとした、当代の画家、彫刻家、工芸家の作品も。多数出展されています。

パリ万国博覧会・日本館の図版
パリ万国博覧会・日本館の図版



【国威発揚という使命を背負った 「Histoire de L'Art du Japan」 の出版】


この展示に合わせて、日本美術の変遷を解説すべく編纂、刊行されることになったのが、仏文版の日本美術史書 「Histoire de L'Art du Japan」 であったわけです。

パリで刊行された「Histoire de L'Art du Japan」
明治33年(1900)にパリで刊行された、「Histoire de L'Art du Japan」

すなわち我が国初の日本美術史書は、日本という国が、

「西洋に伍しうる“一等国”としての歴史・文化を有すること。
「文明国として、西洋美術に比肩しうる日本美術を有すること。」

を、西洋列国に対して示すために編纂されたといっても過言ではないものでした。

「夫レ美術ハ國ノ精華ナリ」(明治22年「国華」創刊号の巻頭言)

岡倉天心は、こう述べていますが、近代日本における「日本美術史・美術史学」は、まさに、こうした強い国家的使命を負って成立していったのでした。



【本書の内容の、3つの特徴点】


「Histoire de L'Art du Japan」、即ち「稿本日本帝国美術略史」の日本美術史観、構成などには、どんな特徴があるのでしょうか。

次の3点ぐらいが、顕著な特徴点といえるでしょう。

①日本が東洋美術の代表者であると位置づけていること

②西洋美術史観に倣うとともに、飛鳥~奈良の古代美術偏重主義となっていること

③天皇家や寺社など支配層の美術作品による構成であること

この特徴点について、もう少しふれてみたいと思います。



【日本は、東洋美術の代表者と位置づけ】


本書では、まず
「日本の美術は東洋美術の粋が集まってできたもの、東洋美術の宝庫である」
と位置づけています。
九鬼隆一
九鬼隆一

九鬼隆一による序文では、

「固より日本美術は日本特有の趣致を有するは言うを竢(ま)たざれども、其骨子たる嘗(かっ)て東洋美術の粋を集めて構成したるものに外ならず。・・・・・・
更に東洋の宝庫なりと称するも、過言に非ざるなり。」

と述べられています。

中国、インドの没落により、今や「東洋美術を代表するのは、日本なのだ」との自負にあふれ、西洋に比肩する東洋の一等国たらんとする、力んだ気負いが強く伺えます。



【飛鳥~奈良時代の古代美術偏重主義~西洋美術の伝統への比肩を強く意識】


次には、西洋美術の伝統との対比により、そのジャンル枠に倣って作品評価がされていることです。
西洋美術の古典的規範に比肩するものとして、奈良時代の美術が位置づけられています。

岡倉天心は、

「彼の希臘(ギリシャ)の彫刻は西洋人の誇称する所なれども、之れに対するに我が奈良朝美術を以てせば、一歩も譲ることなきを信ず」
「我邦彫刻上の発達は、奈良朝に至ってその極に達せり」
「之れを細かに味ふに至りては、我が奈良美術は決して彼の希臘美術に劣るものにあらざるべし」
(明治23~4年、東京美術学校での「日本美術史」講義)

と語っています。

本書での美術作品評価のウエイト付けも、そのとおりで、飛鳥~奈良時代の古代美術偏重主義となっています。
仏像についていえば、ギリシャローマの古典的写実彫刻に通じる、天平彫刻至上主義的な採り上げになっています。
本書の古代偏重というのは、推古、天智、聖武時代というわずか約150年に、総ページ数の約3分の1が割かれていることからも、明らかです。

こうした「稿本日本帝國美術略史」における、作品評価の姿勢、特徴については、日々是古仏愛好HPの 「近代仏像評価の変遷をたどって」 において、詳しくふれたことがありますので、ご覧いただければと思います。



【天皇家、支配層中心の美術史観~浮世絵人気のジャポニズムとは相容れず】


このような国家観、美術史観で編まれた、官製の日本美術史が採り上げる美術作品が、天皇家や有力寺社など支配層の美術作品による構成中心となることは、当然の理と云って良いものでした。

ところが、当時の西欧社会はジャポニズム全盛の時代でした。
「日本美術」に対する人気の盛り上がりは、大変なものでしたが、それは歌麿、北斎をはじめとする浮世絵が代表選手であり、陶磁器や漆器などの工芸品がイメージされていたのでした。

クロード・モネ「ラ・ジャポネーズ(着物をまとうカミーユ・モネ)」1876年
当時のジャポニズム隆盛を物語る絵画
クロード・モネ「ラ・ジャポネーズ(着物をまとうカミーユ・モネ)」1876年


西洋の日本趣味は、言ってみれば、江戸の民衆芸術的な作品がもてはやされていたわけです。
当時のジャポニズムの風潮は、「稿本」に説かれた、天皇制を基軸とする支配層の芸術を以て構成する日本美術史観とは、相容れるものではありませんでした。

「稿本日本帝国美術略史」では、北斎などの浮世絵について、全く触れていないわけではありませんが、それは微々たるもの(浮世絵全体で僅か9ページ)で、全く影の薄いものとして扱われています。



【官製日本美術史書成立事情と欧米ジャポニズムとの関係~核心を突いたコメント】


以上のような
「官製日本美術史書の成立事情と、欧米のジャポニズムとの関係」
について、的確に解説したコメントがあります。

近代日本の美術史学成立史などの研究者、佐藤道信氏は、当時の状況をこのように評しています。

ちょっと長くなりますが、ご紹介します。

「私たちが考えている『日本美術史』が、“意図的に創られた一つのイメージ体系”であることを、あまりにあっけらかんと示しているもう一つの日本美術イメージがすでにある。
それ (注:西洋における日本美術のイメージのこと) は、19世紀のジャポニズムの中で形成されたものが、基本的にはそのまま現在に続いている。
・・・・・・
先に美術行政の殖産興業のところでも触れたように、欧米の嗜好は明治政府も十分に知っていた。
だからその需要に対して、殖産興業による工芸品の振興と輸出を図ったのだ。
つまりジャポニズムに対しては、経済政策で対応したのである。
担当省は農商務省である。

一方、日本では古美術保護によって古美術の海外流出を防ぎつつ、古美術品を中心に日本美術史が編纂された。
初の官制日本美術史『稿本日本帝國美術略史』を編纂したのは、宮内省である。

つまり欧米の日本美術観は農商務省の経済政策が助長し、日本の美術史は皇国史観にもとづいて宮内省が編纂するという、完全な政策上の使い分けが行われたのだった。
欧米・日本それぞれの日本美術観の違いは、助長されこそすれ、ギャップを埋める努力はなされなかったのである。
ギャップは起こるべくして起こったといえる。

しかもこの『稿本日本帝國美術略史』は、そもそも国内的な必要というより、1900年のパリ万博出品のために構成されたものだった。
一等国たるべき国家イメージ戦略として、初めから外向きに描かれた“自画像”だったのである。
それは、20世紀に向けた東洋の盟主としての皇国日本の宣伝でもあったから、内容も天皇ゆかりの美術を中心に、歴代の支配階級の美術で構成されている。
・・・・・・・
つまり官制の日本美術史は、西欧向けに歴代支配階級の美術で構成されたわけだ。
ところが当の西欧で日本美術イメージの中核をなした浮世絵と工芸品は、美術の階級の問題でいえば、むしろ庶民階級の美術だった。
日本における日本美術史が、支配階級の美術で構成されたのに対して、西欧の日本美術観は、庶民階級の美術で構成されたのである。」
(佐藤道信著「〈日本美術〉誕生」講談社選書1996刊)

なるほどそのとおりと、膝を打ちたくなってしまいました。

私が、ダラダラと書き綴って言いたかったことが、コンパクトにサマライズされていて、見事に核心を突いたコメントです。



【和魂洋才の産物の「日本美術史」~西洋美術史評価観による国威発揚】


こうして振り返ってみると、「Histoire de L'Art du Japan」、即ち「稿本日本帝国美術略史」は、伝統的西洋美術史の評価観をベースに、東洋の一等国たるべき国家イデオロギーのもとに造られた日本美術史、まさに和魂洋才の産物と云えるのでしょう。

もしも、この本が、当時の西欧社会のジャポニズム的な日本美術観で、浮世絵などの民衆芸術の評価にウエイトをおいて編纂されていたら、我国における近代日本美術史学はどのような展開をしていたのでしょうか?

ちょっと、興味深い “IF” のように思います。



【パリでの刊行に尽力した林忠正~ジャポニズムを支えた大美術商】


さて、話をパリでの「Histoire de L'Art du Japan」の刊行に至るいきさつに戻したい思います。

仏文版のパリでの印刷、刊行については、パリ万国博覧会の日本事務局・事務官長を務めた林忠正が、全面的に担いました。
ご存じの通り、林忠正は「ジャポニズムを支えたパリの美術商」と云われる人物で、日本の浮世絵をはじめ陶磁器、工芸品などを大量に商い、ヨーロッパのジャポニズム隆盛の大きな原動力となりました。

林忠正
林忠正

林は、仏文版の刊行実現に、大変な尽力をしたようです。
直訳調仏文原稿のリライトや、刊行予算不足を私財で賄うなどの苦労を経て、パリ万博閉幕の一か月前の1900年10月に、やっと駆け込みで出版が実現しました。
仏文版には、九鬼隆一の「序」の前に、林忠正の「読者への挨拶」が掲載され、そうした経緯も記されています。

林忠正「読者への挨拶」~末尾部分
「Histoire de L'Art du Japan」冒頭の林忠正「読者への挨拶」~末尾部分

なお、日本語版「稿本日本帝国美術略史」からは、林忠正の挨拶文は全面削除されています。

豪華本「Histoire de L'Art du Japan」は、1000部が印刷刊行されました。
6部が皇族、200余部が朝野の名士、279部が各国公使経由欧米諸国、清国の君主へ寄贈され、そのほか学者、美術家、博物館長などに配布されたということです。

「Histoire de L'Art du Japan」

「Histoire de L'Art du Japan」本文掲載写真(法隆寺夢殿・救世観音像)
(上段)「Histoire de L'Art du Japan」表紙
(下段)本文掲載写真(法隆寺夢殿・救世観音像)


(「Histoire de L'Art du Japan」は、Internet ArchiveというHPサイトで、全ページをカラー映像で、閲覧することができます。)



【西洋列国の本書への反響はほとんどなく、期待外れのものに】


ところで、本書に対する、現地での反応、反響は、どうだったのでしょうか?

「西洋列国に東洋を代表する優れた日本美術を紹介し、国威をの発揚、認知を目指す。」

ことが、目的であったはずなのですが、現実には、ほとんど反響はなかったようです。

西欧社会では、所謂ジャポニズム、浮世絵をはじめとした江戸民衆美術中心の日本美術観は、その後も変わることはありませんでした。

当時の日本政府の目指した、
「東洋美術の代表者たる、優れた日本美術」
の政治外交的アピールは不発、空回りに終わったといわざるを得なかったようです。



【国内出版の「稿本日本帝国美術略史」は、日本美術史観の揺るがぬ規範に】


こうして刊行された「Histoire de L'Art du Japan」の、日本語版として国内で刊行されたのが「稿本日本帝国美術略史」であった訳です。
仏文版刊行の翌年、明治34年(1901)の出版です。

「稿本日本帝国美術略史」~初版・再版
「稿本日本帝国美術略史」~初版・再版

日本語版(初版)の内容や、その後の再版、縮刷版などの刊行状況については、【その1】で、詳しくふれたとおりです。

西欧世界では不発であった「官製の日本美術史」でしたが、我が国における「稿本日本帝国美術略史」は、近代における日本美術史観、美術史学の規範として揺るがぬ権威を保ち続けることとなります。
現在語られる日本美術史においても、この「稿本日本帝国美術略史」の美術史観の規範を基本的には継承してきていると云って良いのではないでしょうか。



【官製日本美術史書の第2弾は、明治43年刊行「国宝帖」】


明治34年(1901)の「稿本日本帝国美術略史」以降の、「官製日本美術史書」の刊行をたどってみたいと思います。

明治43年(1910)には、「特別保護建造物及国宝帖」(通称:「国宝帖」)という出版物が刊行されています。
本書は、同年にロンドンで開催された「日英博覧会」に出品するために、内務省が編纂したものです。

「特別保護建造物及国宝帖」
「特別保護建造物及国宝帖」

3分冊の大著、大冊で、我国官製日本美術史書の第2弾といえるものです。
当時、国の文化財指定は、「建築物は特別保護建造物、美術工芸品は国宝」と呼称されていましたので、このような書名が付けられたわけです。

本書は明治期における日本美術史研究の集大成ともいえる出版物で、「稿本日本帝国美術略史」の記述に比べてはるかに充実してており、美術史観も随分進化しています。

矢代幸雄氏は、この国宝帖について、次のように述べています。

「日本美術史が近代の学問のような形でできた最初は、おそらく当時の帝室博物館、現在の東京国立博物館が明治32年に『稿本日本帝国美術略史』を編纂したころに始まると思われる。
・・・・・・
その編集方針も選択もあまりにも古い。
日本美術史がほんとうに確立したのはその後10年、すなわち1910年の日英博覧会のために当時内務省が『国宝帖』という3帙の大出版物を出版したときであった。」
(「日本美術の再検討」1988年新潮社刊所収)



【大正期まで、諸版が再版されていった「稿本日本帝国美術略史」】


ところが、不思議だなと思うのは、この国宝帖は、再版や縮刷廉価版などが、その後発刊されることはありませんでした。

一方、「稿本日本帝国美術略史」の方は、国宝帖刊行後も大正5年(1916)に至るまで、「縮刷版」「第二縮刷版」が出版されています。
各種諸版の刊行状況については〈その1〉で詳しくふれたとおりです。
古臭い内容の本の方が、正統的なものとして、世に広められて行ったということのようです。

これが、いわゆる「権威」というものなのでしょうか?



【昭和13年、「稿本」の新編纂後継版「日本美術略史」が刊行】


この「正統的官製日本美術史」ともいうべき「稿本日本帝国美術略史」ですが、昭和に入ってから、その後継となる新編纂版が刊行されています。
昭和13年(1938)の出版で、「稿本」初版刊行(明治34年・1900)から40年弱を経てのことでした。

「日本美術略史」という書名で、帝室博物館編、便利堂刊で出版されています。

この「日本美術略史」の序文には、本書が「稿本日本帝国美術略史」の新編纂版であることが、次のように、はっきりと述べられています。

「曩(さき)に稿本日本美術略史を刊行し、以って世に質し斯界に貢献するところありしが、・・・・・上梓以来星霜を閲すること既に四十年、
・・・・・・・
茲に新たに日本美術略史を編纂し、以って剞劂(きけつ)に付しこれを世に問ふ。
(まこと)に欣快に堪へざるところなり。」



【「稿本」の基本的美術史観が継承された、新編纂「日本美術略史」】


本文252ページ、図版85ページの構成になっています。
本書の基本的な美術史観、作品の価値観については、明治の「稿本日本帝国美術略史」のそれを継承していると云って良いと思います。

「西洋美術史観をベースとした古代重視、国威発揚、支配層の美術史」

といえる美術史観が継承されています。

流石に、「稿本」で本文の3分の1を費やした飛鳥~奈良時代のボリュームは、6分の1ほどに圧縮されていますが、浮世絵関連についてはわずか4ページを割くだけと、引き続き、影が薄く軽視していることには変わり有りません。



【戦後までも版を重ねた「日本美術略史」】


この、新官製日本美術史書というべき「日本美術略史」も、版を重ねています。
なんと、終戦後になってからも、戦前と全く同じ文章で再版刊行されているのです。
昭和13年(1938)初版からの再版諸版は、次のように刊行されています。

「日本美術略史」の諸版一覧

私の手元には、縮刷版と改訂新版・再版(昭和27年刊)がありますので、書影だけご覧に入れておきます。

「日本美術略史」縮刷版~昭和15年再版本

「日本美術略史」縮刷版~昭和15年再版本・タイトルページ

「日本美術略史」縮刷版~昭和15年再版本・奥付
「日本美術略史」縮刷版~昭和15年再版本
書影、タイトルページ、奥付



「日本美術略史」改訂新版~昭和27年再版本「日本美術略史」改訂新版~昭和27年再版本

「日本美術略史」改訂新版~昭和27年再版本・タイトルページ

「日本美術略史」改訂新版~昭和27年再版本・奥付
「日本美術略史」改訂新版~昭和27年再版本
書影、タイトルページ、奥付


この「日本美術略史」も、当時は相当多くの部数が刊行されたと思われます。
広く一般に読まれていたのでではないでしょうか。
明治中期に成立した日本美術史観の規範、作品価値観は、戦後に至るまで継承され続けてきたと云えるのでしょう。

近代日本の美術史学史を振り返るとき、「稿本日本帝国美術略史」は日本美術史の規範となったメモリアルな書として必ず採り上げられますが、その新編纂版である「日本美術略史」の刊行については、採り上げられることがまずないのではないかと思います。
「稿本日本帝国美術略史」の亜流的といえるような内容であるからなのでしょう。

この「日本美術略史」の刊行以降は、国立博物館編纂の日本美術史本は出版されていません。
戦後の新時代では、「官製の日本美術正史」といった国定教科書的な美術史本は、もう必要とされなくなったということなのだと思います。

手元にある「稿本日本帝國美術略史」「日本美術略史」の諸版
手元にある「稿本日本帝國美術略史」「日本美術略史」の諸版



【おわりに】


「稿本日本帝国美術略史」の初版本、再版本を立て続けに手に入れたことをきっかけに、明治期における日本美術史の成立、初の官製美術史書「稿本日本帝国美術略史」刊行に至るいきさつなどを振り返ってみました。

今更ながらに思うことは、この「稿本日本帝国美術略史」という我が国初の日本美術史書が、その後の日本美術史観、作品評価観の、大いなる規範として位置づけされ続け、現代においても日本美術史観の基本的なベースになっているということです。

言い換えれば、「日本美術史」というものを、初めて組み立て講じた「岡倉天心の美術史観」が、良きにつけ悪しきにつけ、今日に至るまで影を落とし続けていると云えるのでしょう。


「稿本日本帝国美術略史」にまつわる話は、これでおしまいにさせていただきます。


あまりにマニアックな話で、あきれ返ってしまわれたのではないかと思いますが、何卒ご容赦ください。