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観仏日々帖

新刊旧刊案内~たまたま手に入れた「関野貞の仏像スケッチ集」 【2020.02.29】


【NETオークションで手に入れた、「関野貞 写 佛像線図」】

こんな、古い仏像スケッチを手に入れました。

たまたまNETオークションに出品されていたのです。

「関野貞 写 佛像線図」

という表題がつけられていました。

ご覧のような、仏像の線画スケッチ集です。

「関野貞 写 佛像線図」タトウ
「関野貞 写 佛像線図」がおさめられたタトウ

思いの外の安値で落札することができました。

色紙大のタトウに16葉の仏像の顔部や衣文の線画のスケッチが納められていました。
残念ながら、原図ではなくて、複写図です。

タトウに納められていた16葉の仏像線図
納められていた16葉の仏像線図

スケッチに載せられている仏像をながめてみました。

中国と日本の仏像の代表的な作例が、時代を追ってピックアップされているようです。
中国の方は、北魏から唐までの著名石窟仏がラインアップされています。
日本の仏像は、飛鳥から鎌倉時代までの時代を代表する仏像です

面相、衣文の特徴、断面のラインなどが、手書きで描写されています

「関野貞 写 佛像線図」

「関野貞 写 佛像線図」
関野貞 写 佛像線図



【関野貞の子息、克氏が抜粋複写したスケッチ資料】


「関野 貞 セキノタダス 氏 略歴」と題された経歴書が一枚添えられていました。
慶応3年(1867)生まれ、昭和10年(1935)に69歳で没しています。

添えられていた「関野 貞 セキノタダス 氏 略歴」

そこには、このように記されています。

「この『関野貞写仏像線図』は関野貞氏の研究資料〈自筆〉から、子息克氏が抜粋され、複写されたもの。
関野貞氏は終生、専門の建築以外にも、早くから関連の対象物にも注目し研究されていた一端を示す貴重な資料である。
題簽の文字は関野克氏の筆跡である。」



【近代建築史学、美術史学草創期の泰斗、「関野貞」】


「関野貞」という名前をご存じでしょうか?

古建築史に関心のある方や、法隆寺再建非再建論争をご存じの方には、大変なじみある名前だと思います。

関野貞
関野貞(1867~1935)

近代日本の建築史学の草創期に、建築様式史の体系を確立した人物として、伊東忠太と並び称される大建築史学者です。
また、美術史研究においても多大な業績を残しています。

その業績を上げるとキリがないのですが、いくつかをアットランダムに挙げると、次のようなものが知られるのではないでしょうか。

・奈良県技師として古社寺をくまなく調査、古建築の時代判定、修理を推進。 (明治29~34年)

・平城宮跡・大極殿址を発見。 (明治33年)

・「法隆寺非再建論」を初めて発表、その後、歴史的大論争に発展。 (明治38年)

・官委嘱により朝鮮古蹟調査を実施。その後大著、朝鮮古蹟図譜15冊などを刊行。 (明治42年~)

・中国山西省「天龍山石窟」を発見、その存在を世に紹介。 (大正7年)

これだけをみても、我国の建築史学、美術史学の草創期に、如何に多大な業績を残したかが、容易に想像がつきます。



【「関野貞 仏像線図」とは何者なのか?~その由来を探る】


ところで、この関野貞の手描きという「仏像線図」スケッチというのは、どういうものなのでしょうか?
よくわかりませんでした。

現物が手元に到着してから、このスケッチの由来について書かれた資料などがないかと、暇を見て、関野貞について採り上げた本などをあたってみました。

「有りました!!」

このスケッチが、何者なのかについて触れられた文章を、いくつか見つけたのです。

3つの資料に、書かれていました。
ご紹介します。



【明治末年、東京帝国大・日本美術史講義のため作られたスケッチ集】


1つ目は、「関野貞アジア踏査」という本に、次のように触れられていました。

「関野貞アジア踏査」東京大学出版会2005年刊
「関野貞アジア踏査」東京大学出版会2005年刊

「関野克旧蔵資料には、自筆の『仏像のスケッチ』16枚が残る。
南北朝、隋、唐代の仏像、飛鳥時代、奈良時代の仏像及びその細部の図で、各紙の端に『不許転載関野貞写』と記されている。

関野貞逝去時帝大の助手であった木村貞吉によれば、『仏像のスケッチ』は、『奈良県在任中のノートより東大文学部講義用として浄書されたもの』である。
関野は、明治42年度から44年度『日本美術史』、大正12年度『考古学』を帝大文科大学において講義したが、図は、『日本美術史』講義のために浄書されたのであろう。」
(「関野貞と日本美術史」大西純子執筆 「関野貞アジア踏査」東京大学出版会2005年刊所収)


私が手に入れたのは、まさに此処で触れられた「仏像のスケッチ」に間違いありません。
枚数も、ピタリ16枚でした。
そして「関野貞アジア踏査」という本の冒頭には、なんと寸分違わぬ本物のスケッチのカラー写真が掲載されていました。

「関野貞アジア踏査」に掲載されていた、関野貞「佛像線図」のカラー写真
「関野貞アジア踏査」に掲載されていた、関野貞「佛像線図」のカラー写真

入手した図は、明治末年に、関野が東京帝大の講義用に作成した、自筆のスケッチ集(複写)だったのでした。



【顔面、衣文の細部、断面描写という、特異なスケッチの訳は?】


この仏像スケッチを観ると、際立った特徴があります。

それは描かれた図が、単に仏像の姿かたちのスケッチではなくて、

「顔面部と衣文の一部分に、特化した図であること。」

「顔面側面のシルエット、衣文の断面凹凸図がスケッチされていること。」

です。

関野貞「佛像線図」①
法隆寺五重塔・謄本塑像、薬師寺金堂・薬師如来像スケッチ

関野貞「佛像線図」②
東大寺法華堂・不空羂索観音像、日光菩薩像スケッチ

関野貞「佛像線図」③
唐招提寺金堂・廬舎那仏像、新薬師寺・薬師如来像スケッチ

どうして、このようなスケッチ図が描かれたのでしょうか?
その特徴について触れた資料を、2つ見つけました。

関野逝去当時、帝大の助手であった木村貞吉が記した文です。

「茲に申し添へて置きたき事は、先生の彫刻様式に於ける研究方法の解剖的とでも申すべき一種特別なる方法であります。

其方法と申しまするものは、先生が奈良県技師として同県へ御在職中、同県下に於ける各時代の優秀なる仏像の相貌より纏衣の皺襞に至る迄、悉く精密に『スケッチ』をされ、又要所要所は断面図によりて、時代の特徴とする其刀法の剛柔・深浅等迄指示され、一目瞭然たらしめたる其研究方法の微に入り細に渉りたる事は、実に博士に依て始めて試みられたる独特の手法と称すべきであると思います。」
(「関野先生の思いで」木村貞吉・建築雑誌49輯605号1935年)


もう一つ、関野貞の子息、関野克(建築史学者)が記した文です。

「関野の彫刻様式の講義の一端をみると,奈良県技師時代のスケッチと拓本などの資料をもとにして,時代別に整理された。

これは特徴を捕らえて仏像の相貌,纏衣の皺襞に至るまでことごとく精密にスケッチし、又これらの要所要所は断面図によって時代の特徴を示すよう、図面で様式を客観化した。
これは独得の方法であって,後に支那も加えて講義のため十数枚の青写真として学生に配布している。」
(「建築の歴史学者 関野貞」関野克著・上越市立総合博物館1988年刊)

「建築の歴史学者 関野貞」関野克著
「建築の歴史学者 関野貞」関野克著


【細部の比較検証で時代様式・展開を実証、「様式観」を確立した関野貞】


これを読むと、

「こうしたスケッチは、関野が明治30年代、奈良県技師時代に描いたもの。」

「仏像の相貌・衣文の細密なスケッチ・断面図で、時代の特徴をつかむという様式研究の手法は、関野貞が初めて試みた独特な手法であった。」

と、述べられています。

ちょっと驚くのは、関野がこうした細部を検証する手法で仏像彫刻の様式研究を行っていたのが、明治時代の30年代であったということです。
この頃は、近代仏教美術史学の揺籃期ともいうべき頃です。
まだまだザックリとした感覚的な理解で、仏教美術史が論じられていた時期なのだと思います。
関野貞は、実証的に現物にあたり、緻密に細部を検証することによって様式観を確立することを試みたのでした。

関野貞は、
「時代により一貫した様式が存在すると考え、時代様式の発展、展開という様式理論、様式観を確立した人物」
と云われます。

建築史においても、美術史においても、細部を検証し、その変化から時代特有の様式を見出していくというものです。
「様式の展開」を基軸にした建築史観、美術史観、というべきものだと思います。



【関野の「法隆寺非再建論」「薬師寺金堂・薬師三尊天平新鋳論」も、その時代様式展開観に基づくもの】


関野が、明治30年代に「法隆寺非再建論」を強く主張したのも、この様式観に基づくものです。
当時、一般的には、日本書記の罹災記録を認め再建と考えられていました。

ご存じの通り、法隆寺再建非再建論争は、飛鳥時代当初建築を主張する関野貞の非再建論と、文献史学の雄、喜田貞吉の再建論とが、火花を散らすことから始まり、世紀の大論争と云われるまでにも白熱化していきます。

関野の非再建論の根底にあるものは、建築様式の展開観にありました。

法隆寺(飛鳥時代)→薬師寺・東塔(白鳳時代)→新薬師寺・唐招提寺(奈良時代)

と展開してゆく建築様式を考えると、法隆寺の建築を天智朝(690)以降の再建と見ることは、決して出来ることではなかったのだろうと思います。


仏像の制作時代の考え方も、関野の様式展開史観に基づくものです。

「仏像スケッチ図」に描かれた仏像についての、関野の展開推移考え方は、次の通りです。

法隆寺・薬師如来→法隆寺・釈迦三尊→夢殿・救世観音、法隆寺四天王→薬師寺東院堂・聖観音、橘夫人念持仏(阿弥陀)→法隆寺五重塔・塑像→薬師寺金堂・薬師三尊→東大寺法華堂・不空羂索観音

薬師寺金堂・薬師三尊は薬師寺平城京移転後の天平期の改作、講堂の薬師三尊を白鳳創鋳と論じています。

関野貞「佛像線図」~薬師寺講堂・薬師三尊像
関野貞「佛像線図」~薬師寺講堂・薬師三尊像

このような諸像の年代設定は、今にしてみれば認められないものも多いのですが、関野の様式展開観によると、
「薬師寺金堂・薬師三尊は、天平時代の制作」
というのは、揺るがすことの出来ない処だったのではないでしょうか。



【近代建築史、美術史学揺籃期の様式史研究の一端を知る
~明治中期、早くも細部比較が行われていたことに、大きな驚き】

今回、「関野貞の仏像スケッチ図」を手に入れたことをきっかけに、新しく興味深い事実を知ることができました。

関野貞という学者は、明治という時代に、いわゆる文献史学の分野とは一線を画した、実証的な様式年代観を確立した権威者であると云われています。
そして、明治30年代、奈良在任中に調査した古建築の年代比定が、極めて的確であったことは、今でも驚きを込めて語られています。

こうした関野貞の実証的な様式展開観が、決して概念的なものではなくて、この「仏像スケッチ図」にみられるように、細部の形の精密な観察とその変化の詳細な比較検証に基づいたものであることに、少々、驚きを禁じえませんでした。


たまたま手に入れた、ちょっと珍しい明治時代の「仏像スケッチ図」。

この「スケッチ図」の由来や、作成経緯をたどってゆくなかで、明治の中頃、近代建築史学も美術史学も、まだまだ緒に就いたばかりという時期、時代様式観を確立してゆく取り組みの一端を伺い知ることができました。


関野貞が、我国建築史学、美術史学揺籃期の大功労者、泰斗として語られることについて、今更ながらに、むべなるかなと納得した次第です。


新刊旧刊案内~「国宝ロストワールド」岡塚章子・金子隆一・説田晃大著 【2020.02.15】


こんな本が出版されました。


「国宝ロストワールド~写真家たちがとらえた文化財の記録」 

岡塚章子・金子隆一・説田晃大著 2019年10月 小学館刊 【112P】 1600円

国宝ロストワールド


「国宝ロストワールド」という書名を見たとき、どんな内容の本だろうと、一瞬戸惑いました。
副題に「写真家たちがとらえた文化財の記録」というリードがつけられてるのを見て、これは私の関心ある世界の本だと、すぐにわかりました。

早速、購入。
頁をパラパラとめくってみました。



【「近代文化財古写真、仏像写真の文化史」を概観できる興味深い本】


私にはなじみの古写真、仏像写真家の有名写真が、沢山目に飛び込んできました。

表紙は、工藤精華の手先が欠損している興福寺阿修羅像の明治修理前の写真です。

工藤精華撮影・明治修理前の阿修羅像写真の表紙
工藤精華撮影・明治修理前の阿修羅像写真の表紙

横山松三郎の壬申検査時の写真(明治4年)、小川一眞の近畿地方古社寺宝物調査の写真(明治21年)といった古写真や、飛鳥園・小川晴暘、土門拳、入江泰吉の仏像写真などなどが収録されています。

横山松三郎撮影、壬申検査時(明治4年)の東大寺大仏写真
横山松三郎撮影、壬申検査時(明治4年)の東大寺大仏写真の掲載ページ

小川一眞撮影、近畿地方古社寺宝物調査(明治21年)の興福寺北円堂・無著像写真
小川一眞撮影、近畿地方古社寺宝物調査(明治21年)の興福寺北円堂・無著像写真の掲載ページ


本の内容を一言でいうと、

「明治大正期の文化財古写真の歴史と意義を振り返る」
「昭和以降の著名仏像写真家たちの表現意図、魅力をたどる」

と云えるのではないでしょうか。

「近代文化財、仏像写真の文化史概観」の本といってもよいと思います。

本書の「はじめに」には、このように記されています。

「本書では、明治、大正、昭和に撮影された数ある国宝の中から、写真史を語るうえでとくに意義ある写真を選び紹介している。

その写された国宝の中には、すでに失われてしまったものや形が変わっているものもある。
撮影された写真には、どれも言葉では伝えることができない数多くの情報が詰まっている。
そして注意深く見ると、そこには撮影者の何らかの意図も写し出されていることがわかる。

写真家たちが向き合い撮影した、これらの写真を通して、国宝の新たな魅力を発見し、その数奇な運命の物語を知っていただければと思う。」
(岡塚章子氏執筆)



【33枚の古写真・著名な仏像写真を、コンパクト解説】


全部で、33枚の古写真、著名写真家の文化財・仏像写真が収録され、一枚ごとに、その写真の文化史的な意義や、写真表現の意図、魅力などのコンパクトな解説がなされています。

私のような、文化財古写真や昭和の仏像写真作家たちに興味、関心の深いものについては、なかなかに、たまらない内容の本です。

昨年10月末に刊行された本で、もっと早くご紹介しようと思っていたのですが、「今年の観仏を振り返って」の連載掲載で、手間がかかってしまって、ちょっと遅まきのご紹介になってしまいました。



【本の目次をご紹介】


本書の目次をご覧ください。

国宝ロストワールド目次(1)

国宝ロストワールド目次(2)

国宝ロストワールド目次(3)


目次をご覧いただくと、この「国宝ロストワールド」という本が、どのようなテーマ、内容の本か、おわかりいただけたらと思います。


大変マニアックなテーマの本で、率直に云うと、今時、こんな新刊書をわざわざ書き下ろして出版されることがあるのかと思って、ちょっと調べてみたら、「週刊ニッポンの国宝100」という分冊雑誌の巻末に連載掲載となっていた「写された国宝」と題するコラムのようなものを抜粋、増補して一冊の単行本に仕立てたという本だということです。
「週刊ニッポンの国宝100」は2017年9月~2018年9月にかけて小学館から全53冊で刊行されたのですが、私は中身を見たこともなく、こんな連載コラムがあったのも知りませんでした。


お読みいただくと、我国にもたらされた写真という新技術をもって、文化財がどのように記録されてきたのか、そして記録としての文化財写真から、仏像の美や魅力を表現する芸術写真へと展開していく様相が、大変よくわかります。
そうした中で、写真家たちが、どのような苦労と創意のもとに仏像を撮影してきたのかを、時代を追ってたどることができます。

「近代文化財写真史」という膨大な話のエッセンスを、100ページ余にコンパクトにまとめられた貴重な本といえると思います。

なかでも、収録された二つの解説文

「文化財撮影の歴史を切り拓いた三人の写真師の物語」(岡塚章子執筆)
「国宝と闘った写真家たち」(金子隆一執筆)

は、大変興味深く、これを読むと近代文化財写真史を判りやすく知ることができます。



【見事に凝縮された一行コメント~一言で言いつくされる絶妙フレーズ】


本の個別の内容や解説について、いちいちご紹介しているとキリがありませんので、やめておきますが、 「各項目のインデックスに添えられたリード文」 が、それぞれの古写真、写真家について一言に凝縮した、なかなか絶妙なタイトルになっています。

少しだけご紹介しておきたいと思います。

「法隆寺 夢殿」 横山松三郎 (明治5年・1872)
~史上初の写真での公式文化財記録~


「興福寺 無著菩薩立像」 小川一眞 (明治21~2年・1888~9)
~仏像の持つ精神性を捉えた歴史的名作~


「興福寺 阿修羅像」 工藤利三郎 (明治35年・1902以前)
~阿修羅修理前を知ることができる貴重な一枚~


「中宮寺 菩薩半跏像」 小川晴暘 (大正13年・1924頃)
~仏像写真に芸術性を持ち込んだ画期的な写真~

「国宝ロストワールド」小川晴暘撮影 中宮寺・菩薩半跏像掲載ページ
「国宝ロストワールド」小川晴暘撮影 中宮寺・菩薩半跏像掲載ページ


「法隆寺五重塔北面侍者像」 坂本万七 (昭和25~34年・1950~9頃)
~自然な照明で格調高い美しさを表現~

「国宝ロストワールド」坂本万七撮影 法隆寺五重塔北面侍者像掲載ページ
「国宝ロストワールド」坂本万七撮影 法隆寺五重塔北面侍者像掲載ページ


「室生寺弥勒堂釈迦如来坐像衣文」 土門拳 (昭和18年・1943頃)
~気に入った部分を切り取る“土門美学”の真骨頂~

「神護寺薬師如来像」 土門拳 (昭和40年・1965)
~土門拳が一番愛した仏像、その精神を写す~

「国宝ロストワールド」土門拳撮影 神護寺薬師・室生寺釈迦像掲載ページ
「国宝ロストワールド」土門拳撮影 神護寺薬師・室生寺釈迦像掲載ページ


「西ノ京の秋」 入江泰吉 (昭和33年・1958)
~国宝を大和路の麗しい風景の一部として捉える~


それぞれのリード文の「絶妙フレーズ」には、感心してしまいました。

近代文化財、仏像写真の歴史や魅力にちょっとご関心のある方には、一読必携の一書として、是非お薦めです。



【本書テーマに関連のHP記事、ご参考情報のご紹介】


近代文化財写真の歴史や、仏像写真作家については、日々是古仏愛好HP「埃まみれの書棚から」のシリーズで、ご紹介したことがあります。

「奈良の仏像写真家たちと、その先駆者(その1~10)」
「古佛に魅入られた写真作家達の本~その足跡や生涯~(その1~3)」

ご参考に、ご覧いただければと思います。


ついでに、こんな参考情報も・・・・

本書で採り上げられた明治の写真師、横山松三郎、小川一眞、工藤利三郎の撮影古写真は、次のサイトで見ることができます。

東京国立博物館研究情報アーカイブス  古写真データベース  撮影者別データベース

全部で一万件ほどの膨大な写真資料を、いつでもNETで閲覧することができます
ほとんど知られていないのではと思うのですが、凄い文化財古写真のデータベースです。

古写真データベース収録 横山松三郎撮影 法隆寺金堂・百済観音(明治4年)
古写真データベース収録 横山松三郎撮影 法隆寺金堂・百済観音(明治4年)

古写真データベース収録 小川一眞撮影 興福寺旧金堂に集められた諸仏写真(明治21年)
古写真データベース収録 小川一眞撮影 興福寺旧金堂に集められた諸仏写真(明治21年)

工藤精華撮影 興福寺・十大弟子(明治期)
古写真データベース収録 工藤精華撮影 興福寺・十大弟子(明治期)


このテーマにもう一段ご興味があり、深く知りたいと思われる方には、次の本がおすすめです。

「写された国宝~日本における文化財写真の系譜」岡塚章子編著 
2000年11月 東京都写真美術館刊 【173P】


「写された国宝」

「写された国宝」目次
「写された国宝」  目次



本書は、同名の展覧会図録として発刊されたものですが、大変充実した内容になっています。

新刊の「国宝ロストワールド」の底本的な本だと思います。


トピックス~平安時代の双身毘沙門天立像が新発見~奈良博「毘沙門天展」で展示 【2020.02.06】



「平安時代の双身毘沙門天立像、多治見で見つかる」

という仏像発見ニュースが、飛び込んできました。


【初めて耳にした「双身毘沙門天」という名前】


「双身毘沙門天像?」

そんな名前、私は聞いたこともありません。

「双身像」と云えば、聖天と呼ばれる歓喜天ぐらいしか知りません。

それはそれとして、平安時代の古像発見となれば、大変興味深いニュースです。



【平安時代の双身毘沙門天新発見の報道記事~岐阜多治見の長福寺】


この新発見を報じたのは、1月31日付の「中日新聞WEBニュース」です。

次のような記事で報じられました。

「12世紀ごろの平安時代に作られたとみられる銅製の双身毘沙門天立像が、岐阜県多治見市の長福寺で見つかった。
2体の毘沙門天が背中合わせにくっついており、銅製の双身毘沙門天立像の発見は全国で初めてとみられる。

多治見市の長福寺で発見された銅造・双身毘沙門天像(平安)
多治見市の長福寺で発見された銅造・双身毘沙門天像(平安)

奈良国立博物館で2月4日から開催される特別展「毘沙門天-北方鎮護のカミ-」展で展示される。

 仏像は高さ9.9センチで、手で握れるほどの小ささ。かぶとと甲冑を身に着け、片方の像は両手を胸の辺りで合掌し、反対側の像は指先を下にして合掌している。
指先や顔の一部には穴が開いており、もともとあった武器の一種の輪宝や牙が失われたとみられる。

 住職の良盛(ややもり)快正さん(57)によると、5年前に蔵の掃除をしていたところ、古文書などの書類の中に小さな木製の厨子があり、中に古い仏像を見つけた。
来歴を示す文書などはなく、仏像にも作者がだれかを示すものは刻まれていなかった。

数年前に奈良大などに金属組成の分析を依頼したところ、体の部位によって銅が67~86%を占め、他にスズやマンガン、鉄などが混じっていたことが分かった。
しかし江戸時代以降の銅像に含まれる亜鉛が検出されず、それ以前の制作とみられるという結果が出たことから、昨年になって京都国立博物館に正式に調査を依頼した。

仏像を見た同館の浅湫毅研究員は、腰回りの肉付きが良く、豊かな体形であることに着目。
「12世紀の平安時代の特徴的な作りで、史料価値は高い」
と話す。
特別展の企画を担当する岩井共二・奈良国立博物館学芸部情報サービス室長は
「木像の双身毘沙門天立像で存在が分かっているのは5、6体のみで、銅像は全国初。制作時期も最古級と考えられる」
と断言する。

長福寺は1333年ごろに創建された古刹。
武運長久を祈る寺として、美濃を治めた戦国武将、斎藤道三の息子か弟とされる長井道利が祈祷に訪れたという記録が残る。
奈良国立博物館での展示は3月22日まで。」

以上の通りです。


「平安時代の金銅仏像の新発見」

「大変珍しい双身毘沙門天像で、最古級」

といわれると、何やら興味が沸いてきました。



【奈良博「毘沙門天展」では、新発見像ほか、3躯の双身毘沙門天像が出展】


奈良博で開催されている「毘沙門天~北方鎮護のカミ展」に出展されているということですから、「毘沙門天展」に出かける愉しみが、一つ増えました。

「毘沙門天展」の出展目録を見ると、「双身毘沙門天像」という章が設けられて、3躯も出展されています。

奈良博展示・3体の双身毘沙門天像リスト

奈良博の「展覧会ページ」を確認してみると、浄瑠璃寺像と東大寺像の画像と解説が掲載されていました。


〈浄瑠璃寺・馬頭観音像体内から発見された双身毘沙門天像~平安古像〉


浄瑠璃寺・双身毘沙門天像の解説のエッセンスは、次のようかと思います。

本像は、仁治2年(1241)造立の馬頭観音立像(重文)の修理時に像内から発見された。
(明治44年・1911の美術院による修理の時に発見されました。)

浄瑠璃寺・双身毘沙門天像(平安・重文)
浄瑠璃寺・双身毘沙門天像(平安・重文)

像内に双身毘沙門天像が納められていた浄瑠璃寺・馬頭観音像(鎌倉・重文)
像内に双身毘沙門天像が納められていた浄瑠璃寺・馬頭観音像(鎌倉・重文)

腹前上向き合掌と股間下向き合掌の2体の武装形合体像。
この像容は、 双身毘沙門天を本尊とする双身法について記す、阿娑縛抄(巻第137)に則っている。
従来、馬頭観音と同時期制作と考えられてきたが、体型肉取りなどの作風から平安時代後期(12C)に遡ると思われる。


〈後鳥羽院の幕府調伏像か?~近年発見の東大寺・勝敵毘沙門天像〉


東大寺・勝敵毘沙門天立像の解説のエッセンスは、次のようかと思います。

宝塔と宝棒を執る形と羂索と戟を執る形の前後二体の武装天部形。

東大寺・勝敵毘沙門天立像
東大寺・勝敵毘沙門天立像(鎌倉)

像容は、京都・観智院本「仏菩薩等図像」中の図像と一致し「勝敵毘沙門天」の添書きがあることから尊名(勝敵毘沙門天像)が判明する。

制作年代は、作風などから鎌倉時代とみられる。
文献考証によると、後鳥羽院周辺が幕府調伏祈願の「勝軍地蔵像、勝敵毘沙門天像」を造立したことが推定される。
本像も、そうした願意の秘密修法の本尊となる尊像であろう。



【「双身毘沙門天」を“にわか勉強”~あまり見当たらなかった資料】


初めて名前を耳にした「双身毘沙門天像」。
ちょっと関心が沸いてきました。

「仏像図典」(佐和隆研著)をみても、「双身毘沙門天」という尊像名は、掲載されていません。

「双身毘沙門天像」について採り上げられた資料がないかどうか、ちょっとあたってみたのですが、私が調べた限りでは、次の4つの資料だけしか見つかりませんでした。

「金銅双身毘沙門天像立像」  (村田靖子) 大和文華 第94号 1995.09
「東アジアの金銅仏」展図録  (村田靖子解説) 大和文華館 1999.10刊
「双身毘沙門天小像の諸相」  (村田靖子) 「密教図像」第28号 2003.12刊所収
「東大寺・木造双身毘沙門天像」  (岩田茂樹) MUSEUM第665号 2016.12刊所収

全くの、にわか勉強で、いい加減なのですが、「双身毘沙門天像」というのは、次のようなもののようです。



【密教の秘法にかかわる像、数少ない現存作例】


密教による特殊な毘沙門天像に、双身四臂の像があり、最澄将来の台蜜の秘法によるとされるのだそうです。
この双身毘沙門天像は、密教の最神秘の手法である浴油供に用いるため、小像で秘仏であることが多く、また遺例もわずかしか知られていなかったとのことです。

村田靖子氏は、このように記しています。

「僅かに京都浄瑠璃寺と大阪・八尾市の大聖将軍寺の像が知られていた。
奈良・大和文華館にも古くから金銅像があり、近年数点の新たな像の発見が筆者に伝えられ、所蔵者のご好意により調査の機会を得て、国内の20体近くの所在が明らかになった。」
(「双身毘沙門天小像の諸相」2003年)

村田氏の調査により新出像が紹介される20年ぐらい前までは、ほんの数点しか双身毘沙門天像の存在が知られていなかったということでしょうか。
大変、珍しい尊像ということのようです。

今回展覧会出展の、東大寺・木造双身毘沙門天像の存在が明らかになったのも、近年のことだそうです。
2006年、奈良博開催「重源展」の準備調査の時に、東大寺勧進所内の経庫に保管されていたのが発見されたとのことです。



【二つの系統の図像がある双身毘沙門天~双身に造られる訳は?】


この新発見の勝敵毘沙門天像と呼ばれるものと、それまでに知られていた双身毘沙門天像は、図像を異にする別系統のものでした。

両口辺から牙が長く下に出るという特異なスタイルは変わらないのですが、
浄瑠璃寺像に代表される既出作例は、正面背面像共に合掌し、一方は下向き(独鈷を執る)、一方は上向き(金輪を執る)像容です。
勝敵毘沙門天像のほうは、宝塔と宝棒を執る形と、羂索と戟を執る形の二体合体スタイルになっています。

どうして、このような双身の毘沙門天という特異な像容が造られたのでしょうか。

双身の歓喜天像の場合は、男女交合によって妙成就が達成されるという密教思想によるもののようです。
双身の毘沙門天についても、一方を毘沙門天、もう一方を毘沙門の妃とする吉祥天に通じるものとし、両天が密教に取り入れられて、より強い福徳、敬愛神の性格を表すために合体されたとする見方があるようです。
また、それとは別に、この2体は半天婆羅門と多聞天であり、多門天は法性を、半天婆羅門は無明を表し、無明と法性は一対の法であるから背中合わせに立って離れないという違う見方もあるとのことです。

つまみ食いで要約してみたのですが、こうした尊容の意味や図像学的なものは、全く疎くて、また難しすぎて何が何だかわかりません。

とにもかくにも、密教の手法に絡んだ、大変珍しい尊容の像だということには間違ないということは理解できました。



【双身毘沙門天像の現存作例は?
~平安期の最古例は、木像:浄瑠璃寺、銅像:新発見長福寺】

もう一つ、双身毘沙門天像の具体的作例についてです。

中日新聞記事には、

「木像の双身毘沙門天立像で存在が分かっているのは5、6体のみで、銅像は全国初。
制作時期も最古級と考えられる」

との、岩井共二氏のコメントが載せられていました。

一方で、村田靖子氏の「金銅双身毘沙門天像立像」「双身毘沙門天小像の諸相」を読むと、20体近くの所在が明らかになったとし、具体作例としては、14作例が紹介されていました。

その材質の内訳は、木製8件、銅製5件、銀製1件となっていました。
材質と制作年代の件数はご覧の通りです。

双身毘沙門天像作例の件数リスト

村田氏紹介では、銅製像が5件示されていて、
「銅像の双身毘沙門天像は、今回発見の岐阜・長福寺像が、全国初」
という新聞報道コメントとは、ちょっと見方が異なるようですが、私には、難しいことはわかりません。

NETで検索をしてみると、以上の他にも、双身毘沙門天像をお祀りする寺院が、もっとあるようなのですが、そのあたりの話になると、ますますよくわかりません。


村田氏の紹介による、鎌倉時代以前とみられる古像は、次の通りです。
(東大寺・勝敵毘沙門天像(2006年発見)は、未発見当時の話です。)

木製は、
京都府・浄瑠璃寺像(平安~鎌倉)、大阪府八尾市・大聖将軍寺像(鎌倉~室町)

浄瑠璃寺・双身毘沙門天像(平安・重文)八尾市 大聖将軍寺・双身毘沙門天像(鎌倉~室町)
(左)浄瑠璃寺・双身毘沙門天像、(右)八尾市 大聖将軍寺・双身毘沙門天像

銅製は、
岡山県総社市教育委員会像(平安)、大和文華館像(鎌倉~南北朝)

双身毘沙門天とみられる岡山県総社市教育委員会所蔵像(平安)大和文華館所蔵・双身毘沙門天像(鎌倉~南北朝)
(左)双身毘沙門天とみられる岡山県総社市教育委員会所蔵像、(右)大和文華館所蔵・双身毘沙門天像

以上の通りです。

平安期の銅像遺例とされる、岡山県総社市教育委員会の像は、1994年に総社市桜井古墳から発掘されたそうです。
現状は双身ではなく、合掌する手を上に向ける一体のみが円座に立っているのですが、兜と合掌する手などが双身毘沙門天諸像の尊容と類似することから、本像は双身毘沙門天の一方であると判断されるということだそうです。

(なお、「東アジアの金銅仏」展図録解説では、銅製個人蔵像を平安時代とされていたのですが、「双身毘沙門天小像の諸相」では江戸~明治時代の作としておくとされていて、見方が変わっているようです)



【にわか勉強では、なんだかよく判らなかった「双身毘沙門天像」】


「双身毘沙門天像 新発見!」のニュースに反応して、見たことも聞いたこともない「双身毘沙門天像」について、超々にわか勉強をしてみたのですが、結局、何が何だかという感じになってしまいました。

ご覧いただいた皆さんも、「よくわからん」という実感だと思います。

私が理解できたのは、

「双身毘沙門天像」は、密教の秘法儀式にかかわる秘像であること。

勝敵毘沙門天とも称されるように、敵の調伏祈願の尊像として、造立、祈祷されることもあったこと。

遺作例は数少なく、平安~鎌倉期の現存作例は、稀であること。

といったことぐらいでしょうか。


いずれにせよ、「毘沙門天展」で、この興味深い「双身毘沙門天像」を3躯も実見できるというのは、大変愉しみです。

また、展覧会図録には、どのような解説がされているのでしょうか?
これまた、興味津々です。


古仏探訪~2019年・今年の観仏を振り返って 〈その5〉 11~12月 【2020.02.01】


【11月】


【やっとのことで拝観叶った、興福院の阿弥陀三尊像】


長らく一度拝したくて叶わなかった、興福院の阿弥陀三尊像を拝することができました。
11月の数日、期間限定で拝観できることになったのです。

観仏リスト01(興福院)

興福院・阿弥陀三尊像は、数少ない奈良時代の木心乾漆像の貴重な作例です。
像高は90㎝近くある大型像の優作なのです。

興福院は「こんぶいん」と訓みます。
奈良市内、佐保路にあるお寺なのですが、この阿弥陀三尊像、なかなか拝観が叶いません。
厳重な秘仏という訳ではなく、その昔は、いつでも拝観できたようなのですが、長らく拝観は謝絶となっているのです。
私も、何度か拝観のお願いの連絡をしたことがあるのですが、叶いませんでした。
私同様、一度はこの仏像を拝したいと思われていた方は、結構いらっしゃるのではないかと思います。


〈11月、数日限りの特別公開~急遽、奈良へ駆け付け〉


それが令和改元の記念ということで、11月6~8日と22~24日の6日間、一般公開されることになったのです。

この情報を知ったとき、
「このチャンスを逃すわけにはいかない。何としても、駆け付けなければ!」
と、急遽、奈良へ出かけることにしました。

公開初日の11月6日に、興福院を訪ねました。
佐保路から興福院の石碑を北向きに曲がり、閑静な細い参道をしばらく歩くと、興福院の山門が見えてきます。

興福院への参道

興福院・山門
興福院への参道と山門

待望の一般公開であったのでしょう。
平日であったのにもかかわらず、結構多くの方が拝観に訪れられていました。

興福院 本尊御開帳の掲示板
山門前の興福院 本尊御開帳の掲示板


〈堂々たる天平の木心乾漆像~豊満で弾力感ある肉身表現が魅力的〉


目指す阿弥陀三尊像は、本堂に祀られています。

興福院・本堂
興福院・本堂

内陣の須弥壇上に安置されていて、拝観は外陣からということで数メートルの距離はありましたが、堂内はたいへん明るく、はっきりとその姿を拝することができました。
期待通りの、堂々たる三尊像です。

興福院・阿弥陀三尊像

興福院・阿弥陀三尊像...興福院・阿弥陀三尊像
興福院・阿弥陀三尊像(奈良・重文)

いかにも天平後期、ちょっと爛熟した写実的造形の仏像です。
三尊とも江戸時代といわれる金箔、金泥彩の塗り重ねによって、像容がやや損じているのがちょっと残念です。
三尊共に、面部に後世の手が加えられたと思われるところあるそうです。

とはいっても、肉身の造形は、天平彫刻らしくなかなか魅力的です。
斜めの方向から、双眼鏡で阿弥陀像の体躯をじっくり観ると、胸から腹にかけての厚みのある肉付けはまさに天平風、豊満な弾力感を強く感じ、惹きつけられます。

この阿弥陀三尊像は、桃山時代に興福院が再興されたときにその本尊に迎えられたらしく、それ以前の伝来は明らかではありません。
X線撮影などによると、一木式の木心の乾漆像だということです。

ついに、念願の興福院・阿弥陀三尊像を拝することが叶いました。
この特別公開を企画実現された事務局の方に感謝しつつ、まだまだ後ろ髪を引かれる様な気持ちで、興福院を後にしました。



【知足院・地蔵菩薩像の特別公開に、東大寺ミュージアムへ】



観仏リスト02(知足院)

興福院の後は、東大寺・知足院の地蔵菩薩像が東大寺ミュージアムで特別公開されているので、観に行きました。

知足院の地蔵菩薩像は、鎌倉時代の美しい像で重要文化財に指定されています。
この地蔵像、年に一日、地蔵会(7/24)の日に限り、開扉拝観できるだけで、普段は非公開で拝することができません。
2年前(2017)、奈良博「源信展」で観て以来です。

東大寺ミュージアムでは、ガラス越しですが眼近に観ることができました。
衣の截金文様が華麗で、理知的な表情が印象的な地蔵像でした。



【6年ぶりの興福寺南北円堂、同時特別公開へ】


ついでに、興福寺に寄りました。
興福寺の南円堂と北円堂が同時特別公開されていました。
南北円堂の同時特別公開は、6年ぶりとなるそうです。

興福寺 南北円堂同時特別開帳チラシ

南円堂の康慶作諸像、北円堂の運慶作諸像をゆっくりと拝し、それぞれの傑作像を、見比べてみることができました。
寺外に出て、展覧会出展されたことのない、南円堂・不空羂索像、北円堂・弥勒像の2躯に、とりわけフォーカスして拝しました。

北円堂の弥勒像は、運慶作品の中でも、落ち着いた「玄人好みの仏像」とよく言われます。
私は、なかなか「玄人好み」には成り切れないようです。




1泊2日で、
三重県博「三重の仏像展」、大阪市美「仏像 中国・日本展」、岡山・理性院の秘仏薬師像御開帳、大津歴博「大津南部の仏像」
を、一気に回りました。

結構、遠距離ルートで、アグレッシブなスケジュールです。



【三重県博で開催の「三重の仏像展」へ】


まずは三重県総合博物館で開催された「三重の仏像~白鳳仏から円空まで」展です。

三重の仏像展チラシ

三重県総合博物館の開館5周年を記念した企画展だそうです。
三重県総合博物館・MieMuには、初めて行ったのですが、立派な大きな博物館でビックリしました。

三重県総合博物館
三重県総合博物館


〈三重県の主だった仏像総結集の展覧会~もう当分は望めない、これだけの仏像展〉


「三重の仏像~白鳳仏から円空まで」展は、

開催趣旨に
「三重県総合博物館で初めての、県内では16年ぶりの本格的な仏像の展覧会です。」
と、記されている通り、三重県内の主だった仏像が結集すると云って良い、凄い仏像展です。

平安・鎌倉期の仏像を中心に、約70件の仏像が一堂に展示されました。

三重の仏像展チラシ
三重の仏像展チラシ

三重県の仏像は、結構レベルの高い優作が多いのですが、主だった仏像のほとんどすべてが出展されているといって過言ではありません。
三重の主要仏像のなかで、出展されなかったのは、朝田寺・地蔵菩薩像、観菩提寺・十一面観音像、近長谷寺・十一面観音像ぐらいではないでしょうか。
いずれも、出展が困難なのは納得という仏像です。

よくぞこれほどの仏像展が、実現されたものです。
関係者の方のご尽力は大変なことであったことでしょう。
もう当分、これだけの「三重の仏像展」は、開催されることは無いだろうと思います。

私の好きな平安前中期の仏像だけでも、

慈恩寺・阿弥陀如来像、常福寺・千手観音像、瀬古区・十一面観音像、普賢寺・普賢菩薩像、伊奈富神社・男神像、光善寺・薬師三尊像、松阪薬師寺・薬師如来像、西盛寺・薬師如来像

などなど、見どころ十分の優作が目白押しでした。

いちいちふれだすと、もうキリがありませんので、やめておきます。


〈大注目は、新発見の快慶仏 2体初公開~安楽寺・阿弥陀如来像と地蔵菩薩像〉


この展覧会のもう一つの大注目は、チラシなどに

「新発見の快慶仏 2体初公開!」

とのキャッチコピーがなされていることでした。

新発見・快慶仏の2体とは、松阪市にある「安楽寺の阿弥陀如来像、地蔵菩薩像」のことです。

安楽寺・阿弥陀如来像~快慶作.安楽寺・地蔵菩薩像
(左)安楽寺・阿弥陀如来像、(右)地蔵菩薩像


〈阿弥陀如来像は、2009年新発見、足ホゾに快慶名在銘〉


安楽寺・阿弥陀如来立像の方は、2009年に発見紹介された像です。

2017年4月に奈良国立博物館で開催された「快慶展」には出展されなかったのですが、図録に、展覧会未出陳快慶作品として紹介されました。
図録には、像容写真と「巧匠法眼快慶」と判ぜられる足ホゾ墨書名写真が掲載され、新出の快慶作品として知られることとなりました。
展覧会に出展されるのは、今回が初めてです。


〈存在を全く知らなかった、同じ安楽寺の地蔵菩薩像〉


同じ安楽寺・地蔵菩薩像も快慶作品だということですが、私は、この地蔵像のことを全く知りませんでした。
快慶作とする根拠等が、どのように解説されているのか、興味津々でした。

2体の快慶作という仏像は、並んで展示されていました。
どちらも、流石に快慶作といわれるのもなるほどという、繊細精緻で整った造形です。

私には、仏像の形姿から快慶作と見極めることができる眼力など無いのですが、図録の解説によれば、

「阿弥陀如来像は、足ホゾの快慶銘から」
「地蔵菩薩像は、作風から」

快慶作品とされているようです。


〈地蔵菩薩像は、2017年に発見紹介~作風から快慶作との判断〉


地蔵像の方は、墨書銘など発見されていませんので、作風だけから快慶作品と断定するのは、なかなか難しいように思うのですが、展覧会図録解説では、

「本像には銘文等は確認されないが、作風から判断して鎌倉時代、それも 快慶の作と判断して間違いない。」

と述べられていました。

この地蔵像は、2017年に新たに発見紹介されたものです。

阿弥陀如来像、地蔵菩薩像、両像の発見紹介者である、藤田直信氏の執筆論考では、地蔵菩薩像について、藤田美術館蔵の快慶作・地蔵菩薩像の作風と近似することなどから、

「作風から判断して、快慶自身もしくは快慶が構えた工房で制作されたとみて問題なかろう。」(「松阪市安楽寺とその仏像」三重の仏像展図録所載論考)
「面貌表現にやや違和感を覚えるものの、・・・・・・作者は快慶もしくはその周辺人物と比定したい。」(「安楽寺木造地蔵菩薩立像について」三重の古文化102号)

と記されています。

図録解説とは、微妙にニュアンスが違うようです。

なお、この地蔵像は台座墨書から奈良の眉間寺旧蔵の仏像であったことがわかるそうです。
眉間寺は、明治の神仏分離、廃仏毀釈で、廃寺となり跡形もなくなった大寺です。
快慶作の仏像があっても何の不思議もない由緒の寺です。


〈「錐点」の痕跡で知られる成就寺・大日如来像も出展〉


もう一つだけ、展覧会で目を惹いた仏像にふれておきます。
錐点の痕が沢山みられる像として知られる、成就寺・大日如来像(平安後期・県指定)が出展されていました。

成就寺・大日如来像~面部に多数の錐点痕.成就寺・大日如来像の錐点痕の図(山崎隆之著「仏像の秘密を読む」掲載図)
成就寺・大日如来像と面部の錐点痕の図(山崎隆之著「仏像の秘密を読む」掲載図)

面部のおよそ20か所にも錐点の痕が確認されるそうです。
双眼鏡で錐点痕を一生懸命に探したのですが、私には、その痕がハッキリとはわかりませんでした。
仏像制作技法としての「錐点」と成就寺・大日如来像については、観仏日々帖「京都展覧会巡りで目を惹いた仏像 ③浄瑠璃寺・大日如来像」ふれさせていただきましたので、ご覧いただければと思います。


大満足の「三重の仏像展」でした。
ほんの少し残念だったのは、照明がちょっと仏像向きではなかったこと、図録の掲載写真がもう少し鮮明シャープだったらよかったなということでした。



【三重から大阪へ~大阪市美開催の「仏像 中国・日本」展へ】


三重から、近鉄で大阪へ。
次は、大阪市立美術館で開催の「仏像 中国・日本」展です。

「仏像 中国・日本」展チラシ

「中国彫刻2000年と日本・北魏仏から遣唐使そしてマリア観音へ」というサブタイトルで、中国歴代の仏像に流れを、日本の視点から読み解くという展覧会です。
中国の仏像の歴史をベースに、これに対応する日本の仏像をたどるという、これまであまりなかった切り口の興味深い展覧会です。
中国初期から清時代までの仏像の特徴、歴史を観ながら、これに関連する日本の仏像を同一空間に並べる比較し確認するという展示スタイルになっていました。
中国の古代仏像は、館蔵の山口コレクションの優品が展示されていました。

注目仏像についてふれていくと、これまたキリがないのでやめておきます。


〈今更ながらに実感~中国製檀像の精緻、硬質感ある彫技〉


印象的だったのは、中国製の檀像の彫技が、圧倒的に精緻で硬質感があることです。
堺市博蔵・観音菩薩像(隋代)、山口神福寺・十一面観音像(唐代)の2躯の中国製檀像が展示されていましたが、胸飾や瓔珞の彫技の精緻硬質感のすごさは、日本製の檀像彫刻と比べて全然違うなと感じました。

今更ながらの当たり前の感想ですが、再々認識したという処でしょうか。


〈近年、小浜市の浜辺に漂着した、不思議な「烏将軍」像も出展〉


もう一つ、大変興味深かったのは、平成2年(1990)に小浜市の浜辺に打ち上げられた漂着仏が展示されていたことです。
元~明代の迦楼羅王像(現在、若狭歴史博物館蔵)で、不思議なことに赤い布に包まれて浜に漂着したのだそうです。

小浜市への漂着仏~迦楼羅王像
小浜市への漂着仏~迦楼羅王像(烏将軍と記される)

像容は迦楼羅像ですが、台座には「烏将軍」と記されています。
中国から漂流したものとは考えにくく、中国船に守護神として祀られていたものが、何らかの要因で、日本近海で落下し流れ着いたのかもしれないということです。


この日は、姫路で泊まりました。
夜は、姫路おでんの人気店「酒饌亭 灘菊」で。

「酒饌亭 灘菊」
「酒饌亭 灘菊」

蔵元・灘菊酒造の直営店で、安くて美味い、にぎやかな居酒屋でした。
調子よく飲んでしまいました。
明日の理性院・御開帳に向けて、愉しく盛り上がりました。



【30年に一度の秘仏御開帳~岡山理性院の薬師如来像拝観へ】


観仏リスト03(理性院)

岡山 松本寺理性院の薬師如来像の御開帳に訪れました。
一度は拝したい平安古仏でした。

松本寺理性院は備前市吉永町にあり、本尊・薬師如来像は厳重な秘仏で、30年に一度の御開帳なのです。
今回は、平成元年以来の御開帳で、11/16~17の2日間に限り開帳されました。
平安中期、10世紀ごろの制作とみられ、県指定文化財に指定されています。

理性院は、のどかな田園風景の山裾にありました。

岡山 松本寺理性院・山門
岡山 松本寺理性院・山門

30年に一度の御開帳ということなので、多くの方が来られているのではないかと思っていたのですが、ちらりほらりと参拝の方が見える程度でした。


〈古様だけれど、穏やかで鄙なる親しみを覚える平安古仏〉


秘仏の薬師如来像は、本堂中央の厨子の中に祀られていました。

理性院・本堂

理性院・本堂内の薬師像が祀られる厨子
理性院・本堂と堂内の薬師像が祀られる厨子

厨子の真ん前まで近寄って、眼近に拝することができました。

理性院・薬師如来像(平安・県指定)
理性院・薬師如来像(平安・県指定)

一見して、なんとなく親しみを感じさせるお姿です。
形姿は古様なスタイルではあるのですが、随分穏やかで優しい雰囲気です。
また、地方色を色濃く感じます。

襟元の衣文には渦文もあり、膝前は翻波式の衣文のスタイルもあるのですが、彫りは浅目で平安前期風の名残りといった印象を受けました。
膝前は別材の一木造りで、内刳りはないそうです。

「古様を留めながらも、穏やかさが増した、平安中期以降の地方作」

というのが、私の印象です。


〈「霊木化現」表現の薬師像~背面省略なのか、化現表現なのか?〉


薬師像は厨子に祀られていて、側面背面から拝することができませんでしたが、背面の衣文表現は省略されていて、後頭部の螺髪も刻まれていないということです。

理性院・薬師如来像の背面
理性院・薬師如来像の背面
いわゆる「霊木化現」の表現のスタイルです。
お寺で頂戴した、土井通弘氏による本像の解説には、

「後頭部及び背面を彫刻しないこの表現は、薬師如来が木(神木)の中から、まさに今姿を現しつつある最後の場面と考えるのが、合理的な結論ではないでしょうか。」

と、述べられていました。

この解説のように、こうしたタイプの造形表現の仏像を「霊木化現仏」と考える見方が、近年増えているように思うのですが、

「霊木化現表現なのか?」、「正面から見えないところの背面省略表現なのか?」

なかなか悩ましいように、最近感じるようになりました。

個人的には、
「地方仏的な像には、背面などの造形表現を簡略化、省略しただけという古仏も、それなりに存在するのではないだろうか」
という気もするのですが、如何でしょうか。

内陣の奥に安置されていた増長、多門の二天像が、目を惹きました。
小像ですが、平安中期ごろに遡りそうな古様で、パワフルな造形で、ちょっと注目でした。

理性院・四天王像理性院・四天王像
平安古仏かと思われる理性院・増長多聞天像

拝観を終えると、境内で、檀家の皆さんによる温かいおうどんの御接待になりました。
美味しく頂戴し、ほっこりした気持ちで、理性院を後にしました。


理性院から車で10分もかからないところに「閑谷学校」があったので、ついでに寄ってみました。
閑谷学校は、江戸前期に岡山藩によって開かれた、日本最古の庶民のための学校で、講堂は国宝に指定されています。

閑谷学校
閑谷学校

こちらの方は流石によく知られる名所、閑散としていた理性院とは大違いで、多くの見物客で混雑していました。
この日は、紅葉時の日曜日、一番人出の多いころだったのかもしれません。



【大津歴博の「大津南部の仏像」展へ~朝は岡山、午後は大津】


この後、姫路から新快速電車に乗って、大津へ。
大津市歴史博物館で開催の「大津南部の仏像」展に行きました。

「大津南部の仏像」展チラシ

大津市歴史博物館では、折々、興味深い仏像企画展が開催されていますが、今回は「旧栗太郡の神仏」をテーマにした企画展です。
旧栗太郡というのは、大津市の瀬田川から東の地域で、現在の草津市や栗東市、守山市の一部にあたります。
40件余の仏像が出展されていました。
初見の仏像も10件近くあって、なかなか興味深い仏像展でした。


〈嬉しい撮影OKにビックリ~出展の九品寺・聖観音像〉


展覧会では、大津市九品寺の聖観音像が参考出品され、なんと写真撮影OKとなっていました。
九品寺・聖観音像は、平安中期ごろの優作で、2014年に重要文化財に指定された仏像です。

撮影OKとなっていた九品寺・聖観音像
撮影OKとなっていた九品寺・聖観音像(平安中期・重文)

最近、仏像展も写真撮影OKとするケースが、ちらほらみられるようになりました。
今年(2019年)に開催された仏像展では、東博「東寺展」で講堂帝釈天像が撮影OKとなっていましたし、和歌山県博「仏像と神像へのまなざし展」では、全展示仏像が撮影OKとなりました。
このほかにもブロガー向け写真撮影可内覧会が企画される仏像展もちらほらみられるようになりました。
画期的なことで、仏像愛好者にとっては、大変嬉しいことです。

私も、九品寺・聖観音像の、切れ長の目が印象的な美しいお顔や、見事な彫り出しの腕釧などを、しっかりとカメラに収めました。

九品寺・聖観音像九品寺・聖観音像

九品寺・聖観音像
九品寺・聖観音像の顔部と腕釧


一泊二日にしては、三重~大阪~岡山~大津と強行軍のてんこ盛り行程となってしまいました。

流石に、ちょっと疲れました。
齢を考えてスケジューリングせねばと、反省です。



【12 月】

師走、12月は観仏にはどこにも出かけなかったのですが、奈良には足を運びました。


【「平城薬師寺をめぐるシンポジウム」を聴きたくて、奈良へ】


11月30日に、奈良博で、仏教芸術学会主催による「平城薬師寺をめぐるシンポジウム」が開催されました。
まさに興味津々のテーマでしたので、思い切って泊りがけで出かけることにしたのでした。

「平城薬師寺をめぐるシンポジウム」チラシ

「平城薬師寺をめぐるシンポジウム~「伽藍を移す」ことの意味を考える」と題するシンポジウムです。
ご覧のような講演プログラムでした。

「平城薬師寺をめぐるシンポジウム」プログラム


〈やっぱり難しい金堂薬師三尊の本薬師寺移坐・天平新鋳論争
~講演の藤岡穣氏は天平新鋳派〉


約4時間、みっちり各分野からのお話を興味深く聞くことができました。
私にとっては、薬師寺金堂・薬師三尊像が

「藤原京造立、本薬師寺からの移坐なのか?平城京での天平新鋳なのか?」

という大論争問題について、どんな話が聴けるのかが、興味津々でこのシンポジウムに出かけてきたようなものでした。

藤岡穣氏による「技法・金属組成・様式からみた薬師寺像と山田寺像」という講演がありました。
藤岡氏は「天平新鋳」とみる、お立場でした。
勿論確証はないということでしたが、作風、技法、科学的(金属組成)分析の結果を総合すると、山田寺像とは相応の制作年代の差を認めて、天平新鋳と見たいというお話であったのではないかと思います。

2015年の奈良博開催の「白鳳展」では、持統朝藤原京制作・移坐が強く主張されていましたが、この大論争、これからも簡単には決着がつくという訳にはいかないようです。


夜は、奈良在住の同好の方と、愉しく一杯やりました。
居酒屋好きの世界では、よく知られる「鬼無里」です。

「鬼無里」
「鬼無里」

シンポジウムにもご一緒だったので、「素人の好き勝手な薬師寺論争」を酒の肴に、大いに盛り上がり、大いに飲んでしまいました。



【眉間寺址、奈良きたまちをブラリ散策】


翌日は、仏像はパスして、奈良のきたまち界隈を散策しました。

一度訪ねてみたいと思っていた「眉間寺址」へ行ってみました。
佐保山の聖武天皇陵、光明皇后陵のほど近くにあります。

聖武天皇陵
聖武天皇陵

伽藍址などが残されているわけではなく、今では、「眉間寺遺蹟」と刻された石碑が道路脇にポツリと据えられているだけです。

「眉間寺遺蹟」と刻された石碑
「眉間寺遺蹟」と刻された石碑

ご存じの通り、眉間寺は聖武天皇創建を伝える大寺でしたが、明治の廃仏毀釈で完全に廃寺となり、跡形もなくなってしまいました。
眉間寺伝来の仏像としては、東大寺勧進所に祀られる3躯の如来坐像(平安~鎌倉)などが知られています。
11月に「三重の仏像展」で観た、快慶作仏像発見とされた安楽寺・地蔵菩薩像も眉間寺伝来の仏像ということでした。
そんなこともあり、眉間寺址を訪ねてみたくなったということです。

そのあと、「奈良きたまち」をブラリブラリと歩いてみました。
法蓮格子の家並み、奈良女子大の記念館、きたまち交番など、「きたまち」ならではのちょっとレトロな情緒を、しばらくぶりに味わいました。

法蓮格子の家並み
法蓮格子の家並み

奈良女子大記念館
奈良女子大記念館

きたまち交番(現観光連絡所)
きたまち交番(現観光連絡所)

何もない処だと思っていた「きたまち」でしたが、シャレたお店や、喫茶店などが随分増えていて、ちょっとビックリしました。
「奈良まち」の方は、近年、様変わりでにぎやかな町になっていますが、「きたまち」もこれから同じようになっていくのでしょうか。
昔ののどかさを思い出すと、ちょっと微妙な気分でした。

お昼は、三条通の蕎麦「かえる庵」。

「かえる庵」
「かえる庵」

つまみと十割ざる蕎麦で、冷酒を一杯。
ちょっとほっこりして、帰京しました。



5回にわたって書き綴ってきた「2019年・今年の観仏を振り返って」も、やっとのことでおしまいです。

だらだら長々とした観仏記、年越しになって随分かかってしまいました。
こんな自己満足的な話に、辛抱してお付き合いいただいて、有難うございました。

一年総まくりで、こんなに長い観仏記をまとめて掲載するというのは、ちょっと考え直した方がよいのかなという気もしてきました。
書き手の方も、少々お疲れ気味です。
今年は、何回かに区切って、ご紹介することも考えてみたいと思います。

よろしくお付き合いいただけますよう、お願いいたします。