【5 月】
【毎年恒例の「新指定 国宝・重要文化財展」に、東博へ】
毎年、東京国立博物館で開催される「新指定 国宝・重要文化財展」に出かけました。

平成31年度「新指定 国宝・重要文化財展」図録
表紙写真は唐招提寺・伝獅子吼菩薩像
最近は、ゴールデンウィークといわれても、どこへ出かけるというわけでもなし、私にとっては、この展覧会がゴールデンウィーク近辺の恒例のイベントのようになってしまいました。
今年、平成31年度に展示された新指定の彫刻作品・仏像展示は、ご覧の通りです。
〈はち切れる力感、圧倒的存在感に唸ってしまった、唐招提寺・薬師像〉
会場で、圧倒的な存在感を誇っていたのは、唐招提寺の薬師如来像でした。
周囲を圧した、ものすごいパワーです。

圧倒的な存在感を誇っていた唐招提寺・薬師如来像
昔は、唐招提寺・講堂木彫群の中では、衆宝王菩薩や獅子吼菩薩像の方が、むしろお気に入りで見事な造形だという風に感じていたのですが、近年は、薬師如来像の方の造形的魅力に、強く惹かれるようになりました。
薬師像の魅力は、なんといっても、はち切れるようなボリューム感の肉体表現です。
いわゆる肥満というのではなくて、強い「力感」をみなぎらせたボリューム造形になっているところが、なんといっても凄いところだと思います。
展覧会図録の解説をみると、
「唐風が最も濃厚なのは薬師如来・伝衆宝王菩薩で、特に薬師の出来栄えが優れ、量感に富んだ体躯や、肉付けを強調しつつ流麗に集散する衣文など、他を圧する迫力を示す。」
と、記されていました。
今更ながらに、納得!という処です。
実は、この薬師像や、衆宝王、獅子吼像、
「あれ、まだ国宝になっていなかったの?」
という意外感の方が結構ありました。
そういえば、まだ重要文化財指定だったのです。
〈「重文5件を統合して国宝1件」となった唐招提寺・木彫群
~評価された、我国木彫像の歴史の起点的意義〉
今回の国宝指定は、それぞれ個別に重文指定されていた、
薬師如来、伝衆宝王菩薩、伝獅子吼菩薩、伝大自在王菩薩、二天王
の各像6躯5件を統合して、国宝1件として指定されました。

国宝に指定された唐招提寺木彫群6躯
「なるほど、こういう国宝指定方法があったんだ。」
と、感心してしまいました。
確かに、一件ずつ個別に国宝指定ということになると、6躯全部が国宝指定というのは、ちょっと難しい感もします。
文化庁の国宝指定の答申解説には、このように記されていました。
「唐招提寺木彫群として知られる木彫像。
・・・・・
天平勝宝五年(754)に唐僧鑑真に随行して来朝した中国工人が直接または間接的に製作に関与している可能性が高い。
日本の木彫像の長い歴史の起点となる作例と評価される。」
唐招提寺木彫群の、美術史上の重要性や造形的魅力を鑑みると、国宝指定は当然という処ですが、なかなかの知恵を絞った一括国宝指定だなと、納得した次第です。
〈「京博、仏像展示の顔」安祥寺・五智如来像も、ついに国宝に〉
国宝指定となった安祥寺・五智如来像は、中尊・大日如来像他の3躯が出展されていました。
並んで展示されていた、唐招提寺・薬師像、衆宝王菩薩像と見比べてしまうと、造形の魅力としては、少しばかり見劣りしてしまうように感じたのが本音の処ですが、長きにわたって「京都国立博物館の仏像展示の顔」となっている、造立来歴が明らかな平安前期密教彫刻の堂々たる作例であることには間違いありません。
京博で、幾度となくその姿を見たなじみの仏像であっただけに、
「ついに、国宝指定になったのか。」
という感慨が、じんわりとよぎりました。
〈不思議な二重構造の、新薬師寺 おたま地蔵・景清地蔵
~「生身」と「師、尊崇」への想い、信仰に感慨を覚える〉
重要文化財新指定の仏像のなかで、私の目を惹いたのは、新薬師寺の地蔵菩薩像でした。
この地蔵像、裸形の像が、貼り付けるように作られた木製の着衣で覆われていて、一見は、普通の地蔵菩薩像の姿をしていたという、なんとも不思議仏像なのです。
通称、景清地蔵、おたま地蔵と呼ばれています。
この地蔵像は、新薬師寺の香薬師堂に安置されていて、その昔、一度拝したことがあるようなないような、あいまいな記憶しか残っていません。
しっかりとその姿を拝するのは、今回が初めてとなりました。
現在は、
「首から下だけの裸形の像、通称・おたま地蔵と、着衣の地蔵像、通称・景清地蔵」
の2体に分離されていて、今回も、裸形、着衣の2像が展示されていました。
その姿を観ると、一寸生々しすぎて、ぞっとしないでもないのですが、このような姿に作られたいきさつには、興味深い物語があるのです。
その話を、一寸だけご紹介したいと思います。
この地蔵像は、古来、平家物語の登場人物、悪七兵衛景清ゆかりの像との伝承があって、「景清地蔵」という名で知られていました。
1984年に、本像を東京藝大で修理修復することになり、像を解体したところ、超ビックリの発見となりました。
着衣が本当に衣を着せるように貼り付けてあり、その中から、裸の姿の仏像が出現したのです。
裸形像と着衣との二重構造になっていたのです。
像胎内から造立願文も見つかり、そこには、鎌倉時代、興福寺僧・實尊が亡くなり、嘉禎年間(1235~38)にその弟子・尊遍が師を慕い菩提を弔うために、裸形像を造立した旨が記されていました。
尊遍は、この裸形像に本物の衣を着せて、師・實尊が生きているがごとくに、日々、拝していたようなのです。
裸形像が着衣像に改変されたのは、13世紀後半のようです。
何故、そのような改変が行われたのでしょうか?
それは、尊遍が晩年となり、先々、師・實尊を弔う裸形像に衣を着せて守ることが難しくなり、自らが死んで供奉するものがいなくなることを案じて、永久保存可能な着衣像に改変したからではないかという想像がされています。
この二重構造の事実が発見された際、お寺の方で、
「裸形像を独立させ、信仰の対象としたい。」
という希望が出され、着衣像と裸形像との2体に分離されることになりました。
その後は、着衣像は「景清地蔵」、裸形像は「おたま地蔵」と称され、祀られるようになりました。
裸形像を「おたま地蔵」と呼ぶのは、その股間にまるまるとした蓮の花のつぼみを象った「おたま」をつけていることに因むものです。
こうした物語に思いを致しながら、この地蔵像を観ていると、いわゆる「生身」への信仰と、「師弟の尊崇、信愛」への想いが、強く籠められた像であることに、感慨を覚えるものがありました。
下旬には、妻と一泊で京都へ出かけました。
初日は、二つの展覧会へ。
龍谷ミュージアムの「因幡堂 平等寺展」と、京博の「一遍聖絵と時宗の名宝展」です。
【龍谷ミュージアムで開催の「因幡堂 平等寺展」へ】
〈因幡の国から飛来したという、二つの薬師像が一堂に
~京都平等寺・薬師と岐阜延算寺・薬師〉
龍谷ミュージアムの「因幡堂 平等寺展」の最大の注目は、因幡の国から飛来したと伝える、2体の薬師如来像が、同時に展示されることです。
京都因幡堂の薬師如来像と、岐阜延算寺の薬師如来像です。
展覧会の副題にも「京に飛んできたお薬師さん」という副題がつけられています。
因幡堂平等寺・薬師如来像
因幡堂平等寺・薬師如来像は、因幡堂縁起によると、
「長徳3年(997)、因幡国国司・橘行平が任終わって帰洛の途中、急病にかかり回復祈願した処、因幡賀留津(いなばかるつ)の海中の浮木を供養せよとの夢告があり、探し出すと薬師如来像であり仮堂に安置した。
長保5年(1003年)、橘行平屋敷の戸を叩くものがあり、それは因幡からはるばる虚空を飛来してきた薬師像であった。
行平は高辻烏丸の屋敷に薬師像を祀ったのが、因幡薬師平等寺の起源である。」
と伝えられています。
現存薬師像は、この縁起の記す通りの長保5年(1003年)頃の制作とみられています。

岐阜延算寺・薬師如来像
一方、延算寺・薬師如来像は、
「延暦24年(805)に、最澄が唐より帰朝し、西国から上洛の途中、因幡国岩井郡岩井山の麓で一木をもって薬師尊像二体を彫刻し、一体をその地に留め、一体を護持して上洛し、比叡山の本尊とした。
因幡国にあった尊像は、やがて東を指して飛び去り、当地に至った。
その頃、当地で草庵を結んで修行に励んでいた比丘は、像を盥の上に安置した。
この『盥の尊像』を祀る一堂を建立したのが、延算寺である。」
と伝えられます。
この像は、因幡堂像よりも、量感も豊かで古様な感じで、10世紀半ばから後半の制作とみられています。
〈制作時期は異なるが、共通点多い二つの薬師像~類似する像高、表現形式、構造など〉
この二つの薬師如来像は、11年前、2009年に鳥取県博で開催された「はじまりの物語展」に出展されて以来の、揃ってのミュージアム出展です。
平等寺像は、下京区にあるお寺で拝すると、厨子の中に祀られ頭には頭巾がかぶせられているので、ちょっと観にくいところがあるのですが、龍谷ミュージアムでは、360度ビューで眼近にじっくり観ることができました。
お寺で正面から拝すると、割と平板で抑揚の少ない造形のように感じるのですが、背面へ回って観ると、思いの外のボリューム感があったのは意外感がありました。
この薬師像は、サクラ材の一木彫像で内刳りがありません。
そこだけを聞くと、平安前中期のボリューム感をとどめた像のように思うのですが、正面観では平安後期の穏やかで穏和、平板という印象を受け、ちょっと違和感がありました。
背面の抑揚にその名残をとどめているのかなと、一人納得した次第です。
延算寺像は、鳥取県博以来の二度目の御対面です。
10年余前の鳥取県博では、念願の初対面で、存在感やパワーのようなものを結構感じたのですが、今回は、重量感はあるものの穏やかさ、まろやかさも伺えるような印象で、初対面の時ほどにはインパクトを感じませんでした。
カヤ材の一木彫で内刳りなしという古様な造りなのですが、10世紀後半の制作という解説に、結構納得しました。
この二つの薬師如来像、造形感覚は異なるものの、像高が153㎝とぴったり一緒、内刳りなしの一木彫というのも一緒です。
衣文の形式(腹部下方のY字状、大腿部周辺のU字状衣文)も類似しています。
共に「因幡の国からの飛来伝説」を有する像だということと、何らか共通する造像背景によるものなのでしょうか?
〈展覧会で出来の良さが目を惹いた、二つの鎌倉期の阿弥陀像
~平等寺と西念寺の阿弥陀坐像〉
そのほかの展示仏像で、目を惹いたのは、平等寺・阿弥陀如来坐像と西念寺・阿弥陀如来坐像でした。
共に、なかなか出来の良い、鎌倉期の阿弥陀如来坐像です。
平等寺・阿弥陀如来坐像は、平等寺というと因幡薬師で、これまでは全く知らない像でしたが、整った造形ですがなかなかの張りを感じます。

平等寺・阿弥陀如来像
衣文のうねりも、躍動感があるようです。
運慶次世代仏師の作であろうということですが、印象に残る像でした。
西念寺・阿弥陀如来坐像は、湛慶もしくは湛慶工房の作かという見方がある像です。

西念寺・阿弥陀如来像
これまた初見の仏像ですが、足を止めてじっくり観たくなる出来の良さです。
力強さの中に、静かな落ち着きを感じさせるものがあります。
流石に、湛慶云々とみられるだけのことはある仏像という気がしました。
【京博で開催の「一遍聖絵と時宗の名宝展」へ】
京都国立博物館で開催の「一遍聖絵と時宗の名宝展」に行きました。
何といっても展覧会の大目玉は、国宝・一遍聖絵(清浄光寺(遊行寺)蔵)の出展です。
全12巻が17年ぶりに一堂に展示されます。
流石に、大勢の参観者で、随分混み合っていました。
絵巻のことはよくわからないものの、ゆっくり愉しませてもらいました。
〈注目は、二つの「行快作」の阿弥陀像〉
仏像の方は、時宗関係のお寺の像が10躯ほど出展されていました。
私の注目は、二つの行快作の仏像です。
滋賀阿弥陀寺・阿弥陀如来像と京都聞名寺・阿弥陀三尊像です。
聞名寺・阿弥陀三尊像は、昨年(2018)12月に両脇侍像の足ホゾから「巧匠 法眼行快」の墨書が見つかり、行快作像の新発見で話題を呼んだ像です。
この新発見については、観仏日々帖 「行快作の仏像新発見、京都・聞名寺の阿弥陀三尊像」 で、紹介させていただきました。
滋賀県西浅井町の阿弥陀寺・阿弥陀如来像の方は、50年以上前に足ホゾから「巧匠 法眼行快」の墨書が発見され、文暦2年(1235)頃の行快作像であることが判明しています。
両像ともに初対面です。
阿弥陀寺像の方は、なるほど行快という風に感じました。
顔貌が眼を大きく見開いて力強く、ちょっと生々しい野性味を感じさせ、大報恩寺の釈迦如来坐像に代表されるような行快特有の雰囲気を感じます。
〈行快風の雰囲気がよく判らなかった、新発見の聞名寺・阿弥陀三尊像
~自身の鎌倉彫刻への疎さ加減を痛感〉
一方、聞名寺・阿弥陀三尊像を観ると、眼も細めで穏やかな感じで、行快作だといわれても、まったく判らないというのが本音の処です。
鎌倉彫刻にとんと疎い私には、
「なるほど、行快風ですね。」
などという見分けは、全然つきません。
行快作という話がなければ、気にもかけずに通り過ぎてしまうことでしょう。
勉強不足というか、眼が効かないということを、思い知ったという処です。
この日のランチは、六条堀川の「西洋酒樓 六堀」、夜はいつものなじみの四条河原町「志る幸」で。
「西洋酒樓 六堀」は、龍谷ミュージアムの近くにあるので、初めて寄ってみました。
ちょっとシャレた感じの洋食屋さんで、人気のオムライスを食べてみました。

六条堀川「西洋酒樓 六堀」
〈琵琶湖疎水船、往復体験完了に大満足〉
翌日は、琵琶湖疎水船へ。
昨年からスタートした琵琶湖疎水船運航、去年の10月に乗船してみて、最高でしたので、今年ももう一度乗ってみたいと、予約をとったのでした。
昨年は、三井寺口から蹴上まで、疎水の流れに沿って往きました。
今年は逆コース、蹴上から三井寺口まで、緑に包まれた水面を進むクルーズを愉しみました。


琵琶湖疎水船~(上)京都蹴上、(下)大津三井寺口
これで、琵琶湖疎水船、往復体験完了で、大満足。
私には、一番のお気に入りのクルーズです。
お昼は、なじみの「レストラン・おがわ」でランチ。
長年、木屋町御池を上がった高瀬川沿いの路地を入ったところにあったのですが、この春から河原町二条に移転しました。

レストランおがわ
移転の挨拶代わりに寄ってみました。
場所は変わりましたが、なかなかに美味なる料理は変わることなく、愉しませてもらいました。
【6 月】
奈良に出かけました。
奈良市内での少人数の泊りの同窓会があり、そのあとに天平会の例会に参加することにしたのです。
【奈良・斑鳩町から大和郡山の、かくれ仏を巡った一日】
折角、出かけたついでということで、斑鳩町から大和郡山方面の古仏を、一人でいくつか訪ねてみました。
融念寺、法輪寺、西岳院、光堂寺を訪ねました。
法輪寺以外は、あまり訪ねる人のない、「かくれ寺」的な処です。
〈平安前期一木彫像の名品、融念寺・地蔵菩薩像
~一昔前は、奈良博の常設展示でおなじみの優作〉
融念寺といえば、平安前期の見事な一木彫像、地蔵菩薩像のことが頭に浮かびます。

融念寺・地蔵菩薩像
かつては奈良国立博物館の本館に常時展示されていて、エキゾチックな風貌が魅力の、おなじみの仏像でした。
いつ頃のことか忘れてしまいましたが、融念寺に新しい収蔵庫「恵宝殿」が建立され、お寺に安置されるようになりました。
この地蔵菩薩像、いつも奈良博でその姿を見慣れていましたので、お寺の方には行ったことがなかったのですが、しばらくぶりに対面したくなって、訪ねてみたのです。
融念寺は、法隆寺の西南2~3キロという処にあります。

融念寺
生駒郡斑鳩町神南という場所で、ひっそりとした集落のちょっとわかりにくいところにありました。
昔、奈良博の看板仏像の一つといってよいほどの名品の地蔵像があるのですが、融念寺まで訪れる人はあまり多くないようです。
収蔵庫「恵宝殿」には、地蔵菩薩像と聖観音像が安置されています。

融念寺 収蔵庫「恵宝殿」"
ご住職が親切にご案内いただき、明るい中で眼近に拝することができました。
〈エキゾチックな風貌が、たまらぬ魅力の地蔵像~実は僧形神像という見方が有力〉
地蔵像は、9世紀の一木彫像のなかでも、名品といってよい見事な像です。
すらりとしたシルエット、のびやかで粘りのある衣文の彫り口と共に、鼻筋の通ったエキゾチックな面貌に、たまらない魅力を感じます。
私のお気に入り仏像の一つです。
この地蔵像、下げた左手で袈裟をつまむという、大変珍しいスタイルをしています。
現在は、地蔵菩薩として祀られていますが、錫杖をとる通形の地蔵菩薩の形姿でないこともあり、以前から、実は僧形神像なのではないかとの議論があります。
大神神社の神宮寺大御輪寺伝来の法隆寺・地蔵菩薩像、橘寺・日羅像や融念寺・地蔵像などは、僧形のスタイルの初期神像として作られたという見方です。
僧形神像とする見方が有力なようですが、地蔵像とする異論もあり、なかなか難しい議論のようです。
いずれにせよ、類例の少ないエキゾチックな造形に惹きつけられる、平安前期の名品一木彫像であることには間違いありません。
久しぶりの、融念寺・地蔵像との出会いで、今更ながらに見惚れてしまいました。
〈初対面か?融念寺・聖観音像
~11世紀の大和地方在地の造形スタイルを思わせる平安古仏〉
地蔵像の隣には、聖観音像が祀られています。
光背の墨書銘に延久元年(1069)の年紀があり、その時の造立と見られています。
11世紀も後半に入っての像としては、穏やかな雰囲気が感じられるものの古様なスタイルの造形で、光背も板光背です。
両腕までも含め蓮肉まで一木で彫出されていて、内刳りもありません。
ハリギリというケヤキ系の広葉樹材だそうです。
11世紀ごろの大和地方では、このような古様な造形スタイルの仏像が造られていたということです。
定朝作の平等院の阿弥陀如来像が造立されてから16年後の造立です。
当時は、この辺りは、京の都から随分離れた鄙の地、地方だったのだなーというのを、再認識させられました。
この聖観音像、収蔵庫ができるまでは、奈良博に寄託展示されていたのかもわかりませんが、印象が薄かったのか、私の記憶には、まったく残っていません。
実質、初対面の平安古仏との出会いとなりました。
〈「法隆寺の大御所」北畠治房旧邸、「布穀園」でランチを〉
融念寺の後は、龍田神社に寄って、法輪寺の諸仏像を久しぶりに拝したところで、お昼になったので、法隆寺近くの「布穀園」でランチとしました。

和カフェ「布穀園」~北畠治房旧邸
和カフェ「布穀薗」は、北畠治房の旧邸にあるカフェです。
北畠治房(1833~1921)といっても、ご存じの方は少ないと思いますが、男爵で「法隆寺の大御所」と称された奇人、頑固親爺です。
北畠治房の特異な人物像や法隆寺とのかかわりについては、日々是古仏愛好HP・埃まみれの書棚から 「法隆寺の大御所 北畠治房」 で、詳しく紹介させていただいたことがありますので、ご覧いただければと思います。
旧邸の立派な長屋門の一部を改装して、「布穀園」というカフェとなっているのです。
母屋の方は、現在の所有者の方が、今も住まわれているということです。

北畠治房旧邸の母屋
「布穀園」という名は、この邸宅が北畠の号から「布穀園」と称されていたことに因むものです。
食後のコーヒーを飲みながら、しばし「法隆寺の大御所、北畠治房」のことを偲ぶことができました。
〈知られざる巨像の平安古仏に圧倒される~西岳院・千手観音像〉
大和郡山市満願寺町にある西岳院を訪ねました。
西岳院には、3メートルを超える巨像の平安時代の千手観音像があるというのです。
県指定の文化財に指定されています。
この千手観音像の存在を知ったのは、「大和のかくれ仏」(清水俊明著・創元社刊)という本に紹介されていたからです。
1976年に出版された古い本ですが、見処がある仏像で知られざるかくれ仏が随分採り上げられているのです。
カーナビでもうまくたどり着けなくて、結構、分かりにくいところにあるお寺でした。
目指す千手観音像は、ポツリとある観音堂に祀られていました。

西岳院 観音堂
像高3メートル、お堂の天井まで届きそうな巨像で、圧倒されるものがあります。
ビックリしました。


西岳院観音堂に祀られる巨像の千手観音像
頭体幹部から足ホゾまでケヤキ材の一木彫成ということです。
この像は、地名となっている満願寺という聖徳太子開基の伝承のあった古刹の旧本尊であったそうで、その一院であった西岳院に伝えられているのだそうです。
これだけの巨像が祀られた満願寺は、相当の大寺であったに違いありません。
穏やかな顔立ちや肉身表現、浅めの衣文などから平安後期の雰囲気が漂いますが、見上げる巨像には圧倒されるものを感じます。


西岳院・千手観音像
都風の優美というよりは、平安後期、奈良の在地的な空気感がある、なかなかの優作と感じました。
これだけ立派な平安古仏の巨像の存在、ほとんど全くと言ってよいほど知られていないのではないでしょうか。
奈良の知られざるかくれ仏には、なかなかに奥深いものがあります。
〈やっとのことで拝観叶った、光堂寺・四天王像
~まさに大和のかくれ仏、平安中期の一木彫像〉
同じ大和郡山にある光堂寺を訪ねました。
光堂寺には、平安中期ごろの四天王像があるというのです。
県指定の文化財になっています。
大和郡山市の文化財紹介HPには、このように記されています。
「表現、構造からみて平安時代、10世紀末から11世紀はじめの製作と推定され、四体一具として安置された可能性もあります
主要部は修正したところが少なく、造像当時の優れた彫技が残されています。
県下の四天王像は各時代を通じてその遺品は少なくありませんが、平安時代中期の作例となると法隆寺の講堂、新堂、三経院などの諸天に限られます。その中にあってこの四天王像は奈良盆地中央部に残る平安古像として注目されるものです。」
なかなか、興味津々の解説です。
平安中期以前の一木彫像といえば、何とか拝したいと念じている私ですので、是非一度拝したいと思っていたのです。
これまでに何度か、拝観トライしたのですが、不在のようで連絡が通じることがなく、諦めかけていたところ、やっとご連絡がついたのです。
喜び勇んで、出かけたというわけです。
光堂寺は、大和郡山、椎木町の村落の中にひっそりとたたずむお堂でした。


光堂寺~境内には杵築神社も祀られる
ご住職がお待ちいただいていて、堂内に案内いただきました。
ご住職は、普段は高野山の方にいらっしゃるとのことです。
目指す四天王像は、本尊の薬師如来像の脇に祀られていました。
4躯とも、像高1メートルほどの小像です。

光堂寺・四天王像(大和郡山市文化財紹介HP掲載写真)
なかなか古様な感じの造形ですが、平安前期のボリューム感やパワーは減じていて、ちょっと鄙びた印象を受けました。
この像も、大和の地方的な空気がある平安中期の古様な作例という処でしょうか。
やっとのことで、光堂寺・四天王像を拝することができて、私の平安中期以前の未見一木彫像のリストから一件を消し込むことができました。
そのあと、夕刻まで少し時間の余裕があったので、唐招提寺、大安寺の諸仏をしばらくぶりに拝して、奈良、大和郡山方面の観仏の一日を終えました。
6月の観仏は、まだまだ続くのですが、書き綴るのに少々疲れてきました。
年内は、このぐらいでおしまいということにして、続きは、年明けにさせていただきたいと思います。
よろしくお願いいたします。
今年一年、「観仏日々帖」にお付き合いいただき、有難うございました。
皆さん、良いお年を、迎えられますよう。
師走も、もう半ば過ぎになってしまいました。
毎年、相変わらずで、代わり映えもしないのですが、恒例ということで、今年一年の観仏を振り返ってみたいと思います。
自己満足的な、観仏記録の感想メモのようなもので、面白くもないと思いますが、一年の締めくくりということで、我慢してお付き合いいただければ有難き限りです。
【1 月】
1~3月は、寒くて引きこもり状態。
いろいろな展覧会を見に行ったり、暖かい奄美大島へ行って田中一村美術館を訪ねたりしましたが、観仏には全く出かけませんでした。
もう若くない身には、冬場の古寺古仏探訪は、お堂の冷え込みがきつくて出かける気になりません。
【びわ湖長浜KANNON HOUSEで「いも観音」を観る】
1月、唯一仏像を見たのは、東博「顔真卿展」の帰りに見た、びわ湖長浜KANNON HOUSEに出展されていた安念寺・いも観音(平安後期)だけでした。

KANNONHOUSEに出展された、長浜市安念寺・いも観音像
安念寺は、賤ケ岳の南麓、木之本町黒田にあるのですが、これほどまでに朽ち果てた仏像が、破棄されることもなく、よくぞ地元の集落の人に守られてきたものです。

安念寺のお堂に祀られる破損仏・いも観音像
信長や秀吉の軍の兵火から仏像を救うために、村人たちは土に埋めて守ったといい、埋めたり掘り出して洗うことから芋が連想されたのか、「いも観音」と呼ばれるようになったともいわれています。
17躯が伝えられていたのですが、2000~2003年の間に7躯が盗難にあい、今は10躯だけになってしまっています。
【2 月】
【永青文庫の「石からうまれた仏たち~永青文庫の東洋彫刻コレクション」展へ】
2月の仏像がらみは、文京区目白台にある永青文庫で開催された「石からうまれた仏たち~永青文庫の東洋彫刻コレクション」展に出かけただけです。
永青文庫は、ご存じの通り、美術品収集家として著名であった細川家16代当主、細川護立(1883~1970)のコレクションを中心に、旧熊本藩主細川家伝来の美術品、歴史資料を収蔵、展示する美術館です。
展覧会は、細川護立が蒐集した、中国の石仏・金銅仏、インドや東南アジアの彫刻を展示する特別展でした。

「石からうまれた仏たち」展の主な展示仏像~展覧会チラシ
中国の古代彫刻の展示会としては、大変興味深いものだと思うのですが、私が訪ねた時には、会場には参観者が疎らといった程度で、この種の展覧会は、なかなか人気が出にくいのでしょうか。
〈今では忘れられた、中国美術の先駆的紹介者「早崎稉吉」
~永青文庫・中国石仏は、早崎蒐集コレクション〉
私が、この展覧会で関心があったのは、細川護立に中国石仏を納めた「早崎稉吉」についてでした。

早崎稉吉(東京美術学校当時の制服姿)
早崎は、自ら収集した中国石仏コレクションを、昭和3年(1928)と6年(1931)の二回にわたって、細川に売却し、その後は細川コレクションとして所蔵されることになったものです。
今回展示の中国石仏18件は、すべて早崎稉吉の将来品です。
〈東博・東洋館展示の名品「宝慶寺石仏群」も、元々は早崎稉吉の蒐集所蔵像〉
また東京国立博物館、奈良国立博物館に所蔵陳列されている、有名な中国唐代の宝慶寺石仏群も、早崎稉吉が明治39年(1905)に日本にもたらし、蒐集所蔵していたもので、そのほとんどが細川コレクションになり、その後、国に寄贈されたものです。


細川護立氏寄贈の東京国立博物館・中国陝西省西安宝慶寺石仏~(左)十一面観音龕、(右)三尊仏龕
早崎稉吉の名は、今ではほとんど知られていないのではないかと思いますが、明治~昭和初期にかけて、中国美術の紹介者、専門家、蒐集家として先駆的役割を果たした人物です。
早崎は東京美術学校の出身で、岡倉天心が明治26年(1892)に中国美術調査に赴き、日本人として初めて龍門石窟を発見、紹介したときに、ただ一人同行しました。

明治26年に岡倉天心が龍門石窟発見時の写真~奉先寺石窟
早崎稉吉が撮影した写真という
その後は、中国美術の専門家として何度も中国に滞在し、日本やアメリカに数多くの優品を将来しました。
岡倉天心によるボストン美術館の中国美術蒐集に、実際に関わりコレクション形成に大きな役割を果たしたのは早崎稉吉でした。
3月10日に
「永青文庫の中国石仏~早崎稉吉が将来した名品」 (講師:石松日奈子氏・東京国立博物館客員研究員)
という講演会がありました。
これは必聴と、早崎稉吉についての講演をじっくり聴いてきました。
〈近年発見の早崎稉吉自筆「造像所獲記」も展覧会に展示〉
昨年(2018年)、早崎稉吉自筆の「造像所獲記」と題するメモ冊子が、永青文庫で発見されました。

新発見の早崎稉吉自筆「造像所獲記」
「宝慶寺造像所獲記」に始まる獲得メモで、収集の経緯が生々しく綴られる貴重な資料の発見でした。
展覧会では、この「造像所獲記」も、展示されていました。
早崎稉吉が明治期に中国美術の紹介者、将来者として果たした役割の大きさ、中国美術研究の進展への貢献は、極めて大きなものがあったのだと思います。
今では、忘れ去られた早崎稉吉について、再認識し、思いを致す良い機会となりました。
【4 月】
【興味深かった「林忠正~ジャポニズムを支えたパリの美術商」展】
国立西洋美術館で開催されていた「林忠正~ジャポニズムを支えたパリの美術商」を見てきました。
展覧会では、林忠正の孫で歴史作家の木々康子氏の所蔵品を中心に、林忠正とゆかりの人々の関連資料が展示されていました。
地味な展覧会でしたが、私には、大変興味深い企画展でした。
〈近代日本初の官製美術史書「稿本日本帝国美術略史」の刊行に、深くかかわった林忠正〉
仏像とは関係ないこの展覧会をご紹介したのは、林忠正が、近代日本初の「官製日本美術史本」である 「稿本日本帝国美術略史」 の刊行にかかわっている人物であるからです。
「稿本日本帝国美術略史」については、日々是古仏愛好HPの 「近代仏像評価の変遷をたどって」の連載で、何度も何度も採り上げましたので、覚えておられる方もあるのではないかと思います。
「稿本日本帝国美術略史」は、明治33年(1900)、パリ万国博覧会参加を機会に、我が国美術を西欧に知らしめるため、フランス語版 「Histoire de l'art du Japon」 として編纂・出版されました。


フランス語版 「Histoire de l'art du Japon」
(下段)本文中に掲載されている法隆寺・救世観音像写真
最初にパリにおいてフランス語版で出版され、その後に、日本語版として国内で刊行されたのが「稿本日本帝国美術略史」なのです。
〈フランス語版 「Histoire de l'art du Japon」の冒頭は、林忠正の執筆〉
フランス語版 「Histoire de l'art du Japon」の冒頭には、九鬼隆一の序文より先に、林忠正による「読書への案内」が付されているのです。

「Histoire de l'art du Japon」冒頭の「読書への案内」(3頁)~末尾に執筆者・林忠正の名前が記されている
実は、林忠正は、伊藤博文や西園寺公望の推挙により、パリ万国博覧会の事務官長に就任し、日本美術の紹介、陳列に、全力を注いで尽力しているのです。
豪華本「Histoire de l'art du Japon」の刊行も、出版元になる帝国博物館の財政上の理由で出版が進まなかったのを、林忠正が受け継いで、何とか出版に漕ぎ付けたといわれています。
そんな訳で、冒頭に林執筆の一文が付されているのではないかと思います。
〈浮世絵を大量海外流出させた張本人と云われた林忠正
~日欧芸術文化交流に生涯をささげた功績は多大〉
林忠正というと、西洋で日本美術を商った初めての日本人です。
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林忠正~展覧会パンフレット |
1878年(明治11年)、パリで行われる万国博覧会に参加する「起立工商会社」の通訳として渡仏しますが、その後、日本の浮世絵をはじめ陶磁器、工芸品などを大量に商い、ヨーロッパのジャポニズムの隆盛の大きな原動力となりました。
「ジャポニズムを支えたパリの美術商」といわれる所以です。
林が日本からヨーロッパへ持ち込み販売した浮世絵は、数十万点に及ぶといわれ、後年「浮世絵を海外に大量流出させた張本人」として批判を浴びたこともありましたが、その生涯をたどってみると、
「現代へ脈々と続く西洋のジャポニズムを支えた立役者」
「芸術を介して日欧文化交流に生涯をささげた人物」
としての功績には多大なものがあることを知ることができます。
「林忠正~ジャポニズムを支えたパリの美術商」には、千部のみ出版された豪華本「Histoire de l'art du Japon」も出品され、冒頭の林忠正執筆部分のページが開かれていました。
他にも、林忠正ゆかりの品の数々が展示されていて、愉しむことができました。
【大正大学蔵・阿弥陀如来像(厳島・光明院伝来)が東博に展示】
東京国立博物館の平常展示に、大正大学蔵の阿弥陀如来像が展示されていました。
この阿弥陀如来像は、それほど知られていない仏像だと思います。
私も、これまで写真でしか見たことがなかったのですが、、一度は拝したいと思っていた像です。

大正大学蔵・阿弥陀如来像(平安~鎌倉・重文)
大正大学の本尊像で、大学礼拝堂に安置されており、普段は非公開で、一般には拝しにくい像なのです。
礼拝堂の校舎の解体立替工事にともない、昨年、東京国立博物館2年間の予定で寄託され、今回の陳列となったようです。
本像は、像内から寛文12年(1672)の修理木札が発見されており、その頃には広島厳島大明神の御守弥陀像とされていたことが知られています。
明治29年(1896)に、厳島の光明院から大正大学の前身校の一つである浄土宗本校に寄付され、現在に至っているものです。
いわゆる藤末鎌初の作風です。
定朝様を残しながらも、頭部の奥行は深く、肉付きある表現、衣文にも抑揚感が出てきているように思えます。
落ち着いた、出来の良い仏像に出会うことができました。
【東博で開催、特別展「国宝 東寺~空海と仏像曼荼羅」】
東京国立博物館で特別展「国宝 東寺~空海と仏像曼荼羅」が開催されました。
仏像では、東寺講堂の諸仏の他、兜跋毘沙門天像、聖僧像、女神像(八幡三神)、観智院・五大虚空蔵像など、見処ある像が多数出展されました。
〈東寺講堂・五菩薩像を360度ビューで眼近にできたのが、一番の収穫〉
東寺の仏像の特別展は、これまで何度も博物館で開催されていますので、特段の目新しさはなかったのですが、東寺講堂の立体曼荼羅諸仏が、すべて360度ビューで眼近に見ることができたのは、なかなかのものでした。
講堂の国宝仏像は、不動明王、梵天、広目多聞天像を除いて、全部が1フロアーに展示されていたのは壮観でした。
五菩薩像を360度、ぐるりと舐めるように、じっくり見ることができたのは、大きな収穫でした。
東寺の講堂では、五菩薩像には、なかなか目がいかない、届かないところがあるのですが、こうして眼近に見ると、流石の出来だと納得しました。
木屎漆のモデリングがしっかり分厚くされているのも、大変よくわかりました。
東寺の仏像展「目新しさはない」といったものの、結局は、2度も展覧会に行ってしまいました。
〈帝釈天像、写真撮影OKにはびっくり ~ 嬉しい、近年の仏像展・写真撮影可能の動き〉
もう一つ、ビックリしたのは、帝釈天像だけですが、写真撮影OKになっていたことでした。
思い切った新企画です。

「国宝 東寺~空海と仏像曼荼羅」展覧会場の東寺・帝釈天像
ここ数年、仏像の展覧会などで、ブロガー向け写真撮影会が開催されたりしています。
4月に開催された、和歌山県立博物館の「仏像と神像へのまなざし」展では、なんと、会期中いつでも展示仏像、神像の写真撮影OKとなっていました。

写真撮影OKとなった和歌山県立博物館「仏像と神像へのまなざし」展、会場
これまで、博物館自身の所蔵仏像を除いては、博物館への出展仏像の写真撮影が可能になるなどというのは、あり得なかったことでしたが、このような試みが増えつつあるのは、大変嬉しいことです。
【17年ぶりの摩訶衍寺 秘仏・十一面観音像の御開帳に尾道へ】
4月28日には、広島県尾道市の摩訶衍寺の秘仏本尊・十一面観音像の御開帳に出かけました。
十一面観音像は、33年に一度の御開帳の厳重秘仏として守られており、今年は、17年ぶりの半開帳の年にあたります。

摩訶衍寺 秘仏本尊・十一面観音像、御開帳チラシ
11世紀初めごろの制作とされ、広島県屈指の見事な平安古仏です。

摩訶衍寺・十一面観音像(平安・重文)
〈私にとっては「50年越しの、宿願の仏像」、摩訶衍寺・秘仏十一面観音像〉
このご開帳には、
「何としても、絶対に駆け付けなければ!
今回こそ、逃すことはできない!」
と、満を持して、同好の方と尾道まで出かけました。
私にとっては、
「50年越しの、宿願の仏像」
であったのです。
学生時代に、摩訶衍寺までテクテク山登りしてたどり着いたところ、拝観のお願いのどういう行き違いか、厳重秘仏で拝観が叶わなかったのでした。
それからほぼ50年、やっとのことで、「宿願の仏像」の姿を拝することができました。


摩訶衍寺・本堂と十一面観音像が安置される収蔵庫
すらりと長身、腰高なプロポーションの見事な一木彫像です。
穏やかさを匂わせながらも、キリリと引き締まった顔貌が魅力的な、惹きつけられる観音像です。
詳しい拝観記については、観仏日々帖 「広島県 尾道市・摩訶衍寺の秘仏・十一面観音像の御開帳」 で、ご紹介しましたのでご覧いただければと思います。
〈注目の平安古仏、千手観音像~10世紀以前にさかのぼる古像か?〉
十一面観音像の傍らに祀られていた千手観音像は、注目の平安古仏でした。

摩訶衍寺・十一面観音像(平安・重美)
地方的な匂いがプンプンする仏像ですが、十一面観音像よりも制作年代が一段と古い像であることは間違いありません。
ほとんど知られていないといってよい平安古仏だと思いますが、10世紀以前に遡る制作のように感じます。
もっともっと注目を浴びてよい、古像だと思いました。
宿願を果たした満足感で一杯の、摩訶衍寺、秘仏ご開帳でした。
こんな本が、出版されました。
「奈良きたまち・異才たちの肖像」 安達正興著
2019年10月 奈良新聞社刊 【447P】 1500円
表紙のそでには、本書の内容について、このように記されています。
「奈良きたまち」とは「奈良まち」に対して名付けられた呼称であるが、興福寺、東大寺の門前町として南都では最も古い地区である。
・・・・・・
長い歴史のある土地だけに、史上知られた人物はたいへん多い。
この「きたまち」に生まれ、あるいは生涯の大半をこの地で生きた4人の異才たちを、前著「奈良まち 奇豪列伝」の続編として評伝に書き綴った。」
【奈良きたまちに暮らした、「異才」4人】
「奈良きたまち」に住まいした「異才」4人の足跡をたどった本です。
ご覧の通りの、4人が採り上げられています。
侘び茶の始祖によみがえった寺僧 「村田 珠光」
死して萬世の英名あり、史跡保存に奔走 「棚田 嘉十郎」
孤高の仏師、一刀彫の名工 「竹林 高行」
語学の天才、30余冊を著して夭折 「宮武 正道」
侘茶の創始者といわれる「村田珠光」は、大変有名です。
赤貧の中で平常宮跡の保存運動に生涯をささげた「棚田嘉十郎」のことは、ご存じの方もいらっしゃるのではないかと思います。
残りの二人、「竹林 高行」と「宮武 正道」という名を知る方は、ほとんどいらっしゃらないのではないでしょうか。
「竹林 高行」は、奈良一刀彫の名工で、森川杜園没後、一刀彫に新境地を開いた異才だそうです。
「宮武 正道」は、30冊ものマレー語書・辞典他を著した、夭折の語学の天才ということです。
私は、この二人は、初めて耳にする全く知らない名前でした。
【前著「奈良まち奇豪列伝」の続編として刊行】
本書「奈良きたまち・異才たちの肖像」は、2015年に発刊された「奈良まち 奇豪列伝」の続編というべきものです。
前著には、
「石崎勝蔵」「工藤利三郎」「左門米造」「ヴィリヨン神父」
という、知られざる奈良まちの奇豪の面々が採り上げられていました。
観仏日々帖・ 新刊・旧刊案内「奈良まち・奇豪列伝」 で、以前に紹介させていただいたことがありますので、ご覧いただければと思います。
両著ともに、明治以降の近代奈良の文化史を振り返るとき、記憶にとどめておきたい「奈良まち・きたまちの知られざる奇豪、異才」と呼べる人達が採り上げられています。
かねてから近代奈良文化史に関心の強い私にとっては、まさに興味津々そのものの本といえるものです。
【マニアックな奈良本~著者はノルウェー在住に驚嘆】
本をお読みいただくと、今では、ほぼ忘れ去られた「奇豪、異才」の功績、人となり、生涯などが、本当に丁寧に綴られています。
関係者からの聞き取りや、旧居、縁のある場所から墓所に至るまでの確認、実見なども、ここまでと思うほどに丹念にたどられています。
その分、読み応えのある、知られざる「奇豪、異才」の発掘、列伝になっているのだと思います。
まさに「マニアックな奈良本」といえる本です。
「こんな仕事は、長らく奈良在住の、奈良の物識り、生き字引とでもいえる方でないとできないのだろう。」
そんな気持ちで、奥付ページの著者・安達正興氏の略歴を見てみて、ビックリしてしまいました。
このように書かれていたのです。
「1941年2月、奈良市に生まれる。
大阪美術学校卒、今竹七郎に師事。
1971年ノルウェー、ベルゲンに移住、現在に至る。
・・・・ベルゲン大学の講師や会社勤務などを経て・・・・
退職後、郷土奈良への関心から人物評伝を書き始める。」
奈良出身とはいうものの、もう50年弱ベルゲン在住だというのです。
「あとがき」によると、奈良在住の御令妹の取材サポートもあった故とのことですが、奈良に住まわずして、帰国時取材などでこれだけの執筆をされたということなのです。
地元の奈良通でも難しいだろうと思われる、こんなマニアックな奈良本を書き上げるとは、まさに驚きというほかはありません。
「只々、敬服」の一言です。
【関心そそられた「竹林高行」の生涯~知られざる奈良一刀彫の名工】
さて「奈良きたまち・異才たちの肖像」の詳しい中身は、本をお読みいただくことにして、私が、一番興味関心をそそられたのは「竹林 高行」についてでした。

竹林 高行~本書第3章冒頭ページ
「竹林 高行」という名前は、まったく知りませんでした。
明治期の仏像模造で知られる竹内久一の弟子で、明治39年(1906)日本美術院の国宝修理部門として奈良に置かれた美術院第二部の発足メンバーとして、仏像修理に携わった人物ということなのです。
近代仏像模造史や仏像修理修復史に関心高い私にとっては、興味津々です。

本書「竹林 高行」の章の目次
竹林高行は、履中斎を名乗る、奈良一刀彫の名工。
明治2年(1869)、奈良に生まれ、木工の神童といわれ竹内久一に師事。
28歳で奈良に戻り、仏像修理、仏像彫刻作品制作の携わり、その後、81歳で没するまで、奈良一刀彫の名工として知られた人物だそうです。
本書には、その生涯が語られているとともに、仏像作品、一刀彫作品、30件余がリストアップされています。

竹林高行作 法隆寺・救世観音像模刻~本書掲載写真
媚びない一徹な芸道で、奇癖、風変わりな処もあり、名工の割には世に知れ渡ることがなかったということです。
子息の竹林薫風氏(1903~1984)は、奈良一刀彫の第一人者。
帝展~日展作家として知られ、奈良工芸協会理事長を務め、「奈良の一刀彫」という著作もあります。
【明治の仏像修理に携わった竹林高行~竹内久一の高弟・奈良の美術院発足時メンバー】
ここでは、 「竹林高行と竹内久一、奈良美術院がらみの話」 を、ちょっとたどってみたいと思います。
明治期の仏像模造と竹内久一のことについては、HP埃まみれの書棚から 「明治の仏像模造と修理 【模造編】」 で詳しく紹介させていただきました。
竹内久一は、岡倉天心の計画による仏像模造事業の、牽引車、立役者といえる人物です。
天心の命により、東大寺法華堂・執金剛神像、東大寺法華堂・伝月光菩薩像、興福寺北円堂・無着像、東大寺戒壇堂・広目天像、興福寺東金堂・維摩居士像を模造しました。

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竹内久一による模造仏像 ~ (左)東大寺戒壇堂・広目天像、(右)興福寺北円堂・無著像
その後も、帝室技芸員に任ぜられるなど、木彫作家の大家となった仁です。
竹林高行は、この竹内久一が奈良滞在の時にその技量を見込まれて弟子入り、高弟として竹内から東京美術学校助教授に推薦されるほどであったようです。
竹内の大作、伎芸天像(シカゴ万博出品・東京藝大蔵)も、竹林高行が手伝ったのだそうです。

竹内の大作、伎芸天像~竹林高行が制作を手伝った
竹林は、28歳で奈良へ戻りますが、こうした経緯もあり、明治34年から始まる日本美術院の奈良諸大寺の仏像修理事業に参画します。
日本美術院は、明治39年(1906)に改組され、国宝修繕部門は、本拠を奈良に置く「日本美術院第2部」となりますが、竹林もこの「日本美術院第2部」の発足メンバーの一人であったようです。
「日本美術院第2部」発足当時の記念写真が残されていますが、その中に竹林高行の姿も写っています。


明治39年日本美術院第2部発足記念写真(東大寺勧学院前)
記念写真の立っている人、向かって右から5番目が竹林高行です。
近代仏像修理と日本美術院修理部門の歴史については、HP埃まみれの書棚から 「明治の仏像模造と修理 【修理編】」 で、連載したことがあるのですが、その時には、竹林高行の名前には、まったく気づきませんでした。
【今は忘れられた仏像修理草創期に参画した人たち
~語り継がれているのは「新納忠之介」ぐらいか】
奈良の美術院による仏像修理といえば、なんといっても総責任者であった「新納忠之介」(にいろちゅうのすけ)の名が語られます。
新納忠之介は、「近代仏像修理の父」と呼ばれることもあり、今日に至るまで長らくその名が語り継がれています。
しかし、明治期に「日本美術院第2部」発足時に新納忠之介と共に仏像修理に参画した人たちの名は、忘れられてしまっているようです。
【仏像修理草創期メンバーのワンポイント・エピソードを振り返る】
奈良の知られざる「異才」を発掘した本書ではないですが、ここで、「日本美術院第2部」発足当時に新納忠之介と共に仏像修理に携わった人のエピソードを、私の知っている限りで発掘し、一寸だけふれてみたいと思います。
当時、新納と共に仏像修理に携わったメンバーで、何らかのエピソード情報が手元にあるのは、竹林高行の他では、次の人たちです。
天岡均一、菅原大三郎、細谷三郎、国米元俊、明珍恒夫
皆さん、これらの名前をご存じでしょうか?
詳しくふれると長くなりますので、それぞれのワンポイント・エピソードをご紹介したいと思います。
〈天岡 均一〉
天岡均一は、「大阪・中の島の難波橋に鎮座するライオン像」の作者です。

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(左)天岡均一、(右)天岡作の大阪中の島 難波橋・ライオン像
このライオン像、大阪人の方なら、よくご存じだと思います。
天岡は、兵庫県三田市出身の天才彫刻家を称されています。
明治8年(1875)生~大正13年(1924)没、東京美術学校で高村光雲、竹内久一に師事、美術院で仏像修理に携わり、その後、大阪で活躍しました。
彫刻以外にも鋳造の工芸品や書道や絵画にも秀れ、酒好きで自由奔放な生活、豪気な人柄で交際範囲もひろかったということです。
2013年に、「北浜ライオン誰の作 天岡均一没後90年回顧展」という展覧会が三田市立図書館で開催され、その業績が発掘回顧されています。

「天岡均一没後90年回顧展」チラシ
〈菅原 大三郎〉
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菅原大三郎 |
菅原大三郎(1873~1922)は、新納忠之介と共に日本美術院草創期から、現場主任として仏像修理を行ってきた、草分け的な存在です。
この菅原大三郎、和辻哲郎著の「古寺巡礼」に登場するのです。
唐招提寺を訪れ、仏像修理現場を見学するくだりにこのような記述があります。
「金堂の大きい乾漆像を修繕しつつあるS氏に案内されて、私たちは堂内に歩み入った。
・・・・・・・
S氏が側で、昔の漆の優良であったことなどを話している。」
このS氏が、菅原大三郎です。
もう一つ、興福寺の乾漆十大弟子像のうち、破損断片などとなった4躯分が寺外に出ていますが、そのうち1躯の断片復元制作を行ったのが菅原大三郎です。

菅原大三郎が復元制作した興福寺・十大弟子像
この復元像は、2014年にクリスティーズのオークションに出品され、アメリカのコレクターに落札されて話題を呼びました。
この像は、十大弟子像の断片が残されていたものを、大正11年(1922)に菅原大三郎が復元制作し、当初は武藤山治の旧蔵となっていた、知る人ぞ知る像でした。
一見では、断片復元像とは思えない、当初像と見まがう程の見事な出来映えです。
〈細谷 三郎・而楽〉
細谷三郎(1875~1940)は、細谷而楽という号で知られています。
群馬出身、東京美術学校で高村光雲に師事、奈良の美術院で仏像修理に携わります。

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(左)細谷三郎・而楽、(右)細谷が制作した新薬師寺・波夷羅大将像
新薬師寺の国宝・十二神将像は、一躯が失われていて現代(1931年)の復元製作像ですが、この復元、波夷羅大将の制作者が、細谷而楽です。
現代の復元像だと教えられないと、天平時代の国宝像と全く見分けがつきません。
もう一つ、東大寺戒壇院近くの水門町にある写真家・入江泰吉の旧居は、現在公開されていて、ご存じの方が多いことと思います。

元細谷而楽の居宅だった入江泰吉旧居
この旧居は、細川而楽の居宅となっていたものを、細川没後に入江泰吉が譲り受けたものです。
〈国米 元俊・泰石〉
国米元俊(1879~1957)は、国米泰石と号しました。
鳥取県八頭郡の出身、国米24歳の時、山陰地方の古社時調査に訪れた岡倉天心に引き合わされ、天心添え書きをもって奈良に赴き日本美術院(第2部)に入所、長らく仏像修理に携わりました。
メンバーほとんどが東京美術学校出身者のなか、わき目もふらず努力を重ね、頭角を現したといいます。

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(左)国米元俊・泰石、(右)「よみがえる仏像 仏像修理と仏師・国米泰石」展 図録
2003年、「よみがえる仏像 仏像修理と仏師・国米泰石」という特別展が、鳥取県立博物館で開催されました。
鳥取出身の知られざる仏像彫刻家、修理者「国米泰石」の業績を振り返る展覧会でした。
この展覧会で、国米泰石の名が少しばかりは知られ再発掘されたのではないかと思います。
奈良の大寺の仏像修理にも携わっていますが、出身地方である中国地方や、四国、九州の仏像修理を数多く手がけたようです。
鳥取三仏寺・蔵王権現像や高知雪蹊寺・湛慶作毘沙門天像などは、国米泰石の手により修理されたものです。
〈明珍 恒夫〉
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明珍恒夫 |
明珍恒夫(1882~1935)は、仏像修理、研究の世界では、忘れることのできない功績を残した人物です。
長野県、甲冑師で知られる明珍家の出身で、年少にして高村光雲に師事、17歳にて東京美術学校に入学、その後はずっと日本美術院で仏像修理修復に従事しました。
美術院(第2部)草創時代から多大な業績を上げ、昭和10年(1935)には、初代新納忠之介の後を継いで、美術院の二代目総責任者(主事)となります。
ところが、その5年後、肺炎で、59歳で急逝してしまい、新納忠之介が再度総責任者に返り咲くことになります。
明珍は、優れた修理技術者であるのみならず、研究家としても30余編の研究論文を発表するなど、技術、研究両面において指を屈すべき権威であったといえるでしょう。
その著書「仏像彫刻」(1936刊)は、今でも読み継がれている、仏像愛好家必読の古典的良書となっています。

明珍恒夫著「仏像彫刻」
急逝ということなく、長生きしていたならば、仏像修理、研究の世界で、もっともっと著名な人物になったに違いありません。
竹林高行がらみで、奈良における日本美術院第二部発足時代のことにふれたついでに、その当時、仏像修理に携わり活躍した人たちを振り返って、ワンポイント・エピソードを紹介させていただきました。
これらの人々は、今はもうその名を忘れ去られてしまったといってもよい人々なのかもしれませんが、それぞれの活躍、功績に思いを致してみたくなった次第です。
面白みのないマニアックな薀蓄話のようになってしまいましたが、なにとぞご容赦ください。
【奈良きたまち散策で見つけた、竹林高行旧宅】
本書を読んで、触発され、先週奈良へ出かけたときに「奈良きたまち」をブラリ散策してきました。
きたまちのシンボルともいえる元鍋谷交番(現きたまち鍋屋観光案内所)のごく近くに、竹林高行の旧宅が残されていました。

「奈良きたまち」のシンボル元鍋谷交番・案内所

「奈良きたまち」にある竹林高行の旧宅
ご覧の通りの、いわゆる奈良の法蓮格子の立派なお屋敷でした。
「竹林薫」と記された、表札が上がっていました。
【最後に、平常宮跡保存の先覚者「棚田嘉十郎」についても少しだけ】
最後に、本書に採り上げの「異才」の話に戻って、「棚田嘉十郎」のことを、ちょこっとだけふれさせていただきたいと思います。
明治期、植木職人でありながら、窮貧の中での自己犠牲的活動によって、平城宮跡保存運動にすべてをささげ、これに絡んで自害して生涯を終えた人物です。

棚田 嘉十郎~本書第2章冒頭ページ
本書では、
「大極殿に命を賭す 死して萬世の英名あり、史跡保存に奔走」
というリードがつけられています。
「平常宮跡保存の先覚者」といわれる棚田嘉十郎の壮絶な生涯については、ご存じの方が結構いらっしゃるのではないかと思います。
【平城宮跡に建てられる、棚田嘉十郎顕彰碑】
平城宮跡を訪れると、その功績を顕彰する立派な「棚田嘉十郎像」が建てられています。

平城宮跡にある棚田嘉十郎顕彰碑
顕彰碑には、次のように刻されています。
棚田嘉十郎
万延元年(1860)、現在の奈良市須川町に生まれる。
明治の中頃、奈良公園で植樹の職にたずさわっているとき、観光客から平城宮跡の位置を問われ、荒れ放題の宮跡に保存の意を強める。
明治35年(1902)、地元での平城宮跡保存の運動が高まると嘉十郎も参加、平城神宮の造営をめざしたが、資金面で行き詰まる。
以来、嘉十郎は、貧窮の生活のなか、自費で平城宮跡の保存を訴え、上京を繰り返し、多くの著名人から賛同の署名を集める。
そのようななかで、地元の有志・溝辺文四郎らは、嘉十郎の運動に協力し多くの援助をおこなった。
・・・・・・その後、保存事業が進展し始めたことにふれられた後・・・・・・
しかし、用地買収が軌道にのりだして間もなく、嘉十郎が推挙した篤志家が約束を破ったことの責任を痛感し、大正10年(1921)8月16日自刃、嘉十郎は、61歳の生涯を閉じた。
苦難に満ちた嘉十郎の悲願は、支持者の努力により達成され、嘉十郎自刃の翌年、大正11年(1922)に国の史跡として保護されることとなった。
平成2年(1990) 8月16日
棚田嘉十郎翁・溝辺文四郎翁顕彰会会長 奈良市長 西田栄三
像制作者 江里敏明
この立派な顕彰碑が建てられたことによって、棚田嘉十郎の名は、長く忘れ去られることがなくなったのだろうと思います。
そして棚田嘉十郎は、その壮絶な死と相まって、平城宮跡保存に全てを投げうった生涯を、美化称賛の思いを込めて語られることが多いのかと思います。
【「等身大の棚田嘉十郎」と、「もう一人の功労者・溝辺文四郎」が語られた本書】
本書「奈良きたまち・異才たちの肖像」の記述で、私が、興味深く注目したのは、次の2点です。
・一つは、棚田嘉一郎について、ありがちな美化称賛に陥ることなく、等身大の実像が描かれていること
・もう一つは、保存運動の前面に立った棚田の脇役に徹しサポートした、溝辺文四郎の功績にスポットを当て、棚田に勝るとも劣らぬ功労者であることが述べられていること
溝辺文四郎というのは、顕彰碑に「棚田嘉十郎翁・溝辺文四郎翁顕彰会」と刻まれている名前です。

溝辺文四郎
平常宮跡保存運動というと、棚田嘉十郎のことが語られるばかりで、もう一人の大功労者、溝辺文四郎は、その陰に隠れてしまうことが多いように思います。
安達正興氏も本著の中で、
「脇役に徹した盟友・溝辺文四郎についても充分述べたいと思う。
・・・・・・
稀有な情熱と至誠を実践した嘉十郎は、強くも弱くもあり、個性が判りやすい。
対照的に溝辺文四郎は、嘉十郎に劣らない情熱を胸に秘めて、決して激情に走らず、黒衣に徹した。
しかも温もりのある家庭人という、苦労人である。
物心両面で支えた文四郎がいなければ、嘉十郎はいつまで単独に奔走活躍できただろう。
感慨深い。」
このように語っています。
「等身大の嘉十郎と、勝るとも劣らぬ功労者・溝辺文四郎」に思いを致すことができた、本書でした。
【棚田嘉十郎、溝辺文四郎の生涯を知ることのできる本、ご紹介】
平常宮跡保存運動の歴史や、棚田嘉十郎、溝辺文四郎の生涯に、よりご関心のある方は、次のような本を、併せて読んでみられると、お役に立つのではないかと思います。
中身の紹介は長くなりますので、書名、書影だけをあげさせていただきます。
「小説 棚田嘉十郎~平城宮跡保存の先覚者」 中田善明著 1988年 京都書院刊 【292P】 1600円
「平城宮跡照映 溝辺文和記念文集」1973年 溝辺史晃刊 【452P】
「明治時代平城宮跡保存運動資料集~棚田嘉十郎聞書・溝辺文四郎日記」 奈良文化財研究所編 2011年刊 【237P】
「平城京ロマン 過去・現在・未来」 井上和人・粟野隆著 2010年 京阪奈情報教育出版刊 【189P】 1400円
「奈良きたまち・異才たちの肖像」の新刊案内のつもりでしたが、随分、余計な話に脱線してしまいました。
ダラダラ、長々と、つまらない話になってしまいましたが、ご容赦ください。