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観仏日々帖

古仏探訪~京都展覧会巡りで目を惹いた仏像 ③浄瑠璃寺・大日如来像 【2019.11.09】


【泉屋博古館に出展された、浄瑠璃寺・大日如来像】

京都展覧会巡りの3館目には、左京区鹿ケ谷の泉屋博古館を訪ねました。

南禅寺界隈の見事な東山別荘庭園群が並び立つ、閑静な邸宅街の一角にあります。

泉屋博古館・本館では、
住友財団修復助成30年記念企画展「文化財よ永遠に」  (9/6~10/14)
が開催されていました。

文化財よ永遠に展チラシ

この「文化財よ永遠に」展は、その名の通り、公益財団法人住友財団の文化財維持・修復助成事業が30周年になるのを記念して、財団の助成により修復された文化財を、博物館4館合同開催で展示するという大規模企画展です。
この京都・泉屋博古館本館のほか、東京・泉屋博古館分館、東京国立博物館、九州国立博物館で開催されました。

泉屋博古館・本館での展示は30点ほどで、そのうち仏像は8点が出展されていました。

その中で、私が、「これは必見!」とめざしてきたのは、浄瑠璃寺の大日如来坐像です。

浄瑠璃寺・大日如来像
浄瑠璃寺・大日如来像

皆さん、この仏像のことを、ご存じでしょうか?
浄瑠璃寺といえば、九体阿弥陀像とか吉祥天像のことが頭に浮かびますが、この大日如来像の存在は、あまり知られていないのではないかと思います。


【運慶作 円成寺・大日如来像そっくりの浄瑠璃寺・大日如来像(普段は秘仏)】

その像容をご覧いただくと、一目見ただけで、
「あの運慶作の円成寺・大日如来像(国宝)と、大変良く似ている。」
そう思われるに違いありません。

円成寺・大日如来像(1176年運慶作・国宝)
円成寺・大日如来像(1176年運慶作・国宝)

像高:60.2㎝、円成寺・大日像の3分の2ほどの大きさですが、キリリと引き締まったなかなかの秀作です。

この浄瑠璃寺の大日如来像、普段は秘仏で拝することがかなわないません。
本堂に向かって右前方にある灌頂堂に安置されており、毎年1月8日から10日までの3日間に限り開扉されるだけなのです。

5年前、2014年に京博で開催された「南山城の古寺巡礼展」に出展されたことがあるのですが、それ以来の博物館出展だと思います。

会場では、ガラス越しではありましたが、眼近にじっくり観ることができました。
今更ながらに、円成寺・大日如来像の造形に、本当によく似ていると実感しました。

円成寺像の颯爽とした趣や、張りのある肉身、弾力感の見事さには、はるかに及ばないのですが、浄瑠璃寺像もなかなかの秀作といっても過言ではありません。
若やいだ顔つき、写実的な肉身は、キリリと締まったみずみずしさを感じさせます。
円成寺像同様に、鎌倉の強い息吹を感じさせるものがあります。


【近年、存在が知られるようになり、藤末鎌初の奈良仏師作例として注目像に】

この浄瑠璃寺の大日如来像は、その昔は、ほとんど知られていなかったようす。
その存在が注目され出したのは、近年になってからのことなのです。

その像容、スタイルなどが、安元2年(1176)運慶作の円成寺・大日如来像や、寿永2年(1183) 筑前講師の銘のある岐阜県横蔵寺・大日如来像に似通っており、いわゆる藤末鎌初の奈良仏師の作例として知られるようになりました。

作者、工房の問題、制作時期などについての研究者の見解、論考も、いくつか発表されています。

今回の展覧会図録の表紙は、この浄瑠璃寺・大日如来像のアップ写真となっています。
本像の、最近の注目度を物語っているように思えます。

泉屋博古館「文化財よ永遠に展」図録表紙
浄瑠璃寺・大日像写真が表紙となった「文化財よ永遠に展」図録


【修理により、見違えるほどにシャープな姿がよみがえる~取除かれた後世の厚塗り】

2005~6年に、修理修復が行われました。
住友財団の助成により、東京藝大学・文化財保存学保存修復彫刻研究室の手によって実施されました。
修理前は、全体が後世に施された厚手の泥地漆箔に覆われていたうえ、亀裂や剥落も多々あり、制作当初の姿を著しく損ねたものになっていました。

修理修復前の浄瑠璃寺・大日如来像の姿
修理修復前の浄瑠璃寺・大日如来像の姿

像本来の姿がよくわからない、鈍い造形表現になっていたのだと思います。
修復に際しては、後世に施された泥地彩色がすべて除去され、オリジナルと考えられる漆塗り層を除いて、木地仕上げとされました。

別の仏像ではないかと見違えるほどに、様変わりの姿に生まれ変わりました。
修復前の、鈍くてぼやけたような雰囲気から、キレキレのシャープで引き締まった本来の姿が、甦ったのではないかと思います。


【何故だか、未だ「無指定」の秀作像】

この大日如来像、秀作だと思うのですが、なぜか文化財指定が「無指定」なのです。
重文はおろか、京都府の指定にも、木津川市の指定にもなっていません。

本像の存在が知られてから、もうずいぶんの年数が経ち、現在の姿に修復が成ってからも十数年経つのですが、不思議な感じがします。
お寺様のご意向などがあって、無指定のままになっているのでしょうか?


【製作年代は、円成寺・大日像造立年の前後か?~奈良仏師の作】

この浄瑠璃寺の大日如来像の存在が広く知られるようになったのは、今から30余年前、昭和63年(1988)発刊の「加茂町史」(第1巻・古代中世編)で採り上げられてからのことのようです。
そこでは、このように述べられています。

「像容は、奈良市忍辱山町の円成寺大日如来坐像に酷似している。
本像の形成および細部表現からは、円成寺像を写した可能性が高く、慶派の流れを汲む仏師によって鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて制作されたと考えられる。」

この時は、鎌倉末~南北朝の制作とされたのですが、その後、本像について注目した研究者からは、もっとさかのぼる藤原末期、安元2年(1176)の円成寺・大日如来像に相前後する時期の制作ではないかとする考えが提示されています。

例えば、
伊東史朗氏は、浄瑠璃寺三重塔移築時の治承2年(1178)頃の造立
(「院政期仏像彫刻史序説」院政期の仏像・岩波書店1992年刊)

山本勉氏は、同寺十万堂を秘密荘厳院に改築した承安元年(1171)頃の造立
(「大日如来像・日本の美術374号」至文堂1997年刊)
との見方を示しています。

現在では、藤末鎌初の奈良仏師、初期慶派の貴重な作例という見方がされ、注目度大の像となっているということなのだと思います。


【デジタル計測シルエットが、康慶工房像とピタリ一致することが判明
~円成寺・大日像、浄瑠璃寺・大日像、瑞林寺・地蔵像】

そして、2005~6年に修理が実施された後、「保存修理報告」(東京藝大美術学部紀要450号2007)が発表され、また同大・藤曲隆哉氏による「円成寺大日如来坐像の造像工程の研究」(2012)によって、興味深く、驚きの研究結果が明らかにされました。
(ご参考:NET上に「浄瑠璃寺灌頂堂 大日如来坐像 修理報告」 「円成寺大日如来坐像の造像工程の研究」の要旨が掲載されています。)

円成寺・大日像と浄瑠璃寺・大日像の像容が、本当にそっくりで酷似していることは、よく知られていたのですが、これらの像を三次元デジタル計測した結果、そのシルエットが単に似ているというレベルではなく、見事に一致することが判明したのでした。

円成寺・大日如来像(側面写真).....浄瑠璃寺大日如来像(側面写真)
円成寺、浄瑠璃寺両大日像の側面画像(下段)

両像のデジタルスキャニングによる計測データから正中断面図を作成し、円成寺像の膝張りと同寸に調整すると、その正中断面図がほとんど重なり合うことが分かったのです。
(正中断面図とは、仏像の体躯を正中線で縦割りし、それを側面から見たシルエットのことです。)
そして康慶作の静岡瑞林寺・地蔵菩薩像の正中断面図とも、また一致したというのです。

静岡瑞林寺・地蔵菩薩像(側面写真)
静岡瑞林寺・地蔵菩薩像・側面(1177年康慶作・重文)

このことは、浄瑠璃寺像、円成寺像(1176年・運慶作)、瑞林寺像(1177年・康慶作)が、同様の図面をもとに製作されていたことを意味しています。
すなわち3つの像は、当時の工房主催者であった康慶の図面により制作された、康慶工房の仏師の手による像だということです。

加えて、円成寺像のシルエットは、浄瑠璃寺像のそれから角度を4度後ろ向きに傾けたものであることも判明しました。
運慶は、体躯を反り身にしたうえで、智拳印を結ぶ両手と身体の間にゆとり空間を設け、ゆったりと奥行きを持たせた造形にするという、独自の工夫を加えていたのでした。


【他作例とのシルエット比較からも、3像は康慶工房の同様図面使用とみられる】

ちなみに、平等院・阿弥陀如来像(1053年・定朝作)、長岳寺・阿弥陀如来像(1151年)の正中断面図にはシルエットの類似性が見られましたが、先の康慶工房とみられる3像とは大きく異なるものでした。

さらには、快慶作品である石山寺大日知来坐像、東京芸術大学大日加来坐像のシルエットも一致し、これまた康慶工房3像シルエットとは違うものであるという結果でした。

このことからも当時の康慶工房が、独自かつ共通の図面を用いていたことが推察されます。

円成寺像と浄瑠璃寺像が同じ図面のようなもの用いた可能性については、伊東史朗氏も先の論考(院政期仏像彫刻史序説)で、

「以上の類似と相違の意味するところは、両者(注:円成寺像と浄瑠璃寺像)共通の規範(粉本となる図像または手本とすべき古像)に則って異なる奈良仏師が相次いで同じ尊像を造立したということではないだろうか。」

と述べていたのですが、
まさに、その考え方が、この三次元デジタル計測結果によって実証されたということなのだと思います。


【仏像制作法則の存在と、用いられた制作図面は?】

当時、どのような仏像制作図面が使われていたのかはわかりませんが、像高や膝張り、目鼻や顎の位置などは、その比率やポイントを定めた図面に則っていたものと思われます。
それは、それぞれの仏師工房独自のものであったのでしょう。

美術院出身で、その後、仏像の修理修復、仏像研究の途を歩んだ太田古朴氏は「仏像彫刻技法」(1973年綜芸社刊)という著作をあらわし、仏像の造像法則と時代別推移について説いています。
太田氏は、円成寺・大日如来像は「運慶法測」と称する法則によって制作されているとしています。
太田氏による、運慶法則作図は、次の通りです。

太田古朴氏作成・円成寺大日如来像造像法則図面(「仏像彫刻技法」掲載図面)太田古朴氏作成・円成寺大日如来像造像法則図面(「仏像彫刻技法」掲載図面)
太田古朴氏作成の円成寺・大日如来像 造像法則(運慶法則)図面
太田古朴著「仏像彫刻技法」(1973年綜芸社刊)掲載図


ご覧のように、〈髪際高=膝張り〉として、髪際高を五等分した枡目割の定められた位置に、ポイントとなる身体の各所が、それぞれプロットされるようになっています。
ちなみに、定朝様像(法界寺・阿弥陀像など)は、〈白毫高=膝張り〉という法則になっているそうです。

康慶、運慶の頃に用いられていた図面が、このようなものであったかどうかは全く分かりませんが、仏像の体躯のシルエット、目鼻口など各パーツの位置をきちっと定めて、同じスタイルの像を制作するために、似たような図面が使われていたのではないかと思われます。。
それによって、「同一工房作品は同じスタイルの形姿」に造ることを可能にしていたのでしょう。


【浄瑠璃寺像に残されていた「錐点」~図面通り制作のための座標点】

こうした仏像造像法則に関連して、もう一つ、興味深い事実が判明しています。

浄瑠璃寺・大日如来像の修理修復が行われた結果、本像に「錐点」(きりてん)の痕が残されていることが、明らかになったのです。
「錐点」という言葉は、耳慣れない言葉かもしれませんが、仏像の身体の表面に錐で穿たれた、目印の穴のことです。
錐点は、木彫仏を彫る際に、目鼻や口など重要なポイントの位置の座標点として、また髪際や膝張りなど全体のシルエット、プロポーションの比例をきっちりととるために穿たれたのもと思われます。

三重成就寺・大日如来像(平安後期・県指定文化財)成就寺・大日如来像の面部の錐点痕図(山崎隆之著「仏像の秘密を読む」掲載図)
錐点痕がはっきりと残される平安後期仏像作例~三重 成就寺・大日如来像(平安後期・県指定文化財)
右図は面部に残された錐点痕を示す図(山崎隆之著「仏像の秘密を読む」掲載図)


錐点は、下地彩色や漆箔などの表面コーティングがされてしまうと、その存在はわからなくなってしまいます。

浄瑠璃寺の大日如来像は、修理で表面の泥地漆箔が剥がされた結果、
「面部の髪際、顎の先端、耳や膝の張り出し部分」
に、錐点痕が残されていることが判明したのです。

この錐点で、各ポイントの座標点が決められていたのでしょう。
当時、造像法則に則った図面などが存在し、その図面通りに仏像を制作するための技法として錐点という手法が用いられていたことがわかります。


【「錐点」のはじまりは、平安末期ごろ?】

この錐点という技法が、いつごろから始まったのかは、定かではありません。
近年、この錐点のある仏像が、各地で発見されるようになりました。
鎌倉~江戸期のものに多いそうですが、平安時代の12世紀にさかのぼるものもみられるということです。
浄瑠璃寺・大日如来像の錐点は、比較的最初期のものなのかもしれません。

いずれにせよ、この錐点という技法は、図面や雛形通りのシルエットの仏像を造るための必要性から生じたものであることは間違いありません。


【座標点だけでなく、彫り進む深さも決めていた?「錐点」】

さらに錐点は、各ポイントの座標点を決めるだけでなく、どこまで彫り進むかの深さを決める目安点になっていたという話もあります。
錐点を穿つ深さを決めておいて、錐点が消えるところまで彫り進めれば、造形の凹凸のレベルも定めることができるというのです。
左右対称であるはずの一方の錐点が消えているケースがあることから、そのような推定が出来るということです。

そういわれると思い出すのが、京都 大報恩寺の六観音像に遺された錐点です。
肥後定慶の墨書銘のある准胝観音像以外の5躯の面部に、錐点が残されているのです。

大報恩寺・六観音像~如意輪観音像(鎌倉・重文)の錐点痕のある面部
面部に錐点の痕が残される大報恩寺・六観音像~如意輪観音像

昨年(2018)東博で開催された「大報恩寺展」の図録解説にこのような記述がありました。

「本六観音菩薩像は表面を彩色や漆箔をしない素木の像であるため、錐点の存在をよく観察することができる。
錐点が准胆観音には確認できず(定慶も錐点を打っていただろうが、彫刻の過程で消える程度の深さをわきまえていたのだろうと指摘されている)、他の5躯にはあることからも、准胆観音を造った定慶が中心的な立場だっただろうことがうかがわれる。
また錐点の打ち方には、5躯それぞれに違いがあることは、5躯の担当仏師がそれぞれ異なっていたことを示唆している。」
(皿井舞「大報恩寺の創建と慶派仏師の競演」)

錐点についての、大変興味深いコメントです。
錐点というものは、実際には、どのように活用されていたのでしょうか?
本当のところが、まだまだよくわからないような気もします。

いずれにせよ、藤末鎌初の康慶工房作品である、浄瑠璃寺、円成寺の大日像、瑞林寺の地蔵像のシルエットが見事に一致するというのは、当時の康慶工房に仏像法則図面が存在し、錐点によってたがわぬ位置にプロットできるようにしたことによるものではないでしょうか。


【鎌倉への息吹を実感した浄瑠璃寺・大日如来像~制作図面や錐点にも思いを致す】

なかなか拝することのできない浄瑠璃寺・大日如来像を、泉屋博古館で眼近にすることができ、今更ながらに、鎌倉への息吹を実感するキリリと引き締まったみずみずしい像であることを、実感することができました。

繰り返しになりますが、無指定の仏像なのが不思議です。
そして、仏像の造像法則やその図面、錐点などといった話にまでも、思いを致すことができました。

京都の町を、展示会のはしごをして巡った一日。
そこで目を惹いた三つの仏像の話は、これでおしまいです。

マイナーで知られていない仏像の話にお付き合いいただき、有難うございました。