【知られざる9世紀の優作、勝光寺・聖観音像が展示会に
~京都市歴史資料館「京都市指定の文化財」展】
「あの勝光寺の聖観音が、京都市歴史資料館に展示されているよ!」
思わぬ話を、ある同好の方から教えていただきました。
「エーッ!本当ですか? そんな情報、まったく知りませんでした。」
と、ビックリしてしまいました。
勝光寺の聖観音像といっても、ほとんど知られていない仏像だと思いますが、私にとっては、大注目、お気に入りの仏像なのです。
間違いなく、9世紀、平安前期の檀像風一木彫像です。
そして、妖しいオーラで心をとらえ、惹きつける魅力十分の仏像なのです。
これは是が非でもいかねばと、龍谷ミュージアム「日本の素朴絵展」の次に、「京都市歴史資料館」を訪ねたのでした。
京都御所の東側、上京区寺町通荒神口下ルという処にあるのですが、私も初めて訪れる資料館です。
ちょっと、こじんまりした目立たぬ資料館です。
此処で、
「京都市指定の文化財」 と題する企画展 (8/30~10/20)
が開催されていて、勝光寺・聖観音像が展示されているというのです。
近年、京都市の市指定文化財に指定された仏像などの美術工芸品・十数点を、展示紹介する企画展です。
【並んだ展示仏像の中で、ひときわ目を惹く圧倒的な存在感】
仏像は5躯の出展で、ガラスケースの中に、横に一列に並べられて展示されていました。
その前に立って眺めると、なんといっても、ひときわ目を惹くのが、勝光寺の聖観音像です。
100㎝余の小像なのですが、他の諸像が目に入らぬほどに、圧倒的な存在感で眼前に迫ってきます。
勝光寺・聖観音像については、かつてこの観仏日々帖 「京都 勝光寺・聖観音像」 (2016.06)で、ご紹介したことがあるのですが、今回、初めて展覧会に出展され、再会することができましたので、もう一度、採り上げさせていただきました。
【初めて拝したのは13年前(2006年)~当時は「無指定」】
この勝光寺の聖観音像を初めて拝したのは、もう13年も前、2006年のことです。
実は、この仏像の存在を知ったのも、前回紹介の満願寺・薬師像と同じく、井上正氏の著作「古佛~彫像のイコノロジー」に採り上げられていたからでした。
当時は「無指定」の仏像です。
勝光寺は、京都市内のど真ん中、新選組で有名な壬生寺の近く、下京区中堂西寺町という処にあります。
大きな本堂のほか客殿、庫裏もある、日蓮宗の立派なお寺です。
めざす聖観音像は客仏で、本堂の隅っこの方の厨子に、ひっそりと祀られていました。
【バリバリの9世紀、檀像風一木彫との出会いにビックリ!】
御厨子を開いていただいて、聖観音像の姿を拝したとき、本当にビックリしました。
「バリバリの9世紀、間違いない!」
一見しただけで、そのように感じる古仏です。
その時の印象などは、観仏日々帖 「京都 勝光寺・聖観音像」 (2016.06)で、ご紹介した通りです。
カヤ材の一木造りで、蓮肉部も共木から彫り出した檀像風像で、内刳りはありません。
一見しただけで、平安前期の雰囲気満点の仏像です。
木肌が少し荒れて、あしゃれた感じになっていますが、衣文の彫口の鋭さ、鋭く精神性を強調した面貌、ボリューム感あふれる体躯、どれをとっても平安前期、9世紀の仏像に間違いないと思います。
【惹き込む魅力は、特異な「妖しさ」~インド風のエキゾチズム】
そして、何よりもこの観音像の魅力は、「異様とも云ってよい、独特の妖しさ」ではないでしょうか?
強い精神性とか霊威感を感じるのですが、その中に、妖艶とも云えそうな「妖しさ」を発散させているのです。
いわゆるインド風というのでしょうか、エキゾチックで特異な造形です。
左腰を突き出し、体躯をくねらせる三屈法の体型は、官能性を秘めて、豊満な妖気を発散しています。
面貌は、妖しく射すくめるような、強い眼力を感じます。
【格調高い「妖しさ」の、法華寺・十一面観音像~インド風の代表作】
インド風の官能的エキゾチズム、三屈法の体躯表現といえば、あの法華寺の十一面観音像のことが頭に浮かびます。
平安前期の檀像風一木彫像を代表する傑作で、だれもが知っている国宝仏像です。
時代の最高レベルの法華寺像と比較するのも、如何かとは思うのですが、同じインド風とはいっても、法華寺・十一面観音像と勝光寺・聖観音像は、妖艶さの雰囲気が随分と違います。
法華寺像は、女性の姿態を写したように体躯をくねらせ、肉感的な妖しさを漂わせているのですが、その造形表現には、キリリとした気高さというのか、品位を強く感じるものがあります。
妖艶とはいっても、その中に格調の高い、一種のピーンと張りつめた緊張感を漂わせています。
さすがに、超第一級レベルの秀作ならではと感じます。
【アクの強い「妖しさ」が心をとらえる、勝光寺・聖観音像】
一方、勝光寺・聖観音像のほうは、インド風の肉感的妖艶さがあふれ出しているようです。
寸詰まり感のある短躯なうえに、すこぶる豊満で肥満しています。
ぐっと腰を強く押し出すかのようにくねらせ、目鼻立ちも大きく濃いい感じで、恐ろしいような妖しさで迫ってくるようです。
ちょっと野卑な感じのアクの強い妖しさ、どぎつい妖しさと、威圧感を発散させています。
この異様感が、グイグイ強く心惹きこまれてしまう、本像の魅力なのだと思います。
いずれにせよ、この勝光寺時の古仏、平安前期、9世紀の檀像風一木彫像の注目作として、きっちり評価されてもよい仏像だと確信しました。
【何故だか「無指定」の勝光寺・観音像~私のお気に入りに】
「どうして、これだけの仏像が、全くの無指定なのだろうか?」
その訳が、よく分かりません。
少々地肌は荒れていますが、後補部も少なそうなので、何故、文化財指定の対象にならないのか、本当に不思議だなーと思いました。
京都という処は、文化財のレベルも大変高いので、これだけの優作でも、知られずに埋もれてしまうのでしょうか。
私は、初めて拝したときから、この像の「アクの強い妖しさ」に、たちまち惹き込まれてしまい、大のお気に入りになってしまいました。
5~6年の間に、その姿を拝しに、3度も勝光寺を訪ねてしまいました。
【2013年、ようやく京都市指定文化財に新指定】
6年前の2013年(平成25年)、ついに、勝光寺・聖観音像が「京都市・市指定文化財」に新たに指定されました。
このニュースを知った時、
「やっとのことで、文化財指定となったのだ!」
と、ちょっと感慨深く、嬉しい気持ちになりました。
ようやく、その存在が公に認知されたというわけです。
これまでに、この勝光寺・聖観音像は、研究者に注目されることはなかったのでしょうか?
過去に、本像に注目し、採り上げ論じたのは、私の知る限りでは、川勝政太郎氏と井上正氏の二人だけだと思います。
【初めて注目されたのは随分昔、昭和19年のこと~その後は長らく埋没?】
川勝政太郎氏は、早くも昭和19年(1944)に、研究雑誌「史迹と美術」で本像を採り上げています。
「資料:勝光寺の聖観音像」 (史迹と美術157号 1944年1月刊)
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史迹と美術157号掲載「勝光寺の聖観音像」 |
川勝氏は、本像の存在を「付近居住の知人」より聞き、詳しく調査する機会を得たと記しています。
そして、本像の概要などについて述べ、弘仁末頃の製作像であるとしたうえで、
「京都市附近に於ける聖観音立像の古像として、屈指の中に入るべきものが見出されたことだけでも、我々の関心を引くに足るであろう。」
と結んでいます。
京都市付近における屈指の像が見いだされたと、大変に高い評価を述べています。
川勝政太郎氏は、美術史家、石造美術研究の専門家として著名で、「史迹と美術」誌も伝統ある広く知られた研究誌です。
そこで紹介された勝光寺・聖観音像だったのですが、何故か、その後は、誰からも採り上げられることは無かったようです。
【再発掘して、注目したのは井上正氏~昭和58年】
忘れ去られていたような勝光寺像を、再度、採り上げ注目したのは、冒頭に紹介した井上正氏でした。
昭和58年(1983)、「日本美術工芸」誌に連載の「古仏巡歴」シリーズの中で、
「京都・勝光寺聖観音菩薩立像(古仏巡歴14)」 (日本美術工芸540号 1983年9月~のちに法蔵館刊「古仏」に収録)
という論考が掲載されました。
初めて川勝氏が初めて紹介してから、約40年を経た後のことでした。
井上氏は、本像は、カヤ材を用いた黄色檀色像で、三屈の体型を用いたインド風の蠱惑的官能性と霊威性を兼ね備えた、異様な雰囲気を持った像であるとし、製作年代は法華寺・十一面観音像や神護寺・薬師像などと近い位置にあると考えられると述べています。
(「檀像(日本の美術253号)」井上正著・至文堂刊 1887年刊 でも、本像を採り上げ紹介)
そして、川勝氏が紹介してから何と70年後、井上氏の再度の採り上げから30年後、やっとのことで、2013年に、京都市指定文化財に指定されることになったのでした。
初紹介から文化財指定に至るまで、随分と長い道程となりました。
【文化財新指定時の本像解説をご紹介~背面墨書から当初伝来を想定】
京都市の文化財新指定にあたっての、勝光寺・聖観音像の解説は、次のようなものとなっています。
ちょっと長くなりますが、全文を紹介させていただきます。
「本像は本堂東脇の間に安置される日蓮宗勝光寺の客仏である。
本像の背面には日通による
「南無妙法蓮華経観世音菩薩」
の名号、および「當山(とうざん)卅五(さんじゅうご)代日清(花押)/明治九年九月合併者也」
の墨書がある。この合併というのは真如寺との合併を指す。
真如寺は『山城名跡巡行志』(宝暦4年〈1754〉跋(ばつ))によれば、貞観4年(862)に藤原良縄(よしただ)(814~868)が文徳天皇の菩提を弔うため建立した天台寺院で、万治年中(1658~61)に法華宗の寺として再興したとされる。
本像背面に名号を記した日通は、勝光寺に残る墓碑によれば、同寺中興開基で延宝7年(1679)に示寂(じじゃく)したことが知られる。
真如寺の創建は貞観4年(『日本三代実録』巻6)で、本像は創建時の真如寺の旧像と想定される。
本像は蓮肉も含めた頭体の主部を針葉樹材(カヤか)から彫成する一木造で、切れ長で比較的見開きの強い目、低く太い鼻梁、彫の深い口唇などの顔貌表現、頭部の比例が大きく全体として寸詰まりなプロポーションは9世紀前半の作例に通じる。
その出来映えは,この時期の彫像の特色をよく伝える優れたものであり、伝来した真如寺の開創期の作とは同定し難いが、藤原良縄ゆかりの像である可能性があり、平安京が開かれて間もない時期の造像例として、その価値は極めて高いと言えよう。」
(京都市情報館HP・新指定・登録文化財 第31回京都市文化財ページ掲載解説)
【藤原長縄ゆかりの真如寺創建期(9C中頃)の像である可能性を想定】
この解説を読むと、文化財指定された事由は、本像が9世紀前半の優れた作例とみられることもさることながら、
「その伝来を伝える墨書きから、真如寺創建時の旧像と想定され、藤原良縄(814~868)ゆかりの像である可能性があること」
が、重要な決め手になっているように思えます。
【これまでは、伝来不詳とみられていた観音像】
本像の背面に、上記の解説通りの墨書があることは、昭和19年(1944)、川勝政太郎氏が紹介したときから、知られていました。
しかし墨書の「明治九年九月合併」というのが、何処の寺院と合併したのかは明らかではなく、伝来は不詳であるとみられていたようです。
川勝氏は、
「勝光寺門内に移された墓碑に
恐らく何處か他にあったこの古像を日通在世の時に得たものであらう。」
と述べ、當寺中興開基/寂遠院日通聖人/延賓七己未年/二月十一日
と見える。恐らく何處か他にあったこの古像を日通在世の時に得たものであらう。」
井上正氏は、
「本像の由緒伝来については、全くわからない。
わずかにこの銘記によって、明治九年九月、他の寺院の合併に際して本寺にもたらされたものと想像される。」
と記しています。わずかにこの銘記によって、明治九年九月、他の寺院の合併に際して本寺にもたらされたものと想像される。」
ところが、文化財指定時の解説では、
「合併寺院とは「真如寺」を指し、この真如寺が、藤原良縄が文徳天皇の菩提を弔うため建立した天台寺院である。」
と述べられています。これまで不詳とされていた合併寺院が、真如寺と特定されたのは、寺内の墓碑に「當寺中興開基/寂遠院日通聖人」とある「當寺」というのが、「真如寺」にあたることが、明らかになったということではないかと思われます。
【これからの注目度アップが、ますます愉しみな勝光寺・聖観音像】
この勝光寺の聖観音像が、
インド風の特異な妖しさを表する、特異な9世紀の檀像風一木彫像の優作であるとともに、
その伝来が、藤原良縄ゆかりの真如寺旧像である可能性が想定されるとなると、
俄然、大注目の古像としてスポットライトを浴びることになるかもしれません。
こんなことに思いを巡らせながら、京都市歴史資料館に展示された、勝光寺・聖観音像をじっくり眺めていると、一際、妖しいオーラを発散させて、圧倒的な存在感で眼前に迫ってくるように思えてきました。
私の、お気に入りの古仏です。
益々、注目されるようになってほしいものです。