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観仏日々帖

あれこれ~「近代仏像発見物語をたどって」 連載、終了しました 【2018.3.17】


神奈川仏教文化研究所HPに連載していました 「近代仏像発見物語をたどって」 の連載は、

第13話「三重・見徳寺 薬師如来像 発見物語」(2018.3.10掲載)で、終了とさせていただきました。

近代仏像発見物語

神奈川仏教文化研究所HP 「近代仏像発見物語をたどって」  【目 次】


2016年10月、第1話「運慶仏発見物語」をスタートしてから、全部で33回、約1年半にわたって連載させていただいたことになります。

「観仏日々帖掲載の発見物語」の焼き直し転載が大方なのにもかかわらず、長らくご覧いただきありがとうございました。

今回の連載では、明治以降の新発見の仏像の「大発見物語」を、発見年を追って時系列で並べさせていただきました。
主なる「近代仏像発見の歴史」を概観することができるようになって、お役に立つものになったのではないかと思っております。


仏像発見物語というのは、単なる蘊蓄話と云ってしまえばそれまでなのですが、ノンフィクション・ドキュメントを読んでいるような、理屈抜きの面白さがあります。
ご紹介した「発見物語」も、蘊蓄物語、こぼれ話、物知り話といったような気分で始めたのですが、書き終えてみると、それだけではない意義や、重みのようなものを実感することになりました。

当たり前ですが、新たな発見が、従来の仏教美術史の考え方や様式展開論の定説を覆したり、新たな問題提起となることも多々あります。

とりわけ、 「運慶作の仏像発見物語」 は、

「新たな運慶作の仏像が発見されるたびに、それまでの運慶仏の作風イメージが覆され、定説が覆される。」

という話の連続で、書いている本人がビックリさせられたり、考えさせられたりすることばかりでした。
発見のいきさつなどを調べたりしているうちに、すごく面白くなってきて、ついつい書くのに力がこもってしまいました。


そのほかにも、

「岩手・黒石寺の薬師如来像の発見」 が、東北地方の仏像研究のみならず、地方仏研究を大きく進展させるきっかけとなった話、

「東寺・御影堂の不動明王発見物語」 の、息の詰まるほどの緊張感と興奮に満ちた話、

「立山神像の発見里帰り物語」 の、ジーンと熱いものがこみ上げるような100年ぶりの里帰りの話

などなど、

それぞれの発見物語のいきさつを調べていると、自分自身で感動してしまうことが、折々ありました。


そんな驚きの「仏像発見物語」のネタも、もう尽きてしまいました。
これで「おしまい」にさせていただきましたが、ご覧いただきました方々の、お役に立ち、お愉しみいただけたとしたら、大変、嬉しく思うところです。


また、何か、新たな仏像愛好の連載ネタを見つけることができましたら、掲載させていただきたいと思っています。

正直なところ、もうネタ切れで、無い知恵を絞ってもなかなか面白いテーマが思いつかなくて、困っています。


トピックス~興福寺の四天王像の話 : 南円堂像・仮講堂像が引越し 【2018.3.10】


先月(2018年2月)、興福寺の南円堂、仮講堂安置の四天王像の引越しが行われました、


【南円堂像(運慶作)は新中金堂へ、仮講堂像(康慶作)は南円堂へ引越し】


仮講堂(かつては、中金堂とか仮金堂と呼ばれていました)の四天王像が南円堂に移され、南円堂の四天王像は、今般再興された新中金堂に移されました。

南円堂から新中金堂に移された四天王像~運慶作・北円堂原所在像とみられる
南円堂から新中金堂に移された四天王像~運慶作・北円堂原所在像とみられる
南円堂から新中金堂に移された四天王像~運慶作・北円堂原所在像とみられる


仮金堂から原所在の南円堂に戻された四天王像~康慶作
仮金堂から原所在の南円堂に戻された四天王像~康慶作
仮講堂から原所在の南円堂に戻された四天王像~康慶作

この二組の四天王像の「原所在と制作仏師についての問題」をご存知の皆さんは、

「フーン! そういう風に落ち着けたのか。」

と、感じられたのではないかと思います。

興福寺の伽藍略絵図
興福寺の伽藍略絵図


朝日新聞デジタルは、このニュースを

「興福寺の 四天王像が お引っ越し」

という見出しで、次のように報じました。

「日本の彫刻史上に名高い仏師で鎌倉時代に活躍した運慶作の可能性がある、奈良・興福寺の四天王像(13世紀、国宝)が、これまで安置されていた南円堂から、今秋完成予定の中金堂に移された。
詳しい記録は不明だが、江戸時代の1717年の火災以来約300年ぶりの『お引っ越し』とみられる。
一方、南円堂には運慶の父、康慶の四天王像(1189年、国重要文化財)などが旧金堂(今の仮講堂)から戻った。

興福寺南円堂
興福寺南円堂

興福寺仮講堂(かつては仮金堂・中金堂と呼ばれていた)
興福寺仮講堂(かつては仮金堂・中金堂と呼ばれていた)

15日に東京であった興福寺の文化講座で、多川文彦・境内管理室次長が明らかにした。

昨秋に東京・上野の東京国立博物館であった特別展「運慶」に出展した国宝像と重文像計8体は終了後の返還に合わせ、国宝像を中金堂に、旧金堂にあった重文像を南円堂に、それぞれ移した。

近年の研究で国宝像はもともと、肖像彫刻の最高傑作とされる無著・世親菩薩像(国宝)などとともに、興福寺北円堂にあったと推定されている。
また、重文像については、康慶が南円堂の本尊と同時に制作したことがわかっている。
興福寺は奈良時代の創建以降、火事や戦災に相次いで見舞われ、その度、救出された仏像が当初の安置場所とは異なる仏堂に移されてきた。
最後の大火となった1717年の場合は、南円堂や中金堂が焼失し、その再興の過程で四天王像も入れ替わったらしい。

多川次長によると、北円堂には平安時代の四天王像(国宝)が現存し、躍動感のある南円堂の国宝像が寺の中心となる中金堂にふさわしいことなどから引っ越しが決まった。
また、康慶作の法相六祖像(国宝)も南円堂に安置する。
今秋の一般公開でお披露目される。」
(執筆:編集委員・小滝ちひろ氏 2018.2.16付け朝日新聞デジタル)



【昨秋の「運慶展」でも注目を惹いた、二つの四天王像の原所在】


皆さんご存知の通り、近年の研究成果により、

・仮講堂安置の四天王像は、元々、南円堂に祀られていた像で、康慶作の不空羂索観音像と一具の像。
・現南円堂の四天王像は、元々、北円堂に祀られていた像で、運慶作の弥勒仏像、無着世親像と一具の像。

と、見られています。

今回の引越しは、再興新中金堂の落慶に際して、新中金堂に安置する四天王像をどうするのかという問題があったのでしょう。
仮講堂像が元々南円堂の四天王であったというのは、現在は、異論無く広く認められているところです。
現南円堂像が元々北円堂像であったという見方のほうは、大変有力になっていますが、まだ、「衆目一致で確定した」ということではないようですし、北円堂には平安前期の四天王像がちゃんと祀られています。

そんなところから、このような形に落ち着いたというところなのではないでしょうか。

「康慶の作」と信じ込まれていた南円堂の四天王像が、そうではなくて他のお堂から移されたもので、「仮講堂の四天王像が、本来の康慶作の南円堂像である」という新たな説が提示されたのは、近年のことで、平成に入ってからのことです。
その後、南円堂の四天王像の原所在については、諸説ありましたが、現在は、「元々北円堂の像で運慶作の四天王像である」という見方が最有力になっています。

このあたりの話については、昨年秋に東博で開催された「運慶展」でも、大きく採り上げられ、南円堂・四天王像は北円堂の無著・世親像とセットで展示されました。
ちょっとマイナーであった「両四天王像の原所在問題」も、世の運慶フィーバーの中で、広く多くの人々の知るところとなり、関心事になったのだと思います。

この四天王像の原所在と、康慶、運慶作問題などの研究、発見のいきさつについては、

神奈川仏教文化研究所HP「運慶仏 発見物語〈その8ー10〉」

に、簡単にまとめてありますので、ここではふれないことにして、そちらをご覧いただければと思います。



【5組が現存する、興福寺の四天王像】


ここでは、「話題、注目の四天王像」以外の興福寺の四天王像にも、ちょっと目を向けてみたいと思います。

最近は、運慶作と言われる南円堂・四天王像ばかりにスポットライトが当たっているように感じますが、興福寺には、そのほかにもいくつかの四天王像の優作が残されています。
なかなか見どころある魅力十分の四天王像たちですが、さほど一般には注目されることはないようです。

現在興福寺に遺されている四天王像は、4組と広目天像一体です。

それぞれの安置場所、制作年代、原所在などを一覧にまとめると、ご覧のようになります。

興福寺に残される四天王像の一覧



【延暦10年(791)作、魅力十分の北円堂・四天王像】


興福寺にある四天王像のうちで、一番古い像は、北円堂の四天王像です。

興福寺・北円堂
興福寺・北円堂


興福寺北円堂・四天王像(延暦10年・791作)
興福寺北円堂・四天王像(延暦10年・791作)
興福寺北円堂・四天王像(延暦10年・791作)

バリバリの平安初期、延暦10年(791)に制作された四天王像です。
奈良時代の伝統を引き継いだ、木心乾漆造りの像です。
平安初期らしいボリューム感のある像ですが、その表情は諧謔的表現というか、怒りを超えてユーモラスなものになっていて、親しみを感じます。
結構、私の好みの四天王像です。

増長天像と多聞天像の台座の天板裏面に修理銘が残されていて、

「延暦10年(791)4月に造立された大安寺の四天王像で、破損が著しかったので、弘安8年(1285)、興福寺僧経元により修理された」

旨、記されており、制作年とともに、大安寺から興福寺に移された像であることが判ります。

所謂平安初期彫刻の中で、制作年代を特定することができる、貴重な作例です。

どうして、運慶作の諸仏が祀られている北円堂に、この平安初期の四天王像が安置されるようになったのかは、全く以ってよくわからないようです。
元西金堂にあったとか、興福寺勧学院にあったといった説もあるようですが、はっきりしたことは何ともわからないということのようです。



【平安初期の優作なのに、あまり話題にされない、東金堂・四天王像】


優作なのに、あまり話題にならないのが、東金堂の四天王像です。

興福寺東金堂
興福寺東金堂

興福寺東金堂・四天王像(平安前期)
興福寺東金堂・四天王像(平安前期)

この四天王像も、バリバリの平安初期、8~9世紀の制作です。
重量感あふれた四天王像で、なかなかの優作といってよい像だと思います。
もっともっと知られて、人気があってもよいと思うのですが、何故だか、あまり話題になることがないようです。
「国宝」に指定されている像なのですが・・・・・
国宝館ではなくて、訪れる人が少ない東金堂の方に、ひっそり安置されているので、あまり目を惹かないのでしょうか?

一木彫像ですが、頭髪や甲冑の一部は乾漆を盛り上げて造られ、奈良時代木心乾漆の技法もとどめています。

ズングリムックリとでもいうのでしょうか、肉太で圧倒的なボリューム感なのですが、迫力というよりも、何故だか滑稽味を感じさせます。

興福寺東金堂・持国天像(平安前期)
興福寺東金堂・持国天像~平安前期

この四天王像も、伝来は、全くの不祥です。
いつのころから東金堂に安置されるようになったのか、元々何処にあった四天王像なのか、手掛かりが見つからないようです。



【1躯だけ興福寺に遺った広目天像~残りの3躯は寺外に】


もう一つは、広目天像です。

興福寺・広目天像(奈良博展示)平安~鎌倉時代
興福寺・広目天像(奈良博展示)平安~鎌倉時代

皆さん、一番馴染みのない像なのではないでしょうか?
この像は、普段は、奈良国立博物館の「なら仏像館」に展示されています。

平安後期~鎌倉初期とみられる、立派な広目天像です。
この像は、元々、4躯一具の四天王像として興福寺に遺されていたのですが、残りの3躯は明治時代に寺外に流出し、広目天像のみが興福寺に遺されました。

寺外に流出した3躯は、現在、増長天、多聞天の2躯が奈良国立博物館の所蔵、持国天像、1躯がミホミュージアムの所蔵となっています。

奈良国立博物館・興福寺旧蔵 増長天像(平安~鎌倉時代)奈良国立博物館・興福寺旧蔵 多聞天像(平安~鎌倉時代)
奈良国立博物館・興福寺旧蔵 増長天像(左)、多聞天像(右)~平安~鎌倉時代

ミホミュージアム・興福寺旧蔵 持国天像(平安~鎌倉時代)
ミホミュージアム・興福寺旧蔵 持国天像(平安~鎌倉時代)

「なら仏像館」へ行くと、興福寺蔵の広目天像と、奈良博蔵の増長天、多聞天像が並んで展示されているのをご覧になった方も多いのではないかと思います。

この四天王像の伝来や安置堂についても、はっきりしたことはわかりません。
明治21年(1888)の近畿地方古社寺宝物調査の時に、東金堂の破損仏を撮影した写真が残されており、そこに写っている首と胴がバラバラになった四天王像が、この四天王像だということです。

明治21年撮影 興福寺古写真~東金堂の破損仏像・バラバラの四天王像が見える
明治21年撮影 興福寺古写真~東金堂の破損仏像・バラバラの四天王像が見える

この四天王像の3躯が、明治時代に寺外に出たいきさつとその後の来歴について、ちょっとふれておきたいと思います。

明治39年(1906)、興福寺はお寺の維持の基本金調達のために、破損仏77体を払い下げました。
2万3千円の寄付金により払い下げを受けたのは、三井の益田鈍翁(孝)でした。
この時払い下げられた破損仏像の中に、3躯の四天王像も含まれていたのでした。
払い下げ時に、興福寺で撮影された古写真が残されており、3躯の四天王像もその中に写っています。

明治39年益田鈍翁への払い下げ仏像の古写真(寺外へ出た3躯の四天王像が写されている)
明治39年益田鈍翁への払い下げ仏像の古写真(寺外へ出た3躯の四天王像が写されている)
なお、左前方の菩薩立像は、現在、ボストン美術館蔵・快慶作弥勒菩薩像


広目天像は、興福寺に残されました。
保存状態が良くて、破損仏の中には入れられなかったということなのかもしれません。

寺外に出た3躯の四天王像は、その後、ご覧のような来歴をたどりました。

興福寺から出た3躯の四天王像の来歴

興福寺を出た時には、随分破損していたようですが、今ではきれいに修理修復され、立派な姿を見ることができます。


今、話題の運慶作・元北円堂四天王像(南円堂⇒新中金堂安置)、康慶作・南円堂四天王像(仮講堂から南円堂へ)という、二つの四天王像に注目の眼が注がれていますが、そのほかの3つの四天王像もなかなかの優作、立派な像で、美術史上も重要な位置を占めるものです。


これらの四天王像も含めて、「興福寺に遺されている5つの四天王像」について、ちょっと振り返ってみました。


この秋の金堂落慶法要の時期には、南円堂、北円堂の開扉もあるのではと思いますので、これら5つの四天王像を、一度に拝するチャンスに恵まれるのではないかと思います。

興福寺の四天王像を一巡りしてみるのも、興味深いかもしれません。