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観仏日々帖

古仏探訪~草津、宝光寺・薬師如来像と橘堂・観音像の秘仏御開帳 [その2] 【2017.9.16】


2.橘堂・三面六臂の観音像の御開帳



宝光寺の秘仏・薬師像と、観音堂・聖観音像に、想定外の大満足の後、近くの橘堂・観音像の御開帳に向かいました。

橘堂の三面六臂観音像は、10~11世紀頃の、お顔の大変美しい観音様です。

橘堂・三面六臂観音像(平安時代・草津市指定文化財)
橘堂・三面六臂観音像(平安時代・草津市指定文化財)

像高:107cm、ヒノキの一木彫・内刳無し、本面・両脇面・頭頂面が十四面で、六臂の観音で、草津市の指定文化財となっています。

この像の呼び方については、三面千手観音像と書かれたり、千手観音と断じるのを避けて、三面六臂観音像、十四面六臂観音像と書かれていたりします。
ここでは、市指定文化財の名称となっている「三面六臂観音像」と呼ばせていただきました。



【宝光寺御開帳に合わせて開帳される、橘堂の観音様】


橘堂は、宝光寺の北西5~600m程の、草津市志那町という処にあります。

この橘堂の観音様の御開帳は、宝光寺の御開帳の時に合わせて、同じ時期の行われることとなっています。
由緒によると、南都僧、定恵が勅願により宝光寺を創建した際に、同時に建立されたものという伝えがあり、御開帳も宝光寺と一体ということになっているようです。

公園の広場のような場所に、ポツリと建てられた小堂があり、そこが橘堂です。

御開帳日の橘堂
御開帳日の橘堂

本日は、御開帳日ということで、お堂の横にテントが張られ、地元の方がご開帳の対応をされていました。

橘堂・観音像御開帳の看板、ご対応の方々のテント
橘堂・観音像御開帳の看板、ご対応の方々のテント



【端正で美しいお顔に、思わず見惚れる三面六臂の観音像】


早速、お堂に入って、観音像のご拝観です。

内部が金色のお厨子に祀られている橘堂・観音像
内部が金色のお厨子に祀られている橘堂・観音像

橘堂・三面六臂観音像
橘堂・三面六臂観音像

なんといっても「美しく、整ったお顔」が、印象的です。
「端正」という言葉が、そのままあてはまるようなお顔の造形で、見惚れてしまいます。
優美だけれども、キリリとしっかり締まったお顔です?

端正で美しいお顔の橘堂・三面六臂観音像
端正で美しいお顔の橘堂・三面六臂観音像
端正で美しいお顔の橘堂・三面六臂観音像

いわゆる、藤原風の「繊細優美」と云われる雰囲気とは少し違っています。

「しっかりとした彫り口の中に、心鎮まる穏やかさがこめられた、端正な顔貌。」

とでもいうのでしょうか。

本面、脇面の三面のお顔が、厨子の内側の金色に映えて、浮かびあがってくるような幻惑感さえ覚えてしまいます。
この観音像を拝すれば、誰もが、このお顔に魅了されてしまうことと思います。

像全体のプロポーションも、バランスよく整っており、なかなか出来の良い像です。

橘堂・三面六臂観音像
橘堂・三面六臂観音像

肉付けも穏やかながら豊かなものがあり、衣文も大人しく整ったものですが、シャープな刻線で彫られています。

橘堂・三面六臂観音像~脚部
橘堂・三面六臂観音像~脚部

檀像風の素木の像であったのしょうか?
髪際のあたりには、細かいノミ跡が残されています。



【10世紀末頃の出来の良い観音像~めずらしい三面六臂の千手観音】


10世紀末頃の制作とみられているようですが、いわゆる藤原風になっていく直前あたりの、平安中期の穏やかさの造形表現の像ということで、納得です。
そのなかでも、なかなか出来の良い像なのではないでしょうか。

橘堂・三面六臂観音像
橘堂・三面六臂観音像

この像の魅力は、三面六臂の造形バランスの良さにもあるように思います。

これを千手観音と見做すかどうかの議論もあるようですが、三面千手観音像と云うのは、現存している像が少ないそうで、京都・法性寺像(平安・国宝)、福井・妙楽寺像(平安・重文)、京都・正法寺像:元九品寺蔵(鎌倉・重文)が知られているそうです。



【展覧会ポスターとなり、一躍、人々の眼を惹いた「かくれ仏」】


私が、この観音像を初めて観たのは、もう20年近くも前のことです。

1998年秋に、滋賀県立近代美術館で開催された「近江路の観音さま展」に、出展されたのです。
この展覧会は、平安期を中心とした近江の観音像50躯ほどが一堂に会した、大変充実した仏像展でした。
なんと、その展覧会ポスターに、橘堂観音像のお顔のクローズアップ写真が使われ、図録の表紙を飾ったのでした。

「近江路の観音さま展」図録の表紙に使われた橘堂観音像のお顔
「近江路の観音さま展」図録の表紙に使われた橘堂観音像のお顔

多くの人が、
「橘堂の観音像? そんな仏像あったっけ?」
と、と思ったに違いありません。

そんなかくれ仏が、一躍、展覧会のスターの座に大抜擢され、観音像のお顔の、穏やかで心惹き込まれるような美しさに、人々が魅了されたのでした。

図録表紙の橘堂観音像のお顔
図録表紙の橘堂観音像のお顔

以来、私も、お気に入りの仏像の一つなり、今回の御開帳で、この観音像を拝するのも4回目になりました。
いつ拝しても、この観音像の「端正な美しさ」に見惚れてしまいます。



【吉田・白井両家が管理所有する橘堂】


普段は、秘仏として守られているのですが、橘堂の管理所有者である吉田家にお願いすると、ご都合が付けば、拝させていただくことが出来るのです。

実は、この橘堂の観音像は、個人所有になっているそうで、吉田家、白井家の両家で、お堂が建てられ管理されているのだそうです。
お堂のある場所も「吉田」という地名が付けられており、すぐそばの吉田家の元母屋は「吉田家住宅」とっして県指定文化財になっています。

県指定文化財となっている吉田家住宅
県指定文化財となっている吉田家住宅

お堂のある広場には、、琵琶湖養殖真珠の事業化を手掛け「淡水真珠養殖の父」と呼ばれる「吉田虎之助翁銅像」が建てられています。

橘堂のお堂の敷地に建てられている「吉田虎之助翁銅像」
橘堂のお堂の敷地に建てられている「吉田虎之助翁銅像」

ところで、なかなか整って出来の良い、橘堂・観音像なのですが、文化財としては「市指定文化財」になっています。
これだけの出来であれば、重文とまでは云わなくても、せめて県指定文化財ぐらいになってもよいのではないだろうか、と思うのですが・・・・・・

はっきりとしたことはよく判りませんが、この像が「市指定」でとどまっている訳には、観音像の本面が、

「江戸時代の後補のものではないか?」

とみられていることが、影響しているのかもしれません。



【別材で矧ぎ付けられているお顔、本面~江戸時代の後補なのか?】


先程来、「美しく端正で、見惚れる」と綴ってきた、観音像のお顔なのですが、なんと江戸時代の後補であるといわれているようなのです。
本像は、江戸時代、寛文13年(1673)に修理されたという旨の墨書が、台座に残されています。

観音像台座に残された、寛文13年(1673)修理の墨書
観音像台座に残された、寛文13年(1673)修理の墨書

その修理の際に、第一手上膊部等が後補されているのですが、火災で損傷したお顔、本面が造り直されて、矧ぎ付けられたとというのです。

たしかに、お顔、本面の側面の方には、材を矧ぎ付けたとみられる線が入っているのが判ります。
この線の処から、顔面が矧ぎ付けられているということです。

面部が別材矧ぎとなっている観音像の顔~右目の目尻から首の三道にかけて矧ぎ目の線が見える
面部が別材矧ぎとなっている観音像の顔
~右目の目尻から首の三道にかけて矧ぎ目の線が見える~


面部が別材矧ぎとなっている観音像の顔~左耳の付け根から首の三道にかけて矧ぎ目の線が見える
面部が別材矧ぎとなっている観音像の顔
~左耳の付け根から首の三道にかけて矧ぎ目の線が見える~


そうだとすると、今の美しいお顔は、江戸時代のものということになるのでしょうか?

この点について、宇野茂樹氏は、本面は江戸の補修とみて、このように述べています。

「頭上前面の化仏(頭頂仏面は除く)や、両脇・体幹部が手を除いて造像当時のものであるにもかかわらず、もっとも大事な本面が後代に補修されている。
左膝下裳の部分に火を間近に受けた跡が残ることから、おそらく火災の時に本面が損傷受け、寛文13年(1673)の修理のときに補修されたものであろう(台座裏修理銘)。
しかし作風から10世紀末の造像と考えられ、我が国でも作例の少ない三面千手として注目に値する。」
(「平安の美術」宇野茂樹・草津市史1巻1981.07所収)



【本面も、後補ではなく10~11世紀のものと見る、新たな見解も】


以来、ずっと、「本面は、江戸時代の後補矧ぎ付け」とみられていたようなのですが、高梨純次氏が、

「本面も、後補ではなく、10~11世紀のものと見てよいのではないか。」

との、新たな見方を述べています。

橘堂・観音像が図録表紙に使われた「近江路の観音さま展」の図録解説において、このように記されています。

「さらに現状についての解釈にとって大きな問題は、正面の本面が別材製となる点である。
この点については、宇野茂樹氏により、寛文13年に補修きれたものと解釈されている。
・・・・・・・
作風の違う観音像の頂上仏面と本面~本面は古く、頭頂仏面は江戸の補作?
作風の違う観音像の頂上仏面と本面
~本面は古く、頭頂仏面は江戸の補作?
本像の本面は、幹部材の前後の厚みからして、幹部材よりの彫出が可能であり、あえて別材製としているについては、やはり当初のものではないとするのが妥当であろうが、その表現からして果たして17世紀後半の後補とするにはいさきか古様を留めている。
本面は、丸々とした全体感をもち、天冠台の形式や表現も古様であり、眉から鼻にかけてのカーブも明快で、引き締まった唇の表現もバランスが整い、エッジを利かせた明快なものとなっている。
・・・・・・・・・・
この右脇面を参考として本面が後補きれた可能性もあるが、近世に至って補作がなされたとするには破綻が認められず、やはり検討した時期に近い頃の作とするのが妥当であろう。
また、頂上仏面を含めた頭上面の補作を、この寛文13年とみるならば、やはり両者の作風の違いは明らかである。」

「別材製の本面が補作されたものとしても、あまり年代の離れた時点ではなく、比較的に近い時期に行われたものと結論付けられよう。
あるいは、幹部材の木心がほぼ中央に籠められていることを嫌っての所為、または支障が生じてのことかとも推測される。」

以上のような考えを示したうえで、

「本面の制作は、10世紀末から11世紀初頭とするのが妥当であろう。」

との結論に達しています。

いずれの見方が正しいのでしょうか?



【平安時代のお顔と思いたい、端正な美しさ】


難し過ぎる議論で、私などには、どうこう云えるものではないのですが、あの本面がいずれの時代のものであろうと、「端正で美しいお顔」には惹きつけられ惚れ込んでしまいます。
あのお顔が、江戸時代のものと云われると、何とも残念至極というのが、実感です。

高梨氏が想定されているように、
「木心が中央に籠められているのを嫌ったから」
とか、
「一度、彫ってみた顔が満足いくものではなかったので、彫り直して矧ぎ付けた。」
というふうに思いたいというのが、率直な気持ちという処です。

この本面が後補という問題がなかったならば、「県指定とか重文」に指定されていた可能性もあるのでしょうか?



御開帳に訪れた8月8日は、じりじりと真夏の太陽が照り付ける、炎暑でした。
35度越えになったのかもしれません。
酷暑にもかかわらず、訪れる方が絶えることはありませんでした。

橘堂・三面六臂観音像
橘堂・三面六臂観音像


ジットしていても、うだる暑さでしたが、小ぢんまりした橘堂で、穏やかな観音像の姿を拝していると、厳しい暑さも忘れてしまいそうな、心静かな時間を過ごすことが出来ました。


古仏探訪~草津、宝光寺・薬師如来像 と 橘堂・観音像の秘仏御開帳 [その1] 【2017.9.16】


その1. 宝光寺・薬師如来像の秘仏御開帳



心待ちにしていた「秘仏~宝光寺・薬師如来像の御開帳」が、この8月にありました。

宝光寺は、滋賀県草津市にある天台宗のお寺です。
御本尊の薬師如来立像は、10世紀頃の制作と云われる平安古仏で、厳重な秘仏として守られています。


【一度は拝したいと、気になっていた、宝光寺・秘仏薬師如来像】


この仏像、一度は拝してみたいものと思いながらも、ずっと未見となっていました。

「仏像集成」(学生社刊)には、ご覧のような写真と共に、次のような解説が付されています。

宝光寺・薬師如来立像(「仏像集成」学生社刊掲載写真)
宝光寺・薬師如来立像(「仏像集成」学生社刊掲載写真)


木造 彩色 166.7cm

木造(カヤ材か、一木造)、彩色。
木心は像のほぼ中央に籠められ、内刳りはない。
頭部は体部に比して大きく造られるが、塊量性を減じ、太い襞に鎬立つ衣文を配し、股間に流す形式も彫は浅くなっている。
10世紀後半期の天台宗における立像薬師の一例と考えられる。
両手先・両足先・持物・台座・光背の一部は後補。

秘仏。  〈重要文化財〉 」


掲載写真を見ると、なかなか興味深い平安古仏です。
以前から、気になっていた仏像なのです。

近江湖南の平安古仏は、随分巡ったのですが、宝光寺・薬師像は33年に一度の厳重秘仏で、これまで拝することが叶わなかったのです。



【このチャンス、逃すまじ!~33年に一度の御開帳に、いざ草津へ】


その宝光寺・薬師如来像が、今年(2017年)8月9日~13日の5日間に限り、御開帳されることになったのです。
今年が、33年に一度の御開帳の年にあたります。
平成13年(2001)に中開帳があったそうなので、16年ぶりの本尊御開帳ということです。

「このチャンス、逃してはならじ!」

と、草津まで出かけることにしました。

宝光寺は、JR草津駅から北東に5キロほど、草津市北大萱町という処にあります。

草津市北大萱町にある宝光寺~御開帳の日

草津市北大萱町にある宝光寺~御開帳の日
草津市北大萱町にある宝光寺~御開帳の日の様子

御開帳初日の8/9、午前11時過ぎに到着したのですが、丁度、御開帳式、法要が行われている最中でした。
それほど大きなお寺ではありませんでしたが、33年に一度の御開帳ということだけあって、北大萱町の集落挙げての盛大なご開帳行事という様子です。
大勢の地元の人々が集まられている中で、読経、ご挨拶が続きます。

御開帳式が執り行われている宝光寺・本堂

御開帳式風景~ご法要が終わった処
御開帳式・法要が執り行われている宝光寺・本堂

御開帳式次第が終わると、いよいよ、ご拝観です。
めざす薬師如来像は、本堂の大きな厨子の中に祀られています。
厳重な秘仏の御本尊ですので、少し離れたところからご拝観になるのかなと思ったら、厨子の前まで近づいて拝してよいということです。

お厨子に祀られた秘仏御本尊の御開帳風景
御開帳された秘仏御本尊を、ご拝観する人々

有難いことに写真もOKいただきました。
薬師像のすぐそばで、眼近にじっくり拝することが出来ました。



【眼近にご拝観~想定外の「威圧感、存在感」に、大きな驚き】


目に映った第一印象は、予想外、想定外のものでした。

宝光寺・薬師如来像
厨子内に祀られる宝光寺・薬師如来像

写真で見た。穏やかなイメージと違います。

「ちょっと無気味とも言ってよいような凄み」
を感じます。
「なんとも言い難い、威圧感、霊感を漂わせている。」
という印象です。

宝光寺・薬師如来像

宝光寺・薬師如来像
不思議な凄み、存在感を感じさせる宝光寺・薬師如来像

写真を見た感じでは、もっと「穏やかで、優しく大人しい」感じの仏像のイメージだったのです。
いわゆる「平安中期の穏やかさ」が、前面に出たような像と予想していたのです。

ところが、何とも言えない凄み、威圧感といった雰囲気を漂わせているのです。
平安前期特有の、厳しく鋭く、塊量感あふれるというのではなく、もう少し大人しくマイルドな表現になっているのですが、独特の存在感を感じさせるものがあります。

頭部、顔貌は、随分大振りに造られていて、それだけで圧力感があります。

宝光寺・薬師如来像

宝光寺・薬師如来像~顔部
眼力、圧力感を感じさせる顔貌

お顔を見ると、まずもって「眼力」を感じます。
目尻の方まで、大きな目の見開きがしっかり続いているのが、「眼力」の根源かも知れません。

唇を分厚く突き出して、下顎のくくりをクッキリ彫り出しています。
唇、顎の感じは、神護寺の薬師如来像のタイプにちょっと似ています。

こうした顔貌の雰囲気が、独特の凄み、存在感を漂わせる表現になっているようです。

そして、肩から胸にかけての上半身は、ボリューム感があって、ダイナミックな抑揚を感じさせます。。

宝光寺・薬師如来像~体部

宝光寺・薬師如来像~体部
ダイナミックな抑揚、ボリューム感がある宝光寺・薬師如来像~体部


【下半身の穏やかであっさりした表現に、少し拍子抜け
~上半身の迫力とは、ミスマッチ】


このように書き綴ると、平安前期の仏像そのもののような文章表現になってしまうのですが、下半身に目を移すと、造形感覚が随分違うのに気付きます。

腰から下、足下までの下半身の造形は、衣文も浅く、抑揚も少なくて、拍子抜けしたように、大人しくあっさりしたものになっています。
上半身の調子とはかなり違って、下半身だけ見ると、穏やかな藤原風の雰囲気といってもおかしくありません。

宝光寺・薬師如来像~脚部
穏やかであっさりした調子の宝光寺・薬師如来像~脚部



【制作年代は、10世紀初頭、10世紀末?~別れる専門家の解説】


このあたりの薬師像の造形を、専門家はどのように解説しているでしょうか。
厳重な秘仏とされているからか、解説されている本が少なかったのですが、このように述べられています。


「草津市史」の宇野茂樹氏の解説です。

「この像は秘仏で33年に一度の秘仏となっている。
像高166センチメートル、一木彫成の立像薬師である。
顔の表情は深厳さを漂わせ、両肩を大衣でおおう通肩の柄衣(僧衣)の衣摺には、翻波がみられる。
造像期はおよそ9世紀最末期から10世紀初頭ごろと考えられる。
・・・・・・・・
最澄の造立した比叡山の根本薬師堂の薬師如来が立像であったことから、天台宗寺院には立像薬師が多くみられる。
この宝光寺の薬師如来が立像であることは、この薬師如来が造像されたときは、すでに宝光寺は天台宗の勢力下におかれていたと考えることも無理ではない。」
(「草津市史・第1巻~平安の美術」執筆・宇野茂樹、1981刊)


井上一稔氏の解説です。

「宝光寺は奈良時代に建立されたと伝えられ、境内付近からはこの時代の軒丸瓦を出土している。
本像は縁起によると、最初の堂が火災にあった後、最澄が造立した像であると伝えられる。
もちろんこの縁起を信ずるわけにはいかないが、最澄に関連した天台系の薬師であることは、その容姿から伺うことが出来る。
それは、本像が天台系の薬師である蓮台寺像や、善水寺像と似る像であるからである。

ヒノキの一材から彫成し内刳りを施さず、両手両足先を矧ぐのみで、古様なつくりをしている。
しかし、衣文線などに省略と形式化がみられるところから、10世紀後半の作と考えられる。
体部には当初の彩色を残し、光背の身光及び光脚部は当初と考えられることも貴重である。」
(「滋賀の美 佛 湖南・湖西」京都新聞社1987刊)


制作年代については、
平安前期の森厳さ、威圧感の雰囲気を残す造形をみて、10世紀初頭の制作とする見方、
塊量性が減じて、衣文の形式化、省略化がみられる点をとらえて10世紀後半の制作という見方、
とがあるようです。

難しいことは判りませんが、たしかに、下半身の浅く抑揚のない衣文、あっさりした造形をみると、10世紀後半というのは、判るような気がします。



【駆けつけた甲斐があった、宝光寺・薬師御開帳
~惹き込まれる存在感の平安古仏に大満足】


ただ、薬師像の独特で不思議な存在感を漂わせた雰囲気は、大変魅力的で惹きこむものがあります。

天台薬師の系譜にある像であるからでしょうか?
なるほどと思わせる、凄みある霊威感を発散しているようです。
今は、古色になっていますが、もともとは朱衣金体であったのでしょうか?


わざわざ、ご開帳に駆けつけた甲斐がありました。
想定外に、迫力と存在感のある仏像に出会うことが出来ました。
そして、心にしっかり残る仏像となりました。


【ノーマークの観音堂・聖観音像に遭遇、その素晴らしさに、ビックリ!】


満足感に浸って、宝光寺を後にしようかと思った処、本堂の隣の観音堂にも古い仏像が祀られているという話を、お参りに来られた方から教えていただきました。

宝光寺・観音堂
本堂の隣になる宝光寺・観音堂

それこそ、期待もせずに、折角だから一応観て帰ろうかと、寄ってみました。

観音堂には、等身より少し大きい目の聖観音像が祀られていました。

宝光寺観音堂・聖観音像
観音堂に祀られる聖観音像

その姿を観て、ビックリしました。
堂々たる平安一木彫の観音像なのです。

宝光寺観音堂・聖観音像

宝光寺観音堂・聖観音像
宝光寺観音堂・聖観音像

平安前~中期の雰囲気をたたえた、それもなかなか出来の良い、一流といってもよい仏像です。
バランスのとれた確かな造形力、力強さがこめられた、正統的作品という感がします。
すっかり気に入ってしまいました。

「伸びやかさを感じさせる雄大な造形で、どこか大陸風のエキゾチズムを感じさせる。」

そんな印象を受けました。

宝光寺観音堂・聖観音像~顔部
宝光寺観音堂・聖観音像~顔部
宝光寺観音堂・聖観音像~顔部

レベルの高い仏像ぞろいの近江、湖南でも、一目置いてもよい平安古仏の一つと云ってもよいのでは、という気持ちになってしまいます。

古様なところもありますが、造形の穏やかさが顔を見せ、衣文の抑揚、躍動感が弱くなってきているようで、10世紀も半ばごろの制作なのかなという気がしました。



【何故だか、文化財・無指定~これだけの平安一木彫像がどうして?】


驚くことに、この観音像、全くの無指定です。
市や県の文化財指定も受けていません。

「これだけの、立派で出来の良い平安古仏が、どうして無指定のままなのだろうか?」

素直な疑問です。

眼近に拝すると、鼻の部分、両腕から先は後補のようですが、当初の像容を損じるほどのものではないように思えます。

宝光寺観音堂・聖観音像~顔部宝光寺観音堂・聖観音像
後補のように見える鼻部と両腕部


「それでも、市も県も無指定というのは、無いでしょう!」

というのが率直な感想です。

これほどの平安古仏が、世に知られることなく、文化財指定もされずに、お堂に祀られているのです。

「近江の地の仏像というのは、本当に奥深い」

つくづく、そのように思い知らされました。



「想定以上に、存在感、凄みのある薬師如来像の御開帳」

「全く予期しない、出来の良い堂々たる一木彫観音像との出会い」

 
となりました。

思いもかけぬ、満足感一杯の、草津・宝光寺への古仏探訪となりました。


【その2】では、宝光寺と同じ日に御開帳となる、橘堂・三面千手観音像のご拝観について、ご紹介したいと思います。