「京のかくれ仏探訪」第2回のご紹介は、右京区嵯峨樒原高見町にある般若寺の十一面観音立像です。
【図録・「京の古仏~里にいきづくみ仏たち」掲載の仏像を、いくつかご紹介】
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そこには、きっちりした寺院に祀られる仏像ではなく、無住のお堂などで地元の人々に、守られ受け継がれてきたてきた古像が採り上げられています。
ラインアップされている仏像をみますと、知られざる、興味深く魅力ある仏像がいくつも掲載されています。
そこで、これから数回は、「京の古仏~里にいきづくみ仏たち」掲載の仏像から、
「この仏像は、なかなか興味深い、心惹かれる。」
と、私が感じた仏像達の探訪記をご紹介したいと思います。今回ご紹介する、般若寺の十一面観音立像も、この「京の古仏~里にいきづくみ仏たち」に採り上げられている仏像です。
ただ私が、この般若寺を訪ねたのは、この図録冊子を手に入れる前のことでした。
この仏像の存在を知ったのは、
井上正著「古佛~彫像のイコノロジー」1986年・法蔵館刊
に採り上げられていたからです。![]() |
ご存じのとおり、この本には、井上正氏が、独自の考え方によって、
「奈良時代以前の制作にさかのぼる可能性がある、古密教彫像」
とみる木彫像が、ラインアップされています。
そこに掲載されている仏像達は、井上氏の言葉を借りると、
「烈しい霊威表現、尋常ならざる精神性を発する表現」
の、歪んだ造形、異常な量感の強調とか化現表現などがされている仏像です。
私は、これらの木彫像が、「井上氏の云う、奈良時代以前の制作の古密教像」とは思わないのですが、気迫勝負とでも言ってよいような迫力、強烈なインパクトを感じさせる仏像に、心惹かれるものがあり、出来得れば、全部見てやろうと廻っています。
そんなわけで、般若寺・十一面観音像も、是非拝してみたい仏像の一つなのでした。
1985年に、京都市指定文化財に指定されています。
【ここも京都市? 愛宕山の奥、辺鄙な村落にひっそり在る般若寺】
般若寺を同好の方と訪ねたのは、9年程前、2007年のことでした。
般若寺・十一面観音も、地域の方々に守られてきた仏像です。
京都市の教育員会のご担当に連絡をお願いし、管理をされている方に拝観のご了解をいただき、訪ねました。
めざす般若寺は、「右京区・嵯峨樒原高見町」という処にあります。
地図で見ると、京都の西北のすごい山の中です。
嵐山・嵯峨野の西北に、愛宕参りで有名な愛宕神社のある愛宕山がありますが、この愛宕山の山向こうです。
かつては、亀岡方面からの愛宕詣への道としてにぎわいがあったということです。
嵐山方面から車で出かけたのですが、なかなかの山道で、ビックリでした。
両側を鬱蒼とした木々に囲まれた、細い曲がりくねった九十九折りの道を7~8キロ走りました。
ちょっと怖くなるほどの山道をやっと抜けると、眺望が開け小さな村落が目に入ってきます。
そこが、嵯峨樒原高見町です。
こんなところも京都市に入るのかと思う、辺鄙な山の中の村落です。
般若寺は、民家かと見紛うような、小さなお堂でした。
お堂への上り口には、愛宕山と記された、立派な石標があります。
かつて、愛宕詣でへの亀岡方面からの参道として賑わったことを物語っているようです。
【野趣ある素朴さに惹かれる、古様な観音様~痩身、腰高でしなやかな歪み】
お待ちいただいていた地元の方にご案内いただき、早速、十一面観音像を拝しました。
一見しただけで、平安中期以前の、かなりの古仏であることが判ります。
すらりと痩身です。
ウエストの位置が異常に高いというか、腰から下が大変長いスリムな仏像というのが、第一印象です。
ちょっといびつなまでのバランス、と云ってもよいのかもしれません。
身体の軸も、上半身が右に歪んでいます。
腰から下の衣文は、弧を描く衣文線の密度が濃いというのか、幾重にも刻まれています。
このように、
「異常な身体バランス、上半身の歪み、密集したような衣文」
などと、文字で表現すると、すごい迫力のある造形、気とかオーラを発散するような、アクの強い仏像を想像してしまいそうです。
ところが、実際にはそんな感じはしません。
むしろ、全体としては、
「落ち着いたというか、穏やか」
と云った方があたっているような印象を受けます。身体の軸の歪みも、「歪んでいる」というよりは、「しなやか」という表現の方が似つかわしそうです。
お顔は目鼻口に後の手が入っているようで、眼線の彫り起こしなどがあるようなのですが、
当初、もっと厳しく激しい表情をしていたようには感じられません。
彫り口は素朴で、割合と細部にこだわらずに造形されています。
入念に造られているのではなくて、結構、粗略というか、簡略に表現されています。
衣文の彫も随分浅く、ちょっと手を抜いたのかなと思うほどに、表面的な感じがします。
野趣のある、いわゆる地方作的な造形と云えそうです。
とはいっても、かなりの古像であることは、間違いありません。
【般若寺・観音像の故郷は、なんと奈良の地だった】
この地に遺る平安古仏というと、愛宕信仰にかかわる山岳信仰などにまつわって造立された仏像が、今日まで伝えられたとのかと、当然に想像してしまいます。
ところが、この観音像、当地で造られたものではなかったのです。
太平洋戦争末期に行われた、京都重宝調査の台帳に、
「桃山時代に、某皇女が本像を奈良より搬び、般若寺付近にあった興禅寺に安置して本尊とし、のち当寺に移されたとする旨の寺伝」
が記されており、奈良の地より当地に移された像であることは、間違いないようなのです。この仏像の故郷は、なんと奈良の地だったのです。
その話を知って、この観音像をもう一度見直してみると、なるほどと、すごく納得がいくように思えます。
「落ち着いた、穏やか、しなやか」
というキーワードが、似つかわしいような印象と記しましたが、それは、この像が奈良の地の伝統の延長線上にあるからなのかもしれません。
「奈良のちょっとはずれの、在地の地方作的古像」
このように考えてみると、この観音像の造形の雰囲気が、すんなり理解できるような気がするのです。
奈良の地方作的な古像で、たいへん痩身な観音像というと、桜井市・慶田寺の十一面観音像(市指定文化財)が思い出されます。
10世紀頃の制作と云われてきましたが、近年は、9世紀前半からそれ以前との見方もある奈良の地方作的一木彫像です。
造形感覚は、般若寺像とは随分違うものです。
慶田寺像の方がかなり古様のように思います。
ただ、この両像のような、スリムで長身といったタイプの素朴な表現の一木彫像が、奈良の在地の木彫像にあったのかなという気もします。
いずれにせよ、記憶の中にしっかりと残る、独特の魅力を感じる観音像です。
【いつ頃の制作? 見方が別れる、奈良の地方作的一木彫像】
さて、この般若寺観音像、いつ頃の制作と思われるでしょうか?
10世紀頃の制作なのでしょうか?
9世紀ごろまでさかのぼる平安前期像なのでしょうか?
正直なところ、私もウーンと唸って、迷ってしまいます。
桜井・慶田寺観音像の制作年代の見方が別れると同様に、いろいろな見方、考え方が出来る、ちょっと難しい彫像と云えそうです。
この般若寺・十一面観音像、博物館で観たことがある方も、いらっしゃるかもしれません。
私の記憶では、2005年10~11月に京都国立博物館で開催された、「最澄と天台の国宝展」に出展されました。
翌年、東京国立博物館でも巡回展があったのですが、残念ながら般若寺像は京博のみへの出展で、私は観ることが出来ませんでした。
ごく最近では、京都国立博物館の平常展示で、昨年、2015年6~9月に展示されました。
この時、ご覧になった方は、どのように感じられたでしょうか?
本像を採り上げた文章、解説などをみてみると、制作年代の見方には、9世紀初、もしくはそれ以前から、10世紀末頃まで、随分と幅があるようです。
ご紹介してみたいと思います。
品質構造等は、以下の通りです。
像高167.5㎝、カヤかとみられる針葉樹の一木彫像、さほど深くない背刳りに背板、頭上面など後補、面部に補修痕あり。
井上正氏は、著作「古佛~彫像のイコノロジー」で、はっきりした制作年代の見解は示していませんが、次のように、奈良時代に遡る可能性を示唆するかのようなコメントを記しています。
「長痩感に加うるに、このような浅彫りの衣文表現を以てする例は、すでに徳島・井戸寺十一面観音立像と京都・光明寺千手観音立像とに見られた。
このうち、井戸寺像と本像とは、同じく赤色の檀色像であり、光明寺像は、黄色の檀色像であった。
ビャクダンの心をそなえた着彩代用檀像の表現として、直接の結び付きを指摘することは難しいにしても、一つの括りのなかにこの三者は入ってくるものといえよう。
バラバラに印象される古密教系尊像の場合も、ようやくある種のつながりが生まれてきたようである。」
(「古佛~彫像のイコノロジー」法蔵館・1986年刊)
このうち、井戸寺像と本像とは、同じく赤色の檀色像であり、光明寺像は、黄色の檀色像であった。
ビャクダンの心をそなえた着彩代用檀像の表現として、直接の結び付きを指摘することは難しいにしても、一つの括りのなかにこの三者は入ってくるものといえよう。
バラバラに印象される古密教系尊像の場合も、ようやくある種のつながりが生まれてきたようである。」
(「古佛~彫像のイコノロジー」法蔵館・1986年刊)
一方、井上氏のコメントと、ほぼ同時期に刊行された「京都の美術工芸」という調査記録書では、10世紀末頃の制作とみて、このように解説されています。
「こうした古式の一木彫成像としては、体躯の量感をかなり減じ、躰の厚みも少ないが、上半身の肉どりにはなお抑揚があり、腰高にまとった裳には、翻波を混えてにぎやかに衣文をあしらうが、その彫りは浅く、鈍い。
・・・・・・・・
概して、地方的な趣の濃い像といわざるをえないが、制作の時期は10世紀末頃まで遡ると考えられ、・・・・・・」
(「京都の美術工芸~京都市内編・上」京都府文化財保護基金・1985年刊)
・・・・・・・・
概して、地方的な趣の濃い像といわざるをえないが、制作の時期は10世紀末頃まで遡ると考えられ、・・・・・・」
(「京都の美術工芸~京都市内編・上」京都府文化財保護基金・1985年刊)
9世紀の制作とみる、このような解説もあります。
「天衣や条帛をうねるような衣文線で構成し、一見して唐招提寺や大安寺の木彫群を連想させる。
とはいえ上記諸像が、衣文を深く刻むのにくらべると本像の衣文は浅く彫りあらわされている点で違いがある。
また、本像のやや前傾した姿勢は天平彫刻というよりは、9世紀の製作とみなされる観音像などによくみられるものである。
・・・・・・・・・・
本像が、上記のような特徴を持つのも、天平時代の名残を色濃く残す奈良において9世紀になってから製作されたもの、と考えれば納得がいくのではないだろうか。」
(「最澄と天台の国宝展」図録~解説・浅湫毅、2006年刊)
とはいえ上記諸像が、衣文を深く刻むのにくらべると本像の衣文は浅く彫りあらわされている点で違いがある。
また、本像のやや前傾した姿勢は天平彫刻というよりは、9世紀の製作とみなされる観音像などによくみられるものである。
・・・・・・・・・・
本像が、上記のような特徴を持つのも、天平時代の名残を色濃く残す奈良において9世紀になってから製作されたもの、と考えれば納得がいくのではないだろうか。」
(「最澄と天台の国宝展」図録~解説・浅湫毅、2006年刊)
どちらの解説の見方が的確なのでしょうか、よく判りません。
解説を読んでいると、この像の類例や、同じ系譜の像を挙げるのなかなか難しいのかなという気がしました。
これらの解説には、
「長痩感に加うるに、このような浅彫りの衣文表現を以てする例は、すでに徳島・井戸寺十一面観音立像と京都・光明寺千手観音立像とに見られた。」
「天衣や条帛をうねるような衣文線で構成し、一見して唐招提寺や大安寺の木彫群を連想させる。」
と述べられていました。
「そんなふうに連想したり、そんな系譜の仏像だと感じるかなあ?」
私の感性では、「そのとおりだな」と思えないところのあります。
制作年代については、古様だけれども、地方作的で彫りも浅く粗略な表現であることを、どのようにみるかということなのでしょう。
「9世紀まで遡るというのはちょっと難しいかな?10世紀の半ばごろぐらいか?」
というのが、私の個人的な印象です。
【心に残った般若寺・観音像との出会い~愛宕山奥・鄙の地に在るのが、相応しい】
ひっそりとした里山に祀られる「京のかくれ仏」との、心に残る出会いでした。
いかにも在地的で野趣のある、般若寺・観音像の姿を拝していると、元在ったという奈良の地ではなく、この愛宕山の奥の、鄙そのもの地に祀られているのが、一番相応しいのだろうという思いとなりました。
この般若寺の十一面観音像、地元の管理の方のご都合がつけば、拝観はお願いできるようです。
お世話になった方に、
「拝観に訪ねてこられる方は、折々いらっしゃるでしょうか?」
とお尋ねすると、「この山中の村落まで、わざわざ訪ねてくる人は、本当にめったにいませんよ。」
というお話でした。またここまで訪ねて来るのは、いつのことになるだろうか、という思いを抱きながら、山間いの般若寺を後にしました。