土の匂いを感じさせるといってよいのかもしれません。
野趣にあふれた、力強い平安仏に出会いました。
四条畷市上田原に在る、正傳寺の薬師如来立像です。
像高:181.1㎝、クスノキの一木彫。
2年前、平成24年に四条畷市の市指定文化財に指定されている仏像です。
皆さん、ご覧になった印象は、如何でしょうか?
グッと惹き付けられるものを感じられた方もおられるでしょう。
ちょっとアクが強そうで、好みじゃないなと感じられた方もいらっしゃるのではないかと思います。
先日(2014年10月)、同好の方々と、一日、大阪の平安仏を巡りました。
拝したのは、このような寺々の仏像です。
・海岸寺(堺市中区)「菩薩立像・十一面観音立像」 (無指定・平安後期)
↓
・長円寺(羽曳野市古市)「十一面観音立像」 (重文・平安前期)
↓
・神宮寺感応院(八尾市恩智中町)「十一面観音立像」 (重文・平安後期)
↓
・獅子窟寺(交野市私市)「薬師如来坐像」 (国宝・平安前期)
↓
・正傳寺(四條畷市上田原)「薬師如来立像」 (市指定・平安中期)
国宝・獅子窟寺「薬師如来坐像」を除けば、なじみの薄い仏像ばかりかと思います。
私も獅子窟寺を除いては、皆、初めて訪ねるお寺様でした。
同好の方々との仏像談義にも花が咲き、愉しい観仏探訪の一日となりました。
この日、拝した仏像のなかで、思いのほかに強い印象に残り、興味深かった仏像が、ご紹介する、正傳寺・薬師如来立像です。
想定外のインパクトでした。
まさか、これほどに存在感を感じさせる仏像だとは、予想もしていなかったのです。
正傳寺・薬師如来立像を拝しに行ってみようかと思ったのは、この像が、堺市市立博物館で開催された「大阪の仏像展」図録に掲載されていたからです。
平成3年(1991)に開催された展覧会で、私も図録を持っているだけなのですが、そこにカラー写真が載っていたのです。
当時は無指定で、10世紀後半頃の平安仏として採り上げられていました。
写真で見ると、ちょっとバランスを失した感じで、実際に拝するとガッカリしてしまうのではないかと思ったのですが、
「10世紀の平安仏」と聞けば、
「これは、拝さねばならない!!」
と、探訪先に組み入れることとしたのです。正傳寺は、四条畷市上田原という処に在ります。
JR片町線・四条畷駅から東へ、近鉄・生駒駅から北へ、それぞれ4~5キロの処になります。
場所のイメージが浮かんでこないかもしれませんが、交野市私市の獅子窟寺の真南3キロぐらいにあたります。
山門前には「融通念仏宗 仏法山 正傳寺」と刻まれた立派な石碑が建てられています。
可愛らしい小坊主さんの石造りの郵便ポストが、微笑ましく迎えてくれました。
ご住職にご案内いただき、目指す薬師如来様にご拝観です。
正傳寺のご本尊は阿弥陀如来様で、薬師如来像は本堂に棟続きの薬師堂に祀られています。
薬師如来像が祀られる仏壇は、壁面、天井が金色に荘厳され、照らされたライトのなかでまばゆく輝いています。
薬師像は、2メートル近い大型像です。
金色の荘厳に映えるかの如くに、堂々たる姿でお立ちになっておられました。
この荘厳、近年薬師堂の改修にあたって、ご住職が、薬師如来像のお姿が一層映えるようにと、随分苦心、工夫されたものだそうです。
ご住職には、大変気さくに接していただき、薬師如来像の来歴やお姿について、懇切、丁寧なご説明、お話をいただきました。
さて、眼近に、じっくりとご拝観です。
たしかに、奈良の大寺の第一級の美麗な仏像から見ると、第二級、三級といわざるを得ない仏像であるのは事実です。
正傳寺を訪れる前に拝してきた、獅子窟寺の国宝・薬師如来坐像の見事さと比べると、その出来栄えは、残念ながら見劣りしてしまいます。
言葉は悪いですが、ちょっと「田舎風の雰囲気がある仏像」という感じです。
ところが、この薬師如来像、得も言われぬ迫力があるのです。
「野太く、ズシンと迫ってくる。」
ものがあるのです。![]() |
正傳寺・薬師如来立像~顔部 |
ドーンと腹に応えます。
ボディーブローを叩き込まれたような、衝撃とでもいうのでしょうか?
そんなインパクトを感じさせる仏像です。
惹き付けられる魅力を感じました。
この魅力、どのような言葉で表現すればよいのでしょう?
「土の匂いがするパワー」
「土俗的な妖しさを感じさせる顔貌」
「野趣あふれる力感」
こんなワーディングが、心に浮かんできました。
![]() |
正傳寺・薬師如来立像~体部 |
薬師如来像の造形・表現をみると、平安前期の仏像の空気感を十分に漂わせています。
ただし、いわゆる森厳とかシャープとかというのではありません。
造形はどちらかというと大雑把なところがありますし、頭が体躯に比べて大きいなど、造形バランスにもあまりこだわっていないようです。
在地の仏師の手によるからなのでしょうか?
この像が、カヤやヒノキ材ではなく、クスノキ材で造られていることも、在地で造られた像であるからかもしれません。
なんといって印象的なのは、お顔の造形でしょう。
大きすぎるほどのお顔です。
「目尻が吊り上って見開いた眼、太い鼻梁線の大きな鼻、分厚く突き出した唇」
が特徴的です。
顔・頭は、卵型で、ネット帽やスキー帽をかぶったような螺髪も目を惹きます。
ちょっと、不気味さを感じるといってもよいお顔です。
その不気味さを発散せているエネルギーに、強く惹き付けられてしまいます。
私も、ご一緒の同好の方も、
「惹き付ける存在感のある、興味深い平安古仏ですね。」
「もっともっと知られても良い、迫力ある仏像ですね。」
こんな言葉を交わしたのでした。
この薬師如来像、来歴や制作年代、造形については、どのようにみられているのでしょうか?
ご住職の説明によると、この薬師像は、客仏だそうです。
「この薬師像は、近くにあった森福寺というお寺に祀られていた仏像であったのですが、森福寺は明治初年に廃寺となり、村人によって、廃寺のお堂で守られてきたそうです。
そのお堂も、腐朽してしまい、昭和の年代になって正傳寺に移されて祀られることになったのです。」
というお話でした。
その森福寺も、「四条畷市史」によると、
「戦国期まで遡る寺院であることを証し得ても現在は廃寺となって、縁起を語る資料も存しない。」
ということで、この平安古仏の当初の来歴をたどることはできません。
この野趣あふれる独特の薬師像、いづれの寺で、どのような由緒で造られたのでしょうか?
制作年代と造形についてはどうでしょうか?
この薬師如来像、以前は、「鎌倉時代の制作」とみられていたようです。
昭和59年(1984)刊、「四条畷市史」によれば、
「仏像に詳しい人の鑑定によれば、胸のふくらみ、全体的な立体感、衣文の滑らかさから見て、鎌倉初期のものと説明される。」(山口博氏執筆)
と、されています。
この仏像が、平安前期の造形感を持つ像だとみられるようになったのは、いつ頃のことかわかりませんが、
平成3年(1991) 「大阪の仏像展」に出展された時には、10世紀後半の平安仏と解説されています。
「やや窮屈な姿勢であるが、これは一木よりすべて木取りしたためである。
目尻をつり上げ、唇を突き出した表情は厳しく、胸部・腹部の肉身のボリュームのあるさま、大振りの衣文をあしらったところは平安時代前期的であるが、衣文の彫りは浅く、ネツトを被ったような頭部は10世紀〜11世紀前半の作品によく見られるところなどから、
本像の製作は10世紀後半頃と推定される。」(吉原忠雄氏解説)
平成24年(2012)、四条畷市の文化財指定に際しての指定事由には、このように説明されています。
(ご住職から、指定事由書の写しを頂戴しました。)
「僧祇支の右肩部に納衣を掛ける着衣法は、7世紀後半の奈良県法輪寺薬師如来坐像から見られ、9世紀に遺例がやや多く、10世紀にはあまり見られない。
本像は古い着衣法の例である。
短い団子鼻に、日じりを吊り上げて唇を突き出した表情は厳しく、胸部・腹部の肉身の量感や大振りの衣文は平安前期的であるが、衣文の彫が浅く、また側面観がやや浅く、平安時代10世紀に入るかもしれない。」
年を経るごとに、「鎌倉初期」から「10世紀後半」、そして「10世紀に入るかもしれない」と、だんだん制作年代が古くみられるようになっているようです。
この薬師如来像の持つ、平安前期に雰囲気を漂わせた古様さが、ますます注目され、認められるようになってきたということなのでしょうか?
私は、この薬師如来像の顔貌、造形表現を見ていて、
「石山寺と湖南の仏像展」で見た、3躯の仏像のことが思い浮かびました。
平成20年(2008)、大津市歴史博物館で開催されて仏像展です。
*須賀神社(滋賀県大津市) 薬師如来坐像 (平安時代・10C前半)県指定文化財
*若王寺(滋賀県大津市) 如来立像 (平安時代・10C)重要文化財
*長光寺(京都府城陽市) 阿弥陀如来立像 (平安時代・10C)市指定文化財
いずれの仏像も、ネット帽・スキー帽をかぶったような螺髪で、卵型の顔・頭です。
それよりも、
「吊り上った目尻、太くずんぐりした鼻梁、分厚く突き出した唇」
で、ちょっと「不気味で妖しい表情」
をしている処が、同じような雰囲気を醸し出しています。特に、若王寺・如来立像は、正傳寺・薬師立像に像全体の造形感覚に通じるようなものを感じます。
ただ、須賀神社像、若王寺像の方が、鋭く初発的で、強い力感がみなぎっているのに対して、正傳寺像の方は、これらの造形に倣いながらも、型崩れやゆるみ、鈍さが出てきているような気がします。
ご住職が、
「この薬師様は、一木造ですごく重たいのかと思ったら、意外と軽いのですよ!
無理すれば、一人でも持ち上がるほどなんですよ。
背中の方から、相当しっかりと内刳りがされているようですから。
後ろの方から見ると、内刳りの様子がわかりますよ。」
とおっしゃいました。
後ろへ回らせていただくと、相当に深くしっかり内刳りされており、体部の肉厚が結構薄いことが伺えます。
また、側面から拝すると、躰奥が結構薄くボリューム不足で、肉付けも少々平板なことにも気がつきます。
こうした内刳りの状況や側面観を考えると、須賀神社像、若王寺像のような造形タイプの系譜を継承して、少し年代が経ってから、これらに倣った造形感覚で、在地の仏師によって野趣あふれて造られたのではないだろうかと、勝手な想像を思いめぐらせてしまいました。
とはいっても、この仏像をつくった仏師は、平安前期の力強さ、インパクト、霊的精神性などを、しっかり受け継いで表現し得ているからこそ、強く惹きつけるものを感じさせるのだと思います。
「10世紀後半ぐらいの制作」という堺市博物館の解説は、
「なるほどそんな感じかな、同感!」
と感じた次第です。
もう一つ、この像よーく見ると、「朱衣金体」に仕上げられていることがわかります。
当初から朱衣金体であったのか、後世にそのように変えられたのかは、良く判りません。
「朱衣金体」と云えば、延暦寺・根本中堂本尊薬師如来を倣った、「天台薬師」のスタイルです。
「スキー帽形の螺髪」、「股間のY字状衣文」などが、特徴といわれます。
10世紀に下っての根本中堂像の模像例として、伊東史朗氏は、
立像では、滋賀・充満寺の薬師如来立像、京都・正法寺の伝阿弥陀如来立像、京都・長源寺の薬師如来立像、先の滋賀・若王寺の如来立像、
坐像では、京都・六波羅蜜寺の薬師如来坐像、京都・円隆寺の薬師如来坐像、
などを挙げられています。(10世紀の彫刻・日本の美術479号至文堂刊)
正傳寺・薬師如来像を拝すると、これらの天台薬師の系譜に在る仏像の造形感覚の系譜の中に在るようにも思えます。
そもそもは、天台系の薬師像として造られたのでしょうか?
この仏像のあった森福寺は、「真言宗寺院」であったと伝えられているそうですので、良く判らなくなってしまいなすが・・・・・・
一方、元々は薬師像ではなく、「弥勒仏」であったのではないかという考えもあるようです。
この像は、通常の如来像とは手の位置が逆で、「右手を下げて左手を上げている」のです。
吉原忠雄氏は、この点に注目して、弥勒如来像であった可能性に言及しています。
「(奈良時代の作とされている)『笠置の弥勒像』の写しが奈良県大野寺にあり、右手を垂下して左手を屈する形はもちろん、ネットを被ったような頭に共通性がある。
また滋賀県若王寺の如来立像(重要文化財)は、正傳寺像と同じ形式であるが、寺伝では弥勒像とされているので、正傳寺像も弥勒像である可能性が高いと思われる。
もし、弥勒像であるならば、正傳寺像は平安時代における『笠置の弥勒像』の大型の木彫仏として大変珍しい例となるであろう。」
(大阪の仏像展図録解説・堺市市立博物館1991刊)
薬師像だったのでしょうか、弥勒像であったのでしょうか?
興味深いところです。
正傳寺・薬師如来像について、長々と、とりとめもなく綴ってしまいました。
土の匂いのする、野趣にあふれた力強い平安古仏に、想定外に出会うことが出来ました。
その存在感やインパクトに惹かれて、色々と資料にあたったり、思いを巡らせていると、なかなか興味深い仏像であることがわかってきました。
2年前に、やっと市指定文化財に指定されたばかりの、ちょっと鄙びた仏像ですが、注目すべき平安古仏だと思います。
ご案内いただいた、正傳寺のご住職様には、大変にお世話になり、懇切なるご説明と共に、じっくりと時間をかけて拝させていただきました。
心より感謝しつつ、再訪を期して、夕暮れの正傳寺を後にしました。
京都・奈良からは、ちょっと不便な場所にありますが、是非一度、正傳寺を訪ねて、薬師如来像を拝されることをお薦めします。