9月中旬(2013.9.14)早稲田大学・奈良美術研究所による
国際シンポジウム「文化財の解析と保存への新しいアプローチⅩ」
が開催され、出かけてきました。このシンポジウムは、2004年より毎年開催され、本年で10回目になるそうです。
今回は、5つのテーマの研究報告がありました。
ご紹介したいのはそのなかの一つ、桜庭裕介氏による
「飛鳥大仏のX線分析と制作技法について」
です。一年前のシンポジウムで、桜庭氏より飛鳥大仏について、このような発表がありました。
従来、「飛鳥大仏は、そのほとんどが後補で、当初の姿をとどめていない」
といわれていたが、X線調査の結果を検討した処、
現存する飛鳥大仏は、「像全体の約80%は、当初の姿をとどめる」と考えられる。
大変な、驚きの内容でありました。
発表内容の概略については、この「観仏日々帖」の「トピックス~飛鳥寺シンポジウム行ってきました」(2012.10.5)で、ご紹介したとおりです。
今回の研究発表は、その追加調査による成果を踏まえたものです。
発表のポイントは、次のようなものでした。
・今回、新たに実施した科学的調査でも、後補による鋳造と云われている部分が、飛鳥時代当初のものである可能性を、より実証する結果が得られた。
・飛鳥大仏は、当初から土型鋳造によって造られたと考えられ、その事由は、鋳造失敗の可能性を少なくするためであったと推測される。
昨年のシンポジウムで主張された調査結果や考え方が、一層補強されたものであったように思います。
【一年前のシンポジウムでの発表内容】
この研究発表について、ご紹介してみたいと思いますが、その前に、一年前のシンポジウムでの研究発表のポイントを、ちょっと復習してみたいと思います。
桜庭氏の、飛鳥大仏の科学的分析調査を踏まえた結論は、次のようなものでした。
・飛鳥大仏は、従来から「飛鳥当初の部分は、頭部の鼻より上と右手のみで、後は後世のもの」と、言われてきた。
・蛍光X線分析により、飛鳥当初といわれる部分と、後世の補鋳と云われる部分の「鋳銅の組成分析」を行った処、金属組成(銅、鉛、鉄などの含有率)に顕著な差異は認められなかった。
・これは、後世補鋳と云われる部分も、当初からの鋳造であった可能性が強いことを物語っていると考えられる。
・鎌倉時代の火災(建久7年・1196)」により、大きく損傷したものの、全体の約80%は、飛鳥当初の鋳造の姿をとどめているものと思われる。
・像全体に田形の筋跡(鋳バリの線)が残されていることから、土型鋳造の技法によって鋳造されたと考えられる
また、併せて大橋一章氏により、文献解釈の観点から、次のような考え方が示されました。
・鎌倉時代の飛鳥寺の火災を伝える古記録に、「寺塔無残」「但仏頭與手残」とあり、これまで、飛鳥寺は全焼し、「本尊の頭部と手だけが焼け残った」というふうに読まれてきた。
・しかし、室町時代の古記録に「鋳仏本元興寺跡于今在之」という記述があり、これは、飛鳥大仏が、鎌倉大仏の如く、露座仏として残されていた情景を述べているように読め、損傷したものの当初の姿をとどめていた証左と解釈することが可能である。
・古記録をこのように解釈すると、桜庭氏の考え方を裏付けるものとなる。
【今回シンポジウムでの発表内容】
今回のシンポジウムでは、
「飛鳥大仏の追加の科学的調査の結果は、昨年発表した内容をより一層裏付けるものであった。」
という説明がありました。
発表の内容を、簡単にご紹介してみたいと思います。
昨年調査では、蛍光X線分析を行ったが、X線回折分析は行われなかったとのことです。
今回は、その両方が実施され、飛鳥大仏の左膝前部分と、その鋳境部分について分析実施されました。
この左膝前部分というのは、従来、鎌倉時代以降の補鋳とされている部分です。
X線回折分析の結果、この二か所から共に、酸化第二銅(CuO)が主成分として検出されました。
これは、この部分が火中したことを物語っているとのことです。
この点について、桜庭氏から、このような説明がありました。

そもそも酸化第二銅は通常の環境で生成されることが少なく、強い酸化環境、つまり火災などによって生成される物質である。
この酸化第二銅が膝前及びその鋳境から検出されたことは、これらの部位が一度以上の火災に遭っており、その際に溶融しなかったことを示しているといえよう。」
「土型鋳造特有の鋳境を含む2箇所に火災に遭った痕跡を見出せたことは、飛鳥大仏の土型鋳造部分は創建当初の部分と解すべきで、その箇所が鎌倉時代に火中したと考えた方がよいのではないだろうか。」
すなわち、前回調査で、当初部分と後世補鋳と云われる部分で、鋳銅の金属組成に差がなかったことに加え、後世といわれる左膝前部分、鋳境部分に火中した痕跡があるのは、その部分が飛鳥時代の当初部分をとどめていると考えられる。
土や木を用いて修理した部分を除いた鋳銅の部分、すなわち全体の約80%は、飛鳥時代創建当初のものが残されているとみられる、という説明でした。
そうだとすれば、飛鳥大仏は、当初から土型鋳造で造られたことは明らかということになります。
【蝋型鋳造と土型鋳造について】
どうして、「土型鋳造で造られたことは明らか」になるのかという話について、
ここでちょっと古代の金銅仏の鋳造技術のご説明を、簡単にしておきたいと思います。
一般には、飛鳥白鳳時代の金銅仏は、蝋型鋳造で造られているとされています。
蝋型鋳造は、蜜蝋で作った仏像原型の上に土をかぶせて焼締めて、溶け出た蜜蝋と中型の隙間に、湯(熔銅)を流し込む技法です。
仏像の主要部分は、一鋳といって、一度に鋳込みますので、鋳継ぎをした後の境目の跡が残るということはありません。
これに対して、土型鋳造は、土で中型と外型を造った後に、外型を外して下部から中型を削り取ります。
削った中型の上に、いくつかに分割した外型を部分的にあてて、この部分の隙間に湯(熔銅)を流し込みます。
この作業を、何度も連続して行い、上部まで鋳上げていくという技法です。
従って、鋳継いだ部分(鋳境)の処に、継いだ境目の線(痕跡)が残ってしまうのです。
大型の仏像を鋳造するときには、蝋型ではなく、この土型鋳造の技法に依ったようです。
奈良・東大寺の大仏や鎌倉・高徳院の大仏は、この技法で造られています。
鎌倉大仏を見ると、身体に何本か横線が入ったように見えますが、これが鋳継いだ鋳境の後です。(鎌倉大仏は木型ではないかとも云われていますが、技法的には同じ段取りです。)
なお、興福寺仏頭や薬師寺金堂の薬師三尊像は、結構大きな金銅仏ですが、蝋型鋳造で作られています。
飛鳥大仏を見ると、身体中にタテ・ヨコの鋳継ぎの線が、はっきりと何本も走っています。
もし、この部分が飛鳥時代当初とすると、土型鋳造で造られたことは、誰の眼にも明らかだということになるわけです。
飛鳥大仏が、そもそもいずれの鋳造技術で造られたものであったかについて、論究したものは、あまりなかったのではないかと思います。
何しろ当初部分がほとんど残っていないと見られていたわけですから、ふれられてこなかったのではないでしょうか?
私の知る限りでは、鋳造工学の石野亨氏が、飛鳥大仏は土型鋳造であったのではないかと思われる旨、書かれているのを読んだことがあるだけです。
次のように記されています。
「飛鳥大仏の場合、これ(鋳造技法)を明らかにする文献はまったく見当らず、大仏そのものも創建当時のものは先に述べたごとく顔面と手の一部で、これらからも判断することは困難である。
しかし、その当時すでに削り中子法と呼ぶ造型法が百済から伝えられており、まず現在の鋳造仏と同型同大の土の塑像が作られたと考えて誤りではなかろう。
つぎに、これを模型として、これに合せて外型を作り、その後この塑像を、作ろうとする鋳仏の肉厚分だけ削って中子とするいわゆる削り中子法を取り入れた惣型の技法が適用されたであろう。」
(「鋳造~技術の源流と歴史」1977年・産業技術センター刊)
【飛鳥大仏~土型鋳造選択の理由】
それでは、どうして蝋型ではなく土型鋳造の技法が選択されたのでしょうか?
今回、桜庭氏は、この点について発表テーマの一つとして採り上げられていました。
桜庭氏の考え方によれば、我が国初の大型金銅仏の鋳造に際し、二つの鋳造技法のうち、鋳造に失敗してもやり直しが何度でも効く「土型鋳造」の技法を、選択したに違いないとして、次のように述べられていました。
「土型鋳造技法は、大型の像の制作に際して小さな面を徐々に鋳込むことで、失敗してもやり直しがきくというメリットがある。
また金属の厚みを均―にすることができる利点もある一方で、蝋型鋳造と比較して平滑な面や流麗な動きの表現が難しいというデメリットがある。
しかし、飛鳥大仏を制作した仏師は、日本で最初の丈六仏を制作するという記念碑的な仕事に際し、蝋型鋳造の技術を持っていながらも敢えて土型鋳造技法を用いて制作したのである。
その理由は蝋型鋳造より土型鋳造の方が失敗の可能性が少ないためと推察され、日本最初の丈六仏を制作する仏師の側から考えてきわめて妥当な選択であつたといえよう。」
以上のような、発表内容でした。
もう一度、まとめると、
・飛鳥大仏の鋳銅部分(全体の80%)は、飛鳥時代当初のものであったと考えられることが、今回の科学的調査で一層補強され、当初から土型鋳造で造られたと判断される。
・土型鋳造を選択したのは、初の大型金銅仏の鋳造であり、失敗が許されぬものであることから、部分的やり直しが効く技法を選択したと思われる。
というものでした。
今回の発表でも、シンポジウム参加者の最大の関心事は、
「本当に、鋳銅部分(全体の80%)は全部、飛鳥時代当初のものを残すと考えてよいのだろうか?」
ということだったのではないかと思います。
会場からも、このような質問が出されていました。
「飛鳥大仏は鋳境の線、鋳バリがくっきりと段差のある線になっているが、何故、この部分を平滑にする鋳浚いがなされていないのだろうか?」
という質問です。
私も、同じ疑問を強く感じていました。
桜庭氏は、この点について
「飛鳥大仏は、像を安置する場所で鋳造した後に、その場所にお堂の建築を行うという手順で造営している。
建築の開始、段取りのスケジュールとの関係で、大仏制作の時間的制約が大変きつくなったのではないか?
当初のスケジュールに対し、鋳造過程で相当手間取り、手直しなどに時間をとられたのではないか?
その結果、平滑にする鋳浚いが、なされないままとなってしまったと想像される。
時間の余裕があれば、必ず修正していたはずだと思われる。」
という考えを述べられていました。
全くの素人の私にも、ひとつふたつ、こんな空想が思い浮かびました。
「お堂の建築が進むのには相当の時間がかかる筈で、像の鋳境の線を平滑に浚える作業ぐらいだったら、同時進行で可能なような気がするけれども、その余裕もなかったのだろうか?」
「鎌倉火災のときに焼損した焼損した金銅仏破片などを、新たな鋳造の時に再利用したということがあるとしたら、この時は、鋳銅の金属組成や、酸化第二銅(CuO)の検出は、どの様になるのだろうか?」
「後世の補鋳後に、再度火災に遭ったという可能性は、全く無いのだろうか?」
色々な疑問が、未だ残されているようには思えますが、今回の発表で、「飛鳥大仏鋳銅部分は全部当初説」は、また一歩前進したように思われます。
今後、この議論が、どのように展開、発展していくのか、大変興味深く愉しみです。