三重の「知られざる古仏探訪」の第2弾は、
松阪市船江町にある薬師寺・薬師如来坐像をご紹介したいと思います。
松阪薬師寺の薬師如来坐像は、以前から気になっていた仏像でした。
「仏像集成」や「仏像東漸展図録」の写真を眺めていると、「オ-ッ!」と、声を発してしまうような、迫力を感じるのです。
皆さん、この写真のお顔をみて、どのように感じられるでしょうか?

松阪薬師寺 薬師如来坐像(仏像東漸展・図録掲載写真)
森厳で厳しく迫ってくるような鋭さを感じるお顔です。
平安前期特有のオーラを発しているような感じがします。
「これは必見だな!」と、機会があれば拝してみたいと願っていた仏像です。
9~10世紀の制作といわれている平安古仏で、県の重要文化財に指定されています。
どのようにすれば拝観可能なのかと、松阪市の教育委員会に問い合わせた処、薬師寺のご住職は、同じ松阪の朝田寺のご住職が兼務されておられるので、そちらにお尋ねくださいと教えていただきました。
朝田寺はご存じのとおり、平安前期バリバリの地蔵菩薩立像で有名なお寺です。
早速、朝田寺にご連絡して、
「朝田寺と共に薬師寺の仏像も拝ませていただきたいのですが・・・・?」
とお願いしましたら、
「薬師寺の方は、その日に開けるよう管理している方に連絡して段取りしましょう」
と、快くご了解いただきました。
薬師寺には、朝一番で伺いました。
松阪駅から北東に1㎞ほどの町中にあり、住宅街の広い通り沿いにひっそりと佇むといった感じです。
...
松阪薬師寺 本堂 松阪薬師寺 山門
こじんまりした境内で、山門と本堂があるのですが、少々古びて荒れた感じです。
このまま放っておくと、門やお堂が傾いたりしないかなとちょっと心配です。
こうした古寺の維持管理は、文化財の仏像があると云っても、なかなか大変でご苦労も多いのだろうなと察せられます。
当地で管理されている方のお出迎えで、本堂内にご案内頂きました。
薬師寺は、寺伝によると
「聖武天皇の勅願所で、天平2年(730)に行基の開基と伝えられる。」
ということです。
本堂内には、沢山の仏像がにぎやかに祀られています。

松阪薬師寺 本堂内陣
早速、お目当ての薬師如来坐像を、間近に寄って拝観です。


松阪薬師寺 薬師如来坐像
像高は83㎝と、ちょっと小ぶりな感じです。
間近に拝した第一印象は、「あれっ?」というのが実感でした。
お顔の表情は、それほど厳しくはないのです。
むしろ、穏やかといった方が当たっているのかもしれません。
強烈な迫力や、厳しさのオーラが、ガンガン発せられるのを目の当たりにするのかと期待していたのですが、それほどの緊張感やインパクトを感じなかったのです。
ちょっと期待外れというのが実感です。
全体的にも、「穏やか」というか、「まろやか」というか、整った感じの造形という印象です。
整った造形とは云っても、やはりちょっと地方作といった雰囲気で、中央の第一級の造形レベルには届かないように思えました。
力感も、幾分弱い感じがします。
仏像彫刻としての出来には、ちょっと物足りなさを感じるのです。
国指定重要文化財ではなく、県指定文化財になっているのも、自分なりに納得という印象を受けました。

松阪薬師寺 薬師如来坐像 上半身
この薬師像、「写真写り」が良いのかもしれません。
撮影の光線の具合でしょうか、冒頭掲載の図録写真では、お顔の表情が森厳で、眼や口の彫口が大変鎬だった表現のように、強調され過ぎて写っているようです。
私は、現実の薬師如来像を拝する前に、図録写真から感じた第一印象、即ち「森厳な表現の像」という先入観に強く引っ張られ過ぎていたようです。
気持ちを入れ替えて、もう一度虚心に、薬師如来像を拝してみました。
お顔の表現は、9世紀の制作とされる奈良・大和郡山市の矢田寺北僧房の虚空蔵菩薩像(奈良国立博物館寄託中)のお顔に似た雰囲気です。
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. 松阪薬師寺 薬師如来坐像 頭部 奈良県大和郡山市 矢田寺北僧房 虚空蔵菩薩像
しかし全体の雰囲気は、北僧房・虚空蔵菩薩像のような締まったキリリとした感じではありません。
むしろ、「ムッチリとした肉付きと粘りのある衣文」という表現です。
三道や胸のふくらみの表現は、ムチッとした肉付け感が良く出ています。

注目したのは、左肩から上腕にかけての衣文の表現です。
粘りのある衣文表現が、大変魅力的なのです。
見事に彫りあげられています。
写真でご覧になるとよく判ると思うのですが、鎬を立てた鋭い稜線ではなく、彫り込むというより盛り上げるという感じの表現です。
粘りと躍動感を感じます。
森厳な仏像という先入観を捨て去って拝すると、
ムッチリとした肉づけ表現と、粘りある衣文表現が魅力の、なかなか整った造形の仏像とだと思いました。
地方作的な要素も持っており、第一級の出来の作品とは言えませんが、注目すべき仏像といえると思いました。
この像の造形と制作年代は、どのように考えられているのでしょうか?
この像は、像高83㎝、体幹部の大半を一木から彫り出し、膝前や右前膊を矧ぎ寄せています。
後頭部と背中の二か所に小さく内刳りがされています。
「仏像東漸展」図録解説には、このように書かれています。
「量感への嗜好の強い像であるが、その一方で大衣の右肩から胸にかけての折り返し部には軽やかなうねりをもたせるなど、鈍重に陥らない工夫がみられる。
ただし、粘りのある重厚な線で構成されている衣文は、決して鋭いものではなく、全体として重厚さへの志向が強い。
したがって、その制作時期は9世紀後半あたりと考えられる。」
一方、「仏像集成」の解説は、このようです。「どっしりとした重厚な体躯は古様であるが、表情はやや穏やかに感じられ、10世紀頃の作と思われる。」
この薬師像は、9世紀の作か10世紀の作かは別にして、「量感」「粘りのある重厚な線」「重厚な体躯」という言葉で表現されています。
「鎬立った」とか「シャープな」といった表現がされていません。
そんなことを考えているうちに、面白く興味深いことが書かれた本を見つけ出しました。
「三重・松阪市仏像調査報告書」という冊子です。
和光大学・日本彫刻史ゼミナールによって、1987年に発刊されています。
松阪薬師寺・薬師如来坐像についての、こんなコメントを見つけました。
この薬師像に、奈良風の系譜を受け継いだ造形表現が見受けられるとの指摘です。
三重の平安古仏には、こうした造形表現が間々みられることに着目されています。
「左腕から脇にかけての衣文線や、腹前のそれは、慈恩寺の阿弥陀如来立像に少し似ていて、これを乾漆を用いず、木彫によって表現しようとしたように見える。」
「薬師寺薬師如来坐像のボリュームはあるが整った肉付けや、線の柔らかさからくる、一見穏やかとも見えるムードは、この地方独特の表現としてとらえられる。
慈恩寺阿弥陀如来像の所であげた、元興寺の薬師如来立像、和束薬師寺の薬師如来坐像のような像の見せる整った様子に共通性を見いだせるのではないだろうか。」
「三重県の像が、必ずしもこのような系譜の上に置かれるということではないが、純粋木彫と乾漆系木彫といった色分けの中で、像の位置づけを再考する必要があるだろう。
三重県が奈良県の宇陀郡や京都南山城地方と隣り合っていること、・・・・・を思うと奈良との交流があったことが想像される。」
このような共通性がみられる三重の仏像の例として、朝田寺・地蔵菩薩立像、普賢寺・普賢菩薩坐像が挙げられています。
小野原光子氏の「三重県の古代文化風土記」という論考です。
なかなか興味深いコメントです。
ここで名前が挙がった仏像の写真は、ご覧のとおりです。

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(左)松阪市 朝田寺 地蔵菩薩立像、(右)多気郡多気町 普賢寺 普賢菩薩坐像
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(左)奈良市 元興寺 薬師如来立像、(右)三重県亀山市 慈恩寺 阿弥陀如来立像
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京都府相楽郡和束町 薬師寺 薬師如来坐像
元興寺薬師宇如来像は純粋木彫ですが、慈恩寺阿弥陀像は木心乾漆像、和束薬師寺薬師像は木彫漆箔です。
それぞれの像の衣文の造形表現に、特に注目してみていただければと思います。
この論考を読んで、私は「なるほど!」と、結構納得しました。
たしかに、この薬師像は純粋木彫ですが、乾漆系の造形表現を感じます。
また、平安彫刻のなかでも、伝統的奈良様の表現の系譜にあるように思います。
三重県、即ち伊賀の国、伊勢の国は、奈良からの街道続きにあります。
平安初期彫刻の典型である森厳シャープな彫刻表現よりも、伝統的奈良様を受け継いだ平安彫刻の系譜にある仏像も多くあったのではないかというのも、大変納得的に思えるのです。
そういわれてみれば、松阪薬師寺像の衣文表現は、元興寺像、南山城の和束薬師寺像などの表現の延長線上にあるように思えます。
こんな仏像があったことも思い出しました。
元興寺薬師如来立像に大変似通った平安前期木彫といわれる、相楽郡南山城村の春光寺の薬師如来立像のことです。
この木彫も、伝統的奈良様を受け継いだ木彫像といわれています。
和束薬師寺や春光寺は、奈良から伊賀、伊勢に抜ける街道の、ちょうど通過点に在るのです。
平安前期あたりと思われる純粋木彫像の制作年代については、森厳な表現、シャープな彫口だと年代を挙げ、穏やかで整った表現だと年代を下げて考えるというのが、一般的かと思います。
松阪薬師寺・薬師如来坐像をいつ頃の制作と考えるかというのは、私には難しすぎてよく判りませんが、
ここで観てきたような奈良様の系譜といったこと考えると、いろいろな面から多面的に考えていかなければならないなと、今更ながらに思いました。
松坂薬師寺の古仏探訪は、わざわざと観仏に訪ねてきた甲斐があった、大きな収穫でした。
この薬師像の、写真の印象と違う実物の持つ魅力と特徴を、新たに発見できたことや、
奈良様の伝統の系譜にある木彫像と三重という地との関係について、いろいろなことに思いを巡らせること
ができからです
やはり、
「写真で見ているだけではダメで、現地を訪れ眼で観て肌で感じないと」
と、今更ながらに思った古仏探訪でした。
念願の古仏をやっと拝することが出来ました。
千葉県南房総市千倉町にある小松寺の薬師如来立像が、千葉市美術館で開催された「仏像半島~房総の美しき仏たち展」に出展されたのです。
房総最古の木彫像と云われている仏像です。
この薬師如来像は、長らく厳重な秘仏としてまつられていたそうで、その姿はよく知られていませんでした。
1994年(平成6年)11月に、現在のご住職にとっても初めてという開扉が行われ、その全容が明らかになったのです。
果たして、9世紀に遡る平安前期一木彫像と考えられる古仏であることが判明したのです。
1996年(平成8年)には、早速、千葉県指定文化財に指定されました。
ご覧のような仏像です。

小松寺・薬師如来立像
写真で観ると、神秘性、霊威性を強く感じる魅力十分の仏像です。
是非とも一度は拝してみたいものと思いましたが、厳重秘仏でそう簡単に拝することができません。
1999年(平成11年)に、千葉市美術館で開催された「房総の神と仏展」に出展されたのですが、その時には、まだこの薬師像のことをよく知らず、展覧会にも行きそびれて見逃してしまいました。
その後、何とか拝する機会はないものかと思っていましたら、数年前に「小松寺の秘仏御開帳」があるという情報をゲットし、同好の方と、房総半島の突端に近い千倉町にある小松寺まで、車で数時間かけて出かけたことがあります。
やっとのことで到着し、
「さあ、秘仏・薬師如来像を拝することができる!」
と意気込んだら、秘仏開帳されていたのは「お前立本尊」の方だけでした。
お目当ての本尊薬師如来像は、厳重秘仏のままで、そのお厨子はしっかりと閉ざされておりました。
「なんのためにこんな遠くまで来たのだろう!」
と、本堂厨子に秘められた観ることのできない薬師像を、恨めし気に振り返りながら、がっくりと肩を落として帰路に就いた思い出があります。
その待望、念願の「小松寺・薬師如来立像」を、「仏像半島~房総の美しき仏たち展」で、ついに拝することができたのでした。
この度の「仏像半島~房総の美しき仏たち展」は、房総半島の主だった仏像が、約150体展示されるという大規模なものでした。
奈良時代の金銅仏、龍角寺・薬師如来坐像をはじめ、東明寺・薬師如来立像、十二神将像、松虫寺・七仏薬師像、常燈寺・薬師如来坐像、東光院・七仏薬師像など、有名処が一挙に展示されました。
なかなかの圧巻の展覧会で、房総の古仏をじっくり愉しむことが出来ました。
さて、小松寺・薬師如来立像ですが、会場のなかでも、ひときわ不思議なオーラを放っているようで、圧倒的な存在感がありました。
来場された人々も、多くの方がこの仏像の前に立ち止まり、その姿に見入っていました。

小松寺・薬師如来立像
不思議な感覚を漂わせた仏像です。
異様な仏像と云っても良いのかもしれません。
ハッキリ言って、仏像彫刻としてはそれほど出来が良いものとは思いませんが、なにやら霊気というか、呪術的に畏怖する気のようなものを、身体から発散させているようです。
面貌にも神秘感を漂わせています。
造形的な魅力よりも、精神性の魅力を感じる仏像と云って良いのでしょう。
図録の解説文によると、平安初期・9世紀の制作と考えられるようです。
像高147.3㎝、カヤ材の一木彫。
頭頂から足柄まで丸彫りにし、木心を込めたままで、内刳りはほどこされていないそうです。
しかし、この薬師如来像の姿を見ると、一般的に9世紀と云われる仏像の造形の特色とは、かなり違うように思えます。
全体の姿を見ると、身体の躍動感や、はち切れる様な肉体の張りはありません。
硬直的に直立して、肉身の抑揚も扁平という方に近いと云って良いようです。
衣文の彫りも、鋭さはありますが、随分浅くて扁平です。
平安前期彫刻特有の深く抉りこんだような衣文の彫りや、粘りのある衣の躍動も全くありません。
衣文の表現をみると、彫りには直線がただ平行に並んだようで、これまた単調な表現です。
そして、何をおいてもびっくりするのは、体躯の奥行が異常に薄っぺらいことです。

小松寺・薬師如来立像 側面
仏像の横に回ってみて驚きました。
正面の横幅からは想像もつかないような、極端を通り過ぎたような側面の扁平さです。
平安前期の仏像と云えば、強烈な肥満体というか、体奥が凄くぶ厚いことが典型的特色ですが、これにも当てはまらないのです。
しかしながら、この薬師如来像の前に立ってじっと見つめていると、全体の姿かたちに、初発的な古様さや強い精神性を感じずにはいられません。
古い時期の制作なのかなと思わせるものがあるのです。
専門家は、この仏像のこうした特徴などについてどのようにみているのでしょうか。
私の知る限りでは、この仏像については、紺野敏文氏、塩澤寛樹氏、濱名徳順氏が解説等をされています。
紺野氏は、ポイントを要約するとこのように述べられています。この像は、9世紀後半頃の制作と考えられる。
霊気を漂わせるような面立ちに、正面で横に開いた躰部が著しく扁平である。
まとう大衣にこまやかに平行する衣文線を刻み、端麗さを装うものの、ノミ痕が鋭く切れてなお古拙調で、軽快には流れない。
霊木を用いた純木彫に徹した作りで、その霊験性を強調する面貌の表現などは、理想的な佛性の表現からは遠く、土俗的な神性をあらわすようである。
一方で、丸い肉髻の造り出しなどには自鳳期にまで遡る形状の古様さが捉えられるほか、面奥を深くとり丸く張った頭部、顎にかけて細まる顔かたちや、薄身の姿体をとどめる処は奈良時代以前に観られるものである。
これに、平安前期風の強い表現を加えている。
小松寺は、役小角によって庵が営まれた後、慈覺大師円仁により伽藍の改築があったという寺伝があり、単なる山林の私寺ではない。
この薬師像の五尺の像高、施無畏与願印、朱衣金体の仕上げ、霊験性表現は、比叡山延暦寺の根本薬師如来像をもとにしたと考えられ、房総最古の木彫像として貴重である。
(紺野敏文氏執筆の「房総の神と仏展」図録解説、国華1265号所載「房総の仏像」「小松寺蔵薬師如来立像」から、つまみ食いで要約させていただきました)
濱名氏は、「仏像半島展」図録所載の論考と解説で、小松寺薬師像について述べられています。
制作年代や制作意図などの考え方は、紺野敏文氏と大略同じように思えます。
また、極端に薄い体躯である事由と制作年代については、このように述べられています。
体奥が極端に薄く、背中には長方形埋め木があることから、原木は良材とは言えないもので、厚みが足らずそのうえ上洞(ウロ)もあったらしい。
このように、本来彫刻に適さない材料を何か特別の由緒のある用材で造像した「霊木化現像」であることを示唆する。
・・・・・・・・・
類型に出さない生々しい面貌や、丸刀を用いて深く抉った衣文線は初発性が強く、9世紀代の造像として間違いないと思う。
一方で、塩澤氏は、この像の量感が不足することなどから制作時期を10世紀に下げてみています。
「千葉県の歴史~通史編・古代2」所載の「古代房総の仏教美術」で、このように述べられています。
こうした面相や衣文の表現はかなり異色の作風といえるが、平安初期木彫の様式に通じるところがあるとして、9世紀末をさかのぼる制作とされている。
ただし、本像の極端に扁平な体躯表現は平安前期において他に例のない表現であり、衣文の彫りが浅い点や、やや単調であることは10世紀に入ってから増える特徴であることを考慮すると、制作年代を9世紀に限定しない方が穏当との見方も出来る。
その場合、七棟の堂塔が建立されたと伝える延喜年間(901~923)ころが、造立年代下限の目安となろう。
制作年代をいつごろに考えるかは、難しいところがあるようです。
たしかに古様なのですが、特異な造形であるところが多いからなのでしょう。
私なりの、小松寺・薬師如来像の造形の不可思議なポイントを挙げると、こんなところでしょうか。
勝手な思い込みや、独善的な処があるかもしれませんが、お許しください。
第1に、側面、体奥が、極端に薄っぺらいことです。
たしかにウロのある霊木などで一木彫に仕上げようとすると、材の制約から薄くなってしまうこともあるかもしれません。
しかし、正面幅に比べて、側面がここまで薄くなってしまうことはないのかとも思います。
意図的に、わざと極薄に造ったように感じてしまうのです。
第2に、全体の造形、モデリングが妙に生硬で硬直的な感じがすることです。
肉身の造形も、衣文の造形も、張りや躍動感が少なく、固まったように表現されています。
第3に、衣文の彫りが浅く、扁平で単調なことです。
刻線そのものは鋭いのですが、平安前期彫刻にみられるような深くグリッと抉ったところや粘りのある表現がありません。
第4に、奈良時代以前にみられるような、妙に古様な表現がみられることです。
頭部から面部の造形や、丸い肉髻の造り出しは奈良時代以前や白鳳期の古様をとどめている点は、紺野敏文氏も指摘されています。
私も、吊り上って切れ長に見開いた眼や、足元の衣文の品字状の処理などは、結構、古様なものが混じっているのではと感じています。
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小松寺・薬師如来立像 古様がみられる頭部と脚部品字状衣文
このあたりの処を、どのように解釈したらよいのかは、私にもよく判りません。
平安前期にもこのような造形表現があったのでしょうか?
地方仏には、典型から外れたこのようなものもあったのでしょうか?
そうではなくて、時代が下がってから、古様に倣ってこのように造られた考えた方が素直なのでしょうか?
平安初期彫刻なのに、結構、体奥が薄くて、衣文の彫りが浅く扁平・硬直な仏像と云うと、岩手・黒石寺の薬師如来坐像のことが思い起こされます。
胎内に貞観4年(862)造立の墨書銘がある、有名な地方仏です。
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黒石寺・薬師如来坐像 正面と側面
何となく、小松寺・薬師如来像の造形感覚に似ているような気もします。。
ほかに、私がこれまでに観た色々な仏像のことに思いを巡らせてみました。
二つの仏像のことが頭に浮かんできました。
私が先に挙げた、特異な造形のポイントに似ているものを備えている気がするのです。
あくまで、独善的で勝手な想像です。
兵庫県多可郡多可町の楊柳寺・楊柳観音立像
滋賀県草津市の川原観音堂・十一面観音立像
です。
写真でご覧のとおりです。
....
楊柳寺・楊柳観音 顔部 川原観音堂・十一面観音 顔部
両像とも、小松寺・薬師像と同様に、側面が極端に薄っぺらに造られています。
全体の造形や衣文も、生硬で扁平な表現です。
また、奈良時代以前に遡るような、妙に古様な表現がミスマッチのようにみられているのです。
両像とも、その位置づけが難しいからか「市の指定文化財」という扱いしか受けていません。
制作年代については、思いきって奈良時代以前に遡らせる見方から、
平安前期という見方、
平安後期以降にずっと下る作品という見方まで、
いろいろとあるようです。
この3躯の仏像を観ていますと、表現の特徴や雰囲気にはそれぞれに違いはありますが、先ほど来挙げているような、不可思議な表現に似たものを持っているように感じています。
これらの像を結びつけるものが何かありそうかと云うと、全く思いつきません。
兵庫、滋賀、千葉と、全く脈絡のない地で制作されています。
共通点などではなく、全く偶然のことなどかもしれません。
しかし、私には、この3躯の仏像のことが、何故かしら気になってしまうのです。
小松寺・薬師像やこれらの像について、思うことや考えることを、ここで書くことが出来ればよいのですが、正直言って、不思議だなと思うだけで、それ以上のことはよく判りません。
今回は、念願の小松寺・薬師如来像をじかに拝して、
不思議に思ったこと、わけがわからなくなったこと、連想ゲームのように思い浮かんだこと、
などを、とりとめもなく綴らせていただきました。
やはり、気になる古仏です。
もう10ヶ月ほど前になりますが、昨年(2012年)9月に三重県の観仏に2泊3日で出かけました。

ちょうどその時に、三重郡菰野町のパラミタミュージアムで、「南都大安寺と観音さま展」が開館10周年記念展として開催されていましたので、これに合わせて「三重の平安古仏を中心とした古仏探訪」に、同好の方々と出かけることにしたのでした。
三重の仏像は、近畿圏なのですが、奈良・京都・近江の素晴らしい仏像たちの影に隠れて、影が薄いようで、一般にはあまりよく知られていないように思います。
そのなかでも有名処の名の知れたところを挙げると、
亀山市~慈恩寺・阿弥陀如来立像、津市~光善寺・薬師三尊像、松阪市~朝田寺・地蔵菩薩立像、多気郡~普賢寺・普賢菩薩坐像、伊賀市~観菩提寺・十一面観音立像
あたりになるのかと思います。
今回は、パラミタミュージアムの展覧会には、三重県のあまり知られていない平安古仏が出展されていましたので、探訪先も少々マイナーな県指定や市指定の平安古仏を出来るだけ採り入れて、
「三重の知られざる平安古仏を巡る」
こんな気分の観仏旅行にして、回って観ることにしました。
パラミタミュージアムに出展された、三重県の平安古仏は次のようなものです。
そして、実際の古寺探訪では、次のような寺々を巡り古仏を拝しました。
もう数度目の探訪という仏像もいくつかありましたが、結構たっぷりと三重の古仏を愉しむことが出来ました。
これらの古仏の中から、私がちょっと注目した仏像、興味深く感じた仏像を、いくつかご紹介したいと思います。
今回の探訪で、最も注目し、魅力を感じたのが、延命寺・薬師如来坐像です。
この薬師如来像のことは、この古仏探訪スケジュールを考えるまで、全く知りませんでした。
何処の仏像を訪ねてみようかと、2003年(平成15年)に四日市市立博物館で開催された「仏像東漸~伊勢・伊賀、そして東へ」展の図録を見ていましたら、右の写真の仏像を見つけました。
「平安前期」の仏像として掲載されています。
解説によると、「無指定」の仏像です。
「平安前期の無指定仏!」、それは興味津々です。
何やら迫力がありそうな感じがしましたが、無指定ですので、あまり大きな期待もせず、「まあ、ついでに行ってみるか」と、スケジュールの中に組み込んだのでした。
余談ながら、この「仏像東漸~伊勢・伊賀、そして東へ」展は、三重県の見どころある古仏が一斉集合したと云って良いほどの、素晴らしい展覧会で、今回探訪の多くの仏像も出展されています。
私は残念ながら、この展覧会を見逃してしまいました。
図録を眺めると、「惜しいことをした。無理してでもいっておくべきだった。」と、悔やむことしきりです。
延命寺は、津市一志町井関というところにあります。
JR津市駅から西南に10キロぐらいの処です。
事前に拝観のお願いを差し上げた時も、快くご了解をいただきました。
訪ねると、地方の町中の古い住宅が並ぶ中に、目立たずひっそりとある小さなお寺です。
像高108㎝もある大きな坐像が祀られているようなお寺とは思えない様子で、古くて少々大きめの住宅が、そのままお寺になっているというような感じです。
早速、薬師如来坐像にご対面です。
奥様にご案内頂きましたが、ご覧のような、お堂というには随分みすぼらしい建物に、安置されていました。
覗いてみると、「バリバリの金ピカ」に仕上げられています。
古色を留めた様子など微塵もありません。
観る前から「こりゃ、ダメか!」と、少々がっくりという処です。
近づいて、薬師如来像を間近に拝してみると、びっくりしました。
金ピカですが、なかなかのすごい迫力で、迫ってくるのです。
「まさか!」という言葉を発しそうなのを思わず呑み込んで、そのパワフルなお姿に魅入ってしまいました。


延命寺 薬師如来坐像
全体の体躯は、誠に堂々として太造りです。
肉付きは豊かですが締まりがあり、衣文も粘りがある強い表現です。
ダイナミックな量感や力強さを、躰から発散しているように思えます。
「威厳を感じる」そんな言葉が、そのまま当てはまりそうです
新しい金箔で覆われてしまっていて、金ピカなのが本当に惜しまれます。
この薬師像が古色のままであったなら、もっともっと凄い迫力があったでしょう。
たしかに間違いなく平安前中期の雰囲気を十二分に漂わせた仏像です。
そのなかでも、大変出来が良い像だと思いました。
強い精神性もみなぎっています。
私は、10世紀ごろの制作ではないかなと思いました。
「こんな仏像が、無指定のまま眠っていたのか?」と、本当にびっくりです。
皆さん、どのように感じられたでしょうか?
現在は、無指定ではなくて、2005年(平成17年)12月に、津市指定文化財にやっとのことで指定されたということです。
この像が展示された「仏像東漸展」の解説には、このように書かれています。【平安時代前期】
境内の薬師堂に安置される薬師如来坐像である。
前頭、正中を中心に頭から腹にかけて幅15センチ、左手首先。右手前膊、背面材、両脚部に別材を複雑に寄せ、割首を施すがいずれも後補。
当初の構造を復元的に見れば、両肩を含む頭体、体幹部をヒノキの一材より彫出し、後頭部および、体幹部を上下二段に分けて背刳りを施す。
後補箇所が多いが、頭部のほとんど。両肩から右上膊部.左腕などには、よく当初の姿を残す。
量感豊かな体躯に奥行のある頭部をあらわし、威相を示す面貌や、粘りをもった強い衣文線など、和具観音堂木造十一面観音菩薩立像より強い作風をもつ。
この薬師像は、いつ頃平安古仏として見出されたのでしょうか?
近年は、展覧会に出展されたり、文化財指定されたりしていますが、それまではどのように考えられていたのでしょうか?
やはり、金ピカにべったり塗られているのが災いして、時代が大きく下がる像として考えられていたのかもしれません。
そんなことに思いを巡らせていると、昨年重文指定された、奈良・大和郡山の弥勒寺、弥勒仏坐像のことを思い出しました。
右の写真のとおりです。
この像は、像高147センチのおおきな半丈六像ですが、後世の朱衣金體の厚い上塗りが災いし、またお寺が戦国時代の創建であったこともあって、最近まで近世の仏像だと思われていました。
2009年(平成21年)の奈良県教育委員会の調査で、10世紀ごろ制作の見事な平安古仏であることが判明したのです。
それからはあっという間のスピード出世で、重要文化財指定されるに至ったのです。
2012年に重要文化財指定され、東京国立博物館や奈良国立博物館に展示されましたので、覚えてらっしゃる方も多いかと思います。(この像については、以前観仏日々帖で採り上げておりますので、参考にご覧ください)
やはり、金ピカの厚塗りは、仏像彫刻の本来の出来の良さを大きく見誤らせてしまう、大きな要因になるようです。
しかし、この延命寺の薬師如来坐像は、金ピカの厚塗りを克服して、堂々たる量感や力強さ、強い精神性のオーラを内から発散しているように、私の目には映りました。
後世の修復も、上手になされているようで、像全体を鑑賞するには、あまり気になりません。
もう一度、薬師如来のお姿をしっかりと見つめてみました。
お顔の造形、表情が、迫力十分で、強い精神性を感じ魅力的なのです。
吊り上った目が鋭く、厳しいものがあり、ちょっと尖がった顔で、射すくめられるような凄みを感じます。
「仏像東漸展」の解説には、威相を示す面貌や、粘りをもった強い衣文線など、和具観音堂木造十一面観音菩薩立像より強い作風をもつ。
とありました。

和具観音堂 十一面観音立像
和具観音堂・十一面観音像は、パラミタミュージアムに出展されており、観てきたばかりです。
クセの強い仏像で好き嫌いがありそうですが、印象に残る仏像です。
お顔の感じは、確かに似ています。
和具観音堂像の方が細面のようですが、眼が吊り上って鋭く、強く鼻筋が通って、尖った感じの面貌は、よく似ています。
同じ系統の仏師の手によるものなのでしょうか?
こんなタイプのお顔は、あまり見たことがありません。
このほかにも、こんなお顔の仏像があるのでしょうか?
三重という地の地域性のある表現なのでしょうか?
こんな威相の顔を、これだけ力感みなぎらせて彫れるのは、なかなかの腕の仏師であったのだと思います。
ところで、延命寺・薬師像の来歴は、どのようなものでしょうか?
これだけの立派な仏像ですから、きっと由緒のある古いお寺に祀られていたに違いないでしょう。
ご住職の説明によりますと、
この薬師如来像は、伊勢を支配していた北畠氏の多気北畠氏城館があった多気の地に安置されていたのだそうです。
多気は、今は三杉町といい、延命寺の在る一志町の南西15キロほどにあります。
戦国時代、北畠氏は織田信長に滅ぼされますが、北畠家家臣であった井関・松本家の先祖が、薬師像をこの地に持ち帰り、お祀りするようになった
とのことでした。
延命寺の薬師如来坐像は、今回の三重観仏旅行の中で、一番の収穫の仏像でした。
これだけ堂々として、力強く迫力ある平安古仏に出会えたことに、結構感動しました。
修理、修復が多く、金ピカではありますが、これだけの見事な出来の仏像が、やっとのことで市指定文化財では、余りに気の毒というのが実感です。
重要文化財とまではいかないものの、せめて県指定にでもしても良いのではないでしょうか。
そして、粗末なお堂から、もう少し防災対策されたお堂に大事に安置されるのを願うばかりです。
境内庭先には、古墳時代の「石棺」が遺されていました。
県指定文化財になっており、「延命寺の石棺」と呼ばれ、延命寺は薬師像よりもこの石棺でよく知られているようです。

延命寺の石棺
延命寺の奥様他皆様には、大変親切にご案内頂き、お世話になりました。
ご近所の法要に出られていたご住職も、お忙しきなか一時お戻りいただいて、由緒などのお話をやさしく伺うことが出来ました。
望外の、素晴らしく魅力的な平安古仏に出会うことができた感動と、やさしく親切にしていただいたお寺の皆様に心より感謝しつつ、満足感に浸されて延命寺を後にしました。