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観仏日々帖

こぼれ話~光背の話⑦ 聖林寺・十一面観音像の光背残欠と復元の話 〈その1〉 【2020.07.04】


【私の一番のお気に入りの「拓本」】

この「葉文様の拓本」、我が家の玄関に飾ってあります。

聖林寺・十一面観音像光背残欠の拓本
我が家にある聖林寺・十一面観音像光背残欠の拓本

私の一番のお気に入りの拓本です。
我が家には、他にも仏教美術がらみの拓本がいくつもあるのですが、この拓本がとりわけ良い味わいがあります。

聖林寺・十一面観音像光背残欠の拓本
聖林寺・十一面観音像光背残欠拓本

何の拓本か、お判りでしょうか?
そうです、聖林寺・十一面観音像の破損した光背残欠の拓本なのです。
残欠の丁度真ん中あたり、上向きに配されたアカンサス様の葉の処を採拓したものです。

この拓本を手に入れたのは30年近く前のことであったでしょうか。
一人で聖林寺を訪ねた時に、お寺さんから頒けていただいたものです。
その時、拓本はもう数枚しか残っていないとおっしゃっていたように記憶しています。

マクリで持ち帰ったのですが、早速、額装に仕立てました。
期待以上に、品良く出来上がって、それ以来、大のお気に入りになり、よく飾っています。



【破損残欠が残されている、聖林寺・十一面観音像の光背】


聖林寺の十一面観音像。

奈良時代の木心乾漆像を代表する国宝仏像で、この名作を知らない人はいないでしょう。

聖林寺・十一面観音像
聖林寺・十一面観音像(奈良時代・国宝)

この十一面観音像の光背であった破損残欠を、ご覧になったことがあるでしょうか?

聖林寺・十一面観音光背残欠(奈良国立博物館寄託)
聖林寺・十一面観音光背残欠(奈良国立博物館寄託)

全長244㎝もある大きなものです。
奈良時代の光背残欠で、十一面観音像の当初からの付属光背であったことは間違いないものとされています。
元々は、大きく広がった見事な透かし彫りの光背であったのでしょうが、今では、そのほとんどが失われてしまっています。
光背の中心軸であったようなところだけがかろうじて遺されている状況で、下の方から、柄、光脚、身光部の茎上の処、円光の中心となっています。
かなりの痛々しい感じというのが、正直なところです。

その昔は、聖林寺で、ガラス張りの漆塗りの箱に入れられて保管されていたようなのですが、現在は、奈良国立博物館に寄託されています。

我が家にある光背拓本は、聖林寺に保管されていたころに採拓されたものなのでしょうか?

光背残欠の拓本が採拓された部分聖林寺・十一面観音像光背残欠拓本
光背残欠の拓本が採拓された部分

最近は、博物館でもあまり見かけませんが、関連する特別展があるときなどには、展示されています。
奈良博で、この光背残欠をご覧になった頃がある方も、結構いらっしゃるのではないかともいます。


この6月に東京国立博物館で開催予定になっていた、特別展「国宝 聖林寺十一面観音 ~三輪山信仰のみほとけ」では、国宝・十一面観音像と共に、光背残欠もきっと出展されるであろうと期待していました。
新型コロナウイルスの感染拡大で、開催延期となってしまいましたので、愉しみが、一年間先送りになってしまいました。



【大神神社の神宮寺・大御輪寺に祀られていた聖林寺の十一面観音】


この光背残欠と、当初の姿への復元の話に入る前に、聖林寺・十一面観音像の伝来などについて、ちょっとだけおさらいしておきたいと思います。

皆さんご存じの通り、十一面観音像は、三輪山をご神体とする大神神社(おおみわじんじゃ)の神宮寺、大御輪寺に安置されていた像です。

大神神社(おおみわじんじゃ)
大神神社(おおみわじんじゃ)

今更、ここでご紹介するまでもない話ですが、大御輪寺から十一面観音像が、聖林寺に移されたいきさつや大御輪寺旧仏の行方にまつわる話は、次の通りです。

聖林寺・山門
聖林寺・山門


【しばしば語られる「廃仏毀釈で打ち棄てられていた」とのエピソード】


一昔前までは、この十一面観音像は、明治維新の時の神仏分離、廃仏毀釈の嵐の中で打ち棄てられていたのを、聖林寺の僧が引き取ってお祀りしたなどと伝えられていました。

聖林寺・十一面観音像
聖林寺・十一面観音像
和辻哲郎は、名著「古寺巡礼」(1919年刊)で、
「路傍に放棄され誰も拾い手がなかったのを、聖林寺の僧が寺に持ち帰った。」
と語っています。

白洲正子は、自著「十一面観音巡礼」(1975年刊)で、
「大神神社・神宮寺の縁の下に捨てられていたのを、フェノロサが見つけて聖林寺に移すことにした。」
という話を、昭和7~8年頃、聖林寺の住職から聞いたと記しています。

天下の名作仏像が、廃仏毀釈の嵐を偶々潜り抜けたエピソードとして、しばしば語られてきた昔ばなしだと思います。

実は、これらの言い伝えは、まさに創り話で、真実ではありませんでした。



【神仏分離で正式に聖林寺に預けられていた観音像~見つかった預り証文】


事実は、神仏分離に際し、慶応4年(1868)に大御輪寺から聖林寺に、正式に預けられたものだったのです。

このことは、当時の大御輪寺の僧:廓道が記した、
「秘仏十一面観音を神仏分離で聖林寺に移した」
旨の書付(遺書)が存在することが、昭和20年代に紹介され、明らかになりました。

さらには、昭和34年(1959)頃、聖林寺からご覧の通りの預かり証文「覚書」が発見されたのです。

聖林寺に残される大御輪寺からの仏像等預かり覚書
聖林寺に残される大御輪寺からの仏像等預かり覚書

見つかった書付には、

「秘仏本尊・十一面観音、前立・十一面観音、脇侍・地蔵菩薩などを、慶応4年(1868)5月に大御輪寺から御一新につき当分預かった」

旨が、「覚」としてはっきりと記されています。

神仏分離令発布(慶応4年4月)に、早々に大御輪寺が対処して、聖林寺に預られたのでした。
当時の聖林寺住職:大心は、大御輪寺僧:廓道とは兄弟弟子で、その関係から聖林寺に預けられたようです。



【地蔵菩薩像は、その後、法隆寺へ移される】


「脇侍・地蔵菩薩」というのは、現在法隆寺の大宝蔵院に展示されている、平安前期一木彫像の地蔵菩薩像(国宝)のことです。

法隆寺・地蔵菩薩像(大御輪寺旧仏)
法隆寺・地蔵菩薩像・大御輪寺旧仏(平安前期・国宝)

明治6年(1873)に、法隆寺の塔頭北室院に移されました。
大御輪寺に仏像が戻る可能性がなくなり、北室院僧:一源も大心の兄弟弟子で、その縁で法隆寺に移されたのでしょう。



【「前立 十一面観音」は、神戸市の金剛福寺に移されていたことが明らかに】


「前立・十一面観音」の方は、現在、神戸市の金剛福寺の御本尊として祀られているそうです。

金剛福寺・十一面観音像(大御輪寺旧仏「前立十一面観音」)
金剛福寺・十一面観音像(大御輪寺旧仏「前立十一面観音」)

像高:約80㎝の総金箔の十一面観音像で、江戸時代の制作のようです。

金剛福寺は、第二次大戦の神戸空襲で建物、仏像すべてが焼失してしまいました。
先代住職同士が縁者であったことから、終戦後の混乱期に、聖林寺にしまわれていた前立観音像が金剛福寺に移され、本尊として迎えられたということです。

神戸市・金剛福寺
神戸市・金剛福寺

この話、ごく最近、初めて知ってビックリしました。
最新刊の 「廃寺のみ仏たちは、今~奈良県東部編」(小倉つき子著) に、その事実が書かれていて、ずっと気になっていた、
「「前立・十一面観音」は、どこに行ったのだろうか?」
という疑問が、解決しました。

この観仏日々帖の前話・新刊案内~「廃寺のみ仏たちは、今」で、ご紹介させていただいた通りです。



【大御輪寺旧仏の現在の行方は】


このほか大御輪寺伝来で、現在の所在が明らかになっている仏像は、次の通りです。

大御輪寺伝来旧仏の一覧


【正暦寺にも、大御輪寺の「寄附受取証文」が残されていたことが明らかに】


正暦寺の菩薩像2躯も大御輪寺から移された像であることは知られていましたが、近年、大御輪寺から正暦寺への仏像、仏具などの「寄附証文」が遺されていたことが明らかになりました。

正暦寺・菩薩像(大御輪寺旧仏)正暦寺・菩薩像(大御輪寺旧仏)
正暦寺・菩薩像2躯・大御輪寺旧仏(平安・県指定文化財)

慶応4年(1868)年の「寄附証文」3通で、
「御一新につき仏像仏具を正暦寺に寄附し、冥加金として金55両、金40両をそれぞれ受け取った」
旨が記されています。

三輪若宮(大御輪寺)から正暦寺宛の、寄附受取証のような書付です。
この寄附証文、以前に正暦寺を訪ねたときに、現物をご住職のご厚意で拝見させていただいたことがあります。



【神仏分離令に即応して、きちんと他寺に移されていた大御輪寺旧仏】


こうしてみると、大神神社神宮寺の大御輪寺では、神仏分離令発布後、即座にこれに対応し、主要な安置仏像を縁のあるの寺に、きっちりと移したのであろうことが想像されます。

大御輪寺においては、巷間伝えられるような、廃仏毀釈で仏像が破却されたり焼かれたりしたというようなことは、無かったのではないかと思われます。



【「長岳寺・二天像は大御輪寺旧仏」の伝えは、誤りか?】


なお、天理市長岳寺にある増長天・多聞天像は、長らく大御輪寺伝来の仏像が、神仏分離で移されたものであるとされてきました。
私も、かつて日々是古仏愛好HP「埃まみれの書棚から〈第143回〉~廃仏毀釈で消えた奈良の寺々」で、そのように紹介しています。

ところが、平成27年(2014)に、両像の修理がされた際に、台座に長岳寺の山内を示す「大和釜之口成就院」と書かれた明治期以前の墨書銘が見つかり、古くから長岳寺山内にあった可能性が高くなりました。
大御輪寺伝来というのは、創られた言い伝えであったようです。


こうした聖林寺・十一面観音像の来歴や、大御輪寺伝来の仏像の行方などについては、書物や研究誌でも取り上げられていますが、NET上にも数多くの紹介記事が掲載されています。

その中でも、次のHP記事が、興味深く判り易いものではないかと思います。

「聖林寺十一面観音と大御輪寺」 せきどよしおの仏像探訪記HP掲載コラム
「聖林寺 十一面観音菩薩像」 なら再発見(奈良まほろばソムリエの会)HP連載記事
「聖林寺の十一面観音。「古寺巡礼」のフェイク挿話」 ブログ掲載記事

御関心がありましたら、ご覧になってみてください。



【聖林寺・十一面観音像を初めて見出したのは、岡倉天心、フェノロサ~明治19年】


慶応4年(1868)に、聖林寺に移されてきた十一面観音像なのですが、大御輪寺で秘仏とされていたのを承けて、引き続き秘仏として祀られていたようです。

この十一面観音像を、初めて見出したのは、岡倉天心でした。
明治19年(1883)の奈良地方古美術調査の時で、岡倉天心は自筆の古社時調査手帳に、

「本尊十一面観音・・・元ト三輪村大御輪寺ニアリ・・・・光背台座非凡ニシテ日本第一保存ノ像カ  新発明ナリ」

と記して、この時、新発見の優作像であることを特筆しています。

この調査に同行していたフェノロサは、ビゲローと共に、十一面観音像を保存するための厨子制作の費用として50円を寄進し、明治21年に新しい厨子(木箱)が完成しました。

フェノロサ、ビゲローから寄附された聖林寺・十一面観音像の厨子
フェノロサ、ビゲローからの寄進によりつくられた聖林寺・十一面観音像の厨子

観音像は、長らくこの寄進された厨子に祀られていたのですが、昭和34年(1959)に、新しい収蔵庫、大悲殿が完成して、今の通りに安置されることになりました。



【バラバラに壊れていた、光背残欠】


十一面観音像の来歴などのおさらい話はこれぐらいにして、光背の話に戻りたいと思います。

大御輪寺から聖林寺に十一面観音像が移された時、付属の光背はすでにバラバラに壊れた破損断片の状態であったようです。

そうだとすれば、破損光背は本当に十一面観音像の光背であったものかという疑問も出てくる訳ですが、光背の造形表現や、光背下部の枘の形が観音像の台座下框に設けられた枘穴とピッタリ一致することなどから、十一面観音像の付属光背に間違いないと見られています。



【大正年間の美術院修理で、現在の姿に光背を復元】


この光背が、現在のような形に復元的に組み合わされたのは、大正年間に入ってからでした。
それまでは、バラバラの破損断片のまま保管されていました。
大正4~5年(1915~16)に、日本美術院によって十一面観音像の本格的修理が行われました。
この時、バラバラになっていた破損光背が、現在の形に復元されたのです。
日本美術院の修理記録には光背復元について、次のように記されています。

修理前の光背の状態については、

「光背ハ最も大破にして、少しく形の纏まりありしは最下の茎より受花のみにして、他数箇の破片を有せしなり。」

という状況で、修理復元については、

「光背ハ現在遺存せる破片を研究して之を纏め、堅牢に修理し、落板を有する大なる箱を造りて之に納む。
落板ニハ綿入白布を貼り、纏めたる破片を之にとり付く。
箱は桧材、栗色、漆塗り、金具及び紐付。」
(「日本美術院彫刻等修理記録Ⅲ」奈良国立文化財研究所・1977年刊 所収)

と記されています。

美術院による聖林寺・光背残欠復元修理図解..美術院による復元光背の写真
美術院による聖林寺・光背残欠復元図解と撮影写真

復元された光背は、本堂の中、お地蔵様の左側の回廊に、ガラス板が上面に張られた漆塗りの長い木箱の中に、寝かせて置かれていたそうです。
聖林寺でこの光背をご覧になった方も、いらっしゃるのではないでしょうか。
私も、学生時代には、聖林寺で観ているはずなのですが、まったく記憶にありません。



【昭和50年から奈良博に寄託、折々展示~偲ばれる往時の壮麗な姿】


その後、昭和50年(1975)に、奈良国立博物館の寄託品となり、木箱から身光部のみを取り外して展示台のバックパネルに固定され、平常展・特別展で展示されるようになりました。
頭光部やそのほかの断片は、元の木箱に入れたままで、博物館の収蔵庫内で管理されているということです。

博物館で展示された、この光背を観ると、残欠ながら見事なものであることがすぐわかります。
身光の中心部、光脚部、茎部などの中軸部分が遺されているだけですが、のびやかで生命感あるアカンサス様の唐草の表現などは、流石に奈良時代の光背という感じです。
光脚以下は木心乾漆、上部は木彫漆箔となっているとのことです。

今は、中軸部だけしか残されていませんが、造像当初の光背は、法華堂不空羂索観音の光背のような、華麗な透かし彫り唐草がふんだんに配された、それはそれは壮麗なものであったことは間違いありません。


〈その2〉では、聖林寺十一面観音の光背の、「当初の姿への復元への試み」の話をご紹介したいと思います。


こぼれ話~光背の話⑥ 東大寺二月堂の本尊光背と二躰の秘仏観音像 【2020.06.19】


奈良国立博物館に、断片を繋ぎ合わせた「銅造の光背」が展示されているのをご覧になったことがあるでしょうか?


【破損断片が遺されている、二月堂・秘仏本尊十一面観音の光背】


全長2メートルを超える大きさで、蓮弁形の身光部と円形の頭光部の破損した断片が、復元的に貼り付けられたものです。

東大寺二月堂・秘仏大観音十一面観音像光背(奈良時代・重文)

東大寺二月堂・秘仏大観音十一面観音像光背(奈良時代・重文)
東大寺二月堂・秘仏「大観音」十一面観音像光背(奈良時代・重文)
(上段)身光部、(下段)頭光円光部


この壊れた光背、東大寺二月堂の絶対秘仏本尊・十一面観音(大観音)の光背なのです。

現在は、奈良国立博物館に寄託されています。
常時展示されているわけではありませんが、毎年恒例で開催される「お水取り展」には、必ず展示されています。
破損しているとはいえ、素晴らしい線刻画像が刻された、見事な奈良時代の光背です。

どうして絶対秘仏の観音像の光背だけが、このような形で遺されているのでしょうか?
その話は、また後で詳しくふれたいと思います。



【絶対秘仏の二月堂の二躰のご本尊~「大観音・小観音」】


奈良に春を告げる「お水取り」修二会の行法で知られる東大寺二月堂。

東大寺二月堂
東大寺二月堂

東大寺二月堂・修二会「お松明」
東大寺二月堂・修二会「お松明」

その御本尊が、秘仏として祀られていることは、よくご存じのことと思います。

御本尊は、大小二躰の十一面観音像とされ、「大観音」(おおがんのん)、「小観音」(こがんのん)と称されていますが、これまで何人も拝したことがない絶対秘仏として守られています。


世の中に「秘仏」とされている仏像は、随分沢山ありますが、「秘仏」は云ってもほとんどは何年かに一度はご開帳が行われ、その像容が知られています。
50年、60年に一度の御開帳とか、厳重秘仏で開帳されたことがないといわれる仏像でも、文化財調査などにより撮影された写真があって、その姿を知ることができます。



【何人も拝したことのない絶対秘仏~三大絶対秘仏は、善光寺、浅草寺、二月堂】


こうした中で、未だに何人もその姿を拝したことがない「絶対秘仏」とされる仏像があるのです。

二月堂の秘仏本尊は、その絶対秘仏の一つです。
当然、どんなお姿なのか誰も判りませんし、写真などは全くありません。

世に広く知られている「絶対秘仏」と云えば、そのほかには長野・善光寺、東京・浅草寺のご本尊の名が挙げられるのでしょう。
「三大絶対秘仏」 と云って良いのではないかと思います。

ここで、ちょこっとだけ、善光寺と浅草寺の絶対秘仏についてふれておきたいと思います。



【「善光寺式阿弥陀三尊」で尊容が伝えられている、善光寺・秘仏本尊~飛鳥時代の渡来金銅仏か?】


善光寺の御本尊は、一光三尊の阿弥陀如来像とされています。

善光寺・本堂
長野 善光寺・本堂

善光寺縁起によると、あくまでも伝承ですが、百済の聖明王から贈られた日本最古の仏像を、信濃の本田善光が都から持ち帰り祀ったものとされています。
鎌倉時代から秘仏化されたようで、内々陣の厨子に祀られ、現在では絶対秘仏とされています。

本尊は、飛鳥時代に伝来した一光三尊形式の金銅三尊仏像であろうとされています。
本尊の姿を模したという、いわゆる「善光寺式阿弥陀如来像」の像容から、そのように推察されているわけです。
「善光寺式阿弥陀如三尊像」の姿については、皆さんもお馴染みのものだと思います。
鎌倉時代から室町時代にかけて盛んに造像され、現在、全国に200体以上の作例が残されています。
善光寺にも、鎌倉時代の善光寺式一光三尊の姿のお前立本尊(重要文化財)が祀られています。

善光寺・お前立本尊阿弥陀三尊像(鎌倉時代・重文)
善光寺・お前立本尊阿弥陀三尊像(鎌倉時代・重文)

お前立本尊も秘仏になっているのですが、足掛け7年に一度ご開帳が行われ、ご開帳の時には物凄い参詣の人々が詰めかけるのは、ご存じのとおりです。



【江戸時代に、一度だけ厨子が開かれる~偽物出現騒動で検分】


厳重秘仏としてされてきたご本尊なのですが、江戸時代に一度だけ厨子が開かれたことがあります。

元禄5年(1692)に、真の本尊を騙る偽物出現の大騒動があり、柳沢吉保の仲介で、敬諶(けいたん)という僧侶が秘仏の善光寺本尊を拝見したということが「善光寺由来記」に記されているのです。
検分によると、像高:一尺五寸、重量:六貫三匁であったそうです。

それ以来、今日に至るまで、何人もその姿を拝したことがない絶対秘仏として祀られています。



【一寸八分の金色観音像と伝える、浅草寺の絶対秘仏本尊】


浅草寺のご本尊は、聖観音像です。

浅草寺・本堂(観音堂)
浅草寺・本堂(観音堂)

一寸八分の金色像とか金無垢像であるという伝えもあるようですが、絶対秘仏とされているだけに、その実体は明らかではありません。
寺伝、浅草寺縁起によると、推古36年(628)に、宮戸川(現在の墨田川)で漁師の網にかかった金色の仏像を、土師中知(はじのなかとも、「土師真中知」(はじのまなかち)とも)が堂を建て祀ったのが、浅草寺のはじまりと伝えます。

その後、東国を巡遊していた勝海上人が、大化元年(645)に本堂を再建し、観音の夢告により本尊を秘仏と定め、以来今日まで、他見を許さない絶対秘仏とされていると伝えられています。



【明治初年、強引に開扉されたことのある秘仏本尊~神仏分離の本尊改め】


大化年間以来、千数百年の絶対秘仏とされる本尊像ですが、過去一度だけ、開扉され検分されたことがあるのです。

明治維新後間もない、明治2年(1969)のことです。
神仏分離令に伴う社寺局の本尊改めがあり、役人が縁起閲覧、秘仏開扉を強引に要求したのでした。
浅草寺にとっては未曽有の事件で、徹底固辞するも許されず、やむなく開扉されたのでした。
当時、秘仏本尊は実は神体であるとの噂が立っており、本尊改めで仏像であることが確認され、役人は「大切ニ護持候様」に、申しつけたと伝えられているようです。

現在は、本堂内陣中央の御宮殿のなかに、秘仏本尊の厨子と、お前立本尊とが安置されています。

浅草寺・秘仏本尊小観音が祀られる御厨子
浅草寺・秘仏本尊小観音が祀られる御厨子

お前立本尊は、慈覚大師円仁の作と伝える木彫像で、平安時代の仏像のようです。
お前立本尊の方も、慶事の際に限り開帳される厳重秘仏であったのですが、現在では、毎年12月13日、御宮殿の煤払い開扉法要の際に、ごく短時間だけ開扉され拝することができます。



【二月堂の二躰の本尊は、南北朝室町期に絶対秘仏に‥‥】


そろそろ、二月堂の秘仏本尊の話に戻りたいと思います。

二月堂は、寺伝では、天平勝宝4年(752)、実忠による創建と伝えられます。
二月堂の内陣には大小二躰の十一面観音が安置され、それぞれ「大観音」(おおがんのん)、「小観音」(こがんのん)と称されています。

東大寺・二月堂
東大寺・二月堂

共に、絶対秘仏として厳重に結界され、他見は許されず、参籠する練行衆と云えどもその姿を拝することは出来ません。

現在の安置状態は、次のようになっているとのことです。
大観音は、内陣須弥壇の中央に祀られ、四本の柱で支えられた天蓋の下に帳で掩われています。

秘仏本尊が祀られる二月堂・内陣
秘仏本尊が祀られる二月堂・内陣

扉のある厨子ではないのですが、帳の中をのぞくこともできません。
須弥壇の下は岩座で、直接岩盤の上に立っているらしいと云われています。

小観音のほうは、大観音の前に安置されています。
須弥壇の上に小型の厨子があり、この中に納められていますが、この厨子は扉もなく、絶対に開かれることはありません。

二月堂・秘仏「小観音」が祀られる御厨子
二月堂・秘仏「小観音」が祀られる御厨子

二つの観音像が、いつごろから秘仏化されたのかははっきりしないのですが、鎌倉時代には図像として記録されているようで、二月堂の本尊も、全国各地の霊仏が秘仏化されていった南北朝から室町期に秘仏化されていったのではないかと推測されているようです。



【奈良博に寄託されている「大観音」の破損光背~台板に復元的配列】


この絶対秘仏であるはずの本尊ですが、先にご紹介したように、何故だか、大観音像の光背の壊れた断片が奈良国立博物館に寄託保管されているのです。

冒頭でご紹介した通り、船形の身光部と丸い頭光部との破損断片で、現在は復元的に配列されて台板に張り付けられたものになっています。
身光は高さが226㎝あり、銅製で鍍金されています。
その表裏には千手観音を中心とする群衆や、大仏蓮弁と類似する須弥山図などの図様が線刻されています。

現在は、身光部と頭光部は別々に保管されていますが、「南都七大寺大鏡・東大寺大鏡」(昭和3年・1928刊)に、頭光と身光とを組み合わせた形にして撮影しためずらしい写真が掲載されています。

身光と頭光が組み合わされた二月堂・光背写真~「南都七大寺大鏡・東大寺大鏡」(昭和3年・1928刊)掲載写真
身光と頭光が組み合わされた二月堂・光背写真
「南都七大寺大鏡・東大寺大鏡」(昭和3年・1928刊)掲載写真




【明治33年(1900)に、法華堂前の経庫の中から発見された光背断片】


この光背断片、実は、明治時代になってから偶々発見されたものなのです。

建築史学者、関野貞が奈良県技師時代、明治33年(1900)頃に、法華堂前の校倉造の経庫を調査したときに発見したものです。

二月堂・光背の破損断片が発見された、法華堂前の経庫
二月堂・光背の破損断片が発見された、法華堂前の経庫

発見された時の有様について、浜田耕作は明治40年に発表した論考「二月堂本尊光背の毛彫」の中でこのように記しています。

「此の火災(注記:寛文7年・1667の二月堂の火災)の時、本尊は無事なりしも、その光背は粉砕されしかば、之を法華堂の校倉に蔵したり。
然るにその後誰人も之に、注意するものなかりしに、明治33年のころ、関野貞氏同校倉を調査せしに、内に叺(かます)あり、之を開けば即ち此の二月堂本尊光背の破片にして、その数凡て67片、大なるは一、二尺より、小なるは一、二寸に至る。
全形の十中七、八を具備せり。

而して其表面と裏面とには、全部細密なる毛彫りを施し、仏像等を表せり。
之れ実に此の破残の光背をして重大なる価値を有せしむる所以なり。」
(「二月堂本尊光背の毛彫」国華202号・1907、「日本美術史研究」1940年座右宝刊行会刊所収)

光背の破片は、法華堂前の経庫に、叺、即ち藁蓆(わらむしろ)を二つ折りにした袋に入れられて、保管されていたようです。



【寛文7年(1667)の二月堂大火災で、火中破損した光背】


二月堂は、寛文7年(1667)修二会中の早朝に火災があり、それを記した練行衆日記によると、
「甍瓦、梁棟が倒落するほど相当の大火災であったが、不可思議なことに、尊像はいささかの毀損もなかった。」
旨が、記されています。

発見された光背断片は、この火災の時に破損した大観音の光背であったのでした。
光背には、焼け焦げたり溶けた跡などがあり、この時の火災の時に火中、破損したが、その後大切に保管されていたものだと思われます。



【「大観音」の天衣の断片も遺され保管されていた~平成3年(1991)に初公開】


実は、大観音の付属物であったものが、もう一つ遺されたいるのです。
大観音像の天衣の4個の破片です。

二月堂・秘仏「大観音」の天衣の断片
二月堂・秘仏「大観音」の天衣の断片

大観音の天衣断片については、ご存じの方は少ないのかもしれません。
この天衣破片が初めて公開されたのは、平成3年(1991)に奈良国立博物館で開催された「国宝南大門仁王尊像修理記念 東大寺展」に出展された時でした。
その後も、めったに公開されることは無くて、2010年東博開催の「東大寺大仏~天平の至宝展」に出展された時ぐらいしか、展示されたことは無いのではと思います。

断片は、蓮肉の縁にかかって垂下する部分とみられています。
この断片が、どのようにして発見されたのかは、私が確認した資料ではよく判りませんでした。
明治33年に発見された光背破片と一緒に保管されていたのでしょうか?



【寛文の大火災でも。全く無傷で守られたとされる「大観音」】


現在眼にすることができる光背や天衣の断片から推察すると、大観音像は等身大ぐらいの、奈良時代の金銅仏像であると考えられます。

大観音像は寛文7年(1667)の火災時に

「不可思議なことに、尊像はいささかの毀損もなかった。」

と記録されていますが、光背の火中損傷状況や、天衣の破損などから想像すると、像本体も火中損傷している可能性はあるのかもしれません。



【奈良時代金工絵画の代表作とされる大観音光背~天平宝字年間(760年代)の制作か?】


大観音像の光背は、奈良時代の金工絵画の代表作として、重要文化財に指定されています。

二月堂・「大観音」十一面観音光背
二月堂・「大観音」十一面観音光背

緊密な画面構成、流麗な動きを見せる刻線は精彩に富んだもので、天平勝宝8年(756)頃の制作の大仏蓮弁線刻画に比肩されるべき名品と云われています。

二月堂・「大観音」十一面観音光背二月堂・「大観音」十一面観音光背
二月堂・「大観音」十一面観音光背の線刻画

光背に線刻された図様については、図様の復元、主題の検討など様々な研究が行われているのですが、私には不案内な苦手分野で、ここではパスさせていただきます。
一言でいえば、裏面には盧舎那浄土が刻され、表面には補陀落浄土あるいは阿弥陀浄土が刻されているということだそうです。

二月堂「大観音」光背の描き起こしトレース図(中神敬子氏作成).二月堂「大観音」光背の描き起こしトレース図(中神敬子氏作成)
二月堂「大観音」光背の描き起こしトレース図(中神敬子氏作成)

二月堂「大観音」光背の復元図(平田陽子氏復元作成).二月堂「大観音」光背の復元図(平田陽子氏復元作成)
二月堂「大観音」光背の復元図(平田陽子氏復元作成)

また、光背の制作年代は、線刻図様などから、大仏蓮弁線刻画よりもやや遅れる760年代、天平宝字年間頃の制作ではないかとされています。

東大寺・大仏蓮弁の線刻図(模造の写真)
東大寺・大仏蓮弁の線刻図(模造の写真)

余談ですが、光背は板面に復元的に貼り付けられた形で保存されていたため、裏面の盧舎那浄土は見ることができず、過去に採られた拓本や復元図で推測するしかありませんでした。
2016年に保持する板が透明なアクリル板に取り替えられ、現在では表裏両面を見ることができるようになっています。

アクリル板展示で裏表両面を鑑賞可能となった二月堂・光背

アクリル板展示で裏表両面を鑑賞可能となった二月堂・光背
東大寺法華堂・不空羂索観音像



【「大観音」は、きっと官営工房制作の第一級の等身大金銅観音像】


いずれにせよ、大観音の銅製光背は、奈良時代金工作品の秀作、第一級品であることには間違いありません。
その光背を背負う大観音像、等身大の金銅仏像であった訳ですから、当時の官営工房の作、即ち造東大寺司鋳仏所の制作によるものであったのでしょう。

上代の官営工房の手になる第一級の等身大金銅観音像と云えば、薬師寺・東院堂の聖観音像が頭に浮かびます。

薬師寺東院堂・聖観音像
薬師寺東院堂・聖観音像

姿を拝することのできない大観音像ですが、それはそれは見事な、天平時代の超一流レベルの十一面観音像であろうと思われます。



【いずれが本当の二月堂のご本尊? 「大観音」と「小観音」】


二月堂には大観音と小観音の大小二体の十一面観音像が、絶対秘仏として祀られています。

小観音は、大観音の祀られる須弥壇の前の厨子に安置されていますが、大観音のお前立という訳ではないようです。
「二月堂絵縁起」などの伝承によると、小観音の方が二月堂開基の実忠によって難波津で、観音の坐す補陀落山で勧請され、二月堂に安置されたとされています。
大観音光背が破損焼損した寛文7年(1667)の火災の際も、何はさておいて、小観音が真っ先に救出されています。

小観音は、二月堂草創と修二会創始を物語る根本本尊として神聖視されてきたわけです。
七寸の銅造であると伝えられています。



【修二会の前後半で、本尊が入れ替わる二躰の観音様】


ところで、いわゆるお水取り、修二会の行法おいては、前半と後半で二つの本尊が入れ替わることをご存じでしょうか?
全14日間の行法のうち、上七日の間は大観音を、下七日の間は小観音を、それぞれ本尊として勤修されるのです。

このことは、二月堂の本尊が祀られる、歴史的経緯を示唆しているようなのです。
修二会7日目、「小観音出御」という法要が行われます。
小観音の厨子が内陣から礼堂に出て、その後外陣を一回りぐるりと巡って、元の内陣に安置されるのです。

「小観音出御」法要で、内陣から運び出される「小観音」御厨子
「小観音出御」法要で、内陣から運び出される「小観音」御厨子

小観音の厨子は、御輿のように持ち運べるようになっているのです。
「小観音出御」の日以降、大観音と本尊が交替し、下7日間の本尊は小観音が勤めることとなるのです。



【「小観音出御」の行法は、修二会時専用の御本尊であった名残り?】


この「小観音出御」の行法は、本来、小観音が二月堂に常置されていたものではなくて、修二会の期間のみ二月堂に迎えられる修二会専用の本尊であったことを物語っているとされています。

古記録の研究などによると、小観音は東大寺の「印蔵」に在って、修二会の際に印蔵の小観音を二月堂に迎え奉じられていたことがわかるということです。
印蔵というのは、食堂の北にあり4つの倉の一つで、東大寺内の重要文書を納める倉のことです。
小観音は、もともとは、修二会の都度二月堂に迎えられていたのが、平安末期のある年を境に印蔵に再び帰ることがなくなったもので、「小観音出御」の行法は、その名残の儀礼となっていると考えられています。

そうだとすると、二月堂本来の本尊は大観音ということになるのですが、大観音の制作年代も天平宝字年間(760年代)以降かとみられ、二月堂草創とされる天平勝宝4年(752)との間に年差もあるなど、二月堂の二つの本尊問題は、なかなか確定的な結論には至っていないようです。



【二躰の絶対秘仏の観音様の、尊容を伺い知る図像は?】


最後に、二つの秘仏、十一面観音像の尊容を伺い知ることのできるものはあるのでしょうか?

まず、小観音像ですが、「類秘抄」という図像集に、この像容を示すと思われる図像が描かれているのです。
「類秘抄」というのは勧修寺の法務寛信が保安4年(1123)年に編纂した図像集なのですが、その中に「東大寺印蔵像」と墨書された十一面観音像が描かれており、この像が「小観音像」に該当するとされています。

奈良博蔵「類秘抄」(鎌倉時代・重要文化財)に描かれた二月堂「小観音」の尊容
奈良博蔵「類秘抄」(鎌倉時代・重要文化財)に描かれた二月堂「小観音」の尊容

奈良国立博物館の収蔵品データベースに、奈良博蔵「類秘抄」(鎌倉時代・重要文化財)が掲載され、小観音とみられる画像も掲載されています。

その解説には
「「東大寺印蔵像」と墨書される二臂の十一面観音像が、二月堂修二会下七日の本尊となる小観音を描いたものである。
寛信は秘仏であった印蔵像を実見する機会を得たとみられ、図像の傍らに「本面を加えて十一有り、堂本と異なる」という注記を加えてその頭上面に注目している。」
と、述べられています。

大観音像の方は、どうでしょうか。

川村知行氏は、大観音の頭部のかたちを写し取った図像が存在するとしています。
高野山西南院本「覚禅抄」の十一面巻裏書に、二月堂とされる十一面観音の図像が2躰掲載されていることを指摘したものです。

高野山西南院本「覚禅抄」十一面巻裏書に描かれた、二月堂「大小観音」の頭部尊容
高野山西南院本「覚禅抄」十一面巻裏書に描かれた、
二月堂「大小観音」の頭部尊容


一方に「補陀落の跡」と墨書され、小観音が「補陀落観音」という称を持ったことから、こちらが小観音の図像と思われる。
大観音の図像は、もう一方の「頂上仏面无化仏」と墨書された図像と思われる。
というものです。

いずれの図像も白描画で、これから奈良時代の金銅仏像の造形をイメージというのも、なかなか難しいと思うのですが、絶対秘仏の二月堂の二つの本尊の尊容を、かろうじて想像させる図像ということになります。


今回は、二月堂の本尊光背と二つの絶対秘仏観音像の話でしたが、なんだか、とりとめのない話になってしまいました。


本尊像の姿を拝することが出来るような機会が来ることは、今後ともあり得ないことでしょうから、見事な線刻造形の復元光背から、その姿を想像するしかないことと思います。


こぼれ話~光背の話⑤ 東大寺法華堂・不空羂索観音像の光背を巡る謎の話 〈その2〉 【2020.06.07】


ここからは、「光背切り詰めの謎」の話に入っていきたいと思います。

法華堂・不空羂索観音像
東大寺法華堂・不空羂索観音像


【光背切り詰めの事由は? その時期は?~安置仏変遷の謎を解くカギ】


先に、不空羂索観音像の光背の位置が、50~60㎝程ズリ下げたようになっていることにはふれました。
この光背、いつ頃、どういう理由で、切り詰められ位置が下げられたのでしょうか?

頭光の中心が肩の処に下がっている不空羂索観音像
頭光の中心が肩の処に下がっている不空羂索観音像

この問題は、本尊をはじめとした安置仏像がいつ頃、どのような事情で変遷していったのかという謎を解く、大変重要なカギとなるものなのです。



【従来の考え方~後に八角二重基壇を追加据付け、光背を切り詰め】


従来、光背が切り詰められ位置が下げられたのは、不空羂索観音像造立以降のいずれに時期かに、
「八角二重基壇が事後的に据え付けられた」
ことが、その事由であると考えられていました。

不空羂索観音を安置する八角二重基壇
法華堂・不空羂索観音安置のために据え付けられる「八角二重基壇」

例えば、次のような考え方が示されています。

福山敏男氏は、

この基壇は、古記録から「東大寺南阿弥陀堂八角宝殿の“基二階”」であったもので、延喜20年(920)以降に法華堂に移入され、本尊の基壇に据えられた。
(「東大寺法華堂に関する問題」東洋美術23号1926年)

金森遵氏は、

脱活乾漆の梵天帝釈天像は、本尊に対して像高が過大であり、2像は後世の移入像と考えられる。
この際に本尊との像高バランスをとるために、他所にあった八角二重基壇が転用して据え付けられた。
(「法華堂諸像の一考察」東大寺法華堂の研究 1948年 大八洲出版刊所収)

小林剛氏は、(先に紹介した通りですが)

脱活乾漆8護法神像は、すべて後世の移入像で、大きな護法神諸像に本尊を釣り合わせるために、(八角基壇を新たに据えて) 光背を切り詰めてまで本躯を高く持ち上げた。
(「東大寺」1952年 毎日新聞社刊)



【基壇を据えても切り詰める必要なかった光背?~天井につかえるというのは先入観】


このように、いずれの説も、八角二重基壇が後付けで据え付けられ、その際、

「そのまま本尊と光背をスライドして持ち上げると、光背の方が天井につかえてしまうので、光背下部を切り詰めて位置を下げざるを得なかった」

と想定したものでした。

ところが、この推測は、思い込みに過ぎなかったことが明らかになりました。
天井と光背先端との間隔は、相当に広いのです。
光背をスライドして持ち上げても、天井につかえるということは全く無かったのです。

〈その1〉で、本尊修理の際に、光背を本来の位置に吊り上げてみた写真をご覧いただきました。

本来の位置まで吊り上げられた光背と不空羂索観音像
本来の位置まで吊り上げられた光背と不空羂索観音像
「東大寺法華堂八角二重壇小考」(仏教芸術誌306号)掲載写真


ご覧の通り、光背の先端は天井までまだ余裕がありますし、その間隔が、とりわけ窮屈になってしまうということもなかったのです。

天井と光背先端とに広い間隔がある不空羂索観音像安置状況
天井と光背先端との間隔には、相当に広い余裕がある
不空羂索観音像の安置状況



【実は、屋蓋から几帳が垂れる宝殿スタイルだった二重基壇】


それでは、どうして光背をスライドさせずに切り詰めざるを得なかったのでしょうか?

その訳は、この八角二重基壇が、元々どういう構造、姿のものだったのかに深くかかわっているようなのです。

実は、八角二重基壇の上の壇に、8個の穴の痕があるのです。

法華堂本尊の八角二重基壇~基壇修理時撮影写真
法華堂本尊の八角二重基壇~基壇修理時撮影写真
上段の外縁近くに柱穴があけられているのが判る


丁度8角形の角にあたる部分に、柱を挿していたような穴があけられています。

八角二重基壇に遺されている柱穴
八角二重基壇に遺されている柱穴

この八角基壇、元々は、8本の柱が立てられ、その上の屋蓋を支えているという「宝殿」の姿をしていたのでした。
きっと、屋蓋からカーテンのような帳が下ろされ、その中に本尊像が安置されるという、八角几帳形式の厨子であったと想定されるのです。



【几帳形式が普通だったと思われる、古代の仏像安置厨子】


仏像の厨子というと、普通は四方壁面に囲われて扉をきっちりと閉じることができるものをイメージしてしまいますが、奈良~平安時代の厨子というのは、密閉型ではなくて几帳形式のものであったようです。

厳重秘仏で知られる法隆寺夢殿・救世観音像も、大江親道の「七大寺日記」(1106)には、
「宝帳の内に安置さる」
と記されていて、平安後期には、宝殿形式の几帳が下りた厨子に安置されていたようなのです。

法隆寺夢殿・救世観音像厨子
法隆寺夢殿内の厨子に安置される救世観音像
平安時代には宝殿に几帳が下りた形で祀られていた


八角二重基壇に柱穴が穿たれていることは、以前から、知られていたようで、福山敏男氏も基壇制作時には「屋蓋を柱が支えていたことを物語る」と記しています。

しかし、他の研究者も含めて、法華堂への基壇移入時には、柱と屋蓋は取り払われていたとみていたようで、このことに注目した議論は、ほとんどなかったと思われます。



【宝殿内に本尊を安置するために、光背を切り詰め~奥健夫氏の新見解】


この八角二重基壇が、柱屋蓋付きの宝殿形式であったことに着目して、光背の切り詰めの謎に論及したのが、奥健夫氏でした。

先にご紹介した、 「東大寺法華堂八角二重壇小考」 (仏教芸術306号・2009) では、修理時に得られた新たな知見を踏まえて、この光背切り詰め問題について詳しく言及されています。

奥氏は、次のように考えました。

・八角二重壇は、開放型の宝殿の基壇で、後世に移入されたものではなく、当初から、法華堂の為に制作されたものである。
上段の左右幅が堂の中央間の桁行と合致する事など、調査結果からそう考えられる。

・不空羂索観音像の光背が切り詰められているのは、この宝殿のなかに据え付けるために、已む無く為されたものだと考えられる。

・屋蓋がなければ、光背は切り詰めなくても天井につかえることは無い。
また、不空羂索観音像が、当初から法華堂に安置するために制作されたものなら、このようなことは起こりえない。



【不空羂索観音像は、奈良時代に他所から移安~その際、二重基壇設置との考え方】


これらのことから、

「法華堂は建立当初、不空羂索観音像とは別の本尊を安置していたが、のち(かなり早い時期であろう)に当初の本尊に替えて他所より光背・台座付きの不空羂索観音像を本尊に迎え、その際に二重基壇をもつ八角宝殿を設置し、そこに収まるように光背の基部を撤去して光背の位置を引き下げ、基壇下段には六躯の塑像を安置した。」
(「東大寺法華堂八角二重壇小考」~この段階では、背後の北面執金剛神の安置の痕跡は未調査でした。)

と、結論付けたのでした。

・法華堂建立当初の本尊は別の像だったが、奈良時代中に他所にあった現不空羂索観音像に交替した。
・不空羂索観音像の移入安置に際して、光背が切り詰められた。

という訳です。

結構、ビックリの結論でした。

ただ一方で、

・元あったといわれる法華堂の本尊というのは、どうなったんだろう?
・あれほどの見事な不空羂索観音像は、そもそも何処に安置されるために造立されたのだろうか?
・乾漆8天王像の安置と、光背切り詰めは、本当に無関係なのだろうか?

私ごときでも、こんな疑問が自然と沸いてきます。

奥氏自身も、この論考は、史料などからの東大寺と法華堂の状況、性格や、諸尊像との関係を考察したものではなく、疑問点もあるとしながらも、

実証的な調査に基づいて検討すると、
「寸法的にそうしないと宝殿に屋蓋を載せることが困難である以上、この結論にならざるを得ない。」
と述べられています。

奥健夫氏の論考「東大寺法華堂八角二重壇小考」は、日光月光(梵天帝釈天)像、戒壇堂四天王像が不空羂索観音の当初一具像であったという大発見よりも、むしろ八角二重壇の調査研究成果や光背の切り詰め事由の検討の方にウエイトが置かれて論じられていました。

しかし、光背切り詰め問題の方は、新聞等であまり採り上げられずニュースにならなかったので、広くは知られていないのではないかと思います。



【前説を翻す新説を発表~本尊他所移安説から当初安置仏説へ】


これで、一つの見解が出たと思われたかの、「光背切り詰め問題、法華堂安置諸仏問題」であったのですが、それから6年半後、奥健夫氏自身が、前説を翻して、新たな見解を発表しました。

結論から先に言うと、

・不空羂索観音像が他所から移入されたとした考え方は撤回し、造立当初からの法華堂安置仏と考える。

・本尊像は、光背を切り詰めることなく、宝殿のある基壇に安置されていた。

・乾漆8天像が後世に移入された際(10C以降か?)に、内陣を一段高くして須弥壇が設けて安置されることになり、宝殿の屋蓋が天井につかえないよう、基壇や支え柱が縮められた。

・その際、本尊を高さを縮めた宝殿内に収めるために、光背の切り詰めが行われた。

というものです。

2016年に「東大寺の新研究Ⅰ・東大寺の美術と考古」(法蔵館刊)という本が出版され、奥氏は 「東大寺法華堂諸尊像の再検討」 という論考を所載、この新見解が述べられています。



【後世に、基壇下部が削り詰められていたことが、調査で明らかに】


新たな見解に訂正された最大のファクターは、

「八角二重基壇の台座下框が、後世に削り詰められていたこと」

が、その後の調査によって明らかになったことでした。

削られた下框の高さは、9㎝程とみられ、その削られた部位の痕跡から、基壇制作後、相当に長い時間を経てからの所為であるとみられたのでした。
そうだとすると、この時に宝殿の高さを低くする必要が生じたことになります。



【乾漆八天王像移入のタイミングで、須弥壇を新たに設置】


奥氏は、その必要が生じたのは、乾漆8天王像の移入のタイミングであったと想定しました。

諸像の移入に際して、これらを床の上に直置きするわけにいかないので、内陣に須弥壇を設置することにし、それまで床に据えられていた八角二重基壇の宝殿も須弥壇上に置かれることになったという訳です。
(なお須弥壇は、創建当初から設置されていたという見方もあるようです。)

内陣「須弥壇」上に安置されている法華堂諸像
内陣「須弥壇」上に安置されている法華堂諸像

法華堂堂内平面図
法華堂堂内平面図



【須弥壇上に本尊安置で、宝殿の高さを縮めたと想定~光背も併せて切り詰め】


須弥壇上に据え付けるには、宝殿が高すぎて天井につかえるために、下框を削り落とすとともに、屋蓋を支える柱も短く詰めることになった。
低くなった宝殿のなかに、本尊像と光背を安置するために、やむなく光背下部を切り詰めておさめた。

法華堂安置仏の変遷と光背が切り詰められた訳を、このように考えたということです。



【乾漆八天王像は、旧講堂安置仏であった可能性も?】


もう一つ、奥氏は、後世に移入された乾漆8天王像は、当初は東大寺講堂に安置された諸像であった可能性に言及しました。

東大寺講堂の本尊・十一面観音像は、像高二丈五尺(約7.6m)の乾漆造りの巨像で、天平宝字年間、760年代に造立されたと見られています。
法華堂乾漆8天王像は、像高が3~4mの巨像で、像高バランス、様式から東大寺講堂安置像であった可能性が考えられるというものです。

法華堂・梵天帝釈天像(梵天)
法華堂・梵天帝釈天像(梵天)

法華堂・四天王像(持国天)法華堂・金剛力士像(阿形像)
(左)法華堂・四天王像(持国天)、(右)金剛力士像(阿形像)

講堂は、延喜17年(917)に焼亡しており、この時に搬出、法華堂に移入されて、承平5年(935)の講堂再建供養時には戻されずに、現在に至っているという経緯も想定し得るとしているのです。

東大寺・講堂址
東大寺・講堂址


【最新の法華堂安置仏変遷と光背切り詰めの謎の、想定ストーリーは?】


以上のような想定を、もう一度まとめなおすと、

「法華堂安置仏の変遷と八角二重基壇設置、光背切り詰めに関する経緯」

については、次のようなストーリーになるのではないでしょうか。

・不空羂索観音像と八角二重基壇は天平年間に造立、制作され、法華堂に安置された。

・八角二重基壇は、8本の柱に支えられた屋蓋のある宝殿で、屋蓋からカーテンのような帳が下ろされ、その中に本尊像が安置されるという、八角几帳形式の厨子であった。

・二重基壇の下段には、本尊を取り囲むように7躯の塑像が安置されていた。
梵天帝釈天像(日光月光菩薩像)、現戒壇堂・四天王像、執金剛神像の7躯が、不空羂索観音像造立時の当初一具像ということとなる。

・脱活乾漆8天王像は、当初は天平宝字年間に造立された講堂本尊・十一面観音像との一具像で、延喜17年(917)講堂焼亡後に、法華堂に移入安置された可能性がある。

・乾漆8天王像移入安置に際して、床上に内陣須弥壇が設置され、八角二重基壇宝殿を壇上に据えると宝殿が高すぎて天井につかえるために、下框を削り落とすとともに、屋蓋を支える柱も短く詰めることになった。

・低くなった宝殿のなかに、本尊像と光背を安置するために、やむなく光背下部を切り詰めておさめた。

・二重基壇下段に安置されていた7躯の塑像は、いつの時かに、梵天帝釈天像(日光月光菩薩)は基壇上段に安置され、四天王像は法華堂を離れて最終的に戒壇堂に移された。
執金剛神像は、北面に造られた厨子のなかに祀られ秘仏化された。

・宝殿は、時期不明ながら、柱、屋蓋の破損などにより取り払われ、現在のような安置の姿となった。

以上が、最新の想定ストーリーということになるのではないかと思います。


私のようなものでも、素直になるほどと納得してしまうストーリーです。

ただ、このストーリーが真実だと確定したわけではありません。
またいつの日にか、新発見によって大きく覆されたり、違った見解が発表されることもあるのかもしれません。


「不空羂索観音の光背は、何故切り詰められたのか!」


この謎は、法華堂の当初の安置仏、その後の変遷を解明していく上での、大きなカギを握っているのだということを、今更ながらに、思い知らされることになりました。


こぼれ話~光背の話④ 東大寺法華堂・不空羂索観音像の光背を巡る謎の話 〈その1〉 【2020.05.29】


東大寺法華堂の不空羂索観音像、今更言うまでもなく、天平彫刻の最高傑作といえる脱活乾漆像です。

法華堂・不空羂索観音像
東大寺法華堂・不空羂索観音像

この像をはじめから好きになる人は少ないのかもしれませんが、「締りのある緊張感」漲る見事な造形力には、見れば見るほどに見惚れるものがあります。

今回は、この不空羂索観音像の光背を巡る謎の話です。

「謎の話」と題したのは、この光背の、

「高さの位置のズレ」   「制作年を示唆する史料」

が、本尊像の制作年や堂内諸仏の安置像変遷のカギを握る可能性があるかもしれないと見られているからです。



【見事な不空羂索観音像の透彫り光背~2010年に初めて堂外で展示】


「不空羂索観音像の光背」

法華堂の堂内で諸仏を拝すると、本尊像の背後にある光背にはなかなか眼が行かないのではないかと思います。

法華堂・不空羂索観音像
法華堂・不空羂索観音像と光背

この光背、後の時代のものではなく、天平時代当初のものがしっかりと残されているのです。
本尊像の見事さに劣らぬ素晴らしいものです。

法華堂の不空羂索観音像と光背は、これまで一度も堂外に出たことは無かったのですが、2010年5月から法華堂の須弥壇等の修理実施が行われることとなり、初めて堂外に出ることになりました。
不空羂索観音像の方が、2010~11年に東大寺ミュージアムで公開展示されたのは、皆さんよく覚えておられることと思います。
光背の方は、2010年10月に東京国立博物館で開催された「東大寺大仏~天平の至宝展」に出展されました。

「東大寺大仏~天平の至宝展」図録表紙
「東大寺大仏~天平の至宝展」図録表紙

東博「天平の至宝展」では、光背だけが単体で展示されました。

法華堂・不空羂索観音像~光背
法華堂・不空羂索観音像~光背

暗い堂内で本尊の背後に隠れ気味の光背を、明るい照明のなかで、眼近にじっくり見ることができました。

法華堂・不空羂索観音像~光背
法華堂・不空羂索観音像~光背

身光の透彫りの唐草文は葉や蔓がぐんぐん伸びていくような勢いがあり、いかにも天平盛期の傑作に相応しい見事な造形でした。



【何故だか、ずり下がっている光背の位置~安置仏変遷のカギを握るのか?】


この光背、堂内で不空羂索観音像を拝すると、ズリ落ちたように、その位置が下にズレていることは、皆さんもよくご存じのことと思います。

頭光の位置がが肩の位置まで下がっている光背
頭光の位置がが肩の位置まで下がっている不空羂索観音像の光背

本尊像の頭の位置と、光背の頭光の中心とが大きくズレています。
円光の中心が肩口の処にまで、50~60㎝程ズリ下げられているのです。
このことが、不空羂索観音像の本来の美しさの鑑賞を妨げてしまっているのです。

光背の下部が切り詰められたことによるものですが、いつ頃、どういう事情で、そのようなことが行われたのでしょうか?
この切り詰めには、本尊足元に据えられる八角二重の基壇が関係していて、法華堂の当初安置仏像の問題やその変遷の謎を解くための、大きなカギの一つになっているようなのです。
そのあたりのことは、後程、ふれさせていただきたいと思います。



【一度だけ、本来の位置に吊り上げられたことがある光背】


この光背を吊り上げて、本来の位置セットした写真が、残されています。
2006~9年に諸尊像の剥落止め修理行われ、不空羂索観音像の光背が台座から取り外され、後方に移動されました。

その折に、本来の高さであった位置まで吊り上げられたことがあるのです。
その状態で撮影された写真です。

本来の位置まで吊り上げられた光背と不空羂索観音像~「東大寺法華堂八角二重壇小考」(仏教芸術誌306号)掲載写真
本来の位置まで吊り上げられた光背と不空羂索観音像
「東大寺法華堂八角二重壇小考」(仏教芸術誌306号)掲載写真


モノクロ写真ではありますが、見事な後光のなかに映えて凛と立つ観音像の姿のすばらしさを発見した気分で、感嘆の声をあげてしまいそうでした。



【光背の制作年は天平19年?~本尊造立年推定の有力史料】


もう一つ、この光背についての重要な事実は、本尊像の造立年に関係しそうな史料が残されていることです。

正倉院文書にみえる「金光明寺造物所解」に、

「天平十九年(747)正月八日に、金光明寺の造仏所が「羂索菩薩」の光柄、花萼などを造るために「鉄二十挺」を請求した」

ことが記されているのです。

この記述が、法華堂不空羂索観音の光背制作にかかわるものであるというのです。
これを拠り所にすると、東大寺要録の「桜会縁起」に法華会が行われたと記される天平18年(746)が、観音像の造立年と考えられるという見方です。
この見解は、「金光明寺造物所解」の記述を見出した源豊宗氏が、昭和8年(1933)に示したものです。
「金光明寺造物所解」に書かれた内容は、法華堂不空羂索観音の光背にかかわるものではないと否定する見解もあるのですが、天平18年前後の造立説は、現在でも一番有力な見解になっていると思います。

法華堂の創建年代にも諸説があり、不空羂索観音像の造立年についても天平5年(733)説、天平12年(740)説、天平18年(746)説など諸説があるのですが、ややこしくなるので、ここではふれないでおきたいと思います。



【どちらが客仏?~脱活乾漆諸像と塑像諸像】


そして、不空羂索観音像の造立年代や光背の位置のズレの問題にかかわって、どうしてもふれておかなければいけない話があります。

法華堂に祀られる諸像の当初安置仏と後世の移入仏に関することです。



【2013年から現在の堂内安置仏に~かつては多くの乾漆像、塑像が立ち並ぶ】


現在の法華堂内には不空羂索観音像と脱活乾漆の巨像8躯、北面厨子内秘仏・執金堂神像が安置されています。
(巨像8躯は、梵天帝釈天像、四天王像、金剛力士二像です。)

現在の法華堂の堂内安置仏像
現在の法華堂の堂内安置仏像

現在の法華堂・堂内安置仏像~模式図
現在の法華堂・堂内安置仏像~模式図

法華堂修理完成後の2013年から、このような安置になっています。
この修理が始まる前には、不空羂索観音像の左右には、大変有名な塑像の日光・月光菩薩像が両脇侍のように安置されていました。
その以前には、厨子に入った塑像の吉祥天像、弁財天像も置かれていました。

2013年修理前の法華堂・堂内安置仏像
2013年修理前の法華堂・堂内安置仏像

2013年修理前の法華堂・堂内安置仏像~模式図
修理前の法華堂・堂内安置仏像~模式図

この安置スタイルの方に長らくなじんでこられた方のほうが圧倒的に多いでしょうから、現在の安置像を拝すると、ちょっと違和感というか調子が狂ったように感じてしまう気もします。

ご存じの通り、現在、塑像の4躯(日光月光菩薩、吉祥天、弁財天)は、法華堂から移されて「東大寺ミュージアム」に展示されています。



【長らくの定説~当初安置仏は脱活乾漆の本尊・八天王像】


さて、法華堂の当初の安置仏像は、現在の安置スタイルのものであったというのが、長らくの定説というものでした。
即ち、不空羂索観音像と巨像の8天王像が当初安置像だという訳です。

法華堂安置の8躯の脱活乾漆像(向かって左側).法華堂安置の8躯の脱活乾漆像(向かって右側)
法華堂安置の8躯の脱活乾漆像~堂内本尊の左右両側

本尊の不空羂索観音像が脱活乾漆像ですから、同じ脱活乾漆の技法で制作された8躯の諸天王像が一具のセット像であることは疑いのない常識と考えられたのです。
8躯の脱活乾漆像の制作年代には、作風から若干のズレがあるかもしれないが、一具として造られた像であるとされました。



【日光月光菩薩像などの塑像は客仏とみるのが常識に】


日光月光菩薩などの塑像の諸像については、脱活乾漆の本尊と材質がミスマッチだし、像高バランスも良くないことから当初の安置仏ではないとされていました。

不空羂索観音像と本尊両脇に安置される日光月光菩薩像(梵天帝釈天像)
不空羂索観音像の両脇に安置される日光月光菩薩像(梵天帝釈天像)"

本尊と材質を異にする塑像5躯は、いずれの時期に法華堂に安置されるようになったのかはわからないが、元は他のお堂から移されてきた客仏であると考えられたのです。
(執金剛神像だけは、当初から北面に安置されていたとする見方もあります。)

私も、若い時に、
「日光・月光菩薩は、超有名な仏像だけれども、実は梵天帝釈天で、これは他所から移された像なんだよ。」
と、したり顔で友人に話していたことを思いだします。



【定説を覆す、驚きの発見~八角二重基壇に当初安置像の台座痕跡が】


いまから10年ほど前、この常識を覆す驚きの発表がありました。

奥健夫氏が、2009年に発表した 「東大寺法華堂八角二重壇小考」 (仏教芸術誌306号) と題する論考です。
これが「小考」どころか、衝撃の大発見というものでした。

奥氏によると、一連の法華堂修理に際して、本尊の「八角二重基壇」を調査したところ、外側下の壇に6箇所の正八角形の台座が置かれていた痕跡が発見されたのでした。

法華堂本尊の八角二重基壇~基壇修理時撮影写真
法華堂本尊の八角二重基壇~基壇修理時撮影写真
外側下壇に台座の痕跡が見える




【7つの痕跡は、日光月光菩薩、戒壇堂四天王、執金剛神の八角台座と一致】


そして驚くべきことに、その痕跡は、上の壇に置かれている日光月光菩薩像(梵天帝釈天像)の台座、戒壇堂の四天王像の台座の輪郭と、サイズがぴったり一致するものだったのです。

八角二重基壇下段に遺された八角形の台座の痕跡
八角二重基壇下段に遺された八角形の台座の痕跡

この発見時には、執金剛神が安置される北面部は確認できなかったのですが、この後の須弥壇修理時の調査によって、本尊背後の八角二重壇下壇からも、八角台座の痕跡が発見されました。
執金剛神像が安置されていた痕跡と考えられるものでした。

また、年輪年代測定分析によって、八角二重基壇の桟木の伐採年が729年であることも判明、基壇が不空羂索観音像造立と同時期に制作された傍証にもなりました。



【法華堂の当初安置仏は、塑像七尊像と判明~乾漆八天王像の方が移安仏】


この結果から、八角二重基壇は不空羂索観音が造立された頃のもので、外側の基壇には本尊を取り囲んで、
塑像の7尊像、即ち日光月光菩薩像(梵天帝釈天像)、戒壇堂・四天王像、執金剛神像
が安置されていた可能性が極めて高いことが、明らかになったのです。

法華堂・日光菩薩像(梵天像)法華堂・月光菩薩像(帝釈天像)
法華堂・日光菩薩像(梵天像)、月光菩薩像(帝釈天像)

戒壇堂・持国天像戒壇堂・増長天像

戒壇堂・広目天像戒壇堂・多聞天像
東大寺戒壇堂・四天王像

法華堂・執金剛神像
法華堂・執金剛神像

この大発見は、当時多くの新聞等でビッグニュースとして報道され、随分話題になりましたので、皆さんもよく覚えておられることと思います。

法華堂の当初の安置仏は、脱活乾漆の8天王像ではなくて、なんと、塑像の7尊像であったのです。

法華堂・八角二重基壇上の当初亜安置仏と現安置仏~模式図
法華堂八角二重基壇上の当初安置仏(7塑像)と現在(修理前)安置仏・日光月光像~模式図

戒壇堂の四天王像(近世に指図堂から移安)と日光月光菩薩像は、作風が似通っていることは、これまでも指摘されていたのですが、当初安置堂はいずれも不明とされていました。

「まさか、法華堂が造立当初の安置堂だったとは!」

と、本当に驚かされる大発見となったのです。

脱活乾漆の8天王像の方は、いずれの時にか、法華堂に追加で安置されたということになります。


この新発見、法華堂安置仏変遷の常識、定説を、完全に覆すものとなった訳です。



【「先見の明」があった小林剛氏の説~新発見どおりの当初安置仏と主張】


ちょっと興味深い話があります。
実は、昭和20年代に、「当初安置仏は、新発見の事実通りのもの」と主張した人がいたのです。

当時、奈良文化財研究所・美術工芸研究室長であった小林剛氏です。
小林剛氏は、著書 「東大寺」 (1952年毎日新聞社刊) において、

「法華堂の当初安置仏は、日光月光菩薩など塑像の諸仏で、脱活乾漆諸像の方が後の移入である。」

と、述べているのです。

この説を主張したのは、私の知る限りでは、小林剛氏だけでした。
塑像の方が客仏であるという定説に対して、常識的ではない特異な意見とされ、同調する人はいなかったのではないかと思います。

小林氏は、次のような主旨の見解を述べています。

・本尊像と一具なのは乾漆諸像というのが定説であるが、隋従像としては大きすぎる。

・本尊像が乾漆造りで、隋具する護法神像が塑像であっても、一向差し支えない。

・日光月光と呼ばれる梵天帝釈天像と近世に戒壇院に移された四天王像は、不空羂索観音像と様式手法的に似通ったものがあり、これらの像が本堂の元からの護法神像ではなかったかと考えられる。

・乾漆の護法神諸像は、いつのころか本堂に移入されたもので、移入された際に本尊像の光背を切り詰めてまで本躯を高く持ち上げ、大きな護法神像に無理に釣り合わせようとしたものと思われる。

小林氏の見解を読んでいると、今回の新発見の事実を、そのままなぞってコピーしたかのごとくにピッタリと合致することに驚かされます。
戒壇堂四天王像が法華堂当初安置仏であったと思われることまで、適中しています。

これまで小林氏のみが主張した異説という扱いであったものでしたが、新発見の事実が明らかになってみると、

「まさに先見の明があった」

ということになろうかと思います。



【素人考えながら、ちょっと気になることは・・・・・】


驚きの大発見ともいえる法華堂の当初安置仏が明らかになった話。

「なるほど!」とすごく納得したのですが、個人的には、ちょっと気になることがあります。

全くの素人考えの思い付きの疑問なのですが、本尊と7躯の塑像が安置されていた八角二重基壇左右の外側の広いスペースはどうなっていたのでしょうか?

堂内は結構広いので、だだっ広い内陣の真ん中に八角二重基壇があり、そこに本尊と7天王塑像が寄せ合うように安置されていたことになります。
基壇左右の空いたスペースに、何の仏像も安置されていなかったとすると、見た目がちょっとばかりアンバランスな感じもするのですが・・・・・



【その2】では、不空羂索観音の光背が切り詰められ、位置が下げられた訳の謎についての話を見てみたいと思います。


こぼれ話~光背の話③ 根津美術館の観心寺伝来・戊午年銘光背の話 【2020.05.15】


東京青山にある根津美術館が所蔵している、「戊午年」の造像銘のある光背をご存じでしょうか。

根津美術館蔵・観心寺伝来戊午年銘光背

根津美術館蔵・観心寺伝来戊午年銘光背~裏面造像銘
根津美術館蔵・観心寺伝来戊午年銘光背
光背裏面に戊午年(658)の年紀のある造像銘が刻されている



今回は、この戊午年銘の光背にまつわる、いくつかのこぼれ話をたどってみたいと思います。
ちょっとマイナーな話になりそうですが、お付き合いください。



【観心寺の小金銅仏・観音像に取付けられていた、戊午年銘光背】


この小さな光背は、小金銅仏に取り付けられていたもので、銘記にある「戊午年」は、斉明天皇4年(658年)にあたると考えられています。
飛鳥白鳳期の造像銘記が残されている、貴重な作例です。
宝珠形の光縁部に、放射光、八葉蓮華が銅板の切り抜きで造られ、重ね合わせられています。
優れた意匠で、いかにも飛鳥白鳳の小金銅仏の光背という印象をうけます。


実は、この戊午年銘の光背、河内観心寺にある金銅・観音菩薩立像の光背であったと伝えられるものなのです。
観心寺に4躯のこされている小金銅仏像の一つで、像高33㎝、飛鳥白鳳期の小金銅仏像です。

観心寺・小金銅仏 観音菩薩立像.観心寺・小金銅仏 観音菩薩立像
観心寺・小金銅仏 観音菩薩立像

古様な感じながらも、肉身の造形、胸飾の表現や三面頭飾など、戊午年(658年)の制作と云われると、丁度ピッタリ感のある像です。



【離れ離れとなった観音像と光背~奈良博「白鳳展」(2015年)で再会】


この光背と観音菩薩像、離れ離れになっていることもあって、一般には意外に馴染みがないのかもしれません。
観心寺の金銅観音像は、霊宝館に展示されいつでも観ることができますが、根津美術館の戊午年光背は、普段は展示されておらず、仏教美術にゆかりのある企画の時にしか出展されませんので、たまにしか観ることができません。

近年、離れ離れになってしまった観心寺の「光背と観音像」が再会することがありました。
2015年に奈良博で開催された「白鳳~花開く仏教美術展」で、並んで展示されたのです。
覚えていらっしゃる方も多いのかもしれません。

私も、観心寺を訪ねた時も、根津美術館でも、金銅仏、光背ともに実見しているはずなのですが、ほとんど覚えていませんでした。

白鳳展で、セットで展示されたのを観て、
「この二つが本当に造像当初からのセットなのであれば、飛鳥白鳳期の極めて貴重な基準作例になるんだけれども・・・・」
と、まじまじと見入りました。



【失われてしまうことが普通の小金銅仏の光背】


この金銅・観音像と戊午年光背は、本当に当初からのセットだったのでしょうか?

飛鳥白鳳期の小金銅仏の光背が、造像当初のままで取り付けられているというのは、極めて稀と云って良いと思います。
ほとんどの小金銅仏は、光背が失われてしまっており、光背が付いていたとしても、当初のものではなく、別の像の光背であったものが取り付けられているという例が多いのです。



【法隆寺献納・四十八体仏の光背も、どの像のものだったか不明確】


例えば、法隆寺献納宝物の四十八体仏と呼ばれる小金銅仏に付属していた光背です。

法隆寺宝物館に、三十数個が所蔵されています。

東博 法隆寺宝物館~献納宝物光背東博 法隆寺宝物館~献納宝物光背

東博 法隆寺宝物館~献納宝物光背東博 法隆寺宝物館~献納宝物光背
東博 法隆寺宝物館に所蔵されている献納宝物の光背の一部

後世の後補とみられる光背も含まれています。
これらの光背のほとんどは、かつては四十八体仏のいずれかに取り付けられていたのですが、必ずしも本体像と一致するものではないので、現在では取り外されて別に保管されています。

昭和22年(1947)発刊の東京国立博物館刊「御物金銅佛像」掲載の写真をみると、多くの像に光背が取り付けられたものを見ることができます。
そのいくつかは、ご覧の通りです。
現在では、光背無しで展示されています。

光背がつけられた献納宝物・四十八体仏(S22年刊「御物金銅仏」掲載写真)光背がつけられた献納宝物・四十八体仏(S22年刊「御物金銅仏」掲載写真)

光背がつけられた献納宝物・四十八体仏(S22年刊「御物金銅仏」掲載写真)光背がつけられた献納宝物・四十八体仏(S22年刊「御物金銅仏」掲載写真)
光背が取付けられていたころの献納宝物・四十八体仏写真
「御物金銅佛像」S22(1947)東京国立博物館刊掲載写真


確かに、私の眼で見ても、このセットでは一寸フィット感が無いなという感じのものがあります。
後補のものだったり、他の像の光背が替わって取り付けられたということなのでしょう。



【当初からセットだったのかどうか微妙な、観音像と戊午年銘光背】


観心寺伝来の戊午年銘光背の話に戻ると、お寺では金銅観音像の光背であるとされてきたのですが、本当に、当初からこのセットであったと判断できるかどうかは、微妙なようです。

造像銘には、

「成午年十二月に伊之沙古の妻汗麻尾古が亡き夫のために阿弥陀仏像を敬造した」

旨が刻されています。

戊午年銘光背裏面に刻された造像銘(根津美術館蔵)
戊午年銘光背裏面に刻された造像銘(根津美術館蔵)

銘文に「弥陀仏像」(阿弥陀如来)とあるために観音像の光背であることを否定する意見と、阿弥陀三尊の脇侍像である観音像光背に刻されたものとの解釈とがあって、現在では、金銅観音像を「戊午年、658年制作の基準作例」と明確に位置付けることは難しいようです。



【よく判らない、光背が観心寺から出た経緯】


さて、この戊午年銘光背は、いつ頃、どのようないきさつで観心寺を出て、現在、根津美術館の所蔵になっているのでしょうか?

明治、大正年間に観心寺から出たように推測されるのですが、そのいきさつも含めて、よく判りません。
当時のことですから、ごく一般的には、光背だけが、何らかの事情で流失したとか、こっそりと売られたということが想像されます。
しかしそうとも限らないのかなと気になるのは、観心寺にはこの戊午年銘光背と瓜二つの模造品が残されていることです。
わざわざ模造まで造って本物が寺外に出るというのもちょっと違和感がありますし、後年に模造が造られたものなのかもよく判りません。

ちょっと不思議という処です。

ブログ「春秋堂日録~旧観心寺蔵光背」には、

「この光背が観心寺から離れたいきさつについて、どこかで書かれていた記憶はあるのですが、思い出せません。
かすかな記憶をたどると、観心寺からこの光背を離れる時、かわりに模造品を作ったと書かれていたようです。」

と記されていて、なかなか興味深い処です。

ブログ「春秋堂日録~旧観心寺蔵光背」には、光背の来歴や模造の話など、大変興味深い話が語られています。
ちなみに、「春秋堂日録」は、仏像文献検索HP「春秋堂文庫」と共に、大変役立ち、勉強になるサイトです、是非、ご覧になってください。


戊午年銘光背は、奈良の古美術商の老舗、玉井大閑堂から昭和初期に根津嘉一郎の所蔵になったようです。
観心寺から大閑堂主・玉井久次郎氏が入手したのかどうかはよく判りません。

玉井大閑堂(S2年刊「大和乃栞」水木要太郎著・玉井久次郎刊~掲載写真)
玉井大閑堂(S2年・1927刊「大和乃栞」水木要太郎著・玉井久次郎刊~掲載写真)"

大正~昭和の古い図録などをあたってみると、この光背について、次のような掲載記録がありました。

・大正15年(1926)刊 「第4回 推古会図録」 金銅光背 玉井久次郎氏蔵 (光背写真掲載)

・昭和 4年(1929)刊 「天寶留眞」 某氏蔵 (写真掲載)
「天寶留眞」は、私は未見なのですが、NETデータによると、玉井久次郎が飛鳥園から発刊した図録のようです。
・昭和11年(1936)刊 「飛鳥文化展覧会目録」 観音菩薩光背 金銅 根津嘉一郎氏蔵   
飛鳥文化展覧会には、大阪朝日会館で開催され、光背とセットであった観心寺・金銅観音像も出展されています。


【昭和初期、古美術商・玉井大閑堂から根津嘉一郎の所蔵へ】


こうしてみると、大正年間には玉井久次郎氏の所蔵となっていて、昭和4年までには根津嘉一郎が玉井大閑堂から購入したものと推測されます。

根津嘉一郎
根津嘉一郎

玉井大閑堂は、当時、奈良では随一の仏教美術の古美術商でした。
名だたるコレクターが、玉井大閑堂から古美術品を購入しています。
根津嘉一郎は、昭和3年(1928)に、玉井大閑堂から興福寺伝来の定慶作・帝釈天像を購入しています。

根津美術館蔵・興福寺伝来 定慶作帝釈天像
根津嘉一郎が玉井大閑堂から購入した
興福寺伝来・定慶作帝釈天像(根津美術館蔵)


明治39年(1906)に、興福寺から益田鈍翁が譲り受けた破損仏のなかの一体で、その後玉井久次郎氏の所蔵となっていた像です。

玉井久次郎別邸に陳列されている現根津美術館蔵・帝釈天像(S2年刊「大和乃栞」水木要太郎著・玉井久次郎刊~掲載写真)
玉井久次郎別邸に陳列されていた頃の現根津美術館蔵・帝釈天像
(S2年・1927刊「大和乃栞」水木要太郎著・玉井久次郎刊~掲載写真)"


戊午年銘光背も、先の古い図録の記録などからみて、この頃(昭和3年前後)に、根津嘉一郎が玉井から購入したのではないでしょうか。



【模造品が観心寺に残されている、戊午年銘光背】


もう一つ、ちょっと不思議というか、興味深い話があります。

先にもふれましたが、戊午年銘の光背は、根津美術館に所蔵されているものの他に、観心寺にも全く同じ形の模造品が残されているのです。

根津美術館蔵・戊午年銘光背~飛鳥・白鳳小金銅仏の発願者、制作者(久野健)美術研究309号1979掲載写真観心寺蔵の戊午年銘光背(模造)~飛鳥・白鳳小金銅仏の発願者、制作者(久野健)美術研究309号1979掲載写真

根津美術館蔵・戊午年銘光背造像銘~飛鳥・白鳳小金銅仏の発願者、制作者(久野健)美術研究309号1979掲載写真観心寺蔵の戊午年銘光背(模造)造像銘~飛鳥・白鳳小金銅仏の発願者、制作者(久野健)美術研究309号1979掲載写真
(左)根津美術館蔵・戊午年銘光背及び造像銘、(右)観心寺蔵・戊午年銘光背(模造)及び造像銘
久野健「飛鳥・白鳳小金銅仏の発願者、制作者」美術研究309号1979掲載写真


観心寺にある模造品がいつつくられたのかは、私は知らないのですが、昭和9年(1934)の美術研究誌の論考に、両者が存在することが記されていますので、その時点で模造品があったことは間違いありません。(菅沼貞三「金銅佛4躯・大阪府観心寺蔵」美術研究32号1934.08)

数多くの美術書、研究書には、観心寺伝来で金銅観音像に付属していたと伝える光背が、根津美術館所蔵の戊午年銘光背であると断じていて、観心寺にある模造品の光背には言及されていません。
一般には、観心寺に模造品が存在する事すら、あまり知られていないのではないかと思います。

観心寺に残された光背にふれた本なども、これは模造であると、はっきり断言しています。



【「根津美術館と観心寺」どちらの光背が模造なのか、はっきりしないとの見解も】


ところが、根津美術館所蔵のものと観心寺にあるものと、

「どちらが本物でどちらが模造であるかは、よく判らない、はっきりしない。」

とする見解もあるようなのです。

私が知っている処では、望月信成氏、久野健氏の二氏が、そのように論じています。

望月信成氏は、
「この光背(注記:観心寺にある光背)と全く同形で、しかも銘も同文のものが刻まれている光背が東京根津美術館にあり、両者のいずれかが模造品であることは明らかで、今後の比較研究に俟たなければならない。」
(「大阪の文化財」毎日放送文化双書第3巻・1973年毎日放送刊 所収)
このように述べています。

久野健氏も、
「根津美術館にも同形、同文の光背があり、どちらがオリジナルかという問題も、まだ解決していない。」
(久野健著「古代小金銅仏」1982年小学館刊、久野健編「造像銘記集成」1985年東京堂出版刊の両書他に、上記と同文記述が所収されています)
と述べています。

こういう見解があるとすると、明治年間に戊午年銘光背の模造品がつくられて、そちらの方が本物と称されて古美術商から根津に渡った可能性だってあるということになるのでしょうか。
小金銅仏の模造品、贋物というのは、本当に真贋鑑定が難しいようです。

久野健氏は、自著「古代小金銅仏」のあとがきで、このように述べています。

「この種の小金銅仏は、明治以来、古美術愛好家の収集欲の対象となり、その需要を満たすために盛んに模造品がつくられた。
そのため、真に7、8世紀に制作された小金銅仏と明治以降の模造品との真偽の判定もむずかしく、この方面の研究の障害となっている。」
(久野健著「古代小金銅仏」1982年小学館刊)

戊午年銘光背についても、こうした観点からの、慎重を期した発言なのかもしれません。



【「観心寺のものは模造」というのが、ごく一般的な定説】


一方、1979年刊の「飛鳥白鳳の在銘金銅仏」の記述では、観心寺にある光背は模造であると明快に断じていて、根津美術館蔵光背の刻銘の文字とのわずかな相違についても、

「一行目の「名」を「治」、最後を「是」とするものがあるが、これは観心寺にあるこの光背の模造が写し誤っているためである。」
(奈良国立文化財研究所飛鳥史料館編「飛鳥白鳳の在銘金銅仏」1979年同朋舎刊)

と明言されています。
その他にも、私の知る限りの書物や論考では、皆、根津美術館蔵の戊午年銘光背が観心寺伝来で白鳳時代の制作と述べられています。

こうしてみると、

「根津美術館が本物、観心寺が模造」

というのが、当たり前の定説になっていることは間違いないようです。

ちょっと不思議だなと思うのは、どの書物、論考にも、望月信成氏、久野健氏の「どちらが模造なのかは確定できないとする見解」に言及したものが、見当たらないことです。

両氏ともに、著名な大家ともいうべき仏教美術史学者なのですから、
「望月氏、久野氏のこのような見解もあるけれども、かくかくしかじかという事実や理由で、観心寺のものは模造品であることがハッキリしている。」
という趣旨が述べられた解説や論考があってもよいように思うのですが・・・・・



【何故だか「無指定」の戊午年銘光背~観心寺の観音像は重文指定】


実は、根津美術館蔵の戊午年銘光背は、文化財指定されておらず、「無指定」になっています。

飛鳥白鳳時代の造像銘記が遺されている作品・遺品は、法隆寺・金堂釈迦三尊光背銘を筆頭に、全部で12件で、いずれも美術史的には大変貴重な作例です。
そのうち仏像本体は無くなっていて、光背や造像記銅板だけが残されているものは3件です。

戊午年銘光背を除いては、すべて(11件)が国宝か重要文化財に指定されています。
「根津美術館の戊午年銘光背」も、重要文化財に指定されていても全く不思議はないと思うのですが、何故だかいまだに「無指定」のままです。

因みに、観心寺の銅造・観音菩薩立像の方は、重要文化財に指定されています。

ちょっと気になるところです。


随分マニアックでマイナーな話になってしまいましたが、観心寺伝来の「戊午年銘光背」にまつわる話をご紹介させていただきました。


この話、もう少し詳しく関係書や資料など確認してみたかったのですが、緊急事態宣言下、図書館が休館中で、調べてみることができませんでした。
他の資料などにあたると、もっと詳しいいきさつや事情などが判ることがあったのかもしれませんが致し方なく、ご容赦ください。


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