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観仏日々帖

こぼれ話~天龍山石窟の発見と石仏流出物語〈その6〉 最終回 【2021.03.06】


7.流出石仏の所蔵先変遷にまつわるエピソード


長々綴ってきた「天龍山石窟の発見と石仏流出物語」も、今回で最終回としたいと思います。

最後に、天龍山石窟流出石仏の所蔵者の変遷、売買などにまつわるエピソードなどを、いくつかご紹介したいと思います。

根津嘉一郎が、昭和3年(1928)に山中商会から46点を一括して購入、所蔵し、その後、昭和12年に欧州6ヶ国と東京帝室博物館に三十数点を寄贈した話は、〈その4〉でご紹介した通りです。

現在、国内の博物館、美術館が所蔵している天龍山石窟石仏は、30点ありますが、その蒐集者、旧蔵者については、前回〈その5〉の一覧表に付記させていただきました。



【天龍山石窟「如来倚像」(重文)が、東博所蔵となるまでのエピソード】


東京国立博物館蔵となっている首のない「如来倚像」が、博物館の所蔵に至るまでのいきさつには、ちょっと面白いエピソードがあります。

228天龍山石窟⑥:東博蔵・如来倚像(天龍山第21窟?)228天龍山石窟⑥:東博蔵・如来倚像(天龍山第21窟?)
東京国立博物館東洋館に展示されている天龍山石窟・如来倚像
(重文・唐8C~第21窟?)


この首のない「如来倚像」は、天龍山石窟遺作中秀抜の一作として知られる素晴らしい出来の像で、重要文化財に指定されています。

8世紀、唐文化成熟期の制作で、元あった窟ははっきりしませんが、第21窟にあったのではないかと云われています。



【「わかもと」長尾欽也・よね夫妻のコレクションであった「如来倚像」
~戦後、コレクションは散逸】

この「如来倚像」は、長らく、長尾欽也・よね夫妻の所蔵品でした。

228天龍山石窟⑥:長尾欽也・よね夫妻
長尾欽也・よね夫妻

長尾欽也・よね夫妻は、昭和初年から戦前にかけ、栄養薬「若素(わかもと)」で大いに財を成した人物で、また美術品の大コレクターとしても知られています。

数々の名品を所蔵していました。
現在国宝に指定されている、奈良国立博物館蔵「薬師如来坐像」、MOA美術館蔵「野々村仁清作・色絵藤花文茶壺」、福山市(ふくやま美術館)所蔵・刀剣「太閤左文字」「江雪左文字」なども、長尾家の所蔵品でした。

228天龍山石窟⑥:奈良博蔵・薬師如来像(国宝)~京都若王子社伝来228天龍山石窟⑥:MOA美術館蔵・野々村仁清作・色絵藤花文茶壺(国宝)
長尾氏のコレクションであった「国宝」作品
(左)奈良博蔵・薬師如来像(平安前期)、(右)MOA美術館蔵・仁清作色絵藤花文茶壺(江戸)


戦後になって事業に失敗し、これらのコレクションは売却され散逸しました。


本像が、東京国立博物館所蔵に至るいきさつについては、古美術商「繭山龍泉堂」の社主であった繭山順吉氏が、自著「美術商のよろこび」(1985年刊・非売品)に思い出話を綴っています。

228天龍山石窟⑥:「美術商のよろこび」長尾氏旧蔵・如来倚像についてのエピソード掲載ページ
繭山順吉著「美術商のよろこび」
長尾氏旧蔵「如来倚像」を採り上げたページ


興味深い話なので、ご紹介したいと思います。



【山中商会「支那朝鮮古美術展観」(1934)への出展像を、長尾氏が購入】


長尾氏が「如来倚像」を手に入れたのは、昭和9年(1934)のことです。

山中商会が主催し、上野の日本美術協会で開かれた「支那朝鮮古美術展観」に、本像を含めた天龍山石窟石仏が陳列されたのです。

228天龍山石窟⑥:「支那朝鮮古美術展観」での石仏展示風景(「ハウス・オブ・ヤマナカ」掲載写真)
「支那朝鮮古美術展観」での石仏展示風景(「ハウス・オブ・ヤマナカ」掲載写真)

展観目録を見ると、17点の天龍山石窟石仏が出展され、本像は
「目録番号377:唐 砂巖石 観音坐像 天龍山」
として掲載されています。

228天龍山石窟⑥:「支那朝鮮古美術展観」目録

228天龍山石窟⑥:「支那朝鮮古美術展観」目録掲載の天龍山石窟石仏
「支那朝鮮古美術展観」目録と天龍山石窟石仏写真掲載ページ

228天龍山石窟⑥:「支那朝鮮古美術展観」目録掲載の如来倚像
「支那朝鮮古美術展観」目録に掲載されている如来倚像

現在は「如来倚像」とされていますが、目録には何故だか「観音坐像」として掲載されていました。

長尾氏は、本像を購入し、鎌倉に新築したばかりの「湖扇荘」という個人美術館に陳列したそうです。



【繭山龍泉堂から、ボストン美術館に売却されるはずだった「如来倚像」(昭和30年代)


戦後、昭和30年代のことだと思うのですが、長尾コレクションが売却される流れの中で、「如来倚像」は、古美術商・荻原安之助氏の手を経て、繭山龍泉堂・繭山順吉氏の所有となりました。

繭山氏は、この石仏像をボストン美術館に売却するということで、話が進めていたそうです。

「その頃,ボストン美術館の東洋部長、富田幸次郎氏が来店され、その石仏を是非、ボストンで買いたい、と云われた。
・・・・・
美術商として、ボストン美術館が欲しいというものを持っていることは、大変うれしいことであり、ボストン美術館にものを納めたということは、大変な光栄と思われたのである。
私は、かつてボストン美術館にものを買ってもらったことがない。
だから、何とかこの石仏を納めて縁を結びたいと心で思った。」

と、語られています。

228天龍山石窟⑥:繭山順吉氏228天龍山石窟⑥:富田幸次郎氏
(左)繭山順吉氏、(右)富田幸次郎氏



【「重要美術品」を事由に、輸出許可が下りなかった「如来倚像」
~東京国立博物館の買い上げに】

本像は、昭和9年(1934)に「重要美術品」の認定を受けていましたが、繭山氏は天龍山石窟のものは日本に何点もあるので、簡単に輸出の許可がおりるものとの心積りで、文化財保護委員会の許可を得るために正式の手続きをしたそうです。

ところが、このボストン美術館への売却に、国から待ったがかかりました。
228天龍山石窟⑥:和辻哲郎氏
和辻哲郎氏


「或る日、有名な和辻哲郎先生を団長に、委員会の人たちが数名、店へ来られた。
そして、この石仏をご覧になった。
結論としては、和辻先生はじめ他の委員たちは、これは外国に売るべきではない、とされた。」

といういきさつで、ボストン美術館に渡ることなく、東京国立博物館が本像を買い上げることとなったということです。

そして、本像は昭和33年(1958)に重要文化財に指定されて、東京国立博物館の所蔵になり、現在に至っているという訳です。



【「吉備大臣入唐絵詞」(ボストン美術館蔵)海外流出事件(1933)を機に、制定された「重要美術品」認定】


この「如来倚像」が認定されていた「重要美術品」というのは、昭和8年(1933)に制定された「重要美術品等ノ保存ニ関スル法律」により「海外輸出するには文部大臣の許可が必要とする」と認定された文化財のことです。

昭和25年(1950)時点で、約8200件が重要美術品に認定されていました。

ご存じの通り、この法律は、日本にあった「吉備大臣入唐絵詞」をボストン美術館が購入していたことが昭和8年(1933)に判明し、超名品文化財の海外流出事件として国内で大騒ぎとなったことを契機に、文化財の海外流出を防ぐため、急遽制定されたものです。

228天龍山石窟⑥:吉備大臣入唐絵詞
ボストン美術館が購入した「吉備大臣入唐絵詞」



【因縁話のような「重要美術品」と「富田幸次郎氏」との関わり】


この「吉備大臣入唐絵詞」を購入したのが、ボストン美術館東洋部長、富田幸次郎氏でした。
富田氏は、この事件で、一時は「国賊呼ばわり」されたと云います。

その富田氏が購入しようとした天龍山石窟「如来倚像」の海外流出を、富田氏が絡んだ出来事により制定された「重要美術品」の法律によって、国が阻止したということになります。

何やら、意趣返しというか、因縁話のようなものを感じてしまうエピソードです。



【2008年、NY・クリスティーズオークションに登場した天龍山石窟・石仏首
~第10窟西壁、如来坐像の頭部】

近年の話題を、一つご紹介します。

2008年には、ニューヨークのクリスティーズのオークションに天龍山石窟・石仏首が出品されました。
この石仏首のオークション出品、競落の顛末については、朽木ゆり子氏著「ハウス・オブ・ヤマナカ」に記されています。

228天龍山石窟⑥:2008年オークションに出品された天龍山石窟第10窟西壁、如来坐像頭部
2008年オークションに出品された天龍山石窟第10窟西壁、如来坐像頭部

出品された石仏首は、天龍山石窟第10窟西壁、如来坐像の頭部でした。
シカゴ大学「Tianlongshan CAVES PROJECT」サイトにも、10窟の像として、「Private/Unknown」とされて掲載されています。

228天龍山石窟⑥:盗鑿前の第10窟西壁(「天龍山石窟」掲載写真)

228天龍山石窟⑥:現在の第10窟西壁
(上)盗鑿前の第10窟西壁(外村大治郎著「天龍山石窟」掲載写真)
(下)現在の第10窟西壁


朽木氏によれば、
この頭部は、多分1930年代の後半に山中商会のアメリカ店に運ばれたもので、その後、ウォルター・バーレイス夫妻のコレクションに入ったものだそうです。
バーレイス夫妻の遺族が、クリスティーズの競売に出したものだと思われます。

中国では、外国にある自国の美術品を買い集める動きが活発になっているさなかで、

「この天龍山石窟の如来座像頭部が、ニューヨークで競売に出るということは競売前から中国でも話題になっており、山西省のコレクターがこの頭部を落札して、政府に寄付するつもりらしいという情報も伝わってきていた。
そして、政府はそれを天龍山第10窟にある如来像の胴体の上に戻す。
つまりこれまで欠けていた頭が戻って、如来座像が完璧なものになるーーーというのである。
胴体から取り外され、80年近く外国をさまよっていた仏の頭が、ついに元の石窟に戻ってくるというのは確かに大きなニュースだった。」
(「ハウス・オブ・ヤマナカ」)

ということであったようです。



【中国に戻った石仏首~80万ドル超の高額で落札】


競売の評価額は20~30万ドルということだったのですが、どんどんと値が競り上がり、ついに86万6500ドルという高額での落札となりました。
(当時のドル円相場で、約9000万円になります)

果たして、落札者は、予想通りというか、山西省のコレクターだったそうです。

中国に戻った石仏首ですが、

「この頭部はまだ天龍山の第10窟に戻されてはいない。
石窟に残されている胴体部分の風化がひどく、上に頭を載せることはできないし、また石窟では保管状態も保証できないというのがその理由だ。
博物館に寄附する話が進んでいるようだ。」
(「ハウス・オブ・ヤマナカ」)

ということだそうです。



【今年、「日本から中国へ、天龍山石窟の石仏首帰還」のホットニュースが(2021年2月)


そろそろ天龍山石仏の所蔵先変遷のエピソードも終わりにしようかと思っていた処ですが、こんなホットニュースが飛び込んできました。

NETのニュースに、このような見出しの記事が掲載されていたのです。

「海外流失の石仏首が日本から「帰国」、約100年ぶりに祖国に戻る―中国」
2021年2月12日付 @niftyニュース  Record China

この石仏首というのは、天龍山石窟流出石仏のことでした。

228天龍山石窟⑥:中国に帰還した天龍山石窟第8窟北壁主尊仏首228天龍山石窟⑥:中国に帰還した天龍山石窟第8窟北壁主尊仏首
中国に帰還した天龍山石窟第8窟北壁主尊仏首

仏首は、第8窟北壁の主尊の首であるというのです。。

228天龍山石窟⑥:天龍山石窟第8窟
天龍山石窟第8窟



【オークション出品情報から、交渉を経て中国へ帰還の運びに
~第8窟北壁主尊仏首に間違いないことを確認】


日本から中国に帰還することになった経緯について、記事はこのように報じています。

「昨年9月に日本のオークション会社が「天龍山石仏頭像」のオークションを行うとの情報を国家文物局が察知し、鑑定の結果1924年前後に盗まれて海外に持ち去られた天龍山石窟第8窟北壁主尊仏首であることを確認した上で、オークション会社にオークションの中止を求めたとした。

228天龍山石窟⑥:盗鑿前の天龍山石窟第8窟北壁(「天龍山石窟」掲載写真)
盗鑿前の天龍山石窟第8窟北壁(外村大治郎著「天龍山石窟」掲載写真)

そして、このオークション会社の在日中国人会長を通じて日本人の石仏首所有者と意思疎通を図り、協議の上で石仏首を中国側に寄贈することが決定したと紹介。

昨年11月17日に東京の中国大使館で引き渡し式が行われ、その後日本の文化庁から文化財の出国許可を取得し、12月12日に北京へと運搬されてついにおよそ100年ぶりに祖国に戻ってきたと伝えた。」

日本人の所蔵となっていた天龍山石窟石仏首が、オークションに出されることになり、この情報を得た中国文物局が、オークション会社を通じて中国へ帰還させるべく交渉し、中国側に寄贈する形で中国に戻されたというのです。



【中国国内で大きく報道された石仏首の帰還~北京魯迅博物館に展示公開】


この石仏首の中国へに帰還は、2月12日の春節に合わせて、発表されました。
国家文物局が推進している、「海外に流失した文化財の祖国帰還プロジェクト」の、ちょうど100点目になり、このタイミングでの発表となったということです。
帰還石仏首は、北京の魯迅博物館で開催される「天龍山洞窟の国宝の返還とデジタル復元特別展」(2/12~3/14)で、展示公開されたいうことです。

228天龍山石窟⑥:北京魯迅博物館での公開展示ポスター228天龍山石窟⑥:北京魯迅博物館に展示される第8窟北壁主尊仏首
北京魯迅博物館での公開展示ポスターと展示される第8窟北壁主尊仏首

このニュース、日本の新聞各紙等では報道されていないようなのですが、中国国内では、結構大きく採り上げられているようです。
NET検索すると、この石仏首の帰還を大きく報じる、中国語のニュース記事が数多くりました。
記事には、帰還した石仏首の写真をはじめ、盗鑿前の第8窟北壁の古写真、盗鑿され首が剥ぎ取られた現在の第8窟の写真などが、いくつも掲載されていました。

228天龍山石窟⑥:盗鑿前の天龍山石窟第8窟北壁写真228天龍山石窟⑥:現在の天龍山石窟第8窟北壁
盗鑿前の天龍山石窟第8窟北壁と現状写真



【世に広く知られることなく所蔵されていた石仏首
~まだまだ知られざる天龍山石窟流出石仏が存在?】

ところで、この石仏首は、山中定次郎「天龍山石仏集」や山中商会「支那古陶金石展観目録」、「支那朝鮮古美術展観目録」にも見当たりません。
また、シカゴ大学「Tianlongshan CAVES PROJECT」サイト掲載の像、163点の中にも、見当たりません。

しかし、天龍山石窟第8窟北壁主尊の仏首であることは、間違いないようです。
報道によると、遺されている古写真の画像と比較して、仏の首の襞の痕跡、頬の三角形の風化痕が一致するほか、欠けていた鼻先の補修跡がみられることから、当該像と確定されたということです。

228天龍山石窟⑥:第8窟北壁主尊仏首側面~頬の三角形の風化痕が盗鑿前写真と一致する
第8窟北壁主尊仏首側面
頬の三角形の風化痕が盗鑿前写真と一致する


きっと、日本の個人コレクションとして、世に広く知られることなく、所蔵されていたのではないでしょうか。

シカゴ大学の「天龍山石窟プロジェクト」サイトに掲載されているもので、流出石仏がすべて網羅されているということではないようです。
まだまだ、知られざる天龍山石窟の流出石仏が、個人所蔵などの形でいくつも残されているのかもしれません。

中国が大きく発展成長し、国力が強くなってきている中で、貴重な流出文化財の中国への帰還への動きは、益々盛り上がっていくことと思われます。
ほとんどの石仏首などが、無残にも海外流出してしまった天龍山石窟石仏ですが、これからも、折々、中国への帰還が果たされていくことになるのでしょう。




8. お わ り に


6回に亘って連載してきた「天龍山石窟の発見と石仏流出物語」も、これでおしまいです。

ちょっと長い話になってしまいましたが、天龍山石窟発見からの歴史を振り返ってみると、次のような流れがあることが判りました。

*知られざる仏跡であった天龍山石窟は、関野貞が大正7年(1918)に発見したものであること。

*当時、「世界への天龍山石窟の発見、紹介」は、日本人の手によってなされるべきという時代的気運が、国内で盛り上がっていったこと。

*こうしたなか写真集「天龍山石窟」(1922) の発刊等で、その存在が世に知られ、天龍山石窟の徹底的な盗鑿の一つの大きな契機となるという、皮肉な結果をもたらしたこと。

*これらの石仏の海外流出には、世界的古美術商「山中商会」が大きくかかわり、1930~30年代に、日本、アメリカを中心に売り捌かれたとみられること。

*現在の天龍山石窟流出石仏の所蔵状況は、シカゴ大学の調査プロジェクトにより163点が明らかになっており、その所蔵先などはNETサイトに公開されていること。

*流出石仏の所蔵先の変遷には、いくつかの興味深いエピソードがあり、近年ではオークションに出品された流出石仏が、中国への帰還を果たすという動きが盛り上がってきていること。

などと云って良いのでしょうか。


天龍山石窟の発見から石仏流出の歴史、エピソードなどは、私もこの話をご紹介してみようと思うまでは良く知らなかったのですが、いろんな資料を調べてみればみるほどに興味津々となり、随分のめり込んでいってしまいました。
私にとっては、初めて知った話が沢山あって、結構刺激的なものがありました。

かなり細かい話になってしまいました。
お愉しみいただけたかどうか判りませんが、お付き合いいただき有難うございました。


こぼれ話~天龍山石窟の発見と石仏流出物語〈その5〉 【2021.03.06】


6.天龍山石窟流出石仏の所蔵先と原位置復元の調査研究


天龍山石窟の石仏は、そのほとんどが盗鑿され海外流失したわけですが、どれぐらいの数の石仏が流出し、現在は、何処に所蔵されているのでしょうか?


【なかなか難しい、流出石仏の追跡トレース】


海外流出した石仏は100点以上とも、200点以上とも云われているようなのです。

ただ、世界中に散逸した流出石仏を追跡して調査し、現在の所蔵先を特定していくというのは、並大抵のことではないことは容易に想像がつきます。
博物館や美術館の所蔵となっているものは、丹念にトレースしていけば、把握することは可能なのでしょうが、相当数あるコレクターの個人所蔵となっているものの存在を把握するのは、相当困難な事であろうかと思われます。

そして、その流出石仏が、天龍山石窟のどの窟のどの尊像のものであったかを特定するという復元的調査というのは、盗鑿前の古写真資料などが限られたものであるだけに、ますます難しいということになるのでしょう。



【第二次大戦後、進められてきた流出石仏の把握調査と原位置復元研究】


第二次大戦後、世界各国に所蔵されている天龍山石窟石仏像について把握調査して、原位置の復元を試みるとともに、編年するという研究がいくつかなされているようです。

神谷麻里子氏の論考「天龍山石窟の研究~研究史と問題点」からつまみ食いでご紹介すると、次のようなものがあるようです。

1965年には、シカゴ大学のHarry Vanderstappen氏、Marylin Rhie氏が 「The Sculpture of T'ien Lung Shan: Reconstruction and Dating」 という論文を発表しています。

この研究は、
「流失した諸像を集め、その所在を推定し、石窟の復元を試みた本格的論考で、天龍山石窟研究を大きく前進させた。」
というものです。

英語が苦手な私は、どんな内容なのか、見てみたことがありませんが、その後の天龍山石窟石仏の編年研究などに、大きく寄与したものだそうです。



【日本人の現地調査実施は、日中国交回復後の1980年代から】


戦後、わが国で、天龍山石窟の現状調査や石仏の復元的研究がなされたのは、1980年代に入ってからのことでした。
日本と中国の国交が回復正常化したのは、1972年(昭和47年)のこと。
文化交流も儘ならぬなか、天龍山石窟の現地調査など叶わぬことだったのでしょう。

戦後、日本人が天龍山石窟を訪れることが出来たのは、1980年代のことです。
1981年(昭和56年)には、筑波大学の訪中団が6月に、江上波夫氏を団長とする訪中団が8月に、天龍山石窟を訪問調査するなどしています。

筑波大学訪中団の林良一氏、鈴木潔氏は、天龍山石窟の調査結果を、仏教芸術141号に 「天竜山石窟の現状」(1982) と題する調査報告論文を発表し、その中で、海外流出した多数の石仏の原位置復元調査研究も行っています。

論文には、
「各窟の現状と、流出石仏の原位置推定の一覧表」
が掲載されています。

227天龍山石窟⑤:「天竜山石窟の現状」所載一覧表の一部
論文「天竜山石窟の現状」所載一覧表の一部
各窟別の造立尊像名と、流出石仏の復元推定位置・所蔵先名が記載されている
グリーン色に上塗りしたものが流出像と、その所蔵先


一覧表には、各窟の現状調査による当初の造像尊像一覧と、海外流出した石仏の推定原位置が細かく掲載されています。
原位置が掲載されている流出石仏数は100点弱です。
多くは各国の博物館等の所蔵像ですが、旧山中商会などとして、現所蔵先が明示されていないものも20点近くありました。



【流出石仏の追跡調査に情熱を傾けた、在野の田村節子さん】


ここで、天龍山石窟の流出石仏の追跡調査と、復元位置確認に情熱を傾けた、在野の人物を、ご紹介しておきたいと思います。

田村節子さんという方です。
田村節子さんは、「花柳流師匠、花柳駒」という名の方が有名で、舞踏家として活躍していた方です。
また俳優、田村高広氏(1928~2006)の夫人であるという人です。

田村節子氏は、1981年に江上波夫氏を団長とする訪中団に、「東アジアの古代文化を考える会」の一員として参加、偶然にも、天龍山石窟見学が許されました。
この時、あまりにも無残に盗鑿され削り取られた石窟内の惨状を目のあたりにして、悲痛な思いを抱いたそうです。
また現地で、「この犯人は日本人である」という話を聞かされ、強く心締め付けられたと云います。
無残な石窟を前に、俄然、流出した石仏の行方を追ってみたいとの思いに駆られたそうです。

そして帰国後、
「流出石仏を徹底的にトレースして、その調査結果だけでも中国側に提供したい。」
と、一念発起。
大変な労苦を重ねた復元調査の成果を、中国に引き渡したのでした。



【マスコミも、田村氏の取り組みを採り上げ紹介】


田村氏の情熱あふれる取り組みは、マスコミでも採り上げられる処となり、次のような記事が掲載されています。

「日本の略奪 私が償い 田村高広氏夫人
荒廃の中国・天竜山石窟 復元に仏像の所在・資料 渡す」
(朝日新聞 1982年7月12日付朝刊)

「石仏供養  天竜山石窟の再現に情熱を燃やす 花柳駒さん」
(季刊「銀花」52号 1982年12月刊)

227天龍山石窟⑤:田村節子氏流出仏追跡記事~朝日新聞1982.7.2付
朝日新聞記事 1982年7月12日付朝刊

227天龍山石窟⑤:田村節子氏流出仏追跡記事~季刊銀花52号
季刊銀花52号掲載記事の一部 1982年12月刊

記事には、このように記されています。

「天龍山石窟の惨状を目のあたりにした東京の女流舞踏家が「日本人としての罪のつぐないに・・・」と四散した仏像の所在や資料写真を集め、6月下旬、石窟の復元を進めている中国側に引き渡した。」(朝日新聞)

(註:天龍山石窟訪問から)帰国した駒さんは、さっそくそれらの(註:流出石仏を所蔵する)美術館を訪ねた。
削り取られた仏頭は、何事もなかったように静かにほほえんでそこにあった。
失われた仏との出会い。
復元しようにも破壊前の状態を知る資料が全くない、という中国側の説明が思い出される。
蒸発仏の行方を探してみようーーー駒さんのこころは決まった。」(季刊銀花)

田村氏は、本来の舞踏家としての活動をさておいて、もっぱら流出石仏の追跡、復元照合に情熱を注ぎ、のめり込んでいくようになりました。

戦前の論文や写真資料に徹底的にあたり、自身が天龍山で撮影した膨大な写真と照合すると共に、日本中の美術館、美術商、個人のコレクターを訪ね、流出像を見つけ出して、原位置の復元照合に努めたそうです。
また、海外の美術館所蔵の流出石仏についても、夫、高広氏の協力も得て調査に努めました。

こうした取り組みの結果、
「国内では(註:天龍山石窟のものとされる)49点の仏像を調べたが、うち確かに天竜山のものと確認されたのは30点。
10点は明らかに別のものと判明した。
・・・・・・
国外では約20点、失われた仏像の所在を突き止めた。」(季刊銀花)
ということでした。

これらの調査成果の資料を、中国再訪時に先方に提供したという訳です。



【専門的研究成果が、研究誌「仏教芸術」に論文掲載されるまでに‥‥】


こうした田村節子氏の所在調査、復元照合研究への取り組みは、研究者でも何でもないキャリアでは考えられないほど、専門的で深く打ち込んだものでした。
中国彫刻史研究の権威、松原三郎氏の指導もあったようです。
1982年には、夫君と共に、二度目の天龍山石窟訪問を果たし、戦後初めて外国人が足を踏み入れたという第16窟、第17窟に登攀し、窟内調査を果たしています。

227天龍山石窟⑤:登攀梯子がかけられた第16・17窟(仏教芸術145号所載写真)227天龍山石窟⑤:第16窟に登攀した田村氏(仏教芸術145号所載写真)
田村氏が1982年、第16・17窟に梯子をかけ登攀したときの写真
仏教芸術145号所載写真


そして、私がビックリしたのは、田村氏の調査報告論文が、研究誌「仏教芸術」に、なんと3本も掲載されていたことです。

「天竜山石窟第十六窟・第十七窟について」 仏教芸術145号 1982.11
「響堂山石窟の現状」 仏教芸術153号 1984.03
「上海博物館蔵・隋代「銅仏像」について」 仏教芸術159号 1985.04

というものです。

読んでみると、いずれも、在野の方が執筆した論文とは想像もできない専門的な研究論文です。
このようなキャリアの方でも、本気になればここまで専門研究ができるのだと、本当に驚いた次第です。



【中国でも活発に進められている、天龍山石窟研究】


近年、中国においても天龍山石窟についての研究が、活発に進められているようです。
研究解説書も、いくつも発刊されているようです。

2004年には、
「天龍山石窟 流失海外石刻造像研究」 孫迪著 外文出版社刊
という本が、出版されています。

227天龍山石窟⑤:「天龍山石窟 流失海外石刻造像研究」

中国語の本だということで、私は未見なのですが、これまでの研究成果を踏まえ、天龍山石窟の復元を試みた研究書だということです。



【天龍山石窟流出石仏の全貌が、一目でわかるシカゴ大学のNETサイト
~「Tianlongshan CAVES PROJECT」】

現在、天龍山石窟流出石仏の世界各国での所蔵先、流出前の当初所在窟、原位置などを最も詳しく知ることが出来るのは、NET上に公開されている次のサイトだと思います。

「Tianlongshan CAVES PROJECT」 (天龍山石窟プロジェクト)

という、ホームページです。

227天龍山石窟⑤:「Tianlongshan CAVES PROJECT」サイトのトップページ
「Tianlongshan CAVES PROJECT」サイトのトップページ

シカゴ大学のCenter for the Art of East Asia (東アジア芸術センター)の天龍山石窟石仏の調査研究結果を掲載したサイトです。

このサイトには、現在確認できている天龍山石窟から流出した石仏(仏首をはじめ断片も含む)、163点のすべての画像が掲載されています。
そして、この163点が、尊格別、原所在窟別、時代別、所蔵先別などで検索表示され、画像で見ることが出来るのです。
各窟別の現況写真、盗鑿前の石仏が所在したときの古写真なども豊富に掲載されています。

よくぞここまで調査したものだと、感嘆の声をあげてしまう凄いサイトです。
是非一度、ご覧になってみてください。

シカゴ大学東アジア芸術センターでは、2013年に、天龍山石窟研究とデジタルイメージングを推進するために「天龍山石窟プロジェクト」をスタートさせ、本サイトを作成することになったとものと、HPに記載されていました。



【サイトには、163点の流出石仏が掲載~世界各国での所蔵状況は?】


本サイトに掲載されている天龍山石窟の流出石仏は、全部で163点です。
よくぞ、ここまで調べられたものだと思います。
博物館、美術館等の機関が所蔵しているものはこれで全てなのでしょうが、個人蔵などの流出石仏がすべてカバーされているのかどうかは判りません。

世界各国での所蔵状況は、どうなっているのでしょうか。
サイトの掲載データをカウントして国別所蔵点数の一覧表を作ってみると、次のようになりました。

227天龍山石窟⑤:天龍山石窟流出石仏 国別所蔵点数一覧

「本表の詳細な一覧表」~すべての所蔵先と、所蔵石仏の部位別件数を掲載したもの~も作ってみましたので、ご関心のある方はご覧ください。
⇒こちらをクリック 【天龍山流出石仏・所蔵先詳細一覧表】

ご覧の通り、日本とアメリカの所蔵件数が、圧倒的に多くなっているのが、目を惹きます。
山中商会の取り扱ったものの売却先が、日本とアメリカが中心であったことによるのでしょうか。

全部で163点のうち、43点が個人所蔵又は不明となっていますが、その国別内訳はわかりません。
個人所蔵のものには、日本の所蔵者のものが、結構あるのかもしれません。



【日本の博物館等での所蔵状況は】


ご参考までに、日本の博物館、美術館の所蔵先とその旧所蔵者などは、ご覧の通りです。

227天龍山石窟⑤:日本の博物館等所蔵の天龍山石窟石仏一覧


今回は、天龍山石窟流出石仏を追跡して現在の所蔵先を把握調査する話、流出前の原所在位置の復元研究についての話などを、紹介させていただきました。


こぼれ話~天龍山石窟の発見と石仏流出物語〈その4〉 【2021.02.27】


5.天龍山石窟の盗鑿、石仏海外流出と山中商会


【徹底的に盗鑿され、無残な姿になった天龍山石窟】


天龍山石窟の石仏像は、徹底的な盗鑿に遭い、日本と欧米に流出してしまいました。

21ある石窟の石仏のほとんどが被害に遭っており、ことに石仏の首、即ち仏頭は悉く削り取られ、見るも無残な姿になっています。

226天龍山石窟④:盗鑿された現在の天龍山石窟(第18窟)

226天龍山石窟④:盗鑿された現在の天龍山石窟(第20窟)

226天龍山石窟④:盗鑿された現在の天龍山石窟(第21窟)
盗鑿された現在の天龍山石窟の有様
(上段)第18窟、(中段)第20窟、(下段)第21窟


こうした石窟の盗鑿は、1923年から24年(大正12~13年)頃にかけて、一番大規模に行われたと見られています。

この頃、1920年代から30年代は、中国の混乱期に乗じ、中国文化財の大量の海外流出が起こった時期でした。
石窟美術もそのターゲットとされ、なかでも目を覆うばかりの破壊を蒙ったのが、龍門石窟と天龍山石窟でした。

関野貞の天龍山石窟発見の時期が、中国文化財の略奪的な大量海外流失のタイミングに遭遇したことは、ある意味不幸であったとも云えるのかもしれません。



【写真集「天龍山石窟」の発刊(1922)が、石仏盗鑿の一つの契機に】


関野の発見まで、全くその存在を知られていなかった天龍山石窟であったのですが、
「天龍山石窟を日本人研究者が発見したという事実を、内外に広く知らしめたい。」
という機運が大きく盛り上がりました。

そして、豪華写真集「天龍山石窟」が1922年(大正11)に刊行され、美麗な石窟彫刻の存在が、国内のみならず欧米にも広く知れ渡るようになったことは、前回ご紹介した通りです。
このことが、また石仏盗鑿の大きな契機の一つになってしまったのでした。

226天龍山石窟④:「天龍山石窟」(1922年刊)
写真集「天龍山石窟」(1922年刊)

写真集「天龍山石窟」の刊行が、未知の天龍山石窟の存在を世に知らしめ、凄まじいまでの石仏盗鑿の引き金となってしまうという、何とも皮肉で、割り切れない結果を招くことになってしまったのかもしれません。

関野貞自身も、このように語っています。

(註:自身が天龍山石窟を発見して後)忽ち世の注意を惹き内外の学者の往訪者益多く、石窟に施されし彫刻の美に驚殺され、之を讃仰歎美するの声は愈々高くなった。

無知の土民これを奇貨とし、其の佛菩薩の頭部を破壊し去りて、之を外人に售(う)るの悪習を生じ、石窟内外幾百の佛頭は忽ちにして烏有に帰するに至った。」
(山中定次郎「天龍山石仏集」(1928)の関野貞執筆序文)



【多くの天龍山石仏を日本、欧米にもたらした、世界的古美術商「山中商会」】


この盗鑿された天龍山石仏を、日本、欧米に数多くもたらしたのは、「世界的古美術商・山中商会」でした。

現在、百数十点の天龍山石窟石仏が、日本、欧米の博物館などに所蔵されていますが、その多くは山中商会の手を経て、コレクターに渡ったものと云われています。

古美術商「山中商会」の名は、よくご存じのことと思います。
東洋美術を扱う世界的古美術商として、明治30年代には、早くもニューヨーク・ボストン・ロンドン・シカゴ・北京などに支店を置くなど、明治年間から昭和初期戦前まで隆盛を極めました。

226天龍山石窟④:山中商会・ニューヨーク支店(外観)

226天龍山石窟④:山中商会・ニューヨーク支店(店内)
山中商会・ニューヨーク支店~外観と店内
「ハウス・オブ・ヤマナカ」掲載写真


中国美術を最も得意とし、中国文物の取り扱いでは他の追随を許しませんでした。
そういった意味では、中国古美術品の海外流出にもっとも大きな役割を果たした美術商ということになるのでしょう。
山中商会は、興隆の立役者であった山中定次郎の死後(1936・S11)、日中戦争の泥沼化、日米開戦などにより海外資産を失うこととなり、戦後は中国からの文物将来の道も閉ざされ衰微の途をたどることとなりました。

226天龍山石窟④:山中定次郎
山中定次郎(1866~1936)


(山中商会の歴史、山中定次郎の業績などについては、朽木ゆり子氏著「ハウス・オブ・ヤマナカ~東洋の至宝を欧米に売った美術商」(2011年新潮社刊)に、大変詳しく述べられています。)

226天龍山石窟④:朽木ゆり子著「ハウス・オブ・ヤマナカ」(2011年刊)
朽木ゆり子著「ハウス・オブ・ヤマナカ」(2011年刊)


【天龍山石窟に傾倒し「天龍山仏蹟石窟踏査記」を叙した山中定次郎
~二度の天龍山石窟訪問】

この山中商会が、天龍山石仏を数多く扱うことになるのですが、それには社主の山中定次郎の天龍山石窟への傾倒ぶりが、随分関わっているようです。

山中定次郎は、1924年(大正13年)の6月と、1926年(大正15年)10月の2回に亘って、天龍山石窟を訪れ、自ら丹念に各石窟の調査を行っています。
そして、その訪問調査記を 「山西省天龍山仏蹟石窟踏査記」 (1928・S3刊)と題し、自費出版しました。

(この踏査記は、山中定次郎没後に刊行された「山中定次郎傳」(1939年・S14刊)に収録されています。)

226天龍山石窟④:「山中定次郎傳」(1939年刊)

226天龍山石窟④:「山西省天龍山仏蹟石窟踏査記」山中定次郎傳1939年刊所収
「山中定次郎傳」(1939年・S14刊)と、本書所収の「山西省天龍山仏蹟石窟踏査記」ページ


また、入手した盗鑿流出仏頭など45点の写真を掲載した 「天龍山石仏集」 (1928・S3刊)を刊行しています。



【盗鑿された石仏首を自ら探し求め、数多く買集めたと語る山中定次郎】


山中定次郎は、この2著で、

初めて天龍山石窟を訪ねた時、その素晴らしさに驚き感銘した石仏像群が、2年後に再訪したときには、幾体となく仏首が掻き落されているのを発見し、痛切な哀感を覚えた。
そこで、盗鑿された仏首を各所で探し求め発見し、やっと数十個を集めることが出来た。

旨を語っています。

そのあたりの処を、「山西省天龍山仏蹟石窟踏査記」序文の抜き書きで、見てみたいと思います。

初回の天龍山石窟訪問(1924年・大正13年)についての感動を、このように綴っています。

「見るからに仏教美術の一大殿堂であって、久しく憧れていた私の心は驚異と喜悦とに満たされ、取るものも取り敢えず直に懐中電灯を以って、一物も剰すなく隅から隅まで幾回となく、繰り返して之を看た・・・・」

226天龍山石窟④:天龍山石窟を訪ねた山中定次郎

226天龍山石窟④:天龍山石窟を訪ねた山中定次郎
天龍山石窟を訪ねた山中定次郎
(上)「天龍山石仏集」所載写真、(下)「山中定次郎伝」所載写真


そして、1926年(大正15年)に再訪したときの有様については、

「その後、愛慕の念尚止み難く・・・第2回の天龍山探求をなしたが、
・・・・
第一回の時には慥(たしか)にあった筈のある佛が痛ましくも、その麗しい御首を、何者かに掻き落され見るも気の毒な姿で淋しく並んで居るのを幾體となく発見した。
・・・・・
かかる名作に対し、不埒にも斯うした惨虐な行為を敢えてした者を憎まずには居られなかった。」

と、たった2年のうちに、数多くの盗鑿がなされたことへの嘆きが語られています。

そして、自ら探し求めて、盗鑿された石仏首を集めたとして、

「その首を求めて歩いたのであったが、私のこうした心が通じたといふのか、ある佛の首を東で求め、ある佛の首を西で発見し、随分かけ離れた土地で、忘れんとして忘れ得ぬ、その馴染み深い石佛の首を発見したのであった。
・・・・・
斯かる思いをつづけて漸く今数十の麗しい首を集め得たが、尋ぬるものを獲た欣びを深く感じ・・・・・この天龍山紀行をものし、私の記念塔とすることにした。」

と語り、このようにして数十個の仏首を入手したと語っています。



【山中収集の石仏首を収録した、写真集図録「天龍山石仏集」(1928)


「天龍山石仏集」は、山中定次郎が探し求めたという盗鑿石仏首、45点を収録した写真集です。

226天龍山石窟④:「天龍山石仏集」(1928年刊)
「天龍山石仏集」(1928年刊)

226天龍山石窟④:「天龍山石仏集」収録写真

226天龍山石窟④:「天龍山石仏集」収録写真

226天龍山石窟④:「天龍山石仏集」収録写真
「天龍山石仏集」収録されている石仏首写真等

「天龍山の記」と題する、山中定次郎の各窟踏査録が附されています。
本写真集は、一方では、美術商としての石仏販売用図録の意味合いを持つものであったようです。
また、山中商会では、この「天龍山石仏集」掲載の石仏の他にも、多くの天龍山石仏を扱い、主催の「展観」などを通じて販売しています。



【山中商会と天龍山石窟盗鑿との関わりは?
~現代中国では、山中商会が盗鑿先導の張本人と指弾】

山中定次郎は、何者かに盗鑿された石仏首が散逸するのが忍びなく、義侠心的なものから買い集めたのだと語っていますが、この話が、その通りなのか、実の処は「創られたストーリー」なのかは、議論のある処なのかもしれません。

今日の中国では、山中商会、山中定次郎が、盗掘人を先導して天龍山石仏を盗鑿させたもので、天龍山石窟の破壊、略奪的流出の張本人であると、厳しく指弾されています。

今になってしまえば、いずれが真実なのかは闇の中ということなのかもしれませんが、多くの天龍山石仏が、山中商会の手を経て海外に流出し、コレクターなどに売り捌かれたというのは間違いのない事実です。
あれだけ多くの天龍山石窟石仏を扱った山中商会が、石窟の盗鑿と全く関わりがないということは、考えられないことだと思います。

ただ、山中商会が、単なる商売上の儲けという欲得の為だけに、ブローカーとして天龍山石仏を盗鑿させたとは、一概に思えないような気もします。
山中の叙した「山西省天龍山仏蹟石窟踏査記」「天龍山石仏集」の訪問調査記を読んでいると、天龍山石仏へ寄せる思い入れ、心からの愛着を感じてしまうのも、正直な処です。
天龍山石窟への傾倒と、美術商としての立場とが、ないまぜになった複雑なものを感じないでもありません。



【山中商会主催「展観」で、売りに出された「天龍山石仏集」掲載石仏首(1928)


「天龍山石仏集」に掲載された石仏首などは、1928年(昭和3年)に山中商会が大阪美術倶楽部で開催した「支那古陶金石展観」に展示、販売されました。

226天龍山石窟④:山中商会主催「支那古陶金石展観」目録(1928)
山中商会主催「支那古陶金石展観」目録(1928)

山中商会では、「展観」と呼ぶ収集古美術品の展覧会をしばしば催し、多くの人が入場できる展示会且つ、コレクター向け販売会としていましたが、「支那古陶金石展観」もその一つです。
ここに、天龍山石窟石仏が一挙に45点展示されました。

226天龍山石窟④:「支那古陶金石展観」目録に所載されている天龍山石仏写真
「支那古陶金石展観」目録に所載されている天龍山石仏写真
見出しに「天龍山石佛 四十五個ノ内」と記される


展観目録・図録の冒頭には、

「天龍山石窟のコレクションの如きは、本展覧会出品中の最も誇りとすべき處のものにして、・・・・・・
彼の、天龍山石窟を茲に移した観のある此のコレクション・・・・・」

と記されていて、展覧の大目玉となったようです。



【石仏大量流出への憤り、哀しみを綴った木下杢太郎
~「展観」を題材にした小篇「売りに出た首」】

この「支那古陶金石展観」は、随分話題になったようで、志賀直哉の短編「万暦赤絵」(1933.09中央公論所載・単行本1936年中央公論社刊)の題材とされていますし、木下杢太郎は「売りに出た首」(美術雑誌アルト1928.12所載・単行本1949年角川書店刊)と題する随筆小篇を発表しています。

226天龍山石窟④:木下杢太郎著「売りに出た首」(1949年刊)226天龍山石窟④:木下杢太郎
木下杢太郎著「売りに出た首」(1949年刊)と木下杢太郎

木下杢太郎は、木村荘八と共に、天龍山石窟発見後、早くも1920年(大正9年)に当地を訪れている人物です。
「売りに出た首」という表題は、まさに展観に山中商会が天龍山石仏を一括で売りに出したことを指しています。
小篇には、このように語られています。

「四十五個といへば、天龍山の彫刻像のほとんど全部と云って良い。
かうも一つの手に全部揃ったことは蒐集者の非常な努力と謂ふべく、せめてそれが散らばらないで、一つの国民的の博物館に集められて欲しいことだ。
然しこの一面には、支那現地に於て計画的な略奪が行われたという疑を起こすことも出来る。
・・・・・・
木村君、僕は極めて平静に以上の記を作った。
然し心の中には怨恨の如き、憤懣の如き、いろいろの感情が回転してゐるといふことは、嘗て倶(とも)にあの山に登った君の無論直ぐ感づいてくれるだろうと思ふ。」

天龍山石仏の大量流出への、木下杢太郎の憤りの混じった哀しみ、割り切れない心情が語られています。
そして、その散逸を懸念しています。



【「展観」展示の石仏40数点を、一括して買い取った根津嘉一郎】


この売りに出た天龍山石仏コレクションは、どうなったのでしょうか?

実は、根津嘉一郎が、これらの石仏を一括して全部買い取りました。
根津嘉一郎は東武鉄道の経営など「鉄道王」と呼ばれた実業家で、有数の古美術コレクターとして知られた人物です。
コレクションの多くは、現在、根津美術館に所蔵されています。

226天龍山石窟④:根津嘉一郎
根津嘉一郎

山中商会では、この天龍山石仏をアメリカへの売却する事が考えられていたようです。

根津嘉一郎は、
「このような古代の貴重品が海外へ流出するのは残念だと思い、其の時そっくり買い取って、爾来十年間、私の家に収蔵しておいた」
(根津嘉一郎著「世渡り体験談」実業之日本社1938年刊)
と、回顧しています。

根津が購入したのは46点とされており、その後、昭和4年(1929)の「月光殿 大師会」や、昭和6年(1931)の「美術協会展」などに、一括して展示されたりしているようです。
(「大師会」というのは、三井物産の創始者で、数奇者、大コレクターの益田鈍翁が主催創始した、大茶会のことです。)

山中商会では、その後主催した「世界古美術展」(昭和7年・1932)や「支那朝鮮古美術大展覧会」(昭和9年・1934)にも、天龍山石仏を多数展示しています。

226天龍山石窟④:「支那朝鮮古美術大展覧会」(1934)での石仏展示風景
「支那朝鮮古美術大展覧会」(1934)での石仏展示風景
「ハウス・オブ・ヤマナカ」所載写真


「支那古陶金石展観」(昭和3年・1928)以降も、多くの天龍山石窟から流出した石仏を扱っていることが見て取れます。



【欧州6ヶ国に、30点の天龍山石仏を寄贈した根津嘉一郎(1937)


根津嘉一郎の手に渡った天龍山の石仏は、その後どうなったのでしょうか。

根津は、昭和12年(1937)に、これらの石仏の多くを、国際親善のため西欧の6ヶ国に寄贈しました。
この寄贈について根津は、こう語っています。

「私は先年、支那天龍山の石仏の首を42個蒐集したが、今度感ずるところがあって、美術親善のためそのうちの数個を、欧羅巴(ヨーロッパ)の五、六ヶ国に贈呈した。
・・・・・
併し、私は国際親善の一つとしては、貴重な美術品を役立てる事も、強ち意義の無い事ではないと信じて、その石佛の首を各国に贈呈した次第である。」
(根津嘉一郎著「世渡り体験談」実業之日本社1938年刊)

昭和12年と云えば、前年に日独防共協定が成立し、7月に盧溝橋事件が勃発、日中戦争がはじまった時期です。
西欧諸国との国際関係が緊張していく中、このような美術親善が企図されたのかもしれません。

当時の新聞でも、この石仏寄贈について、

「秘境の逸品 三十個を 国際親善に提供 愛好者垂涎の古代石佛の首 根津翁 太っ腹の発心~国民外交に朗報」
(昭和12年・1937年3月27日付 東京朝日新聞朝刊)

という見出しで、大きく報道されています。

226天龍山石窟④:根津の天龍山石仏寄贈を報じる朝日新聞記事(1937)

新聞記事によれば、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、オランダ、スウェーデンの6ヶ国に、それぞれ仏首5個ずつ、計30個が寄贈されることになったということです。

226天龍山石窟④:在日ドイツ大使館で寄贈石仏と共に立つ根津嘉一郎(1937)
在日ドイツ大使館で寄贈石仏と共に立つ根津嘉一郎(1937)
「根津青山の至宝」展図録(根津美術館・2015刊)所載写真


この時、併せて、東京帝室博物館にも4個が寄贈されたと報じられています。
(現在の、東京国立博物館所蔵の天龍山石窟石仏は7点ですが、寄贈者が「根津嘉一郎」と記されているのは3点となっています。)

226天龍山石窟④:東京国立博物館所蔵・根津嘉一郎寄贈天龍山石窟菩薩像(第8窟)

226天龍山石窟④:東京国立博物館所蔵・根津嘉一郎寄贈天龍山石窟菩薩像(第14窟)226天龍山石窟④:東京国立博物館所蔵・根津嘉一郎寄贈天龍山石窟如来像(第18窟)
東京国立博物館所蔵・根津嘉一郎寄贈天龍山石窟菩薩像
(上)菩薩像(第8窟)、(左下)菩薩像(第14窟)、(右下)如来像(第18窟)



なお、現在、根津美術館には、7点の天龍山石仏仏首が所蔵されています。

226天龍山石窟④:根津美術館所蔵・天龍山石窟菩薩像(21窟)

226天龍山石窟④:根津美術館所蔵・天龍山石窟菩薩像(18窟)226天龍山石窟④:根津美術館所蔵・天龍山石窟如来像(16窟)
根津美術館所蔵・天龍山石窟菩薩像
(上)菩薩像(21窟)、(左下)菩薩像(18窟)、(右下)如来像(16窟)




こぼれ話~天龍山石窟の発見と石仏流出物語〈その3〉 【2021.02.20】


4.石仏流出前の全貌を伝える唯一の写真集の刊行~「天龍山石窟」


関野貞によって発見された天龍山石窟ですが、この発見を、欧米に先んじて日本人の手によって広く世に知らしめたいという機運が、国内で盛り上がってきたようです。

雲岡石窟のように、欧米人に発見紹介者の名をなさしめることにならぬようという思いが強かったのだと思います。



【関野発見の4年後に実施された、石窟現地調査と写真撮影】


関野発見の4年後、1922年(大正11年)に、天龍山石窟のしっかりした現地調査と写真撮影が行われることになりました。
関野貞の発見時には、調査旅行中の偶々の発見であったこともあり、一泊だけの慌ただしい調査で、撮影された写真もわずかの数だけであったのです。

この調査と撮影は、約1週間にわたるもので、田中俊逸、外村大治郎、平田饒の3名によって行われました。

田中俊逸(萬宗)は、「運慶」の著作でも知られる研究者で、小野玄妙、望月信享の声がかりで石窟調査に出かけることになったようです。
外村大治郎は北京・東華照相材料行(写真館?)の主人、平田饒は技師です。

3名は、3月に天龍山に赴き、現地では、大変な苦労をしながら、石窟の調査と写真撮影を行ったようです。

田中俊逸は、調査に赴くにあたってのことを、このように回顧しています。

当時、欧米人の東洋美術研究者(アンドリエス博士)が支那古文化の実地踏査研究をし、奥地に入るとの新聞報道があり、天龍山石窟の調査もされてしまうのではと心配していた処、自分たちが調査出来ることとなり、
「之れより天龍山は小なりと雖も、世界的に發表し得ることと相成」
「天龍山石窟が又(註:雲岡石窟のような)前轍を踏まねばならぬことに遭遇する羽目に堕る」
ことがなくなるであろう。
(「支那山西省天龍山仏龕調査通信」「天竜山石窟調査報告」佛教学雑誌3巻3・4号1922年)

欧米人に対する対抗意識というか、東アジア・中国の文化研究は日本人の手によって先んじて行われるべきという、強い自負心が伺えます。



【想像以上の大変な困難ななか、進められた調査、撮影】


現地での調査、撮影は、想像以上に困難なものであったようです。
田中によると、このような厳しい環境であったようです。

「天龍山探検には三悪苦難あり。

一、洞窟附近に豹や狼の猛獣が棲んで居る。

二、洞窟に達するに数百尺の断嵯絶壁を攀るに従って、岩石崩壊して、梯子登りや綱渡り軽業を敢えてせねばならぬこと。

三、・・・・・・~略~・・・・・・」
(「支那山西省天龍山仏龕調査通信」佛教学雑誌3巻3号1922.04)



【語られることの殆ど無い、田中の調査成果~諸窟の新発見と体系的整理】


大変な調査、写真撮影であったのですが、最大の収穫は、関野貞が到達出来なかった新たな諸窟が発見されたことでした。
関野は、時間の制約もあり14の窟までしか発見調査出来ていなかったのですが、田中は18窟(現在の窟番号)以西21窟まで、総数24の窟龕を発見調査し、1~21窟までの窟番号を付したのでした。
(現在も、この窟番号が用いられています。)

225天龍山石窟③:田中俊逸「天龍山石窟」所載~天龍山石窟平面見取図
田中俊逸作成の天龍山石窟平面図~「天龍山石窟調査報告」佛教学雑誌3巻4号1922.05所載

新発見の18窟以西の窟は唐時代のもので、18・21窟などは、関野が絶賛した14窟に匹敵する優れた造形で、これら諸窟の発見なしには「天龍山様式」の呼称は生まれなかったと云われています。

田中は帰国後すぐに、調査結果をまとめた長文の「天竜山石窟調査報告」(佛教学雑誌3巻4号1922.05)を発表しています。

225天龍山石窟③:田中俊逸「天龍山石窟」掲載誌~佛教学雑誌3巻4号1922.05225天龍山石窟③:田中俊逸「天龍山石窟」所載写真
田中俊逸「天龍山石窟調査報告」佛教学雑誌3巻4号1922.05表紙と所載写真

天龍山石窟については、発見者たる関野貞の功績がよく語られるところですが、田中俊逸による新発見、調査成果も多大なものがあり、今日、田中の名が語られることが殆ど無いのは、ちょっと寂しい気持ちになります。



【石窟の撮影写真を収録した、豪華本「天龍山石窟」の刊行(1922年)


この天龍山石窟の調査終了から約半年後、10月に、この時の撮影写真を収録した豪華写真集、「天龍山石窟」が刊行されました。

「天龍山石窟」 外村大治郎著 金尾文淵堂 大正11年(1922)刊 金38円

225天龍山石窟③:写真集「天龍山石窟」(外村太治郎)金尾文淵堂刊1922
225天龍山石窟③:写真集「天龍山石窟」(外村太治郎)金尾文淵堂刊1922

本写真集「天龍山石窟」は、大変力の入った出版であったようです。
40×31センチの大判で、全88ページ、コロタイプ80葉の写真が収録され、定価は38円という高価です。
(当時の、ほぼ大卒初任給に相当する金額です)

本書は、現在では、極めて貴重な写真集となっています。
というのは、天龍山石窟が盗鑿に遭う前の窟内と石仏の姿の旧状の全貌を伝える、唯一の写真集となっているからです。

本書刊行後、数年もたたぬうちに、天龍山石窟の徹底的な盗鑿が行われたのでした。



【窟内石仏、80カットのコロタイプ写真を収録
~盗鑿前の石窟の全貌を伝える、唯一の貴重な写真集】

各窟の窟内石仏、80カットの大判写真が収録されています。

現在、海外流出した天龍山石窟石仏の盗鑿前の原位置を特定するには、本書に頼るしかないという極めて重要な写真資料となっているのです。
本書掲載の流出前の窟内石仏写真を、いくつかご覧ください。
現在の、盗鑿されてしまった痛々しい写真も、ご参考に合わせてご覧ください。

225天龍山石窟③:「天龍山石窟」掲載写真~東峰諸窟全景
「天龍山石窟」掲載写真~東峰諸窟全景

225天龍山石窟③:「天龍山石窟」掲載写真~第10窟西壁
「天龍山石窟」掲載写真~第10窟西壁

225天龍山石窟③:天龍山石窟・第10窟西壁の現状
天龍山石窟・第10窟西壁の現状

225天龍山石窟③:「天龍山石窟」掲載写真~第16窟東壁
「天龍山石窟」掲載写真~第16窟東壁

225天龍山石窟③:「天龍山石窟」掲載写真~第17窟正面北壁
「天龍山石窟」掲載写真~第17窟正面北壁

225天龍山石窟③:天龍山石窟・第17窟正面北壁の現状
天龍山石窟・第17窟正面北壁の現状

225天龍山石窟③:「天龍山石窟」掲載写真~第17窟右脇侍菩薩
「天龍山石窟」掲載写真~第17窟右脇侍菩薩

225天龍山石窟③:「天龍山石窟」掲載写真~第18窟東壁
「天龍山石窟」掲載写真~第18窟東壁

ご覧のように、天龍山石窟内に美しく見事な石仏尊像が勢揃いしていた頃の、往時をしのぶことが出来ます。

他の出版物でも天龍山石窟盗鑿前の写真を掲載したものがありますが、ごく一部だけが掲載されているだけで、その全貌を知ることは出来ません。
色々な研究論文も、盗鑿前の当初の状況は、なべて本書の写真が用いられていますし、此度の東博企画展「珠玉の中国彫刻」展示の仏頭と共に掲出されていた流出前の古写真も、本書の写真が用いられていました。

余談ですが、NET「日本の古本屋」で本書を検索すると、なんと150万円という驚くべき高値がつけられていました。
如何に貴重な稀覯本かということを、物語っていると云えるのでしょう。

なお、本書は、早稲田大学図書館の古典籍総合データベース「天竜山石窟 / 外村太治郎 著」に、全頁のカラー図版が収録されていて、嬉しいことに、NET上でいつでも閲覧することができます。



【序文には、錚々たる顔ぶれが
~いずれも「日本人の手による天龍山石窟発見紹介」の意義を強調】

本書の序文には関野貞、高楠順次郎、常盤大定、望月信享、跋文には小野玄妙と、これでもかという程の錚々たる顔ぶれが名を連ねています。

この序文の記述を見ると、これまた誠に興味深いものがあります。
こぞって、天龍山石窟の発見と本写真集の発刊が、「日本人の手によってなされたこと」の喜び、意義を強く訴えているのです。

関野貞は、

「燉煌の石窟はペリオ氏により、雲崗、龍門の遺蹟はシャヴァンヌ氏より既に世界的に宣傳されたが、天龍山の石窟は幸に田中、外村両氏の努力により、其眞相を廣く内外に紹介して世人の研究に資することゝなったのは實に我學界の大慶事である。
・・・・・・
余は東洋人の當に爲すべき研究が往々歐米人に先鞭を着けらるゝを見て、毎に殘念に思ってゐたから、今回両氏の此事業に對しては特に世人と共に滿腔感謝の意を表せんと欲するのである。」


常盤大定は、

「猶、伊東博士の發見に係る大同雲崗が外人によって世界的になった如く、この天龍山も、同一の運命を繰り返すでは無からうかと、記して置いた所が、今度外村氏が一切の準備を調へ、大膽な企圖を試みて、首尾よく、天龍山石窟の全部を吾人の前に展開する様にしたのは、予の希望を滿足せしめたものといはねばならぬ。」


高楠順次郎は

「洞窟寺院の發見、研究、發表、倶に我國の學者に成りしものは唯この天龍山寺あるのみ。
予は、・・・・この研究を祝福し、これを世に推奨するに於いて、決して人後に落つるものに非ず。」


望月信享は、

「近来欧米の学者中、東洋学藝の研究に従事する者が益々多い。
・・・・・
それに比して、我が邦人の探検的業績と見るべきものが甚だ少い。
東洋の研究は当然東洋人がなさねばならぬ所である。」

以上のような通りです。



【「文化財研究においても、我国が東洋の盟主たるべき」という自負心の投影か?】


本書が出版された大正11年(1922)頃というのは、日清、日露戦争(1894~95・1904~05)の勝利を経て、第一次世界大戦(1914~18)の戦勝国に名を連ねた処という時期です。
日本が、明治維新以来の近代化を成し遂げ、世界の一等国の仲間入りをし、東洋の盟主たるべきという国民意識が盛り上がりを見せていたころではないかと思います。

こうした中で、東洋文化研究は欧米人の手によってならせるべきものではなく、就中、
「東アジア・中国の文化史研究は、日本人の手によってなされなければならない」
という、過剰なまでの強い自負心が、色濃く投影していることが見て取れます。

豪華写真集「天龍山石窟」は、
「天龍山石窟を日本人研究者が発見したという事実を、内外に広く知らしめる」
という、気運の大きな盛り上がりによって、発刊に至ったものではないでしょうか。



【解説ページの全くない、写真集「天龍山石窟」~不本意だった田中俊逸】


なお、不思議なことにこの写真集には、解説ページが全くありません。
序文と写真だけで構成されているのです。
何故、このような構成になったのか?
何故、共に調査した田中俊逸の調査報告・解説が掲載されていないのか?
の経緯はよく判りません。
刊行企画当初の発売予告広告には、田中俊逸の解説が掲載される予定であると記されていたのですが、事情の変化があったようです。

田中俊逸自身は、このようは発刊が極めて不本意なものであったようで、後に執筆した「天龍山石窟探検思い出の記」でこのように語っています。

「私の苦心惨憺した写真は帰朝の上、無断で出版せられ、この解説書すら附さなかったのです。
處が彼の大震災で写真も烏有に帰して、私の涙はどうやら紛れる内突々、大震災以上に驚いたことは天龍山石窟の石仏の首、即ち仏頭が続々輸入されて・・・・・・・・
一仏を残さず悉くを空洞としたことは、天龍山は私にとっては、己身的にも、学術的にも涙で始まり涙で終わるのでありました。」
(「天龍山石窟探検思ひ出の記(上・下)」日本美術協会報告23・24輯1932.01・04)

石窟調査に一番貢献したのが田中俊逸であっただけに、経緯はどうあれ、憤懣やるかたなき事であったろうと察せられます



【本書の刊行が、凄まじいまでの盗鑿の一つの契機に
~天龍山石窟の存在を、世に知させることになった写真集】

一方で、この写真集「天龍山石窟」の発刊によって、天龍山石窟の名は世に広く知られ、世界に知れ渡ることになったと思います。

然し乍ら、そうしたことが、美しい彫刻を獲得しようとする凄まじいまでの盗鑿が始まる、大きな契機の一つとなってしまいました。

知られざる天龍山石窟であっただけに、何とも、皮肉な結果となったといわざるを得ません。



【間もなく刊行された、シレン著「中国彫刻」でも紹介された天龍山石窟
~欧米における中国彫刻研究の大定本】

「天龍山石窟」の発刊の3年後、スウェーデンの美術史学者・オズワルド・シレン著の 「中国彫刻」 (CHINESE SCULPTURE~FROM THE FIFTH TO THE FOURTEENTH CENTURY)  が、ロンドンで発刊されました。

225天龍山石窟③:オズワルド・シレン著「中国彫刻」全4巻1925
オズワルド・シレン著「中国彫刻」全4巻1925年

シレン著の「中国彫刻」は、「中国彫刻研究の定本中の定本」と云われている4巻の大著です。
シレンは、1922年、田中俊逸等の調査実施と同じ年に、天龍山石窟を訪れ調査しています。
交流のあった関野貞から、天龍山の情報を得たのかもしれません。

225天龍山石窟③:オズワルド・シレン
オズワルド・シレン

本書には、天龍山石窟が採り上げられ、25葉の石仏像写真が掲載され、簡単な解説が附されています。

225天龍山石窟③:シレン著「中国彫刻」掲載天龍山石窟写真

225天龍山石窟③:シレン著「中国彫刻」掲載天龍山石窟写真

225天龍山石窟③:シレン著「中国彫刻」掲載天龍山石窟写真
シレン著「中国彫刻」掲載天龍山石窟写真

日本の研究者が危惧したように、写真集「天龍山石窟」の刊行がなければ、シレンが天龍山石窟の初めての調査紹介者として、欧米で語られるようになったのかもしれません。



【本書の三名の献呈者に、名前が連ねられている「関野貞」】


ただ、注目すべきは、本書には、

「感謝の気持ちに捧げる」 (DEDICATED WITH GRATITUDE)

として、3人の献呈者の名前が記されているのですが、そこに、「関野貞」の名前が挙げられていることです。

225天龍山石窟③:シレン著「中国彫刻」表紙頁
225天龍山石窟③:シレン著「中国彫刻」~献呈者名所載ページ
シレン著「中国彫刻」表紙と献呈者名所載ページ
「T.SEKINO」と関野貞の名が記されている


関野貞の他には、ポール・ペリオ(東洋学者・敦煌文書の発見請来者)、ジョゼフ・アッカン(探検家・ギメ東洋美術館のキュレーター)の名前が記されています。

関野貞とシレンは、ずっと面識、交流があり、関野はシレンに対して中国での調査情報などの提供を行なうなど、本著の成立にもかかわっていたようです。
本書掲載の写真図版の一部にも、関野提供の写真が用いられています。

シレンは、関野貞が天龍山石窟の発見者であることを十分に認識していたことは間違いないでしょうし、当時、関野が、ペリオ、アッカンという著名研究者と並んで、中国の仏教史蹟の有数の研究者として認められていたことは、銘記しておきたいことだと思います。


こぼれ話~天龍山石窟の発見と石仏流出物語〈その2〉 【2021.02.13】



3.注目を浴びた天龍山石窟の発見~調査・研究の盛上がり


ここまで、関野貞による「天龍山石窟の発見」の物語をたどってきました。

ここからは、この発見が、国内でどれほどの注目を浴び、その後の調査研究や出版物刊行がされていったのかをたどってみたいと思います。

天龍山石窟の発見経緯、研究史、石仏流出などについては、次の二つの論考に大変詳しく述べられていました。

神谷麻里子氏 「天龍山石窟の研究~研究史と問題点」 愛知県立芸術大学紀要34号 2004年

斎藤龍一氏 「関野貞による山西・天竜山石窟「発見」をめぐって」 大阪市立美術館紀要18号 2018年

この二つを読むと、関野貞の発見から天龍山石窟がどのように注目され、研究が進められ、石仏流出に至っていくかなどが丸わかりと云って良いほどに、詳しく論じられています。

私のご紹介する「発見、流出物語」の多くは、この二つの論考からのつまみ食いとでも云って良いものになっていますが、ご容赦願いたいと思います。

2論考ともNET上に公開され、読むことができますので、ご関心のある方はご覧ください。



【天龍山発見以降の調査訪問者と、主な発表論文・刊行物~一覧リスト】


さて、関野貞の天龍山石窟発見以降、どのような人物が天龍山石窟を訪れ、その調査研究報告や天龍山石窟紹介出版物が刊行されていったのでしょうか?

大正7年(1918)の発見から戦前、昭和15年(1940)までの、主なものを一覧表にしてみると、以下のようになっています。

224天龍山石窟②:天龍山石窟発見からの訪問者・論文刊行物一覧


如何でしょうか?

天龍山石窟の発見から10年間ぐらいの間に、いろいろな研究者が天龍山石窟を訪れているのに、また数多くの論文や出版物が刊行されているのに、驚かれたのではないでしょうか。
わが国では、「天龍山石窟の発見」が大きな注目を浴び、広く世に紹介され、論じられていたことがよく判ります。



【発見翌々年には、早くも木村荘八と木下杢太郎が訪問】


関野貞の天龍山石窟発見の翌々年、大正9年(1920)には、木村荘八・木下杢太郎と常盤大定が天龍山石窟を訪れています。

木村荘八と木下杢太郎は、9月に雲岡石窟、10月に天龍山石窟を訪れています。
ご存じの通り、木村荘八は洋画家・随筆家、木下杢太郎は医者・文化人で知られる人物です。

224天龍山石窟②:木村荘八224天龍山石窟②:木下杢太郎
(左)木村荘八  (右)木下杢太郎

この時の雲岡石窟紀行を、共著で出版した「大同石仏寺」(1922年・日本美術学院刊)は、名著として知られています。

224天龍山石窟②:木下杢太郎著「大同石仏寺」
木下杢太郎著「大同石仏寺」(1938年・座右宝刊行会刊)
この本は、共著の「大同石仏寺」から木下執筆分を抜出し、再刊されたものです


驚いたのは、専門の研究者でもない二人が、早くも天龍山石窟を訪ねていることでした。
関野貞の調査報告論文「天龍山石窟」が、まだ発表されていない時期です。

天龍山石窟の発見情報が、当時、随分注目を浴びていた証左のような気もします。



【木村荘八には、評価が厳しかった天龍山石窟石仏像】


木村荘八は、「天龍山石窟を見る」(中央美術7-2・1921年)と題する探訪紀行文を発表しています。

興味深かったのは、木村の天龍山の石仏像への評価が、大変厳しいものであることです。
224天龍山石窟②:木村荘八の天龍山石窟石仏スケッチ
木村荘八の天龍山石窟石仏スケッチ
「天龍山石窟を見る」収録

宗教的意相の石窟の場に、美術品の仏像を嵌め込んだようなチグハグ感があってつまらないと、語っているのです。

「只「美術」から見て、つまらぬと思ふ。
・・・・・・
東方第六窟の唐佛はそれぞれ作も気品も、面白いとは思ったが、然し何も之を見にわざわざ辛い思いをしてこんな山中へ来るに當らないと、苦笑して思った。
・・・・・・
世に有用な美術とは思へなかった。」

と、糞味噌と云って良いほどのこき下ろし方です。

随分苦労して訪ねた割には、期待したほどではなかったのでしょうか?
木村が、仏教石窟に抱いていた「あるべき宗教的イメージ」にマッチしていなかったのかもしれません。
これだけ優れた石仏像が、どうしてこんな印象になったのかはよく判らず、ちょっと不思議な感じです。



【美しい石仏像のスケッチを残した木下杢太郎】


共に訪れた木下杢太郎は、天龍山石窟石仏像のスケッチを何枚も残しています。
天龍山石窟石仏像の美しさ、魅力が、良く引き出されています。

そのいくつかをご覧ください。

224天龍山石窟②:木下杢太郎スケッチの天龍山石窟・石仏(木下杢太郎画集収録)

224天龍山石窟②:木下杢太郎スケッチの天龍山石窟・石仏(木下杢太郎画集収録)

224天龍山石窟②:木下杢太郎スケッチの天龍山石窟・石仏(木下杢太郎画集収録)

224天龍山石窟②:木下杢太郎スケッチの天龍山石窟・石仏(木下杢太郎画集収録)
木下杢太郎スケッチの天龍山石窟・石仏
(「木下杢太郎画集・第1巻~仏像」1985年用美社刊所載)




【同じ年に天龍山石窟を調査した、常盤大定
~中国の仏教史蹟を徹底調査した仏教史学者】

木村荘八等と同じ年、常盤大定が天龍山石窟を訪れ調査を行っています。

常盤大定は、僧侶で東京大学の教授も務めた、著名な仏教史学者です。

大正9年(1920)、50歳を過ぎて初めて中国大陸に渡り、仏教遺跡を中心に文化史蹟の訪問調査を行いました。
以来、中国の調査は、昭和3年(1928)まで5回に亘り、その調査成果は、関野貞との共著「支那佛教史蹟」(図版・評釈各5冊・1925~1928刊)、「支那文化史蹟」(全12分冊・1939~1941)という大著が刊行されています。
この2著作は、中国大陸の文化史蹟を広範にカバーした、空前絶後の調査記録書として長く語り継がれているものです。

常盤大定は第一回目(1920年)、約100日に亘る中国調査の中で、天龍山石窟を訪れました。
そして帰国後、調査報告ともいうべき「支那佛蹟踏査 古賢の跡へ 第一」を金尾文淵堂から刊行しました。

224天龍山石窟②:常盤大定著「「支那佛蹟踏査 古賢の跡へ 第一」  224天龍山石窟②:常盤大定著「「支那佛蹟踏査 古賢の跡へ 第一」
常盤大定著「「支那佛蹟踏査 古賢の跡へ 第一」(1921年・金尾文淵堂刊)



【雲岡石窟発見同様、欧米人が天龍山石窟紹介者とされるのを、危惧した常盤大定】


本書では、天龍山石窟についても述べられているのですが、注目されるのはその章の冒頭に、このように記されていることです。

「大同雲岡の石佛寺は伊東博士の發見にかゝり、天龍山の石窟は關野博士の發見にかゝる。
發見はしても、時間と資金の爲であらう、雲岡は却つてシャヴァンヌの研究によつて世界的になつて居る。
天龍山も他日そんな運命になるかも知れぬ。
何とかしたいものである。」

雲岡石窟の発見者は伊東忠太なのに、シャヴァンヌにその名声をとってかわられてしまった。
今度こそ、天龍山石窟の発見者は関野貞だということを、広く世に知らしめなければならないと、訴えているのです。



【仏人学者・シャヴァンヌによって、世に広く知らしめられた雲岡石窟
~発見者・伊東忠太の名は知られず】

「雲岡石窟の発見」に関わるいきさつは、こんな話です。

雲岡石窟は、明治35年(1902)、伊東忠太によってはじめて発見されました。

224天龍山石窟②:中国史蹟調査時の伊東忠太(向かって右)224天龍山石窟②:雲岡石窟発見時、露坐仏前の伊東忠太(向かって右)
(左)中国史蹟調査時の伊東忠太 (右)雲岡石窟発見時、露坐仏前の伊東忠太~共に向かって右

伊東は雲岡石窟の発見について、国内の研究誌(「建築雑誌」「国華」)に発表掲載したのですが、欧米などに広く知られることにはなりませんでした。

この雲岡石窟発見の話は、ハノイにある極東学院に伝わり、研究員であった仏人、エドゥアール・シャヴァンヌが雲岡現地に出張調査し、1909~15年に刊行した自著、「華北考古図譜・全5巻」(Mission archéologique dans la Chine septentrionale)に、雲岡石窟を採り上げました。

224天龍山石窟②:エドゥアール・シャヴァンヌ224天龍山石窟②:「華北考古図譜」(Mission archéologique dans la Chine septentrionale)
(左)エドゥアール・シャヴァンヌ、(右)「華北考古図譜」

この本には、雲岡石窟に関する図版が多数掲載され、全容が世に広く知らしめられ、雲岡石窟寺の名は 急に世界の注目を集めるようになったのです。,

224天龍山石窟②:「華北考古図譜」収録の雲岡石窟写真224天龍山石窟②:「華北考古図譜」収録の雲岡石窟写真
「華北考古図譜」収録の雲岡石窟写真

こうした経緯で、雲岡石窟の真の発見者は伊東忠太であったにも関わらず、欧米においてはシャヴァンヌが発見者のように受け止められ、その名を成さしめることになったというものです。

伊東忠太は、後に、
「こういう点では、欧米人はなかなか抜け目がないね。
日本人はいつも損をする。」
と、述懐していたということです。

常盤大定は、天龍山石窟の発見が、「第二の雲岡石窟の発見」になってしまうことを危惧していたのでした。

天龍山石窟については、その発見当初から、一種のブームのような盛り上がりを見せ、多くの研究者が天龍山を訪れ、論考や関係出版物が続々と発表刊行されています。

その背景には、日本におけるこのような欧米への対抗意識が、色濃く反映していたのかもしれません。


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