【新刊された塩船観音寺の仏像解説書
~千手観音像、二十八部衆の重文指定を記念して】
東京都青梅市の古刹、塩船観音寺にて、こんな仏像解説書・冊子が刊行されました。
「塩船観音寺」 山本勉著
2020年12月 塩舟観音寺刊・中央公論美術出版社製作 【37P】 1100円

山本勉著「塩船観音寺」~表紙写真は本尊・千手観音像
昨年(2020年)、 塩船観音寺の本尊、千手観音立像と二十八部衆像(28躯)が、国の重要文化財に指定されました。
本書は、この重要文化財指定を記念して、塩船観音寺の仏像群についての解説本として刊行されたものです。
【執筆は、運慶研究で知られる山本勉氏】
一見すると、よくあるお寺発行の小冊子のように見えますが、そうではなくて、コンパクトながらもきっちりした解説書で、執筆は運慶研究等で著名な仏教美術史研究者、山本勉氏です。
山本氏は、長らく塩船観音寺の仏像の調査研究に関わってこられたようで、
「青梅塩船観音寺二十八部衆像調査報告」(三浦古文化32号1982)、「青梅・塩船観音寺鎌倉造像再々考」(MUSEUM580号2002)
といった論文を発表するほか、
「日本彫刻史基礎資料集成・鎌倉時代造像銘記編9・10巻」所載の「塩船観音寺 千手観音菩薩像・二十八部衆像」
の解説執筆も行っています。
山本勉氏も、ご自身のtwitterで、本書の執筆刊行について、
「1980年、西川新次先生ひきいる調査に参加したことからはじまり、明古堂の明珍昭二先生の長年の二十八部衆像修理にもかかわるなど、40年のご縁がかたちにできて感無量」
とのコメントを述べられています。
本書の目次は、ご覧の通りです。
早速、郵送で注文、購入しました。
37ページの解説冊子書ではありますが、専門的な内容が大変判り易く解説されています。
この本は、中央公論美術出版社の制作ですが、刊行者は塩舟観音寺で、お寺でしか購入することができませんが、郵送でも購入可能となっています。
購入方法など、詳しくは、塩舟観音寺HPの「重文指定記念出版『塩船観音寺』」ページをご覧ください。
【50年前に刊行された、塩船観音寺の解説冊子本をご紹介】
これまで、塩舟観音寺についての解説書と云えば、ほぼ50年前、昭和45年(1970)に刊行された、「関東の古刹~塩舟観音寺」という冊子本があっただけではないかと思います。
「関東の古刹~塩舟観音寺」 (郷土文化叢書1)
武蔵書房編 1970年刊 【46P】 500円

「関東の古刹~塩舟観音寺」~表紙写真は二十八部衆・功徳天像
本書は、塩舟観音寺の歴史と文化財について、しっかりと総合的に纏められた中身の濃い本です。
塩舟観音寺は、大化年間の開山と伝えられ、鎌倉時代には武蔵七党の流れを汲む金子氏の庇護を受け、室町時代には青梅・奥多摩方面に勢力をもっていた三田氏の帰依を得て栄えた古刹です。
本書では、塩舟観音寺の仏像だけではなく、金子氏、三田氏の観音寺とのかかわりや、建築物などについても、判り易く解説されています。
一方、新刊の「塩船観音寺」は、千手観音像、二十八部衆像の重文指定記念出版とされているように、観音寺の仏像に焦点を絞った内容となっています。
小冊子本とは思えない、最新の研究成果をコンパクトに凝縮した中身の濃い内容で、制作仏師の事績などについても言及されていて、大変興味深く読むことができました。
塩舟観音寺について知るには、この2冊が手元にあれば十分と云えるのかなという感じです。
新刊の「塩船観音寺」、書店では買えない本ですが、仏像愛好の方は手元に置いておきたい好著かと思いましたので、ご紹介させていただきました。
【昨年、重文指定された千手観音像と二十八部衆像
~像内墨書銘に鎌倉の造立年と仏師名が】
さて、昨年新たに重要文化財に指定された千手観音像と二十八部衆像ですが、以前から、
「鎌倉時代の造立年と、製作仏師名が記された墨書銘」
が像内に遺されている、貴重な作例として知られています。
【文永元年(1264)、仏師快勢による製作された千手観音像】
千手観音像は、像高144.0㎝、玉眼が嵌入されたヒノキ材の寄木造りで、宋風を匂わせるいかにも鎌倉という造形です。

塩船観音寺・千手観音像(「塩船観音寺」掲載写真)
像内には、
「武蔵国塩舟寺本尊千眼大士として、大檀那浄成・栄覚、仏師法眼快勢・法橋快賢・覚位により、文永元年(1264)12月に造り始められた」
旨の墨書銘が記されています。
仏師快勢は、鎌倉前期段階で法眼という僧綱位が与えられていることから、中央の一流仏師であったと思われ、快慶の系統をひく仏師ではないかとみられるということです。
【仏師定快により、文永5年(1268)から製作がはじめられた二十八部衆像】
二十八部衆像は、28躯すべてが遺されていて、像高は90㎝前後です。

塩船観音寺・二十八部衆像(「塩船観音寺」掲載写真)
そのうち23躯は鎌倉時代、5躯は室町時代の補作となっています。
鎌倉時代制作像の8躯の像内に造像銘記があり、うち7躯に作者として定快の記名が遺されています。
銘記によると制作年が文永5年(1268)から弘安11年(1288)まで、20年もの長きにわたっていて、在地の仏師として造像に携わったとみられます。
定快については、長らく事績が全く知られなかったのですが、近年、茨城県那珂市の常福寺・聖観音像が永仁5年(1297)に「法橋定快の作」の造像銘があることが知られ、同一人と考えられるそうです。
また、室町時代補作像のうち2躯の台座裏に、永正9年(1512)造像銘があり「仏師法橋弘円」の記名があります。
仏師弘円は、鎌倉に仏所をかまえた仏師で、神奈川県下での造像、修理が知られるということです。
【像内銘記が発見された時期は】
像内の銘記が発見された時期について、ちょっとふれておきます。
二十八部衆・功徳天像の銘記は、戦後すぐ昭和20年代に、当時の御住職と郷土史家の稲村担元氏によって胎内を開いて調査した際、発見されました。
千手観音像の銘記は、昭和34年(1959)に、上野寛永寺内で行われた美術院の出張修理で、千手観音像と功徳天像の修理が行われた際に発見されました。
頭部の後穴から電球を入れて胎内を観た処、胎内銘がありことが判り、稲村担元氏、西川新次氏、西村公朝氏等が覗いて銘文を読み取り、転記されたということです。
その他の像内銘記は、後年の修理などで発見されたようです。
銘文発見の経緯などについては、稲村担元論文集「武蔵における社寺と古文化」に、詳しい話が所載されています。
【塩船観音寺を初めて訪ねる~1/16の秘仏、千手観音像開扉の日に】
ここまで塩船観音寺の仏像についてふれてきましたが、実は、私はこれまで塩船観音寺を訪れたことも、仏像を拝したこともなかったのです。
関心はあったのですが、是非とも拝したいという程の執着心がなくて、そのままになっていたのでした。
山本勉氏「塩船観音寺」を読んで刺激されたというのでしょうか、直に拝してみたいという気になってきました。
本尊千手観音像は秘仏で普段は拝せませんが、年に4回、1月1〜3日、1月16日、5月1〜3日、8月第2日曜日に開扉されています。
1月16日の御開帳に出かけました。
塩船観音寺は、春のつつじ祭りで有名で、この時には多くの花見客で混雑するということですが、真冬の1月、非常事態宣言下で訪れる人もあまりないのだろう思って出かけたのでした。
ところが、この日は、季節外れ春のような暖かさ。
結構、多くの方々が、散策がてら訪れていて、ちょっとビックリです。

塩船観音寺・山門
なかなか立派なお寺です。
【茅葺の本堂に祀られる千手観音像と二十八部衆像】
山門を過ぎてしばらく坂道を登って、石段を上がると茅葺の本堂が見えてきます。

塩船観音寺~本堂への参道石段

塩舟観音寺・本堂
目指す、千手観音像は本堂内の立派な厨子の中に祀られています。
本尊厨子の外、両側には、不動・毘沙門の脇侍像と、二十八部衆像がずらりとギッシリと祀られています。

二十八部衆像がずらりと並ぶ塩船観音寺本堂堂内(「関東の古刹~塩船観音寺」掲載写真)
この日は本尊御開帳日だったのですが、「ご開帳日」の掲示も特になく、ご参拝の人々はあまり気に留めることもなく、堂外から参拝されていました。
お参りの方は結構大勢だったのですが、堂内まで上がって、千手観音像を拝する人はわずか、チラホラという程度です。
本当に、さり気ない御開扉という処でした。
堂内では、外陣からの拝観で、ちょっと距離があるのですが、厨子内に照明があてられていて、割合にはっきりと拝することができました。
【宋風の匂いを漂わせる、長身痩躯の千手観音像】
千手観音像は、宋風の匂いを漂わせる、いかにも鎌倉という感じの造形です。

塩船観音寺・千手観音像
一見して、長身痩躯であることが特長的に見て取れます。
頭部と上半身に比べて、腰から下が随分細身で、スリムに過ぎるという印象です。
頭部、面貌を双眼鏡で拡大してみると、キリッとしっかりした力感があり、なかなかなものを感じるのですが、下半身が痩躯で弱々しくなってしまい、ちょっとミスマッチというの率直な感想という処でしょうか。
山本勉氏は、
「全体にまとまりよく瀟洒であるが、面部や上半身の肉どりは張りがあり、ひきしまっている。
その作域はこの期の作品としてはかなりすぐれたのもである。」
(「塩船観音寺」2020年刊)
と記しています。
【ちょっと圧倒される、すらりと並ぶ二十八部衆像】
二十八部衆の方は、ずらりと28躯が並んだ姿に、ちょっと圧倒されてしまいました。
1躯1躯見ていくと、それぞれの出来のレベルに差があるのに気が付きます。
鎌倉期の23躯も、制作時期に20年の差があることが銘記から知られていますが、山本氏は、この出来のレベルの差について、作者の仏師定快が、当地での、
「長い逗留の間に腕が落ちた、という事情があったのかもしれない。」
と述べています。
【薬師堂には、平安古仏の薬師如来像~いかにも素朴な地方作像】
薬師堂には、平安期の、いかにも地方作風の薬師如来像が祀られていました。


塩船観音寺・薬師堂と堂内に祀られる薬師如来像
像高:170㎝、11世紀後半ごろの製作とみられるとのことで、青梅市指定文化財となっています。
カヤ材の一木彫で、内刳りも無く、ひょろ長い姿は立木仏的な空気感も感じさせます。

薬師堂・薬師如来像
茅葺の小堂に祀られるに相応しく、地方仏らしい素朴さが魅力の古仏です。
【山門にも立派な鎌倉期の仁王像
~阿形像の頭部の造形はなかなかダイナミック】
山門には、立派な仁王像がありました。

仁王像が祀られる塩船観音寺・山門
さりげなく通り過ぎてしまいそうな山門ですが、格子の中に立つ仁王像は、なかなかの造形です。


塩船観音寺仁王門・仁王像
説明看板によると、都指定文化財となっていて
「鎌倉期の制作、二十八部衆の造りと共通点が多く見られることから、二十八部衆と同時期に仏師定快によって造立されたと考えられる。」
ということです。
体躯全体的には、ちょっとアンバランスな処を感じますが、阿形像はなかなか良くて、頭部の造形は、ダイナミックで迫力あるものを感じました。


仁王像~阿形像
塩船観音寺は、ご紹介したお堂、仏像だけでなく、その他の諸堂や施設がいくつもあり、結構な大規模寺院です。
境内奥の山上には、巨大な平和観音像までも造立されていました。

塩船観音寺・平和観音像
こんな大きなお寺だったとは思いもしませんでした。
うららかな小春日和のような日に、気になっていた塩船観音寺の秘仏拝観を果たすことができて、十分に満足という一日となりました。
ついでに、帰りに見つけたランチのお店をご紹介。
お寺から車で4~5分の処にあった、「たまご倶楽部」というお店で、一人ランチをしました。


「たまご倶楽部」
こだわりの美味しい玉子専門店で、玉子を買に来るお客さんが途切れません。
デミグラスソースのオムライスを食べましたが、濃厚卵がなかなかの美味。
想定外の良いお店に出会うことができて、これまた大満足の日となりました。
仏像の修理修復をテーマにした本が、2冊、立て続けに出版されました。
それぞれ、全くタイプが違う本なのですが、ご紹介させていただきます。
「仏像さんを師とせよ~仏像修理の現場から」 八坂寿史著
2020年11月 淡交社刊 1870円 【231P】
「東京藝大 仏さま研究室」 樹原アンミツ著
2020年10月 集英社文庫刊 748円 【336P】
【美術院国宝修理所・工房長の書下ろし~「仏像さんを師とせよ」】
まずは、
「仏像さんを師とせよ~仏像修理の現場から」
についてです。
著者の八坂寿史氏は、京都の美術院国宝修理所の工房長の任にある方です。
ご存じの通り、美術院国宝修理所は、主に国宝、重要文化財級の仏像や絵画、美術工芸品の修理修復を行っている処です。
正式には公益財団法人「美術院」と云い、明治期に岡倉天心が創設した美術院において、美術工芸品の模造、修理修復を担う部門として発祥し、現在に至っています。
国宝、重文級の仏像の修理修復は、全て美術院国宝修理所が担っているのではないかと思います。
八坂寿史氏は、1955年生まれ。
1980年に美術院入所以来、40年にわたって仏像修理に従事してきた現場の技術者で、東大寺南大門仁王像、東寺講堂諸仏、唐招提寺千手観音像など近年の美術院を代表する仏像修理に携わり、現在工房長としてご活躍中です。
【国宝・重文仏像修理現場の技術者・仏師ならではの、興味深い話が盛り沢山】
本の帯には、
「仏像修理のスペシャリスト集団、美術院工房長の奮闘記」
「多くの国宝、重要文化財の仏像を修理してきた筆者が40年にわたり書き綴った仏像修理秘話」
というリード文がつけられています。
目次をご覧ください。
早速、一読したのですが、リード文どおりの内容で、仏像修理の現場に長く携わってきた技術者・仏師ならではの、興味津々の話が豊富に語られています。
愉しく、面白く、読むことができました。

「仏像さんを師とせよ」掲載・唐招提寺千手観音像解体修理時写真
【一番興味深かったのは、修理技法や道具、工具の話】
私が、一番興味深かったのは、有名仏像の修理物語よりも、
「様々な材料と修理の方法」や「現場で使う道具」
などについてふれた話でした。
「修理仏像を解体するときの釘や鎹を抜く工具の話、矧ぎ目を接着している漆や膠の話、彫刻刀や砥石などの道具の話」
などは、普通の仏像彫刻の本には全く書いていない話で、まさに現場で修理にあたっている著者のような人からでないと聴くことができない、面白い話です。
【仏像造像技法の展開と「刃物と砥石」との関わり合いの話は、興味津々】
なかでも、一番興味深かったのは「砥石」の話でした。
彫刻刀など刃物の切れ味にとって、砥石の果たす役割の重要性が、いかに大きなものであるかを知りました。
仏像の造像技法の展開と「刃物と砥石」との関わり合いについて、著者自身の見方、考え方ということで、こんなことが述べられていました。
造像技法が、白鳳奈良時代から平安時代にかけて、塑像・乾漆像から一木彫像へ展開していく理由についてです。
「当時(註:白鳳奈良時代)、鋼はあっても良い砥石はまだ無く、木を彫るのは難しかったようです。
しかし楠(くすのき)で彫られたお像がいくつかおられることから、刃物が荒砥ぎの状態でも結構彫ることができる木だったのでしょう。」
「当時(註:奈良時代)、刃物はビンビンに砥げないので、きれいな木彫像は彫れません。
漆で造ろうにも材料は高価でした。
そこで、新たに生み出された技法で「木心乾漆像」というお像がつくられるようになります。」
「9世紀頃、京都市右京区鳴滝で世界に誇れる仕上げ砥石「本山砥石」が発見されました。
日本の仏師たちはこぞってこの砥石を使い始めたようで、木彫像は爆発的に広がりました。
一本の大木からお像を彫り出すことも可能となり、そのお像を「一木彫」といいます。
その反面、土由来のお像の造像はピタリと止まってしまいます。」
「刃物と砥石の発達」が、仏像の造像技法の展開、木彫像の隆盛に大きくかかわっているという話です。
白鳳、奈良時代の塑像、乾漆像から奈良末、平安時代の一木彫像へ展開した理由については、これまでも様々な要因が論じられています。
「刃物と砥石」の観点からだけでこれを語るのは、ちょっと無理があるように感じますが、
「彫刻技法の展開と、道具の発展と、素材用材との関係」
を、刃物などの道具、工具の発達との関係で捉えた見方には、誠に興味深いものがあります。
自ら鑿を執って仏像を彫る人ならではのコメントではないかと思います。
私は、かねがね、仏像彫刻技法の展開、木彫像の用材樹種の選択といった問題が、刃物など工具の発達展開といった現場工人の技術的問題と大きくかかわっているのではないかと思っているのですが、著者の「刃物と砥石」の話も、このような観点から誠に興味津々でした。
また、飛鳥時代木彫像の用材樹種がクスノキである事由についての、一つの有力な考え方にもなるように感じた次第です。
美術書にはあまりふれられることのない、仏像修理の現場の話を、気楽に愉しく読むことができる一書としてお薦めです。
【クスっと笑えてグっとくる青春ストーリー~「東京藝大 仏さま研究室」】
二番目は、
「東京藝大 仏さま研究室」
についてです。
AMAZONには、このような紹介文が載っています。
「2浪、3浪は当たり前、時には10浪以上の学生も・・・・
パンダと桜で賑わう上野公園に隣接する東京藝術大学。
通っている学生も教授も少し変わった人ばかり。
そんな東京藝大で、仏像の保存について研究する通称「仏さま研究室」の修了課題は、なかなか過酷で学生泣かせだ。
様々な思いを抱え、真心を込めながらも、「模刻」に悪戦苦闘する学生たちを描く、クスっと笑えてグっとくる青春ストーリー。」
紹介文で判るように、この本は、仏像の修理修復について書かれた本でもなんでもなくて、「東京藝大 仏さま研究室」を舞台にした、青春ストーリー小説のようです。
【小説のモデルは「東京藝大 保存修復彫刻研究室」
~地味な世界が、小説モデルの表舞台に】
実はこの本、まだ読んではいないのですが、舞台のモデルが「東京藝大 仏さま研究室」となっていたので、採り上げてみることにしました。
「東京藝大 仏さま研究室」というのは、正確には、
「東京藝術大学 大学院美術研究科 文化財保存学専攻 保存修復彫刻研究室」
のことです。
仏像の保存修復や模造などを通じて、日本の古典彫刻の学術的理論と実技の両方がわかる人材を育成するという研究室です。
「仏像の保存修復や模造研究」といった世界は、そもそもあまり知られていない地味な分野です。
東京藝大でも、絵画、音楽、建築といったトレンディーで「華のある世界」と違って、こっちの方は、言い方は良くないのですが、なかなか陽のあたらない日陰的な存在のような感じがします。
そんな「仏さま研究室」にスポットライトが当てられ、集英社文庫の青春小説の舞台に採り上げられたというのですから、私にとってはかなりのビックリでした。
どんな青春ストーリーが描かれているのでしょうか?
読んでみるのが愉しみです。
【近年、研究室活動の話題が、マスコミでいくつも採り上げに!】
さて、舞台となっている「東京藝術大学 保存修復彫刻研究室」
どんな活動をしているのか、ご存じでしょうか?
近年は、結構、マスコミに取り上げられたりしているのです。
・奈良県のマスコットキャラクター「せんとくん」の制作者、籔内佐斗司氏は、この「保存修復彫刻研究室の主任教授」です。

奈良県のマスコットキャラクター「せんとくん」
・2018年、会津磐梯町の慧日寺跡に、草創期(9世紀初)の本尊薬師如来像の巨像が復元制作され、話題を呼びましたが、本像の復元制作も、この研究室によるものです。

会津慧日寺・本尊薬師如来~復元製作像
・今年(2020年)には、「天平時代が令和に蘇る!東大寺法華堂執金剛神像 完全復元プロジェクト」というクラウドファンディングが募られ、目標額を大幅に上回る17百万円余の寄附が集まりました。
新聞紙上でも度々採り上げられましたが、この復元制作プロジェクトも、本研究室によって推進されているものです。

東大寺法華堂執金剛神像完全復元プロジェクト・チラシ
こうした活動をはじめとした「東京藝術大学 保存修復彫刻研究室」の活動、研究成果についてご関心のある方は、 【本研究室のHP】 を、是非、ご覧になってください。
【実に興味深く、勉強になる「研究室HP」のコンテンツ】
このHPについては、よくご存じの方が多いのではないかと思いますが、実に興味深く、勉強になるウエッブサイトです。
本研究室の制作発表展、研究成果発表など、いろいろな活動が豊富に掲載されています。
コンテンツを読んでいると、若き研究室メンバーたちが古典彫刻の技法習熟、研究へ取り組む熱き情熱が、直に伝わってくるような感じがします。
なかでも、私が興味関心があるのは、 「Online Lecture」 「O.B Introduction」 のページです。
「Online Lecture」には、仏像の製作技法や工程についての、様々な研究成果のエッセンスが掲載されています。
「O.B Introduction」には、仏像の修理修復に携わってきた著名な研究家の、「来し方の思い出や貴重な経験談」などがインタビュー形式で掲載されています。
山崎隆之氏、松永忠興氏(元美術院国宝修理所)、小野寺久幸氏(元美術院国宝修理所長)、本間紀夫氏などのO.B Introductionは、大変興味深く読むことができました。
「東京藝術大学 保存修復彫刻研究室」のHPを、まだご覧になっておられない方は、是非一度、ジックリご覧になってみることをお薦めします。
いずれにせよ、日頃はあまり目立たない「東京藝術大学 保存修復彫刻研究室」が、文庫本の青春小説になり表舞台へ出てきたことが、ちょっと嬉しくなって、ご紹介させていただいた次第です。
新刊予定情報を知って、発刊されるのを愉しみに待っていた本でした。
「大仏師運慶~工房と発願主そして写実とは」
塩澤寛樹著 講談社選書メチエ 2020年9月刊 【268P】 1750円
【前著「仏師たちの南都復興」に続く、興味津々の問題提起の本】
というのも、塩澤氏の前著、 「仏師たちの南都復興」(2016年吉川弘文館刊) が、「~鎌倉時代彫刻史を見なおす~」との副題の通り、興味津々の問題提起となっている本であったからです。
私は、この前著に大いなる知的興奮を覚え、惹き込まれるように読みふけってしまいました。
そんなわけで、今度はどんなことが書いてあるのだろうかと、新著「大仏師運慶」を心待ちにしていたという訳です。
前著の内容とかぶるところもありましたが、またまた大変興味深く読むことができました。
【「鎌倉彫刻の完成者、運慶」という常識の、見直しを問題提起】
前著は、南都復興造像の担い手の再検証などを通じて 「鎌倉時代彫刻≒慶派の時代」 という既成概念を見直そうとする問題提起でした。
新著「大仏師運慶」では、その慶派の象徴ともいえる「運慶」にスポットを当てて、その実像に迫りつつ、 「運慶によって完成を遂げた鎌倉彫刻」 という既成概念の見直しの必要性にも言及するという興味津々の内容です。
本書の表紙と、帯には、このようなキャプションが付されています。
「鎌倉時代の大仏師、運慶とはいかなる存在だったのか。
・・・・・・
朝廷・幕府という二元的支配構造による時代の大きな変動期、・・・・・・
様々な造像に関わった、その実情と、工房主催者としての制作力とは?
後に「天才」とも冠される運慶の実像に迫る。」
「運慶は常に鎌倉彫刻研究の中心であり、一般の人気も高い、いわばスター的存在である。
・・・・・・・
近代以降の鎌倉彫刻史を総括すると、主要な論点はほとんど運慶が主役となり、逆に運慶論を総括すると、鎌倉彫刻史の主要な論点が含まれる。
・・・・・・・
明治以来の大枠を見直し、定説的な見方にとらわれずに・・・・改めて考えてみたい。
すると、伝統的な運慶論や鎌倉彫刻論の修正を迫るいくつかの問題点が浮かび上がる。」
このキャプションで、本書のテーマが凡そご想像がついたのではないかと思いますが、具体的内容については、次の目次をご覧ください。
【一番の関心テーマは、「慶派」「運慶」の近現代評価と、鎌倉期当時位置付けとのギャップ】
各項立の中身にふれていくとキリがありませんので、本書をお読みいただきたいのですが、どのテーマも大変興味深く、新鮮な気持ちで読むことができました。
私が、本書で、一番関心を持ったテーマは、
「鎌倉時代彫刻」「慶派」「運慶」の近現代における評価や位置付けと、鎌倉時代当時のそれぞれの実態には、かなりのギャップがあるのではないか?
という問題提起について、どのように論じられているかでした。
本書「大仏師運慶」と前著「仏師たちの南都復興」で論じられた内容のポイントを、ご紹介したいと思います。
【常識的定説は「鎌倉彫刻は慶派の時代、鎌倉新様式の完成者は運慶」】
まずは、鎌倉時代彫刻における「慶派」と「運慶」の位置付け、語られ方です。
一般的には、次のような論述が、常識的な鎌倉彫刻史観になっていると思います。
・鎌倉時代彫刻の新様式は、運慶・快慶らの慶派によって推進、完成された。
・それまで優位にあった円派、院派は、南都復興造像における慶派の活躍を契機に、主役の座を慶派にとってかわられることとなり、以後の鎌倉時代彫刻では慶派が覇を唱えるに至った。
・慶派を中心とする鎌倉時代彫刻の特質は写実性にあり、実在感、力強さなども加え、天平復古、宋風摂取がみられる新様式で、日本彫刻史の総決算ともいえるものである。
・鎌倉彫刻は、偉大なる天才「運慶」の創り上げた表現に代表され、「運慶」によって完成を遂げたものである。
【塩澤氏による定説への問題提起
~正系三派(院派、円派、慶派)体制が守られていた、鎌倉時代造像】
こうした常識ともいえる定説に疑問を投げかけ、問題提起を行ったのが、塩澤氏の二著です。
その論旨のエッセンスをご紹介します。
まず、
「鎌倉時代彫刻は、慶派が主役となり覇を唱えた。」
という点については、
塩澤氏は、次のように論じています。
・鎌倉時代の造像は、新様式の慶派の一人勝ちで、慶派のみが圧倒的優位に立ったという訳ではない。
・当時の造像は、院派、円派、慶派の正系三派体制の下で行われており、南都復興造像においても正系三派体制の原則は守られていた。
・鎌倉時代は、「京都の朝廷と、鎌倉の幕府」という、東西二つの中心がある二極構造社会となっていて、仏像造像もこれを反映した二元的構造であった。
・京都奈良における朝廷中心の造像においては、院派、円派、慶派の正系三派体制がしっかりとまもられ、鎌倉幕府中心の造像においては、慶派が主役となった。
・「鎌倉彫刻≒慶派の時代」と受け止められているが、京都を中心とする諸寺の造像においては、「伝統様式を受け継ぐ院派、円派」と「新様式の慶派」の三派が鼎立してシェアするという、正系三派体制が守られていたというのが、現実の姿であった。
このあたりまでは、以前の観仏日々帖・新刊案内「仏師たちの南都復興」で、詳しく紹介させていただいた通りです。
【運慶没後、後世になってから喧伝、確立されていった伝説的名声
~運慶活躍時代は、他を圧するほどではなかった?】
次に、
「鎌倉彫刻は、偉大な天才「運慶」によって創り上げられ完成した。」
という定評については、どうでしょうか。
「運慶一タヒ出テ天下復タ彫刻ナシ」
これは、明治23年(1890)刊、国華11号掲載の「東大寺南大門金剛力士像解説」の冒頭の言葉です。
このフレーズに象徴されるように、明治時代、運慶は、天下無双の天才仏師としての評価が確立されていたのは間違いありません。
ところで、仏師運慶への高い評価、名声は、運慶が活躍した鎌倉時代には、もうすでに確立していたのでしょうか?
塩澤氏は、
「鎌倉時代当時、運慶は、圧倒的名声を得ていた訳ではなかった。」
と問題提起し、このように論じています。
・生前の運慶は、一定の評価を受けていたのは事実だが、同時代の円派や院派の仏師に比して隔絶するほど、高い名声があった訳ではない。
・南都復興造像でも、運慶は必ずしも最大の功績を挙げた仏師とは言えない。
鎌倉幕府関係造仏での運慶の名声はあったものの、朝廷関与の造像では、後鳥羽院院政期でも第一人者たる活躍を果たしたとは言えない。
(南都復興造像では、第一が院尊、ついで康慶、明円、運慶といった顔ぶれ、その後の朝廷関与造像では院派が主流)
・「七条仏師」と云われた運慶後継者たちは、「東寺大仏師職の代々継承」を固守することにより勢力の保持拡張を果たしてきたが、その正当性を示すために「東寺大仏師職が運慶に始まる」ことを広く世に喧伝、流布した。
近世に至っても「七条仏師」たちが自己の系譜を正当化するために運慶の権威付けを行い、運慶の名声の伝承者の役割を果たした。
・このように、運慶の名声は、没後に次第に高まり、近世には偉大な仏師との伝説的名声が確立されることになった。
以上の通り、運慶の名声は、その活躍時代は他を圧するほど高くなかったが、没後後代、近世に至るまでに権威づけられ、圧倒的名声が神話的に創り上げられていった。
そして、明治以降の近代美術史の中でも、
「鎌倉彫刻の代表者、完成者たる偉大な天才」
という評価を今日までも得続けているという訳です。
【定着している 「鎌倉彫刻≒慶派の仏像≒運慶」 という彫刻史観】
著名な美術史学者の慶派と運慶についての論述を見ても、大胆に云うと
「鎌倉彫刻≒慶派の仏像≒運慶 (快慶)」
という評価は、明らかなようです。
「鎌倉彫刻はほとんど運慶派のみによってつくられたのではないかと思われるほど旺盛」
「運慶は、鎌倉彫刻の創始者であると同時に、またその完成者」
(小林剛「鎌倉彫刻史概観」日本彫刻史研究・養徳社刊1947)
「鎌倉彫刻が運慶一派によって代表され」
「鎌倉時代の中心的彫刻様式は運慶によって完成を遂げた」
(毛利久「仏師快慶論」吉川弘文館刊1961)
このような論述に代表される鎌倉彫刻史観が、一般的に定着していると云って良いと思います。
【近代日本美術史の評価観形成の4つポイント~西欧芸術評価の規範を採り入れ】
塩澤氏は、本書で、「近現代の慶派・運慶中心の鎌倉彫刻史観」と「鎌倉時代当時の正系三派体制造像の実態」との間に、このようなギャップが生じたのは、近現代における美術の価値観、評価基準が大きくかかわり、鎌倉彫刻史観を形成したからではないかと論じています。
近代の日本美術史評価における価値観のポイントとして、次の4点が挙げられています。
①変化の肯定
②独創性、オリジナリティーの優越
③作家の立場の重視
④リアリズム(写実主義)の重視
こうした価値観は、、西欧近代社会における芸術評価の規範そのものと云ってもよいものです。
明治以降の我が国の近代美術史は、この評価規範をそのまま採り入れることによって形成、確立されてきたことによるものと云って良いのでしょう。
【近代評価観にピッタリ合致する慶派と運慶の仏像】
確かに、この価値観に則れば、慶派と運慶が、圧倒的にクローズアップされ評価されるのは当然の理と云えるのでしょう。
「武家社会への転換のなかでの鎌倉新様式、写実的ダイナミック表現、天才運慶」
といったキーワードが、見事に当てはまります。
東大寺南大門・仁王像、願成就院・毘沙門天像、興福寺北円堂・無著世親像などは、まさにこの4つの価値観にピッタリとハマる典型像のように思えます。
一方で、院派、円派の仏像が、
「旧来勢力(朝廷貴族)依拠、保守的・守旧的、ワンパターン的画一表現、没個性」
というキーワードで象徴され、美術史上あまり評価されなかったことも、当然の納得という処です。

京都 長講堂・阿弥陀三尊像(院派・院尊作か)

京都 宝積寺・十一面観音像(院派・院範作か)
加えて、南都復興造像期の現存像が慶派の仏像ばかりに片寄っていることや、院派、円派の有力な現存仏像の遺品が、慶派と比べて大変少ないことも、このような鎌倉彫刻評価観を形成する要因となったとも見られるということです。
「仏像の美術的評価」というのは、今日現在の美的感覚「美のモノサシ」でなされるものであることは言うまでもありません。
また、その美の価値観、評価観というものは、時と共に移ろい変化していくものであることも間違いないものです。
近現代の感覚でいえば、慶派の仏像、運慶の仏像が、鎌倉彫刻を代表する優れた新様式の造形と感じるのは、私自身も同様ですし、当たり前の一般的美意識だと思います。
円派や院派の仏像を高く評価しろと言われても、肌感覚として納得いかないというのが、率直な実感です。
しかし、塩澤氏が問題提起する、鎌倉時代当時の正系三派の仏師集団の位置付けの実態がどうであったのかということを正しく理解しておくことも、これまた大変重要なことであると思います。
以前に、近現代の仏像評価観について「近代仏像評価の変遷をたどって」という連載を、日々是古仏愛好HPに掲載させていただいたことがあります。
この話に関連して、ご参考になればと思います。
【「偉大な天才」と論じられた、明治以来、近代「運慶評価の言説」】
もう一つ、この話に加えて注目しておかなければならないことは、近現代美術史における「運慶評価の言説」についてです。
これまで触れたように、明治期に日本美術史が論じられるようになって以来、
「運慶は、鎌倉彫刻の完成者で偉大なる天才」
という圧倒的評価は揺るがぬものとなり、今日に至っています。
明治23年の国華誌で「「運慶一タヒ出テ天下復タ彫刻ナシ」と称された通りです。
【運慶作品の発見特定のほとんどは昭和戦後期以降
~明治期、運慶作確定像は、東大寺南大門・仁王像だけ】
ところが、不可思議で驚くべきことは、現在、運慶作品と特定されている仏像で、明治時代に運慶作が明らかになっていたのは、唯一、東大寺南大門・仁王像だけであったのです。
現在、一般に運慶作品に間違いないと特定されている作品は、13件35躯と云われていますが、そのほとんどは、昭和戦後に運慶作と発見特定されたものなのです。
明治期に運慶作かと思われていた仏像のほとんどは、運慶作ではなかったことが判明しているのです。
ご参考までに、 「運慶作とされる作品の「発見・判明」にかかわるトピックス年表」 を作ってみました。
ご覧の通りです。
【近世までの名声イメージ先行ともいえる、近代の運慶圧倒的評価の言説】
リストでもよく判るように、明治~昭和戦前まで、運慶作品と特定されていたのはわずか3件で、「運慶は偉大」と評価されながらも、運慶作品とはどのような仏像なのかが、明確にはなっていなかったという訳です。
明治期に始まる「鎌倉彫刻の完成者、偉大なる運慶」という言説は、近世までの圧倒的名声の既成概念に引きずられた、イメージ先行であったといわざるを得ないことになってしまいます。
確かに、「定朝様」、「快慶の安阿弥様」というのは、作風パターンが判り易いのですが、「運慶様」「運慶風」というのは、いかなる作風を指すのかと問われると、なかなか難しい処です。
昭和30年代の浄楽寺、願成就院像発見以来、近年、運慶作品が続々と発見特定されるに至って、ようやく運慶の造形、作風の研究が進んできたと云っても過言ではないのではないでしょうか。
【今日も、新たな運慶伝説を創り出し、喧伝しているかもしれない、近年の風潮】
運慶は、明治以来卓越した評価を得てきたことに加えて、近年は、新発見も相次ぎ、運慶フィーバーといった観があるようです。
こうした風潮に対して、根立研介氏は自著「運慶」の末尾を、このように記して締めくくっています。
「運慶研究は明治以降すでに百年以上続けられ、現在情報はかなり集積されてきているが、いまだわれわれは運慶の足跡を追うのに手いっぱいといってよいかもしれない。
その一方で、われわれは私を含め、運慶に関して数多くの言説をなしてきた。
そこには、言説者の思いに似たものも散りばめられ、運慶を讃える。
われわれは運慶の姿をなお暖味にしか把握できていないのにかかわらず、運慶像を巨大に膨れ上がらせているようにもみえる。
現在も、過去と同じように、新たな伝説を創出し運慶の名声を喧伝している時代なのかもしれない。」
近現代の運慶の評価観について、冷静に見つめた傾聴に値する指摘だと強く感じた次第です。
【本著「大仏師運慶」の、問題提起ポイントをまとめると】
塩澤氏の著書「大仏師運慶」の話に戻りたいと思います。
その終章に、本書の論旨のまとめが記されています。
終章のインデックスをご紹介すると、次の通りです。
・近代以降の言説と運慶
・造像構造の二元化
・鎌倉彫刻の表現特徴は「写実」ではなかった
・「中央」と「東国」という偏見
・天下無双ではなかった運慶
・運慶天才論の危うさ
・大仏師運慶の真実
・新しい運慶像と鎌倉彫刻像の先へ
誠に刺激的なインデックスです。
そこに問題提起されているテーマの片鱗は、ここまでご紹介した話で、少しだけ伺えたのではないかと思いますが、ご関心、ご興味が沸かれた方は、是非、本書を一読されることをお薦めします。
本書「大仏師運慶」を先に読まれてから、より詳しく論じられた前著「仏師たちの南都復興」の順で読まれると、塩澤氏の所論を判り易く知ることができるのではないかと思います。
【一読をお薦めしたい、新視点のもう一冊~根立研介氏著「運慶」】
新刊案内のついでに、もう1冊、ご紹介です。
この問題提起にご関心を持たれた方に、一読をお薦めしたいのが、根立研介氏の著作 「運慶~天下復タ彫刻ナシ」 (2009年 ミネルヴァ書房刊) です。
運慶を採り上げた本が数多ある中で、塩澤氏の問題提起に近い視点で、運慶の作品、事績を論じた著作です。
【冒頭「はしがき」ふれられた、運慶評価への鋭い視点の指摘】
本の冒頭の「はしがき」には、このように述べられています。
「こうした(注記:運慶の)伝承や名声は近代にも持ち越され、平安時代後期の和様彫刻の伝統から脱却して鎌倉時代の新様式を打ち立てた仏師として彼を位置づける今日の一般的な評価も、その萌芽は日本で美術史学が成立してくる明治20年代頃から認められる。
・・・・・・
確かに、東大寺南大門の仁王像と、武を持って政権を誕生させた武士たちの気風を結びつけることは、ある意味わかりやすい言説である。
ただ、運慶が生きていた時代の人々も、現在のわれわれと同じように彼の彫刻を見ていたのであろうか。
あるいは、運慶の造形は武士の晴好のみを反映したようなものだったのであろうか。
こうしたことを突き詰めていくと、あまりに単純化した文化史記述の危うさの問題に至るが、本書に直接関わる問題として自覚しなければならないのは、平安時代から鎌倉時代へと展開する彫刻史を、従来はあまりに運慶を中心とする慶派の彫刻史として語っていた点であり、その語り口に問題があるように思われる。
そして、こうした彫刻史の語り口は、運慶を正確に評価することをむしろ妨げてきたのではなかろうか。
・・・・・・・
最近の運慶にかかわるマスコミ報道や、インターネットのブログの書き込みなどを見ると、現代は運慶神話を再び創出する時代かと疑いたくなるところもある。
・・・・・・・
今この評伝を書くに当り意識しなければならないのは、先に触れたようないささか騒がしい運慶をめぐる環境に少し距離を置いて、冷静な議論を行うよう努めることであろう。」
引用が少し長くなりましたが、運慶と鎌倉彫刻を考える上での、誠に鋭い視点の指摘だと思います。
是非、併せてご一読ください。
私のような、隠れ仏好き、仏像の来歴発掘好きには、応えられない興味津々の本です。
それよりも何よりも、昨今の厳しい出版事情の中で、「知られざる鄙なる仏像の来歴をたどる」といった、こんな地味な本が出版されたということを、まずは喜ぶべきと思いました。
「国宝仏から秘仏まで 廃寺のみ仏たちは、今 ~奈良県東部編」
小倉つき子著 2020年6月 京阪奈情報教育出版社刊 【246P】 950円
【奈良の廃寺となった寺々の、旧仏の行方をたどる本】
本の題名から、充分察しが付くと思いますが、奈良東部の廃寺となってしまった寺々の旧仏の現在をたどる本です。
NETでの出版紹介には、
「廃仏毀釈のあおりを受けた仏像、寺院の衰退や伽藍の消失、寺院同士の権力争いの犠牲になったものなど、さまざまな理由で流出を余儀なくされた仏像と廃寺を紹介。」
「奈良まほろばソムリエの会会員、小倉つき子氏著。
様々な理由で多くのドラマを背負った仏像の、軌跡の物語の数々。」
とありました。
私の仏像愛好の興味関心があるフィールドの、ツボにはまったような本です。
早速、AMAZONで注文しました。
到着した本のページをめくると、期待通りというか、期待以上の興味津々の内容です。
一気に読み通してしまいました。
【廃寺旧仏が伝わる寺々を、自分の脚で丹念に訪ねた記録書】
目次の構成は、次のようなものになっています。
ご覧のような地域の、廃寺や旧仏が伝わるお寺や地域の集会所などを訪ねて、ご住職や関係者から直に来歴やエピソードなどをヒヤリングした内容などが、まとめられています。
採り上げられている仏像の多くは、知られざるかくれ仏ともいうべきですが、割合知られているものでは、
大神神社の神宮寺・大御輪寺の旧仏(聖林寺・十一面観音、法隆寺・地蔵菩薩など)、山田寺旧仏(興福寺仏頭、東金堂・日光月光菩薩像)、山添村西方寺廃寺・快慶作阿弥陀如来像、岩淵寺旧仏(新薬師寺・十二神将像)、勝願寺廃寺旧仏(新薬師寺・景清地蔵・おたま地蔵像)
などが登場します。
旧廃寺から現在のお寺に移されていった軌跡などが、丹念に語られています。
【「ドラマを背負った廃寺の仏さま」の現状をまとめようと思い立つ】
著書、小倉つき子氏は、NPO法人・奈良まほろばソムリエの会会員で、「ドラマチック奈良」という著作もある方ですが、仏教美術や地域史の専門家という訳ではないようです。
その小倉氏が、こんなちょっと風変わりでマニアックな本をまとめようとした、きっかけや思いについて、本書の「まえがき・あとがき」で、次のように語られています。
「「NPO法人・奈良まほろばソムリエの会」の保存継承グループが2017年から行っていた、奈良県指定の仏像や建造物などの現状調査に参加していました。
特に仏像に関心を寄せながらまわっていたのですが、山間部や僻地で無住の寺や公民館の収蔵庫にポツンと安置されている指定仏にしばしば出合い、感慨深いものがありました。
・・・・・・
仏教伝来の地である奈良に住み、奈良の歴史やよもやま話を楽しみながら県下を巡ってきた者として、多くのドラマを背負った「廃寺の仏像」だけでも取り上げ、現状をまとめてみようと思い立ちました。
・・・・・・・
奈良県下の廃寺となった寺院の旧仏をつぶさに追い、読み物としてはもちろん、ひとまとめにした記録書になればと、県東部の桜井市、宇陀市、宇陀郡、山添村、奈良市東部から取材を始めました」
「無住寺となっている寺院の檀家さんたちからは
「廃寺の仏像をまとめていただけるのはありがたい。
今、私たちが知っていることを記録しておかないと次世代には伝わっていかないでしょう。」
というご意見をたくさんいただきました。
本書が記録書としてもお役に立つことができれば幸いです。」
【圧巻の「粟原廃寺旧仏」の行方追跡の記録】
私が、本書のなかで最も興味深く読ませてもらい、圧巻であったのは、冒頭の「粟原(おうばら)廃寺の旧仏と、今に伝わる仏像の行方」を追った章でした。
桜井市にある粟原寺跡は、今では塔・金堂跡の礎石などだけが残されている廃寺です。

粟原寺跡~礎石だけが残され石碑が立てられている
ご存じかと思いますが、江戸中期に、談山妙楽寺(現在の談山神社)の宝庫から粟原寺三重塔の露盤の伏鉢(国宝)が発見され、その刻銘から、仲臣朝臣大嶋が草壁皇子を忍んで発願され、持統年間に起工した由緒ある寺院であることが知られています。

談山神社・粟原寺三重塔露盤伏鉢(奈良時代・国宝)奈良国立博物館寄託
この粟原寺の旧仏が転々としていった行方が、丹念に追跡されています。
その詳しい内容については、是非、本書を読んでみていただきたいのですが、どんなイメージなのかのさわりを知っていただくために、
「粟原廃寺の旧仏と伝わる諸像」の章の目次
をご覧になっていただきたいと思います。
【粟原廃寺旧仏の数と拡がりの大きさにビックリ】
いかがでしょうか?
粟原寺旧仏の数が随分多くて、大きな拡がりがあることに驚かれたのではないでしょうか。
目次の項建てに名前が出てくるお寺の名前、仏像の名前をご覧いただくと、廃寺となった粟原寺伝来という仏像がどのようなものなのかご想像がつくことと思います。
ちょっと詳しい方は、
延暦寺国宝殿・薬師如来像、石位寺・三尊石仏像、長野保科清水寺の諸仏、外山区(とびく)報恩寺・阿弥陀如来像
などの名前を見て、
これらの像も粟原寺伝来と伝えられる仏像なのかと、認識を新たにされたのではないかと思います。
延暦寺国宝殿の薬師如来像は、昨年(2019)、延暦寺で開催された「比叡山の如来像」展ポスターになった平安古仏の優作です。

延暦寺国宝殿・薬師如来像(平安・重文)
「比叡山の如来像」展ポスター
石位寺・三尊石仏像は、白鳳時代の美麗な石仏像として有名です。
石位寺・石位寺・伝薬師三尊石仏像(白鳳~奈良・重文)
長野保科清水寺の諸仏は、長野県有数の平安古仏として知られています。


長野県保科清水寺・千手観音像(平安・重文)、地蔵菩薩像(平安・重文)
外山区(とびく)報恩寺・阿弥陀如来像は、数年前に奈良博・なら仏像館にしばらく展示されていた定朝様の見事な丈六坐像です。

外山区報恩寺・阿弥陀如来像(平安後期・県指定文化財)
小倉氏は、これら粟原寺伝来とされる諸仏像が現在安置されているお堂などを一つ一つ訪れて、その伝来ルート、行き先をたどっています。
管理されている方々からの聴き取りだけでなく、市町村史にあたったり、研究者から調査情報を得たりして、丹念にトレースして、粟原寺伝来仏像の全容とも云える姿が解明されています。
なかでも、延暦寺国宝殿の薬師如来像(平安時代10C・重文)が、従来、云われていた佐賀県大興善寺伝来仏ではなくて、粟原寺旧仏で桜井市興善寺にあった仏像であることが、新たに解明されていったいきさつの話は、ちょっと感動的なものがありました。
興善寺に残されていた3枚の古写真が、解明のきっかけになったということです。
私も、2015年に興善寺を訪ねていて、その時撮った堂内写真には、問題の古写真が写り込んでいるのですが、全く関心を払うことはありませんでした。

2015年に訪れた時の桜井興善寺堂内写真
薬師如来像・毘沙門天像の前に3枚の古写真が置かれている

興善寺堂内の古写真
真ん中が現延暦寺国宝殿・薬師如来像
左右の天部像写真は、粟原寺旧仏・現サンブランシスコアジア美術館蔵像
【フィールドワークの大成果~粟原寺旧仏の伝来トレース図】
こうしたご苦労の結果、小倉氏が作成した、 「粟原寺伝来仏像のトレース図」 は、次の通りです。
粟原寺の旧仏が転々としながら、それぞれの居場所に祀られるようになった有様が、一目瞭然で判る労作です。
【初耳のビックリ話~大御輪寺旧仏「前立 十一面観音」は、今、神戸のお寺に】
こんな諸々の興味深い話をご紹介していると、もうキリがありません。
もう一つだけ、本書で初めて知ったビックリの話にふれておきたいと思います。
それは、大御輪寺から聖林寺に移された「前立 十一面観音」の行方です。
ご存じの通り、明治維新時の神仏分離で、大神神社の神宮寺・大御輪寺から聖林寺に、
「秘仏・十一面観音、前立・十一面観音、脇侍・地蔵菩薩」
の3体の仏像が移されたことは、聖林寺に慶応4年(1868)の「預かり覚え」の書付が残されていることで、よく知られています。
「秘仏・十一面観音」は、国宝の聖林寺・十一面観音像
「脇侍・地蔵菩薩」は、その後、法隆寺に移った、国宝の地蔵菩薩像
です。
残りのもう1体「前立・十一面観音」が、どうなったのかは、私は全く知りませんでした。
前立観音の行方は、これまでよく判らないとされていて、桜井市 平等寺の秘仏十一面観音像がこれにあたるのではないかという見方もあったのではないかと思います。
本書では、「前立・十一面観音」は、神戸市灘区にある金剛福寺の本尊・十一面観音像であることが明らかにされていました。

神戸市灘区にある金剛福寺
金剛福寺のご住職によると、
「第二次大戦の神戸空襲で建物も仏像もすべて焼失。
終戦後の混乱期に、先代住職同志が縁者であることから、聖林寺にしまわれていたお前立像を頂戴し、ご本尊としてお迎えしました。」
ということなのだそうです。
この十一面観音像は、江戸時代の制作とみられる、像高:約80㎝の総金箔のお像です。

金剛福寺・本尊十一面観音像
大御輪寺「前立十一面観音」で、聖林寺から金剛福寺に移された
(「廃寺のみ仏たちは、今」掲載写真)
この観音像が大御輪寺の伝来像に間違いないことが、阪神大震災で本尊を搬出した際、厨子裏に記された墨書が発見されたことで、確実なものとなりました。
厨子裏の墨書には、
「弘化4年(1847)に、海龍王寺の住職が厨子を新調し、大御輪寺に寄進した」
旨が、はっきりと記されていたのでした。
この大御輪寺の「前立・十一面観音」が、聖林寺から神戸の金剛福寺に移されていたという話は、全くの初耳、初めて知ったビックリの新事実でした。
このことが明らかになったのも、著者小倉氏が、自ら諸寺を訪ね、直に関係する方の話を聴くという努力の賜物なのではないかと敬服した次第です。
奈良の廃寺の旧仏の行方と、今の地に祀られるに至ったいきさつを、自らの脚で丹念にたどった記録という、得難い本だと思います。
奈良まほろばソムリエの会員ならではという、フィールドワークの賜物とも云って良い本でしょう。
皆さん、是非ご一読をお勧めします。
本書は「奈良県東部編」ということですので、続編の発刊が待たれるところです。
そのためにも、本書の売れ行きが伸びることを願うばかりです。
ここからは、「稿本日本帝國美術略史」刊行に至るいきさつなどについて、振り返ってみたいと思います。
先にふれたように、「稿本日本帝國美術略史」は、近代日本において、初めて編纂された「日本美術史書」です。
日本初の「国家の手になる日本美術史」というもので、その美術史観、概念が、その後長らく日本美術史の規範となっていくものです。
驚くことに、なんとこの本は、日本で出版されたのではなくて、フランス・パリにおいて仏文版で刊行されました。
どのような事情、いきさつでそうなったのでしょうか。
【はじめて体系的に日本美術史を講じたのは、岡倉天心~東京美術学校講義(明治23年)】
 |
岡倉天心 |
近代日本において、初めて体系的に日本美術史が論じられたのは、岡倉天心による東京美術学校における「日本美術史講義」であったとされます。
明治23年(1890)のことでした。
この日本美術史の講義は、岡倉が明治10年代からフェノロサらと共に、奈良・京都を中心とした古社寺、古美術調査を推し進めてきた成果を反映し、日本美術史を初めて組み立て、講じたと云われています。
一方、明治21年(1888)には、「臨時全国宝物取調局」が設置され、政府の手で全国の文化財、美術品調査が進められることになります。
すなわち、「文化財保護のための宝物調査」と「宝物の価値判定、体系化を担う美術史学」という相互関係と云え、政府の古美術保護と日本美術史、美術史学の成立は、表裏一体の関係にあったという訳です。
岡倉天心の「日本美術史」は、あくまでも講義で出版物になったものではありませんでした。
現在、「岡倉天心著・日本美術史」と題して刊行されている本は、当時、岡倉の講義を受けた学生が筆記した講義録を書籍化したものです。

岡倉天心講義ノート「日本美術史」~原安民筆記
【パリ万博(明治30年)に、日本美術史書編纂出品を決定~西洋列国への日本美術紹介を目的】
このころから、日本美術史を編纂し刊行しようと動きが始まります。
明治24年(1891)には、岡倉天心を中心に帝国博物館による日本美術史編纂が進められることになりますが、予算不足などにより遅々として進まず、挫折状態のようになってしまいます。
そうした中で、明治33年(1900)に開催されるパリ万国博覧会に、「日本美術史書」を編纂、出版し、これを出品することが決定されるのです。
明治30年(1897)のことで、岡倉天心を編纂主務として進められます。
途中、天心がスキャンダルにより帝室博物館美術部長を罷免され、東京美術学校校長を追われたことにより、その後は、福地復一が執筆編纂の中心となりました。
我が国初の日本美術史書は、なんと
「西洋列国に日本美術を紹介すること」
を目的とすることによって、その刊行が実現することになったものでした。
そのため、日本語ではなくフランス語で出版されることになったのです。
【東洋の一等国への認知と殖産興業をめざし、数多くの美術工芸品を博覧会出展】
パリ万国博覧会(第5回)は、19世紀の締めくくりの年、1900年に史上最大規模の博覧会として開催されました。

1900年パリ万国博覧会~パノラマビュー
日本は、この万博に、西洋先進国に東洋の一等国として認知されるべく、国家の威信をかけて参加出展します。
日本の美術工芸品の輸出を中心とする殖産興業を目指すものでもありました。
法隆寺金堂を模した日本館が建設され、800点ほどの絵画、彫刻、工芸品など古美術品が展示されました。
横山大観、黒田清輝、高村光雲をはじめとした、当代の画家、彫刻家、工芸家の作品も。多数出展されています。

パリ万国博覧会・日本館の図版
【国威発揚という使命を背負った 「Histoire de L'Art du Japan」 の出版】
この展示に合わせて、日本美術の変遷を解説すべく編纂、刊行されることになったのが、仏文版の日本美術史書 「Histoire de L'Art du Japan」 であったわけです。
明治33年(1900)にパリで刊行された、「Histoire de L'Art du Japan」
すなわち我が国初の日本美術史書は、日本という国が、
「西洋に伍しうる“一等国”としての歴史・文化を有すること。
「文明国として、西洋美術に比肩しうる日本美術を有すること。」
を、西洋列国に対して示すために編纂されたといっても過言ではないものでした。
「夫レ美術ハ國ノ精華ナリ」(明治22年「国華」創刊号の巻頭言)
岡倉天心は、こう述べていますが、近代日本における「日本美術史・美術史学」は、まさに、こうした強い国家的使命を負って成立していったのでした。
【本書の内容の、3つの特徴点】
「Histoire de L'Art du Japan」、即ち「稿本日本帝国美術略史」の日本美術史観、構成などには、どんな特徴があるのでしょうか。
次の3点ぐらいが、顕著な特徴点といえるでしょう。
①日本が東洋美術の代表者であると位置づけていること
②西洋美術史観に倣うとともに、飛鳥~奈良の古代美術偏重主義となっていること
③天皇家や寺社など支配層の美術作品による構成であること
この特徴点について、もう少しふれてみたいと思います。
【日本は、東洋美術の代表者と位置づけ】
本書では、まず
「日本の美術は東洋美術の粋が集まってできたもの、東洋美術の宝庫である」
と位置づけています。
 |
九鬼隆一 |
九鬼隆一による序文では、
「固より日本美術は日本特有の趣致を有するは言うを竢(ま)たざれども、其骨子たる嘗(かっ)て東洋美術の粋を集めて構成したるものに外ならず。・・・・・・
更に東洋の宝庫なりと称するも、過言に非ざるなり。」
と述べられています。
中国、インドの没落により、今や「東洋美術を代表するのは、日本なのだ」との自負にあふれ、西洋に比肩する東洋の一等国たらんとする、力んだ気負いが強く伺えます。
【飛鳥~奈良時代の古代美術偏重主義~西洋美術の伝統への比肩を強く意識】
次には、西洋美術の伝統との対比により、そのジャンル枠に倣って作品評価がされていることです。
西洋美術の古典的規範に比肩するものとして、奈良時代の美術が位置づけられています。
岡倉天心は、
「彼の希臘(ギリシャ)の彫刻は西洋人の誇称する所なれども、之れに対するに我が奈良朝美術を以てせば、一歩も譲ることなきを信ず」
「我邦彫刻上の発達は、奈良朝に至ってその極に達せり」
「之れを細かに味ふに至りては、我が奈良美術は決して彼の希臘美術に劣るものにあらざるべし」
(明治23~4年、東京美術学校での「日本美術史」講義)
と語っています。
本書での美術作品評価のウエイト付けも、そのとおりで、飛鳥~奈良時代の古代美術偏重主義となっています。
仏像についていえば、ギリシャローマの古典的写実彫刻に通じる、天平彫刻至上主義的な採り上げになっています。
本書の古代偏重というのは、推古、天智、聖武時代というわずか約150年に、総ページ数の約3分の1が割かれていることからも、明らかです。
こうした「稿本日本帝國美術略史」における、作品評価の姿勢、特徴については、日々是古仏愛好HPの 「近代仏像評価の変遷をたどって」 において、詳しくふれたことがありますので、ご覧いただければと思います。
【天皇家、支配層中心の美術史観~浮世絵人気のジャポニズムとは相容れず】
このような国家観、美術史観で編まれた、官製の日本美術史が採り上げる美術作品が、天皇家や有力寺社など支配層の美術作品による構成中心となることは、当然の理と云って良いものでした。
ところが、当時の西欧社会はジャポニズム全盛の時代でした。
「日本美術」に対する人気の盛り上がりは、大変なものでしたが、それは歌麿、北斎をはじめとする浮世絵が代表選手であり、陶磁器や漆器などの工芸品がイメージされていたのでした。

当時のジャポニズム隆盛を物語る絵画
クロード・モネ「ラ・ジャポネーズ(着物をまとうカミーユ・モネ)」1876年
西洋の日本趣味は、言ってみれば、江戸の民衆芸術的な作品がもてはやされていたわけです。
当時のジャポニズムの風潮は、「稿本」に説かれた、天皇制を基軸とする支配層の芸術を以て構成する日本美術史観とは、相容れるものではありませんでした。
「稿本日本帝国美術略史」では、北斎などの浮世絵について、全く触れていないわけではありませんが、それは微々たるもの(浮世絵全体で僅か9ページ)で、全く影の薄いものとして扱われています。
【官製日本美術史書成立事情と欧米ジャポニズムとの関係~核心を突いたコメント】
以上のような
「官製日本美術史書の成立事情と、欧米のジャポニズムとの関係」
について、的確に解説したコメントがあります。
近代日本の美術史学成立史などの研究者、佐藤道信氏は、当時の状況をこのように評しています。
ちょっと長くなりますが、ご紹介します。
「私たちが考えている『日本美術史』が、“意図的に創られた一つのイメージ体系”であることを、あまりにあっけらかんと示しているもう一つの日本美術イメージがすでにある。
それ (注:西洋における日本美術のイメージのこと) は、19世紀のジャポニズムの中で形成されたものが、基本的にはそのまま現在に続いている。
・・・・・・
先に美術行政の殖産興業のところでも触れたように、欧米の嗜好は明治政府も十分に知っていた。
だからその需要に対して、殖産興業による工芸品の振興と輸出を図ったのだ。
つまりジャポニズムに対しては、経済政策で対応したのである。
担当省は農商務省である。
一方、日本では古美術保護によって古美術の海外流出を防ぎつつ、古美術品を中心に日本美術史が編纂された。
初の官制日本美術史『稿本日本帝國美術略史』を編纂したのは、宮内省である。
つまり欧米の日本美術観は農商務省の経済政策が助長し、日本の美術史は皇国史観にもとづいて宮内省が編纂するという、完全な政策上の使い分けが行われたのだった。
欧米・日本それぞれの日本美術観の違いは、助長されこそすれ、ギャップを埋める努力はなされなかったのである。
ギャップは起こるべくして起こったといえる。
しかもこの『稿本日本帝國美術略史』は、そもそも国内的な必要というより、1900年のパリ万博出品のために構成されたものだった。
一等国たるべき国家イメージ戦略として、初めから外向きに描かれた“自画像”だったのである。
それは、20世紀に向けた東洋の盟主としての皇国日本の宣伝でもあったから、内容も天皇ゆかりの美術を中心に、歴代の支配階級の美術で構成されている。
・・・・・・・
つまり官制の日本美術史は、西欧向けに歴代支配階級の美術で構成されたわけだ。
ところが当の西欧で日本美術イメージの中核をなした浮世絵と工芸品は、美術の階級の問題でいえば、むしろ庶民階級の美術だった。
日本における日本美術史が、支配階級の美術で構成されたのに対して、西欧の日本美術観は、庶民階級の美術で構成されたのである。」
(佐藤道信著「〈日本美術〉誕生」講談社選書1996刊)
なるほどそのとおりと、膝を打ちたくなってしまいました。
私が、ダラダラと書き綴って言いたかったことが、コンパクトにサマライズされていて、見事に核心を突いたコメントです。
【和魂洋才の産物の「日本美術史」~西洋美術史評価観による国威発揚】
こうして振り返ってみると、「Histoire de L'Art du Japan」、即ち「稿本日本帝国美術略史」は、伝統的西洋美術史の評価観をベースに、東洋の一等国たるべき国家イデオロギーのもとに造られた日本美術史、まさに和魂洋才の産物と云えるのでしょう。
もしも、この本が、当時の西欧社会のジャポニズム的な日本美術観で、浮世絵などの民衆芸術の評価にウエイトをおいて編纂されていたら、我国における近代日本美術史学はどのような展開をしていたのでしょうか?
ちょっと、興味深い “IF” のように思います。
【パリでの刊行に尽力した林忠正~ジャポニズムを支えた大美術商】
さて、話をパリでの「Histoire de L'Art du Japan」の刊行に至るいきさつに戻したい思います。
仏文版のパリでの印刷、刊行については、パリ万国博覧会の日本事務局・事務官長を務めた林忠正が、全面的に担いました。
ご存じの通り、林忠正は「ジャポニズムを支えたパリの美術商」と云われる人物で、日本の浮世絵をはじめ陶磁器、工芸品などを大量に商い、ヨーロッパのジャポニズム隆盛の大きな原動力となりました。

林忠正
林は、仏文版の刊行実現に、大変な尽力をしたようです。
直訳調仏文原稿のリライトや、刊行予算不足を私財で賄うなどの苦労を経て、パリ万博閉幕の一か月前の1900年10月に、やっと駆け込みで出版が実現しました。
仏文版には、九鬼隆一の「序」の前に、林忠正の「読者への挨拶」が掲載され、そうした経緯も記されています。

「Histoire de L'Art du Japan」冒頭の林忠正「読者への挨拶」~末尾部分
なお、日本語版「稿本日本帝国美術略史」からは、林忠正の挨拶文は全面削除されています。
豪華本「Histoire de L'Art du Japan」は、1000部が印刷刊行されました。
6部が皇族、200余部が朝野の名士、279部が各国公使経由欧米諸国、清国の君主へ寄贈され、そのほか学者、美術家、博物館長などに配布されたということです。


(上段)「Histoire de L'Art du Japan」表紙
(下段)本文掲載写真(法隆寺夢殿・救世観音像)
【西洋列国の本書への反響はほとんどなく、期待外れのものに】
ところで、本書に対する、現地での反応、反響は、どうだったのでしょうか?
「西洋列国に東洋を代表する優れた日本美術を紹介し、国威をの発揚、認知を目指す。」
ことが、目的であったはずなのですが、現実には、ほとんど反響はなかったようです。
西欧社会では、所謂ジャポニズム、浮世絵をはじめとした江戸民衆美術中心の日本美術観は、その後も変わることはありませんでした。
当時の日本政府の目指した、
「東洋美術の代表者たる、優れた日本美術」
の政治外交的アピールは不発、空回りに終わったといわざるを得なかったようです。
【国内出版の「稿本日本帝国美術略史」は、日本美術史観の揺るがぬ規範に】
こうして刊行された「Histoire de L'Art du Japan」の、日本語版として国内で刊行されたのが「稿本日本帝国美術略史」であった訳です。
仏文版刊行の翌年、明治34年(1901)の出版です。

「稿本日本帝国美術略史」~初版・再版
日本語版(初版)の内容や、その後の再版、縮刷版などの刊行状況については、【その1】で、詳しくふれたとおりです。
西欧世界では不発であった「官製の日本美術史」でしたが、我が国における「稿本日本帝国美術略史」は、近代における日本美術史観、美術史学の規範として揺るがぬ権威を保ち続けることとなります。
現在語られる日本美術史においても、この「稿本日本帝国美術略史」の美術史観の規範を基本的には継承してきていると云って良いのではないでしょうか。
【官製日本美術史書の第2弾は、明治43年刊行「国宝帖」】
明治34年(1901)の「稿本日本帝国美術略史」以降の、「官製日本美術史書」の刊行をたどってみたいと思います。
明治43年(1910)には、「特別保護建造物及国宝帖」(通称:「国宝帖」)という出版物が刊行されています。
本書は、同年にロンドンで開催された「日英博覧会」に出品するために、内務省が編纂したものです。

「特別保護建造物及国宝帖」
3分冊の大著、大冊で、我国官製日本美術史書の第2弾といえるものです。
当時、国の文化財指定は、「建築物は特別保護建造物、美術工芸品は国宝」と呼称されていましたので、このような書名が付けられたわけです。
本書は明治期における日本美術史研究の集大成ともいえる出版物で、「稿本日本帝国美術略史」の記述に比べてはるかに充実してており、美術史観も随分進化しています。
矢代幸雄氏は、この国宝帖について、次のように述べています。
「日本美術史が近代の学問のような形でできた最初は、おそらく当時の帝室博物館、現在の東京国立博物館が明治32年に『稿本日本帝国美術略史』を編纂したころに始まると思われる。
・・・・・・
その編集方針も選択もあまりにも古い。
日本美術史がほんとうに確立したのはその後10年、すなわち1910年の日英博覧会のために当時内務省が『国宝帖』という3帙の大出版物を出版したときであった。」
(「日本美術の再検討」1988年新潮社刊所収)
【大正期まで、諸版が再版されていった「稿本日本帝国美術略史」】
ところが、不思議だなと思うのは、この国宝帖は、再版や縮刷廉価版などが、その後発刊されることはありませんでした。
一方、「稿本日本帝国美術略史」の方は、国宝帖刊行後も大正5年(1916)に至るまで、「縮刷版」「第二縮刷版」が出版されています。
各種諸版の刊行状況については〈その1〉で詳しくふれたとおりです。
古臭い内容の本の方が、正統的なものとして、世に広められて行ったということのようです。
これが、いわゆる「権威」というものなのでしょうか?
【昭和13年、「稿本」の新編纂後継版「日本美術略史」が刊行】
この「正統的官製日本美術史」ともいうべき「稿本日本帝国美術略史」ですが、昭和に入ってから、その後継となる新編纂版が刊行されています。
昭和13年(1938)の出版で、「稿本」初版刊行(明治34年・1900)から40年弱を経てのことでした。
「日本美術略史」という書名で、帝室博物館編、便利堂刊で出版されています。
この「日本美術略史」の序文には、本書が「稿本日本帝国美術略史」の新編纂版であることが、次のように、はっきりと述べられています。
「曩(さき)に稿本日本美術略史を刊行し、以って世に質し斯界に貢献するところありしが、・・・・・上梓以来星霜を閲すること既に四十年、
・・・・・・・
茲に新たに日本美術略史を編纂し、以って剞劂(きけつ)に付しこれを世に問ふ。
洵(まこと)に欣快に堪へざるところなり。」
【「稿本」の基本的美術史観が継承された、新編纂「日本美術略史」】
本文252ページ、図版85ページの構成になっています。
本書の基本的な美術史観、作品の価値観については、明治の「稿本日本帝国美術略史」のそれを継承していると云って良いと思います。
「西洋美術史観をベースとした古代重視、国威発揚、支配層の美術史」
といえる美術史観が継承されています。
流石に、「稿本」で本文の3分の1を費やした飛鳥~奈良時代のボリュームは、6分の1ほどに圧縮されていますが、浮世絵関連についてはわずか4ページを割くだけと、引き続き、影が薄く軽視していることには変わり有りません。
【戦後までも版を重ねた「日本美術略史」】
この、新官製日本美術史書というべき「日本美術略史」も、版を重ねています。
なんと、終戦後になってからも、戦前と全く同じ文章で再版刊行されているのです。
昭和13年(1938)初版からの再版諸版は、次のように刊行されています。
私の手元には、縮刷版と改訂新版・再版(昭和27年刊)がありますので、書影だけご覧に入れておきます。
この「日本美術略史」も、当時は相当多くの部数が刊行されたと思われます。
広く一般に読まれていたのでではないでしょうか。
明治中期に成立した日本美術史観の規範、作品価値観は、戦後に至るまで継承され続けてきたと云えるのでしょう。
近代日本の美術史学史を振り返るとき、「稿本日本帝国美術略史」は日本美術史の規範となったメモリアルな書として必ず採り上げられますが、その新編纂版である「日本美術略史」の刊行については、採り上げられることがまずないのではないかと思います。
「稿本日本帝国美術略史」の亜流的といえるような内容であるからなのでしょう。
この「日本美術略史」の刊行以降は、国立博物館編纂の日本美術史本は出版されていません。
戦後の新時代では、「官製の日本美術正史」といった国定教科書的な美術史本は、もう必要とされなくなったということなのだと思います。
手元にある「稿本日本帝國美術略史」「日本美術略史」の諸版
【おわりに】
「稿本日本帝国美術略史」の初版本、再版本を立て続けに手に入れたことをきっかけに、明治期における日本美術史の成立、初の官製美術史書「稿本日本帝国美術略史」刊行に至るいきさつなどを振り返ってみました。
今更ながらに思うことは、この「稿本日本帝国美術略史」という我が国初の日本美術史書が、その後の日本美術史観、作品評価観の、大いなる規範として位置づけされ続け、現代においても日本美術史観の基本的なベースになっているということです。
言い換えれば、「日本美術史」というものを、初めて組み立て講じた「岡倉天心の美術史観」が、良きにつけ悪しきにつけ、今日に至るまで影を落とし続けていると云えるのでしょう。
「稿本日本帝国美術略史」にまつわる話は、これでおしまいにさせていただきます。
あまりにマニアックな話で、あきれ返ってしまわれたのではないかと思いますが、何卒ご容赦ください。