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観仏日々帖

新刊案内~「廃寺のみ仏たちは、今」 小倉つき子著 【2020.06.26】


私のような、隠れ仏好き、仏像の来歴発掘好きには、応えられない興味津々の本です。

それよりも何よりも、昨今の厳しい出版事情の中で、「知られざる鄙なる仏像の来歴をたどる」といった、こんな地味な本が出版されたということを、まずは喜ぶべきと思いました。

国宝仏から秘仏まで 廃寺のみ仏たちは、今 ~奈良県東部編

小倉つき子著 2020年6月 京阪奈情報教育出版社刊 【246P】 950円


小倉つき子著「廃寺のみ仏たちは、今」



【奈良の廃寺となった寺々の、旧仏の行方をたどる本】


本の題名から、充分察しが付くと思いますが、奈良東部の廃寺となってしまった寺々の旧仏の現在をたどる本です。

NETでの出版紹介には、

「廃仏毀釈のあおりを受けた仏像、寺院の衰退や伽藍の消失、寺院同士の権力争いの犠牲になったものなど、さまざまな理由で流出を余儀なくされた仏像と廃寺を紹介。」

「奈良まほろばソムリエの会会員、小倉つき子氏著。
様々な理由で多くのドラマを背負った仏像の、軌跡の物語の数々。」

とありました。

私の仏像愛好の興味関心があるフィールドの、ツボにはまったような本です。
早速、AMAZONで注文しました。

到着した本のページをめくると、期待通りというか、期待以上の興味津々の内容です。
一気に読み通してしまいました。



【廃寺旧仏が伝わる寺々を、自分の脚で丹念に訪ねた記録書】


目次の構成は、次のようなものになっています。

「廃寺のみ仏たちは、今」目次

ご覧のような地域の、廃寺や旧仏が伝わるお寺や地域の集会所などを訪ねて、ご住職や関係者から直に来歴やエピソードなどをヒヤリングした内容などが、まとめられています。

採り上げられている仏像の多くは、知られざるかくれ仏ともいうべきですが、割合知られているものでは、

大神神社の神宮寺・大御輪寺の旧仏(聖林寺・十一面観音、法隆寺・地蔵菩薩など)、山田寺旧仏(興福寺仏頭、東金堂・日光月光菩薩像)、山添村西方寺廃寺・快慶作阿弥陀如来像、岩淵寺旧仏(新薬師寺・十二神将像)、勝願寺廃寺旧仏(新薬師寺・景清地蔵・おたま地蔵像)

などが登場します。

旧廃寺から現在のお寺に移されていった軌跡などが、丹念に語られています。



【「ドラマを背負った廃寺の仏さま」の現状をまとめようと思い立つ】


著書、小倉つき子氏は、NPO法人・奈良まほろばソムリエの会会員で、「ドラマチック奈良」という著作もある方ですが、仏教美術や地域史の専門家という訳ではないようです。

その小倉氏が、こんなちょっと風変わりでマニアックな本をまとめようとした、きっかけや思いについて、本書の「まえがき・あとがき」で、次のように語られています。

「「NPO法人・奈良まほろばソムリエの会」の保存継承グループが2017年から行っていた、奈良県指定の仏像や建造物などの現状調査に参加していました。
特に仏像に関心を寄せながらまわっていたのですが、山間部や僻地で無住の寺や公民館の収蔵庫にポツンと安置されている指定仏にしばしば出合い、感慨深いものがありました。
・・・・・・
仏教伝来の地である奈良に住み、奈良の歴史やよもやま話を楽しみながら県下を巡ってきた者として、多くのドラマを背負った「廃寺の仏像」だけでも取り上げ、現状をまとめてみようと思い立ちました。
・・・・・・・
奈良県下の廃寺となった寺院の旧仏をつぶさに追い、読み物としてはもちろん、ひとまとめにした記録書になればと、県東部の桜井市、宇陀市、宇陀郡、山添村、奈良市東部から取材を始めました」

「廃寺のみ仏たちは、今」

「無住寺となっている寺院の檀家さんたちからは
「廃寺の仏像をまとめていただけるのはありがたい。
今、私たちが知っていることを記録しておかないと次世代には伝わっていかないでしょう。」
というご意見をたくさんいただきました。
本書が記録書としてもお役に立つことができれば幸いです。」



【圧巻の「粟原廃寺旧仏」の行方追跡の記録】


私が、本書のなかで最も興味深く読ませてもらい、圧巻であったのは、冒頭の「粟原(おうばら)廃寺の旧仏と、今に伝わる仏像の行方」を追った章でした。

桜井市にある粟原寺跡は、今では塔・金堂跡の礎石などだけが残されている廃寺です。

粟原寺跡
粟原寺跡~礎石だけが残され石碑が立てられている

ご存じかと思いますが、江戸中期に、談山妙楽寺(現在の談山神社)の宝庫から粟原寺三重塔の露盤の伏鉢(国宝)が発見され、その刻銘から、仲臣朝臣大嶋が草壁皇子を忍んで発願され、持統年間に起工した由緒ある寺院であることが知られています。

談山神社・粟原寺三重塔露盤伏鉢(奈良時代・国宝)奈良国立博物館寄託
談山神社・粟原寺三重塔露盤伏鉢(奈良時代・国宝)奈良国立博物館寄託

この粟原寺の旧仏が転々としていった行方が、丹念に追跡されています。
その詳しい内容については、是非、本書を読んでみていただきたいのですが、どんなイメージなのかのさわりを知っていただくために、

「粟原廃寺の旧仏と伝わる諸像」の章の目次

をご覧になっていただきたいと思います。

「粟原廃寺の旧仏と伝わる諸像」目次①

「粟原廃寺の旧仏と伝わる諸像」目次②



【粟原廃寺旧仏の数と拡がりの大きさにビックリ】


いかがでしょうか?
粟原寺旧仏の数が随分多くて、大きな拡がりがあることに驚かれたのではないでしょうか。
目次の項建てに名前が出てくるお寺の名前、仏像の名前をご覧いただくと、廃寺となった粟原寺伝来という仏像がどのようなものなのかご想像がつくことと思います。

ちょっと詳しい方は、
延暦寺国宝殿・薬師如来像、石位寺・三尊石仏像、長野保科清水寺の諸仏、外山区(とびく)報恩寺・阿弥陀如来像
などの名前を見て、
これらの像も粟原寺伝来と伝えられる仏像なのかと、認識を新たにされたのではないかと思います。

延暦寺国宝殿の薬師如来像は、昨年(2019)、延暦寺で開催された「比叡山の如来像」展ポスターになった平安古仏の優作です。

「比叡山の如来像」展ポスター
延暦寺国宝殿・薬師如来像(平安・重文)
「比叡山の如来像」展ポスター


石位寺・三尊石仏像は、白鳳時代の美麗な石仏像として有名です。

石位寺・石位寺・伝薬師三尊石仏像(白鳳~奈良・重文)
石位寺・石位寺・伝薬師三尊石仏像(白鳳~奈良・重文)

長野保科清水寺の諸仏は、長野県有数の平安古仏として知られています。

長野県保科清水寺・千手観音像(平安・重文)長野県保科清水寺・地蔵菩薩像(平安・重文)
長野県保科清水寺・千手観音像(平安・重文)、地蔵菩薩像(平安・重文)

外山区(とびく)報恩寺・阿弥陀如来像は、数年前に奈良博・なら仏像館にしばらく展示されていた定朝様の見事な丈六坐像です。

外山区報恩寺・阿弥陀如来像(平安後期・県指定文化財)
外山区報恩寺・阿弥陀如来像(平安後期・県指定文化財)

小倉氏は、これら粟原寺伝来とされる諸仏像が現在安置されているお堂などを一つ一つ訪れて、その伝来ルート、行き先をたどっています。
管理されている方々からの聴き取りだけでなく、市町村史にあたったり、研究者から調査情報を得たりして、丹念にトレースして、粟原寺伝来仏像の全容とも云える姿が解明されています。

なかでも、延暦寺国宝殿の薬師如来像(平安時代10C・重文)が、従来、云われていた佐賀県大興善寺伝来仏ではなくて、粟原寺旧仏で桜井市興善寺にあった仏像であることが、新たに解明されていったいきさつの話は、ちょっと感動的なものがありました。

延暦寺国宝殿・薬師如来像(平安・重文)
粟原寺旧仏で桜井市興善寺にあり、個人蔵を経て延暦寺に入った
延暦寺国宝殿・薬師如来像(平安・重文)


興善寺に残されていた3枚の古写真が、解明のきっかけになったということです。
私も、2015年に興善寺を訪ねていて、その時撮った堂内写真には、問題の古写真が写り込んでいるのですが、全く関心を払うことはありませんでした。

桜井興善寺堂内(薬師如来像・毘沙門天像)
2015年に訪れた時の桜井興善寺堂内写真
薬師如来像・毘沙門天像の前に3枚の古写真が置かれている


桜井興善寺堂内の古写真
興善寺堂内の古写真
真ん中が現延暦寺国宝殿・薬師如来像
左右の天部像写真は、粟原寺旧仏・現サンブランシスコアジア美術館蔵像




【フィールドワークの大成果~粟原寺旧仏の伝来トレース図】


こうしたご苦労の結果、小倉氏が作成した、 「粟原寺伝来仏像のトレース図」 は、次の通りです。

粟原寺伝来仏像のトレース図

粟原寺の旧仏が転々としながら、それぞれの居場所に祀られるようになった有様が、一目瞭然で判る労作です。



【初耳のビックリ話~大御輪寺旧仏「前立 十一面観音」は、今、神戸のお寺に】


こんな諸々の興味深い話をご紹介していると、もうキリがありません。
もう一つだけ、本書で初めて知ったビックリの話にふれておきたいと思います。

それは、大御輪寺から聖林寺に移された「前立 十一面観音」の行方です。

ご存じの通り、明治維新時の神仏分離で、大伸神社の神宮寺・大御輪寺から聖林寺に、

「秘仏・十一面観音、前立・十一面観音、脇侍・地蔵菩薩」

の3体の仏像が移されたことは、聖林寺に慶応4年(1868)の「預かり覚え」の書付が残されていることで、よく知られています。

「秘仏・十一面観音」は、国宝の聖林寺・十一面観音像
「脇侍・地蔵菩薩」は、その後、法隆寺に移った、国宝の地蔵菩薩像
です。

聖林寺・十一面観音像(奈良・国宝)法隆寺・地蔵菩薩像(平安前期・国宝)
(左)聖林寺・十一面観音像(奈良・国宝)、(右)法隆寺・地蔵菩薩像(平安前期・国宝)

残りのもう1体「前立・十一面観音」が、どうなったのかは、私は全く知りませんでした。

前立観音の行方は、これまでよく判らないとされていて、桜井市 平等寺の秘仏十一面観音像がこれにあたるのではないかという見方もあったのではないかと思います。

本書では、「前立・十一面観音」は、神戸市灘区にある金剛福寺の本尊・十一面観音像であることが明らかにされていました。

神戸市灘区にある金剛福寺
神戸市灘区にある金剛福寺

金剛福寺のご住職によると、
「第二次大戦の神戸空襲で建物も仏像もすべて焼失。
終戦後の混乱期に、先代住職同志が縁者であることから、聖林寺にしまわれていたお前立像を頂戴し、ご本尊としてお迎えしました。」
ということなのだそうです。

この十一面観音像は、江戸時代の制作とみられる、像高:約80㎝の総金箔のお像です。

金剛福寺・本尊十一面観音像
金剛福寺・本尊十一面観音像
大御輪寺「前立十一面観音」で、聖林寺から金剛福寺に移された


この観音像が大御輪寺の伝来像に間違いないことが、阪神大震災で本尊を搬出した際、厨子裏に記された墨書が発見されたことで、確実なものとなりました。

厨子裏の墨書には、
「弘化4年(1847)に、海龍王寺の住職が厨子を新調し、大御輪寺に寄進した」
旨が、はっきりと記されていたのでした。

この大御輪寺の「前立・十一面観音」が、聖林寺から神戸の金剛福寺に移されていたという話は、全くの初耳、初めて知ったビックリの新事実でした。

このことが明らかになったのも、著者小倉氏が、自ら諸寺を訪ね、直に関係する方の話を聴くという努力の賜物なのではないかと敬服した次第です。



奈良の廃寺の旧仏の行方と、今の地に祀られるに至ったいきさつを、自らの脚で丹念にたどった記録という、得難い本だと思います。
奈良まほろばソムリエの会員ならではという、フィールドワークの賜物とも云って良い本でしょう。

皆さん、是非ご一読をお勧めします。

本書は「奈良県東部編」ということですので、続編の発刊が待たれるところです。

そのためにも、本書の売れ行きが伸びることを願うばかりです。


新刊・旧刊案内~我国初の官製日本美術史書「稿本日本帝國美術略史」について(その2) 【2020.04.04】


ここからは、「稿本日本帝國美術略史」刊行に至るいきさつなどについて、振り返ってみたいと思います。

先にふれたように、「稿本日本帝國美術略史」は、近代日本において、初めて編纂された「日本美術史書」です。
日本初の「国家の手になる日本美術史」というもので、その美術史観、概念が、その後長らく日本美術史の規範となっていくものです。

驚くことに、なんとこの本は、日本で出版されたのではなくて、フランス・パリにおいて仏文版で刊行されました。

どのような事情、いきさつでそうなったのでしょうか。



【はじめて体系的に日本美術史を講じたのは、岡倉天心~東京美術学校講義(明治23年)


岡倉天心
岡倉天心
近代日本において、初めて体系的に日本美術史が論じられたのは、岡倉天心による東京美術学校における「日本美術史講義」であったとされます。
明治23年(1890)のことでした。

この日本美術史の講義は、岡倉が明治10年代からフェノロサらと共に、奈良・京都を中心とした古社寺、古美術調査を推し進めてきた成果を反映し、日本美術史を初めて組み立て、講じたと云われています。
一方、明治21年(1888)には、「臨時全国宝物取調局」が設置され、政府の手で全国の文化財、美術品調査が進められることになります。
すなわち、「文化財保護のための宝物調査」と「宝物の価値判定、体系化を担う美術史学」という相互関係と云え、政府の古美術保護と日本美術史、美術史学の成立は、表裏一体の関係にあったという訳です。

岡倉天心の「日本美術史」は、あくまでも講義で出版物になったものではありませんでした。
現在、「岡倉天心著・日本美術史」と題して刊行されている本は、当時、岡倉の講義を受けた学生が筆記した講義録を書籍化したものです。

岡倉天心講義ノート「日本美術史」~原安民筆記
岡倉天心講義ノート「日本美術史」~原安民筆記



【パリ万博(明治30年)に、日本美術史書編纂出品を決定~西洋列国への日本美術紹介を目的】


このころから、日本美術史を編纂し刊行しようと動きが始まります。
明治24年(1891)には、岡倉天心を中心に帝国博物館による日本美術史編纂が進められることになりますが、予算不足などにより遅々として進まず、挫折状態のようになってしまいます。

そうした中で、明治33年(1900)に開催されるパリ万国博覧会に、「日本美術史書」を編纂、出版し、これを出品することが決定されるのです。
明治30年(1897)のことで、岡倉天心を編纂主務として進められます。
途中、天心がスキャンダルにより帝室博物館美術部長を罷免され、東京美術学校校長を追われたことにより、その後は、福地復一が執筆編纂の中心となりました。

我が国初の日本美術史書は、なんと

「西洋列国に日本美術を紹介すること」

を目的とすることによって、その刊行が実現することになったものでした。

そのため、日本語ではなくフランス語で出版されることになったのです。



【東洋の一等国への認知と殖産興業をめざし、数多くの美術工芸品を博覧会出展】


パリ万国博覧会(第5回)は、19世紀の締めくくりの年、1900年に史上最大規模の博覧会として開催されました。

1900年パリ万国博覧会~パノラマビュー
1900年パリ万国博覧会~パノラマビュー

日本は、この万博に、西洋先進国に東洋の一等国として認知されるべく、国家の威信をかけて参加出展します。
日本の美術工芸品の輸出を中心とする殖産興業を目指すものでもありました。
法隆寺金堂を模した日本館が建設され、800点ほどの絵画、彫刻、工芸品など古美術品が展示されました。
横山大観、黒田清輝、高村光雲をはじめとした、当代の画家、彫刻家、工芸家の作品も。多数出展されています。

パリ万国博覧会・日本館の図版
パリ万国博覧会・日本館の図版



【国威発揚という使命を背負った 「Histoire de L'Art du Japan」 の出版】


この展示に合わせて、日本美術の変遷を解説すべく編纂、刊行されることになったのが、仏文版の日本美術史書 「Histoire de L'Art du Japan」 であったわけです。

パリで刊行された「Histoire de L'Art du Japan」
明治33年(1900)にパリで刊行された、「Histoire de L'Art du Japan」

すなわち我が国初の日本美術史書は、日本という国が、

「西洋に伍しうる“一等国”としての歴史・文化を有すること。
「文明国として、西洋美術に比肩しうる日本美術を有すること。」

を、西洋列国に対して示すために編纂されたといっても過言ではないものでした。

「夫レ美術ハ國ノ精華ナリ」(明治22年「国華」創刊号の巻頭言)

岡倉天心は、こう述べていますが、近代日本における「日本美術史・美術史学」は、まさに、こうした強い国家的使命を負って成立していったのでした。



【本書の内容の、3つの特徴点】


「Histoire de L'Art du Japan」、即ち「稿本日本帝国美術略史」の日本美術史観、構成などには、どんな特徴があるのでしょうか。

次の3点ぐらいが、顕著な特徴点といえるでしょう。

①日本が東洋美術の代表者であると位置づけていること

②西洋美術史観に倣うとともに、飛鳥~奈良の古代美術偏重主義となっていること

③天皇家や寺社など支配層の美術作品による構成であること

この特徴点について、もう少しふれてみたいと思います。



【日本は、東洋美術の代表者と位置づけ】


本書では、まず
「日本の美術は東洋美術の粋が集まってできたもの、東洋美術の宝庫である」
と位置づけています。
九鬼隆一
九鬼隆一

九鬼隆一による序文では、

「固より日本美術は日本特有の趣致を有するは言うを竢(ま)たざれども、其骨子たる嘗(かっ)て東洋美術の粋を集めて構成したるものに外ならず。・・・・・・
更に東洋の宝庫なりと称するも、過言に非ざるなり。」

と述べられています。

中国、インドの没落により、今や「東洋美術を代表するのは、日本なのだ」との自負にあふれ、西洋に比肩する東洋の一等国たらんとする、力んだ気負いが強く伺えます。



【飛鳥~奈良時代の古代美術偏重主義~西洋美術の伝統への比肩を強く意識】


次には、西洋美術の伝統との対比により、そのジャンル枠に倣って作品評価がされていることです。
西洋美術の古典的規範に比肩するものとして、奈良時代の美術が位置づけられています。

岡倉天心は、

「彼の希臘(ギリシャ)の彫刻は西洋人の誇称する所なれども、之れに対するに我が奈良朝美術を以てせば、一歩も譲ることなきを信ず」
「我邦彫刻上の発達は、奈良朝に至ってその極に達せり」
「之れを細かに味ふに至りては、我が奈良美術は決して彼の希臘美術に劣るものにあらざるべし」
(明治23~4年、東京美術学校での「日本美術史」講義)

と語っています。

本書での美術作品評価のウエイト付けも、そのとおりで、飛鳥~奈良時代の古代美術偏重主義となっています。
仏像についていえば、ギリシャローマの古典的写実彫刻に通じる、天平彫刻至上主義的な採り上げになっています。
本書の古代偏重というのは、推古、天智、聖武時代というわずか約150年に、総ページ数の約3分の1が割かれていることからも、明らかです。

こうした「稿本日本帝國美術略史」における、作品評価の姿勢、特徴については、日々是古仏愛好HPの 「近代仏像評価の変遷をたどって」 において、詳しくふれたことがありますので、ご覧いただければと思います。



【天皇家、支配層中心の美術史観~浮世絵人気のジャポニズムとは相容れず】


このような国家観、美術史観で編まれた、官製の日本美術史が採り上げる美術作品が、天皇家や有力寺社など支配層の美術作品による構成中心となることは、当然の理と云って良いものでした。

ところが、当時の西欧社会はジャポニズム全盛の時代でした。
「日本美術」に対する人気の盛り上がりは、大変なものでしたが、それは歌麿、北斎をはじめとする浮世絵が代表選手であり、陶磁器や漆器などの工芸品がイメージされていたのでした。

クロード・モネ「ラ・ジャポネーズ(着物をまとうカミーユ・モネ)」1876年
当時のジャポニズム隆盛を物語る絵画
クロード・モネ「ラ・ジャポネーズ(着物をまとうカミーユ・モネ)」1876年


西洋の日本趣味は、言ってみれば、江戸の民衆芸術的な作品がもてはやされていたわけです。
当時のジャポニズムの風潮は、「稿本」に説かれた、天皇制を基軸とする支配層の芸術を以て構成する日本美術史観とは、相容れるものではありませんでした。

「稿本日本帝国美術略史」では、北斎などの浮世絵について、全く触れていないわけではありませんが、それは微々たるもの(浮世絵全体で僅か9ページ)で、全く影の薄いものとして扱われています。



【官製日本美術史書成立事情と欧米ジャポニズムとの関係~核心を突いたコメント】


以上のような
「官製日本美術史書の成立事情と、欧米のジャポニズムとの関係」
について、的確に解説したコメントがあります。

近代日本の美術史学成立史などの研究者、佐藤道信氏は、当時の状況をこのように評しています。

ちょっと長くなりますが、ご紹介します。

「私たちが考えている『日本美術史』が、“意図的に創られた一つのイメージ体系”であることを、あまりにあっけらかんと示しているもう一つの日本美術イメージがすでにある。
それ (注:西洋における日本美術のイメージのこと) は、19世紀のジャポニズムの中で形成されたものが、基本的にはそのまま現在に続いている。
・・・・・・
先に美術行政の殖産興業のところでも触れたように、欧米の嗜好は明治政府も十分に知っていた。
だからその需要に対して、殖産興業による工芸品の振興と輸出を図ったのだ。
つまりジャポニズムに対しては、経済政策で対応したのである。
担当省は農商務省である。

一方、日本では古美術保護によって古美術の海外流出を防ぎつつ、古美術品を中心に日本美術史が編纂された。
初の官制日本美術史『稿本日本帝國美術略史』を編纂したのは、宮内省である。

つまり欧米の日本美術観は農商務省の経済政策が助長し、日本の美術史は皇国史観にもとづいて宮内省が編纂するという、完全な政策上の使い分けが行われたのだった。
欧米・日本それぞれの日本美術観の違いは、助長されこそすれ、ギャップを埋める努力はなされなかったのである。
ギャップは起こるべくして起こったといえる。

しかもこの『稿本日本帝國美術略史』は、そもそも国内的な必要というより、1900年のパリ万博出品のために構成されたものだった。
一等国たるべき国家イメージ戦略として、初めから外向きに描かれた“自画像”だったのである。
それは、20世紀に向けた東洋の盟主としての皇国日本の宣伝でもあったから、内容も天皇ゆかりの美術を中心に、歴代の支配階級の美術で構成されている。
・・・・・・・
つまり官制の日本美術史は、西欧向けに歴代支配階級の美術で構成されたわけだ。
ところが当の西欧で日本美術イメージの中核をなした浮世絵と工芸品は、美術の階級の問題でいえば、むしろ庶民階級の美術だった。
日本における日本美術史が、支配階級の美術で構成されたのに対して、西欧の日本美術観は、庶民階級の美術で構成されたのである。」
(佐藤道信著「〈日本美術〉誕生」講談社選書1996刊)

なるほどそのとおりと、膝を打ちたくなってしまいました。

私が、ダラダラと書き綴って言いたかったことが、コンパクトにサマライズされていて、見事に核心を突いたコメントです。



【和魂洋才の産物の「日本美術史」~西洋美術史評価観による国威発揚】


こうして振り返ってみると、「Histoire de L'Art du Japan」、即ち「稿本日本帝国美術略史」は、伝統的西洋美術史の評価観をベースに、東洋の一等国たるべき国家イデオロギーのもとに造られた日本美術史、まさに和魂洋才の産物と云えるのでしょう。

もしも、この本が、当時の西欧社会のジャポニズム的な日本美術観で、浮世絵などの民衆芸術の評価にウエイトをおいて編纂されていたら、我国における近代日本美術史学はどのような展開をしていたのでしょうか?

ちょっと、興味深い “IF” のように思います。



【パリでの刊行に尽力した林忠正~ジャポニズムを支えた大美術商】


さて、話をパリでの「Histoire de L'Art du Japan」の刊行に至るいきさつに戻したい思います。

仏文版のパリでの印刷、刊行については、パリ万国博覧会の日本事務局・事務官長を務めた林忠正が、全面的に担いました。
ご存じの通り、林忠正は「ジャポニズムを支えたパリの美術商」と云われる人物で、日本の浮世絵をはじめ陶磁器、工芸品などを大量に商い、ヨーロッパのジャポニズム隆盛の大きな原動力となりました。

林忠正
林忠正

林は、仏文版の刊行実現に、大変な尽力をしたようです。
直訳調仏文原稿のリライトや、刊行予算不足を私財で賄うなどの苦労を経て、パリ万博閉幕の一か月前の1900年10月に、やっと駆け込みで出版が実現しました。
仏文版には、九鬼隆一の「序」の前に、林忠正の「読者への挨拶」が掲載され、そうした経緯も記されています。

林忠正「読者への挨拶」~末尾部分
「Histoire de L'Art du Japan」冒頭の林忠正「読者への挨拶」~末尾部分

なお、日本語版「稿本日本帝国美術略史」からは、林忠正の挨拶文は全面削除されています。

豪華本「Histoire de L'Art du Japan」は、1000部が印刷刊行されました。
6部が皇族、200余部が朝野の名士、279部が各国公使経由欧米諸国、清国の君主へ寄贈され、そのほか学者、美術家、博物館長などに配布されたということです。

「Histoire de L'Art du Japan」

「Histoire de L'Art du Japan」本文掲載写真(法隆寺夢殿・救世観音像)
(上段)「Histoire de L'Art du Japan」表紙
(下段)本文掲載写真(法隆寺夢殿・救世観音像)


(「Histoire de L'Art du Japan」は、Internet ArchiveというHPサイトで、全ページをカラー映像で、閲覧することができます。)



【西洋列国の本書への反響はほとんどなく、期待外れのものに】


ところで、本書に対する、現地での反応、反響は、どうだったのでしょうか?

「西洋列国に東洋を代表する優れた日本美術を紹介し、国威をの発揚、認知を目指す。」

ことが、目的であったはずなのですが、現実には、ほとんど反響はなかったようです。

西欧社会では、所謂ジャポニズム、浮世絵をはじめとした江戸民衆美術中心の日本美術観は、その後も変わることはありませんでした。

当時の日本政府の目指した、
「東洋美術の代表者たる、優れた日本美術」
の政治外交的アピールは不発、空回りに終わったといわざるを得なかったようです。



【国内出版の「稿本日本帝国美術略史」は、日本美術史観の揺るがぬ規範に】


こうして刊行された「Histoire de L'Art du Japan」の、日本語版として国内で刊行されたのが「稿本日本帝国美術略史」であった訳です。
仏文版刊行の翌年、明治34年(1901)の出版です。

「稿本日本帝国美術略史」~初版・再版
「稿本日本帝国美術略史」~初版・再版

日本語版(初版)の内容や、その後の再版、縮刷版などの刊行状況については、【その1】で、詳しくふれたとおりです。

西欧世界では不発であった「官製の日本美術史」でしたが、我が国における「稿本日本帝国美術略史」は、近代における日本美術史観、美術史学の規範として揺るがぬ権威を保ち続けることとなります。
現在語られる日本美術史においても、この「稿本日本帝国美術略史」の美術史観の規範を基本的には継承してきていると云って良いのではないでしょうか。



【官製日本美術史書の第2弾は、明治43年刊行「国宝帖」】


明治34年(1901)の「稿本日本帝国美術略史」以降の、「官製日本美術史書」の刊行をたどってみたいと思います。

明治43年(1910)には、「特別保護建造物及国宝帖」(通称:「国宝帖」)という出版物が刊行されています。
本書は、同年にロンドンで開催された「日英博覧会」に出品するために、内務省が編纂したものです。

「特別保護建造物及国宝帖」
「特別保護建造物及国宝帖」

3分冊の大著、大冊で、我国官製日本美術史書の第2弾といえるものです。
当時、国の文化財指定は、「建築物は特別保護建造物、美術工芸品は国宝」と呼称されていましたので、このような書名が付けられたわけです。

本書は明治期における日本美術史研究の集大成ともいえる出版物で、「稿本日本帝国美術略史」の記述に比べてはるかに充実してており、美術史観も随分進化しています。

矢代幸雄氏は、この国宝帖について、次のように述べています。

「日本美術史が近代の学問のような形でできた最初は、おそらく当時の帝室博物館、現在の東京国立博物館が明治32年に『稿本日本帝国美術略史』を編纂したころに始まると思われる。
・・・・・・
その編集方針も選択もあまりにも古い。
日本美術史がほんとうに確立したのはその後10年、すなわち1910年の日英博覧会のために当時内務省が『国宝帖』という3帙の大出版物を出版したときであった。」
(「日本美術の再検討」1988年新潮社刊所収)



【大正期まで、諸版が再版されていった「稿本日本帝国美術略史」】


ところが、不思議だなと思うのは、この国宝帖は、再版や縮刷廉価版などが、その後発刊されることはありませんでした。

一方、「稿本日本帝国美術略史」の方は、国宝帖刊行後も大正5年(1916)に至るまで、「縮刷版」「第二縮刷版」が出版されています。
各種諸版の刊行状況については〈その1〉で詳しくふれたとおりです。
古臭い内容の本の方が、正統的なものとして、世に広められて行ったということのようです。

これが、いわゆる「権威」というものなのでしょうか?



【昭和13年、「稿本」の新編纂後継版「日本美術略史」が刊行】


この「正統的官製日本美術史」ともいうべき「稿本日本帝国美術略史」ですが、昭和に入ってから、その後継となる新編纂版が刊行されています。
昭和13年(1938)の出版で、「稿本」初版刊行(明治34年・1900)から40年弱を経てのことでした。

「日本美術略史」という書名で、帝室博物館編、便利堂刊で出版されています。

この「日本美術略史」の序文には、本書が「稿本日本帝国美術略史」の新編纂版であることが、次のように、はっきりと述べられています。

「曩(さき)に稿本日本美術略史を刊行し、以って世に質し斯界に貢献するところありしが、・・・・・上梓以来星霜を閲すること既に四十年、
・・・・・・・
茲に新たに日本美術略史を編纂し、以って剞劂(きけつ)に付しこれを世に問ふ。
(まこと)に欣快に堪へざるところなり。」



【「稿本」の基本的美術史観が継承された、新編纂「日本美術略史」】


本文252ページ、図版85ページの構成になっています。
本書の基本的な美術史観、作品の価値観については、明治の「稿本日本帝国美術略史」のそれを継承していると云って良いと思います。

「西洋美術史観をベースとした古代重視、国威発揚、支配層の美術史」

といえる美術史観が継承されています。

流石に、「稿本」で本文の3分の1を費やした飛鳥~奈良時代のボリュームは、6分の1ほどに圧縮されていますが、浮世絵関連についてはわずか4ページを割くだけと、引き続き、影が薄く軽視していることには変わり有りません。



【戦後までも版を重ねた「日本美術略史」】


この、新官製日本美術史書というべき「日本美術略史」も、版を重ねています。
なんと、終戦後になってからも、戦前と全く同じ文章で再版刊行されているのです。
昭和13年(1938)初版からの再版諸版は、次のように刊行されています。

「日本美術略史」の諸版一覧

私の手元には、縮刷版と改訂新版・再版(昭和27年刊)がありますので、書影だけご覧に入れておきます。

「日本美術略史」縮刷版~昭和15年再版本

「日本美術略史」縮刷版~昭和15年再版本・タイトルページ

「日本美術略史」縮刷版~昭和15年再版本・奥付
「日本美術略史」縮刷版~昭和15年再版本
書影、タイトルページ、奥付



「日本美術略史」改訂新版~昭和27年再版本「日本美術略史」改訂新版~昭和27年再版本

「日本美術略史」改訂新版~昭和27年再版本・タイトルページ

「日本美術略史」改訂新版~昭和27年再版本・奥付
「日本美術略史」改訂新版~昭和27年再版本
書影、タイトルページ、奥付


この「日本美術略史」も、当時は相当多くの部数が刊行されたと思われます。
広く一般に読まれていたのでではないでしょうか。
明治中期に成立した日本美術史観の規範、作品価値観は、戦後に至るまで継承され続けてきたと云えるのでしょう。

近代日本の美術史学史を振り返るとき、「稿本日本帝国美術略史」は日本美術史の規範となったメモリアルな書として必ず採り上げられますが、その新編纂版である「日本美術略史」の刊行については、採り上げられることがまずないのではないかと思います。
「稿本日本帝国美術略史」の亜流的といえるような内容であるからなのでしょう。

この「日本美術略史」の刊行以降は、国立博物館編纂の日本美術史本は出版されていません。
戦後の新時代では、「官製の日本美術正史」といった国定教科書的な美術史本は、もう必要とされなくなったということなのだと思います。

手元にある「稿本日本帝國美術略史」「日本美術略史」の諸版
手元にある「稿本日本帝國美術略史」「日本美術略史」の諸版



【おわりに】


「稿本日本帝国美術略史」の初版本、再版本を立て続けに手に入れたことをきっかけに、明治期における日本美術史の成立、初の官製美術史書「稿本日本帝国美術略史」刊行に至るいきさつなどを振り返ってみました。

今更ながらに思うことは、この「稿本日本帝国美術略史」という我が国初の日本美術史書が、その後の日本美術史観、作品評価観の、大いなる規範として位置づけされ続け、現代においても日本美術史観の基本的なベースになっているということです。

言い換えれば、「日本美術史」というものを、初めて組み立て講じた「岡倉天心の美術史観」が、良きにつけ悪しきにつけ、今日に至るまで影を落とし続けていると云えるのでしょう。


「稿本日本帝国美術略史」にまつわる話は、これでおしまいにさせていただきます。


あまりにマニアックな話で、あきれ返ってしまわれたのではないかと思いますが、何卒ご容赦ください。


新刊・旧刊案内~我国初の官製日本美術史書「稿本日本帝國美術略史」について〈その1〉 【2020.03.27】



「稿本日本帝國美術略史」

我国の日本美術史叙述の嚆矢となる本です。


明治期、近代において体系的日本美術史が成立した、記念碑的著作物といわれています。
明治34年(1901)に刊行されました。



【我が国初の「日本美術史書」は、なんと、フランス(仏文版)で初出版】


実は、この「稿本日本帝國美術略史」という本は、日本で刊行される前に、なんとフランス(仏文)で出版されているのです。

明治33年(1900)に、 「Histoire de L'Art du Japan」 という書名で刊行されました。

明治33年(1900)にパリで出版された、「Hisoire de L'Art du Japan」
明治33年(1900)にパリで出版された、「Histoire de L'Art du Japan」

日本は、1900年に開催されたパリ万国博覧会に美術工芸品などを出展しますが、その際に西洋列国に日本美術を紹介する美術史本として編纂、出展されました。

まさに国家の意図によって編纂刊行された、我が国初の官製日本美術史本なのです。



【「仏文版」の翌年、日本で刊行されたのが、「稿本日本帝國美術略史」】


この仏文版の邦文版として、翌年、国内で刊行されたのが「稿本日本帝國美術略史」なのでした。

仏文版も邦文版も、当時の超豪華本、大冊としてとして刊行されました。
近代日本の国家の威信をかけた、立派で贅沢な本であったわけです。

この「稿本日本帝國美術略史」に著述された美術史観が、その後長らく、近代における日本美術史の揺るがぬ規範となっていったといわれています。

本書が、近代日本美術史成立の歴史的、記念碑的出版物と評される所以です。



【最近、立て続けに、「本書・初版本、再販本」を、ラッキーにも入手】


最近、「稿本日本帝國美術略史」の、明治34年刊行本と明治41年再版本とを、立て続けに安価に入手することができました。

これまで、大正時代刊行の「縮刷版」は持っていたのですが、チャンスがあれば明治時代刊行の「豪華な当初版」を入手したいと思っていたのです。

思いの外のラッキーな立て続けゲットに、ちょっと嬉しくなって、「稿本日本帝國美術略史」について振り返ってみる記事を掲載させていただくことにしました。



【ずっしり重い、豪華・大冊本の書影、図版をご紹介】


「稿本日本帝國美術略史」の刊行のいきさつやその意義などについては、後で触れさせていただくことにして、まずは最近入手した、「稿本日本帝國美術略史」の初版、再版の書影や掲載図版をご覧いただきたいと思います。


明治34年刊行初版、明治41年刊行再版の書影は、ご覧の通りです。

「稿本日本帝國美術略史」の初版と再版
「稿本日本帝國美術略史」の初版(左)と再版(右)

初版、再版ともに、A3版ぐらい(40㎝弱×27~8㎝)の大きさです。
「奈良六大寺大観」とほぼ同じ大きさの大型版で、厚みはその1.5倍ぐらい。
ずっしり重くて。約5キロの重さがあります。
流石に、国の威信をかけた大冊美術史書といわれるだけの重厚感、デカさで、ページをめくるだけでも大変です。

装丁の文様などは、ほぼ同じですが、初版は絹装、再版はクロス装となっています。
入手したものは共に並製ですが、同時に豪華装丁版も刊行されているようです。



【ごく少部数だけの刊行だった初版本~明治34年(1901)出版】


明治34年(1901)刊行:初版本を見てみると、

本文:274ページ、図版:105葉(コロタイプ印刷写真100葉、木版色刷5葉)
序文:「帝国博物館総長 九鬼隆一」、刊行者:「農商務省」、印刷所:「国華社」

となっています。

明治34年(1901)刊行「稿本日本帝國美術略史」初版本..明治34年(1901)刊行「稿本日本帝國美術略史」初版本

明治34年(1901)刊行「稿本日本帝國美術略史」初版本
明治34年(1901)刊行「稿本日本帝國美術略史」初版本

(本初版本は、国立国会図書館デジタルコレクション「稿本日本帝國美術略史」(1901)で、全ページをカラー映像で、閲覧することができます。)


明治34年(1901)刊行「稿本日本帝國美術略史」初版本・タイトルページ
初版本・タイトルページ

明治34年(1901)刊行「稿本日本帝國美術略史」初版本・本文
初版本・本文

明治34年(1901)刊行「稿本日本帝國美術略史」初版本・奥付
初版本・奥付

刊行が「農商務省」となっているのは、パリ万国博覧会への出展が殖産興業所管の農商務省であったからで、実際の編集執筆は宮内省、帝国博物館が所管しています。

この初版本が何部発刊されたかはよく判らないのですが、ごく少部数であったようで、

「(邦文版は仏文版よりも)かなり少なかったと推定され、それは東京美術学校にも所蔵されなかったほどの部数であったことから伺えるように思われる。」
(「稿本日本帝国美術略史」の成立と位相(森仁史)近代画説第10号明治美術学会誌2001.12)

という程で、相当の貴重書であったと思われます。



【復刻・再版本は明治41年(1908)刊行~定価は、今の物価で20万円以上の豪華高額本】


次に、明治41年(1908)刊行:再版本を見てみたいと思います。

明治41年(1908)刊行「稿本日本帝國美術略史」再版本..明治41年(1908)刊行「稿本日本帝國美術略史」再版本

明治41年(1908)刊行「稿本日本帝國美術略史」再版本
明治41年(1908)刊行「稿本日本帝國美術略史」再版本


本文:328ページ、図版:144葉(コロタイプ印刷写真109葉、網判印刷写真30葉、木版色刷5葉)
初版時の序文に加え、「九鬼隆一」「福地復一」が再版の序を記しています。
刊行奥付をみると「東京帝室博物館御蔵版」と記され、発行所:「日本美術社」、木版色刷:「国華社」、発売所:「隆文館」

となっています。

明治41年(1908)刊行「稿本日本帝國美術略史」再版本・タイトルページ
再版本・タイトルページ

明治41年(1908)刊行「稿本日本帝國美術略史」再版本・奥付
再版本・奥付

再版本が発刊されたのは、初版があまりに少部数であったことから、一般にほとんど行き渡らなかったため、「日本美術社」が再版出版販売を計画。
何とか出版にこぎつけたものの、資金不足などにより「隆文館」に発刊、販売を委ねたことによるものだそうです。

再版本の「凡例」には、このように記されています。

「明治34年に農商務省にて此稿本を印刷に附せしも、其の部数僅少にて、之を配布せし人員も少数に止まりたりき。
日本美術社今回之を世に公にせん為め、東京帝室博物館の許可を得て複製せるものなり。」

この再版本が何部刊行されたか、価格がいくらだったのか、はっきりしないのですが、部数は250部程度、価格は廉価版で30円であったという話もあるようです。

明治41年頃の30円というのは、極めて高価だったと思われます。
当時の大卒初任給が丁度30円であったということで、最近の大卒初任給が20万円強ですから、廉価版でも安くとも「定価20万円以上」だったということになります。
驚くほどの高価さで、一般人の手の届くものではない超豪華高額本であったことがわかります。

再版本は、初版に比べ、ページ数が50数ページ増え、図版も40葉ほど増えています。
これは、再版に際して、「建築の部」を「絵画、彫刻、工芸の部」から独立させ、伊東忠太がが新たに書き下ろしたものに替わったことによるものです。



【あまりの精緻、美麗さに目を奪われる、多色刷木版の図版~5葉収録】


次に、「稿本日本帝國美術略史」に収録されている図版を見ていきたいと思います。

5葉の多色刷木版図版が収録されています。
大変に、精緻、美麗な原色木版画で、その素晴らしさに目を奪われてしまいます。

その全葉をご覧ください。

「稿本日本帝國美術略史」多色木版画~奈良国立博物館蔵・十一面観音画像(国宝・平安時代)

「稿本日本帝國美術略史」多色木版画~奈良国立博物館蔵・十一面観音画像(国宝・平安時代)

「稿本日本帝國美術略史」多色木版画~奈良国立博物館蔵・十一面観音画像(国宝・平安時代)
多色木版画~奈良国立博物館蔵・十一面観音画像(国宝・平安時代)
本書には、「伯爵 井上馨蔵」大和国某寺にありしもの、と記されています
木版画とは思えない精緻、美麗さがお判り頂けると思います



「稿本日本帝國美術略史」多色木版画~東京国立博物館蔵・普賢菩薩画像(国宝・平安時代)

「稿本日本帝國美術略史」多色木版画~東京国立博物館蔵・普賢菩薩画像(国宝・平安時代)
多色木版画~東京国立博物館蔵・地蔵菩薩画像(鎌倉時代)
本書には、「帝国博物館蔵」奈良の某古刹にありしもの、と記されています



「稿本日本帝國美術略史」多色木版画~東京国立博物館蔵・地蔵菩薩画像(鎌倉時代)
多色木版画~東京国立博物館蔵・地蔵菩薩画像(鎌倉時代)
本書には、「帝国博物館蔵」巨勢家の筆、と記されています



「稿本日本帝國美術略史」多色木版画~三の丸尚蔵館蔵・春日権現験記絵(鎌倉時代)
多色木版画~三の丸尚蔵館蔵・春日権現験記絵(鎌倉時代)
本書には、「御物」高階隆兼の筆、と記されています
明治8・11年に鷹司家から皇室に献上されたものです



「稿本日本帝國美術略史」多色木版画~MOA美術館蔵・小野小町草紙洗図(江戸時代)
多色木版画~MOA美術館蔵・小野小町草紙洗図(江戸時代)
本書には、「東京 谷森眞男蔵」尾形光琳筆、と記されています



この多色木版、何色何度刷りなのかは、よく判らないのですが、精緻で凝りに凝ったもののように思われます。
本画かと見紛うような、驚くべき精巧さと微妙な色合い表現です。
「素晴らしい多色木版画」の一言です。
この美麗な木版画像を眺めているだけで、本書を手に入れた値打ちがあったような気持ちになってしまいます。



【写真図版は、美しく味わい深いコロタイプ印刷~今や失われた印刷技術】


次に、写真図版をご覧いただきます。

小川一眞
小川一眞
モノクロームの写真図版は、写真師・小川一眞の撮影によるものです。
今見ても美しい、コロタイプ印刷によるものです。

コロタイプ印刷というのは、明治~昭和初期の高級美術写真印刷によく用いられた印刷技法で、連続階調といわれる柔らかで深みのある質感が表現できることが特長です。
この「コロタイプ写真製版印刷」の実用化の道を開いたのが、アメリカ洋行帰りの写真師・小川一眞であったのです。(明治16年渡米、翌年帰国)

現代では、コロタイプ印刷というのは行われなくなってしまい、世界で唯一この技法を守っているのが京都の「便利堂」であるといわれています。
ソフトで味わいのある美しい写真印刷なのですが、如何せん、手間ヒマとコストがかかりすぎて、今や商業的に成り立たないのです。

「稿本日本帝國美術略史」では、実用化されたばかりの味わいあるコロタイプ印刷写真を、たっぷりと愉しむことができます。


その数葉を、ご覧いただきたいと思います。


「稿本日本帝國美術略史」コロタイプ写真~法隆寺夢殿・救世観音像

「稿本日本帝國美術略史」コロタイプ写真~法隆寺夢殿・救世観音像
法隆寺夢殿・救世観音像
明治17年、フェノロサ、岡倉天心によって初めて開扉された救世観音像です



「稿本日本帝國美術略史」コロタイプ写真~東大寺戒壇堂・多聞天像
東大寺戒壇堂・多聞天像


「稿本日本帝國美術略史」コロタイプ写真~法華寺・十一面観音像
法華寺・十一面観音像
コロタイプの柔らかで美しい味わいの特長がよく出ています



「稿本日本帝國美術略史」コロタイプ写真~東大寺法華堂・日光菩薩像
東大寺法華堂・日光菩薩像
本書では、伝良弁僧正作梵天像と記されています
現代の仏像美術写真かと見紛うような、魅力的写真です



「稿本日本帝國美術略史」コロタイプ写真~興福寺・華原磬
興福寺・華原磬


「稿本日本帝國美術略史」コロタイプ写真~東寺御影堂・不動明王像
東寺御影堂・不動明王像
絶対秘仏である御影堂・不動明王が当時調査写真撮影のために開扉されていたことがわかる貴重な写真です
不動像の後方両脇に写っているのは、昭和32年に発見、確認された、八幡三神像ではないかと思われます



「稿本日本帝國美術略史」コロタイプ写真~秋篠寺・伎芸天像
秋篠寺・伎芸天像


如何でしょうか?

これらの仏像写真は、明治21年(1888)、政府により実施された、「近畿地方古社寺宝物調査」に写真師として同行した、小川一眞が撮影したものです。
絶対秘仏の法隆寺夢殿・救世観音像や、東寺御影堂・不動明王像といった貴重で珍しい写真も収録されています。
連続階調の柔らかで味のあるコロタイプ写真印刷の美しさがお判りいただけると思います。


明治34年、41年刊行の「稿本日本帝國美術略史」(初版・再版)の書影、収録図版などをご覧に入れました。



【その後、何種類も刊行されていった普及、廉価版~大正半ばまで7種の諸版刊行】


この国家の威信をかけたような、超豪華本の官製日本美術史本「稿本日本帝國美術略史」ですが、その後も、大正時代まで版型などを変えて、いくつもの版が刊行されました。
出版部数も少なく、高価過ぎ、入手が難しかったので、その後廉価版の類が刊行されていったのだと思います。

この記念碑的美術史本「稿本日本帝國美術略史」が、明治34年の初版以降、どのような版がどのような形で刊行されていったのかを徹底トレースした論考があります。

永井洋之氏の 「『稿本日本帝国美術略史』の諸版について」(元興寺文化財研究84号2004) という論考です。
この論考を参考に、どのような版がその後刊行されていったのかを、一覧表にまとめてみました。


ご覧の通りです。

「稿本日本帝国美術略史」の諸版一覧

明治33年(1900)の仏文版刊行から、大正5年(1916)までの15年間にわたって、7種類の版が刊行されていったことになります。

本文は、再版時に「建築の部」を書下ろし独立させたほかは、一言一句も変わっていないのですが、「国家が規範として定めた日本美術史」という重みは、きっと大変なもので、版が重ねられて行ったのでしょう。
それだけ権威のある日本美術史書であったということなのだと思います。



【手元にある大正5年の廉価縮刷版~それでも定価は2万5千円程?(今の物価)】


私の手元には、大正5年(1916)刊行の「第二縮刷版」があります。
この縮刷版は菊版(21.8×15.2㎝)ですので、かさ張り感はほとんどありません。

大正5年(1916)刊行「稿本日本帝国美術略史」第二縮刷版..大正5年(1916)刊行「稿本日本帝国美術略史」第二縮刷版

大正5年(1916)刊行「稿本日本帝国美術略史」第二縮刷版
大正5年(1916)刊行「稿本日本帝国美術略史」第二縮刷版

(第二縮刷本は、国立国会図書館デジタルコレクション「稿本日本帝國美術略史」(1916)で、全ページをカラー映像で、閲覧することができます。)


大正5年(1916)刊行「稿本日本帝国美術略史」第二縮刷版・タイトルページ
第二縮刷版・タイトルページ

大正5年(1916)刊行「稿本日本帝国美術略史」第二縮刷版・奥付
第二縮刷版・奥付

「第二縮刷版」の「縮刷本凡例」には、このように書かれています。

「然るに曩(さき)に縮刷版印行したるものも尚其の積量及価額等の点より、頒布の範囲広からざるしを以て、今回一般希望者殊に学校及び学生等の便宜を図りて、これを縮刷することとせり。」

奥付の価格は4円80銭となっています。
当時と最近の大卒初任給で換算してみると、「定価2万5千円程度」のイメージです。
「学校、学生等の便宜を図った」という割には高価で、当時、本の値段というものが随分高かったことが想像できます。

「第二縮刷版」の掲載写真は、コロタイプではなく網版ですので、正直随分見劣りがします。

「稿本日本帝国美術略史」第二縮刷版・網版写真~東大寺戒壇堂・多聞天像「稿本日本帝国美術略史」第二縮刷版・網版写真~東大寺法華堂・日光菩薩像
第二縮刷版・網版写真~(左)東大寺戒壇堂・多聞天像、(右)東大寺法華堂・日光菩薩像

多色木版図版は、一葉だけで、何故か「小野小町草紙洗図」が収録されています。

「稿本日本帝国美術略史」第二縮刷版・多色木版~小野小町草紙洗図
第二縮刷版・多色木版~小野小町草紙洗図

初版本の精緻美麗さに比べると、随分見劣りする粗い木版画です。
どうして「小野小町草紙洗図」だけをカラーにしたのかは、よくわかりません。
ちょっと不思議です。


明治時代の超豪華本「稿本日本帝國美術略史」の初版、再版を立て続けに手に入れ、ちょっと嬉しくなって、その中身や、その後版を重ねた諸版について、紹介させていただきました。


〈その2〉では、「稿本日本帝國美術略史」刊行に至るいきさつや、我が国初の官製日本美術史書の成立の意味、意義などについて、振り返ってみたいと思います。


新刊旧刊案内~たまたま手に入れた「関野貞の仏像スケッチ集」 【2020.02.29】


【NETオークションで手に入れた、「関野貞 写 佛像線図」】

こんな、古い仏像スケッチを手に入れました。

たまたまNETオークションに出品されていたのです。

「関野貞 写 佛像線図」

という表題がつけられていました。

ご覧のような、仏像の線画スケッチ集です。

「関野貞 写 佛像線図」タトウ
「関野貞 写 佛像線図」がおさめられたタトウ

思いの外の安値で落札することができました。

色紙大のタトウに16葉の仏像の顔部や衣文の線画のスケッチが納められていました。
残念ながら、原図ではなくて、複写図です。

タトウに納められていた16葉の仏像線図
納められていた16葉の仏像線図

スケッチに載せられている仏像をながめてみました。

中国と日本の仏像の代表的な作例が、時代を追ってピックアップされているようです。
中国の方は、北魏から唐までの著名石窟仏がラインアップされています。
日本の仏像は、飛鳥から鎌倉時代までの時代を代表する仏像です

面相、衣文の特徴、断面のラインなどが、手書きで描写されています

「関野貞 写 佛像線図」

「関野貞 写 佛像線図」
関野貞 写 佛像線図



【関野貞の子息、克氏が抜粋複写したスケッチ資料】


「関野 貞 セキノタダス 氏 略歴」と題された経歴書が一枚添えられていました。
慶応3年(1867)生まれ、昭和10年(1935)に69歳で没しています。

添えられていた「関野 貞 セキノタダス 氏 略歴」

そこには、このように記されています。

「この『関野貞写仏像線図』は関野貞氏の研究資料〈自筆〉から、子息克氏が抜粋され、複写されたもの。
関野貞氏は終生、専門の建築以外にも、早くから関連の対象物にも注目し研究されていた一端を示す貴重な資料である。
題簽の文字は関野克氏の筆跡である。」



【近代建築史学、美術史学草創期の泰斗、「関野貞」】


「関野貞」という名前をご存じでしょうか?

古建築史に関心のある方や、法隆寺再建非再建論争をご存じの方には、大変なじみある名前だと思います。

関野貞
関野貞(1867~1935)

近代日本の建築史学の草創期に、建築様式史の体系を確立した人物として、伊東忠太と並び称される大建築史学者です。
また、美術史研究においても多大な業績を残しています。

その業績を上げるとキリがないのですが、いくつかをアットランダムに挙げると、次のようなものが知られるのではないでしょうか。

・奈良県技師として古社寺をくまなく調査、古建築の時代判定、修理を推進。 (明治29~34年)

・平城宮跡・大極殿址を発見。 (明治33年)

・「法隆寺非再建論」を初めて発表、その後、歴史的大論争に発展。 (明治38年)

・官委嘱により朝鮮古蹟調査を実施。その後大著、朝鮮古蹟図譜15冊などを刊行。 (明治42年~)

・中国山西省「天龍山石窟」を発見、その存在を世に紹介。 (大正7年)

これだけをみても、我国の建築史学、美術史学の草創期に、如何に多大な業績を残したかが、容易に想像がつきます。



【「関野貞 仏像線図」とは何者なのか?~その由来を探る】


ところで、この関野貞の手描きという「仏像線図」スケッチというのは、どういうものなのでしょうか?
よくわかりませんでした。

現物が手元に到着してから、このスケッチの由来について書かれた資料などがないかと、暇を見て、関野貞について採り上げた本などをあたってみました。

「有りました!!」

このスケッチが、何者なのかについて触れられた文章を、いくつか見つけたのです。

3つの資料に、書かれていました。
ご紹介します。



【明治末年、東京帝国大・日本美術史講義のため作られたスケッチ集】


1つ目は、「関野貞アジア踏査」という本に、次のように触れられていました。

「関野貞アジア踏査」東京大学出版会2005年刊
「関野貞アジア踏査」東京大学出版会2005年刊

「関野克旧蔵資料には、自筆の『仏像のスケッチ』16枚が残る。
南北朝、隋、唐代の仏像、飛鳥時代、奈良時代の仏像及びその細部の図で、各紙の端に『不許転載関野貞写』と記されている。

関野貞逝去時帝大の助手であった木村貞吉によれば、『仏像のスケッチ』は、『奈良県在任中のノートより東大文学部講義用として浄書されたもの』である。
関野は、明治42年度から44年度『日本美術史』、大正12年度『考古学』を帝大文科大学において講義したが、図は、『日本美術史』講義のために浄書されたのであろう。」
(「関野貞と日本美術史」大西純子執筆 「関野貞アジア踏査」東京大学出版会2005年刊所収)


私が手に入れたのは、まさに此処で触れられた「仏像のスケッチ」に間違いありません。
枚数も、ピタリ16枚でした。
そして「関野貞アジア踏査」という本の冒頭には、なんと寸分違わぬ本物のスケッチのカラー写真が掲載されていました。

「関野貞アジア踏査」に掲載されていた、関野貞「佛像線図」のカラー写真
「関野貞アジア踏査」に掲載されていた、関野貞「佛像線図」のカラー写真

入手した図は、明治末年に、関野が東京帝大の講義用に作成した、自筆のスケッチ集(複写)だったのでした。



【顔面、衣文の細部、断面描写という、特異なスケッチの訳は?】


この仏像スケッチを観ると、際立った特徴があります。

それは描かれた図が、単に仏像の姿かたちのスケッチではなくて、

「顔面部と衣文の一部分に、特化した図であること。」

「顔面側面のシルエット、衣文の断面凹凸図がスケッチされていること。」

です。

関野貞「佛像線図」①
法隆寺五重塔・謄本塑像、薬師寺金堂・薬師如来像スケッチ

関野貞「佛像線図」②
東大寺法華堂・不空羂索観音像、日光菩薩像スケッチ

関野貞「佛像線図」③
唐招提寺金堂・廬舎那仏像、新薬師寺・薬師如来像スケッチ

どうして、このようなスケッチ図が描かれたのでしょうか?
その特徴について触れた資料を、2つ見つけました。

関野逝去当時、帝大の助手であった木村貞吉が記した文です。

「茲に申し添へて置きたき事は、先生の彫刻様式に於ける研究方法の解剖的とでも申すべき一種特別なる方法であります。

其方法と申しまするものは、先生が奈良県技師として同県へ御在職中、同県下に於ける各時代の優秀なる仏像の相貌より纏衣の皺襞に至る迄、悉く精密に『スケッチ』をされ、又要所要所は断面図によりて、時代の特徴とする其刀法の剛柔・深浅等迄指示され、一目瞭然たらしめたる其研究方法の微に入り細に渉りたる事は、実に博士に依て始めて試みられたる独特の手法と称すべきであると思います。」
(「関野先生の思いで」木村貞吉・建築雑誌49輯605号1935年)


もう一つ、関野貞の子息、関野克(建築史学者)が記した文です。

「関野の彫刻様式の講義の一端をみると,奈良県技師時代のスケッチと拓本などの資料をもとにして,時代別に整理された。

これは特徴を捕らえて仏像の相貌,纏衣の皺襞に至るまでことごとく精密にスケッチし、又これらの要所要所は断面図によって時代の特徴を示すよう、図面で様式を客観化した。
これは独得の方法であって,後に支那も加えて講義のため十数枚の青写真として学生に配布している。」
(「建築の歴史学者 関野貞」関野克著・上越市立総合博物館1988年刊)

「建築の歴史学者 関野貞」関野克著
「建築の歴史学者 関野貞」関野克著


【細部の比較検証で時代様式・展開を実証、「様式観」を確立した関野貞】


これを読むと、

「こうしたスケッチは、関野が明治30年代、奈良県技師時代に描いたもの。」

「仏像の相貌・衣文の細密なスケッチ・断面図で、時代の特徴をつかむという様式研究の手法は、関野貞が初めて試みた独特な手法であった。」

と、述べられています。

ちょっと驚くのは、関野がこうした細部を検証する手法で仏像彫刻の様式研究を行っていたのが、明治時代の30年代であったということです。
この頃は、近代仏教美術史学の揺籃期ともいうべき頃です。
まだまだザックリとした感覚的な理解で、仏教美術史が論じられていた時期なのだと思います。
関野貞は、実証的に現物にあたり、緻密に細部を検証することによって様式観を確立することを試みたのでした。

関野貞は、
「時代により一貫した様式が存在すると考え、時代様式の発展、展開という様式理論、様式観を確立した人物」
と云われます。

建築史においても、美術史においても、細部を検証し、その変化から時代特有の様式を見出していくというものです。
「様式の展開」を基軸にした建築史観、美術史観、というべきものだと思います。



【関野の「法隆寺非再建論」「薬師寺金堂・薬師三尊天平新鋳論」も、その時代様式展開観に基づくもの】


関野が、明治30年代に「法隆寺非再建論」を強く主張したのも、この様式観に基づくものです。
当時、一般的には、日本書記の罹災記録を認め再建と考えられていました。

ご存じの通り、法隆寺再建非再建論争は、飛鳥時代当初建築を主張する関野貞の非再建論と、文献史学の雄、喜田貞吉の再建論とが、火花を散らすことから始まり、世紀の大論争と云われるまでにも白熱化していきます。

関野の非再建論の根底にあるものは、建築様式の展開観にありました。

法隆寺(飛鳥時代)→薬師寺・東塔(白鳳時代)→新薬師寺・唐招提寺(奈良時代)

と展開してゆく建築様式を考えると、法隆寺の建築を天智朝(690)以降の再建と見ることは、決して出来ることではなかったのだろうと思います。


仏像の制作時代の考え方も、関野の様式展開史観に基づくものです。

「仏像スケッチ図」に描かれた仏像についての、関野の展開推移考え方は、次の通りです。

法隆寺・薬師如来→法隆寺・釈迦三尊→夢殿・救世観音、法隆寺四天王→薬師寺東院堂・聖観音、橘夫人念持仏(阿弥陀)→法隆寺五重塔・塑像→薬師寺金堂・薬師三尊→東大寺法華堂・不空羂索観音

薬師寺金堂・薬師三尊は薬師寺平城京移転後の天平期の改作、講堂の薬師三尊を白鳳創鋳と論じています。

関野貞「佛像線図」~薬師寺講堂・薬師三尊像
関野貞「佛像線図」~薬師寺講堂・薬師三尊像

このような諸像の年代設定は、今にしてみれば認められないものも多いのですが、関野の様式展開観によると、
「薬師寺金堂・薬師三尊は、天平時代の制作」
というのは、揺るがすことの出来ない処だったのではないでしょうか。



【近代建築史、美術史学揺籃期の様式史研究の一端を知る
~明治中期、早くも細部比較が行われていたことに、大きな驚き】

今回、「関野貞の仏像スケッチ図」を手に入れたことをきっかけに、新しく興味深い事実を知ることができました。

関野貞という学者は、明治という時代に、いわゆる文献史学の分野とは一線を画した、実証的な様式年代観を確立した権威者であると云われています。
そして、明治30年代、奈良在任中に調査した古建築の年代比定が、極めて的確であったことは、今でも驚きを込めて語られています。

こうした関野貞の実証的な様式展開観が、決して概念的なものではなくて、この「仏像スケッチ図」にみられるように、細部の形の精密な観察とその変化の詳細な比較検証に基づいたものであることに、少々、驚きを禁じえませんでした。


たまたま手に入れた、ちょっと珍しい明治時代の「仏像スケッチ図」。

この「スケッチ図」の由来や、作成経緯をたどってゆくなかで、明治の中頃、近代建築史学も美術史学も、まだまだ緒に就いたばかりという時期、時代様式観を確立してゆく取り組みの一端を伺い知ることができました。


関野貞が、我国建築史学、美術史学揺籃期の大功労者、泰斗として語られることについて、今更ながらに、むべなるかなと納得した次第です。


新刊旧刊案内~「国宝ロストワールド」岡塚章子・金子隆一・説田晃大著 【2020.02.15】


こんな本が出版されました。


「国宝ロストワールド~写真家たちがとらえた文化財の記録」 

岡塚章子・金子隆一・説田晃大著 2019年10月 小学館刊 【112P】 1600円

国宝ロストワールド


「国宝ロストワールド」という書名を見たとき、どんな内容の本だろうと、一瞬戸惑いました。
副題に「写真家たちがとらえた文化財の記録」というリードがつけられてるのを見て、これは私の関心ある世界の本だと、すぐにわかりました。

早速、購入。
頁をパラパラとめくってみました。



【「近代文化財古写真、仏像写真の文化史」を概観できる興味深い本】


私にはなじみの古写真、仏像写真家の有名写真が、沢山目に飛び込んできました。

表紙は、工藤精華の手先が欠損している興福寺阿修羅像の明治修理前の写真です。

工藤精華撮影・明治修理前の阿修羅像写真の表紙
工藤精華撮影・明治修理前の阿修羅像写真の表紙

横山松三郎の壬申検査時の写真(明治4年)、小川一眞の近畿地方古社寺宝物調査の写真(明治21年)といった古写真や、飛鳥園・小川晴暘、土門拳、入江泰吉の仏像写真などなどが収録されています。

横山松三郎撮影、壬申検査時(明治4年)の東大寺大仏写真
横山松三郎撮影、壬申検査時(明治4年)の東大寺大仏写真の掲載ページ

小川一眞撮影、近畿地方古社寺宝物調査(明治21年)の興福寺北円堂・無著像写真
小川一眞撮影、近畿地方古社寺宝物調査(明治21年)の興福寺北円堂・無著像写真の掲載ページ


本の内容を一言でいうと、

「明治大正期の文化財古写真の歴史と意義を振り返る」
「昭和以降の著名仏像写真家たちの表現意図、魅力をたどる」

と云えるのではないでしょうか。

「近代文化財、仏像写真の文化史概観」の本といってもよいと思います。

本書の「はじめに」には、このように記されています。

「本書では、明治、大正、昭和に撮影された数ある国宝の中から、写真史を語るうえでとくに意義ある写真を選び紹介している。

その写された国宝の中には、すでに失われてしまったものや形が変わっているものもある。
撮影された写真には、どれも言葉では伝えることができない数多くの情報が詰まっている。
そして注意深く見ると、そこには撮影者の何らかの意図も写し出されていることがわかる。

写真家たちが向き合い撮影した、これらの写真を通して、国宝の新たな魅力を発見し、その数奇な運命の物語を知っていただければと思う。」
(岡塚章子氏執筆)



【33枚の古写真・著名な仏像写真を、コンパクト解説】


全部で、33枚の古写真、著名写真家の文化財・仏像写真が収録され、一枚ごとに、その写真の文化史的な意義や、写真表現の意図、魅力などのコンパクトな解説がなされています。

私のような、文化財古写真や昭和の仏像写真作家たちに興味、関心の深いものについては、なかなかに、たまらない内容の本です。

昨年10月末に刊行された本で、もっと早くご紹介しようと思っていたのですが、「今年の観仏を振り返って」の連載掲載で、手間がかかってしまって、ちょっと遅まきのご紹介になってしまいました。



【本の目次をご紹介】


本書の目次をご覧ください。

国宝ロストワールド目次(1)

国宝ロストワールド目次(2)

国宝ロストワールド目次(3)


目次をご覧いただくと、この「国宝ロストワールド」という本が、どのようなテーマ、内容の本か、おわかりいただけたらと思います。


大変マニアックなテーマの本で、率直に云うと、今時、こんな新刊書をわざわざ書き下ろして出版されることがあるのかと思って、ちょっと調べてみたら、「週刊ニッポンの国宝100」という分冊雑誌の巻末に連載掲載となっていた「写された国宝」と題するコラムのようなものを抜粋、増補して一冊の単行本に仕立てたという本だということです。
「週刊ニッポンの国宝100」は2017年9月~2018年9月にかけて小学館から全53冊で刊行されたのですが、私は中身を見たこともなく、こんな連載コラムがあったのも知りませんでした。


お読みいただくと、我国にもたらされた写真という新技術をもって、文化財がどのように記録されてきたのか、そして記録としての文化財写真から、仏像の美や魅力を表現する芸術写真へと展開していく様相が、大変よくわかります。
そうした中で、写真家たちが、どのような苦労と創意のもとに仏像を撮影してきたのかを、時代を追ってたどることができます。

「近代文化財写真史」という膨大な話のエッセンスを、100ページ余にコンパクトにまとめられた貴重な本といえると思います。

なかでも、収録された二つの解説文

「文化財撮影の歴史を切り拓いた三人の写真師の物語」(岡塚章子執筆)
「国宝と闘った写真家たち」(金子隆一執筆)

は、大変興味深く、これを読むと近代文化財写真史を判りやすく知ることができます。



【見事に凝縮された一行コメント~一言で言いつくされる絶妙フレーズ】


本の個別の内容や解説について、いちいちご紹介しているとキリがありませんので、やめておきますが、 「各項目のインデックスに添えられたリード文」 が、それぞれの古写真、写真家について一言に凝縮した、なかなか絶妙なタイトルになっています。

少しだけご紹介しておきたいと思います。

「法隆寺 夢殿」 横山松三郎 (明治5年・1872)
~史上初の写真での公式文化財記録~


「興福寺 無著菩薩立像」 小川一眞 (明治21~2年・1888~9)
~仏像の持つ精神性を捉えた歴史的名作~


「興福寺 阿修羅像」 工藤利三郎 (明治35年・1902以前)
~阿修羅修理前を知ることができる貴重な一枚~


「中宮寺 菩薩半跏像」 小川晴暘 (大正13年・1924頃)
~仏像写真に芸術性を持ち込んだ画期的な写真~

「国宝ロストワールド」小川晴暘撮影 中宮寺・菩薩半跏像掲載ページ
「国宝ロストワールド」小川晴暘撮影 中宮寺・菩薩半跏像掲載ページ


「法隆寺五重塔北面侍者像」 坂本万七 (昭和25~34年・1950~9頃)
~自然な照明で格調高い美しさを表現~

「国宝ロストワールド」坂本万七撮影 法隆寺五重塔北面侍者像掲載ページ
「国宝ロストワールド」坂本万七撮影 法隆寺五重塔北面侍者像掲載ページ


「室生寺弥勒堂釈迦如来坐像衣文」 土門拳 (昭和18年・1943頃)
~気に入った部分を切り取る“土門美学”の真骨頂~

「神護寺薬師如来像」 土門拳 (昭和40年・1965)
~土門拳が一番愛した仏像、その精神を写す~

「国宝ロストワールド」土門拳撮影 神護寺薬師・室生寺釈迦像掲載ページ
「国宝ロストワールド」土門拳撮影 神護寺薬師・室生寺釈迦像掲載ページ


「西ノ京の秋」 入江泰吉 (昭和33年・1958)
~国宝を大和路の麗しい風景の一部として捉える~


それぞれのリード文の「絶妙フレーズ」には、感心してしまいました。

近代文化財、仏像写真の歴史や魅力にちょっとご関心のある方には、一読必携の一書として、是非お薦めです。



【本書テーマに関連のHP記事、ご参考情報のご紹介】


近代文化財写真の歴史や、仏像写真作家については、日々是古仏愛好HP「埃まみれの書棚から」のシリーズで、ご紹介したことがあります。

「奈良の仏像写真家たちと、その先駆者(その1~10)」
「古佛に魅入られた写真作家達の本~その足跡や生涯~(その1~3)」

ご参考に、ご覧いただければと思います。


ついでに、こんな参考情報も・・・・

本書で採り上げられた明治の写真師、横山松三郎、小川一眞、工藤利三郎の撮影古写真は、次のサイトで見ることができます。

東京国立博物館研究情報アーカイブス  古写真データベース  撮影者別データベース

全部で一万件ほどの膨大な写真資料を、いつでもNETで閲覧することができます
ほとんど知られていないのではと思うのですが、凄い文化財古写真のデータベースです。

古写真データベース収録 横山松三郎撮影 法隆寺金堂・百済観音(明治4年)
古写真データベース収録 横山松三郎撮影 法隆寺金堂・百済観音(明治4年)

古写真データベース収録 小川一眞撮影 興福寺旧金堂に集められた諸仏写真(明治21年)
古写真データベース収録 小川一眞撮影 興福寺旧金堂に集められた諸仏写真(明治21年)

工藤精華撮影 興福寺・十大弟子(明治期)
古写真データベース収録 工藤精華撮影 興福寺・十大弟子(明治期)


このテーマにもう一段ご興味があり、深く知りたいと思われる方には、次の本がおすすめです。

「写された国宝~日本における文化財写真の系譜」岡塚章子編著 
2000年11月 東京都写真美術館刊 【173P】


「写された国宝」

「写された国宝」目次
「写された国宝」  目次



本書は、同名の展覧会図録として発刊されたものですが、大変充実した内容になっています。

新刊の「国宝ロストワールド」の底本的な本だと思います。


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