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観仏日々帖

古仏探訪~2019年・今年の観仏を振り返って 〈その3〉 6~8月 【2020.1.11】


明けましておめでとうございます。

今年も、よろしくお願いいたします。


【6 月】


「2019年・今年の観仏を振り返って」 〈その3〉は、6月観仏の前回積み残しからのご紹介です。


【南山城の3寺~海住山寺、神童寺、禅定寺~を訪ねる】


斑鳩町~大和郡山方面、一人観仏の翌日は、同窓会メンバーで、南山城方面の古寺をいくつか巡りました。

海住山寺、神童寺、禅定寺を訪ね、ご覧のような仏像を拝しました。

観仏リスト01・南山城方面観仏探訪先


〈奈良博から戻っていた美しい檀像風十一面観音像~海住山寺〉


海住山寺は、お堂の修理修復中で、本尊の十一面観音像は拝することができませんでしたが、普段は奈良博に寄託されている檀像風小像の十一面観音像が、本坊に戻っていて、眼近に拝することができました。

海住山寺・本坊
海住山寺・本坊

海住山寺・十一面観音像(平安・重文)
海住山寺・十一面観音像(平安・重文)

いつ観ても、切れ味のいい美麗な像です。
腰をひねった、やわらかで流れるような身のこなしが魅力です。


〈神童寺で目を惹いた菩薩像~以前は気づかなかった古様な平安前期像〉


神童寺、禅定寺も、もう10年ほど訪ねていなかったように思います。
しばらくぶりの拝観で、懐かしく、諸仏を拝することができました。

神童寺で、随分古様な像が1躯あって、目を惹きました。

神童寺
神童寺

神童寺・月光菩薩像(平安後期・重文)..神童寺・日光菩薩像(平安前期・重文)
神童寺・(左)月光菩薩像(平安後期) 、(右)日光菩薩像(平安前期)
日光像は目を惹く古様な平安前期像


日光菩薩像と称される像で、よくよく見ると、9世紀ごろの制作かもしれないと感じさせる一木彫像です。
対となっている月光菩薩の方は、明らかに平安後期の穏やかな像ですが、日光菩薩はなかなか迫力ある像です。
かつて神童寺を訪ねた時には、諸像をさらりと拝してしまったようで、こんな古様な平安前期像があった記憶が残っていません。
私にとっての、新たな発見になりました。
再訪してみるものです。


ランチは、宇治田原町にある「リンデンバウム」という一軒家レストラン。

宇治田原町レストラン「リンデンバウム」

宇治田原町レストラン「リンデンバウム」
宇治田原町レストラン「リンデンバウム」

「こんな山の中にどうしてこんなレストランがあるのか?」

信じられないような、まさに隠れ家レストランでした。
わざわざこのお店を目指して、この片田舎までやってくるお客さんが、結構多いようです。
15席ぐらいでしたが、この日も満席でした。
このためにやってくるお客さんがたくさんいるというのが納得の、美味なるランチでした。



【奈良市東北の「かくれ仏」を巡る~天平回例会に参加】


奈良でもう一泊して、久しぶりに「天平会」例会に参加しました。
毎月、観仏探訪の例会があるのですが、なかなか東京から出かけるのは大変で、本年初めての参加です。

今回の例会は、中墓寺、薬音寺、南明寺、応現寺をバスで巡りました。
いずれのお寺にも、平安古仏が残されています。

4寺共に奈良の中心地の東北の山間、車で30分以内の処にあるのですが、あまり知られていないお寺ばかりだと思います。
奈良郊外の「かくれ仏めぐり」といったラインアップです。

ご覧のような仏像を拝してきました。

観仏リスト02・奈良市東北部かくれ仏観仏探訪先


〈見知らぬ「かくれ仏」との出会い、中墓寺~立派な3如来像にビックリ〉


「中墓寺?」

初耳のお寺でした。
3躯の平安後期の如来像があるというのです。

中墓寺は下狭川町という奈良の東北、笠置に近い山間の村落にありました。

中墓寺に向かう道
中墓寺に向かう道

のどかな野山の緑を感じる里の高台に、ひっそりと佇むお寺でした。

中墓寺・本堂
中墓寺・本堂

収蔵庫・瑠璃殿には、3躯の立派な如来坐像が並んで祀られています。

中墓寺収蔵庫・瑠璃殿に安置される3躯の如来像
中墓寺収蔵庫・瑠璃殿に安置される3躯の如来像

中尊像は半丈六(140㎝)、両脇像は90㎝の像高です。

中墓寺・薬師如来像(平安後期・県指定)
中墓寺・薬師如来像(平安後期・県指定)

中墓寺・阿弥陀如来像(平安後期・県指定)中墓寺・阿弥陀如来像(平安後期・県指定)
中墓寺・阿弥陀如来像(平安後期・県指定)~左右共

いかにも平安後期、藤原風の如来坐像ですが、少し鄙びた造形の感じがします。
在地の仏師の作なのかもしれません。
これらの仏像は、明治初年まで在った近辺の西念寺、大念寺が勝福寺に合併して、現在の中墓寺が成立、それぞれに祀られていたものといいます。

3躯共に昭和52年(1977)に県文化財に指定されていて、これだけの立派な仏像なのに、まったく知られていないといってよいほどの「かくれ仏」です。
見知らぬ平安古仏に出会うことができました。


〈近年、新たに注目された隠れた平安古仏群~山添村 薬音寺〉


山添村にある薬音寺を訪ねました。
薬音寺には平安時代の古仏像群が残されています。

薬音寺・本堂
薬音寺・本堂

薬音寺の仏像は、中墓寺以上に、知られざるお寺、かくれ仏だと思います。
薬音寺の古仏像群が注目され、県の調査が実施されたのは、5年ほど前、2014年のことです。
それまでは全く知られていないといってよい、平安期の古仏群だったのだと思います。

私は、3年前に、この新発見ともいえる古仏群は必見と、薬音寺を訪ねました。
今回は、再訪ということになります。

3年前の「驚きと大興奮の観仏記」は、観仏日々帖 「2016年・今年の観仏を振り返って〈その3〉【9月】」 に詳しく紹介させていただきましたのでご覧ください。

村落で管理しているお堂に、20躯の古仏が、所狭しと祀られています。

薬音寺本堂に祀られる古仏像群
薬音寺本堂に祀られる古仏像群

薬音寺・薬師如来像(平安・村指定)薬音寺・広目天像(平安・村指定)
薬音寺・(左)薬師如来像、(右)広目天像(平安・村指定)"

田舎風というか地方色の強い匂いのする像ばかりですが、鎌倉時代の1躯の他は、すべてが平安古仏です。
古様な一群は、その造形から10世紀に遡る平安古仏であろうと思わせます。
20体近い素朴な平安古仏が、身を寄せ合って、一群で発するパワーには、心惹きつけるものを感じます。

満足感一杯の、薬音寺古仏群との再会でありました。


〈堂内に並ぶ諸尊像が壮観の南明寺~漂う鄙びたのどかさにホッとする〉


次に訪れた南明寺は、円成寺から柳生に向かう途中にあり、本堂には、平安時代の大型の如来坐像3体他の諸像が祀られています。

南明寺・本堂
南明寺・本堂"

堂内に横一列に大きな尊像が並んだ有様は、なかなか壮観です。

南明寺・阿弥陀如来像(平安後期・重文)南明寺・釈迦如来像(平安後期・重文)
南明寺・(左)阿弥陀如来像、(右)釈迦如来像(共に平安後期・重文)" "

造形的には、これまた「奈良の地方色」といったちょっと鄙なる雰囲気がある諸仏です。
南明寺は、ご住職が普段は不在なので、拝観立会いのご面倒をかけなければいけないのですが、私は、このお堂と仏様たちの、鄙びたのどかな穏やかさのようなものが気に入っていて、訪れるのが、4回目にもなりました。

今回の観仏で、薬師如来像(平安中期)が滋賀善水寺の薬師如来像(正暦4年・993)に、顔かたちが似ているのではないかというのが、気になりました。

南明寺・薬師如来像(平安中期・重文)善水寺・薬師如来像(正暦4年993・重文)

南明寺・薬師如来像.善水寺・薬師如来像
(左)南明寺・薬師如来像(平安中期・重文) 、(右)善水寺・薬師如来像(正暦4年993・重文)"

善水寺像の方がふっくらしていて造形的にも優れているのはもちろんのことですが、
「この顔、目鼻立ちは善水寺パターンか?」
という感じがしました。
皆さん、如何でしょうか?


〈山間の観音講に守られる見事な秀作~応現寺・不空羂索観音像〉


最後に訪れた、応現寺の不空羂索観音像は、東鳴川観音講の皆さんによって守られている仏像です。

応現寺のお堂
応現寺のお堂

山間の観音講の人々に守られてきた仏像とは思えない、中央作の見事な出来栄えの不空羂索観音坐像です。

応現寺・不空羂索観音像(平安後期・重文)
応現寺・不空羂索観音像(平安後期・重文)

11世紀末~12世紀の制作とされていますが、優雅というよりは、キリリと秀麗という言葉が似合います。
この不空羂索像は、治承4年(1180)の南都焼き討ちで焼失した、興福寺南円堂根本本尊・不空羂索観音像の姿に準拠しているとみられ、そうした意味でも大変貴重な作例です。



【奈良・南山城の「かくれ仏」を巡った3日間
~平安期の奈良の地の「地方性」を再認識】

3日間にわたって、斑鳩町大和郡山方面、南山城、奈良市東北山間部の「かくれ仏」の数々を訪れました。
融念寺、大和郡山の西岳院、光堂寺、南山城の神童寺、禅定寺、奈良東北部の中墓寺、薬音寺、南明寺などです。

今回の「かくれ仏探訪」の中で、今更ながらに感じたことは、平安の中後期頃は奈良の地は「地方」であったのだなということです。
奈良というと「一流の仏像」「中央の仏像」という、なんとなくの先入観があり、全国各地の地方仏を巡るときには、「奈良は中央」という気になってしまいます。

当たり前のことなのですが、当時の奈良の地は、中央の京都からは、結構、地方で、所謂地方色ある仏像が造られていたということを、再認識させられました。

「奈良の地の地方仏」とでも呼ぶのでしょうか?



【7 月】


【久しぶりに、会津方面の観仏へ】


一泊で、会津方面に同好の方々と観仏に出かけました。


〈最大の目的は、平安前期、個人蔵・吉祥天像との初対面~福島県博「興福寺と会津展」に出展〉


わざわざ会津まで出かけた最大の目的は、「興福寺と会津展」に出展された、個人蔵の平安前期作という吉祥天像を観るためです。

「興福寺と会津展」開催中の福島県立博物館
「興福寺と会津展」開催中の福島県立博物館

「興福寺と会津展」は、会津若松市の福島県立博物館で開催され、

興福寺からは、東金堂四天王像、維摩居士像、長和2年薬師像、法相六祖像など
会津の仏像では、勝常寺・四天王像、個人蔵・吉祥天像、明光寺・十一面観音像など

が出展されました。


〈勝常寺諸像と共通作風、東北地方木彫像中最古作例の一つとして、近年重文指定〉


お目当ての個人蔵・吉祥天像というのは、9世紀も早いころの制作で、2007年に新たに重要文化財に指定されています。

会津美里町 個人蔵・吉祥天像(平安前期・重文)
会津美里町 個人蔵・吉祥天像(平安前期・重文)

会津美里町の個人宅の金毘羅堂に祀られているそうです。
私は、この像を観たことがなく、チャンスがあれば、是非とも一度実見していたいものと念じていたのです。

重文指定時の解説によれば、
「顔立ちや衣縁の蛇行する表現など、その作風は近在の勝常寺諸像と共通し、同系の工人によって造られたことが明らかである。」
(月刊文化財2007.6~新指定の文化財)
というのです。


〈古様でパワフルな吉祥天像は、確かに平安前期
~勝常寺像同系のふれこみに、期待感が高まりすぎだったかも?〉

興味津々、展覧会場では、いの一番で、この吉祥天像の処へ行きました。
像高97.8㎝、ケヤキの一木彫で、台座まで一木で彫成されています。

眼近に実見することができました。
「もっと迫力や力感あふれ、強く惹きつけられる像かと思ったら、そこまでは・・・・・」
というのが、正直な第一印象でした。

ちょっと期待感が高まりすぎていたのかもしれません。
あの素晴らしい傑作の勝常寺・薬師如来像の造形レベルイメージの先入観がありすぎたようです。
確かに、顔立ちは勝常寺薬師に似ているのですが、全体の造形は、パワフルさはあるものの、粗くて大まか、野趣に富んでいるように思えます。

会津美里町 個人蔵・吉祥天像(平安前期・重文)勝常寺・薬師如来像(平安前期・国宝)
(左)会津美里町 個人蔵・吉祥天像(平安前期・重文)、(右)勝常寺・薬師如来像(平安前期・国宝)

この吉祥天像を、何の予備知識もなくたまたま拝したとしたら、解説どおりの

「東北地方木彫像の中で最も古い作例の一つであり、その優れた作柄も高く評価される。
(吉祥天像造立の)地方における九世紀に遡る例は稀少であり、本像はその一例としても貴重である。」
(月刊文化財2007.6~新指定の文化財)

というふうに感じたのだろうかといわれると、かなり自信がありませんでした。

確かに、
「なかなかパワフルで、かなり古様な平安古仏だな。」
という印象は受けるのですが、
そこまでかなというのが本音の実感でした。

まだまだ、「仏像を観る眼」の研鑽が足りないのかもしれません。


「興福寺と会津展」の後は、ご覧のような古仏を巡りました。

観仏リスト03・会津方面観仏探訪先


〈何度拝しても、見惚れてしまう東北唯一の国宝像~勝常寺・薬師如来像〉


福島県立博物館の後は、勝常寺へ。

勝常寺・本堂
勝常寺・本堂

湯川村の勝常寺を訪ねるのは、これで4度目です。
本堂の厨子に祀られる薬師如来像は、流石に、東北唯一の国宝仏像、何度拝しても見惚れてしまいます。

勝常寺・薬師如来像(平安前期・国宝)
勝常寺・薬師如来像(平安前期・国宝)

ますます魅力が増していくばかりです。


〈一度、観てみたかった不思議建物~「さざえ堂」〉


そのあとは、会津若松市内、白虎隊で知られる飯盛山にある「さざえ堂」に寄りました。
二重螺旋の不可思議建物です。

さざえ堂(江戸・重文)
さざえ堂(江戸・重文)

寛政8年(1796)に、上り下り別通路の一方通行で三十三観音巡りが出来るという構造で建てられたのだそうです。
エッシャーのだまし絵の建物を見ているような気分になります。


夜は、会津の有名人気居酒屋「籠太」で。

居酒屋「籠太」
居酒屋「籠太」

会津の郷土料理の定番、けとばし(馬刺し)、こづゆ、鰊の山椒漬けなどなどを愉しみながら、ついつい飲みすぎてしまいました。


〈復元制作された慧日寺本尊・薬師如来像を観に、慧日寺跡へ〉


翌日は、朝一番で、会津の磐梯町にある、慧日寺跡へ。

昨年(2018)、復元制作された慧日寺本尊・薬師如来像が、どんなものかを観たくて出かけました。

慧日寺は、平安時代初め、大同2年(807)に南都、法相宗の高僧・徳一(とくいつ)によって開創された東北最古といわれる大寺院でしたが、その後衰亡、明治の廃仏毀釈によって廃寺となり、跡形もなくなってしまいました。

慧日寺跡に復元された中門と金堂
慧日寺跡に復元された中門と金堂

近年、慧日寺当初の姿の復元整備への取り組みが進められており、2008年に再興された金堂に、去年、当初本尊像を想定した、復元像が制作安置されたのです。

慧日寺跡金堂に安置されている復元薬師如来像
慧日寺跡金堂に安置されている復元薬師如来像

詳しい話は、観仏日々帖 「会津・慧日寺跡に、草創当初の薬師如来復元像(東京藝大制作)を安置」 に採り上げさせていただきましたので、ご覧ください。


〈現代の復元像といえども、一見の価値あるダイナミックな造形~慧日寺・薬師如来像〉


像高1.9m、台座から光背までの総高は4.2mの大型像です。

慧日寺・薬師如来復元像(東京藝大制作)
慧日寺・薬師如来復元像(東京藝大制作)

復元像は、同じ徳一開基といわれる勝常寺の国宝・薬師如来坐像を手本にして、制作されました。
東京藝術大学の保存修復彫刻研究室によって、3年かけて制作されたそうです。
前日拝した、勝常寺の薬師如来像の姿を頭に浮かべながら鑑賞しました。

慧日寺・薬師如来復元像(東京藝大制作)
慧日寺・薬師如来復元像(東京藝大制作)

流石に、勝常寺・薬師像には遥かに及びませんが、なかなかパワフルでダイナミックな存在感を感じます。
現代の復元制作像といえども、充分、一見の価値ある見事な仏像でした。


〈堂々たる阿弥陀三尊像に圧倒される~喜多方願成寺の会津大仏〉


喜多方市の願成寺を訪ねました。
願成寺には「会津大仏」の名で知られる、鎌倉時代の阿弥陀三尊像があります。
像高:2.4mの丈六仏で、重要文化財に指定されています。

願成寺は、随分広い敷地の境内でした。

願成寺
喜多方 願成寺

目指す阿弥陀三尊像は、山門、本堂を通り過ぎた奥、大仏殿と称された収蔵庫に祀られていました。

願成寺・大仏殿(収蔵庫)
願成寺・大仏殿(収蔵庫)

通常は、大仏殿の外からガラス越しの参拝となるのですが、事前にお願いして、大仏殿の中に入れていただき眼近に会津大仏を拝することができました。
京都三千院像と同じく、両脇侍が跪坐の来迎の阿弥陀三尊像です。

願成寺・阿弥陀三尊像(鎌倉・重文)

願成寺・阿弥陀三尊像(鎌倉・重文)
願成寺・阿弥陀三尊像(鎌倉・重文)

鎌倉期、13世紀前半ごろの制作とみられ、巨大な船形光背には、千仏がぎっしりと貼り付けられています。
天井近くまで仰ぎ見る大きな阿弥陀像の姿には、圧倒されるものがありました。
心安んずる来迎の世界というよりは、むしろ迫力のようなパワーを感じました。


〈何故だかカヤ材の巨木を用いた、願成寺・阿弥陀三尊像
~東北に生育しないレアーな用材の訳は?〉


大変興味深かったのは、この像の用材が、カヤ材に違いないということです。

平成16年(2004)に船形光背、千仏を修理した牧野隆夫氏は、阿弥陀像の胎内調査をした際にカヤ特有の匂いがしたことから、カヤ材像に間違いないとの指摘をしています。
阿弥陀像の体幹部は、巨大なカヤ材の、前後2材矧ぎだということです。

中央の仏像用材として一般的な、ヒノキ、カヤという針葉樹材は、関東あたりが北限で、当地では原則として生育分布していません。
東北の仏像用材としては、ケヤキやカツラが一般的です。
また、鎌倉期の大型漆箔像の用材は、中央ではほとんどヒノキ材が使われています。
またカヤ材の巨木というのは、大変数が少ないのです。

この阿弥陀像は、どうして当地では生育しない用材を用い、それも一般的ではなく数の少ないカヤの巨木を、わざわざ持ち込んで用材としたのでしょうか?
取るに足らぬどうでもいいことのようですが、私にとっては、興味津々の話なのです。


〈一番、心に残った「長床」の吹き抜け拝殿~新宮熊野神社〉


同じ喜多方の新宮熊野神社を訪れました。

新宮熊野神社
新宮熊野神社

収蔵庫・宝物殿には、藤末鎌初の文殊菩薩騎獅像(県指定文化財)などの仏像が安置されています。

新宮熊野神社・文殊菩薩像(鎌倉・県指定)
新宮熊野神社・文殊菩薩像(鎌倉・県指定)

仏像よりも、心惹かれたのは、「長床」(ながとこ)と呼ばれる大きな拝殿でした。

新宮熊野神社・長床
新宮熊野神社・長床

太い柱が林立する、吹き抜けの壮大な建物です。
九間四間の芧葺寄棟造り、藤原時代の貴族の住宅建築としての寝殿造りの主殿の形式をふんだ鎌倉初期建築で、重要文化財に指定されています。

長床に上がって、板の間に座り込んでいると、自然と心静かに安らかな気持ちになります。

新宮熊野神社・長床
新宮熊野神社・長床

涼しい風が吹き抜けてきます。
頭を空っぽにして、無心になれるような気がするのです。

今回の会津旅行で一番心に残ったのが、この「長床」でした。


お昼は、なんといってもやっぱり喜多方ラーメン。
老舗の人気店「まこと食堂」へ。
中華そば 700円、なかなか美味かった。

喜多方ラーメン「まこと食堂」
喜多方ラーメン「まこと食堂」


【8 月】


【見事な彩色の板光背に感動!~「奈良大和四寺のみほとけ展」】


東京国立博物館で開催された、「奈良大和四寺のみほとけ展」に行きました。

「奈良大和四寺のみほとけ展」チラシ

岡寺、室生寺、長谷寺、安倍文殊院から、いくつかの仏像が出展されました。
重文以上の出展像は、ご覧の通りです。

観仏リスト05・奈良大和四寺のみほとけ展出展仏像

展覧会の目玉は、室生寺弥勒堂の釈迦如来像、金堂の十一面観音像でしょう。
流石の、平安一木彫像を代表する国宝像です。

今回ちょっと気になったのは。十一面観音像の腰から下、脚部の造形が、意外と生硬で形式的な感じがしたことです。

室生寺・十一面観音像(平安前期・国宝)
室生寺・十一面観音像(平安前期・国宝)

顔貌、上半身の活き活きとした魅力的造形とのミスマッチ感を、ちょっぴりと感じました。
これまで、そんなことが気になったことは無かったのですが・・・・・・

地蔵菩薩像の板光背が、仏像とは別に単体で展示されていました。
この板光背は、現在、寺外に出て三本松中村区、安産寺にある地蔵菩薩像の本来の光背であったものです。

室生寺・地蔵菩薩像 板光背(平安前期・重文).三本松中村区安産寺・地蔵菩薩像
(左)室生寺・地蔵菩薩像 板光背(平安前期・重文)、(右)三本松中村区安産寺・地蔵菩薩像

光背単体で眼近に観ることができるというのは、めったにないことです。
素晴らしい文様、彩色の光背です。
凄い躍動感で、あまりの見事さに唸ってしまいました。

岡寺・義淵僧正像は、国宝に指定されていることが大納得の、傑出した優作だと思うのですが、何故だか、あまり人気がないようです。

岡寺・義淵僧正像(奈良・国宝)
岡寺・義淵僧正像(奈良・国宝)

室生寺諸像の人だかりの多さに比べて、立ち止まって観る人も少ないようで、ちょっと残念に思いました。



【東博・平常陳列で目に付いた2像~たまの陳列、松蔭寺・如来像、中宮寺・文殊像】


東博2階の平常陳列に、松陰寺・如来像と中宮寺・文殊菩薩像が展示されていました。

観仏リスト04・東博平常陳列仏像

共に東博に寄託されている像ですが、たまにしか展示されないように思います。

松陰寺・如来像(飛鳥後期・市指定)中宮寺・文殊菩薩像(鎌倉・重文)
(左)松陰寺・如来像(飛鳥後期・市指定)、(右)中宮寺・文殊菩薩像(鎌倉・重文)

松陰寺・如来像は、奈良時代末期~平安初期の、白鳳小金銅仏の模古的な像ともいわれていましたが、飛鳥後期、8世紀初めごろの制作として、2016年に横浜市指定文化財に指定された金銅仏です。

中宮寺・文殊菩薩像は「紙製」という、大変珍しい像です。



【8 月】


【酷暑にめげず三重、3寺の秘仏ご開帳へ】


「熱中症から身を守ってください!」

という言葉が、まさに実感の炎暑、酷暑で、こんな時期に出かけるのはいかがかという処ですが、三重方面に秘仏御開帳をめがけて、出かけてしまいました。

毎年8月9・10日限りでご開帳される、次の3寺です。

津市白山町の「常福寺」の秘仏・千手観音立像
鈴鹿市の「林光寺」の秘仏・千手観音立像
桑名市の「勧学寺」の秘仏・千手観音立像(8/9・10両日ご開帳)

その他、ご覧のような古仏を訪ねました。

観仏リスト06・三重3寺秘仏ご開帳ほか観仏先

常福寺・千手観音像は、三重県屈指の平安前期の優作像です。
林光寺・千手観音像は、8/9の深夜数時間限りのご開帳という秘仏です。
勧学寺・千手観音像は、ちょっと鄙びた野趣を感じる平安後期像です。

常福寺・千手観音像(平安前期・重文)
常福寺・千手観音像(平安前期・重文)

林光寺・千手観音像(平安後期・重文)勧学寺・千手観音像(平安後期・県指定)
(左)林光寺・千手観音像(平安後期・重文)、(右)勧学寺・千手観音像(平安後期・県指定)

この3寺の秘仏ご開帳については、観仏日々帖 「8/9開帳、三重3ヶ寺の秘仏を訪ねて 【その1】  【その2】」 で、紹介させていただきましたので、そちらをご覧ください。

この3ヶ寺の他には、津市の四天王寺と東明寺を訪ねました。


〈像内納入品に女性願主の想いが偲ばれる~四天王寺・薬師如来像〉


四天王寺では、平安後期の薬師如来像を拝しました。

四天王寺
四天王寺

この薬師如来像は、江戸時代に像内から数々の納入品が取り出されており、納入文書から承和4年(1077)の制作であることが明らかになっています。

四天王寺・薬師如来像(平安・重文)
四天王寺・薬師如来像(平安・重文)

薬師如来像は、大きな本堂の中の脇の立派な厨子に祀られていました。
プレ定朝様と云って良いような、平安中期的な雰囲気を感じる仏像でした。
ご住職の特段のご配意により、別に保管されている像内納入品を拝見することができました。
結縁交名状などの文書の他、女性願主の遺愛品であろうの鏡・櫛・扇骨・縫針・タカラガイなどの納入品で、この薬師像へ籠められた祈りの想いが、強く偲ばれました。


〈地区で守られる美しい藤原仏~東明寺・薬師如来像〉


東明寺・薬師如来像は、地区の人々の管理で、収蔵庫に安置されていました。

東明寺・収蔵庫
東明寺・収蔵庫

この仏像を拝しにわざわざ訪れる人は、めったにないようです。
所謂、定朝様の美しい藤原仏でした。

東明寺・薬師如来像(平安後期・県指定)
東明寺・薬師如来像(平安後期・県指定)


【三重から一足延ばして、ミホミュージアム「紫香楽宮と甲賀の神仏展」へ】


三重まで来たついでに、ミホミュージアムで開催の「紫香楽宮と甲賀の神仏展」にも行きました。

「紫香楽宮と甲賀の神仏展」チラシ

三重からミホミュージアムのある信楽までは、随分遠そうに思うのですが、レンタカーで行くと1時間ちょっとと、それほど時間がかかりませんでした。

この展覧会は、紫香楽宮に関する文化財展示ということで、紫香楽宮発掘調査などにより明らかになった古瓦、木簡などの考古遺物や、善水寺、金勝寺など湖南の寺々に伝わる仏像、神像が出展されていました。

善水寺・金堂釈迦誕生仏像(奈良)、金勝寺・僧形神像女神像(平安)、毘沙門天像(平安)、飯道寺・十一面観音像(平安)、矢川神社・男女神諸像、正福寺・十一面観音像(平安)、阿弥陀寺・薬師如来像(平安)など

が展示されていました。
出展像のなかでは、金勝寺の僧形八幡神像(平安・県指定)と毘沙門天像(平安・重文)が、私にはインパクトがありました。

金勝寺・僧形八幡神像(平安・県指定)金勝寺・毘沙門天像(平安・重文)
金勝寺・(左)僧形八幡神像(平安・県指定)、(右)毘沙門天像(平安・重文)"


ついで話ですが、ミホミュージアム所蔵の、重要文化財になっている耀変天目茶碗が展示されていました。

国宝の耀変天目三碗に次ぐ、加賀前田家伝来の耀変天目茶碗です。
確かに国宝三碗には及びませんが、一度。実見してみたいと思っていたもので、なかなかのものでした。

ミホミュージアム所蔵・耀変天目茶碗(重文)
ミホミュージアム所蔵・耀変天目茶碗(重文)




古仏探訪~2019年・今年の観仏を振り返って 〈その2〉 5~6月 【2019.12.29】


【5 月】


【毎年恒例の「新指定 国宝・重要文化財展」に、東博へ】


毎年、東京国立博物館で開催される「新指定 国宝・重要文化財展」に出かけました。

平成31年度「新指定 国宝・重要文化財展」図録
平成31年度「新指定 国宝・重要文化財展」図録
表紙写真は唐招提寺・伝獅子吼菩薩像


最近は、ゴールデンウィークといわれても、どこへ出かけるというわけでもなし、私にとっては、この展覧会がゴールデンウィーク近辺の恒例のイベントのようになってしまいました。

今年、平成31年度に展示された新指定の彫刻作品・仏像展示は、ご覧の通りです。

「新指定 国宝・重要文化財展」出展仏像


〈はち切れる力感、圧倒的存在感に唸ってしまった、唐招提寺・薬師像〉


会場で、圧倒的な存在感を誇っていたのは、唐招提寺の薬師如来像でした。
周囲を圧した、ものすごいパワーです。

唐招提寺・薬師如来像唐招提寺・薬師如来像
圧倒的な存在感を誇っていた唐招提寺・薬師如来像

昔は、唐招提寺・講堂木彫群の中では、衆宝王菩薩や獅子吼菩薩像の方が、むしろお気に入りで見事な造形だという風に感じていたのですが、近年は、薬師如来像の方の造形的魅力に、強く惹かれるようになりました。
薬師像の魅力は、なんといっても、はち切れるようなボリューム感の肉体表現です。
いわゆる肥満というのではなくて、強い「力感」をみなぎらせたボリューム造形になっているところが、なんといっても凄いところだと思います。

展覧会図録の解説をみると、
「唐風が最も濃厚なのは薬師如来・伝衆宝王菩薩で、特に薬師の出来栄えが優れ、量感に富んだ体躯や、肉付けを強調しつつ流麗に集散する衣文など、他を圧する迫力を示す。」
と、記されていました。

今更ながらに、納得!という処です。

実は、この薬師像や、衆宝王、獅子吼像、
「あれ、まだ国宝になっていなかったの?」
という意外感の方が結構ありました。

そういえば、まだ重要文化財指定だったのです。


〈「重文5件を統合して国宝1件」となった唐招提寺・木彫群
~評価された、我国木彫像の歴史の起点的意義〉

今回の国宝指定は、それぞれ個別に重文指定されていた、
薬師如来、伝衆宝王菩薩、伝獅子吼菩薩、伝大自在王菩薩、二天王
の各像6躯5件を統合して、国宝1件として指定されました。

国宝に指定された唐招提寺木彫群6躯
国宝に指定された唐招提寺木彫群6躯

「なるほど、こういう国宝指定方法があったんだ。」
と、感心してしまいました。

確かに、一件ずつ個別に国宝指定ということになると、6躯全部が国宝指定というのは、ちょっと難しい感もします。

文化庁の国宝指定の答申解説には、このように記されていました。

「唐招提寺木彫群として知られる木彫像。
・・・・・
天平勝宝五年(754)に唐僧鑑真に随行して来朝した中国工人が直接または間接的に製作に関与している可能性が高い。
日本の木彫像の長い歴史の起点となる作例と評価される。」

唐招提寺木彫群の、美術史上の重要性や造形的魅力を鑑みると、国宝指定は当然という処ですが、なかなかの知恵を絞った一括国宝指定だなと、納得した次第です。


〈「京博、仏像展示の顔」安祥寺・五智如来像も、ついに国宝に〉


国宝指定となった安祥寺・五智如来像は、中尊・大日如来像他の3躯が出展されていました。

安祥寺・五智如来像(大日如来像)
安祥寺・五智如来像(大日如来像)

並んで展示されていた、唐招提寺・薬師像、衆宝王菩薩像と見比べてしまうと、造形の魅力としては、少しばかり見劣りしてしまうように感じたのが本音の処ですが、長きにわたって「京都国立博物館の仏像展示の顔」となっている、造立来歴が明らかな平安前期密教彫刻の堂々たる作例であることには間違いありません。

京博で、幾度となくその姿を見たなじみの仏像であっただけに、
「ついに、国宝指定になったのか。」
という感慨が、じんわりとよぎりました。


〈不思議な二重構造の、新薬師寺 おたま地蔵・景清地蔵
~「生身」と「師、尊崇」への想い、信仰に感慨を覚える〉

重要文化財新指定の仏像のなかで、私の目を惹いたのは、新薬師寺の地蔵菩薩像でした。

新薬師寺・地蔵菩薩像(着衣像:景清地蔵).新薬師寺・地蔵菩薩像(裸形像:おたま地蔵)
新薬師寺・地蔵菩薩像(着衣像:景清地蔵、裸形像:おたま地蔵)

この地蔵像、裸形の像が、貼り付けるように作られた木製の着衣で覆われていて、一見は、普通の地蔵菩薩像の姿をしていたという、なんとも不思議仏像なのです。
通称、景清地蔵、おたま地蔵と呼ばれています。

この地蔵像は、新薬師寺の香薬師堂に安置されていて、その昔、一度拝したことがあるようなないような、あいまいな記憶しか残っていません。
しっかりとその姿を拝するのは、今回が初めてとなりました。

現在は、
「首から下だけの裸形の像、通称・おたま地蔵と、着衣の地蔵像、通称・景清地蔵」
の2体に分離されていて、今回も、裸形、着衣の2像が展示されていました。

その姿を観ると、一寸生々しすぎて、ぞっとしないでもないのですが、このような姿に作られたいきさつには、興味深い物語があるのです。

その話を、一寸だけご紹介したいと思います。

この地蔵像は、古来、平家物語の登場人物、悪七兵衛景清ゆかりの像との伝承があって、「景清地蔵」という名で知られていました。
1984年に、本像を東京藝大で修理修復することになり、像を解体したところ、超ビックリの発見となりました。
着衣が本当に衣を着せるように貼り付けてあり、その中から、裸の姿の仏像が出現したのです。
裸形像と着衣との二重構造になっていたのです。

像胎内から造立願文も見つかり、そこには、鎌倉時代、興福寺僧・實尊が亡くなり、嘉禎年間(1235~38)にその弟子・尊遍が師を慕い菩提を弔うために、裸形像を造立した旨が記されていました。
尊遍は、この裸形像に本物の衣を着せて、師・實尊が生きているがごとくに、日々、拝していたようなのです。

裸形像が着衣像に改変されたのは、13世紀後半のようです。
何故、そのような改変が行われたのでしょうか?
それは、尊遍が晩年となり、先々、師・實尊を弔う裸形像に衣を着せて守ることが難しくなり、自らが死んで供奉するものがいなくなることを案じて、永久保存可能な着衣像に改変したからではないかという想像がされています。

この二重構造の事実が発見された際、お寺の方で、
「裸形像を独立させ、信仰の対象としたい。」
という希望が出され、着衣像と裸形像との2体に分離されることになりました。

その後は、着衣像は「景清地蔵」、裸形像は「おたま地蔵」と称され、祀られるようになりました。
裸形像を「おたま地蔵」と呼ぶのは、その股間にまるまるとした蓮の花のつぼみを象った「おたま」をつけていることに因むものです。

こうした物語に思いを致しながら、この地蔵像を観ていると、いわゆる「生身」への信仰と、「師弟の尊崇、信愛」への想いが、強く籠められた像であることに、感慨を覚えるものがありました。



下旬には、妻と一泊で京都へ出かけました。

初日は、二つの展覧会へ。
龍谷ミュージアムの「因幡堂 平等寺展」と、京博の「一遍聖絵と時宗の名宝展」です。


【龍谷ミュージアムで開催の「因幡堂 平等寺展」へ】


「因幡堂 平等寺展」チラシ

「因幡堂 平等寺展」での注目仏像


〈因幡の国から飛来したという、二つの薬師像が一堂に
~京都平等寺・薬師と岐阜延算寺・薬師〉

龍谷ミュージアムの「因幡堂 平等寺展」の最大の注目は、因幡の国から飛来したと伝える、2体の薬師如来像が、同時に展示されることです。
京都因幡堂の薬師如来像と、岐阜延算寺の薬師如来像です。
展覧会の副題にも「京に飛んできたお薬師さん」という副題がつけられています。

因幡堂平等寺・薬師如来像
因幡堂平等寺・薬師如来像

因幡堂平等寺・薬師如来像は、因幡堂縁起によると、

「長徳3年(997)、因幡国国司・橘行平が任終わって帰洛の途中、急病にかかり回復祈願した処、因幡賀留津(いなばかるつ)の海中の浮木を供養せよとの夢告があり、探し出すと薬師如来像であり仮堂に安置した。
長保5年(1003年)、橘行平屋敷の戸を叩くものがあり、それは因幡からはるばる虚空を飛来してきた薬師像であった。
行平は高辻烏丸の屋敷に薬師像を祀ったのが、因幡薬師平等寺の起源である。」

と伝えられています。
現存薬師像は、この縁起の記す通りの長保5年(1003年)頃の制作とみられています。


岐阜延算寺・薬師如来像
岐阜延算寺・薬師如来像

一方、延算寺・薬師如来像は、

「延暦24年(805)に、最澄が唐より帰朝し、西国から上洛の途中、因幡国岩井郡岩井山の麓で一木をもって薬師尊像二体を彫刻し、一体をその地に留め、一体を護持して上洛し、比叡山の本尊とした。
因幡国にあった尊像は、やがて東を指して飛び去り、当地に至った。
その頃、当地で草庵を結んで修行に励んでいた比丘は、像を盥の上に安置した。
この『盥の尊像』を祀る一堂を建立したのが、延算寺である。」

と伝えられます。
この像は、因幡堂像よりも、量感も豊かで古様な感じで、10世紀半ばから後半の制作とみられています。


〈制作時期は異なるが、共通点多い二つの薬師像~類似する像高、表現形式、構造など〉


この二つの薬師如来像は、11年前、2009年に鳥取県博で開催された「はじまりの物語展」に出展されて以来の、揃ってのミュージアム出展です。

平等寺像は、下京区にあるお寺で拝すると、厨子の中に祀られ頭には頭巾がかぶせられているので、ちょっと観にくいところがあるのですが、龍谷ミュージアムでは、360度ビューで眼近にじっくり観ることができました。

お寺で正面から拝すると、割と平板で抑揚の少ない造形のように感じるのですが、背面へ回って観ると、思いの外のボリューム感があったのは意外感がありました。
この薬師像は、サクラ材の一木彫像で内刳りがありません。
そこだけを聞くと、平安前中期のボリューム感をとどめた像のように思うのですが、正面観では平安後期の穏やかで穏和、平板という印象を受け、ちょっと違和感がありました。
背面の抑揚にその名残をとどめているのかなと、一人納得した次第です。

延算寺像は、鳥取県博以来の二度目の御対面です。
10年余前の鳥取県博では、念願の初対面で、存在感やパワーのようなものを結構感じたのですが、今回は、重量感はあるものの穏やかさ、まろやかさも伺えるような印象で、初対面の時ほどにはインパクトを感じませんでした。
カヤ材の一木彫で内刳りなしという古様な造りなのですが、10世紀後半の制作という解説に、結構納得しました。

この二つの薬師如来像、造形感覚は異なるものの、像高が153㎝とぴったり一緒、内刳りなしの一木彫というのも一緒です。
衣文の形式(腹部下方のY字状、大腿部周辺のU字状衣文)も類似しています。

共に「因幡の国からの飛来伝説」を有する像だということと、何らか共通する造像背景によるものなのでしょうか?


〈展覧会で出来の良さが目を惹いた、二つの鎌倉期の阿弥陀像
~平等寺と西念寺の阿弥陀坐像〉

そのほかの展示仏像で、目を惹いたのは、平等寺・阿弥陀如来坐像と西念寺・阿弥陀如来坐像でした。
共に、なかなか出来の良い、鎌倉期の阿弥陀如来坐像です。

平等寺・阿弥陀如来坐像は、平等寺というと因幡薬師で、これまでは全く知らない像でしたが、整った造形ですがなかなかの張りを感じます。

平等寺・阿弥陀如来像
平等寺・阿弥陀如来像

衣文のうねりも、躍動感があるようです。
運慶次世代仏師の作であろうということですが、印象に残る像でした。

西念寺・阿弥陀如来坐像は、湛慶もしくは湛慶工房の作かという見方がある像です。

西念寺・阿弥陀如来像
西念寺・阿弥陀如来像

これまた初見の仏像ですが、足を止めてじっくり観たくなる出来の良さです。
力強さの中に、静かな落ち着きを感じさせるものがあります。
流石に、湛慶云々とみられるだけのことはある仏像という気がしました。


【京博で開催の「一遍聖絵と時宗の名宝展」へ】


京都国立博物館で開催の「一遍聖絵と時宗の名宝展」に行きました。

「一遍聖絵と時宗の名宝展」チラシ

何といっても展覧会の大目玉は、国宝・一遍聖絵(清浄光寺(遊行寺)蔵)の出展です。
全12巻が17年ぶりに一堂に展示されます。

流石に、大勢の参観者で、随分混み合っていました。
絵巻のことはよくわからないものの、ゆっくり愉しませてもらいました。


〈注目は、二つの「行快作」の阿弥陀像〉


「一遍聖絵と時宗の名宝展」出展の行快作仏像

仏像の方は、時宗関係のお寺の像が10躯ほど出展されていました。

私の注目は、二つの行快作の仏像です。
滋賀阿弥陀寺・阿弥陀如来像と京都聞名寺・阿弥陀三尊像です。

聞名寺・阿弥陀三尊像は、昨年(2018)12月に両脇侍像の足ホゾから「巧匠 法眼行快」の墨書が見つかり、行快作像の新発見で話題を呼んだ像です。

聞名寺・阿弥陀三尊像(行快作)聞名寺・阿弥陀三尊像(行快作)聞名寺・阿弥陀三尊像(行快作)
新発見の行快作 聞名寺・阿弥陀三尊像(

この新発見については、観仏日々帖 「行快作の仏像新発見、京都・聞名寺の阿弥陀三尊像」 で、紹介させていただきました。

滋賀県西浅井町の阿弥陀寺・阿弥陀如来像の方は、50年以上前に足ホゾから「巧匠 法眼行快」の墨書が発見され、文暦2年(1235)頃の行快作像であることが判明しています。

滋賀阿弥陀寺・阿弥陀如来像(行快作)
滋賀県西浅井町~阿弥陀寺・阿弥陀如来像

両像ともに初対面です。

阿弥陀寺像の方は、なるほど行快という風に感じました。
顔貌が眼を大きく見開いて力強く、ちょっと生々しい野性味を感じさせ、大報恩寺の釈迦如来坐像に代表されるような行快特有の雰囲気を感じます。


〈行快風の雰囲気がよく判らなかった、新発見の聞名寺・阿弥陀三尊像
~自身の鎌倉彫刻への疎さ加減を痛感〉

一方、聞名寺・阿弥陀三尊像を観ると、眼も細めで穏やかな感じで、行快作だといわれても、まったく判らないというのが本音の処です。

鎌倉彫刻にとんと疎い私には、
「なるほど、行快風ですね。」
などという見分けは、全然つきません。

行快作という話がなければ、気にもかけずに通り過ぎてしまうことでしょう。
勉強不足というか、眼が効かないということを、思い知ったという処です。


この日のランチは、六条堀川の「西洋酒樓 六堀」、夜はいつものなじみの四条河原町「志る幸」で。

「西洋酒樓 六堀」は、龍谷ミュージアムの近くにあるので、初めて寄ってみました。
ちょっとシャレた感じの洋食屋さんで、人気のオムライスを食べてみました。

六条堀川「西洋酒樓 六堀」
六条堀川「西洋酒樓 六堀」



〈琵琶湖疎水船、往復体験完了に大満足〉


翌日は、琵琶湖疎水船へ。

昨年からスタートした琵琶湖疎水船運航、去年の10月に乗船してみて、最高でしたので、今年ももう一度乗ってみたいと、予約をとったのでした。
昨年は、三井寺口から蹴上まで、疎水の流れに沿って往きました。
今年は逆コース、蹴上から三井寺口まで、緑に包まれた水面を進むクルーズを愉しみました。

琵琶湖疎水船~京都蹴上

琵琶湖疎水船~大津三井寺口
琵琶湖疎水船~(上)京都蹴上、(下)大津三井寺口

これで、琵琶湖疎水船、往復体験完了で、大満足。
私には、一番のお気に入りのクルーズです。


お昼は、なじみの「レストラン・おがわ」でランチ。
長年、木屋町御池を上がった高瀬川沿いの路地を入ったところにあったのですが、この春から河原町二条に移転しました。

レストランおがわ
レストランおがわ

移転の挨拶代わりに寄ってみました。
場所は変わりましたが、なかなかに美味なる料理は変わることなく、愉しませてもらいました。



【6 月】


奈良に出かけました。

奈良市内での少人数の泊りの同窓会があり、そのあとに天平会の例会に参加することにしたのです。



【奈良・斑鳩町から大和郡山の、かくれ仏を巡った一日】


折角、出かけたついでということで、斑鳩町から大和郡山方面の古仏を、一人でいくつか訪ねてみました。
融念寺、法輪寺、西岳院、光堂寺を訪ねました。
法輪寺以外は、あまり訪ねる人のない、「かくれ寺」的な処です。

斑鳩町~大和郡山方面で拝したかくれ仏


〈平安前期一木彫像の名品、融念寺・地蔵菩薩像
~一昔前は、奈良博の常設展示でおなじみの優作〉

融念寺といえば、平安前期の見事な一木彫像、地蔵菩薩像のことが頭に浮かびます。

融念寺・地蔵菩薩像
融念寺・地蔵菩薩像

かつては奈良国立博物館の本館に常時展示されていて、エキゾチックな風貌が魅力の、おなじみの仏像でした。
いつ頃のことか忘れてしまいましたが、融念寺に新しい収蔵庫「恵宝殿」が建立され、お寺に安置されるようになりました。

この地蔵菩薩像、いつも奈良博でその姿を見慣れていましたので、お寺の方には行ったことがなかったのですが、しばらくぶりに対面したくなって、訪ねてみたのです。

融念寺は、法隆寺の西南2~3キロという処にあります。

融念寺
融念寺

生駒郡斑鳩町神南という場所で、ひっそりとした集落のちょっとわかりにくいところにありました。
昔、奈良博の看板仏像の一つといってよいほどの名品の地蔵像があるのですが、融念寺まで訪れる人はあまり多くないようです。

収蔵庫「恵宝殿」には、地蔵菩薩像と聖観音像が安置されています。

融念 収蔵庫「恵宝殿」
融念寺 収蔵庫「恵宝殿」"

ご住職が親切にご案内いただき、明るい中で眼近に拝することができました。


〈エキゾチックな風貌が、たまらぬ魅力の地蔵像~実は僧形神像という見方が有力〉


地蔵像は、9世紀の一木彫像のなかでも、名品といってよい見事な像です。

融念寺・地蔵菩薩像
融念寺・地蔵菩薩像
すらりとしたシルエット、のびやかで粘りのある衣文の彫り口と共に、鼻筋の通ったエキゾチックな面貌に、たまらない魅力を感じます。
私のお気に入り仏像の一つです。

この地蔵像、下げた左手で袈裟をつまむという、大変珍しいスタイルをしています。
現在は、地蔵菩薩として祀られていますが、錫杖をとる通形の地蔵菩薩の形姿でないこともあり、以前から、実は僧形神像なのではないかとの議論があります。
大神神社の神宮寺大御輪寺伝来の法隆寺・地蔵菩薩像、橘寺・日羅像や融念寺・地蔵像などは、僧形のスタイルの初期神像として作られたという見方です。
僧形神像とする見方が有力なようですが、地蔵像とする異論もあり、なかなか難しい議論のようです。

いずれにせよ、類例の少ないエキゾチックな造形に惹きつけられる、平安前期の名品一木彫像であることには間違いありません。

久しぶりの、融念寺・地蔵像との出会いで、今更ながらに見惚れてしまいました。


〈初対面か?融念寺・聖観音像
~11世紀の大和地方在地の造形スタイルを思わせる平安古仏〉

地蔵像の隣には、聖観音像が祀られています。

融念寺・聖観音像~延久元年(1069)
融念寺・聖観音像~延久元年(1069)

光背の墨書銘に延久元年(1069)の年紀があり、その時の造立と見られています。
11世紀も後半に入っての像としては、穏やかな雰囲気が感じられるものの古様なスタイルの造形で、光背も板光背です。
両腕までも含め蓮肉まで一木で彫出されていて、内刳りもありません。
ハリギリというケヤキ系の広葉樹材だそうです。

11世紀ごろの大和地方では、このような古様な造形スタイルの仏像が造られていたということです。
定朝作の平等院の阿弥陀如来像が造立されてから16年後の造立です。
当時は、この辺りは、京の都から随分離れた鄙の地、地方だったのだなーというのを、再認識させられました。

この聖観音像、収蔵庫ができるまでは、奈良博に寄託展示されていたのかもわかりませんが、印象が薄かったのか、私の記憶には、まったく残っていません。
実質、初対面の平安古仏との出会いとなりました。


〈「法隆寺の大御所」北畠治房旧邸、「布穀園」でランチを〉


融念寺の後は、龍田神社に寄って、法輪寺の諸仏像を久しぶりに拝したところで、お昼になったので、法隆寺近くの「布穀園」でランチとしました。

和カフェ「布穀園」~北畠治房旧邸
和カフェ「布穀園」~北畠治房旧邸

和カフェ「布穀薗」は、北畠治房の旧邸にあるカフェです。
北畠治房(1833~1921)といっても、ご存じの方は少ないと思いますが、男爵で「法隆寺の大御所」と称された奇人、頑固親爺です。
北畠治房の特異な人物像や法隆寺とのかかわりについては、日々是古仏愛好HP・埃まみれの書棚から 「法隆寺の大御所 北畠治房」 で、詳しく紹介させていただいたことがありますので、ご覧いただければと思います。

旧邸の立派な長屋門の一部を改装して、「布穀園」というカフェとなっているのです。
母屋の方は、現在の所有者の方が、今も住まわれているということです。

北畠治房旧邸の母屋
北畠治房旧邸の母屋

「布穀園」という名は、この邸宅が北畠の号から「布穀園」と称されていたことに因むものです。

食後のコーヒーを飲みながら、しばし「法隆寺の大御所、北畠治房」のことを偲ぶことができました。


〈知られざる巨像の平安古仏に圧倒される~西岳院・千手観音像〉


大和郡山市満願寺町にある西岳院を訪ねました。

西岳院には、3メートルを超える巨像の平安時代の千手観音像があるというのです。
県指定の文化財に指定されています。
この千手観音像の存在を知ったのは、「大和のかくれ仏」(清水俊明著・創元社刊)という本に紹介されていたからです。
1976年に出版された古い本ですが、見処がある仏像で知られざるかくれ仏が随分採り上げられているのです。
カーナビでもうまくたどり着けなくて、結構、分かりにくいところにあるお寺でした。
目指す千手観音像は、ポツリとある観音堂に祀られていました。

西岳院 観音堂
西岳院 観音堂

像高3メートル、お堂の天井まで届きそうな巨像で、圧倒されるものがあります。
ビックリしました。

西岳院観音堂に祀られる巨像の千手観音像

西岳院・千手観音像
西岳院観音堂に祀られる巨像の千手観音像

頭体幹部から足ホゾまでケヤキ材の一木彫成ということです。

この像は、地名となっている満願寺という聖徳太子開基の伝承のあった古刹の旧本尊であったそうで、その一院であった西岳院に伝えられているのだそうです。
これだけの巨像が祀られた満願寺は、相当の大寺であったに違いありません。
穏やかな顔立ちや肉身表現、浅めの衣文などから平安後期の雰囲気が漂いますが、見上げる巨像には圧倒されるものを感じます。

西岳院・千手観音像西岳院・千手観音像
西岳院・千手観音像

都風の優美というよりは、平安後期、奈良の在地的な空気感がある、なかなかの優作と感じました。
これだけ立派な平安古仏の巨像の存在、ほとんど全くと言ってよいほど知られていないのではないでしょうか。
奈良の知られざるかくれ仏には、なかなかに奥深いものがあります。


〈やっとのことで拝観叶った、光堂寺・四天王像
~まさに大和のかくれ仏、平安中期の一木彫像〉

同じ大和郡山にある光堂寺を訪ねました。
光堂寺には、平安中期ごろの四天王像があるというのです。
県指定の文化財になっています。

大和郡山市の文化財紹介HPには、このように記されています。

「表現、構造からみて平安時代、10世紀末から11世紀はじめの製作と推定され、四体一具として安置された可能性もあります
主要部は修正したところが少なく、造像当時の優れた彫技が残されています。
県下の四天王像は各時代を通じてその遺品は少なくありませんが、平安時代中期の作例となると法隆寺の講堂、新堂、三経院などの諸天に限られます。その中にあってこの四天王像は奈良盆地中央部に残る平安古像として注目されるものです。」

なかなか、興味津々の解説です。

平安中期以前の一木彫像といえば、何とか拝したいと念じている私ですので、是非一度拝したいと思っていたのです。
これまでに何度か、拝観トライしたのですが、不在のようで連絡が通じることがなく、諦めかけていたところ、やっとご連絡がついたのです。
喜び勇んで、出かけたというわけです。

光堂寺は、大和郡山、椎木町の村落の中にひっそりとたたずむお堂でした。

光堂寺

光堂寺
光堂寺~境内には杵築神社も祀られる

ご住職がお待ちいただいていて、堂内に案内いただきました。
ご住職は、普段は高野山の方にいらっしゃるとのことです。
目指す四天王像は、本尊の薬師如来像の脇に祀られていました。
4躯とも、像高1メートルほどの小像です。

光堂寺・四天王像
光堂寺・四天王像(大和郡山市文化財紹介HP軽視写真)

なかなか古様な感じの造形ですが、平安前期のボリューム感やパワーは減じていて、ちょっと鄙びた印象を受けました。
この像も、大和の地方的な空気がある平安中期の古様な作例という処でしょうか。

やっとのことで、光堂寺・四天王像を拝することができて、私の平安中期以前の未見一木彫像のリストから一件を消し込むことができました。

そのあと、夕刻まで少し時間の余裕があったので、唐招提寺、大安寺の諸仏をしばらくぶりに拝して、奈良、大和郡山方面の観仏の一日を終えました。


6月の観仏は、まだまだ続くのですが、書き綴るのに少々疲れてきました。
年内は、このぐらいでおしまいということにして、続きは、年明けにさせていただきたいと思います。
よろしくお願いいたします。

今年一年、「観仏日々帖」にお付き合いいただき、有難うございました。

皆さん、良いお年を、迎えられますよう。



古仏探訪~2019年・今年の観仏を振り返って 〈その1〉 1~4月 【2019.12.19】


師走も、もう半ば過ぎになってしまいました。

毎年、相変わらずで、代わり映えもしないのですが、恒例ということで、今年一年の観仏を振り返ってみたいと思います。

自己満足的な、観仏記録の感想メモのようなもので、面白くもないと思いますが、一年の締めくくりということで、我慢してお付き合いいただければ有難き限りです。


【1 月】


1~3月は、寒くて引きこもり状態。

いろいろな展覧会を見に行ったり、暖かい奄美大島へ行って田中一村美術館を訪ねたりしましたが、観仏には全く出かけませんでした。

もう若くない身には、冬場の古寺古仏探訪は、お堂の冷え込みがきつくて出かける気になりません。



【びわ湖長浜KANNON HOUSEで「いも観音」を観る】


1月、唯一仏像を見たのは、東博「顔真卿展」の帰りに見た、びわ湖長浜KANNON HOUSEに出展されていた安念寺・いも観音(平安後期)だけでした。

KANNONHOUSEに出展された、長浜市安念寺・いも観音像
KANNONHOUSEに出展された、長浜市安念寺・いも観音像

安念寺は、賤ケ岳の南麓、木之本町黒田にあるのですが、これほどまでに朽ち果てた仏像が、破棄されることもなく、よくぞ地元の集落の人に守られてきたものです。

安念寺のお堂に祀られる破損仏・いも観音像
安念寺のお堂に祀られる破損仏・いも観音像

信長や秀吉の軍の兵火から仏像を救うために、村人たちは土に埋めて守ったといい、埋めたり掘り出して洗うことから芋が連想されたのか、「いも観音」と呼ばれるようになったともいわれています。
17躯が伝えられていたのですが、2000~2003年の間に7躯が盗難にあい、今は10躯だけになってしまっています。


【2 月】



【永青文庫の「石からうまれた仏たち~永青文庫の東洋彫刻コレクション」展へ】


2月の仏像がらみは、文京区目白台にある永青文庫で開催された「石からうまれた仏たち~永青文庫の東洋彫刻コレクション」展に出かけただけです。

永青文庫「石からうまれた仏たち」展チラシ

永青文庫は、ご存じの通り、美術品収集家として著名であった細川家16代当主、細川護立(1883~1970)のコレクションを中心に、旧熊本藩主細川家伝来の美術品、歴史資料を収蔵、展示する美術館です。
展覧会は、細川護立が蒐集した、中国の石仏・金銅仏、インドや東南アジアの彫刻を展示する特別展でした。

永青文庫「石からうまれた仏たち」展・展示仏像(展覧会チラシ)
「石からうまれた仏たち」展の主な展示仏像~展覧会チラシ

中国の古代彫刻の展示会としては、大変興味深いものだと思うのですが、私が訪ねた時には、会場には参観者が疎らといった程度で、この種の展覧会は、なかなか人気が出にくいのでしょうか。


〈今では忘れられた、中国美術の先駆的紹介者「早崎稉吉」
~永青文庫・中国石仏は、早崎蒐集コレクション〉


私が、この展覧会で関心があったのは、細川護立に中国石仏を納めた「早崎稉吉」についてでした。

早崎コウ吉(東京美術学校の制服姿)
早崎稉吉(東京美術学校当時の制服姿)

早崎は、自ら収集した中国石仏コレクションを、昭和3年(1928)と6年(1931)の二回にわたって、細川に売却し、その後は細川コレクションとして所蔵されることになったものです。

今回展示の中国石仏18件は、すべて早崎稉吉の将来品です。


〈東博・東洋館展示の名品「宝慶寺石仏群」も、元々は早崎稉吉の蒐集所蔵像〉


また東京国立博物館、奈良国立博物館に所蔵陳列されている、有名な中国唐代の宝慶寺石仏群も、早崎稉吉が明治39年(1905)に日本にもたらし、蒐集所蔵していたもので、そのほとんどが細川コレクションになり、その後、国に寄贈されたものです。

細川護立氏寄贈の東京国立博物館・中国陝西省西安宝慶寺石仏~十一面観音龕細川護立氏寄贈の東京国立博物館・中国陝西省西安宝慶寺石仏~三尊仏龕
細川護立氏寄贈の東京国立博物館・中国陝西省西安宝慶寺石仏~(左)十一面観音龕、(右)三尊仏龕

早崎稉吉の名は、今ではほとんど知られていないのではないかと思いますが、明治~昭和初期にかけて、中国美術の紹介者、専門家、蒐集家として先駆的役割を果たした人物です。
早崎は東京美術学校の出身で、岡倉天心が明治26年(1892)に中国美術調査に赴き、日本人として初めて龍門石窟を発見、紹介したときに、ただ一人同行しました。

明治26年岡倉天心、竜門石窟発見時の写真~奉先寺石窟(早崎コウ吉撮影)
明治26年に岡倉天心が龍門石窟発見時の写真~奉先寺石窟
早崎稉吉が撮影した写真という


その後は、中国美術の専門家として何度も中国に滞在し、日本やアメリカに数多くの優品を将来しました。
岡倉天心によるボストン美術館の中国美術蒐集に、実際に関わりコレクション形成に大きな役割を果たしたのは早崎稉吉でした。

3月10日に
「永青文庫の中国石仏~早崎稉吉が将来した名品」 (講師:石松日奈子氏・東京国立博物館客員研究員)
という講演会がありました。

これは必聴と、早崎稉吉についての講演をじっくり聴いてきました。


〈近年発見の早崎稉吉自筆「造像所獲記」も展覧会に展示〉


昨年(2018年)、早崎稉吉自筆の「造像所獲記」と題するメモ冊子が、永青文庫で発見されました。

早崎稉吉自筆「造像所獲記」
新発見の早崎稉吉自筆「造像所獲記」

「宝慶寺造像所獲記」に始まる獲得メモで、収集の経緯が生々しく綴られる貴重な資料の発見でした。
展覧会では、この「造像所獲記」も、展示されていました。

早崎稉吉が明治期に中国美術の紹介者、将来者として果たした役割の大きさ、中国美術研究の進展への貢献は、極めて大きなものがあったのだと思います。
今では、忘れ去られた早崎稉吉について、再認識し、思いを致す良い機会となりました。



【4 月】



【興味深かった「林忠正~ジャポニズムを支えたパリの美術商」展】


国立西洋美術館で開催されていた「林忠正~ジャポニズムを支えたパリの美術商」を見てきました。

「林忠正~ジャポニズムを支えたパリの美術商」展チラシ

展覧会では、林忠正の孫で歴史作家の木々康子氏の所蔵品を中心に、林忠正とゆかりの人々の関連資料が展示されていました。
地味な展覧会でしたが、私には、大変興味深い企画展でした。


〈近代日本初の官製美術史書「稿本日本帝国美術略史」の刊行に、深くかかわった林忠正〉


仏像とは関係ないこの展覧会をご紹介したのは、林忠正が、近代日本初の「官製日本美術史本」である 「稿本日本帝国美術略史」 の刊行にかかわっている人物であるからです。

「稿本日本帝国美術略史」については、日々是古仏愛好HPの 「近代仏像評価の変遷をたどって」の連載で、何度も何度も採り上げましたので、覚えておられる方もあるのではないかと思います。

「稿本日本帝国美術略史」は、明治33年(1900)、パリ万国博覧会参加を機会に、我が国美術を西欧に知らしめるため、フランス語版 「Histoire de l'art du Japon」 として編纂・出版されました。


フランス語版 「Histoire de l'art du Japon」

フランス語版 「Histoire de l'art du Japon」に掲載されている法隆寺・救世観音像
フランス語版 「Histoire de l'art du Japon」
(下段)本文中に掲載されている法隆寺・救世観音像写真


最初にパリにおいてフランス語版で出版され、その後に、日本語版として国内で刊行されたのが「稿本日本帝国美術略史」なのです。


〈フランス語版 「Histoire de l'art du Japon」の冒頭は、林忠正の執筆〉


フランス語版 「Histoire de l'art du Japon」の冒頭には、九鬼隆一の序文より先に、林忠正による「読書への案内」が付されているのです。

「Histoire de l'art du Japon」冒頭の林忠正執筆「読書への案内」「Histoire de l'art du Japon」冒頭の林忠正執筆「読書への案内」
「Histoire de l'art du Japon」冒頭の「読書への案内」(3頁)~末尾に執筆者・林忠正の名前が記されている

実は、林忠正は、伊藤博文や西園寺公望の推挙により、パリ万国博覧会の事務官長に就任し、日本美術の紹介、陳列に、全力を注いで尽力しているのです。
豪華本「Histoire de l'art du Japon」の刊行も、出版元になる帝国博物館の財政上の理由で出版が進まなかったのを、林忠正が受け継いで、何とか出版に漕ぎ付けたといわれています。
そんな訳で、冒頭に林執筆の一文が付されているのではないかと思います。


〈浮世絵を大量海外流出させた張本人と云われた林忠正
~日欧芸術文化交流に生涯をささげた功績は多大〉


林忠正というと、西洋で日本美術を商った初めての日本人です。

林忠正~展覧会パンフレット
林忠正~展覧会パンフレット
1878年(明治11年)、パリで行われる万国博覧会に参加する「起立工商会社」の通訳として渡仏しますが、その後、日本の浮世絵をはじめ陶磁器、工芸品などを大量に商い、ヨーロッパのジャポニズムの隆盛の大きな原動力となりました。
「ジャポニズムを支えたパリの美術商」といわれる所以です。

林が日本からヨーロッパへ持ち込み販売した浮世絵は、数十万点に及ぶといわれ、後年「浮世絵を海外に大量流出させた張本人」として批判を浴びたこともありましたが、その生涯をたどってみると、

「現代へ脈々と続く西洋のジャポニズムを支えた立役者」
「芸術を介して日欧文化交流に生涯をささげた人物」

としての功績には多大なものがあることを知ることができます。

「林忠正~ジャポニズムを支えたパリの美術商」には、千部のみ出版された豪華本「Histoire de l'art du Japon」も出品され、冒頭の林忠正執筆部分のページが開かれていました。
他にも、林忠正ゆかりの品の数々が展示されていて、愉しむことができました。



【大正大学蔵・阿弥陀如来像(厳島・光明院伝来)が東博に展示】


東京国立博物館の平常展示に、大正大学蔵の阿弥陀如来像が展示されていました。

観仏先リスト01(大正大学・阿弥陀像)

この阿弥陀如来像は、それほど知られていない仏像だと思います。
私も、これまで写真でしか見たことがなかったのですが、、一度は拝したいと思っていた像です。

大正大学蔵・阿弥陀如来像(平安~鎌倉・重文)
大正大学蔵・阿弥陀如来像(平安~鎌倉・重文)

大正大学の本尊像で、大学礼拝堂に安置されており、普段は非公開で、一般には拝しにくい像なのです。
礼拝堂の校舎の解体立替工事にともない、昨年、東京国立博物館2年間の予定で寄託され、今回の陳列となったようです。

本像は、像内から寛文12年(1672)の修理木札が発見されており、その頃には広島厳島大明神の御守弥陀像とされていたことが知られています。
明治29年(1896)に、厳島の光明院から大正大学の前身校の一つである浄土宗本校に寄付され、現在に至っているものです。

いわゆる藤末鎌初の作風です。
定朝様を残しながらも、頭部の奥行は深く、肉付きある表現、衣文にも抑揚感が出てきているように思えます。
落ち着いた、出来の良い仏像に出会うことができました。



【東博で開催、特別展「国宝 東寺~空海と仏像曼荼羅」】


東京国立博物館で特別展「国宝 東寺~空海と仏像曼荼羅」が開催されました。

「国宝 東寺~空海と仏像曼荼羅」展チラシ

仏像では、東寺講堂の諸仏の他、兜跋毘沙門天像、聖僧像、女神像(八幡三神)、観智院・五大虚空蔵像など、見処ある像が多数出展されました。


〈東寺講堂・五菩薩像を360度ビューで眼近にできたのが、一番の収穫〉


東寺の仏像の特別展は、これまで何度も博物館で開催されていますので、特段の目新しさはなかったのですが、東寺講堂の立体曼荼羅諸仏が、すべて360度ビューで眼近に見ることができたのは、なかなかのものでした。
講堂の国宝仏像は、不動明王、梵天、広目多聞天像を除いて、全部が1フロアーに展示されていたのは壮観でした。
五菩薩像を360度、ぐるりと舐めるように、じっくり見ることができたのは、大きな収穫でした。

東寺講堂・五菩薩像(金剛宝菩薩像)東寺講堂・五菩薩像(金剛宝菩薩像)
東寺講堂・五菩薩像(金剛宝菩薩像)

東寺の講堂では、五菩薩像には、なかなか目がいかない、届かないところがあるのですが、こうして眼近に見ると、流石の出来だと納得しました。
木屎漆のモデリングがしっかり分厚くされているのも、大変よくわかりました。

東寺の仏像展「目新しさはない」といったものの、結局は、2度も展覧会に行ってしまいました。


〈帝釈天像、写真撮影OKにはびっくり ~ 嬉しい、近年の仏像展・写真撮影可能の動き〉


もう一つ、ビックリしたのは、帝釈天像だけですが、写真撮影OKになっていたことでした。
思い切った新企画です。

「国宝 東寺~空海と仏像曼荼羅」展、展覧会場の東寺・帝釈天像
「国宝 東寺~空海と仏像曼荼羅」展覧会場の東寺・帝釈天像

ここ数年、仏像の展覧会などで、ブロガー向け写真撮影会が開催されたりしています。
4月に開催された、和歌山県立博物館の「仏像と神像へのまなざし」展では、なんと、会期中いつでも展示仏像、神像の写真撮影OKとなっていました。

写真撮影OKとなった和歌山県立博物館「仏像と神像へのまなざし」展、会場
写真撮影OKとなった和歌山県立博物館「仏像と神像へのまなざし」展、会場

これまで、博物館自身の所蔵仏像を除いては、博物館への出展仏像の写真撮影が可能になるなどというのは、あり得なかったことでしたが、このような試みが増えつつあるのは、大変嬉しいことです。



【17年ぶりの摩訶衍寺 秘仏・十一面観音像の御開帳に尾道へ】


4月28日には、広島県尾道市の摩訶衍寺の秘仏本尊・十一面観音像の御開帳に出かけました。

観仏先リスト02(摩訶衍寺)

十一面観音像は、33年に一度の御開帳の厳重秘仏として守られており、今年は、17年ぶりの半開帳の年にあたります。

摩訶衍寺 秘仏本尊・十一面観音像、御開帳チラシ
摩訶衍寺 秘仏本尊・十一面観音像、御開帳チラシ

11世紀初めごろの制作とされ、広島県屈指の見事な平安古仏です。

摩訶衍寺・十一面観音像(平安・重文)
摩訶衍寺・十一面観音像(平安・重文)


〈私にとっては「50年越しの、宿願の仏像」、摩訶衍寺・秘仏十一面観音像〉


このご開帳には、

「何としても、絶対に駆け付けなければ!
今回こそ、逃すことはできない!」

と、満を持して、同好の方と尾道まで出かけました。
私にとっては、

「50年越しの、宿願の仏像」

であったのです。

学生時代に、摩訶衍寺までテクテク山登りしてたどり着いたところ、拝観のお願いのどういう行き違いか、厳重秘仏で拝観が叶わなかったのでした。
それからほぼ50年、やっとのことで、「宿願の仏像」の姿を拝することができました。

摩訶衍寺・本堂ご開帳回向柱と十一面観音像が安置される収蔵庫
摩訶衍寺・本堂と十一面観音像が安置される収蔵庫

すらりと長身、腰高なプロポーションの見事な一木彫像です。
穏やかさを匂わせながらも、キリリと引き締まった顔貌が魅力的な、惹きつけられる観音像です。

詳しい拝観記については、観仏日々帖 「広島県 尾道市・摩訶衍寺の秘仏・十一面観音像の御開帳」 で、ご紹介しましたのでご覧いただければと思います。


〈注目の平安古仏、千手観音像~10世紀以前にさかのぼる古像か?〉


十一面観音像の傍らに祀られていた千手観音像は、注目の平安古仏でした。

摩訶衍寺・十一面観音像(平安・重美)
摩訶衍寺・十一面観音像(平安・重美)

地方的な匂いがプンプンする仏像ですが、十一面観音像よりも制作年代が一段と古い像であることは間違いありません。
ほとんど知られていないといってよい平安古仏だと思いますが、10世紀以前に遡る制作のように感じます。
もっともっと注目を浴びてよい、古像だと思いました。

宿願を果たした満足感で一杯の、摩訶衍寺、秘仏ご開帳でした。


古仏探訪~京都展覧会巡りで目を惹いた仏像 ③浄瑠璃寺・大日如来像 【2019.11.09】


【泉屋博古館に出展された、浄瑠璃寺・大日如来像】

京都展覧会巡りの3館目には、左京区鹿ケ谷の泉屋博古館を訪ねました。

南禅寺界隈の見事な東山別荘庭園群が並び立つ、閑静な邸宅街の一角にあります。

泉屋博古館・本館では、
住友財団修復助成30年記念企画展「文化財よ永遠に」  (9/6~10/14)
が開催されていました。

文化財よ永遠に展チラシ

この「文化財よ永遠に」展は、その名の通り、公益財団法人住友財団の文化財維持・修復助成事業が30周年になるのを記念して、財団の助成により修復された文化財を、博物館4館合同開催で展示するという大規模企画展です。
この京都・泉屋博古館本館のほか、東京・泉屋博古館分館、東京国立博物館、九州国立博物館で開催されました。

泉屋博古館・本館での展示は30点ほどで、そのうち仏像は8点が出展されていました。

その中で、私が、「これは必見!」とめざしてきたのは、浄瑠璃寺の大日如来坐像です。

浄瑠璃寺・大日如来像
浄瑠璃寺・大日如来像

皆さん、この仏像のことを、ご存じでしょうか?
浄瑠璃寺といえば、九体阿弥陀像とか吉祥天像のことが頭に浮かびますが、この大日如来像の存在は、あまり知られていないのではないかと思います。


【運慶作 円成寺・大日如来像そっくりの浄瑠璃寺・大日如来像(普段は秘仏)】

その像容をご覧いただくと、一目見ただけで、
「あの運慶作の円成寺・大日如来像(国宝)と、大変良く似ている。」
そう思われるに違いありません。

円成寺・大日如来像(1176年運慶作・国宝)
円成寺・大日如来像(1176年運慶作・国宝)

像高:60.2㎝、円成寺・大日像の3分の2ほどの大きさですが、キリリと引き締まったなかなかの秀作です。

この浄瑠璃寺の大日如来像、普段は秘仏で拝することがかなわないません。
本堂に向かって右前方にある灌頂堂に安置されており、毎年1月8日から10日までの3日間に限り開扉されるだけなのです。

5年前、2014年に京博で開催された「南山城の古寺巡礼展」に出展されたことがあるのですが、それ以来の博物館出展だと思います。

会場では、ガラス越しではありましたが、眼近にじっくり観ることができました。
今更ながらに、円成寺・大日如来像の造形に、本当によく似ていると実感しました。

円成寺像の颯爽とした趣や、張りのある肉身、弾力感の見事さには、はるかに及ばないのですが、浄瑠璃寺像もなかなかの秀作といっても過言ではありません。
若やいだ顔つき、写実的な肉身は、キリリと締まったみずみずしさを感じさせます。
円成寺像同様に、鎌倉の強い息吹を感じさせるものがあります。


【近年、存在が知られるようになり、藤末鎌初の奈良仏師作例として注目像に】

この浄瑠璃寺の大日如来像は、その昔は、ほとんど知られていなかったようす。
その存在が注目され出したのは、近年になってからのことなのです。

その像容、スタイルなどが、安元2年(1176)運慶作の円成寺・大日如来像や、寿永2年(1183) 筑前講師の銘のある岐阜県横蔵寺・大日如来像に似通っており、いわゆる藤末鎌初の奈良仏師の作例として知られるようになりました。

岐阜横蔵寺・大日如来像(1183年作・重文)
岐阜横蔵寺・大日如来像(1183年作・重文)

作者、工房の問題、制作時期などについての研究者の見解、論考も、いくつか発表されています。

今回の展覧会図録の表紙は、この浄瑠璃寺・大日如来像のアップ写真となっています。
本像の、最近の注目度を物語っているように思えます。

泉屋博古館「文化財よ永遠に展」図録表紙
浄瑠璃寺・大日像写真が表紙となった「文化財よ永遠に展」図録


【修理により、見違えるほどにシャープな姿がよみがえる~取除かれた後世の厚塗り】

2005~6年に、修理修復が行われました。
住友財団の助成により、東京藝大学・文化財保存学保存修復彫刻研究室の手によって実施されました。
修理前は、全体が後世に施された厚手の泥地漆箔に覆われていたうえ、亀裂や剥落も多々あり、制作当初の姿を著しく損ねたものになっていました。

修理修復前の浄瑠璃寺・大日如来像の姿
修理修復前の浄瑠璃寺・大日如来像の姿

像本来の姿がよくわからない、鈍い造形表現になっていたのだと思います。
修復に際しては、後世に施された泥地彩色がすべて除去され、オリジナルと考えられる漆塗り層を除いて、木地仕上げとされました。

別の仏像ではないかと見違えるほどに、様変わりの姿に生まれ変わりました。
修復前の、鈍くてぼやけたような雰囲気から、キレキレのシャープで引き締まった本来の姿が、甦ったのではないかと思います。

修理完成後の浄瑠璃寺・大日如来像
修理によりシャープな姿が甦った浄瑠璃寺・大日如来像


【何故だか、未だ「無指定」の秀作像】

この大日如来像、秀作だと思うのですが、なぜか文化財指定が「無指定」なのです。
重文はおろか、京都府の指定にも、木津川市の指定にもなっていません。

本像の存在が知られてから、もうずいぶんの年数が経ち、現在の姿に修復が成ってからも十数年経つのですが、不思議な感じがします。
お寺様のご意向などがあって、無指定のままになっているのでしょうか?


【製作年代は、円成寺・大日像造立年の前後か?~奈良仏師の作】

この浄瑠璃寺の大日如来像の存在が広く知られるようになったのは、今から30余年前、昭和63年(1988)発刊の「加茂町史」(第1巻・古代中世編)で採り上げられてからのことのようです。
そこでは、このように述べられています。

「像容は、奈良市忍辱山町の円成寺大日如来坐像に酷似している。
本像の形成および細部表現からは、円成寺像を写した可能性が高く、慶派の流れを汲む仏師によって鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて制作されたと考えられる。」

この時は、鎌倉末~南北朝の制作とされたのですが、その後、本像について注目した研究者からは、もっとさかのぼる藤原末期、安元2年(1176)の円成寺・大日如来像に相前後する時期の制作ではないかとする考えが提示されています。

例えば、
伊東史朗氏は、浄瑠璃寺三重塔移築時の治承2年(1178)頃の造立
(「院政期仏像彫刻史序説」院政期の仏像・岩波書店1992年刊)

山本勉氏は、同寺十万堂を秘密荘厳院に改築した承安元年(1171)頃の造立
(「大日如来像・日本の美術374号」至文堂1997年刊)
との見方を示しています。

現在では、藤末鎌初の奈良仏師、初期慶派の貴重な作例という見方がされ、注目度大の像となっているということなのだと思います。


【デジタル計測シルエットが、康慶工房像とピタリ一致することが判明
~円成寺・大日像、浄瑠璃寺・大日像、瑞林寺・地蔵像】

そして、2005~6年に修理が実施された後、「保存修理報告」(東京藝大美術学部紀要450号2007)が発表され、また同大・藤曲隆哉氏による「円成寺大日如来坐像の造像工程の研究」(2012)によって、興味深く、驚きの研究結果が明らかにされました。
(ご参考:NET上に「浄瑠璃寺灌頂堂 大日如来坐像 修理報告」 「円成寺大日如来坐像の造像工程の研究」の要旨が掲載されています。)

円成寺・大日像と浄瑠璃寺・大日像の像容が、本当にそっくりで酷似していることは、よく知られていたのですが、これらの像を三次元デジタル計測した結果、そのシルエットが単に似ているというレベルではなく、見事に一致することが判明したのでした。

円成寺・大日如来像(正面写真).浄瑠璃寺大日如来像(正面写真)

円成寺・大日如来像(側面写真).....浄瑠璃寺大日如来像(側面写真)
円成寺、浄瑠璃寺両大日像の正面画像(上段)と側面画像(下段)

両像のデジタルスキャニングによる計測データから正中断面図を作成し、円成寺像の膝張りと同寸に調整すると、その正中断面図がほとんど重なり合うことが分かったのです。
(正中断面図とは、仏像の体躯を正中線で縦割りし、それを側面から見たシルエットのことです。)
そして康慶作の静岡瑞林寺・地蔵菩薩像の正中断面図とも、また一致したというのです。

静岡瑞林寺・地蔵菩薩像(1177年康慶作・重文).静岡瑞林寺・地蔵菩薩像(側面写真)
静岡瑞林寺・地蔵菩薩像(1177年康慶作・重文)

このことは、浄瑠璃寺像、円成寺像(1176年・運慶作)、瑞林寺像(1177年・康慶作)が、同様の図面をもとに製作されていたことを意味しています。
すなわち3つの像は、当時の工房主催者であった康慶の図面により制作された、康慶工房の仏師の手による像だということです。

加えて、円成寺像のシルエットは、浄瑠璃寺像のそれから角度を4度後ろ向きに傾けたものであることも判明しました。
運慶は、体躯を反り身にしたうえで、智拳印を結ぶ両手と身体の間にゆとり空間を設け、ゆったりと奥行きを持たせた造形にするという、独自の工夫を加えていたのでした。


【他作例とのシルエット比較からも、3像は康慶工房の同様図面使用とみられる】

ちなみに、平等院・阿弥陀如来像(1053年・定朝作)、長岳寺・阿弥陀如来像(1151年)の正中断面図にはシルエットの類似性が見られましたが、先の康慶工房とみられる3像とは大きく異なるものでした。

平等院・阿弥陀如来像(1053年定朝作・国宝)長岳寺・阿弥陀如来像(1151年・重文)
(左)平等院・阿弥陀如来像(1053年定朝作・国宝)、(右)長岳寺・阿弥陀如来像(1151年・重文)

さらには、快慶作品である石山寺大日知来坐像、東京芸術大学大日加来坐像のシルエットも一致し、これまた康慶工房3像シルエットとは違うものであるという結果でした。

石山寺・大日如来像(快慶作・重文)東京芸術大学蔵・大日如来像(快慶作)
(左)石山寺・大日如来像(快慶作・重文)、(右)東京芸術大学蔵・大日如来像(快慶作)

このことからも当時の康慶工房が、独自かつ共通の図面を用いていたことが推察されます。

円成寺像と浄瑠璃寺像が同じ図面のようなもの用いた可能性については、伊東史朗氏も先の論考(院政期仏像彫刻史序説)で、

「以上の類似と相違の意味するところは、両者(注:円成寺像と浄瑠璃寺像)共通の規範(粉本となる図像または手本とすべき古像)に則って異なる奈良仏師が相次いで同じ尊像を造立したということではないだろうか。」

と述べていたのですが、
まさに、その考え方が、この三次元デジタル計測結果によって実証されたということなのだと思います。


【仏像制作法則の存在と、用いられた制作図面は?】

当時、どのような仏像制作図面が使われていたのかはわかりませんが、像高や膝張り、目鼻や顎の位置などは、その比率やポイントを定めた図面に則っていたものと思われます。
それは、それぞれの仏師工房独自のものであったのでしょう。

美術院出身で、その後、仏像の修理修復、仏像研究の途を歩んだ太田古朴氏は「仏像彫刻技法」(1973年綜芸社刊)という著作をあらわし、仏像の造像法則と時代別推移について説いています。
太田氏は、円成寺・大日如来像は「運慶法測」と称する法則によって制作されているとしています。
太田氏による、運慶法則作図は、次の通りです。

太田古朴氏作成・円成寺大日如来像造像法則図面(「仏像彫刻技法」掲載図面)太田古朴氏作成・円成寺大日如来像造像法則図面(「仏像彫刻技法」掲載図面)
太田古朴氏作成の円成寺・大日如来像 造像法則(運慶法則)図面
太田古朴著「仏像彫刻技法」(1973年綜芸社刊)掲載図


ご覧のように、〈髪際高=膝張り〉として、髪際高を五等分した枡目割の定められた位置に、ポイントとなる身体の各所が、それぞれプロットされるようになっています。
ちなみに、定朝様像(法界寺・阿弥陀像など)は、〈白毫高=膝張り〉という法則になっているそうです。

康慶、運慶の頃に用いられていた図面が、このようなものであったかどうかは全く分かりませんが、仏像の体躯のシルエット、目鼻口など各パーツの位置をきちっと定めて、同じスタイルの像を制作するために、似たような図面が使われていたのではないかと思われます。。
それによって、「同一工房作品は同じスタイルの形姿」に造ることを可能にしていたのでしょう。


【浄瑠璃寺像に残されていた「錐点」~図面通り制作のための座標点】

こうした仏像造像法則に関連して、もう一つ、興味深い事実が判明しています。

浄瑠璃寺・大日如来像の修理修復が行われた結果、本像に「錐点」(きりてん)の痕が残されていることが、明らかになったのです。
「錐点」という言葉は、耳慣れない言葉かもしれませんが、仏像の身体の表面に錐で穿たれた、目印の穴のことです。
錐点は、木彫仏を彫る際に、目鼻や口など重要なポイントの位置の座標点として、また髪際や膝張りなど全体のシルエット、プロポーションの比例をきっちりととるために穿たれたのもと思われます。

三重成就寺・大日如来像(平安後期・県指定文化財)成就寺・大日如来像の面部の錐点痕図(山崎隆之著「仏像の秘密を読む」掲載図)
錐点痕がはっきりと残される平安後期仏像作例~三重 成就寺・大日如来像(平安後期・県指定文化財)
右図は面部に残された錐点痕を示す図(山崎隆之著「仏像の秘密を読む」掲載図)


錐点は、下地彩色や漆箔などの表面コーティングがされてしまうと、その存在はわからなくなってしまいます。

浄瑠璃寺の大日如来像は、修理で表面の泥地漆箔が剥がされた結果、
「面部の髪際、顎の先端、耳や膝の張り出し部分」
に、錐点痕が残されていることが判明したのです。

この錐点で、各ポイントの座標点が決められていたのでしょう。
当時、造像法則に則った図面などが存在し、その図面通りに仏像を制作するための技法として錐点という手法が用いられていたことがわかります。


【「錐点」のはじまりは、平安末期ごろ?】

この錐点という技法が、いつごろから始まったのかは、定かではありません。
近年、この錐点のある仏像が、各地で発見されるようになりました。
鎌倉~江戸期のものに多いそうですが、平安時代の12世紀にさかのぼるものもみられるということです。
浄瑠璃寺・大日如来像の錐点は、比較的最初期のものなのかもしれません。

いずれにせよ、この錐点という技法は、図面や雛形通りのシルエットの仏像を造るための必要性から生じたものであることは間違いありません。


【座標点だけでなく、彫り進む深さも決めていた?「錐点」】

さらに錐点は、各ポイントの座標点を決めるだけでなく、どこまで彫り進むかの深さを決める目安点になっていたという話もあります。
錐点を穿つ深さを決めておいて、錐点が消えるところまで彫り進めれば、造形の凹凸のレベルも定めることができるというのです。
左右対称であるはずの一方の錐点が消えているケースがあることから、そのような推定が出来るということです。

そういわれると思い出すのが、京都 大報恩寺の六観音像に遺された錐点です。
肥後定慶の墨書銘のある准胝観音像以外の5躯の面部に、錐点が残されているのです。

大報恩寺・六観音像~如意輪観音像(鎌倉・重文)の錐点痕のある面部

大報恩寺・六観音像~千手観音像(鎌倉・重文)の錐点痕のある面部
面部に錐点の痕が残される大報恩寺・六観音像
(上)如意輪観音像、(下)千手観音像


昨年(2018)東博で開催された「大報恩寺展」の図録解説にこのような記述がありました。

「本六観音菩薩像は表面を彩色や漆箔をしない素木の像であるため、錐点の存在をよく観察することができる。
錐点が准胆観音には確認できず(定慶も錐点を打っていただろうが、彫刻の過程で消える程度の深さをわきまえていたのだろうと指摘されている)、他の5躯にはあることからも、准胆観音を造った定慶が中心的な立場だっただろうことがうかがわれる。
また錐点の打ち方には、5躯それぞれに違いがあることは、5躯の担当仏師がそれぞれ異なっていたことを示唆している。」
(皿井舞「大報恩寺の創建と慶派仏師の競演」)

錐点についての、大変興味深いコメントです。
錐点というものは、実際には、どのように活用されていたのでしょうか?
本当のところが、まだまだよくわからないような気もします。

いずれにせよ、藤末鎌初の康慶工房作品である、浄瑠璃寺、円成寺の大日像、瑞林寺の地蔵像のシルエットが見事に一致するというのは、当時の康慶工房に仏像法則図面が存在し、錐点によってたがわぬ位置にプロットできるようにしたことによるものではないでしょうか。


【鎌倉への息吹を実感した浄瑠璃寺・大日如来像~制作図面や錐点にも思いを致す】

なかなか拝することのできない浄瑠璃寺・大日如来像を、泉屋博古館で眼近にすることができ、今更ながらに、鎌倉への息吹を実感するキリリと引き締まったみずみずしい像であることを、実感することができました。

浄瑠璃寺・大日如来像
浄瑠璃寺・大日如来像


繰り返しになりますが、無指定の仏像なのが不思議です。
そして、仏像の造像法則やその図面、錐点などといった話にまでも、思いを致すことができました。

京都の町を、展示会のはしごをして巡った一日。
そこで目を惹いた三つの仏像の話は、これでおしまいです。

マイナーで知られていない仏像の話にお付き合いいただき、有難うございました。


古仏探訪~京都展覧会巡りで目を惹いた仏像 ②京都 勝光寺・聖観音像 【2019.10.26】


【知られざる9世紀の優作、勝光寺・聖観音像が展示会に
~京都市歴史資料館「京都市指定の文化財」展】

「あの勝光寺の聖観音が、京都市歴史資料館に展示されているよ!」

思わぬ話を、ある同好の方から教えていただきました。

「エーッ!本当ですか? そんな情報、まったく知りませんでした。」

と、ビックリしてしまいました。

京都 勝光寺・聖観音像(平安前期・京都市指定文化財)
京都 勝光寺・聖観音像(平安前期・京都市指定文化財)

勝光寺の聖観音像といっても、ほとんど知られていない仏像だと思いますが、私にとっては、大注目、お気に入りの仏像なのです。
間違いなく、9世紀、平安前期の檀像風一木彫像です。
そして、妖しいオーラで心をとらえ、惹きつける魅力十分の仏像なのです。

これは是が非でもいかねばと、龍谷ミュージアム「日本の素朴絵展」の次に、「京都市歴史資料館」を訪ねたのでした。
京都御所の東側、上京区寺町通荒神口下ルという処にあるのですが、私も初めて訪れる資料館です。
ちょっと、こじんまりした目立たぬ資料館です。

京都市歴史資料館
京都市歴史資料館

此処で、

「京都市指定の文化財」  と題する企画展 (8/30~10/20)

が開催されていて、勝光寺・聖観音像が展示されているというのです。

「京都市指定の文化財展」チラシ

近年、京都市の市指定文化財に指定された仏像などの美術工芸品・十数点を、展示紹介する企画展です。


【並んだ展示仏像の中で、ひときわ目を惹く圧倒的な存在感】

仏像は5躯の出展で、ガラスケースの中に、横に一列に並べられて展示されていました。
その前に立って眺めると、なんといっても、ひときわ目を惹くのが、勝光寺の聖観音像です。
100㎝余の小像なのですが、他の諸像が目に入らぬほどに、圧倒的な存在感で眼前に迫ってきます。

勝光寺・聖観音像については、かつてこの観仏日々帖 「京都 勝光寺・聖観音像」 (2016.06)で、ご紹介したことがあるのですが、今回、初めて展覧会に出展され、再会することができましたので、もう一度、採り上げさせていただきました。


【初めて拝したのは13年前(2006年)~当時は「無指定」】

この勝光寺の聖観音像を初めて拝したのは、もう13年も前、2006年のことです。

実は、この仏像の存在を知ったのも、前回紹介の満願寺・薬師像と同じく、井上正氏の著作「古佛~彫像のイコノロジー」に採り上げられていたからでした。

井上正著「古佛~彫像のイコノロジー」の勝光寺像採り上げページ
井上正著「古佛~彫像のイコノロジー」の勝光寺像採り上げページ

当時は「無指定」の仏像です。

勝光寺は、京都市内のど真ん中、新選組で有名な壬生寺の近く、下京区中堂西寺町という処にあります。

勝光寺・本堂
勝光寺・本堂

大きな本堂のほか客殿、庫裏もある、日蓮宗の立派なお寺です。
めざす聖観音像は客仏で、本堂の隅っこの方の厨子に、ひっそりと祀られていました。


【バリバリの9世紀、檀像風一木彫との出会いにビックリ!】

御厨子を開いていただいて、聖観音像の姿を拝したとき、本当にビックリしました。

本堂内厨子に安置される勝光寺・聖観音像
本堂内厨子に安置される勝光寺・聖観音像

「バリバリの9世紀、間違いない!」

一見しただけで、そのように感じる古仏です。

勝光寺・聖観音像
勝光寺・聖観音像

その時の印象などは、観仏日々帖 「京都 勝光寺・聖観音像」 (2016.06)で、ご紹介した通りです。

カヤ材の一木造りで、蓮肉部も共木から彫り出した檀像風像で、内刳りはありません。

蓮肉まで共木で彫り出されている勝光寺・聖観音像
蓮肉まで共木で彫り出されている勝光寺・聖観音像

一見しただけで、平安前期の雰囲気満点の仏像です。
木肌が少し荒れて、あしゃれた感じになっていますが、衣文の彫口の鋭さ、鋭く精神性を強調した面貌、ボリューム感あふれる体躯、どれをとっても平安前期、9世紀の仏像に間違いないと思います。


【惹き込む魅力は、特異な「妖しさ」~インド風のエキゾチズム】

そして、何よりもこの観音像の魅力は、「異様とも云ってよい、独特の妖しさ」ではないでしょうか?
強い精神性とか霊威感を感じるのですが、その中に、妖艶とも云えそうな「妖しさ」を発散させているのです。
いわゆるインド風というのでしょうか、エキゾチックで特異な造形です。
左腰を突き出し、体躯をくねらせる三屈法の体型は、官能性を秘めて、豊満な妖気を発散しています。

勝光寺・聖観音像
腰を強くくねらせる勝光寺・聖観音像

面貌は、妖しく射すくめるような、強い眼力を感じます。

射すくめるような眼力の勝光寺・聖観音像
射すくめるような眼力の勝光寺・聖観音像


【格調高い「妖しさ」の、法華寺・十一面観音像~インド風の代表作】

インド風の官能的エキゾチズム、三屈法の体躯表現といえば、あの法華寺の十一面観音像のことが頭に浮かびます。
平安前期の檀像風一木彫像を代表する傑作で、だれもが知っている国宝仏像です。

法華寺・十一面観音像(平安前期・国宝)
法華寺・十一面観音像(平安前期・国宝)

時代の最高レベルの法華寺像と比較するのも、如何かとは思うのですが、同じインド風とはいっても、法華寺・十一面観音像と勝光寺・聖観音像は、妖艶さの雰囲気が随分と違います。

法華寺像は、女性の姿態を写したように体躯をくねらせ、肉感的な妖しさを漂わせているのですが、その造形表現には、キリリとした気高さというのか、品位を強く感じるものがあります。
妖艶とはいっても、その中に格調の高い、一種のピーンと張りつめた緊張感を漂わせています。

法華寺・十一面観音像
法華寺・十一面観音像

さすがに、超第一級レベルの秀作ならではと感じます。


【アクの強い「妖しさ」が心をとらえる、勝光寺・聖観音像】

一方、勝光寺・聖観音像のほうは、インド風の肉感的妖艶さがあふれ出しているようです。
寸詰まり感のある短躯なうえに、すこぶる豊満で肥満しています。
ぐっと腰を強く押し出すかのようにくねらせ、目鼻立ちも大きく濃いい感じで、恐ろしいような妖しさで迫ってくるようです。

勝光寺・聖観音像
アクの強い妖しさを感じる勝光寺・聖観音像

ちょっと野卑な感じのアクの強い妖しさ、どぎつい妖しさと、威圧感を発散させています。
この異様感が、グイグイ強く心惹きこまれてしまう、本像の魅力なのだと思います。

いずれにせよ、この勝光寺時の古仏、平安前期、9世紀の檀像風一木彫像の注目作として、きっちり評価されてもよい仏像だと確信しました。


【何故だか「無指定」の勝光寺・観音像~私のお気に入りに】

「どうして、これだけの仏像が、全くの無指定なのだろうか?」

その訳が、よく分かりません。

少々地肌は荒れていますが、後補部も少なそうなので、何故、文化財指定の対象にならないのか、本当に不思議だなーと思いました。
京都という処は、文化財のレベルも大変高いので、これだけの優作でも、知られずに埋もれてしまうのでしょうか。

私は、初めて拝したときから、この像の「アクの強い妖しさ」に、たちまち惹き込まれてしまい、大のお気に入りになってしまいました。
5~6年の間に、その姿を拝しに、3度も勝光寺を訪ねてしまいました。


【2013年、ようやく京都市指定文化財に新指定】

6年前の2013年(平成25年)、ついに、勝光寺・聖観音像が「京都市・市指定文化財」に新たに指定されました。
このニュースを知った時、

「やっとのことで、文化財指定となったのだ!」

と、ちょっと感慨深く、嬉しい気持ちになりました。
ようやく、その存在が公に認知されたというわけです。

これまでに、この勝光寺・聖観音像は、研究者に注目されることはなかったのでしょうか?
過去に、本像に注目し、採り上げ論じたのは、私の知る限りでは、川勝政太郎氏と井上正氏の二人だけだと思います。


【初めて注目されたのは随分昔、昭和19年のこと~その後は長らく埋没?】

川勝政太郎氏は、早くも昭和19年(1944)に、研究雑誌「史迹と美術」で本像を採り上げています。

「資料:勝光寺の聖観音像」 (史迹と美術157号 1944年1月刊)

史迹と美術157号掲載「勝光寺の聖観音像」
史迹と美術157号掲載「勝光寺の聖観音像」
と題する、2ページ半ほどの紹介論考です。

川勝氏は、本像の存在を「付近居住の知人」より聞き、詳しく調査する機会を得たと記しています。
そして、本像の概要などについて述べ、弘仁末頃の製作像であるとしたうえで、

「京都市附近に於ける聖観音立像の古像として、屈指の中に入るべきものが見出されたことだけでも、我々の関心を引くに足るであろう。」

と結んでいます。
京都市付近における屈指の像が見いだされたと、大変に高い評価を述べています。

川勝政太郎氏は、美術史家、石造美術研究の専門家として著名で、「史迹と美術」誌も伝統ある広く知られた研究誌です。
そこで紹介された勝光寺・聖観音像だったのですが、何故か、その後は、誰からも採り上げられることは無かったようです。


【再発掘して、注目したのは井上正氏~昭和58年】

忘れ去られていたような勝光寺像を、再度、採り上げ注目したのは、冒頭に紹介した井上正氏でした。
昭和58年(1983)、「日本美術工芸」誌に連載の「古仏巡歴」シリーズの中で、

「京都・勝光寺聖観音菩薩立像(古仏巡歴14)」 (日本美術工芸540号 1983年9月~のちに法蔵館刊「古仏」に収録)

という論考が掲載されました。
初めて川勝氏が初めて紹介してから、約40年を経た後のことでした。

井上氏は、本像は、カヤ材を用いた黄色檀色像で、三屈の体型を用いたインド風の蠱惑的官能性と霊威性を兼ね備えた、異様な雰囲気を持った像であるとし、製作年代は法華寺・十一面観音像や神護寺・薬師像などと近い位置にあると考えられると述べています。
(「檀像(日本の美術253号)」井上正著・至文堂刊 1887年刊 でも、本像を採り上げ紹介)

そして、川勝氏が紹介してから何と70年後、井上氏の再度の採り上げから30年後、やっとのことで、2013年に、京都市指定文化財に指定されることになったのでした。

初紹介から文化財指定に至るまで、随分と長い道程となりました。


【文化財新指定時の本像解説をご紹介~背面墨書から当初伝来を想定】

京都市の文化財新指定にあたっての、勝光寺・聖観音像の解説は、次のようなものとなっています。
ちょっと長くなりますが、全文を紹介させていただきます。

「本像は本堂東脇の間に安置される日蓮宗勝光寺の客仏である。
本像の背面には日通による
「南無妙法蓮華経観世音菩薩」
の名号、および
「當山(とうざん)卅五(さんじゅうご)代日清(花押)/明治九年九月合併者也」
の墨書がある。
この合併というのは真如寺との合併を指す。

真如寺は『山城名跡巡行志』(宝暦4年〈1754〉跋(ばつ))によれば、貞観4年(862)に藤原良縄(よしただ)(814~868)が文徳天皇の菩提を弔うため建立した天台寺院で、万治年中(1658~61)に法華宗の寺として再興したとされる。
本像背面に名号を記した日通は、勝光寺に残る墓碑によれば、同寺中興開基で延宝7年(1679)に示寂(じじゃく)したことが知られる。
真如寺の創建は貞観4年(『日本三代実録』巻6)で、本像は創建時の真如寺の旧像と想定される。

本像は蓮肉も含めた頭体の主部を針葉樹材(カヤか)から彫成する一木造で、切れ長で比較的見開きの強い目、低く太い鼻梁、彫の深い口唇などの顔貌表現、頭部の比例が大きく全体として寸詰まりなプロポーションは9世紀前半の作例に通じる。

その出来映えは,この時期の彫像の特色をよく伝える優れたものであり、伝来した真如寺の開創期の作とは同定し難いが、藤原良縄ゆかりの像である可能性があり、平安京が開かれて間もない時期の造像例として、その価値は極めて高いと言えよう。」
(京都市情報館HP・新指定・登録文化財 第31回京都市文化財ページ掲載解説)


【藤原長縄ゆかりの真如寺創建期(9C中頃)の像である可能性を想定】

この解説を読むと、文化財指定された事由は、本像が9世紀前半の優れた作例とみられることもさることながら、

「その伝来を伝える墨書きから、真如寺創建時の旧像と想定され、藤原良縄(814~868)ゆかりの像である可能性があること」

が、重要な決め手になっているように思えます。


【これまでは、伝来不詳とみられていた観音像】

本像の背面に、上記の解説通りの墨書があることは、昭和19年(1944)、川勝政太郎氏が紹介したときから、知られていました。
しかし墨書の「明治九年九月合併」というのが、何処の寺院と合併したのかは明らかではなく、伝来は不詳であるとみられていたようです。

川勝氏は、
「勝光寺門内に移された墓碑に
當寺中興開基/寂遠院日通聖人/延賓七己未年/二月十一日
と見える。
恐らく何處か他にあったこの古像を日通在世の時に得たものであらう。」
と述べ、
井上正氏は、
「本像の由緒伝来については、全くわからない。
わずかにこの銘記によって、明治九年九月、他の寺院の合併に際して本寺にもたらされたものと想像される。」
と記しています。

ところが、文化財指定時の解説では、
「合併寺院とは「真如寺」を指し、この真如寺が、藤原良縄が文徳天皇の菩提を弔うため建立した天台寺院である。」
と述べられています。

これまで不詳とされていた合併寺院が、真如寺と特定されたのは、寺内の墓碑に「當寺中興開基/寂遠院日通聖人」とある「當寺」というのが、「真如寺」にあたることが、明らかになったということではないかと思われます。


【これからの注目度アップが、ますます愉しみな勝光寺・聖観音像】

この勝光寺の聖観音像が、

インド風の特異な妖しさを表する、特異な9世紀の檀像風一木彫像の優作であるとともに、
その伝来が、藤原良縄ゆかりの真如寺旧像である可能性が想定されるとなると、

俄然、大注目の古像としてスポットライトを浴びることになるかもしれません。

勝光寺・聖観音像
勝光寺・聖観音像

こんなことに思いを巡らせながら、京都市歴史資料館に展示された、勝光寺・聖観音像をじっくり眺めていると、一際、妖しいオーラを発散させて、圧倒的な存在感で眼前に迫ってくるように思えてきました。

私の、お気に入りの古仏です。

益々、注目されるようになってほしいものです。


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