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観仏日々帖

トピックス~「聖徳太子と法隆寺展」 出展仏像余話 〈法起寺の飛鳥仏・木造如来立像〉  【2021.04.09】


私が、その存在を全く知らなかった飛鳥時代の木彫像が、「聖徳太子と法隆寺展」に出展されます。

230法隆寺展法起寺:「聖徳太子と法隆寺」展チラシ


【存在すら全く知らなかった、法起寺の飛鳥仏・木彫如来像】


法起寺の如来立像というものです。

奈良博HP掲載の出展目録には
「如来立像 1躯  飛鳥時代 7世紀 木造 漆箔 奈良法起寺」
と記されています。

考えてみても、
「法起寺に、そんな木彫像があったっけ?」
と、全く頭に思い浮かびません。

230法隆寺展法起寺:法起寺
斑鳩・法起寺

飛鳥白鳳期の木彫像と云えば、10件ちょっとしか遺されていないはずで、極めて重要なものだと思いますが、恥ずかしながら、その存在すら知りませんでした。
「どんな像なのだろうか?」
と、気にかかっていた処、奈良国立博物館からこんなプレスリリースが発表されました。



【奈良博が、CTスキャン調査知見をプレスリリース
~法起寺・如来像は間違いなく飛鳥時代の仏像】


「聖徳太子1400年遠忌記念 特別展「聖徳太子と法隆寺」

と題するもので、この法起寺の如来像についての新知見が発表されていました。
(プレスリリースの内容は、奈良国立博物館HP お知らせプレスリリースに掲載されています~2021.2.25~)

掲載されている、法起寺・如来像の写真をご覧ください。

230法隆寺展法起寺:法起寺・木造如来立像(飛鳥時代)
「聖徳太子と法隆寺」展に出展される
法起寺・木造如来像(飛鳥時代)


なるほど、いかにも飛鳥白鳳期の仏像、という造形の木彫像です。
像高104㎝もある大きな像です。

プレスリリースの主旨は、
展覧会出展に先立って、本像のCTスキャン調査を行ったところ、
「面部をはじめ後補部分は多いものの、飛鳥時代の制作像であることに間違いないことが確認された」
というものです。

具体的には、CTスキャン調査により、
・後補部分は、面部、右体側部、背面のすべて、脚部の下方。
・当初材部分は、後頭部、左体側部を含む体部全面材で、下腹部に当てる左手は指先まで木目が通っている。
ことが、確認されたとともに、
用材は、飛鳥時代特有のクスノキ材と考えられ、造形表現などからも飛鳥時代の作であることは疑いないということです。



【何故だか「知られざる飛鳥仏」となっている、法起寺・如来像】


プレスリリースでも、
「制作が飛鳥時代にさかのぼるとすれば、木彫の如来立像としては屈指の古像であり、像高1メートルを超える点も他に例をみない。」
と、述べられています。

そんな、「飛鳥時代の屈指の古像」の存在が、どうして、これまで広く知られることがなかったのでしょうか?

なんとも不思議な話です。



【「知られざる飛鳥仏」となったいきさつは?
~かつて発見報道直後に訂正発表、顔部が後補と判明】

その訳は、プレスリリース冒頭に、

「この像は平成5年(1993)に奈良国立博物館の調査で「わが国最古の弥勒如来像」と評価されて一躍脚光を浴びた。
しかし、直後に現在の面相とは異なる姿が古写真で確認され、面相部は補作と訂正されたため、以降は広く公開される機会がなかった。」

と、述べられているいきさつにあるようです。
このことが「知られざる飛鳥仏」となってしまっていた事由らしいのです。

どんな話だったのでしょうか?

この話、当時の新聞記事があることを、ある方から教えていただき、ちょっと関心が沸いてきて調べてみました。
なかなか興味深い、いきさつの話であったことが判ってきました。

ご紹介してみたいと思います。



【1993年、奈良博が最古級飛鳥仏・弥勒如来像と発表
~大発見と新聞各紙が一斉に報道】

平成5年(1993)10月、こんな見出しの記事が、新聞各紙に掲載されました。

「最古級の飛鳥仏発見 奈良法起寺 木造の弥勒如来 保存良好 微笑などに特徴」
(京都新聞 1993.10.19付朝刊)

「日本最古の弥勒如来像 奈良・法起寺に7世紀中ごろの作~奈良国立博物館が発表」
(毎日新聞 1993.10.19付大阪朝刊)

「最古の「弥勒如来」? X線撮影で確認 奈良・斑鳩の法起寺」
(読売新聞 1993.10.19付朝刊)


「飛鳥時代の木彫仏像、日本最古の弥勒如来像作例の大発見」という報道です。

230法隆寺展法起寺:法起寺・如来像発見新聞記事(京都新聞)
京都新聞 1993.10.19付朝刊掲載記事

230法隆寺展法起寺:法起寺・如来像発見新聞記事(毎日新聞)
毎日新聞 1993.10.19付朝刊掲載記事

230法隆寺展法起寺:法起寺・如来像発見新聞記事(読売新聞)
毎日新聞 1993.10.19付朝刊掲載記事

京都新聞の記事のリード文が、コンパクトにまとめられていますのでご紹介します。

「奈良国立博物館は18日、聖徳太子ゆかりの奈良県生駒郡斑鳩町の法起寺(高田良信住職)に伝わる木造の如来立像が、飛鳥時代(6世紀末~7世紀中ごろ)につくられた弥勒如来像と分かった、と発表した。

日本の仏教文化が始まったばかりの飛鳥時代の木彫仏像は、法隆寺の国宝・百済観音像など十数点が残るだけで、関係者らは
「同時代の木彫仏像が確認されるケースはほとんどない」
と驚いており、日本最古級で重文クラスの貴重な発見。

弥勒如来像は、これまで白鳳時代(七世紀後半)が最古とされており、古代仏教美術史、宗教史研究に大きな影響を与えそうだ。」



【X線調査結果、顔立ちなどから飛鳥仏と判定、弥勒如来の最古例との見解】


各社の新聞報道ポイントをまとめると、次のようなものです。

・奈良国立博物館は、法起寺・如来像が、飛鳥時代(7世紀中頃~650年頃)の制作で、日本最古の弥勒如来とみられると発表した。
・顔立ちをはじめとした像の造形表現は、飛鳥時代の制作と思われる。
・後世の模古作という見方もあったが、X線調査の結果、補修クギなどから、中世以降の後補部分はあるものの、主要な体幹部は飛鳥時代の特徴であるクスノキの一木彫像であることが確認された。
・左手の指先を下にして手の甲を見せることから、弥勒如来像と考えられ、「弥勒如来のわが国最古例」と考えられる。

これは、大変な大発見です。

飛鳥時代の木彫の大型像が発見されたというだけでも、超ビックリです。
新聞写真をみると、いかにも飛鳥時代の仏像らしい顔立ちです。
「一見しただけで飛鳥仏という姿かたちの大型像が、どうして、今まで知られることがなかったのだろうか?」
というのが、率直な実感ですが、これまでは鎌倉時代以降の模古作と見られていたということのようです。

かけて加えて、この像が弥勒如来だというのですから、これまた凄い話です。

ただ、弥勒像かどうかの、はっきりした決め手はなかったようです。
両手の印相が、東大寺・弥勒仏像など、弥勒像に見られるものであることや、法起寺塔露盤銘に舒明10年(638)に弥勒像を造ったと記されることなどから、そのように想起されたものではないかと思われます。

230法隆寺展法起寺:東大寺・弥勒像(国宝・平安前期)
東大寺・弥勒如来像(国宝・平安前期)
左手の指先を下にして手の甲を見せる印相となっている


異論もあったようで、新聞記事によると、高田良信住職は「釈迦如来像にあたると推測される」とのコメントを行っています。
もし弥勒如来像だったとすれば、従来最古とされたのが当麻寺・弥勒如来像(天武10年・681)ですから、現存最古例の大発見となるという訳です。

230法隆寺展法起寺:当麻寺・弥勒像(国宝・白鳳時代)
現存の弥勒如来の最古例とされている当麻寺・弥勒仏像
天武10年(681)の制作とされる(国宝・白鳳時代)


この発見発表で、一躍脚光を浴びた法起寺・如来像は、法隆寺の聖徳会館で、12月15日から4日間、一般公開展示される運びとなりました。



【2か月後に、奈良博が衝撃的な訂正発表!
~「顔部は、昭和新補だったと判明」】

ところが、一般公開初日の12月15日、なんと奈良国立博物館から、衝撃の訂正・謝罪発表が行われました。

飛鳥時代の制作とした法起寺・如来像の顔は、
「昭和に造られた新補であったことが判明した」
というものです。

新聞各社は、このような見出しで報じています。

「顔面は昭和に制作」 法起寺の弥勒如来像 首に張り合わせた跡」
(奈良新聞 1993.12.15付朝刊)

「「日本最古」法起寺の弥勒如来 顔面に昭和の補修 奈良国立博物館が謝罪」
(読売新聞 1993.12.15付朝刊)

「“最古”の弥勒如来、顔は昭和製 奈良博物館が異例の訂正~斑鳩の法起寺」
(毎日新聞 1993.15.15付朝刊)


230法隆寺展法起寺:法起寺・如来像奈良博訂正記事(奈良新聞)
奈良新聞 1993.12.15付朝刊掲載記事

230法隆寺展法起寺:法起寺・如来像奈良博訂正記事(読売新聞)
読売新聞 1993.12.15付朝刊掲載記事

230法隆寺展法起寺:法起寺・如来像奈良博訂正記事(毎日新聞記事)
毎日新聞 1993.12.15付朝刊掲載記事

奈良新聞のリード文は、このように報じています。

「奈良国立博物館は14日、10月18日に最古級の飛鳥仏として発表した法起寺(斑鳩町岡本、高田良信住職)の弥勒如来像に関して
「耳から前の顔面部分は昭和になってからそっくり造り替えられたものだった」
と異例の訂正発表を行った。

この仏像の以前の顔を知る文化庁職員の指摘により再調査した結果分かったもので、調査にあたった同博物館は
「今後二度とこういったことが起こらないよう調査活動を慎重に行いたい」
と平身低頭。

仏像が造られた時代に合わせるよう、アルカイックスマイルをたたえた表情に造り替えられた顔相は、現代の学者の目をも誤らせるほどの出来栄えだった。」



【顔部が現在と異なる昭和初期写真の存在が指摘される
~石田茂作著「飛鳥時代寺院址の研究」に掲載】

新聞記事によると、如来像の顔が昭和製だと判明したのは、昭和11年(1936)刊の「飛鳥時代寺院址の研究」(石田茂作著)に、この如来像の写真が掲載されていて、その顔が、明らかに現在の顔とは異なるものであることが、文化庁の若手研究者から指摘があったことによるものでした。

指摘を受けて、奈良博で、再度、肉眼観察とX線で調べた処、顔面は後頭部だけを残して、耳の後ろから切り離し飛鳥仏に似せた顔を漆のようなもので接着したらしいとわかった、ということです。

奈良博のコメントとして、
(註:顔部の補修を)だれが、どういう意図で、いつ行ったのかは、全く不明。
(註:奈良国立)博物館では、
「推測の域を出ないが決して悪意ではなく、寺の関係者か結縁のある人が造り替えられていた顔相を当初の姿に戻そうと飛鳥仏の顔相に造り直させたのでは」
と話している。」
(奈良新聞)
と、報じられています。

「飛鳥時代寺院址の研究」に掲載されていた、昭和11年以前の法起寺如来像の写真は、次の通りです。

230法隆寺展法起寺:「飛鳥時代寺院址の研究」掲載~法起寺・如来像写真

230法隆寺展法起寺:「飛鳥時代寺院址の研究」掲載~法起寺・如来像写真
「飛鳥時代寺院址の研究」に掲載されている法起寺・如来像写真

顔は、誰がみても明らかに違います。

230法隆寺展法起寺:「飛鳥時代寺院址の研究」掲載~法起寺・如来像顔部230法隆寺展法起寺:法起寺・如来像~顔部新補後の写真
(左)「飛鳥時代寺院址の研究」掲載写真、(右)顔部新補後の写真
右手先も新補されたと思われる


古い写真お顔は、時代もかなり下がるのは間違いありません。



【石田茂作氏は、執筆当時「鎌倉以後の擬古作」との見解】


石田茂作氏は、本像について、このように述べて、「鎌倉以後の擬古作である」と論じています。

「像全体の様子は如何にも古朴に見えるもので、・・・・・・・
推古仏のにほひを多分にもっている。
然しその製作年代を飛鳥時代と断ずることは六(ママ)かしく、寧ろ鎌倉以後の擬古作とすべきであろうが、それにしても彫刻史上興味ある資料である。」
(石田茂作著「飛鳥時代寺院址の研究」1936年聖徳太子奉賛会刊)

ご存じの通り、石田茂作氏の「飛鳥時代寺院址の研究」は、古代寺院址研究の定本中の定本と云っても良い著作です。
本書に、古い写真が掲載されていたことに、研究者が気付かなかったというのは、ちょっと「迂闊」と云われても、仕方ないような気がします。



【世の注目度が、一気に萎んでしまった、法起寺・如来像
~その後、展示公開されず】

それにしても、「飛鳥時代らしい顔つき」との発表をした顔貌が、「昭和新補の模古作の顔」であったというのですから、ダメージが大きかったのではないでしょうか。
この訂正・謝罪発表で、脚光を浴びた法起寺・如来像に対する世の注目度は、一気に萎んでしまったようです。

冷静に考えてみると、顔部が昭和の新補だったということをさておけば、
「主要な体躯は飛鳥時代の制作とみられる」
という見解なのですから、貴重な飛鳥時代の木彫如来像であることには変わりはないのですが、この「事件?」以降、本像については、採り上げられたり、展示公開されたりすることは無かったようです。

石田茂作氏のいう鎌倉以後の模古作なのか、飛鳥時代の制作なのかは、その後の議論がされなかった法起寺・如来像ですが、今回の奈良博プレスリリースで、
「主要な体躯は飛鳥時代の制作とみて間違いない」
ことが、ハッキリしたということなのだと思います。



【過去の著作で本像に言及していた、仏像修復・研究家の太田古朴氏】


ところで、この法起寺・如来立像。

石田茂作氏が「飛鳥時代寺院址の研究」で採り上げた他には、言及した人はいなかったのでしょうか?

私のわかる範囲で、本や論考にあたってみたりしてみましたが、本像にふれたものは、なかなか見当たりませんでした。
唯一、太田古朴氏の著作に、この法起寺・如来像にふれた記述を見つけました。
ほんの一行だけなのですが、次の通りです。

太田古朴著「仏像研究三十年」1965年(綜芸社刊)に掲載された「新発見新紹介仏像目録」リストに
弥勒如来木彫 (新納先生) 斑鳩・法起寺   (カッコ内は発見者・発見協力者)
と記されていました。

また、太田古朴著「飛鳥 奈良」1981年(綜芸社刊)に掲載された、「日本の彫刻の主なもの」リストの「飛鳥時代の項」に、
弥勒仏立像 (頭部失) (近年補) 法起寺
と記されていました。

230法隆寺展法起寺:太田古朴著「飛鳥 奈良」「仏像研究三十年」



【飛鳥時代の制作で、頭部は近年の補作とした太田古朴氏
~1993年の奈良博発表・訂正より以前からの見解】

二著の記述からすると、太田古朴氏は、奈良博が調査結果発表を行った1993年以前から、
「本像は、飛鳥時代の制作で、頭部は近年の新補、尊像名は弥勒仏像である。」
と考えていたようです。

太田古朴氏(1914~2000)は、奈良美術院で仏像修理を学び、その後は在野の仏像修復家、仏像研究家として活動した人物です。

230法隆寺展法起寺:太田古朴氏
太田古朴氏

また、ここに名前が出てくる「新納先生」というのは、長らく美術院の総責任者として仏像修理に携わった新納忠之介氏(1869~1954)のことです。

これらの記述からすると、太田古朴氏、新納忠之介氏は、この如来像の頭部が昭和に入ってから飛鳥時代風の模古作に新補されたことを知っていたということになります。
想像を逞しくすると、仏像修復家として、新補に何らかのかかわりを持っていたのかもしれません。
奈良博で本像の発見・訂正発表があった1993年当時、太田古朴氏はまだ79歳で存命でしたので、この時に太田氏に訊ねれば、その事情が判ったのかもしれません。

研究者でも見間違ってしまう程の出来の模古新補ということであれば、美術院レベルの関係者が携わっていてもおかしくないのではという気がしますが・・・・・。


「知られざる飛鳥仏」といえる、法起寺の如来立像。

本像にまつわる、ちょっとややこしくなってしまった発見物語をたどってみました。



【「聖徳太子と法隆寺展」で、初めて法起寺・如来像を観るのが愉しみ】


法起寺の如来立像が俄かに注目を浴びてから、20年近くが経ちました。

振り返ってきたいきさつによるものか、広く公開されることのなかったようなのです。
そして、ようやくというのか、やっとというのか、此度の「聖徳太子と法隆寺展」に出展されることになったという訳です。

展覧会で、眼近に観ることが出来るのが、愉しみです。

如来像のお顔が、「昭和の新補、模古作」であることを、自分の眼で見分けることが出来るのでしょうか?


トピックス~「聖徳太子と法隆寺展」出展仏像余話〈金堂・薬師如来像と奈良博覧会〉 【2021.03.27】


今年、奈良国立博物館と東京国立博物館で、聖徳太子1400年遠忌記念~特別展「聖徳太子と法隆寺」が開催されます。

229法隆寺展薬師:「聖徳太子と法隆寺」チラシ

奈良国立博物館:4月27日~6月20日 開催

東京国立博物館:7月13日~9月05日 開催


奈良博展では、

「明治11年(1878)に、法隆寺から皇室へと献納された「法隆寺献納宝物」が、奈良へまとまって里帰りする」

と、話題になっています。



【展覧会の一番の目玉は、金堂・薬師如来像の出展実現】


やはり、なんといっても、この展覧会の一番の目玉は、

「国宝・薬師如来坐像 (飛鳥白鳳時代)の出展」

でしょう。

229法隆寺展薬師:法隆寺金堂・薬師如来像
法隆寺金堂・薬師如来像(国宝・飛鳥白鳳時代)

薬師如来像は法隆寺金堂の内陣東の間に安置されていますが、金堂内で拝すると安置位置までの距離が結構遠く、また薄暗いので、はっきり観ることが出来ません。

その薬師如来像が、なんと寺外へ出て展覧会へ出展されるというのです。
これまで、無かったことです。
明るい照明の中で、眼近にじっくりとその姿を観ることが出来る得難いチャンスです。
大変な愉しみで、今から、待ち遠しい思いです。



【用明天皇勅願の造像銘がある薬師像~法隆寺再建後の擬古作説が有力】


この薬師如来像、ご存じの通り、光背に造像銘が刻されています。

銘文には、
「用明元年(586)に、用明天皇が病気平癒のために寺と薬師像を誓願したが、天皇は果たせず崩御、託された推古天皇、聖徳太子が遺詔を受けて、推古15年(607)にこれらを完成させた。」
旨が記されています。

かつては、この造像銘に則り、607年頃の製作像とされていましたが、昭和に入ってからは、銘文の文言研究、造形表現の研究などが進められ、現在では、推古年代の制作ではなく、後の模古作、擬古作だと考えられています。
制作年代は、法隆寺の天智9年(670)の火災以降の作とみる説が有力のようですが、それ以前に遡るとする説もあります。



【差し替え訂正された、薬師像写真掲載の展覧会チラシ】


この特別展の展覧会チラシをご覧になってください。

229法隆寺展薬師:展覧会チラシ・修正前229法隆寺展薬師:展覧会チラシ・修正後
法隆寺・薬師如来像写真が掲載された展覧会チラシ

「薬師如来像」の単体写真が使われています。
やはり、大注目の目玉出展ということです。

全く同じチラシ写真を2枚並べさせていただきましたが、左右で、どこかが違うのにお気づきになったでしょうか?
間違い探しのクイズのつもりで、違う処を探してみてください。

そうです。
右下の小さな円の中の文言が違うのです。

229法隆寺展薬師:展覧会チラシ・修正前(寺外初公開)229法隆寺展薬師:展覧会チラシ・修正後(傑作)

左の方は 「寺外初公開」
右の方は 「古代仏像彫刻の傑作」
と記されています。

どうして、文言が違うのでしょうか?

実は、左は昨年(2020)10~11月ごろ作成されたチラシ、右は、その後、12月に訂正されて作成されたチラシなのです。



【正確には「寺外初公開」ではなかった薬師像
~明治8年の奈良博覧会へ出展されたことが・・・・】


特別展「聖徳太子と法隆寺」のツイッター(12月10日)に、次のように書かれていました。

「10/28と11/6のツイートで掲載したチラシ画像の中に訂正がありました。
国宝 薬師如来坐像について、「寺外初公開」と表記されていましたが、明治8年(1875)の第一次奈良博覧会の目録に当該作品とみられる表記がありましたので、訂正させていただきます。」

このチラシを作った方は、
金堂の薬師如来像は、かつて一度も寺の外へ出て展示されたことは無く、「今回寺外初出展」と思い込んでいた処、実は150年弱前の明治8年の「奈良博覧会」に出展されていたことが判明したので訂正した。
ということなのです。

150年も前の博覧会に出たことがあるだけで、所謂、美術館、博物館の展覧会に出展されるのは今回が初めてということなのですから、「寺外初公開」の表記でも、大目に見て良いじゃないか思わないわけではないですが、どなたかからの指摘があったということなのでしょう。



【「奈良博覧会」展示目録にはっきり記される「用明天皇勅願 金銅 薬師如来」】


明治8年(1875)に開催された「(第一次)奈良博覧会」なのですが、ツイッターにあるように、その展示目録が作成されて残されているのです。

ご覧の目録が、「薬師如来像の展示」が記されているページです。

229法隆寺展薬師:第1次奈良博覧会目録
第1次奈良博覧会目録~法隆寺薬師像か記されているページ

右下の方に、
「用明天皇 勅願
金銅 薬師如来     法隆寺
有銘数字ナル故ニ不記載」
と、はっきり書かれています。

229法隆寺展薬師:第1次奈良博覧会目録・薬師掲載箇所
第1次奈良博覧会目録~法隆寺薬師像掲載箇所

これは、間違いなく「金堂東の間の薬師如来像」のことです。

私は、この薬師像が「奈良博覧会」に出たことがあるということを、たまたま知っていましたので、
「やはり、そういうことになるのだろうな!」
と、一人、納得した次第です。



【大仏殿と回廊で開催された「奈良博覧会」
~勅封・正倉院宝物の出陳などで大盛況】

後にも先にも寺外に出たことのない金堂・薬師如来像が出展された「奈良博覧会」というのは、どのような博覧会であったのでしょうか?

「奈良博覧会」は、明治8年(1875)に第1次(第1回)奈良博覧会が開催され、その後、明治27年の第18次奈良博覧会まで、開催されました。
博覧会は、なんと東大寺にて開催され、大仏殿内と回廊が展示会場となっていました。

229法隆寺展薬師:明治14年頃の東大寺大仏殿古写真
奈良博覧会開催当時の東大寺大仏殿~明治14年頃の古写真

博覧会には、社寺や旧家が所蔵する什宝や書画の他に、商工業品、名産品などが出展されています。
そして、特筆すべきことは、勅封正倉院宝物が開封され、多数の宝物が出展されたことです。
正倉院宝物は、第1次から第5次まで、第4次を除いて、4回に亘って出展されており、その後は、出展されることは無くなっています。
第1次の時には、目録によれば、220件、1700点以上の正倉院宝物が出展されていて、これだけの名品が勢揃いして出展されたなどというのは、今では考えられないことです。

229法隆寺展薬師:正倉院宝物(黄熟香~蘭奢待)229法隆寺展薬師:正倉院宝物(黒漆水瓶~漆胡瓶)

229法隆寺展薬師:正倉院宝物(紫檀碁局)229法隆寺展薬師:正倉院宝物(楓蘇芳染螺鈿槽琵琶)
奈良博覧会に出品された正倉院宝物
上段:(左)黄熟香~蘭奢待、(右)黒漆水瓶~漆胡瓶
下段:(左)紫檀碁局、(右)黒漆水瓶~楓蘇芳染螺鈿槽琵琶


この奈良博覧会こそ、戦後、昭和21年(1946)にスタートした、奈良博開催「正倉院展」の元祖と云っても良いものだと思います。

また、法隆寺、東大寺をはじめとした社寺や、個人蔵の古器旧物は、正倉院宝物の数をはるかに倍する膨大な量が陳列されました。
まさに、考えられないような超大規模な古美術展覧会と云って良いものだと思います。

この奈良博覧会、想定以上の大人気、大盛況となったようで、第1次博覧会は、80日間で17万人を超える観客数が記録されています。
まだ、鉄道など無い、明治8年に、これだけの人々が詰めかけたという訳ですから、盛り上がりのほどが伺われます。



【奈良博覧会への大規模な文化財出展をアレンジした町田久成・蜷川式胤】


どういう訳で、これだけ大規模に古器旧物が集められた大規模古美術展が開催されたのでしょうか。

当時、明治初期は、各地で地方博覧会が盛んに開催されていて、奈良博覧会もその一つと云えるものだと思います。
こうした地方博覧会は、殖産興業、地元経済活性化的な目的が強くて、商工業品、工芸品、物産品の展示に重点が置かれるものであったようです。

一方、奈良博覧会が大規模な文化財展観を行う博覧会となった訳には、町田久成、蜷川式胤の果たした役割が、大変大きかったようです。

229法隆寺展薬師:町田久成229法隆寺展薬師:蜷川式胤
(左)町田久成、(右)蜷川式胤

町田、蜷川と云えば、明治5年に、政府としての近代初の文化財調査である近畿東海地方古社時調査(壬申宝物検査)を行った人物です。
この調査の時に、勅封正倉院を開封し、9日間にわたり丹念に宝物調査を実施しているのです。



【奈良の地への博物館新設構想を持っていた町田久成
~奈良博覧会は博物館建設への布石】

町田、蜷川は、国家による文化財保護を進めるために、奈良に博物館を建設し、正倉院宝物や古社寺の宝物などを、新設の博物館で展示する構想を持っていました。
そして、その布石として、奈良博覧会においてこれらの宝物を展示し、博物館建設実現の第一歩としたいと考えたようなのです。

町田久成は、明治15年に開設された、上野の「博物館」の初代館長に就任している人物で、文部官僚として大きな力を持っていました。
こうした町田、蜷川の働きかけにより、正倉院宝物までもが出展されるという、大古美術展覧会的な博覧会の実現に至ったという訳です。



【法隆寺から際立って多くの宝物が博覧会に出品
~出品目録には、ピンとくる品々の名前がズラリと】

もう一つ、奈良博覧会といえば、落とすことが出来ないのは、「法隆寺と奈良博覧会との関わり」の話です。
冒頭にふれた、薬師如来像の出展にも関係する話です。

第1次、第2次の奈良博覧会の時に作成された出品目録が現在も残されているのですが、その目録には、際立って数多くの法隆寺からの宝物出品物が記載されています。

229法隆寺展薬師:第一次奈良博覧会目録
第一次奈良博覧会目録~冒頭ページ

(この目録は、奈良県立図書情報館・まほろばライブラリーに収録されておりNET上で観ることが出来ます。
奈良博覽會物品目録 [明治8年]   奈良博覽會物品目録 [明治9年] )


法隆寺の根本本尊的な薬師如来像まで出品されているのですから、ちょっと驚きです。
その他も、持ち運び易い小型の宝物は、根こそぎ博覧会に運び出されている観があります。

丹念に目録を見ると、このような出品物の記述があるのに気が付きます。

聖徳太子四巻義疏、聖徳太子像 阿佐太子筆
金銅佛四十八体、摩耶夫人肖像、天人三躯、妓楽面、舞楽面

名前をご覧になると、これらが何を指すのかすぐに気づかれたことと思います。
それぞれ、

御物の法華義疏(紙本墨書4巻)、唐本御影(聖徳太子及び二王子像)
東博・法隆寺宝物館にある金銅四十八体仏像、摩耶夫人・天人像、伎楽面・舞楽面

のことに間違いないと思われます。

229法隆寺展薬師:御物・法華義疏229法隆寺展薬師:唐本御影(聖徳太子及び二王子像)
(左)御物・法華義疏、(右)御物・唐本御影(聖徳太子及び二王子像)

229法隆寺展薬師:東博法隆寺宝物館・如来像229法隆寺展薬師:東博法隆寺宝物館・丙寅銘菩薩半跏像
東博法隆寺宝物館(左)如来像、(右)丙寅銘菩薩半跏像

229法隆寺展薬師:東博法隆寺宝物館・摩耶夫人天人像229法隆寺展薬師:東博法隆寺宝物館・伎楽面
東博法隆寺宝物館(左)摩耶夫人天人像、(右)伎楽面

これらの法隆寺の宝物が奈良博覧会に出展された時に撮影されたものだと推測される古写真が、不思議なことにイギリスに残されています。

イギリス王室所有(ロイヤル・コレクション・トラスト保管)の文化財写真です。
英王室のアルバート王子、ジョージ王子の二人が明治14年(1881)に日本に来訪したとき入手した写真の中に、何枚も「奈良博覧会出展時の四十八体仏や伎楽面など」と思われる写真があり、HPに掲載されているのです。

229法隆寺展薬師:奈良博覧会出展時の法隆寺四十八体仏古写真

229法隆寺展薬師:奈良博覧会出展時の法隆寺四十八体仏古写真

229法隆寺展薬師:奈良博覧会出展時の法隆寺伎楽面古写真
奈良博覧会出品時に撮影されたと思われる法隆寺宝物写真
明治14年ごろ撮影~四十八体仏・伎楽面~
イギリス王室所有(ロイヤル・コレクション・トラスト保管)の文化財写真

(「ROYAL COLLECTION TRUST」 HP の NEAR YOUページ を開いて、MAPの位置を日本の奈良に合わせると掲載写真をみることが出来ます。)


【法隆寺の博覧会出品宝物は、一括して皇室への「献納宝物」へ
~アレンジしたのは町田久成?】

どういうことなのか、皆さんお気づきになったことと思います。

そうなのです。
これらの品々は、明治11年(1878)に、法隆寺から皇室に献納された「法隆寺献納宝物」そのものなのです。
「法隆寺献納宝物」は総数332点ですが、そのほとんどは、
「奈良博覧会への出品物が、皇室へ献納された」
という訳です。

法隆寺では、明治維新後の財政困窮を乗り越えるため、千早定朝管主の決断によって宝物を献納し、皇室より1万円の下賜金を得ることになります。

この宝物献納をアレンジしたのが、町田久成であったようです。
町田は、法隆寺からの多数の宝物を奈良博覧会に出品させて、その出品物を丸ごと一括して、皇室への献納宝物とするというストーリーを描いたということなのでしょう。



【博覧会終了後、正倉院宝庫にそのまま保管された献納宝物
~寺に戻ったのは薬師如来像など限られたものだけ】

そういう訳で、博覧会に出展された法隆寺献納宝物は、第2次奈良博覧会終了後も法隆寺に戻されることは無く、献納が決まった後は、正倉院の宝庫に移され保管されたのでした。

ただし、法隆寺の博覧会出品宝物のうち、お寺の方でどうしても必要なもの、ごくわずかは持ち帰られたようです。
冒頭でご紹介した用明天皇勅願薬師如来像の他にも、玉虫厨子、土偶人(五重塔塔本塑像)、持国天・多聞天木像(金堂・四天王像)なども、博覧会に出品されていますが、これらは献納されずに法隆寺に戻されています。

事と次第によっては、薬師如来像も玉虫厨子も献納宝物となっていたことも、あり得たのかもしれません



【正倉院宝物、法隆寺献納宝物を、奈良新設の博物館展示品に
~町田久成のビジョン】

町田久成が、「奈良に博物館を建設する構想」を持っていたことは、先にふれましたが、町田は、その新設博物館において、正倉院宝物や法隆寺献納宝物を展示することを目論んでいたのだと思います。

奈良博覧会への正倉院宝物の陳列や、法隆寺宝物の出品と献納宝物化は、その布石であったと云えるのでしょう。
そう考えれば、献納された法隆寺宝物が、正倉院の宝庫で保管され続けていたことも納得が行く処です。

残念ながら、奈良の地への博物館建設は、早々に実現することは叶いませんでした。
奈良帝国博物館が竣工開館したのは、明治28年(1895)のことでした。



【上野に開設された「博物館」の陳列品となった法隆寺献納宝物】


一方、明治15年(1882)に東京上野に「博物館」が開館することになりました。

229法隆寺展薬師:明治15年に開館した上野の「博物館」
明治15年に開館した上野の「博物館」

正倉院宝庫に保管されていた法隆寺献納宝物は、この時に、上野の博物館に移されることになったのです。
そして、皇室御物を博物館に貸与するという形で、陳列品に加えられることになりました。

上野の博物館の初代の館長には町田久成が就任していますので、法隆寺献納宝物の奈良から東京への移送についても、町田の関与や意向によるものかもしれません。

229法隆寺展薬師:東博平成館前の初代館長・町田久成胸像
東博平成館前に設置された初代館長・町田久成胸像

奈良博覧会や法隆寺献納宝物の話が、ちょっと長くなってしまいました。



【画期的と云える、薬師如来像の展覧会出展の実現】


話を、「聖徳太子と法隆寺展」への薬師如来像の出展の方に戻したいと思います。

これまで、博物館に決して出展されることのなかった「薬師如来像」の展覧会出展が実現したことは、まさに画期的なことだと思います。

金堂中の間の釈迦三尊像に比べると、ちょっと目立たない存在なのかもしれませんが、大変優れた国宝仏像です。
博物館の明るい照明の中で、薬師如来像を眼近にすると、法隆寺の金堂で拝するのとは、違った印象、新たな発見を感じることが出来ることと思います。
法隆寺の金堂では決して観ることのできない、光背背面の造像銘も、直に目にすることが出来るかもしれません。

一見、止利仏師の作と云われても納得してしまいそうな薬師如来像。
「白鳳期の擬古作」ということを、実感することが出来るでしょうか?



【寺外公開未実現なのは金堂・釈迦三尊と夢殿・救世観音だけに
~展覧会出展は叶わぬ夢?】

今回の薬師如来像の博物館出展実現で、未だ法隆寺から寺外に出て、博物館展示されたことのない仏像は、

「金堂・釈迦三尊像」「夢殿・救世観音像」

の二像だけとなったと思います。

(西円堂・薬師如来坐像、上御堂・釈迦三尊像、大講堂・薬師三尊像も、寺外に出たことは無いのかと思いますが、まあこれは別として・・・・・)


釈迦三尊像、救世観音像も、いつの日にか、展覧会で眼近に観ることが出来る時が来るのでしょうか?

これは、叶わぬ夢のような気がしますが・・・・・・・




【追 記】


奈良博覧会と正倉院宝物展観、法隆寺献納宝物に至る経緯などについては、次のような記事が参考になろうかと思います

ご関心のある方は、ご覧ください

奈良県立図書情報館・図書展示「正倉院展と奈良博覧会 〜正倉院宝物公開の歴史〜 」(2018.11)
展示パネル資料

日々是古仏愛好HP・埃まみれの書棚から
明治の文化財保存・保護と、その先駆者~町田久成・蜷川式胤【3/7】

日々是古仏愛好HP
法隆寺献納宝物と「四十八体仏」について【第1回】



トピックス~龍峰寺・千手観音像   「相模川流域のみほとけ展」一番の注目像 【2020.11.03】


現在、神奈川県立歴史博物館で 「相模川流域のみほとけ展」 (10/10~11/29) が開催されています。

217.龍峰寺:「相模川流域のみほとけ展」チラシ


展覧会場に入ると、いの一番にドーンと展示されているのが、海老名市にある龍峰寺の千手観音立像です。

217龍峰寺:龍峰寺・千手観音像

217.龍峰寺:龍峰寺・千手観音像
龍峰寺・千手観音像~「相模川流域のみほとけ展」図録掲載写真


像高:192㎝の堂々たる木彫像で、重要文化財に指定されています。



【「奈良~鎌倉時代」というキャプションにビックリ!
~注目展示の龍峰寺・千手観音像】

ビックリしたのは、この観音像の制作年代のキャプションです。

「奈良~鎌倉時代」

となっているのです。
「エーッ!! こんな時代設定ってありうるの?」
と、声を挙げそうになってしまいました。

奈良時代の末から鎌倉時代までは、なんと400年以上もあります。
どのように考えればよいのでしょうか?

この千手観音像の写真をご覧になって、どう感じられたでしょうか?

まず目に付くのは、次のようなところではないでしょうか。



【仏手を頭上に上げる、清水寺式千手観音像】


一番目には、仏手を頭上にあげ、手を組んでその上に化仏をのせる千手の姿だと思います。

所謂、清水寺式の千手観音像です。
清水寺式千手観音というのは、ご存じの通り、僧・賢心(後に延鎮と改名)と坂上田村麻呂が協力して、延暦17年(798)に伽藍を造営した京都・清水寺の本尊像が、このスタイルであったとされることから、そのように名づけられているものです。

現在、京都・清水寺に祀られる秘仏本尊は、鎌倉時代制作のものですが、当然のことながら、清水寺式の千手観音の像容となっています。
このスタイルの千手観音像は、結構珍しくて、あまり見かけることはありません。



【玉眼のお顔の造形は、鎌倉彫刻そのもの】


二番目には、お顔の造形が、いかにも「鎌倉彫刻そのもの」ということではないでしょうか。

キリリと男性的な顔立ちは、まさに鎌倉様という面貌です。
そして、眼には玉眼が嵌め込まれています。

誰がみても、典型的な鎌倉彫刻で、異論をさしはさむ余地など全くありません。



【腰から下のプロポーション、衣文表現は大変古様~奈良様の系譜か?】


三番目は、腹部、腰から下の造形と衣文表現でしょう。

大変に古様なのです。
ちょっと腰高でバランスの良い下半身のプロポーションは、所謂、奈良様の仏像を思わせるものがあります。
とりわけ目を惹くのは、腰から下の衣文表現です。
鎬を立てず、丸みを帯びて粘りのある衣文は、乾漆像のそれを連想させる、ふくらみと弾力ある表現なのです。
これまた奈良様を想起させる造形表現なのです。

下半身の写真だけを見れば、これは平安前中期までの古像に間違いないと感じることと思います。
それも、平安前期のボリューム感ある体躯、鋭い彫り口、鎬だった衣文という造形タイプではなくて、奈良時代の乾漆像の系譜にある造形表現の像だと感じることでしょう。



【従来の見解は、鎌倉時代制作の古様に倣った模古的像】


「鎌倉時代の典型」と「奈良様の造形表現」が、何故だか同居している不思議な龍峰寺の千手観音像。
どのように考えればよいのでしょうか。

この観音像、私自身は、2008年に奈良国立博物館の「西国三十三ヶ所展」に出展された時に観ているはずなのですが、まったく記憶の片隅にもありませんでした。

そこで、これまでどのように解説されていたのか調べてみた処、
「神奈川県文化財図鑑・彫刻編」(1975刊)、「仏像集成・第1巻」(1989刊)、「海老名市史・第2巻中世篇」(1998刊)、「西国三十三ヶ所展図録」(2008刊)
に、本像が採り上げられていました。

いずれの解説も、鎌倉の典型と云える面貌と、古様な体躯、衣文表現が同居していることを認めながらも、

「鎌倉時代制作の古様に倣った像」

と述べられていました。

「この像の制作のときについては、なかなかすぐ結論を出しにくい。
それについては、一応二説が考えられよう。
つまり、一木彫成像らしい特色を重視して、その制作を平安朝のものとみとめ、いまの玉眼を入れた面相部を後補のものとみるか、または鎌倉の後期ころに、何らかのわけによって損傷ないし亡失した一木造りの古い本尊にならってそれを再興したかのいずれかである。
この像には、ぜんたいに古様を模したような特色が見のがせないので、あるいは鎌倉再興説が当っているのではあるまいか。」
(「神奈川県文化財図鑑・彫刻編」神奈川県教育委員会刊1975.03解説)


(註:造形、衣文表現などを見ると)奈良時代の仏像をみるような表現形式を示す。
このような古式の衣褶表現の選択には、なんらかの古像の模刻という製作事情が想定できようか。
・・・・・
玉眼の技法や古式の構造技法と併せ考えると、製作は鎌倉時代初期かと推測される。」
(「西国三十三ヶ所展図録」奈良国立博物館2008.03解説)

このような解説です。

新旧両様が同居している問題に言及しながらも、

「何らかの理由で、古像に倣って鎌倉時代に模古的に造られた像ではないか。」

と解説されていますが、なかなか断定的に鎌倉作と言い切れない悩ましさを感じないわけではありません。
鎌倉時代の制作との見方がされているのは、典型的鎌倉様の面貌、玉眼が、決め手になっているのでしょうか。

因みに、本像が大正14年(1925)に旧国宝に指定された時以来、文化財指定は「鎌倉時代」となっています。



【奈良様の優作、広隆寺・千手観音像を想起させる造形、衣文表現~私の印象】


私が、この観音像を眼近に観て、最も目を惹きつけられたのは、腰から下、下半身の造形でした。
想定外の古様なのです。

この観音像の腰から下の衣文表現や、造形プロポーションを観ていると、京都広隆寺の不空羂索観音立像の表現を連想してしまいました。

217.龍峰寺:広隆寺・不空羂索観音像
広隆寺・不空羂索観音像~乾漆像を思わせる造形

ご存じの通り、広隆寺・不空羂索観音像は、奈良末~平安前期に制作された像(弘仁9年(818)の火災以前に造立)で、奈良時代の乾漆像の表現をそのまま木彫像に置き換えたような、「所謂奈良様の造形表現の優作」として知られています。
衣文の表現などは、まさに乾漆像の衣文かと見紛うようです。

龍峰寺像は、広隆寺像のような弾力的で粘りのある衣文表現や、腰高でスリムな見事なプロポーションには、到底及ばないのですが、どこかしら通じるものを強く感じてしまいました。

急に興味が沸いてきて、奈良時代の乾漆像や、奈良様乾漆系表現をとどめるといわれる平安の菩薩立像の腰から下の衣文表現の写真を並べてみてみました。


【 奈良様乾漆像の系譜といわれる諸像の脚部写真】

217.龍峰寺:聖林寺・十一面観音像~脚部217.龍峰寺:矢田寺金剛山寺・十一面観音像~脚部217.龍峰寺:広隆寺・不空羂索観音像~脚部
(左)聖林寺・十一面観音像:8C、(中)矢田寺・十一面観音像:奈良末、(右)広隆寺・不空羂索観音像:818年以前


217.龍峰寺:広隆寺・千手観音像~脚部217.龍峰寺:黒田観音寺・伝千手観音像~脚部217.龍峰寺:雨宝院・千手観音像~脚部
(左)広隆寺・千手観音像:9C、(中)黒田観音寺・伝千手観音像:9C、(右)雨宝院・千手観音像:10C初

如何でしょうか?
それぞれ傑作、優作と認められている諸像です。

龍峰寺の観音像は、奈良様の系譜にある像の中でも、やはり広隆寺の不空羂索観音像の表現に一番似た雰囲気を持っているように感じます。

217.龍峰寺:龍峰寺・千手観音像~脚部
龍峰寺・千手観音像~脚部

龍峰寺像は、これら諸像と比べると、衣文の表現の抑揚も浅く、平板な感は否めません。
また、後世の手が入っているのかもしれませんが、古様な表現だと改めて納得した次第です。



【カヤ材の一木彫で、内刳り無し~平安前期以前の古像の特徴か?】


このほかにも、龍峰寺・千手観音像は、材質、構造などに注目すべきものがあるのです。

本像は、カヤ材の一木彫像で、髻から地付きまで一材 (千手は別材、後補) 、内刳りも目視の限りでは無いようだということなのです。
また、頭部、面部は、内刳りを施した内部から玉眼を嵌めるのではなくて、能面をつけるように、耳の前で面部を矧ぎつけて、玉眼の顔を造っているということです。
面部を矧ぎつけて玉眼を入れるのは、大変珍しい技法です。
(六波羅蜜寺・地蔵菩薩坐像、鎌倉寿福寺・地蔵菩薩立像、醍醐寺金堂・薬師三尊像脇侍像等の例あり)

内刳りのない一木彫というのは、鎌倉時代では一般的に考えられない古様な構造です。
用材が平安前期以前の像に特徴的なカヤ材ということも、本像が、平安前中期以前の古像であることを示唆しているように思えます。



【模古作特有の匂いが感じられない古様な衣文表現
~古像を鎌倉時代に改修か?】

ご紹介した「解説文」では、
「鎌倉時代に、古様に倣って制作された像」
と思われるということでしたが、
「果たして、本当にそうなのだろうか?」
そんな気がしてきます。

一般的には、後の時代に古様に倣って模作的に造った像だとしても、どこかしら新しい時代の雰囲気の表現が、自然と滲みだしてしまうというものだと思います。
本像でいえば、模古作だとしても、衣文表現などに鎌倉的雰囲気が滲みだすのが常なのではないでしょうか。
ところが、この観音像は、玉眼を入れるなどバリバリの鎌倉時代の面貌表現となっているのにもかかわらず、衣文の造形表現などは古様な表現そのもので、鎌倉的なものが何処かに顔を出すという感じが全くしないなというのが、私の印象です。

むしろ、
「平安前中期以前の古像が、鎌倉時代に大幅に修復、後補され、面部が玉眼に改造されるなどして、今の姿になったのではないか」
と考えた方が、
ごく自然なのではないかというのが、私の率直な感想でした。



【「奈良~鎌倉時代」とした展覧会の作品解説は~奈良時代制作像を示唆】


さて、展覧会の制作年代キャプションが、
「奈良~鎌倉時代」
となっていて、驚いた話を冒頭にご紹介しました。

このような制作年代表記とされたことについての作品解説は、どのように述べられているのでしょうか。

展覧会図録の解説文を、一部ご紹介します。

「本像の製作年代は、面部に玉眼の技法が用いられることを重視し鎌倉時代とされ、随所にみられる古い形式は古像を手本に鎌倉時代に模刻されたと評価される。

しかし、その古い形式に目をむけてみると、裙の膝前にみえる翻波式衣文、裾の正面打ち合わせ部の渦文、背面で一度たるませてから両肩に懸る天衣等に奈良時代後期から平安時代前期の特徴が認められる。
また、構造はカヤ材を用いた一木造り(内刳りの有無は不明、目視の限り内刳りは無い)で、髻から地付までを一材で彫り出す点に、同じく奈良末から平安時代の仏像に近い要素があると言える。

このように形状や構造から素直にみれば、鎌倉時代の模古作と考えるよりも奈良時代後期から平安時代前期に造られたと考えた方が自然ではないだろうか。
・・・・・・・・
脇手やその持物は全て後補で、何度も修理を経てきたことを考慮すれば、本体の大部分に奈良時代の遺風を留めていると考えられないだろうか。」
(「相模川流域のみほとけ展図録」2020.10~解説執筆:神野佑太氏)

キャプションが「奈良~鎌倉時代」と大きな幅を持たせているのは、このような訳ということです。
制作年代を奈良時代まで遡らせることを示唆しつつ、平安前中期以前の古像と見るべきではないかとの問題提起をされているようです。

この解説には、私も「基本的には、同感!」です。
個人的な感想で、何の根拠もないのですが、私は、10世紀前半ぐらいの、奈良様を継承した古様な一木彫像なのかなというフィーリングがしましたが・・・・・・・



【奈良時代の制作に遡るなら、驚きの「関東最古の木彫像」に!】


もし龍峰寺・千手観音像が、奈良時代までさかのぼり得るとすると、「関東最古の木彫像」ということになろうかと思います。

現在、関東地方で最古の木彫像は、9世紀の制作とされる箱根神社の万巻上人像です。
また、9世紀の制作の可能性が語られる像も数少なく、私の思いつく像は、埼玉県 浄山寺・地蔵菩薩像、千葉県 小松寺・薬師如来像、東京都豊島区 勝林寺・薬師如来像ぐらいではないでしょうか。

これらの像より一段と古いということになれば、修復像であったとしても、何といっても「大注目の古像」ということになるわけです。



【本像の伝来、由来は?~頼朝建立の清水寺本尊と伝えられる】


本像の伝来由来などは、たどれるのでしょうか?

この観音像は、元々当地にあった「清水寺」の御本尊でした。
清水寺は、明治初年に廃寺になり、近世には本寺となっていた龍峰寺が、昭和に入って清水寺の地に移転してきて現在に至っているそうです。

確かな伝来は判らないようなのですが、近世の地誌「新編相模国風土記稿」には、本像は、京都清水寺本尊造立と同時期に造られたものであったが、文治2年(1185)に相模川下流で発見され、源頼朝が堂宇を造らせ「清水寺」に安置したと伝えられています。

また、もう一つ気になることは、この清水寺のあった近くには、相模国分寺・国分尼寺があったことです。
国分寺跡・国分尼寺跡は、現在も史跡として保存されています。



【国分寺ゆかりの古像を、鎌倉時代に清水寺式千手観音像に改修か?
~一つの空想ストーリー】

このよう話から、勝手に空想を逞しくすると、次のようなストーリーを想像することも、可能なのかもしれません。

・龍峰寺・千手観音像は、そもそもは「国分寺・国分尼寺」ゆかりの像で、奈良末~平安頃に造立された。

・その像が、何らかのいきさつで、鎌倉時代に建立された「清水寺」の御本尊として祀られることになった。
この時、仏手が清水寺式の千手観音像に改修され、面部も新たに玉眼にされて矧ぎつけられた。

・そのような経緯で、平安以前の古様と鎌倉新様が同居した清水寺式千手観音像の姿となり、今日まで伝えられてきた。



【急に興味津々となり、龍峰寺、相模国分寺跡を訪ねる】


博物館で、龍峰寺の千手観音像を観て、急に興味津々になって、海老名まで車で出かけて、龍峰寺と相模国分寺・国分尼寺跡を訪ねてみました。

龍峰寺は、現在清水寺公園となっている処の隣りにある、静かで落ち着いたお寺でした。

217.龍峰寺:龍峰寺・観音堂
龍峰寺・観音堂

217.龍峰寺:龍峰寺・観音堂内陣
御前立千手観音像(室町時代)が祀られる観音堂内陣
本尊千手観音像は、現在は収蔵庫に安置されている


相模国分寺跡は、礎石などが遺されていて、公園のように整備保存されていましたが、その広大な敷地は往時の伽藍の壮大さを偲ばせるものでした。

217.龍峰寺:相模国分寺跡
保存整備されている相模国分寺跡

217.龍峰寺:相模国分寺・伽藍復元模型
相模国分寺・伽藍復元模型~隣設の海老名市温故館に展示

秋深まるなか、龍峰寺や国分寺跡をぶらぶらと散策していると、こんな空想のような千手観音像の伝来話が、本当であってほしいと願うような気持ちになってきました。


トピックス~平安時代の双身毘沙門天立像が新発見~奈良博「毘沙門天展」で展示 【2020.02.06】



「平安時代の双身毘沙門天立像、多治見で見つかる」

という仏像発見ニュースが、飛び込んできました。


【初めて耳にした「双身毘沙門天」という名前】


「双身毘沙門天像?」

そんな名前、私は聞いたこともありません。

「双身像」と云えば、聖天と呼ばれる歓喜天ぐらいしか知りません。

それはそれとして、平安時代の古像発見となれば、大変興味深いニュースです。



【平安時代の双身毘沙門天新発見の報道記事~岐阜多治見の長福寺】


この新発見を報じたのは、1月31日付の「中日新聞WEBニュース」です。

次のような記事で報じられました。

「12世紀ごろの平安時代に作られたとみられる銅製の双身毘沙門天立像が、岐阜県多治見市の長福寺で見つかった。
2体の毘沙門天が背中合わせにくっついており、銅製の双身毘沙門天立像の発見は全国で初めてとみられる。

多治見市の長福寺で発見された銅造・双身毘沙門天像(平安)
多治見市の長福寺で発見された銅造・双身毘沙門天像(平安)

奈良国立博物館で2月4日から開催される特別展「毘沙門天-北方鎮護のカミ-」展で展示される。

 仏像は高さ9.9センチで、手で握れるほどの小ささ。かぶとと甲冑を身に着け、片方の像は両手を胸の辺りで合掌し、反対側の像は指先を下にして合掌している。
指先や顔の一部には穴が開いており、もともとあった武器の一種の輪宝や牙が失われたとみられる。

 住職の良盛(ややもり)快正さん(57)によると、5年前に蔵の掃除をしていたところ、古文書などの書類の中に小さな木製の厨子があり、中に古い仏像を見つけた。
来歴を示す文書などはなく、仏像にも作者がだれかを示すものは刻まれていなかった。

数年前に奈良大などに金属組成の分析を依頼したところ、体の部位によって銅が67~86%を占め、他にスズやマンガン、鉄などが混じっていたことが分かった。
しかし江戸時代以降の銅像に含まれる亜鉛が検出されず、それ以前の制作とみられるという結果が出たことから、昨年になって京都国立博物館に正式に調査を依頼した。

仏像を見た同館の浅湫毅研究員は、腰回りの肉付きが良く、豊かな体形であることに着目。
「12世紀の平安時代の特徴的な作りで、史料価値は高い」
と話す。
特別展の企画を担当する岩井共二・奈良国立博物館学芸部情報サービス室長は
「木像の双身毘沙門天立像で存在が分かっているのは5、6体のみで、銅像は全国初。制作時期も最古級と考えられる」
と断言する。

長福寺は1333年ごろに創建された古刹。
武運長久を祈る寺として、美濃を治めた戦国武将、斎藤道三の息子か弟とされる長井道利が祈祷に訪れたという記録が残る。
奈良国立博物館での展示は3月22日まで。」

以上の通りです。


「平安時代の金銅仏像の新発見」

「大変珍しい双身毘沙門天像で、最古級」

といわれると、何やら興味が沸いてきました。



【奈良博「毘沙門天展」では、新発見像ほか、3躯の双身毘沙門天像が出展】


奈良博で開催されている「毘沙門天~北方鎮護のカミ展」に出展されているということですから、「毘沙門天展」に出かける愉しみが、一つ増えました。

「毘沙門天展」の出展目録を見ると、「双身毘沙門天像」という章が設けられて、3躯も出展されています。

奈良博展示・3体の双身毘沙門天像リスト

奈良博の「展覧会ページ」を確認してみると、浄瑠璃寺像と東大寺像の画像と解説が掲載されていました。


〈浄瑠璃寺・馬頭観音像体内から発見された双身毘沙門天像~平安古像〉


浄瑠璃寺・双身毘沙門天像の解説のエッセンスは、次のようかと思います。

本像は、仁治2年(1241)造立の馬頭観音立像(重文)の修理時に像内から発見された。
(明治44年・1911の美術院による修理の時に発見されました。)

浄瑠璃寺・双身毘沙門天像(平安・重文)
浄瑠璃寺・双身毘沙門天像(平安・重文)

像内に双身毘沙門天像が納められていた浄瑠璃寺・馬頭観音像(鎌倉・重文)
像内に双身毘沙門天像が納められていた浄瑠璃寺・馬頭観音像(鎌倉・重文)

腹前上向き合掌と股間下向き合掌の2体の武装形合体像。
この像容は、 双身毘沙門天を本尊とする双身法について記す、阿娑縛抄(巻第137)に則っている。
従来、馬頭観音と同時期制作と考えられてきたが、体型肉取りなどの作風から平安時代後期(12C)に遡ると思われる。


〈後鳥羽院の幕府調伏像か?~近年発見の東大寺・勝敵毘沙門天像〉


東大寺・勝敵毘沙門天立像の解説のエッセンスは、次のようかと思います。

宝塔と宝棒を執る形と羂索と戟を執る形の前後二体の武装天部形。

東大寺・勝敵毘沙門天立像
東大寺・勝敵毘沙門天立像(鎌倉)

像容は、京都・観智院本「仏菩薩等図像」中の図像と一致し「勝敵毘沙門天」の添書きがあることから尊名(勝敵毘沙門天像)が判明する。

制作年代は、作風などから鎌倉時代とみられる。
文献考証によると、後鳥羽院周辺が幕府調伏祈願の「勝軍地蔵像、勝敵毘沙門天像」を造立したことが推定される。
本像も、そうした願意の秘密修法の本尊となる尊像であろう。



【「双身毘沙門天」を“にわか勉強”~あまり見当たらなかった資料】


初めて名前を耳にした「双身毘沙門天像」。
ちょっと関心が沸いてきました。

「仏像図典」(佐和隆研著)をみても、「双身毘沙門天」という尊像名は、掲載されていません。

「双身毘沙門天像」について採り上げられた資料がないかどうか、ちょっとあたってみたのですが、私が調べた限りでは、次の4つの資料だけしか見つかりませんでした。

「金銅双身毘沙門天像立像」  (村田靖子) 大和文華 第94号 1995.09
「東アジアの金銅仏」展図録  (村田靖子解説) 大和文華館 1999.10刊
「双身毘沙門天小像の諸相」  (村田靖子) 「密教図像」第28号 2003.12刊所収
「東大寺・木造双身毘沙門天像」  (岩田茂樹) MUSEUM第665号 2016.12刊所収

全くの、にわか勉強で、いい加減なのですが、「双身毘沙門天像」というのは、次のようなもののようです。



【密教の秘法にかかわる像、数少ない現存作例】


密教による特殊な毘沙門天像に、双身四臂の像があり、最澄将来の台蜜の秘法によるとされるのだそうです。
この双身毘沙門天像は、密教の最神秘の手法である浴油供に用いるため、小像で秘仏であることが多く、また遺例もわずかしか知られていなかったとのことです。

村田靖子氏は、このように記しています。

「僅かに京都浄瑠璃寺と大阪・八尾市の大聖将軍寺の像が知られていた。
奈良・大和文華館にも古くから金銅像があり、近年数点の新たな像の発見が筆者に伝えられ、所蔵者のご好意により調査の機会を得て、国内の20体近くの所在が明らかになった。」
(「双身毘沙門天小像の諸相」2003年)

村田氏の調査により新出像が紹介される20年ぐらい前までは、ほんの数点しか双身毘沙門天像の存在が知られていなかったということでしょうか。
大変、珍しい尊像ということのようです。

今回展覧会出展の、東大寺・木造双身毘沙門天像の存在が明らかになったのも、近年のことだそうです。
2006年、奈良博開催「重源展」の準備調査の時に、東大寺勧進所内の経庫に保管されていたのが発見されたとのことです。



【二つの系統の図像がある双身毘沙門天~双身に造られる訳は?】


この新発見の勝敵毘沙門天像と呼ばれるものと、それまでに知られていた双身毘沙門天像は、図像を異にする別系統のものでした。

両口辺から牙が長く下に出るという特異なスタイルは変わらないのですが、
浄瑠璃寺像に代表される既出作例は、正面背面像共に合掌し、一方は下向き(独鈷を執る)、一方は上向き(金輪を執る)像容です。
勝敵毘沙門天像のほうは、宝塔と宝棒を執る形と、羂索と戟を執る形の二体合体スタイルになっています。

どうして、このような双身の毘沙門天という特異な像容が造られたのでしょうか。

双身の歓喜天像の場合は、男女交合によって妙成就が達成されるという密教思想によるもののようです。
双身の毘沙門天についても、一方を毘沙門天、もう一方を毘沙門の妃とする吉祥天に通じるものとし、両天が密教に取り入れられて、より強い福徳、敬愛神の性格を表すために合体されたとする見方があるようです。
また、それとは別に、この2体は半天婆羅門と多聞天であり、多門天は法性を、半天婆羅門は無明を表し、無明と法性は一対の法であるから背中合わせに立って離れないという違う見方もあるとのことです。

つまみ食いで要約してみたのですが、こうした尊容の意味や図像学的なものは、全く疎くて、また難しすぎて何が何だかわかりません。

とにもかくにも、密教の手法に絡んだ、大変珍しい尊容の像だということには間違ないということは理解できました。



【双身毘沙門天像の現存作例は?
~平安期の最古例は、木像:浄瑠璃寺、銅像:新発見長福寺】

もう一つ、双身毘沙門天像の具体的作例についてです。

中日新聞記事には、

「木像の双身毘沙門天立像で存在が分かっているのは5、6体のみで、銅像は全国初。
制作時期も最古級と考えられる」

との、岩井共二氏のコメントが載せられていました。

一方で、村田靖子氏の「金銅双身毘沙門天像立像」「双身毘沙門天小像の諸相」を読むと、20体近くの所在が明らかになったとし、具体作例としては、14作例が紹介されていました。

その材質の内訳は、木製8件、銅製5件、銀製1件となっていました。
材質と制作年代の件数はご覧の通りです。

双身毘沙門天像作例の件数リスト

村田氏紹介では、銅製像が5件示されていて、
「銅像の双身毘沙門天像は、今回発見の岐阜・長福寺像が、全国初」
という新聞報道コメントとは、ちょっと見方が異なるようですが、私には、難しいことはわかりません。

NETで検索をしてみると、以上の他にも、双身毘沙門天像をお祀りする寺院が、もっとあるようなのですが、そのあたりの話になると、ますますよくわかりません。


村田氏の紹介による、鎌倉時代以前とみられる古像は、次の通りです。
(東大寺・勝敵毘沙門天像(2006年発見)は、未発見当時の話です。)

木製は、
京都府・浄瑠璃寺像(平安~鎌倉)、大阪府八尾市・大聖将軍寺像(鎌倉~室町)

浄瑠璃寺・双身毘沙門天像(平安・重文)八尾市 大聖将軍寺・双身毘沙門天像(鎌倉~室町)
(左)浄瑠璃寺・双身毘沙門天像、(右)八尾市 大聖将軍寺・双身毘沙門天像

銅製は、
岡山県総社市教育委員会像(平安)、大和文華館像(鎌倉~南北朝)

双身毘沙門天とみられる岡山県総社市教育委員会所蔵像(平安)大和文華館所蔵・双身毘沙門天像(鎌倉~南北朝)
(左)双身毘沙門天とみられる岡山県総社市教育委員会所蔵像、(右)大和文華館所蔵・双身毘沙門天像

以上の通りです。

平安期の銅像遺例とされる、岡山県総社市教育委員会の像は、1994年に総社市桜井古墳から発掘されたそうです。
現状は双身ではなく、合掌する手を上に向ける一体のみが円座に立っているのですが、兜と合掌する手などが双身毘沙門天諸像の尊容と類似することから、本像は双身毘沙門天の一方であると判断されるということだそうです。

(なお、「東アジアの金銅仏」展図録解説では、銅製個人蔵像を平安時代とされていたのですが、「双身毘沙門天小像の諸相」では江戸~明治時代の作としておくとされていて、見方が変わっているようです)



【にわか勉強では、なんだかよく判らなかった「双身毘沙門天像」】


「双身毘沙門天像 新発見!」のニュースに反応して、見たことも聞いたこともない「双身毘沙門天像」について、超々にわか勉強をしてみたのですが、結局、何が何だかという感じになってしまいました。

ご覧いただいた皆さんも、「よくわからん」という実感だと思います。

私が理解できたのは、

「双身毘沙門天像」は、密教の秘法儀式にかかわる秘像であること。

勝敵毘沙門天とも称されるように、敵の調伏祈願の尊像として、造立、祈祷されることもあったこと。

遺作例は数少なく、平安~鎌倉期の現存作例は、稀であること。

といったことぐらいでしょうか。


いずれにせよ、「毘沙門天展」で、この興味深い「双身毘沙門天像」を3躯も実見できるというのは、大変愉しみです。

また、展覧会図録には、どのような解説がされているのでしょうか?
これまた、興味津々です。


トピックス~堂本印象美術館で初公開の阿弥陀如来像、湛慶作か? 【2019.7.21】


【「湛慶作の阿弥陀如来像、新発見か?」のニュース記事にビックリ】


「作者は天才仏師、運慶の長男? 優雅な秘仏を公開」


ネット検索の新聞記事で、こんな見出しを見つけて、ちょっとビックリしました。
2019.6.28付の〈サンケイニュースの記事〉です。

記事は、こんな出だしで始まります。

鎌倉時代の大仏師、湛慶(たんけい)の仏像?

そんな評判を呼ぶ仏像が京都府立堂本印象美術館(京都市北区)で開催中の「堂本印象 ほとけを描く ほとけを愛でる」で初出展され、美術ファン、研究者の間で話題を呼んでいる。

京都出身の日本画家、堂本印象(1891-1975)のコレクションの1体だが、湛慶といえば、東大寺南大門の仁王像制作などで知られる運慶の長男。
どことなく父の作品を追いかけている姿と形が、見る人に「いかにも!!」といった印象を与える。

堂本印象蔵・阿弥陀如来像
湛慶作かと記事で紹介された
初公開堂本印象蔵・阿弥陀如来像



【記者の実感がこめられた「読ませる記事」に興味津々】


園田和洋氏という方がかかれた署名記事ですが、仏像彫刻に造詣の深い方のようで、御自身の実感が盛り込まれた「読ませる記事」で、愉しく読みました。

記事は、このように続きます。

日々、詰めている京都府庁の記者室に投げ込まれた堂本印象美術館のチラシ。
そこに掲載された一枚の写真を見て、
「まだ、こんな仏像が未公開のまま残っていたのか」
と驚いてしまった。

仏というより人間に近い写実的な表現で、ひと目みて、平安時代末期から鎌倉時代にかけて奈良や京都、鎌倉などを中心に活躍した運慶や快慶を含む一大仏師集団「慶派」の作品であることはわかった。

同美術館では初出展の阿弥陀如来坐像。印象の自宅に置いていたらしく、府教委文化財保護課に聞いてみても、調査した記録もなく、どうやら人目に出るのも初めてらしい。
かつて仏像を追いかけて寺院巡りをしていたころの記憶を呼び起こすような出会いだった。

さっそく同美術館の松尾敦子学芸員に問い合わせたところ、
「目利きとして知られる堂本印象だけに、すばらしい作品。彫刻史上貴重な作例で、今回の展示の目玉のひとつです」
と絶賛の声を惜しまなかった。


興味津々の語り口で、つい惹き込まれてしまいます。

このあとも記事が続きますが、ポイントだけをなぞると、次のようなものかと思います。

像高約80㎝の阿弥陀像で、運慶作、興福寺北円堂・弥勒仏像を模したような造形だが、本像は彫眼の弥勒像と違い玉眼で、全体的に穏やかな仕上がりになっており湛慶風をうかがわせるものがある。

作者を示す胎内銘などはなく、湛慶作かどうかの根拠はないが、京都市立芸大の礪波(となみ)恵昭教授は、
「特徴は運慶後の、湛慶と同じ世代のものに間違いない。
釈迦や阿弥陀、藥師などといった如来像で湛慶作がないだけに貴重」
とのコメントで、今後の調査に期待がかかる。

以上のような内容でした。

単なる、プレス発表の取材記事ではなくて、ちょっとドキュメント風の「読ませる記事」だと感じられたことと思います。



【現状では、「湛慶作の可能性もある」注目仏像という見解?】


「見出し」を見たときには、

「エーッ、湛慶作の仏像の新発見か!」

と、驚いたのですが、読み進んでいくと、

「初公開の阿弥陀如来像は、鎌倉前期の慶派の作とみられる佳品で、湛慶の世代頃の制作を思われる。
湛慶作という可能性もある。」

ということのようです。

「湛慶作か?」というニュースが掲載されたのは、これだけで、他の新聞各紙には、湛慶作の可能性にふれた記事は見つかりませんでした。

「湛慶作?仏像の発見」というプレスリリースがあったわけではなくて、この阿弥陀如来像が湛慶作であってほしいという、執筆記者の方の気持ちがこめられ、記事掲載されたのかなという感じがしました。



【佳品ぞろいの知られざる堂本印象所蔵の仏像コレクション】


湛慶作かどうかはともかくとして、日本画檀の巨匠、堂本印象(1891-1975)の秘蔵コレクションに本像をはじめとした佳品の古仏があり、それが展覧会で初公開されているというのは、耳寄りな話しです。

京都府立堂本印象美術館で、開催中の展覧会です。

「堂本印象 ほとけを描く ほとけを愛でる
2019年5月29日(水)~9月23日(月・祝)


「堂本印象 ほとけを描く ほとけを愛でる展」チラシ

「堂本印象 ほとけを描く ほとけを愛でる展」チラシ


生涯通して多くの仏画を手掛けた堂本印象は、仏像も所蔵していたようで、本展では堂本印象コレクションから平安~鎌倉期の4体の仏像が初公開、初出展されるということです。

堂本印象蔵のこのような仏像があるというのは、私もまったく知りませんでした。
展覧会チラシや、掲載写真をみると、小ぶりながらなかなかの佳品という感じがします。

知られざる仏像の初公開ということで、大変興味深いものがあります。



【意外に少ない湛慶真作が明らかな仏像~如来形像は無し】


ところで、この初公開の阿弥陀如来像、「湛慶作の可能性」について、皆さんどのように感じられたでしょうか?

私は、鎌倉彫刻の世界は、どうも疎くて、

「湛慶風といわれれば、そんなものかという感じで、よくわからない。」

というのが、本音のところです。

湛慶の事蹟は、史料からもいろいろと伺えるのですが、湛慶の制作とはっきり言える作品は、意外にもそんなに多くありません。

父運慶と並んでその名が連ねられるものを外すと、湛慶の真作が明らかとされる作品は、

雪蹊寺・毘沙門天、吉祥天、善膩師童子像(嘉禄元年・1225年頃)、蓮華王院本尊千手観音坐像(建長6年・1251)及び千体千手観音像のうちの9躯

だけです。

また、湛慶作に間違いないとみられるものには、

高山寺・善妙神立像、白光神立像、狛犬3対、神鹿像1対、仔犬像

があります。

以上が、一般に湛慶作として認められている作品です。

これらの作品をみてみても、

「いかにも湛慶の作風」

といった、誰にでもわかるような湛慶風の特徴がくっきりと見受けられるという訳ではありません。

初公開の堂本コレクションの阿弥陀如来像は、「湛慶作か?」と云われても、素人には、難しいというか、なかなか悩ましい処です。



【湛慶作の可能性が云われる如来形像は?】


記事にもありましたが、

「湛慶作と特定されている如来形像は、現在の処、一躯もない。」

ということです。

確かにそう云われてみれば、そのとおりです。

湛慶の作風については、
「運慶の作風を基盤として、量感を減じて洗練し、写実表現を推し進めた」
という風に云われているようですが、そんな作風概念だけでは、また湛慶作という諸像と較べ併せても、同じ如来形像ではないだけに、似ているのか似ていないのか、イメージが沸いてきません。

それでは如来形の仏像で、湛慶作の可能性が論じられている像には、どのようなものがあるのでしょうか?

いろいろ議論はあるのでしょうが、

西園寺・阿弥陀如来坐像(円派仏師隆円作との見方もあるようです)、西念寺・阿弥陀如来坐像、西寿寺・阿弥陀如来坐像

などが、作風が湛慶風で、湛慶作の可能性があるとされているようです。

西園寺・阿弥陀如来坐像(鎌倉・重文)
京都市上京区~西園寺・阿弥陀如来坐像(鎌倉・重文)

京都市左京区~西念寺・阿弥陀如来像(鎌倉)京都市右京区~西寿寺・阿弥陀如来像(鎌倉)
(左)京都市左京区~西念寺・阿弥陀如来像(鎌倉)、(右)京都市右京区~西寿寺・阿弥陀如来像(鎌倉)



【湛慶風か?  私には難し過ぎてよくわからない堂本コレクション像】


これらの「湛慶作か?と云われている如来形像」と較べてみて、堂本コレクション像はどうでしょうか?

堂本印象蔵・阿弥陀如来坐像
堂本印象蔵・阿弥陀如来坐像

「ウーン、よくわからない!!」

鎌倉彫刻にとんと疎い私には、やっぱりそんな感じの印象です。


実物を見ていないで、写真で見る限りの個人的な印象では、
堂本コレクション像は、他の湛慶作かといわれる如来形諸像と較べて、ちょっと躍動感が少なく、線が弱いような感じもしますが・・・・・・・

作風から、作者である仏師を特定していくというのは、なかなか難しいことだと、今更ながらに思った次第です。


皆さんは、どのように感じられたでしょうか?



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