【奈良国立博物館で、不退寺・本尊聖観音像が特別公開】
奈良国立博物館HPの最新情報欄を見ていると、
「特別公開 奈良・不退寺本尊聖観音菩薩立像」 (2023.03.21~05.14)
と題する展示があることが掲載されていました。
この展示情報を見て、
「あの不退寺の観音像と、奈良博(文化庁蔵)の観音像が、一対になって展示されるのか!!」
と思い浮かんだ方は、相当仏像に詳しい方ではないか思います。
奈良国立博物館のなら仏像館には、不退寺の観音像に大変よく似た文化庁蔵・奈良博寄託の聖観音像が、いつも展示されているのです。
【不退寺・本尊像とよく似た観音像が奈良博にも
~近年、一対の脇侍像だったと考えられるように】
この二つの観音像は、もともと一具の三尊像の両脇侍像であったとみられているのですが、いつの日か離れ離れになってしまっていた像なのです。
奈良博の特別公開紹介ページには、二つの観音像の写真が並んで掲載され、
「近年の調査で、不退寺像は文化庁所蔵(当館寄託)の観音菩薩立像と像高がほぼ一致し、作風が酷似し、腰の捻りが左右対称であることから、もとは一対であり、当初の尊名は不明ながら三尊像の両脇侍であったと考えられるにいたりました。
かつて対をなしていた両像をそろって展示するまたとない機会であり、保存修理により面目を一新した不退寺本尊の姿にご注目ください。」
とのコメントがされています。


(左)不退寺本尊・聖観音像(平安・重文)、(右)奈良博(文化庁蔵)・聖観音像(平安・重文)
長らく、離れ離れになっていた仏像が、一対の仏像であったことが判明して、今回の特別展示で再会を果たし、初めてそろって並べられて展示されるというのです。
不退寺の聖観音像は、昨年6月から美術院で保存修理が実施されていたのですが、修理完成を機に奈良国立博物館での特別展示が実現したのだと思います。
【これまで他にもあった「離れ離れになった仏像の再会実現」の話
~いくつかの再会物語を、連載でご紹介】
この再会の話を知って、ちょっと頭を巡らせると、
「もともとは一具であったはずの仏像が、その昔に離れ離れになってしまい、現代になってから、博物館の企画展などで「ついに再会を果たした」という話題がいくつもあったなあ・・・」
と、思い浮かんできました。
そこで、
「再会~離れ離れになった仏たち」
というテーマで、
離れ離れになった仏像が一具のものだと判明したり、再会を果たした話のエピソードなどを、いくつか連載で振り返ってみたいと思いました。
いくつぐらいご紹介できるか、ちょっと心持たないのですが、まずは、「不退寺と奈良博の観音像をめぐる話」から、はじめさせていただきたいと思います。
【一見、一対の脇侍像だったとは思えない不退寺像と奈良博像
~ちょっと違う見た目の印象】
皆さん、この二つの観音像、不退寺・聖観音像と奈良博・聖観音像(文化庁所蔵・奈良博寄託ですが「奈良博像」と呼ぶことにします)の並んだ写真をご覧になって、どのように感じられたでしょうか?
両像ともに、像高:約190㎝、10~11世紀初ごろ制作の一木彫像で、重要文化財に指定されています。
並んだ写真を見ると、もともと三尊の両脇侍だといわれると、なるほどそうなのかなと納得できそうですが、それぞれお寺と博物館の別々の場所で拝すると、
「これは一対ペアーであったに違いない!!」
と、即座に思い浮かぶ人はそう多くはいないような気もします。
不退寺の聖観音像は、白っぽい胡粉下地の彩色(後世の彩色)が残されているのに対して、奈良博(文化庁蔵)の聖観音像の方は、元々彩色が無かったようにも感じる古色仕上げで、随分第一印象が違います。


(左)不退寺本尊・聖観音像(平安・重文)、(右)奈良博(文化庁蔵)・聖観音像(平安・重文)
また、不退寺像は、(今回の展示では外されていますが)両耳の上から垂れ下がるリボンのような飾り紐(後補)がくっつけられていますし、一対の両脇侍だったにしては、両手の構えも異なっています。
お顔の表情もちょっと異なった印象で、奈良博像の方が厳しい目線をしているように思えます。


随分印象の違う、両像の顔の表情
(左)不退寺・観音像、(右)奈良博・観音像
素人の眼力では、
「両像が一対の両脇侍だったかも知れない。」
というようなことは、なかなか思い浮かばないのではないでしょうか。
【三尊の両脇侍像と結論付けられたのは10年余前
~文化庁が奈良博像を購入した際の調査で判明】
この両像が、元々は三尊像の両脇侍であったに違いないということが、はっきり結論付けられたのは、
奈良博の特別公開ページに
「近年の調査で、・・・・・・三尊像の両脇侍であったと考えられるにいたりました。」
とコメントされているように、
10年ちょっと前の事でした
【当時、新聞報道もされた、「両像は元々ペアーと判明」との調査結果】
2011年5月の読売新聞に、こんな見出しの記事が報じられています。
「不退寺本尊、もとは脇侍 奈良博像とペアだった
文化庁調査で判明」
(2011.05.11付、読売新聞朝刊)
記事の主旨は、
「不退寺のご本尊として祀られる聖観音像は、元々は本尊像ではなく三尊の脇侍像で、奈良博像とペアで造られた可能性が高いことが、文化庁の調査で判明した。」
というものです。
ちょっと長くなりますが、新聞記事のポイント部分を抜き書きすると次のとおりです。
「奈良博像は明治時代には奈良市内の別の寺に安置され、後にセゾン現代美術館(長野県)が所有していたが、一昨年に国が2億3100万円で購入、奈良博に置かれている。
文化庁の奥健夫・主任文化財調査官が購入の際の調査で、戦前の修理で奈良博像の体内から発見されていた文書の写しなどを改めて確認。
もともとは奈良博像も不退寺にあり、江戸時代に修理したという記述が見つかった。
さらに両像を比較したところ、
①双方ともサクラかカツラの一木造りで、高さも1.9メートルで一致
②ともに平安時代の作で、経年劣化による木地の色合いもほぼ同一
③彫りの特徴も似ており、不退寺像は左に、奈良博像は右にそれぞれ腰を曲げている
④奈良博像の両腕は後世の補修で、造立当初は左腕を下げていた跡が像に残る
などの特徴が判明。
元々は左右セットだった可能性が高いと結論付けた。」
これまでも、両像が近似していることから、一対の像ではなかったかという見方はあったようなのですが、国が本像を購入する際に、きっちりと調査を実施した所、一具像に間違いないという結論に至ったようです。
本記事には、
「奈良博像は顔も後世に修理されており、一見するとペアには見えなかった。
仏像の研究者として、いつかは両像を比較して並べてみたい。」
との、奥健夫氏のコメントが掲載されています。
それから12年を経て、ついに不退寺像と奈良博像(文化庁蔵)を並べて展示し、眼近に比較して観ることが、今般実現したというわけです。
【二つの観音像の由緒、来歴をたどってみると】
ここからは、不退寺像と奈良博像の由緒や来歴などについて、わかる範囲でたどってみたいと思います。
【在原業平創建の不退寺本尊として祀られてきた聖観音像
~10末11世紀初制作の一木彫像】
まずは不退寺・聖観音像についてです。
ご存じのとおり、不退寺は奈良市法蓮町、法華寺の東、佐保路にある古刹です。

不退寺・山門
不退寺は、正しくは不退転法輪寺と称し、承和14年(847)に在原業平が創建した寺と伝えられ、別名、業平寺と呼ばれています。
聖観音像は、寺伝によると在原業平の自作とされ、独尊のご本尊として本堂内の須弥壇上の厨子内に安置されています。

不退寺・本堂
近世までは、「住持一世に一度開帳」とされる秘仏であったようですが、明治以降には常時開帳されるようになり、今ではいつでも拝観することができます。
聖観音像が、元々三尊の脇侍像であったなら、別に中尊像があった筈なのですが、そのことについての伝えも全くなく、観音像が何時ごろから御本尊像として祀られるようになったのかも皆目わかりません。
不退寺を訪ね、この聖観音像を拝された方も多いと思います。

不退寺本尊・聖観音像(平安・重文)
両耳の上から垂れ下がるリボンのような飾り紐(後補)が印象的なのですが、後世の胡粉下地の彩色がまだら模様のように残され、ちょっと鑑賞の邪魔になっているような感じです。
一木造りで古様なのですが、体は細めでおだやかな抑揚のおとなしい造形で、彫刻の和様化が進む10世紀末乃至11世紀初頃の制作像とされています。
【佐保路、瑞景寺に伝わった奈良博観音像~瑞景寺は近世開創の禅寺】
次に奈良博像の由緒、来歴についての話です。
この観音像は、瑞景寺というお寺に祀られていました。
瑞景寺は、不退寺と同じ奈良市法蓮町にあるお寺で、不退寺の東500メートルぐらいの処にあります。

瑞景寺・山門
黄檗宗の禅寺で、延宝7年(1679)、即空上人の開基とされます。

瑞景寺・本堂
この観音像が、いつごろ不退寺から移されたのかは、よくわかりません。

瑞景寺伝来~奈良博(文化庁蔵)・聖観音像(平安・重文)
今回の奈良博での特別展示を報じる「NHK関西NEWSWEB(03.21)」や「奈良新聞DIGITAL(03.21)」では、「138年ぶりとか約140年ぶりの再会」と報じています。
そうだとすると、明治17~18年(1884~1885)頃に不退寺から瑞景寺に移されたことになるのですが、その根拠については私にはよく判りませんでした。
実は、現在の不退寺の庫裏は、明治18年(1885)に長州出身の官僚・政治家の品川弥二郎により、瑞景寺から移築されたものです。
この時に、現奈良博像が不退寺から瑞景寺に移されたとみられているということなのかもしれません。
【明治19年の古社寺調査記録に両像の記述が
~「よく似た像」と記された岡倉天心の調査メモ】
観音像についての古い記録がないか探してみました。
そうしたら、明治19年(1886)の古社寺調査のときの記述が残されていることを見つけました。
岡倉天心の調査メモ「奈良古社寺調査手録」(『岡倉天心全集』8巻所収)に、不退寺像とともに瑞景寺像が登場するのです。
天心等は、5月4日に両寺を訪ね、次のように記しています。
【不退寺】
観音 本尊 厨子中ニ在り 着色新タナリ 耳古シ
形美ナリ 天平頃ナリ 薬師寺ニ擬サント欲シテ能ハサルモノ
【瑞景寺】
観音木像一体 不退寺本尊ト同時ニシテ能似タリ 不退寺ノ方一体ヲ○十(○の中に十と書かれた略記号)スルコト可然
天心は、両像共に天平時代の制作とみていたようです。
そして瑞景寺像を、「不退寺本尊と能く似ている」と記しています。
この時、天心が元は一具の像かと想像したのかどうか判りませんが、両像が近似していると見抜いている眼力は、さすがの慧眼というべきでしょうか。
また、不退寺像の方が優れていると見たのでしょう。
「不退寺ノ方一体ヲ○十スルコト可然」
と評価しています。
(○十というのは○の中に十と書かれた天心使用の略号で、第2等クラスという意味です)
【古社寺調査同行の狩野芳崖の写生画集「奈良官遊地取」にも両像のスケッチが】
なんと、この古社寺調査の時に描かれた両像のスケッチが残されているのです。
古社寺調査に写生役として同行した狩野芳崖が描いた写生画集「奈良官遊地取」全12巻(東京芸術大学美術館蔵)の7巻に描かれていました。
ご覧のとおりです。

不退寺・瑞景寺像のスケッチが描かれている
狩野芳崖筆「奈良官遊地取」第7巻(東京藝大蔵)
中央の大きく描かれたのが不退寺像、上部の横向きの小さなラフスケッチが瑞景寺像です。
これを見ても、不退寺像の方が注目されていたことがよくわかります。
両像ともに、明治時代に(旧)国宝に指定されています。
不退寺像は明治35年(1902)に、瑞景寺像はそれより7年遅れの明治42年(1909)に(旧)国宝に指定されていて、岡倉天心の査定評価を物語っているように思えます。
【瑞景寺像は、明治30年前後から長らく奈良の博物館に寄託展示
~戦後のいずれかの時期に高輪美術館の所蔵に】
瑞景寺の聖観音像は、明治28年(1895)に開館した帝国奈良博物館(明治33年に奈良帝室博物館に改称)に開館後まもなく寄託展示されています。
明治35年(1902)に発刊された「奈良帝室博物館列品第一回目録」には、
「聖観世音菩薩立像 木造 作者不詳 1躯 瑞景寺寄託」
と記載されています。
その後は、長らく奈良の博物館に寄託展示されていたのだと思われますが、戦後、1962年に開館した「高輪美術館」の所蔵となっています。
高輪美術館というのは西武グループの総帥であった堤康次郎氏(1889~1964)収集の美術品を収蔵した美術館です。
瑞景寺の所蔵から堤氏・高輪美術館に直接移ったのか、その間にほかの何人かの所蔵者の手を経たのか、いつ頃瑞景寺の手を離れたのかはよく判りませんでした。
1971年に刊行された高輪美術館蔵品目録の表紙は、瑞景寺・聖観音像のカラー写真となっていますので、この時には高輪美術館の所蔵になっていたことは間違いありません。

高輪美術館蔵品目録(1971年刊)
表紙に瑞景寺伝来観音像写真を掲載されている
【近年、再び奈良博に寄託展示され、2009年に文化庁が購入】
そして、これまた何時のことからかよく判らないのですが、この聖観音像は再び奈良国立博物館に戻って寄託展示されるようになりました。
奈良博(なら仏像館)に、「セゾン現代美術館(高輪美術館を1991年に改称)寄託の聖観音像」として展示されていたのを覚えていらっしゃる方も多いのではないかと思います。
2009年、文化庁はこの聖観音像(瑞景寺伝来像)を、セゾン現代美術館から購入しました。
購入額は、2億3100万円でした。
国(文化庁)の購入後も、それまでと同様、引き続き奈良国立博物館に寄託され、現在もなら仏像館に展示されているというわけです。
【古くから指摘されていた、不退寺像との関連】
文化庁が本像を購入するにあたっての詳しい調査で、不退寺像と一対の三尊像両脇侍であったに違いないとされたのですが、この調査結果が発表される前からも、予てから不退寺・聖観音像と瑞景寺伝来像が大変密なる関係の像であることは、指摘されていました。
古くは、岡倉天心が明治19年(1887)に
「瑞景寺像は、不退寺本尊と同時期の制作で能く似ている」
と記しているのは、ご紹介した通りです。
【体内発見の江戸期の修理願文に、不退寺由来像の旨の記述が
~昭和11年、瑞景寺像修理時に発見】
昭和11年(1936)、瑞景寺像が美術院によって修理されたときに、新たな発見がありました。

昭和11年の修理前の瑞景寺・観音像写真
(日本美術院彫刻等修理記録Ⅲ・1957刊所載)
体内の内刳りの中から、桐箱に納められた修理願文と法華経普門品の墨書が発見されたのです。(日本美術院彫刻等修理記録Ⅲ・1957刊所載)
修理願文は享保15年(1730)の年紀があり、願文には、本像が在原業平自作の伝を持ち、不退寺に関係する由来であるものの旨が記されていたのでした。
この願文は、修理完了後、本像体内に戻され、公刊もされていないので、詳しい内容は私にはわからないのですが、昭和16年(1941)刊の小島貞三著「佐保路」には、
「(瑞景寺像の)胎内には願文が納めてあったのを、数年前修理の際に発見された。
それはこの聖観音像は在五中将業平の自作で、御堂の傍らに埋もれてあったのを、願文の主が再興したらしい時のもので・・・・・」
と述べられています。
江戸時代の修理願文の記述とはいうものの、この発見を機に、瑞景寺像がもともと不退寺に伝来した像であったことや、不退寺本尊と一対像であった可能性が云われるようになったのだと思います。
その後、随分年月が経ちましたが、2009年の国(文化庁)の購入時調査によって、伝来由緒面からも、造形面からも、品質構造面からも、不退寺本尊像、瑞景寺伝来像の両像は、三尊像の両脇侍像で、一対のペアー像であったことが確実であろうと結論付けられたというわけです。
ちょっと纏まりのない話になってしまいましたが、離れ離れになっていた不退寺・本尊像と奈良博・瑞景寺伝来像が一具の像であることが明らかになるまでの話や、奈良博像の来歴などについて辿ってみました。
【初めて再会を果たした「不退寺像と奈良博像」
~並んで観ることができるまたとない機会】
今般、奈良博において、両像が初めて再会を果たし、並んで展示されることになります。
不退寺本尊像の修理という機会があったからこそ、離れ離れになった二つの観音像の再会展示が実現できる事になったのだろうと思います。
皆さん、不退寺で、また奈良博で、それぞれの観音像の姿をご覧になったことがあろうかと思いますが、並べて展示される姿をご覧になると、またこれまでと違った新たな印象を受けられるのではないでしょうか。
先月(2023年2月)、こんな企画展を見に行ってきました。
「古写真のなかの奈良―奈良大学図書館所蔵北村信昭コレクションのガラス乾板写真」2022年11月21日~2023年3月20日
奈良大学博物館で開催されています。
【奈良の草分け的写真館「北村写真館」の奈良の古写真企画展】
「古写真のなかの奈良」という企画展名のとおり、明治から昭和戦前の奈良の町の古写真を展示した企画展です。
「北村写真館」という名前をご存じでしょうか?
明治時代、近代奈良の地における写真館の草分け的存在とされているのが「北村写真館」です。
企画展には、この北村写真館の創業者・北村太一が撮影した、奈良の古写真が展示されているというのです。
これは一度観ておきたいと、出かけてみたというわけです。
展覧会場には、北村太一氏とその孫にあたる北村信昭氏が撮影した、奈良の社寺や風景を撮影した古写真が、多数展示されていました。


「古写真の中の奈良」展の写真展示風景
【北村写真館創業者・北村太一撮影の明治時代の奈良古写真を多数展示】
明治時代に北村太一が撮影した古写真を、いくつかご覧いただきたいと思います。

北村太一撮影・東大寺大仏殿(明治30~40年代)
東大寺大仏殿の修理工事が行われていた、明治30~40年代の写真です。
大仏殿の瓦屋根が外され、建築資材が置かれています。

北村太一撮影・興福寺中金堂(撮影時期不明)
明治期に撮影されたと思われる、興福寺中金堂の写真です。
皇族などからの寄進の札がいくつも立てられていて、明治初年に一度は廃寺になった興福寺の復興が明治後半期に進められていた頃、撮られた写真ではないかと思われます。

北村太一撮影・奈良帝室博物館(明治20年代後半~30年代)
明治28年(1895)に開館して間もないころと思われる奈良帝室博物館(現奈良国立博物館)の写真です。
植えられたばかりの松の若木に囲まれています。

北村太一撮影・猿沢池畔(明治20年代後半)
明治20年代後半頃の猿沢の池畔の写真です。
右手の茶屋には「は勢」(ハゼ)と書かれた暖簾がかかっています。
「ハゼ」とは鯉にやる餌のことで、麦を炒ってはぜさせたものだから「ハゼ」と云ったそうです。

北村太一撮影・菊水楼(明治30年代)
奈良随一の料亭旅館といわれた「菊水楼」の明治30年代ごろの写真です。
菊水楼が興福寺の南、猿沢の池の東に開業したのが、明治24年(1891)のことですから、開業間もないころに撮られたものです。
現在は消えかかつて見えない看板の「菊水楼」の字がはっきりと見えます。
明治時代の東大寺、興福寺やその近辺の風景を偲ぶことができる大変貴重な古写真の数々で、大変興味深く愉しむことができました。
【奈良大学に寄贈された北村信昭所蔵コレクション
~北村太一撮影の貴重な古写真ガラス乾板など】
これらの写真などは、展覧会名の副題にある通り、北村太一の孫の北村信昭氏のコレクションであったものだそうです。
平成12年(2000)に北村信昭氏所蔵であった古写真のガラス乾板や関連資料などが、ご遺族から奈良大学に寄贈されました。
今回、企画展示の古写真は、北村写真館で撮影された明治から昭和のガラス乾板の写真の一部というものです。
【「北村写真館」にまつわる話を、ちょっと振り返り】
奈良の文化財の古写真にまつわる話については、日々是古仏愛好HPや本ブログ観仏日々帖で、これまで折々たどってきましたが、奈良の写真館の草分け的存在「北村写真館」についての話にふれたことがありませんでした。
奈良の文化財古写真の話については、などを、ご参照ください。
そこで、この「北村写真館」にまつわる話について、ちょっと辿ってみたいと思います。
【明治18年、猿沢池東畔に開業した「北村写真館」
~北村太一創業の奈良の草分け的写真館】
「北村写真館」は、明治18年(1885)に奈良・猿沢の池の東畔、菩提町に開業しました。
創業者は、北村太一。
安政3年(1856)、長州(山口県)に生まれ、東京で写真術を学んだ後、29歳の時、奈良の地で写真館を創業しました。

北村写真館創業者・北村太一
北村写真館が、近代奈良の地における写真館の嚆矢なのかどうかはっきりしないのですが、全国の近代写真師を紹介した「月乃鏡」(大正5年刊)という本には、奈良では唯一、北村太ーが紹介されていますので、著名な草分け的存在であったことは間違いありません。
「月乃鏡」によると、北村は、
「奈良の景物を撮影しようと奈良を訪れ、古都の情景に深く心を撃たれ去り難きものがあり、この地に永住しようと意を決し、写真館を開いた。」
旨が記されています。

近代写真史を紹介した本「月の鏡」(大正5年刊)掲載の北村写真館解説
北村写真館は、肖像写真など撮る営業写真館であったようで、当時の撮影料は、ガラス写し桐箱入りは1枚普通10銭、紙写しは3枚30銭で、湿板にて撮影していたということです。
展覧会には、北村太ーが創業当時使用していた手作りの写真機が展示されていました。

北村太一が創業時使用していた手作り写真機
指物師が、数十日もかかって作ったものだそうです。
当時の写真昔話を振り返る大正14年(1925)の新聞記事には、
「定紋打た写真機を 鼠取りと間違へる
写料は米二升半代の十銭、奈良に相応しい写真昔話」
(大正14年(1925)11月4日付「大阪朝日新聞大和版」記事)
という見出しの、面白いエピソードが掲載されています。

北村写真館の昔話を振り返る新聞記事(1925.11.4付大阪朝日新聞大和版)
明治28年(1897)、創業10年目の北村写真館の写真です。

北村写真館の外観写真(明治28年ごろ)
入口正面の壁には、額に入った写真がたくさん掲げられています。
はっきりわかりませんが、奈良の古社寺の建物や景観が撮影された写真のようです。
北村太一は、創業当時からこうした写真を撮影していたのだと思われます。
【奈良の古美術写真の草分け「工藤精華」の開業は明治26年のこと
~北村写真館は、その8年も前に創業】
ところで、奈良の地における「古美術写真の草分け」は、工藤精華・利三郎(1848~1929)だといわれています。
工藤は明治~大正期に、古美術写真専門の写真師として、数多くの奈良の仏像、古社寺などの文化財写真を撮影しました。
工藤精華自らが出版した超豪華写真集「日本精華・全11輯」は、明治期の近代奈良の古社寺や仏像を撮影した貴重な古写真集として、広く知られていることは、皆さんもご存じのことと思います。


工藤精華「日本精華」第1輯(明治41年刊)と
第1輯掲載の腕が破損した興福寺・阿修羅像写真(明治35年の修理以前撮影)
この工藤精華が、奈良の地に赴き写真館を開いたのは、明治26年(1893)のことでした。
北村写真館の開業から8年後のことです。
工藤の工藤精華堂も、猿沢の池東畔、北村写真館のすぐそばにあったということです。

工藤精華堂の旧居写真
北村太一は、仏像写真の撮影はしなかったようなのですが、古都の情景に深く心を撃たれて写真館を開業したとされるように、古社寺の建物などの文化財写真を随分撮影していたようです。


北村太一撮影の古社寺写真
(上)興福寺・北円堂、(右)春日大社~共に撮影時期不明~
明治時代の奈良の地における古文化財写真家といえば、工藤精華の名前しか思い浮かばないのですが、それ以前からも、こうした古社寺の写真を北村太一が撮影していたということは、しっかりと記憶にとどめておきたいものと思った次第です。
【奈良の仏像写真家「松岡光夢」は、北村写真館二代目・北村武の門下】
北村太一は、明治44年(1911)、享年56歳にて病没します。
北村写真館は、太一の養嗣子である北村武が受け継ぎます。
北村武は信州松本に生まれ、写真術を修めたそうです。
昭和5年~8年(1930~33)奈良県写真師会の初代会長を勤めましたが、昭和9年(1934)に北村写真館は閉店しています。
大変興味深かったのは、奈良の仏像写真家として知られる松岡光夢が、北村武の門下であったということです。
松岡光夢は大正~昭和初期に発刊された古美術研究雑誌「寧楽」に掲載の仏像、古美術写真の撮影者として知られています。


(上)松岡光夢の撮影写真が掲載された古美術研究誌「寧楽」
(下)松岡光夢撮影・東大寺戒壇堂広目天像(「寧楽」掲載)
この松岡光夢、出身はわからないのですが、北村武の出身地である長野(上田連歌町)で好子堂という写真館を開業したのち、奈良の三条通(芝辻町)で松岡光夢写真館を開業しています。
北村武と松岡光夢の密接な関係が伺えます。
【三代目「北村信昭氏」は、近代奈良の文化人として知られる人物】
ここからは、北村写真館の三代目にあたる北村太一の孫、北村信昭氏についてふれてみたいと思います。
北村信昭氏は写真家としてというよりは、文化人、奈良通として活躍した人物です。

北村信昭氏
奈良の文化的な出来事やエピソードについての写真や文章を、数多く残したことで知られています。
「近代奈良通の文化人」といってよいのだと思います。
北村信昭氏は明治39年(1906)に生まれ、大正14年(1925)に地元紙である『大和日報』の編集部に勤務します。
そこでは文芸欄を担当し、モダニズムの詩人である北園克衛らとの交流を持ったり、当時、奈良・高畑に住んでいた志賀直哉宅にもしばしば訪れていたようです。
また武者小路実篤が来寧し、奈良に「新しき村」の支部を開く際に、その事務所を自宅の北村写真館に置くなど、奈良の近代文学を地元で支えた一人でもありました。
また近代奈良の文化人との交流も厚く、文化的な出来事のエピソードなどにもかかわって精通するなど、近代奈良文化史についての「奈良通」ともいうべき人物でした。
【近代奈良の歴史文化エピソード満載の北村信昭著「奈良 いまは昔」
~奈良文化史好きにはこたえられない愉しい本】
「奈良 いまは昔」という本があります。

北村信昭著「奈良 いまは昔」(1983年奈良新聞社刊)
1983(昭和58)年11月、奈良新聞社より刊行されました。
この本こそ近代奈良の文化史通の北村信昭氏の面目躍如といってよい本です。
北村信昭氏が1976(昭和51)年4月8日から1978(昭和53)年3月9日まで「奈良新聞Jに連載した記事を単行本にまとめたものです。
目次を見ると
「奈良ホテル」「春日山の狼」「人力車」「明治の絵葉書」「カメラ草創」「失われた風景」「興福寺今昔」「喫茶店」」「猿沢池」「工藤精華堂」「公園草創」「塔からの遠望」・・・・・・・
といったテーマがずらりと50項目並んでいます。
近代奈良の歴史・文化を知ることができるのはもちろんのこと、
「奈良にこんな面白い出来事があったのか、こんな愛すべき人々がいたのか」
という話が、北村氏所蔵の古写真と共に満載されています。
奈良の近代文化史好きの私などには、こたえられないほど面白く愉しい本です。
なかでも、
「奈良ホテルのいくつものエピソード」、「猿沢の池から興福寺への五十二段(階段)の話」、「東大寺大仏殿の明治修理鴟尾の話」、「古美術写真・工藤精華堂と養女の話」
といった話は、興味津々で読ませてもらいました。

「奈良 いまは昔」掲載の「東大寺大仏殿の明治修理鴟尾の話」ページ

「奈良 いまは昔」掲載の「古美術写真・工藤精華堂と養女の話」ページ
【戦時下、興福寺五重塔からの俯瞰写真、隠し撮りのエピソードも】
「戦時下、五重塔に登る」と題した、こんな戦時中の写真エピソードも語られていました。

「奈良 いまは昔」掲載の「戦時下、興福寺五重塔へ登った話」ページ
昭和11年(1936) 3月31日、五重塔の上からの眺望が撮影された写真です。

昭和11年戦時下、興福寺五重塔から撮影された俯瞰写真~北村信昭氏撮影
この写真は、北村信昭氏が奈良市の観光課から三笠山を望んだ写真の注文があり、興福寺五重塔に登ったときに撮影されたものです。
その頃は、軍事上の防諜から、高い場所からの俯瞰撮影が禁止されていたのを、コッソリと撮影したもので、現像することなく原版のままで隠し持っていたものを、戦後、焼き付けたものだそうです。
戦時中の貴重な俯瞰写真ということです。
北村信昭氏は平成11年(1999)、92歳で逝去します。
そして、北村信昭氏が所蔵していた写真資料などのコレクションが、平成12年(2000)に、ご遺族から奈良大学に寄贈されました。
今回の「古写真のなかの奈良」という企画展は、明治から昭和戦前に撮影された寄贈ガラス乾板がデジタル化され、写真パネルに引き伸ばして展示されたものでした。
近代奈良の古社寺の有様や街の風景などを偲ぶことができる興味深い企画展だったのですが、展覧会に訪れる人があまり多くないようで、残念に思いました、
私か訪ねた時間帯は、観覧者は私たった一人だけという状況でした。
奈良大学のキャンパス内にある奈良大学博物館は、近鉄電車・高の原駅からバスというちょっと不便なところにあって、また小規模な企画展なので致し方ないのかもしれません。
私は、横浜から、わざわざ訪ねたのですが、決して期待外れということなく、十分に愉しむことができた、好企画の展覧会でした。
一年余前に「博物館の気になる仏像あれこれ」と題する連載を掲載し、その中で 「東京国立博物館蔵・宝慶寺伝来石仏龕諸像と早崎稉吉」 というテーマで綴らせていただきました。
東博のアジアギャラリー(旧東洋館)の看板仏像ともいえる、宝慶寺伝来石仏龕諸像の伝来のいきさつなどについてふれたものです。

東博アジアギャラリーの早崎稉吉請来・宝慶寺石仏諸像
この宝慶寺石仏龕諸像を入手して日本にもたらしたのは「早崎稉吉」という人物です。
その中で、早崎稉吉が
「いかにしてこれらの石仏龕諸像を手に入れたのか?
その後の石仏の行方、所蔵者はどうなっているのか?」
について、わかる範囲でご紹介させていただきました。
【最近発表された、早崎稉吉の宝慶寺石仏の買取・売却経緯の詳細な論考】
昨年(2022年)12月、
「宝慶寺石仏と早崎稉吉~早崎日記による買い取りと売却の経緯」
と題する論考が、
MUSEUM(東京国立博物館研究誌)701号に掲載されました。
石松日奈子氏の執筆です。
早速入手して読んでみました。
論考の題名通り、早崎が宝慶寺石仏龕諸像を買取り入手した経緯、その後の売却の顛末などについて、大変詳しく述べられていました。
ご存じの通り、石松日奈子氏は著名な中国彫刻の研究者で、早崎稉吉の研究でも知られています。
この論考は、石松氏が、天心記念五浦美術館所蔵の30冊に及ぶ「早崎稉吉日記」を閲覧する機会を得て、そこから「宝慶寺石仏に関する記述」を拾い集め、石仏の買取りから売却に至るまでの詳細な経緯を明らかにしたものです。
私が、一年余前にご紹介した内容は、早崎稉吉の宝慶寺石仏入手の時期や経緯などについて、いろいろな関係資料にあたってみて、その寄せ集めで綴らせていただいたものです。
その時、よく判らなかったところやはっきりしないところがいくつもあったのですが、今回の石松氏の論考では、そのすべての詳細が明らかにされています。
【一年余前に掲載した「宝慶寺石仏と早崎稉吉」の話に一部間違いが
~早崎が入手した件数とその時期など】
私のご紹介に、一部間違っていたところもありましたので、そのあたりも含めて、この「補遺」でふれさせていただきたいと思います。
余りに細かい、マニアックな内容ですので、皆さん、全くご関心がないことと思いますが、正しい内容を訂正しておくことは必要ということでご容赦ください。
1点目は、早崎稉吉が入手した宝慶寺石仏の総点数です。
前回では、早崎は計24点を入手したとみられると書いたのですが、これは間違いで、石松氏によると早崎入手が確実なのは22点ということでした。
あと1点は早崎入手像なのか曖昧で、はっきりしないということです。
2点目は、早崎稉吉が宝慶寺石仏を日本に持ち帰った時期です。
前回では、明治39年に一括して日本に持ち帰ったとしたのですが、正しくは明治39年と明治40年の2回に分けて持ち帰っていたことが判りました。
また、複数回にわたって入手しているのですが、入手した回数とそれぞれの時期も、本論考で明らかになりました。
それぞれについて、もう少し詳しくふれさせていただきます。
【早崎が入手したことが確実なのは22点~前回紹介では24点と記述】
現在、現存が確認されている宝慶寺石仏の総件数は、32点です。
前回、そのうち早崎が入手したのは24点で、これらを早崎が譲渡した相手と、現在の所蔵先は次の一覧表のとおりと、ご紹介しました。
今回の石松氏の論考によると、早崎が買取ったのが確実なものは22点ということです。
あと1点、早崎が入手したのかどうかがはっきりしないものがあるようです。
はっきりしない1点とは、現在フリーア美術館に所蔵される2点のうちの1点がそれに該当するようです。
【フリーア美術館所蔵2点は、早崎入手のものとは別物か
~1点は、早崎入手のものの可能性は残る】
前回、私はフリーア美術館所蔵の2点とも、早崎入手のものと思い込み、全部で24点としてしまったというわけです。
フリーア美術館所蔵の2点は、早崎入手像を古美術商・松木文恭経由で買取ったと思っていたのですが、そうではありませんでした。
美術館の記録によると、1点は明治42年(1909)に松木文恭から、もう1点は1914年にドイツ人古美術商のエドガー・ヴォルヒから購入したものでした。

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フリーア美術館所蔵・宝慶寺十一面観音石仏龕
(左)松木文恭より購入像、(右)エドガー・ヴォルヒより購入像
松木文恭は、フリーア宛の宝慶寺石仏売り込み書簡で、
「ボストン美術館の岡倉天心蒐集中国美術コレクションと同じ入手先から来たもの」
であって、
「西安から将来された世界的に有名な石刻板で、一つは東京の博物館、一つはボストン(美術館)、一つは横浜の原(原三渓)が持っているが、これほど素晴らしいものはない。」
(大西純子「早崎稉吉の活動について・ボストン美術館蔵岡倉覚三蒐集中国彫刻コレクションを中心として」MYUSEUM656号2016.06)
と記し、
早崎請来の石仏であることを匂わせるような書き方をしています。
また早崎日記によると、幾度か松木文恭と接触しているようです。
このことから、フリーアが松木から購入した1点は、早崎入手のものである可能性は相応にあるように思われるのですが、石松氏によると、その確証は無いということです。
これらのことが明らかになったことにより、先程の一覧表を、訂正・修正すると、次のようになります。
【はっきりしなかった、複数回にわたる早崎入手時期と件数が明らかに】
もう一つ、早崎稉吉が宝慶寺石仏を何度かにわたって買取り入手した時期と件数についてです。
石松氏が、早崎日記から宝慶寺石仏にかかわる記述を確認検証したところ等によると、次のようなものになるとのことです。
前回は、正確な入手時期などがはっきりわからず、
「複数回にわたって交渉と布施を重ねて石仏を手に入れ、明治39年(1906)に日本へ持ち帰ったということです。」
と記したのですが、
石松氏の論考により、
「5回にわたって入手し、明治39年と40年の2回に分け日本に持ち帰った」
ことが明らかになりました。
また、石松氏によると、明治38年(1905)5月の買取り分については、内容や買取額の記載がなく
「他の買い取り記事に比べると不可解な点が多い。
筆者は、このときの石仏は一連の宝慶寺石仏(七宝台造像)とは別のものだった可能性があると感じている。」
ということです。
この明治38年(1905)5月分の1件を除くと、早崎稉吉が宝慶寺石仏を入手したことが確実な件数は22点ということになるというわけです。
この1件が、フリーアが古美術商・松木文恭から購入した十一面観音石仏龕であった可能性もあると思われるのですが、はっきりしたことはよくわからないといえるのでしょう。
【枝葉末節の些事ながら、あえて掲載させていただいた間違い訂正の〈補遺〉】
以上が、今般の石松日奈子氏の論考の発表で明らかにされ、前回のご紹介で書かせていただいた内容の、間違いなどが判ったことです。
重箱の隅の隅を突っついたような、話の本筋とは関係のない枝葉末節な事柄で、
「そんな細かい話は、どうでもいいことじゃないか!」
と、感じられたことと思います。
私も、正直そのように思ったのですが、書いた内容が間違っていたことが判ったのに、そのままにしておくのも如何なものかということで、記録として残しておくことも必要かと思い、あえて掲載させていただきました。
「観仏日々帖」の本文のヘッダーとフッターの場所に
という【目次へのリンク】表示を、貼り付けさせていただきました。
PCとかIPADなどで、この「観仏日々帖」をご覧いただいていると、表示されるブログの右上の「プロフィール欄」に、【総目次】をはじめ各々の【分類別目次】のリンク表示を貼り付けされていただいておりますので、
本文中にまたまた【目次へのリンク】などが余計に表示されると、ジャマでうるさいと感じられることと思います。
ところが、スマートフォンで、このブログ「観仏日々帖」を見てみると、
「プロフィール欄に【目次へのリンク】が全く表示されない」
ことに気が付きました。
私は普段、スマホはメールとTELにしか使わず、NET検索することがほとんどありませんので、今まで全く気が付かなかったというわけです。
このブログ、普段スマホでご覧いただいている方も多いのではないかと思い、今後は、ヘッダーとフッターの場所に【目次へのリンク】をはらせていただくことにいたしました。
「【目次】で、わざわざ検索することなんかあり得ないよ!」
という方が大半かと思いますが、たまにはお役に立つこともあろうかと貼り付けさせていただきました。
よろしくお願いいたします。
【11 月】
【高田寺の秘仏御開帳と名古屋方面の観仏へ】
待ちに待った高田寺の秘仏本尊・薬師如来坐像が御開帳になりました。
高田寺・本尊御開帳にあわせて、同好の方と名古屋方面の3つの古仏を訪ねました。
観仏先は、ご覧のとおりです。
【待ちに待った高田寺の秘仏薬師如来像の御開帳
~「行基開創時の本尊か?」という見解もある、興味津々像】
高田寺の薬師像は50年に一度だけ開扉の厳重秘仏とされているのですが、11/3~6までの4日間、御開帳となったのでした。
50年に一度だけの厳重秘仏の御開帳というだけでもワクワクしてしまうのですが、この薬師如来像、かつて井上正氏が、
「本像は奈良時代前期(行基の活躍時代)に制作されたものと思われる。
着衣の表現は、我が国における「呉動玄流の風動表現」の初期作例とみられる。」
との見解を示し、一躍大注目の像となったのでした。
実は、2020年3月に待望の御開帳予定だったのですが、新型コロナの感染拡大で中止となり、やっとのことで2年半遅れの御開帳となりました。
何としても見逃すわけにはいかないと、満を持して、高田寺へ出かけたという訳です。
【思いの外に「おだやかで落ち着いた」第一印象だった薬師像】
高田寺は、名古屋駅から北へ6~7キロ、北名古屋市高田寺という地名の処にあります。
養老4年(720)に僧・行基によって開かれたと伝える天台宗の古刹です。

御開帳の日の高田寺
御開帳最終日(11/6)に訪ねたのですが、多くのご参拝の方々で結構混み合っていました。
目指す薬師如来像は、茅葺の立派な本堂(薬師堂:鎌倉~室町・重要文化財)に祀られています。

御開帳参詣の人々でにぎわう高田寺・本堂
ご拝観の列に並んで堂内に入ると、内陣中央の立派な厨子のなかに薬師像の姿が見えます。
御厨子からは少し離れた処からのご拝観ではありましたが、念願の薬師像の姿をはっきりと拝することが出来ました。

高田寺・薬師如来像
お姿を拝した第一印象は、
「おだやかで落ち着いたというか、大人しい感じがする。」
というのが、率直な処でした。
もっと強い存在感とか、迫ってくるものがあるように感じるのではと予想していたのですが、ちょっと意外感がありました。
そんな第一印象になってしまったのは、念願の御開帳が延期になってしまい、御開帳を待ちに待っているうちに、どんどん気持ちだけが盛り上がってしまったからなのかもしれません。
【不思議な造形の薬師如来像・・・異なった要素が、何故だか同居
~平安前期制作の奈良様捻塑的表現か?】
カツラ材の、量感のある一木彫像で、
「粘っこく執拗に密集し、うねうねと翻り、渦を巻く衣文」
が印象的です。
一方で、着衣の造形が、
「塑像を思わせるような捻塑的表現」
で、
奈良時代の乾漆・塑像の造形と、平安前期にみられる一木彫像の表現がミスマッチ的に同居しているのが大きな特徴です。

特異な衣文表現の高田寺・薬師如来像
このあたりの問題については、観仏日々帖「高田寺の秘仏本尊・薬師如来像御開帳~拝観記」でご紹介しましたので、そちらをご覧いただければと思います。
ちょっと離れたところからの御拝観での、印象的感想にすぎませんが、
井上正氏のいう
「奈良前期、行基時代にさかのぼる制作で、風動表現の初期作例」
と考えるよりも、
「平安前期に、伝統的奈良様の粘塑的表現と、新しいムーブメントの造形表現スタイルが同居、混交する形でつくられた一つの作例」
と考えたほうが、スッキリと判りやすいように思えるのですが・・・・・・
如何でしょうか?
念願の、高田寺の秘仏本尊・薬師如来像を、とうとう拝することが出来ました。
長きにわたり、一度はその姿を拝してみたいと念じていた厳重秘仏をこの眼でしっかりと観ることが出来たというだけで、満足感一杯という処でした。
【2020年に重文新指定の賢林寺・十一面観音像
~パワフルなエネルギーで拝者を圧倒する小像】
小牧市にある賢林寺を訪ねました。

賢林寺
賢林寺には、当地では珍しい9世紀の制作に遡るという十一面観音坐像が祀られているのです。
かつて2006年に名古屋市博物館で開催された「比叡山と東海の至宝」に出展されたことはあるのですが、お寺では秘仏とされている仏像です。
2020年に、この賢林寺・十一面観音坐像が国の重要文化財に指定されました。
重文指定に際し、東京国立博物館で例年開催の「新指定国宝・重要文化財展」で展示される予定であったのですが、新型コロナで開催中止となり、残念ながら観ることがかなわなかったのです。
何とか一度お寺で拝したいものと思っていたのですが、この日、念願の御拝観が叶うことになったのです。
十一面観音像は、ご本堂の大変立派なお厨子の中に祀られていました。

賢林寺・十一面観音坐像(平安前期・重文)
80センチぐらいの小像なのですが、すごいパワフルでボリューム感満点の造形に圧倒されてしまいます。
両脚部まですべて一材から彫り出された、カヤ材とみられる一木彫像だそうです。
なかなか個性的な造形です。
豊かな肉付けで豊満ではちきれるように造られた身体を、ギューッと一つの木の塊に圧縮したようで、それが内から漲ってくるようなパワーとなっているような気がします。
お顔もパンパンに張った球体を上下に圧縮したようで、これまた強い圧を感じます。

賢林寺・十一面観音坐像(平安前期・重文)
力強いエネルギーのようなものを発散させて、拝者にグーっと迫ってくるとでもいうのでしょうか。
9世紀の一木彫像とされるのも、重文指定されたというのも、なるほどと納得です。
拝観させいただいたご住職に感謝しつつ、賢林寺を後にしました。
【流れるような衣文線が美しい、定朝様の如来像~一宮市・禅林寺の薬師如来像】
一宮市にある禅林寺を訪ね、薬師如来像を拝しました。
大変立派な本堂のわきに、コンクリート造りの収蔵庫があり、そこに薬師如来坐像が安置されていました。

禅林寺・本堂と収蔵庫
江戸期のものかなと思われる日光月光の両脇時と十二神将像も安置されています。

禅林寺収蔵庫に安置される薬師像他諸像
明るい収蔵庫で眼近に薬師如来像を拝することができました。
いわゆる典型的な定朝様の如来坐像で流れるようなきめ細やかな衣文線がとても美しく印象的です。

禅林寺・薬師如来像(平安後期・重文)
ふくよかな丸顔で、なで肩、安定感のある造形です。

禅林寺・薬師如来像(平安後期・重文)
定朝様の平安後期(12世紀前半)の制作との見方もあるようですが、鎌倉に近い12世紀後半との見方もあるようです。
藤末鎌初の空気感というのが、私の受けた印象でしたが、いかがでしょうか。
伝承によると、このお寺は藤原実頼(900~970)の追福のために、領国尾張に薬師仏を祀ったのがはじまりで、当初は極楽寺と称したそうです。
その後、大洪水のため伽藍は流出、仏像も沼底に埋没という厄に遭ったにですが、光明の奇瑞により再び出現し、明応6年(1497)領主の所願により修理を加えられたと伝えられているそうです。
像の脚裏部には、明応6年の修理墨書銘が遺されています。
【名古屋市最古の平安仏~成願寺・十一面観音像】
名古屋市北区にある成願寺を訪ねました。
成願寺の十一面観音立像は、名古屋市に残る仏像で最も古い時期の制作で、平安中期以前に遡る像といわれています。
成願寺に着いて、最初に驚かされたのは、超モダンな造りの建物が眼前に出現したことでした。

成願寺
現代のコンサートホールかミュージアムギャラリーのような建物です。

ギャラリーホールのような成願寺・本堂
ここが目的の成願寺で大丈夫なのだろうかと戸惑いましたが、間違いないようです。
ご住職からお伺いしたところ、2009年に当時中興の山田重忠(1221没)から800年の節目で建て替えをすることになり、どのようなお堂にするのかいろいろとお悩みになった結果、このようなモダンなものにすることに決断されたということでした。
【妖しい存在感を漂わせる平安中期の一木彫像
~図録写真の穏やかな雰囲気とは異なる印象が】
十一面観音像は、これまた現代センスのお厨子の中に祀られていました。
すらりとスタイルの良い観音立像です。
腰高という程でもないのですが、下半身が長くスリムな造形です。
事前に図録の写真を見ていた感じでは、優しく穏やかな雰囲気の表現の像という印象がして、平安中期までさかのぼるようには感じないように思えました。

成願寺・十一面観音像~比叡山と東海の至宝展図録掲載画像(2006年)
ところが、実際に眼前に拝すると、結構、印象が違いました。
「優しく穏やか」というよりも「マイルドだけれども、妖しさを漂わせる」という感じです。

お厨子に祀られる成願寺・十一面観音像(平安・市指定)
お顔に、何とも言えない土俗的な妖しい雰囲気があるようです。

成願寺・十一面観音像(平安・市指定)
下半身の衣文表現も、結構鎬立って鋭いものがあります。

成願寺・十一面観音像脚部
カヤ材と思われる一木彫像で、内刳りもありません。
10~11世紀の制作とみられているようですが、想定していたよりも、なかなかの存在感を感じさせ、記憶に残る古像でした。
この日は京都に泊まって、翌日は一人で滋賀方面の観仏に出かけました。
【久方ぶりに延暦寺の国宝殿へ
~古写真から桜井興善寺伝来と判明した薬師像の姿を再確認】
久方ぶりに比叡山に上って、延暦寺の「国宝殿」に行きました。


「比叡の霊宝展」開催中の延暦寺・国宝殿
何度も観たことのある国宝殿の仏像なのですが、今回は、薬師如来坐像の姿をもう一度観てみたかったのです。
昨年6月に、この薬師如来像の伝来について観仏日々帖「古写真を読み解く⑦」に採り上げさせていただきました。
この薬師像は、像内の修理銘から「佐賀県の大興善寺伝来」の仏像とされてきたのですが、近年、「桜井の興善寺伝来」の仏像であったことが判明しました。
奈良桜井の興善寺に残された古写真が、本像の写真に間違いないことが判ったのです。
大正~昭和初年に、桜井興善寺から出て、何人かの所蔵者の手を経て昭和54年(1979)に延暦寺に寄進されています。
薬師如来像は、宝物館(第1展示室)の一番奥、一段と高い台座の上に、鎌倉時代の梵天帝釈天、十二神将像を従えるような形で安置されていました。

延暦寺国宝殿・薬師如来像(平安・重文)
平安時代、10世紀の堂々たる一木彫像で、なかなかの重厚感と存在感を感じさせます。
これまで何度も観ているものの、自身の記憶にはそれほど残っていなかったのですが、今回はじっくりとその姿を目に焼き付けました。
こうした数奇な伝来物語を知った後に観ると、印象の残り方が随分と違うものです。
【多くの有名な尊像の中でも目を惹いた松禅院・観音像
~迫力十分の叡山屈指の古像】
国宝殿には有名処の平安前期の千手観音像(重文)や維摩居士像(重文)なども展示されていましたが、私の目を惹いたのは、松禅院の観音像でした。

松禅院・観音菩薩像(平安前期・県指定)
松禅院は、比叡山中横川飯室谷の山中にある山坊で、この像は近年の調査で新たに確認されたものです。
9世紀の制作、叡山屈指の古像とみられ、内から発散する霊力のようなパワーを強く感じさせます。
折々の叡山関連展覧会に出展されていますが、いつ観ても強く惹き付けるものを感じる私の注目仏像です。
【東近江市の古仏を観仏へ】
【一番の目的は、法雲寺の帝釈天像のご拝観
~「この日お堂が開く」という、ご連絡に駆け付ける】
叡山の後は、この日の観仏の一番の目的である、東近江市の蒲生にある法雲寺に向かいました。
法雲寺には10世紀の制作とされる帝釈天像があるのです。
重要文化財に指定されているのですが、ほとんど知られていないといってもよい仏像ではないかと思います。
図録の写真を見ると、結構パワフルで重量感を感じる一木彫像です。

法雲寺・帝釈天像~「蒲生郡の風土と遺宝展」図録掲載画像(2013年)
私の調べてみたところでは、1993年に栗東歴史民俗博物館で開催の「かみとほとけのかたち展」、2013年に安土城考古博物館で開催の「蒲生郡の風土と遺宝展」に出展されているのですが、私はまた拝したことがないのです。
チャンスがあれば一度拝してみたいものと思って、市の教育委員会を通じて拝観のお願いもしたのですが、無住のお堂で普段は拝することができないということなのです。
ご開扉される日があればお教えいただけるようお願いしていたところ、管理されている方から、
「この日に寄り合いがあってお堂を開けることになったので、当日来られるのであれば拝することができる。」
とご連絡をいただいたのです。
そこで、このチャンスを逃すまじと、近江の蒲生まで出かけることとしたというわけです。
【期待に違わぬパワフルで堂々たる迫力に圧倒される
~直立した硬い表現、森厳な表情が発散させる霊威感】
法雲寺は近江八幡駅の南東10キロほどの蒲生野と呼ばれる処にあります。
田園風景の広がる片田舎です。
法雲寺は、静かな木立の中に旭野神社と並んで、ひっそりとありました。

法雲寺
「國寶 帝釋天 天台宗 法雲寺」と刻された石標があり、そこに帝釈天の祀られる観音堂がありました。

法雲寺・観音堂
帝釈天像は小さな観音堂の中のお厨子に祀られていました。
眼近に近寄ってじっくりと拝することができました。

観音堂に安置されている法雲寺・帝釈天像
期待に違わぬ堂々たるお姿です。

法雲寺・帝釈天像(平安・重文)
造形表現を見ると、ちょっと硬直したように直立していて、着衣、衣文の表現も直線的で硬いといえるように思えます。

法雲寺・帝釈天像(平安・重文)
そこだけを見ると、抑揚や弾力性に欠け、定型化、硬直化した表現となっているといえるのかもしれません。
しかし、お像の姿を眼前にすると、そのパワフルな迫力に圧倒されてしまいます。
怒らせるように張った肩、固く引き締まった体躯は重量感満点です。

法雲寺・帝釈天像(平安・重文)
直立硬直化したような表現が、量感と相まって、堂々たる雰囲気を発散させているようです。
お顔の彫りも深くはないのですが、目線や口元に強い森厳感を漂わせています。

法雲寺・帝釈天像(平安・重文)
本像に「強い神威を感じる。」と述べた解説もありましたが、そんな印象もまさに納得です。
初めて拝した法雲寺の帝釈天像ですが、私はグッと惹かれるものを感じ、すっかり気に入ってしまいました。
たしかに10世紀に入ってからの制作だろうと思うのですが、平安中期の像に通例な「穏やかさ」が滲みだすことなく、「硬質の強さ、重さ」が前面に出た、誠に興味深い像だと思いました。
本像は、修験の霊場として名高い飯道山から移安されたと伝えられ、江戸時代(元文2年・1737)には法雲寺に伝来していたとそうです。
また、本来は帝釈天像ではなくて初期の神像として造られた像であるという見方もあります。
期待以上にインパクトを感じる仏像でした。
是非また拝したいものだと念じ、後ろ髪をひかれながら、法雲寺を後にしました。
【宝冠阿弥陀像の最古例といわれる梵釈寺・阿弥陀如来像
~じっくり目を凝らすと鋭い風貌の緊張感ある造形】
法雲寺から車で3~5分の所に、梵釈寺があります。

梵釈寺
梵釈寺の阿弥陀如来像は、現存する宝冠阿弥陀如来像のうちの最古作例として知られています。
承和4年(847)に唐から帰国した円仁が、比叡山の常行三昧堂に安置した宝冠阿弥陀像に最も近い形式の古像であろうとみられています。
私がこのお像を拝するのはもう4度目なのですが、法雲寺のすぐ近くなので寄ってみることにしました。
10世紀の宝冠阿弥陀像の優品とされているのですが、一見すると、通肩のバランスの良い如来像という程度の印象しかせず、それほど強く惹き付ける魅力を感じないのかもしれません。

梵釈寺本堂に安置される宝冠阿弥陀像
じっくり目を凝らすと、弾力感、張りのある造形で量感にあふれ、切れ長で吊り上がった目の鋭い風貌は、なかなかの緊張感があります。


梵釈寺・宝冠阿弥陀如来像(平安前期・重文)
仏像の数を沢山見ていけばいくほど、この仏像の良さというか、優れたところが判ってくるような気がします。
【いつも温かく迎えていただける梵釈寺の方々
~今回もいただいた、手造りイチゴストラップ】
梵釈寺さんは、いつ訪れてもお寺の方々が、親切に温かく接していただけ、本当に有り難い限りです。
かつて訪ねた時には、優しいお婆さんがフェルトで手造りされたイチゴのストラップを、折々頂戴して、気に入って大切に使わせてもらっていました。
家人の方にお尋ねすると、お婆さんはもう亡くなられたそうなのですが、ご近所の方がフェルトイチゴ造りを引き継がれているそうで、今回も、可愛らしいのをいくつか頂戴しました。

梵釈寺さんでいただいた手造りイチゴストラップ
お寺を守る皆さんの温かさに、ほっと和んだ気分にさせてもらいました。
【ほのぼのした温かみを感じる石塔寺・三重石塔】
石塔寺にも寄ってみました。
もう何度訪れたことでしょうか。

石塔寺・三重石塔
三重石塔を見上げていると、なんとも云えないほのぼのとした温かみに、心撃たれてしまいます。
古代の帰化人たちの喜び、哀しみに直にふれているような気持ちに惹き込まれるようです。
【東近江市の興福寺で、半丈六の立派な五智如来像を拝観】
最後に、同じ東近江市にある興福寺を訪ねました。

東近江市~興福寺
お堂には、平安後期の半丈六の五智如来坐像がちょっと窮屈そうに肩を並べて祀られています。

興福寺本堂に安置される五智如来像
当地の地名も五智町で、興福寺は五智如来の寺として親しまれ信仰されているようです。
中尊の大日如来像は重要文化財、周りの4如来像は市の文化財に指定されています。

東近江市~興福寺・大日如来像(平安後期・重文)
中尊以外はだいぶ後世の手が入っているようですが、立派な半丈六の五智如来像を拝することができました。
【東京長浜観音堂に出張展示の洞戸自治会・地蔵菩薩像
~並んで展示されていた鞘仏と胎内仏】
東京日本橋にある「東京長浜観音堂」に行きました。
「東京長浜観音堂」は、上野にあった「びわ湖長浜 KANNON HOUSE」が2020年に閉館したあと、2021年に再開された長浜市の仏像の出張展示施設です。
長浜市高月町の洞戸自治会が管理する地蔵菩薩像が出展されていました。

洞戸自治会・地蔵菩薩像
この地蔵像は、鞘仏となっていて背部が大きく刳られて胎内仏を納めるように造られています。
鞘仏の地蔵像は江戸時代の制作、胎内仏は室町時代の制作ということです。

洞戸自治会・地蔵菩薩像の胎内仏
胎内仏は、素朴な造りで在地の民衆か僧の手によるもののように思えます。
10月に訪ねた、同じ高月町の冷水寺の観音像も、珍しい鞘仏でした。
またまた高月町の鞘仏に出会ったことになります。
当地の人々の信仰の深さを実感したような気持になりました。
「東京長浜観音堂」は、ビルの中のわかりにくい事務所の一室のようなところにありました。
残念ながら、訪れる人も余り多くはないようです。

東京長浜観音堂
もっと多くの人に知られ、今後もずっと出張展示が続けられていって欲しいものです。
【年に一日の「勅封薬師如来像」の御開帳日に広隆寺へ
~初期神像か?といわれる、吉祥天のような霊験薬師仏像】
11月22日に広隆寺に出かけました。

広隆寺
年に一日、この日限りで御開帳される「勅封薬師如来像」を拝するためです。
私は、これまで何度も何度も広隆寺を訪ねているのですが、未だ秘仏薬師如来像を拝したことがなかったのです。
一度は拝しておかなければならないと、意を決してこの日京都へ出かけたのでした。
「勅封薬師如来像」は平安前期の制作で、その名の通り、清和天皇(850~880)により勅封秘仏とされ、長らく広隆寺の御本尊の「霊験薬師仏」として信仰されてきたと伝えられる由緒ある尊像なのです。

広隆寺・勅封薬師如来像(平安前期・重文)
そして、吉祥天像のような姿かたちをしているのに、何故だか「薬師如来像」として祀られているという不可思議な像なのです。
このあたりの不思議な謎についての話は、観仏日々帖「広隆寺の秘仏・薬師如来立像 御開帳拝観記 〈その1〉 〈その2〉」で紹介させていただきましたので、そちらをご覧いただくことにして、ここでふれないこととさせていただきます。
貴重な初期神像の作例ではないかといわれる広隆寺・勅封薬師如来像を、ようやく眼近に拝することができました。
自分で「仏像愛好です」と話しているのに、広隆寺の「勅封薬師如来像」をいまだに拝したことがないというのは、ちょっと気恥ずかしくて大きな声で言いにくかったのですが、やっとのことでこの宿題をクリアーすることができました。
お昼を広隆寺からほど近い、「ほそ井」といううどん屋さんで食べました。

広隆寺近くのうどん店「ほそ井」
予備知識なくNET検索で見つけたのですが、これがなかなかの美味なるおうどんでした。
ご主人は、河原町三条の割烹「日吉野」におられた方だそうで、饂飩にもなかなかのこだわりがあるようです。
きつねうどんが1100円といい値段でしたが、広隆寺に来た時にはまた寄ってみたいお店です。
【神光院・薬師如来像を目指して佛大ミュージアムの「ほとけのドレスコード」展へ
~近年、大注目の上賀茂神社にかかわる9C一木彫像】
広沢の池のそばの佛教大学宗教文化ミュージアムに行きました。
「ほとけのドレスコード」と題する興味深い特別展が開催されているのっですが、この展覧会に北区西賀茂にある神光院の薬師如来像が出展されているというので、これは必見と出かけたのでした。

神光院・薬師如来像(平安前期・市指定)
神光院・薬師如来像は、平安前期(9C前半)の制作とみられる一木彫像なのですが、近年までその存在が知られていませんでした。
2011年に皿井舞氏により研究誌に初めて紹介され、大注目となった仏像です。
皿井氏論考では、
「本像は、上賀茂神社にかかわる仏堂「岡本堂」安置仏で、その後、上賀茂社神宮寺に祀られ、慶応4年(1868)、神仏分離で神光院に移されたものと思われる。
制作年代は、岡本堂再建期の天長年間(824~833)頃と想定される。」
(「京都 神光院蔵 木造薬師如来像」美術研究404号2011年)
という見解が示されています。
私は11年前に、皿井論文でこの仏像の存在を知り、神光院まで拝しに出かけたことがあります。
こんな凄い仏像が、これまで全く知られていなかったことに大ビックリでした。
両腿のたくましい隆起や、胸から腹にかけての量感あふれる肉身の表現は迫力十分、
「バリバリの9世紀平安前期彫刻に間違いない」
と云って良い古像です。
【360度ビューで、じっくりと観仏~発散するオーラに強く惹き付けられる】
「ほとけのドレスコード」展では、明るい照明の中、360度ビューで観ることができました。
神光院で拝すると、脇壇の奥に祀られ、足元や側面からは観ることが出来なかったのですが、展覧会では、足元から背面まで眼近にジックリと克明に目にすることができました。

神光院・薬師如来像(平安前期・市指定)
皿井氏は、本像を「仏力をもって神威を増す」という習合思想の下で制作されたと述べていますが、たしかに、この像を凝視していると、発散する「霊威」とか「オーラ」を強く感じる気持ちになってきます。
お寺で拝した時以上に、強く強く惹き付けられるものを感じました。
【目を惹く、特異で不可思議な旋転文の群れ
~霊威感など、特別な意味が籠められた表現なのか?】
もう一つ目を惹くのは、着衣に「特異な旋転文(渦文)」が多数(10個程)表されていることです。

多数の旋転文が表される神光院・薬師如来像の着衣
平安前期彫刻の特徴ともいえる渦文ですが、こんなにグルグル渦巻きが折り重なって大量に表されるのは異様です。
私は、京都では、このよう渦文の群れのある像を二つみたことがあります。
北区大森東町にある安楽寺の薬師如来像と南区久世殿城町にある福田寺の釈迦如来像です。
福田寺のほうは渦文の数が少なめで、時代も下るのではないかと思いますが、安楽寺の薬師如来像の渦文の群れは、神光院像とそっくりです。
このような表現の像は、ごく稀れのようで福井の諦応寺・薬師如来像(私は未見の仏像です)、妙楽寺・聖観音像にわずかに見いだされるだけということです。


(左)福井県若桜町~諦応寺・薬師如来像
(右)福井県小浜市~妙楽寺・聖観音像
なんとも奇異というか、不思議な旋転文(渦文)の群れなのです。
何か特別の意味が込められているのでしょうか?
皿井舞氏は、この特異な表現について、
「あくまでも憶測にすぎないが、本像(神光院・薬師像)の異例とも言える旋転文に、神のための仏にふさわしい何か特別な意味が籠められていた可能性がある。
それはある意味で、仏教信仰とも、神祇信仰ともつかない、それらの信仰のさらに背後にある何かに呼応したものであるのかもしれない。」
(皿井舞「なぜ、今「かたち」なのか」~「かたち」再考・開かれた語りのために・平凡社刊2014刊所収)
と述べています。
たしかにこの折り重なるような旋転文には、霊像から発散させるオーラを表そうとする意味が籠められているように思えます。
神光院の薬師如来像を克明にジックリ見ることができ、大満足の「ほとけのドレスコード」展でした。
【9C末の最高級レベル秀作像の清凉寺・阿弥陀三尊像
~あまり有名ではないのが、ちょっと可哀想】
その足で嵯峨の清凉寺まで歩いて、本堂の釈迦如来像(宋時代・国宝)を拝し、霊宝館の諸仏を見てきました。

清凉寺
霊宝館に安置されている阿弥陀三尊像(平安前期・国宝)は、私の好きな仏像のランキングの上位に入ってくる仏像です。
清凉寺の前身、棲霞寺の本尊であった仏像で、源融が発願し二人の子息が遺志を継いで寛平8年(896)に完成させたものです。

清凉寺・阿弥陀如来像(平安前期・国宝)
月並みな誉め言葉ですが、
「極めて優れた造形の、9世紀末では最高級レベルの出来の秀作仏像」
だと思っています。
造形を見ると、超一流レベルの仏師の手になる像であることは明らかです。
量感あふれる堂々たる体躯ですが、張りのある固く引き締まった造形で、ピリッとした緊張感を感じさせます。
ちょっと面長で端正な顔立ちは、「ますらおぶり」という言葉がぴったり当てはまるような良い男ぶりで、惚れこんでしまいます。

清凉寺・阿弥陀如来像(平安前期・国宝)
これだけの見事な仏像で、国宝にも指定されているのですが、清凉寺の清凉寺の霊宝館では壁際に窮屈な感じで安置されていて、なんだか可哀そうな気持ちになってしまいます。
清凉寺といえば、奝然将来の三国伝来釈迦如来像が超有名ですが、その陰に隠れてしまって、よく知られていないようです。
もっともっと、この阿弥陀三尊像が卓抜の優作であることを、広く知られてほしいものといつも思ってしまいます。
【我国私立美術館の嚆矢「よみがえる川崎美術館」展に神戸市博へ
~高濃度の充実展覧会に大満足】
翌日は、神戸市立博物館で開催された「よみがえる川崎美術館」展に行きました。

「よみがえる川崎美術館展」開催中の神戸市立博物館
この展覧会は、仏像とは関係ないのですが、是非とも観てみたいと思い神戸まで足を延ばしたのです。
川崎美術館はわが国で最初に開設された私立美術館です。
川崎美術館は、川崎造船の創業者、川崎正蔵(1837~1912)が、神戸市布引の自邸に明治23年(1990)に開館しました。

神戸市布引にあった川崎美術館
一般的には、わが国最初の私立美術館は「大倉美術館・大倉集古館」とされているのですが、正確には、我国私立美術館の嚆矢は、「川崎美術館」なのでした。
大倉集古館は一般公開されたのですが、川崎美術館は年に数日の公開日に招待客のみが観覧できる限定的な公開であったので、そのように云われているというわけです。
川崎美術館の所蔵品には、誰もが知っている顔輝筆「寒山拾得図」(東博蔵・元時代・重文)や、国宝の宮女図(元時代)をはじめ、膨大な名品がコレクションされていたのですが、昭和2年(1927)の金融恐慌をきっかけにコレクションは散逸し、美術館の建物も水害や戦災によって全て失われてしまいました。


(左)顔輝筆「寒山拾得図」(東博蔵・元時代・重文)、(右)宮女図(元時代・国宝)
今回の展覧会は、この失われた川崎美術館を100年ぶりに蘇らせようと、神戸市立博物館の40周年を記念して企画された展覧会でした。
日本近代の美術品コレクターや美術品移動しに興味関心の深い私にとっては、見逃すわけにいかない必見展覧会でした。
博物館の総力を挙げて開催されたと思われる充実の展覧会でした。
分厚い展覧会図録は研究資料さながらの凄い濃度のもので、「渾身の図録」というものでした。

「よみがえる川崎美術館展」図録
「本当に観に来てよかった!」と大満足の展覧会でした。
展覧会の後に、三ノ宮駅近の「茜屋珈琲店」に行きました。

三宮の茜屋珈琲店
神戸の人ならきっと知っている老舗の静かな珈琲店です。
軽井沢や東京にもお店がありますが、この三宮が一号店、発祥の地です。
学生時代以来、50数年ぶりの三宮の「茜屋珈琲店」です。

茜屋珈琲店
その頃、学生には値段が超高くて、滅多に入ることができませんでした。
今も、当時と店内の雰囲気は全く変わらず、静かにクラシックが流れるカウンターで、美味いコーヒーを懐かしく味わいました。
【12 月】
【本年の見納め観仏は、大倉集古館の国宝・普賢菩薩像】
2022年の観仏の見納めは、大倉集古館の普賢菩薩像でした。
ご存じの通り、藤原彫刻の名品、国宝です。
この普賢菩薩像、大倉集古館が2019年に改装されるまでは、常時展示されていて、いつでも観ることが出来たのですが、リニューアルオープン後は普段は展示されないようになってしまい、現在は、限られた時にしか公開されていません。

リニューアルした大倉集古館
11月~1月に「大倉コレクション~信仰の美」という企画展が開催され、国宝・普賢菩薩像が展示されるというので、久しぶりに会いに出かけました。
流石、院政期の傑作です。
藤原彫刻の代名詞である「華麗で繊細優美」という言葉は、この像のためにあるような気がします。
私は、定朝様をはじめとする所謂藤原彫刻は、さほどに強く惹きつけられるものを感じないというか、好みから云うと今一歩というのが本音の処です。
しかしながら、この普賢菩薩像だけは別格で、難しい理屈抜きにお気に入りで素晴らしいと感じています。
リニューアル後に普賢菩薩像を観るのは初めてです。
改装前は照明がちょっと暗くて観づらいところもありましたが、明るい照明の中で、素晴らしい普賢菩薩像の姿を堪能することができました。

大倉集古館・普賢菩薩像(平安後期・国宝)
本像は、大倉集古館の創始者・大倉喜八郎が、明治10年代に町田久成から譲り受けたものだそうですが、その来歴由緒は全く判りません。
仏像の来歴由緒が全く不明なのに「国宝」に指定されている仏像は、この普賢菩薩像ぐらいではないかと思われ、それだけでも本像が如何に優れた名作であることを物語っているように思います。
この普賢菩薩像と大倉喜八郎については、観仏日々帖「博物館の気になる仏像あれこれ⑤~大倉集古館・普賢菩薩坐像」で採り上げたことがありますのでご覧いただければと思います。
「2022年の観仏を振り返って」は、これでおしまいです。
振り返ると、コロナ禍のなかでありましたが、あちこち観仏に訪れたようです。
ダラダラと気ままに綴らせていただいているうちに、5回もの連載という長いものになってしまいました。
ご覧いただいている皆さんも、読み疲れてしまわれたのではないかと思います。
お付き合いいただき、有難うございました。
書いている私のほうも、自業自得とは言うものの、結構、書き疲れてしまいました。
今年は、そろそろ気兼ねなく、気ままに観仏に出かけられるようになりそうな様子です。
健勝で、あちこち出かけられればと念じております。
本年も、よろしくお願いいたします。