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観仏日々帖

トピックス~「聖徳太子と法隆寺展」 出展仏像余話 〈法起寺の飛鳥仏・木造如来立像〉  【2021.04.09】


私が、その存在を全く知らなかった飛鳥時代の木彫像が、「聖徳太子と法隆寺展」に出展されます。

230法隆寺展法起寺:「聖徳太子と法隆寺」展チラシ


【存在すら全く知らなかった、法起寺の飛鳥仏・木彫如来像】


法起寺の如来立像というものです。

奈良博HP掲載の出展目録には
「如来立像 1躯  飛鳥時代 7世紀 木造 漆箔 奈良法起寺」
と記されています。

考えてみても、
「法起寺に、そんな木彫像があったっけ?」
と、全く頭に思い浮かびません。

230法隆寺展法起寺:法起寺
斑鳩・法起寺

飛鳥白鳳期の木彫像と云えば、10件ちょっとしか遺されていないはずで、極めて重要なものだと思いますが、恥ずかしながら、その存在すら知りませんでした。
「どんな像なのだろうか?」
と、気にかかっていた処、奈良国立博物館からこんなプレスリリースが発表されました。



【奈良博が、CTスキャン調査知見をプレスリリース
~法起寺・如来像は間違いなく飛鳥時代の仏像】


「聖徳太子1400年遠忌記念 特別展「聖徳太子と法隆寺」

と題するもので、この法起寺の如来像についての新知見が発表されていました。
(プレスリリースの内容は、奈良国立博物館HP お知らせプレスリリースに掲載されています~2021.2.25~)

掲載されている、法起寺・如来像の写真をご覧ください。

230法隆寺展法起寺:法起寺・木造如来立像(飛鳥時代)
「聖徳太子と法隆寺」展に出展される
法起寺・木造如来像(飛鳥時代)


なるほど、いかにも飛鳥白鳳期の仏像、という造形の木彫像です。
像高104㎝もある大きな像です。

プレスリリースの主旨は、
展覧会出展に先立って、本像のCTスキャン調査を行ったところ、
「面部をはじめ後補部分は多いものの、飛鳥時代の制作像であることに間違いないことが確認された」
というものです。

具体的には、CTスキャン調査により、
・後補部分は、面部、右体側部、背面のすべて、脚部の下方。
・当初材部分は、後頭部、左体側部を含む体部全面材で、下腹部に当てる左手は指先まで木目が通っている。
ことが、確認されたとともに、
用材は、飛鳥時代特有のクスノキ材と考えられ、造形表現などからも飛鳥時代の作であることは疑いないということです。



【何故だか「知られざる飛鳥仏」となっている、法起寺・如来像】


プレスリリースでも、
「制作が飛鳥時代にさかのぼるとすれば、木彫の如来立像としては屈指の古像であり、像高1メートルを超える点も他に例をみない。」
と、述べられています。

そんな、「飛鳥時代の屈指の古像」の存在が、どうして、これまで広く知られることがなかったのでしょうか?

なんとも不思議な話です。



【「知られざる飛鳥仏」となったいきさつは?
~かつて発見報道直後に訂正発表、顔部が後補と判明】

その訳は、プレスリリース冒頭に、

「この像は平成5年(1993)に奈良国立博物館の調査で「わが国最古の弥勒如来像」と評価されて一躍脚光を浴びた。
しかし、直後に現在の面相とは異なる姿が古写真で確認され、面相部は補作と訂正されたため、以降は広く公開される機会がなかった。」

と、述べられているいきさつにあるようです。
このことが「知られざる飛鳥仏」となってしまっていた事由らしいのです。

どんな話だったのでしょうか?

この話、当時の新聞記事があることを、ある方から教えていただき、ちょっと関心が沸いてきて調べてみました。
なかなか興味深い、いきさつの話であったことが判ってきました。

ご紹介してみたいと思います。



【1993年、奈良博が最古級飛鳥仏・弥勒如来像と発表
~大発見と新聞各紙が一斉に報道】

平成5年(1993)10月、こんな見出しの記事が、新聞各紙に掲載されました。

「最古級の飛鳥仏発見 奈良法起寺 木造の弥勒如来 保存良好 微笑などに特徴」
(京都新聞 1993.10.19付朝刊)

「日本最古の弥勒如来像 奈良・法起寺に7世紀中ごろの作~奈良国立博物館が発表」
(毎日新聞 1993.10.19付大阪朝刊)

「最古の「弥勒如来」? X線撮影で確認 奈良・斑鳩の法起寺」
(読売新聞 1993.10.19付朝刊)


「飛鳥時代の木彫仏像、日本最古の弥勒如来像作例の大発見」という報道です。

230法隆寺展法起寺:法起寺・如来像発見新聞記事(京都新聞)
京都新聞 1993.10.19付朝刊掲載記事

230法隆寺展法起寺:法起寺・如来像発見新聞記事(毎日新聞)
毎日新聞 1993.10.19付朝刊掲載記事

230法隆寺展法起寺:法起寺・如来像発見新聞記事(読売新聞)
毎日新聞 1993.10.19付朝刊掲載記事

京都新聞の記事のリード文が、コンパクトにまとめられていますのでご紹介します。

「奈良国立博物館は18日、聖徳太子ゆかりの奈良県生駒郡斑鳩町の法起寺(高田良信住職)に伝わる木造の如来立像が、飛鳥時代(6世紀末~7世紀中ごろ)につくられた弥勒如来像と分かった、と発表した。

日本の仏教文化が始まったばかりの飛鳥時代の木彫仏像は、法隆寺の国宝・百済観音像など十数点が残るだけで、関係者らは
「同時代の木彫仏像が確認されるケースはほとんどない」
と驚いており、日本最古級で重文クラスの貴重な発見。

弥勒如来像は、これまで白鳳時代(七世紀後半)が最古とされており、古代仏教美術史、宗教史研究に大きな影響を与えそうだ。」



【X線調査結果、顔立ちなどから飛鳥仏と判定、弥勒如来の最古例との見解】


各社の新聞報道ポイントをまとめると、次のようなものです。

・奈良国立博物館は、法起寺・如来像が、飛鳥時代(7世紀中頃~650年頃)の制作で、日本最古の弥勒如来とみられると発表した。
・顔立ちをはじめとした像の造形表現は、飛鳥時代の制作と思われる。
・後世の模古作という見方もあったが、X線調査の結果、補修クギなどから、中世以降の後補部分はあるものの、主要な体幹部は飛鳥時代の特徴であるクスノキの一木彫像であることが確認された。
・左手の指先を下にして手の甲を見せることから、弥勒如来像と考えられ、「弥勒如来のわが国最古例」と考えられる。

これは、大変な大発見です。

飛鳥時代の木彫の大型像が発見されたというだけでも、超ビックリです。
新聞写真をみると、いかにも飛鳥時代の仏像らしい顔立ちです。
「一見しただけで飛鳥仏という姿かたちの大型像が、どうして、今まで知られることがなかったのだろうか?」
というのが、率直な実感ですが、これまでは鎌倉時代以降の模古作と見られていたということのようです。

かけて加えて、この像が弥勒如来だというのですから、これまた凄い話です。

ただ、弥勒像かどうかの、はっきりした決め手はなかったようです。
両手の印相が、東大寺・弥勒仏像など、弥勒像に見られるものであることや、法起寺塔露盤銘に舒明10年(638)に弥勒像を造ったと記されることなどから、そのように想起されたものではないかと思われます。

230法隆寺展法起寺:東大寺・弥勒像(国宝・平安前期)
東大寺・弥勒如来像(国宝・平安前期)
左手の指先を下にして手の甲を見せる印相となっている


異論もあったようで、新聞記事によると、高田良信住職は「釈迦如来像にあたると推測される」とのコメントを行っています。
もし弥勒如来像だったとすれば、従来最古とされたのが当麻寺・弥勒如来像(天武10年・681)ですから、現存最古例の大発見となるという訳です。

230法隆寺展法起寺:当麻寺・弥勒像(国宝・白鳳時代)
現存の弥勒如来の最古例とされている当麻寺・弥勒仏像
天武10年(681)の制作とされる(国宝・白鳳時代)


この発見発表で、一躍脚光を浴びた法起寺・如来像は、法隆寺の聖徳会館で、12月15日から4日間、一般公開展示される運びとなりました。



【2か月後に、奈良博が衝撃的な訂正発表!
~「顔部は、昭和新補だったと判明」】

ところが、一般公開初日の12月15日、なんと奈良国立博物館から、衝撃の訂正・謝罪発表が行われました。

飛鳥時代の制作とした法起寺・如来像の顔は、
「昭和に造られた新補であったことが判明した」
というものです。

新聞各社は、このような見出しで報じています。

「顔面は昭和に制作」 法起寺の弥勒如来像 首に張り合わせた跡」
(奈良新聞 1993.12.15付朝刊)

「「日本最古」法起寺の弥勒如来 顔面に昭和の補修 奈良国立博物館が謝罪」
(読売新聞 1993.12.15付朝刊)

「“最古”の弥勒如来、顔は昭和製 奈良博物館が異例の訂正~斑鳩の法起寺」
(毎日新聞 1993.15.15付朝刊)


230法隆寺展法起寺:法起寺・如来像奈良博訂正記事(奈良新聞)
奈良新聞 1993.12.15付朝刊掲載記事

230法隆寺展法起寺:法起寺・如来像奈良博訂正記事(読売新聞)
読売新聞 1993.12.15付朝刊掲載記事

230法隆寺展法起寺:法起寺・如来像奈良博訂正記事(毎日新聞記事)
毎日新聞 1993.12.15付朝刊掲載記事

奈良新聞のリード文は、このように報じています。

「奈良国立博物館は14日、10月18日に最古級の飛鳥仏として発表した法起寺(斑鳩町岡本、高田良信住職)の弥勒如来像に関して
「耳から前の顔面部分は昭和になってからそっくり造り替えられたものだった」
と異例の訂正発表を行った。

この仏像の以前の顔を知る文化庁職員の指摘により再調査した結果分かったもので、調査にあたった同博物館は
「今後二度とこういったことが起こらないよう調査活動を慎重に行いたい」
と平身低頭。

仏像が造られた時代に合わせるよう、アルカイックスマイルをたたえた表情に造り替えられた顔相は、現代の学者の目をも誤らせるほどの出来栄えだった。」



【顔部が現在と異なる昭和初期写真の存在が指摘される
~石田茂作著「飛鳥時代寺院址の研究」に掲載】

新聞記事によると、如来像の顔が昭和製だと判明したのは、昭和11年(1936)刊の「飛鳥時代寺院址の研究」(石田茂作著)に、この如来像の写真が掲載されていて、その顔が、明らかに現在の顔とは異なるものであることが、文化庁の若手研究者から指摘があったことによるものでした。

指摘を受けて、奈良博で、再度、肉眼観察とX線で調べた処、顔面は後頭部だけを残して、耳の後ろから切り離し飛鳥仏に似せた顔を漆のようなもので接着したらしいとわかった、ということです。

奈良博のコメントとして、
(註:顔部の補修を)だれが、どういう意図で、いつ行ったのかは、全く不明。
(註:奈良国立)博物館では、
「推測の域を出ないが決して悪意ではなく、寺の関係者か結縁のある人が造り替えられていた顔相を当初の姿に戻そうと飛鳥仏の顔相に造り直させたのでは」
と話している。」
(奈良新聞)
と、報じられています。

「飛鳥時代寺院址の研究」に掲載されていた、昭和11年以前の法起寺如来像の写真は、次の通りです。

230法隆寺展法起寺:「飛鳥時代寺院址の研究」掲載~法起寺・如来像写真

230法隆寺展法起寺:「飛鳥時代寺院址の研究」掲載~法起寺・如来像写真
「飛鳥時代寺院址の研究」に掲載されている法起寺・如来像写真

顔は、誰がみても明らかに違います。

230法隆寺展法起寺:「飛鳥時代寺院址の研究」掲載~法起寺・如来像顔部230法隆寺展法起寺:法起寺・如来像~顔部新補後の写真
(左)「飛鳥時代寺院址の研究」掲載写真、(右)顔部新補後の写真
右手先も新補されたと思われる


古い写真お顔は、時代もかなり下がるのは間違いありません。



【石田茂作氏は、執筆当時「鎌倉以後の擬古作」との見解】


石田茂作氏は、本像について、このように述べて、「鎌倉以後の擬古作である」と論じています。

「像全体の様子は如何にも古朴に見えるもので、・・・・・・・
推古仏のにほひを多分にもっている。
然しその製作年代を飛鳥時代と断ずることは六(ママ)かしく、寧ろ鎌倉以後の擬古作とすべきであろうが、それにしても彫刻史上興味ある資料である。」
(石田茂作著「飛鳥時代寺院址の研究」1936年聖徳太子奉賛会刊)

ご存じの通り、石田茂作氏の「飛鳥時代寺院址の研究」は、古代寺院址研究の定本中の定本と云っても良い著作です。
本書に、古い写真が掲載されていたことに、研究者が気付かなかったというのは、ちょっと「迂闊」と云われても、仕方ないような気がします。



【世の注目度が、一気に萎んでしまった、法起寺・如来像
~その後、展示公開されず】

それにしても、「飛鳥時代らしい顔つき」との発表をした顔貌が、「昭和新補の模古作の顔」であったというのですから、ダメージが大きかったのではないでしょうか。
この訂正・謝罪発表で、脚光を浴びた法起寺・如来像に対する世の注目度は、一気に萎んでしまったようです。

冷静に考えてみると、顔部が昭和の新補だったということをさておけば、
「主要な体躯は飛鳥時代の制作とみられる」
という見解なのですから、貴重な飛鳥時代の木彫如来像であることには変わりはないのですが、この「事件?」以降、本像については、採り上げられたり、展示公開されたりすることは無かったようです。

石田茂作氏のいう鎌倉以後の模古作なのか、飛鳥時代の制作なのかは、その後の議論がされなかった法起寺・如来像ですが、今回の奈良博プレスリリースで、
「主要な体躯は飛鳥時代の制作とみて間違いない」
ことが、ハッキリしたということなのだと思います。



【過去の著作で本像に言及していた、仏像修復・研究家の太田古朴氏】


ところで、この法起寺・如来立像。

石田茂作氏が「飛鳥時代寺院址の研究」で採り上げた他には、言及した人はいなかったのでしょうか?

私のわかる範囲で、本や論考にあたってみたりしてみましたが、本像にふれたものは、なかなか見当たりませんでした。
唯一、太田古朴氏の著作に、この法起寺・如来像にふれた記述を見つけました。
ほんの一行だけなのですが、次の通りです。

太田古朴著「仏像研究三十年」1965年(綜芸社刊)に掲載された「新発見新紹介仏像目録」リストに
弥勒如来木彫 (新納先生) 斑鳩・法起寺   (カッコ内は発見者・発見協力者)
と記されていました。

また、太田古朴著「飛鳥 奈良」1981年(綜芸社刊)に掲載された、「日本の彫刻の主なもの」リストの「飛鳥時代の項」に、
弥勒仏立像 (頭部失) (近年補) 法起寺
と記されていました。

230法隆寺展法起寺:太田古朴著「飛鳥 奈良」「仏像研究三十年」



【飛鳥時代の制作で、頭部は近年の補作とした太田古朴氏
~1993年の奈良博発表・訂正より以前からの見解】

二著の記述からすると、太田古朴氏は、奈良博が調査結果発表を行った1993年以前から、
「本像は、飛鳥時代の制作で、頭部は近年の新補、尊像名は弥勒仏像である。」
と考えていたようです。

太田古朴氏(1914~2000)は、奈良美術院で仏像修理を学び、その後は在野の仏像修復家、仏像研究家として活動した人物です。

230法隆寺展法起寺:太田古朴氏
太田古朴氏

また、ここに名前が出てくる「新納先生」というのは、長らく美術院の総責任者として仏像修理に携わった新納忠之介氏(1869~1954)のことです。

これらの記述からすると、太田古朴氏、新納忠之介氏は、この如来像の頭部が昭和に入ってから飛鳥時代風の模古作に新補されたことを知っていたということになります。
想像を逞しくすると、仏像修復家として、新補に何らかのかかわりを持っていたのかもしれません。
奈良博で本像の発見・訂正発表があった1993年当時、太田古朴氏はまだ79歳で存命でしたので、この時に太田氏に訊ねれば、その事情が判ったのかもしれません。

研究者でも見間違ってしまう程の出来の模古新補ということであれば、美術院レベルの関係者が携わっていてもおかしくないのではという気がしますが・・・・・。


「知られざる飛鳥仏」といえる、法起寺の如来立像。

本像にまつわる、ちょっとややこしくなってしまった発見物語をたどってみました。



【「聖徳太子と法隆寺展」で、初めて法起寺・如来像を観るのが愉しみ】


法起寺の如来立像が俄かに注目を浴びてから、20年近くが経ちました。

振り返ってきたいきさつによるものか、広く公開されることのなかったようなのです。
そして、ようやくというのか、やっとというのか、此度の「聖徳太子と法隆寺展」に出展されることになったという訳です。

展覧会で、眼近に観ることが出来るのが、愉しみです。

如来像のお顔が、「昭和の新補、模古作」であることを、自分の眼で見分けることが出来るのでしょうか?


トピックス~「聖徳太子と法隆寺展」出展仏像余話〈金堂・薬師如来像と奈良博覧会〉 【2021.03.27】


今年、奈良国立博物館と東京国立博物館で、聖徳太子1400年遠忌記念~特別展「聖徳太子と法隆寺」が開催されます。

229法隆寺展薬師:「聖徳太子と法隆寺」チラシ

奈良国立博物館:4月27日~6月20日 開催

東京国立博物館:7月13日~9月05日 開催


奈良博展では、

「明治11年(1878)に、法隆寺から皇室へと献納された「法隆寺献納宝物」が、奈良へまとまって里帰りする」

と、話題になっています。



【展覧会の一番の目玉は、金堂・薬師如来像の出展実現】


やはり、なんといっても、この展覧会の一番の目玉は、

「国宝・薬師如来坐像 (飛鳥白鳳時代)の出展」

でしょう。

229法隆寺展薬師:法隆寺金堂・薬師如来像
法隆寺金堂・薬師如来像(国宝・飛鳥白鳳時代)

薬師如来像は法隆寺金堂の内陣東の間に安置されていますが、金堂内で拝すると安置位置までの距離が結構遠く、また薄暗いので、はっきり観ることが出来ません。

その薬師如来像が、なんと寺外へ出て展覧会へ出展されるというのです。
これまで、無かったことです。
明るい照明の中で、眼近にじっくりとその姿を観ることが出来る得難いチャンスです。
大変な愉しみで、今から、待ち遠しい思いです。



【用明天皇勅願の造像銘がある薬師像~法隆寺再建後の擬古作説が有力】


この薬師如来像、ご存じの通り、光背に造像銘が刻されています。

銘文には、
「用明元年(586)に、用明天皇が病気平癒のために寺と薬師像を誓願したが、天皇は果たせず崩御、託された推古天皇、聖徳太子が遺詔を受けて、推古15年(607)にこれらを完成させた。」
旨が記されています。

かつては、この造像銘に則り、607年頃の製作像とされていましたが、昭和に入ってからは、銘文の文言研究、造形表現の研究などが進められ、現在では、推古年代の制作ではなく、後の模古作、擬古作だと考えられています。
制作年代は、法隆寺の天智9年(670)の火災以降の作とみる説が有力のようですが、それ以前に遡るとする説もあります。



【差し替え訂正された、薬師像写真掲載の展覧会チラシ】


この特別展の展覧会チラシをご覧になってください。

229法隆寺展薬師:展覧会チラシ・修正前229法隆寺展薬師:展覧会チラシ・修正後
法隆寺・薬師如来像写真が掲載された展覧会チラシ

「薬師如来像」の単体写真が使われています。
やはり、大注目の目玉出展ということです。

全く同じチラシ写真を2枚並べさせていただきましたが、左右で、どこかが違うのにお気づきになったでしょうか?
間違い探しのクイズのつもりで、違う処を探してみてください。

そうです。
右下の小さな円の中の文言が違うのです。

229法隆寺展薬師:展覧会チラシ・修正前(寺外初公開)229法隆寺展薬師:展覧会チラシ・修正後(傑作)

左の方は 「寺外初公開」
右の方は 「古代仏像彫刻の傑作」
と記されています。

どうして、文言が違うのでしょうか?

実は、左は昨年(2020)10~11月ごろ作成されたチラシ、右は、その後、12月に訂正されて作成されたチラシなのです。



【正確には「寺外初公開」ではなかった薬師像
~明治8年の奈良博覧会へ出展されたことが・・・・】


特別展「聖徳太子と法隆寺」のツイッター(12月10日)に、次のように書かれていました。

「10/28と11/6のツイートで掲載したチラシ画像の中に訂正がありました。
国宝 薬師如来坐像について、「寺外初公開」と表記されていましたが、明治8年(1875)の第一次奈良博覧会の目録に当該作品とみられる表記がありましたので、訂正させていただきます。」

このチラシを作った方は、
金堂の薬師如来像は、かつて一度も寺の外へ出て展示されたことは無く、「今回寺外初出展」と思い込んでいた処、実は150年弱前の明治8年の「奈良博覧会」に出展されていたことが判明したので訂正した。
ということなのです。

150年も前の博覧会に出たことがあるだけで、所謂、美術館、博物館の展覧会に出展されるのは今回が初めてということなのですから、「寺外初公開」の表記でも、大目に見て良いじゃないか思わないわけではないですが、どなたかからの指摘があったということなのでしょう。



【「奈良博覧会」展示目録にはっきり記される「用明天皇勅願 金銅 薬師如来」】


明治8年(1875)に開催された「(第一次)奈良博覧会」なのですが、ツイッターにあるように、その展示目録が作成されて残されているのです。

ご覧の目録が、「薬師如来像の展示」が記されているページです。

229法隆寺展薬師:第1次奈良博覧会目録
第1次奈良博覧会目録~法隆寺薬師像か記されているページ

右下の方に、
「用明天皇 勅願
金銅 薬師如来     法隆寺
有銘数字ナル故ニ不記載」
と、はっきり書かれています。

229法隆寺展薬師:第1次奈良博覧会目録・薬師掲載箇所
第1次奈良博覧会目録~法隆寺薬師像掲載箇所

これは、間違いなく「金堂東の間の薬師如来像」のことです。

私は、この薬師像が「奈良博覧会」に出たことがあるということを、たまたま知っていましたので、
「やはり、そういうことになるのだろうな!」
と、一人、納得した次第です。



【大仏殿と回廊で開催された「奈良博覧会」
~勅封・正倉院宝物の出陳などで大盛況】

後にも先にも寺外に出たことのない金堂・薬師如来像が出展された「奈良博覧会」というのは、どのような博覧会であったのでしょうか?

「奈良博覧会」は、明治8年(1875)に第1次(第1回)奈良博覧会が開催され、その後、明治27年の第18次奈良博覧会まで、開催されました。
博覧会は、なんと東大寺にて開催され、大仏殿内と回廊が展示会場となっていました。

229法隆寺展薬師:明治14年頃の東大寺大仏殿古写真
奈良博覧会開催当時の東大寺大仏殿~明治14年頃の古写真

博覧会には、社寺や旧家が所蔵する什宝や書画の他に、商工業品、名産品などが出展されています。
そして、特筆すべきことは、勅封正倉院宝物が開封され、多数の宝物が出展されたことです。
正倉院宝物は、第1次から第5次まで、第4次を除いて、4回に亘って出展されており、その後は、出展されることは無くなっています。
第1次の時には、目録によれば、220件、1700点以上の正倉院宝物が出展されていて、これだけの名品が勢揃いして出展されたなどというのは、今では考えられないことです。

229法隆寺展薬師:正倉院宝物(黄熟香~蘭奢待)229法隆寺展薬師:正倉院宝物(黒漆水瓶~漆胡瓶)

229法隆寺展薬師:正倉院宝物(紫檀碁局)229法隆寺展薬師:正倉院宝物(楓蘇芳染螺鈿槽琵琶)
奈良博覧会に出品された正倉院宝物
上段:(左)黄熟香~蘭奢待、(右)黒漆水瓶~漆胡瓶
下段:(左)紫檀碁局、(右)黒漆水瓶~楓蘇芳染螺鈿槽琵琶


この奈良博覧会こそ、戦後、昭和21年(1946)にスタートした、奈良博開催「正倉院展」の元祖と云っても良いものだと思います。

また、法隆寺、東大寺をはじめとした社寺や、個人蔵の古器旧物は、正倉院宝物の数をはるかに倍する膨大な量が陳列されました。
まさに、考えられないような超大規模な古美術展覧会と云って良いものだと思います。

この奈良博覧会、想定以上の大人気、大盛況となったようで、第1次博覧会は、80日間で17万人を超える観客数が記録されています。
まだ、鉄道など無い、明治8年に、これだけの人々が詰めかけたという訳ですから、盛り上がりのほどが伺われます。



【奈良博覧会への大規模な文化財出展をアレンジした町田久成・蜷川式胤】


どういう訳で、これだけ大規模に古器旧物が集められた大規模古美術展が開催されたのでしょうか。

当時、明治初期は、各地で地方博覧会が盛んに開催されていて、奈良博覧会もその一つと云えるものだと思います。
こうした地方博覧会は、殖産興業、地元経済活性化的な目的が強くて、商工業品、工芸品、物産品の展示に重点が置かれるものであったようです。

一方、奈良博覧会が大規模な文化財展観を行う博覧会となった訳には、町田久成、蜷川式胤の果たした役割が、大変大きかったようです。

229法隆寺展薬師:町田久成229法隆寺展薬師:蜷川式胤
(左)町田久成、(右)蜷川式胤

町田、蜷川と云えば、明治5年に、政府としての近代初の文化財調査である近畿東海地方古社時調査(壬申宝物検査)を行った人物です。
この調査の時に、勅封正倉院を開封し、9日間にわたり丹念に宝物調査を実施しているのです。



【奈良の地への博物館新設構想を持っていた町田久成
~奈良博覧会は博物館建設への布石】

町田、蜷川は、国家による文化財保護を進めるために、奈良に博物館を建設し、正倉院宝物や古社寺の宝物などを、新設の博物館で展示する構想を持っていました。
そして、その布石として、奈良博覧会においてこれらの宝物を展示し、博物館建設実現の第一歩としたいと考えたようなのです。

町田久成は、明治15年に開設された、上野の「博物館」の初代館長に就任している人物で、文部官僚として大きな力を持っていました。
こうした町田、蜷川の働きかけにより、正倉院宝物までもが出展されるという、大古美術展覧会的な博覧会の実現に至ったという訳です。



【法隆寺から際立って多くの宝物が博覧会に出品
~出品目録には、ピンとくる品々の名前がズラリと】

もう一つ、奈良博覧会といえば、落とすことが出来ないのは、「法隆寺と奈良博覧会との関わり」の話です。
冒頭にふれた、薬師如来像の出展にも関係する話です。

第1次、第2次の奈良博覧会の時に作成された出品目録が現在も残されているのですが、その目録には、際立って数多くの法隆寺からの宝物出品物が記載されています。

229法隆寺展薬師:第一次奈良博覧会目録
第一次奈良博覧会目録~冒頭ページ

(この目録は、奈良県立図書情報館・まほろばライブラリーに収録されておりNET上で観ることが出来ます。
奈良博覽會物品目録 [明治8年]   奈良博覽會物品目録 [明治9年] )


法隆寺の根本本尊的な薬師如来像まで出品されているのですから、ちょっと驚きです。
その他も、持ち運び易い小型の宝物は、根こそぎ博覧会に運び出されている観があります。

丹念に目録を見ると、このような出品物の記述があるのに気が付きます。

聖徳太子四巻義疏、聖徳太子像 阿佐太子筆
金銅佛四十八体、摩耶夫人肖像、天人三躯、妓楽面、舞楽面

名前をご覧になると、これらが何を指すのかすぐに気づかれたことと思います。
それぞれ、

御物の法華義疏(紙本墨書4巻)、唐本御影(聖徳太子及び二王子像)
東博・法隆寺宝物館にある金銅四十八体仏像、摩耶夫人・天人像、伎楽面・舞楽面

のことに間違いないと思われます。

229法隆寺展薬師:御物・法華義疏229法隆寺展薬師:唐本御影(聖徳太子及び二王子像)
(左)御物・法華義疏、(右)御物・唐本御影(聖徳太子及び二王子像)

229法隆寺展薬師:東博法隆寺宝物館・如来像229法隆寺展薬師:東博法隆寺宝物館・丙寅銘菩薩半跏像
東博法隆寺宝物館(左)如来像、(右)丙寅銘菩薩半跏像

229法隆寺展薬師:東博法隆寺宝物館・摩耶夫人天人像229法隆寺展薬師:東博法隆寺宝物館・伎楽面
東博法隆寺宝物館(左)摩耶夫人天人像、(右)伎楽面

これらの法隆寺の宝物が奈良博覧会に出展された時に撮影されたものだと推測される古写真が、不思議なことにイギリスに残されています。

イギリス王室所有(ロイヤル・コレクション・トラスト保管)の文化財写真です。
英王室のアルバート王子、ジョージ王子の二人が明治14年(1881)に日本に来訪したとき入手した写真の中に、何枚も「奈良博覧会出展時の四十八体仏や伎楽面など」と思われる写真があり、HPに掲載されているのです。

229法隆寺展薬師:奈良博覧会出展時の法隆寺四十八体仏古写真

229法隆寺展薬師:奈良博覧会出展時の法隆寺四十八体仏古写真

229法隆寺展薬師:奈良博覧会出展時の法隆寺伎楽面古写真
奈良博覧会出品時に撮影されたと思われる法隆寺宝物写真
明治14年ごろ撮影~四十八体仏・伎楽面~
イギリス王室所有(ロイヤル・コレクション・トラスト保管)の文化財写真

(「ROYAL COLLECTION TRUST」 HP の NEAR YOUページ を開いて、MAPの位置を日本の奈良に合わせると掲載写真をみることが出来ます。)


【法隆寺の博覧会出品宝物は、一括して皇室への「献納宝物」へ
~アレンジしたのは町田久成?】

どういうことなのか、皆さんお気づきになったことと思います。

そうなのです。
これらの品々は、明治11年(1878)に、法隆寺から皇室に献納された「法隆寺献納宝物」そのものなのです。
「法隆寺献納宝物」は総数332点ですが、そのほとんどは、
「奈良博覧会への出品物が、皇室へ献納された」
という訳です。

法隆寺では、明治維新後の財政困窮を乗り越えるため、千早定朝管主の決断によって宝物を献納し、皇室より1万円の下賜金を得ることになります。

この宝物献納をアレンジしたのが、町田久成であったようです。
町田は、法隆寺からの多数の宝物を奈良博覧会に出品させて、その出品物を丸ごと一括して、皇室への献納宝物とするというストーリーを描いたということなのでしょう。



【博覧会終了後、正倉院宝庫にそのまま保管された献納宝物
~寺に戻ったのは薬師如来像など限られたものだけ】

そういう訳で、博覧会に出展された法隆寺献納宝物は、第2次奈良博覧会終了後も法隆寺に戻されることは無く、献納が決まった後は、正倉院の宝庫に移され保管されたのでした。

ただし、法隆寺の博覧会出品宝物のうち、お寺の方でどうしても必要なもの、ごくわずかは持ち帰られたようです。
冒頭でご紹介した用明天皇勅願薬師如来像の他にも、玉虫厨子、土偶人(五重塔塔本塑像)、持国天・多聞天木像(金堂・四天王像)なども、博覧会に出品されていますが、これらは献納されずに法隆寺に戻されています。

事と次第によっては、薬師如来像も玉虫厨子も献納宝物となっていたことも、あり得たのかもしれません



【正倉院宝物、法隆寺献納宝物を、奈良新設の博物館展示品に
~町田久成のビジョン】

町田久成が、「奈良に博物館を建設する構想」を持っていたことは、先にふれましたが、町田は、その新設博物館において、正倉院宝物や法隆寺献納宝物を展示することを目論んでいたのだと思います。

奈良博覧会への正倉院宝物の陳列や、法隆寺宝物の出品と献納宝物化は、その布石であったと云えるのでしょう。
そう考えれば、献納された法隆寺宝物が、正倉院の宝庫で保管され続けていたことも納得が行く処です。

残念ながら、奈良の地への博物館建設は、早々に実現することは叶いませんでした。
奈良帝国博物館が竣工開館したのは、明治28年(1895)のことでした。



【上野に開設された「博物館」の陳列品となった法隆寺献納宝物】


一方、明治15年(1882)に東京上野に「博物館」が開館することになりました。

229法隆寺展薬師:明治15年に開館した上野の「博物館」
明治15年に開館した上野の「博物館」

正倉院宝庫に保管されていた法隆寺献納宝物は、この時に、上野の博物館に移されることになったのです。
そして、皇室御物を博物館に貸与するという形で、陳列品に加えられることになりました。

上野の博物館の初代の館長には町田久成が就任していますので、法隆寺献納宝物の奈良から東京への移送についても、町田の関与や意向によるものかもしれません。

229法隆寺展薬師:東博平成館前の初代館長・町田久成胸像
東博平成館前に設置された初代館長・町田久成胸像

奈良博覧会や法隆寺献納宝物の話が、ちょっと長くなってしまいました。



【画期的と云える、薬師如来像の展覧会出展の実現】


話を、「聖徳太子と法隆寺展」への薬師如来像の出展の方に戻したいと思います。

これまで、博物館に決して出展されることのなかった「薬師如来像」の展覧会出展が実現したことは、まさに画期的なことだと思います。

金堂中の間の釈迦三尊像に比べると、ちょっと目立たない存在なのかもしれませんが、大変優れた国宝仏像です。
博物館の明るい照明の中で、薬師如来像を眼近にすると、法隆寺の金堂で拝するのとは、違った印象、新たな発見を感じることが出来ることと思います。
法隆寺の金堂では決して観ることのできない、光背背面の造像銘も、直に目にすることが出来るかもしれません。

一見、止利仏師の作と云われても納得してしまいそうな薬師如来像。
「白鳳期の擬古作」ということを、実感することが出来るでしょうか?



【寺外公開未実現なのは金堂・釈迦三尊と夢殿・救世観音だけに
~展覧会出展は叶わぬ夢?】

今回の薬師如来像の博物館出展実現で、未だ法隆寺から寺外に出て、博物館展示されたことのない仏像は、

「金堂・釈迦三尊像」「夢殿・救世観音像」

の二像だけとなったと思います。

(西円堂・薬師如来坐像、上御堂・釈迦三尊像、大講堂・薬師三尊像も、寺外に出たことは無いのかと思いますが、まあこれは別として・・・・・)


釈迦三尊像、救世観音像も、いつの日にか、展覧会で眼近に観ることが出来る時が来るのでしょうか?

これは、叶わぬ夢のような気がしますが・・・・・・・




【追 記】


奈良博覧会と正倉院宝物展観、法隆寺献納宝物に至る経緯などについては、次のような記事が参考になろうかと思います

ご関心のある方は、ご覧ください

奈良県立図書情報館・図書展示「正倉院展と奈良博覧会 〜正倉院宝物公開の歴史〜 」(2018.11)
展示パネル資料

日々是古仏愛好HP・埃まみれの書棚から
明治の文化財保存・保護と、その先駆者~町田久成・蜷川式胤【3/7】

日々是古仏愛好HP
法隆寺献納宝物と「四十八体仏」について【第1回】



こぼれ話~天龍山石窟の発見と石仏流出物語〈その6〉 最終回 【2021.03.06】


7.流出石仏の所蔵先変遷にまつわるエピソード


長々綴ってきた「天龍山石窟の発見と石仏流出物語」も、今回で最終回としたいと思います。

最後に、天龍山石窟流出石仏の所蔵者の変遷、売買などにまつわるエピソードなどを、いくつかご紹介したいと思います。

根津嘉一郎が、昭和3年(1928)に山中商会から46点を一括して購入、所蔵し、その後、昭和12年に欧州6ヶ国と東京帝室博物館に三十数点を寄贈した話は、〈その4〉でご紹介した通りです。

現在、国内の博物館、美術館が所蔵している天龍山石窟石仏は、30点ありますが、その蒐集者、旧蔵者については、前回〈その5〉の一覧表に付記させていただきました。



【天龍山石窟「如来倚像」(重文)が、東博所蔵となるまでのエピソード】


東京国立博物館蔵となっている首のない「如来倚像」が、博物館の所蔵に至るまでのいきさつには、ちょっと面白いエピソードがあります。

228天龍山石窟⑥:東博蔵・如来倚像(天龍山第21窟?)228天龍山石窟⑥:東博蔵・如来倚像(天龍山第21窟?)
東京国立博物館東洋館に展示されている天龍山石窟・如来倚像
(重文・唐8C~第21窟?)


この首のない「如来倚像」は、天龍山石窟遺作中秀抜の一作として知られる素晴らしい出来の像で、重要文化財に指定されています。

8世紀、唐文化成熟期の制作で、元あった窟ははっきりしませんが、第21窟にあったのではないかと云われています。



【「わかもと」長尾欽也・よね夫妻のコレクションであった「如来倚像」
~戦後、コレクションは散逸】

この「如来倚像」は、長らく、長尾欽也・よね夫妻の所蔵品でした。

228天龍山石窟⑥:長尾欽也・よね夫妻
長尾欽也・よね夫妻

長尾欽也・よね夫妻は、昭和初年から戦前にかけ、栄養薬「若素(わかもと)」で大いに財を成した人物で、また美術品の大コレクターとしても知られています。

数々の名品を所蔵していました。
現在国宝に指定されている、奈良国立博物館蔵「薬師如来坐像」、MOA美術館蔵「野々村仁清作・色絵藤花文茶壺」、福山市(ふくやま美術館)所蔵・刀剣「太閤左文字」「江雪左文字」なども、長尾家の所蔵品でした。

228天龍山石窟⑥:奈良博蔵・薬師如来像(国宝)~京都若王子社伝来228天龍山石窟⑥:MOA美術館蔵・野々村仁清作・色絵藤花文茶壺(国宝)
長尾氏のコレクションであった「国宝」作品
(左)奈良博蔵・薬師如来像(平安前期)、(右)MOA美術館蔵・仁清作色絵藤花文茶壺(江戸)


戦後になって事業に失敗し、これらのコレクションは売却され散逸しました。


本像が、東京国立博物館所蔵に至るいきさつについては、古美術商「繭山龍泉堂」の社主であった繭山順吉氏が、自著「美術商のよろこび」(1985年刊・非売品)に思い出話を綴っています。

228天龍山石窟⑥:「美術商のよろこび」長尾氏旧蔵・如来倚像についてのエピソード掲載ページ
繭山順吉著「美術商のよろこび」
長尾氏旧蔵「如来倚像」を採り上げたページ


興味深い話なので、ご紹介したいと思います。



【山中商会「支那朝鮮古美術展観」(1934)への出展像を、長尾氏が購入】


長尾氏が「如来倚像」を手に入れたのは、昭和9年(1934)のことです。

山中商会が主催し、上野の日本美術協会で開かれた「支那朝鮮古美術展観」に、本像を含めた天龍山石窟石仏が陳列されたのです。

228天龍山石窟⑥:「支那朝鮮古美術展観」での石仏展示風景(「ハウス・オブ・ヤマナカ」掲載写真)
「支那朝鮮古美術展観」での石仏展示風景(「ハウス・オブ・ヤマナカ」掲載写真)

展観目録を見ると、17点の天龍山石窟石仏が出展され、本像は
「目録番号377:唐 砂巖石 観音坐像 天龍山」
として掲載されています。

228天龍山石窟⑥:「支那朝鮮古美術展観」目録

228天龍山石窟⑥:「支那朝鮮古美術展観」目録掲載の天龍山石窟石仏
「支那朝鮮古美術展観」目録と天龍山石窟石仏写真掲載ページ

228天龍山石窟⑥:「支那朝鮮古美術展観」目録掲載の如来倚像
「支那朝鮮古美術展観」目録に掲載されている如来倚像

現在は「如来倚像」とされていますが、目録には何故だか「観音坐像」として掲載されていました。

長尾氏は、本像を購入し、鎌倉に新築したばかりの「湖扇荘」という個人美術館に陳列したそうです。



【繭山龍泉堂から、ボストン美術館に売却されるはずだった「如来倚像」(昭和30年代)


戦後、昭和30年代のことだと思うのですが、長尾コレクションが売却される流れの中で、「如来倚像」は、古美術商・荻原安之助氏の手を経て、繭山龍泉堂・繭山順吉氏の所有となりました。

繭山氏は、この石仏像をボストン美術館に売却するということで、話が進めていたそうです。

「その頃,ボストン美術館の東洋部長、富田幸次郎氏が来店され、その石仏を是非、ボストンで買いたい、と云われた。
・・・・・
美術商として、ボストン美術館が欲しいというものを持っていることは、大変うれしいことであり、ボストン美術館にものを納めたということは、大変な光栄と思われたのである。
私は、かつてボストン美術館にものを買ってもらったことがない。
だから、何とかこの石仏を納めて縁を結びたいと心で思った。」

と、語られています。

228天龍山石窟⑥:繭山順吉氏228天龍山石窟⑥:富田幸次郎氏
(左)繭山順吉氏、(右)富田幸次郎氏



【「重要美術品」を事由に、輸出許可が下りなかった「如来倚像」
~東京国立博物館の買い上げに】

本像は、昭和9年(1934)に「重要美術品」の認定を受けていましたが、繭山氏は天龍山石窟のものは日本に何点もあるので、簡単に輸出の許可がおりるものとの心積りで、文化財保護委員会の許可を得るために正式の手続きをしたそうです。

ところが、このボストン美術館への売却に、国から待ったがかかりました。
228天龍山石窟⑥:和辻哲郎氏
和辻哲郎氏


「或る日、有名な和辻哲郎先生を団長に、委員会の人たちが数名、店へ来られた。
そして、この石仏をご覧になった。
結論としては、和辻先生はじめ他の委員たちは、これは外国に売るべきではない、とされた。」

といういきさつで、ボストン美術館に渡ることなく、東京国立博物館が本像を買い上げることとなったということです。

そして、本像は昭和33年(1958)に重要文化財に指定されて、東京国立博物館の所蔵になり、現在に至っているという訳です。



【「吉備大臣入唐絵詞」(ボストン美術館蔵)海外流出事件(1933)を機に、制定された「重要美術品」認定】


この「如来倚像」が認定されていた「重要美術品」というのは、昭和8年(1933)に制定された「重要美術品等ノ保存ニ関スル法律」により「海外輸出するには文部大臣の許可が必要とする」と認定された文化財のことです。

昭和25年(1950)時点で、約8200件が重要美術品に認定されていました。

ご存じの通り、この法律は、日本にあった「吉備大臣入唐絵詞」をボストン美術館が購入していたことが昭和8年(1933)に判明し、超名品文化財の海外流出事件として国内で大騒ぎとなったことを契機に、文化財の海外流出を防ぐため、急遽制定されたものです。

228天龍山石窟⑥:吉備大臣入唐絵詞
ボストン美術館が購入した「吉備大臣入唐絵詞」



【因縁話のような「重要美術品」と「富田幸次郎氏」との関わり】


この「吉備大臣入唐絵詞」を購入したのが、ボストン美術館東洋部長、富田幸次郎氏でした。
富田氏は、この事件で、一時は「国賊呼ばわり」されたと云います。

その富田氏が購入しようとした天龍山石窟「如来倚像」の海外流出を、富田氏が絡んだ出来事により制定された「重要美術品」の法律によって、国が阻止したということになります。

何やら、意趣返しというか、因縁話のようなものを感じてしまうエピソードです。



【2008年、NY・クリスティーズオークションに登場した天龍山石窟・石仏首
~第10窟西壁、如来坐像の頭部】

近年の話題を、一つご紹介します。

2008年には、ニューヨークのクリスティーズのオークションに天龍山石窟・石仏首が出品されました。
この石仏首のオークション出品、競落の顛末については、朽木ゆり子氏著「ハウス・オブ・ヤマナカ」に記されています。

228天龍山石窟⑥:2008年オークションに出品された天龍山石窟第10窟西壁、如来坐像頭部
2008年オークションに出品された天龍山石窟第10窟西壁、如来坐像頭部

出品された石仏首は、天龍山石窟第10窟西壁、如来坐像の頭部でした。
シカゴ大学「Tianlongshan CAVES PROJECT」サイトにも、10窟の像として、「Private/Unknown」とされて掲載されています。

228天龍山石窟⑥:盗鑿前の第10窟西壁(「天龍山石窟」掲載写真)

228天龍山石窟⑥:現在の第10窟西壁
(上)盗鑿前の第10窟西壁(外村大治郎著「天龍山石窟」掲載写真)
(下)現在の第10窟西壁


朽木氏によれば、
この頭部は、多分1930年代の後半に山中商会のアメリカ店に運ばれたもので、その後、ウォルター・バーレイス夫妻のコレクションに入ったものだそうです。
バーレイス夫妻の遺族が、クリスティーズの競売に出したものだと思われます。

中国では、外国にある自国の美術品を買い集める動きが活発になっているさなかで、

「この天龍山石窟の如来座像頭部が、ニューヨークで競売に出るということは競売前から中国でも話題になっており、山西省のコレクターがこの頭部を落札して、政府に寄付するつもりらしいという情報も伝わってきていた。
そして、政府はそれを天龍山第10窟にある如来像の胴体の上に戻す。
つまりこれまで欠けていた頭が戻って、如来座像が完璧なものになるーーーというのである。
胴体から取り外され、80年近く外国をさまよっていた仏の頭が、ついに元の石窟に戻ってくるというのは確かに大きなニュースだった。」
(「ハウス・オブ・ヤマナカ」)

ということであったようです。



【中国に戻った石仏首~80万ドル超の高額で落札】


競売の評価額は20~30万ドルということだったのですが、どんどんと値が競り上がり、ついに86万6500ドルという高額での落札となりました。
(当時のドル円相場で、約9000万円になります)

果たして、落札者は、予想通りというか、山西省のコレクターだったそうです。

中国に戻った石仏首ですが、

「この頭部はまだ天龍山の第10窟に戻されてはいない。
石窟に残されている胴体部分の風化がひどく、上に頭を載せることはできないし、また石窟では保管状態も保証できないというのがその理由だ。
博物館に寄附する話が進んでいるようだ。」
(「ハウス・オブ・ヤマナカ」)

ということだそうです。



【今年、「日本から中国へ、天龍山石窟の石仏首帰還」のホットニュースが(2021年2月)


そろそろ天龍山石仏の所蔵先変遷のエピソードも終わりにしようかと思っていた処ですが、こんなホットニュースが飛び込んできました。

NETのニュースに、このような見出しの記事が掲載されていたのです。

「海外流失の石仏首が日本から「帰国」、約100年ぶりに祖国に戻る―中国」
2021年2月12日付 @niftyニュース  Record China

この石仏首というのは、天龍山石窟流出石仏のことでした。

228天龍山石窟⑥:中国に帰還した天龍山石窟第8窟北壁主尊仏首228天龍山石窟⑥:中国に帰還した天龍山石窟第8窟北壁主尊仏首
中国に帰還した天龍山石窟第8窟北壁主尊仏首

仏首は、第8窟北壁の主尊の首であるというのです。。

228天龍山石窟⑥:天龍山石窟第8窟
天龍山石窟第8窟



【オークション出品情報から、交渉を経て中国へ帰還の運びに
~第8窟北壁主尊仏首に間違いないことを確認】


日本から中国に帰還することになった経緯について、記事はこのように報じています。

「昨年9月に日本のオークション会社が「天龍山石仏頭像」のオークションを行うとの情報を国家文物局が察知し、鑑定の結果1924年前後に盗まれて海外に持ち去られた天龍山石窟第8窟北壁主尊仏首であることを確認した上で、オークション会社にオークションの中止を求めたとした。

228天龍山石窟⑥:盗鑿前の天龍山石窟第8窟北壁(「天龍山石窟」掲載写真)
盗鑿前の天龍山石窟第8窟北壁(外村大治郎著「天龍山石窟」掲載写真)

そして、このオークション会社の在日中国人会長を通じて日本人の石仏首所有者と意思疎通を図り、協議の上で石仏首を中国側に寄贈することが決定したと紹介。

昨年11月17日に東京の中国大使館で引き渡し式が行われ、その後日本の文化庁から文化財の出国許可を取得し、12月12日に北京へと運搬されてついにおよそ100年ぶりに祖国に戻ってきたと伝えた。」

日本人の所蔵となっていた天龍山石窟石仏首が、オークションに出されることになり、この情報を得た中国文物局が、オークション会社を通じて中国へ帰還させるべく交渉し、中国側に寄贈する形で中国に戻されたというのです。



【中国国内で大きく報道された石仏首の帰還~北京魯迅博物館に展示公開】


この石仏首の中国へに帰還は、2月12日の春節に合わせて、発表されました。
国家文物局が推進している、「海外に流失した文化財の祖国帰還プロジェクト」の、ちょうど100点目になり、このタイミングでの発表となったということです。
帰還石仏首は、北京の魯迅博物館で開催される「天龍山洞窟の国宝の返還とデジタル復元特別展」(2/12~3/14)で、展示公開されたいうことです。

228天龍山石窟⑥:北京魯迅博物館での公開展示ポスター228天龍山石窟⑥:北京魯迅博物館に展示される第8窟北壁主尊仏首
北京魯迅博物館での公開展示ポスターと展示される第8窟北壁主尊仏首

このニュース、日本の新聞各紙等では報道されていないようなのですが、中国国内では、結構大きく採り上げられているようです。
NET検索すると、この石仏首の帰還を大きく報じる、中国語のニュース記事が数多くりました。
記事には、帰還した石仏首の写真をはじめ、盗鑿前の第8窟北壁の古写真、盗鑿され首が剥ぎ取られた現在の第8窟の写真などが、いくつも掲載されていました。

228天龍山石窟⑥:盗鑿前の天龍山石窟第8窟北壁写真228天龍山石窟⑥:現在の天龍山石窟第8窟北壁
盗鑿前の天龍山石窟第8窟北壁と現状写真



【世に広く知られることなく所蔵されていた石仏首
~まだまだ知られざる天龍山石窟流出石仏が存在?】

ところで、この石仏首は、山中定次郎「天龍山石仏集」や山中商会「支那古陶金石展観目録」、「支那朝鮮古美術展観目録」にも見当たりません。
また、シカゴ大学「Tianlongshan CAVES PROJECT」サイト掲載の像、163点の中にも、見当たりません。

しかし、天龍山石窟第8窟北壁主尊の仏首であることは、間違いないようです。
報道によると、遺されている古写真の画像と比較して、仏の首の襞の痕跡、頬の三角形の風化痕が一致するほか、欠けていた鼻先の補修跡がみられることから、当該像と確定されたということです。

228天龍山石窟⑥:第8窟北壁主尊仏首側面~頬の三角形の風化痕が盗鑿前写真と一致する
第8窟北壁主尊仏首側面
頬の三角形の風化痕が盗鑿前写真と一致する


きっと、日本の個人コレクションとして、世に広く知られることなく、所蔵されていたのではないでしょうか。

シカゴ大学の「天龍山石窟プロジェクト」サイトに掲載されているもので、流出石仏がすべて網羅されているということではないようです。
まだまだ、知られざる天龍山石窟の流出石仏が、個人所蔵などの形でいくつも残されているのかもしれません。

中国が大きく発展成長し、国力が強くなってきている中で、貴重な流出文化財の中国への帰還への動きは、益々盛り上がっていくことと思われます。
ほとんどの石仏首などが、無残にも海外流出してしまった天龍山石窟石仏ですが、これからも、折々、中国への帰還が果たされていくことになるのでしょう。




8. お わ り に


6回に亘って連載してきた「天龍山石窟の発見と石仏流出物語」も、これでおしまいです。

ちょっと長い話になってしまいましたが、天龍山石窟発見からの歴史を振り返ってみると、次のような流れがあることが判りました。

*知られざる仏跡であった天龍山石窟は、関野貞が大正7年(1918)に発見したものであること。

*当時、「世界への天龍山石窟の発見、紹介」は、日本人の手によってなされるべきという時代的気運が、国内で盛り上がっていったこと。

*こうしたなか写真集「天龍山石窟」(1922) の発刊等で、その存在が世に知られ、天龍山石窟の徹底的な盗鑿の一つの大きな契機となるという、皮肉な結果をもたらしたこと。

*これらの石仏の海外流出には、世界的古美術商「山中商会」が大きくかかわり、1930~30年代に、日本、アメリカを中心に売り捌かれたとみられること。

*現在の天龍山石窟流出石仏の所蔵状況は、シカゴ大学の調査プロジェクトにより163点が明らかになっており、その所蔵先などはNETサイトに公開されていること。

*流出石仏の所蔵先の変遷には、いくつかの興味深いエピソードがあり、近年ではオークションに出品された流出石仏が、中国への帰還を果たすという動きが盛り上がってきていること。

などと云って良いのでしょうか。


天龍山石窟の発見から石仏流出の歴史、エピソードなどは、私もこの話をご紹介してみようと思うまでは良く知らなかったのですが、いろんな資料を調べてみればみるほどに興味津々となり、随分のめり込んでいってしまいました。
私にとっては、初めて知った話が沢山あって、結構刺激的なものがありました。

かなり細かい話になってしまいました。
お愉しみいただけたかどうか判りませんが、お付き合いいただき有難うございました。


こぼれ話~天龍山石窟の発見と石仏流出物語〈その5〉 【2021.03.06】


6.天龍山石窟流出石仏の所蔵先と原位置復元の調査研究


天龍山石窟の石仏は、そのほとんどが盗鑿され海外流失したわけですが、どれぐらいの数の石仏が流出し、現在は、何処に所蔵されているのでしょうか?


【なかなか難しい、流出石仏の追跡トレース】


海外流出した石仏は100点以上とも、200点以上とも云われているようなのです。

ただ、世界中に散逸した流出石仏を追跡して調査し、現在の所蔵先を特定していくというのは、並大抵のことではないことは容易に想像がつきます。
博物館や美術館の所蔵となっているものは、丹念にトレースしていけば、把握することは可能なのでしょうが、相当数あるコレクターの個人所蔵となっているものの存在を把握するのは、相当困難な事であろうかと思われます。

そして、その流出石仏が、天龍山石窟のどの窟のどの尊像のものであったかを特定するという復元的調査というのは、盗鑿前の古写真資料などが限られたものであるだけに、ますます難しいということになるのでしょう。



【第二次大戦後、進められてきた流出石仏の把握調査と原位置復元研究】


第二次大戦後、世界各国に所蔵されている天龍山石窟石仏像について把握調査して、原位置の復元を試みるとともに、編年するという研究がいくつかなされているようです。

神谷麻里子氏の論考「天龍山石窟の研究~研究史と問題点」からつまみ食いでご紹介すると、次のようなものがあるようです。

1965年には、シカゴ大学のHarry Vanderstappen氏、Marylin Rhie氏が 「The Sculpture of T'ien Lung Shan: Reconstruction and Dating」 という論文を発表しています。

この研究は、
「流失した諸像を集め、その所在を推定し、石窟の復元を試みた本格的論考で、天龍山石窟研究を大きく前進させた。」
というものです。

英語が苦手な私は、どんな内容なのか、見てみたことがありませんが、その後の天龍山石窟石仏の編年研究などに、大きく寄与したものだそうです。



【日本人の現地調査実施は、日中国交回復後の1980年代から】


戦後、わが国で、天龍山石窟の現状調査や石仏の復元的研究がなされたのは、1980年代に入ってからのことでした。
日本と中国の国交が回復正常化したのは、1972年(昭和47年)のこと。
文化交流も儘ならぬなか、天龍山石窟の現地調査など叶わぬことだったのでしょう。

戦後、日本人が天龍山石窟を訪れることが出来たのは、1980年代のことです。
1981年(昭和56年)には、筑波大学の訪中団が6月に、江上波夫氏を団長とする訪中団が8月に、天龍山石窟を訪問調査するなどしています。

筑波大学訪中団の林良一氏、鈴木潔氏は、天龍山石窟の調査結果を、仏教芸術141号に 「天竜山石窟の現状」(1982) と題する調査報告論文を発表し、その中で、海外流出した多数の石仏の原位置復元調査研究も行っています。

論文には、
「各窟の現状と、流出石仏の原位置推定の一覧表」
が掲載されています。

227天龍山石窟⑤:「天竜山石窟の現状」所載一覧表の一部
論文「天竜山石窟の現状」所載一覧表の一部
各窟別の造立尊像名と、流出石仏の復元推定位置・所蔵先名が記載されている
グリーン色に上塗りしたものが流出像と、その所蔵先


一覧表には、各窟の現状調査による当初の造像尊像一覧と、海外流出した石仏の推定原位置が細かく掲載されています。
原位置が掲載されている流出石仏数は100点弱です。
多くは各国の博物館等の所蔵像ですが、旧山中商会などとして、現所蔵先が明示されていないものも20点近くありました。



【流出石仏の追跡調査に情熱を傾けた、在野の田村節子さん】


ここで、天龍山石窟の流出石仏の追跡調査と、復元位置確認に情熱を傾けた、在野の人物を、ご紹介しておきたいと思います。

田村節子さんという方です。
田村節子さんは、「花柳流師匠、花柳駒」という名の方が有名で、舞踏家として活躍していた方です。
また俳優、田村高広氏(1928~2006)の夫人であるという人です。

田村節子氏は、1981年に江上波夫氏を団長とする訪中団に、「東アジアの古代文化を考える会」の一員として参加、偶然にも、天龍山石窟見学が許されました。
この時、あまりにも無残に盗鑿され削り取られた石窟内の惨状を目のあたりにして、悲痛な思いを抱いたそうです。
また現地で、「この犯人は日本人である」という話を聞かされ、強く心締め付けられたと云います。
無残な石窟を前に、俄然、流出した石仏の行方を追ってみたいとの思いに駆られたそうです。

そして帰国後、
「流出石仏を徹底的にトレースして、その調査結果だけでも中国側に提供したい。」
と、一念発起。
大変な労苦を重ねた復元調査の成果を、中国に引き渡したのでした。



【マスコミも、田村氏の取り組みを採り上げ紹介】


田村氏の情熱あふれる取り組みは、マスコミでも採り上げられる処となり、次のような記事が掲載されています。

「日本の略奪 私が償い 田村高広氏夫人
荒廃の中国・天竜山石窟 復元に仏像の所在・資料 渡す」
(朝日新聞 1982年7月12日付朝刊)

「石仏供養  天竜山石窟の再現に情熱を燃やす 花柳駒さん」
(季刊「銀花」52号 1982年12月刊)

227天龍山石窟⑤:田村節子氏流出仏追跡記事~朝日新聞1982.7.2付
朝日新聞記事 1982年7月12日付朝刊

227天龍山石窟⑤:田村節子氏流出仏追跡記事~季刊銀花52号
季刊銀花52号掲載記事の一部 1982年12月刊

記事には、このように記されています。

「天龍山石窟の惨状を目のあたりにした東京の女流舞踏家が「日本人としての罪のつぐないに・・・」と四散した仏像の所在や資料写真を集め、6月下旬、石窟の復元を進めている中国側に引き渡した。」(朝日新聞)

(註:天龍山石窟訪問から)帰国した駒さんは、さっそくそれらの(註:流出石仏を所蔵する)美術館を訪ねた。
削り取られた仏頭は、何事もなかったように静かにほほえんでそこにあった。
失われた仏との出会い。
復元しようにも破壊前の状態を知る資料が全くない、という中国側の説明が思い出される。
蒸発仏の行方を探してみようーーー駒さんのこころは決まった。」(季刊銀花)

田村氏は、本来の舞踏家としての活動をさておいて、もっぱら流出石仏の追跡、復元照合に情熱を注ぎ、のめり込んでいくようになりました。

戦前の論文や写真資料に徹底的にあたり、自身が天龍山で撮影した膨大な写真と照合すると共に、日本中の美術館、美術商、個人のコレクターを訪ね、流出像を見つけ出して、原位置の復元照合に努めたそうです。
また、海外の美術館所蔵の流出石仏についても、夫、高広氏の協力も得て調査に努めました。

こうした取り組みの結果、
「国内では(註:天龍山石窟のものとされる)49点の仏像を調べたが、うち確かに天竜山のものと確認されたのは30点。
10点は明らかに別のものと判明した。
・・・・・・
国外では約20点、失われた仏像の所在を突き止めた。」(季刊銀花)
ということでした。

これらの調査成果の資料を、中国再訪時に先方に提供したという訳です。



【専門的研究成果が、研究誌「仏教芸術」に論文掲載されるまでに‥‥】


こうした田村節子氏の所在調査、復元照合研究への取り組みは、研究者でも何でもないキャリアでは考えられないほど、専門的で深く打ち込んだものでした。
中国彫刻史研究の権威、松原三郎氏の指導もあったようです。
1982年には、夫君と共に、二度目の天龍山石窟訪問を果たし、戦後初めて外国人が足を踏み入れたという第16窟、第17窟に登攀し、窟内調査を果たしています。

227天龍山石窟⑤:登攀梯子がかけられた第16・17窟(仏教芸術145号所載写真)227天龍山石窟⑤:第16窟に登攀した田村氏(仏教芸術145号所載写真)
田村氏が1982年、第16・17窟に梯子をかけ登攀したときの写真
仏教芸術145号所載写真


そして、私がビックリしたのは、田村氏の調査報告論文が、研究誌「仏教芸術」に、なんと3本も掲載されていたことです。

「天竜山石窟第十六窟・第十七窟について」 仏教芸術145号 1982.11
「響堂山石窟の現状」 仏教芸術153号 1984.03
「上海博物館蔵・隋代「銅仏像」について」 仏教芸術159号 1985.04

というものです。

読んでみると、いずれも、在野の方が執筆した論文とは想像もできない専門的な研究論文です。
このようなキャリアの方でも、本気になればここまで専門研究ができるのだと、本当に驚いた次第です。



【中国でも活発に進められている、天龍山石窟研究】


近年、中国においても天龍山石窟についての研究が、活発に進められているようです。
研究解説書も、いくつも発刊されているようです。

2004年には、
「天龍山石窟 流失海外石刻造像研究」 孫迪著 外文出版社刊
という本が、出版されています。

227天龍山石窟⑤:「天龍山石窟 流失海外石刻造像研究」

中国語の本だということで、私は未見なのですが、これまでの研究成果を踏まえ、天龍山石窟の復元を試みた研究書だということです。



【天龍山石窟流出石仏の全貌が、一目でわかるシカゴ大学のNETサイト
~「Tianlongshan CAVES PROJECT」】

現在、天龍山石窟流出石仏の世界各国での所蔵先、流出前の当初所在窟、原位置などを最も詳しく知ることが出来るのは、NET上に公開されている次のサイトだと思います。

「Tianlongshan CAVES PROJECT」 (天龍山石窟プロジェクト)

という、ホームページです。

227天龍山石窟⑤:「Tianlongshan CAVES PROJECT」サイトのトップページ
「Tianlongshan CAVES PROJECT」サイトのトップページ

シカゴ大学のCenter for the Art of East Asia (東アジア芸術センター)の天龍山石窟石仏の調査研究結果を掲載したサイトです。

このサイトには、現在確認できている天龍山石窟から流出した石仏(仏首をはじめ断片も含む)、163点のすべての画像が掲載されています。
そして、この163点が、尊格別、原所在窟別、時代別、所蔵先別などで検索表示され、画像で見ることが出来るのです。
各窟別の現況写真、盗鑿前の石仏が所在したときの古写真なども豊富に掲載されています。

よくぞここまで調査したものだと、感嘆の声をあげてしまう凄いサイトです。
是非一度、ご覧になってみてください。

シカゴ大学東アジア芸術センターでは、2013年に、天龍山石窟研究とデジタルイメージングを推進するために「天龍山石窟プロジェクト」をスタートさせ、本サイトを作成することになったとものと、HPに記載されていました。



【サイトには、163点の流出石仏が掲載~世界各国での所蔵状況は?】


本サイトに掲載されている天龍山石窟の流出石仏は、全部で163点です。
よくぞ、ここまで調べられたものだと思います。
博物館、美術館等の機関が所蔵しているものはこれで全てなのでしょうが、個人蔵などの流出石仏がすべてカバーされているのかどうかは判りません。

世界各国での所蔵状況は、どうなっているのでしょうか。
サイトの掲載データをカウントして国別所蔵点数の一覧表を作ってみると、次のようになりました。

227天龍山石窟⑤:天龍山石窟流出石仏 国別所蔵点数一覧

「本表の詳細な一覧表」~すべての所蔵先と、所蔵石仏の部位別件数を掲載したもの~も作ってみましたので、ご関心のある方はご覧ください。
⇒こちらをクリック 【天龍山流出石仏・所蔵先詳細一覧表】

ご覧の通り、日本とアメリカの所蔵件数が、圧倒的に多くなっているのが、目を惹きます。
山中商会の取り扱ったものの売却先が、日本とアメリカが中心であったことによるのでしょうか。

全部で163点のうち、43点が個人所蔵又は不明となっていますが、その国別内訳はわかりません。
個人所蔵のものには、日本の所蔵者のものが、結構あるのかもしれません。



【日本の博物館等での所蔵状況は】


ご参考までに、日本の博物館、美術館の所蔵先とその旧所蔵者などは、ご覧の通りです。

227天龍山石窟⑤:日本の博物館等所蔵の天龍山石窟石仏一覧


今回は、天龍山石窟流出石仏を追跡して現在の所蔵先を把握調査する話、流出前の原所在位置の復元研究についての話などを、紹介させていただきました。


こぼれ話~天龍山石窟の発見と石仏流出物語〈その4〉 【2021.02.27】


5.天龍山石窟の盗鑿、石仏海外流出と山中商会


【徹底的に盗鑿され、無残な姿になった天龍山石窟】


天龍山石窟の石仏像は、徹底的な盗鑿に遭い、日本と欧米に流出してしまいました。

21ある石窟の石仏のほとんどが被害に遭っており、ことに石仏の首、即ち仏頭は悉く削り取られ、見るも無残な姿になっています。

226天龍山石窟④:盗鑿された現在の天龍山石窟(第18窟)

226天龍山石窟④:盗鑿された現在の天龍山石窟(第20窟)

226天龍山石窟④:盗鑿された現在の天龍山石窟(第21窟)
盗鑿された現在の天龍山石窟の有様
(上段)第18窟、(中段)第20窟、(下段)第21窟


こうした石窟の盗鑿は、1923年から24年(大正12~13年)頃にかけて、一番大規模に行われたと見られています。

この頃、1920年代から30年代は、中国の混乱期に乗じ、中国文化財の大量の海外流出が起こった時期でした。
石窟美術もそのターゲットとされ、なかでも目を覆うばかりの破壊を蒙ったのが、龍門石窟と天龍山石窟でした。

関野貞の天龍山石窟発見の時期が、中国文化財の略奪的な大量海外流失のタイミングに遭遇したことは、ある意味不幸であったとも云えるのかもしれません。



【写真集「天龍山石窟」の発刊(1922)が、石仏盗鑿の一つの契機に】


関野の発見まで、全くその存在を知られていなかった天龍山石窟であったのですが、
「天龍山石窟を日本人研究者が発見したという事実を、内外に広く知らしめたい。」
という機運が大きく盛り上がりました。

そして、豪華写真集「天龍山石窟」が1922年(大正11)に刊行され、美麗な石窟彫刻の存在が、国内のみならず欧米にも広く知れ渡るようになったことは、前回ご紹介した通りです。
このことが、また石仏盗鑿の大きな契機の一つになってしまったのでした。

226天龍山石窟④:「天龍山石窟」(1922年刊)
写真集「天龍山石窟」(1922年刊)

写真集「天龍山石窟」の刊行が、未知の天龍山石窟の存在を世に知らしめ、凄まじいまでの石仏盗鑿の引き金となってしまうという、何とも皮肉で、割り切れない結果を招くことになってしまったのかもしれません。

関野貞自身も、このように語っています。

(註:自身が天龍山石窟を発見して後)忽ち世の注意を惹き内外の学者の往訪者益多く、石窟に施されし彫刻の美に驚殺され、之を讃仰歎美するの声は愈々高くなった。

無知の土民これを奇貨とし、其の佛菩薩の頭部を破壊し去りて、之を外人に售(う)るの悪習を生じ、石窟内外幾百の佛頭は忽ちにして烏有に帰するに至った。」
(山中定次郎「天龍山石仏集」(1928)の関野貞執筆序文)



【多くの天龍山石仏を日本、欧米にもたらした、世界的古美術商「山中商会」】


この盗鑿された天龍山石仏を、日本、欧米に数多くもたらしたのは、「世界的古美術商・山中商会」でした。

現在、百数十点の天龍山石窟石仏が、日本、欧米の博物館などに所蔵されていますが、その多くは山中商会の手を経て、コレクターに渡ったものと云われています。

古美術商「山中商会」の名は、よくご存じのことと思います。
東洋美術を扱う世界的古美術商として、明治30年代には、早くもニューヨーク・ボストン・ロンドン・シカゴ・北京などに支店を置くなど、明治年間から昭和初期戦前まで隆盛を極めました。

226天龍山石窟④:山中商会・ニューヨーク支店(外観)

226天龍山石窟④:山中商会・ニューヨーク支店(店内)
山中商会・ニューヨーク支店~外観と店内
「ハウス・オブ・ヤマナカ」掲載写真


中国美術を最も得意とし、中国文物の取り扱いでは他の追随を許しませんでした。
そういった意味では、中国古美術品の海外流出にもっとも大きな役割を果たした美術商ということになるのでしょう。
山中商会は、興隆の立役者であった山中定次郎の死後(1936・S11)、日中戦争の泥沼化、日米開戦などにより海外資産を失うこととなり、戦後は中国からの文物将来の道も閉ざされ衰微の途をたどることとなりました。

226天龍山石窟④:山中定次郎
山中定次郎(1866~1936)


(山中商会の歴史、山中定次郎の業績などについては、朽木ゆり子氏著「ハウス・オブ・ヤマナカ~東洋の至宝を欧米に売った美術商」(2011年新潮社刊)に、大変詳しく述べられています。)

226天龍山石窟④:朽木ゆり子著「ハウス・オブ・ヤマナカ」(2011年刊)
朽木ゆり子著「ハウス・オブ・ヤマナカ」(2011年刊)


【天龍山石窟に傾倒し「天龍山仏蹟石窟踏査記」を叙した山中定次郎
~二度の天龍山石窟訪問】

この山中商会が、天龍山石仏を数多く扱うことになるのですが、それには社主の山中定次郎の天龍山石窟への傾倒ぶりが、随分関わっているようです。

山中定次郎は、1924年(大正13年)の6月と、1926年(大正15年)10月の2回に亘って、天龍山石窟を訪れ、自ら丹念に各石窟の調査を行っています。
そして、その訪問調査記を 「山西省天龍山仏蹟石窟踏査記」 (1928・S3刊)と題し、自費出版しました。

(この踏査記は、山中定次郎没後に刊行された「山中定次郎傳」(1939年・S14刊)に収録されています。)

226天龍山石窟④:「山中定次郎傳」(1939年刊)

226天龍山石窟④:「山西省天龍山仏蹟石窟踏査記」山中定次郎傳1939年刊所収
「山中定次郎傳」(1939年・S14刊)と、本書所収の「山西省天龍山仏蹟石窟踏査記」ページ


また、入手した盗鑿流出仏頭など45点の写真を掲載した 「天龍山石仏集」 (1928・S3刊)を刊行しています。



【盗鑿された石仏首を自ら探し求め、数多く買集めたと語る山中定次郎】


山中定次郎は、この2著で、

初めて天龍山石窟を訪ねた時、その素晴らしさに驚き感銘した石仏像群が、2年後に再訪したときには、幾体となく仏首が掻き落されているのを発見し、痛切な哀感を覚えた。
そこで、盗鑿された仏首を各所で探し求め発見し、やっと数十個を集めることが出来た。

旨を語っています。

そのあたりの処を、「山西省天龍山仏蹟石窟踏査記」序文の抜き書きで、見てみたいと思います。

初回の天龍山石窟訪問(1924年・大正13年)についての感動を、このように綴っています。

「見るからに仏教美術の一大殿堂であって、久しく憧れていた私の心は驚異と喜悦とに満たされ、取るものも取り敢えず直に懐中電灯を以って、一物も剰すなく隅から隅まで幾回となく、繰り返して之を看た・・・・」

226天龍山石窟④:天龍山石窟を訪ねた山中定次郎

226天龍山石窟④:天龍山石窟を訪ねた山中定次郎
天龍山石窟を訪ねた山中定次郎
(上)「天龍山石仏集」所載写真、(下)「山中定次郎伝」所載写真


そして、1926年(大正15年)に再訪したときの有様については、

「その後、愛慕の念尚止み難く・・・第2回の天龍山探求をなしたが、
・・・・
第一回の時には慥(たしか)にあった筈のある佛が痛ましくも、その麗しい御首を、何者かに掻き落され見るも気の毒な姿で淋しく並んで居るのを幾體となく発見した。
・・・・・
かかる名作に対し、不埒にも斯うした惨虐な行為を敢えてした者を憎まずには居られなかった。」

と、たった2年のうちに、数多くの盗鑿がなされたことへの嘆きが語られています。

そして、自ら探し求めて、盗鑿された石仏首を集めたとして、

「その首を求めて歩いたのであったが、私のこうした心が通じたといふのか、ある佛の首を東で求め、ある佛の首を西で発見し、随分かけ離れた土地で、忘れんとして忘れ得ぬ、その馴染み深い石佛の首を発見したのであった。
・・・・・
斯かる思いをつづけて漸く今数十の麗しい首を集め得たが、尋ぬるものを獲た欣びを深く感じ・・・・・この天龍山紀行をものし、私の記念塔とすることにした。」

と語り、このようにして数十個の仏首を入手したと語っています。



【山中収集の石仏首を収録した、写真集図録「天龍山石仏集」(1928)


「天龍山石仏集」は、山中定次郎が探し求めたという盗鑿石仏首、45点を収録した写真集です。

226天龍山石窟④:「天龍山石仏集」(1928年刊)
「天龍山石仏集」(1928年刊)

226天龍山石窟④:「天龍山石仏集」収録写真

226天龍山石窟④:「天龍山石仏集」収録写真

226天龍山石窟④:「天龍山石仏集」収録写真
「天龍山石仏集」収録されている石仏首写真等

「天龍山の記」と題する、山中定次郎の各窟踏査録が附されています。
本写真集は、一方では、美術商としての石仏販売用図録の意味合いを持つものであったようです。
また、山中商会では、この「天龍山石仏集」掲載の石仏の他にも、多くの天龍山石仏を扱い、主催の「展観」などを通じて販売しています。



【山中商会と天龍山石窟盗鑿との関わりは?
~現代中国では、山中商会が盗鑿先導の張本人と指弾】

山中定次郎は、何者かに盗鑿された石仏首が散逸するのが忍びなく、義侠心的なものから買い集めたのだと語っていますが、この話が、その通りなのか、実の処は「創られたストーリー」なのかは、議論のある処なのかもしれません。

今日の中国では、山中商会、山中定次郎が、盗掘人を先導して天龍山石仏を盗鑿させたもので、天龍山石窟の破壊、略奪的流出の張本人であると、厳しく指弾されています。

今になってしまえば、いずれが真実なのかは闇の中ということなのかもしれませんが、多くの天龍山石仏が、山中商会の手を経て海外に流出し、コレクターなどに売り捌かれたというのは間違いのない事実です。
あれだけ多くの天龍山石窟石仏を扱った山中商会が、石窟の盗鑿と全く関わりがないということは、考えられないことだと思います。

ただ、山中商会が、単なる商売上の儲けという欲得の為だけに、ブローカーとして天龍山石仏を盗鑿させたとは、一概に思えないような気もします。
山中の叙した「山西省天龍山仏蹟石窟踏査記」「天龍山石仏集」の訪問調査記を読んでいると、天龍山石仏へ寄せる思い入れ、心からの愛着を感じてしまうのも、正直な処です。
天龍山石窟への傾倒と、美術商としての立場とが、ないまぜになった複雑なものを感じないでもありません。



【山中商会主催「展観」で、売りに出された「天龍山石仏集」掲載石仏首(1928)


「天龍山石仏集」に掲載された石仏首などは、1928年(昭和3年)に山中商会が大阪美術倶楽部で開催した「支那古陶金石展観」に展示、販売されました。

226天龍山石窟④:山中商会主催「支那古陶金石展観」目録(1928)
山中商会主催「支那古陶金石展観」目録(1928)

山中商会では、「展観」と呼ぶ収集古美術品の展覧会をしばしば催し、多くの人が入場できる展示会且つ、コレクター向け販売会としていましたが、「支那古陶金石展観」もその一つです。
ここに、天龍山石窟石仏が一挙に45点展示されました。

226天龍山石窟④:「支那古陶金石展観」目録に所載されている天龍山石仏写真
「支那古陶金石展観」目録に所載されている天龍山石仏写真
見出しに「天龍山石佛 四十五個ノ内」と記される


展観目録・図録の冒頭には、

「天龍山石窟のコレクションの如きは、本展覧会出品中の最も誇りとすべき處のものにして、・・・・・・
彼の、天龍山石窟を茲に移した観のある此のコレクション・・・・・」

と記されていて、展覧の大目玉となったようです。



【石仏大量流出への憤り、哀しみを綴った木下杢太郎
~「展観」を題材にした小篇「売りに出た首」】

この「支那古陶金石展観」は、随分話題になったようで、志賀直哉の短編「万暦赤絵」(1933.09中央公論所載・単行本1936年中央公論社刊)の題材とされていますし、木下杢太郎は「売りに出た首」(美術雑誌アルト1928.12所載・単行本1949年角川書店刊)と題する随筆小篇を発表しています。

226天龍山石窟④:木下杢太郎著「売りに出た首」(1949年刊)226天龍山石窟④:木下杢太郎
木下杢太郎著「売りに出た首」(1949年刊)と木下杢太郎

木下杢太郎は、木村荘八と共に、天龍山石窟発見後、早くも1920年(大正9年)に当地を訪れている人物です。
「売りに出た首」という表題は、まさに展観に山中商会が天龍山石仏を一括で売りに出したことを指しています。
小篇には、このように語られています。

「四十五個といへば、天龍山の彫刻像のほとんど全部と云って良い。
かうも一つの手に全部揃ったことは蒐集者の非常な努力と謂ふべく、せめてそれが散らばらないで、一つの国民的の博物館に集められて欲しいことだ。
然しこの一面には、支那現地に於て計画的な略奪が行われたという疑を起こすことも出来る。
・・・・・・
木村君、僕は極めて平静に以上の記を作った。
然し心の中には怨恨の如き、憤懣の如き、いろいろの感情が回転してゐるといふことは、嘗て倶(とも)にあの山に登った君の無論直ぐ感づいてくれるだろうと思ふ。」

天龍山石仏の大量流出への、木下杢太郎の憤りの混じった哀しみ、割り切れない心情が語られています。
そして、その散逸を懸念しています。



【「展観」展示の石仏40数点を、一括して買い取った根津嘉一郎】


この売りに出た天龍山石仏コレクションは、どうなったのでしょうか?

実は、根津嘉一郎が、これらの石仏を一括して全部買い取りました。
根津嘉一郎は東武鉄道の経営など「鉄道王」と呼ばれた実業家で、有数の古美術コレクターとして知られた人物です。
コレクションの多くは、現在、根津美術館に所蔵されています。

226天龍山石窟④:根津嘉一郎
根津嘉一郎

山中商会では、この天龍山石仏をアメリカへの売却する事が考えられていたようです。

根津嘉一郎は、
「このような古代の貴重品が海外へ流出するのは残念だと思い、其の時そっくり買い取って、爾来十年間、私の家に収蔵しておいた」
(根津嘉一郎著「世渡り体験談」実業之日本社1938年刊)
と、回顧しています。

根津が購入したのは46点とされており、その後、昭和4年(1929)の「月光殿 大師会」や、昭和6年(1931)の「美術協会展」などに、一括して展示されたりしているようです。
(「大師会」というのは、三井物産の創始者で、数奇者、大コレクターの益田鈍翁が主催創始した、大茶会のことです。)

山中商会では、その後主催した「世界古美術展」(昭和7年・1932)や「支那朝鮮古美術大展覧会」(昭和9年・1934)にも、天龍山石仏を多数展示しています。

226天龍山石窟④:「支那朝鮮古美術大展覧会」(1934)での石仏展示風景
「支那朝鮮古美術大展覧会」(1934)での石仏展示風景
「ハウス・オブ・ヤマナカ」所載写真


「支那古陶金石展観」(昭和3年・1928)以降も、多くの天龍山石窟から流出した石仏を扱っていることが見て取れます。



【欧州6ヶ国に、30点の天龍山石仏を寄贈した根津嘉一郎(1937)


根津嘉一郎の手に渡った天龍山の石仏は、その後どうなったのでしょうか。

根津は、昭和12年(1937)に、これらの石仏の多くを、国際親善のため西欧の6ヶ国に寄贈しました。
この寄贈について根津は、こう語っています。

「私は先年、支那天龍山の石仏の首を42個蒐集したが、今度感ずるところがあって、美術親善のためそのうちの数個を、欧羅巴(ヨーロッパ)の五、六ヶ国に贈呈した。
・・・・・
併し、私は国際親善の一つとしては、貴重な美術品を役立てる事も、強ち意義の無い事ではないと信じて、その石佛の首を各国に贈呈した次第である。」
(根津嘉一郎著「世渡り体験談」実業之日本社1938年刊)

昭和12年と云えば、前年に日独防共協定が成立し、7月に盧溝橋事件が勃発、日中戦争がはじまった時期です。
西欧諸国との国際関係が緊張していく中、このような美術親善が企図されたのかもしれません。

当時の新聞でも、この石仏寄贈について、

「秘境の逸品 三十個を 国際親善に提供 愛好者垂涎の古代石佛の首 根津翁 太っ腹の発心~国民外交に朗報」
(昭和12年・1937年3月27日付 東京朝日新聞朝刊)

という見出しで、大きく報道されています。

226天龍山石窟④:根津の天龍山石仏寄贈を報じる朝日新聞記事(1937)

新聞記事によれば、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、オランダ、スウェーデンの6ヶ国に、それぞれ仏首5個ずつ、計30個が寄贈されることになったということです。

226天龍山石窟④:在日ドイツ大使館で寄贈石仏と共に立つ根津嘉一郎(1937)
在日ドイツ大使館で寄贈石仏と共に立つ根津嘉一郎(1937)
「根津青山の至宝」展図録(根津美術館・2015刊)所載写真


この時、併せて、東京帝室博物館にも4個が寄贈されたと報じられています。
(現在の、東京国立博物館所蔵の天龍山石窟石仏は7点ですが、寄贈者が「根津嘉一郎」と記されているのは3点となっています。)

226天龍山石窟④:東京国立博物館所蔵・根津嘉一郎寄贈天龍山石窟菩薩像(第8窟)

226天龍山石窟④:東京国立博物館所蔵・根津嘉一郎寄贈天龍山石窟菩薩像(第14窟)226天龍山石窟④:東京国立博物館所蔵・根津嘉一郎寄贈天龍山石窟如来像(第18窟)
東京国立博物館所蔵・根津嘉一郎寄贈天龍山石窟菩薩像
(上)菩薩像(第8窟)、(左下)菩薩像(第14窟)、(右下)如来像(第18窟)



なお、現在、根津美術館には、7点の天龍山石仏仏首が所蔵されています。

226天龍山石窟④:根津美術館所蔵・天龍山石窟菩薩像(21窟)

226天龍山石窟④:根津美術館所蔵・天龍山石窟菩薩像(18窟)226天龍山石窟④:根津美術館所蔵・天龍山石窟如来像(16窟)
根津美術館所蔵・天龍山石窟菩薩像
(上)菩薩像(21窟)、(左下)菩薩像(18窟)、(右下)如来像(16窟)




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