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観仏日々帖

トピックス~6件の仏像が、2024年の国宝・重要文化財に新指定に 【2024.04.02】

~観仏日々帖【目次】はこちら~


今年、新指定になる国宝・重要文化財の仏像(彫刻)が発表されました。

毎年恒例の国宝・重要文化財(美術工芸品)新指定についての答申が、3月15日に文化財審議会によって行われ、美術工芸品では、6件が国宝に、36件が重要文化財に新たに指定されることになりました。



【仏像(彫刻)は、国宝1件、重文5件の新指定に】


彫刻(仏像)の新指定は、国宝が1件、重要文化財が5件となっています。

新指定となった仏像などの詳細については、文化庁HP(新指定文化財ページ)〈答申内容〉並びに〈解説〉をご覧ください。

新指定となった仏像(彫刻)は、ご覧のとおりです。

309新指定文化財:2024年新指定国宝・重文~彫刻一覧

この顔ぶれをご覧になられた感想は、如何なものでしょうか?


【「なるほど!」と、納得の新指定仏像の顔ぶれ】


大報恩寺の肥後定慶他作の六観音像が、国宝に指定されました。

仏像の国宝指定は、2020年に法金剛院・阿弥陀如来坐像が指定されてからありませんでしたので、4年ぶりということになります。

私の個人的感想としては、国宝、重文の新指定仏像については、
「なるほど! この仏像が新指定になったのか!」
と、相槌を打って頷く感じで、それぞれに納得という処です。

これらの新指定仏像は、例年4~5月に東京国立博物館で開催される「新指定 国宝・重要文化財展」に出展されると思います。
全部の新指定像の出展は難しいでしょうが、これら新指定像を眼近に観ることが出来るのは愉しみです。


今回新指定の仏像について、簡単にふれてみたいと思います。



【大報恩寺の六観音像・地蔵菩薩像が新国宝に】


まずは、新国宝となった大報恩寺の六観音像・地蔵菩薩像です。

309新指定文化財:大報恩寺・六観音像(鎌倉・新国宝)
309新指定文化財:大報恩寺・六観音像(鎌倉・新国宝)
大報恩寺・六観音像(鎌倉・新国宝)

「今度、国宝仏像に指定されるとしたら、どの仏像なのかな?」

などと、あれこれ予想したりしていましたが、その個人的下馬評のなかに「大報恩寺の六観音像」は思い浮かんでいませんでした。

ただ、この像が新国宝になったのを知って、
「なるほど、この六観音が新国宝と云われると、結構納得感がある。」
というのが、素直な感想です。

大報恩寺の六観音像と地蔵菩薩像は、皆さん、お寺でも拝されていることでしょう。
2018年10月には東京国立博物館で特別展「京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ」が開催された時にそろって展示されていましたので、その折には、眼近に観られたことと思います。



【肥後定慶を統率者に制作された六観音像
~異国風の「生々しさ」など、独特の個性の肥後定慶】

六観音像は、仏師・肥後定慶を統率者として6人の仏師で造られたとみられています。
准胝観音像には像内墨書銘があり、貞応2年(1224)に肥後定慶によって造られたことが判明していいます。

309新指定文化財:大報恩寺・六観音像~准胝観音像(貞応2年・1224肥後定慶作)309新指定文化財:大報恩寺・六観音像~准胝観音像(貞応2年・1224肥後定慶作)
大報恩寺・六観音像~准胝観音像(貞応2年・1224肥後定慶作)

肥後定慶作の仏像は、この准胝観音像の他、東京藝大所蔵・毘沙門天像(1224)、鞍馬寺・聖観音像(1226)など、全部で5件・7躯が確認されています。

309新指定文化財:鞍馬寺・聖観音像(鎌倉・重文)1226年肥後定慶作
鞍馬寺・聖観音像(鎌倉・重文)1226年肥後定慶作

肥後定慶は、運慶・快慶次世代の慶派の有力仏師であったのですが、その作風は他の仏師には見られない独特の個性あふれる造形表現のものです。
異国風で生々しい顔立ち肉身表現、細身の体型、複雑な髪型、煩雑で装飾的な衣文などが、肥後定慶作品の特色と云えるでしょうか。

309新指定文化財:大報恩寺・六観音像~准胝観音像(貞応2年・1224肥後定慶作)
肥後定慶独特の個性表現の大報恩寺・六観音像~准胝観音像

一般的には「宋風」を採り入れたものとされていますが、いろいろな議論があるようです。

この肥後定慶の生々しく、ちょっとアクの強い造形については、結構好き嫌いもあるのではないかと思われ、作品評価も難しい処があったのではないかもしれません。



【国宝指定となった、評価ポイントは?】


今回の国宝指定の答申の解説では、次の点が評価のポイントに記されていました。

*鎌倉時代彫刻の一つの到達を示した仏師として、運慶次世代の中で最も注目されている肥後定慶の代表作であること。

*鎌倉時代における檀像彫刻の代表的遺品であること。

*平安~鎌倉時代に信仰の盛んだった六観音像の彫像の唯一の完存例であること。

「なるほど!」と、納得するところです。



【慶派仏師の作品の国宝指定状況は?
~近年の新指定で、有力仏師の代表作は、皆、国宝に】

国宝新指定指定答申・解説に、
「運慶次世代の中で最も注目されている肥後定慶・・・」
と述べられていました。
今回の肥後定慶作品の国宝指定で、ちょっと気になったのは、慶派仏師の作品で国宝指定されている仏像はどのようなものだろうかということです。

仏師別に一覧にしてみると、次のようになっていました。

309新指定文化財:慶派仏師の作品で国宝指定されている仏像の一覧

慶派と云えば、なんといっても康慶、運慶、快慶が代表選手ですが、これに続く有力仏師の代表作も着々と国宝指定されていっているようです。

21世紀に入る2000年以降、康勝(東寺・弘法大師像)、行快(金剛寺・不動明王像)、肥後定慶(大報恩寺・六観音像)という仏師の代表作も国宝指定されて、
「これで、名前の知られた慶派有力仏師の代表作は、皆、国宝に指定された」
と云えるようになったのではと思います。

309新指定文化財:東寺御影堂・弘法大師像~天福元年(1233年)康勝作309新指定文化財:金剛寺・不動明王像~天福2年(1234)行快作
(左)東寺御影堂・弘法大師像~天福元年(1233年)康勝作
(右)金剛寺・不動明王像~天福2年(1234)行快作




【驚いたのは、地蔵菩薩像の国宝指定
~六観音と同時造立像として、無指定から一気に国宝に】

六観音像の国宝指定の話に戻りますと、ちょっと驚いたのは、併せて地蔵菩薩像も国宝に指定されたことでした。

309新指定文化財:大報恩寺・地蔵菩薩像(鎌倉・新国宝)
大報恩寺・地蔵菩薩像(鎌倉・新国宝)

この地蔵菩薩像、さほど注目されていなかったのではないかと思います。
文化財指定も「無指定」であったのではないでしょうか。

六観音像と地蔵菩薩像は、もともと北野天満宮の鳥居の南側にあった願成就寺経王堂に安置さていて、寛文10年(1670)に、破損甚だしかった経王堂から大報恩寺に移されたものだそうです。
地蔵像は、像高(髪際高)が六観音像とほぼ同じで、作風と台座形式が共通することから一具として造られたとみられるようになりました。
とりわけ肥後定慶作・准胝観音像とよく似ているそうです。

309新指定文化財:大報恩寺・地蔵菩薩像(鎌倉・新国宝)309新指定文化財:大報恩寺・六観音像~准胝観音像(貞応2年・1224肥後定慶作)
(左)大報恩寺・地蔵菩薩像、(右)大報恩寺・准胝観音像~肥後定慶作の顔貌

こうしたことから、六観音と一体で造立された像として、無指定から一気にセットで国宝指定になったという訳です。



次に、重要文化財への新指定の仏像についてです。


【福井越前町・八坂神社の女神像・牛頭天王像が重文に
~女神像は、特異な形姿の神仏習合像として著名】

まずは、福井越前町の八坂神社の女神像と牛頭天王像です。

女神像については、その特異な形姿から、神仏習合の造像史上大変重要な位置を占める像として、大変よく知られている神像です。

309新指定文化財:福井越前町 八坂神社・女神像(平安後期・重文)
福井越前町 八坂神社・女神像(平安後期・重文)

頭頂部には、観音像のような十一面を戴いているのですが、体部は俗体の女神の姿で、大袖の衣に両手を包み隠して拱手し笏(亡失)を執っているのです。
女神像と十一面観音とがセットになっていて、まさに神仏習合像と云える像です。

私も、本像を、「神仏習合展」(2007年・奈良博)、「大神社展」(2013年・東博)、「福井の仏像展」(2016年・福井歴博)で観たことがあり、なじみの神像となっています。

「ようやく、重文に指定されたか」という処です。



【全くその存在を知らなかった牛頭天王像
~長らく厳重に秘されていた御神体像】

ビックリしたのは、牛頭天王像の重文指定でした。

八坂神社に、このような牛頭天王像が存在していることを、全く知らなかったのです。
八坂神社本殿に祀られる像で、女神像と同じ時期の12世紀に制作された像だということです。

309新指定文化財:福井越前町 八坂神社・牛頭天王像(平安後期・重文)
福井越前町 八坂神社・牛頭天王像(平安後期・重文)

調べてみると、この牛頭天王像は御神体として厳重に秘されて祀られていて、ほとんど誰の眼にもふれていない像のようです。
1963年に、新発見の八坂神社の仏像調査が行われた時に本像の調査が行われ、調査に基づく西川新次氏の執筆文(「福井県丹生郡朝日町・八坂神社牛頭天王像について」美術史64号1967年)がある以外には、ずっと長らく秘されてきたようなのです。
研究者の方も拝するのが難しかったようです。

その御神体が、今般、無指定から一気に重文指定されたという訳です。

答申解説には、
「その(牛頭天王像の)現存作例中、最も本格的な彫像で出来映えが優れる。」
と述べられています。

新出と云っても良いほどの興味深い像なのですが、今度の東博・新指定文化財展に出展されるのでしょうか?
是非、出展されてほしいものです。



【女神像は、白山神の顕現像なのか、牛頭天皇の后像なのか?】


なお女神像の尊格については、二つの見方があるようです。

以前は、
「十一面観音像を本地仏とする、白山神の姿を現した白山妙理権現(はくさんみょうりごんげん)像」
だと考えられていましたが、
「牛頭天王の后である婆利采女(はりうねめ)像」
として制作された可能性も論じられているようです。



【ようやく重文指定された、伊豆半島最古級の南禅寺諸像
~地方仏愛好者には、著名な魅力あふれる平安古仏】

次は、静岡県河津町の谷津区所蔵管理の南禅寺(なぜんじ)伝来諸像です。

南禅寺伝来の諸像は、平安時代(10C頃)の制作で、伊豆半島に残る古仏のなかでも最古級のものです。
地方仏愛好の方で、この南禅寺の薬師如来像をはじめとする古仏のことを知らない人はいないと云って良いほど、良く知られた魅力あふれる古仏群なのだと思います。

309新指定文化財:南禅寺・薬師如来像(平安・重文)
南禅寺・薬師如来像(平安前中期・重文)

この南禅寺伝来の古仏群のすべて、全26躯が一括して重要文化財に指定されました。
「ようやく、やっとのことで重要文化財に指定された。
もっと早くに重文指定になっても良かったのに。」
というのが、私の率直な感想です。

かつては南禅寺の古いお堂に、ひしめき合うように安置されていましたが、2013年お堂の隣地に「伊豆ならんだの里 河津平安の仏像展示館」が開館し、古仏群はそちらに展示され、いつでも観ることが出来るようになっています。

309新指定文化財:諸像が安置されていた南禅寺のお堂
諸像が安置されていた南禅寺のお堂

309新指定文化財:南禅寺諸像が展示されている「伊豆ならんだの里 河津平安の仏像展示館」
南禅寺諸像が展示されている「伊豆ならんだの里 河津平安の仏像展示館」


今回の南禅寺諸像の重文指定で、私には、意外であったことが二つありました。


【意外だった、伝来諸像26躯すべての一括重文指定
~重文指定は、主要2~3像だけかと想定】

ひとつは、伝来諸像のすべて26躯が、一括して重文指定となったことです。

南禅寺諸像は、薬師如来像をはじめ平安前中期頃の堂々たる一木彫の魅力あふれる像もあるのですが、大きく破損、朽損していたり、時代の下がりそうな像も多くあります。
私は、
「重文指定になるとしたら、ひときわ優れた出来の薬師如来像と二天像か、それに地蔵菩薩像を加えたくらい」
ではないかと思っていました。

309新指定文化財:南禅寺・二天王像(平安・重文)の1躯309新指定文化財:南禅寺・地蔵菩薩像(平安・重文)
南禅寺~(左)二天王像の1躯、(左)地蔵菩薩像(共に平安・重文)

そのほかの多くの像は、出来のレベルや朽損状況から、まさか重文指定となるとは想像もしていませんでした。

309新指定文化財:南禅寺・破損仏像の一部
南禅寺・破損仏像の一部

ところが、附・15躯を含んでですが、26躯すべてが重文指定となったのです。
これらの像が、同系統の工房が当地において継続して造像を行ったことが推定されることから、一群の像として一括指定になったということなのでしょうか。



【「奈良時代」の制作とされた十一面観音像
~まさかの年代判定に、ビックリ!】

もう一つの意外は、十一面観音立像の制作年代が「奈良時代」とされていたことでした。

309新指定文化財:南禅寺・十一面観音像(奈良時代・重文)309新指定文化財:南禅寺・十一面観音像(奈良時代・重文)
南禅寺・十一面観音像(奈良時代・重文)

答申解説には、
「十一面観音像の一軀は素朴な作風であるが、カヤ材の一木造で各所に古様を示すことから、奈良時代に遡る製作とみられる。」
と述べられています。

この十一面観音像、古様な面はあるのですが、まさか奈良時代の制作とされるとは、かなりのビックリです。
確かに他の像と造形が異質で、また胸飾や臂釧も本体材から共彫りでその意匠も古様なものがあります。

309新指定文化財:南禅寺・十一面観音像(奈良時代・重文)
南禅寺・十一面観音像(奈良時代・重文)

南禅寺境内からは、奈良時代の塑造の螺髪が出土していますので、その時代まで遡る可能性は無しとは云えないかもしれません。

これまで本像は、模古的ながら時代の下がる地方色強い造形で、多くの彫り直しがみられる拙劣な像という見方だったと思います。
古い論考ですが、鷲塚泰光氏はこの十一面観音像について、
「衣文は概念的な曲線を繰返す単調な形で、腹から腰にかけての造形にも間が抜けた表現が見られるが、これは地方作にまま有りがちな作風といえよう。
残念なことに本像は面相部がすっかり彫り直され、しかもその彫技は拙劣なもので、左手の臂から先、右手首も後世のものに変っている。
像の元来の製作時期は10世紀と思われるが・・・・・」
(伊豆南禅寺の平安仏(鷲塚泰光)三浦古文化29号1981)
と述べられています。

私のこの像への印象も同様で、どうしてもこの感覚から脱せない感があるという処です。
奈良時代の制作と云われても、いまだに腑に落ちないというのが正直な処です。



【近年、奈良時代に遡るとされる、いくつかの地方造像作品が】


近年、従来平安時代の制作とされてきた滋賀・百済寺の十一面観音像が、奈良時代に遡る在地社会における造像作例として重文指定(2021年)されたり、神奈川・龍峰寺の十一面観音像が奈良時代に遡る可能性が示されたり、地方の造像についての従来の制作年代観の見直しが行われているように思われます。

309新指定文化財:百済寺・十一面観音像(奈良時代・重文)309新指定文化財:龍峰寺・千手観音像(奈良~平安前期・重文)顔部は鎌倉・千手は後補
(左)滋賀 百済寺・十一面観音像(奈良時代・重文)
(右)神奈川 龍峰寺・千手観音像(奈良~平安前期・重文)顔部は鎌倉・千手は後補


これらの像が奈良時代制作というのは、それなりに納得するのですが、南禅寺・十一面観音像の奈良時代制作ということについては、まだまだ自身の年代感覚がついていっていないという感じでしょうか。

東博で開催される新指定文化財展には、薬師如来坐像、二天王像、十一面観音像が出展されるようです。
もう一度、奈良時代と云われる十一面観音像を、ジックリと眼近に観てみたいものと思っています。


南禅寺諸像については、京都・西住寺の宝誌和尚像ほか各地に残る数躯の像が、かつて南禅寺の地から移されたものであるとか、薬師如来像が盗難に遭いその後取り戻された事件など、興味深い話があるのですが、そのあたりのことはまた機会を改めて採り上げてみたいと思います。

309新指定文化財:西住寺・宝誌和尚像(平安・重文)
南禅寺の地から移された西住寺・宝誌和尚像(平安・重文)



【近年新発見の三重・安楽寺の阿弥陀如来像・地蔵菩薩像
~快慶作品とみられる2像】

最後は、三重松阪市の安楽寺の阿弥陀如来像と地蔵菩薩像です。

この2像は、近年新発見の快慶作品とみられる像です。
共に藤田直信氏(松阪市文化財保護審議会委員)によって近年発見され、阿弥陀如来像は快慶作であることが判明し、地蔵菩薩像も快慶作かと推定されている像です。



【阿弥陀如来像の足枘には「快慶銘」が】


阿弥陀如来像は、2009年の調査時に発見され、快慶風作品で判読困難ながら足枘銘があることが判明しました。

309新指定文化財:三重 安楽寺・阿弥陀如来像(鎌倉・重文)快慶作
三重 安楽寺・阿弥陀如来像(鎌倉・重文)快慶作

2014年に詳細調査が実施され、足枘銘は「巧匠 法眼快慶」と解読され、快慶作品の新発見となったものです。



【快慶風の地蔵菩薩像には、奈良眉間寺伝来の修理銘が】


地蔵菩薩像の方は、2016年に同じ安楽寺の別室から見つかり、これまた快慶作品の作風に近似することから、快慶作品もしくは工房作品と考えられている像です。

309新指定文化財:三重 安楽寺・地蔵菩薩像(鎌倉・重文)
三重 安楽寺・地蔵菩薩像(鎌倉・重文)

地蔵菩薩像の台座に江戸時代の修理銘があり、かつて奈良眉間寺に伝来したことが判っています。



【両像は、眉間寺伝来の阿弥陀三尊の中尊と脇侍か?
~地蔵菩薩像も快慶作の推定も】

ご存じのとおり眉間寺は奈良市法蓮町、聖武天皇佐保山南陵の近くにあった大寺でしたが、明治初年の神仏分離、廃仏毀釈で廃寺となってしまいました。

309新指定文化財:大和名所図会に描かれる眉間寺の伽藍
大和名所図会に描かれる眉間寺の伽藍

今は、現在は跡形もなく、元の場所には「眉間寺遺跡」の石碑と礎石が残されているだけです。

309新指定文化財:眉間寺跡の石碑
眉間寺跡の石碑

眉間寺伝来の仏像は、10体ほどが知られているようですが、東大寺勧進所の阿弥陀・釈迦・薬師の3如来像(平安~鎌倉・重文)が良く知られています。

309新指定文化財:眉間寺伝来の東大寺勧進所・阿弥陀如来像(平安後期・重文)
眉間寺伝来の東大寺勧進所・阿弥陀如来像(平安後期・重文)

答申解説には、
(安楽寺の)阿弥陀如来と地蔵菩薩は両者の大きさの関係や作風の共通点から、当初は阿弥陀三尊像の中尊と脇侍であった可能性がある。」
と述べられていて、
共に、快慶作像で、奈良眉間寺に阿弥陀三尊として祀られていた可能性が指摘されています。



今回は、3月15日に答申された、新指定の国宝・重要文化財の仏像(彫刻)のうち、注目像についてご紹介させていただきました。

4~5月に東京国立博物館で開催される、「新指定 国宝・重要文化財展」で、これらの像にもう一度再会できるのが愉しみです。


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トピックス~「玉唇像」が、京都府・新指定文化財に~宮津市佛性寺の阿弥陀如来立像 【2024..03.21】

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【新聞記事で知った、珍しい「玉唇像」の仏像の文化財指定
~佛性寺・阿弥陀如来像】

「アッ! 佛性寺の阿弥陀如来立像が文化財指定されたのだ」

308玉唇像:宮津市 佛性寺・阿弥陀如来立像(府指定・鎌倉)
宮津市 佛性寺・阿弥陀如来立像(府指定・鎌倉)

たまたま「2024年度の京都府指定文化財の新指定」という新聞記事をみて、眼を惹かれました。

佛性寺の阿弥陀如来立像と云われても、この像のことを知っているという人はほとんどおられないのではないかと思います。
どうして、そんな反応になったかというと、佛性寺の阿弥陀如来立像が珍しい「玉唇像」であったからです。

308玉唇像:唇に水晶が嵌め込まれ「玉唇」となっている佛性寺・阿弥陀如来像
唇に水晶が嵌め込まれ「玉唇」となっている佛性寺・阿弥陀如来像

「玉唇像」というのは、現存例ではたった3件しか確認されていないのです。
玉唇という言葉のとおり、生身の唇のように見せるために、唇に水晶を貼り込んだ像のことです。



【唇に水晶を嵌め込み、リップクリームを塗ったような艶やかな口元に
~新聞の紹介記事】

308玉唇像:佛性寺・阿弥陀像の文化財指定を報じる朝日新聞記事(2024.3.10付朝刊)
阿弥陀像の文化財指定を報じる朝日新聞記事(2024.3.10付朝刊)

3月10日付の朝日新聞京都版の新指定文化財紹介の記事には、

「宮津市にある佛性寺の本尊の木造阿弥陀如来立像(鎌倉時代)は、仏を「生ける存在」としてとらえる生身信仰を背景に造られた。
紅をさした唇の上に水晶をはめこみ、リップクリームを塗ったかのような艶やかな口元を演出。
上唇と下唇の間からは金属製の歯がのぞき、今にも言葉を発しそう。
唇に水晶をはめこんだ仏は、他に上徳寺(下京区)の阿弥陀如来立像など2例しか知られていないという。」

と報じられています。

308玉唇像:唇に水晶が嵌め込まれ「玉唇」となっている佛性寺・阿弥陀如来像
佛性寺・阿弥陀如来像の「玉唇」



【「玉唇像」というものの存在を知ったのは、2年前のこと
~重文新指定の像が、珍しい「玉唇」像】

私が、玉唇像というものの存在を知ったのは、令和4年(2022)度に「上徳寺の阿弥陀如来立像」が国の重要文化財に指定された時のことでした。

308玉唇像:京都市 上徳寺・阿弥陀如来立像(重文・鎌倉)
京都市 上徳寺・阿弥陀如来立像(重文・鎌倉)

文化財指定解説に、この像が「玉唇像」であると書かれていて、
「ふーん、玉唇の仏像というものがあるんだ!」
と知りました。

それまで「玉唇像」というものを、良く知らなかったのです。

昨年(2023)の2月に、令和4年度の「新指定重要文化財展」が東京国立博物館で開催され、その時に上徳寺・阿弥陀如来像を眼近に観ることが出来ました。

308玉唇像:玉唇となっている上徳寺・阿弥陀如来立像
玉唇となっている上徳寺・阿弥陀如来立像

一見したところ、全く気が付かないのですが、単眼鏡を覗いて唇の処を拡大してみると、確かに、水晶を貼った唇が朱色に輝いています。
艶があって、生々しい感じがするのがよく判りました。



【現存では、3例しか確認されていない「玉唇像」】


そして、「玉唇像」というのは大変珍しくて、現存作品では、たった3例しか確認されていないということを、その時知ったのです。

現存3例の玉唇像とは、以下のとおりで、簡単な概要はご覧のとおりです。

308玉唇像:現存「玉唇像」3例の概要



【以前企画展で、実見していた佛性寺・阿弥陀如来像
~全く記憶になく、その時はサラリとスルー】

冒頭にふれたように、その珍しい1例が、佛性寺の阿弥陀如来像であったという訳です。

そんなわけで、佛性寺・阿弥陀如来像の府文化財新指定の記事に反応したということです。
「どんな像なのか、一度観てみたいな。」
と思いつつ、
念のため、これまで見た仏像の備忘メモを確認してみたら、なんと一度ちゃんと観たことがありました。

2016年7月に京都国立博物館で開催された企画展「丹後の仏教美術」に出展されていたのです。

308玉唇像:「丹後の仏教美術展」図録掲載の佛性寺・阿弥陀如来立像
「丹後の仏教美術展」図録掲載の佛性寺・阿弥陀如来立像

その時、間違いなく佛性寺・阿弥陀如来像を実見しているのですが、全く記憶に残っていませんでした。
率直に言って、
「さほど出来が良いとは言えない、鎌倉時代の三尺阿弥陀立像」
という程度の印象で、サラリとスルーしてしまったのだと思います。



【一番良く知られている、美麗な秀作「玉唇像」
~東京国立博物館所蔵の菩薩立像】

現存、3例のうちの残りのもう1例というのは、東京国立博物館所蔵の菩薩立像です。

この像は、山本勉氏著「別冊太陽~日本仏像史講義」(2013年・平凡社刊)の表紙写真になっていたりするので、良くご存じの方も多いのではないかと思います。

308玉唇像:山本勉氏著「別冊太陽~日本仏像史講義」(2013年・平凡社刊)表紙写真

大変美麗な秀作で、仏師・善円の作風に近いと云われています。
東博の彫刻室に、時々展示されています。

308玉唇像:東京国立博物館蔵・菩薩像(重文・鎌倉)

308玉唇像:水晶が嵌め込まれ上から朱彩されている東京国立博物館蔵・菩薩像の玉唇
東京国立博物館蔵・菩薩像(重文・鎌倉)
唇に水晶が嵌め込まれ上から朱彩されている


この像も、玉唇であることには、一見すると気づかないのですが、よく見ると、唇に水晶が嵌め込まれ、鮮やかな朱の彩色が施されてるのが判ります。



【仏像の生身化表現をふりかえる~裸形着装像や異材装着像】


鎌倉時代に入ると、生けるが如くの姿形に似せたような、生身の仏像が造られるようになります。
いわゆる生身信仰というものです。
「玉唇像」というのも、生身化表現の一技法というものです。

ここで、生身信仰を背景とした、仏像の生身化表現ということについて、ちょっとふれてみたいと思います。

生身の像ように見せる生身化のパターンとしては、二つのパターンがあるようです。

一つは肉身と着衣を分離して裸の像に衣装を着せる「裸形着装像」というものです。
もう一つは、髪や歯、爪など身体の一部分に異材を装着して、生身化表現をするというもので「玉唇像」もその一つにあたります。



【50例以上が残る裸形着装像
~最古の像は平安末期の広隆寺・聖徳太子像】

まずは、裸形着装像についてです。

裸形着装像というのは、仏像を裸もしくは下着のみをまとった姿に造り、これに実際に縫製した布をまとわせる形式の像のことです。

良く知られたものとしては、
奈良・伝香寺の地蔵菩薩像(鎌倉・1238年)、鎌倉・鶴岡八幡宮の弁才天像(鎌倉・1266年)や、江島神社の弁才天像(江戸)、奈良・璉珹寺の阿弥陀如来像(鎌倉)
あたりでしょうか。

308玉唇像:奈良 伝香寺・地蔵菩薩像
奈良 伝香寺・地蔵菩薩像(重文・鎌倉)

308玉唇像:鶴岡八幡宮・弁財天像(重文・鎌倉)
308玉唇像:鎌倉 鶴岡八幡宮・弁財天像(重文・鎌倉)
鎌倉 鶴岡八幡宮・弁財天像(重文・鎌倉)

308玉唇像:奈良 璉珹寺・阿弥陀如来像(県指定・鎌倉)
奈良 璉珹寺・阿弥陀如来像(県指定・鎌倉)

皆さんも良くご存じのことと思います。

現存する裸形着装像は、鎌倉時代のものが一番多いのですが、平安後期から江戸時代まで、全部で53例を数えることが出来るそうです。
最も古い作例は、広隆寺の聖徳太子像で、平安時代後期、保安元年(1120)に僧定海が発願し、仏師の頼範により造立されたものです。

308玉唇像:広隆寺・聖徳太子像(重文・保安元年1120)頼範作
広隆寺・聖徳太子像(重文・保安元年1120)頼範作

後に製作された聖徳太子の裸形着装像には、より生身化するためか、髪の毛を植え付けたりする例もいくつかみられるようです

裸形着装像というのは、
「着装によって像が生身化され、着装行為によって彼岸世界への願意を伝達する。」
といった信仰思想をもとに、そのリアリティ表現の追及を徹底したものということのようです。

この種の裸形着装像、私にはどうも、「生き人形」というか「着せ替え人形」のような感じがしてしまってシックリ来ず、仏像を拝するという感じがしないというのが、素直な感想という処です。



【異材を装着して生身化表現する、いくつかの技法
~広く用いられたのは、日本独自の「玉眼」技法】

もう一つの生身化表現の技法としては、木彫の像の身体の一部分に、わざわざ異材を装着して「生けるが如くに見せる」というものです。

最も一般的なものは、眼に異材を嵌入するという技法です。
眼に黒石や練物を嵌め込むという技法は奈良時代からありましたが、平安末期頃になると日本独自の玉眼という技法が考案されます。
ご存じのとおり、鎌倉時代以降になると数多くの像に玉眼が用いられ、標準装備のようになります。

308玉唇像:玉眼像の作例~願成就院・毘沙門天像(国宝・文治5年1189)運慶作
玉眼像の作例~願成就院・毘沙門天像(国宝・文治5年1189)運慶作

308玉唇像:玉眼像の作例~興福寺北円堂・無着像(国宝・建暦2年1212)運慶作
玉眼像の作例~興福寺北円堂・無着像(国宝・建暦2年1212)運慶作

玉眼は、頭部の内刳りの中から眼球部分に水晶板をあて、裏側から瞳を描いて、生けるが如くの本物の眼のように見せる技法です。



【その後「歯吹」、「玉唇」、「玉爪」などが登場
~一層の生身化と聖化をはかるための表現技法】

その後に、より生身化をはかる為ということなのでしょうか。
歯や髪、爪、唇などにも金属や水晶などの異材を装着させることが、一部に行われるようになります。

「歯吹」、「金属製螺髪」、「玉唇」、「玉爪」

などと呼ばれる技法が登場するのです。

こうした手法は、生身信仰が高まっていく中で、
「より一層生身化をはかる表現を用いる」
という意味と、
仏舎利納入の変形のような
「擬似聖遺物を装着することにより、一層の聖化をはかる」
という意味を備えていたようです。

玉眼以外の異材装着による生身化技法というのは、玉眼とは違って、幅広く用いられるということにはならなかったようです。



【一番流行したのは「歯吹阿弥陀」像
~仏の超越的身体特徴「三十二相」を強く意識】

その中では、一番流行したのが「歯吹阿弥陀」と云われる像かと思います。

口をわずかに開いて、歯を見せる阿弥陀如来像のことを云います。
内刳りをほどこした像内から、水晶とか金属の歯に似せた異材を口の裏にあてたものです。

こうした歯吹阿弥陀像は、現存、17例が確認されているとのことです。
(歯吹表現は、阿弥陀像特有ということではなく、それ以外の尊格像にも用いられているものもあるようです。)

歯吹阿弥陀像には、螺髪に銅線を一個づつ巻きつけたものを植え付けたり、足の裏に仏足紋を刻出もしくは描くというものも多くみられます。

308玉唇像:富山市 浄禅寺・阿弥陀如来立像(県指定・鎌倉)
富山市 浄禅寺・歯吹阿弥陀如来立像(県指定・鎌倉)

308玉唇像:歯吹となっている浄禅寺・阿弥陀如来立像~歯は真珠製とみられる
歯吹となっている浄禅寺・阿弥陀如来立像~歯は真珠製とみられる

308玉唇像:銀製の針金を巻き付けた螺髪が植え付けられた浄禅寺・阿弥陀如来立像
銀製の針金を巻き付けた螺髪が植え付けられた浄禅寺・阿弥陀如来立像


308玉唇像:小田原市 本誓寺・歯吹阿弥陀如来像
小田原市 本誓寺・歯吹阿弥陀如来像(県指定・鎌倉)

308玉唇像:鉱物性の歯が嵌め込まれている本誓寺・阿弥陀如来像
鉱物性の歯が嵌め込まれている本誓寺・阿弥陀如来像

308玉唇像:足裏まで造られ仏足紋が見える本誓寺・阿弥陀如来像
足裏まで造られ仏足紋が見える本誓寺・阿弥陀如来像

これらも仏の超越的な身体的特徴とされる「三十二相」を強く意識した、生身化、聖化の表現と云えるものです。



【玉唇の佛性寺像・上徳寺像の螺髪にも、生身化表現が】


ご紹介した玉唇像の佛性寺と上徳寺の阿弥陀像は、どのようになっているのでしょうか。

佛性寺像の方は、いわゆる歯吹阿弥陀像の一例となっています。
この像の螺髪は、薄板で彫り表した螺髪を、あたかもヘルメットをかぶせたように造られています。

一方、上徳寺像の方は歯吹ではないのですが、木製の螺髪を貼り付けるのではなくて、わざわざ金属製の釘で一つひとつ留めています。

いずれの像も、螺髪を通常の植え付けとしないで、一部に金属を用いるなどの特殊な技法を採っていて、玉唇と相まって生身化、聖化を意識した表現になっているようです。



【「玉爪像」という表現技法も】


このほかに爪に水晶を貼り付けた「玉爪像」がごくわずかにみられたりします。
静岡・岩水寺の秘仏地蔵菩薩像は、裸形着装像で歯吹き、玉爪となっているそうです。

308玉唇像:静岡 岩水寺・裸形着装地蔵菩薩像(重文・建保5年1217)運覚作
静岡 岩水寺・裸形着装地蔵菩薩像(重文・建保5年1217)運覚作

歯吹き、玉唇などといった異材装着による生身化表現の像を辿ってみると、こちらもまた生々しすぎて、好きにはなれそうもないというのが、実感です。

今回はちょっと毛色の変わった話になりました。
珍しい「玉唇像」が、昨年から立て続けに文化財指定されたのに反応して、生身化表現の仏像について採り上げてみました。



【近年注目されるようになった、生身信仰、生身仏という研究分野】


近年、生身信仰とか生身仏という分野の研究が進められ、随分注目を浴びるようになって来たようです。
このテーマの研究に詳しい奥健夫氏は、こうした生身化表現の仏像の出現、展開について、このように述べられています。

「生身信仰は鎌倉彫刻の成立にさまざまなレベルで影響を及ぼしていることが了解されるであろう。

裸形着装像や植髪像のような生身仏像は、当代における仏像一般のありようからはみ出した「仏像ならざる仏像」ともいうべき特殊な存在であった、それは生身信仰自体が既存の仏教体制の縁辺に生じたのに対応する現象と捉えることができる。

こうした「仏像ならざる仏像」が造られ、既存の仏像にその存在が追加されると、それがやがては仏像全体についてもたれるイメージの基準を徐々に変化させることになった。
またそこには玉眼の成立にみられる如く、存在の仕方としての生身性から外見上の現実らしさの表出への移行も起こる。」
(奥健夫「生身信仰と鎌倉彫刻」仏教彫像の制作と受容・中央公論美術出版刊2019.06所収)

歯吹、玉唇、玉爪といった一風変わった技法も、こうした生身性や聖性の「外見性の現実らしさの表出」への展開の、ひとつの表現手法であったということなのでしょう。


~観仏日々帖【目次】はこちら~

古仏探訪~京都・北向不動院の秘仏・不動明王像 御開帳拝観記 と 仏師康助 〈その2〉 【2024.03.01】

~観仏日々帖【目次】はこちら~

〈その1〉では、
鎌倉時代の仏像と見紛うような北向不動院・不動明王像の秘仏拝観記と、その作者、仏師康助の事績や作風が、これまでどのように考えられてきたのかなどについて、たどってみました。

ここからは、
北向不動院像が仏師康助作品であることが明らかにされた経緯や、本像の造形表現を、鎌倉新様式の発生展開の中で、どのように位置づけるのかといった話について、ふれてみたいと思います。

307北向不動院②:北向不動院・不動明王像(重文)~久寿2年(1155)・康助作
北向不動院・不動明王像(平安後期・重文)~久寿2年(1155)・仏師康助作



【北向不動院像が康助作だと判明したいきさつは?】


北向不動院の秘仏本尊・不動明王像が、仏師康助の作であることが明らかになったのは、2002年のことでした。

この不動明王像が康助作と認定されるようになった経緯についてみてみたいと思います。



【仏師康助作と古記録に記される、安楽寿院不動堂の不動明王像
~願主は藤原忠実】

古記録に記される康助の事績なかに、
「安楽寿院不動堂の半丈六不動明王像、三尺二童子像、二尺五寸五分夜叉像、三尺五寸虚空蔵像を康助が造立した。」
という記述があります。

平安時代の公家・平信範(のぶのり)の日記である「兵範記」に記されているものです。

兵範記によると、久寿2年(1155)2月27日の条に、
「烏羽東殿安楽寿院の不動堂が供養されたこと。
不動堂は、宇治入道(藤原忠実)が鳥羽の安鎮の為、造営を進めていたもので、安楽寿院御所の東庭に位置する。」
と記されると共に、
「不動明王ほかの諸仏は康助が造立仏師で、北向きに安置された。」
旨、記されているのです。



【安楽寿院不動堂の後身にあたる、現在の北向不動院
~本尊は草創期造立と伝える不動明王像】

一方で、現在鳥羽離宮の旧地に存在する「北向不動院」は、兵範記に記される安楽寿院・不動堂の後身にあたる寺院とみられています。

北向不動院に残る、江戸時代の「山州竹田北向不動霊像来由記」や「縁起」によると、
「大治5年(1130)鳥羽院の御願で、覚鑁(かくばん)の本尊造立」
「久寿2年(1155)藤原忠実の再興」
と記され、由緒は安楽寿院不動堂の跡を継ぐということになっています。

場所も、安楽寿院不動堂があったであろう辺りに立地しています。

この北向不動院には、不動明王像が秘仏本尊として伝えられ、北向に安置されているのです。

「来由記」「縁起」によれば、享禄元年(1528)に仏工帥法眼による火災被害の修理が、慶長元年(1596)に仏工大蔵卿による地震被害の修理がなされたとされています。



【草創時造立像とは思われていなかった本尊・不動明王像
~秘仏であった為なのか、全くのノーマーク】

「兵範記」に「安楽寿院不動堂の不動明王像を、康助が造立した」と記されていることは、予てから広く知られていました。

〈その1〉でご紹介した【古記録に記される「仏師康助の事績」一覧表】(水野敬三郎氏執筆「仏師康助資料」(美術研究206号1960.05)掲載)にも、久寿2年(1155)の項に、しっかりと掲載されています。

しかしながら、この「兵範記」記載の康助作・不動明王像は、現存しないものとされていました。
〈その1〉でご紹介したように、
「康助の作品として確定できるものは、残念ながら現在一つも残っていない。」
とされていたのです。

北向不動院の本尊不動明王像は、元々安楽寿院・不動堂草創期本尊であったと縁起などに伝えられていたのですが、この像が本当に平安末期の草創時制作像なのかもしれないとは、誰も想像もしなかったようです。
当初像は、過去の罹災等により、とっくに焼失してしまったとみなされていたのでしょう。

専門家の中で、
「ひょっとしたら、北向不動院の秘仏本尊像が、仏師康助作の不動像であるかも知れない」
という関心を持たれなかったのも不思議なような気もしますが、その訳はよく判りません。
北向不動院の不動明王像は、全くのノーマークであったようなのです。

長らく秘仏とされていたので、専門家も拝する機会が無かったのかもしれません。
また拝せても、暗くてその姿をはっきりと観ることが難しかったのかもしれません。

それよりも何よりも、
「平安末期、康助作の仏像が、今日まで残されている筈がない。
北向不動院・本尊は、後世の作であるに違いない。」
というふうに、思いこまれていたということのような気がします。



【北向不動院像の存在に着目した、伊東史朗氏
~本格調査実施(2000年頃)により不動堂草創期、康助作像と判明】

そんな北向不動院・不動明王像の存在に着目したのは、伊東史朗氏(現京都国立博物館名誉館員)でした。

伊東氏は当時、文化庁の文化財調査官で、
「本像が、ひょっとしたら平安期に遡る古像で、安楽寿院・不動堂に安置されていた像なのかもしれない。」
と、眼をつけたということなのでしょうか。

2000年代に入ってからのことだと思うのですが、伊東氏は、秘仏本尊であった不動明王像の本格的調査を実施しました。
調査の結果、造形表現面からも、木寄せなどの構造面からも、また図像面からも、平安末期~鎌倉頃の制作像であると判断されました。

そうだとすると、北向不動院の由緒からして、
「兵範記に記される安楽寿院不動堂の半丈六不動明王像」
そのものに間違いないということになります。
現在、北向不動院に祀られる秘仏本尊は、康助作の不動明王像だったのでした。

驚くべき発見だったのだと思います。

307北向不動院②:北向不動院・不動明王像~2004年修理実施前写真
北向不動院・不動明王像~2004年に修理実施される前の写真


伊東史朗氏は、2002年に、本像が康助作像だと認められることを論じた詳細な論考を発表しました。

「安楽寿院不動堂本尊(北向不動)と仏師康助」上・下(伊東史朗)
仏教芸術264・266号2002.09・2003.01

詳しくは、この論考をご覧いただきたいのですが、本論考発表により専門家のなかでも、異論なく康助作像として認められるようになっているのではないかと思います。



【複雑な木寄せ構造が特徴の不動明王像
~秘伝の木寄法にふれた康助自筆書状にも一致】

論考では、構造技法面からの興味深い話にもふれられています。

本像の構造技法面から特徴は、
御衣木の大ききや木寄せ法が通常と大きく異なることと、
鎌倉期に一般的になる玉眼嵌入の古例であること
の2点に集約されるとのことです。

細かいことは省略しますが、通常は頭体根幹部を前後左右に4材を寄せるのが基本なのですが、本像は4材寄せながらも、各所で上下を切り離したり、割矧いだり、薄いマチ材を入れるなど、全体にわたり極めて複雑な構造がうかがえるそうなのです。

実は、「兵範記」(京大所蔵)の裏文書、いわゆる紙背文書に康助の自筆書状が存在するのです。

307北向不動院②:兵範記・紙背文書(京都大学所蔵)~康助自筆書状(平信範宛て御衣木の注文書)
兵範記・紙背文書(京都大学所蔵)~康助自筆書状
平信範宛ての仏像の御衣木の注文書とみられるもの


康助が、兵範記の筆者・平信範に宛てたものと思われる御衣木の注文書です。
その内容は、
「「普通の体」に似ない特殊の体の御衣木を「木も板も細々に」注文し、更にそれを他の仏師に見せてくれるなと念を押している。」
もので、
恐らく秘伝のような特殊な寄木法を指したものであろうと思われるのです。

北向不動院・不動像は、この紙背文書内容以上の複雑な木寄せ構造を持っているのです。
このことは、康助が特殊な寄せ木法を駆使したことと、北向不動院像が康助の作そのものであることを、改めて実証するものだと考えられるようです。



【康助作像として、一足飛びに重要文化財に指定(2002年)
~「鎌倉新様式確立を考えるうえでの貴重な一作」との解説】

伊東論文が発表された2002年には、本像は、一足飛びに国の重要文化財に指定されました。

重要文化財指定時の解説では、本像を康助の作と認めて、
「康助は定朝以後三代目の正統派仏師であるが、鳥羽院政期という平安後期にあってこのような新技法を用い、かつ斬新な作風を生み出していることはこの時期における奈良仏師の先取性を示すもので、鎌倉新様式確立を考えるうえで誠に貴重な一作である。」
(「平成14年度新指定の文化財~解説」月刊文化財464号2002.05)
という記述で結んでいます。

重文指定解説が
「奈良仏師の先取性を示すもので、鎌倉新様式確立を考えるうえで誠に貴重な一作」
と位置付けた、康助作、北向不動院・不動明王像ですが、本像が造られた当時、どのような造形表現の仏像が造られていたのでしょうか。



【当時(藤末期)の京都・奈良で造立された仏像は?
~制作年判明像をリストアップしてみると】

北向不動院像制作年(1155年)の前後20年間ほどに制作された、京都や奈良の仏像を一覧リストにしてみました。

307北向不動院②:藤末期の制作年が明らかな仏像一覧

この期間の制作年が明らかになっている仏像を、運慶青年期のデビュー作ともいわれる円成寺・大日如来像の出現時期までピックアップしてみると、ご覧のとおりです。

307北向不動院②:円成寺・大日如来像(国宝)~安元2年(1176)・運慶作
円成寺・大日如来像(国宝)~安元2年(1176)
鎌倉新様式の大成者、仏師運慶の青年期デビュー作ともいわれる


いわゆる「藤末鎌初」と云われる時代の「藤末」にあたる時期となるのでしょう。



【京都の地での造像は、優美な和様彫刻一色
~北向不動院像のみが、突出した力強い鎌倉新様式像】

まず、京都の地で造像された仏像の顔ぶれを見てみたいと思います。
(一覧表でライトブルー色に塗ってある仏像です。)

北向不動院像を除いて、すべての仏像が穏和、優美な和様彫刻と呼ばれる姿かたちのものばかりです。

307北向不動院②:安楽寿院・阿弥陀如来像(重文)~保延5年(1139)307北向不動院②:西大寺・十一面観音像(重文)~久安元年(1145)円信作(元京都十一面堂・本尊像)
(左)安楽寿院・阿弥陀如来像(重文)~保延5年(1139)
(右)西大寺・十一面観音像(重文)~久安元年(1145)円信作(元京都十一面堂・本尊像)


307北向不動院②:三千院・阿弥陀三尊像(国宝)~久安4年(1148)
三千院・阿弥陀三尊像(国宝)~久安4年(1148)

307北向不動院②:峰定寺・千手観音像(重文)~久寿元年(1154)307北向不動院②:近衛天皇陵多宝塔・阿弥陀如来像~保元2年(1157)
(左)峰定寺・千手観音像(重文)~久寿元年(1154)
(右)近衛天皇陵多宝塔・阿弥陀如来像~保元2年(1157)


当時の京の都での造像は、円派、院派の手になるものが中心だったのですが、定朝様をうけついだ藤原彫刻のタイプ一色であったろうと想定されます。
この頃の造像は、仏像の姿かたちについても施主の意向が大きく反映していたと思われ、都の宮廷貴顕は定朝様の穏和、優美な姿を好んだという訳です。

如来や菩薩の姿だけではなく、忿怒の相をあらわす不動明王像、仁王像の顔かたちをみても、まさに和様の穏やかなものになっています。

307北向不動院②:峰定寺・不動三尊像(重文)~久寿元年(1154)
峰定寺・不動三尊像(重文)~久寿元年(1154)

運慶作の円成寺・大日如来像と同じ年、安元2年(1176)に造られた、明円作の大覚寺・五大明王(不動明王)に至っても、その姿はいまだ和様の穏やかな顔かたちに造られています。

307北向不動院②:大覚寺・不動明王像~五大明王のうち(重文)~安元2年(1176)
大覚寺・不動明王像~五大明王のうち(重文)~安元2年(1176)明円作

こうしたなかで、仏師康助作の北向不動院・不動明王像だけが、都の造像なのに、厳つい顔立ちで「鎌倉新様式の力強くダイナミックな姿」に造られているわけですから、驚かずにはいられません。
この像が、鳥羽宮の安鎮のために造られたものだけに、威厳や畏怖感のある姿に造られたのかもしれませんが、それにしても突出した激しい表現となっているのは想定外といわざるを得ません。



【和様の造形がベースと考えられていた康助の作風
~京都での造像が中心であった康助】

仏師康助は奈良仏師ではありましたが、古記録上の事績をたどっても多くが京都での造像中心でした。

それ故、康助は、宮廷貴顕の好みに合った穏和、優美な姿の仏像を造っていたであろうと考えられていました。

そう考えられていて、当然のことだったと思います。
康助作の可能性が指摘されていた、金剛峯寺(谷上大日堂伝来)・大日如来像や三十三間堂・千体観音919号像をみても、基本的には都の好みに合う和様の姿をしています。

307北向不動院②:金剛峯寺・大日如来像(重文)~久安4年(1148)谷上大日堂伝来・元金剛心院本尊307北向不動院②:三十三間堂・千体千手観音919号(国宝)~長寛2年(1164)
(左)金剛峯寺・大日如来像(重文)~久安4年(1148)谷上大日堂伝来・元金剛心院本尊
(右)三十三間堂・千体千手観音919号(国宝)~長寛2年(1164)




【康助は、「伝統和様と鎌倉新様」を使い分けていた?】


北向不動像の発見は、このような康助の作風イメージの既成概念を覆すものでした。
康助は、鎌倉新様式そのもののような、力強くダイナミックな像も造っていたのでした。

307北向不動院②:北向不動院・不動明王像(重文)~久寿2年(1155)・康助作
北向不動院・不動明王像(平安後期・重文)~久寿2年(1155)・仏師康助作

仏師康助の制作仏像の実態はどのようなものだったのでしょうか?

きっと康助は、「穏やかな和様の姿の仏像」と、「力強い鎌倉新様式の仏像」とを、状況に応じて造り分けていたのではないでしょうか。
きっと穏やかな和様の仏像の方を数多く造っていて、時と場合によって北向不動のような力強い鎌倉新様式像も造っていたような気がします。
それがどのような場合であったのかというのは、なかなか想像もつきません。



【鎌倉新様式への先駆的萌芽が伺える、奈良の地の造像
~奈良仏師の造像が中心】

次に、奈良の地の造像の顔ぶれを見てみたいと思います。
(一覧表で橙色に塗ってある仏像です。)

京都の地における穏和、優美な仏像とは一味も二味も違ったタイプの仏像となっています。

奈良では、京の地から興福寺に活動拠点を移した、頼助以降の奈良仏師の造像が中心でした。
奈良仏師から慶派へと展開していく仏師達が、リアルで力強い鎌倉新様式を確立していくのですが、その萌芽というか先駆的な要素が伺える仏像ばかりです。



【玉眼の最初例の長岳寺像や、魁偉でダイナミックな内山永久寺伝来・二天像】


云わずもがなですが、長岳寺の阿弥陀三尊像(1151)は、鎌倉新様式の先駆的造形として、次代への胎動を象徴する作品として良く知られています。

307北向不動院②:長岳寺・阿弥陀如来像(重文)~仁平元年(1151)
長岳寺・阿弥陀如来像(重文)~仁平元年(1151)

定朝様をベースとしていますが、和様と云われる世界とはちょっと違う、新たな造形感を感じさせます。
張りのある堂々たる量感で、衣文も太く彫の深い表現となっています。
眼には鎌倉新様式で盛行した新技法の玉眼が嵌入されています。
現存像では、玉眼が使用された最初の作例です。
木寄せ構造面では、康助作・北向不動院像と同様に、主要材の他に小材を複雑に用いる特異な処が共通するということです。

奈良仏師の作と考えられていますが、誰の作であると考えるかにはいろいろな見方があるようです。


玉眼使用で、特異な木寄せ構造という点では、応保2年(1162)頃作の東京国立博物館・毘沙門天像も同様ということです。

307北向不動院②:東京国立博物館・毘沙門天像~応保2年(1162)奈良・中川寺伝来
東京国立博物館・毘沙門天像~応保2年(1162)奈良・中川寺伝来、川端龍子旧蔵

この像は、円成寺や浄瑠璃寺の近くにあった中川寺の十輪院に安置されていました。
大人しい感じの造形ですが、頬の張った丸顔で、動きの少ない堂々とした太造りの体躯をしていて、鎌倉時代を先取りする感もうかがえます。


内山永久寺伝来の東大寺・多聞天像(1159)、持国天像(1178)などは、魁偉な顔貌で、骨太でボリューム感あふれるダイナミックさがあります。

307北向不動院②:東大寺・多聞天像(重文)~平治元年(1159)内山永久寺伝来307北向不動院②:東大寺・持国天像(重文)~治承2年(1178)内山永久寺伝来
(左)東大寺・多聞天像(重文)~平治元年(1159)、(右)東大寺・持国天像(重文)~治承2年(1178)
共に内山永久寺伝来


定朝様の系譜にある温和優美和様の造形とは、明らかに異質の造形感です。



【藤末期に、不連続に突出した鎌倉新様式の北向不動院像
~まだまだ藤原和様の伝統を残す、多くの過渡期像】

これらの奈良の地における奈良仏師・慶派の仏像と、康助作・北向不動像を並べてみてみると、大括りにすると同じカテゴリーに入るのでしょうが、まとめて一括りにするにはちょっと違和感を覚えないわけではありません。

一般的には、藤末鎌初になって、徐々にリアルで力強いか鎌倉新様式に兆しが芽生え始め、それが徐々に伝統的和様表現から、リアルな鎌倉新様式へと発展的に転換していくというふうに考えてしまいます。

長岳寺・阿弥陀三尊像(1151)もまだまだ過渡期的造形に見えますし、運慶青年期の作、円成寺・大日如来像(1176)に至っても、藤原和様彫刻につながる穏やかさを残しています。

307北向不動院②:長岳寺・阿弥陀如来像(重文)~仁平元年(1151)307北向不動院②:円成寺・大日如来像(国宝)~安元2年(1176)・運慶作
(左)長岳寺・阿弥陀如来像(重文)~仁平元年(1151)
(右)円成寺・大日如来像(国宝)~安元2年(1176)・運慶作



ところが、康助作の北向不動院・不動明王像を観ると、鎌倉新様式の兆しどころか、突然一足飛びに鎌倉新様式そのものにジャンプしているように思えるのです。
久寿2年(1155)の制作ですが、30年ぐらい後の鎌倉新様式真っ只中の頃の制作だといわれても、違和感が無いような気もします。



【東国の運慶作・不動像の顔貌に似る北向不動院像
~鎌倉新様式の発生、展開の見直しも必要?】

伊東史朗氏は、北向不動院像の顔貌について、
「康助から3代後になるが運慶作の願成就院不動明王像(文治2年・1186)に見る荒々しい顔つきが北向不動像に一脈通じるところがある・・・・」
(伊東史朗「安楽寿院不動堂本尊(北向不動)と仏師康助・下」仏教芸術266号2003.01)
と述べています。

確かに、北向不動院像の顔かたちは、願成就院や浄楽寺の不動明王像の顔貌と似たものがあるといわれると、その通りだと思ってしまいます。

307北向不動院②:北向不動院・不動明王像(重文)~久寿2年(1155)・康助作
北向不動院・不動明王像~久寿2年(1155)・仏師康助作~顔部

307北向不動院②:願成就院・不動明王像(国宝)~文治2年(1186)運慶作307北向不動院②:浄楽寺・不動明王像(重文)~文治5年(1189)運慶作

307北向不動院②:願成就院・不動明王像(国宝)~文治2年(1186)運慶作..307北向不動院②:浄楽寺・不動明王像(重文)~文治5年(1189)運慶作
(左)願成就院・不動明王像(国宝)~文治2年(1186)運慶作
(右)浄楽寺・不動明王像(重文)~文治5年(1189)運慶作


願成就院諸像(1186)や浄楽寺諸像(1189)の荒々しく豪放ともいえるダイナミックな造形は、運慶が東国武士の気風や好みを容れて創り出したもので、「運慶のオリジナリティ」が発揮されたものというようにも語られたりしています。

ところが、この表現タイプが早くも康助時代に存在したということになると、鎌倉新様式の発生、展開についても、少し考え直す必要があるのかもしれません。



【奈良仏師(慶派)には、硬軟二つの作風が共存?
~和様基調の明快な作風と、荒々しく男性的作風】

伊東史朗氏は、この問題について、奈良仏師の世界に二つの作風が共存していたのではないかと論じています。

「奈良仏師の得意とした作風の諸相が想定される。
つまり、彼らの現存作品群を見渡すと、そこには相異なるふたつの作風が共存しているようで、京都の円派・院派風を基調にしそこに明快なつくりを加味した、強い張りと若々しい表情のものがある一方で、それを超して男性的で荒々しさを宿した作風をも状況によっては表現することができた。
いわば軟硬の両極面のあることに気づく。」
(伊東史朗「安楽寿院不動堂本尊(北向不動)と仏師康助・下」仏教芸術266号2003.01)

と述べて、
「和様をベースにした明快な造形タイプ」と「荒々しい力強い造形タイプ」
の二つの作風タイプ像を、状況対応で制作していたと想定しています。

具体的には、

京都の円派・院派風(和様)を基調とし明快さを加味した作例として
長岳寺・阿弥陀三尊像(1151)、円成寺・大日如来像(運慶作・1176)、瑞林寺・地蔵菩薩像(康慶作・1177)、金剛峯寺・八大童子像(運慶作・1198)など

307北向不動院②:瑞林寺・地蔵菩薩像(重文)~治承元年(1177)康慶作307北向不動院②:金剛峯寺・矜羯羅童子像~八大童子像のうち(国宝)~建久9年(1198)運慶作
(左)瑞林寺・地蔵菩薩像(重文)~治承元年(1177)康慶作
(右)金剛峯寺・矜羯羅童子像~八大童子像のうち(国宝)~建久9年(1198)運慶作



男性的で荒々しさを宿した作風像として、
北向不動院・不動明王像(康助作・1155)、内山永久寺伝来東大寺・多門持国天像(1159・1178)、願成就院諸像(運慶作・1186)、浄楽寺諸像(運慶作・1189)など

307北向不動院②:願成就院・阿弥陀如来像(国宝)~文治2年(1186)運慶作307北向不動院②:浄楽寺・阿弥陀如来像(重文)~文治5年(1189)運慶作
(左)願成就院・阿弥陀如来像(国宝)~文治2年(1186)運慶作
(右)浄楽寺・阿弥陀如来像(重文)~文治5年(1189)運慶作


両要素を兼ね備えたものとして
興福寺南円堂・不空羂索観音像、法相六祖像(康慶作・1189)など

307北向不動院②:興福寺南円堂・不空羂索観音像(国宝)~文治5年(1189)康慶作
興福寺南円堂・不空羂索観音像(国宝)~文治5年(1189)康慶作

を挙げています。

なかなか難しい話で、私などには、なんとも判りかねる処です。
このような作風タイプにうまく分けられるのか、自身の観る眼が全く追い付いていないのですが、「なるほど!」と頷いてしまう気持ちにもなります。
大変興味深い見方の話だと思います。

先に、この時代の京都の仏像と仏師康助の作風という処で、
「康助は、温和優美な和様と、力強い鎌倉新様を使い分けていたのではないか?」
という想定に言及しましたが、

奈良仏師、慶派の世界においても、
「二つの異なる作風を、状況によって駆使していた。」
ということになります。

そんな視点では、これまで考えてみたこともありませんでした。

繰り返しになってしまいますが、運慶の時代の三代も前の康助が、早くも鎌倉新様式そのものの「厳つく、力強く、ダイナミック」な仏像を造っていたというのは、やはり驚きといわざるを得ません。
鎌倉彫刻の新様式の発生から展開、完成という流れについては、いろいろ多様な視点で考えていく必要があるということなのでしょう。


北向不動院の秘仏御開帳に出かけ、康助作の不動明王像を拝したのを機に、本像にかかわる興味深い様々な問題に触れることが出来ました。
康助や奈良仏師事績や作品についての様々な問題や議論について、少しばかりですが勉強してみると、これまで知らなかったことばかりでした。

「藤末鎌初」の仏像の作風、様式展開は、一筋縄ではいかない難しい問題をはらんでいるようです。
正直な処、この時代の仏像彫刻については、興味や関心が薄かったのですが、段々と興味津々になってきたという処です。


北向不動院の不動明王像。

未だ拝されたことのない方は、是非一度、1月16日の秘仏御開帳に出かけられ、鎌倉新様式真っ只中かと見紛うような、康助作像を拝してみられることをお薦めします。


~観仏日々帖【目次】はこちら~

古仏探訪~京都・北向不動院の秘仏・不動明王像 御開帳拝観記 と 仏師康助 〈その1〉  【2024.02.24】

~観仏日々帖【目次】はこちら~

京都市伏見区竹田にある北向不動院というのをご存じでしょうか?

鳥羽離宮の旧地にあるお寺で、ここに「仏師康助作」の平安末期(久寿2年・1155年作)の不動明王像が安置されているのです。

306北向不動院:北向不動院・不動明王像(康助作・久寿2年1155・重文)
北向不動院・不動明王像(平安後期・重文)~久寿2年(1155)・仏師康助作



【年に一日限り(1/16) 開扉の秘仏・不動明王像
~20数年前に仏師康助作であったことが明らかに】

この不動明王像は秘仏で、年に一日、1月16日限りの御開帳となっているのです。

北向不動院は、元々は鳥羽上皇の勅願により建立された寺院で、1月16日というのは、鳥羽上皇の誕生日にあたります。

この北向不動院・不動明王像が仏師康助の制作像であると明らかになったのは、ほぼ四半世紀前、2002年のことでした。
それまで、康助作と確定できる仏像は1体もありませんでした。

まさに驚きの新発見となり、大注目になったのです。



【一度は拝したいものと、正月早々、思い切って京都へ】


私も、新発見のニュースを知ってから、一度は直に拝したいと念じていた仏像です。

正月早々の一日限りの御開帳ということで、なかなか京都まで駆け付けられずに、ズルズルとそのままになっていたのです。

今年こそは、思い切って出かけようと決意し、北向不動院御開帳だけのために京都まで出かけることにしたのでした。



【鳥羽離宮の旧地にある北向不動院】


北向不動院は、京都市営地下鉄烏丸線の竹田駅から歩いて10分ほどの処にあります。

このあたりは、12~14世紀頃まで、代々の上皇によって院の御所として使用されていた鳥羽離宮のあったところです。
旧地には、安楽寿院や近衛天皇陵の多宝塔が残されていて、これらの遺構を眺めながら歩いていくと北向不動院に到着します。

306北向不動院:安楽寿院
安楽寿院

306北向不動院:近衛天皇陵・多宝塔
近衛天皇・安楽寿院南陵~多宝塔



【本堂の厨子内に、「北向き」に安置されている不動明王像】


「鳥羽天皇勅願所~北向不動尊」と刻まれた、大きな石柱が門前に建てられていました。

306北向不動院:北向不動院

306北向不動院:北向不動院
北向不動院

門前の駐車場の処では、御開帳日ということでテントが張られて、参詣者におぜんざいがふるまわれていました。

306北向不動院:秘仏拝観の人々で賑わう北向不動院
秘仏拝観の人々で賑わう北向不動院

拝観受付で内陣参拝券を購入し、本堂入り口の御拝観の列に並びます。

306北向不動院:北向不動院本堂入口~拝観の列
北向不動院本堂入口~御拝観の列

御拝観待ちの行列は、それほどには長くなくて、5~6分で中に入れました。
入り口を入ったところで、修験の装束をまとった僧侶の方から浄めの呪文を一人一人順に戴いて、お堂のなかへと進みます。

目指す不動明王像は、お堂の南側にまさに「北向き」で、お厨子の中に祀られていました。
鳥羽宮の「安鎮」の願いを込めて不動明王像が、北向に安置されたというものだそうです。



【重量感たっぷり、力強くダイナミックな造形に、大きな驚き
~堂々たる姿に圧倒される】

いよいよ康助作の不動明王像の拝観です。

像高:137.3㎝、半丈六の踏み下げ像です。

306北向不動院:北向不動院・不動明王像(康助作・久寿2年1155・重文)
北向不動院・不動明王像(平安後期・重文)~久寿2年(1155)・仏師康助作

大きなお厨子の中いっぱいに祀られています。
お厨子のすぐ傍まで近寄って、じっくり眼近に拝することが出来ました。

大きさもさることながら、その堂々たる姿に圧倒されてしまいます。
あふれる重量感とともに、力強さ、迫力を感じます。
でっぷりとした太造りで、骨太な造形とでもいうのでしょうか。
頭部が大きくて肩幅も広いので、上体が一層大きく見えて、観るものに強い圧を感じさせるようです。

顔立ちの魁偉さも目を惹きます。
眉を厳しくひそめ、口を強いへの字に結んだ顔つきには激しさが秘められています。
眼には玉眼が嵌めこまれていて、生々しい実在感を増しています。

本像の造形の印象は、
「厳つい表情、力強い動勢、重量感たっぷり、ダイナミックな造形」
といったキーワードで表せるのではないかと思います。



【ちょっと気になる体躯のバランスと力感のゆるみ
~戦国時代の2度の大修理によるものか?】

初めて姿を拝したインパクト感から、少し時間をおいて、心落ち着けてじっくりとその造形を見ると、ちょっと気になるようなところも感じます。

正面から見ると、体躯のバランスが、横拡がりというか横幅が広くて、ベタリとした感じがしないでもありません。
お厨子に安置され、斜め横からは拝することが出来ず、体奥の深さがよく判らないせいなのでしょうか。

太造りでボリューム感充分なのですが、肉付きの引き締まり感はちょっと弱くて、やや緩みを感じないわけではありません。
ダイナミックで力強い造形なのだけれども、活き活きとした躍動感、緊張感は今一歩というのが素直な印象でした。

この不動像は、戦国時代(1500年代)に、二度の大修理を経ているということですので、ちょっと気になる点はその修復によるものか、当初からなのかはよく判りません。


いずれにせよ、期待通りというか、期待以上の堂々たる迫力に圧倒された不動明王像でした。



【鎌倉時代の仏像にしか思えない力強い表現に、大きな驚き!
~こんな仏像が、藤末期に京都で造られていたとは‥‥】

驚かされるのは、この不動明王像が平安末期に京都で造られた像だということです。

予備知識なしにその姿を拝すると、鎌倉時代の仏像にしか見えないのです。
力強さと云い、ダイナミックさと云い、いわゆる慶派の鎌倉様式の世界の中で造られたもののように感じるのです。
それも、運慶の時代より後のものかもしれないと思ってしまいそうです。

306北向不動院:願成就院・阿弥陀如来像(運慶作・文治5年1189・国宝)306北向不動院:興福寺南円堂・不空羂索観音像(康慶作・文治5年1189・国宝)
慶派の鎌倉新様式を代表する仏像
(左)願成就院・阿弥陀如来像(運慶作)、(右)興福寺南円堂・不空羂索観音像(康慶作)~共に文治5年1189・国宝



皆さんは、どのように感じられたでしょうか?

そんな仏像が、久寿2年、1155年に仏師康助の手によって造られたというのですから、ちょっと信じられないような気がします。
運慶が活躍する時代の30年以上前のものなのです。



【穏和、優美な和様彫刻一色だった、この頃の京都の造像】


この像が造られた頃の京都の仏像といえば、いわゆる定朝様を継承した穏和、優美な和様彫刻一色であった時代です。
三千院・阿弥陀三尊像(久安4年・1148)、峰定寺・千手観音像と不動・毘沙門像 (久寿元年・1154)などが、この頃の制作像です。

306北向不動院:三千院・阿弥陀三尊像(久安4年1148・国宝)
三千院・阿弥陀三尊像(久安4年1148・国宝)

306北向不動院:峰定寺・千手観音像(久寿元年1154・重文)
峰定寺・千手観音像(久寿元年1154・重文)

このような穏和、優美な仏像が圧倒的主流であった頃に、一方でまさに鎌倉新様式の胎動を象徴するような仏像が京都で造られていたことには、大きな驚きを禁じ得ません。

そんな鎌倉新様式の斬新な仏像を制作した「仏師康助」とは、どのような存在だったのでしょうか?
興味津々という処です。



【北向不動像の作者、仏師康助とは?
~「奈良仏師」の2代目、「慶派」を生んだ仏師系統】

ここからは、仏師康助(生没年不詳)という人物について、少したどってみたいと思います。

まずは仏師系図をご覧ください。

306北向不動院:仏師系図~根立研介著「運慶」ミネルヴァ書房刊所載
仏師系図~根立研介著「運慶」ミネルヴァ書房刊所載

定朝から4代目、仏師頼助を継いでいるのが康助です。
頼助の子息だとみられています。

定朝の後継者は、子息の覚助と弟子の長勢が勢力を持ち、覚助の系統から「院派」と「慶派」が、長勢の系統から「円派」が生まれました。

覚助の次代、頼助は奈良の興福寺に拠点をおいて活動しましたので、頼助の系統は「奈良仏師」と呼ばれています。
御寺仏師とか南京仏師などとも称されたようです。
この奈良仏師の祖、頼助の系統を継いでゆくのが康助であり、その後「慶派」と称されていく康慶、運慶、快慶などに連なっていきます。



【鎌倉彫刻新様式を推進、完成させた奈良仏師、慶派
~穏和、優美な和様彫刻からの革新】

いうまでもなく鎌倉時代彫刻の新様式は、慶派によって推進、完成されたとされています。

円派、院派は、鎌倉時代に入っても、京都を中心に定朝様を継承した伝統的和様の仏像制作を続けます。
一方、慶派は穏和、優美な和様彫刻からの革新を果たし、まさに新様式を確立していくのです。
慶派を中心とする鎌倉時代彫刻の特質は写実性にあり、実在感、力強さなどに象徴されるものです。
また天平復古、宋風摂取がみられる新様式で、日本彫刻史の総決算とも称されています。

この鎌倉新様式の造形は、何時ごろから芽生え、何時ごろから主流となる様式を確立していくようになるのでしょうか?
奈良仏師は、頼助、康助、康朝、康慶・・・・と連なっていきます。

鎌倉新様式の主役ともいうべき康慶、運慶の時代に至る前、いずれの頃から鎌倉新様式の芽生えや端緒が形成されていくのかという問題は、これまでもいろいろな議論がなされていた大きなテーマなのです。



【仏師康助の制作した仏像は?
~古記録に残されている、十数件の造像の事績】

そうした観点からも、仏師康助の制作した仏像というのは、どのようなものであったのかは、誠に興味深い処です。

仏師康助の事績、造仏というのは、古記録などをたどると、10数件の仏像造立の記録が残されています。
次の一覧表のとおりです。

306北向不動院:古記録に記される康助の事績一覧~仏師康助資料(水野敬三郎)美術研究206号1960.05
古記録に記される仏師康助の事績一覧
仏師康助資料(水野敬三郎)美術研究206号1960.05所載



この一覧表は、水野敬三郎氏が「仏師康助資料」(美術研究206号1960.05)に掲載しているものです。
小さくて読みにくいと思います。~~【こちらをクリック】すると拡大図が開きます。

ご覧いただいたらすぐわかるように、康助は藤原忠実と鳥羽院の発願の造像に深くかかわっていたことが明らかです。
(「高陽院御願」というのもありますが、高陽院(かやのいん)というのは、鳥羽院の皇后藤原泰子の女院号です。)
藤原忠実(1078~1162)は、藤原北家で摂政、関白、太政大臣を務めた仁です。
藤原忠実は白河法皇の不興を買いますが、白河法皇没後、鳥羽院との大変良好な関係を保っていきます。

興福寺は藤原氏の氏寺でしたので、忠実が興福寺を本拠とする奈良仏師の康助を多く用いていることも、その忠実と良好関係にあった鳥羽院もまた康助を重用していることも、それぞれ納得できるところです。



【今では、一つも残されていないとされていた、確実な康助作の仏像】


康助の事績は、これだけ古記録に残されているのですが、実際に康助作が確実と云える現存の仏像は、かつては一つも知られていませんでした。

岡直己氏は、
「仏師康助造顕の諸仏が如何に文献所載に依って知ることが出来ても・・・・・・仏師康助の遺作というものは皆目知られていない。」
(岡直己「大仏師康助の遺作に就いて」芸文研究1号1951)
水野敬三郎氏は、
「康助の作品として確定できるものは、残念ながら現在一つも残っていない。」
(水野敬三郎「仏師康助資料」美術研究206号1960.05)
と述べています。



【康助作の可能性が強いとされた、二つの仏像
~三十三間堂千体観音の一体と、金剛峯寺・大日如来像】

こうしたなかで、康助作の可能性が強いといわれていた現存像はあったのでしょうか?
二つの仏像が、康助作とみられるのではないかと論じられていました。

ひとつは、三十三間堂の千体千手観音像のうちの1体・919号像です。

306北向不動院:康助作とみられる三十三間堂・千手観音919号像(長寛2年1165)306北向不動院:康助作とみられる三十三間堂・千手観音919号像(長寛2年1165)
康助作とみられる三十三間堂・千体千手観音919号像(長寛2年1165)

この像は、現存千体観音のうち、創建蓮華王院が完成した長寛2年(1165)の頃の制作とみられる124体中の1体で、最優の出来栄えとされるものです。
この蓮華王院・長寛造像の大仏師が康助であったことから、千体仏大修理の際に調査した丸尾彰三郎氏が、
「大仏師康助の作であると仮定することが出来る。」
(丸尾彰三郎編「蓮華王院本堂千躰千手観音像修理報告書」妙法院刊1957.03)
という見解を示したものでした。
「太造り」の体格とそこからくる「豊か」で「柔らか味」のある肉づけを、康助作という観点から考えているということです。

もう一つは、現在金剛峯寺霊宝館に安置される大日如来像で、壇上伽藍西北の谷上大日堂の本尊であったとみられている像です。

306北向不動院:金剛峯寺・大日如来像~金剛心院後身・谷上大日堂本尊
金剛峯寺・大日如来像~金剛心院後身の谷上大日堂本尊であった像

谷上大日堂は、藤原忠実発願による久安4年(1148)供養の金剛心院の後身で、本像はその創建時の本尊と推定されています。
藤原忠実発願の多くの造像を担った康助が、本像の制作仏師であった可能性が高いと考えられるというものです。



【穏和な和様の伝統継承がベースと考えられていた康助の作風
~京都での造像が中心であった康助の事績】

この二つの康助作の可能性が語られた仏像を見てどのように感じられたでしょうか。

ざっくり一言でいうと、定朝様を基本とする穏和な和様の範疇のなかにある造形表現の像と云えるのではないでしょうか。
康助の事績を見ると、先にみたように、奈良仏師とは云うものの京都での造像が中心で、藤原忠実、鳥羽院発願の造像に多くかかわっています。
京の貴族の好みに叶う造形表現の仏像を造ったであろうことは、想像に難くありません。

金剛峯寺・大日如来像を康助作であるという見解を示している武笠朗氏は、
「彼(康助)の造仏がこうした宮廷貴顕の趣好にかなったことは、その作風が当代円・院派のそれとさほど大きな隔たりがなかったことを示すものであり、ここに定朝様にのっとった保守的な作風が想定されてくる。」
と述べると共に、
(康助の作風は)革新的あるいは意欲的な部分があるとはいえ、それは部分に過ぎず、彼の本分はあくまで定朝様の継承とその刷新にあったと考える点である。
こうした想定が認められるとすれば、本像(大日像)の様式的特質は康助の作風に合致するのではあるまいか。」
(武笠朗「奈良仏師康助と高野山谷上大日堂旧在大日如来像」仏教芸術189号1990.03)
と述べています。

こうしてみると、康助という仏師の作風は、
「宮廷貴顕の好む定朝様を継承した和様の伝統を継承することをベースとした仏師。
こうしたなかで、新たな革新性の芽生えを垣間見えさせた。」
というふうに考えられていたということになるのでしょう。

いわゆる
「鎌倉新様式を強く感じさせるような造形表現をする仏師ではなかった。」
とみられていたという訳です。

長らくこのような認識であったところに、突然、康助作が確実な北向不動院・不動明王像が出現したわけです。
なんとその像容は全くの想定外と云って良い、鎌倉新様式そのものの、力強いダイナミックな造形表現のものであったのでした。

「唯一の康助作品の出現」だけではなく、「康助作の鎌倉新様式像」という二重の大きな驚きとなる、大注目の発見となったのでした。



〈その2〉では、
北向不動院・不動明王像が、仏師康助の作品であることが明らかになった経緯
や、
康助作北向不動院像は、藤末鎌初の鎌倉新様式の発生から展開の中で、どのように位置づけられるのか
といった話を、たどってみたいと思います。


~観仏日々帖【目次】はこちら~

新刊案内~「鎌倉時代仏師列伝」山本勉・武笠朗著  【2024.02.15】

~観仏日々帖【目次】はこちら~

こんな本が出版されました。


「鎌倉時代仏師列伝」 山本勉・武笠朗著
2023年11月 吉川弘文館刊 【292P】 2500円       

305鎌倉時代仏師列伝:山本勉・武笠朗著「鎌倉時代仏師列伝」

鎌倉時代に活躍した、主だった仏師をラインアップして、それぞれの事績、作品、作風などについて解説した本です。

鎌倉彫刻、運慶研究の第一人者、山本勉氏(鎌倉国宝館・半蔵門ミュージアム館長)と、山本氏と東京藝大同窓の武笠朗氏(実践女子大学教授)の共著です。

まずは、目次をご覧ください。

305鎌倉時代仏師列伝:「鎌倉時代仏師列伝」目次01
305鎌倉時代仏師列伝:「鎌倉時代仏師列伝」目次02

ご覧のとおりです。


【鎌倉時代に活躍した39人の仏師についての解説本
~なじみの少ない仏師の名前がズラリ】

全部で、39人の仏師が採り上げられてます。

誰でも知っている、運慶、快慶、湛慶などといった仏師のほかに、「あまりなじみの少ない仏師の名前」がズラリと並んでいます。

いわゆる、定朝に始まる鎌倉時代までの一般的な「仏師系図」というものに、本書採り上げの仏師の名がどれだけ上がっているか見てみました。

305鎌倉時代仏師列伝:仏師系図
仏師系図~「日本史小百科~彫刻」久野健編・近藤出版社刊1985所載
赤色の枠で囲んだ仏師名が「鎌倉時代仏師列伝」採り上げの仏師


16人の仏師の名前が見つかりました。
残りの23名は、この仏師系図にも名前が見えません。

私などは、半分くらいの仏師名は、どこかで見たことがある程度です。
「どんな作品があって、どんな作風の仏師だったのか?」
と尋ねられても、
「ウーン! ごめんなさい、良く知りません」
と、唸ってしまうというのが正直な処です。


本書の紹介文には、このように書かれています。

「鎌倉時代に活躍した運慶・快慶・院尊・湛慶・隆円・善円ら39人の仏師を取り上げ、その生涯と事績、作風の特徴を詳しく解説した一冊。

院政期以後、仏師たちは院派・円派・奈良仏師の三派に分かれていたが、鎌倉時代には奈良仏師から慶派も生まれ、京都・奈良・鎌倉や地方の寺々で腕を振るった。

優れた造仏の技量に加え、時代と社会のなかでの個性豊かな生き様に迫る。」




【採り上げ仏師の事績、作品、作風などが、コンパクトに
~初めての、鎌倉時代仏師を概観する本】

本書のページをめくっていくと、仏師一人当たり5~6ページにまとめられていて、その中で、事績、現存作品、作風の特徴、評価・位置付けなどが、コンパクトに解説されています。

305鎌倉時代仏師列伝:内容ページ01
305鎌倉時代仏師列伝:内容ページ02

その分、事典解説の充実版というような感じで、読んでいて愉しいとか、話の面白味といった処は少ないのかもしれません。
ただ、普段なじみのない仏師とその作品などについて、
「こういう仏師で、こんな作品を残していたのか・・・・・」
と、初めて知ることも多く、そうした点では大変興味深く読むことが出来ました。

運慶、快慶などの有名仏師について書かれた本は、これでもかという程あまた有るのですが、それ以外の鎌倉時代のなじみに少ない仏師の面々について、判りやすくまとめられ、解説された一般書は、本書が初めてなのではないかと思います。

そうした意味では、仏像愛好の方には必携の本といえるのではないでしょうか。

展覧会などで、これらの仏師の作品をご覧になったときなど、どんな仏師だったのかと読み返してみるのに最適です。



【近年、調査研究が進んでいる鎌倉時代以降仏教彫刻
~一昔前までは、関心の少なかったフィールド・・・】

近年、運慶、快慶以降の慶派仏師や、円派、院派の仏師など、新たな視点での鎌倉時代の仏像彫刻の研究が急速に進んできているように思います。

2020年に「日本彫刻史基礎資料集成・鎌倉時代 造像銘記篇」のⅠ・Ⅱ期まで16巻の刊行が完結しましたが、こうした調査、研究の成果によって、鎌倉時代の仏像彫刻の研究は、大きく進展したのではないでしょうか。
本書「鎌倉時代仏師列伝」の著者、 山本勉・武笠朗氏もその編集者として名を連ねられている仁です。
こうしたことが、本書の刊行にも繋がってきているのかなという気がします。

一昔前までは、鎌倉時代の彫刻といえば運慶、快慶、湛慶あたりどまりで、それ以降の仏像彫刻については、仏教彫刻作品としての評価があまりされていなかったのではないかと思います。

古い本を読むと、
「我が国の彫刻は、様式上、その芸術的価値から判ずれば、鎌倉時代をもって終わっているといえる。」
(丸尾彰三郎「大仏師運慶」1940年教学局刊)
「事実上の吾が彫刻史は漠然とした鎌倉後期をもって終わっている。」
(小林剛「鎌倉彫刻史概観」日本彫刻史研究 1947年 養徳社刊)
などと評されていいたりします。

美術史的にみると芸術的評価に値するのは「飛鳥時代~鎌倉時代」までの仏像、また鎌倉時代も運慶、快慶を中心とする時代迄で、それ以降になると類型化、形式化するなど急速に芸術性が衰退してしまうというのです。
大胆に云うと、
「鎌倉後期以降の仏像は、観るべきものが少なく、議論や研究の対象としての関心が薄かった。」
ということなのでしょう。

私も、若い頃からこうしたイメージが刷り込まれているようで、未だに、鎌倉中期以降の仏像には、あまり魅力を感じないというか、強い興味を感じないというのが本音の処です。

著者の山本勉氏は、本書のあとがきに、
「当時(註:山本氏が大学院生の頃)(取り組んだテーマが)研究が進んでいない鎌倉中期以降が対象(註:当時の史料に登場する多くの仏師)だったために、指導教官水野敬三郎先生からは「未開の荒野を行くようなものだ」といわれたものだが
・・・・・・・
(本書は)鎌倉時代の仏師動向を概観できる一書にしたつもりである。
本書が仏像や仏像史を考えるあたらしい視座の参考になればうれしい。」
と語っています。

近年は、「生身仏」「一日造仏」といった鎌倉時代、室町時代の仏像についても注目され、研究が進められているようです。
今般、「鎌倉時代仏師列伝」が一般書として刊行されたことも、こうした時代の流れを物語るものなのかもしれません。



【PR誌「本郷」に連載されていた収録文
~単行本化に際し、大幅に内容充実】

「鎌倉時代仏師列伝」収録文は、吉川弘文館のPR誌「本郷」に連載されていたものです。
2018年~2022年まで、「仏師と仏像を訪ねて」という題名で、全25回にわたって掲載されました。

私は、「本郷」連載中に、図書館でコピーを取って読んでいましたので、単行本が刊行されても、わざわざ購入するまでもないかと思っていました。
連載では25人の仏師が採り上げられていたのですが、単行本を見ると39人の仏師か掲載されていました。
連載では取り上げられなかった、各流派の始祖や重要仏師など14名が増補されていました。
加えて、いくつかの「読み物コラム」や「鎌倉時代仏師年表」も追加されていました。

これは単行本も必携、と購入したわけです。

ご関心のある方には、お手元に置いておかれるのをお薦めです。



~追記~【「仏師の歴史」について知ることが出来るお薦め本】


なお、「仏師の歴史」についてご関心のある方には、こんな本もお薦めです。

いずれも、止利仏師に始まる飛鳥時代からの仏師についてを、テーマにした解説書です。


「ほとけを造った人びと~止利仏師から運慶・快慶まで~」 根立研介著
2013年8月 吉川弘文館刊 【259P】 1800円

飛鳥時代から鎌倉時代までの仏師の姿や、彼らが率いた工房の活動などを、歴史を追った本。
充実した記述で、読み応えがあります。


「仏師の系譜」 佐藤昭夫著
1972年 淡交社刊 【243P】 1000円

飛鳥時代から江戸時代までの著名な仏師、仏所などの活動や作品を辿りながら、仏師という作家の姿を浮き彫りにしようと解説されています。
判りやすく平易で、読みやすい内容です。

305鎌倉時代仏師列伝:根立研介著「ほとけを造った人々」305鎌倉時代仏師列伝:佐藤昭夫著「仏師の系譜」



「日本の仏像と仏師たち」 宇野茂樹著
1982年 雄山閣刊 【191P】 6200円

造仏工、仏師の歴史を丁寧に辿った本ですが、解説書というより論考という方があたっているようにも思います。
仏師の生活という視点でも記されている処は興味深いところです。


「日本の彫刻~歴世の名工を追って~」 小林剛著 
1965年 至文堂刊 【156P】 490円

歴代の著名な仏師をラインアップし、それぞれの事績を古記録から辿ると共に、残された個別の作品について解説された本です。

305鎌倉時代仏師列伝:宇野茂樹著「日本の仏像と仏師たち」 305鎌倉時代仏師列伝:小林剛著「日本の彫刻~歴世の名工を追って~」 




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