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観仏日々帖

こぼ話~古写真を読み解く⑨:興福寺・阿修羅像は、合掌していたのか? 【2022.07.28】


「国民的仏像」と評されるほど圧倒的人気を誇る、興福寺の阿修羅像。

267阿修羅合掌手:興福寺・阿修羅像(奈良・国宝)
興福寺・阿修羅像(奈良・国宝)

眉根をちょっと寄せ憂いを含んだ表情で合掌する阿修羅像の姿に、たまらなく惹かれる方は数多いことと思います。

この阿修羅像ですが、
「当初から、合掌する姿で造られていたのか?」
という話があります。

今更ここでご紹介する必要も無いほど、知られた話ではないかと思います。

このテーマ、以前に観仏日々帖「仏像の手の話①~②」で採り上げたこともあり、今回の「古写真を読み解く」ではスキップするつもりだったのですが、

「残された明治期の古写真に端を発し、その読み解きが議論を呼んだ話」

としては、やはりラインアップに入れておくべきかなと、思い直しました。

皆さん、ご存じの方も多いかとも思いますので、サラリとご紹介したいと思います。



【明治修理前の、手先を失った阿修羅像の貴重な古写真
~工藤精華撮影の「日本精華」収録写真】

こんな写真が残されています。
阿修羅像の手先の一部が亡くなっている、有名な写真です。

267阿修羅合掌手:明治修理前の阿修羅像古写真~工藤精華撮影・日本精華第1輯収録
明治修理前の手先の亡い阿修羅像古写真
工藤精華撮影・日本精華第1輯収録


明治41年に刊行された、工藤精華撮影出版の「日本精華・第1輯」に収録されています。
阿修羅像が、明治35~8年(1902~05)に美術院によって修理される前、明治27年(1894)に撮られた貴重な写真です。

この写真を撮影した工藤利三郎・精華(1843~1929)は、奈良の地で、はじめて古美術写真、仏像写真を撮影し販売した、「奈良の仏像写真の草分け、先駆者」と云える人物です。
阿修羅像の修理前写真が掲載されている「日本精華」は、個人出版の超豪華古美術写真集で、明治41年(1908)から大正15年(1926)まで、18年間にわたり全11輯が刊行されました。

267阿修羅合掌手:日本精華第1輯(明治41年刊)

267阿修羅合掌手:日本精華第1輯収録の興福寺・阿修羅像古写真(明治修理前)
日本精華第1輯(明治41年刊)と阿修羅像古写真収録ページ


そこに掲載された古写真は、明治年間の仏像写真、古美術写真を知る記録としての文化的意義が大変大きなもので、近代文化財修理が進められる以前の写真、行方不明の文化財写真も残されており、学術的にも価値の高いものです。



【明治35~8年の修理により現在の合掌手の姿に
~美術院の新納忠之介が復元修理】

阿修羅像の欠損した手の修理は、明治35~8年(1902~05)に興福寺の仏像修理が美術院による修理によって、現在の姿に修復されました。

267阿修羅合掌手:興福寺・阿修羅像
現在の興福寺・阿修羅像

この時、阿修羅像は合掌している姿に復元されたのです。
本像は脱活乾漆造りなのですが、復元部分は木彫で補われています。
近づいてよく観ると、右手の臂から手先までが材質の調子がちょっと違っていて、木彫となっていることが判ります。

阿修羅像の手先が欠失したのは、享保2年(1717)の興福寺の大火災で西金堂が焼失した時、お堂から運び出された際の損傷によるものと思われます。
この火災以来、損傷したままになっていたのが、明治35年の美術院による修理の時に、新納忠之介によって現在の姿に復元されたというわけです。

267阿修羅合掌手:明治期に阿修羅像を修理した美術院・新納忠之介
明治期に阿修羅像を修理した美術院・新納忠之介

新納忠之介は、阿修羅像の第一手は合掌していたものと考えて、このように復元修理したのに違いありません。
その時の正面の左右の腕のバランスから、ごく普通に合掌手が自然な姿であろうとされたのではないでしょうか?

この明治の復元修理以来、阿修羅像は当初から合掌手の姿であったというのが当然のこととされて、長らく疑問を呈されることなどは有りませんでした。



【修理前古写真と現在の姿を較べると、いくつかの相違点、疑問点が…】


ここで、阿修羅像の明治修理の前の工藤精華撮影の古写真と、現在の姿の写真とを見比べてみたいと思います。

267阿修羅合掌手:明治修理前の阿修羅像古写真(工藤精華撮影)

267阿修羅合掌手:現在の阿修羅像
(上段)明治修理前の阿修羅像古写真(工藤精華撮影)
(下段)現在の合掌手の阿修羅像


ご覧いただくと、次のような点に気づかれることと思います。

・修理前古写真では、合掌手の左手の手のひらは、わずかに外開きになっているように伺え、合掌していたにしては不自然で、このままの姿で合掌するのは難しそうに見えること。

・第1手の肘の張りは、修理前では両脇が締まって肘が下がっているのに対して、修理後の姿は、肘が外に広がるように張り出していること。

・修理後の合掌手の掌の位置が、正中線から向かって右に明らかにずれていること。



【合掌手が、正中線から少し横にずれた姿となっている阿修羅像】


修理にあたった新納忠之介は、阿修羅像を合掌手に復元するために、外開きになった左の手のひらを真直ぐにするために内側に回転させ、腕から肩にかけての角度を外に広げ張り出させたのだと思われます。
それでも左手の掌は、正面の真ん中までは戻らなかったために、合掌手の位置が正中線から少し横にずれた姿になったのだろうと推測されます。

この合掌手が、正中線からちょっとズレている問題については、拝者の視線の位置、角度から意図的にそのように造られたのだとする見方もありました。

「阿修羅像は、西金堂の正面に向かって左奥、拝者が斜め左側に像を観る位置に祀られているので、拝者から一番バランスよく見えるように合掌手の位置がずらされている。」

というものです。



【「阿修羅像は合掌していなかった」との問題提起が
~古写真を読み解くと、持物を捧げ持っていた可能性が】

一方で、修理前の古写真の姿から考察すると、
「阿修羅像は、元々は合掌した姿ではなかったのではないか?」
という疑問も提起されました。

この問題提起を最初に文章にして発表した方は、山岸公基氏(奈良教育大学教授)だと思います。
次のような論考を発表されています。

「阿修羅の手」月刊奈良38巻11号・1998年刊所収
「阿修羅像は合掌していなかった」仏教新発見2号・興福寺(朝日新聞社刊)2007.07所収

山岸氏は、明治の修理前写真と現状を比較し、第一手の角度が、かなり外に広げられていることを指摘したうえで、
「つまり阿修羅は合掌しているものという先人見のもと、明治修理に際して、当初の左手指先が合掌らしく正中に近くなるよう、胸前にささげた腕の肩からの角度が改変されたのではないだろうか。」
(「阿修羅像は合掌していなかった」仏教新発見2号)
と述べると共に、
「興福寺阿修羅像の内省的な美しさには、胸前に法輸を捧げる求心的なポーズが、広元千仏崖の作例にもまして似つかわしいのではないかと、私はひそかに夢想している。」
(「阿修羅の手」月刊奈良38巻11号)
として、

「第一手は、持物を捧げ持つような姿であったのではないか?」

との見方を示したのでした。



【合掌しているとは限らない阿修羅像の姿
~中国、日本の作例では両方のスタイルが存在】

阿修羅像の作例を見ると、合掌しているものと、合掌していないものとがあるようです。

我が国での阿修羅像の古い作例は少ないのですが、法隆寺五重塔の塔本塑像(奈良・国宝)、と三十三間堂の二十八部衆の一躯(鎌倉・国宝)が知られています。
法隆寺の阿修羅像(奈良・国宝)は手先が欠損していますが合掌していません。

267阿修羅合掌手:法隆寺五重塔塔本塑像・阿修羅像
法隆寺五重塔塔本塑像・阿修羅像(奈良・国宝)

三十三間堂像像の方は、胸前で合掌しており、現在の興福寺阿修羅像と同じ手の姿に作られています。

267阿修羅合掌手:三十三間堂・阿修羅像
三十三間堂・阿修羅像(鎌倉・国宝)

中国の遺例をみても、第一手が合掌している作例の他に、持物を胸前に執る姿のものがあるようです。

山岸氏は、
・法輪を捧げ持つ例~四川省の広元千仏崖の釈迦多宝仏窟・阿修羅像(8C前半)
・法螺貝を捧げ持つ例~敦煌莫高窟第158窟阿修羅像壁画(8C末~9C)
があることを挙げて、

興福寺阿修羅像は、本来は合掌手ではなく、持物を捧げる姿であった可能性があるとの見方を指摘したというわけです。

267阿修羅合掌手:法輪を捧げ持つ阿修羅像~四川省の広元千仏崖の釈迦多宝仏窟・阿修羅像(8C前半)267阿修羅合掌手:法螺貝を捧げ持つ阿修羅像~敦煌莫高窟第158窟阿修羅像壁画(8C末~9C)
(左)四川省広元千仏崖の釈迦多宝仏窟・阿修羅像(法輪を持つ)
(右)敦煌莫高窟第158窟阿修羅像壁画(法螺貝を持つ)


267阿修羅合掌手:合掌する阿修羅像~四川省の広元千仏崖牟尼閣窟阿修羅像(唐時代)
四川省広元千仏崖牟尼閣窟・阿修羅像~唐時代(合掌している)



【興福寺としては「合掌のカタチしか考えられない」という立場】


この「阿修羅は合掌していなかった」という問題提起に対して、興福寺のお寺としては真っ向から反対で、

「阿修羅は合掌していた。合掌像の姿でなければならない。」
「西金堂の釈迦集会像は、金光明王経の夢見金鼓懺悔品に基づいて構成さたもので、阿修羅がたどった宗教遍歴を念頭に置けば、合掌のカタチ以外は考えられない。」

という立場でした。



【西金堂・釈迦集会群像の典拠経典と、阿修羅像の造形表現の由縁は?】


このあたりのことを考えるには、

興福寺西金堂の釈迦集会群像がどのような経典、信仰にもとづいて造立されたものなのか?

その眷属像である阿修羅像が、どうして憂いを含んだ切なげな表情に表現されているのか?

ということについて、みていく必要があろうかと思います。



【「金光明最勝王経~夢見金鼓懺悔品」に描かれる「悔過の情景」を表した西金堂群像】


興福寺の西金堂は、藤原不比等の妻であった橘三千代の一周忌供養として、娘の光明皇后の発願により天平6年(734)に建立されました。
造立された釈迦集会群像は、入唐僧道慈がもたらした「金光明最勝王経」巻第4の「夢見金鼓懺悔品」(むけんこんくさんげぼん)に描かれる懺悔の情景を形にしたものと云われています。

267阿修羅合掌手:西金堂・釈迦集会群像の情景~京博本興福寺曼陀羅(鎌倉・重文)の西金堂部分~阿修羅像は向かって左の一番奥
西金堂・釈迦集会群像の情景が描かれた京博本興福寺曼陀羅(鎌倉・重文)
阿修羅像は向かって左上の一番奥に描かれている


その情景というのは、
「インドの霊鷲山にあって法を説く釈迦如来のもとに、妙幢菩薩がやってきて、夢で見た体験を感動して語る。
その夢では、大きな金色の鼓が一人の婆羅門によって打ち鳴らされ、懺悔の方法とその功徳が美しい韻文で説かれた。
妙幢菩薩はその内容を全て覚えていて、釈迦やその説法に集まった聴衆に説き聞かせる。
聴衆も感じ入って耳を傾けた。」
というものです。

即ち、西金堂の堂内で、群像を前にしながら「懺悔の法会」が行われたことを意味するものです。



【本来の阿修羅は、闘争を好む悪神~普通は、恐ろしい鬼神の姿で表現】


群像のなかの八部衆の一人である阿修羅というのは、どのような存在なのでしょうか?

阿修羅は釈迦を護持する八部衆の一つですが、非天ともいい、本来は闘争を好む悪神で、人々に災いをもたらす存在でした。
それが、釈迦の導きで仏法に目ざめ、釈迦の春属になったとされます。
ですから阿修羅像は、三面六臂の「恐ろしく怖い鬼神の姿」で表されるのが普通です。



【悪神が釈迦に帰依し、心から懺悔している姿の興福寺の阿修羅像
~切なく憂いを含んだような造形表現となっている訳】

ところが、興福寺西金堂の阿修羅像は、忿怒の表情にあらわされることは無く、「切なげで憂いを含んだ表情」に造形されてるのはどういう訳なのでしょうか。

267阿修羅合掌手:憂いを含んだ表情の興福寺・阿修羅像
憂いを含んだ表情の興福寺・阿修羅像

その理由については、このように解されています。

「阿修羅の切ない表情は、妙幢菩薩の話に打たれ、心から懺悔する様子を表していると見なければならない。
阿修羅だけでなく、他の八部衆も同じような気持ちを懐いたのである。」
(東野治之「阿修羅の表情」図書・岩波720号2009.02)

「こうして見てくると、あの阿修羅像の魅力ある表情は、懺悔の心を表している可能性が高い。」
(東野治之「阿修羅像と天平文化」阿修羅を究める・興福寺監修2001年小学館刊所収)

「阿修羅像のやや眉をひそめた厳粛で意志的な表情は、まさに、金鼓の大きな響きを全身に泌み入るように浸透させ、響きが微妙に消えるまで耳を澄まして懺悔し、心を浄化させようとするそのプロセスを、そして法の説く教えに静かに耳を傾ける少年の敬虔な心情を表したものと考えられる。」
(金子啓明「阿修羅像の意味するもの」阿修羅を究める・興福寺監修2001年小学館刊所収)

西金堂の阿修羅像は、本来闘争を好む悪神、恐ろしい鬼神であった阿修羅が、釈迦に帰依し、これまで悔いて心から懺悔している有様を表しているものであるということです。

ご紹介した専門家の見解は、阿修羅像が合掌していたか否かについての言及はありません。
ただ、興福寺のお寺としての立場に立てば、このように懺悔する阿修羅像に姿は、
「合掌像の姿でなければならない。」
「合掌のカタチ以外は考えられない。」
ということになるのは、当然のこととなるのでしょう。



【「国宝 阿修羅展」に併せて実施された科学的研究調査
~いろいろな場で発表された研究成果】

今から10年ちょっと前、2009年に東京国立博物館と九州国立博物館で「国宝 阿修羅展」が開催されたのを、覚えておられるでしょうか。

267阿修羅合掌手:東京国立博物館「国宝 興福寺展」
東京国立博物館開催「国宝 興福寺展」2009年

入場者数が165万6千人という、日本美術の展覧会では空前の記録となり、興福寺・阿修羅像の国民的人気の凄さを、今更ながらに、思い知らされる展覧会となりました。

この展覧会に併せて、阿修羅像のX線CTスキャンが実施されるなど、綿密な科学的調査研究が行われました。
2017年には、調査の新知見を基にした「興福寺阿修羅像1300年の新事実」という番組がNHKテレビで放送されたほか、研究成果発表のシンポジウムも数か所で開催されました。

シンポジウムの成果発表をまとめた単行本、
「阿修羅像のひみつ」 2018年 朝日新聞出版刊 194P 1700円
も、刊行されました。

267阿修羅合掌手:「阿修羅像のひみつ」 2018年 朝日新聞出版刊

テレビをご覧になった方、単行本を読まれた方も多いのではないかと思います。



【科学的研究調査結果の結論は「阿修羅は合掌していた!」】


この調査研究において、「阿修羅像は合掌していたのか否か」という問題についても科学的な復元研究が行われました。

科学的研究結果の結論は、

「阿修羅は、合掌していた!」

というものでした。



【過去の損傷、修理で、肩が脱臼し漆を埋めて補正されていた阿修羅像
~当初の姿に想定復元すると正中線で合掌する姿に】

CTスキャンによる科学的調査で、阿修羅は合掌していたと考えられる根拠については、次のように述べられています。

(CT画像から判断すると)新納が明治35年から38年に修理した時には、前に出した第1手の左腕が脱臼したように下がっていて、不安定にぐらぐらと動いていたに違いない。
・・・・・・・・・
またいつの修復かは不明であるが、両脇の下に漆を詰めて腕の角度を調整している。
二度目の修理が明治時代と推定される。
新納らは両腕の亀裂を漆で修理する際、腕の位置や角度を元に戻せば合掌するが、最初の修理で左腕がずれて固定されてしまっていたので、像を壊さずにできる限り当初の姿に近づけようと努力したのではないかと考える。

さらに、両腕の脇の下に木屎漆と思われる接着剤が詰められており、両肘を外側に開き気味に押し上げていることが判明した。
さらに左肩の内部を見ると肩と腕を固定する釘が抜けて、隙間が出来ていた。
釘穴の位置を元に戻すと両腕は脇が締まり左腕は斜め右上に13ミリ移動する。

これらの観察結果から阿修羅像の当初の形に復元すると、両腕は脇が締まり、左腕は斜め上に移動することになる。
その結果、両手は正中線にほぼ合致すると推定される。」
(今津節生「X線CTスキャナによる阿修羅像の調査」阿修羅像のひみつ 2018年朝日新聞出版刊所収)

267阿修羅合掌手:阿修羅像のCTスキャン画像の解説図~2017.02.22付朝日新聞記事掲載図

267阿修羅合掌手:阿修羅像の科学的調査による想定復元図~2017.02.22付朝日新聞記事掲載図
2017.02.22付朝日新聞記事に掲載された阿修羅像合掌手の科学的調査結果解説図
(上段)CTスキャン画像の解説図、(下段)想定復元図
科学的調査の結果がわかりやすく図解されている


CTスキャン画像を見ると、阿修羅像は過去の損傷、修理により、左肩が脱臼したようにズレていて、その隙間を木屎漆で埋めていたことが判る。
工藤精華の古写真で、左手の掌が外開きになり正中線からずれているのはそのためで、後世の損傷、修理部分を復元すると、両手は合掌していたと考えられるという訳です。

さらに、仏像修復家の矢野健一郎氏が、CT画像により、実物大の心木と同じ木取りをして、心木部材を再現し、構造の復元を行ったところ、阿修羅像の第1手の両腕は正面で合掌していたことが判ったということです。

267阿修羅合掌手:矢野健一郎氏制作の阿修羅像心木復元模型~合掌している
矢野健一郎氏制作の阿修羅像心木復元模型~合掌している



【阿修羅像合掌問題論争は、「合掌していた」ということで決着か?】


以上のとおり、科学的調査研究の結果としては、
「阿修羅像は、合掌していた。」
という結論に至ったということになりました。

工藤精華が明治期に撮影した「阿修羅像の修理前の古写真」の読み解きから問題提起された
「阿修羅は合掌していたのか? 持物を捧じていたのか?」
という疑問については、様々な議論がありましたが、今回の科学的調査結果による限りでは、
「阿修羅は合掌していた」
ということで決着したと云えるのでしょうか?。



【明治修理時には、大問題になるとは思いもよらなかったに違いない合掌手への復元】


この阿修羅の合掌問題の議論を振り返ってみて、ふと思うことがあります。

明治35年に阿修羅像の修理を行った新納忠之介は、この阿修羅像が合掌していたか否かが、将来に重要な問題として議論されるなどとは、夢にも思わなかったに違いないと・・・・・

というのは、今では国民的仏像とまで云われる超大人気の阿修羅像ですが、明治の修理当時は、あまり評価も注目もされていませんでした。
修理にあたった新納忠之介にとってみれば、思い切って言えば「数のうちの一つ」といった仏像ではなかったかと思われるからです。



【明治期には、あまり評価されていなかった八部衆、阿修羅像
~人気仏像になったのは大正以降のこと】

明治23年(1890)刊の国華第4号の「興福寺金堂ノ佛像」では、十大弟子・八部衆は、
「美術上ノ巧妙ハ甚タ高キモノニ非ラス」
と、美術作品としての出来は今一歩だと評されています。

また、明治43年(1910)刊の官製美術書「国宝帖」では、十大弟子・八部衆は
「等閑に付することなかれ」
と、無視するほどではないという程度の評価になっています。

明治30年(1897)、古社寺保存法が制定され、優れた文化財の国宝指定がスタートします。
興福寺の仏像も北円堂諸像などが逐次国宝に指定されていくのですが、阿修羅像を含めた八部衆像は、5年後、4回目指定の明治35年(1902)で、興福寺諸像のなかでは最後の方で、やっと国宝指定されているのです。
当時の評価が、さほどではなかったことが伺えます。

興福寺の十大弟子・八部衆像の人気が高まったのは大正年間からのことです。
なかでも阿修羅像はその憂いを含んだ美少年を思わせる顔貌が称賛され、興福寺を代表する人気仏像として愛されるようになっていきました。

近代における阿修羅像の評価の変遷については、HPの「近代仏像評価の変遷をたどって」のなかの「興福寺・阿修羅像は、いつごろから人気NO1仏像になったのか」で詳しく採り上げたことがありますので、ご覧いただければと思います。



【「国民的仏像」となったからこそ、大関心を呼んだ阿修羅の合掌問題
~明治期評価のままであれば、採り上げられることもなかったかも】

今では「国民的仏像」とまで言われる阿修羅像のことですから、
「阿修羅は合掌していたのか?」
という話も、大変に重要な問題として注目され、これほどまでの関心を呼ぶテーマになっています。

もし、阿修羅像の評価が、明治期の評価程度のままであったとしたら、合掌手問題も、さほどの関心事とはなっていなかったことでしょう。

新納忠之介が阿修羅像の手の復元修理をした時は、さほどに評価注目されていなかった十大弟子・八部衆像のなかの一躯に過ぎない像であったに違いありません。
まさか自分の行った復元が、100年後の後世にこれほどまでの大議論になろうとは、想像だにしなかったのではないでしょうか?



【ふと空想してしまう、西金堂・釈迦集会群像造立時の有様
~一眷属に過ぎない阿修羅像の姿形に、どれほどこだわったのだろうか?】

もう少し想像を逞しくして、西金堂の釈迦集会群像が造立された時にまで立ち戻ると、阿修羅像の姿形は、どれほど迄のこだわりを以って造られたのであろうかと思うことがあります。

釈迦集会群像のなかでは、阿修羅像は決して中心的仏像ではなく、数多くの眷属像のうちの一つに過ぎなかったはずです。
少なくとも、現在われわれが阿修羅像を国民的仏像と評しているほどの重要な位置付けであったはずはなく、阿修羅像の造形について最重要のウエイトはおかれていなかったのであろうと想像されます。

鎌倉時代の興福寺の安置仏を知ることが出来る京博本・興福寺曼荼羅図(鎌倉・国宝)には、西金堂の釈迦集会群像の安置仏も描かれており、その中に阿修羅像の姿を見つけることが出来ます。

267阿修羅合掌手:京博本興福寺曼陀羅(鎌倉・重文)に描かれる西金堂・阿修羅像
京博本興福寺曼陀羅(鎌倉・重文)に描かれる西金堂・阿修羅像
実際の阿修羅像に姿とかけ離れ、合掌もしていない


そこに描かれる阿修羅像は、ご覧のとおり、現在の阿修羅像の姿とは随分かけ離れていて、合掌もしていません。
当時は、群像のなかの眷属の一つに過ぎない阿修羅像の姿形がどのように描かれるかには、そこまでのこだわりはなかったのかもしれません。


今や、国民的仏像として日本を代表する傑作とされる興福寺・阿修羅像。

「阿修羅は合掌していたのか?」

我々は、この疑問やその意義意味について、少しこだわり過ぎているのかもしれません。


こぼれ話~古写真を読み解く⑧:見つかった古写真から明らかになった「藤田美術館・空也上人像」の原所在 【2022.07.10】


前回は、
「お寺に残された仏像古写真の読み解きから、仏像の行方(現所蔵先)を突き止めることが出来た。」
という話をご紹介しました。


今回は、それとは逆に、
「美術館に所蔵される仏像の元あったお寺(原所在)が、古写真が見つけられたことにより明らかになった。」
という話のご紹介です。



【藤田美術館所蔵の空也上人像
~見つかった古写真から、その伝来が明らかに】

その仏像というのは、藤田美術館に所蔵されている空也上人像です。

266藤田空也像:藤田美術館蔵・空也上人像(南北朝~室町)
藤田美術館蔵・空也上人像(南北朝~室町)

近年、この空也像のいくつかの古写真が見つかり、その読み解きによって、奈良市にある隔夜寺に伝来した像であることが明らかにされたのです。



【ほとんど知られていなかった「藤田美術館の空也像」
~六波羅蜜寺の空也上人像があまりにも有名】

藤田美術館の空也上人像というのを、ご存じでしょうか?

空也上人像と云えば、なんといっても六波羅蜜寺の康勝作・空也上人像(鎌倉・重文)があまりにも有名です。

266藤田空也像:六波羅蜜寺・空也上人像(鎌倉・重文)
六波羅蜜寺・空也上人像(鎌倉・重文)

今年(2022)3月に東京国立博物館で開催された「空也上人と六波羅蜜寺展」でも、看板像として出展され、大人気となりました。
一方、藤田美術館の空也上人像というのは、館蔵品としても大変地味な作品で、ほとんど知られていなかったのではないかと思います。
私も、この話題が紹介される迄は、その存在すら全く知りませんでした。

藤田美術館の空也上人像も、六波羅蜜寺蔵の姿とほぼ同じで、口内から銅線を伸ばし、涌雲に乗る6躯の化仏を付して「南無阿弥陀仏」と唱えるさまをあらわしています。
像高:96.7㎝の彩色、玉眼像で、南北朝~室町時代頃(14~15C)の制作ということです。



【藤田傳三郎コレクションを収蔵する藤田美術館
~国宝・曜変天目茶碗などで有名な、国内屈指の私立美術館】

藤田美術館は、明治の政商、藤田傳三郎と子息の平太郎、徳次郎によって築かれた膨大なコレクションを収蔵する美術館です。

266藤田空也像:藤田傳三郎
藤田傳三郎

藤田美術館の所蔵品と云えば、なんといっても国宝の曜変天目茶碗(南宋・水戸徳川家伝来)や、傳三郎が死の床で念願の落札を果たし入手した交趾大亀交合(明・重文)、紫式部絵詞(鎌倉・国宝)などが大変有名な処で、国宝9件、重要文化財53件を有する、国内屈指の私立美術館です。

266藤田空也像:藤田美術館蔵・耀変天目茶碗(南宋・国宝)266藤田空也像:藤田美術館蔵・交趾大亀交合(明・重文)
藤田美術館蔵 (左)耀変天目茶碗(南宋・国宝)、(右)交趾大亀交合(明・重文)

仏像では、興福寺伝来の快慶作・地蔵菩薩像(鎌倉・重文)や千体仏像50躯、法隆寺五重塔・塔本塑像の2躯(羅漢・長者像)あたりが知られた所蔵品ではないかと思います。

これらの名立たるコレクションの中で、室町時代の無指定の空也上人像などは、全く知られていなくて当然という処ではないかと思います。



【3年前の「藤田美術館展」で、俄かにクローズアップされた空也上人像
~新聞各紙が「英国王室古写真から伝来判明」と報道】

3年前の2019年4月のことです。
奈良国立博物館で「国宝の殿堂 藤田美術館展」が開催されたのですが、この知られざる空也上人像のことが、突然クローズアップされるニュースが、新聞各紙で報道されました。

こんな見出しの記事です。

「藤田美術館の空也上人立像  英王室の写真にルーツ  明治時代や奈良の古刹に?」
(朝日新聞 2019.4.19 夕刊)

「大阪・藤田美術館の空也上人立像  明治初期まで奈良に?  英国からの確認で判明   隔夜寺に旧蔵の可能性」
(奈良新聞 2019.4.18)


266藤田空也像:藤田美術館・空也像の伝来を報じる朝日新聞 2019.4.19付夕刊記事
空也像の伝来を報じる朝日新聞 2019.4.19付夕刊記事

新聞記事の要旨は、つぎのようなものです。

「藤田美術館の所蔵する空也上人像について、明治時代には奈良市の古刹、隔夜寺に安置されていた可能性が高いことが、奈良国立博物館の調査で、明らかになった。
英王室が所蔵する明治期に撮影された古写真に空也像の写真が含まれており、その出自をたどる調査の過程で、来歴が判明した。」

ちょっとビックリする話なのですが、英国王室所蔵の日本の古写真コレクションの中に、藤田美術館・空也上人像の古写真が存在するのが見つかったというのです。
そして、この古写真の入手経緯などをたどっていく過程で、奈良隔夜寺伝来の像に違いないと思われることが明らかになったというのです。

これを明らかにしたのは、前回ご紹介した、興善寺に残る古写真から仏像の行方を突き止めた奈良国立博物館の山口隆介氏でした。

新聞報道に至るいきさつなどを、ちょっと詳しくたどってみたいと思います。



【きっかけは、英国からの「王室所蔵古写真の来歴」問い合わせ
~英王室王子が日本旅行時(明治15年)に入手した古写真】

きっかけは、英国王室のコレクションを管理する「ロイヤル・コレクション・トラスト」からの、奈良国立博物館への問い合わせでした。

「藤田美術館展」開催の直前の3月のことです。
「コレクションに、日本の仏像などを写した古い写真があるが、これらの写真の来歴などについて知りたい。」
というものであったようです。

コレクションの古写真というのは、英王室のアルバート王子、ジョージ王子の二人が明治12年から15年(1879~82)にかけて世界巡行旅行をした際に、入手、撮影した9冊の写真のアルバムでした。
両王子は、日本を明治14年(1881)に訪れているのですが、アルバムの1冊は日本の写真となっていて、その中の約80枚は奈良由来の仏像や古寺を撮影したものだったのです。



【奈良博覧会出品法隆寺献納宝物など、多くの貴重な仏像、宝物の古写真が】


これらの写真を見てみると、法隆寺や興福寺、東大寺などの仏像や堂塔の写真もあるのですが、圧倒的に多くは奈良博覧会に出展された宝物や仏像を撮影したと思われる写真でした。

「ロイヤル・コレクション・トラスト」所蔵の英王室王子日本旅行時入手の古写真

266藤田空也像:ロイヤル・コレクション・トラスト所蔵の古写真~法隆寺金堂・四天王像(飛鳥・国宝)
法隆寺金堂・四天王像(飛鳥・国宝)

266藤田空也像:ロイヤル・コレクション・トラスト所蔵の古写真~奈良博覧会展示の法隆寺献納宝物・小金銅仏(東博蔵)
奈良博覧会展示の法隆寺献納宝物・小金銅仏(東博蔵)

266藤田空也像:ロイヤル・コレクション・トラスト所蔵の古写真~奈良博覧会展示の法隆寺献納宝物・伎楽面(東博蔵)
奈良博覧会展示の法隆寺献納宝物・伎楽面(東博蔵)

法隆寺献納宝物の四十八体仏や伎楽面などの写真が、数多く含まれています。
所謂、法隆寺献納宝物は、明治11年(1878)「奈良博覧会に出品された法隆寺の宝物」を一括して皇室に献納したものなのですが、奈良博覧会出品当時の貴重な写真が残されていたというわけです。

これらの古写真は、「ロイヤル・コレクション・トラスト」のHPに掲載されていて、いつでも見ることが出来ます。
「ROYAL COLLECTION TRUST」 HP の「COLLECTION」メニューの中から「NEAR YOU」を選択して、表示される世界地図をスクロールして「奈良」の位置に合わせてクリックすると、コレクション所蔵古写真を見ることが出来ます。




【コレクション古写真から、藤田美術館・空也像の古写真を発見!
~英国王子は、この空也像を東大寺で実見】

山口隆介氏は、
「コレクションのホームページで公開されている写真を検索し、その1枚が藤田美術館を調査したときに見た空也上人立像に、そっくりなことに気づいた。」
(朝日新聞 2019.4.19)
のだそうです。

266藤田空也像:ロイヤル・コレクション・トラスト所蔵の空也上人像古写真~現藤田美術館所蔵
英国ロイヤル・コレクション・トラスト所蔵
空也上人像古写真~現藤田美術館所蔵


確かに、この古写真は、藤田美術館の空也上人像の写真に間違いありません。
この写真は、両王子が来日した明治14年(1881)以前に撮影されたものであることは確かですが、何処で撮られたものなのでしょうか?

台紙部分には 「Ku-ya Sho-nin,Nara」 と書き込まれていて、奈良の地に関わる像のようです。

266藤田空也像:空也上人古写真が貼られているアルバムページ~写真下台紙に「Ku-ya Sho-nin,Nara」との記述がある
空也上人古写真が貼られているアルバムページ
空也像写真下台紙に「Ku-ya Sho-nin,Nara」との記述がある


この旅行に随行した家庭教師のドルトンが出版した旅行記に、注目すべき事実が記されていたのです。
「明治14年(1881)11月10日に東大寺を訪れた際、大仏殿内に建てた仮設の小屋に展示されていた『2体の燈籠を持った鬼』や『口から人を吐き出す仏』の像を目にした。」
との一節があったのです。

『2体の燈籠を持った鬼』というのは興福寺の天燈鬼、龍燈鬼像のこと、『口から人を吐き出す仏』というのは空也上人像(藤田美術館蔵)のことに間違いなく、共にその写真がアルバムに収録されています。

266藤田空也像:ロイヤル・コレクション・トラスト所蔵の古写真~興福寺・天燈鬼、龍燈鬼像(鎌倉・国宝)
英国ロイヤル・コレクション・トラスト所蔵の古写真
興福寺・天燈鬼、龍燈鬼像(鎌倉・国宝)


この明治14年(1881)には、第6次奈良博覧大会が東大寺を展示会場に5月まで開催されていましたので、両王子がこれらの像を東大寺で実見したというのは、博覧会展示像の一部がそのまま会場の東大寺に存置され展示されたいたものと思われます。

266藤田空也像:ロイヤル・コレクション・トラスト所蔵の古写真~東大寺・大仏殿
英国ロイヤル・コレクション・トラスト所蔵の古写真
東大寺・大仏殿




【奈良で空也ゆかりのお寺と云えば「隔夜寺」
~空也創始の隔夜修行の拠点であった寺院】

古写真の空也上人像は、奈良ゆかりの像のようなのです。

「奈良の地における空也上人に関わるお寺」というと、想定されるのは「隔夜寺」ということになります。
隔夜寺は、奈良市内、新薬師寺に近い高畑町にあります。

266藤田空也像:隔夜寺
隔夜寺(奈良市高畑町)

空也創始とされる隔夜修行(奈良と長谷寺との間を一晩おきに泊まり歩く修行)の拠点とされた寺院です。
お寺の門の外側には、現在「空也上人舊跡」と刻された石碑が建てられています。



【隔夜寺から見つかった、もう1枚の空也像の古写真
~大正時代に奉納された、奈良博覧会での撮影写真】

山口氏が隔夜寺をあたってみると、なんとこの空也上人像の古写真がお寺に残されているのが見つけだされたのでした。
発見されたのは、ご覧の写真です。

266藤田空也像:隔夜寺に残る空也上人像古写真
隔夜寺に残る空也上人像古写真

撮影角度は違うのですが、間違いなく藤田美術館所蔵の空也上人像の写真です。
表面には、 「空也上人木像 空也堂所蔵」 と書かれた題箋が写り込んでいます。

裏面には墨書きの貼紙があり、次のような主旨が記されていました。

「この像は当堂の古代本尊で、奈良博覧会出品中に撮影された写真を、大正7年(1918)に複写して、護念仏として岡本クマ・チャウ・セイの3名が納めた。」

266藤田空也像:隔夜寺に残る空也上人像古写真の裏面の墨書き
隔夜寺に残る空也上人像古写真の裏面の墨書き

隔夜寺は「空也堂」と称されていたこともあります。
この写真の発見で、藤田美術館像が隔夜寺伝来の像である可能性が極めて高いことや、明治期には奈良博覧会に出品されていたことが明らかになったのでした。

この写真裏面の墨書きをみると、この時(大正7年・1918)には隔夜寺には空也上人像は無くなっていて、せめて古写真だけでもと縁者の方がお寺に奉納したのではないでしょうか。



【奈良博覧会の出品目録には、「空也像」の名前が2度掲載
~隔夜寺の古写真は、間違いなく奈良博覧会出品のもの】

また、「奈良博覧会に出品された」と記されていたのですが、それは何時頃のことなのでしょうか?

「奈良博覧会」というのは、正倉院宝物や諸寺の寺宝などが集められた大規模古美術展覧会です。
第1次(第1回)奈良博覧会は、明治8年(1875)に開催され、その後、明治27年の第18次奈良博覧会まで開催されました。
博覧会場は東大寺で、大仏殿内と回廊が展示会場となっていました。

現在、残されている奈良博覧会の出品目録をあたってみると、「空也像」の名前を見つけることが出来ました。

空也像は、2回、出品目録に掲載されていました。
一つは、第1次奈良博覧会(明治8年・1875)の目録で 「空也上人木像 福井みね」 とあります。

266藤田空也像:第1次奈良博覧会出品目録~空也像記載ページ(中段真ん中に「空也上人木像 福井みね」の記載)266藤田空也像:第1次奈良博覧会出品目録拡大図~「空也上人木像 福井みね」記載部分
第1次奈良博覧会出品目録~空也像記載ページ
中段真ん中に「空也上人木像 福井みね」の記載がある


もう一つは、第3次奈良博覧会(明治10年1877)の目録で 「一 空也上人像 空也堂」 とありました。

隔夜寺に残されていた古写真には 「空也上人木像 空也堂所蔵」 という題箋が写っていますので、第3次奈良博覧会の出品目録にある 「一 空也上人像 空也堂」 と同一であるのは間違いありません。



【隔夜寺伝来であった可能性が極めて高い、藤田美術館・空也像
~疑問点も残り、断定は出来ず】

ここで、この空也像の伝来について、厳密に考えると疑問点が生じるのが次の2点です。

1点は、
第1次奈良博覧会目録の「福井みね」所蔵像と、第3次奈良博覧会目録の「空也堂」所蔵像が、同一の空也像に間違いないのかどうかです。

もう1点は、
隔夜寺に残る古写真の空也像、即ち現藤田美術館所蔵の空也像は、
「本当に隔夜寺に伝来した像に間違いないと言い切れるのだろうか?」
ということです。
たまたま、空也像の古写真が、空也ゆかりの隔夜寺伝来像だと思い込まれて奉納されたという可能性も全く無いわけではありません。

以上が、奈良国立博物館での「国宝の殿堂 藤田美術館展」の開催にあたり、所蔵の空也像の伝来について新聞各紙にトピックスとして報道されるに至ったいきさつです。


こうしてみると、新聞の見出しが、

「大阪・藤田美術館の空也上人立像  明治初期まで奈良に?  英国からの確認で判明   隔夜寺に旧蔵の可能性」

となっていることが、なるほどと納得がいかれたのではないかと思います。

「隔夜寺に旧蔵の可能性」というふうに、「隔夜寺伝来像だと断定されていない」疑問符表現になっているのは、こうした理由によるのだと思います。



【新聞報道以降に実施された調査で、新たな古写真、資料などの発見が】


山口隆介氏は、展覧会開催以降も、隔夜寺伝来と思われる藤田美術館所蔵・空也像の伝来などについて、資料などの調査を進めました。

そうすると、新たな古写真や資料などが発見され、
「藤田美術館・空也像が、隔夜寺伝来像に間違いないことを示す新事実」
が見つけ出されたのです。

ご紹介したいと思います。



【オーストリアで見つかった、お雇い外国人所蔵の新たな古写真
~第1次奈良博覧会(明治8年)出品の空也像古写真】

まずは、新たな空也像の古写真の存在が、明らかになったのです。

それは、なんとオーストリアに存在したのです。
明治7年(1874)にお雇い外国人として来日した、オーストリア人医師、アルプレヒト・フォン・ローレツの所蔵写真(現在、末裔のリッペルト家所蔵)です。
ご覧の空也像の古写真です。

266藤田空也像:お雇い外国人医師・ローレツ所蔵の第1次奈良博覧会出品・空也像古写真266藤田空也像:お雇い外国人医師・ローレツ所蔵の第1次奈良博覧会出品・空也像古写真の裏面
お雇い外国人医師・ローレツ所蔵の第1次奈良博覧会出品・空也像古写真
裏面に第1次奈良博覧会開催期間中の「奈良1875年6月17日」の書き込み


影像は、藤田美術館所蔵の空也像そのものに間違いありません。

空也像の脇には不鮮明ながら題箋が写っており 「空也上人像 □□空也□□□」 とあり、 「奈良空也堂所蔵」 とかろうじて判じられるようです。

裏面には「奈良博覧会社」の朱印が押され、ドイツ語で書き込みがあり、
「空也上人 仏教の師・・・・・・949(空也の没年)  奈良1875年6月17日」
と記されていました。

ローレツは、明治8年(1875)6月に奈良を訪れていて、第1次奈良博覧会を観覧しています。
書き込みの日付をみると、この写真は、第1次奈良博覧会観覧の際に入手した写真であることは明らかです。



【第1次奈良博覧会出品の空也像は、藤田美術館所蔵像であることが判明】


即ち、第1次奈良博覧会出品目録に掲載される「空也上人木像 福井みね」は、現藤田美術館所蔵像であったのでした。
また、第3次奈良博覧会出品目録にある「空也上人像 空也堂」とも同一像であることも明らかになったのでした。

どうして「福井みね」という個人名所蔵となっていたのでしょうか?

隔夜寺は興福寺の末寺でしたが、明治5年(1872)に興福寺が廃寺処分になると、東大寺の末寺に編入されました。
「福井みね」は、奈良県公文書資料によると隔夜寺近隣の住民であったようです。

山口氏は、
「明治初頭の混乱期に、空也堂すなわち隔夜寺の実質的な管理を、福井みねが請け負っていたのではないだろうか。」
との見方を述べています。



【隔夜寺・空也像が、寺外に出てからのいきさつをたどってみると・・・・】


いずれにせよ、こうしてみると藤田美術館所蔵・隔夜寺伝来空也像は、明治初年以降、次のようないきさつをたどったものと考えられます。

・明治8年(1875)の第1次奈良博覧会に出品されており、オーストリア人ローレツ所蔵(現リッペルト家所蔵)の古写真の発見で、藤田美術館蔵・空也像であることが確認された。

・その後も、奈良博覧会に継続的に出品されていたようで、隔夜寺に戻されることなく奈良博覧会社の管理となっていたように思われる。

・明治14年(1881)に、英王室のアルバート王子、ジョージ王子が日本旅行で奈良を訪れた際に、東大寺で空也像を実見しており、撮影写真も入手している。
第6次奈良博覧会開催の年のことで、博覧会終了後も東大寺で展覧していた。

・大正7年(1918)には、奈良博覧会出品中に撮影された空也像の複写古写真が、元々空也堂の古代本尊であったとして、個人から隔夜寺に奉納された。



【見つけられた、藤田美術館・空也像が隔夜寺伝来を示す決定的新事実
~隔夜寺の昭和新造・空也像に書き残されていた流出経緯】

そしてもう一つ、隔夜寺において、藤田美術館所蔵像が隔夜寺伝来の空也像である決定的な新事実が見出されました。

隔夜寺には、昭和13年に新造された空也像が祀られています。

266藤田空也像:隔夜寺安置の昭和13年新造空也上人像
隔夜寺安置の昭和13年新造空也上人像

当時、隔夜寺の整備が進められ本堂、表門、庫裏を改築するなど寺観が整えられ、この際に空也像も新造されたのでした。
山口氏は、この昭和の空也像の台座裏に墨書きがあるのを見つけたのでした。

266藤田空也像:隔夜寺安置・空也上人像台座裏に残された墨書
隔夜寺安置・空也上人像台座裏に残されていた墨書

その墨書きは、このように記されていました。

「隔夜寺ニ古来 尊像アリタルモ明治ノ初年 廃仏棄釋ノ論高ク 一方又信心ノ人ハ仏像ヲ買ヒ集メタリト其頃 大阪ノ豪商藤田傳三郎ニ買ハレ 今ハ国寶トモナリテ返還思モ依ラズ 小衲仏縁不浅今此寺ヲ再建スルニ當リ 上人ノ像ヲ再建ス
昭和十三年四月  隔夜寺兼務 元興寺住職 圭眞」

隔夜寺の再興を進めた元興寺住職の水野圭真師(1882~1940)が、隔夜寺伝来の空也像は明治初年の廃仏毀釈の頃に藤田傳三郎に買われたもので、今では返還も難しいので新たに空也上人像を新造することになった旨を、書き残していたのです。

この記録が見つかったことにより、藤田美術館所蔵の空也像は隔夜寺伝来の像であることがはっきりしたと云って良いものだと思います。

明治31年(1898)には、奈良博覧会社が解散となります。
解散時まで空也像が奈良博覧会社の管理下にあったのかどうかははっきりしませんが、隔夜寺に戻されることがなかったことは間違いありません。
藤田傳三郎が空也像を手に入れた時期については、今でもよく判りません。
藤田傳三郎は古美術品を所蔵者から直接入手することは無く、全て古美術商から購入していましたので、いつの時点かで古美術商の手に渡り、その後、藤田没年の大正元年(1912)までに入手したものと思われます。


ここまで辿ってきた、藤田美術館・空也像の来歴についての話、
すなわち英国「ロイヤル・コレクション・トラスト」からの古写真の問い合わせをきっかけに調査が進められ、隔夜寺伝来が明らかになった経緯については、
山口隆介氏の調査論考
「藤田美術館所蔵(奈良・隔夜寺旧蔵)の空也上人立像に関する覚書」
(「名画の殿堂・藤田美術館展~傳三郎のまなざし」展図録・奈良国立博物館刊2021.12所載)
に、大変詳しく述べられています。

ご紹介の話は、この山口氏の論考をつまみ食いしてまとめてみたものです。



【ミステリー謎解きのような好奇心を掻き立てられた、空也像古写真の読み解き】


たまたま英国王室の古写真コレクションについての問い合わせがあったことから、ほとんど知られていなかった藤田美術館所蔵の空也上人像(室町時代)が、大注目を浴びることになりました。

266藤田空也像:藤田美術館蔵・空也上人像~奈良隔夜寺伝来
藤田美術館蔵・空也上人像~奈良隔夜寺伝来

まさか、英国やオーストリアに空也像の古写真が残されていたというのは、本当に驚きでした。

一枚の古写真をきっかけに始まった「読み解き」によって調査が進められ、新たな古写真、新資料の発見などによってその来歴が明らかになっていく話は、仏像の調査というよりは、ミステリーの謎解きのような好奇心を掻き立てるものでした。


皆さん、如何だったでしょうか?

マニアックで一般受けしない話ですが、私などは、興味津々でワクワクしながらこのストーリーを追ってしまいました。


こぼれ話~古写真を読み解く⑦:残された古写真から突き止められた仏像の行方~桜井市・興善寺 【2022.06.26】


奈良の桜井市に、興善寺という無住の小さなお寺があります。

お堂には、古びてはっきりしない仏像の古写真が3枚、額に入れられて残されています。

265興善寺古写真:興善寺に残されている3枚の仏像古写真
桜井市・興善寺に残されている3枚の仏像古写真

この古写真に写る仏像、今はお寺には無く、寺を離れてからの行方は判らなくなっていました。

近年、古写真が読み解かれ、なんと

「古写真の仏像は、良く知られている平安古仏であることが突き止められた。」

という話を、ご紹介したいと思います。



【知られざる奈良桜井の鄙なる小堂・興善寺
~かつて、偶々観仏に訪ねたことがあるお寺】

桜井の興善寺と云っても、
「そんな寺の名前や、古い仏像の話なんて聞いたこともない。」
という方が、ほとんどではないかと思います。

全く知られていないと云っても良い、鄙なるお寺だと思います。
たまたまと云って良いのですが、私はこの興善寺の仏像を拝しに訪れたことがあるのです。
今から7年前、2015年のことです。
興善寺には10世紀の制作と云われる薬師如来坐像(市指定文化財)があるというので、同好の方と共に訪ねたのでした。

265興善寺古写真:興善寺・薬師如来像(平安10C・市指定文化財)修理前写真
興善寺・薬師如来像(平安10C・市指定文化財)
「飛鳥の仏像」奈文研飛鳥資料館編1983年刊掲載写真


興善寺は、桜井市赤尾という鄙びた村落に、ひっそりとありました。
地区の方々で守られている無住のお寺で、普通の住宅のというか集会所のような建物が「興善寺」でした。

265興善寺古写真:地区の集会所のような興善寺のお堂
地区で守られている興善寺のお堂

赤尾の区長さん他にご案内いただいた堂内には、薬師如来像と毘沙門天像が祀られていいました。

265興善寺古写真:興善寺・薬師如来像(平安10C・市指定文化財)修理実施後
興善寺のお堂に祀られる薬師如来像
(平安10C・市指定文化財)


両像共に近年に保存修理をされたということで、厚めのコーティング、彩色で仕上げられていて、当初の姿が伺えにくい感じがしたのはちょっと残念でした。



【本尊前に、額に納められた3躯の仏像の古写真が~当時は、気にも留めず】


この時、私が撮った堂内の写真を見てみると、問題の古写真がガラス貼りの額に納められて、仏像の前に飾られているのが写っていました。

265興善寺古写真:興善寺の堂内~仏像の前に額に入った「3枚の仏像古写真」が飾られている
興善寺の堂内
仏前に額に入った「3枚の仏像古写真」が飾られている


今思い出すと、
「この古写真の仏像は、昔、興善寺に祀られていた仏像の写真なのですよ。」
と、区長さんから伺ったような記憶がおぼろげながらあるのですが、その時には、この古写真のことなどには、気にも留めませんでした。

265興善寺古写真:興善寺堂内に飾られる仏像古写真
興善寺堂内に飾られる仏像古写真

その後は、この古写真のことなど、すっかり忘れてしまっていたのでした。



【新刊本に、興善寺に残る「仏像古写真」の話が・・・・
~突き止められた、仏像の行方】

2年前(2020年)に、こんな本が出版されました。

国宝仏から秘仏まで 廃寺のみ仏たちは、今 ~奈良県東部編
小倉つき子著 2020年6月 京阪奈情報教育出版社刊 【246P】 950円

265興善寺古写真:小倉つき子著「廃寺のみ仏たちは、今」

題名の通り、廃寺や旧仏が伝わるお寺や地域の集会所などを訪ね、「知られざる鄙なる仏像の来歴をたどる」という本です。

本書については、観仏日々帖新刊案内「廃寺のみ仏たちは、今」で、ご紹介したことがあります。

この本を開いてみてビックリしました。
「興善寺に残された古写真に写る仏像、その行方が突き止められた!」
という話が語られていたのです。

私が、興善寺を訪ねた時に飾ってあった、あの仏像古写真です



【2019年、奈良博・山口隆介氏が古写真仏像を追跡
~現所蔵先、来歴などが明らかに】

本書によると、古写真の仏像の行方を突き止めたのは、奈良国立博物館の山口隆介氏だということです。

山口氏は、2019年に興善寺を訪れた時、この3枚の古写真に目がとまり、その仏像の姿をみて、この仏像が現在どこに所蔵されているのかピンと来たようなのです。
そして仏像の来歴を追跡することなどによって、その確証を得たのでした。

265興善寺古写真:興善寺に残されている3枚の仏像古写真
行方が突き止められた、興善寺に残る3枚の仏像古写真

それでは、「廃寺のみ仏たちは、今」の本で紹介されている話や、山口氏が仏像古写真の追跡などについて語った講演会資料などをから、「興善寺に残された古写真の仏像の行方と来歴」が突き止められていった話をご紹介したいと思います。



【延暦寺とサンフランシスコアジア美術館に所蔵されていた、3躯の古写真仏像
~見事な平安の一木彫像の優品】

興善寺に残る3枚の古写真の仏像は、現在、次の処に所蔵されているものであることが判りました。

如来像の古写真の方は、現在、延暦寺の国宝殿に安置されている薬師如来坐像(像高:125.7㎝)でした。

265興善寺古写真:比叡山国宝殿の薬師如来像(平安・重文)~古写真に写る如来像
延暦寺国宝殿・薬師如来像(平安・重文)~古写真に写る如来像

平安時代、10世紀の堂々たる一木彫像で、重要文化財に指定されています。

2枚の天部像の古写真の方は、現在、サンフランシスコアジア美術館に所蔵されている、持国天像(像高:167.6㎝)、増長天像(像高:175.3㎝)でした。

265興善寺古写真:サンフランシスコアジア美術館蔵・持国天像(平安)~古写真に写る天部像265興善寺古写真:サンフランシスコアジア美術館蔵・増長天像(平安)~古写真に写る天部像
サンフランシスコアジア美術館蔵・(左)持国天像、(右)増長天像(平安)
古写真に写る2躯の天部像


同じく平安時代、10世紀の見事な一木彫像です。

古写真と、現在の写真とを較べてみましょう。

265興善寺古写真:興善寺に残る如来像の古写真265興善寺古写真:比叡山国宝殿・薬師如来像
(左)興善寺に残る如来像の古写真、(右)延暦寺国宝殿・薬師如来像


265興善寺古写真:興善寺に残る天部像の古写真265興善寺古写真:サンフランシスコアジア美術館蔵・持国天像
(左)興善寺に残る天部像の古写真、(右)サンフランシスコアジア美術館蔵・持国天像


265興善寺古写真:興善寺に残る天部像の古写真265興善寺古写真:サンフランシスコアジア美術館蔵・増長天像
(左)興善寺に残る天部像の古写真、(右)サンフランシスコアジア美術館蔵・増長天像

ご覧のとおりです。
古写真の写りが良くなくてぼやけてはいますが、薬師像、二天像共に、この像に間違いありません。

サンフランシスコアジア美術館所蔵の持国天、増長天像の画像は、美術館のHPの所蔵品検索をすると、シャープな画像を沢山みることが出来ます。
美術館HP「ONLINE COLLECTION」ページの 〈start your search…〉 の欄に「Dhritarashtra(持国天)、「Virudhaka(増長天)と、それぞれ入力すると、画像掲載ページが開けます。



【佐賀・大興善寺伝来とされていた、延暦寺国宝殿・薬師如来像
~元禄時代修理銘に「大興善寺」の名が】

延暦寺国宝殿の薬師如来像は、国宝殿陳列の仏像を代表する一つと云っても良い、見事な平安前期の仏像です。
国宝殿企画展「比叡山の如来像」(2019年開催)のポスター写真にもなっています。

265興善寺古写真:国宝殿企画展「比叡山の如来像」(2019年開催)のポスター写真

実は、この薬師如来像、これまで
「佐賀県にある大興善寺に伝来した像である。」
と云われてきました。

大興善寺というのは、佐賀県西部にあり「つつじ寺」として有名で、行基開基と伝える立派なお寺です。

265興善寺古写真:佐賀県の大興善寺
佐賀県の大興善寺

比叡山国宝殿の図録には、このように解説されています。

「本像は、昭和54年に大阪市の篤信家から奉納され、根本中堂に奉安された。
像内の元禄6年(1693)の修理銘によると、もと釈迦如来として佐賀県・大興善寺に伝来したとある。
・・・・・・
眉や息を吹くような口許、衣文線など鎬立つ彫法に平安前期仏の姿が光る。」
(「比叡山国宝殿~比叡山の名宝」2013年延暦寺刊)

大興善寺の名が記されている元禄6年の像内修理銘というのは、このようなものです。

265興善寺古写真:比叡山国宝殿・薬師如来像の胎内の元禄時代の修理墨書銘~山口隆介氏講演会資料掲載写真

265興善寺古写真:比叡山国宝殿・薬師如来像の胎内の元禄時代の修理墨書銘~山口隆介氏講演会資料掲載
延暦寺国宝殿・薬師如来像の胎内の元禄時代の修理墨書銘
山口隆介氏講演会資料掲載写真


ご覧のとおり、大きな字で「大興善寺」と墨書されていて、このことから佐賀・大興善寺伝来とされていたということです。



【修理銘の「大興善寺」は、桜井赤尾村の「興善寺」であったことが判明
~残された古写真から明らかになった、本来の伝来】

墨書銘をよくみると、最初の行に「赤尾村」と記されています。
桜井市の興善寺のある場所「桜井市赤尾」と合致します。

大興善寺の「大」は、興善寺の尊称で、この墨書銘は、桜井市の興善寺のことを記したものなのでした。

興善寺に薬師像の「古写真」が残されていなかったら、今でも佐賀・大興善寺伝来とされていたと思われます。
山口氏による古写真の読み解きにより、本当の伝来が明らかになったというわけです。



【大正4年には、興善寺に祀られていた古写真仏像~「奈良県磯城郡誌」の記録】


興善寺に伝わった薬師如来像と二天像は、何時頃お寺を出て、どのような来歴を経て、延暦寺とサンフランシスコアジア美術館の所蔵となったのでしょうか?
たどってみたいと思います。

大正4年(1915)に出版された「奈良県磯城郡誌」には、これら3躯の平安古仏が興善寺に祀られていたことが、このように記されています。

「白雲山興善寺
廃寺に属すれども、釈迦如来・薬師如来及毘沙門天・広目天・増長天の木像を安置す、
像は古作の大仏にして堂宇に応せず、粟原廃寺の遺物なりと云ふ
就中釈迦如来・広目天・増長天三像は美術上参考たるべき九鬼男爵の鑑査状あり。」

「釈迦如来」とあるのが延暦寺蔵・薬師如来像、「広目天・増長天」とあるのが、サンフランシスコアジア美術館蔵・持国天増長天像にあたると思われます。
「九鬼男爵の鑑査状あり」というのは、九鬼隆一が委員長を務めていた臨時全国宝物取調局(明治21~30年・1888~97設置)による監査状が存在したということです。



【大正5年には、石位寺・三尊石仏と共に、「新発見の新聞報道」が
~古物商買取りの動き有りとの話も】

翌年、大正5年には、桜井市忍阪の石位寺の石造三尊仏が関野貞の調査により発見されます。
皆さんよくご存じの、白鳳~天平期の美しい倚像の三尊石仏像で、重要文化財に指定されています。

265興善寺古写真:石位寺・三尊石仏像(白鳳~天平・重文)
石位寺・三尊石仏像(白鳳~天平・重文)

この石位寺・三尊石仏の発見は、いくつもの新聞に発見記事が報じられたのですが、その記事の中で興善寺の仏像についても報じられています。

大阪毎日新聞は、

頽れた堂から国寶  忍阪と赤尾の両堂宇に
本邦最古の石彫像が埋もれている」

という見出しで報じています。

265興善寺古写真:石位寺・三尊石仏、興善寺諸像の発見を報じる大阪毎日新聞記事(1916.5.31)
石位寺・三尊石仏、興善寺諸像の発見を報じる大阪毎日新聞記事(1916.5.31)

この報道のなかの興善寺の仏像についての記事の部分をご紹介すると、次の通りです。

▲赤尾の堂宇 にも木彫の持国天、増長天の二体及び釈迦如来の立像等数点ありて、何れも国宝とするに足る珍品なるが、目下コハ区有財産となり居り他に売却されんとする虞あり
先頃も大阪の某古物商が金四千円にて全部を買取らんとせしが、今回の調査により其貴重品なることを知り大に驚き、奈良県にては学術上の参考品たらしむべく其売却を禁止せり
然れど保存費の出所なきを以て、可惜稀代の珍品も物置小屋同様の古堂内に転り居れり」
(大阪毎日新聞 大正5年(1916)5月31日付記事)

「赤尾の堂宇」というのは興善寺のことで、坐像の釈迦像が立像と誤記されているようですが、古写真の仏像のことに間違いありません。
この時には、古物商がこれらの仏像を買い取ろうとした動きがあったことも報じられています。

奈良県では、貴重な文化財として仏像の売却を禁止したということですが、一方保存費も出せずに「物置小屋同様の古堂に転がり居り」という状況であったようです。



【3枚の仏像古写真は、寺を出るに際し撮影され残された写真か?】


結局、廃寺同様の興善寺では、仏像を維持していくことが財政的にも困難であったのでしょう。
大正期のいずれかの頃かに、薬師像、二天像の3躯は、売却されたのだと思われます。

興善寺に残されている3枚の古写真は、仏像が売却され寺を離れるに際して、せめて写真だけでも残しておきたいと、撮影された写真なのではないでしょうか。

それ故、今でも堂内に、この古写真が額に入れられ、お祀りするように飾られているということなのでしょう。



【昭和初年には、奈良の最有力古美術商「玉井大閑堂」の所蔵に】


この後、昭和初年には、興善寺の薬師如来像は奈良の古美術商「玉井大閑堂」の所蔵となっていたようです。
「大和の栞」 水木要太郎著 昭和2年(1927) 玉井久次郎刊
という奈良の案内書があるのですが、
この本に、玉井氏所蔵の興善寺・薬師像の写真が掲載されているのです。

265興善寺古写真:玉井久次郎別邸に陳列される興善寺古写真の薬師像(「大和の栞」掲載写真)
玉井久次郎別邸に陳列される所蔵仏像の写真(「大和の栞」掲載写真)
右から2番目が興善寺古写真に写る薬師如来像


玉井大閑堂の主人・玉井久次郎の別邸「吸霞洞内陳列ノ一部」という掲載写真の中に、薬師像に姿が写っています。
持国・増長天像の方も、併せて所蔵していた可能性はあると思われます。

玉井大閑堂というのは当時、奈良で最有力の有名古美術商です。
興善寺から仏像を買い取ったのが玉井大閑堂であったかどうかは不明ですが、立派な処に陳列されるほどの名像として扱われていったようです。



【その後「池田大仙堂 池田庄太郎」所蔵に
~コレクション図録集には、大和・粟原寺伝来像との解説が】

昭和15年(1940)頃までには、この3躯の仏像は、池田庄太郎氏の所蔵となっています。

池田氏は自身の古美術品蒐集コレクションをまとめた立派な古美術書
「池田大仙堂 古美術集芳 上・下巻」 昭和16年(1941)刊
を、私家版で出版しています。

265興善寺古写真:「池田大仙堂 古美術集芳 上・下巻」 昭和16年(1941)刊

数多くの蒐集コレクションの写真が掲載されているのですが、そこに興善寺・薬師如来像、持国天、増長天像の写真が何枚か掲載されています。

265興善寺古写真:「古美術集芳」に掲載される興善寺旧蔵・薬師如来像写真265興善寺古写真:「古美術集芳」に掲載される興善寺旧蔵・薬師如来像写真

265興善寺古写真:「古美術集芳」に掲載される興善寺旧蔵・持国天像写真265興善寺古写真:「古美術集芳」に掲載される興善寺旧蔵・持国天像写真
「古美術集芳」に掲載される興善寺古写真に写る3躯の仏像
(上段)薬師如来像~現延暦寺国宝殿所蔵
(下段)持国天・増長天像~現サンフランシスコアジア美術館所蔵


注目すべきは、この「池田大仙堂 古美術集芳」に記されているこれらの像の解説です。 

薬師如来像解説には、
「本像は大和國櫻井町の在、忍阪赤尾村の廃寺、粟原寺の本尊であったと傳ふ。」
持国天、増長天解説には、
「本像も第一図藥師如來と同一の欅材を持って造り、奈良縣粟原寺にありしものにて時代も同一時代ならん。」
と述べられているのです。



【薬師如来像は、昭和18年旧国宝指定に~美術館にも出陳】


さらに薬師如来像は、昭和18年(1933)7月に旧国宝(現重要文化財)に指定されているのですが、
国宝指定を報ずる読売新聞には、
「昔は奈良縣忍阪赤尾村粟原寺本尊と伝えられ、現在大阪市東淀川区長柄東通池田庄太郎氏の所蔵となっている。」
(読売新聞 昭和18年(1943)7月4日付記事)
と記されています。

このように、昭和戦前までは、これらの諸像は粟原寺伝来とされていて、桜井の忍阪赤尾村方面にあった仏像であることが、よく知られていたのでした。

池田氏所蔵中には、これら3躯の像は大阪市立美術館に出陳されたり、薬師像はその後、鎌倉国宝館に出陳されていた時期もあるようです。



【持国・増長天は、昭和38年にブランデージの所蔵に
~コレクションは、後にサンフランシスコアジア美術館に寄贈】

持国天、増長天の方は、昭和38年にアベリー・ブランデージ氏(1887~1975)の所蔵となりました。

ブランデージ氏は国際オリンピック委員会の会長としてその名が知られていますが、美術コレクターとしても有名で、所蔵品の多くがサンフランシスコ市に寄贈され、現在、サンフランシスコアジアミュージアムの所蔵品となっています。



【薬師像は、昭和54年、所蔵者から比叡山延暦寺に寄進へ】


一方、薬師如来像の方は、池田庄三郎氏の手を離れた後に、昭和54年(1979)に所蔵者から比叡山延暦寺に寄進されることになったというわけです。

昭和47年(1972年)刊の「重要文化財1 彫刻Ⅰ」(文部省文化庁監修・毎日新聞社刊)には、所蔵者名が「大阪 徳田耕治 (兵庫 池田庄太郎旧蔵)」と記載されていますが、延暦寺への寄進者が徳田耕治氏なのかどうかは確認できませんでした。



【3躯の古写真仏像の現在までの来歴を、一覧図表にすると】


興善寺に残された仏像古写真に写る3躯の古仏像が、延暦寺とサンフランシスコアジア美術館に所蔵されるまでに至る、伝来、来歴について、ダラダラと述べてきましたが、その内容を一覧できる図表にまとめてみました。

265興善寺古写真:興善寺仏像古写真3躯の伝来、来歴

ご覧のとおりです。

このような来歴は山口隆介氏によって明らかにされた訳ですが、延暦寺国宝殿の薬師如来像が、近年、修理墨書銘から佐賀・大興善寺の伝来であるとされていたことを振り返ると、数十年も経つと、それまで知られていた仏像の伝来なども忘れ去られるというか。判らなくなってしまうものなのだということを、今更ながらに思い知ったという処です。

ここまで、桜井市の地区管理の小堂、興善寺に残された仏像古写真から、その行方が突き止められ、来歴などが明らかにされたという「古写真を読み解く話」をご紹介しました。
ご紹介した3枚の仏像古写真が、興善寺に大切に保管されていなかったならば、こうした来歴ストーリーをたどり明らかにすることは出来なかったのだろうと思います。



【今は無き粟原寺伝来と伝わる、興善寺の諸仏像
~白鳳時代創建との塔伏鉢(国宝)が残される粟原寺】

興善寺の諸仏像は、粟原寺伝来の仏像であったと伝えられています。
最後に、今は無き粟原寺についてと、粟原寺伝来と云われる諸仏像の行方について、少しだけふれておきたいと思います。

廃寺となっている粟原寺跡は、桜井市赤尾の興善寺から南東へ2キロほどの処にあります。

265興善寺古写真:粟原寺跡
粟原寺跡

粟原寺と云えば、国宝となっている三重塔伏鉢で知られているのではないでしょうか。
江戸中期に談山妙楽寺(現在の談山神社)の宝庫から発見されたもので、現在、奈良国立博物館に寄託されています。

265興善寺古写真:粟原寺三重塔伏鉢(談山神社蔵・国宝)
粟原寺三重塔伏鉢(談山神社蔵・国宝)

伏鉢の刻銘には、
「中臣朝臣大嶋(なかとみのあそんおおしま)が天武天皇と持統天皇の息子・草壁皇子をしのび創立を誓願したが果たさず没し、比売朝臣額田(ひめのあそんぬかた)が22年を要しこの地に伽藍を建て、丈六釈迦仏像を安置し三重塔を建立し、草壁皇子、発願者の大嶋などの冥福を祈った。」
と記されており、大変由緒ある寺院であったと考えられています。

今では、塔・金堂跡の礎石など残されているのだけなのですが、発掘調査なのが行われていないので伽藍の規模などはよく判りません。



【当地に残される、粟原寺伝来を伝える多くの仏像
~白鳳天平の名作、石位寺三尊石仏も粟原寺伝来か?】

粟原寺のあった桜井市野近辺には、粟原寺伝来と伝えられる仏像が沢山あり、興善寺の仏像もその一つというわけです。
知られたところでは、石位寺の三尊石仏像(白鳳~天平・重文)や外山区(とびく)報恩寺・阿弥陀如来像(平安後期・県指定)も粟原寺伝来と伝えられるそうです。

265興善寺古写真:石位寺・三尊石仏像(白鳳~天平・重文)265興善寺古写真:外山区報恩寺・阿弥陀如来像(平安後期・県指定)
(左)石位寺・三尊石仏像(白鳳~天平・重文)、(右)外山区報恩寺・阿弥陀如来像(平安後期・県指定)

冒頭にご紹介した、小倉つき子氏著「廃寺のみ仏たちは、今」という本では、この粟原寺伝来と伝えられる古仏を丹念にトレースし、その伝来ルート、行き先がたどられています。

本書には、小倉つき子氏が調査し、粟原寺伝来とされる仏像の一覧と、その伝来の流れを一覧にされたトレース図が掲載されています。
次の通りです。

265興善寺古写真:粟原寺伝来の諸仏像の流れ一覧

ご覧のように、粟原寺伝来と伝えられる仏像が数多残されているのが判ります。
またそのうちの多くの像が重要文化財に指定されている優品ぞろいですので、粟原寺が寺格が高かった寺院であったことが偲ばれます。



【数多くの粟原寺伝来仏が移されていた興善寺
~「大興善寺」の尊称も、十分納得】

粟原寺伝来仏で興善寺に安置されていたとされる仏像を「カラー塗り」してみました。
(黄色は興善寺に現存、緑色は古写真仏像、青色は石位寺経由長野清水寺へ)

多くの仏像が、粟原寺から興善寺に移されていることに驚かされます。
今は寂れてしまっている興善寺ですが、かつては立派な寺院であったのであろうと思われ、元禄時代の薬師像の像内修理墨書銘に「大興善寺」と記されているのも、納得という処です。



【長野若穂保科の清水寺にも多くの粟原寺伝来像が
~大正期に伽藍焼失し、石位寺の仏像を譲与】

もう一つ、興善寺がらみでご紹介しておきたい話があります。
現在、長野県の清水寺に祀られる諸仏像についてです。

265興善寺古写真:長野若穂保科~清水寺・本堂に安置されている石位寺旧蔵の諸仏
清水寺・本堂に安置されている石位寺旧蔵の諸仏

265興善寺古写真:長野若穂保科~清水寺・観音堂
長野若穂保科~清水寺・観音堂

これらの仏像は、粟原寺伝来と云われる仏像で、かつて興善寺に祀られていたことがあるというのです。
どうして、奈良の粟原寺伝来の仏像が、遠く離れた長野県のお寺に祀られているのでしょうか?

長野市若穂保科にある清水寺は、大正5年(1916)に保科大火と呼ばれる大火事で、山門、諸堂などの大伽藍が焼失してしまいます。
仏像も旧国宝指定の5躯をはじめ、すべて焼失したということです。

清水寺では伽藍復興を目指し、新たな御本尊など安置仏を探さざるを得ないという状況になりました。

この清水寺の苦境に、当時、奈良の美術院の新納忠之介が仲立ちとなり、粟原寺伝来という石位寺にあった19躯の仏像を清水寺に譲与することになったということです。
19躯というのは、興善寺から石位寺に移された7躯と十二神将像12躯です。
石位寺から清水寺には、大正6年(1917)に譲与されています。
譲与にあたっては、国からの許可証を取得したうえで、対価として清水寺が6千円を支払うこととして、石位寺のある磯城郡城島村長との間で負担付贈与証が交わされています。

265興善寺古写真:石位寺旧仏の清水寺への輿入れ風景(大正6年)~保科清水寺あれこれ(山崎直久)須高38号掲載写真
石位寺旧仏の清水寺への輿入れ風景(大正6年)
保科清水寺あれこれ(山崎直久)須高38号掲載写真


興善寺にあったという7躯の諸像については、現在すべて国の重要文化財に指定されています。

私も、長野若穂保科の清水寺を二度訪ねたことがありますが、平安後期の立派な仏像ぞろいでした。

265興善寺古写真:清水寺観音堂安置・千手観音像(平安・重文)265興善寺古写真:清水寺本堂安置・地蔵菩薩像(平安・重文)
(左)清水寺観音堂安置・千手観音像(平安・重文)
(右)清水寺本堂安置・地蔵菩薩像(平安・重文)


ご住職から、お寺が火災に遭い、桜井の石位寺から諸仏像をお迎えした話をお伺いし、感慨深いものを覚えた思い出があります。



今回は、桜井市の興善寺に残された仏像古写真から、その行方を読み解く話、廃寺となった粟原寺伝来と伝わる諸仏像にまつわる話などをご紹介しました。


こぼれ話~古写真を読み解く⑥:室生寺・十一面観音の光背は、いつ制作されたのか? 【2022.06.10】


一枚の古い絵葉書の仏像写真の読み解きによって、面白くて興味津々の事実が浮かび上がってきたという話のご紹介です。


【美麗な室生寺金堂・十一面観音像の板光背~実は後世の「後補」】


室生寺の国宝・十一面観音像の光背にまつわる話です。

264室生寺十一面観音:室生寺・十一面観音像(平安前期・国宝)
室生寺・十一面観音像(平安前期・国宝)

室生寺・十一面観音像は平安前期の名作で、この仏像が大のお気に入りという方も結構いらっしゃるのではないかと思います。

この観音像には、美しく華麗な文様の描かれた板光背が備わっています。
4年前(2018)に東京国立博物館で開催された特別展「大和四寺のみほとけ」では、十一面観音像がこの板光背をともなった形で展示されました。

264室生寺十一面観音:「大和四寺のみほとけ」展に展示された室生寺・十一面観音像(平安前期・国宝)
光背をともなって展示された、室生寺・十一面観音像

十一面観音像の素晴らしさはもちろんのことですが、この華麗な板光背の美しさにも心惹かれた方もいらっしゃったのではないでしょうか。

実は、この十一面観音像の板光背は、当初のものが失われ、後世に補われた「後補」というものなのです。
室生寺金堂に祀られている伝釈迦如来像をはじめとする五尊像は、皆、板光背が備わっています。

264室生寺十一面観音:室生寺金堂に安置される板光背の五尊像
室生寺金堂に安置される板光背の五尊像

(2020年に宝物殿が開館し、金堂五尊像のうち十一面観音と地蔵菩薩が宝物殿に移されました。
現在、金堂には伝釈迦、薬師、文殊の三尊が安置されています。)

十一面観音像を除く4躯の尊像の板光背は平安時代に制作されたものなのですが、十一面観音の光背だけは後補のものとなっているのです。

「後補だよ!」と教えられなければ、
「流石、美しい文様が描かれた見事な光背だな」
と思い込んでしまうほど、古式に倣って入念に造られています。
誰がみても後補とわかる粗略なのものとは、ちょっと違います。

264室生寺十一面観音:室生寺・十一面観音像(平安前期・国宝)
美麗な十一面観音像の光背

ただ、平安時代に造られた他の4像の板光背と比べてみると、その文様の緻密さや彩色の入念さなどの調子に明らかに違いがあって、十一面観音像の光背が後補であることがよく判ります。

「大和四寺のみほとけ」展では、地像菩薩像と十一面観音像が2体並んで展示されていました。

264室生寺十一面観音:室生寺・十一面観音像と地蔵菩薩像(「大和四寺のみほとけ展」展示)
並んで展示された室生寺・十一面観音像と地蔵菩薩像
両像の板光背の絵柄や調子が異なるのが判る


その板光背を見比べてみると、十一面観音の光背の文様の方が大柄で甘さが感じられ、後補なのは直ぐに納得が出来るものでした。



【一枚の絵葉書古写真から「明治新補」であることが明らかに
~江戸時代の後補とされていた十一面観音の光背】

この十一面観音像の板光背は、「江戸時代に後補されたもの」とされてきました。

ところが、絵葉書の古写真に写った十一面観音像の姿を読み解くと、現在備わっている光背は江戸時代制作のものではなくて、近代に入って明治時代に新たな光背が新補されたものであるということが、明らかになったのです。

264室生寺十一面観音:古い絵葉書に写る室生寺金堂諸尊像264室生寺十一面観音:古い絵葉書に写る室生寺金堂諸尊像
十一面観音の光背後補時期が明らかになった古い絵葉書
(室生寺金堂五尊像の古写真)


まさに古写真の読み解きによる「ビックリの新事実」というわけです。



【光背は、明治修理時「美術院・久留春年」により新補と推定
~帝塚山大学・杉崎教授により発表された新知見】

この新たな発見ともいえる新知見は、2020年に帝塚山大学教授の杉崎貴英氏によって紹介されたものです。

帝塚山大学の研究誌の論考
「久留春年探索序章」  (杉﨑貴英~奈良学研究22号2020年2月刊所載)
のなかで、紹介されると共に、

同大学の公開講座
「室生寺の近代、ふたつの名作の誕生~室生寺十一面観音像の光背と、小川晴暘撮影『室生寺大観』と」  (講師:杉崎貴英~2020年2月開催)
の講演なかで採り上げられ、興味津々の説明がありました。

この新知見については、一度「観仏日々帖」
「こぼれ話~光背の話⑩ 室生寺金堂・十一面観音、地蔵菩薩像の板光背の話 その2〉」
で紹介させていただきました。

今回は、またぞろ同じ話で、まさに二番煎じというわけなのですが、前回のご紹介以降に新たに関係する資料が見つかるなど、興味深い「新事実」を知ることが出来ました。
そこで、「十一面観音光背の明治新補判明の話」に絞って、新事実も含めてもう一度採り上げさせていただきたいと思います。

杉崎氏の新知見をそのままなぞりながら、その周辺について調べてみたことを付け加えたような話になるのですが、お付き合いください。



【江戸時代後補の光背とされていた訳は?
~寺蔵文書に、江戸末期に京都仏師が造り替えたとの記録が】

これまで「十一面観音像の光背は、江戸時代制作の後補」とされていたのですが、それはどのような根拠によるものであったのでしょうか。


「大和古寺大観」の室生寺・十一面観音像の解説には、このように記されています。

「なお寺蔵文書「天保九戊戌年普請仕用帳」に
「金弐分 十一面尊躰損之処。 拵御持物之不足分足し、尊像古色仕上ケ、舟後光破損ニ付仕替并箱厨子塗代共ニ而」
とあり、この年に京都仏師山本茂祐による修理が施されたことが記されている。
現光背はこの時に造られたものであろう。」
(大和古寺大観 第6巻「室生寺」1976年岩波書店刊 水野敬三郎氏解説)


「魅惑の仏像・十一面観音 奈良室生寺」では、このように解説されています。

「十一面観音像にも板光背がとりつけられていますが、他の光背のようなすばらしい彩色のものではなく、時代の特色もあまりはっきりしないものです。
これは室生寺に伝えられる江戸時代1838年(天保9年)の修理記録によって、京都の仏師山本茂祐がこの時こわれていた古い光背にかえて新造したものであることがわかります。」
(魅惑の仏像 第21巻「十一面観音 奈良室生寺」1992年毎日新聞社刊 小川光三写真・西川杏太郎氏解説)


「日本の古寺美術~室生寺」の十一面観音の解説です。

「本像にも板光背が付属するが、これは天保9年(1838)に京都の仏師山本茂祐が地蔵菩薩像や文殊菩薩像の光背を手本として新補したものである。」
(「日本の古寺美術13・室生寺」鷲塚泰光著 1991年保育社刊)


このように、現在の光背は、お寺に残された文書から、江戸末期に仏師仏師・山本茂祐の手によって破損していた船形の光背が造り替えられたものと説明されています。

最も権威のある「大和古寺大観」に江戸末の後補と書かれているわけですから、間違いのないことと考えられていて当然のことかと思います。



【「古い絵葉書」には、現在の十一面観音光背とは違うものが写っていた!
~明治修理以前の撮影写真】

ところがところがです。

「光背は江戸時代の後補」に、疑問符を点じる古写真が存在したのです。

杉崎教授が近年入手したという、「古い室生寺金堂仏像の絵葉書写真」です。
先にご覧いただいた、古い絵葉書写真です

264室生寺十一面観音:古い絵葉書に写る室生寺金堂諸尊像

264室生寺十一面観音:古い絵葉書に写る室生寺金堂諸尊像
古い絵葉書に写る室生寺金堂諸尊像

この写真をよくよく見ると、諸尊の光背が現在の姿とちょっと違うものがあるようです。

264室生寺十一面観音:近年の室生寺金堂諸像
近年の室生寺金堂五尊像

皆さん、お判りになったでしょうか?
向かって左側の地蔵菩薩像の光背と薬師如来像の光背が、互いに入れ替わっているようです。
そして最大の注目点は、十一面観音像の光背が、明らかに現在備わっているものとは違うことです。

264室生寺十一面観音:古い絵葉書に写る室生寺金堂・十一面観音像..264室生寺十一面観音:現在の室生寺金堂・十一面観音像
(左)古い絵葉書の十一面観音像古写真、(右)現在の十一面観音像
光背の形が明らかに異なっている


宝珠形の頭光の先端の尖り方、船形光背と重なるラインなどが明らかに異なります。
光背に描かれた文様の絵柄も、はっきりはしませんが違っているようです。



【明治修理で、新補のものに造り替えられていた十一面観音光背
~古写真に写っていたのは、江戸末期後補の光背】

どうしてなのでしょうか?

この絵葉書の古写真は、金堂諸尊が明治時代に修理される前に撮影された写真だと思われます。
室生寺金堂の諸仏像は、明治42年(1909)に美術院の手によって修理が実施されています。
この明治修理の時に、十一面観音像の江戸後補の光背が取り除かれて、新しい光背を作り直したものと考えられるのです。

きっと江戸末期に後補された光背は、形も絵柄も平安時代の仏像にそぐわない粗略なものであったのではないでしょうか。
そこで、他の諸尊の古い光背に倣って、十一面観音に相応しい光背を新補したということなのだと思われます。

絵葉書に写っている光背が、江戸時代の後補光背にあたるのだろうと思われます。

現在の十一面観音像の光背は、
「江戸時代末期、仏師・山本茂祐の手になるもの」
ではなくて、
「明治時代の美術院の修理の際に新補されたもの」
に違いないことが、明らかになったというわけです。

問題の古い絵葉書は、奈良県立図書情報館の「奈良の今昔写真WEB」というHPの「古い絵葉書コーナー~室生寺」のページに同じタイプのものが掲載されています。
余談ですが、HPには、この絵葉書の発行年代が「大正7年~昭和8年」と記されています。
これは絵葉書の宛名面の仕切り線の位置で、発行年代が判別できることによるものです。

私が確認した同じ写真の絵葉書は、その判定方法によると「明治40年~大正6年」のものでした。
明治42年の修理前に撮影された室生寺金堂諸尊の写真は、随分長い期間、そのまま絵葉書に使用されていたことになります。



【明治新補の光背は、美術院・久留春年の手によるもの?
~古典画、古裂文様研究家としても知られた人物】

杉崎貴英氏は、明治修理時にこの新補の光背に古式に倣った絵柄を描いたのは、当時美術院の画工であった久留春年であった考えられるとしています。
法輪寺の薬師如来像や虚空蔵菩薩像の明治新補の光背なども、久留春年の手になるものだそうです。

264室生寺十一面観音:法輪寺・虚空蔵菩薩像~光背は明治修理による久留春年の作と思われる
法輪寺・虚空蔵菩薩像
光背は明治修理による久留春年の作と思われる


久留春年というのは、美術院の画工に留まらず、古典画家、古裂文様研究家として、古美術研究への多方面の才能、造詣を以て活躍した人物であったようです。



【光背は、本当に明治新補のもの?
~「美術院修理記録」刊行文献では確認できず】

十一面観音像の光背は明治修理時の新補であることを、修理記録資料で確認できないものかと、
「日本美術院彫刻等修理記録」全14冊(1975~1980年奈良国立文化財研究所刊)
をあたってみたのですが、
修理記録が残されていないようで収録がなく、仏像の何処がどのように修理されたのか判りませんでした。



【続々と見つかった「光背は明治新補」と書かれた、室生寺関係の古い本】


当時、この光背が明治修理の新補であることは知られていなかったのでしょうか?

古い室生寺関係の本の解説などを、いろいろあたってみました。
そうすると、十一面観音の光背について、このような記述を見つけることが出来ました。

大正13年(1924)「室生寺大観」の解説です。
本書は、飛鳥園の小川晴暘撮影の室生寺の写真集です。

「十一面観音像  弘仁時代、木彫彩色、(光背は近年の作)・・・・・・」
(「室生寺大観」奈良美術研究会編1924年飛鳥園刊)

昭和8年(1933)発刊「日本国宝全集」の解説です。

「その光背は近年の新補で、他の諸仏に擬して作ったものである。」
(「日本国宝全集 第31輯」文部省編 1933年日本国宝全集刊行会刊)

昭和11年(1936)発刊「仏像彫刻」には、このように記されています。
著者・明珍恒夫氏は美術院で長年仏像修理に携わった人です。

「光背は所謂挙身光、極彩色で宝相華文様を描く。
但しこれは明治の修理に際し古式に倣うて捕捉したものである。」
(明珍恒夫著「仏像彫刻」1936年大八州出版刊)

戦後、昭和29年(1954)発刊「室生寺」の北川桃雄氏の解説です。

「光背は同じく二重の挙身光であるが、明治時代に古式に補作したものという。」
(土門拳・北川桃雄著「室生寺」1954年美術出版社刊)

昭和37年(1964)発刊「奈良県文化財全集第1巻~室生寺」の解説です。

「光背は全部近年の補作であり、・・・・・・」
(「奈良県文化財全集1~室生寺」1962年奈良県教育委員会刊)


ちょっと、引用がクドくてしつこかったのですが、私が見つけた「十一面観音の光背が明治新補である」旨が記された本の解説をすべて挙げてみました。



【「光背明治新補」は、昔は良く知られた話であったよう・・・・】


こうしてリストアップしてみると、
「なーんだ! 光背が明治新補だとする文献はこんなに沢山あったのか!」
と、ちょっと拍子抜けした感じがしてしまいました。

古い頃には、十一面観音の光背が明治修理時の新補であることは、良く知られていて当たり前の事実であったようなのです。
戦前、戦後ともに、昭和30年代ごろまでは、明治の新補との見方が普通であったようなのです。



【「光背は江戸後補」が定説的になったのは、「大和古寺大観」での論述以降か?】


ところが、近年では「江戸時代後補のものである」ということが定説のようになっていた感じなのです。

十一面観音の光背が、江戸末期の後補のものであるとされたのは、昭和51年(1976)発刊の「大和古寺大観」の解説で、
「寺蔵文書によって、天保9年(1838)修理時の京都仏師・山本茂祐の手により後補されたと考えられる。」
と述べられてからのことだと思います。
それ以来、この記述に則って、江戸時代のものと解説されてきたようです。

今更ながらに、「大和古寺大観」や「奈良六大寺大観」の権威の大きさというか、圧倒的に信頼されている、まさに定本であることを思い知らされたというのが実感という処です。

実は、近年の室生寺関係の本の解説では「光背は後補」とだけ書かれているものが結構あります。
後補時期にわざわざ触れる必要も無かったのでしょうが、「大和古寺大観」の江戸後補の記述もあることから、あえて言及されていなかったのかもしれません。


ここまで、一枚の絵葉書の古写真の読み解をきっかけに、室生寺十一面観音像の現在の光背が明治新補のものに違いないということが明らかになったという話をご紹介したのですが、
敢えて言うと、現在の光背が、
「絶対に明治新補のものに間違いないという、確定的証拠が欠けている。」
と云えないこともないものでした。



【見つかった、「光背は明治新補」の確定的証拠資料
~奈良県公文書(奈良県図書情報館保存)に「明治の修理記録書」の存在を発見】

実は、その確定的証拠となる資料が見つかったのです。

ご紹介した新知見を発表された帝塚山大の杉崎教授は、私が参加している古仏探訪会「天平会」の講師をされておられるのですが、その杉崎教授から、新知見の論考を発表した後に、
「光背の明治新補を示す、決定的文書が存在するのが見つかった。」
ということを、ご教示いただいたのです。

見つけられた決定的文書というのは、明治42年(1909)に行われた「室生寺金堂諸尊像修理の詳細な修理記録書」でした。
奈良県立図書情報館に古い公文書や古文書をデジタル化した「まほろばデジタルライブラリー」というものがあるのですが、
ここに保存されている「奈良県庁保存公文書」に
「明治四十二年三月(補助金下附) 国宝修理一件 室生寺」
という公文書があり、当時の詳しい修理記録書類がデジタル化されて掲載されているのを見つけられたということです。

この資料は奈良県立図書情報館HPを開いて資料検索の「まほろばデジタルライブラリー」を選択し、検索ボックスに「明治四十二年三月(補助金下附) 国宝修理一件 室生寺」入力して検索するとデータは表示されます。
ワンクリックで検索するには「こちらをクリック」すると、当該公文書の第1ページが表示されます。

データを開いてみると、明治42年の室生寺の仏像修理について諸記録書や図解が、なんと134ページにわたって詳述されていました。
修理所要費用の明細や補助金の申請書をはじめ、具体的な修理内容を記した修理記録書、修理箇所の図解まで掲載されています。



【「修理記録書」には、光背新補の記述と修理図解が
~光背明治新補の動かぬ証拠】

十一面観音像の修理記録書と修理箇所の図解は、次の通りです。

264室生寺十一面観音:奈良県庁保存公文書に残された明治42年の室生寺国宝修理関係記録

264室生寺十一面観音:奈良県庁保存公文書に残された明治42年の室生寺国宝修理関係記録

264室生寺十一面観音:奈良県庁保存公文書に残された明治42年の室生寺国宝修理関係記録
奈良県庁保存公文書に残された明治42年の室生寺国宝修理関係記録(十一面観音部分)
下段「修理」の項に光背新補の旨、明記されている


修理記録には、
「光背ハ享保年中ノ製作ニカカルモノナルヲ以ッテ 之ヲ改造シ 他ノ佛体ニ倣フテ唐草文様ヲ画クベシ」
と、はっきりと光背を新補し唐草文様を描いた旨が書かれていました。

修理図解の方を見ても、光背は新補を示す緑色に全面的に塗りつぶされています。

264室生寺十一面観音:奈良県庁保存公文書に残された明治42年の室生寺国宝修理関係記録264室生寺十一面観音:奈良県庁保存公文書に残された明治42年の室生寺国宝修理関係記録

264室生寺十一面観音:奈良県庁保存公文書に残された明治42年の室生寺国宝修理関係記録
明治42年修理時の十一面観音の修理図解
光背は新補を示す緑色で塗りつぶされている



まさに、明治修理で十一面観音の光背が、全面的に新補された動かぬ証拠です。


一枚の絵葉書の古写真の読み解きから始まった
「十一面観音の光背は、何時制作されたのか?」
という問題は、これで完全決着ということになりました。



【もう1枚の気になる古写真の存在
~十一面観音の光背に、文殊菩薩の現在の光背が】

今回のお話は、これでオシマイとしたい処なのですが、実は、もう1枚大変気になる古写真があるのです。
ご覧の古写真です。

264室生寺十一面観音:明治修理前の室生寺・十一面観音・文殊菩薩の古写真
明治修理前の室生寺・十一面観音・文殊菩薩の古写真
奥健夫氏「彫刻修理の現状と課題」掲載写真


この古写真も、明治42年(1907)の美術院の修理以前に撮影された写真です。
奥健夫氏の論考「彫刻修理の現状と課題」(「文化財学の構想」2003年勉誠出版刊所収)に掲載されていました。

室生寺の仏像がメインテーマではなくて、明治期に行われた仏像修理前の状況を示す一例として掲載された写真なのですが、
「(註:古写真の十一面観音の)光背が本体と大きさが合わないことに気付きますが、実はこの光背は現在、隣に写っている文殊菩薩像に付けられており、代わりに十一面観音像には新しく造った光背が付いています。」
と述べられているのです。
この古写真では、現在の文殊菩薩像の光背は、十一面観音像に取付けられていたことになります。

先にご紹介した絵葉書の古写真では、文殊菩薩の光背は現在の光背と同じものとなっています。

264室生寺十一面観音:古い絵葉書の室生寺金堂・十一面観音・文殊菩薩像の古写真264室生寺十一面観音:室生寺金堂・文殊菩薩像
(左)明治修理前の古い絵葉書の十一面観音・文殊菩薩像の写真
(右)現在の文殊菩薩像写真


奈良県公文書の明治42年の修理記録書でも、文殊菩薩の光背は現在の光背となっています。

そうだとすると、明治期のある時点では、「奥氏紹介の古写真」のように光背が取り付けられていた時期があり、その後に「絵葉書の古写真」のような光背取付に組み替えられた。
そして、明治42年の修理の時を迎えたということになります。

264室生寺十一面観音:「室生寺大観」(大正15年刊)掲載の室生寺金堂・諸尊像
大正13年(1924)刊「室生寺大観」掲載の室生寺金堂・五尊像写真
現在の光背と尊像との組み合わせになっている




【絵葉書古写真に写る十一面観音の光背は、何処から持ってこられたのでしょうか?】


それでも、まだ不思議なことがあります。

絵葉書の十一面観音の光背は、「奥氏紹介の古写真」の文殊菩薩の光背とは間違いなく形が違う別のものです。
明治時代に十一面観音の光背を文殊菩薩の方に戻した時に、絵葉書に写る光背が十一面観音に備えられたことになります。
絵葉書に写る十一面観音の光背は、何処から持ってこられたのでしょうか?

先程、
「絵葉書に写っている光背は、江戸時代末期、仏師・山本茂祐の手になるもの。」
に違いないと説明したのですが、
この話も、ちょっと怪しくなってきてしまいました。



【後世に失われてしまうのが通例の光背
~古い光背も、他像のものと組み替えられていることが度々】

仏像の光背は、後世に失われてしまうことの方が多く、制作された当時の光背が現在も残されている方が珍しいと云って良いものです。
また、古い光背が残されていても、当初からの仏像と一具のセットものではなく、後に他の像のものと組み替えられていることも良くあることです。

室生寺の金堂五尊像は、そのうち四尊像のものが平安時代の板光背が伝えられているという大変珍しいケースです。
それでも、多くのケースと同様に、様々な変遷を経て、現在の仏像と光背との組合せに落ち着いたということなのだと思います。

(室生寺金堂五尊像と光背の一具問題、組合せ問題については、採り上げると、またまた厄介な話になりますので、ここでは止めておきます。)


一枚の絵葉書の古写真に写った室生寺・十一面観音の姿から、光背の造られた時期が明らかになったという話でしたが、

「読み解けたつもりになっても、本当に読み解くのはなかなかに難しい!」

ことを実感した「古写真を読み解く話」でした。


こぼれ話~古写真を読み解く⑤:今とは違っていた? 広隆寺・宝冠弥勒像の元々の顔かたち 【2022.05.28】


広隆寺の宝冠弥勒菩薩像の話です。

誰でも知っている、飛鳥時代の国宝仏像で、人気の仏像ベスト3とかベスト5には、必ずランクインする超有名仏像です。



【珍しい、広隆寺・宝冠弥勒像の古写真
~久野健氏旧蔵の明治修理前の安置の姿が】

こんな古写真をご覧になったことがあるでしょうか?

263広隆寺宝冠弥勒:広隆寺・宝冠弥勒像の明治修理以前古写真(久野健氏旧蔵)
広隆寺・宝冠弥勒像の明治修理以前古写真(久野健氏旧蔵)
久野健著「古代朝鮮仏と飛鳥仏」1979年東出版刊所収写真


明治期に撮られた、広隆寺・宝冠弥勒像の珍しい古写真です。
この写真は、日本彫刻史研究の大家であった久野健氏(1920~2007)の旧蔵写真です。

久野氏は、
「親しい古書店に、古い仏像の写真を集めたアルバムがあるから買わないかとすすめられた。
なかに一葉、明らかに明治修理以前の広隆寺の弥勒の写真があったので、わたしにとっては少々高い値段であったが、思い切って買っておいた。」
(久野健著「仏像」1961年学生社刊)
と語っています。



【宝冠弥勒像の魅力を世に知らしめた超有名写真
~飛鳥園・小川晴暘が、大正末年に撮影】

もう一枚、古い写真をご覧ください。
こちらは、大変有名な写真です。

263広隆寺宝冠弥勒:飛鳥園・小川晴暘撮影、広隆寺・宝冠弥勒像
飛鳥園・小川晴暘撮影~広隆寺・宝冠弥勒像写真(大正末年頃)

仏像写真家としてその名を知られる飛鳥園、小川晴暘(1984~1960)の撮影した写真です。
小川晴暘が、この黒バックの写真を撮ったのは大正末年頃です。
宝冠弥勒像の魅力を存分に引き出した、本当に美しい写真です。

この写真によって宝冠弥勒像が広く世に知られ、圧倒的な人気を博するようになる大きなきっかけとなったといわれています。
まさに、宝冠弥勒像の名を世に押し上げた記念碑的写真と云っても良いのではないでしょうか。



【見た眼の印象が、かなり違って見える二つの写真
~とりわけ随分違う、お顔の雰囲気】

二つの写真を見ると、
「これが、同じ仏像の写真なのだろうか?」
と疑ってしまいたくなる程、随分雰囲気が違います。

仏像の写真は、ライティングやアングルなどによって、ビックリするほど印象が違って見えることがありますが、それにしてもこのお顔の雰囲気はどうみても同じようには見えないように思えます。

263広隆寺宝冠弥勒:広隆寺・宝冠弥勒像の明治修理以前古写真(久野健氏旧蔵)顔部263広隆寺宝冠弥勒:飛鳥園・小川晴暘撮影、広隆寺・宝冠弥勒像~顔部
(左)久野健氏旧蔵~明治修理前宝冠弥勒像写真
(右)飛鳥園・小川晴暘撮影~宝冠弥勒像写真


広隆寺の宝冠弥勒菩薩像は、その美しさと魅力について、

「シャープに鼻筋の通った瞑想の表情は、清楚な気品をたたえ、頬にかすかに当てた細くしなやかな指とともに、静かに引きこまれるような神秘的な美しさがある。
現代人の悩みや苦しみを吸い取ってくれるような哲学的な美しさを感じる。」

などと語られ、称賛されています。

小川晴暘の写真は、この宝冠弥勒像の魅力を見事に捉えたもので、観る者の心が、思わず吸い込まれてしまうかのようです。


一方、久野健氏旧蔵の明治の古写真を見ると、

「清楚な気品、神秘的な美しさ、哲学的な瞑想」

といった形容詞は、どうみても似合わないように見えるというのが私の実感です。

どうして、これだけ印象、雰囲気が違って見えるのでしょうか?



【明治37年に、日本美術院の手で修理が実施された宝冠弥勒像】


実は、広隆寺の宝冠弥勒菩薩像は、明治37年(1904)に日本美術院の手によって修理が実施されています。

この修理前の姿と、修理後の姿に結構変化があるようで、とりわけ顔立ちの雰囲気が変わっていると云われています。
一言でいえば、現在の顔立ちよりも、もっと朝鮮風のふっくらとした顔立ちをしていたようなのです。

この話は、これまでもいろいろな本に採り上げられたりしていますので、ご存じの方も多いのではないかと思います。
二番煎じ、三番煎じの話になってしまうのですが、「古写真を読み解く」というテーマでは採り上げておきたい処ですので、少し詳しく見てみたいと思います。


明治37年(1904)に日本美術院によって実施された宝冠弥勒像の修理は、新納忠之介(1869~1954)、菅原大三郎(1873~1922)等の手によるもののようです。
修理記録書などが残されていませんので、何処をどのように修理修復されたのかがよく判りません。



【明治修理前の古写真と、現在の姿を較べてみると・・・
~残されている小川一眞撮影の2枚の古写真】

残されている修理前の古写真と、修理実施後の写真とを較べてみて、どこが違っているのかを確認してみるしかなさそうです。

明治修理前の古写真は、冒頭の久野健氏旧蔵写真の他は、私の知る限りでは、明治21年に小川一眞によって撮影された2枚の写真が残されているだけです。

ご覧のとおりです。

263広隆寺宝冠弥勒:明治21年小川一眞撮影、広隆寺・宝冠弥勒像古写真(東博古写真データベース所載)

263広隆寺宝冠弥勒:明治21年小川一眞撮影、広隆寺・宝冠弥勒像古写真(東博古写真データベース所載)
明治21年小川一眞撮影、広隆寺・宝冠弥勒像修理前古写真
(東博古写真データベース所載)




【金色で、賑やかな胸飾で飾られた制作当初の姿?
~現在では、清楚な気品と飾らぬ美しさが魅力と語られる】

現在の宝冠弥勒像の姿と比較してみたいと思います。

263広隆寺宝冠弥勒:広隆寺・宝冠弥勒像

263広隆寺宝冠弥勒:広隆寺・宝冠弥勒像
広隆寺・宝冠弥勒像

一番変わっている、顔立ちの話はあとで詳しくふれるとして、その他はどこが違うでしょうか?

修理前の久野氏旧蔵写真では、円光を背負い金属製の胸飾のようなものが胸に飾られています。
また、どちらの古写真でも、左肩には天衣の残欠がかけられています。
これらは、当初のものではないと判断されたのだと思いますが、修理で全部取除かれています。
左の脚部には大きな長方形の損傷がみられるほか、各所に損傷があったようです。
修理後は、きれいに損傷が修復されていると共に、当時は無かった蓮華座が新たに制作されその上に半跏する姿とされています。
一方で、現在は制作当初のものとされている腰の綬帯が、小川一眞撮影側面写真を見ると、外されています。

調査によると、腹部に漆箔の痕が残されていて、全面金箔金色の像であったようです。
また、胸の部分、手首の部分にはいくつかの釘穴が残されていて、円形の胸飾と腕釧がつけられていたとみられます。
修理前には、肩に天衣の残欠が残っていることから、上半身には天衣がかかっていた可能性があります。

現在の宝冠弥勒像は、
「上半身は何も身につけない裸身で、木の素地の肌をそのままにした飾らぬ美しさ、清楚な気品。」
が魅力と、よく言われます。

ところが、修理前写真や調査結果などによると、
飛鳥時代に制作された当初は、
「全身金色に輝き、にぎやかな胸飾と腕釧で飾り立てられ、肩から天衣をまとう。」
という姿の像で、
清楚というよりは、派手な感じの像であったと云えそうです。



【鼻筋がくっきり通って、シャープな目鼻立ちに
~修理前は、ふっくら茫洋とした朝鮮風顔立ち】

気になる顔立ちの方はどうでしょうか。

修理前と修理後のお顔の拡大写真を較べてみると、かなり違っているのが一目瞭然です。
写真のことですので、撮影の仕方やライティングなどによって写り具合が違ってくるとはいうものの、顔立ちが同じようには見えません。

263広隆寺宝冠弥勒:明治21年小川一眞撮影、広隆寺・宝冠弥勒像古写真~顔部263広隆寺宝冠弥勒:広隆寺・宝冠弥勒像~顔部
(左)明治21年小川一眞撮影~宝冠弥勒像修理前古写真
(右)広隆寺・宝冠弥勒像~顔部


一番に目に付くのは、鼻梁のライン、鼻筋です。
修理後は、鼻筋がくっきりと通って随分シャープになり、尖った感じがします。
また、修理前の少しふっくらした顔立ちが、修理後は痩せて締まった感じとなり、眉や目鼻口のラインも茫洋とした感じから、くっきりシャープなものになっています。

実は、明治37年(1094)の修理前にとられた頭部の石膏型が残されています。
この石膏型をみても、そのことがよく見て取れ、朝鮮風の雰囲気を持った顔立ちであったことがよく判ります。

263広隆寺宝冠弥勒:明治修理前にとられた広隆寺・宝冠弥勒像の石膏型(早稲田大学会津八一記念館蔵)
早稲田大学会津八一記念館蔵の明治修理前にとられた広隆寺・宝冠弥勒像の石膏型
(「小もの展~会津八一蒐集からみるひと・もの・こと」展図録・2021年早稲田大学会津八一記念館刊所載)
1954年に、会津八一が飛鳥園から購入したとの記録が残る




【明治修理のやり方に疑問を呈した安藤更生氏
~修理前後の顔立ちの違いを鋭く指摘】

美術史学者の安藤更生氏(1900~1970)は、「この明治の修理にはどうしても納得がいかないものがある」として、自著でこのように語っています。

「まず誰でも気の付くことは、修理前の顔は輪郭がふっくらしているのに、現状は全体に痩せた感じに纏まっていることである。
一体にこの太秦の弥勒のような朝鮮系の斉・隋式仏像は、顔が丸くふっくらしているところに一つの特徴がある。
その例は旧李王家所蔵の徳寿宮博物館所蔵金銅半跏思惟像にもよく現れている。

ところが実情は広隆寺のは今書いたように痩せてしまって、ふっくらとしたところがない。
石膏型と比較してみると、なんぞ知らん太秦のは相当思い切って削り直しが施されているのだ。
鼻の側面も、元はもっと肉があったのを。この部分、かなり痛んでいたのだろうが、鎬が立つほど削り直している。
・・・・・・・・
眉毛の線も、右眉の痛みを削ったために、痛んでもない左眉も、それに調子を合わせて、少し削ったらしい。
写真を見ればわかる通り、削り直しがしてない部分の表面は、木目がよくわかるし、木目の見えない肌はすべて削り直しなのだ。
これが修理だろうか。

今日とは時代が違うので、当時の工人としては最上と思う方法を施したつもりかも知れないが、なお疑問が僕の心の底に残るのはなんとも仕方がない。」
(安藤更生「国宝修理譚」:「南都逍遥」1970年中央公論美術出版刊所収)

なかなか辛辣で手厳しい文章ですが、修理前後の像の顔立ちの違いを、鋭くはっきりと指摘したものだと思います。



【「傷みやつれた地肌の修復に苦労したという話」が伝わる明治の修理】


もう一つ、当時の修理についてこんな話もあります。

この像の表面は、明治修理の当時は相当に傷みやつれていたようです。
美術院の仏師であった辻本干也氏は、当時宝冠弥勒像の修理にあたった一人の藤村新次郎氏から、その苦労話をこのように聞いたと語っています。

「彼のいうのには材質がマツ(松)ですので、随分虫食いがひどくて、手で押さえたらポコッとヘッ込んでしまうような状態にあった。
その修理を、私がやったんだ。
いま残っている、だれもが木目だと思っているあのあしゃれた素地も崩れかかっていて、木の虫が食った穴へ木屎漆を丹念に詰め込んで、木目が残っている感じを表したものだから、いま古い木目がように見えてているところは、私が苦労して復元していったものなんだという苦労話を、私は二十代だったんですけれど聞かされて、なるほどと思った経験があるんです。」
(辻本干也・青山茂共著「南都の匠~仏像再見」1979年徳間書店刊)

修理前写真を見ると地肌がふんわり柔らかい感じがしますが、現在の像は締まったような硬質感の肌合いを感じさせるのは、傷みやつれた地肌をこのようにして修理を施したことによるものかもしれません。



【韓国国立博物館・半跏思惟像とそっくりと語られる宝冠弥勒像
~修理前の古写真では、より朝鮮風の印象が】

広隆寺・宝冠弥勒像が、韓国国宝83号・韓国国立中央博物館蔵・半跏思惟像(旧李王家所蔵の徳寿宮博物館所蔵像)とそっくりよく似た像であることは、良く語られる話です。

263広隆寺宝冠弥勒:韓国国宝83号・韓国国立中央博物館蔵・半跏思惟像

263広隆寺宝冠弥勒:韓国国宝83号・韓国国立中央博物館蔵・半跏思惟像
韓国国宝83号・韓国国立中央博物館蔵・半跏思惟像

現在の宝冠弥勒像の姿でも、確かによく似ているですが、明治の修理前の古写真や石膏型と韓国国宝83号像とを較べてみると、ふっくらとした顔の輪郭や朝鮮風の顔立ちが格段に類似しています。

明治修理前の宝冠弥勒像は、今よりもずっと朝鮮風の風貌の像であったことは間違いないようです。



【朝鮮半島での制作像といわれる宝冠弥勒像
~用材がアカマツ材であることが有力根拠に】

広隆寺・宝冠弥勒像は、朝鮮風どころか、実は朝鮮半島で制作されたのではないかという説が有力であることは、皆さんよくご存じのことと思います。
今更ここでご説明することでもないのですが、そのエッセンスだけ触れておこうかと思います。

そもそも、広隆寺宝冠弥勒像は、韓国に類似像があることから、古くから朝鮮半島作の可能性が云われていました、
昭和26年(1951)、小原二郎氏によって宝冠弥勒像の用材の科学的調査が行われ、材が「アカマツ」であることが判明しました。
我が国の飛鳥白鳳期の木彫像は、例外なく「クスノキ」で造られています。
朝鮮半島では、クスノキは一般に産しないこと、アカマツは朝鮮では通例用いられる用材であることから、朝鮮半島作に違いないといわれるようになったのでした。

ただこの考えに異論もあります。
弥勒像の腰から下につけられた綬帯・垂飾紐と、背中の内刳りの蓋板の用材に「クスノキ」が使われているのです。
そして、このクスノキの部分は、制作当初の時代のものと見られのです。

となると、朝鮮で造られた像が渡来した後に、欠損等となっていた綬帯、蓋板を日本で補ったと考えることもできますし、朝鮮半島から用材だけが日本に運ばれ、我が国で帰化系工人などの手で制作されたので、一部にクスノキが使われているのだという見方もできるわけです。

いずれにせよ、弥勒菩薩像は用材からみても、朝鮮半島の要素が極めて色濃い仏像であることは確実というわけです。



【当初は、上半身に乾漆の盛り上げがあったともみられる宝冠弥勒像
~離れている指先が頬にふれていた?】

最後に、古写真とは直接関係が無いのですが、宝冠弥勒像の上半身には一部乾漆の盛り上げがあったのではないかという見方をご紹介しておきたいと思います。

このように主張したのは、仏師・仏像修理技師で研究者としても知られる西村公朝氏(1915~2003)です。
西村氏は、宝冠弥勒像の指が本来は頬に直接触れていた筈だと考えられることや、首に刻まれた溝が普通の仏像より一本多く、三道が四道となっていることなどから、制作当初は像の顔部、上半身を中心に乾漆、木屎漆の盛り上げがなされていたと推定しています。
半木心乾漆像とでも云ってよい造形だったことになります。

西村氏が推定した、当初の乾漆の盛り上げ状況は、ご覧のようなイメージです。

263広隆寺宝冠弥勒:西村公朝氏による広隆寺・宝冠弥勒像の乾漆盛り上げ想定図(「美の秘密・二つの弥勒菩薩像」日本放送出版協会刊所載)
西村公朝氏による広隆寺・宝冠弥勒像の乾漆盛り上げ想定図
(「美の秘密・二つの弥勒菩薩像」1982年日本放送出版協会刊所載)


西村氏は、中指の方に2~3ミリ、頬の方に4~5ミリの乾漆の盛り上げがなされて、現在の約7ミリの隙間を埋めていたと推定しています。

西村氏の推定によって当初の姿を想像すると、四道が三道になるだけでなく、右足に伏せた左手の甲が凹んでいるのも修正されることになります。
また、頬はもう少し豊かなものになり、離れている右手の指先が直接頬にふれるようになるというわけです。



【上半身が細身で、脚部とアンバランスな印象が
~乾漆盛り上げなら、丁度良いプロポーションに?】

たしかに、この弥勒菩薩像の前に立ち、その姿をじっと眺めていると、プロポーションが何処かしらアンバランスなのに気が付きます。
胸の辺りが扁平で、上半身が随分細身で華奢になっています。
しっかりした下半身や脚部とがうまく釣り合っていないようにみえます。

西村氏の想定のように考えると、全体のプロポーションのバランスが丁度良くなるような感じがします。
なるほどと、すごく納得する処です。

ただ、朝鮮系の古代小金銅仏の半跏像には、上半身が大変スリムだったり、扁平に造られたスタイルの像がみられることもまた事実です。
法隆寺献納四十八体仏にも、ご覧のようにそのような作例がみられます。

263広隆寺宝冠弥勒:法隆寺献納宝物四十八体仏・菩薩半跏像(156号像・丙寅銘)263広隆寺宝冠弥勒:法隆寺献納宝物四十八体仏・菩薩半跏像(158号像)
(左)法隆寺献納宝物四十八体仏・菩薩半跏像(156号像・丙寅銘)
(右)法隆寺献納宝物四十八体仏・菩薩半跏像(158号像)


また、宝冠弥勒像の何処にも、木屎(乾漆)が残存する痕跡が確認できないそうです。

そういったことを考えると、宝冠弥勒像には、元々乾漆の盛り上げはされていなくて、上半身がスリムなプロポーションの像であったとしても、不思議はないのかもしれません。

このあたりのことは、今となっては、明らかにすることが難しい謎ということになるのでしょうか。


今回は、
「清楚な気品をたたえ、木肌をそのままにした飾らぬ美しさで、観る人の心を魅了する。」
と評される、
広隆寺・宝冠弥勒像の制作当初の姿を、明治修理前の古写真などから推し量るという話をご紹介しました。


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