観仏日々帖

トピックス~深大寺・釈迦如来倚像の発見物語…白鳳展に寄せて 【2015.7.25】


【流石! 名品揃いの白鳳展】

いよいよ7月18日から、奈良国立博物館で、開館120年記念特別展「白鳳~花開く仏教美術」が開催されました。

奈良博・白鳳展ポスター

奈良博・白鳳展ポスター

白鳳美術の粋ともいえる、見事な仏像が勢揃いです。
超有名どころを並べてみてみただけでも、ご覧のような仏像が出展されます。

興福寺(旧山田寺)・仏頭、薬師寺金堂・月光菩薩立像、薬師寺東院堂・聖観音立像、
法隆寺・夢違観音立像、六観音立像、法隆寺・阿弥陀三尊像(伝橘夫人念持仏)、
法輪寺・虚空蔵菩薩立像、当麻寺・持国天立像、新薬師寺・香薬師像模造(奈良博蔵)、

流石、奈良博開催の白鳳展だけのことだけはあると、唸ってしまいます。
(これらの仏像を、すべて「白鳳」という区分で整理しても良いのかという議論はあるかとは思いますが・・・・・)

奈良以外の地に在る白鳳仏像も勢揃いで、

東博・法隆寺献納宝物から、丙寅銘菩薩半跏像・辛亥銘観音菩薩立像、
野中寺・弥勒菩薩半跏像、深大寺・釈迦如来倚像、龍角寺・薬師如来坐像、一乗寺・観音菩薩立像、
鶴林寺・観音菩薩立像、鰐淵寺・壬辰銘観音菩薩立像、長谷寺(大分)・壬寅銘観音菩薩立像、

等々といった、各地の著名仏像が出揃います。

これだけの白鳳仏がを、一堂に会して観ることが出来る機会は、これからしばらくの年数ないだろうと思います。
皆さんも、この展覧会だけは逃すまいと、出かける予定を立てていらっしゃることでしょう。

「白鳳」というフレーズは、心に美しく響くような抒情的語感を感じさせます。
白鳳は白雉(650年〜654年)の年号の美称ということですが、この時代の仏像を表現する呼称としては、本当に相応しい呼称があてられていると、今更ながらに思ってしまいます。

奈良博の白鳳展HPには、

「白鳳美術の魅力は金銅仏に代表される白鳳仏にあると言って良いでしょう。
白鳳仏は若々しい感覚にあふれ、中には童子のような可憐な仏像も見ることができます。」

と記されていますが、

皆さんも、白鳳仏には、
「若々しい、みずみずしい、清々しい、清明、可憐」
こんな修飾語で表現される美しさを感じられるのではないかと思います。

それが、白鳳仏のたまらない魅力になっているのでしょう。


【意外と多い、新発見の白鳳仏たち】

こんな白鳳仏の魅力は、展覧会でじっくりと実感いただくことにして、展示仏像の名前を眺めていると、ふとこんなことに気になりました。

私の知るかぎりなのですが、新たに発見され、その存在が知られるようになった仏像が7躯もあるのです。

深大寺・釈迦如来倚像、野中寺・弥勒菩薩半跏像、龍角寺・薬師如来坐像、悟真寺・誕生仏像、興福寺(旧山田寺)・仏頭、般若寺・阿弥陀如来立像、見徳寺・薬師如来坐像、

の7躯です。

深大寺・釈迦如来倚像..野中寺・弥勒菩薩半跏像
深大寺・釈迦如来倚像            野中寺・弥勒菩薩半跏像

龍角寺・薬師如来坐像...悟真寺・誕生仏像
龍角寺・薬師如来坐像(千葉)            悟真寺・誕生仏像(奈良)

興福寺(旧山田寺)・仏頭...般若寺・阿弥陀如来立像
興福寺(旧山田寺)・仏頭            般若寺・阿弥陀如来立像

見徳寺・薬師如来坐像
見徳寺・薬師如来坐像


・深大寺・釈迦如来倚像は、明治42年(1909年)に、
・野中寺・弥勒菩薩半跏像は、大正7年(1918年)に、
・龍角寺・薬師如来坐像は、昭和7年(1932年)に、
・悟真寺・誕生仏像は、昭和12年(1937年)に、
・興福寺(旧山田寺)・仏頭は、昭和12年(1937年)に、
・般若寺・阿弥陀如来立像は、昭和39年(1964年)に、
・見徳寺・薬師如来坐像は、平成10年(1998年)に、

それぞれ、発見されているのです。

このほかにも、調べてみると、もっと新発見の仏像があるのだろうと思いますが、そのあたりは良く判りませんが、ご存じの方はご教示いただければと存じます。

これら新発見仏像には、白鳳時代の仏像彫刻史の中で、大変重要な仏像になっているものがあります。

・興福寺(旧山田寺)・仏頭は、皆さんご存じのとおり、白鳳彫刻を代表する美麗な仏像です。
天武14年(685)完成の基準作例として広く認知されています。

・野中寺・弥勒菩薩半跏像は、台座銘文からら天智五年(666)に造立されたことが知られる基準作例で、飛鳥彫刻から白鳳彫刻へ転換してゆく作例として知られています。

・深大寺・釈迦如来倚像は、盗難に遭い今は亡き新薬師寺・香薬師像の兄弟のような姿で、これまた白鳳様式の典型といわれる清明さをそなえた仏像です。

新発見の仏像のもたらしたインパクトは、なかなかのものだったと云えるでしょう。

現在、白鳳彫刻を語るうえでは、
「この新発見の仏像を置いて、論ぜられることはないのだろう。」
と思います。
ちょっと大げさに言えば、
「これらの仏像の発見が無ければ、白鳳彫刻についての論ぜられ方は、また違っていたのかもしれない?」
といっても良いかもしれません。


そこで、これらの新発見の仏像の「仏像発見物語」をご紹介してみたいと思います。

興福寺(旧山田寺)・仏頭の発見物語は、以前に観仏日々帖の、
「トピックス~興福寺仏頭展によせて・・・「仏頭発見記」をたどる」
で、詳しくご紹介させていただきました。

今回は、これら新発見の仏像から、
深大寺・釈迦如来倚像、野中寺・弥勒菩薩半跏像、龍角寺・薬師如来坐像
の発見物語などを中心に振り返ってみたいと思います。

発見についてふれられた限られた資料からのご紹介ですので、ちょっと物足りないものになろうかと思いますが、ご容赦ください。


【深大寺・釈迦如来倚像の発見物語】

まず最初は、深大寺・釈迦如来倚像の発見の話から始めたいと思います。


深大寺は、東京都調布市に在る古刹です。

深大寺・山門
深大寺・山門

白鳳仏よりも「深大寺そば」の方でよく知られているのかも知れません。
門前は、深大寺そばのお店が軒を連ねていて、いつもお客さんで賑わっています。

門前に並ぶ深大寺そばの店
門前に並ぶ深大寺そばの店


〈白鳳仏の白眉、深大寺・釈迦如来倚像〉

この深大寺に、白鳳仏の白眉ともいえる金銅仏・倚像が祀られています。
半眼の細長い目、くっきりした眉と鼻筋、柔らかな唇は、清々しい少年の顔立ちです。
若々しい体つきをして、薄く身体を覆う着衣表現も端麗で、衣文は流れるような美しさです。
まさに「これぞ白鳳仏の典型」といえる美麗な姿です。

深大寺・釈迦如来倚像

深大寺・釈迦如来倚像
深大寺・釈迦如来倚像

この深大寺・釈迦如来倚像を、こよなく愛する方も多くおられるのではないでしょうか。

そしてこの深大寺像は、これまた白鳳という時代を代表する金銅仏、「新薬師寺・香薬師像」にそっくりの像として知られています。

新薬師寺・香薬師像..新薬師寺・香薬師像
新薬師寺・香薬師像

亀井勝一郎氏は「大和古寺風物誌」のなかで、この二つの仏像について、このように語っています。

「現存する香薬師如来の古樸で麗しいみ姿には、拝する人いづれも非常な親しみを感じるに相違ない。
・・・・・・・・・・・
ゆったりと弧をひいた眉、細長く水平に切れた半眼の眼差、微笑していないが微笑しているようにみえる豊頬、その優しい典雅な尊貌は無比である。
・・・・・・・・・・・
もし類似を求めるならば、関東随一の白鳳仏といはるる深大寺の釈迦如来坐像(ママ)に近いであろう。
深大寺は私の家からさほど遠くないので、時折拝観することがあるが、ちょうど兄妹仏のような感じを受ける。
香薬師が兄仏で、釈迦如来像が妹仏である。
立像と坐像の差はあるが、面影が実によく似ているのには驚く。」

ご存じのとおり、新薬師寺の香薬師像は、昭和18年(1943)に三度目の盗難に遭い、それ以来杳として行方知らずになってしまっており、今は、その姿を拝することは叶いません。
(香薬師像の盗難の詳しい話は、埃まみれの書棚から「奈良の仏像盗難ものがたり456回」をご覧ください。)

香薬師像亡き現在では、深大寺・釈迦如来倚像が、この清々しい少年を思わせるタイプの白鳳の典型仏として、大変貴重、重要な作品となっているといえるのでしょう。


〈柴田常恵氏による白鳳金銅仏の発見〉

さて、そろそろ発見物語を振り返ってみたいと思います。

深大寺・釈迦如来倚像が発見されたのは、もう100年以上前の明治42年(1909年)のことでした。
柴田常恵
柴田常恵氏

当時東京大学の助手であった柴田常恵氏が、元三大師堂の須弥壇の奥に横たえられていた仏像を発見したのです。
発見の4年後には、国宝(旧国宝・現重要文化財)に指定され、関東を代表する美麗な白鳳仏の出現として世に広く知られるようになりました。
柴田常恵氏は、当時32歳の若さでした。
考古学、古代文化研究者で、その後は慶応大学講師、文化財専門審議会委員などを務めた人物です。

柴田氏にとっても、この白鳳の金銅仏の大発見は、思い出深く、心に残る出来事であったようで、仏像発見を回顧する文章を2度にわたって綴っています。

「釈迦像発見当時の回顧」宝雲第2冊(1932年)所収

「深大寺釈迦如来倚像の発見に就いて」 深大寺釈迦如来倚像(堀口蘇山編)・芸苑巡礼社1939年刊所収

この二つの文章は、それぞれ深大寺境内で行われた柴田氏の講演の速記録で、釈迦如来倚像発見当時の有様や、思い出話が、活き活きとした口調で語られています。
この講演録に導かれながら、仏像発見の話を振り返ってみたいと思います。


柴田氏が深大寺を訪れたのは、明治42年(1909)10月31日のことでした。

柴田氏の友人が京大図書館に転任するというので、その送別会を兼ねて深大寺にピクニックに3人で出かけたのだそうです。
深大寺では、老僧は病臥されていたので、寺男や小僧さんに手伝ってもらい、梵鐘の拓本をとったり、什物帳を拝見するなどしました。
そろそろ夕刻ということで、四谷での送別宴会に向かうため、帰り支度をし始めるころになり、帰りがけに元三大師堂に寄りました。

この元三大師堂で、白鳳金銅仏の世紀の発見となったのでした。
柴田氏は、元三大師堂の本尊が祀られる壇の下、地袋のようなところに、仏像が横たえられ押し込まれているのを発見します。
取り出してみると、「これはビックリ、古代の金銅仏に違いない!!」ということになったのです。

深大寺・元三大師堂
白鳳金銅仏が発見された深大寺・元三大師堂

深大寺・元三大師堂内陣
元三大師堂内陣~檀下に金銅仏が押し込まれていた

その時の有様について、柴田氏はこのように語っています。

「釈迦像発見当時の回顧」では、

「元三大師の御堂の方へ廻り、狐格子から覗いて見ると、経櫃が見える。
この寺は古いから写経の大般若か五山本でもありはしないかと、老寺男に出して
貰ったが、たいしたものではない、もぅ何もないかと訊きますと、この縁の下に金佛様があるといふ。

壇の下を覗いて見ると、一体の金佛があるが俯向きになっていて、衣紋やお顔が見えない。
寺男が壇の下へ這入ったが重くて出せない。
私も中へ這ひ込んで二人で漸く引出すやうにして出した。
どうやらいいようだから、縁の東側のところまで出して見た。

一行は帰り支度をしていたが皆集って来た。
これは大変なものだというわけで大いに亢奮し、そこでまた撮影をしようというので、写真機を片付けていたのを出して経箱を背景にして撮った。

翌日現像して見て―― こんな結構な御像であらうとは思はないし、寺の什物帳にも載ってゐないのだから、こんな立派な佛像が全然忘れられてしまつていたことに、再び驚きを發したわけである。」


「深大寺釈迦如来倚像の発見に就いて」では、

柴田常恵と香取秀真
柴田常恵氏と香取秀真氏(鋳金家)
『今は之れまでと、いよいよ帰ろうと致しましたが、本尊の両脇は壇が出来て居まして、現在は堂内も立派に整理されて居ますと、其当時は左程でなく基壇の下の地袋と申しますか或は鼠込みと申しますか、兎に角壇から申せば床下に、仏様が位牌や花筒など様なものと一緒に横にして置かれてあるのに気付きました。

始めはお尻の方が見えて居たので仏像とは拝しましても全く予期せぬことゝて、左程に結構な御像とも思はず、寺男に聞くと、『サァ何ですかネー』と云つて居りますから、取出して見ようと思いますと挨だらけで却々重い、寺男に手伝って貰って、漸く東側の演椽に出したのであります。
此時に寺男は気付いたのですが、深大寺が法相宗であった時の本尊だと云うことですと云いました。

同行の両君は帰る用意を致して居られたが、珍らしい仏像の出現に、吉浦君は釣鐘の写真を撮る為め持参された写真機を既に仕舞って居られたが、幸に乾板がまだあったので再び取出して写真を撮って帰った追々と夕刻に迫った時で、之れが私としては此像を拝する最初でありました。」

乱雑に押し込まれた壇の下から、突然、金銅の古仏が見つかってしまい、想定外の驚きと亢奮であったようです。
白鳳仏の大発見の瞬間が、活き活き手に取るように語られています。


柴田氏は、この仏像の写真を、中川忠順氏に見せました。
中川忠順氏というのは、当時、文化財の国宝指定などを行う「古社寺保存会」の中心的役割を果たした、著名な美術史学者です。
余談ですが、中川忠順氏は、美術史において「飛鳥・白鳳・奈良・貞観」の時代区分を提起した人物で、「白鳳美術」という呼称の命名者としても知られています。

中川氏はこの写真を見て、
「深大寺は関東の蟹満寺ともいうべきで、是非一度拝見したい」
という話で、写真と地図を渡したそうです。

深大寺・釈迦如来倚像..深大寺・釈迦如来倚像
深大寺・釈迦如来倚像


〈売られてしまいそうになった、新発見金銅仏像〉

この後、とんとん拍子で、白鳳仏の国宝指定へと一気に進んだと云いたい処ですが、なかなかそうはいかなかったようです。

この話を知った数寄者などが、仏像欲しさに、買取の交渉を寺に持ちかけるという動きがあったのです。
深大寺の方も、当時は寺の修繕金にも困るような状況で、危うく売られてしまいかねないような局面もあったようです。
そんな経緯を経て、発見から4年を経たのち、ようやく国宝の指定を受けるに至りました。

柴田氏は、その経緯について、このように語っています。

「写真がどんな所へ廻ったものか、二三の数寄者の眼に触れたと見えまして、私共とは関係なく佛像慾しさにお寺へ交渉に来る者がありました。
・・・・・・・・・・・・
其人(注記:売却を持ちかけた人)の話に依ると、仏像は台帳に載って居ないのであるから、譲って貰うとすれば住職と総代の諒解さへ得れば出来ぬことはない。
本堂は荒果て、雨漏がする程なるが、修繕に困って居るから、寧ろ此佛像を譲って其費用に充てたらと云うことで、総代と交渉して居るとのことであった。

私は意外に驚きましたが、住職の老僧は其後久しからずして亡くなって居り、成るべく早く国賓にせねばならぬものと思ひましたが、中川さんにお尋ねすると台帳にないから其手績き済まねば出来ぬから、東京府の方へ話してあるとのことです。
何んでも其の時には二千円とか三千円とか云ふ様のことであります。

然るに地元の方でも住職が変わったり、何やかの事情があった為めでありましょう。
東京府の社寺関係の方でも棄てゝ置いた訳ではありますまいが、すぐにも国賓の指定を受けて宜しい仏像なるに関らず、未決の儘に敷年を過ごすに至ったは、右様の事情が多分にあった故と思われます。
斯くて大正2年4月に及び始めて国賓の指定を見るに至った次第であります。

仏像としては国宝の指定を見るまでの数年間は、誠に危険な時期でありましたが、幸に当事者の宜しき判然に依って之れを免るゝを得、今日では立派にお寺に安置されて居るといふ事は誠に結構なことだと思ひます。」
(「深大寺釈迦如来倚像の発見に就いて」)


もしこの時に、国宝指定を受けずに、個人に売却されてしまっていたら、今はどうなっていたでしょうか。
個人蔵として、めったに観ることが出来ない仏像になってしまっていたかもしれません。
場合によっては、海外に流出してしまうようなことになっていたかもしれません。

幸いにして今も、この白鳳の名品、釈迦如来倚像を、深大寺で拝することが出来ることは、大変うれしいことです。


〈謎に包まれた深大寺・釈迦像の来歴〉

さて、この釈迦如来倚像の来歴は、どのようなものなのでしょうか?

これだけの名品仏像ですから、古記録や言い伝えが沢山あってもよさそうなのですが、何時、どのような経緯で深大寺に祀られるようになったのか、良く判らないのです。
この仏像の伝来や、造像背景は、謎に包まれているのです。

この像の深大寺との関係を示す最も古い記録が見られるのは、江戸末期、天保12年(1842)のことです。

同年の深大寺「分限帳」に、
「本堂ニ有之、同銅仏 丈二尺余 壱体」
との記載があり、これが本像にあたると思われます。
それまでの古記録などには、見当たらないのです。

その後、明治に入り明治28年(1895)の、「深大寺創立以来現存取調書」に、
「釈迦銅 壱躯 丈二尺余 坐像ニ有ラズ 右ハ法相宗タリシ時ノ本尊ナリ申伝ナリ」
とあり、
明治31年(1898)の「深大寺明細帳」にも同趣旨の記載があります。

これが本像にあたるのは明らかで、明治時代には、釈迦如来倚像の存在自体は、寺としては認識はしていたが、重要な仏像とは考えられずに、壇下地袋に放置されていたということなのでしょう。

深大寺の創建は、天平5年(733)と伝えられており、草創が古代に遡る古刹であることは間違いありません。
また当地は狛江郡の一部で、高句麗系渡来人影響を受けた地域であると考えられて言います。
その古刹につたわる、二尺余(83.9cm)もある古代金銅仏に関する記録が、江戸時代末年の天保年間まで全く存在しないというのも不思議なことです。


白鳳時代の作品であることに間違いない釈迦如来倚像ですが、造像当時から関東の地に在り祀られていたものでしょうか?
それとも、後代になってから、何らかの事情により、当地にもたらされたものなのでしょうか?


〈中央作か、関東作か、 誰が何処で造った白鳳仏?〉

発見物語とは関係ないのですが、この釈迦如来倚像が、関東の地で製作されたものなのか、関西地方・中央で製作されたものなのかの問題についても、意見が分かれています。

中央作とする根拠としては、
その作り方が、関西・中央の白鳳仏と類似していることが挙げられています。
とりわけ新薬師寺香薬師像と非常に近い表現であることが有力な根拠となっています。
頭部の螺髪を表現しないで鏨の痕を残す点や、面相の表現方法が似通っていること、またサイズもほぼ同サイズであることなどの類似点が指摘されています。

また、松山鉄夫氏は鋳造技術面からの研究により、本像の洗練された高度な技術が当地渡来人の仕事でできるものではなく、蓄積された技術のなせる業で、中央地域で造られたものであるに違いないと推察しています。


一方、関東地方で造られたとする考えもあります。
当時の関東地方には、朝鮮半島からの渡来人が多く住んでおり、その中には当然工人もいたはずで、本像のような金銅仏が制作されたとしても不思議はないとの見方です。
久野健氏は、コバルト60での透視撮影を実施した結果、深大寺像が同時期の関西中央作の金銅仏像に比べて「鬆(ス)」が多くみられることから、中央作でなく当地方で制作されたものとの見方をしています。

深大寺・釈迦如来倚像~透過写真
深大寺・釈迦像のコバルト60での透過写真(スが多くみられる)

全体的には、中央作とみる考え方のほうが有力のようですが、この時期高句麗と百済が新羅に滅ぼされ、7世紀中葉から我が国にやってきた渡来人が、武蔵野国にも移り来て、この美麗な白鳳仏を鋳造したというストーリーも、大変ロマンチックで惹き付けられてしまうものがあります。


いずれにせよ、深大寺の釈迦如来倚像、神秘のベール、謎に包まれた仏像のように思えてきました。

・白鳳時代を代表するとも言ってよい名作の金銅仏が、どうして関東の深大寺に在るのでしょうか?

・仏像の伝来や造像背景について、何の記録も、言い伝えも残されていたいのは、どうしてなのでしょうか?

・中央で鋳造されて関東の地にもたらされたのでしょうか、関東に移り住んだ渡来工人の手によってつくられたものなのでしょうか?

この仏像が、みずみずしく清々しく、白鳳仏の典型といえる美麗な仏像であるだけに、ますます興味が尽きないものがあります。


明治末年に、偶然に発見された仏像は、その後、白鳳仏の代表作品として、彫刻史で語られるようになりました。
よくぞ、売り渡されたり、海外流出せずにとどめ置かれ、また盗難にも遭うことなく、護られてきたものです。


お蔭で、私たちは、深大寺を訪れれば、いつでもこの美麗な白鳳仏を拝することが出来るのです。
現在、釈迦如来倚像は、昭和51年(1976)に新築された釈迦堂に安置され、ガラス越しではありますが、いつでも誰でも拝観が出来ます。

深大寺・釈迦堂
深大寺・釈迦堂

釈迦像は、昭和7年(1932)に吉田包春によって制作された、立派な春日厨子(市指定文化財)に静かに坐されています。
(現在は、春日厨子が除かれて、釈迦如来倚像が台座上に祀られているようです。)

深大寺・釈迦堂に安置されている釈迦如来倚像
釈迦堂に安置されている釈迦如来倚像
 
私は、この釈迦堂の前に立って、その美しいお姿を拝する時、ついつい明治42年の発見物語のことが頭をよぎってきます。


皆さん、「白鳳展」でも、この釈迦如来倚像をじっくり鑑賞されることと思いますが、武蔵野の深大寺まで出かけられて、柴田常恵氏による発見物語を偲びつつ、この謎に包まれた白鳳仏を、拝してみるのも良いのではないでしょうか。



【付記】

最後に、深大寺・釈迦如来倚像の発見物語の話などが、コンパクトにまとめられた冊子図録を、ご参考までに、ご紹介しておきます。

「深大寺展・図録」 調布市郷土博物館編集発行 2007年刊 【44P】

深大寺展図録

調布市郷土博物館開館35周年特別企画として開催された「深大寺展」の図録です。
「釈迦如来倚像の発見と柴田常恵」という表題の解説が掲載されています。
釈迦如来倚像の発見の経緯とその後の顛末などが、柴田常恵氏の講演記録を引用しながら、判りやすくまとめられています。
柴田常恵氏の年譜も付いています。


新刊旧刊案内~「日本仏像史講義」山本勉著・・日本彫刻史の旧刊を振返る【2015.7.11】


今回もまた、仏像関係書のご紹介です。

山本勉氏著の「日本仏像史講義」が、新書版になって5月に出版されました。


「日本仏像史講義」 山本勉著
2015年5月 平凡社新書 【215P】 860円


山本勉著「日本仏像史講義」


皆さんご存じと思いますが、この「日本仏像史講義」は、「別冊太陽」というムック本シリーズの一冊として、2年前の2013年3月に刊行されています。
今般の、新書版「日本仏像史講義」は、この別冊太陽版に加筆修正を加えて、ハンディーな廉価版として出版されたものです。

別冊太陽版は、美麗なカラー写真満載で愉しめるのですが、3800円と高価なのと、大判で持ち歩くのには難儀という処がありました。
今回の新書版は、860円と廉価で、ポケットに入るハンディーなものになりました。

別冊太陽版「日本仏像史講義」

別冊太陽版「日本仏像史講義」の掲載写真
別冊太陽版「日本仏像史講義」の掲載写真
美麗なカラー写真満載の別冊太陽版「日本仏像史講義」


【読み応えのある仏像彫刻通史】

「日本仏像史講義」という題名のとおり、所謂仏像ガイド、仏像手引きという案内書とは一味違う、仏像愛好者にとって、読みごたえが十分ある内容になっています。

仏像が好きになるスタートの頃には、〈古寺古仏巡礼〉とか〈仏像の美しさを訪ねて〉とかいう書名の本を読んで、仏像に親しみ始めた方が多いのではないかと思います。
私自身も、仏像を観はじめたとき、最初に手にしたのは和辻哲郎著「古寺巡礼」、亀井勝一郎「大和古寺風物誌」などでした。

もう一段、仏像好きになってくると、仏像の歴史や造形などについて、もっと深く知りたいという興味関心が湧き上がってくるのではないかと思います。
そうすると、旅行記的な本、随想的な本では、物足りなくなってきて、仏像についての知的興味を充たしてくれる本が、読みたくなってくるのではないかなと思います。

私も、仏像の歴史といったものをしっかり知りたいと思うようになり、〈日本仏教美術史云々〉といった標題の本を、読んでみるようになりました。
ただ、この手の本は、学校の教科書そのものという感じで、単調というか平板というか、読んでいると「眠り誘う薬」で、すぐに飽きてしまった記憶があります。

本書「日本仏像史講義」は、仏像彫刻通史なのですが、結構面白く愉しく読めるのです。
新書版なのですが、各時代の仏像彫刻の特性とポイント、研究上の課題、論点などが、コンパクトに凝縮して盛り込まれています。

随想本や一般的概説書では物足りなくなった仏像愛好者の、知的興味をくすぐり充たしてくれる、格好の仏像史概説書だと思います。


【本書の内容~サワリのご紹介】

目次をご覧ください。

「日本仏像史講義」目次1

「日本仏像史講義」目次2


目次だけでは、中身が想像つかないのかと思いますので、少しだけ、本文のさわりをご紹介しましょう。

法隆寺再建と金堂釈迦三尊の項の、本文のさわりです。

飛鳥寺に次いで古い本格的伽藍であったと考えられるが、『日本書紀』によれば、この斑鳩寺の伽藍は天智9年(670)に一宇残さず焼失した。

これが昭和14年(1939) に発掘された、いわゆる若草伽藍跡にあたる。
若草伽藍は現在の金堂・五重塔・中門・回廊からなる西院伽藍の東南に接し、両者はわずかに敷地が重なっている可能性も指摘されている。

若草伽藍の発掘後、現西院伽藍は天智九年の火災後の造営と考える、いわゆる法隆寺再建論が一般的となったが、近年の年輪年代測定によれば、金堂に使用されている材木は火災前に伐採されたものであることがわかり、以前から一都にあった、火災前に新伽藍の造営が開始されていたとする新再建論の蓋然性が浮上した。

新伽藍造営の契機としては、皇極2年(643)の蘇我入鹿による斑鳩宮焼き討ちとのかかわりも想定されている。
しかし、敷地の重なる二つの伽藍の併存した可能性はやはり認められないとする意見も再提唱され、さらに議論は続いている。

いずれにせよ、法隆寺にはそれらの火災をさかのぼる7世紀半ば以前の仏像が伝えられ、これらの像の旧所在の問題など、仏像そのものの検証も、その議論にはふくまれるべきであろう。



(注記:金堂釈迦三尊の制作年代を光背銘文通りと考えることについて)

文献史学の立場からは、聖徳太子の実在をめぐる議論ともからめて、この銘記の内容の信憑性ひいては像の製作年代について疑義を呈する向きも一部にあるようだが、銘記が造像時に刻まれたことについては詳細な調査報告があり、美術史の立場からは、この像が銘記の示す推古31年(623) に製作されたことは、ほぼゆるぎなく認められている。

釈迦像について「尺寸王身」つまり聖徳太子と等身に造ると記しているのは、聖徳太子の神聖化の、そして太子と仏像史のかかわりの原点としても注目されるところであるが、亡者と等身の仏像を造るという行為は、おそらく中国の慣習から学んだもので、仏像に亡者の姿を重ねて思慕しようという意図にもとづいている。
この観念は以後の日本仏像史にもしばしばあらわれる。

なお、ここに名が明記されながらも作者止利仏師の実像が判然としないのは、飛鳥寺本尊についてのべたのと同様である。



薬師寺金堂三尊像の制作年代論の、本文のさわりです。

薬師寺金堂の本尊である薬師三尊像が日本の、ひいては東アジアの古代彫刻の最高峰に位置する作品であることは異論のないところであるが、藤原京薬師寺(本薬師寺)創建時の本尊が移坐されたとする説(移坐説)と、平城京移転後の薬師寺であらたに製作されたとする説(新鋳説)との論争があり、いまも解決していない。

前者であればその製作時代は飛鳥時代となり、後者であれば奈良時代ということになる。

藤原京における創建時本尊の完成を史料のどの時点にもとめるかについても諸説があるが、これを薬師寺で無遮大会の開かれた持続2年(688)以前とした場合、中尊薬師如来橡と、同じ丈六像である天武14年(685)開眼の山田寺像すなわち興福寺仏頭との作風の差はあまりに大きすぎることから、現薬師寺金堂本尊を創建時本尊とみることは困難であるとする説には説得力がある。
鋳造技法の調査でも薬師如来像に格段に発展した技法がみられることが指摘されている。

ただし、創建時本尊の完成は近年の研究における史料解釈によって、皇后時代の持統天皇の病のために天武天皇が発願した仏像が公卿百寮によって完成したという持続十一年であるとする説が再浮上しており(望月望「藤原京薬師寺本尊の造立年」〔東北大学大学院文学研究科美術史学講座『美術史学』31・32〕2011年)、それが現本尊の製作年代論争に影響をおよぼす可能性がある。

ともあれ現段階では、依然有力な新鋳説をとり、薬師寺移転が史料にみえる養老2年(718)頃の製作とするのか穏当であろう。


引用が、かなり長くなってしまいましたが、この本の内容をイメージいただけるのではないかと思います。

如何でしょうか?

仏像愛好者の知的興味をくすぐる、かなり読み応えのあるものだと思います。
新書版の概説とはいうものの、これまでの論点、最新の学説のエッセンスも凝縮して取り込んだものになっています。
ただ、こうした論点が存在することを初めて知る人にとっては、説明がコンパクトに凝縮され過ぎていて、ちょっと判りにくいかもしれません。
論点の大筋を御存じの方は、うんうんと頷きながら、新たな知見に興味を抱きながら、面白く読めるのではないでしょうか。


【新書版では大幅加筆~新研究成果も盛り込み】

ついでの話ですが、新書版では、「別冊太陽版から大幅に加筆された」と書かれていました。どんな処かなと照らし合わせてみましたら、結構加筆変更されていて、そのとおりでした。

新書版では、近年の諸説の出典論文が数多く明記されるようになっています。
また、別冊太陽版ではふれられなかった新たな研究成果が、しっかりと取り込んで説明されています。

新たな研究成果説明が、追加された処を、一つ二つご紹介しましょう。

飛鳥大仏の項では、

最近の科学的調査を踏まえ、現状の木や石による後補部分、塑土による後補部分以外の銅造部分に当初の造形をみるべきであるとする見解があるが(櫻庭裕介「飛鳥寺本尊丈六釈迦如来像について」〔早稲田大学文学研究科奈良美術研究所『奈良美術研究』14〕2013年)疑問である。

奈良時代の塑像・乾漆像の項では、

平安後期に「橘夫人」の病気平癒の由緒が語られた法隆寺西円堂の丈六薬師如来坐像は、「橘夫人」を橘美千代にあて興福寺西金堂諸像の周辺の作とみる説もあったが、最近は「橘夫人」を聖武天皇夫人の橘古那可智(~759)とみて天平勝宝7年(755)の聖武天皇不予に際して彼女が発願し、翌年の聖武崩御に完成して彼女の病気平癒の願意が加わったものかとする説がある。(中野聰「法隆寺上代彫像機能論」〔『機能論―つくる・つかう・つたえる』〈『仏教美術論集』5〉所収〕2014年竹林舎)

このような新たな研究成果のコメントが、加筆されています。

別冊太陽版をお持ちの方も、新書版を新たに買ってみる値打ちは、あるかもしれません。


【本書の執筆主旨など・・・・】

著者、山本勉氏は、本書を執筆することになった経緯や、趣旨について、「あとがき」で、このように語っています。

山本勉氏
山本勉氏
「多くの研究者の研究成果によって明らかにされてきた基本的な事実や、現在の研究状況の解説に終始している内容からすれば、『日本仏像史講義』というタイトルはややおこがましいものであったかもしれないが、なるべく平易な論述を心かけ、仏像史の流れはつかみやすくしたつもりだ。
大学の専門課程の講義というより、教養課程の講義、あるいは一般市民向けのカルチャーセンターの講義とでも思っていただければさいわいである。」


(注記:一般読者に好評をもってむかえられたことに関して)
「学生時代以来の恩師水野敬三郎から『読みやすい』とのコメントをえて(私信。もちろんこの評には『内容は薄いが』とのふくみがあると思うが)・・・・・・・・かすかに安堵した。
『日本仏像史講義』に著者がこめた、一人の専門家による一定の視座をもった通史に、なるべくあたらしい情報を盛りこんで、初学者や一般読者に提供したいという意図はそれなりに評価されたようだ。」


この山本氏のあとがきコメントは、本書の特長を、見事に言い表わしていると思います。
ちょっと読み応えのある仏像史概説書にご関心のある仏像愛好者にとっては、必読必携の一書ではないでしょうか。
是非、一読をお薦めします。


【仏像彫刻通史の旧刊本あれこれ・ご紹介】

ここで、ついでにという訳でもないのですが、これまでに発刊された、日本仏像史とか仏教彫刻史について解説された「通史的概説書」のなかで、それなりの「読み応え」がある本を、ご紹介してみたいと思います。

私が、これまでに読んだ「仏教彫刻史概説書」のなかから、この本は一度読んでみると面白い、興味深い、と感じたものです。

・いわゆる仏像案内とか仏像の歴史入門というものではなく、仏教彫刻史についてしっかり論じられているもの。
・単調淡々とした記述で、読み疲れてしまうものではなく、仏像愛好者の知的興味をくすぐる、読んで面白い本。

をピックアップしてみました。


まずは、ちょっと古いところで、戦前に書かれた本です。(出版は戦後すぐ)


「日本彫刻史要」 金森遵著  1948年 高桐書院刊  【221P】 170円

金森遵著「日本彫刻史要」


この本は、若くして戦死した美術史研究者、金森遵氏が、戦前の雑誌「国宝」に「日本彫刻史考」と題して連載した旧稿を単行本化した本です。
彫刻史の概説書というのはちょっと当たらないのかもしれませんが、なかなか興味深い本なのでご紹介しました。

目次は、ご覧のとおりです。

「日本彫刻史要」目次

目次の文言からも、ご想像がつくと思いますが、彫刻史の概説というのはあたらず、日本彫刻史における各時代の問題点、課題などを論じた論考、自説の開陳という内容になっています。
基本的な仏像彫刻知識を前提として、所論が論じられていますので、ちょっとなじみにくいかもしれません。
しかしながら、金森氏独自の「日本彫刻史の視点、考え方」が大胆に、思い切って論じられていて、ご関心のある方には、大変興味深く読めると思います。

例えば、「白鳳様式の可能性」の章では、「白鳳時代」について、このように論ぜられています。

此の如く見れば、白鳳時代を我国美術史~少なくとも彫刻史~の上で独立させるということは、様式的には全然根拠ないことが知られるのである。
そしてその前半は飛鳥時代の延長であるし、後半は奈良様式の萌芽期にあたるのであって、それ自体には一連の過渡としての意味すらも見出されないようである。
従って「白鳳」という美称に執着して、白鳳時代を残置せしめることは、「白鳳彫刻」の実に即せぬ空論としてしか考えられない。

大胆な議論が、舌鋒鋭く論ぜられていると、感じられることと思います。

金森氏、37~8歳ごろの執筆です。

金森氏は、東大大学院卒業後、東京・奈良の帝室博物館で彫刻史の研究に務めましたが、
「日本彫刻史を専攻する少壮学者として将来を嘱目され、その鋭い論文は識者の注目するところであつた」
研究者だそうです。

40歳で、フィリピン戦線にて戦死しますが、存命ならば、金森氏の鋭く大胆な彫刻史論が展開されたに違いなく、残念なことです。



「飛鳥・白鳳・天平の美術」 野間清六著 1966年 至文堂刊 800円

野間清六著「飛鳥・白鳳・天平の美術」

これもちょっと古い本ですが、皆さんおなじみの「日本歴史新書」の一冊として刊行されました。
仏像彫刻史の通史ではなく「飛鳥・白鳳・天平」という時代に限られて論ぜられていますが、読み応えある面白い本だと思いましたので、ご紹介しました。
私は、学生時代に、大変惹き付けられ、一気呵成に読み終えた思い出があります。

著者、野間清六氏は、本書の「まえがき」で、このように語っています。

「年輪を重ねれば、人それぞれの人生観が出来るように、私なりの上代美術観が何とか固まりかけたので、一応ここにまとめてみることにした。

本書のなかで、私が企図した点を挙げると、まず、
第一は、白鳳という時代を高くみて、大きく扱ったことである。
これは今まで飛鳥時代のものと思われていたものが、殆ど白鳳時代のものと考えられ、白鳳時代には大きく扱われるに値する、芸術的な高さが十分あると思ったからである。
第二は、作品に宿る造形感覚を追求して、その展開のあとを考えてみたことである。
これは美術の研究において一番大切なことだが、案外従来の美術書が軽視していたからであった。
・・・・・後略・・・・・・」

金森氏の「日本彫刻史要」とは正反対に、白鳳時代を一つの重要な時代様式として大きく評価し、「自由美、軽快美、リリカルな情趣性」を、白鳳の特色としました。

「飛鳥・白鳳・天平の美術」目次の一部
「飛鳥・白鳳・天平の美術」目次の一部

飛鳥白鳳時代の処の目次をご覧いただければ、ご想像がつくと思いますが、
野間氏は、百済観音、夢殿・救世観音、中宮寺・弥勒菩薩を、白鳳時代の制作と論じています。
当時は、中々大胆な発想だったのだと思いますが、その論点、視点には惹かれるものを感じてしまいました。

金森氏の「日本彫刻史要」と併せて読まれれば、興味深いことと思います。



「日本古代彫刻史概説」 町田甲一著 1974年 中央公論美術出版刊 【149P】 1700円

「日本古代彫刻史概説」 町田甲一著

町田甲一氏の名前は、仏教美術史に関心のある方で知らない人はいないのではないかと思います。
1993年、76才で亡くなりましたが、それまで日本彫刻史研究の第一人者として、また奈良六大寺大観の刊行を実現した編集委員代表として、多大な業績を残した著名な研究者です。

本書、「日本古代彫刻史概説」は、飛鳥時代から平安前期に至るまでの仏像彫刻の歴史を、「美術様式の展開」という視点から、町田氏の所論を論じた本です。
「概説」と題するには、少々専門的内容のような感じですが、判りやすく平明に記されています。

東京文化財研究所WEBサイトの物故者紹介によると、
町田甲一氏の業績などについて、このように記されています。

「町田は、生涯一貫して、芸術としての仏像の追究に情熱を注ぎ続けた。
その方法論は、リーグル、ヴォリンガー、あるいはヴェルフリンの理論に基づく自律的様式史観を前提としており、それを日本古代彫刻の様式区分論として展開させた一連の論考をあらわした。(「上代彫刻史上における様式時期区分の問題」〈『仏教芸術』38〉他)

町田氏は、飛鳥から平安初期にかけての仏像彫刻史を、
静視的・二次元的視覚活動から、触知的・三次元的視覚活動による写実、古典的理想美への展開、そして反古典バロック的表現へ
という、美術様式展開の中でとらえました。

本書は、ここでいう「町田氏の日本古代彫刻の様式発展論、区分論」を、まとめて概説した本といえるものでしょう。

町田氏は、本書「あとがき」で、このように述べています。

われわれの眼前に遺存する個々の作品を、まず芸術的に理解し、その様式の由来するところ、影響するところを明らかならしめるのが「美術史」という学問であるならば、個々の具体的作品の精緻なる研究を基礎としなければならないこと、いうまでもないことながら、その様式の歴史的展開、歴史的変容を追求して、その史的因果の関係を明らかならしめることを忘れてはならない筈である。

しかるに近時発表される美術史学上の多くの研究は、個々の作品についての研究が精緻になればなるほど、個々の作品の相互の間の問題や、その作品とその時代の美術全体との連関などについて、或いは一時代を限ってその時代の様式の変容などについて、論ずるところが、ひところに比べて、ますます少なくなってきているように思われる。

町田氏は、このような考えのもとに、「一時期の彫刻様式の展開について、私見をまとめようと」本書を執筆したとしています。

私は、町田氏の書かれた本を読んで、大変に惹かれるものを感じ、その著作を読みまくったことがありました。
一時期、「町田かぶれ」とでもいって良いようなものだったのかもしれません。
町田氏の著作のおかげで、仏像彫刻への興味関心が、大きく深まったような気がします。


「日本彫刻史論~様式の史的展開~」 中野忠明著 1978年 木耳社刊 【285P】 1600円

「日本彫刻史論~様式の史的展開~」 中野忠明著

本書は、中野忠明氏が、古美術研究誌「史迹と美術」に掲載した、日本彫刻史の各時代について論じた論文を再編集したものです。

中野氏は、あとがきで、このように記しています。

「著者が意図したのは、様式史としての彫刻史の追及であり、文化史的関連よりも、芸術作品の造型そのものの性質から、歴史を理解しようとした。
木耳社の企画も、このような在来の彫刻史の本とは毛色の違う、型破りの書物を世に紹介しようというお考えであろう。」

中野氏は、飛鳥から鎌倉に至る彫刻史の考え方のエッセンスを、このように述べています。

「日本仏像形成の歴史は、われわれの民族の美的本質がいかなるものであるかを顕示するものである。
仏像は古代において聖的崇高の美にかがやき、世界に対する知的観念を顕示したが、藤原仏は装飾的耽美の世界へ人々を迎摂している。
そして鎌倉以後は、世俗的芸術との抱合によって、仏像は高度な精神性を失った。」

このフレーズを読んで、共感されるか、そうではないのかは、それぞれかと思います。

ここに、本書の目次の詳細をご覧にいれておきます。

「日本彫刻史論~様式の史的展開~」目次

小さな字で読みづらいでしょうが、本書の論ずるところをイメージいただくことはできるのかと思います。



「仏像の歴史~飛鳥時代から江戸時代まで~」 久野健著 1987年 山川出版社刊 【220P】 1500円

「飛鳥白鳳天平仏」 久野健著 1984年 法蔵館刊 1600円

「仏像の歴史~飛鳥時代から江戸時代まで~」 久野健著.「飛鳥白鳳天平仏」 久野健著 

久野健氏の名前については、町田甲一氏と並んで、日本彫刻史研究の一時代を築いた著名な研究者として、皆さん、ご存じのとおりだと思います。

東京文化財研究所WEBサイトの物故者紹介は、久野氏の業績をこのように紹介しています。

久野の研究が戦後日本の仏教彫刻史を牽引したことは衆目の認めるところである。
ことに長く在籍した美術研究所から東京国立文化財研究所時代の研究では、仏像のX線透過撮影を推し進めるとともに、その成果を踏まえながら卓抜した彫刻史のビジョンを示した。

すなわち、『日本霊異記』の記述と照らし合わせて平安初期の木彫像の発生およびその支持推進が民間の私度僧による造像にあったことを提唱し、この学説は多少の修正は加えられながらも今日でも支持されている。

また、都鄙を問わず現地での調査研究を行ったことも研究の特色であり、・・・・・・・『平安初期彫刻史の研究』(吉川弘文館、1974年)といった大著として結実している。


「仏像の歴史~飛鳥時代から江戸時代まで~」 の方は、仏教の伝来から円空・木喰仏までをまとめた仏像彫刻の通史を、大変わかりやすく、平易に解説した本です。。
仏像の源流や系譜,作者,制作法,特徴や見方,各時代の比較,造像の儀式や手順などについて、エピソードを豊富におりまぜながら語られています。

本書のまえがきによれば、
「私(久野健)が各地で行った講演や講義のテープをもとにして、それに手を加え、仏像の通史をまとめてみたいと考え、出来たのが本書である。
そのため、出来るだけ講義のさいの話の流れを生かすように口語体にした。」
と述べられています。

仏像彫刻の歴史や論点が、やさしい語り口で記されており、読みやすさでは一番かもしれません。


「飛鳥白鳳天平仏」の方は、飛鳥~天平彫刻史についての概説と久野氏の所論をまとめたものです。

本書は、1980年から一年間、東京大学文学部で「日本古代彫刻史の諸問題」というテーマで講義した内容を一書にしたものだそうです。
この講義が、久野氏にとって東大での最後の講義になることから、記念のためにとられた録音テープをもとにして、加筆されました。

読みやすい文章ですが、それぞれの仏像、時代様式などについての久野氏の所論が、しっかりと述べられています。



「日本彫刻史概説・飛鳥~鎌倉時代」 水野敬三郎著 1996年 私家版 【50P】

「日本彫刻史概説・飛鳥~鎌倉時代」 水野敬三郎著

この本は、私家版で市販されていないのですが、ご紹介しておきます。
水野敬三郎氏が、講談社刊「日本美術全集」(全24巻)の、各時代の仏像彫刻の巻に概説を執筆したものを抜き刷り再録し、一書にまとめたものです。

日本美術全集の、第2巻、第4巻、第6巻、第10巻に
「飛鳥時代の彫刻」「奈良時代の彫刻」「平安前期の彫刻」「平安後期の彫刻」「鎌倉時代の彫刻」
という表題で、掲載されました。

この概説は、筆者の自説、所論に偏ることなく、各時代の主要仏像、仏像彫刻史の流れ、論点などについて、目配せが行き届いて解説されています。
長文ではありませんが、よく凝縮された密度の濃い彫刻史概説だと思います。
今回、冒頭でご紹介した、山本勉氏著の「日本仏像史講義」と、同じタイプの概説書といって良いのではないでしょうか。

写真でご紹介したのは、私家版なので、入手しにくいかもしれませんが、図書館などで、講談社版「日本美術全集」の当該巻の、水野氏執筆概説の処をピックアップしていただければ、通史としてお読みいただけると思います。



「日本仏像史」 水野敬三郎監修 2001年 美術出版社刊 【220P】 2500円

「日本仏像史」 水野敬三郎監修

本書は、美術出版社から、「カラー版 ○○史」という題名を冠して、15冊以上出版されている、美術工芸関係の歴史概説シリーズの一冊として刊行された本です。
「日本仏像史」のほかに「日本美術史」「東洋美術史」「日本建築様式史」等々といった本を書店でご覧になったことがあるのではないかと思います。

この「日本仏像史」は、日本仏像彫刻通史の解説本の「定本」といっても良い本なのではないかと思います。
仏像彫刻史のあらゆる分野に、目配せが行き届いていて、それぞれについてきちっと濃淡、過不足なく、学術レベルで解説されています。

監修者の水野敬三郎氏は、本書の「はじめに」で、このように記しています。

「日本の仏像の歴史は、これまでも美術史の概説や美術全集の中で項目として述べられてきたが、通史として一冊にまとめられた本は意外に少ない、というよりほとんどなかったといった方がよいかもしれない。
この本では、古代から近代にいたる各時代の仏像の歴史を、専門の研究家が分担して執筆した。
・・・・・・・・
今回は、その時代の彫刻史研究に道を切り開き、新たな展望を与えつつある方々に執筆をお願いした。
近代にいたるまでの、充実した仏像通史になったと思う。」

浅井和春、松田誠一郎、副島弘道、武笠朗、奥健夫、山本勉、藤岡穣、根立研介、鈴木喜博の各氏をはじめ、17名の研究者による共同執筆となっています。


本書の特長について、NET〈Amazon〉の商品説明では、

仏教伝来から現代まで、1500年余にわたる日本人の仏像受容と造像の全歴史過程を、240点余の図版・専門研究者の解説と充実した巻末資料により明らかにする。
仏像への正しい理解・鑑賞のための必須知識修得に、学生・愛好者必携の仏像学習書。

このように書かれていました。

この商品説明は確かにあたっているな、と思いました。

本書は、まさに「定本の通史」といって良いぐらい、きっちりと凝縮した文章で構成されているのですが、まさに「学術レベルの概説」という感じで、淡々とした文章で綴られています。
大学の仏像史講義の教科書にするには最適といっても良いのでしょう。
ただ、読み物として読んでいくには、ちょっとしんどくて、飽きが来てしまうかもしれません。
これだけのクォリティが高い本のことを、そのように言うと罰が当たるかもしれませんが、私には、読んで楽しいというより、座右に置いておくべき必携書という本となっています。



新刊の山本勉氏著「日本仏像史講義」の新刊案内から始まって、仏像彫刻史の通史単行本の旧刊案内になってしまいました。

ご紹介した旧刊各書を振り返ると、仏像彫刻史というものの捉え方に、様々な視点、考え方、論点が存在することを知ることが出来、大変興味深いものがあります。

私には、それぞれの仏像彫刻史本に接したことが、仏像愛好趣味を深めてゆくうえで、大変勉強になりました。


ご関心がある本がありましたら、ご一読いただければと思います。

新刊旧刊案内~「當麻寺の歴史と信仰」金志虎著 【2015.6.27】


当麻寺の研究についての単行本が出版されました。


「當麻寺の歴史と信仰」 金志虎著
2015年3月 勉誠出版刊 【211P】 8000円


当麻寺の歴史と信仰


この本は、早稲田大学の会津八一記念博物館助手・金志虎氏の博士論文を単行本として出版されたものです。
学位請求論文ですから、当たり前ですが、全編研究論文です。
少々堅苦しそうなのですが、当麻寺について一冊にまとまった論考の本は、めずらしいといっても良いものなので、ご紹介してみることにしました。

本の目次を見ると、
「当麻寺金堂本尊の制作背景」
「当麻寺金堂本尊の制作技法~石芯塑像論」
などというフレーズが目に入ってきました。
なかなか興味深そうでしたので、値段が高いなと躊躇しながらも、思い切って買ってしまいました。

目次をご覧ください。

「當麻寺の歴史と信仰」目次2「當麻寺の歴史と信仰」目次1

「當麻寺の歴史と信仰」目次4「當麻寺の歴史と信仰」目次3


【本書のエッセンス】

ご覧のような項立てになっています。

当麻寺創建期の伽藍と金堂弥勒仏像についての研究と、当麻曼荼羅を中心とする当麻寺信仰についての研究がベースに構成されているようです。
当麻寺本尊・弥勒仏像についての目次を見ると、大変興味深い項立てがされています。

専門的な内容で、この研究の特色とか論点を、うまくご紹介するなどというのは、私などには荷が重すぎて、どうしようかと困ってしまいます。
金氏の師匠である大橋一章氏が、本書の序文で、そのエッセンスを判りやすく記されていますので、これをご覧いただければ、ご想像がつくのではないかと思います。

「当麻寺の創建は白鳳時代で、現在金堂に安置されている塑像の弥勒像も白鳳彫刻で、多くの先行研究はその源流を軍威の石仏と主張していた。

修士論文の『当麻寺金堂の弥勒像について』は、この仏像の源流を軍威の石仏や中国龍門石窟の石仏とする先行研究を実証的に否定し、川原寺の塑像の丈六阿弥陀仏がもとになっていることを主張した。

また金堂本尊が弥勒仏と称されたのは文献的には鎌倉時代以降のことで、当初は阿弥陀仏で当麻寺は阿弥陀信仰の寺であったという。
金堂本尊の名称の変更は、浄土変相図の当麻曼荼羅が金堂とは別に本堂が建てられ、その本尊として懸けられるようになって以降のこととする。

わたくしは、この修士論文に接した時、戦前から日本人の研究者が誰も到達できなかったスケールの大きい当麻寺研究が成就されるだろうと確信した。

ついで当麻寺の伽藍配置の問題点ともいうべき金堂と講堂の立地位置は、藤原京内の寺院と同じく条大路の北側、つまり二条大路の延長線の北側に建てられたことを明らかにしたのである。」

以上のとおりです、如何でしょうか?
ポイントだけは、お判りいただいたのではないかと思います。

当麻寺・弥勒仏坐像
当麻寺金堂・弥勒仏坐像


当麻寺・山門
当麻寺・山門

当麻寺・遠景
当麻寺東西両塔・遠望

当麻寺・金堂
弥勒仏塑像が安置されている当麻寺・金堂


【興味津々の当麻寺金堂・弥勒仏塑像についいての論考】

やはり私が関心を持って読んだのは、やはり当麻寺当麻寺金堂本尊弥勒仏についての論考です。

ご存じのとおり、当麻寺弥勒仏像は、丈六の大型塑像で、当麻寺創建時、天武9年(680)頃の制作と考えられています。
天武14年(685)に完成した旧山田寺興福寺仏頭と同時期に制作されており、いわゆる白鳳時代を代表する仏像です。
興福寺仏頭の方は、その姿を知らない人がいないといっても良いほど、有名美麗な仏像ですが、当麻寺弥勒仏像の方は、彫刻史上の重要性の割には、あまり目立たないようで、誰でも知っているということでもないのかと思います。
当麻寺が、奈良市の中心部からかなり外れた、二上山のふもと葛城市という、ちょっと不便なところに在るので、随分損をしているのではないかと思います。

論考のなかでも大変興味深かったのは、次の2点です。

第1点は、大橋氏の序文のなかでも触れられていますが、当麻寺金堂本尊弥勒仏の様式の源流について、朝鮮、軍威石仏などとされている日本国外説を見直して川原寺の塑像・丈六阿弥陀仏にあるとされていることです。

第2点は、この塑像の弥勒仏塑像の構造が、石芯塑像として造られていると考えられるとしていることです。

当麻寺・弥勒仏坐像~顔部
当麻寺・弥勒仏坐像~顔部


〈当麻寺金堂本尊弥勒仏の様式の源流は、
新羅石仏ではなく、今は亡き川原寺本尊〉

第1点の、当麻寺金堂本尊弥勒仏の様式の源流については、これまで、松原三郎氏や毛利久氏は、韓国にある軍威石窟三尊仏像にあるとしました。
いわゆる、ブロック的という言葉に象徴される造形などの特徴を、新羅独自の様式が見られる軍威石仏像にみたのでした。
この考え方は、長らく有力な考え方とみなされてきました。

韓国・軍威石仏

韓国・軍威石仏
韓国・軍威石仏

金氏は、軍威石窟三尊仏像と当麻寺像との様式的特徴を頭部、面部、耳のかたち等々を詳細に検討し、両者の表現には相違があり、系統を異にするとしか思えないとしています。
また近年、類似が指摘されている龍門石窟薬方洞像とも系統を異にするとしています。

当麻寺像の制作背景等を検討すると、当麻寺像だけが新羅石仏の影響を受けて制作されたとは考えられないとしているのです。

そして、日本国内の作例に注目し直し、我国勅願寺第2号である川原寺で、初唐様式の丈六塑像が制作されていたであろうことに着目しています。

川原寺から初唐様式のセン仏、塑像断片などが出土していることを考えると、

「当麻寺本尊を、当麻氏が新羅との特別な関係においてつくられた7世紀後半の突出した作例と見るよりは、最新様式の川原寺塑像の影響によって制作された一作例と見るべきである。」

とされています。

川原寺裏山遺跡出土・三尊セン仏
川原寺裏山遺跡出土の初唐様式の三尊セン仏

ただ、川原寺の塑像本尊が現存していないのが残念なところです。


〈当麻寺弥勒塑像の構造は、石芯塑像?〉

第2点は、当麻寺弥勒塑像が、石芯塑像であったのではないかという話です。

あまりなじみがないかもしれませんが、岩石を彫ってこれを内胎として泥土などを盛って仕上げる造像技法です。
この種の技法は、敦煌の仏像などに多く存在します。
また、破壊されてしまったバーミヤンの大仏像も、造像当初は石彫の上から漆喰が前面に盛り上げられていたといわれています。

わが国での制作事例で云えば、栃木県の大谷寺の磨崖仏(大谷石仏)が、平安時代の制作ですが、石芯塑像といっても良い例でしょう。

栃木県・大谷石仏
栃木県・大谷寺の磨崖仏(大谷石仏)

実は、当麻寺弥勒塑像の内部構造がどうなのかということについては、未だ判明していません。

当麻寺・弥勒仏坐像
当麻寺・塑像弥勒仏坐像

例えば、西川新次氏は、木心を骨組みとして塑土を盛り付けたものと想像し、胸部に造形の歪みがあるのは、胎内が構造上空洞で、それが何かの衝撃があって変形したのではないかと推測しています。
一般的には、古代の塑像仏像は、木心構造に塑土を盛り付けることによって制作されています。
当麻寺の弥勒仏塑像も、そのように考えられていると思います。

これに対して、金氏は、当麻寺本尊は丈六級の塑像であったことを考慮すると、木心がその重量に耐えられるとは思われず、石芯塑像であったと考えられると主張されています。
当麻寺像が石芯塑像である可能性については、先に、松島健氏が指摘していますが、その考え方を展開して論じています。

そして、石芯塑像の類例として、当麻石光寺の大型石仏断片をあげています。
当麻石光寺の大型石仏は、平成3年(1991)の発掘調査で発見され、大注目を浴びました。
当麻寺弥勒塑像に似たところがあるとされ、白鳳時代にさかのぼる石仏であろうと見られています。

当麻石光寺出土石仏..当麻石光寺出土石仏
当麻石光寺出土石仏

石光寺石仏の平面的で大まかな造形など、造形表現、表面の状態などから見ると、完成品であったとは思われず、大型塑像の石芯として使用されたと考えられると述べられています。

金氏は、このテーマの結びを、このように締めくくっています。

「当麻寺本尊は、毛利久氏による様式検討以来、韓半島の新羅時代に作られた石仏が源流であると長らくいわれてきた。

当麻寺本尊の源流が新羅の石仏にあるという見解には賛成できないが、頭部、胴体部、脚部の表現がまるでブロックを積み重ねたようであるという見解は、当麻寺本尊の像内に石芯があるからそう見えたのではなかろうか。

こうした石芯を用いる大型塑像は、当然韓半島にも作例があり、百済時代の定林寺の本尊は石芯塑像として制作されたと考えられる。
こうした石芯塑像の制作技法は日本にも伝わり、凝灰岩の産地である二上山に隣接する当麻寺と石光寺の本尊を制作する際に採択されたのである。」

当麻寺弥勒塑像が、石芯塑像であったのではないか、当麻石光寺石仏も同じく石芯なのではないかという考えは、大変興味津々です。

私には専門的なことは良く判りませんが、これまで、当麻寺塑像が石芯構造なのではないかなどとは思いもしたことはありませんでした。
いずれの時にか、科学的調査で明らかにされる時が来るのでしょうが、本当に興味深いものがあります。


本書、「當麻寺の歴史と信仰」のなかから、私の関心のある当麻寺本尊・弥勒仏塑像に関する処の、ほんのエッセンスを、ご紹介してみました。
適切ではないところや、間違っている処があるかもしれませんが、ご容赦ください。
大変、興味関心をそそられる内容の論考ではないかと思います。

ご関心のある方は、是非本書を詳しくお読みいただければと思います。


【30歳代の若さで博士号取得に、ちょっと感心!】

ところで、著者の金志虎氏は、1977年生まれで、今年誕生日が来て38歳という若さです。
いずれ韓国に帰国して、仏教美術史研究者の途を歩んでいかれるということです。

「38歳で文学博士か!」と、ちょっと感心してしまいました。

私など65才を過ぎた中高年には、人文科学系の博士号というのは、その道の大家といわれるような地位を築いた学者が、それなりの年齢になって、研究の集大成的に学位を取得するものだという感覚があったからです。

過去の著名な仏教美術史学者の博士号取得年齢を思いつくままにピックアップしてみました。

例えば、こんな感じです。

毛利 久氏:46才(学位論文:仏師快慶論)
久野 健氏:56才(学位論文:平安初期彫刻史の研究)
上原 和氏:68才(学位論文:玉虫厨子 飛鳥・白鳳美術様式史論)
吉村 怜氏:51才(学位論文:北魏仏教図像の研究)
大橋一章氏:66才(学位論文:奈良美術成立史論)
根立研介氏:51才(学位論文:日本中世の仏師と社会 運慶と慶派・七条仏師を中心に)

氏名と学位論文をご覧になると、「なるほど、なるほど」と納得されることと思います。
ご覧のとおり、各氏は、それぞれのテーマ、フィールドの第一人者、権威であることは、ご存じのとおりですし、そのような定評を得られてから、それまでの研究論文の集大成によって博士号を取得されているように思います。

ところが最近は、仏教美術史学の世界も、昔のような感じではなく、若くして博士号を取得するという風に変わっていっているようです。
金氏の在籍する早稲田大学の場合は、どうなのかなと思って、近年の例をピックアップしてみました。

大西磨希子氏:2005年取得・35歳(学位論文:西方浄土変の研究)
小野佳代氏:2007年取得・36歳(学位論文:仏教美術における供養表現と意味)
中野 聰氏:2007年取得・40歳(学位論文:日本上代の阿弥陀信仰とその造像)
三宮千佳氏:2012年取得・34歳(学位論文:日本古代の阿弥陀堂の研究)

こんな感じで、30歳代で博士号取得されている研究者が数多いという状況のようです。
美術史学の博士号の取得も、研究の集大成というのではなく、若手研究者の方の研究テーマの一区切りというような位置づけになってきたということなのでしょうか?

我々中高年も、既成概念のスイッチを切り替えていかなければいけないなと、痛感した次第ですし、こうした若手研究者の学位論文が単行本化され、接する機会が増えてくるというのは、嬉しいことです。


【当麻寺について書かれた単行本、ご紹介】

最後に、当麻寺について書かれた、単行本をご紹介しておきたいと思います。

当麻寺というのは、7世紀の創建で、東西両塔、弥勒仏塑像、乾漆四天王像、当麻曼荼羅をはじめとして数多くの国宝、重要文化財があり、美術文化史上大変重要な位置づけをされる古寺でありながら、ちょっと地味な感じで、美術全集などにも当麻寺単独で巻が編まれることがあまりないように思います。

当麻寺単独で採り上げた単行本も意外と少ないようですので、丁度この機会に、書架に在るものを、ご参考に紹介しておきたいと思います。


「大和古寺大観 第11巻 当麻寺」1978年 岩波書店刊 28000円
「大和の古寺 第2巻 当麻寺」1982年 岩波書店刊 2800円


大和古寺大観・当麻寺.大和の古寺・当麻寺

この2冊は、今さら採り上げることもない、定本ともいえるべき本ですが、一応ご紹介しました。
大和古寺大観の弥勒仏塑像の解説は、毛利久氏の執筆です。


「當麻寺」黒田曻義著 1941年 近畿観光会刊 【60P】 50銭


「當麻寺」黒田曻義著

戦前に、近畿日本鉄道が「大和路叢書・全12巻」の一冊として刊行した本です。

中将姫の絵の美しい表紙が印象的です。
小冊子ですが、しっかりとした研究レベルに裏打ちされた内容になっています。
執筆は黒田曻義氏で、以前に観仏日々帖「興福寺仏頭展によせて・・・『仏頭発見記』をたどる」で、昭和12年(1937)秋、興福寺仏頭の発見に立ち会った人としてご紹介した人物です。


「当麻寺」近畿日本叢書第7冊 1962年 近畿日本鉄道刊 【200P】 1500円


「当麻寺」近畿日本叢書

近畿日本鉄道が創立50周年を記念して刊行した、「近畿日本叢書・全10巻」の一冊として刊行されました。
各刊共に、「総説・建築・彫刻・絵画・工芸」の5項目に分けて、第一線の研究者が論考を執筆し所論、自説を展開するという構成です。
解説の体裁をとりながらも、論考集といった内容になっています。

「当麻寺の彫刻」は、毛利久氏の執筆です。


「当麻寺」北川桃雄著 1966年 中央公論美術出版社刊 【40P】 200円


「当麻寺」北川桃雄著

中央公論社の「美術文化シリーズ」の一冊として刊行されました。

執筆は、北川桃雄氏で、北川氏らしい語り口で、平易に判りやすく記されています。
コンパクトなガイドブックという処でしょう。


「当麻寺」日本の古寺美術第11巻 松島健・河原由雄著 1988年 保育社刊 【230P】 1600円


「当麻寺」日本の古寺美術

この「日本の古寺美術」のシリーズは、町田甲一氏企画で全20巻が刊行されましたが、高い学術レベルに裏打された解説で、著者の所論も論じられており、大変読み応えがあるものです。

当麻寺草創期の歴史と金堂弥勒仏塑像等の仏像解説は、松島健氏が執筆しています。

松島氏は、この中で、弥勒仏塑像の構造が石芯塑像である可能性について言及しています。
そのことについては、先にちょっとふれたとおりです。

その事由としては、

・二上山産の凝灰岩石材を採掘した石工集団と当麻寺が密接なかかわりがあったと思われること、

・「当麻寺縁起絵巻」(神奈川光明寺所蔵)には、石工が巨大な岩石から本尊弥勒仏を彫り込んでいる情景が描かれていること、

・弥勒仏が石芯塑像だとすれば、構造上堅牢であり加熱にも耐火性があることから、治承の金堂火災時にも大損傷を被りながらも、構造的破壊に至らなかったことも理解できること、
などを挙げられています。

当麻寺縁起絵巻
巨石から弥勒仏を彫出す情景(左側)が描かれている当麻寺縁起絵巻

本書の発刊後、当麻石光寺の大型石仏断片が平成3年(1991)に発見されました。

「当麻石光寺と弥勒仏概報」(橿原考古研究所編・1992吉川弘文館刊)の調査概報には、
この石光寺の石仏が、「当麻寺縁起絵巻」に描かれている弥勒石仏そのものであったのではないか、
寺伝に云う草創期の本尊であった可能性もある
と記されています。

いずれが蓋然性が強いのか良く判りませんが、なかなか興味深い処です。



新刊、金志虎著「當麻寺の歴史と信仰」のご紹介、当麻寺についてのいくつかの単行本などのご紹介をさせていただきました。


来月7月18日から、丁度、奈良国立博物館で「開館120年記念展・白鳳~花ひらく仏教美術」が開催されます。

奈良博・白鳳展ポスター

皆さん、必見の展覧会と、出かけられることと思いますが、この「白鳳展」のついでに、少々足を伸ばして、白鳳時代の大型丈六塑像の祀られる当麻寺を、訪れてみられてはいかがでしょうか。

新刊・旧刊案内~「法隆寺学のススメ」高田良信著 【2015.6.12】


法隆寺の歴史や秘話の著作で知られる、元法隆寺管主・高田良信氏の最新刊の本です。


「法隆寺学のススメ~知られざる1400年の軌跡」  高田良信著
2015年3月  雄山閣刊  【222P】 2400円


法隆寺学のススメ

本書の内容については、目次をご覧いただければ、おおよそご想像いただけるのではないかと思います。
読んで、面白そうなテーマが盛り沢山に並んでいます。

法隆寺学のススメ・目次1

法隆寺学のススメ・目次2

法隆寺学のススメ・目次3

法隆寺学のススメ・目次4


私は、近代法隆寺の歴史や法隆寺学といわれるものに、大変興味、関心を持っておりますので、ちょっと値段が高いかなと思いましたが、購入してみました。

早速一読してみました。
太子創建から、明治維新以降の近代にいたるまでの、法隆寺の歴史のなかから、興味深い出来事や秘話、逸話をピックアップしてやさしく語られています。

高田良信氏は、本書の内容等について、あとがきにこのように書かれています。

「法隆寺の歴史に関心を抱いてから今年で60年目を迎える。
小僧の頃から、ホコリにまみれながら集めたり、写し取った資料に対する思い出は尽きない。

やがてそれをベースにした法隆寺年表を作成したり、法隆寺の歴史を調べることとなる。
特に私の悲願であった法隆寺昭和資材帳編纂や百済観音堂の建立勧進のために、全国都道府県で講演会をしたことは、研鑽を増進する機会ともなった。
そのようなときに話したり、執筆したものをベースとしてまとめたのが本書である。

その中には、ページの都合もあり法隆寺に関する重要なテーマが欠如していることも多いが、法隆寺1400年の流れを知っていただく法隆寺学の入門書と思っていただきたい。」


内容についてみれば、高田良信氏がこれまで執筆されてきた、多数の著作で折々に採り上げられたテーマと似通ったもので、特段に目新しい話、新事実の紹介などは、無いようです。
ただ、法隆寺の歴史のなかでの出来事、逸話などがコンパクトにまとめられており、一般向けの講演録などをベースに書かれているので、読みやすく、判りやすいものになっています。

高田良信氏があとがきで記されているように、

「法隆寺1400年の流れを知る、法隆寺学の入門書。」

としては、格好の一書であるように思います。
一読されてみてはいかがでしょうか?


ご存じのとおり、高田良信氏は、法隆寺208世管主・聖徳宗第5代管長を務め、現在、法隆寺長老ですが、
一方で、「法隆寺学」の確立をライフワークとしている研究者でもあります。

高田良信氏
高田良信氏
「法隆寺学」とは、高田氏によれば、
「法隆寺で展開された太子伝記の研鑽や教学・信仰・行事・歴史をはじめ、法隆寺につたわっている堂塔の建築・仏像(彫刻)・絵画・工芸・書籍・考古などに関するすべてを包括した学問体系。」
ということになるのだそうです。

この「法隆寺学」という学問フィールドを、自ら資料渉猟、研究を進め、大きく切り拓いた人物といえるでしょう。
法隆寺の知られざる歴史や逸話などを語らせれば、高田良信氏の独壇場であることは、皆さんご存じのとおりだと思います。

自ら、法隆寺学についての数多くの著作を執筆しており、皆さんも1冊や2冊は、読まれたことがあるのではないかと思います。
また、法隆寺に遺された歴史資料や文化財の公開、調査研究に積極的に取り組み、「法隆寺昭和資材帳」の刊行、「法隆寺史料集成」の刊行といった大著の出版を実現した立役者ともいえるのでしょう。


この「法隆寺学」といわれる世界のなかで、とりわけ私の関心興味は強いのは、「明治維新以降の近代法隆寺の歴史、出来事、秘話」といった事柄です。

近代法隆寺の出来事を振り返ってみると、

法隆寺献納宝物の皇室への献納、
夢殿秘仏救世観音像の天心・フェノロサらによる開帳、
維持資金捻出のための百万塔売却、
五重塔心礎空洞からの舎利容器の発見、
若草伽藍心礎の返還、
金堂壁画の模写事業と金堂炎上壁画焼損、
聖徳宗の開宗などなど、

忘れられない出来事がありました。

こうしたことを深く知ろうとすると、高田氏の諸著作に頼るしかありませんでした。
明治維新以降、今日に至るまでの近代法隆寺の様々な出来事や秘話を、世に広く知らしめたのは高田良信氏の多大なる功績だと思います。

このときにまとめてみた、近代法隆寺の出来事や秘話についてたどる話は、
神奈川仏教文化研究所HP~「埃 まみれの書棚」からに、「近代法隆寺の歴史とその周辺をたどる本」と題した読み物を掲載させていただいていますので、ご覧いただければと思います。


高田氏の著作を読んでいると、法隆寺という一寺院が、如何にしてあれだけの仏教美術の至宝を守り続けてきたのか、その間にどのような出来事、苦労話が潜んでいたのかを伺い知ることが出来、誠に興味深いものがあります。

高田良信氏の「法隆寺学」についての著作は、20冊をはるかに超えるものがあろうかと思います。

ウィキペディアで見てみると、主なる著作として、次のような本が挙げられていました。

『法隆寺のなぞ』(主婦の友社、1977年)
『近代法隆寺の歴史』(同朋舎、1980年)
『法隆寺子院の研究』(同朋舎、1981年)
『法隆寺の秘話』(小学館、1985年)
『「法隆寺日記」をひらく―廃仏毀釈から100年』(日本放送出版協会、1986年)
『日本の古寺美術〈1〉 法隆寺Ⅰ 歴史と古文献』(保育社、1987年)
『中宮寺法輪寺法起寺の歴史と年表』(ワコー美術出版、1984年)
『法隆寺の歴史と年表』(ワコー美術出版、1984年)
『シルクロードから来た天女―法隆寺・飛天開眼』(徳間書店、1988年)
『法隆寺の謎を解く』(小学館、1990年)
『追跡(ドキュメント)!法隆寺の秘宝』(徳間書店、1990年) 堀田謹吾との共著
『私の法隆寺案内』(日本放送出版協会、1990年)
『法隆寺国宝散歩―日本の美と心のふるさとを訪ねる』(講談社、1991年)
『法隆寺の謎と秘話』(小学館ライブラリー、1993年)
『法隆寺建立の謎―聖徳太子と藤ノ木古墳』(春秋社、1993年)
『法隆寺千四百年』(とんぼの本・新潮社、1994年)
『法隆寺の四季と行事』(小学館、1995年)
『世界文化遺産 法隆寺』(歴史文化ライブラリー・吉川弘文館、1996年)
『法隆寺の謎』(小学館、1998年)
『世界文化遺産 法隆寺を語る』(柳原出版、2007年)
『法隆寺辞典 法隆寺年表』(柳原出版、2007年)

凄い量で、びっくりしてしまいます。

数多くの高田良信氏の法隆寺学の著作
数多くの高田良信氏の法隆寺学の著作

ご関心のある方は、これらの本を繙いてみてはいかがでしょうか。

これから
「高田流・法隆寺学についての本を読んでみようかな!」
と思われる方に、
多数の著作のなかから、私のお薦め本を3冊選ぶとすると、迷ってしまいますが、次のとおりです。


「近代法隆寺の歴史」  同朋舎・1980年刊  【189P】   2800円

近代法隆寺の歴史


「『法隆寺日記』をひらく―廃仏毀釈から100年」   日本放送出版協会・1986年刊   【215P】  750円

法隆寺日記をひらく

この2冊を読むと、明治維新以降の法隆寺の歴史、主要な出来事・エピソードなどを詳しく知ることが出来ます。



「世界文化遺産 法隆寺を語る」   柳原出版・2007年刊   【265P】   2200円

世界文化遺産 法隆寺を語る

最新刊の「法隆寺学のススメ~知られざる1400年の軌跡」の類書といって良い内容です。
「法隆寺学のススメ」同様に、やさしく判りやすい語り口で、法隆寺の歴史と出来事が記されています。



最後に、高田氏が、現在執筆中の法隆寺学の論考を、ちょこっとご紹介しておきます。

「法隆寺学入門」と題する連載で、聖徳宗教務部刊の「聖徳」という機関紙・雑誌に掲載されています。
現在、連載途上ですが、もう五十数回を超えているという長期連載です。
聖徳太子、法隆寺創建から始まって、直近、大正末年頃の法隆寺の出来事あたりの話まで来たところです。

この連載は、これまでの調査研究成果をしっかり渉猟し、大変詳しく述べられた論考といっても良いもので、まさに高田良信氏の「法隆寺学研究の集大成、真骨頂」とでもいうべきものだと思います。


連載が完結すると単行本として出版されるのではないかと期待をしています。
何時頃、完結するのかわかりませんが、秘かに楽しみにしています。

古仏探訪~豊後高田市・内野区の焼損痛々しい聖観音立像 【2015.5.29】


今回も国東の知られざる古仏のご紹介です。

「ウーン!わざわざ足を運んで観に行くほどだろうか?」

この仏像の写真を最初にパッと見たとき、ちょっと唸ってしまいました。

内野区観音堂・聖観音立像

内野区観音堂・聖観音立像
内野区観音堂・聖観音立像

【焼け焦げ痕、痛々しい観音像】

大きなあばたのような焼け焦げの痕が、あちこちに残っているのが、まず目に入ってきます。
お顔の部分の眼、鼻、口にかけての焦げ跡は、大きく尊容を損ねてしまっており、痛々しいばかりです。
焼け焦げ跡の方に気をとられてしまい、仏像そのものの姿が、眼に入らなかったといっても良いのかもしれません。

一瞬、間をおいて、もう一度この観音像の写真を見直してみました。
よく見ると、なかなか魅力的な像であることに気がついてきました。

「この仏像は、結構古いぞ!」
「元は、すごく出来の良い仏像だったのじゃないだろうか?」
「力感充分で締りがあり、体躯のシルエットのバランス感が抜群だね!」

そんな感じがするのです。

「これは、一度自分の眼でみて、どのような仏像か確かめてみたい。」

と、思ったのでした。


地区管理の仏像ということで、豊後高田市の教育委員会に拝観についてお伺いしました。
ご担当の方に、大変親切にして頂き、管理の方にご確認いただくなど、お世話になりました。

地図などをお送りいただいたメールに、
「『国東のヴィーナス』とも称されているように、スラリとした美しい体躯は健在です。    是非、心ゆくまで堪能ください。」
との言葉が添えてありました。

「国東のヴィーナス、と呼ばれているのか!」

ますます、これは一度拝さねばと、期待感が高まってきたのでした。


内野観音堂への案内標識
内野区の観音堂は、豊後高田市の中心地、市役所などがある処から南東へ5~6キロほど、車で15分ぐらいのところにあります。

JR宇佐駅からは、東に10キロほどという処でしょうか。
観音堂の近辺まで往くと、「聖観音立像(内野焼仏)」と書かれた、案内標識を見つけました。

そこから細道を入っていくと、収蔵庫兼用のような小さな観音堂がありました。

聖観音像が祀られる内野区・観音堂
聖観音像が祀られる内野区・観音堂

観音堂下には、案内看板があります。

観音堂下に設置されている聖観音像の解説看板
観音堂下の案内看板


【元・西叡山高山寺の本尊であった聖観音像】

案内看板にはこのように書かれていました。

内野聖観音立像(県指定有形文化財)

六郷山寺院の本山本寺格、西叡山高山寺に安置されていたと伝えられる本像は、9世紀に製作されたものと考えられ、六郷山寺院の平安仏の中では最も古い仏像に入ります。
腰が横にはり下半身にボリュームがあるといった特徴を持ち、その流麗な姿から『国東のヴィーナス』とも称される秀作です。

西叡山高山寺はかつて六郷山寺院の僧が出家する灌頂所が置かれており、六郷山寺院の中心的な寺院の一つでしたが、江戸時代の初め頃(元和年間)に焼失したといわれています。
この火災の際に辛うじて難を逃れた本像は、地元で厚く信仰され現在に伝えられています。
(豊後高田市)」

西叡山高山寺という廃寺の名は、初めて知りました。

その昔には、京都の比叡山・延暦寺、 東の東叡山・寛永寺、西の西叡山・高山寺と並び称され、三大叡山と言われていた大寺であったそうです。
西叡山は、この内野区観音堂の真南2~3キロの処に見える、海抜570mの小高い山です。

西叡山
西叡山

現在、高山寺というお寺が西叡山の中腹にあるそうですが、そのお寺は昭和59年に建てられた新寺だそうです。

新高山寺・山門
新高山寺・山門

この観音像、西叡山高山寺の本尊であったと伝えられているそうです。
安貞2年(1228)の「六郷山諸謹行并諸堂役祭等目録」という文書に、高山寺の本尊として記されている
「本尊薬師如来並びに聖観音菩薩」
の聖観音に該当するものと考えられています。
写真で見た焼け焦げの後が大きく残っているのは、西叡山高山寺が江戸初期に焼失した時に、この仏像が火中した跡なのでしょう。


【内野観音堂の古仏を眼近に拝して】

早速、観音堂に上がって、仏像の拝観です。
お堂の扉を開けると、真正面に6体の古仏が祀られています。

観音堂内に安置されている聖観音像と破損仏

焼損の跡が痛々しい聖観音立像
観音堂内に安置されている聖観音像と破損仏

地元の方が、毎日お世話されているのでしょう。
可憐なひな菊の花が、観音様の前に供えられており、ホッと心が和みます。

目指す聖観音立像は、真ん中のひときわ背の高い像です。
観音像の両脇には、破損が甚だしい菩薩像、天部像が祀られていました。
観音像以外の破損仏も、かつては高山寺に祀られていたものだということです。

共に祀られている天部像..共に祀られている破損仏
共に祀られている破損仏

聖観音像は、県指定文化財(昭和44年・1965指定)で、像高193cm、カヤ材の一木彫で、内刳りは全く施されていません。
焼損が激しくはっきりしませんが、素地仕上げであったかとみられるそうです。

聖観音像の焼損は、やはりかなり激しいものでした。
真正面から火炎を受けたのでしょうか?
腰から下の前面は、ほとんどが焼け焦げています。

前面が火中焼損している聖観音立像

焼け焦げ痕が痛々しい聖観音像上半身
前面が火中焼損し、焼焦げ痕が痛々しい聖観音立像

胸から上は、顔面に至るまで、大きな痣があるかのような焼け焦げ痕が、何か所も残っています。
とりわけ右眼のあたりと鼻から口にかけての焦げ痕が、尊容を著しく損ねてしまっていて痛々しいばかりです。
そのことがこの古仏の鑑賞を大きく妨げているといえるでしょう。


【なるほど、「国東のヴィーナス」と称されるだけの優作】

近づいてじっくり拝すると、大変出来の良い平安古仏です。
焼損痕に惑わされないようにして鑑賞すると、力感みなぎるバランスの良い像であることに気がつきます。
その堂々たる姿は、流石に西叡山高山寺の本尊として祀られていた仏像だけのことはあると、納得させられるものがあります。

内野区聖観音像・上半身...内野区聖観音像・脚部衣文の様子
堂々たるプロポーションの聖観音立像(上半身と下半身)

腰高なプロポーション、豊かな腰の張り、締まりある肉付けの上半身の造形は、大変魅力的で、グッと惹き付けられてしまいます。
「国東のヴィーナス」
と称されるだけのことはある、魅惑的な仏像だと感じました。
朽損、摩耗していますが、腰の衣文の彫り口も結構鋭く、ダイナミックなものがあります。
平安前期仏の魅力をしっかり備えた、優れた一木彫であったに違いないと思いました。

「焼損せずに、朽損せずに、遺されていたとしたら、どんなに素晴らしい魅惑の仏像であったことだろうか!」

今のお姿を前に、そんな溜息が出てきました。
残念なことです。

なんといっても、豊かでパンチのある腰の張りが魅力的です。
この腰の張りの造形は、あの有名な唐招提寺のトルソーの一木彫を思い出してしまいます。
唐招提寺像よりはボリューム感が控えめで、大人しい感じですが、似たものがあると感じました。

内野区聖観音像・正面全身...唐招提寺如来形像・トルソー正面全身
内野区聖観音立像と唐招提寺如来形像・トルソー(正面全身)

内野区聖観音像・張のある腰部側面...唐招提寺如来形像・腰部側面
内野区聖観音立像と唐招提寺如来形像・トルソー(腰部側面)

また、腰高でウエストから胸あたりを絞ったプロポーションは、天平仏のシルエットを連想させなくもありません。
同じ大分県・宇佐の天福寺奥院の菩薩形塑像のシルエットを連想させるような気がするのですが如何でしょうか?
天福寺奥院の菩薩形塑像は、天平後期、8世紀後半の制作とされています。

内野区聖観音像・全身像
内野区聖観音像・全身像

天福寺奥院・塑像菩薩形立像...天福寺奥院・塑像菩薩形立像
天福寺奥院・塑像菩薩形立像

この聖観音像、平安に入ってしばらくたってからの制作だと思うのですが、その造形のフィーリングをみていると、天平の名残をそこはかとなく留めている古像のような気がします。


【聖観音像の制作年代は?】

制作年代は、どのように考えられているのでしょうか?
結構古いのでしょうか?

「大分の古代美術」(大分放送・1983年刊)には、鷲塚泰光氏がこのように解説がされています。

「顔は肉付きの良い瓜実型で、面奥も深く上瞼のふっくらとした穏やかな眼が浅く刻まれている。
・・・・・・・・・
胸部にくくりの線を刻み、腹部はやや前方に突き出す形にしぼり、これに豊かな腰が続き、下半身は膝に部分で一旦細め、天衣でたくられた裳裾が左右と後方に拡がる安定した形で、正側面共に動きがあって、像はみごとな均衡を保っている。

髻や耳輪の丸みの強い彫り口や、裳に断面が半円状の襞を繁く刻む手法は、福岡浮嶽神社に伝わる如来坐像、同立像、地蔵菩薩立像(いずれも重要文化財)の作風に近い特色のある表現である。

10世紀に遡るまとまりの良い本格的な一木造の作例として注目されるが、面相部や躰部前面に焼損が大きくひろがっているのがいかにも惜しまれる。」

内野区聖観音像・頭部側面..内野区聖観音像・脚部衣文
内野区聖観音像・頭部側面と脚部衣文

浮嶽神社如来坐像・頭部側面
浮嶽神社如来坐像・頭部側面

浮嶽神社・如来形立像...浮嶽神社・地蔵菩薩立像
浮嶽神社・如来形立像(左)と地蔵菩薩立像(右)

2006年に大分県立博物館で開催された「み仏の美とかたち展」図録では、渡辺文雄氏のこのような解説が載せられていました。

「丸く大ぶりの髻や厚く張りのある腹部から腰にかけての肉付け、裳裾両面のしのぎ立った衣文などに、平安前期一木彫成像の名残をとどめ、10世紀も前半頃の製作と考えられます。
数多い国東半島の平安仏では、最古の木彫仏です。」

観音堂前の説明看板には、
「9世紀に製作されたものと考えられ」
と書かれていましたが、
「大分の古代美術」「「み仏の美とかたち展図録」共に、10世紀の制作と考えられているようです。

たしかに、9世紀の制作とするには、造形に少し硬直化が見られ、平安前期のダイナミックな迫力が後退しているように感じます。
浮嶽神社の諸像と較べてみると、納得がいくところです。

この聖観音像、当地の製作ということで少し年代が下がるのかもしれませんが、その中でも大変古様を留めた、魅力ある秀作といって良いのではないでしょうか。



私は、この「国東のヴィーナス」を、大変気に入ってしまいました。

国東半島の鄙の地に在り、地元でひっそりと管理されている、知られざる古仏といって良いでしょう。
それに、焼け焦げ痕で、著しく尊容を損ね、なかなか愛好者の関心を惹くこともないかもしれません。
わざわざ、訪れる人もそうはいないのではないかと思います。

「素晴らしい仏像なのに、見た目で損をして可哀想だなあ!」

眼前に拝してみて、そんな気持ちが込み上げてきました。

国東方面へ出かけられた時には、一度は必見の、魅力ある像だと思います。
是非訪ねてみていただければと思います。


最後に、やってはならない禁じ手なのですが、写真に修整を加えて、焼け焦げ痕を隠してみました。

内野区聖観音像の焼焦げ痕を隠した修正写真

内野区聖観音像の焼焦げ痕を隠した修正写真
内野区聖観音像の焼焦げ痕を隠した修正写真

如何でしょうか?

目障りな焼け焦げ痕を隠してみると、この観音像の魅力あるプロポーションのシルエット、古様で締りある造形表現のイメージを、感じていただけるのではないかと思います。

大きな焼け焦げ痕で、余りに尊容を損ね、痛ましく可哀想なので、本来の造形をイメージしていただきたく、敢えてやってはいけない写真修正を試みてみました。

お赦しいただき、「国東のヴィーナス」本来の姿をイメージしていただければ幸いです。

前のページ 次のページ