観仏日々帖

古仏探訪~国東市国見町の古仏たち(平等寺、万福寺、千燈寺の如来像)  【2015.5.16】


前回に引き続き、宇佐、国東方面の古仏をご紹介してみたいと思います。

今回は、国東半島の知られざる古仏のご紹介です。

国東の仏像と云えば、まず思い浮かぶのは、真木大堂の阿弥陀如来、大威徳明王などの諸仏、富貴寺の阿弥陀如来像、長安寺の太郎天像あたりでしょう。
あとは、熊野磨崖仏の巨大石仏といったところでしょうか?

今回の国東探訪では、こうした有名諸寺も訪ねたのですが、国東半島を代表する諸仏像は、ガイドブックや解説書に良く紹介されていますので、「観仏日々帖」では、有名仏像はスキップして、国東半島の東北端にある国見町の古仏を採り上げてみたいと思います。

ご紹介するのは、国東市国見町にある、平等寺講中の釈迦如来像・二天像(平安時代)、万福寺の薬師如来像(平安時代) 、千燈寺の如来形像(鎌倉時代)です。
共に、県指定文化財に指定されています。

国東半島と国見町
国東半島と国見町エリアのイメージ

国見町というのは、国東半島の東北のはずれにあたるところで、国東観光に出かけられる人もなかなかそこまで足を伸ばす方は少ないかもしれません。
私も、国見町のこれらの古仏については、全く知りませんでした。
国東で、一見に値する平安古仏はないかと、「大分の古代美術」という本を調べていたら、平等寺講中と万福寺の古仏の写真が目にとまりました。
折角、国東半島まで出かけるのだから、思い切って訪ねてみようかと、足を伸ばしたのでした。


【平等寺講中の釈迦如来像を訪ねて】

まずは、平等寺をめざします。

平等寺(講中)は、国東市国見町野田という場所にあります。
国東半島のメイン、富貴寺からは、車で30分ほど北東へ走ったあたりです。
観光ルートからは完全に外れていて、随分鄙の地まで来た感じで、のどかな山村が続きます。

「平等寺講中」という名称でご想像がつくように、今は無住で、地区の講中の方々によって管理されています。
国東市の教育委員会のご担当の方にご連絡して、拝観お願いの労をとっていただきました。
教育委員会の方に頂いた地図をたよりに、県道からほど近いところの「平等寺入口」と書かれた標識を見つけました。
そこから橋を渡って曲がりくねった細道をしばらく登って行って、やっと小さなお堂に辿りつきます。
収蔵庫を兼ねた簡素なお堂で、一見、集会所のような建物です。
入り口には、「国東六郷満山霊場 第二十四番札所」というちょっと古ぼけた木札が懸けられていました。

平等事講中のお堂..「国東六郷満山霊場 第二十四番札所」の札
平等事講中の簡素なお堂と、「国東六郷満山霊場 第二十四番札所」の木札

お堂のなかには、講中の女性が二人、我々をお待ちいただいておりました。
わざわざ、お堂を開いてご準備いただいたことにお礼を申し上げ。早速ご拝観です。

堂内に安置されている平等寺諸仏
堂内に安置されている平等寺諸仏

仏像は、お堂の正面奥に、並んで祀られています。
まずは、釈迦如来坐像のご拝観です。
像高82.5cm、カヤ材の一木彫で、内刳りは施されていません。

平等寺・シャカ如来坐像
平等寺・釈迦如来坐像

如何にも平安の地方作の如来坐像といった雰囲気です。
地方作ではありますが、一見してなかなか優れた出来の仏像であることが判ります。
平安前期のダイナミックさやボリューム感は薄れてしまっていますが、いわゆる定朝様の藤原仏のような様子はまだ感じられません。
丁度その中間のような感じです。

平等寺・釈迦如来坐像

平等寺・釈迦如来坐像..平等寺・釈迦如来坐像
平等寺・釈迦如来坐像

お顔の造形をみても、藤原の円満相ではなく、けっこう鼻筋がしっかり通ってキリリとした表情です。
野趣を感じさせる風貌でもあります。

平等寺・釈迦如来坐像~顔部..平等寺・釈迦如来坐像~顔部
平等寺・釈迦如来坐像~顔部

造形を見ると、上体は割合薄めに造られていて、厚みやボリューム感は感じられませんし、衣文の彫りもさほど凌ぎは立てず丸みを帯びたものになっています。
しかし、定朝様の仏像にみられるような、ととのえられた浅い衣文線の処理というのではありません。
シンプルな衣文の処理ですが、それなりのダイナミックさが表現されているように思われます。

平等寺・釈迦如来坐像~衣文
シンプルだがダイナミックさを感じさせる衣文の彫り口

全体の造形や衣文の表現から受ける印象は、「モッチリした」とか「ムッチリした」という言葉が似合うような、粘りのある造形表現、彫口のように感じられました。
ボリュームある造形ではないのに、「軽量感」は感じません。
むしろ、力感があるというか、「質量感」を感じさせます。
この像が、カヤ材の一木彫で、内刳りも施さないという造形であるから、そう感じさせるのでしょうか?


この釈迦如来坐像を拝していると、「平安彫刻の地方伝播」という彫刻史の教科書のひとつの典型を見ているような気になってきます。

中央の彫刻をたどると、平安中期になると、平安前期彫刻の塊量感、森厳性、鋭い彫口がだんだん失われ、落ち着いたバランス感重視の穏やかさを強調する表現になっていきます。
そして平安後期には、定朝様といわれるような整った均整な優美さや軽量感を感じさせる表現へと展開していきます。

平等寺の仏像をみると、それらの要素が折衷され混ざり合っているようです。
上体や造形バランスは平安中後期のボリュームを抑えた穏やかな表現となっているのですが、
顔貌のキリリとした表現、モッチリムッチリした質感ある彫り口に、平安前期の余風を残しています。
膝前も、そこそこのボリューム感です。
それに、地方特有の、野趣、田舎臭さがミックスされています。
古様がミックスされた、出来の良い地方仏の典型といって良いように思いました。

脇侍の二天像も、なかなかの出来で、本尊と一具とみられているということです。

平等寺・二天像
平等寺・二天像


〈平等寺・釈迦如来像の制作年代は〉

これらの仏像の制作年代は、どのように考えられているのでしょうか?

実は、脇侍の文殊菩薩像の像底に、後補の近世の追銘ではありますが「康平7年」(1064年)の墨書が見つかっています。
この墨書を全面的に信用することはできないのですが、何らかの拠り所があって記されたのかと思われています。
釈迦如来像の造形の印象も、その頃の制作と考えると、ぴったりという感じもします。

この像を採り上げた本を見ると、このように解説されています。

「面長の相好で、丸昧の強い両肩、厚い膝、中尊の左肩から垂れる納衣の端の折り返しなどに古様がみられ、郷山には一木造りで地方色の濃い仏像が多く伝わるが、その中の典型的な佳作ということができよう。」

(「大分の古代美術」岩男順氏執筆、大分放送1983刊)

「高めの肉髻、厚い膝、中尊の左脇の衲衣の折り返しなどに古様が見られ、後世の追銘であるが、文殊像像底の康平7年(1064)の墨書銘を首肯させるものがある。
一木造の地方色の濃い国東平安仏の中にあって、最も古様かつ典型的な作例といえよう。」

(「大分県の文化財」大分県教育委員会1991刊)

いずれにせよ、11世紀初頭ごろ当地で製作された出来の良い像で、真木大堂や富貴寺の仏像に先立つ、国東半島最古級の木彫像ということになろうかと思います。


〈盗難に遭い、行方知れずの両脇侍像〉


両脇侍が失われた平等寺釈迦三尊像
両脇侍が失われた平等寺釈迦三尊像

ところで、仏像が祀られている写真をご覧になってお気付きかもしれませんが、釈迦如来像の両脇侍、普賢菩薩、文殊菩薩像の姿が見えません。
仏さまを乗せていた、獅子と象の像が置かれているだけです。

平等寺釈迦三尊像~盗難前の姿
平等寺釈迦三尊像~盗難前の姿

実は、この両脇侍は、平成6年(1994)に盗難に遭い、未だに行方知れずになっているのです。
誠に、残念なことです。
今は、防犯のため、仏様の前面に鉄格子の扉が取り付けられています。
拝観に際して、扉の鍵を外して、開けていただきました。

やはり、無住のお寺は、このように盗難の危険にいつもさらされているということなのでしょう。
博物館などに寄託すれば、盗難リスクは回避されるわけですが、地域の住民の方々にとってみれば、この地に在ってこその村人を守る仏様であるわけで、信仰と文化財のハザマの問題は、なかなか難しいのだと思います。


〈平等寺、近年の歴史を振り返る〉

この平等寺の仏様も、近年の歴史をたどると、このようないきさつがありました。

平等寺は、江戸中期に衰微一度無住となり、その後一時期、寺運を持ち直したものの、明治 大正へと近代化の激浪の中で再び無住、廃屋の様相を呈してしまいました。
仏像を安置するのも厳しいというような状況に至り、昭和45年(1970)に、釈迦三尊像、二天像は京都国立博物館に委託保管されることになりました。
地方作の平安古仏で、釈迦、普賢、文殊の三尊がそろった仏像は珍しく、京博展示室に展示されていたということです。

博物館に大切に保管されておれば、管理という意味ではこの上ないのですが、当地国見町野田の人々にとってみれば、先祖代々苦楽を共にしてきた村の仏さまを、遠く持ち去られていることは淋しいかざりです。
また、土地の人々を守っていただける仏様でもあります。
そこで昭和47年(1972)、地元の人々は力を合わせて浄財を募り、また県や町の援助も得て収蔵庫の釈迦堂を新築し、これらの仏像の里帰りを実現したのでした。
釈迦堂を守る村の講中が中心となって、仏様をお祀りし、管理をしていくようになりました。

昭和54~55年(1979~80)には、顕彰会の援助によって、大修理もされたようです。
この大修理の時に、文珠菩薩像像底に康平7年(1064)の墨書銘があるのが発見されたのです。

ところが、仏様の里帰りを実現したことがアダとなってしまったような、盗難事件が起こってしまいました。
平成6年(1994)、普賢、文殊菩薩の両脇侍像が、盗み取られてしまうという災難に遭ってしまったのでした。
盗難後の二菩薩像の行方は杳として知れず、残念ながら行方不明のままだということだそうです。

ご拝観の段取りをいただいた女性方にお話をお聞きすると、昔は、諸行事も行われ、釈迦堂へお参りする人も頻繁であったが、土地在住の人々が減るようになり、高齢の方が多くなるにしたがって、このお堂を訪れる人も無くなりがちだそうです。
長い坂を登って、ポツンとたてられたこのお堂まで歩いてお参りするのは、高齢の方には結構きつくて、訪れる人も本当に少ないということの様でした。
この日は、我々が来るというので、わざわざ講中の女性方がお堂まで赴いて、鍵を開けてお待ちいただいたということでした。

こうした無住のお堂の文化財を、過疎化、高齢化が進む地で、村人の手で守っていくということが、そう簡単なことではなく、本当に難しい時代になったのだなと、実感した次第です。



【万福寺・薬師如来像を訪ねて】

次に、国見町櫛海にある万福寺・薬師如来坐像をご紹介します。

万福寺は、平等寺から車で15分ぐらいのところにあります。
もうあと2キロほど行けば、国東半島の東北の先端の海岸という場所です。
平等寺は、民家から離れた高台山中にポツリとありましたが、万福寺さんの方は村落の民家に軒を並べてありました。
国東特有の、石造の仁王像が立つ山門をくぐると、簡素な本堂があります。
村落の人々と共に在る鄙びたお寺という感じです。

万福寺山門の石造仁王像

万福寺・本堂
万福寺山門の石造仁王像と本堂

ご本尊の薬師如来像は、普段は年2回のご開帳の時だけしか拝観が叶わないようですが、国東市の教育委員会のご担当から拝観のお願い連絡をしていましたので、ご住職がご拝観の段取りをしてお待ちいただいていました。

早速、薬師如来像のご拝観です。
本堂中央の立派な厨子内の少し高いところに、お祀りされています。

本堂に祀られた万福寺・薬師如来像

万福寺・薬師如来像...万福寺・薬師如来像
本堂に祀られた万福寺・薬師如来像

像高71cm、カヤ材の一木彫で、内刳りはされていません。

この薬師像については、解説書には、このように記されています。

「大粒の螺髪に肉厚のモデリングなど古様であるが、丸顔の面相は穏やかな童顔に表わされ、腹前から両膝に至る翻波風の衣文も形式化が著しい。
平安前期木彫の伝統を受け継ぎながらも、和様化と形式化が進んだ12世紀前半の造立であろう。」

(「大分県の文化財」大分県教育委員会1991刊)

万福寺・薬師如来像
万福寺・薬師如来像

「衣文の彫りには簡略化が見られる。
衣のひだは溝状に刻み込むが、ひだとひだの間には小さく降起を見せる。
これはいわゆる貞観彫刻にみられる翻波の彫法を踏襲しているものである。
特に膝のひだを平行楕円曲線に表わしているのが目につく。

これは奈良元興寺や、京都神龍寺薬師如来保など9世紀仏像の大腿部のひだの表現に見られるものと同様なものであるがそれを、著しく形式化したものである。
8世紀末唐招提寺旧講堂如来立像に始まり、9世紀に盛んに行なわれた様式が地方に伝わりその終末を示す資料としても興味深いものがある。
しかしながら左肩を覆う衣の端の折り返しの軽妙な彫法などには、地方仏師の創意工夫の跡が見られる。
彩色はわずかに白下地を残す他は、ほとんど剥落している。
・・・・・・・・・・・・・・
総体的に形式化が明らかであるが、
いかにも地方作らしい素朴さの中に、どっしりと落着きを示す特色ある作である。制作年代は平安末期と推測される。」

(「大分の古代美術」岩男順氏執筆、大分放送1983刊)

眼近にじっくりと拝させていただきました。
たしかに、造形や表現は、解説にあるとおりの平安古仏だなと感じました。

平等寺の釈迦像が、平安前期の余風を残しながら、その造形が地方化、形式化していった、11世紀初頭の地方の一木彫像の典型的な像だとすれば、
この万福寺像・薬師像はその地方化と形式化が、更にもう一歩進んで、温和さ、穏やかさがも増してきた11世紀末~12世紀の国東地方の地方作古像ということになるのでしょう。

地方作の匂いがくっきりと漂い、「国東半島の地に在る古仏」という表現がピッタリくる仏様だなと思いました。

この仏様は、海底から出現したという「海上渡来の伝承」があるそうで、古来、近郷の人々の厚い信仰を受けてきたとのことです。
彩色像であったのでしょうが、いまは素木像のようで、手先も亡くなっています。
お顔も、穏やかな童顔のような優しさをたたえています。
そうした飾らぬ素朴さが、この古仏の魅力といえるのでしょう。
素晴らしく出来がよい像というのではないのですが、「飾らぬ素朴さ」に何とも言えない親近感を覚えてしまいました。

美しい姿に撮られた万福寺・薬師如来像

美しい姿に撮られた万福寺・薬師如来像...美しい姿に撮られた万福寺・薬師如来像
万福寺で拝見した、美しく撮影された薬師如来像の写真

いつもはインパクトのある仏像に惹かれてしまうのですが、万福寺・薬師如来像を拝して、何やら、国東・国見町の山村風景の雰囲気のような、のどかで優しい気持ちになりました。



【千燈寺・如来坐像を訪ねて】

国見町の古仏ご紹介の最後は、千燈寺・如来坐像です。

千燈寺には、鎌倉初期の県指定文化財の如来坐像が祀られているということでしたが、スケジュールの都合もあり、鎌倉期の像でもありということで、パスをするつもりでした。

県道31号山香国見線を走って、平等寺へ向かって車を走らせていたところ、県道沿いの左手に千燈寺が見えてきました。
天台宗六郷満山・千燈寺と刻された大きな石碑が見えます。
少し時間もあるので、ダメもとでご拝観をお願いしてみようと、山門をくぐりました。

千燈寺・山門

千燈寺・本堂
千燈寺・山門と本堂

本堂には誰もいらっしゃらないようで、あきらめかけていた処、地元のウォーキング・ハイキングかと思われる10~20人の団体さんがやってきました。
これはラッキーと後ろについて、お堂に上がりました。

団体のリーダの方のお話では、
「御住職は行事があって留守にされており誰もいないのだが、我々が来るということで、仏像をはじめ寺宝をお堂に並べておいていただいているんですよ。」
ということだそうです。

堂内に取り揃えられた千燈寺の宝物
本堂内に並べられた千燈寺の寺宝

お目当ての如来坐像も、本堂内に台が置かれて、祀られていました。

我々は、拝観が叶いラッキーだったのですが、開け放たれたお堂にこんなに無造作に置かれていて、防犯上大丈夫なのでしょうか?
のどかな山村ならでは、ということなのかもしれませんが、本当に心配になってしまいます。


それはさておき、仏像のご拝観です。
像高51.5cm、ヒノキの寄木造の漆箔像で、鎌倉初期の制作とされています。
左右2材を頭体の正中線で矧ぎ、頭部を割り首にしているということです。

千燈寺・如来坐像

千燈寺・如来坐像
千燈寺・如来坐像

小ぶりで、可愛らしいという雰囲気の仏像です。
定朝風の典型のようなお姿をしていますが、よく見ると、体躯、肉取り、衣文の処理に鎌倉の空気感をはっきり感じさせます。
両手先が欠失しており、当初の尊像名が良く判らず、「如来坐像」という指定名称になっています。
「キリリとした少年の、清新な空気感を感じさせる」
とでもいうのでしょうか?
小品ながら可愛くすっきりした古仏という印象でした。

千燈寺・如来坐像...千燈寺・如来坐像
千燈寺・如来坐像

千燈寺は、かつては六郷満山の大寺で、16の末寺を有し六郷満山の中核を成す寺院として栄え、「西の高野山」とも称されました。
天正年間に大友宗麟による焼き討ちに遭って大規模な伽藍は焼失し、文禄年間に再建されたものの往時の繁栄を取り戻すことはなかったということです。
現在の千燈寺は、旧千燈寺の坊が昭和初期に山麓に移転したもので、旧千燈寺址は六郷満山ふれあい森林公園として整備されているということです。
現在は、国東六郷満山霊場第二十三番札所になっています。

この仏像は、元々千燈寺の末寺の法教寺(下払坊)の本尊であったのですが、後に旧千燈寺本堂に安置され、さらに本堂の破損がひどくなったため、現在の千燈寺に移されたということのようです。


今回は、国東市の東北端、国見町の古仏を三躯ご紹介しました。

皆、如来坐像のご紹介でしたが、こうして順にみていくと、平安中後期から鎌倉へと変化していく、国東の地方仏の有様の典型を見ているように感じました。

地方特有の野趣や土臭さの匂いをしっかりと刻みこんで、のどかな親近感を発散させているようです。


国東・国見町の古仏を訪ねて、何やらホッとしたような、ほのぼのしたような、そんな優しい気分になることが出来ました。



【追加の写真掲載】

コメントにてご確認のありました、平等寺釈迦如来坐像の趺坐の様子を別の角度から撮った写真です。
ご参考までにご覧ください。

平等寺釈迦如来坐像の趺坐の様子

古仏探訪~大分県宇佐市・龍岩寺奥院の三尊仏像 【2015.5.2】


昨年(2014年)11月、大分県宇佐・国東方面の観仏探訪に出かけました。
福岡市博物館で開催された「九州仏~1300年の祈りとかたち展」に、同好の方々と出かけたのですが、それにあわせて大分県まで足を伸ばしたのです。

探訪した古寺、仏像はご覧のとおりです。

大分県観仏探訪先のリスト

2日間で拝して回りましたが、その前に福岡市博物館、九州歴史資料館の仏像特別展などを観た後だけに、
「もう目一杯!」「腹一杯の満腹状態!」
という感じになってしまいました。

これらの古仏のうちから、いくつか印象に残った仏像をご紹介してみたいと思います。


まず最初は、宇佐市院内町の龍岩寺の三尊仏です。
平安後期の制作で、重要文化財に指定されています。


【異次元の幽玄空間、岩窟礼堂に祀られる三尊仏】

一度、この三尊仏を拝すると、きっと誰もが忘れることが出来ないことでしょう。

しっかりと記憶に刻まれる仏像です。
山腹の岩窟の礼堂奥に、すっくりと佇む三体の巨像を目の当たりにすると、心撃たれずにはいられません。

龍岩寺・三尊仏像
龍岩寺奥院礼堂・三尊仏像

急峻な岩壁に貼り付いたような龍岩寺・礼堂
岩壁に貼り付いたような龍岩寺・礼堂

45年前、学生時代に、この龍岩寺を訪ねたことがあります。
急峻な岩壁に貼り付いたような礼堂に、堂々たる三尊仏が祀られるというたたずまいは、鮮烈に目に焼き付きました。
その時の有様は、今でも映像を見るように蘇ってくるような気がします。

昭和47年(1972)当時撮影の龍岩寺三尊像
昭和47年(1972)当時撮影の龍岩寺阿弥陀如来像..昭和47年(1972)当時撮影の龍岩寺不動明王像
昭和47年(1972)に訪れた時撮影した、龍岩寺三尊仏像写真

思い出の龍岩寺に、再訪を果たすことが出来ました。


龍岩寺は、大分県宇佐市院内町大門という処に在ります。
宇佐八幡のある宇佐市街から東南に15キロぐらいのところの、山間の山村といったところです。
「龍岩寺参道」の標識がある石段を往くと、すぐに右手に住居兼用のような本堂があり、ここで拝観のお願いをします。

龍岩寺参道・入口..龍岩寺参道・入口
龍岩寺参道・入口

ここから、三尊仏がある奥院までは、細い急な山道を15分ほど登って行かなければなりません。
御住職なのでしょうか、管理されている方なのでしょうか、有難いことに、奥の院までご一緒にのぼってきていただきました。
巨岩がくりぬかれたトンネルを抜けると、奥院の礼堂が目に入ってきます。

奥院礼堂への山道.奥院礼堂への山道
奥院礼堂への険しい山道・トンネル

思わず息を呑むような景色です。
転げ落ちそうな急峻な岩壁の巌窟に、礼堂の建物が貼り付いたように建てられているのです。

急峻な岩壁に建てられた龍岩寺・奥院礼堂

龍岩寺奥院・礼堂
急峻な岩壁に建てられた龍岩寺・奥院礼堂

鳥取三仏寺の投入堂のことが、すぐに思い浮かびます。

鳥取・三仏寺投入堂
鳥取三仏寺・国宝投入堂

この建築様式、三仏寺投入堂と同じで「懸造り」というのだそうです。
鎌倉時代の建築で、重要文化財に指定されています。

山腹の岩窟は緑の木々に囲まれ、礼堂に佇むと静寂そのものです。
わずかにそよぐ風が、心地よく通り抜けていきます。
礼堂の奥には、格子戸越しに、3メートルほどもある巨大な木彫の三尊の坐像がどっしりと坐っているのが見えます。

礼堂内陣の格子戸越しに拝する三尊仏
礼堂内陣の格子戸越しに拝する三尊仏

中央に阿弥陀如来、向かって右に薬師如来、左に不動明王の三尊です。
礼堂の屋根と巌窟の間から程よい光が差し込んで、三尊仏が岩窟から浮かび上がって映えるようです。

龍岩寺奥院・三尊仏
龍岩寺奥院・三尊仏

幽玄というのでしょうか
神秘的というのでしょうか。
なにやら、異次元の空間、世界に浸ったような気持ちとなります。

45年前に訪れたときと、何も変わっていません。
この空間に身を置くと
「やっぱり、また来てよかった」
という実感が込み上げてきます。


さて、仏像のご拝観です。
普段は、外陣から格子戸越しにしか拝することが出来ないようですが、今日はわざわざ内陣のカギを開けて招じ入れていただき、目の前で巨大な三尊を拝することが出来ました。

これだけの巨像、本来なら離れた場所から拝するものなのでしょうが、そばに近づき仰ぎ見るように拝すると、本当に圧倒されてしまいます。


【石仏を思わせる木彫仏の三尊仏】

「石仏をみているようだ」

このように感じられることと思います。

龍岩寺奥院・三尊仏

龍岩寺奥院・不動明王像
石仏を思わせるような龍岩寺・三尊仏

螺髪や細かな衣文の線などを大胆に省略して、大まかにざんぐりと彫りあげられています。
目鼻口などお顔の作りも、思い切ってシンプルに表現されています。
とても木彫の彫像とは思えない仕上げ方です。
木塊を、石の塊のように造形したようです。

このざんぐりとした石仏風の表現が、背面の巌窟のゴツゴツした岩場と、見事に調和しているように感じます。
この巌窟を開いた人は、この山腹の急峻な岩場の巌窟に、出来得ることなら巨大な石仏を祀りたかったのではないでしょうか?
臼杵の古園石仏は、岩壁から彫り出した大きな大日如来の石仏などが礼堂で覆われ祀られています。

臼杵の古園石仏・礼堂

臼杵・古園石仏
礼堂に覆われた臼杵・古園石仏

そのようにつくりたかったのが、急峻な山腹では到底かなわず、石仏風の木彫像を祀ることにしたのかも知れません。

この三尊仏像は、共に素木作りで、クスノキの巨材を用いて造られています。
仏像に用いたクスノキは、山下に在る祇園社境内の神木を伐って刻んだという伝えがあります。
神仏習合の霊木信仰によるものかと思われます。

用材がクスノキで彫られていることが、この木彫像に「石仏の風合い」を感じさせるのに大きく作用しているように思えます。
クスノキは広葉樹の散孔材ですが、肌目、質感が粗く、硬質感を感じさせるところがあり、風化していっても、木目がささくれたりするようなことがありません。
今では年を経て、体躯に細かなヒビ割れがたくさん入っていますが、石仏的な硬質感は、しっかり保たれています。

ひび割れがが生じているクスノキ材の木地
ひび割れが入っているが石仏の風合いを感じさせるクスノキ材の木地

もしヒノキのような針葉樹材で彫られていたら、縦の木目に沿って割れやささくれが激しく生じて、とても石仏のような風合い、雰囲気は出なかったと思われます。

九州ではクスノキ材が使われることが多いのですが、石仏的風合いを出す効果も考えて、クスノキ材が用いられたのかもしれません。


【修験から生まれた?急峻岩壁の奥院礼堂】

どうして、このような三尊仏像がこのような急峻な岩窟に造られたのでしょうか?

龍岩寺の歴史については、良く判りません。
寺に残された龍岩寺縁起によると、

「天平18年(746)に行基菩薩が開き、鎮守牛頭(ごず)宮から木を切り出して一刀三礼のもとに三尊を刻んだ」

という内容が記されていますが、到底信用できるものではありません。
やはり、天台修験の信仰に絡んで、造像されたものと考えられているようです。

鷲塚泰光氏は、

「阿弥陀、薬師、不動を三尊とする組み合わせは、他に例がほとんどなく、当地方の天台修験と民間信仰の複雑な結びつきによる造像と考えられる。
・・・・・・・・
難解な教義はともかくとして、人びとの安寧を願う気持ちのあらわれと考えるべきであろう。」

(「大分の古代美術」1983年大分放送刊所収)

と述べています。

平坦に礼堂にたどり着けるようにされた通路
今では平坦に礼堂に
たどり着けるようにされた通路
修験がらみとすれば、奥院礼堂にたどり着くのも、昔は、結構険しかったのかもしれません。
今では、岩のトンネルを抜け比較的平坦な細道を往くと、そのまま礼堂にたどり着きます。
昔は、そうでもなかったようです。

建築史学者の福山敏男氏は、このように拝したと記しています。

「岩の洞門を抜け、左手に少し回ってのぼると、間もなく東南向きの岩窟のがけ下に達する。
舞台造の建物の正面が仰がれ、その脚下に沿って右に、鉄の鎖につかまって岩面を上ると北側から堂前面の広縁に入るようになっている。
さらに正面の扉を開いてうす暗い礼堂の内部に入ると、思いもかけない光景に驚かせれる。」

(「古寺の旅・西日本編」1973年東京美術刊所収)

この文章は、1953年に書かれたものです。
当時は、建物の脚下から鉄の鎖につかまって登っていかねばならなかったようです。

礼堂にのぼるクスノキ材の「きざはし」
急峻な崖を礼堂にのぼる「きざはし」

三仏寺投入堂に登る険しさには比べものにならないでしょうが、修験の奥院に参る険しさがあったのでしょう。
今でも脚下には、梯子のようなクスノキ材の「きざはし」(市指定有形文化財)が遺されています。
三尊仏を刻んだ残りの丸太を削って造られたものと伝えられている、原始的作法の階段だそうです。
昔は、参詣道として利用されていたのでしょう。


【三尊仏を彫ったのは石仏仏師?】

三尊仏の造形を見てみましょう。

龍岩寺奥院・薬師如来像
龍岩寺奥院・薬師如来像

龍岩寺奥院・阿弥陀如来像
龍岩寺奥院・阿弥陀如来像

龍岩寺奥院・不動明王像
龍岩寺奥院・不動明王像

造形表現は、面貌も体躯も、誰が見ても藤原仏のおだやかな表現です。
12世紀の制作とみられています。

しかし、都の定朝風の仏像のような、優美さとか繊細さというものは感じさせません。
「単純化の美、省略の美、抽象化の美」とでもいうのでしょうか?
温和なのだけれども、素朴な粗野さ、堂々たる雄大さを強く感じます。
なかでも、不動明王の顔貌の造形は、何とも言えない魅力があり、心惹かれるものがあります。
修験の岩窟に祀られるのに相応しい造形です。


三躯共にクスノキの一木彫で、後頭部と背面から内刳りを行って蓋板を当て、両肩からは別材、膝前は横一材と構造になっているそうです。
「頭部の耳の後ろで前後に矧いでいる」(国宝重要文化財「仏教美術」奈良国立博物館編1976年小学館刊)と書かれているものもあります。
どちらが正しいのかは良く判りません。

ただ、正面から見たときの堂々たる雄大さに比べて、横から見たときの体奥の薄さには、ちょっとびっくりしてしまいます。
不釣り合いというほどに薄っぺらいのです。
藤原仏だからというよりも、石仏の浮彫的な表現の延長というか、背後の岩壁を意識した正面性をとりわけ強調した造形表現になっているように思います。

体奥が薄っぺらい如来坐像..頭部が大きく造られた不動明王像
体奥が薄っぺらい如来坐像と、頭部が大きく造られた不動明王像

また、どの像も、頭部、顔部が不釣り合いなほどに大きく造られています。
狭い巌窟礼堂で、見あげるように拝むことが想定されているからでしょうか。

巌窟の狭い礼堂で、間近に、真正面から巨像を仰ぎ見て拝するという視覚的効果が、最大限計算されているようです。
薄っぺらい体奥、頭部の不釣り合いな大きさも、そう考えれば、納得できます。

こんな石仏のような木彫仏は、ほかの地方では見かけることがありません。
やはり龍岩寺・三尊仏の石仏的な彫刻表現、岩壁浮彫的な正面観照表現は、臼杵石仏に代表される当地の石仏造像と深い関係があるのでしょうか?
石仏を彫った工人と龍岩寺仏を彫った仏師は同じ工人なのでしょうか?

専門家は、こうした点について、どのように考えているのでしょうか。

鷲塚泰光氏は、
「像は木彫でありながら、その質感と立体としての微妙な凹凸起伏を否定した彫り口で、あたかも磨崖仏のように、概形のみを明確に刻む手法を示している。
この手法は、木彫としては小作り仕上げに至る以前で像を完成したように思え、作者を当地方の石造仏師に擬することもできよう。」

(「大分の古代美術」1983年大分放送刊所収)
このように、述べています。

軟質凝灰岩に丸彫風に彫られた臼杵石仏

木仏師の制作を思われる彫口の臼杵石仏
軟質凝灰岩に丸彫風に彫られ、木仏師の制作を思わせる臼杵石仏

臼杵石仏などの制作者については、これらの石仏が、
・きわめて丸彫り的に彫られていること、
・その様式が同時代の木彫仏に近いこと、
・当地の軟質凝灰岩の石質がやわらかで木彫で使うノミでも制作可能であること
などから、木仏師の手による制作ではないかといわれています。

こうした木仏師系の石仏製作者が、龍岩寺三尊仏もまた製作したと考えれば、大変納得のいく話です。

久野健氏は、一歩進めて、このようにも考えられています。

「大分県の石仏の制作はかなり長期間にわたっている。
はじめは木仏師のような仏師の手になった石仏も、次第に石彫の専門の仏師も出現したろうし、また磨崖石仏に適する様式も生まれていったことは、その遺品を通観すると明瞭に知ることが出来る。

次第に丸彫り的石仏から、浮彫的な磨崖仏へとかわり、衣文なども省略的な大まかな表現が行われるようになっていった。
この龍岩寺の薬師如来、阿弥陀如来、不動明王像などは、今度は逆に磨崖石仏を多数制作しているうちに生まれた石仏的表現が、木彫に影響し、生まれたものではないかと私は考えている。
三像共通の大まかな彫法や、面相の特異な表現などは、まさに石彫的である。」

(「仏像の旅」久野健著 1975年芸艸堂刊)


【三尊仏は、明かり射すように祀られていたのか?】

礼堂の格子戸の向こうに坐した三尊仏を拝した時、

「礼堂の屋根と巌窟の間から程よい光が差し込んで、三尊仏が岩窟から浮かび上がって映える」

私は、このような感じがして、異次元の幽玄世界に身を置くような感動を覚えました。
冒頭に、記したとおりです。

地方仏行脚で知られる丸山尚一氏も、同じ思いをいだかれたようで、意図的にこの光射す光景がつくられたと考え、こう語っています。

屋根と岩壁の間から光が射し込む礼堂
屋根と岩壁の間から光が射し込む礼堂
「背面の岩窟と、礼堂の片流れの屋根との間がかなりあいているので、仏像達の頭上から柔らかな陽光があたって、いい効果を創り出している。
仏像の作者は、十分にこの光の効果を意識していたように思える。」

「阿弥陀像の伏し目がちな眼が最も特徴的なのだが、下から見たときに、上からの光の陰影で目をはっきり浮き出させるために、単純な彫りで処理している。
これが、上からの光線に、実によく生きている。
こんな表現方法からも、野外で石仏を彫る工人と同じ作者を想像していいのかもしれない。」

(「生きている仏像たち」丸山尚一著 1970年読売新聞社刊)


ところが、昭和初年には、そのような光景ではなかったようなのです。
お堂のなかは、真っ暗であったというのです。

龍岩寺は、昭和2年(1927)に田中一松氏によって調査され、その仏像の価値が認められたのだそうです。
その時発表された、「大分県龍岩寺仏像」(中央美術151号・1928.6)と題する文章に、当時の状態が記されています。

ご紹介すると、このように語られています。
真っ暗な礼堂で明りに照らされた龍岩寺阿弥陀如来像(中央美術151号掲載)
真っ暗な礼堂で明りに照らされた
龍岩寺阿弥陀如来像(中央美術151号掲載)


「燭をともして禮拝した後、内陣に入ったが、薄暗くて殆ど何も見えない。
用意した懐中電燈でてらしてみると驚くべし、一丈ばかりの三尊佛が目の前に迫っているではないか。

『蝋燭を』という日名子氏の声に応じて、村の人々は各々蝋燭の裸か火を手にして佛像の左右を照らして呉れた。
岩壁を背にして、おぼろおぼろに浮き出す三尊の山の如き姿を目の前にして、私はしばし声もなく立ち尽くした。」

暗くて、蝋燭、懐中電灯を灯し、やっとのことでその姿を見ることが出来たというのです。
堂内は、現在とは全く様子が違っていたのでした。

昭和2年(1927)当時の奥院礼堂(中央美術151号掲載)
昭和2年(1927)当時の奥院礼堂(中央美術151号掲載)

後に礼堂が改修され、今のような光景になったようです。

この幽玄異次元世界の三尊像、造立された当時は、真っ暗な中で燈明の明かりにほの暗く照らし出されて、拝されたのでしょうか?
それとも、
屋根の上から程よい柔らかな光が射し込んで、上からの光に映える姿を拝したのでしょうか?

ちょっと、興味深い処です。


岩窟に坐す巨像の三尊仏に見惚れている間に、ずいぶん時間がたってしまいました。
急坂を上ってくるときにびっしょりかいた汗も、森のなかを通り抜ける涼しげなそよ風に、すっかり引いてしまいました。

「やはり、もう一度来てよかった!」

そんな気持ちに満たされながら、奥院礼堂を後に急坂を下りました。


【お気に入りの可愛らしい十二神将像】

最後に、ふもとの本堂に祀られている、かわいい十二神将像を拝させていただきました。
龍岩寺参道口にある本堂
龍岩寺参道口にある本堂

大変お気に入りの十二神将なのです。
十二神将は、本堂内の奥の祭壇に、他の色々な仏像と一緒に、ごちゃごちゃとぞんざいともいえそうな感じで祀られていました。
30~40㎝の小像です。
この十二神将、本当に無邪気ないたずらっ子が、ちょっと悪さをしているようにも見える姿です。

龍岩寺本堂に祀られる十二神将像

龍岩寺本堂に祀られる十二神将像
龍岩寺本堂に祀られる、可愛らしい十二神将像

なんとも可愛らしいのです。
わが家に連れて帰ってしまいたくなりそうです。
実は、この十二神将に再会できるのも、楽しみにしていました。

鎌倉時代の制作といわれ、県指定文化財となっています。

龍岩寺本堂に祀られる十二神将像
龍岩寺・十二神将像(鎌倉時代・県指定文化財)

この十二神将、かつては、奥院の薬師如来坐像の前に祀られていたと、久野健氏が回想文で語っています。
そんなことをしたら、すぐに盗難に遭ってしまいそうで、危なくて仕方ないところでしょうが、一昔前は、随分のどかであったようです。



念願であった「龍岩寺、再訪」を果たすことが出来ました。
45年前に味わった感動を、色褪せることなく、また同じように味わうことが出来ました。

「また来てみたいけれど、もうなかなかここまで来ることはないのかな?」

そんな気持ちになりながら、ちょっと名残惜しく、龍岩寺を後にしました。

トピックス~立山神像の数奇な物語を振り返る・重文指定名称変更によせて(その2)【2015.4.25】


〈その1〉は、立山神像・帝釈天像の流転と里帰りの物語でしたが、
〈その2〉では、本像の重要文化財指定名称が、「銅造男神立像」から「銅造帝釈天立像」に名称変更された話についてふれてみたいと思います。


【「男神立像」から「帝釈天立像」への指定名称の変更】

今年(2015)、3月、富山県文化振興課(立山博物館)は、「立山神像の名称変更のプレス発表」を行いました。
ご覧のようなニュースリリースです。

富山県文化振興課(立山博物館)の、「立山神像の名称変更」のニュースリリース

文化財指定名称の変更というのは、そう多くあることではないのだと思います。
指定名称が正式に変更されるということは、本像が帝釈天像であるというのが有力な説というのではなく、研究成果によって実証されたということなのだと思います。

ニュースリリースには、このように記されています。

「このたびの名称変更においては当館学芸員の地道な調査研究が認められ、文化庁文化審議会の答申にいたったものであります。」

この調査研究の成果については、(その1)の冒頭でご紹介した、
2014年10月、立山博物館開催の「立山と帝釈天」展図録に、詳しく掲載されています。
この図録は、所謂展覧会図録という内容ではなく、立山神像と立山帝釈天信仰についての研究論集ともいえる、密度、濃度の大変濃いものとなっています。
図録の目次をご覧いただければ、その充実度が想像いただけると思います。

「立山と帝釈天」展図録の目次

「立山と帝釈天」展図録の目次~掲載論考


なかでも、

「国指定重要文化財『銅造男神立像』の銘文を読む」
「『立山神像』をとらえなおすために~国指定重要文化財『銅造男神立像』への視点」

という2編の論考は、立山神像が帝釈天像であったことを、きっちりと実証するものです。


【「立山神像」とされた重美指定の名称とその後】

それでは、この銅像、これまで、どうして立山のご神体、「立山神像」であるとして、「銅造男神立像」という指定になっていたのでしょうか?

この像が立山のご神体の神像であると、公に認知されたのは、昭和15年(1940)、「重要美術品」に指定された時のことでした。
この像には、奉納された時の状況を示す銘文が残されています。

立山神像・帝釈天像の刻銘

立山神像・帝釈天像の刻銘

立山神像・帝釈天像の刻銘


像本体の前面と方形の框三面に鏨で銘文が刻まれています。
ただ、像の表面が相当荒れてしまっていることから、肉眼で判読するのが難しい個所も多くあります。

重要美術品指定の調査の際、胸部に刻まれている銘文が「立山神体」と判読されたのです。
この時の調査には、香取秀真氏、田沢金吾氏等があたったようです。
後でふれますが、今回の科学的調査によって「立山禅頂」と記されていることが明らかになった銘文です。

立山神像・帝釈天像の胸部の刻銘
立山神像・帝釈天像の刻銘
中央上部の刻銘が「立山神体」と判読された


重要美術品目録には、

「銅造立山神像 1躯
像正面に、立山神体 如法経六部寛喜二年三月十一日、台座に越中新川郡田寺奉納ノ刻銘アリ」
(立山神体の体の字は、で囲まれており、判読が難しかったものと思われます)

と記載されています。

この指定により、本像は、立山神像であると認められることになりました。

それまでは、帝釈天像だと思われていたらしく、昭和12年(1937)、本像が名古屋新聞社主催の「仏教博」に展示されたときには、「帝釈天像」という名称で展示されていましたが、この重要美術品指定で、「立山のご神体である立山神像」という位置づけがなされたといって良いのかもしれません。

そして、本像の富山県への里帰り後、昭和43年(1968)に重要文化財に指定された時も、この考え方が継承されました。
重要文化財指定時の、説明はこのように記されています。

「銅造男神立像 1躯
像正面に立山神体、寛喜二年三月十一日の刻銘がある」
とし、
・両眦(まなじり)をつり上げた面貌を見れば、神体像として造られたものであると考えられる、
・立山の神体として越中新川郡の一寺において鋳造されたものであることが判る

と、説明されています。

こうして、立山神像として制作されたことが確定的にみられるようになり、かつて立山山頂にご神体として祀られていた神像として、広く知られるようになったわけです。


立山神像だとされた決定的事由は、胸の銘文が「立山神体」と判読されたからでした。

重要文化財指定当時においても、刻銘を「立山禅頂」と判読する解し方、神像ではなく帝釈天像ではないかと考える見方もあったようです。

買戻しにあたった吉田実氏も、芸術新潮寄稿の「海外流出を免れた立山神像」(1967.11)に、立山神像の実物に対面した時の様子を、
「古香ゆたかな書体で彫った『寛喜2年』とか『立山禅頂』というような文字が明確によみとれる記文もある。」
と、記しています。

その後も、帝釈天と見るべき、あるいは「立山権現」と判読し神像と見るべき、という考え方などが出されたこともありました。

何故、判読が極めて困難なほどの状況であった銘文が「立山神体」と解読されたのかは良く判らないのですが、重文指定の際も重美指定時代の判読が継承され、そのように刻されたものだと長らくされていたのです。
最近、平成18年に発刊された「日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記編4」(中央公論美術出版刊)でも、刻銘は「立山神体」と記されている、とされています。


【科学的調査で刻銘は「立山禅頂」と判明、「帝釈天像」だったことが明らかに】

ところが、この刻銘が「立山神体」ではなく「立山禅頂」であることが明らかになったのです。
平成24年12月、立山博物館の依頼により、元興寺文化財研究所によるマイクロスコープ調査が行われました。

元興寺文化財研究所によるマイクロスコープ調査の様子
元興寺文化財研究所によるマイクロスコープ調査の様子

その結果、判読が難しかった文字の9割が確定され、銘文は「立山禅頂・・・・」と刻されていたことが明確となったのです。

立山神像・帝釈天像の判読銘文
立山神像・帝釈天像の判読銘文

「立山禅頂」と刻された銘文
「立山禅頂」と刻された銘文

即ち
「寛喜2年3月11日に、御経聖人頼禅が立山禅頂(修行)において、本像を山中に奉納した」
ということが記録されていたのでした。
「禅頂」とは、霊山の頂上のことを云い、「立山禅頂」とは、「立山の頂上に鎮まります」、あるいは「立山霊山の頂上への登拝行」と解することが出来るそうです。


このことが明らかになり、長らく「立山神像」であったとされた本像が、神像であるという解釈は、白紙に戻されたというか、「帝釈天像」であった可能性が強まったわけです。

「立山と帝釈天」展図録に収録された諸論文、就中、杉崎貴英氏の「『立山神像』をとらえなおすために」の論考によれば、本像は「帝釈天像」として造像されたと考えて間違いないということです。

その事由や考え方については、図録の諸論考をじっくり読んでいただければと思いますが、「帝釈天像」と考えられるポイントは、次のようなことではないかと思われます。

立山神像・帝釈天像..立山神像・帝釈天像
立山神像・帝釈天像..立山神像・帝釈天像
「帝釈天像」であったことが明らかになった像容

・像容についてみると、後頭部に光背をとりつけるための柄が突き出ており、これは一般的に神像ではなく、仏像の天部像と考えられ、また帝釈天像の諸作例を見ると、本像は、鎌倉時代の「瞋目で筆と紙(巻子)をとる帝釈天像」であったとみられる。

・立山信仰は、近世以降は阿弥陀信仰の影響が非常に強くなったが、それ以前は、古代から「帝釈天信仰」があったとみられ、中世には帝釈天が立山にいるという信仰が重要な要素を有していたと思われる。
立山が、仏教世界の中心にそびえる、帝釈天のいます須弥山に重ね合わされ、信仰されていた。

・立山は、神の山というより仏の山としての信仰が色濃く、また立山における本地垂迹説のなかに、帝釈天は組み込まれてはいない。
こうした状況からも、本像を立山の神の像とする理解と名付けは、否定的にならざるをえない。

・明治以降の諸記録からも推察されるが、重要美術品に認定され「立山神像」という新たな名付けがなされるまで、本像は一貫して帝釈天と呼ばれていたと考えてよいであろう。。

調査研究のポイントのまとめは、以上のようになろうかと思いますが、先ほどご紹介した、富山県のニュースリリースでは、このように説明されています。

「かつて本像の正面に刻まれた文字を「立山神躰」と判読したことにより神像とみなされ『銅造男神立像』の名称で指定されました。
しかし近年の科学的調査により「立山禅頂」と判読されることが明らかとなりました。

表情は厳しく、宝冠をかぶり、左手には巻子、右手には筆をもっていたと考えられ、ほとけの帝釈天の像にふさわしい姿をしています。
立山における帝釈天信仰については『法華験記』のなかの話からうかがい知ることができ、本像は古代の帝釈天の理解に基づく像と考えられます。

こうした理由から、本像の名称が『銅造帝釈天立像』と変更されます。」


こうしてみると、この銅像は、昭和の重要美術品指定の時に「立山神体」と銘文判読され、立山のご神体であったとされるまでは、中世以来ずっと、立山信仰における帝釈天として、信仰されていたことが明らかになったのです。


【「立山神像」とされてきた、副次的意義を振り返る】

ただ、感慨深いのは、この銅像が「立山神像」という呼称で、立山信仰を象徴する神体像として世に知られなかったならば、当時の富山県知事が自ら買い戻しに動き、注目を浴びるということも無かったのかも知れないということです。
「鎌倉時代の天部形銅像」として、海外に売られていってしまった可能性は大きかったように思えます。

杉崎貴英氏は、論考の結びに、昭和の「立山神像」という新たな名付けが、買い戻しのきっかけとなり、里帰り後に「富山県のシンボル」として果たした役割もまた大きいものがあるとして、このように述べられています。

「もし戦前の重美認定の際、『立山神像』という新たな名付けがなされることなく、『帝釈天像』とでも記載されていたら、はたして本像は、ゆかりの地に帰還する端緒を得られたであろうか。

吉田氏の回顧によれば、昭和32年ごろ長嶋氏から聞いていた本像のことが『脳裏に焼き付いていた』のだという。
吉田氏が『富山県のシンボル』とみなし、入手と普及に心を砕いた経過には、県域を見守る立山連峰を人格化したような名称の魅力も作用していたに違いない。」


明治時代、立山の地を離れ、長きにわたる流転を経て、ようやく立山に里帰りした「立山神像・帝釈天像」の数奇な物語を振り返ってみました。
よくぞ富山・立山に戻ることが出来たものと、その物語に感慨深いものを覚えてしまいます。

今般の新研究で「帝釈天像」であることが明らかになりました。

一方、里帰りまでのいきさつをたどると、
「昭和15年(1940)の重要美術品指定の時、『立山神像』という名称がつけられたことに、むしろ感謝しなければいけないのかもしれない?」
ちょっと、そんな妙な気持ちになってきました。


 富山県・立山博物館では、4月4日から5月17日まで、「立山の至宝展」が開催され、この「銅像帝釈天立像」も展示されるということです。

「立山の至宝展」ポスター
「立山の至宝展」ポスター

トピックス~立山神像の数奇な物語を振り返る・重文指定名称変更によせて(その1)【2015.4.20】


【指定名称が「男神立像」から「帝釈天像」に変更された立山神像】


「神様 実は 仏様でした 立山博物館の像、名称変更」

こんな見出しの新聞記事がネット上に掲載されたのが目にとまりました。
今月の初め、2015.4.3付の中日新聞の記事です。

「立山博物館の像」とは、現在、富山県の立山博物館に所蔵されている「立山神像」のことです。
立山のご神体として祀られていた、といわれた像です。
鎌倉時代の銅造鋳造像で、像高54.4cm、重要文化財に指定されています。

記事の本文を、そのままご紹介します。

「立山町の県立山博物館が所蔵する国指定重要文化財『銅像男神立像』が、『銅像帝釈天立像』に名称変更する。
立山神像・帝釈天像
帝釈天像に名称変更された立山神像

神像とみられていたが、最近の研究で仏像の帝釈天と判明したため。
帝釈天の銅像としてはかなり古く、同博物館は『鎌倉時代の立山信仰を知る貴重な手掛かりになる』としている。

博物館によると、これまで像の胸部に刻まれた字を『立山神躰(しんたい)』と読んでいたが、博物館の調査で『立山禅頂(ぜんちょう)』と判読でき、神像ではないことが判明した。
表情が厳しく、宝冠をかぶる姿が各地の帝釈天像に似ているため、帝釈天像と結論付けた。
博物館が、2年前の企画展で研究成果を発表したところ、文化庁から名称変更の提案があったという。

像は、鎌倉時代の1230(寛喜2)年に立山山麓で作られた高さ54.4cmの銅像。
愛知県の個人が所蔵していたものを、富山県が1967(昭和42)年に買い戻した。
博物館によると、平安時代後記の書物『本朝法華験記』に帝釈天が立山にいることが記されており、立山では古代から『帝釈天信仰』があったとみられている。
その後、時期は不明だが、えんま王が死者の罪を裁く『十王信仰』に代わったとされる。」

以上の通りです。
「あの立山神像の指定名称が、ついに変更されるのか!」
このように、思いました。

この像は、長らく立山の山頂に「御神体」として祀られてきた、「神像」であるとされてきました。
立山信仰の象徴とされてきた像なのです。

立山神像・帝釈天像
立山神像・帝釈天像
立山神像・帝釈天像

私も、かつて立山博物館を訪れたとき、
「これが、立山信仰の象徴、立山神像なのか」
と、ガラス越しに、小さな銅像をしげしげと眺めた記憶があります。

一昨年(2013)秋、富山県・立山博物館で「立山と帝釈天」という特別展が開催されました。
この企画展で、「立山神像」は、実は「帝釈天像」であるという研究成果が発表されたのです。

展覧会図録を取り寄せてみた処、科学的調査や多面的考証の結果、帝釈天像であったと考えるべきという調査結果、論考が掲載されていました。
それを読んでみると、これは、神像ではなくて帝釈天像に間違いないように思いました。
それから1年余ですが、なんと早々にこうした研究成果が反映されて、文化財指定の名称変更が行われるというのです。

文化庁・文化審議会の答申で、名称変更が行われるというわけですから、「有力な説」というレベルではなく、「帝釈天像であることが、研究成果によって実証された。」といって良いものだと思います。


【数奇な運命を辿った立山神像】

ところで、この立山神像・帝釈天像は、新聞記事にもあるように、昭和42年(1967)に、富山県が買い戻したという像です。
明治の廃仏毀釈以来、立山の地を離れてしまっており、海外に流出する運命であった直前、富山県に買い戻されました。
約100年を経て、数奇な運命をたどって、里帰りを果たすことが出来たのです。

ホットな話題で、立山神像・帝釈天像が注目されているタイミングですので、所謂「立山神像」が、その地を離れてから、里帰りを果たすまでの、数奇な物語を振り返ってみたいと思います。
また、「帝釈天像」に名称変更されることに至った調査研究の成果についても、ご紹介してみたいと思います。


これからご紹介する話は、ほとんどが立山博物館で開催の「立山と帝釈天」展図録の論考、調査結果に、大変詳しく掲載されているものです。
それらのエッセンスを、適宜ピックアップしてご紹介するだけというものです。
ご関心のおありの方は、是非、展覧会図録をご覧いただきたいと思います。

「立山と帝釈天」展図録
「立山と帝釈天展」図録


【廃仏毀釈から始まった立山神像の流転の物語】

まずは、立山神像の数奇な流転の物語を辿ってみたいとおもいます。

この像は、今は帝釈天像に名称変更されたのですが、近年までは「立山神像」として語られていますので、ここでも「立山神像」という呼称を使わせていただきます。

立山神像は、明治初年までは、立山信仰を象徴するご神体とされていました。
立山連峰は、3000m級の山々が連なる、信仰の霊峰です。

立山連峰

立山連峰(雄山と別山)
立山連峰~雄山と別山"

その立山三山の一つ「雄山」山頂にある雄山神社・峰本社に、立山神像が祀られていたといいます。
峰本社は、今も雄山山頂にあり、写真で見るだけでも恐ろしげな岩頭に建てられています。

雄山山頂・峰本社
雄山山頂~峰本社

雄山・峰本社
雄山神社・峰本社

資料を見ると、雄山神社・峰本社に祀られていたと書かれているものが多いのですが、そうではなくて、立山、別山の祠に祀られていたとの見解も有力なようです。
別山というのも、立山三山の一つです。

別山の祠
別山山頂の祠

像の表面を見ると相当荒れています。
いずれの祠に祀られていたにせよ、長らく3000メートルの山頂社殿に祀られたため、地獄谷から噴出する硫黄ガスのために、硫化して錆びているのだそうです。

明治維新となり、明治元年(慶応4年・1868)神仏分離令が発布され、その後廃仏毀釈の嵐が吹き荒れます。
そうしたなか、当時、立山神像は仏像だと考えられたのでしょう、山頂社殿から下されてしまいます。

その後、どうしたわけか明治の半ばごろ、立山神像は、売り払われてしまい、立山の地を離れてしまうことになります。
売られたいきさつについて、このような話が残されているようです。

「(立山神像は)山麓の岩峅寺(イワクラジ)の某社家に他の神像と共に納めてあった。
それを同家の次男の古物商なにがしが富山市内の店舗にならべた。
そのうち、神像は僧侶風の人物に買われて持ち去られたという。」
(吉田実「海外流出を免れた立山神像」芸術新潮215号1967.11)

「明治27年に、芦峅寺(アシクラジ)開山堂本堂増築の費用捻出に苦面していた時、偶々、愛知県春日井郡の加藤師が立山登山に来られ、真長坊佐伯薫氏を仲介して、内々を以て売り渡されたのである。」
(佐伯幸長「立山信仰の源流と変遷」1973)

何が本当なのかはっきりしないようですが、立山神像は、明治の中頃に売り払われ、その後の行方については、よくわからないという状況になってしまったのでした。


時は過ぎ、昭和17年(1942)頃のこととなります。

立山神像~胸部に刻まれている銘文が「立山神体」と判読された
立山神像
胸部に刻まれている銘文が
「立山神体」と判読された
富山県文化財専門委員を長く務めた長嶋勝正氏は、国指定の重要美術品目録に
「銅造、立山神像一躯」
とあるのを見出しました。
「立山神像」というキーワードが、強い関心を惹き起こしたのだと思います。

本像が、重要美術品に指定されたきっかけは、昭和12年(1937)、本像が名古屋新聞社主催の「仏教博」に展示され、像に「立山神躰」「寛喜2年(1230)」の刻銘があると判読されたことによるものでした。
なんと行方不明になった立山神像は、この昭和15年(1940)に、「重要美術品」に指定された像らしいのです。

所蔵者は、愛知県の浄土真宗・松林寺の住職、加藤一氏となっていました。

長嶋氏は、この像がもともと立山に在ったものかを確かめるべく、愛知県春日井郡の加藤氏を訪ねます。
加藤氏の話によると、
「祖父が富山の駅前の古道具屋から買ったものだと伝え聞いている」
とのことでした。
この話で、明治年間に売られて立山を離れた、立山神像そのものに間違いないと判明したのでした。
この立山神像発見の話は、長嶋勝正氏著「越中の彫刻」(1975年巧玄社刊)などで、語られています。

長嶋氏がこの訪問記を地方紙に掲載したことなどから、県内でも立山神像の行方が判明したと、反響を呼びます。
昭和20年代には、地元立山町の神社総代等が、たびたび名古屋に出かけて所蔵者と折衝し、300万円で本像の譲渡をお願いしたということですが、叶わなかったということのようです。


【海外流出寸前で富山県に買い戻された立山神像】

立山神像は発見されましたが、愛知県で個人所蔵となったまま、また月日は20余年が経過します。

昭和42年(1967)7月のことでした。
当時富山県知事であった吉田実氏の処に、知り合いの古美術商から一本の電話がありました。

「むかし立山の社寺から流出したと覚しい旧重要美術品の銅像が、外国人に売られようとしている。」

という話でした。

吉田知事は、古美術に造詣が深かったことから、このような連絡があったのでした。

吉田知事は、即座に自身自らこの対応に動き、立山神像の海外流出を食い止め、富山県にこの神像を買い戻すことに成功します。
立山神像は、立山山頂から下されてから100年、立山の地を離れ行方不明になってから70~80年を経て、ようやく、富山・立山の地に戻ることになったのです。


吉田実氏は、芸術新潮誌上に、
「海外流出を免れた立山神像」(芸術新潮215号1967.11)
という寄稿文を掲載し、その時のドラマチックな有様を、活き活きと語っています。

「海外流出を免れた立山神像」(芸術新潮215号1967.11)
芸術新潮215号に掲載された「海外流出を免れた立山神像」

この時の劇的な買い戻しの物語を、少しばかりご紹介したいと思います。
寄稿文は、このような書き出しで始まります。

「今夏(1967年)、7月10日のことである。
高岡市と東京とで古美術商を営む南健吉氏から、私に次のような電話があった。
東京の『ギャラリー・谷庄』で聞いたが、むかし立山の社寺から流出したと覚しい旧重美の立山の帝釈天というものが、名古屋の美術商の手で、まさに外人の手に渡ろうとしている。
実物は『ギャラリー・谷庄』に預けられてあるが、その期限は今月15日までです、という。

私があわてて聞き返してみると、鎌倉初期の年紀名があること、鋳銅の立像であることなどから、それは私が年来何とか探し出して富山へ取り戻したいと念願していたものらしいことが判った。
私は、たちまち緊張した。」

立山神像は、旧蔵の加藤氏から、同県在住の日本画家のもとに移っており、その画家が没したのち再び流転の運命をたどり始め、海外との商談がまとまりかけているということらしかったのでした。

吉田実氏(当時富山県知事)
吉田実氏(当時富山県知事)
即刻、吉田知事は、東京・赤坂の『ギャラリー・谷庄』を訪れ、立山神像と対面します。

「私は、一瞬名状しがたい感動に捉えられた。
それは、かつて写真で見、また話に聞いていた私のイメージの神像よりは、はるかに優れたものであった。
・・・・・・・・・・
私は即座に、万難を排してもこれは富山へ取り戻すべきものだと判断した。」

そして、富山県で購入し、県で保管するべきことを決し、海外流出をすんでの処で食い止めたのでした。
7月23日、立山山麓の関係者達が多数で迎えるなか、吉田知事は買い戻した立山神像を携えて、富山駅に降り立ったということです。
買い戻した値段は、500万円だったということです。

寄稿文は、このように語られ締めくくられています。

「私が喜びを禁じ得ないのは、県民の多くが、この立山の神体が郷土に帰ったことを、予想以上に喜んでくれていることである。」

この、海外流出食い止めには、美術評論家の白崎秀雄氏のアシストがあったようです。
白崎秀雄氏は、北大路魯山人研究や、益田鈍翁、原三渓など近代数寄者の評伝で著名な人物です。
白崎氏は、文芸春秋に掲載した「古美術流出して国亡ぶ」(1971年1月号)と題する小文で、その時の思い出をこのように語っています。

白崎秀雄氏
白崎秀雄氏
「名古屋の懇意な古美術商が、
『実は客からこういうものの処分を頼まれたが、日本人では指値の500万円で買い手がなく、アメリカ人が買いたいというので売ろうかと思っている』
という。
・・・・・・・・・・・
(白崎氏は、像容・銘文から、それが立山神像であると気がつき)
わたしは、当然それが富山県へ戻されるべきものと考えて、名古屋の美術商にしばらく保留を頼み、北陸出身の在京の古美術商の下に実物を預けてもらった。
そのうえで富山県へ伝手を求めた処、たまたま当時の知事の吉田実氏が直ちに上京されて実物を見るや、これこそ自分らが多年行方を探していた富山の宝であるといわれ、その場で買い取りを約されたのであった。」

文化財への造詣の深い評論家・白崎氏の眼にとまり、氏が海外流出防止に尽力するという幸運もあって、立山神像は郷里の富山へ戻ることが出来たのでした。

立山神像の富山への無事帰還のニュースは、当時のマスコミ各紙にも採り上げられ、大きな注目を浴びました。
そして、翌年(1968年)、立山神像は国の重要文化財に指定されることになりました。
重要文化財の指定名称は「銅造男神立像 1躯」というものでした。


以来、立山神像は、中世の立山信仰を物語る貴重な遺品として、鎌倉前期鋳銅像の古例の一つとして、世に広く知られるようになりました。
金銅仏や神仏習合、修験といったテーマの本には、立山信仰を象徴する銅造神像として、採り上げられるようになり、こうした関連の展覧会にも、折々出展されるようになりました。

平成3年(1991)11月に、富山県立山博物館が開館すると、立山神像は同館の所蔵となり、常設展示等で展示され、広く一般の観覧に供されるようになり、現在に至っています。


数奇な立山神像流転物語を、ご紹介してみました。

〈その2〉では、立山神像の重文指定名称が、「帝釈天像」に変更された訳などについて、見てみたいと思います。

新刊旧刊案内~40年余を経て再刊された「願成就院」の解説書 (久野健著旧版と水野敬三郎・山本勉著新版)  【2015.4.11】


かつて、「願成就院」と題された本が、中央公論美術出版から美術文化シリーズの一冊として発刊されていたのを覚えておられるでしょうか?

「願成就院」久野健著 (1972) 中央公論美術出版刊 【36P】 250円

久野健著・旧版「願成就院」
久野健著・旧版「願成就院」

今から43年前、昭和47年(1972)に、発刊されています。
著者は久野健氏です。

A5版、36ページという小冊子ですが、大変内容が充実しており、所謂「ガイドブック的啓蒙書」とは、はっきり一線を画し、研究成果のエッセンスを凝縮した、中身の濃い内容になっている本です。


〈充実の小冊子だった「美術文化シリーズ」(中公美術出版刊)〉

この美術文化シリーズ、昭和40年代を中心に、50冊以上刊行されたのではないかと思います。
当時、
「学問的に裏打ちされた社寺・遺跡などの平明な案内書」
というのが、このシリーズの特色とされていました。

このシリーズ本には、その昔、大変お世話になりました。
当時、多くは1冊200円でしたから、学生にも十分買える値段。
古寺探訪に出かけるときには、この薄い一冊をポケットにねじ込んでいけば、目指す古寺の歴史、仏像などについて、しっかりした学問レベルでのエッセンスがコンパクトに解説されているのです。
ガイドブック的な本とは全く違う、学問的雰囲気が漂う、小冊子であったのです。

代表的な古社寺の執筆者をあげると、ご覧のとおりで、それぞれの古寺、仏像についての、当時の第一線の研究者の名前が登場します。

「薬師寺」(町田甲一)、「法華寺」(町田甲一)、「唐招提寺」(安藤更生)、
「神護寺」(久野健)、「六波羅蜜寺」(毛利久)、「法界寺」(中野玄三)、
「日向薬師」(渋江二郎)、「勝常寺」(佐藤昭夫)「醍醐寺」(清水善三)、

といったようなところです。

美術文化シリーズ(中央公論美術出版刊).美術文化シリーズ(中央公論美術出版刊)
美術文化シリーズ(中央公論美術出版刊)

そして、「願成就院」は、久野健氏の執筆となっているのです。
ご存じのとおり、久野健氏は、願成就院の阿弥陀如来坐像、毘沙門天立像、不動明王三尊像が、文治2年(1186)の運慶の真作に間違いないことを、世に明らかにした研究者です。

この小冊子も、願成就院の諸仏像が運慶の制作であることを発見した経緯や、その学問的意義が凝縮して綴られています。
この本を手にしたとき、ちょっと興奮気味に、何度も繰り返して読んだ記憶がよみがえってきます。
私には、大変思い出深い、冊子本なのです。


〈嬉しい新版「願成就院」(水野・山本著)の再刊〉

それから40年余を経て、同じ出版社・中央公論美術出版社から、同じ版型A5版で、昔の体裁と同様の新版が、発刊されたのです。
平成26年(2014)8月の発刊です。
新版の執筆は、水野敬三郎、山本勉の両氏で、これまた当代運慶研究の第一線の専門家の執筆となっています。

この本が発刊されていたことは、この4月になるまで、私は、全く知りませんでした。
ネットで、〈山本勉氏のツィッター〉をみていたら、この本が刊行されたということが書かれていたのです。

早速、中央公論美術出版社にTELして、問い合わせてみましたら、
「この『願成就院』の本は、当社(中央公論美術出版)が美術文化シリーズに倣って制作したのですが、出版は願成就院さんご自身になっているのですよ。
したがって、書店での販売はされていませんし、当社にも在庫は置いていないのです。」
というご説明でした。
どおりで、出版されていたのに気がつかなかった訳です。

すぐに、伊豆の国市の願成就院さんにTELしてみました。
御住職がTELに出ていただき、このようなお話をされました。

「これまでは、久野先生のご本が出されていたのですけれども、先年(2013年)、国宝に指定されたものですから、国宝指定を機に、新しいものを出そうということにして、水野、山本両先生にご執筆を願って、新版を出したのですよ。
ただし、今回は、願成就院の刊行ということで、お寺にみえられた方に解説書として販売させていただいているのです。」

伊豆の国市・願成就院
伊豆の国市・願成就院

そういえば、昔、願成就院を訪ねると、拝観受付に久野氏執筆の「願成就院」が置かれていたように思います。
2013年の国宝指定を機に、最新研究成果を盛り込んだ、新版に一新されたということのようです。

願成就院さんに、郵送購入のご無理をお願いして、やっと手に入れたのが、この新版の「願成就院」です。

「願成就院」水野敬三郎・山本勉著 (2014) 願成就院刊
(中央公論美術出版制作) 【31P】 1000円

水野敬三郎・山本勉著新版「願成就院」
水野敬三郎・山本勉著新版「願成就院」

お寺の発刊で、このような学問レベルの高い解説冊子が出されるのは、めずらしいことかと思います。
普通は、お寺の縁起とか、御利益を中心としたガイドブック的なものが一般的です。
願成就院さんの御見識に、敬意を表したいと思います。


さて、この二つの解説書の内容を、見比べてみましょう。
体裁、目次の構成は、ほとんど同じなのですが、書かれている中身の内容は、大幅に変わっています。

久野健著旧版・目次
久野健著旧版・目次

水野敬三郎、山本勉著新版・目次
水野敬三郎、山本勉著新版・目次

一言でいえば、
久野健著旧版は、
「浄楽寺像、願成就院像が運慶の制作であることを発見した経緯と、東国の運慶作品の造形特色、その事由」
が、最重点に執筆されています。

水野・山本新版では、
「願成就院諸像の造形上の特色、興福寺西金堂仏頭が運慶作と判明したことを踏まえての、運慶作品としての彫刻史上の意義」
といった面を重点に執筆されています。

それぞれも本の、エッセンスや興味を惹く点などについて、もう少しご紹介してみたいと思います。


〈願成就院諸像が、運慶作品と判明した経緯〉

まずは、久野健著旧版についてです。
繰り返しになりますが、久野健氏は、浄楽寺諸像と願成就院諸像が運慶作であることを明らかにした研究者です。

願成就院・阿弥陀如来坐像
願成就院・阿弥陀如来坐像

願成就院諸像は、それまで、運慶作の銘札が伝わるものの、その像は失われてしまったとされていました。
現在の阿弥陀如来像などは「都らしからぬ、男性的で荒々しくダイナミックな表現」で、到底運慶の作品とは考えられないという事由によるものです。

それが、昭和34年(1959)の浄楽寺諸像の調査による運慶作銘札・銘記の発見、昭和40年(1965)の願成就院の矜羯羅・制タ迦像のX線透過撮影による同型銘札納入の判明により、浄楽寺諸像、願成就院諸像がともに運慶の作品に間違いないということが明らかになったのです。

久野健著旧版には、そのあたりの発見経緯のエッセンスが、しっかり綴られているのです。

本書の内容と、運慶作の発見経緯については、以前に、
「埃まみれの書棚から~古寺、古佛の本~〈各地の地方佛ガイドあれこれ〉」
において、紹介したことがあります。
その文章を、もう一度転載させていただきたいと思います。

次のとおりです。

 「願成就院」久野健著(S47)中央公論美術出版社刊・美術文化シリーズ 【36P】

 願成就院諸像、浄楽寺諸像が、運慶の作であることを発見実証した、久野健の著作。

美術文化シリーズの一冊で、ガイド的小冊子だ が、運慶作実証のいきさつなどが語られ、濃密な内容。
 「願成就院の創建と歴史、願成就院の諸像に対する従来の学説~願成就院の諸像 と浄楽寺諸像など~、願成就院諸像の日本彫刻史上における意義・・・・・・・」
といった項立てで、案内書の域を越えている。

願成就院諸像が、運慶作であることが実証されたいきさつには、次のようなドラマチックな物語がある。

願成就院 には、古来2枚の塔婆銘札が残されている。
銘札には、文治2年(1186)に「檀越平朝臣(北条)時政」発願の仏像を「巧師勾当運慶」作り始めたという墨書が残されている。

願成就院に遺された銘札(毘沙門天・不動明王像内に納入されていたと伝えられる)...銘札に記された「巧師勾当運慶」の墨書
願成就院に遺された銘札
(毘沙門天・不動明王像内に納入されていたと伝えられ、「巧師勾当運慶」の墨書がある)


この2枚の銘札は、不動明王像、毘沙門天像の胎内から出たもので、これまでは、銘札は真正で本物だが、当初像はその後失われてしまったと考えられていた。
即ち、現在の仏像は、阿弥陀如来像も含め「鎌倉期の作だが、運慶の作品ではない」とされてきたのだ。
運慶作ではないとされた理由は、運慶作の円城寺大日如来像や興福寺北円堂弥勒像などの作風に比べると、男性的で「都らしからぬ様子」を感じさせるからであった。

願成就院・阿弥陀如来坐像(ボリューム感や衣文の造形に荒々しさが伺える)
男性的で「都らしからぬ様子」を感じさせる願成就院・阿弥陀如来坐像

奈良円成寺・大日如来坐像.奈良興福寺北円堂・弥勒如来坐像
奈良の運慶作品~(左)円成寺・大日如来坐像、(右)興福寺北円堂・弥勒如来坐像


昭和34年4月、久野健は、三浦半島にある芦名・浄楽寺の諸像を調査する。
調査中に、毘沙門天像の頭部が首から抜け、胎内に月輪形銘札が納入されているのを発見した。
その銘札には、なんと、文治5年(1189)に、「平(和田)義盛」を願主に「大仏師興福寺内相応院勾当運慶」が造った、と記されていた。

浄楽寺・毘沙門天立像..浄楽寺・毘沙門天像体内に納入されていた銘札
浄楽寺・毘沙門天像と体内に納入されていた銘札

そうは云っても、これだけで、この毘沙門天像が、銘札どおりの運慶作の像だという確証にはならない。
しかしながら、この墨書は明らかに鎌倉時代の墨跡で、しかも阿弥陀如来像の胎内背面に一面に記されている梵字と、同筆である事が確認された。


浄楽寺・阿弥陀如来坐像.浄楽寺・阿弥陀如来坐像の体内背面に墨書された梵字
浄楽寺・阿弥陀如来坐像と体内背面に墨書された梵字


もともと、この阿弥陀如来の胎内にも、後筆が明らかな「文治5年勾当運慶作」の銘札が収められている事が、知られていたが、胎内墨書と毘沙門銘札が同筆という事などから、阿弥陀如来像も毘沙門天も、間違いなく「運慶作」とみられることとなった。
不動明王像は、そのとき首が抜けなかったが、X線撮影で、月輪形銘札が納められている事がわかり、その後の修理の際、毘沙門天像と同文の銘札が取り出され確認された。


浄楽寺・阿弥陀如来坐像
浄楽寺・阿弥陀如来坐像

浄楽寺・毘沙門天立像....浄楽寺・
浄楽寺・(左)毘沙門天立像、(右)不動明王立像


この調査により、浄楽寺阿弥陀如来像、毘沙門天像、不動明王像が運慶作に間違いないと確認されたわけであるが、実は、願成就院の諸像、即ち阿弥陀如来像、毘沙門天像、不動三尊像が、その顔立ち、モデリング、衣文の様式などが、浄楽寺諸像のそれと、酷似しているのであった。


願成就院・阿弥陀如来坐像
願成就院・阿弥陀如来坐像

願成就院・毘沙門天立像.願成就院・不動三尊像
願成就院・(左)毘沙門天立像、(右)不動明三尊像


そうなってくると、願成就院諸像も運慶作の可能性は極めて高いということになってくる。
その後の、願成就院像の調査で、不動三尊像をX線調査した処、古来伝わる不動明王像の銘札・釘跡と、X線調査による胎内の釘跡とが一致する事や、衿羯羅・制タ迦二童子の胎内にも、塔婆形銘札がそれぞれ納入されている事が確認されるなどのことが明らかになり、今では、願成就院諸像は運慶の代表作のひとつとして、認識されるに至ったのである。

願成就院・制タ迦童子X線写真(長い板状銘札が納入されているのがわかる).願成就院・衿羯羅童子胸部のX線写真(五輪形の銘札が見える)
(左)願成就院・制タ迦童子X線写真(長い板状銘札が納入されているのがわかる)
(右)願成就院・衿羯羅童子胸部のX線写真(五輪形の銘札が見える)


以上が、かって〈各地の地方佛ガイドあれこれ〉に掲載させていただいたものです。

願成就院諸像が、文治2年(1186)、運慶作であることが明らかにされた物語が、お判りいただけたことと思います。

久野健著旧版(1972刊)では、以上のような発見経緯を記した後に、
「以後書かれた、運慶関係の論文もまた多いが、願成就院の諸尊像を文治2年運慶の制作であることを否定した文章は少ないようである。」
と結んでいます。

未だ、運慶作であることが最終確定していない段階での著作であることが判ります。


その後、昭和52年(1977)に、不動明王像・二童子像の解体修理が行われ、X線撮影の影像のとおりの銘札が、二童子の胎内から取り出されました。
銘札には、想定通り既存銘札と同筆の「運慶作」の銘記があり、願成就院諸像が運慶作であることが、確定したのでした。

制タ迦童子解体修理時の銘札納入状況.衿羯羅・制タ迦二童子から取り出された銘札裏面(運慶の墨書がある)
制タ迦童子解体修理時の銘札納入状況と取り出された銘札裏面(運慶の墨書がある)


〈近年の運慶作品新発見と水野・山本著新版の内容〉

それから40年余、今般、水野・山本著新版が発刊されましたが、近年、思いのほか、いくつかの運慶作品の判明、発見がありました。

・光得寺・大日如来坐像(作風、X線による納入品形態から運慶作と推定)
・真如苑・大日如来坐像(作風、X線による納入品形態から運慶作と推定)
・興福寺・西金堂本尊釈迦如来像頭部(史料発見により文治2年・1186運慶作が判明)
・称名寺光明院・大威徳明王坐像(納入文書発見により健保4年・1216運慶作が判明)

以上のとおりです。

光得寺・大日如来坐像.真如苑蔵・大日如来坐像
(左)光得寺・大日如来坐像、(右)真如苑蔵・大日如来坐像

興福寺西金堂・本尊釈迦如来像頭部.称名寺光明院・大威徳明王坐像
(左)興福寺西金堂・本尊釈迦如来像頭部、(右)称名寺光明院・大威徳明王坐像

今度の新版では、阿弥陀如来坐像の印相の系譜、諸像の像容、品質構造についての解説とともに、五輪塔形銘札の記述についての見方、新発見諸像の存在も踏まえての願成就院諸像の造形の特色、彫刻史上の位置づけ、意義などについて記されています。
共著ですが、運慶作品に関係する処は、水野敬三郎氏が執筆されています。


その中で、「ちょっと興味深いな」と感じたところを、つまみ食い的に、いくつかご紹介したいと思います。

①阿弥陀如来坐像の顔面は、損傷しており、目から鼻にかけて近世の補修がなされていること、X線撮影の結果、元々は「玉眼」であったと判明したというという解説がされています。

願成就院・阿弥陀如来坐像頭部X線写真(補修の跡がみられる).願成就院・阿弥陀如来像顔部(近世の補修による顔貌)
願成就院・阿弥陀如来坐像頭部X線写真(補修の跡がみられる)と、
近世の補修による鎌倉彫刻らしからぬ勢いのない顔貌


阿弥陀像の顔貌、表情は、江戸時代の補修により、どう見ても鎌倉彫刻らしからぬ勢いのない顔貌になってしまっており、この像の印象を大きく損ねています。
全く運慶らしくないのです。

また、この阿弥陀如来像は、運慶が制作した「如来形像」のなかで、唯一の「玉眼像」であったことになります。
運慶は天部像、童子像では、玉眼を、見事に巧みに用いていますが、如来形像では、願成就院像を除いては、すべて彫眼で表現しています。

もし当初の顔貌が残されていたら、どのような造形であったのしょうか?
「運慶の玉眼如来像」は、どのような表情をしていたのだろうでしょうか?
運慶が、その後、如来像に玉眼を用いていないのは、今一歩似つかわしくない感じだったからなのでしょうか?

誠に興味津々なのですが、残念というしかありません。


「巧師勾当運慶」と墨書された願成就院の銘札
「巧師勾当運慶」
と墨書された銘札
②納入銘札の造像記について、「巧師勾当運慶」と記されている点について、このような考え方が示されています。
水野氏は、このように述べられています。

「仏師の名前が記されるかどうかは、施主と仏師との社会的地位関係によって決まったようである。
すなわち、これらの銘記は通常施主の側で記すものであるが、仏師が施主と同等の地位にあると認められた場合に、その名が記されたらしい。

この像では、地方豪族北条時政と同等の地位にあるから名を記されたのであり、そのように考えると、他に例がない『巧師』という呼称は運慶の自称ではなく、施主の側から敬意を以て『仏師』ではなく『巧師』と記したと解すべきであろう。」

大変興味深く感じた次第です。


③運慶の東国下向、非下向の問題、「都らしからぬ荒々しい造形表現」の事由という、最も論議がある問題については、このような考え方が記されています。

「運慶が願成就院造仏に際して、東国に下向したのか、それとも奈良での造仏であったのかは、従来から議論がある。
この造仏の前年11月に北条時政は上洛、翌文治2年4月13日に鎌倉に帰着した。
願成就院・阿弥陀如来坐像(荒々しいダイナミックな造形の膝部の衣文)
願成就院・阿弥陀如来坐像
(荒々しいダイナミックな造形の膝部の衣文)
願成就院の造仏始めは5月3日。
この時間的経過から、運慶の伊豆での造仏始めと東国下向へ導いた説は魅力がある。
しかし、願成就院像を東国で造立したかどうかについての決め手はまだない。

いずれにせよ、当時の東国武士たちの戦いぶりは西国の人たちにとって驚異的であったことは、たとえば『平家物語』のなかで、富士川の戦いを前に斉藤別当実盛が平維盛に語った言葉によく示されている。
・・・・・・・・・・
東国武者は『親も討たれよ、子も討たれよ、死ぬれば乗越え乗越え戦う候』。
そんな東国武士のイメージが、願成就院像の荒々しいともいえるほどのたくましさにつながったのではなかろうか。」


〈運慶、東国下向、非下向問題の最近の諸説〉

願成就院像、浄楽寺像を、運慶は東国に下向して現地で製作したのか、奈良の地において東国からの注文に応じて制作したのかは、従来ずっと議論が続いている問題です。

大胆に端折って要約すると、

「北条時政のリクエストなら、東国まで赴いたと考えるのが妥当であるし、あの荒々しい都らしからぬ表現は、運慶自ら東国へ赴かないと、到底難しいであろう。」

という、下向説の考え方と、

「当時の南都興福寺の造仏状況を見ると、康慶の懐刀の運慶が、到底奈良を離れられるとは思われない。
南都にあっても、東国武士の趣向にあった、荒々しい表現での制作は可能だろう。」

という、非下向説の考え方だと思います。

古くは、ご紹介した久野健氏は「非下向説」でしたが、鎌倉彫刻史研究で著名な毛利久氏は「下向説」でした。
近年でも、諸説あるようです。

たとえば、
山本勉氏は、
「文治2年以後、しばらく運慶の中央での活動が知られず、逆にその時期の東国関係の活躍がたどれることからすれば、運慶はこの頃ずっと東国にいて、弟子とともに頼朝政権の造仏需要に応えていた可能性を考えてもよいかもしれません。」
(「運慶に出会う」2008小学館刊)

瀬谷貴之氏は、
「(真如苑・大日如来像の来歴推定を踏まえ)建久4年(1193)頃、関東に運慶が拠点を持っていた可能性を高めることになった。」
(「別冊太陽・運慶」2010平凡社刊)

浅湫毅氏は、
「願成就院像と浄楽寺像の制作場所の違いは、両像に納入された銘札の運慶の肩書から裏付けられるのではないだろうか。
すなわち前者には『巧師勾当』とのみあり、後者には『興福寺内相応院勾当』とある。
前者は、ホームである興福寺内で造像したものだから寺名を記さず、後者はアウェーである関東の地で造像したので、あえて興福寺の名を記したのではないか。」
(「別冊太陽・運慶」2010平凡社刊)


「巧師勾当」と記された願成就院銘札....「興福寺内相応院勾当」と記された浄楽寺銘札
(左)「巧師勾当」と記された願成就院銘札、(右)「興福寺内相応院勾当」と記された浄楽寺銘札

根立研介氏は、
「 (運慶が、文治2年正月に興福寺西金堂・釈迦像造仏に携わっていたことが判明したことから)運慶が、直前の時期に興福寺再興造仏に参加していることが明らかになり、(願成就院、浄楽寺の造像銘記の運慶肩書に注目して)また興福寺の寺職を名乗っていることを考えると、当時の運慶の造像の場の中心は、やはり興福寺であったことが当然想定される。
そうすると、東国二武将の造仏も、じつは興福寺ないしその近辺の畿内の慶派工房であった可能性は十分考えられる。」
(「運慶」2009年ミネルヴァ書房刊)

このようは、諸説まちまちといった感じです。
運慶は、これらの都らしからぬ諸像を、東国で作ったのでしょうか?奈良の地で作ったのでしょうか?
興味津々、ミステリーのように興味深いところです。


ちょっと話が長くなりましたが、
「願成就院」と題する、中身の濃い、充実した2冊の解説・小冊子のご紹介をさせていただきました。

「久野健著・旧版」、「水野敬三郎・山本勉著新版」共に、是非手元に置いておきたい本です。
コンパクトな冊子ですが、この2冊を通して読めば、浄楽寺、願成就院諸像が運慶作品であることの発見の話から、近年の運慶作品判明、発見を踏まえでの、願成就院諸像の造形の特色、彫刻史上の位置づけなどを、判りやすく凝縮して知ることが出来ます。

是非、2冊セットを携えて、願成就院を訪ねて見られてはいかがでしょうか。

余計な話ですが、久野健著・旧版は、ネットのアマゾンの中古本で、なんと48円からという超安値で販売されていました。

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