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観仏日々帖

古仏探訪~2015年・今年の観仏を振り返って〈その1〉  【2015.11.28】


平成27年(2015年)も、そろそろひと月余りとなってきました。

今年も、飽きもせずというのか、他にすることもなく、観仏探訪に精を出してしまいました。
もう60代半ば、この年になると、未体験ゾーンにチャレンジするのに臆病になってくるようで、ついついホームグラウンドの観仏探訪の世界に、どっぷり漬かってしまいます。

昨年に引き続き、今年の観仏先を総まくりで振り返ってみたいと思います。

他人が訪れた一年間の観仏シリーズをダラダラと掲載されても、面白くもなんともないと思いますが、一年の締めくくりということで、我慢してお付き合いいただければ有り難き限りです。


[1月]


【大磯・六所神社の神像に、初詣で】

観仏リスト1

今年は、正月三が日に、早くも観仏に出動です。

1月3日、初詣がてらに神奈川大磯町の六所神社の御神像特別公開に、妻と出かけてみました。
六所神社の男女神像は、近年その存在が明らかになった神像で、年に一回、1月3日限りで、特別公開されます。

初詣の参詣客でにぎわう六所神社本殿
初詣の参詣客でにぎわう六所神社本殿

初詣の人々でにぎわう社殿の脇、小さな宝物殿に目立たぬ感じで、祀られていました。
六所神社・御神像特別公開のポスター

年に一日限りの特別公開だというのに、ほとんど注目されずという感じです。
なんだか可哀想になってしまいました。
両像共、70センチ前後の像高で、平安後期らしいバランスの良い造形です。

神像のイメージに似合わぬ男女神像です。
男神像は「憂愁に満ちた青年」というか、「眉根を寄せて苦悩煩悶する」といっても良いような表情をしているのです。
女神像も「憂鬱そうに苦悩する」表情をしています。
こんな神像表現の領域があるのでしょうか?
造立時、どのような制作背景があったのでしょう?

どのような思いを込めて造られたのか、
「憂愁に満ち、苦悩煩悶する神像」
そんな不思議な世界の神像に、出会った気分になりました。

六所神社・男神像六所神社・女神像
六所神社・男女神像

瞑想苦悩するご神像に、本年の我が家の平穏と健勝を、心を込めてお祈りしました。

観仏日々帖に「六所神社・御神像の初詣探訪記」を掲載しています。



【圧巻の三大薬師像に見とれた東博「みちのくの仏像」展】

観仏リスト2

東京国立博物館で開催された「みちのくの仏像」展に出かけました。
みちのくの仏像展ポスター

主な展示仏像はご覧の通りで、勝常寺、黒石寺、双林寺の東北三大薬師像が一堂に展示されました。
見どころあるみちのくの平安古仏が勢ぞろいで、充実の特別展でした。
皆さんも、お出かけになったことと思います。
私は、2回も出かけてしまいました。

本館一階の大階段裏の展示室が会場でしたが、このくらいの規模の仏像展示が、じっくりと鑑賞するには、程良いものだと思います。
平成館を使った大規模展だと、数が多すぎて目移りしてしまい、なかなか心に残りません。

勝常寺、黒石寺、双林寺の薬師像を、ぐるりと見渡せば全部眼前に観ることができるのは、初めてです。
本当に圧巻でした。
何といっても、最大の収穫は、この三薬師像を、真横、側面からじっくり観ることができたことです。
新たな驚き、発見がありました。


やはり、勝常寺薬師像は迫力満点、国宝に指定されたことだけの事のことはあると納得です。
出来の良さといい、重厚さといい、群を抜いて輝いています。
「ウーン!」と声をあげて唸ってしまったのは、側面に回って観た体奥の分厚さです。
この分厚さは、並大抵のものではありません。

勝常寺・薬師如来坐像勝常寺・薬師如来坐像
勝常寺・薬師如来坐像

それも、膝前までケヤキの一木割矧ぎというのですから、想像を超えた巨木を用いたに違いありません。
お寺では、本堂の厨子内に安置された姿で拝しますので、この異様な分厚さが実感されません。
中央の平安初期仏と云えども、これだけの異常ともいえる分厚い体奥の像は、あまり無いのではないでしょうか?
この分厚さが、勝常寺像の内から発散するエネルギーを感じさせるのでしょう。


もう一つ、びっくりしたのは、双林寺薬師像の胸の厚さ、肩太りの造形です。
双林寺の薬師像は、衣文の彫りは浅く、顔貌が穏やかな感じがしますので、10世紀以降の制作であろうと思っておりました。
解説書にもそのように書かれているものが、多かったと思います。

双林寺・薬師如来坐像双林寺・薬師如来坐像
双林寺・薬師如来坐像

ところが、真横に回って側面から観ると、その胸の張りの分厚さ、逞しさに見惚れてしまいます。
肩太りの肉付きも、並々ならぬものがあります。
展覧会図録を見ると「9世紀の制作」と解説されていました。
「双林寺像が9世紀を考える見方が、有力になってきたのか!」
と、ちょっとびっくりしましたが、この体躯を眼前にすると、そんな気になってきます。

もう一度薬師像の姿をじっくり眺めてみました。
9世紀とするには、顔貌が穏やかで頭部が不釣り合いに小さいのと、衣文の彫りが浅くて整然としているのが、やはり気になってしまいます。
首から下の造形感からすると、もう少し頭部が大きく迫力ある造型であって良い気がします。
ひょっとしたら、首から上の頭部を後に全体的に削り、彫り直して、小さめの頭、穏やかな顔になってしまったということもあり得るのでしょうか?
よく判らなくなってしまいました。


一番、気になったのは、黒石寺薬師像です。
黒石寺像は、勝常寺、双林寺像の分厚い体躯に比べると、びっくりするほどに体奥が薄っぺらいのです。
3躯の薬師像を並べて側面から観てみると、黒石寺像の面奥・体奥が、あまりに貧相で重厚感不足です。

黒石寺・薬師如来坐像黒石寺・薬師如来坐像
黒石寺・薬師如来坐像

この像の体奥が薄い話は、前から判っていたはずなのですが、こうして眼前に見比べてみると、今更ながらのその差の激しさに、驚いてしまったというのが本音のところです。
正直、パワー不足という印象です。
黒石寺薬師像の面奥・体奥の薄さについての話は、観仏日々帖「岩手・黒石寺の薬師如来像の発見」でふれていますので、ご覧ください。

黒石寺・薬師如来像
魁偉な威相の黒石寺薬師像の顔貌
今から45年ほど前の学生時代、黒石寺で薬師像を拝し、荒々しき螺髪、目尻の強烈に吊りあがった厳しい眼、その魁偉な異貌を眼の前にしたときの、強烈なインパクトは、今もこの眼に焼きつき忘れられません。
それ以来、「私のこころの仏像」になっていたのです。

ところが、あらためて「みちのく三大薬師像」を一堂にて拝してみて、このイメージもちょっと揺らいでしまいました。
黒石寺のあの魁偉な威相が、迫力不足で、平板な表現のような感じが、心の隅によぎるような気持ちに襲われました。
この違和感、ギャップ感、このとき限りのつかの間のものなのでしょうか?
これからも続くのでしょうか?


秋田・小沼神社の聖観音立像に再会できたのも、嬉しいことでした。
ただ、大仙市豊岡の小沼神社を訪れて拝した時の、あの感動はよみがえってはきません。
この仏像は、人里離れた山中にある社殿で拝さないと、その良さを味わうことは難しいようです。

小沼神社・聖観音立像..小沼のほとりに佇む小沼神社社殿
小沼神社・聖観音立像と小沼のほとりに佇む小沼神社社殿

欝蒼とした杉林に囲まれ、緑深く染められた小沼のほとりの社殿という、霊境空間で拝してこそ、「心洗われ揺さぶられる仏像」なのだと、実感しました。

小沼神社の探訪は、観仏日々帖「「秋田県大仙市 小沼神社・観音菩薩像【その1】【その2】」でご紹介しています。



[2月]

この年、初めての関西往きです。
寒さにもめげず、播磨方面の古仏を探訪し、翌日には天平会主催の孝恩寺・道明寺探訪に参加してきました。


【念願の川西市・栄根寺の薬師如来像に初対面】

観仏リスト3

「阪神・淡路大震災20年~災害と歴史遺産」展ポスター
姫路市の兵庫県歴史博物館で「阪神・淡路大震災20年~災害と歴史遺産」展という企画展が開催されました。
仏像の展覧会でも何でもないのですが、なんとこの展覧会に、兵庫県川西市の栄根寺・薬師如来坐像が出展されたのです。
阪神大震災で、栄根寺のお堂が完全に倒壊し、跡地が「栄根寺廃寺遺跡公園」として整備されたことなどから、この企画展に出展されたのです。

実は、この栄根寺薬師像、一度は拝観してみたい念願の仏像だったのです。

私は、井上正氏が古密教関係古仏として採り上げている仏像に、大変関心があり、訪ねまわっています。
井上氏の言う奈良時代の制作にさかのぼらせる説には、ちょっと賛同できないのですが、そこで紹介される「烈しい霊威表現の仏像」、「尋常ならざる精神性を発する表現の仏像」が発散する不思議なオーラ、迫力に、強く惹かれる魅力を感じているからです。
井上氏の連載シリーズ
「古仏巡歴」「古密教彫像巡歴」「古仏への視点」(共に「日本美術工芸」に連載、2作は「古仏」「続古仏」と題し単行本化~法蔵館刊)
に掲載されている仏像を、何とか全部この眼で観てやろうと、励んでいます。

そこで採り上げられているのが、栄根寺・薬師如来像なのでした。

栄根寺・薬師如来坐像
栄根寺・薬師如来坐像

ところが、阪神大震災でのお堂倒壊以来、川西市文化財資料館の収蔵庫で保管されるようになりました。
以来、めったに公開されることがありません。
久方ぶりに出展されるという情報を知って、
「これは、なんとしてでもこのチャンスを逃すわけにはいかない」
と、姫路まで駆けつけたのでした。

博物館で、待望のご対面です。
もっと、強烈なオーラの発散を期待したのですが、実は、ややガッカリという感じでした。

井上正氏の「古仏巡歴」(単行本署名:古仏)には、
「本像の不可思議な精神をのぞかせる相貌、一種の熱気を宿す剛直な体型」
「このお像を拝した時の第一印象として、高雄神護寺の本尊薬師如来立像を思い浮かべる人は多いであろう。・・・・・同じ精神世界を感じさせるのである。」
と記されています。

博物館のガラス越しだからでしょうか?
井上正氏の語るような、不可思議な精神、熱気というのが、あまり伝わってこないのです。
正直、ちょっと拍子抜けという感じになってしまいました。
どちらかといえば、古様な地方作の、やや硬い感じの造形いう印象です。
確かに、不気味そうな空気感を漂わせ、粗豪な野趣を感じさせるのですが、強烈な迫力ある造形のようには、感じられませんでした。
むしろ、地方的な野太さとか、泥臭い粗野さの方が勝っているように、私には思えてしまいました。
古様な像ですが、10~11世紀の地方的要素のある平安仏なのかなと感じました。


これでまた、井上正ワールドの古密教仏像の実見を、一つクリアーです。
井上氏が、3作の連作の中で紹介している古密教像は、95件ほどあります。
これまで頑張って観て回ってきて、私の未見仏像は、あとちょうど10件になりました。
なかなか拝観が難しい仏像が、多く残ってしまっていますが、何とか身体の動くうちに、オールクリアーを達成したいものです。



【播磨の古仏探訪~大覚寺・毘沙門像の出来の良さに目をみはる】

兵庫県歴史博物館の栄根寺・薬師如来像を目指して、姫路まで突進してきたついでに、播磨の古仏をいくつか、同好の方々と探訪しました。

観仏リスト4

ご覧の通りです。

魁量感ある、堂々たる10世紀作の書写山円教寺講堂・釈迦三尊像や、鎌倉後期の典型的なスタイルの斑鳩寺・日光月光菩薩立像などを訪ねました。

円教寺講堂・釈迦三尊像
円教寺講堂・釈迦三尊像

斑鳩寺・日光月光菩薩立像.....斑鳩寺・日光月光菩薩立像
斑鳩寺・日光月光菩薩立像

想定外の出会いは、姫路市網干区にある大覚寺・毘沙門天像でした。

この毘沙門像、市指定文化財ということなので、さほど期待はしていませんでした。
若いご住職に本堂にご案内いただきました。
この毘沙門像を拝したいと訪れる愛好家はめったにないようで、関東からやってきたとお話しすると、少々あきれ顔でびっくりされてしまいました。

大覚寺本堂
大覚寺本堂

毘沙門天像は、お堂の左奥脇の壇上に、ひっそりと祀られていました。
像高61.7㎝の小像です。

大覚寺・毘沙門天立像
大覚寺・毘沙門天立像

眼近に拝してみて、びっくりしました。
すらりとした立ち姿、活き活きした動勢で、見事なバランスに処理されています。
甲冑や衣の造形、彫り口も巧みで、肉付けもなかなかのリアル感です。
顔貌もはつらつとしたものがあり、良い眼をしています。

大覚寺・毘沙門天立像.大覚寺・毘沙門天立像
大覚寺・毘沙門天立像

後世のものでしょうか?
像の表面の上塗りが厚くコーティングされているようで、鑑賞を少し妨げているのが残念です。
それでも、腕の良い慶派仏師の作品であることは、私にでも見て取れます。

兵庫県歴史博物館の神戸佳文氏は、このように解説しています。
高知雪蹊寺・毘沙門天立像(湛慶作)
雪蹊寺・毘沙門天立像(湛慶作)

「表情は端正で気迫に富み、高知雪蹊寺の湛慶作毘沙門天像に似ている。
体部は均整がとれ、しかも動静があり見事な作風を示している。
これらの点や、技法から、鎌倉中期以前の慶派仏師による造立と思われる。」
(ふるさとのみほとけ~播磨の仏像展図録・1991兵庫県立歴史博物館刊解説)

なるほど、解説の通りの毘沙門像。
市指定ではもったいないというのが、正直な実感です。
思いのほかの、素晴らしい毘沙門天像に出会うことが出来、大変うれしい播磨古仏探訪となりました。


観仏を終えた後は、大阪まで戻り、梅田の土佐料理「司」で、探訪の疲れを癒しました。
同好の方々との仏像談議が酒の肴で、土佐の銘酒「酔鯨」の銚子の本数が、度過ぎてしまったのは、いうまでもありません。



【強烈個性の孝恩寺仏像群に圧倒され、道成寺の三本尊に思いを致した、天平会バスツァー】

播磨古仏探訪の翌日は、「天平会」主催の、「孝恩寺・勝楽寺・道成寺の仏像」バスツァーに参加しました。
天平会は、70年以上も続いている、超老舗の仏像愛好・研究会です。
毎月、探訪例会が開催されているのですが、横浜からは年に1~2回参加するのがやっとというところです。
今回は、孝恩寺、道成寺という私の関心高い仏像探訪ということで、参加させていただきました。

観仏リスト5

総勢40人以上、大型バスをチャーターしての探訪旅行です。
同行講師は、HP「観仏三昧」で皆さんご存知の、和歌山県立博物館の大河内智之氏です。


まずは、貝塚市木積にある孝恩寺です。
アクが強いというか、強烈な個性というか、一度拝したらこの眼に焼き付いて、決して忘れることのできない孝恩寺仏像群。
約10年ぶりの再会です。

孝恩寺・本堂
孝恩寺・本堂

ご住職のご講話を拝聴した後、収蔵庫に立ち並ぶ20躯程の異形仏を拝しました。

初対面の時、その迫力に「ガツン!」というインパクトを感じても、もう一度訪れてみると、それほどに強く迫ってくるものを感じなくて、ちょっとガッカリということがよくあります。
ところが、この孝恩寺の仏像は、何度拝しても、こちらに訴えてくるパワーというか、オーラのようなものが、まったく変わることがありません。
「強い精神性が込められた仏像」とか「霊威力を発する仏像」とかよく言われますが、孝恩寺の古仏は、そうした意味での「本物」の仏像だというように感じます。

収蔵庫に入って、ぐるりと立ち並ぶ古佛たちを眺めると、なんだか異様な気分におそわれます。
「アクが強い」というか「濃いい」というか、何ともいえぬ妖しさや土着的呪力のようなものが迫ってくるのです。
弥勒菩薩坐像、跋難陀龍王立像と呼ばれる像の、クセのある顔の表情、抉りこんだ彫り口などは、他では見たことのない強烈な個性を主張しています。

孝恩寺・弥勒菩薩坐像.孝恩寺・跋難陀龍王立像
孝恩寺・弥勒菩薩坐像(左)    跋難陀龍王立像(右)

「腹にこたえるというか、ズシリとくる。
発散してくる〈気〉に押されてしまう」
孝恩寺にやってくると、いつも思う素直な感想です。

一般には、平安前期の地方的作風の一木彫と言われているように思います。
近年は、奈良時代の制作にさかのぼる可能性があるのではないかという考えの方も、何人かいらっしゃるようです。
この貝塚・木積の地は、河内の地に生まれた行基にとって、造寺造仏などに必要とした木材の集積地、すなわち兵站基地であったに違いありません。
奈良時代の後期、行基ゆかりの地で、こんな異形仏が造立されていたのではないか、そんな夢想イメージも、現実味を帯びてくるような気もしてくるのです。

「奈良時代か?平安時代か?」という話はさておいても、孝恩寺の仏像は、ミステリアスな世界に惹きこまれるような、不可思議な仏像たちだという思いを今更ながらに強くして、孝恩寺を後にしました。


次に訪れた勝楽寺の仏像のことは、まったく知りませんでした。
有田川に近い有田郡湯浅町別所という処にありました。
当地は、平安後期以降、有田川下流域中心に大きな勢力を有した武士団・湯浅党の中心拠点であったそうです。

勝楽寺・本堂
勝楽寺・本堂

お堂に伝来する諸像は、その威勢を十二分に偲ばせる、堂々たる仏像でした。
阿弥陀、地蔵坐像は、2メートルをはるかに超える巨像で、しかも造形の出来も優れたものです。

勝楽寺・阿弥陀如来坐像.勝楽寺・地蔵菩薩坐像
勝楽寺・阿弥陀如来坐像(左)        地蔵菩薩坐像(右)

「こんなに見事な仏像の存在を全く知らなかったのは、ちょっと恥ずかしい。」

眼前の仏像を見上げながら、そんな気持ちになりました。

土産に買った湯浅町特産の「金山寺味噌」。
我が家に戻って、試してみると、これがまた美味かった。



最後は、娘道成寺で名高い道成寺です。
久しぶりの道成寺です。

道成寺・伽藍
道成寺・伽藍

伊東史郎氏著「道成寺の仏たちと『縁起絵巻』」
伊東史郎著・道成寺の仏たちと『縁起絵巻』
今回の訪問は、昨年(2014.9)に発刊された、伊東史郎氏の著書「道成寺の仏たちと『縁起絵巻』」を、興味深く読ませていただいた後でしたので、新たなる関心、期待を覚えての道成寺諸仏の拝観です。
楽しみにしていたのです。

伊東史郎氏著の「道成寺の仏たちと『縁起絵巻』」の内容については、観仏日々帖~新刊旧刊案内で、紹介させていただきましたのでご覧ください。


道成寺には、その歴史の変遷の中で造立された、3つの本尊・千手観音像が残されています。
伊東氏はその造立時期を、次の表のように考えられています。

道成寺の三本尊・千手観音像

この日は、本堂の根本本尊も公開されており、宝仏殿の国宝・千手観音像とともに、拝することが出来ました。
根本本尊は、昭和62年(1987)に北向き本尊の体内から発見された、バラバラに破損した断片から復元修理された像です。

道成寺根本本尊・千手観音立像
道成寺根本本尊・千手観音立像

クスノキ材の木彫乾漆併用像です。
奈良時代、8世紀前半の木彫像の遺例とされる像は無いように思いますが、その姿を偲ばせる像と云ってよいのかもしれません。
白鳳風のおだやかな像容に復元されていますが、本当はどのような姿だったのでしょうか?
本堂のほの暗いお堂の内陣に、浮かび上がるようにライティングされて祀られていました。

道成寺本堂に安置されている根本本尊・千手観音立像
道成寺本堂に安置されている根本本尊・千手観音立像

そのお姿は、白鳳時代からの歴史を有する道成寺のご本尊として似つかわしい、そのように感じさせるような落ち着いた雰囲気を漂わせていました。

国宝・千手観音三尊像は、明るい収蔵庫、宝仏殿に祀られています。

道成寺宝仏殿・千手観音立像.道成寺宝仏殿・千手観音立像
道成寺宝仏殿・千手観音立像

さすが国宝、文句なしの国宝とでもいうべき、見事な仏像です。
何度拝しても、見惚れてしまいます。
奈良京都の都中央でも、これだけの堂々たる充実した造形の巨像は、そうあるものではありません。
月並みな言葉ですが、正直、感動してしまいます。

宝仏殿内には、所狭しと言ってよいほどに、20躯近い仏像が林立しています。
多くは平安前期を見られる、迫力ある古仏ばかりで、圧倒されてしまいます。
これだけの第一級レベルの巨像が、この日高川の海近くという地に造立されたということは、当地の勢力が大変大きなものであったことを物語っているのでしょう。

良き仏像を拝した満足感に浸った道成寺拝観でした。
大河内先生の解説も、懇切で判り易く、また熱のこもったもので、大変勉強になりました。
参道では、名物「釣鐘饅頭」を売り込み、呼び込む声がにぎやかに飛び交うなか、道成寺を後にしました。

釣鐘饅頭を勧める店が並ぶ道成寺参道
釣鐘饅頭を勧める店が並ぶ道成寺参道


天平会バスツァーを終え、その日の夜は、京都で別行動の妻と合流。

翌日、京都の朝食は、寺町通竹屋町下の「進々堂」のモーニングメニュー、ランチは木屋町御池上ルの「レストラン・おがわ」。
我が家のお気に入りの、定番お食事処になっています。
何回来ても、美味しく落ち着けるお店です。

寺町通竹屋町下「進々堂」...木屋町御池上ル「レストラン・おがわ」
寺町通竹屋町下「進々堂」       木屋町御池上ル「レストラン・おがわ」

本当に久しぶりに、大徳寺の大仙院の名庭を観て、帰京しました。



[3月]

二つの仏像の展覧会に出かけました。

一つは、根津美術館で開催された「救いとやすらぎのほとけ~菩薩」展を観ました。
根津美術館所蔵の仏教美術コレクションから仏像、仏画、約40件が展示されていました。
飛鳥から江戸時代までの所蔵仏像の出展でした。
こじんまりした落ち着いた展覧会でした。

菩薩展ポスター


もう一つは、東京国立博物館で開催された「コルカタ・インド博物館所蔵~インドの仏・仏教美術の源流」展です。
インドの仏展ポスター
「博物館所蔵の仏教美術名品、約90点が来日、インド美術発生の歴史をたどる展覧会」
ということです。
超一級品ばかりという展示ではなかったのでしょうが、インド古代仏像を愉しむことが出来ました。
表慶館での開催でしたが、結構大勢の人出で混雑していたのにはビックリです。

私は、3年前の2012年、インドの仏像、仏跡探訪旅行に出かけました。
エレファンタ島、アジャンタ、エローラ、オーランガバード、サンチー、ウダヤギリなどを訪れました。
展覧会での展示仏像を見ていると、インド旅行のことが懐かしく思い出されました。



【伊豆下田の法雲寺・秘仏御開帳~思いがけずの見処ある平安古仏に遭遇】

3月21日に、静岡県下田市北の沢・法雲寺(下田市須原973-1)の秘仏本尊・如意輪観音坐像が60年に一度のご開帳との情報をキャッチ。
10世紀に遡る可能性のある平安古仏という話で、「これは行かねばならない」と、同好の方々と、伊豆下田まで出かけました。

観仏リスト6

観仏先はご覧のとおりです。

なんといっても目指すは、法雲寺の秘仏・如意輪観音坐像の御開帳です。
60年に一度の御開帳ということです。
当日は、上原仏教美術館の学芸員・田島整氏の現地解説もあるということで、結構拝観に訪れる人が多いのかと思ったのですが、遠方からやってきたのは我々の他に10人以内ぐらいという処でありました。

集会所兼用の法雲寺のお堂
集会所兼用の法雲寺のお堂

「無指定」の仏像でもありますし、そんなところということなのでしょう。
地元の村落の皆さんは集会所兼用のお堂でお坊さんと一緒にお経を唱えられています。
お汁粉、モツ煮汁のふるまいもあって、和気藹々とした「村人総出の賑やかな記念行事」といった風情のご開帳でした。

秘仏・如意輪観音像については、田島氏の解説によれば、
「これまで古様な作風を留める、平安後期の制作とみられていたが、調査の結果、10世紀に遡る可能性があると考えられる。
これほど古い時代の如意輪観音像の造像例は、静岡県内では知られておらず、東日本でも最古級とみられる。」
というお話でした。

法雲寺・如意輪観音坐像の解説をする田島整氏
法雲寺・如意輪観音坐像の解説をする田島整氏

このあたりの観仏探訪記については、観仏日々帖「古仏探訪~伊豆下田市・法雲寺の秘仏・如意輪観音坐像 拝観記」に記していますので、ご覧ください。

ほんの眼近に近寄って、じっくりと拝することが出来ました。
如意輪観音像は、見るからに地方作ですが、なかなかの見所ある平安古仏です。

法雲寺・如意輪観音坐像

法雲寺・如意輪観音坐像
法雲寺・如意輪観音坐像

全体の造形は、結構アンバランスなところがあり、地方の在地仏師の手になる仏像でしょう。
しかし、腰から下の造形は、ボリューム感はたっぷりで、衣文の彫り口も、鋭く抉ったシャープ、平安前期の厳しさを感じさせるものがあるのです。

「これは、古様でパワフル、惹きつけるものがある造形だ。
10世紀の制作ということで、OKじゃないんだろうか?」

ちょっと依怙贔屓に過ぎるかもしれませんが、そのような気持ちになってしまいました。

わざわざ出かけて来た甲斐がありました。

「伊豆の田舎の村落に、10世紀までさかのぼりそうな平安古仏発見!」

我々が発見したわけでも何でもないのですが、そんな気分になりました。


満ち足りた気分で、帰路は下田から「踊り子号」に乗車。
しっかり買い込んだおつまみとお酒で、愉しく車内で酒盛り。
「10世紀でいいと思うか?」「結構、時代が下がるんじゃないの?」「でもあのグリグリとした彫り口は魅力的」
などなどと、酒も入ってやかましく盛り上がり、他の乗客の方には迷惑だったのかもしれません。
ちょっと反省。


「今年の観仏を振り返って」【その1】は、1月~3月までの観仏探訪先のご紹介でした。
まだ3か月分、このままでは、いつ終わることやら・・・・・


次回【その2】は、4月からです。


トピックス~廃寺となった旧眉間寺の三如来像が、東大寺ミュージアムで展示(10/20~3/下) 【2015.11.8】


【廃仏毀釈で廃寺になった奈良の寺、眉間寺】

明治初年の廃仏毀釈で廃寺となってしまった奈良のお寺に、眉間寺(みけんじ)という寺があります。

廃仏毀釈の折には、奈良では、いくつものお寺が廃寺になってしまいました。
なかでも大寺であった興福寺や内山永久寺が廃寺となったのは、よく知られています。
興福寺はすぐに再興されましたが、石上神宮の神宮寺であった内山永久寺は、跡形もなく破壊され、膨大な数の貴重な仏像・宝物は、すべて散逸してしまいました。

眉間寺という名前は、あまり知られていないかもしれません。
「眉間寺」と聞いても、「そんなお寺、あったっけ?」と、首をかしげる方もいらっしゃるのではないかと思います。
明治の廃仏毀釈に詳しい方は「ああ、あの眉間寺か!」と、思われることでしょう。
眉間寺も、明治初年に跡形もなくなり、祀られていた諸仏像も、すべて散逸してしまったのです。


このあたりの、奈良の地における廃仏毀釈と、諸寺から流出した仏像に話などは、埃まみれの書棚から「二人の県令、四条隆平・税所篤~廃仏知事と好古マニア」で紹介していますので、ご覧いただければと思います。



【東大寺ミュージアムで、旧眉間寺本堂安置・三如来像が並んで展示~140年ぶり】

この眉間寺の本堂に安置されていたという3躯の如来像が、東大寺ミュージアムに展示されています。
10月20日から、来年3月ごろまで展示されるそうです。

(東大寺ミュージアムHP・旧眉間寺本堂の仏像・特別展示のお知らせをご参照ください)


展示される眉間寺旧仏は、次の3躯です。

阿弥陀如来坐像(像高:88.5㎝、平安後期・重要文化財)
釈迦如来坐像(像高:86.1㎝、鎌倉時代)
薬師如来坐像(像高:75.5㎝、鎌倉時代)


旧眉間寺伝来・東大寺勧進所阿弥陀如来坐像
旧眉間寺伝来・東大寺勧進所阿弥陀如来坐像

旧眉間寺伝来・東大寺勧進所釈迦如来坐像.旧眉間寺伝来・東大寺勧進所薬師如来坐像
旧眉間寺伝来・東大寺勧進所釈迦如来坐像(左)   薬師如来坐像(右)

これらの像は、各像の台座に記された墨書から、旧眉間寺の本堂に3躯並んで安置されていたと推定されています。
眉間寺が廃寺となった後は、東大寺に移され、釈迦・薬師両像は勧進所阿弥陀堂内奧の左右壇に祀られ、阿弥陀像は収蔵庫に安置されているものです。

東大寺勧進所

東大寺勧進所・阿弥陀堂
東大寺勧進所   勧進所・阿弥陀堂(下)

私も、眉間寺旧仏を一度拝してみたいと思っていましたが、これらの像は、普段は、拝観は叶わず、果たすことができずにおりました。
今度、勧進所阿弥陀堂が修理される機会に、東大寺ミュージアムで、特別展示されることになったものです。

今回の展示では、眉間寺本堂に安置されていた往時どおりに、3躯並んで展示されているとのことです。

東大寺ミュージアムに並んで展示される旧眉間寺三如来坐像
東大寺ミュージアムに並んで展示される旧眉間寺三如来坐像

そろって展示されるのは、眉間寺に祀られていた時以来ですので、約140年ぶりということになります。


【今は、跡形なく礎石が遺されるだけの眉間寺】

眉間寺とは、どんなお寺だったのでしょうか。

眉間寺とは奈良市法蓮町、聖武天皇佐保山南陵の近くにありました。
律宗佐保山・眉間寺と称し、聖武天皇御願・行基僧都の開基と伝えられています。

長寛年代(1164年頃)、
「化人が現われて眉間より光明を放つこと半時ばかりにして化し、その跡に舎利2粒があったので、勅により『眉間寺』と称した」
というのが寺名の由来ともいわれます。

江戸時代には、幕府から寺領100石が与えられるなど栄えました。
東大寺「戒壇院」の末寺で、立派な鐘楼や多宝塔等も建っていたましたが、文久2年(1862) 、聖武天皇陵改変のため多宝塔が撤去され、本堂庫裏は山下に移されました。
そして、明治初年、廃仏毀釈のなかで廃寺になってしまいました。

大和名所圖會(寛政3年・1791刊)には、立派な多宝塔のある眉間寺伽藍の姿が描かれています。

大和名所図会・眉間寺大和名所図会・眉間寺
大和名所図会・眉間寺

現在は跡形もなく、元の場所には「眉間寺遺跡」の石碑と礎石が残されているだけです。

眉間寺跡の石碑
眉間寺跡の石碑

眉間寺跡に遺された礎石
眉間寺跡に遺された礎石


【眉間寺伝来の仏像の行方】

眉間寺が廃寺となった話は、広くは知られていませんが、眉間寺伝来と伝えられる仏像には、次のようなものがあります。

旧眉間寺伝来の仏像

西方寺・阿弥陀如来坐像(重文・平安後期).弘願寺・阿弥陀如来立像(県指定・鎌倉)
西方寺・阿弥陀如来坐像(左)     弘願寺・阿弥陀如来立像(右)

ご覧の通りです。

本堂に安置されていた3躯の如来坐像は、眉間寺が東大寺「戒壇院」の末寺であったことから、東大寺に移されたのではないでしょうか?

今回、東大寺ミュージアムに展示されている、勧進所安置の3躯の如来坐像は、平安後期から鎌倉時代の典型的なスタイルの仏像といってよいものです。
仏像彫刻としては、ある意味類型的といったタイプで、それほど皆さんの関心を呼ぶ仏像ではないかもしれません。

ただ、明治の廃仏毀釈で、数多くの仏像が破壊されたり焼かれたりしたなか、それを乗り越えてきた仏像です。
廃仏毀釈で廃寺となってしまったお寺に伝わった仏像を拝するというのは、また感慨深いものがあるように思います。


私も、展観期間中に、是非訪れて拝したいと思っております。

東大寺ミュージアムは、みなさん何度も訪れられておられることと思いますが、廃寺となった眉間寺の往時を偲ぶ仏像を拝しに、この期間、訪ねてみてはいかがでしょうか。


トピックス~岩手・黒石寺の薬師如来像の発見~発見物語おまけ⑦    【2015.10.31】


黒石寺・薬師如来坐像
黒石寺・薬師如来坐像

【我が国唯一、9世紀の年紀墨書のある黒石寺・薬師如来像】

「貞観四年十二月」
岩手県水沢の黒石寺・薬師如来坐像の胎内に遺された、墨書に記された年記です。
貞観4年といえば、862年です。
この墨書銘が、当初のものであったならば、我国9世紀木彫の中で、唯一の年紀の記された在銘像ということになります。
文句なしの、バリバリの「平安初期彫刻」ということになるのです。

像の膝裏の部分に、ご覧のような墨書が残されているのです。

黒石寺・薬師如来の「貞観四年」の墨書銘全文

黒石寺・薬師如来膝裏に残された墨書銘
黒石寺・薬師如来の墨書銘文と膝裏の墨書写真
写真上部に「貞観四年十二月」の記銘が見える



【仏教美術史界の常識を覆した、みちのくの黒石寺・薬師像】

黒石寺の薬師坐像に、年紀の記された墨書が遺されているのが知られるようになったのは、昭和に入ってからでしょうが、何時の頃なのか、よく判りません。

ただ、かつては、
「どうせ、はるか後世に作為で書かれた、偽銘に決まっている」
とされて、専門家には相手にされなかったようです。

というのも、黒石寺のある地は、現在の岩手県奥州市水沢区黒石町、平泉のまだ北です。

黒石寺・本堂
黒石寺・本堂

「みちのくの僻地とも云うような鄙の地に、平安初期の木彫像など、遺されていよう筈がないじゃないか。」
「仏像の姿など見るまでもなく、あり得ない。」

このように、思われていたようなのです。

それに、この薬師像は、どう見ても都の仏師が造ったような出来の良いものではなく、粗野で土臭いというか、地方仏師の手になるような仏像であったのです。

「平安後期ならあるかもしれないが、文化果つるみちのくの地で、平安初期にこのような仏像がつくられる訳がない。」

そう考えるのが、極々自然なことであったのでしょう。

黒石寺・薬師如来坐像
貞観年間の像とは思われなかった黒石寺・薬師如来坐像


「黒石寺薬師像の墨書銘は、当初のものかもしれない?」

このような眼で注目されはじめたのは、昭和20年代の終わり頃から30年代初頭にかけてのことでした。

そして、調査研究の結果によって、
「墨書銘は貞観4年当初のものに間違いなく、9世紀唯一の在銘木彫仏である。」
とされるようになったのです。

今では、黒石寺の薬師如来坐像と云えば、東北地方の古代彫刻を代表する、9世紀一木彫像として、仏像愛好家に良く知られた仏像です。

当時は、衝撃の発見であったのだと思います。
奈良、京都の中央の仏像中心に語られていた仏教美術史の常識では、考えられなかった驚きだったのです。

仏教彫刻史に、大きな一石を投じる発見となりました。
「地方仏」という世界が注目され、光があてられるようになっていったのも、黒石寺薬師像の発見が契機になったのではないでしょうか?


【「在る筈が無い!」から「ひょっとしたら?」へ~注目され始めた昭和20年代】

それでは、黒石寺・薬師如来坐像が、平安初期彫刻として認められていくようになったいきさつなどについて、当時を振り返ってみたいと思います。

話は、昭和20年代に遡ります。

戦前、東北の古代仏像と云えば、会津・勝常寺の薬師如来などの諸仏は知られていたものの、岩手県以北となると、平泉・中尊寺の仏像が知られるぐらいでした。
在地の史家などからは、黒石寺のある北上川流域に、平安前期に遡るような古仏が、いくつも遺されているという声が、伝えられることもあったようです。

ところが、当時の仏教美術史界では、
「そんな辺北の鄙の地に平安前期の古仏が遺されていよう筈はない。」
「時代がかなり下ってからの、古様を留めた地方仏に違いない。」
このような受け止めで、冷たくあしらっていたというか、まともな議論にならなかったようです。


そんな、仏教美術史界の見方を一変させ、大きな驚きと注目を呼んだのは、昭和29年(1954)に、奈良国立博物館で開催された「平安初期展」でした。
この平安初期展に、黒石寺・薬師如来像が出展されたのでした。

黒石寺・薬師如来坐像

黒石寺・薬師如来坐像~顔部
黒石寺・薬師如来坐像

美術史関係者は、奈良博に展示された黒石寺薬師像の像容を直接眼前にして、また「貞観4年」の胎内墨書があることを知って、大いに驚きました。

「この薬師像は、本当に貞観時代に制作されたのかも知れない。」
「平安前期、この薬師像のような仏像が、みちのく北上川流域でいくつも制作されていたと考えるべきかもしれない。」

と、大注目となったのです。

この頃の状況を、久野健氏は、このように振り返っています。

「この(北上川)流域に散在する古彫刻は、他の地方ではみられない特異な性格をもっている。
この地方の彫刻として、中尊寺の古彫刻は、早くから学者の注意をひいていたが、中尊寺以前の古彫刻が、注目されだしたのは、第二次大戦後のことである。
大戦中この地に疎開した森口多里氏や、北上市の熱心な郷土史家である司東真雄氏らがこの地には、貞観時代の彫刻が沢山あるという話を中央の学界にもたらした。
終戦直後頃から、あの強烈な貞観彫刻のさびしい美しさに強く惹かれていた私にも、この話は間接的にはいってきた。

しかし当時の学界では、この話を素直に受け入れはしなかった。
岩手県は、辺邸な土地なので古い様式が後々まで残ったのであろうという見方が強く、積極的にこれをとりあげようとする空気は、少なかった。

多くの学者が、もしかするとと考えるようになったのは昭和29年に奈良国立博物館で行われた「平安初期美術展」に、黒石寺の薬師如来像がはこばれ、展観されてからである。
この薬師如来像の膝裏には、まさしく貞観四年(862)にこの像が造られた由を伝える墨書銘があり、もし、これが後世の伝説により書き込まれたものでないならば、ほとんど、平安初期彫刻の唯一の造像銘になるため、議論の的となった。」
(「仏像の旅」久野健著1975.1芸艸堂刊所収)


当時、文化財保護委員会事務局美術工芸課・文部技官であった倉田文作氏の回顧文を、ご紹介します。

「岩手黒石寺の薬師如来像について、県の担当官から報告を受けたのは、十年余もまえのことである。
写真もなしに、我々の部屋で、貞親四年の銘文のある薬師さんがある、というはなしで、はじめはいたずらの偽銘でしょう、折があったら像と銘文の写真を届けてください、というぐらいで片づけてしまった。
向うもがっかりしたらしくて、資料が届くまでに二、三年はかかった。

さて、こうして届けられた写真をみると、まさしく平安初期の一木彫成像であり、銘文も古体で、何の疑う余地もない。
岩手まで出張することになり、像は、その後、重要文化財に指定され、今日では修理もおわり、新造の保存庫に坐っておられる。」
(「調査餘談」倉田文作~日本彫刻史基礎資料集成・平安時代造像銘記編4巻餘録・月報所収1968.4刊)


もう一つ、高橋富雄氏の回顧です。

「この仏像は、戦後間もない昭和29年、奈良国立博物館で催された平安初期美術展に展示された。
そして、見る人をおどろかせた。
まず、この年代がはたして信じ得るものかどうか。
このように古い第一号紀年(平安最古の貞観銘木彫像)を、みちのくのこの全く並はずれた仏像に認めてよいかどうか。
正統史学は迷ったのである。
平泉以外、東北古代彫刻は、まだ歴史の位置を与られていなかったのである。」
(「みちのく古寺巡礼」高橋富雄1985.6日本経済新聞社刊所収)

ご紹介した、これらの回顧談のとおり、奈良博に展示された黒石寺・薬師像は、これまでの彫刻史の既成概念から外れた仏像であったのです。
美術史界は、これをどのように理解し位置づけたらよいのか、議論が起こり、迷ってしまったといっても良いと思います。


【大注目となった、昭和29年「平安初期展」への出展】

昭和29年(1954)に奈良国立博物館で開催された、「平安初期展」というのは、どんな展覧会であったのでしょうか?

奈良博開催・平安初期展目録奈良博開催・平安初期展目録
奈良国立博物館で開催された「平安初期展」の目録

展覧会目録の「まえがき」には、
「今次の展観はさきに催した自鳳天平展の後を受け、奈良時代の文化が平安遷都を契機として如何に変化し発展したかを明かにせんとするものである。」
とあるように、平安初期の彫刻、絵画、工芸、古文書の傑作、名品が取り揃えられ、展観されました。

総勢172点、彫刻は48点が出品されています。
展覧会目録の彫刻の処を見ると、神護寺・五大虚空蔵像、元興寺・薬師像、室生寺・十一面観音像、釈迦坐像、薬師寺三神像、法隆寺・地蔵像、獅子窟寺・薬師像をはじめとして、平安前期の綺羅星のような国宝、重文仏像ばかりです。
いずれも中央作の名品ぞろいの中に、ポツンと地方作の仏像が一躯、違和感があるとしかいえない「黒石寺・薬師坐像」が、出展されているのです。

目録の黒石寺薬師像掲載ページをご覧ください。

平安初期展目録の黒石寺薬師像の記載状況
平安初期展目録の黒石寺薬師像が掲載されたページ

「21 重文 薬師如来坐像 一躯 岩手 黒石寺」

と記されているだけです。

「重文」とあるのは記載ミスで、この時点ではまだ重文指定されていません。
他の仏像には皆、解説文が付されているのに、ここには一言の解説文もありません。
貞観4年の墨書があることすら記されていません。
ちょっと変な感じです。

当時の博物館の関係者の、
「平安初期制作の像だと考えたいが、貞観年間の作とみる解説を付するのは、躊躇してしまって出来ない」
という悩ましさのあらわれのような気がします。

それにしても、奈良博は、よく指定すらされていない地方仏の黒石寺薬師像の出展を、決断したことだと思います。
名品ぞろいの仏像の中に、この地方仏を展示するのは、よほど思い切ったことだったに違いありません。
当時の奈良博は、館長:黒田源次、学芸課長:蓮見重康、美術室長:岡直己の各氏という布陣です。

黒石寺薬師像の出展を企画し、決断したのは、どなただったのでしょうか?


【間違いなく貞観4年の制作~進められた調査研究】

この、平安初期展への出展を契機に、黒石寺薬師像は調査研究が進められるようになります。

久野健氏
久野健氏
本格的な調査研究に取り組んだのは、久野健氏でした。
当時34歳、東京文化財研究所・美術部文部技官です。
久野氏も、出展された黒石寺像に注目し、東京から駆け付け、奈良国立博物館において、文化財研究所のメンバーと、この像のX線、赤外線撮影を実施しました。
そして、この光学的調査の結果を踏まえて、その年(昭和29年)の11月、岩手の黒石寺現地に赴き、再調査を行いました。
倉田文作氏も、紹介した回顧文「調査餘談」で、岩手に出張したと記していますが、久野氏等と一緒に調査したのかどうかは、良く判りません。

久野氏は、その調査研究結果を、昭和30年(1955)5月に発表しました。

「黒石寺薬師如来像」美術研究・第183号  (1995.9)

という論文です。

その結論は、
書銘の書体や記された人名などから、9世紀当初のものとあると考えて間違いない。
貞観4年(862)に、みちのくの地で、奈良京都の中央の流派には見られない特異な表現の一木彫が、蝦夷と対峙するという環境下で造立されたものと考えられる。
というものでした。

奈良博「平安初期展」への出展、久野氏の調査研究論文発表という合わせ技によって、黒石寺薬師像は、平安初期の在銘彫刻と認定され、平安彫刻、就中、東北古代彫刻の研究や地方仏の研究に、新たな視点、展開をもたらすものとなりました。
新発見ではないのですが「黒石寺薬師像の大発見」といっても過言ではないと思います。

黒石寺薬師像は、昭和32年(1957)2月に、重要文化財に指定され、昭和34年(1959)に、美術院国宝修理所によって修理修復が行われました。

昭和34年修理前の黒石寺薬師如来像
昭和34年修理前が行われる前の黒石寺薬師如来像


美術院での修理時の写真
美術院での修理時の像底写真
美術院での修理時の写真


【特異な容貌の薬師像~威嚇的で恐ろしいお顔の謎】

薬師像の造形などについて、簡単にみてみましょう。

像高126㎝、桂材の一木彫で、体幹部から膝前まで一材から彫り出しています。
内刳りは、後頭部中央からと体部背面から大きく刳り、蓋板、背板をあてています。
また、面相部、両肩などに、薄く乾漆が盛られています。

この像を拝して、なんといっても驚くのは、特異な容貌です。

威嚇的な造形の黒石寺薬師如来像・顔部
威嚇的で恐ろし気な黒石寺薬師像顔貌

荒々しい螺髪、目尻の強烈に吊りあがった厳しい眼、尖るように突き出した唇。
人を威嚇するような恐ろしげな顔で、周囲を畏怖するのに充分な面貌です。
呪術的というのか、魔力的というのか、魁偉な異貌としか言いようがありません。
この強烈なインパクトは、都の平安初期彫刻とは全く違う、特異なものです。

どうして、このような威嚇的な顔貌の仏像が、このみちのくの地で貞観年間に作られたのでしょうか?

その訳については、このように考えられています。

当時、東北の開拓にあたり、蝦夷と厳しく対峙した人たちが、その前進基地において、その脅威に立ち向かい、蝦夷を威嚇する頼りになる仏像を、守り神として造ったに違いない。
それ故に、誰もが畏怖するような、恐ろしげな容貌の仏像を造ったのだ。

9世紀の東北開拓は、蝦夷の反乱によって前進基地の柵や城が次々陥落するなど、厳しい状況にありました。

「三大実録」の貞観15年(873)12月7日の条には、このような記述がされています。

「陸奥国では、一応帰順した蝦夷までが、柵の近くに満ちみち、ややもすると反乱をおこそうという気配がある。
そこで、官民ともに、蝦夷を見ること、虎狼の如くにおそれおののいている。
願くは、武蔵の国の例にならい、五大菩薩を造り国分寺に安置し、蛮夷の野心をやわらげ、住民の恐怖をとりのぞいてもらいたい。」

このように、中央政府に申し出ているのです。
黒石寺の薬師像がつくられてから、11年後のことです。

黒石寺薬師如来像・顔部
黒石寺薬師如来像・顔部
この地の開拓にあたった人々が、いかに蝦夷を恐れ、ひたすら神仏の加護にたより、戦々恐々とした毎日を送っていたかが判ります。
黒石寺のある地は、陸奥の国府よりまだ北辺、前進基地の胆沢城のすぐ近くです。
このような、せっぱつまった限界状況の下で造られた薬師像の像容は、慈悲深い仏像などということは二の次で、まずもって蝦夷に対して威嚇になり、味方にたよりになる像が必要であったのでしょう。
そんな祈りが込められて、この薬師像がつくられたに違いないというのです。

この考え方が、真実なのかどうかは判りませんが、このみちのくの辺北の地に、何故、特異で魁偉な顔貌の薬師像がつくられたのかに思いを致すとき、「なるほど!」と、心よりの共感、深い感動を覚えてしまいます。



【不思議な造形、その訳は?~扁平な体躯・天平様の化仏】

ところで、この薬師像の側面にまわってみて驚くのは、面奥・体奥が随分扁平なことです。
正面からみた、堂々たる体躯、厳しい面貌からすると、平安初期彫刻に相応しく、ものすごく分厚く塊量的につくられているに違いないと思うのですが、意外なことに厚みがないのです。

黒石寺薬師如来像・側面~体奥の厚みが少ない.黒石寺薬師如来像・頭部側面~面奥の厚みの無さが著しい
黒石寺薬師如来像・側面~体奥・面奥共に意外にもに厚みがない
 

特に頭部は、それが顕著です。
衣文も翻波が鋭く彫り込まれているのではなく、浅くシンプルな刻線になっています。
このあたりを見ると「貞観の年紀」がなければ、平安初期の制作とは、とても思えません。

この点に注目しているのは、倉田文作氏で、このような見解を述べています。

「これほどの正面をつくった作者が、どうしてこうした側面をつくったのだろう。
それは、やはり地方作家の悲しさといわざるを得ない。
・・・・・・・・・・
とかく側面観に彫刻としての造型に欠陥かみとめられるのは、仏像彫刻にありがちのことなのであるが、それにしてもこの像のばあいは極端である。
それだけに、ここに考えられる理由としては、この像の作者がよりどころとしたものが、こうした正面の偉容をもつ図像(絵画の像容)であって、彼はその図像によって正面を彫刻したものの、側面についてはお手本がなかったのではなかろうか。
・・・・・・・・・・
こうした想像をさせるほどに、正面と側面とのちかいがはなはだしいことは事実である。」
(「仏像のみかた~技法と表現」倉田文作著・1965.7第一法規刊所収)

もう一つ、大変興味深いのは、薬師像の光背の七仏薬師の化仏が、穏やかで親しみやすい造形に表現されていることです。
化仏の写真のほかに、石膏原型から鋳造した作品をご覧ください。

黒石寺薬師如来像・化仏~奈良様の造形.黒石寺薬師像・化仏の石膏型鋳造品
黒石寺薬師如来像の化仏とその石膏型から鋳造した像
 
(鋳造像は、美術院創立百周年記念に際して、昭和34年に修理された際に化仏の一体を資料として石膏型取りされた原型から、記念品として鋳造制作されたものです。)

明らかに天平風で、奈良様の伝統の系譜にあるのです。
それを裏付けるように、薬師像本体の顔部、両肩などには、乾漆が盛りつけられています。

薬師像を造った仏師は、伝統的奈良様の技法を身につけた仏師であったに違いありません。
ただ、都の第一級の技量をもった仏師ではなかったということでしょう。
その仏師が、天平風の薬師像ではなく、みちのく開拓の人々が求める、畏怖感を発散する恐ろしげな像を造ったのだということです。


【地方仏の魅力を広める契機となった、黒石寺・薬師像の発見】

黒石寺薬師像が発見されたことの意義を振り返ってみると、
9世紀唯一の貞観4年銘のある木彫像が東北地方で見つけられたということが一番ですが、
もうひとつ、中央仏の系譜では考えられない特異な造形の仏像が、みちのくの地で制作されていたのだということが、認知されたことだと思います。

それまで、仏教美術史の世界では、専ら奈良、京都を中心とした中央の仏像を中心に語られてきました。
黒石寺薬師像の発見により、東北地方の仏像、あるいは全国の地方仏に、研究者の目が向けられるようになったのではないでしょうか?
地方特有の特異な造形や、その造像背景などにも目が向けられるようになり、彫刻風土論的な議論もされるようになったのかなと思います。

黒石寺薬師像の発見にかかわった久野健氏は、

「貞観4年という古い時代に岩手という辺境の地に、こうした彫像が生まれる可能性があるかで議論が分かれた。
この問題を解決するために、私は東北地方の古彫刻を次々に見てまわり、素木ではあるが、エネルギーに満ちた古彫刻にすっかりこころうばわれる結果となった。」
(「東北古代彫刻史の研究」まえがき所収)

このような思いで、東北地方の平安古仏を探して行脚し、東楽寺、成島毘沙門堂、双林寺の諸像、東北の鉈彫り像をはじめ、次々と調査研究成果を発表しました。

東楽寺の諸像
東楽寺の諸像

成島毘沙門堂・毘沙門天像ほか諸像

成島毘沙門堂・毘沙門天像~顔部
成島毘沙門堂・毘沙門天像他諸像と毘沙門像顔部
 

その集大成は、

「東北古代彫刻史の研究」 久野健著 昭和46年(1971) 中央公論美術出版刊 

という大著にまとめられました。

東北古代彫刻史の研究


これまで、振り返られることの少なかった「地方仏」というものが注目され、その独特の魅力が見出されるようになったと云えるでしょう。

研究者だけではなく、評論家の丸山尚一氏も、地方仏の魅力を発見した一人です。
はやくから地方仏の魅力の虜になり、全国各地の平安古仏を求めて行脚しました。

「生きている仏像たち~日本彫刻風土論」 丸山尚一著 昭和45年(1970) 読売新聞社刊


生きている仏像たち


この本をご存じの方は、多いことと思います。
この本を読まれて、地方仏の魅力に取りつかれたという方も数多いのではないでしょうか?

黒石寺薬師如来像は、「地方仏の魅力」を世に広める起爆剤となった、モニュメンタルな仏像であるともいえるのでしょう。



【忘れ得ぬ想い出、私の黒石寺探訪】

最後に、私の想い出話をさせていただきたいと思います。
初めて、黒石寺薬師如来像を拝した時の話です。

私が、初めて黒石寺を訪れたのは、昭和46年(1971)夏のことでした。
二十歳過ぎ、大学の頃です。
初めての地方仏の旅でした。
それまで、京都、奈良の仏像しか観たことがなかったのですが、同好会の友数人と、東北地方仏像探訪に出かけたのでした。

渡辺熊治翁
渡辺熊治翁
カバンには、「生きている仏像たち」の本が入っていたのは言うまでもありません。

黒石寺に行くには、一日数本しかないバスしかなく、なんと夕刻着いて檀家総代・堂守の渡辺熊治さんのお宅に、泊めていただきました。
八十歳近い熊治老は、みちのくの古老そのものという風貌で、「熊んつぁん」と呼ばれていました。
生粋の東北なまりで、何をしゃべっているのかさっぱりわからないのには往生しました。

翌朝、「熊んつぁん」に伴われ、朝露に濡れた夏草を踏みしめながらお堂に向かいました。


黒石寺~当時はこんなに整備されていなかった
黒石寺本堂への階段~訪れたときはこんなに整備はされていませんでした
 
朝陽が燦々と降り注ぐ中、薬師如来像の姿を拝しました。
荒々しき螺髪、目尻の強烈に吊りあがった厳しい眼、その魁偉な異貌を眼の前にしたときの、強烈なインパクトは、今もこの眼に焼きつき忘れられません。

昭和46年探訪時に撮影した黒石寺薬師像の写真

昭和46年探訪時に撮影した黒石寺四天王像の写真
昭和46年に黒石寺を訪れたとき撮った、薬師如来像と四天王像の写真
 

この時の、心揺さぶられた鮮烈な感動。
それが、私が仏像好き、平安古仏好きになった「心の原点」になっているのではないかと思います。

黒石寺薬師如来像は、私にとっても、
「記念碑的出会いの仏像であったなあ・・・」
と、懐かしく思い出されます。


深大寺・釈迦如来倚像からスタートした仏像発見物語シリーズも、今回で7件目になりました。
奈良博・白鳳展出展仏像のなかから、幾つかの仏像の発見物語をご紹介し、ついでに東寺御影堂の不動明王・三神像、黒石寺・薬師像の発見について振り返ってきましたが、ここらで「おしまい」にさせていただきたいと思います。
ご覧いただき、有難うございました。
お愉しみいただけましたでしょうか??




岩手・黒石寺の薬師如来像の発見  【追補】    2016.2.5  ~本文から続く~


~~貞観4年墨書銘の発見時期と、疑問が呈された「怖い顔」の造像背景~~



黒石寺・薬師如来像の発見物語について、新たに判ったことがありました。
そこで、本文に追加して、ちょこっとだけ新たなお話を、紹介させていただきます。


【黒石寺・薬師像の貞観4年墨書銘の発見時期が判りました】

黒石寺・薬師如来坐像が、「いつごろから注目され、いつ墨書銘が発見されたのか」という話なのですが、前段の本文では、このように記しました。

「黒石寺の薬師坐像に、年紀の記された墨書が遺されているのが知られるようになったのは、昭和に入ってからでしょうが、何時の頃なのか、よく判りません。
・・・・・・・・
『黒石寺薬師像の墨書銘は、当初のものかもしれない?』
このような眼で注目されはじめたのは、昭和20年代の終わり頃から30年代初頭にかけてのことでした。」

私の調べた資料では、薬師像の墨書銘が、いつ頃、誰によって発見されたのかが、よく判らなかったのです。

この、薬師像墨書銘発見のいきさつが、はっきりしました。
ここで、ご紹介しておきたいと思います。


去年(2015)12月に発刊された、東京国立博物館研究誌「MUSEUM」659号に、こんな論文が掲載されていました。

「岩手・黒石寺薬師如来坐像と像内銘記」    執筆:西木政統氏

西木政統氏「岩手・黒石寺薬師如来坐像と像内銘記」
「MUSEUM」659号に掲載された西木政統氏の論文


【貞観4年墨書銘の発見は、昭和25年(1950)のこと】

面白そうな論文なので、早速目を通してみると、墨書銘発見に至る経緯が、このように述べられていました。

「もともと銘文の存在は知られておらず、明治20年代(19世紀末)の臨時全国宝物取調局による調査でも墨書銘は見逃されていたようで、わが国の美術史学の黎明期には残念ながらその名はみえない。
もつぱら、『県内に稀な弘仁様式を覗われる本尊薬師仏』といつた評価がなされていたようである。
ところが、昭和25年(1950)に像内墨書銘が見出され、同29年に奈良国立博物館でおこなわれた「平安初期展」に出陳されるに及び、研究者の関心を集めることになった。」

黒石寺・薬師如来像の銘文が発見されたのは、昭和25年(1950)のことだったのです。

西木氏論文の、この部分の「注記」を見ると、
明治期の、岡倉天心をはじめとする臨時全国宝物取調局による調査の際に出された、明治29年2月6日付けの監査状が残されており、黒石寺像は「五等」と記され、国宝指定には至らなかった。
ということと、

昭和25年に、墨書銘が発見された時の経緯は、

・吉川保正「黒石寺薬師如来座像」(奥羽史談4-1・1953年)
・宮城県史編纂委員会編「宮城県史17巻・金石志」(宮城県史刊行会1956年・司東眞雄解説)

に詳しいと、記されていました。


早速、図書館で、この二つの墨書銘発見資料に目を通してみました。

この資料には、このような発見経緯が記されていました。

昭和25年(1950)、東北史研究家の司東眞雄氏の案内によって、文部省文化財研究所の小林剛氏や県文化財委員の吉川保正氏等が黒石寺を訪ねた時に、薬師像が小林剛氏の目にとまり、改めて小林氏が来訪し、県美術調査委員の佐伯敬紀氏とともに調査を行ったときに、体内から貞観銘の墨書が初めて発見された

という、発見経緯であったと述べられていました。

黒石寺薬師像の墨書銘が、発見された年と経緯が、はっきり判りました。
墨書銘は、何時頃から、その存在が地元では知られていたのだろうかと、何だかモヤモヤしていたのですが、これでスッキリしました。


司東眞雄氏という人は、奥州大学教授を経て岩手県文化財審議会委員を務めた東北文化史の研究家で、多数の著作が残されています。
「古代文化の黒石寺」1957年・亀梨文化店刊、という著作もあります。

小林剛氏
小林剛氏
墨書銘の発見者、小林剛氏というのは、仏教美術史に関心ある年配の方には、聞き慣れた名前でしょう。
大変著名な仏教彫刻史の研究者で、沢山の著作、論考が残されていますので、目にされた方も多くいらっしゃるのではないかと思います。
墨書銘発見当時は47歳、文化財保護委員会保存部美術工芸課在職当時のことだったようです。


重箱の隅をつつくような細かい話で、皆さんには、何の興味もなく、どうでもよいようなことだと思います。
私にとっては、黒石寺薬師像・墨書銘発見経緯を知るということでは、大切なことでしたので、それが判った嬉しさついでに、ここでご紹介させていただきました。


【恐ろしい顔は「蝦夷調伏の祈りの表現」か?  疑問を呈した、西木氏の論文】

ところで、西木政統氏の論文には、大変興味深い考えが述べられていました。

この論文は、薬師像の銘文の釈読、造像記の内容検討、及び造立意図を中心に論及されたものなのですが、薬師像の「恐ろしげで畏怖感を発散させる顔貌」の解釈のあり方についても、新たな考究がされています。

威嚇的で恐ろしい顔貌といわれる黒石寺・薬師如来像
威嚇的で恐ろしい顔貌といわれる黒石寺・薬師如来像

前段の本文でふれたように、黒石寺薬師像が「威嚇的で恐ろしいお顔」をしているのは、

東北の開拓にあたり、蝦夷と厳しく対峙した人たちが、その前進基地において、蝦夷に対する調伏の祈りをこめて、畏怖するような容貌の仏像を造ったのだ。

という風に、これまで説明されてきました。


【黒石寺薬師の容貌、造形は、「唐風の新様」の採り入れという考え方】

西木氏は、この考え方に、一つの疑問を呈しています。

結論からご紹介すれば、
黒石寺薬師像の特異な容貌やその造形は、夷狄調伏などといった意図を顕したものではなくて、当時都で流行していた「唐風の新様」を採りいれ、東国に馴化した造形表現になったものではないか。
という新たな考え方が、示されているのです。

「黒石寺薬師の威嚇的容貌は、夷狄調伏の祈りの造形にはあらず。」

という考えを主張された論考を読んだのは、この論文が初めてです。
これまでの、所謂「常識、定説」に対する、大いなる問題提起といえるのでしょうか?

西木氏の主張のポイントは、次のようなものです。

・蝦夷調伏の為の造像という考えは、「三代実録」貞観15年の条に、「武蔵国に倣った、蛮夷の野心をやわらげる「五大菩薩像」を陸奥国分寺への安置」の記述があることからくるものであるが、胎内墨書銘には、夷狄調伏的な造立願意はどこにも触れられていない。

・胎内墨書銘は、あくまで貞観4年に、在地の有力者であろう主として4名の人物がかかわって造立された、という事実のみが記されているだけなので、氏族繁栄や追善供養のような願意を想定する方が、妥当ではないだろうか。

・薬師像の特異な造形は、調伏的表現とみるより、むしろ、都で流行していたであろう「唐風の新様」を採り入れた造形と考えた方が良いのではないか。

・目頭から目尻にかけてつりあがった眼の表現は、同時期の日本でこそすくないものの、中国・唐代に類例を求めることができ、武周期(7世紀末〜8世紀初め)の龍門石窟にはこうした表現の像が多く、東山・擂鼓台の宝冠如来坐像などに、顕著な例がみられる。

龍門石窟~東山・擂鼓台の宝冠如来坐像・顔部.黒石寺・薬師如来像・顔部
龍門石窟~東山・擂鼓台の宝冠如来坐像(左)と黒石寺・薬師如来像・顔部(右)
~目尻を厳しく吊り上げた眼の表現~


・脚部の、下から上に刻まれる「八」の字形に流れる衣文については、金剛峯寺西塔の大日如来坐像(仁和三3年・887頃)など、平安時代前期の造像に類例として見出せる。
東山・擂鼓台の宝冠如来坐像も同様の衣文形式で、こうした表現は唐の影響を受けたものだと考えられる。

黒石寺薬師如来坐像
黒石寺薬師如来坐像~下から上に刻まれる「八」の字形に流れる脚部の衣文

金剛峯寺西塔・大日如来坐像.龍門石窟~東山・擂鼓台の宝冠如来坐像
金剛峯寺西塔・大日如来坐像(左)  龍門石窟~東山・擂鼓台の宝冠如来坐像(右)

・総じて、古様さにもとづく正統的な造形の名残がうかがえるなかに、新渡の図様を採用したところが、本像の特色といえるのではないだろうか。

大胆に端折りましたが、このような考え方が述べられていました。


たしかに、黒石寺薬師像の顔貌を「威嚇的で恐ろしいお顔」として受け止め、蝦夷調伏的な願意に結び付ける考え方は、大変魅力的でロマンに満ちたものですが、確かな根拠資料があるものでないことも事実です。

「渡来の新様を採り入れた表現」という見方も、また一つの切り口ではないかとも思います。
ただ、目尻が吊り上がった表現の我が国での類例や、何故中央でなく東北に唐風新様の作例が残されているのかと云ったことについて、もう少し深い言及があればと思いました。

神護寺薬師像や、秋篠寺地蔵像、勝尾寺薬師三尊、霊山寺十一面観音像など、所謂「怖い仏像、恐ろしい仏像」については、その霊威感を表出する造立意図、背景について、いろいろ議論されていますが、現代の視点から当時の造形表現の精神、背景をさぐっていくというのは、なかなか決め手のない難しいものでしょう。

西木氏の論考は、黒石寺薬師像の「恐ろし気な威嚇的容貌」の考察を主眼としたものではないので、造形表現の類例検討などについて、詳しく考察されたものではありませんが、一つの問題提起として、大変興味深く感じました。


そんな訳で、この追記で、簡単にご紹介させていただきました。

皆さん、この新たな考え方、どのように感じられたでしょうか?


トピックス~東寺御影堂・不動明王像、三神像の秘仏発見物語~発見物語おまけ⑥[その2] 【2015.10.19】


ここからは、同じく東寺御影堂から発見された、八幡三神像の物語です。

東寺・八幡三神像
東寺・八幡三神像

東寺・八幡三神像~僧形像

東寺・八幡三神像~女神像

東寺・八幡三神像~女神像


【御影堂・不動明王像安置の間に置かれた4基の仮厨子の発見】

【その1】では、東寺御影堂・不動明王像の調査・発見物語をたどってみました。

不動明王像は、御影堂の南面する後堂に、古来、厳重秘仏として伝えられてきました。
東寺では、不動明王の霊威に対し、畏怖の念をもって厳重に秘されてきたことが、お判りいただいたことと思います。
昭和29年(1954)の、不動明王像移坐の時にも、当時の管長、山本大僧正自身でさえ、
「未だ拝したことも、安置の間に入ったことさえない。」
とのことでした。

東寺・御影堂
東寺・御影堂

移坐は、6月に行われ、調査にあたった、丸尾彰三郎氏、倉田文作氏、西川新次氏等は、暗闇の不動明王像安置の間に、ついに足を踏み入れたのでした。

そこには、秘仏・不動明王像が祀られていたことは、当然の事なのですが、そのほかに想定外の発見があったのです。
安置の間の不動明王像の両脇には、大きな木製の仮厨子が4基置かれていたのでした。
「安置の間に秘められた4基の仮厨子」には、何が納められているのでしょうか?
神仏像が祀られているに違いありません。

実は、この想定外に見出された4基の仮厨子に納められていたのは、
「八幡三神像と伝武内宿禰像」
であったのです。
現在、国宝に指定されている、平安前期の八幡三神像のことです。


【仮厨子の中に秘められているのは八幡社・三神像なのか?】

4基の仮厨子には、厳封がなされていました。
この昭和29年の移坐の時には、開封は許されず、納められた像の姿を確認することは叶いませんでした。
像容等ははっきりしないけれども、
「東寺草創期に近い頃に造立された、八幡三神像が納められているのに違いない。」
このように、想定されたのでした。

御影堂の4基の仮厨子発見の時の有様について、倉田文作氏はこのように回顧しています。

倉田文作氏
倉田文作氏
「さて、御影堂の堂内に入ることを許されたとき、この不動明王の両わきに、大きな木製の仮厨子が四基あって、厳重に封印されているのをみないわけにいかない。
秘仏の本尊を移動するのと同時に、これらの大きな厨子も堂外にはこび出されたが、その手ごたえからすると、中にかなり大きな一木造りの像が秘められていることを想像できる。

山本管長に承ると、これらの仮厨子の中には、明治元年に焼失した東寺八幡宮の御神体が納められているという。
この方は、何しろ厨子に封印がしてあるので、扉を開くわけにいかず、調査は後の機会にゆずる外はなかった。」
(「東寺の秘宝」倉田文作・芸術新潮1966年8月号所収)


東寺八幡宮の御神体といわれると、
「弘仁年中(810~825)に、空海が八幡宮を勧進した折に、三体の神像を感得し彫刻した。」
と「東宝記」に記されている神像である可能性が高いということになります。

もし、そのような神像であったとしたら、これは驚きの大発見です。
僧形、俗体神像の最古例の像の発見ということになるわけですから。

倉田文作氏は、平安前期の三神像に違いないとの確信を持ちました。
確信を持った訳について、このように回顧しています。

「不動さまの両脇にある大きな四つの仮厨子がいやでも目にはいる。
寺の方にうかがうと、神像だときいていますというはなし。
それなら東寺鎮守の八幡三神のお像にちがいない、とおもう。
どの厨子にも厳重な封紙がみられ、これは勅封であるとのこと。

いまだから白状するが、わずかな観音開きの扉の、せい一杯のすき間から苦心してかいまみると、堂々たる女神の面相がみえる。
われわれは、そもそもこの堂の屋根つくろいにそなえて、堂内の像を搬出するお手伝いに参入したのだから、四つの厨子も移動しなければならぬ。

持ちあげてみると.仮厨子は板でつくった簡素なものなのに、像の手ごたえはずっしりと重い。
かいまみた面相のあたりに見当をつけて、厨子のそとから扉のうえにものさしを当ててみると、像高は等身をこえるものであるらしい。
わが国最古の神像である可能性がつよい。」
(「こぼればなし」倉田文作~重要文化財彫刻編第3巻付録7所収・毎日新聞社1973.11刊)

倉田氏は、扉の隙間から像容を垣間見て、また運んだ厨子(像)の重みから、「一木彫・内刳り無しの平安前期女神像」と確信したに違いありません。

4基の厨子の開封が許されず、神像の調査が叶わなかったことは、倉田氏等にとって、誠に残念なことであったことでしょう。
いつの日か、厨子の中の神像の姿を拝したいものとの強い思いを抱かれたに違いありません。

東寺・伝武内宿禰像
4基目の仮厨子に納められていた伝武内宿禰像


【3年後、厨子から姿を顕わした三神像~東寺総合調査】

秘められた、これら4基の厨子が開封され、神像が姿を顕わしたのは、それから3年後のことです。

昭和32年9月、文化財保護委員会、東寺当局、朝日新聞社の三者協力により、「東寺・総合調査」が実施されました。
東寺の霊宝蔵、宝蔵、三蜜蔵、金剛蔵に4宝庫の収蔵品を約2週間かけて全面的に確認すると大調査です。
この時、総数2600点に及ぶ寺宝が調査され、そのうち、新しく国宝、重要文化財の候補と目されるものが、約30点も確認されました。

この東寺総合調査のときに、この厨子の実査が許されることになったのでした。
厨子には勅封がなされていたため、宮内庁の手で勅封が解かれたということです。

ついに、神像との対面となりました。

「はたして二躰はまさしく女神であって、薬師寺の八幡三神のばあいとおなじであることが判明した。
いよいよ、これら四躯の像が、仮厨子からとり出されてみると、なにしろその大きさにびっくりさせられる。
八幡神は109センチ、女神二躯は、頂に髻があるので、112、114センチと像高はさらに大きい。
外に、武内宿禰像と伝えられるもの一躯があり、これは像高84.8センチで、他の三像にくらべると小ぶりにつくられている。
僧形八幡は、円頂の法躰に袈裟をかけて坐る姿で、女神二躯は、袍衣に背子をかされ、髪を胸前と背に垂れる。」
(「東寺の秘宝」倉田文作・芸術新潮1966年8月号所収)

厨子開扉に立ち会った倉田文作氏は、初めてその姿に接した時、このように語っています。

まさしく、期待に違わぬというか、想定通りというか、平安初期の見事な三神像が姿を顕わしたのでした。

東寺・三神像~僧形像
東寺・三神像~僧形像

東寺・三神像~女神像
東寺・三神像~女神像


東寺総合調査を報じる朝日新聞は、三神像発見をこのように伝えています。

「こんどの調査ではとくに工芸と彫刻の部門に大きな成果があげられたが、例えば彫刻では、従来秘仏となっていた御影堂安置の東寺八幡宮のご神体が調査された。
これは平安初期の作品で、日本の神像の最古にして最大の作品と確認されるなど、神像史上重大な発見というべきであろう。」
(1957年10月31日付・朝日新聞~松下隆章氏執筆)

総合調査、最大の発見というべきものであったのです。

東寺総合調査を報じる朝日新聞記事(1957.9.30).東寺総合調査を報じる朝日新聞記事(1957.10.31)
東寺総合調査を報じる朝日新聞記事



【平安前期の第一級の傑作神像彫刻~三神像】

私も、この三神像を、東寺宝物館や博物館に、まれに出展された折に観たことがあります。

神像を眼前にして
「これは凄い、流石、第一級の平安前期神像だ!」
と、大いに感動した記憶があります。
堂々たる重量感に満ちて、迫力満点のインパクトを強く感じる神像です。
まさに平安前期彫刻の威風、オーラを発散しています。
また、一種妖しげな感覚に惹き込まれていくような引力のようなもの漂わせています。

東寺・三神像~僧形像顔部
東寺・三神像~僧形像顔部

東寺・三神像~女神像顔部
東寺・三神像~女神像顔部


本像の像容、作風について、松原智美氏は、このように解説しています。

「作風を見ると、三像とも体躯は幅が広く、厚みがあり、膝張りも十分で、きわめて重量感に富んでいる。
丸く張った肩から胸にかけての肉づきは、豊かで弾力性がある。
この体躯にふさわしく、頭部も丸く大きい。

全体に丸く豊かな印象を与えるところが、本神像の造形的特徴のひとつである。
面部は、眼鼻の彫りが比較的浅く、肉づけは起伏に乏しい。
そのため一見平板のようだが、やはり丸く豊かな頬には張りがあり、生気が感じられる。
眉は細く、ゆるやかなカーブを描き、直線的な上瞼にゆるい曲線の下瞼をそえた細い眼は、伏し目がちに前方を見据えている。
鼻は低めで短く、唇は小ぶりで厚みがある。

その表情には、承和12年(845)頃の神護寺五大虚空蔵菩薩像や、これとほぼ同時期の作とみられる観心寺如意輪観音像に通じる、一種官能的といえるムードが漂っている。
本三神像は神像彫刻であるが、以上のような豊満で官能的な作風は、承和6年(839)に開眼供養された東寺講堂の諸像を嚆矢とする、いわゆる密教様の概念でとらえられるものであう。」
(「日本の古寺美術12巻・東寺」1988保育社刊所収)


神護寺・五大虚空蔵菩薩像.神護寺・五大虚空蔵菩薩像~顔部
神護寺・五大虚空蔵菩薩像

観心寺・如意輪観音坐像.観心寺・如意輪観音坐像~顔部
観心寺・如意輪観音坐像


【三神像の来歴と、御影堂安置のいきさつ~神像彫刻の最古例】

さて、倉田文作氏は、厨子開封前から、
「この神像は、東寺八幡宮草創期のご神体が、厨子に祀られているのではないか?」
と想定しました。

間違いなく平安前期の制作であろうその姿が顕れ、「想定」は「確信」に変わったことでしょう。

その来歴はどのように考えられるのでしょうか?

東寺八幡宮の草創と三神像について、「東宝記」はこのように記しています。

東寺草創にあたり、帝都鎮護のために八幡宮を勧請したが、この時は神体を安置するには至らず、弘仁年中(810~824)に社殿を建立して、再び勧請した。
その際、空中に影現した八幡三神所の御影を空海が紙形に写しとり、後に木像に刻んだ。
その木像は、僧形、女体、俗体の三体であったという。

この記事によると、八幡宮の神体は、僧形、女体、俗体という姿であったことになります。
現存三神像は、僧形1躯、女神2躯で、一致しません。

ところが、同じ「東宝記」の八幡宮遷宮についてふれた部分には、

正中2年(1325)に行われた八幡宮修造の際、夜陰におよんで神体を仮殿に遷座したが、その時に、執行厳伊が実見した神体は、僧形と左右女躰であった。

とされており、現存三尊像と一致しています。

現三神像は、東寺八幡宮草創期に造立されたものと見てよいのでしょうか?


倉田文作氏は、「東寺の八幡三神について」(大和文華26号1958.6)という論文において、

この三神像は、遷座の時も余人を寄せ付けないほどの秘され方で、その像容も寺家の言い伝えに過ぎず、八幡宮草創時から僧形1躯、女神2躯であったと考えて差し支えないであろう。

像の構造や造形表現などから、総合的に考えても、
「東宝記に、これらの神像を大師在世時の感得像として紹介するのも故なきにあらず、ここにこの一具の像は、わが国神像中の最古最大の作と称すべきものである。」

このように述べています。

久野健氏も、この倉田氏の見方を支持しているようで、このように述べています。

広隆寺講堂・地蔵菩薩像
広隆寺講堂・地蔵菩薩像
「八幡神像がこれ(貞観6~10年・864~8造立とされる広隆寺講堂地蔵菩薩像)に比べ、古様を示していることは、誰の目にも明らかなところであろう。

そして二女神像の両膝に現れる衣文などは、承和6年(839)の東寺講堂の五菩薩像、また承和7年より12年(840~845)頃までに真済により発願造立された神護寺の五大虚空蔵菩薩や、さらに古く、天長年間(824~834)の制作と考えられる広隆寺講堂の阿弥陀如来坐像に近く、こうした点は、この三神像が、弘仁年中の制作と記す『東宝記』の記事もまた一部の真を伝えていると考えられ、少なくとも空海在世中(835年没)には制作されていたのではないかということが推定される。」
(「平安初期彫刻史の研究・第4章~東寺草創期の彫像」久野健著・1974年吉川弘文館刊)


三神像の造立が、空海在世中の弘仁年間(810~824)まで遡り得るかどうかは、何とも言えないと思いますが、東寺講堂諸像が開眼された承和6年(839)をさほど下らぬ頃以前の、平安前期の制作であるのは間違いなく、9世紀制作の神像彫刻の最古例の一つであることには間違いありません。

因みに9世紀に遡る神像彫刻としては、
広島・御調神社の女神像、京都・松尾大社の三神像、奈良・薬師寺の八幡三神像(寛平年間889~898)を挙げることが出来ます。

御調神社・女神像
御調神社・女神像

松尾大社・男神像
松尾大社・女神像.松尾大社・男神像
松尾大社・三神像

薬師寺・八幡三神像
薬師寺・八幡三神像.薬師寺・八幡三神像
薬師寺・八幡三神像
 

東寺三神像が最も古いのかどうかは、これからまだ議論が起こる余地がありそうです。


ところで、東寺八幡宮草創期のご神体であった三神像が、どうして御影堂の不動明王像の横に保管されていたのでしょうか?

八幡宮の建物についての主なる記録をたどると、草創期から何度かの修理修復が行われてきましたが、文明18年(1486)の土一揆で伽藍と共に焼失し、翌18年に再建が開始されました。
ところが再建社殿も、明治元年に、南大門と共に再び焼失してしまいます。
この時、八幡三神像と伝武内宿禰像の4体は、仮厨子の中に納められ、御影堂に移されて保管されました。
緊急避難の仮住まいであったのだと思います。
そのことが世に伝えられることなく祀られ、80年余を経た昭和29年(1954)に発見された、というわけです。

東寺の鎮守八幡は、平成3年(1991)に本殿、拝殿が再建されました。

東寺・鎮守八幡宮

東寺・鎮守八幡宮
東寺・鎮守八幡宮
 

発見された三神像は、昭和40年(1965)に宝物館が出来てからは、そこで保管所蔵されていましたが、現在は、この八幡社に祀られており、まれに一部の像が宝物館に展示されることがあります。
通常は、拝することが出来ないのは、残念なことです。


ここで、三神像と共に発見された、伝武内宿禰像について、ちょっとふれておきます。
寺伝に武内宿禰と伝えられる像で、像高84.8cmと、三神像よりやや小ぶりの上半身裸形像です。
一木彫像ですが、やや細身のおだやかな作風で、三神像からはかなり遅れた時期の、平安後期の制作とみられています。

東寺・伝武内宿禰像
東寺・伝武内宿禰像
 


【一本の神木、霊木から彫り出された三神像】

最後に注目しておきたいのは、東寺三神像の制作に用いられた、樹木・用材についてのことです。
材はヒノキといわれていますが、特殊な樹木が使われていると思われるのです。

三つの神像を像底から見ると、共に像の上の方に向けて大きな空洞があるのです。
内刳りではなく当初からの用材のウロ、即ち朽損なのです。
三体とも、この空洞を覆うようにして、面部、胸部、腹部などに別材を矧ぎ付けるという特殊な構造をしています。

下賀茂神社・霹靂木
霹靂木(へきれきぼく)
~落雷で神が降臨したとされる~
京都下賀茂神社
特別な意味なしに、大きなウロのある不自由で、窮屈な材を、わざわざ用いて彫るということは考えられません。
そんな材に、無理をして彫っているので、大事な顔の部分にも埋木のような矧付けをせざるを得なかったのです。

要するに、一本の朽損した巨木から、三像全ての材をとったとみられるのです。
この巨木が、由緒ある「霊木、神木」であったことに違いありません。
神像彫刻に霊木、神木を用いるということは、古来よく言われているのですが、それを間違いなく確認できる数少ない貴重な作例ということになるのです。
「神の依り代」という言葉が、実感されます。

この三神像が発散する、霊的な威風、オーラの源泉は、こんなところにあるのかも知れません。

因みに、薬師寺の八幡三神像も一材から三体分を木取りしていると見られ、同じく霊木、神木から彫り出された像だと見られています。

東寺・三神像が、平安前期彫刻の傑作であること、最古例の神像彫刻として、神像史上極めて重要な像であることがお判りいただけたことと思います。

昭和32年(1957)9月の東寺総合調査で、実査が実現した東寺三神像は、翌年、昭和33年(1958)2月に、すぐに重要文化財に指定されました。
そして、3年後の昭和36年(1961)4月には、「国宝」に指定されました。
伝武内宿禰像も、国宝三神像付けたりとして指定されています。


【御影堂不動明王像、三神像発見物語の終わりに】

この辺で、東寺西院御影堂から調査、発見された、国宝・不動明王像、国宝・三神像の発見物語のご紹介を、終えたいと思います。

共に、平安前期を代表する、超一流の傑作です。
よくぞ、これだけの優れた彫像が、当初の美しさを残したままで、伝えられてきたものだと、感動さえ覚えてしまいます。

両像の調査発見に関わった倉田文作氏が、東寺御影堂での「二つの国宝仏像の発見」を回顧し、感慨を込めて語った文章を最後にご紹介して、この話を締めくくらせていただきます。

「これらの御影堂の彫刻の国宝指定は、史料的にいえば、発掘ととなえるのはあたらないとおもうが、これらの、文字どおり平安初期の代表作品に数えられるべき仏像、神像が、こうして近年はじめて公にされ、平安彫刻史の研究にあたらしい光をなげかけたことは、発掘の名にあたいするともいえよう。

この御影堂は、けっして何も大堂宇ではない。
大師の住坊よばれるのに、いかにもふきわしい、簡素で、清らかな一郭であって東寺の大伽藍のなかでは、いたって人目をひかぬひそやかなところなのだが、近年にいたって、この東寺御影堂の名は、とみに日本彫刻史上重きを加えたといわねばなるまい。」
(「東寺の秘宝」倉田文作・芸術新潮1966年8月号所収)


あれこれ~中国石窟探訪旅行記「中国河北省・山東省の古仏を訪ねて」連載スタート 【2015.10.10】


沼田保男さんの中国石窟・石仏探訪旅行記の第3弾、

「中国河北省・山東省の古仏を訪ねて」

の連載が、神奈川仏教文化研究所HPでスタートします。

中国河北省・山東省の古仏を訪ねて・表紙

毎週、8回連載で掲載させていただく予定です。

沼田さんは、ここ数年、我国の古代仏像のルーツを求めて、精力的に中国石窟を探訪されています。
これまでに、
中国五大石窟~敦煌莫高窟、雲崗石窟、龍門石窟、麦積山石窟、炳霊寺石窟~
の全踏破、探訪を果たされました。

中国石窟探訪の中で培われた、中国古代仏像についての造詣の深さには、並々ならぬものがあります。
こうした知見を生かし、飛鳥白鳳の小金銅仏について、造形のルーツや中国仏像様式の伝播などを考察した
「法隆寺献納宝物と『四十八体仏』について」
と題する論考を執筆され、今年(2015年)1~4月に、神奈川仏教文化研究所HPに掲載させていただきました。
皆さん、興味深く愉しくご覧いただいたことと思います。


今回スタートする連載は、沼田さんが同好の方少人数で、河北省・山東省の石窟、博物館などを、昨年8~9月に探訪旅行された時の旅行記です

・河北省、山東省に点在する、南北響堂山石窟、神通寺千仏崖石窟、駝山石窟など主要な石窟の探訪、

・近年、青洲龍興寺遺跡から発掘され、「飛鳥仏の面影」を漂わせるといわれる数百体の古代石仏像を展示する青洲市博物館訪問

などを、主なターゲットにした探訪旅行であったそうです。

少人数でじっくり訪れた旅行記は、興味深く、読み応えがあります。
私も、ついつい惹き込まれて、自ら現地を訪ねているような気持ちになって、読ませていただきました。
ツァーなどでは訪ねることのない中国石窟の数々の探訪記と、沼田さんならではの造詣で綴られた旅行記を、是非お愉しみください。


これまで、神奈川仏教文化研究所HPに掲載している中国石窟に関連する連載記事は、沼田さんの旅行記をはじめとして、次のようなものがあります。

中国石窟にご関心のある方には、ご参考になろうかと思います。
今回の新連載と共に、もう一度振り返っていただければ、有難く思います。

中国山西省 雲岡石窟・古寺・古仏 感動の旅(2010)   沼田保男氏執筆
沼田さんの中国石窟探訪旅行記、第一弾です。
雲岡石窟、天竜山石窟など、山西省の古寺・古仏を巡る旅の記録です。
雲岡石窟・各窟の石仏の有様や美しさが、沼田さんの眼を通じて、細やかに鮮やかに綴られています。

黄河上流域 遥かなる石窟の旅(2011)   沼田保男氏執筆
沼田さんの中国石窟探訪旅行記、第二弾です。
五大石窟とも称せられる麦積山石窟、炳霊寺石窟をはじめ、大像山石窟、須弥山石窟、王母宮石窟、南北石窟寺などの探訪記です。
西域と中原を結ぶシルクロードの玄関口に近いエリアの10箇所の石窟を巡ります。

雲崗・鞏県・龍門石窟道中記   高見徹氏執筆
本HPの創設者・前管理人の故高見徹さんが、2006年に、雲崗・鞏県・龍門三石窟を巡ったときの探訪記です。

中国洛陽石窟道中記(H22) 高見徹氏執筆
故高見徹さんが、2010年に、鞏県・龍門石窟を再訪するとともに、洛陽の博物館などを巡った時の旅行記です。

埃まみれの書棚から
中国三大石窟を巡る人々をたどる本   《その1》敦煌石窟編
中国三大石窟を巡る人々をたどる本   《その2》雲 岡・龍門石窟編

敦煌・雲崗・龍門・天龍山石窟についての近代の歴史物語です。
探検家や学者による石窟の発見、経典など古文書の海外流出や石仏の盗掘・海外流出、その後の保存事業など、近代から現代に至るこれらの石窟の歴史と、それを巡る人々を物語風にたどった読み物です。
関連する本も、数多く紹介しています。


是非、ご覧ください。

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