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観仏日々帖

トピックス~千葉龍角寺・薬師如来坐像の発見・・・白鳳展に寄せて③ 【2015.8.22】


白鳳展出展仏像の発見物語の第3回目です。

今回は、千葉県印旛郡栄町にあるにある龍角寺の薬師如来坐像の発見について振り返ってみたいと思います。


【関東地方の数少ない古代金銅仏~龍角寺・薬師如来坐像】

龍角寺の薬師如来坐像は、関東に残る数少ない白鳳~奈良時代の金銅仏として知られています。

残念ながら、首から下は江戸時代、元禄年間に後補されたものに変わっており、頭部のみが白鳳~奈良時代のものが遺されています。

龍角寺・薬師如来坐像

龍角寺・薬師如来坐像
龍角寺・薬師如来坐像(頭部のみ白鳳~奈良時代)

関東では、古代の金銅仏は4躯が遺されているにすぎません。
そのうち2躯は、小金銅仏です。
(東京八王子市・真覚寺薬師如来倚像、東京三宅島・海蔵寺・観音菩薩立像)
大型の金銅仏の遺作は、龍角寺・薬師如来坐像と、先に発見物語をご紹介した深大寺・釈迦如来倚像の2躯だけで、関東の古代彫刻を語るうえでは、大変重要、貴重な作例となっています。

真覚寺薬師如来倚像..海蔵寺・観音菩薩立像
真覚寺薬師如来倚像          海蔵寺・観音菩薩立像

深大寺・釈迦如来倚像
深大寺・釈迦如来倚像


龍角寺の薬師如来坐像は、昭和7年(1932)に発見されました。

仏像そのものが、新たに出現して発見されたというものではありません。
昔から龍角寺のご本尊として、祀られていました。
像高92cmもある、立派な金銅仏です。

お堂(収蔵庫)に安置されている龍角寺・薬師如来坐像
お堂(収蔵庫)に安置されている龍角寺・薬師如来坐像

この仏像の頭部が、古代の金銅仏であるということが判明し、白鳳仏であることが発見されたのが、昭和7年(1932)のことというものです。
倉庫や納屋の片隅から、仏像が見つけ出されたというわけではありませんので、この発見は
「美術史上の発見」
と云えるものでしょう。

そうはいっても、関東の地で、白鳳時代まで遡り得る大型の金銅仏像が見出されたのです。
「関東における白鳳仏像の大発見」といって間違いないものだと思います。
ただ、以前から知られていた仏像が、白鳳~奈良時代であると判明したという話ですから、それほどドラマチックな発見物語があるわけではありません。

あまり面白くない発見物語のご紹介になろうかと思いますが、ご容赦ください。


【最初に薬師像に注目した人~氏家重次郎氏】

龍角寺・薬師如来像の第一発見者は、氏家重次郎という人でした。
氏家重次郎氏は、建築家ということです。

氏家氏は、仏像発見の数年前に、偶然に龍角寺に来合わせ、本堂の建築が優れているのに心を止め、昭和7年の3月、再度、龍角寺の撮影に赴きました。

龍角寺境内と本堂
龍角寺境内と本堂

本堂は、江戸時代、元禄10年の建立で、氏家氏は、この本堂が特別保護建造物に指定できないかと思っていたようです。

氏家氏は、この時の龍角寺訪問時に、本尊の薬師如来像の写真を撮影しました。
また、椎名寅吉氏所蔵の、当地出土の古代の鐙瓦も預かったのでした。

昭和7年当時に撮影された龍角寺・薬師如来坐像.龍角寺出土の古代鐙瓦
昭和7年当時に撮影された龍角寺・薬師如来坐像(左)龍角寺出土の古代鐙瓦(右)

元々龍角寺は、和銅2年(709)創建と伝えられ、境内には古代の塔心礎が残されているという古刹です。

境内に遺る塔心礎
龍角寺境内に遺る塔心礎

龍角寺・仁王門址礎石
龍角寺・仁王門址礎石

氏家氏も、
「鐙瓦は、創建時のものではないか?」
「薬師如来像も、存外古いのではないか?」
と、感じとったのではないかと思います。


【調査に赴いた、文部省の丸尾彰三郎氏】

氏家氏は、この薬師如来像の写真を、当時、文部省・国宝監査官であった丸尾彰三郎氏に見せたのでした。

丸尾彰三郎氏(1892~1980)という人は、仏像彫刻史にご関心のある方なら、名前を御存じのことと思います。
文部省で、文化財保護行政に長らく携わった仁で、戦前は国宝鑑査官を長らく務め、戦後は、1956年文部省退官後、文化財専門審議会専門委員を務めた仏像彫刻の専門家です。
今も刊行が続く「日本彫刻史基礎資料集成」の編集者でもありました。

丸尾氏も、この仏像写真を見て、強い関心を抱いたようです。
早速、その年(昭和7年)の4月に、龍角寺に調査に出かけたのです。

丸尾氏は、発見の年の8月、雑誌「宝雲」(第3冊)に、龍角寺・薬師像のことを採り上げ、このように記しています。

龍角寺・薬師如来像頭部
龍角寺・薬師如来像頭部
「本年の始でしたか、この像の発見者建築士氏家重次郎氏からその話を聞き、其後その小さな写真を見せられて『おや』と思い、この4月17日それを実査して『これは』と認めた次第、その後関野先生も実査されて新聞にも報道されることとなったのです。」
(「龍角寺薬師如来像」宝雲第3冊、1932.8刊所収)

文中の
「『おや』と思い、・・・『これは』と認めた」
というのは、丸尾氏は、薬師像の頭部が、白鳳時代の制作と考えたということでした。

「厳然として、奈良朝前期と言いますか、天平時代より早い頃の、即ち奈良薬師寺や蟹満や、この辺では深大寺の諸銅像の時代の様式が存しております。」

このように語っています。

丸尾氏も、この仏像の存在は、それまで認識していなかったのでしょう。

なんといっても、龍角寺のある場所は、国鉄成田線安食駅の東2~3キロの辺鄙な田舎といっても良いところです。
訪れる人めったになかったに違いありません。
古代伽藍があった場所とは知られていても、そんなに古い仏像が遺されているなどとは考えられもしていなかったのだと思います。
また、薬師如来像は、首から下は江戸時代の後補ですから、仏像全部が江戸時代(龍角寺再建の元禄年間)に制作された仏像だと思われていたのでしょう。


文部省の丸尾氏が龍角寺を訪れて、「奈良朝前期」の仏像と認めたということなのですが、この「白鳳仏像の発見」は、世に大きく発表されるとか、新聞報道されるということはなかったようです。
丸尾氏の方が、積極的に世間に発見を発表しなかったのではないでしょうか?


【重鎮、関野貞氏の調査と、大発見の新聞報道】

丸尾氏の龍角寺調査の翌月、昭和7年(1932)5月、今度は、関野貞氏が調査に訪問します。

関野氏は、龍角寺調査のいきさつについて、このように述べています。

「龍角寺は千葉縣印幡郡龍角寺に在り、成田線安食駅より約一里、今すこぶる衰微すれども昔時は有名の大伽藍であつた。
近頃建築家氏家重次郎氏偶然寺に詣り、其本堂と本尊の写真と境内出上の古瓦片とを余に示された。

余は其本尊と古瓦片の寧楽時代初期の者たるに驚き、去る5月15日文部省国宝建造物保存室の諸氏と往訪し、仕職及び有志諸氏の好意により調査かつ必要の撮影を為すことができた。」
(「龍角寺銅造薬師如来像及古瓦片」歴史教育7巻4号1932年刊所収)

氏家重次郎氏は、龍角寺薬師像の写真と、出土の古代の鐙瓦を関野氏にも見せたようです。
丸尾彰三郎氏経由だったのかどうかは、良く判りません。
関野貞氏も、調査の結果、薬師如来像頭部は白鳳期の制作と認めます。

仏教美術好きで、関野貞氏(1868~1935)の名前を知らない人はいないでしょう。
「明治期の古建築の文化財指定」「法隆寺再建非再建論争の非再建論者」「平城宮址の発見」「天竜山石窟寺院の発見」などで知られています。
建築史、仏教美術史の研究者、文化財保護行政の大御所として余りに著名です。
龍角寺・薬師像発見当時は65才、東京帝国大学名誉教授、古社寺保存会委員という重鎮です。

その関野貞氏が、お墨付きを与えたからか、重鎮・関野氏出馬の調査ということで新聞記者の取材対象になったのか、
「龍角寺薬師如来坐像の発見」「白鳳期大型金銅仏の大発見」
が新聞紙上に大々的に報じられたのでした。

「奈良の大仏より古い国宝的佛像発見さる
1250年を経た寧楽初期の傑作
関東最古の珍しいもの」


「大昔の千葉県に驚異の伽藍
国宝と史蹟の価値は充分
鑑定した関野博士談」


6月4日付の都新聞には、このような大見出しで白鳳仏像の発見が報じられ、龍角寺の薬師像は、広く世に知られることになりました。

新聞記事は、ご覧のとおりです。

龍角寺・薬師如来像発見報道記事(都新聞)

龍角寺・薬師如来像発見報道記事(都新聞)

龍角寺・薬師如来像発見報道記事(都新聞)

都新聞は、龍角寺・薬師像の発見を、このように報じています。

「従来、学者、専門家にも全く知られずにいた国宝的佛像が発見された。
千葉県印旛郡安食町近傍龍角寺の従来殆ど扉の鎖された薬師堂内にある一躯の薬師如来の坐像がそれである。

発見の端緒は、数年前建築家氏家重次郎氏が偶然ここへ来合せて、寺の建築の優れているのに心を止め、今春3月再び同寺撮影に行きついでに古色蒼然たる仏像も写して文部省の関野貞博士に鑑定を乞うたところ、寺の建築は元禄時代のものだが、仏像は稀に見る古い。

早速、5月中旬から同博士が龍角寺に出張調査すると、これは丈4尺の銅造りの薬師如来坐像で、残念にも胴体は当寺が元禄5年に全焼した際破損し、元禄10年本堂再建の際に継足したもののようであるが、頭部は正しく美術史上の寧楽時代初期(白鳳期)の傑作で、すでに1250年を経、奈良の薬師寺の東院堂の聖観音、法隆寺の夢違観音等と同時代であり、有名な奈良の大仏より古いというのである。

従来寧楽時代初期の彫刻は、関東には府下北多摩郡神代村の深大寺釈迦如来像唯一つであったのだが、この深大寺像より多少古いとみられる仏像がここに新たに発見せられたわけである。」

この龍角寺・薬師像発見のニュースは、都新聞のスクープだったのか、当時の朝日新聞などの有力紙は報道していないようです。


奈良とか京都とかではなくて、関東地方、それも千葉の田舎から、白鳳の大金銅仏が発見されたわけですから、全く想定外の大ビックリだったのだと思います。
「本当に、本当? 嘘じゃないの?」
と疑ってしまいます。

ところが、当時、撮影された龍角寺・薬師像の写真を見てみると、その頭部は、
「誰が見ても堂々たる白鳳~奈良期の金銅仏」
です。

発見の年・昭和17年当時の龍角寺薬師如来像の写真.発見の年・昭和17年当時の龍角寺薬師如来像の写真
発見の年・昭和17年当時の龍角寺薬師如来像の写真(「宝雲」第3冊掲載)

切れ長の眉目、鎬線が立ち美しいカーブを描く鼻筋、ふくよかさを示す頬など、いわゆる白鳳仏の特長を備えています。
それも、小金銅仏というのではなくて、等身ほどの大型金銅仏であったのですから。
実際に、この薬師像を目の前にした人達は、本当に、びっくりしたのだろうなと思います。


関野貞氏も、この発見の調査報告的に書かれた「龍角寺銅造薬師如来像及古瓦片」(歴史教育7巻4号1932年刊)という文章で、このように語っています。

深大寺・釈迦如来倚像~頭部
深大寺・釈迦如来倚像~頭部
「要するに其様式手法は、明かに寧楽時代の初期の特色をあらわし、薬師寺東院の聖観音に次ぎて法隆寺の夢違観音や新薬師寺の香薬師如来及び深大寺の釈迦如来と殆んど同時代に成つたもので.稀れに見る所の傑作である。

唯惜むべきは 頸以下の体躯は全部後世の補修であることである。
頭部は人災に遭った形跡が明かに,膚が處々荒れている。
・・・・・・・・・
要するに龍角寺の其本尊は寧楽時代初期の傑作でみる。
其当初屋上に用ひられた巴瓦唐草瓦亦同様寧楽時代初期の代表的優作で、共に寺伝の創立と称する和銅までは下るものとは考えられぬ。
蓋し和銅創立説は恐らぐは後世の附會で、寺はそれよりも前に既に建立せられでゐだのであろう。

兎に角従来あまり世間に知られていなかつた大伽藍が、其本尊と新たに発見された瓦當とにより、寧楽時代の初頭に都を遠く離れたかヽる僻遠の地に建てられたことが明かになったことは, 極めて興味あることに属する。」
(「龍角寺銅造薬師如来像及古瓦片」歴史教育7巻4号1932年刊所収)

この龍角寺の薬師如来坐像、美術史上の重要な作例であると認められたのでしょう。
発見の翌年、昭和8年1月に、早速、国宝(旧国宝・現重要文化財)にスピード指定されました。


【おわりに】

皆さん、奈良国立博物館の白鳳展で、もう龍角寺の薬師如来坐像をご覧になったでしょうか?

確かに、首から下が江戸時代の後補なので、展示された周りの立派な白鳳仏を較べると、全体的には、ちょっと見劣りしてしまうような気もしますが、頭部だけに目を凝らして、じっくり見てみると、大変完成度の高い優作であることが判ります。


この金銅仏像、奈良などの中央で造られたのでしょうか?
それとも、関東の当地で造られたのでしょうか?

制作年代は、7世紀後半の白鳳期なのでしょうか、
それとも8世紀和銅年間に入って以降のものなのでしょうか?

薬師像の前に立ち、そのお顔を眺めていると、そんな疑問が、ちょっと湧いてきます。

専門家は、蟹満寺・釈迦如来像の頭部、面貌との類似を指摘しているものが多いようです。

蟹満寺・釈迦如来坐像~頭部.龍角寺・薬師如来坐像~頭部
蟹満寺・釈迦如来坐像~頭部      龍角寺・薬師如来坐像~頭部

龍角寺縁起は、寺の創建を和銅2年(709)と伝えますが、出土瓦の編年からは、龍角寺の創建年代はもっと古い650年から660年代とみられると云われています。
薬師像の制作時期についても見方も定まっていないようで、なかなか興味深いところです。

皆さん、どのようにみられるでしょうか?

なかなか、難しいところのように思えます。
私は、これまでなんとなく8世紀に入ってからの制作なのかなと感じがしていたのですが、今回、白鳳展でじっくりとその顔部の造形表現を観てみて、白鳳期に造られた像のように思えてきました。
感覚的な話ですが、龍角寺薬師像には、大陸風というか渡来系の造形の空気感が、より漂っているように強く感じました。
そのあたりの処は、発見物語のテーマから外れていってしまいますので、この辺にしておきたいと思います。


今回は、龍角寺・薬師如来坐像の昭和7年(1932)の発見のいきさつを振り返ってみました。

トピックス~野中寺・弥勒半跏像の発見とその後・・・白鳳展に寄せて②【その2】   【2015.8.15】


【その1】では、野中寺金銅弥勒像の劇的発見物語と、発見報道の真相についてたどってきました。
    
近年になって、本像の銘文、制作年代に疑問を投げかける、センセーショナルな問題提起がなされました。

ここからは、この問題提起をめぐる論争や研究を振り返ってみたいと思います。


【その後の野中寺像研究と、近年の偽名、擬古作の可能性の問題提起】

野中寺像の発見の経緯には、振り返るといろいろあったようですが、弥勒半跏像そのものが、白鳳の冒頭期を飾る基準作例であるという位置づけは定着し、長らく変わることはありませんでした。
即ち、丙寅、天智5年(666)の制作であり、斉随様から初唐様式の影響を受けた作品であるということでした。
昭和40年代までは、この点についての大きな異論は、唱えられなかったのではないかと思います。

野中寺・弥勒半跏像
野中寺・弥勒菩薩半跏像

どんな仏像の本を読んでも、白鳳時代の処には、必ず野中寺弥勒像が採り上げられています。
天智5年(666)の制作で、白鳳らしい明るくのびやかな造形表現への転換を感じ取れる作品としています。


こうしたなかで、議論があったのは、刻銘文の、判読、解釈に関することでした。
・銘文の「四月大八日」のにあたる文字は、「朔」なのか、「旧」なのか、あるいは「洎」と判ずるのではないか?

・「栢寺」というのは、橘寺のことか、そのほかのいずれかの寺を指すのか、野中寺そのもののことなのか?

野中寺像台座の「四月大□八日」と刻された□の文字...野中寺像台座の「栢寺」と刻された栢の文字
野中寺像台座の「四月大八日」と刻されたの文字(左)と「栢寺」と刻された栢の文字(右)

・「中宮天皇」とは誰のことをさすのか?

・天皇号が用いられるようになった時期は、いつ頃と考えられるのか?

このような事柄が、野中寺弥勒半跏像にまつわる問題として議論されていたのではないでしょうか。


〈野中寺像は、偽銘・擬古作か?~センセーショナルな問題提起〉

ところが、近年、平成12年(2000)に至って、センセーショナルな問題提起がなされました。

結論から言いますと、

・野中寺弥勒半跏像の銘文は、明治末年以降に撰文された偽銘の可能性がある。

・野中寺像そのものの制作年代にも疑問が生ずる。

という問題提起でした。

これこそ、大正時代の野中寺像の大発見よりも、大ビックリ、驚きの問題提起でした。
この問題提起は、東野治之氏によってなされたものです。

その論旨は、
野中寺弥勒像台座銘の再検討(東野治之) 国語と国文学・77巻11号所収 (2000.12刊)
に、詳しく述べられています。

東野治之氏は、日本古代史、文化財史料学者で、奈良国立文化財研究所文部技官、大阪大学教授、奈良大学教授を歴任した、大変著名な研究者です。
「正倉院文書と木簡の研究」「日本古代木簡の研究」「日本古代金石文の研究」などの著作で知られています。
その東野氏の問題提起ですから、センセーショナルで注目を浴びる出来事であったのではないかと思います。

東野氏は、それまでにも、
「野中寺像は、その銘文も含め7世紀末ごろに作られた可能性が大きい。」
(「正倉院文書と木簡の研究」1977.9塙書房刊所収)
と述べていましたが、
そんなレベルの異説どころではなく、これまでの美術史の定説を根本から覆させるものでした。

私には、古代金石文学とか文字資料学といった話は、全くわかりません。

東野氏の論文の結論部分の処をそのまま転記すると、このように述べられています。

「造像銘の撰文時に空白符が使われているという特異さと、右述のような特徴を総合すれば、この銘文は古写本や古代の暦注・文章・書風などに詳しい人物によって後代に撰文されたと考える余地もあるのではなかろうか。
・・・・・・・・・・・・・
もしそうであるとすれば、撰文の年代は極めて新しいことになる。
もちろん理屈の上では、古い銘文が伝えられていて古像に追刻されるということも想定できるが、銘文の書風は伝聖徳太子筆『法華義硫』のそれに極めて近い。
このような書風に則って刻銘することが、中世や近世前半になされるとはまず考えられないであろう。

しかも十二直の知識が再発見されるには、明治末年の山田孝雄の研究を俟たねばならなかった。
銘文が新たに撰文されたとすると、その時期は野中寺像が、学界や世間に知られるようになった大正7年(1918)に比較的近い時点とならざるをえない。

私自身、空白符の問題に思い至るまで、本銘文は古代のものとして何ら疑ったことはなかった。
現時点でこれを偽銘と断じる気は更々ないが、これまで説き来たった通り、この銘文に奇異な点が残るのは打ち消しがたい。
仄聞するところでは、美術史研究者の中にも、野中寺像そのものの制作年代を疑う意見があるという。」

また、東野氏は、冒頭の「丙寅年四月大八日癸卯開記」のを「旧」と読み、元嘉暦(旧暦)と儀鳳暦(新暦)の併用された持統4年(690)以前の銘ではありえないとしました。

これに対して、この後の論争でご紹介する、麻木脩平氏は、
「野中寺弥勒菩薩半迦像の制作時期と台座銘文」(『佛教美術』256号 2001年5月)
で東野氏に反論し、
銘文の(旧)を「朔」と読み、像の作成直後に入れられたものと主張しています。

この論旨、お判りいただいたでしょうか?
私には難しすぎて、全く理解できません。
ただ、東野氏が、銘文は明治末年以降の偽名・追刻、仏像は後世の擬古作という疑問を提起していることは、間違いありません。


野中寺像の制作年代を、擬古作とか、現代の偽作である可能性について、美術史の世界で論じられたものはみたことがありませんが、疑問を感じられていたこともあったのかも知れません。

「日本仏像史」(2001年美術出版社刊)に、こんなことが書かれていました。

「しかし、野中寺像については最近、銘文内容に若干の疑問がもたれ、発見の経緯にも疑問があるなど、なお検討すべき点が残される。」(浅井和春氏執筆)


〈論争の展開と深められた検証研究~近代擬古作の疑問払拭へ〉

この、東野治之氏の論文の問題提起を発端に、野中寺の銘文と制作年代についての論争や、検証研究が行われました。
目についた関係論文をピックアップしてみると、こんな感じです。

・野中寺弥勒半跏像の制作時期と台座銘文(麻木侑平)仏教芸術256号2001.5

・野中寺弥勒像銘文再説~麻木侑平氏の批判に接して(東野治之)仏教芸術258号2001.9

・再び野中寺弥勒像台座銘文を論ず(麻木侑平)仏教芸術264号2002.9

・野中寺弥勒菩薩像の銘文読解と制作年についての考証(松田真平)仏教芸術313号2010.12

・野中寺菩薩半跏像をめぐって(礪波恵昭)「方法としての仏教文化史」2010.11勉誠社刊所収

・野中寺弥勒菩薩像について(藤岡穣)ミューゼアム649号2014.4

このように、続々、研究論文が発表されました。
論争もありましたし、実証研究も行われました。

東野氏の疑問、問題提起を契機として、新たに野中寺弥勒半跏像の研究が、より一層深められることになったといって良いのでしょう。


昨年4月には、大阪大学大学院助教授の藤岡穣氏によって、野中寺像を多面的に検証した研究論文が発表されました。
この論文、「野中寺弥勒菩薩像について」は、野中寺像の伝来をめぐる問題、蛍光X線による科学的組成分析、様式検討、銘文検討などを総合的に検証研究した、大変充実した論文です。

この論文で、藤岡氏は、野中寺像を、
「銘記の丙寅年を、666年と解釈し、それを制作ないし銘記鐫刻の時期とみなすのが妥当」
と結論付けています。

この研究成果によって、「偽銘、偽作(擬古作)」という疑問は、払拭され、白鳳期の仏像と考えてよいとされるようになったのではないかと思います。


その論拠のポイントは、どんなものであったでしょうか?

野中寺像が、近代の偽作(擬古作)ではないかという疑問を解いていくには、
「そもそもこの野中寺像の存在が、記録上、何時頃まで遡れるか」
ということが、最重要問題となります。

先にもふれましたが、江戸後期、享和元年(1801)に刊行された「河内名所図会」の野中寺の条には、
「経蔵  又弥勒佛金像を安置す。これは聖徳太子悲母追福の為に鋳させられし霊尊也」
と記されています。

「河内名所図会」の野中寺の条「河内名所図会」の野中寺の条・詞書
「河内名所図会」の野中寺の条~詞書の経蔵のところに「弥勒金仏」についての記述がある
この弥勒金仏像が現存野中寺弥勒象かどうかの議論があった



この「弥勒佛金像」が、現在の弥勒半跏像と同一であれば、江戸後期には当該像が間違いなく存在していたこととなり、少なくとも近現代の偽作(擬古作)とは考えられないことになります。

麻木侑平氏は、
本論争の中で、「河内名所図会」にあえて「弥勒佛金像」と記しているのは、台座銘に弥勒という文字が刻まれていたからと考えるのが自然として、現存像のことを指していると主張しました。

一方、東野治之氏は、
「河内名所図会」に記される「弥勒佛金像」に銘文があったのならば、作者は必ずそのことに言及している筈である。
図会に銘文についての記載がないので、現存像とこの「弥勒佛金像」を結びつけることはできないと、主張しました。


やや水掛け論的に膠着していたこの問題に対して、藤岡氏は、新史料を提示し、一つの結論を示しました。

藤岡氏は、これまで未紹介の野中寺蔵「青龍山野中律寺諸霊像目録」という文書に、
「弥勒大士金像坐身長八寸聖徳太子為悲母而鋳之 有銘
と記されていることを見出したのです。
この目録は、元禄12年(1699)に記されたものです。

野中寺蔵「青龍山野中律寺諸霊像目録」
野中寺蔵「青龍山野中律寺諸霊像目録」
右から3行目に「弥勒大士金像坐身長八寸聖徳太子為悲母而鋳之 有銘」の記述がある


この目録にある「弥勒大士金像」には、はっきりと「有銘」と記されているのです。
従って目録記載の像が、現存の弥勒半跏像であることは、間違いないと考えられることを指摘しました。

この新史料の発見により、現存像は、元禄年間に存在し、刻銘のあったことが明らかになったのです。
また、大阪府八尾市の「下之太子」大聖勝軍寺の如意輪観音半跏像が、寛文5年(1665)の再興造像時に、衣文、文様などを現存野中寺弥勒像から模刻しているとみられると想定しました。

大聖勝軍寺・如意輪観音半跏像..野中寺・弥勒半跏像
大聖勝軍寺・如意輪観音半跏像(左)と野中寺・弥勒半跏像(右)

この事実によって、現存像が、近現代の「偽銘、偽作(擬古作)」ではないことが、明確になったといって良いと思われます。

今般の奈良博「白鳳展」の図録でも、このように解説し、擬古作説を否定しています。

「刻銘をめぐっては従来さまざまな疑義が呈され、像そのものを近代の作とみるむきもあつた。
これに対し、近年の研究で元禄12年(1699)成立の『青龍山野中律寺諸霊像目録』に『弥勒大士金像』の文言が見出され、大阪・大聖勝軍寺で江戸時代の作とみられる本像の模刻像が再確認されたことにより、少なくとも擬古作との疑念は払拭された。」


藤岡氏は、このほかにも、
・蛍光X線による科学的組成分析の結果、青銅の成分は日本の古代金銅仏として許容範囲内にあること。
・細かな技法的を検討しても、擬古作とは考えられないこと。
・様式的には、随様式を基調としつつ、北斉様式との関連を想定すべきだと思われること。
などを示して、
野中寺弥勒半跏像は、白鳳期、天智5年(666)の制作、刻銘も制作当時とみて良いとの結論に達しています。



【おわりに】

センセーショナルとでも言ってよい、野中寺像擬古作、偽銘追刻問題でしたが、数々の論争、研究を経て、「白鳳初頭期の基準作例」という、元の鞘に戻ったようです。

この問題提起、大波乱といった様相でしたが、それにより論争が起こり、より深い実証研究がすすめられ、野中寺像についての研究が進展した、また白鳳期の金銅仏研究が深められたという、大きな成果があったのではないかと思います。


近年の擬古作、偽銘問題のいきさつをたどってみましたが、話のまとめ方があまりにも拙劣で、よくお判りにならなかったことと思います。
金石文解読、検証などといった分野は、ど素人も良いところで、研究論文を読んでいても、何が何だか全くわからず、参ってしまいました。
何が云いたいのか、何が論点なのか、整理できないまま、つまみ食い的にポイントを羅列しただけになってしまいましたが、何卒、ご容赦ください。

こんな問題提起、論争があったことを知っていただければ、それだけで有難く思います。



駆け足でしたが、野中寺弥勒半跏像の発見物語、その真相と背景、近年の擬古作・偽銘論争などを振り返ってきました。

このテーマ、調べれば調べるほど、ドラマチックなサスペンスやミステリーになかに身を置いているような思いに駆られます。
何やらドキドキ、心ときめくようで、「歴史探偵になったような気分」とでもいうのでしょうか?

野中寺弥勒像の姿を眺めていると、そんな発見物語や、擬古作論争などがあったことなど、知るや知らぬや、穏やかな表情を、こちらに投げかけています。
我々観るものを、やさしい雰囲気に包みこみ、親しみを与えてくれるようです。

野中寺・弥勒半跏像
野中寺・弥勒半跏像

奈良博・白鳳展では、もう一体の丙寅銘像「法隆寺献納宝物156号像」と並んで展示されていました。

法隆寺献納宝物156号・丙寅銘菩薩半跏像
法隆寺献納宝物156号・丙寅銘菩薩半跏像

こちらの丙寅銘は「606年」なのでしょうか?「666年」なのでしょうか?
皆さんは、それぞれにお考えをお持ちのことと思います。
こうして並べられると、今更ながらにいろいろと考えさせられてしまいます。

野中寺像のミステリーのような物語を振り返りながら、この二つの「丙寅銘像」を鑑賞いただければ、白鳳とはどのような時代であったのだろうかという思いも、より深まるのではないでしょうか。


トピックス~野中寺・弥勒半跏像の発見とその後・・・白鳳展に寄せて②【その1】    【2015.8.8】


今回は、大阪府羽曳野市にある野中寺の小金銅仏・弥勒半跏像発見の話です。

野中寺・弥勒半跏像

野中寺・弥勒半跏像
野中寺・弥勒菩薩半跏像


【野中寺・金銅弥勒半跏像~大正年間の新発見から今日まで~】

野中寺の弥勒半跏像は、大正7年(1918)5月に、野中寺宝蔵の塵埃の中から発見されました。
ほぼ100年も前のことです。
この発見、当時、仏教美術史の世界では、「驚きの発見」と云って良いものであったに違いありません。
発見された金銅仏が、飛鳥~白鳳時代の古代仏像であったのはもちろんです。
なんといっても最大の驚きは、その台座に、造像銘文がはっきりと刻されていたことでした。

野中寺・弥勒半跏像~台座に刻された銘文

「丙寅年」と刻された干支
野中寺弥勒像・台座に刻された銘文~「丙寅年」と干支が刻されている

その刻銘には、「丙寅」の干支が刻されていたのです。
その後の研究によって、「丙寅」年は、間違いなく天智5年(666)をさすことが明らかになりました。

野中寺弥勒半跏像は、飛鳥白鳳時代の数少ない年紀銘がある作例として、就中、天智5年(666)の制作が確定できる、極めて重要な基準作例となったのです。
天智5年(666)と云えば、所謂「白鳳」と呼ばれる時代の初頭にあたります。
これまでなかった、白鳳初期に制作年代が特定できる基準作例が発見されたのでした。

以来、野中寺像は、仏像彫刻の造形・様式が、飛鳥から白鳳に転換していく節目の典型的な作例として、必ず論じられるようになりました。
白鳳冒頭の基準作例としての認識が、長らく定着していったのです。


ところが、近年、15年ほど前、この野中寺像をめぐって、一波乱が起こりました。

なんと、この台座に刻された銘文が、「近代に刻された偽銘、追刻」なのではないかという疑いが提起されたのです。
本像の銘文が、天武持統朝頃の追刻であったのではないかという説はあったのですが、そんな次元の話ではありません。
加えて、仏像本体そのものについても、擬古作である可能性が疑われるなどといった物議をかもしたのです。

「そんな馬鹿な! 本当に本当!」と、目が点になるビックリです。

センセーショナルな問題提起で、「大正年間の大発見」そのものに、大きな疑問が呈されたのでした。

この問題については、その後、様々な論争があり、研究がすすめられました。
その結果、現在では、「銘文の偽名説、擬古作の疑い」は払拭され、従来の見解のとおり、野中寺像は「天智5年(666)の制作像と認めてよい」と、考えられているのではないかと思います。

それにしても、この野中寺弥勒半跏像、白鳳彫刻を語るうえでの、極めて重要な基準作例でありながら、大正の発見物語から、近年の偽名、擬古作の疑いなど、人騒がせというか、センセーショナルな波乱の中に身をさらしてきた仏像になりました。

そこで、この野中寺弥勒半跏像について、発見物語の色々ないきさつから、近年、物議をかもした問題に至るまで、しばらく振り返ってみたいと思います。


【白鳳の貴重な基準作例~天智5年作・野中寺弥勒半跏像】

野中寺は、大阪府羽曳野市野々上にある、真言宗の寺院です。

野中寺・山門
野中寺・山門

寺伝では、聖徳太子建立四十八寺院の一つとされ、太子の命を受けた蘇我馬子が開基とされています。
また「上之太子」叡福寺、「下之太子」大聖勝軍寺とともに、河内三太子の一つに数えられ、野中寺は「中之太子」と呼ばれています。
伝承はともかくとして、飛鳥時代創建の古代寺院であったことには間違いなく、当地が百済系渡来氏族、船史のちの船連の本拠であったから、その氏寺でのではないかとみられているようです。

境内には、今でも整然と並ぶ、古代の礎石が遺されており、塔心礎も現存していて、半円形の支柱孔を三つそなえた、花びらのような柱穴が美しい姿を顕わしています。
同じく聖徳太子創建を伝える、飛鳥・橘寺の塔心礎の柱穴と同じ形です。

野中寺の古代伽藍の建物礎石
野中寺に遺された古代伽藍の建物礎石

野中寺・塔心礎~3つの支柱孔を備えている.飛鳥・橘寺塔心礎~野中寺と同じく支柱孔がある
野中寺(左)と飛鳥橘寺(右)の塔心礎~3つの支柱孔を備えている


弥勒菩薩半跏像は、現在では毎月18日に開帳され、眼近に拝観することが出来ます。


ここで野中寺弥勒半跏像について、極々簡単に、ポイントだけ復習しておきたいと思います。

像高・18.5cmの小金銅仏で、重要文化財に指定されています。

野中寺・弥勒半跏像
野中寺・弥勒半跏像

なんといっても、この仏像が白鳳期の基準作例として語られる重要作品となったのは、その台座に刻銘が刻まれていたことによるものです。

刻されている銘文は、ご覧のとおりです。

野中寺弥勒象の台座に刻された銘文

野中寺弥勒象の台座に刻された銘文
野中寺弥勒象の台座に刻された銘文


縦に2字ずつ、31行に刻されているのですが、横書きにすると、次のように判じられるそうです。

丙寅年四月大八日癸卯開記寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時誓願之奉弥勒御像也友人数一百十八是依六道四生人等此教可相之也
(「朔」は、「旧」「洎」の異説あり。「栢」は、「柏」「橘」「楢」の異説あり。「等」は「共」の異説あり。)

この銘文の判読、解釈については、いろいろ議論のある処ですが、ここではふれないことにして、銘文から判明した最重要ポイントをあげると、次の2点です。

第1点は、
「丙寅」の刻銘があり、この年が天智5年(666)に確定できることです。
銘にある4月8日が「癸卯」にあたるのは、天智5年(666)のみで、本像の制作年が特定できる、白鳳初頭期の基準作例となったことです。

第2点は、
この半跏思惟像が「弥勒」として造像されたことが、刻銘に記されていることです。
飛鳥時代以来の半跏思惟像が、悉多太子として造られたのか、弥勒菩薩として造られたのかは、議論のある処なのですが、この時期に、半跏思惟スタイルの菩薩像が弥勒菩薩として信仰されていたことが明らかになったことです。

この2点は、仏教美術史の研究上、きわめて重要な新事実となりました。

この弥勒像は、その造形をみても、白鳳の冒頭を飾る作品として考えるのに相応しい表現をしています。
鍍金も良く残っており、双髻や三面頭飾、衣の縁の花文や連珠文などが斉随様の新様式の表現といわれています。

野中寺・弥勒半跏像~頭部
野中寺・弥勒半跏像~頭部

顔貌は、丸みを帯びて穏やかな表情で、体躯のモデリングも、胸のふくらみや背筋のへこみを抑揚ある表現で造形するなど、飛鳥時代の硬直した菩薩表現から、新たな表現への転換を感じさせるのです。

野中寺・弥勒半跏像~背面~背筋のへこみが抑揚ある表現になっている
野中寺・弥勒半跏像~背面~背筋のへこみが抑揚ある表現になっている

白雉2年(651)とされる法隆寺献納宝物165号・辛亥銘像から見ると、造形感覚の違いは、誰が見ても明らかです。

法隆寺献納宝物165号・辛亥銘観音立像(651年)
法隆寺献納宝物165号・辛亥銘観音立像(651年)

まさに、白鳳様式への新たな展開を実感させる造形になっているのです。

解説書などには、
「完全に止利派の造形感覚と決別している。」
(日本の美術NO21~飛鳥白鳳彫刻、至文堂刊)
とか、
「写実的な肉身表現や、所謂古拙の笑いが消えた面貌は、飛鳥彫刻との訣別をうかがわせる。」
(仏像集成、学生社刊)
などと述べられています。

このように、野中寺弥勒半跏像は、飛鳥様式から白鳳様式への転換を象徴する基準作例として、また当時、半跏思惟像が弥勒菩薩として造像されていたことを証する作例として、飛鳥白鳳彫刻史上、重要な位置づけにある仏像として、語られるようになっていったのです。


【野中寺弥勒像の発見物語を振り返る】

さて、この野中寺弥勒半跏像、どうのようにして発見されたのでしょうか?


〈塵芥のなかから、偶然発見された金銅仏〉

大正7年(1918)5月21日付の大阪毎日新聞に、このような記事が掲載されました。

「塵埃の中から金銅佛~河内野中寺から発見」

という見出しです。

大阪毎日新聞の野中寺弥勒象発見記事
大阪毎日新聞の野中寺弥勒象発見記事

ご覧のとおりの新聞記事ですが、その記事をここに書き出してみましょう。

「5月17日田澤、中両氏と河原古市町の西野々上の野中寺を訪ひ、塵挨にまみれつつ宝蔵内を検索したるに、蔵の一隅塵芥中から偶然にも一つの金銅佛像を見出した。

像は高さ一尺に満たないが行相から見ると疑いもない弥勒像で,八角獅子座の上に半跏趺坐した円満具足の霊像であつた。
左手を膝に右手を届めて、指頭で軽く左頬を指し、隻足を座から浮き出た八分開きの蓮座の上に軽く置いて居る。
・・・・・・・・・・・・・・
昔、橘寺から法隆寺に移して、今は帝室の御物になって居る四十八体の金銅佛像とよく似た優作で、之が今国宝にならないつた事に不思議とせなければならぬ。
更に台座の下縁には造像の切銘がある。

(ここに銘文全文が掲載されています)

其の刻銘も見事で決して新しいものでにない。
丙寅の年は何時であるか、此の像の様式から当ってみると、先ず推古十四年か天智の五年かに当たる。
或は比の銘文に就いて其の文体から疑間を挟む餘地が無いでもあるまいが、其の佛像の作に至つては所謂推古佛であることは、一点疑いがない。」

なんと、
「塵挨にまみれつつ宝蔵内を検索」したところ、「蔵の一隅塵芥中から、偶然にも一つの金銅佛像を見出した。」
というのです。

埃まみれになりながら、蔵の一隅の塵芥のから、偶々、見つけ出したというのですから、発見は全くの想定外であったのでしょう。
かけて加えて、「丙寅」と刻された銘文まであったのですから。
記者は、「丙寅」を推古14年(606)と考えたようですから、まさに、「飛鳥時代の金銅仏の大発見」にビックリ、という快挙であったということです。
記事の文章の調子からも、大発見の驚きと感動が伺えます。

記事執筆の「雍南生」というのは、大阪毎日新聞記者・岩井武俊氏のことです。
岩井氏が他の2名(田澤金吾、中幸男)と共に野中寺を訪れて、金銅仏像を発見したのですから、この記事は、大阪毎日新聞のみの特ダネとなったのでした。


〈野中寺像は飛鳥・橘寺の旧仏? 御物四十八体仏に付属の像?〉

さて、仏像発見直後、この像に対してどのような見解が出されたのでしょうか?

発見記事の1週間後の5月28日、同じ大阪毎日新聞に、喜田貞吉氏談として、「金銅弥勒像研究」という記事が載せられました。

喜田氏はこの文中で、
「銘文の4月8日が癸卯に該当するのは、天智5年(666)である」
として、弥勒像は白鳳時代の造像であると指摘しています。


2か月後の8月、金石学の木崎愛吉氏(1866~1944)は、考古学雑誌8巻20号に、「野中寺の金銅弥勒菩薩」を発表しました。
木崎氏は、刻銘にある「栢寺」を、「橘寺」と解しました。

そして、このような仮説を展開しています。

「『橘』の字、いとおぼつかなけれど、仮に爾(それ)かく読み得べしとすれば、御物四十八体仏の伝来上、又格段なる有力の資料として尊重すべきなり。

四十八体佛は最初橘寺より法隆寺に伝はり、近歳更に献納されて御物となるに至れりといふ記録上(法隆寺の写本古今一陽集)の実証を提供せるものというべく、殊に当初四十九体ありきといえるその不足の一体は、この新発見の弥勒仏を得て、何となくその件数を補へるもののように思い当るをなしとせず。」

野中寺弥勒像は、橘寺から法隆寺に伝わり、その後皇室に献納された御物48体仏に付属していたものではないか。
古今一陽集に49体あったという記述があるが、果たして、野中寺像は49体目の金銅仏ではないか、と木崎氏は考えたのでした。

飛鳥・橘寺~遠景
飛鳥・橘寺~遠景

「栢」の字を「橘」と判ずるのは、なかなか難しいとのことですが、その後、昭和40年代ぐらいまでは、この橘寺説が最有力とされてきました。
現在では、橘寺と考える見方は、あまりないのではないかと思います。

このように、野中寺弥勒半跏像の発見は、法隆寺、橘寺、そして野中寺と、「聖徳太子ゆかりの古寺と宝物」という延長線上に、イメージづけられていったようです。
発見者の岩井氏は、この発見時に
「宝蔵で大阪四天王寺縁起流記資財帳ともいうべき古写本を見出した」
という報道も行っており、「聖徳太子ゆかり」という印象が、強められたのではないかと思われます。

以上が、野中寺弥勒半跏像新発見の模様と、その直後の状況です。


〈発見物語の真相をさぐる~偶然、塵芥中からは本当か?〉

最近、野中寺弥勒半跏像の「新発見の真相」を、追求した研究が発表されました。

大阪毎日新聞記者・岩井武俊氏の金銅仏の発見は、
「塵芥のから、偶々、見つけ出した」
などという、偶然の発見物語ではなくて、作為的に計算された発見報道ではなかったかというものです。
野中寺弥勒像の発見報道の背景を検証すると、ある意図をもって、このタイミングで、作為的に発見記事が報じられたのだというのです。

早稲田大学の竹田慈子氏による研究で、
「野中寺弥勒半跏像発見報道について」と題して、奈良美術研究第15号(2014.3 )に掲載されています。
ミステリーの謎解きものをみているようで、惹き込まれるように一気に読んでしまいました。
詳しくは、この論文を読んでいただくとして、そのエッセンスをご紹介しておきます。


まずは、「偶然に、塵芥のから、見つけ出したというのは、本当なのか?」という話です。

竹田慈子氏は、
野中寺側(住職)が、この金銅仏像の存在を認識していなかったということが、考えられず、大阪毎日新聞記者・岩井武俊氏は、それ以前よりこの金銅仏像の存在を知っていて、大正7年(1918)5月に野中寺を訪れたとき、初めて発見したように装って、センセーショナルな記事にしたのではないか?
と推測しています。

この点については、野中寺像発見後に、金石学の木崎愛吉氏が発表した論文、「野中寺の金銅彊勒菩薩」の文中に、このような記述があるのです。

「予は超えて二十四日、同寺に就きてこの像を観、その造像記の刻文を手拓するを得たり。
住職耕野覚龍師は、この像、古来黄金の秘佛と称し、特に貴重の宝像として、庫中に保存されありしよしを語り、叉先年一たび新納忠之介氏の鑑識を経たることありしと云えり。」

木崎氏は、野中寺像発見新聞報道の3日後に、野中寺を訪れた処、住職は、新発見といわれる金銅仏は、特に貴重な仏像として保存し、奈良の美術院の新納忠之介に鑑識をしてもらったことがあると話しているのです。

岩井氏が、新聞記事に
「蔵の一隅塵芥中から偶然にも一つの金銅佛像を見出した。」
と書いているのと大違いで、そのようには考えられないのです。
新聞記事の表現には、随分違和感があります。
岩井氏は、野中寺に、世に広く知られていない古代の小金銅仏像が蔵されているのを、以前から知っていたのだろうと想像されるのです。


〈野中寺像発見は、何故か「聖徳太子御忌奉賛会」発会と同タイミング〉

岩井氏は、いずれの時にか、野中寺宝蔵に金銅仏像が蔵されているのを知っていたのでしょう。

実は、江戸後期、享和元年(1801)に刊行された「河内名所図会」の野中寺の条に、

「経蔵  又弥勒佛金像を安置す。これは聖徳太子悲母追福の為に鋳させられし霊尊也」

と記されているのです。

「河内名所図会」の野中寺の条「河内名所図会」の野中寺の条・詞書
「河内名所図会」の野中寺の条~詞書の経蔵のところに「弥勒金仏」についての記述がある

岩井氏は、「河内名所図会」にある「聖徳太子悲母追福の為という、弥勒佛金像」が、宝蔵に保管されている小金銅仏像だと考えたのでしょう。


それでは、どうして大正7年(1918)5月下旬に、わざわざ専門家2人を伴って、野中寺を訪れたのでしょうか?
岩井氏は、
「この大正7年5月のタイミングを狙って、聖徳太子ゆかりの金銅仏像の新発見という記事を発表したかったのだ」
竹田慈子氏は、このように想像しています。

なぜ、このタイミングであったかというと、「聖徳太子一千三百年御忌奉賛会」設立の日程に合わせたようなのです。
聖徳太子一千三百年御忌奉賛会というのは、法隆寺において古例に準じて聖霊会を修し、叡福寺においては追遠の御式を行なうために組織されたものです。
この奉賛会は、大正7年5月25日に発会式が催されており、5月17日にその旨の新聞報道がされています。
野中寺弥勒半跏像発見の特ダネ記事が大阪毎日新聞に掲載されたのは、5月21日です。
まさに、絶妙にタイミングです。

大阪毎日新聞は、「聖徳太子一千三百年御忌奉賛会」に協力しています。
岩井氏は、聖徳太子の御忌奉賛会を盛り上げ、これに寄与するため、「聖徳太子ゆかりの金銅仏像新発見」の記事を、このタイミングで掲載すべく、野中寺を訪れたと考えられるというものです。

こうした聖徳太子奉賛盛り上げの意図があったことは、発見2か月後に刊行されている雑誌「歴史と地理・聖徳太子号」(第2巻1号)の目次をみると、

「聖徳大手千三百年御忌と奉賛会設立………太子に関する種々の遺物発見(金銅仏と四天王寺縁起)」

という項立てがされ、
「野中寺金銅仏像発見」「喜田貞吉談・金銅弥勒像研究」「野中寺から四天王寺縁起発見」
という3本の大阪毎日新聞報道記事が再掲されていることからも伺えます。

「歴史と地理・聖徳太子号」(第2巻1号)の目次「歴史と地理・聖徳太子号」(第2巻1号)の目次
「歴史と地理・聖徳太子号」(第2巻1号)の目次
左から二番目・「彙報」に「聖徳大手千三百年御忌と奉賛会設立………
太子に関する種々の遺物発見(金銅仏と四天王寺縁起)」の項立てがある


野中寺弥勒仏像の発見報道の背景には、このような事情があったようです。
ただ、真相がいずれであったとしても、これまで世に知られることが無かった、白鳳の金銅仏像が見出されたというのは、大きな発見であったのは事実でした。

ちょっとばかり、細か過ぎることにこだわってしまったのかも知れません。
「どうでもいいような事をほじくりかえしても、仕方ないじゃないか」と感じられたのではないでしょうか?
今でも、文化財の新発見などが、あるタイミングを狙って記者発表されるなどということは、よくあるように思います。

しかしながら、野中寺金銅弥勒仏像の発見が、「聖徳太子御忌奉賛会」設立タイミングと併せられ、野中寺の縁起と共に「聖徳太子ゆかりの金銅仏」としての盛り上げが図られたことにより、この金銅仏像が橘寺伝来の仏像であるとか、御物48体仏との関連が想定されるなどといった効果をもたらした側面があったのではないでしょうか?

銘文の「栢寺」を、「橘寺」と解する見方が、長らく最有力の説であったのも、また事実でした。


野中寺仏像発見物語とその真相をたどる話は、これぐらいにしておきたいと思います。


【その2】では、近年、問題提起された、野中寺像の銘文、制作年代への疑問と、それをめぐる論争、研究などを振り返って、ご紹介していきたいと思います。


トピックス~深大寺・釈迦如来倚像の発見物語…白鳳展に寄せて 【2015.7.25】


【流石! 名品揃いの白鳳展】

いよいよ7月18日から、奈良国立博物館で、開館120年記念特別展「白鳳~花開く仏教美術」が開催されました。

奈良博・白鳳展ポスター

奈良博・白鳳展ポスター

白鳳美術の粋ともいえる、見事な仏像が勢揃いです。
超有名どころを並べてみてみただけでも、ご覧のような仏像が出展されます。

興福寺(旧山田寺)・仏頭、薬師寺金堂・月光菩薩立像、薬師寺東院堂・聖観音立像、
法隆寺・夢違観音立像、六観音立像、法隆寺・阿弥陀三尊像(伝橘夫人念持仏)、
法輪寺・虚空蔵菩薩立像、当麻寺・持国天立像、新薬師寺・香薬師像模造(奈良博蔵)、

流石、奈良博開催の白鳳展だけのことだけはあると、唸ってしまいます。
(これらの仏像を、すべて「白鳳」という区分で整理しても良いのかという議論はあるかとは思いますが・・・・・)

奈良以外の地に在る白鳳仏像も勢揃いで、

東博・法隆寺献納宝物から、丙寅銘菩薩半跏像・辛亥銘観音菩薩立像、
野中寺・弥勒菩薩半跏像、深大寺・釈迦如来倚像、龍角寺・薬師如来坐像、一乗寺・観音菩薩立像、
鶴林寺・観音菩薩立像、鰐淵寺・壬辰銘観音菩薩立像、長谷寺(大分)・壬寅銘観音菩薩立像、

等々といった、各地の著名仏像が出揃います。

これだけの白鳳仏がを、一堂に会して観ることが出来る機会は、これからしばらくの年数ないだろうと思います。
皆さんも、この展覧会だけは逃すまいと、出かける予定を立てていらっしゃることでしょう。

「白鳳」というフレーズは、心に美しく響くような抒情的語感を感じさせます。
白鳳は白雉(650年〜654年)の年号の美称ということですが、この時代の仏像を表現する呼称としては、本当に相応しい呼称があてられていると、今更ながらに思ってしまいます。

奈良博の白鳳展HPには、

「白鳳美術の魅力は金銅仏に代表される白鳳仏にあると言って良いでしょう。
白鳳仏は若々しい感覚にあふれ、中には童子のような可憐な仏像も見ることができます。」

と記されていますが、

皆さんも、白鳳仏には、
「若々しい、みずみずしい、清々しい、清明、可憐」
こんな修飾語で表現される美しさを感じられるのではないかと思います。

それが、白鳳仏のたまらない魅力になっているのでしょう。


【意外と多い、新発見の白鳳仏たち】

こんな白鳳仏の魅力は、展覧会でじっくりと実感いただくことにして、展示仏像の名前を眺めていると、ふとこんなことに気になりました。

私の知るかぎりなのですが、新たに発見され、その存在が知られるようになった仏像が7躯もあるのです。

深大寺・釈迦如来倚像、野中寺・弥勒菩薩半跏像、龍角寺・薬師如来坐像、悟真寺・誕生仏像、興福寺(旧山田寺)・仏頭、般若寺・阿弥陀如来立像、見徳寺・薬師如来坐像、

の7躯です。

深大寺・釈迦如来倚像..野中寺・弥勒菩薩半跏像
深大寺・釈迦如来倚像            野中寺・弥勒菩薩半跏像

龍角寺・薬師如来坐像...悟真寺・誕生仏像
龍角寺・薬師如来坐像(千葉)            悟真寺・誕生仏像(奈良)

興福寺(旧山田寺)・仏頭...般若寺・阿弥陀如来立像
興福寺(旧山田寺)・仏頭            般若寺・阿弥陀如来立像

見徳寺・薬師如来坐像
見徳寺・薬師如来坐像


・深大寺・釈迦如来倚像は、明治42年(1909年)に、
・野中寺・弥勒菩薩半跏像は、大正7年(1918年)に、
・龍角寺・薬師如来坐像は、昭和7年(1932年)に、
・悟真寺・誕生仏像は、昭和12年(1937年)に、
・興福寺(旧山田寺)・仏頭は、昭和12年(1937年)に、
・般若寺・阿弥陀如来立像は、昭和39年(1964年)に、
・見徳寺・薬師如来坐像は、平成10年(1998年)に、

それぞれ、発見されているのです。

このほかにも、調べてみると、もっと新発見の仏像があるのだろうと思いますが、そのあたりは良く判りませんが、ご存じの方はご教示いただければと存じます。

これら新発見仏像には、白鳳時代の仏像彫刻史の中で、大変重要な仏像になっているものがあります。

・興福寺(旧山田寺)・仏頭は、皆さんご存じのとおり、白鳳彫刻を代表する美麗な仏像です。
天武14年(685)完成の基準作例として広く認知されています。

・野中寺・弥勒菩薩半跏像は、台座銘文からら天智五年(666)に造立されたことが知られる基準作例で、飛鳥彫刻から白鳳彫刻へ転換してゆく作例として知られています。

・深大寺・釈迦如来倚像は、盗難に遭い今は亡き新薬師寺・香薬師像の兄弟のような姿で、これまた白鳳様式の典型といわれる清明さをそなえた仏像です。

新発見の仏像のもたらしたインパクトは、なかなかのものだったと云えるでしょう。

現在、白鳳彫刻を語るうえでは、
「この新発見の仏像を置いて、論ぜられることはないのだろう。」
と思います。
ちょっと大げさに言えば、
「これらの仏像の発見が無ければ、白鳳彫刻についての論ぜられ方は、また違っていたのかもしれない?」
といっても良いかもしれません。


そこで、これらの新発見の仏像の「仏像発見物語」をご紹介してみたいと思います。

興福寺(旧山田寺)・仏頭の発見物語は、以前に観仏日々帖の、
「トピックス~興福寺仏頭展によせて・・・「仏頭発見記」をたどる」
で、詳しくご紹介させていただきました。

今回は、これら新発見の仏像から、
深大寺・釈迦如来倚像、野中寺・弥勒菩薩半跏像、龍角寺・薬師如来坐像
の発見物語などを中心に振り返ってみたいと思います。

発見についてふれられた限られた資料からのご紹介ですので、ちょっと物足りないものになろうかと思いますが、ご容赦ください。


【深大寺・釈迦如来倚像の発見物語】

まず最初は、深大寺・釈迦如来倚像の発見の話から始めたいと思います。


深大寺は、東京都調布市に在る古刹です。

深大寺・山門
深大寺・山門

白鳳仏よりも「深大寺そば」の方でよく知られているのかも知れません。
門前は、深大寺そばのお店が軒を連ねていて、いつもお客さんで賑わっています。

門前に並ぶ深大寺そばの店
門前に並ぶ深大寺そばの店


〈白鳳仏の白眉、深大寺・釈迦如来倚像〉

この深大寺に、白鳳仏の白眉ともいえる金銅仏・倚像が祀られています。
半眼の細長い目、くっきりした眉と鼻筋、柔らかな唇は、清々しい少年の顔立ちです。
若々しい体つきをして、薄く身体を覆う着衣表現も端麗で、衣文は流れるような美しさです。
まさに「これぞ白鳳仏の典型」といえる美麗な姿です。

深大寺・釈迦如来倚像

深大寺・釈迦如来倚像
深大寺・釈迦如来倚像

この深大寺・釈迦如来倚像を、こよなく愛する方も多くおられるのではないでしょうか。

そしてこの深大寺像は、これまた白鳳という時代を代表する金銅仏、「新薬師寺・香薬師像」にそっくりの像として知られています。

新薬師寺・香薬師像..新薬師寺・香薬師像
新薬師寺・香薬師像

亀井勝一郎氏は「大和古寺風物誌」のなかで、この二つの仏像について、このように語っています。

「現存する香薬師如来の古樸で麗しいみ姿には、拝する人いづれも非常な親しみを感じるに相違ない。
・・・・・・・・・・・
ゆったりと弧をひいた眉、細長く水平に切れた半眼の眼差、微笑していないが微笑しているようにみえる豊頬、その優しい典雅な尊貌は無比である。
・・・・・・・・・・・
もし類似を求めるならば、関東随一の白鳳仏といはるる深大寺の釈迦如来坐像(ママ)に近いであろう。
深大寺は私の家からさほど遠くないので、時折拝観することがあるが、ちょうど兄妹仏のような感じを受ける。
香薬師が兄仏で、釈迦如来像が妹仏である。
立像と坐像の差はあるが、面影が実によく似ているのには驚く。」

ご存じのとおり、新薬師寺の香薬師像は、昭和18年(1943)に三度目の盗難に遭い、それ以来杳として行方知らずになってしまっており、今は、その姿を拝することは叶いません。
(香薬師像の盗難の詳しい話は、埃まみれの書棚から「奈良の仏像盗難ものがたり456回」をご覧ください。)

香薬師像亡き現在では、深大寺・釈迦如来倚像が、この清々しい少年を思わせるタイプの白鳳の典型仏として、大変貴重、重要な作品となっているといえるのでしょう。


〈柴田常恵氏による白鳳金銅仏の発見〉

さて、そろそろ発見物語を振り返ってみたいと思います。

深大寺・釈迦如来倚像が発見されたのは、もう100年以上前の明治42年(1909年)のことでした。
柴田常恵
柴田常恵氏

当時東京大学の助手であった柴田常恵氏が、元三大師堂の須弥壇の奥に横たえられていた仏像を発見したのです。
発見の4年後には、国宝(旧国宝・現重要文化財)に指定され、関東を代表する美麗な白鳳仏の出現として世に広く知られるようになりました。
柴田常恵氏は、当時32歳の若さでした。
考古学、古代文化研究者で、その後は慶応大学講師、文化財専門審議会委員などを務めた人物です。

柴田氏にとっても、この白鳳の金銅仏の大発見は、思い出深く、心に残る出来事であったようで、仏像発見を回顧する文章を2度にわたって綴っています。

「釈迦像発見当時の回顧」宝雲第2冊(1932年)所収

「深大寺釈迦如来倚像の発見に就いて」 深大寺釈迦如来倚像(堀口蘇山編)・芸苑巡礼社1939年刊所収

この二つの文章は、それぞれ深大寺境内で行われた柴田氏の講演の速記録で、釈迦如来倚像発見当時の有様や、思い出話が、活き活きとした口調で語られています。
この講演録に導かれながら、仏像発見の話を振り返ってみたいと思います。


柴田氏が深大寺を訪れたのは、明治42年(1909)10月31日のことでした。

柴田氏の友人が京大図書館に転任するというので、その送別会を兼ねて深大寺にピクニックに3人で出かけたのだそうです。
深大寺では、老僧は病臥されていたので、寺男や小僧さんに手伝ってもらい、梵鐘の拓本をとったり、什物帳を拝見するなどしました。
そろそろ夕刻ということで、四谷での送別宴会に向かうため、帰り支度をし始めるころになり、帰りがけに元三大師堂に寄りました。

この元三大師堂で、白鳳金銅仏の世紀の発見となったのでした。
柴田氏は、元三大師堂の本尊が祀られる壇の下、地袋のようなところに、仏像が横たえられ押し込まれているのを発見します。
取り出してみると、「これはビックリ、古代の金銅仏に違いない!!」ということになったのです。

深大寺・元三大師堂
白鳳金銅仏が発見された深大寺・元三大師堂

深大寺・元三大師堂内陣
元三大師堂内陣~檀下に金銅仏が押し込まれていた

その時の有様について、柴田氏はこのように語っています。

「釈迦像発見当時の回顧」では、

「元三大師の御堂の方へ廻り、狐格子から覗いて見ると、経櫃が見える。
この寺は古いから写経の大般若か五山本でもありはしないかと、老寺男に出して
貰ったが、たいしたものではない、もぅ何もないかと訊きますと、この縁の下に金佛様があるといふ。

壇の下を覗いて見ると、一体の金佛があるが俯向きになっていて、衣紋やお顔が見えない。
寺男が壇の下へ這入ったが重くて出せない。
私も中へ這ひ込んで二人で漸く引出すやうにして出した。
どうやらいいようだから、縁の東側のところまで出して見た。

一行は帰り支度をしていたが皆集って来た。
これは大変なものだというわけで大いに亢奮し、そこでまた撮影をしようというので、写真機を片付けていたのを出して経箱を背景にして撮った。

翌日現像して見て―― こんな結構な御像であらうとは思はないし、寺の什物帳にも載ってゐないのだから、こんな立派な佛像が全然忘れられてしまつていたことに、再び驚きを發したわけである。」


「深大寺釈迦如来倚像の発見に就いて」では、

柴田常恵と香取秀真
柴田常恵氏と香取秀真氏(鋳金家)
『今は之れまでと、いよいよ帰ろうと致しましたが、本尊の両脇は壇が出来て居まして、現在は堂内も立派に整理されて居ますと、其当時は左程でなく基壇の下の地袋と申しますか或は鼠込みと申しますか、兎に角壇から申せば床下に、仏様が位牌や花筒など様なものと一緒に横にして置かれてあるのに気付きました。

始めはお尻の方が見えて居たので仏像とは拝しましても全く予期せぬことゝて、左程に結構な御像とも思はず、寺男に聞くと、『サァ何ですかネー』と云つて居りますから、取出して見ようと思いますと挨だらけで却々重い、寺男に手伝って貰って、漸く東側の演椽に出したのであります。
此時に寺男は気付いたのですが、深大寺が法相宗であった時の本尊だと云うことですと云いました。

同行の両君は帰る用意を致して居られたが、珍らしい仏像の出現に、吉浦君は釣鐘の写真を撮る為め持参された写真機を既に仕舞って居られたが、幸に乾板がまだあったので再び取出して写真を撮って帰った追々と夕刻に迫った時で、之れが私としては此像を拝する最初でありました。」

乱雑に押し込まれた壇の下から、突然、金銅の古仏が見つかってしまい、想定外の驚きと亢奮であったようです。
白鳳仏の大発見の瞬間が、活き活き手に取るように語られています。


柴田氏は、この仏像の写真を、中川忠順氏に見せました。
中川忠順氏というのは、当時、文化財の国宝指定などを行う「古社寺保存会」の中心的役割を果たした、著名な美術史学者です。
余談ですが、中川忠順氏は、美術史において「飛鳥・白鳳・奈良・貞観」の時代区分を提起した人物で、「白鳳美術」という呼称の命名者としても知られています。

中川氏はこの写真を見て、
「深大寺は関東の蟹満寺ともいうべきで、是非一度拝見したい」
という話で、写真と地図を渡したそうです。

深大寺・釈迦如来倚像..深大寺・釈迦如来倚像
深大寺・釈迦如来倚像


〈売られてしまいそうになった、新発見金銅仏像〉

この後、とんとん拍子で、白鳳仏の国宝指定へと一気に進んだと云いたい処ですが、なかなかそうはいかなかったようです。

この話を知った数寄者などが、仏像欲しさに、買取の交渉を寺に持ちかけるという動きがあったのです。
深大寺の方も、当時は寺の修繕金にも困るような状況で、危うく売られてしまいかねないような局面もあったようです。
そんな経緯を経て、発見から4年を経たのち、ようやく国宝の指定を受けるに至りました。

柴田氏は、その経緯について、このように語っています。

「写真がどんな所へ廻ったものか、二三の数寄者の眼に触れたと見えまして、私共とは関係なく佛像慾しさにお寺へ交渉に来る者がありました。
・・・・・・・・・・・・
其人(注記:売却を持ちかけた人)の話に依ると、仏像は台帳に載って居ないのであるから、譲って貰うとすれば住職と総代の諒解さへ得れば出来ぬことはない。
本堂は荒果て、雨漏がする程なるが、修繕に困って居るから、寧ろ此佛像を譲って其費用に充てたらと云うことで、総代と交渉して居るとのことであった。

私は意外に驚きましたが、住職の老僧は其後久しからずして亡くなって居り、成るべく早く国賓にせねばならぬものと思ひましたが、中川さんにお尋ねすると台帳にないから其手績き済まねば出来ぬから、東京府の方へ話してあるとのことです。
何んでも其の時には二千円とか三千円とか云ふ様のことであります。

然るに地元の方でも住職が変わったり、何やかの事情があった為めでありましょう。
東京府の社寺関係の方でも棄てゝ置いた訳ではありますまいが、すぐにも国賓の指定を受けて宜しい仏像なるに関らず、未決の儘に敷年を過ごすに至ったは、右様の事情が多分にあった故と思われます。
斯くて大正2年4月に及び始めて国賓の指定を見るに至った次第であります。

仏像としては国宝の指定を見るまでの数年間は、誠に危険な時期でありましたが、幸に当事者の宜しき判然に依って之れを免るゝを得、今日では立派にお寺に安置されて居るといふ事は誠に結構なことだと思ひます。」
(「深大寺釈迦如来倚像の発見に就いて」)


もしこの時に、国宝指定を受けずに、個人に売却されてしまっていたら、今はどうなっていたでしょうか。
個人蔵として、めったに観ることが出来ない仏像になってしまっていたかもしれません。
場合によっては、海外に流出してしまうようなことになっていたかもしれません。

幸いにして今も、この白鳳の名品、釈迦如来倚像を、深大寺で拝することが出来ることは、大変うれしいことです。


〈謎に包まれた深大寺・釈迦像の来歴〉

さて、この釈迦如来倚像の来歴は、どのようなものなのでしょうか?

これだけの名品仏像ですから、古記録や言い伝えが沢山あってもよさそうなのですが、何時、どのような経緯で深大寺に祀られるようになったのか、良く判らないのです。
この仏像の伝来や、造像背景は、謎に包まれているのです。

この像の深大寺との関係を示す最も古い記録が見られるのは、江戸末期、天保12年(1842)のことです。

同年の深大寺「分限帳」に、
「本堂ニ有之、同銅仏 丈二尺余 壱体」
との記載があり、これが本像にあたると思われます。
それまでの古記録などには、見当たらないのです。

その後、明治に入り明治28年(1895)の、「深大寺創立以来現存取調書」に、
「釈迦銅 壱躯 丈二尺余 坐像ニ有ラズ 右ハ法相宗タリシ時ノ本尊ナリ申伝ナリ」
とあり、
明治31年(1898)の「深大寺明細帳」にも同趣旨の記載があります。

これが本像にあたるのは明らかで、明治時代には、釈迦如来倚像の存在自体は、寺としては認識はしていたが、重要な仏像とは考えられずに、壇下地袋に放置されていたということなのでしょう。

深大寺の創建は、天平5年(733)と伝えられており、草創が古代に遡る古刹であることは間違いありません。
また当地は狛江郡の一部で、高句麗系渡来人影響を受けた地域であると考えられて言います。
その古刹につたわる、二尺余(83.9cm)もある古代金銅仏に関する記録が、江戸時代末年の天保年間まで全く存在しないというのも不思議なことです。


白鳳時代の作品であることに間違いない釈迦如来倚像ですが、造像当時から関東の地に在り祀られていたものでしょうか?
それとも、後代になってから、何らかの事情により、当地にもたらされたものなのでしょうか?


〈中央作か、関東作か、 誰が何処で造った白鳳仏?〉

発見物語とは関係ないのですが、この釈迦如来倚像が、関東の地で製作されたものなのか、関西地方・中央で製作されたものなのかの問題についても、意見が分かれています。

中央作とする根拠としては、
その作り方が、関西・中央の白鳳仏と類似していることが挙げられています。
とりわけ新薬師寺香薬師像と非常に近い表現であることが有力な根拠となっています。
頭部の螺髪を表現しないで鏨の痕を残す点や、面相の表現方法が似通っていること、またサイズもほぼ同サイズであることなどの類似点が指摘されています。

また、松山鉄夫氏は鋳造技術面からの研究により、本像の洗練された高度な技術が当地渡来人の仕事でできるものではなく、蓄積された技術のなせる業で、中央地域で造られたものであるに違いないと推察しています。


一方、関東地方で造られたとする考えもあります。
当時の関東地方には、朝鮮半島からの渡来人が多く住んでおり、その中には当然工人もいたはずで、本像のような金銅仏が制作されたとしても不思議はないとの見方です。
久野健氏は、コバルト60での透視撮影を実施した結果、深大寺像が同時期の関西中央作の金銅仏像に比べて「鬆(ス)」が多くみられることから、中央作でなく当地方で制作されたものとの見方をしています。

深大寺・釈迦如来倚像~透過写真
深大寺・釈迦像のコバルト60での透過写真(スが多くみられる)

全体的には、中央作とみる考え方のほうが有力のようですが、この時期高句麗と百済が新羅に滅ぼされ、7世紀中葉から我が国にやってきた渡来人が、武蔵野国にも移り来て、この美麗な白鳳仏を鋳造したというストーリーも、大変ロマンチックで惹き付けられてしまうものがあります。


いずれにせよ、深大寺の釈迦如来倚像、神秘のベール、謎に包まれた仏像のように思えてきました。

・白鳳時代を代表するとも言ってよい名作の金銅仏が、どうして関東の深大寺に在るのでしょうか?

・仏像の伝来や造像背景について、何の記録も、言い伝えも残されていたいのは、どうしてなのでしょうか?

・中央で鋳造されて関東の地にもたらされたのでしょうか、関東に移り住んだ渡来工人の手によってつくられたものなのでしょうか?

この仏像が、みずみずしく清々しく、白鳳仏の典型といえる美麗な仏像であるだけに、ますます興味が尽きないものがあります。


明治末年に、偶然に発見された仏像は、その後、白鳳仏の代表作品として、彫刻史で語られるようになりました。
よくぞ、売り渡されたり、海外流出せずにとどめ置かれ、また盗難にも遭うことなく、護られてきたものです。


お蔭で、私たちは、深大寺を訪れれば、いつでもこの美麗な白鳳仏を拝することが出来るのです。
現在、釈迦如来倚像は、昭和51年(1976)に新築された釈迦堂に安置され、ガラス越しではありますが、いつでも誰でも拝観が出来ます。

深大寺・釈迦堂
深大寺・釈迦堂

釈迦像は、昭和7年(1932)に吉田包春によって制作された、立派な春日厨子(市指定文化財)に静かに坐されています。
(現在は、春日厨子が除かれて、釈迦如来倚像が台座上に祀られているようです。)

深大寺・釈迦堂に安置されている釈迦如来倚像
釈迦堂に安置されている釈迦如来倚像
 
私は、この釈迦堂の前に立って、その美しいお姿を拝する時、ついつい明治42年の発見物語のことが頭をよぎってきます。


皆さん、「白鳳展」でも、この釈迦如来倚像をじっくり鑑賞されることと思いますが、武蔵野の深大寺まで出かけられて、柴田常恵氏による発見物語を偲びつつ、この謎に包まれた白鳳仏を、拝してみるのも良いのではないでしょうか。



【付記】

最後に、深大寺・釈迦如来倚像の発見物語の話などが、コンパクトにまとめられた冊子図録を、ご参考までに、ご紹介しておきます。

「深大寺展・図録」 調布市郷土博物館編集発行 2007年刊 【44P】

深大寺展図録

調布市郷土博物館開館35周年特別企画として開催された「深大寺展」の図録です。
「釈迦如来倚像の発見と柴田常恵」という表題の解説が掲載されています。
釈迦如来倚像の発見の経緯とその後の顛末などが、柴田常恵氏の講演記録を引用しながら、判りやすくまとめられています。
柴田常恵氏の年譜も付いています。


新刊旧刊案内~「日本仏像史講義」山本勉著・・日本彫刻史の旧刊を振返る【2015.7.11】


今回もまた、仏像関係書のご紹介です。

山本勉氏著の「日本仏像史講義」が、新書版になって5月に出版されました。


「日本仏像史講義」 山本勉著
2015年5月 平凡社新書 【215P】 860円


山本勉著「日本仏像史講義」


皆さんご存じと思いますが、この「日本仏像史講義」は、「別冊太陽」というムック本シリーズの一冊として、2年前の2013年3月に刊行されています。
今般の、新書版「日本仏像史講義」は、この別冊太陽版に加筆修正を加えて、ハンディーな廉価版として出版されたものです。

別冊太陽版は、美麗なカラー写真満載で愉しめるのですが、3800円と高価なのと、大判で持ち歩くのには難儀という処がありました。
今回の新書版は、860円と廉価で、ポケットに入るハンディーなものになりました。

別冊太陽版「日本仏像史講義」

別冊太陽版「日本仏像史講義」の掲載写真
別冊太陽版「日本仏像史講義」の掲載写真
美麗なカラー写真満載の別冊太陽版「日本仏像史講義」


【読み応えのある仏像彫刻通史】

「日本仏像史講義」という題名のとおり、所謂仏像ガイド、仏像手引きという案内書とは一味違う、仏像愛好者にとって、読みごたえが十分ある内容になっています。

仏像が好きになるスタートの頃には、〈古寺古仏巡礼〉とか〈仏像の美しさを訪ねて〉とかいう書名の本を読んで、仏像に親しみ始めた方が多いのではないかと思います。
私自身も、仏像を観はじめたとき、最初に手にしたのは和辻哲郎著「古寺巡礼」、亀井勝一郎「大和古寺風物誌」などでした。

もう一段、仏像好きになってくると、仏像の歴史や造形などについて、もっと深く知りたいという興味関心が湧き上がってくるのではないかと思います。
そうすると、旅行記的な本、随想的な本では、物足りなくなってきて、仏像についての知的興味を充たしてくれる本が、読みたくなってくるのではないかなと思います。

私も、仏像の歴史といったものをしっかり知りたいと思うようになり、〈日本仏教美術史云々〉といった標題の本を、読んでみるようになりました。
ただ、この手の本は、学校の教科書そのものという感じで、単調というか平板というか、読んでいると「眠り誘う薬」で、すぐに飽きてしまった記憶があります。

本書「日本仏像史講義」は、仏像彫刻通史なのですが、結構面白く愉しく読めるのです。
新書版なのですが、各時代の仏像彫刻の特性とポイント、研究上の課題、論点などが、コンパクトに凝縮して盛り込まれています。

随想本や一般的概説書では物足りなくなった仏像愛好者の、知的興味をくすぐり充たしてくれる、格好の仏像史概説書だと思います。


【本書の内容~サワリのご紹介】

目次をご覧ください。

「日本仏像史講義」目次1

「日本仏像史講義」目次2


目次だけでは、中身が想像つかないのかと思いますので、少しだけ、本文のさわりをご紹介しましょう。

法隆寺再建と金堂釈迦三尊の項の、本文のさわりです。

飛鳥寺に次いで古い本格的伽藍であったと考えられるが、『日本書紀』によれば、この斑鳩寺の伽藍は天智9年(670)に一宇残さず焼失した。

これが昭和14年(1939) に発掘された、いわゆる若草伽藍跡にあたる。
若草伽藍は現在の金堂・五重塔・中門・回廊からなる西院伽藍の東南に接し、両者はわずかに敷地が重なっている可能性も指摘されている。

若草伽藍の発掘後、現西院伽藍は天智九年の火災後の造営と考える、いわゆる法隆寺再建論が一般的となったが、近年の年輪年代測定によれば、金堂に使用されている材木は火災前に伐採されたものであることがわかり、以前から一都にあった、火災前に新伽藍の造営が開始されていたとする新再建論の蓋然性が浮上した。

新伽藍造営の契機としては、皇極2年(643)の蘇我入鹿による斑鳩宮焼き討ちとのかかわりも想定されている。
しかし、敷地の重なる二つの伽藍の併存した可能性はやはり認められないとする意見も再提唱され、さらに議論は続いている。

いずれにせよ、法隆寺にはそれらの火災をさかのぼる7世紀半ば以前の仏像が伝えられ、これらの像の旧所在の問題など、仏像そのものの検証も、その議論にはふくまれるべきであろう。



(注記:金堂釈迦三尊の制作年代を光背銘文通りと考えることについて)

文献史学の立場からは、聖徳太子の実在をめぐる議論ともからめて、この銘記の内容の信憑性ひいては像の製作年代について疑義を呈する向きも一部にあるようだが、銘記が造像時に刻まれたことについては詳細な調査報告があり、美術史の立場からは、この像が銘記の示す推古31年(623) に製作されたことは、ほぼゆるぎなく認められている。

釈迦像について「尺寸王身」つまり聖徳太子と等身に造ると記しているのは、聖徳太子の神聖化の、そして太子と仏像史のかかわりの原点としても注目されるところであるが、亡者と等身の仏像を造るという行為は、おそらく中国の慣習から学んだもので、仏像に亡者の姿を重ねて思慕しようという意図にもとづいている。
この観念は以後の日本仏像史にもしばしばあらわれる。

なお、ここに名が明記されながらも作者止利仏師の実像が判然としないのは、飛鳥寺本尊についてのべたのと同様である。



薬師寺金堂三尊像の制作年代論の、本文のさわりです。

薬師寺金堂の本尊である薬師三尊像が日本の、ひいては東アジアの古代彫刻の最高峰に位置する作品であることは異論のないところであるが、藤原京薬師寺(本薬師寺)創建時の本尊が移坐されたとする説(移坐説)と、平城京移転後の薬師寺であらたに製作されたとする説(新鋳説)との論争があり、いまも解決していない。

前者であればその製作時代は飛鳥時代となり、後者であれば奈良時代ということになる。

藤原京における創建時本尊の完成を史料のどの時点にもとめるかについても諸説があるが、これを薬師寺で無遮大会の開かれた持続2年(688)以前とした場合、中尊薬師如来橡と、同じ丈六像である天武14年(685)開眼の山田寺像すなわち興福寺仏頭との作風の差はあまりに大きすぎることから、現薬師寺金堂本尊を創建時本尊とみることは困難であるとする説には説得力がある。
鋳造技法の調査でも薬師如来像に格段に発展した技法がみられることが指摘されている。

ただし、創建時本尊の完成は近年の研究における史料解釈によって、皇后時代の持統天皇の病のために天武天皇が発願した仏像が公卿百寮によって完成したという持続十一年であるとする説が再浮上しており(望月望「藤原京薬師寺本尊の造立年」〔東北大学大学院文学研究科美術史学講座『美術史学』31・32〕2011年)、それが現本尊の製作年代論争に影響をおよぼす可能性がある。

ともあれ現段階では、依然有力な新鋳説をとり、薬師寺移転が史料にみえる養老2年(718)頃の製作とするのか穏当であろう。


引用が、かなり長くなってしまいましたが、この本の内容をイメージいただけるのではないかと思います。

如何でしょうか?

仏像愛好者の知的興味をくすぐる、かなり読み応えのあるものだと思います。
新書版の概説とはいうものの、これまでの論点、最新の学説のエッセンスも凝縮して取り込んだものになっています。
ただ、こうした論点が存在することを初めて知る人にとっては、説明がコンパクトに凝縮され過ぎていて、ちょっと判りにくいかもしれません。
論点の大筋を御存じの方は、うんうんと頷きながら、新たな知見に興味を抱きながら、面白く読めるのではないでしょうか。


【新書版では大幅加筆~新研究成果も盛り込み】

ついでの話ですが、新書版では、「別冊太陽版から大幅に加筆された」と書かれていました。どんな処かなと照らし合わせてみましたら、結構加筆変更されていて、そのとおりでした。

新書版では、近年の諸説の出典論文が数多く明記されるようになっています。
また、別冊太陽版ではふれられなかった新たな研究成果が、しっかりと取り込んで説明されています。

新たな研究成果説明が、追加された処を、一つ二つご紹介しましょう。

飛鳥大仏の項では、

最近の科学的調査を踏まえ、現状の木や石による後補部分、塑土による後補部分以外の銅造部分に当初の造形をみるべきであるとする見解があるが(櫻庭裕介「飛鳥寺本尊丈六釈迦如来像について」〔早稲田大学文学研究科奈良美術研究所『奈良美術研究』14〕2013年)疑問である。

奈良時代の塑像・乾漆像の項では、

平安後期に「橘夫人」の病気平癒の由緒が語られた法隆寺西円堂の丈六薬師如来坐像は、「橘夫人」を橘美千代にあて興福寺西金堂諸像の周辺の作とみる説もあったが、最近は「橘夫人」を聖武天皇夫人の橘古那可智(~759)とみて天平勝宝7年(755)の聖武天皇不予に際して彼女が発願し、翌年の聖武崩御に完成して彼女の病気平癒の願意が加わったものかとする説がある。(中野聰「法隆寺上代彫像機能論」〔『機能論―つくる・つかう・つたえる』〈『仏教美術論集』5〉所収〕2014年竹林舎)

このような新たな研究成果のコメントが、加筆されています。

別冊太陽版をお持ちの方も、新書版を新たに買ってみる値打ちは、あるかもしれません。


【本書の執筆主旨など・・・・】

著者、山本勉氏は、本書を執筆することになった経緯や、趣旨について、「あとがき」で、このように語っています。

山本勉氏
山本勉氏
「多くの研究者の研究成果によって明らかにされてきた基本的な事実や、現在の研究状況の解説に終始している内容からすれば、『日本仏像史講義』というタイトルはややおこがましいものであったかもしれないが、なるべく平易な論述を心かけ、仏像史の流れはつかみやすくしたつもりだ。
大学の専門課程の講義というより、教養課程の講義、あるいは一般市民向けのカルチャーセンターの講義とでも思っていただければさいわいである。」


(注記:一般読者に好評をもってむかえられたことに関して)
「学生時代以来の恩師水野敬三郎から『読みやすい』とのコメントをえて(私信。もちろんこの評には『内容は薄いが』とのふくみがあると思うが)・・・・・・・・かすかに安堵した。
『日本仏像史講義』に著者がこめた、一人の専門家による一定の視座をもった通史に、なるべくあたらしい情報を盛りこんで、初学者や一般読者に提供したいという意図はそれなりに評価されたようだ。」


この山本氏のあとがきコメントは、本書の特長を、見事に言い表わしていると思います。
ちょっと読み応えのある仏像史概説書にご関心のある仏像愛好者にとっては、必読必携の一書ではないでしょうか。
是非、一読をお薦めします。


【仏像彫刻通史の旧刊本あれこれ・ご紹介】

ここで、ついでにという訳でもないのですが、これまでに発刊された、日本仏像史とか仏教彫刻史について解説された「通史的概説書」のなかで、それなりの「読み応え」がある本を、ご紹介してみたいと思います。

私が、これまでに読んだ「仏教彫刻史概説書」のなかから、この本は一度読んでみると面白い、興味深い、と感じたものです。

・いわゆる仏像案内とか仏像の歴史入門というものではなく、仏教彫刻史についてしっかり論じられているもの。
・単調淡々とした記述で、読み疲れてしまうものではなく、仏像愛好者の知的興味をくすぐる、読んで面白い本。

をピックアップしてみました。


まずは、ちょっと古いところで、戦前に書かれた本です。(出版は戦後すぐ)


「日本彫刻史要」 金森遵著  1948年 高桐書院刊  【221P】 170円

金森遵著「日本彫刻史要」


この本は、若くして戦死した美術史研究者、金森遵氏が、戦前の雑誌「国宝」に「日本彫刻史考」と題して連載した旧稿を単行本化した本です。
彫刻史の概説書というのはちょっと当たらないのかもしれませんが、なかなか興味深い本なのでご紹介しました。

目次は、ご覧のとおりです。

「日本彫刻史要」目次

目次の文言からも、ご想像がつくと思いますが、彫刻史の概説というのはあたらず、日本彫刻史における各時代の問題点、課題などを論じた論考、自説の開陳という内容になっています。
基本的な仏像彫刻知識を前提として、所論が論じられていますので、ちょっとなじみにくいかもしれません。
しかしながら、金森氏独自の「日本彫刻史の視点、考え方」が大胆に、思い切って論じられていて、ご関心のある方には、大変興味深く読めると思います。

例えば、「白鳳様式の可能性」の章では、「白鳳時代」について、このように論ぜられています。

此の如く見れば、白鳳時代を我国美術史~少なくとも彫刻史~の上で独立させるということは、様式的には全然根拠ないことが知られるのである。
そしてその前半は飛鳥時代の延長であるし、後半は奈良様式の萌芽期にあたるのであって、それ自体には一連の過渡としての意味すらも見出されないようである。
従って「白鳳」という美称に執着して、白鳳時代を残置せしめることは、「白鳳彫刻」の実に即せぬ空論としてしか考えられない。

大胆な議論が、舌鋒鋭く論ぜられていると、感じられることと思います。

金森氏、37~8歳ごろの執筆です。

金森氏は、東大大学院卒業後、東京・奈良の帝室博物館で彫刻史の研究に務めましたが、
「日本彫刻史を専攻する少壮学者として将来を嘱目され、その鋭い論文は識者の注目するところであつた」
研究者だそうです。

40歳で、フィリピン戦線にて戦死しますが、存命ならば、金森氏の鋭く大胆な彫刻史論が展開されたに違いなく、残念なことです。



「飛鳥・白鳳・天平の美術」 野間清六著 1966年 至文堂刊 800円

野間清六著「飛鳥・白鳳・天平の美術」

これもちょっと古い本ですが、皆さんおなじみの「日本歴史新書」の一冊として刊行されました。
仏像彫刻史の通史ではなく「飛鳥・白鳳・天平」という時代に限られて論ぜられていますが、読み応えある面白い本だと思いましたので、ご紹介しました。
私は、学生時代に、大変惹き付けられ、一気呵成に読み終えた思い出があります。

著者、野間清六氏は、本書の「まえがき」で、このように語っています。

「年輪を重ねれば、人それぞれの人生観が出来るように、私なりの上代美術観が何とか固まりかけたので、一応ここにまとめてみることにした。

本書のなかで、私が企図した点を挙げると、まず、
第一は、白鳳という時代を高くみて、大きく扱ったことである。
これは今まで飛鳥時代のものと思われていたものが、殆ど白鳳時代のものと考えられ、白鳳時代には大きく扱われるに値する、芸術的な高さが十分あると思ったからである。
第二は、作品に宿る造形感覚を追求して、その展開のあとを考えてみたことである。
これは美術の研究において一番大切なことだが、案外従来の美術書が軽視していたからであった。
・・・・・後略・・・・・・」

金森氏の「日本彫刻史要」とは正反対に、白鳳時代を一つの重要な時代様式として大きく評価し、「自由美、軽快美、リリカルな情趣性」を、白鳳の特色としました。

「飛鳥・白鳳・天平の美術」目次の一部
「飛鳥・白鳳・天平の美術」目次の一部

飛鳥白鳳時代の処の目次をご覧いただければ、ご想像がつくと思いますが、
野間氏は、百済観音、夢殿・救世観音、中宮寺・弥勒菩薩を、白鳳時代の制作と論じています。
当時は、中々大胆な発想だったのだと思いますが、その論点、視点には惹かれるものを感じてしまいました。

金森氏の「日本彫刻史要」と併せて読まれれば、興味深いことと思います。



「日本古代彫刻史概説」 町田甲一著 1974年 中央公論美術出版刊 【149P】 1700円

「日本古代彫刻史概説」 町田甲一著

町田甲一氏の名前は、仏教美術史に関心のある方で知らない人はいないのではないかと思います。
1993年、76才で亡くなりましたが、それまで日本彫刻史研究の第一人者として、また奈良六大寺大観の刊行を実現した編集委員代表として、多大な業績を残した著名な研究者です。

本書、「日本古代彫刻史概説」は、飛鳥時代から平安前期に至るまでの仏像彫刻の歴史を、「美術様式の展開」という視点から、町田氏の所論を論じた本です。
「概説」と題するには、少々専門的内容のような感じですが、判りやすく平明に記されています。

東京文化財研究所WEBサイトの物故者紹介によると、
町田甲一氏の業績などについて、このように記されています。

「町田は、生涯一貫して、芸術としての仏像の追究に情熱を注ぎ続けた。
その方法論は、リーグル、ヴォリンガー、あるいはヴェルフリンの理論に基づく自律的様式史観を前提としており、それを日本古代彫刻の様式区分論として展開させた一連の論考をあらわした。(「上代彫刻史上における様式時期区分の問題」〈『仏教芸術』38〉他)

町田氏は、飛鳥から平安初期にかけての仏像彫刻史を、
静視的・二次元的視覚活動から、触知的・三次元的視覚活動による写実、古典的理想美への展開、そして反古典バロック的表現へ
という、美術様式展開の中でとらえました。

本書は、ここでいう「町田氏の日本古代彫刻の様式発展論、区分論」を、まとめて概説した本といえるものでしょう。

町田氏は、本書「あとがき」で、このように述べています。

われわれの眼前に遺存する個々の作品を、まず芸術的に理解し、その様式の由来するところ、影響するところを明らかならしめるのが「美術史」という学問であるならば、個々の具体的作品の精緻なる研究を基礎としなければならないこと、いうまでもないことながら、その様式の歴史的展開、歴史的変容を追求して、その史的因果の関係を明らかならしめることを忘れてはならない筈である。

しかるに近時発表される美術史学上の多くの研究は、個々の作品についての研究が精緻になればなるほど、個々の作品の相互の間の問題や、その作品とその時代の美術全体との連関などについて、或いは一時代を限ってその時代の様式の変容などについて、論ずるところが、ひところに比べて、ますます少なくなってきているように思われる。

町田氏は、このような考えのもとに、「一時期の彫刻様式の展開について、私見をまとめようと」本書を執筆したとしています。

私は、町田氏の書かれた本を読んで、大変に惹かれるものを感じ、その著作を読みまくったことがありました。
一時期、「町田かぶれ」とでもいって良いようなものだったのかもしれません。
町田氏の著作のおかげで、仏像彫刻への興味関心が、大きく深まったような気がします。


「日本彫刻史論~様式の史的展開~」 中野忠明著 1978年 木耳社刊 【285P】 1600円

「日本彫刻史論~様式の史的展開~」 中野忠明著

本書は、中野忠明氏が、古美術研究誌「史迹と美術」に掲載した、日本彫刻史の各時代について論じた論文を再編集したものです。

中野氏は、あとがきで、このように記しています。

「著者が意図したのは、様式史としての彫刻史の追及であり、文化史的関連よりも、芸術作品の造型そのものの性質から、歴史を理解しようとした。
木耳社の企画も、このような在来の彫刻史の本とは毛色の違う、型破りの書物を世に紹介しようというお考えであろう。」

中野氏は、飛鳥から鎌倉に至る彫刻史の考え方のエッセンスを、このように述べています。

「日本仏像形成の歴史は、われわれの民族の美的本質がいかなるものであるかを顕示するものである。
仏像は古代において聖的崇高の美にかがやき、世界に対する知的観念を顕示したが、藤原仏は装飾的耽美の世界へ人々を迎摂している。
そして鎌倉以後は、世俗的芸術との抱合によって、仏像は高度な精神性を失った。」

このフレーズを読んで、共感されるか、そうではないのかは、それぞれかと思います。

ここに、本書の目次の詳細をご覧にいれておきます。

「日本彫刻史論~様式の史的展開~」目次

小さな字で読みづらいでしょうが、本書の論ずるところをイメージいただくことはできるのかと思います。



「仏像の歴史~飛鳥時代から江戸時代まで~」 久野健著 1987年 山川出版社刊 【220P】 1500円

「飛鳥白鳳天平仏」 久野健著 1984年 法蔵館刊 1600円

「仏像の歴史~飛鳥時代から江戸時代まで~」 久野健著.「飛鳥白鳳天平仏」 久野健著 

久野健氏の名前については、町田甲一氏と並んで、日本彫刻史研究の一時代を築いた著名な研究者として、皆さん、ご存じのとおりだと思います。

東京文化財研究所WEBサイトの物故者紹介は、久野氏の業績をこのように紹介しています。

久野の研究が戦後日本の仏教彫刻史を牽引したことは衆目の認めるところである。
ことに長く在籍した美術研究所から東京国立文化財研究所時代の研究では、仏像のX線透過撮影を推し進めるとともに、その成果を踏まえながら卓抜した彫刻史のビジョンを示した。

すなわち、『日本霊異記』の記述と照らし合わせて平安初期の木彫像の発生およびその支持推進が民間の私度僧による造像にあったことを提唱し、この学説は多少の修正は加えられながらも今日でも支持されている。

また、都鄙を問わず現地での調査研究を行ったことも研究の特色であり、・・・・・・・『平安初期彫刻史の研究』(吉川弘文館、1974年)といった大著として結実している。


「仏像の歴史~飛鳥時代から江戸時代まで~」 の方は、仏教の伝来から円空・木喰仏までをまとめた仏像彫刻の通史を、大変わかりやすく、平易に解説した本です。。
仏像の源流や系譜,作者,制作法,特徴や見方,各時代の比較,造像の儀式や手順などについて、エピソードを豊富におりまぜながら語られています。

本書のまえがきによれば、
「私(久野健)が各地で行った講演や講義のテープをもとにして、それに手を加え、仏像の通史をまとめてみたいと考え、出来たのが本書である。
そのため、出来るだけ講義のさいの話の流れを生かすように口語体にした。」
と述べられています。

仏像彫刻の歴史や論点が、やさしい語り口で記されており、読みやすさでは一番かもしれません。


「飛鳥白鳳天平仏」の方は、飛鳥~天平彫刻史についての概説と久野氏の所論をまとめたものです。

本書は、1980年から一年間、東京大学文学部で「日本古代彫刻史の諸問題」というテーマで講義した内容を一書にしたものだそうです。
この講義が、久野氏にとって東大での最後の講義になることから、記念のためにとられた録音テープをもとにして、加筆されました。

読みやすい文章ですが、それぞれの仏像、時代様式などについての久野氏の所論が、しっかりと述べられています。



「日本彫刻史概説・飛鳥~鎌倉時代」 水野敬三郎著 1996年 私家版 【50P】

「日本彫刻史概説・飛鳥~鎌倉時代」 水野敬三郎著

この本は、私家版で市販されていないのですが、ご紹介しておきます。
水野敬三郎氏が、講談社刊「日本美術全集」(全24巻)の、各時代の仏像彫刻の巻に概説を執筆したものを抜き刷り再録し、一書にまとめたものです。

日本美術全集の、第2巻、第4巻、第6巻、第10巻に
「飛鳥時代の彫刻」「奈良時代の彫刻」「平安前期の彫刻」「平安後期の彫刻」「鎌倉時代の彫刻」
という表題で、掲載されました。

この概説は、筆者の自説、所論に偏ることなく、各時代の主要仏像、仏像彫刻史の流れ、論点などについて、目配せが行き届いて解説されています。
長文ではありませんが、よく凝縮された密度の濃い彫刻史概説だと思います。
今回、冒頭でご紹介した、山本勉氏著の「日本仏像史講義」と、同じタイプの概説書といって良いのではないでしょうか。

写真でご紹介したのは、私家版なので、入手しにくいかもしれませんが、図書館などで、講談社版「日本美術全集」の当該巻の、水野氏執筆概説の処をピックアップしていただければ、通史としてお読みいただけると思います。



「日本仏像史」 水野敬三郎監修 2001年 美術出版社刊 【220P】 2500円

「日本仏像史」 水野敬三郎監修

本書は、美術出版社から、「カラー版 ○○史」という題名を冠して、15冊以上出版されている、美術工芸関係の歴史概説シリーズの一冊として刊行された本です。
「日本仏像史」のほかに「日本美術史」「東洋美術史」「日本建築様式史」等々といった本を書店でご覧になったことがあるのではないかと思います。

この「日本仏像史」は、日本仏像彫刻通史の解説本の「定本」といっても良い本なのではないかと思います。
仏像彫刻史のあらゆる分野に、目配せが行き届いていて、それぞれについてきちっと濃淡、過不足なく、学術レベルで解説されています。

監修者の水野敬三郎氏は、本書の「はじめに」で、このように記しています。

「日本の仏像の歴史は、これまでも美術史の概説や美術全集の中で項目として述べられてきたが、通史として一冊にまとめられた本は意外に少ない、というよりほとんどなかったといった方がよいかもしれない。
この本では、古代から近代にいたる各時代の仏像の歴史を、専門の研究家が分担して執筆した。
・・・・・・・・
今回は、その時代の彫刻史研究に道を切り開き、新たな展望を与えつつある方々に執筆をお願いした。
近代にいたるまでの、充実した仏像通史になったと思う。」

浅井和春、松田誠一郎、副島弘道、武笠朗、奥健夫、山本勉、藤岡穣、根立研介、鈴木喜博の各氏をはじめ、17名の研究者による共同執筆となっています。


本書の特長について、NET〈Amazon〉の商品説明では、

仏教伝来から現代まで、1500年余にわたる日本人の仏像受容と造像の全歴史過程を、240点余の図版・専門研究者の解説と充実した巻末資料により明らかにする。
仏像への正しい理解・鑑賞のための必須知識修得に、学生・愛好者必携の仏像学習書。

このように書かれていました。

この商品説明は確かにあたっているな、と思いました。

本書は、まさに「定本の通史」といって良いぐらい、きっちりと凝縮した文章で構成されているのですが、まさに「学術レベルの概説」という感じで、淡々とした文章で綴られています。
大学の仏像史講義の教科書にするには最適といっても良いのでしょう。
ただ、読み物として読んでいくには、ちょっとしんどくて、飽きが来てしまうかもしれません。
これだけのクォリティが高い本のことを、そのように言うと罰が当たるかもしれませんが、私には、読んで楽しいというより、座右に置いておくべき必携書という本となっています。



新刊の山本勉氏著「日本仏像史講義」の新刊案内から始まって、仏像彫刻史の通史単行本の旧刊案内になってしまいました。

ご紹介した旧刊各書を振り返ると、仏像彫刻史というものの捉え方に、様々な視点、考え方、論点が存在することを知ることが出来、大変興味深いものがあります。

私には、それぞれの仏像彫刻史本に接したことが、仏像愛好趣味を深めてゆくうえで、大変勉強になりました。


ご関心がある本がありましたら、ご一読いただければと思います。

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