観仏日々帖

トピックス~「奈良・日吉館をめぐる文化人」というシンポジウムが開催されました 【2014.11.2】


「奈良・日吉館をめぐる文化人~会津八一を中心に」

と題するシンポジウムが、早稲田大学で開催されました。

ビックリしました。

こんなシンポジウムが開かれるなどとは、思いもよらなかったのです。
20年近く前に廃業した「奈良の宿・日吉館」をめぐる話などというのは、あまりにもマイナーなテーマです。

知り合いの方に、

「こんなシンポジウムが開かれるみたいだよ。
貴方は、きっと興味があるんじゃないの?」

と、開催パンフレットをいただいたのです。

「奈良・日吉館をめぐる文化人」シンポジウム・チラシ
「奈良・日吉館をめぐる文化人」シンポジウム・チラシ


「これは、万難を排してでも、出かけねばなるまい!!」

と、10月25日(土)、満を持して出かけたのでありました。

というのも、
つい最近まで、神奈川仏教文化研究所HPの「埃まみれの書棚から」というコーナーに、
「奈良の宿あれこれ」
と題する連載を掲載して、その中で「奈良の宿・日吉館」について綿々と書き綴ったばかりです。

日吉館は、奈良にかかわる学者たちを中心に、文人、芸術家、またこうした世界を志す学徒達の溜り場、一種の文化的サロンとして、知られた奈良の宿です。

大正以来約70年間の長きにわたって続いた「日吉館」ですが、平成7年(1995)完全廃業します。
その後、建物の老朽化に耐えられなくなり、平成21年(2009)には、日吉館の建物も取り壊されました。

日吉館
昭和55年(1980)頃の奈良の宿・日吉館

日吉館の歴史、名物オバサン・田村きよのさんの事や、日吉館をめぐる文化人にまつわる話について、あれこれ調べてみて、

「自分も、ちょっとばかり日吉館通になったのではないか。」

という自己満足的気分になっていた矢先に、このシンポジウムの開催だったのです。

日吉館のオバサン・田村きよのさん
日吉館の屋台骨を支え続けた名物オバサン・田村きよのさん


このシンポジウムは、「早稲田大学文化芸術週間・2014年度シンポジウム」として開催されました。

小野記念講堂前のシンポジウム看板
小野記念講堂前のシンポジウム看板
チラシには、このようなシンポジウム開催概要が記されています。

日吉館は、大正初めに奈良で創業した旅館で、奈良を愛する文学者、画家、彫刻家や歴史、建築史、美術史の研究者らの定宿でした。

多くの文化人にゆかりのある日吉館は、「奈良の芸術院」とも称されました。

本シンポジウムでは、奈良と日吉館をめぐる大正・昭和初期の文化人の足跡について、日吉館をめぐる文化人―會津八一を中心に―」と題し、講演・研究報告をいただきます。


プログラムは、ご覧のとおりです。

シンポジウム・プログラム


どんな話が聞けるんだろうかと、興味津々で、会場の小野記念講堂に出かけました。

「奈良・日吉館をめぐる文化人」シンポジウム


こんなマイナーなテーマだし、宣伝もしていないので、大した人数は集まらないのだろうと思って行ったら、ざっと100名以上もの人が来場され、盛況ぶりに驚きました。

司会の方が、
「日吉館に泊まったことがある方は、手を挙げていただけませんか?」
と尋ねた処、
なんと、ほとんどの人の手が上がりました。

皆さん、「奈良の宿・日吉館」に泊まり、奈良美術を愛する人となったり、研究の途に進まれたのでしょう。
そして、私も含めて今や、皆中高年という方々なのだと思います。

そんな会場でしたので、
「シンポジウム」というよりも、

「日吉館での日々やオバサンのことを思い出し、若かりし頃を懐かしむ」

そんなノスタルジックなムードで、プログラムが進行していったような感じでした。


ところで、このシンポジウム、どうして開催されることになったのでしょうか?

川尻秋生・早稲田大学会津八一記念館副館長の、開催挨拶の話を聞いて、その訳が判りました。

早稲田大学会津八一記念館には、これまで、会津八一揮毫の日吉館の二つの看板(扁額と吊るす立て看板)などが、預けられて居ましたが、先年、故田村きよのさんのご子息から、正式に寄贈となったのに加えて、
今般、日吉館に遺された大量の「宿帳」と、会津八一揮毫の「我思古人」の横額が、ご子息の夫人から、寄贈されたのだそうです。

日吉館屋根に掲げられていた会津八一揮毫・扁額.日吉館軒に吊るされていた会津八一揮毫縦看板(拓本)
会津八一揮毫・日吉館の扁額横看板と縦看板(拓本)


日吉館の縦横看板が掲げられていた日吉館(昭和52年・1977)
会津八一揮毫・縦横看板が掲げられていた日吉館(昭和52年・1977)
屋根上に横看板が掲げられ、軒下に縦看板が吊るされている




「日吉館の宿帳」というのは、日吉館の名物とも云ってよいもので、大正6年(1917年)以来の宿泊人名簿が平成7年(1995)まで、大量40冊もが、遺されているものです。

日吉館の宿帳
日吉館に残されている宿帳(宿泊人名簿)

ここに現れる名前の数々は、いちいち説明する必要はないほどの、綺羅星の如くの著名な学者、文人、芸術家などなどのオンパレードです。
日吉館が、多くの文化人ゆかりの「奈良の芸術院」とも称されたことが偲ばれる、誠に貴重な史料ということが出来る、宿帳なのです。

早稲田大学会津八一記念館が、これらの寄贈を受けたことを機に、このシンポジウムが開催されることになったのでした。


また現在、早稲田大学会津八一記念館の常設展示室のコーナーで、
「奈良・日吉館と会津八一」
という特集展示も行われています。
(開催期間:10月13日~11月8日)

記念館には、「日吉館の宿帳」のほか、会津八一揮毫の「日吉館」の扁額、「観仏三昧」「「我思古人」の横額などが展示されています。

早稲田大学会津八一記念博物館
早稲田大学会津八一記念博物館

会津八一揮毫の「観仏三昧」の横額
会津八一揮毫「観仏三昧」の横額

会津八一揮毫の「我思う古人」の横額
会津八一揮毫「我思古人」の横額



さて、シンポジウムの講演内容などを、ちょっとご紹介したいと思います。

「日吉館のエピソード」といった類ものばかりですので、話の中身、前後関係がわかりにくいかもしれません。
HP連載「奈良の宿あれこれ」の日吉館についての項(その1~その6)を、ご参照いただければと思います。


大橋一章氏の「會津八一と日吉館」と題する、基調講演がありました。
大橋一章氏
大橋一章氏

講演の内容は

・会津八一が奈良美術に傾倒するようになる経緯と、日吉館との関わり合い
・日吉館と早稲田大学に関わるいくつかのエピソードや、日吉館をひいきにした学者たちの話
・大橋氏自身の日吉館の思い出

といったものです。

「奈良の芸術院・日吉館」の昔をしのんで、懐かしく回顧するというといったお話でした。

大橋氏が、初めて日吉館に泊まったのは、大学2年になった時、昭和38年(1963)の事であったそうです。
その時の宿代は「700円」
やはり、名物のすき焼きを腹一杯愉しんだそうです。
私が初めて泊まったのは、昭和45~6年(1970~71)の頃で、宿代は「1200円」でした。

会津八一と日吉館がらみの話では、

・初めて日吉館に泊まるようになったいきさつ

・日吉館の看板を揮毫した時の話

・日吉館定宿の二大巨頭、会津八一と足立康は仲が悪くて、オバサンが大変苦労した話

などなどのエピソードが紹介されました。

日吉館前に立つ会津八一...日吉館前の会津八一と田村きよのさん
日吉館前に立つ会津八一(左)と八一と田村きよのさん(右)

足立康
建築史・美術史学者~足立康

このあたりの話は、

単行本「奈良の宿・日吉館」太田博太郎編 S55講談社刊

に詳しく語られているとおりのものです。
HP連載「奈良の宿あれこれ」<その2><その4>でも、紹介させていただきました。

単行本「奈良の宿・日吉館」
単行本「奈良の宿・日吉館」


今回の大橋氏の講演で、私が初めて新たに知った話は、こんな話です。

日吉館の名物看板のうち、吊るしの「ひよし館」と書かれた縦看板の方は、何度も盗難にあったそうです。
幸いにも、その都度、無事帰ってきたのだそうです。

その縦看板と、横看板が、早稲田大学に寄託され、寄贈されるようになったいきさつの話です。

平成9年(1997)に、早稲田大学から、日吉館のオバサン・田村きよのさんに、感謝状を贈ることになったのです。
どうしてこの時に贈ることになったのかの説明はありましたが、ちょっと忘れてしまいました。
奥島孝康氏
奥島孝康氏

当時の早稲田大学総長・奥島孝康氏が、感謝状の授与に、大橋一章氏を同行して、奈良の日吉館を訪れました。
この時、横看板の扁額は屋根から下されて、部屋に据えられていたそうですが、大橋氏は奥島総長に、

「早稲田に博物館が出来たら、是非ともこの看板を貸して欲しい。」

とオバサンに頼んでもらえるように、言ったそうです。

部屋に据えられた横看板の扁額の前で、総長が、そのようにお願いしたところ、
オバサンは、快く

「この看板は、永久にお貸しする。」

と応えてくれたそうです。

部屋に下された名物看板の横に座る田村きよのさん
部屋に下された名物看板の横に座る田村きよのさん

オバサンは、その翌年、平成10年(1998)、88歳で亡くなります。
同じ年、平成10年に会津八一記念博物館が、開館することになりました。

そして、会津八一揮毫の二つの日吉館の看板は、会津八一記念博物館に保管されることになったのだ、ということでした。


もう一つ、会津八一が日吉館に遺した、掛け軸の話です。

「いかるがの さとのをとめは よもすがら きぬはたおれり あきちかみかも」

という、鹿鳴集に載せられた会津八一の歌は、みなさんよくご存じのことと思います。

日吉館には、会津八一の書によるこの歌の軸物があり、八一の書のなかでも、大変良く書けた出来の良いものであったそうです。
薬師寺・高田好胤師
薬師寺・高田好胤師

この軸物、薬師寺の高田好胤師が大変気に入り、何度も何度も、譲ってほしいと、日吉館のオバサンを訪ねてきたそうです。

オバサンも、ホトホト根負けして、最後には、
「そこまで言われるのなら、差し上げましょう。」
といって、高田師を一瞬喜ばせたのです。

が、間髪入れず、
「その代わりに、お宅様の聖観音様を持ってきて欲しい。」
と、切り返したのだそうです。

以来、高田師も、この話はしなくなったとのことでした。

こんなエピソードのある軸物も、今般、会津八一記念博物館に寄贈されたそうです。

他にも、面白い話がいくつかありましたが、大橋氏の講演からの紹介話は、これくらいにしておきます。


會津八一記念博物館助手・金志虎氏の興味深い研究報告がありました。
「日吉館の宿泊人名簿(宿帳)について」
と題する報告です。

金氏は、今般寄贈された「日吉館の宿泊人名簿」、40冊と、欠落部分のコピー1冊に書かれている人たちについて、現在検証分析中だそうです。

宿帳は、大正6年(1917年)から平成7年(1995)までの80年間近くに及びます。
日吉館が、下宿兼旅館業を始めたのは大正3~4年頃のことですから、旅館業間もないころからの宿帳が遺されていることになります。
欠落箇所もいくつかあるようで、最長10年以上の間の欠落もあるとのことです。

日吉館の宿帳・会津八一の署名がある(上段)
日吉館の宿帳
上段・大正11年11月、下段・昭和18年7月
上段には会津八一の記名が見える


この宿帳には、仏教美術史、建築史、古代史などの世界の、綺羅星の如くの著名な学者たち、誰もが名を知る文人、芸術家、評論家などなどが、オンパレードで登場します。

金氏からは、どんな名前が登場するのかという紹介説明が、宿帳画像を交えてありました。
登場する学者、著名人については、
HP連載「奈良の宿あれこれ」<その4>をご参照ください。

面白かった話は、こんな発見でした。

大正6年(1917年)、第1冊宿帳の冒頭には、「滋賀県高島郡士族・井上傳介」の名が記され、次頁には立命館・野球部のメンバーの名前が連なっています。
ただ、同じ年に、福井利吉郎、中川忠順、上野直昭、藤懸静也といった名前が見られますので、奈良博前の立地の宿ということで、自然と研究者・文化関係者の最寄りの宿になっていたのでしょう。

日吉館に、欧米の外国人が初めて泊まったのは、大正13年(1924)の事でした。
欧米人3人の名前が、宿帳にカタカナ、アルファベットで登場します。

興味深かったのは、宿帳への登場件数ベスト3の名前です。
著名学者のベスト3ということですが、

会津八一:18回

足立 康:18回

金森 遵:17回

となっているそうです。

日吉館定宿、贔屓の二大巨頭、会津八一と足立康の名前が挙げられるのは、当然の事という処でしょうが、意外であったのが、「金森遵」の名前が挙がったことです。

金森遵という、美術史学者の名前はご存じでしょうか?

「日本彫刻史要」(昭和23年・高桐書院刊)、「日本彫刻史の研究」(昭和24年・川原書店刊)
という著作で知られる、日本彫刻史の研究者です。
なかなか切れ味良く、思い切った論陣の論考で、惹き付けられるものがあり、熱心に読んだ記憶があります。

東京帝大美術史学科を卒業し、昭和8年に東京帝室博物館に籍を置いたのですが、昭和19年に39歳で召集され、翌20年、フィリピンにて40歳で戦死します。

金森が日吉館に泊まったのは、学生時代、博物館勤務の十数年間(うち2年間は奈良博勤務で奈良に居住)ですので、その間に二大巨頭に迫る17回、日吉館に泊まったということになります。
東京から奈良まで出かけるということが、たいそう大事であった昭和初期に、大変な頻度であったと思います。

金森自身が、大の日吉館ファン、日吉館贔屓であったのでしょうか?
当時、奈良を訪ねた頻度が断トツで、宿は日吉館ということだったのでしょうか?
「金森遵と日吉館」にまつわるエピソードが、あまり伝えられていないようで、良くは判りませんが、この宿泊回数の多さは、金森遵の
「奈良仏像研究への熱き情熱」
の証左であるように感じました。


研究報告の後は、パネルディスカッション、会場参加者との質疑応答と続きました。

会場の参加者からも、日吉館の思い出話を交えた発言もいくつかあり、大変なごやかな、質疑となりました。

あの日吉館贔屓の二大巨頭の一人、「足立康」のご兄弟のお孫さんにあたる方からの、思い出を交えたご発言もありました。

また、「根本さん」という方のご発言もありました。
根本さんは、若き頃、日吉館の一員のように手伝いをされていた、日吉館党の方であったとのことです。

金氏の、日吉館の宿帳についての研究報告の中で、

「宿帳を見ると、終戦の日(8/15)前後の日吉館は、宿泊人は誰もなく、終戦の日当日に一人の泊り客がいただけであった。」

という説明があったのに対し、

根本氏から、

日吉館に下宿していた鷹司平通氏
日吉館に下宿していた鷹司平通氏
「終戦前後の日吉館は、宿屋というより、下宿という感じで滞在している人が、いたのが実情であったと思う。
例えば、鷹司 平通(タカツカサ トシミチ)氏(五摂家の一つだった鷹司家の当主)は、当時、日吉館に下宿しており、日吉館で終戦の日を迎えたのは知られている話。

また、日吉館の歴史のなかでは、宿帳には記されていないが、折々日吉館を訪れて、文化サロン的交友を深めていた人々も数多くいたのが実情。

宿帳に登場する人物だけで、日吉館をめぐる人々を語るだけではなく、多面的な眼でみていく必要もあるのでしょう。」

こんなご発言もありました。

「さすがに、日吉館党といわれる人は、奥が深い!」

と、感心した次第です。

同時に、「根本さん」という名前を聞いて、

「この方は、単行本『奈良の宿・日吉館』に登場する、根本信義さんという人に違いない!!」

と確信しました。

同じ日吉館党の、針生千絵さんと結婚したという、根本信義さんだと思います。
この話は、日吉館にまつわるエピソードのなかでは、大変有名な話です。
「奈良の宿・日吉館」には、「日吉館に結ぶ愛」という章立てで、二人のことが語られています。

「奈良の宿・日吉館」に綴られている「日吉館に結ぶ愛」の章
「奈良の宿・日吉館」に綴られている「日吉館に結ぶ愛」の章
青山茂執筆「日吉館の星霜~田村きよの半世紀」の一節に綴られている


針生千絵さんは、著名な評論家・針生一郎氏の息女です。
針生一郎氏は、「奈良の宿・日吉館」に寄せた「父娘二代の縁」と題する寄稿で、この話にふれています。

針生一郎氏
針生一郎氏
針生氏は、このように語っています。

「(昭和55年~1980)三月末、その娘がやはり日吉館の常連の根本信義と結婚した。

この結婚の事実上の推進力は、自分の目の黒いうちに二人を一緒にしてやりたい、というおばさんの熱意だが、日吉館大先輩の宮川寅雄さんご夫妻に媒酌をお願いし、新郎新婦を含め常連・友人らが日吉館に泊まり込み、氷室神社で挙式の上、おばさんら手製の料理を興福寺の広間に運んで、披露宴が行われた。

裏方に徹してついに式にも出なかったおばさんは、あとで疲労のため寝込んだらしい。

わたしは娘をとおしてできた日吉館との太いきずなを、いま感慨深くうけとめている。」

この話の主人公、根本信義さんも、このシンポジウムにいらっしゃっていたのでした。

こんな、和気あいあいとして、良き思い出の「奈良の宿・日吉館」を振り返り、懐かしむという会場の雰囲気に包まれて、シンポジウムは、終幕を迎えました。


最後に、会場にいらっしゃった田村きよのさんのご子息の夫人が、司会の方から指名を受け、一言、ご挨拶がありました。
今般、「日吉館の宿帳、会津八一の横額など」を、寄贈された方です。

「会場参加の方々も含め、皆さんの日吉館に対する愛情には、本当に気持ちが込められていて、有難く思います。
皆さんの心の中に、日吉館という宿のことが、少しでも残り続けていることを感じ、懐かしく嬉しく思います。」

このように、感慨を込めて話されていました。

ジーンと心に訴える話でした。

参加の皆さんは、一人ひとりの

「自分にとっての日吉館のそれぞれの思い出」

に浸りながら、会場を後にされたことと思います。

看板の下ろされた日の日吉館(昭和57年・1982年12月31日)
屋根上の名物看板の下ろされた日の日吉館(昭和57年・1982年12月31日)
オバサン・田村きよのさんは72歳の時、廃業を決意し、看板を下ろしました
日吉館党の人々が、ボランティア支援で営業を再開、平成7年(1995)完全廃業しました



古仏探訪~京都府城陽市・阿弥陀寺の薬師如来立像  【2014.10.18】


南山城の知られざる古仏をご紹介していますが、引き続いて、京都府城陽市の阿弥陀寺に祀られる薬師如来立像をご紹介します。


インパクトのある仏像なのです。

拝したとたんに、像全体から発する霊気というか、迫力に、思わず後ずさりしてしまいそうになりました。
決して、美しいとか、出来が素晴らしく良いというのではないのですが、その魅力に強く惹き込まれてしまう仏像だと思うのです。

「これぞ、平安前期木彫!!」

といってよいのかもしれません。

初めてこの仏像に拝したとき、一気に惹き付けられてしまいました。
「私の、心に深く残る仏像」のランキングに入ってくる仏像の一つになってしまいました。

まずは、阿弥陀寺・薬師如来立像の写真をご覧ください。


阿弥陀寺・薬師如来立像

阿弥陀寺・薬師如来立像
阿弥陀寺・薬師如来立像

如何でしょうか?

この仏像は、「知られざる仏像」というわけではなく、わりと知られている像だと思います。
重要文化財に指定されている檀像風の一木彫像です。
像高95.1センチという小さな像です。

この像を採り上げた仏像の本もそれなりにありますし、2006年秋に東京国立博物館で開催された「仏像~一木にこめられた祈り」展にも出展されました。
ご覧になった方も多くいらっしゃるのではないかと思います。

今更、ここでご紹介する仏像ではないのかもしれませんが、大変気に入っている仏像なので、採り上げてみたいと思います。


阿弥陀寺は、京都府城陽市枇杷庄という処に在ります。

京都から奈良の方に往く近鉄京都線の富野荘駅から、南の方に歩いて10分ぐらいの処です。
細く曲がりくねった、ちょっと判りにくい道を往くと、「浄土宗 阿弥陀寺」と刻まれた立派な石碑が見えてきます。

阿弥陀寺・入口
阿弥陀寺・入口

小ぢんまりと落ち着いた感じのたたずまいのお寺です。
すぐそばには枇杷庄天満宮があり、お寺のすぐ南側には、木津川が流れています。

枇杷庄・天満宮
枇杷庄・天満宮

阿弥陀寺の南を流れる木津川
阿弥陀寺の南を流れる木津川

お寺には、ご紹介の薬師如来像のほかに、城陽市の指定文化財になっている、鎌倉時代の阿弥陀如来坐像が祀られています。

阿弥陀寺・本堂
阿弥陀寺・本堂

阿弥陀寺・本尊阿弥陀如来坐像(鎌倉時代)
阿弥陀寺・本尊阿弥陀如来坐像(鎌倉時代)


私が、阿弥陀寺を訪ねたのは、もう10年ほど前になります。
仏様の拝観お願いの連絡をしました処、快くご了解をいただきました。

薬師如来像は、専用に建てられた小さな収蔵庫のなかに祀られていました。

阿弥陀寺・薬師如来像を祀る収蔵庫
薬師如来像を祀る収蔵庫

ご住職に、収蔵庫を開いていただき、いよいよ拝観です。

写真で見ても、シャープな彫りで森厳な仏像だなと感じていましたので、期待に満ちて、そのお姿を拝しました。
果たして、眼前に顕れた薬師如来像は、その期待をはるかに通り越して、強烈なインパクトを感じさせるものでした。

一瞬、釘付けになってしまいます。

阿弥陀寺・薬師如来立像

阿弥陀寺・薬師如来立像~上半身
阿弥陀寺・薬師如来立像


パワーがあるのです。
1mにも満たない小さな仏像とは思えないような、パワーを発散しています。

仏像の前に立つと、無言のオーラで迫りくる「気」のようなものに押されて、思わず後ずさりしてしまいそうな迫力です。
良く判りませんが「霊気」とでもいうのでしょうか?

細かな造形の話はさて置いて、
「この仏像は、ただものではないぞ!」
と、びっくりしてしまいました。

写真で見ていた時は、迫力ある仏像だが、割りと大人しく整って造られ、上手に仕上げられた仏像なのかな、という印象でした。
眼近に拝すると、まさに想定外というか、圧倒的はオーラにあてられてしまいました。

落ち着いて、仏像の姿をじっくり見てみました。
色々なことに気づきます。
阿弥陀寺・薬師如来像~怖いお顔
阿弥陀寺・薬師如来像~怖いお顔


「怖い顔!」をしています。

威相というのでしょうか?


目尻が尋常ではないほどに吊り上っています。
分厚く引き締まった唇が鋭く彫り込まれており、何かを威圧するような、恐ろしげなお顔をしています。

ちょっと、その眼力に射すくめられてしまいそうな、怖さを感じます。


もう一つ、印象的なのは、
「木の塊、そのままのような彫像!」
という造形感覚です。

平安前期彫刻は、よく塊量的という風に表現されますが、そのイメージをはるかに超えて、木の塊そのもののように彫られています。
仏像の背中まで一回りして、上から覗き込むようにして観ると、「直方体の木の塊」という感じです。
「木塊」のイメージを残したままに、彫り込まれているように思えるのです。

阿弥陀寺・薬師如来像側面~木塊のような造形...阿弥陀寺・薬師如来像背面~木塊のような造形
阿弥陀寺・薬師如来像の側面と背面~木塊のような造形


阿弥陀寺・薬師如来像~衣文の鋭く荒々しい彫口
阿弥陀寺・薬師如来像~衣文の鋭く荒々しい彫口
衣の彫り口などは鋭く深く、体躯の造形力にも並々ならぬものを感じますが、整って仕上げているというのではありません。

粗い彫口をそのまま残したような表現で、木塊感をそのまま意図的に残そうとして彫られているように思います。

こうした造形が、きっと強いオーラや霊気のようなものを感じさせるのだと思います。

このくらいの大きさの檀像や檀像風の仏像は、見事な彫技で、美麗で技巧的に仕上げられた像が多いのですが、阿弥陀寺・薬師像はそれらの像とは、全く違う世界のなかで造られた像のようです。


この薬師像、どうして、こんなに恐ろしげで、木塊のような造形に彫られたのでしょうか?


専門家の解説をみてみたいと思います。

材質・構造などについては、いくつかの解説をまとめると、このように述べられています。

阿弥陀寺・薬師如来像~連肉まで一木で彫られている
連肉まで一木で彫られた薬師像
・頭部から台座蓮肉までを、カヤとみられる針葉樹で彫り出し、内刳りは施さない。

・螺髪・両手首(共に現状後補)を、矧ぎ付ける構造となっている。

・表面に彩色なく素木像のようにみえるが、わずかに顔料が残っているところがあり、元は淡黄色を塗って檀像のように仕上げたらしい。
(彩色なく素地とする解説や、白色顔料が残るので、もとは彩色像だろうとの解説もあります。)

まさに、平安前期の特徴を備えていると云えるのでしょう。


威相の恐ろしげな造形表現の訳については、どのように考えられているのでしょうか?

伊東史朗氏は、この特異な表現について、このように述べています。

阿弥陀寺・薬師如来像~威相の面相
阿弥陀寺・薬師如来像~威相の面相
「短躯であるが、堂々たる量感を誇示する。
眼球のふくらみを感じさせ、つりあがりぎみで見開く眼、張った鼻翼、厚い唇などは人を圧倒する威圧感がある。
・・・・・・・
(神護寺薬師如来立像と)共に、森厳な面持ちと荒々しい覇気があるのは注目され、共通の信仰基盤の上に造られたことを想像させる。

奈良から平安時代初期にかけて、悪霊や祟りを逃れるため、盛んに薬師如来が信仰されたが、そのような本尊はおそらく相手を睨み据え、神の貌に通じる像であったろう。

本像もそのような背景を感じさせる。」
(日本古寺美術全集第15巻・1980集英社刊)


阿弥陀寺・薬師像の威圧感ある表現は、神護寺薬師如来の威相の事由と考えられている「悪霊や祟り・呪詛を防御、威圧するための表現」と、同様の背景によるものだろうと見られているようです。


東博で開催された「仏像~一木にこめられた祈り」展図録の解説は、
この像の制作を9世紀としたうえで、その威相、霊的表現を「木の持つ霊性のなかから仏が生まれる感覚」を体現した造形に因るものと、
このように解説しています。

阿弥陀寺・薬師如来像~塊量的な体躯の造形と衣文
塊量的な体躯の造形とシャープな衣文
「この像は、・・・もとはその近くにある天満宮社の神宮寺薬師院の本尊であり、明治時代の神仏分離に際して、移安されたという。
・・・・・・・
幅が広く、顎の出が少ない寸詰まった顔立ちに特色があり、・・・・・・表情には霊的な雰囲気が漂う。
体躯には幅と奥行きがあり、蓮肉の大きさでそのまま立ち上がる丸太から、出来るだけ削り落とす部分を少なくしようとして、像を彫り出したような感覚がある。
・・・・・・・・
木の持つ霊性をこめながら、木から仏が生まれるという感覚を体現した作例といえよう。

その表情の霊的な気分とともに、この像が神宮寺(神社に付属する寺院)に安置されていたという伝来とも関連するように思われる。」
(特別展「仏像~一木にこめられた祈り」図録・2006.10刊所収)

「霊木化現」の思想的背景から、「烈しい霊威表現」、「尋常ならざる精神性を発する表現」がされた一木彫像の一例という考え方なのだろうと思います。
木塊のような彫り方も、こうした感覚によるものとみられています。
井上正氏の考え方の延長線上にあるのでしょうか。


中野玄三氏は、本像を9世紀の制作とし、森厳、威相の像が造られた訳を、次のように述べています。

「この薬師像のある枇杷庄は、木津川が大きく蛇行する地点にあり、洪水の時はいつも堤防が決壊する危険があった。

ここには天満宮社があり、その宮寺の薬師院に、この薬師像は安置されていた。

これは、『七仏薬師経』の第一に説かれる善名称吉祥王薬師如来に『風波の難』を鎮める功徳があるため、あえてこのような地点に薬師像を安置したのである。」

(城陽市史第1巻・2002刊所収)

阿弥陀寺の南を流れる木津川
阿弥陀寺の南を流れる木津川

枇杷庄・天満宮
枇杷庄・天満宮

「今崎一彌氏所蔵の図面の写しによると、天滴宮社社殿が西向きであるのに対して、薬師院は南向きで、木津川を睥睨するかのごときたたずまいである。

このような薬師像の木津川流域への配置の有り様は、洪水鎮壓に封する薬師如来の強大な威力を表している。」
(木津川流域の薬師悔過とその仏像・国華1348号2008.2刊所収)

中野氏は、木津川氾濫による洪水を封ずるため、神仏習合による薬師信仰が行われたという遺例が、木津川流域にいくつか遺されている。
阿弥陀寺・薬師像もその一例であり、洪水という厄災を鎮圧せんと、森厳、重厚な威相に表現されたものだとみているのです。


いずれにしても、阿弥陀寺の薬師如来像の、恐ろしげで威圧的な造形表現は、

「神仏習合」「霊威を示す」「霊木信仰」などなど

にまつわる造像であることに因るものとみられているようです。




「怖い仏像」「恐ろしげな表情の仏像」

他には、どのような仏像が思い浮かぶでしょうか?


私が、すぐ思い浮かんでくるのは、次のような仏像でしょうか。

大型の仏像なら、

神護寺・薬師如来立像、黒石寺・薬師如来坐像、観菩提寺・十一面観音立像。

小型の仏像なら、

秋篠寺・地蔵菩薩立像、勝尾寺・薬師如来坐像、霊山寺・十一面観音立像。

他にも、挙げれば沢山あるのでしょうが、即座に浮かんだのはこんなところです。

神護寺・薬師如来像~顔部
神護寺・薬師如来像~顔部

黒石寺・薬師如来像~顔部
黒石寺・薬師如来像~顔部

観菩提寺・十一面観音像~顔部
観菩提寺・十一面観音像~顔部

秋篠寺・地蔵菩薩像~顔部
秋篠寺・地蔵菩薩像~顔部

勝尾寺・薬師如来像~顔部
勝尾寺・薬師如来像~顔部

霊山寺・十一面観音像~顔部
霊山寺・十一面観音像~顔部


どの顔を見ても、尋常ではない「怖い顔」をしています。
こんな顔で射すくめられたら、震え上がってしまいます。

しかし、これらの仏像は、ただ単に恐ろしげなだけではなく、強く我々の心を惹きつける不思議な魅力があるのです。
「心に深く残る仏像」になっておられる方も多いのではないかと思います。

これらの怖い顔の仏像、どうしてこんな威相に造られたのだと考えられているのでしょうか?


いくつかの見方、考え方をご紹介したいと思います。

神護寺・薬師如来立像についてです。

神護寺・薬師如来立像
神護寺・薬師如来立像
神護寺像は、和気清麻呂が延暦年間に創建した神願寺の本尊であったと考えられています。

中野玄三氏は、あの怪異な顔貌は、この薬師像の造顕事由にあると考えました。

和気清麿は、宇佐八幡の神託を受け、称徳女帝の寵愛を受けていた時の権力者、道鏡を失脚させたのですが、その道鏡は下総の国で客死します。
和気清麻呂は、道鏡の怨霊の祟りや、道鏡一派の呪詛を防御するため、本尊薬師像を恐ろしげな畏怖感を与える姿に造ったのだと論じました。

本来あるべき仏の慈悲相をしていないのは、こうした調伏のための修法の本尊にふさわしい力を顕しているからだと考えたのです。


また、皿井舞氏は、神護寺薬師如来像の恐ろしげな姿の事由について、神願寺が宇佐八幡の要請に応えて創建されたことに注目し、
神願寺の呼称のとおり、
「仏力をもって、神威を増す」
という「威相」に顕わされたとしています。
神仏習合の一つの類型としてみるべきという考えです。



黒石寺・薬師如来坐像については、どうでしょうか。

黒石寺・薬師如来坐像
黒石寺・薬師如来坐像
黒石寺は、岩手県水沢、古代東北開拓の拠点であった胆沢城の近くに在り、薬師如来像は墨書銘から貞観4年(862)に制作されたことが知られる古像です。

この像は、当時の東北開拓の人々が、蝦夷に対する恐怖に対峙しこれを振り払うため、威相に造られたのではないかといわれています。
薬師如来が、蝦夷の畏怖に立ち向かい、これを折伏するという、蛮夷調伏の祈りを込めて造られたともみられているのです。

そういわれると、まさに頷いてしまう、威圧感のある仏像です。

黒石寺は、石手堰(いわてい)神社(通称・黒石神社)の神宮寺とみられており、東北土着の神との神仏習合像ではないかという見方もあるようです。



秋篠寺・地蔵菩薩像については、このような見方があります。

秋篠寺・地蔵菩薩立像
秋篠寺・地蔵菩薩立像
秋篠寺は、光仁、桓武両天皇の勅願により、法相宗の高僧・善珠(723~97)を開基として創建されたと伝えられます。

こうしたことから秋篠寺には、光仁天皇の皇子で、配流となり憤死した、早良親王の怨霊を封じるような機能があった可能性も考えられ、地蔵菩薩像の厳しい表情から発せられる霊的な雰囲気は、秋篠寺のもつ、そんな歴史的背景に関連するのではないかというものです。

特別展「仏像~一木にこめられた祈り」の解説に、このようにふれられています。

あの秋篠寺・地蔵菩薩像の「不気味な、怖い顔」を見ていると、確かにそんな気分になってきます。


井上正氏や安藤佳香氏は、こうした恐ろしげな威圧表現について、このように論じています。

井上正氏は、
勝尾寺・薬師如来像、観菩提寺・十一面観音像、霊山寺・十一面観音立像をはじめとするような威相表現について、
「尋常でない霊異相を、如来・菩薩にあるまじき、怒りに近い相好で示した」
と評しています。

古密教といわれる、雑密系尊像の霊威表現の一環として、こうした威相を捉える見方をしています。


勝尾寺・薬師如来坐像
勝尾寺・薬師如来坐像

観菩提寺・十一面観音立像...霊山寺・十一面観音立像
.   観菩提寺・十一面観音立像          霊山寺・十一面観音立像


安藤佳香氏は、
この井上氏の見方を踏まえて、こうした表情の厳しさを生み出した要因のひとつに、「神への畏怖の信仰」ともいえる固有神に対する畏怖の観念があったに違いない。
勝尾寺薬師三尊像、神護寺薬師立像はともに観念上の檀像として、固有神との習合の中で造立された「霊威の薬師」であり、両者はその点で造像精神を共有するものであるといえようと、論じています。


「威相表現」の様々な見方の紹介の話が、ついつい長くなってしまいました。


平安初期の「怖い顔、恐ろしげな姿」の表現は、、

「悪霊調伏、夷敵調伏、厄災鎮圧」

といったものや

「神への畏怖、神威を示す」

といったものなど、

尋常でない霊力にすがる信仰というものを想定しなくては、なかなか理解できないというように思えます。
そして、「神仏習合」ということが、それに付きまとっているようです。


ただ平安前期の「神仏習合像」が、みんな森厳な威相に造られているかというと、そうではありません。
おだやかに整って慈悲的な相に造られている像も、多くあります。
なかなか一概に決めつけるようなことはできないように思えます。


阿弥陀寺・薬師如来像のご紹介をしているうちに、平安初期の「怖い顔、恐ろしげな姿」の仏像の話になってしまいました。

「怖い顔、恐ろしげな姿」の仏像には、言い知れぬ心惹きつける魅力があります。


是非、一度、城陽市の阿弥陀寺を訪ねられて、薬師如来立像の霊気にふれて見られてはいかがでしょうか?

きっと、心に深く残り、「怖い顔の仏像」について、想いを巡らされることと思います。


古仏探訪~京田辺市・来迎寺の聖観音坐像  【2014.8.31】


南山城シリーズの続きということで、京田辺市の松井里ケ市にある来迎寺・聖観音坐像をご紹介したいと思います。


「京田辺の来迎寺? 聞いたことないなあ・・・・・」

と、皆さん、首を傾げられるのではないでしょうか。

来迎寺の聖観音坐像を拝したことがある方は、あまりいらっしゃらないのではないかと思います。
平安時代の仏像ですが、全くの無指定で、市指定文化財にもなっていません。

この像の存在を知ったのは、最近刊行された「京田辺市の仏像」という本に掲載されていたからです。
平成19年(2007)に刊行された、調査報告書です。

「京田辺市の仏像~京田辺市美術工芸品調査報告書~」
京田辺市教育委員会・2007年刊

「京田辺市の仏像」京田辺市教育委員会刊


ページをめくっていると、魅力のありそうな平安古仏の写真が、眼に留まりました。
「京田辺市の仏像」に掲載されている写真をご覧ください。

来迎寺・聖観音坐像(「京田辺市の仏像」掲載写真)
来迎寺・聖観音坐像(「京田辺市の仏像」掲載写真)

一目見ただけで、結構古い仏像だと感じられると思います。
だいぶ、後の手が入っているような感じですが、どう見ても、平安前期の雰囲気プンプンの仏像です。

「これは、一度訪ねねばなるまい!」

そのように思っていました。

昨年(2013)、機会があり、ようやく京田辺市の古仏探訪にでかけました。
来迎寺の観音像も含めて、あまり知られていない平安古仏をいくつか拝しましたが、やはり、この来迎寺像が最も印象的で出色、という実感でありました。

そこで、この「知られざる平安古仏」として、ご紹介しておこうと思った次第です。


来迎寺は、京田辺市・松井里ケ市という処に在ります。
京田辺市の北の方で、城陽駅の西5キロぐらいの処です。
京八幡とか宇治に近く、南山城というより京都の南といった方がよいような場所です。

聖観音像のご拝観お願いのご連絡をすると、快くご了解をいただきました。

同好の方々と車で訪ねましたが、古い家が並ぶ村落の道を往くと、その奥の方に来迎寺がありました。
小ぢんまりはしていますが、山門もご本堂も荒れた様子もなく、地元の人々にしっかり守られているお寺のようです。

来迎寺・山門
来迎寺・山門

お寺へ向かう途中で、地元の年配の方に道を尋ねました。

すると、
「観音さんを見に来る人がいるというのは、あんたたちの事なのか。
私も、その観音さんを拝んだことが無いので、この機会に見ようとおもって、来迎寺に寄ろうと思っていたところだ。」
ということで、ご一緒に来迎寺に向かいました。

来迎寺の檀家(総代?)の方のようで、我々が拝観に来るというのを、お寺からお聞きになり、それなら一緒に拝観と思われたようなのです。

目当ての聖観音坐像は、主要な檀家の方でも、良く知らないという仏像のようです。
というのも、この観音像、本堂に祀られているのではなく、その隣の少々古びた建物の一角に祀られていました。
檀家の方々も、普段そちらの方のことはよくご存じなかったようです。

来迎寺・本堂横の聖観音像が祀られている建物
来迎寺・本堂横の聖観音像が祀られている建物

来迎寺は、永禄8(1565)年、道誉上人により開山されたと伝えられているお寺です。
本堂の方には、後日調べてみると、鎌倉中期の阿弥陀如来像(無指定)がご本尊として、祀られているようです。
伺ったときは、そのことを知らず、ご本尊を拝さずに帰ってしまいました。

来迎寺・本堂.来迎寺・本尊阿弥陀三尊像
来迎寺・本堂と本尊阿弥陀三尊像

聖観音像の方は、客仏ということなのかもしれません。

さて、めざす聖観音坐像のご拝観です。
本堂横の建物に上げていただくと、聖観音像がたくさんの千手観音小仏像とともに祀られていました。
お寺のご本尊ではないので、きっちり荘厳してお祀りするというわけにも行かないようで、簡単な拝坐を設けて、地味に祀られていました。

来迎寺・聖観音坐像
来迎寺・聖観音坐像

観音像を拝しに来る人は、本当にめったにないようです。

「よくこの観音様のことを知られましたね。どうして、判ったのですか?」

と、不思議そうに尋ねられてしまいました。

「『京田辺市の仏像』という本に掲載されていて、素晴らしい仏さんのように思ったので、伺ったのですよ」

とお話しすると、

「変わった人たちもいるものだ。」

というような顔色で、少々あきれたような感じでもありました。


観音像の前にかけられていた錦帳・垂れ幕も外してくださり、眼近にじっくりと拝することが出来ました。

来迎寺・聖観音坐像
来迎寺・聖観音坐像

像高93.2㎝、灰色の上塗りが全面に施されています。

予想に違わぬ存在感です。

やはり、間違いなく平安前期の雰囲気です。
ただ、森厳とかオーラとかという言葉で表現されるような、霊威的な迫力というのと、ちょっと違います。
「存在感」という言葉が、一番あたっているように思います。
「どっしりした存在感」とでもいうのでしょうか?

歪みの造形とか、鋭い彫口といった、インパクトで迫るというのではありません。
オーソドックスは造形のようなのですが、その場にいると、ちょっとすくめられるような「存在感」を漂わせる像なのです。

来迎寺・聖観音坐像~上半身
来迎寺・聖観音坐像~上半身

「堂々たる重厚感」を感じます。
正面から見てもボリューム感充分なのですが、横にまわって側面から見ると、胸の凄い厚み、頭部の面奥の深さなどは、並大抵ではありません。

来迎寺・聖観音坐像~上半身.来迎寺・聖観音坐像~側面
来迎寺・聖観音坐像~側面

だからといって、唯々分厚いだけで、造形が崩れているというのではなく、しっかりと締まりある良く出来たモデリングで、なかなかの造形力です。
重厚感を通り越して、鈍重感を感じないわけではないのですが、これが後世の厚塗りで像容が損じているからではないかなと思います。

胸のあたりから下の方、下半身にかけては急に力が抜けてしまう感じです。
「アレッ!!どうしたんだろう?」
と思いますが、腹部から膝前の前面は新材による後補だからのようです。

何といっても、インパクトがあるのは、「お顔」です。

大ぶりな造作で、太い鼻梁線、分厚くめくれたような唇が、特に印象的です。
下膨れの頬も目を惹きます。
「エキゾチックで、静謐なお顔」という感じです。
「沈鬱感」といっても良いのかもしれません。

来迎寺・聖観音坐像~顔部

来迎寺・聖観音坐像~顔部
来迎寺・聖観音坐像~顔部


「太い鼻梁、分厚い唇、エキゾチックな風貌、沈鬱感」

こんなキーワードを並べていると、近江の二つの観音像のことを思い出してしまいました。

滋賀県野洲市に在る「来迎寺・聖観音立像」と、長浜市に在る「来現寺・聖観音立像」です。

野洲市・来迎寺・聖観音立像..野洲市・来迎寺・聖観音像~顔部
野洲市・来迎寺・聖観音立像

長浜市・来現寺・聖観音立像..長浜市・来現寺・聖観音立像~顔部
長浜市・来現寺・聖観音立像

この2躯の観音像のお顔と、来迎寺・聖観音像のお顔とは、似ているとは云えないののですが、どこか通ずるフィーリングを感じてしまいます。
これらの像と共通する系譜などがあるのかどうか、全くわかりませんが、つい思い出してしまいました。

滋賀、来迎寺像、来現寺像ともに、

「南都の寺院と関係があった像ではないか?奈良時代の仏像に通じる表現が多い。」
(「特別展仏像・一木にこめられた祈り」解説)

とも言われています。
そのあたりに何やら同じくするものがあるのかもしれません。

もう一つ思い出したのが、亀岡市・甘露寺の聖観音坐像です。
これまたちょっと雰囲気は違いますが、ボリューム感があり下膨れの面貌には、相通じるフィーリングを感じます。

亀岡市・甘露寺・聖観音坐像

来迎寺・聖観音坐像~顔部
亀岡市・甘露寺・聖観音坐像

甘露寺像も、
橘寺・伝日羅像~顔部
橘寺・伝日羅像~顔部

「その相好は、奈良橘寺の日羅像とよく似た眉や唇に特徴がある。
また上半身の表現や衣文の掛け方は高山寺薬師像(天平末期)とも共通している。」
(新修亀岡市史「仏教美術の伝播」所載・中野玄三氏解説)

とされ、奈良の仏像に通じる表現が指摘されています。

(甘露寺聖観音像については、この「観仏日々帖・2012.7.19付」でご紹介しています。ご参照ください。)

いずれにせよ、大変見どころのある、惹きつけるもののある古仏だと思います。
残念なことに、下半身を中心にかなりの後世の修復があり、また全体に、過剰とも思えるような後世の厚塗りが一皮かぶせられているようで、折角の像容も鈍いものになってしまっています。
それでも、出来の良さや、平安前期の存在感、重厚感をしっかりと感じることが出来る、立派な古仏です。

きっと、きちっと修理修復をして、一皮むいて当初の像容の再現を試みれば、もっともっと見どころのある、優れた仏像になることと思います。


ところで、この仏像の解説をみてみたいと思います。
「京田辺市の仏像」には、どのように述べられているでしょうか?
ポイントのみ、ご紹介します。

「若々しく健康的な面貌は、奈良時代の彫刻作風を思わせる。
・・・・・・・・
針葉樹材の一木造り。
頭体部を、木心が腹部を通る一材から彫出する。
像底から11.3㎝の高さまでの内刳りは後補で、本来は完全な一木造りだったのだろう。
・・・・・・・・・・
体部前面は、腹部から地付まで後補材が差し入れられているので、条帛が腹部で幅広になる表現は、実は後世のものである。
・・・・・・・・・・・
このように後補が多く、表面に厚塗りもあるので、観察に注意を要するが、当初部分は極めて古様である。

鼻梁の太く口唇の厚い面相部は、唐招提寺大日如来像や地福寺十一面観音像など、奈良地方の平安前期(9世紀)彫刻に近く、太々として重量感ある体躯をも考慮に入れると、同じころの制作とみられよう。

今は風化や表面の厚塗りのため一見茫洋とした感じになっているが、・・・・・・
詳しく見ると逞しい体幹と繊細な細部が調和しており、古調な中にも品位のある作風が伺える。」

来迎寺・聖観音坐像~顔部側面

来迎寺・聖観音坐像~正面..来迎寺・聖観音坐像~背面
来迎寺・聖観音坐像(京田辺市の仏像所載写真)

地福寺・十一面観音立像~顔部
地福寺・十一面観音立像~顔部

唐招提寺・大日如来坐像~顔部
唐招提寺・大日如来坐像~顔部

解説は、伊東史朗氏の執筆です。

「若々しく健康的な面貌は、・・・」

という風貌の表現ですが、

私が、このお顔に感じた印象、
「エキゾチックで、静謐なお顔、沈鬱感。」
というのとは、ちょっと違いました。


「奈良時代の彫刻作風を思わせる」

との解説は、「そのとおりだ」と感じます。
奈良彫刻の伝統の系譜に在る、優れた造形であることは、間違いありません。

解説の主旨は、

「後世の修復に、大いに邪魔されてしまっているけれども、奈良地方の彫刻の系譜に在る極めて古様で、品位ある優れた造形の仏像」

とというもので、無指定の仏像にしては、格別の高い評価のコメントがされています。

私も、全く同感で、

「もしこの仏像が、当初の姿をそのままとどめた仏像であったならば、素晴らしい仏像として、大変高く評価され、知られるようになったに違いない。」

と思った次第です。

修復部分が多くて、ちょっと一般受けしない仏像かも知れません。
仏像の数をたくさん見ている愛好家の方には、この像の見どころある処、出来の良さを、十分感じていただけたのでないでしょうか?


訪れる人もないであろう、ひっそりと片隅に祀られた無指定の平安仏です。
少しだけでも、世間のスポットライトを当ててあげたい気持ちになりました。

ご住職とお話しする中で、

「この観音様は、平安前期の、優れた仏像のように拝させていただきました。
このようなお姿での祀られ方では、もったいない感じで、修理修復されると、見違えるようなすばらしいお姿になられるのではないでしょうか?」

と申し上げましたら、

「そのようには思うのですが、修理修復には、大変費用が掛かりますし、うちの寺ではなかなかそのようなお金をかけることも難しいですし・・・・・・・」

とおっしゃっておられました。
残念ではありますが、「これもまた現実」ということなのでしょう。


見どころ多い、知られざる仏像に出会うことが出来、満足感いっぱいの観仏となりました。
お寺の皆様、檀家の方には、大変親切にして頂きました。
感謝の念を抱きつつ、来迎寺を後にしました。


古仏探訪~京都府相楽郡南山城村・春光寺の薬師如来立像  【2014.8.15】


南山城の古仏シリーズということで、南山城村のかくれ仏、春光寺・薬師如来立像をご紹介します。

薬師如来像の写真をご覧ください。

春光寺・薬師如来立像

春光寺・薬師如来立像
春光寺・薬師如来立像

皆さん、この仏像を観ると、すぐに「あの有名な仏像」のことを思い出されると思います。

そうです! 元興寺の薬師如来像です。

元興寺・薬師如来立像

元興寺・薬師如来立像
元興寺・薬師如来立像

元興寺・薬師如来立像は、平安初期一木彫の傑作で、国宝に指定されています。
堂々たる量感、シャープな彫口の衣文、バランスのとれたシルエットは見事なものです。
惹き込まれる美しさの仏像で、有名です。

いつも、奈良国立博物館の「なら仏像館」に展示されていますが、
「私の好きな仏像NO1は、元興寺薬師!」
という方も、多くいらっしゃることと思います。

春光寺の薬師如来像を拝すると、誰もが、

「あつ!元興寺薬師に似ている!」

そのように感じられることでしょう。

全体のシルエット、両股を隆起させたY字状衣文など、元興寺薬師を連想させる要素ばかりです。

丸山尚一氏は、このように語っています。
春光寺・薬師如来立像
春光寺・薬師如来立像

「一見して、平安初期像の傑作とされる奈良元興寺の薬師像を想起させる作風である。
分厚く二重にかさねた螺髪も、頬の張りも、眼、鼻、口の彫りに見る森厳な表情も、また肩から胸への量感も、衣文の鋭角的な彫りも、すべて元興寺像を写し取ったかのように似ている。」
(地方の仏たち~近畿編・中日新聞社1997年刊)

春光寺の薬師如来を造った仏師は、元興寺の薬師如来像を見て、そのイメージをもとにこの像を彫ったのは、きっと間違いありません。

この南山城村という鄙の地に、南都の中心、元興寺・薬師如来像の兄弟、弟分のような仏像が残されているのは、誠に興味深いことだと思います。


春光寺は、「京都府 相楽郡南山城村 北大河原北垣内」という処に在ります。

南山城村というのは、木津川の上流沿いにある村です。
木津川は、奈良市の北木津駅のあたりで、東西の流れから北へ90度曲がって京都方面に流れますが、北へ曲がる前、東の方に遡っていくと、南山城村にたどり着きます。
関西本線の大河原駅が、最寄り駅になります。
木津駅から20キロほど、三つ目の駅です。
あと5キロほど行けば、もう三重県・伊賀の地に入るという処です。

関西本線・大河原駅
関西本線・大河原駅

正直に言って、本当に辺鄙な山村、鄙の地という感じの処です。
「南山城村」は、京都府の市町村なかで、唯一の「村」だそうです。

春光寺は、駅から東に500mほど歩いたところに在ります。
私は、10年ほど前に、二度春光寺を訪れました。
関西本線の踏切を渡って、なだらかな上り坂を往くと、「真言宗智山派 春光寺」という石碑が見えてきます。

春光寺の入り口
春光寺の入り口

立派な本堂がありますが、小ぢんまりとした境内です。

春光寺・本堂
春光寺・本堂

薬師如来像は、本堂の厨子の中に祀られています。
普段は、厨子の扉は閉じられているとのことですが、事前に拝観のお願いのご連絡を差し上げた処、快くご了解をいただきました
お伺いした二度とも、お厨子の扉を開いてお待ちいただいておりました。

ご住職のお話によれば、この本堂は、朽ちかけていたのを、村を挙げて「平成の大修復」を行い、平成10年(1998)に、立派に竣工したものだそうです。
総工費は約85百万円で、そのほとんどがこの地元の数多くの人々の寄付によって賄われ、現在の姿によみがえることが出来たということです。

大修理により新装された厨子
大修理により新装された厨子

修理時の朽損した本堂の柱・梁の状況..大修理により美しく彩色された柱・梁
修理時の朽損した本堂の柱・梁の状況と修理後、美しく彩色された柱・虹梁

「平成の大修理」を記録した記念誌
「平成の大修理」を記録した記念誌

立派に荘厳されたお堂中央の厨子の中に、薬師如来像のお姿が見えます。

本堂厨子に祀られる薬師如来像
本堂厨子に祀られる薬師如来像

彩色のない木地のお像で、やはり一目で、元興寺薬師像を髣髴させるお姿です。
像高は、146.7㎝で、元興寺薬師像(像高164㎝)より、一回り小さいお像です。
昭和53年(1978)に、重要文化財に指定されました。

解説書によれば、
元興寺・薬師如来像の背刳りの状況
元興寺・薬師像の背刳りの状況
カヤ材の一木彫で、螺髪は植え付け、両手両足先は矧ぎ付け、内刳りがされているそうです。
内刳りは、後頭部一箇所、躰部背面二箇所に長方形の穴をあけ、上下に貫通させており、背板で塞いでいるとのことです。

元興寺薬師如来像と、材質構造面を較べてみるとどうでしょうか?

カヤ材の一木彫という処は、元興寺薬師像と一緒です。
また、共に内刳りがされていますが、元興寺像が細長い長方形の背刳りをして、一枚の背板で塞いでいます。
春光寺像とは、ちょっとやり方が違うようです。

もう一つ、元興寺像は蓮肉まで頭躰部と一木で造られていますが、春光寺像は、像底にあけた孔に台座上の枘を挿入して像を立てている点も違います。
但し、春光寺像の像底部は、朽損を補修修理されており、当初は元興寺像同様、蓮肉まで一木であった可能性も考えられるそうです。

このようにして、見た目でも、材質構造面でも、類似点を見つけていくと、

「元興寺薬師像、そっくり!!」

ということになりそうですが、お厨子に近づいて、薬師像を眼近に拝すると、

「そっくり、そのまま」

というわけではなく、かなり違っているような雰囲気を感じます。

着衣の形式も、よく見ると違っています。
春光寺像の着衣が、我が国では比較的少ない「通肩」というスタイルなのに対して、元興寺像は「袈裟と僧祇支の併用」というポピュラーな着衣スタイルをとっています。

通肩の着衣の春光寺・薬師像...袈裟と僧祇支の併用着衣の元興寺・薬師像
通肩の着衣の春光寺・薬師像    袈裟と僧祇支の併用着衣の元興寺・薬師像

ただ、そんな形式的な面よりも、春光寺像と元興寺像は、造形感覚というかフィーリングが、随分違っているように思えるのです。

春光寺薬師像を拝していると、一言でいうと、

「穏やか」とか「整った」「やさしい」

といった形容詞が似つかわしい感じがするのです。

緊張感、迫力ある彫り口の元興寺・薬師如来像
緊張感、迫力ある彫り口の元興寺・薬師如来像
元興寺薬師像も、平安初期一木彫としては、奈良様の伝統を受け継いだ、バランスある落ち着いた造形の仏像で、神護寺薬師像のような、強烈な気迫、森厳さ、歪み造形というデフォルメ、という処はありません。

しかし、鋭い衣文の彫り口、躰部のボリューム感など、堂々とした迫力で、バリバリの平安初期彫刻そのもの、という造形感覚を漲らせています。
奈良時代後期に遡る仏像なのかも知れません。

春光寺像の前に立つと、こうした
「平安初期の、張りつめた緊張感」
というものは、あまり感じられません。
むしろ、
「穏やかで静かなる落着き」「心やすまる和やかさ」
を、この薬師如来像からは、心に感ずるものがあります。

躰躯の造形も厚みが減じてきて、衣文の彫りも浅めになってきているようです。

元興寺・薬師如来立像~側面.....春光寺・薬師如来立像~側面
元興寺・薬師如来立像~側面    春光寺・薬師如来立像~側面

専門家の解説は、どうでしょうか?

伊東史朗氏は、このように述べています。

「このような特徴は元興寺薬師如来立像に通じるもので、彼像もやはり頭部小さく、股間に集まる衣文があり、胸の肉付きも意外と少ない。
もっとも、春光寺像は顔面、衣文とも抑揚が強く、肉身のふくらみが感じられる点は多少異質ともいえる。
平安初期の奈良的特徴を濃厚に残す例といえる。」
(日本古寺美術全集15巻「平等院と南山城の古寺」1980集英社刊)

制作年代について、はっきり言及されていませんが、平安初期に遡る可能性を残されているのかもしれません。


新指定重要文化財(毎日新聞社1981年刊)の解説には、このように記されています。
春光寺・薬師如来立像
春光寺・薬師如来立像
本像が、昭和53年(1978)に、重要文化財に指定された時の文化庁の解説です。

「こうした躰貌に加え、殊に、肉付き厚く厳しい表情をもった面相は、奈良・元興寺の薬師如来立像に学んでいるものとみられる。

ただ、元興寺像に比較して胸・腹部がかなり小ぶりで、肉取りは浅く抑揚に乏しい。
また、彼が強く屈曲する衣文を上躰及び袖外側に集中させるのに対し、本像のそれは全体に柔らかく、のびやかさを増し、その構成も平明なものになっている。
それらは本像におっとりとしたやさしい趣を与えており、そこに自から年代の下降と地方的特色が看取されよう。

制作は10世紀初めと考えられるが、元興寺像の様風を受け継ぐこの頃の遺例は、従来あまり知られず、それが奈良文化圏に属する南山城の地に伝来したことは、興味深い。」


中野玄三氏も、このように述べられています。

「作風においては、前三像(唐招提寺、神護寺、元興寺の一木彫薬師如来立像)が、8~9世紀の代表的作風を示すのに対して、本像(春光寺像)は10世紀の代表的作風を示し、決して地方作と称せられるような作風ではない。」
(「南山城の平安美術」南山城町史2005刊)


私が、二度、春光寺薬師像を拝した印象は、「新指定重要文化財の解説」がぴったりフィットするという感じがしました。

よくは判りませんが、

「元興寺薬師に倣った、10世紀ごろの、穏やかで落ち着いた作風の仏像」

というのが、率直な印象です。


この薬師如来像、現在は素木で彩色の無いお姿をされていますが、以前はそうではなかったようです。

昭和53年の重要文化財指定時には、表面には後世の補修時の拙劣な紙貼りと黒漆塗りが施されていました。
昭和54年に保存修理が行われ、黒漆塗りなどを除去して素地を表わす他の修理修復が行われて、現在のお姿になりました。
修理前の写真を見ると、全体に黒光りして、螺髪は随分大粒で、お顔の表情もずいぶん違って見えます。

修理前の黒漆塗りされた春光寺・薬師像...修理前の黒漆塗りされた春光寺・薬師像
修理前の黒漆塗りされた春光寺・薬師像

この写真を見ると、ちょっと恐ろしげというか、不気味な感じで、

「あの美仏、元興寺薬師像の兄弟分の仏像」

という感じはしません。

修理によって、螺髪も小粒に直され、上塗りも除去されて、きりっとした面貌に戻り、元興寺薬師像を髣髴させるお姿に、よみがえることが出来たのだと思います。


ところで、どうしてこの辺鄙な南山城村に、元興寺薬師像の兄弟分のような平安古像が、遺されているのでしょうか?

笠置から南山城村のある南北大河原の一帯は、9世紀ごろには、東大寺、元興寺、大安寺、興福寺など南都諸大寺の杣山(そまやま)になっていたそうです。
杣山とは、寺院の建立などに必要な用材を切り出す山林のことです。
杣山の地には、人々が住まいし、寺院が造営されたのは当然の事です。

中野玄三氏は、「木津川流域の薬師悔過とその仏像」という論考のなかで、

寛平8年(896)の太政官符から、この地が南都諸大寺の杣山であったことがわかる。

この一帯に人が住むようになったのは天平時代にさかのぼり、最初に、この地に住む人々に、地子を勘じた(地租を徴収すること)のは元興寺で、仁和年間(885~9)より始めたという。

春光寺像が元興寺像の系譜を継承しているのは、このような由来があったからであろう。

という考えを、述べられています。

この大河内の地が、古くは南都の杣山であった話、とりわけ元興寺の影響力が大きかったという話を聞くと、元興寺薬師像に倣った平安古仏がこの地に遺されているというのも、

「なるほど、もっともなことだ!」

と、素直に納得してしまいました。

この前にご紹介した、和束町薬師寺の薬師如来坐像も、南都の奈良様乾漆像の伝統を色濃く受け継いだ仏像でした。

和束町薬師寺・薬師如来坐像
和束町薬師寺・薬師如来坐像

春光寺は、和束町薬師寺の東隣という処に在ります。

「この地域は、平安時代に入ってからも、南都文化圏の傘下に在って、奈良様の伝統を受け継いできたのだ。」

今更ながらに、そんな思いを新たにしました。


もう一つ、興味深い話があります。

中野玄三氏が、
「春光寺薬師像は、神仏習合の本地仏である」
と述べていることです。

中野氏は、次のような考え方を示しています。

春光寺薬師像は、貞観年代(859~877)に当地に在った、「国津神社」の宮寺に祀られた薬師像であった。
現在の春光寺の場所は、国津神社の宮寺、薬師堂のあった処である。

この薬師像は、木津川の水害洪水防御の仏として、祀られていたものであろう。

木津川流域には、こうした水害洪水の頻発の地に、薬師像が造立される例が多々あり、城陽市阿弥陀寺・薬師立像、和束町薬師寺・薬師坐像、精華町常念寺・薬師菩薩像、京八幡市薬薗寺・天部形薬師立像等々が、同様の例に挙げることが出来る。

その多くは、神仏習合思想による薬師如来として造立されたと考えられる。

「木津川流域の薬師悔過とその仏像」
(国華1348号2008/2・続々日本仏教美術史研究2008思文閣刊所収)
という論考で、そのように述べられています。

余談ながら、この論考は、
長岡龍作氏が
神護寺薬師像は、元高雄山寺の本尊であったに違いない。
神願寺が高雄に移転した事由が、「地勢汚穢」「地勢沙泥」によるとされており、そのような、けがれた場所にあった神願寺本尊が、新たな神護寺の本尊に移坐されることはありえないのではないか。
と主張したのに対して、

中野氏が、
木津川流域に数多く祀られる薬師像などから、薬師仏は汚泥を厭わず、むしろ進んで汚泥にまみれ、人々を救済する仏であったと考えられる。
神護寺薬師像が、神願寺から移された像と考えて、何の不思議もない。
として、長岡説に反論する意味でも書かれた論考です。

この話に入ると、ややこしくなるので、ここでは立ち入らないようにしたいと思います。

精華町常念寺・菩薩立像
精華町常念寺・菩薩立像
さて、この前の「古仏探訪」で、常念寺・菩薩像が神仏習合の薬師菩薩像であったと思われる話をしましたが、春光寺・薬師像もその系譜にある薬師像かも知れないということです。

大変興味深く、惹きつけられる話です。

この神仏習合像の話に入ると、益々、興味は尽きないのですが、一方で、

「そんなふうに言い切ってしまっても、いいものだろうか?」

という気持ちも、少しよぎります。

今回は、これもまた、なかなか難しいこれからのテーマ、ということにしておきたいと思います。



南山城村大河原の春光寺・薬師如来像、如何だったでしょうか?

今回は、元興寺薬師如来像の弟分のような平安古仏が、木津川沿いの鄙の地に、ひっそりと遺され、今も、地元の人々に大切に祀られているお話でした。

新刊旧刊案内~「福岡県の仏像」アクロス福岡文化誌編纂委員会編  【2014.8.2】


福岡県の仏像を紹介した本が刊行されました。


「福岡県の仏像」アクロス福岡文化誌編纂委員会編

2014年3月 海鳥社刊 【165P】1800円


「福岡県の仏像」


奥付には、2014年3月31日刊と書かれていますが、出来上がりが遅れて、実際にはこの7月に、やっと発売されたばかりの本です。

アクロス福岡文化誌の第8冊として刊行されたもので、国指定重要文化財、県指定文化財の仏像を中心に、約100躯の仏像が、カラー写真で紹介され、解説が付されています。
福岡県の仏像について、判りやすく手軽に知ることが出来る本だと思います。


「アクロス福岡」というのは、これまで聞いたことがなかったのですが、NETで調べてみたら、福岡の中心・天神に在る公民複合施設だそうです。
当地のランドマークで、福岡シンフォニーホール、国際会議場、オフィス、ショップなどが入る14階建てのビルでした。

「アクロス福岡文化誌」という本は、福岡県の地域文化・伝統文化の掘り起こしや保存活動の促進を目的に「ふるさとの文化」を幅広く紹介するため、毎年1巻ずつ刊行されているそうです。
これまでには、「福岡県の名城」「福岡県の神社」「福岡の祭り」などといった本が刊行されていました。

このシリーズの第8弾として、今回「福岡県の仏像」が刊行されたということです。


福岡県の仏像だけを採り上げた本というのは、お目にかかったことがなかったので、早速購入しました。
パラパラとページをめくると、福岡の仏像、約100躯が、カラー写真で紹介され、簡単な解説が載せられています。

「福岡県の仏像」内容

「福岡県の仏像」内容


ページ数の制限もあるのでしょう。
ひとつの寺院に割かれたページ数は、1~2ページで、仏像の写真は、正面写真が1枚、これに解説が付されるという体裁です。
解説は、大変平明に判りやすく書かれています。

どのような仏像が採り上げられているのでしょうか?

目次をご覧ください。

「福岡県の仏像」目次1

「福岡県の仏像」目次2


このような仏像が、紹介されています。

執筆は、総説を八尋和泉氏が担当し、ご覧のようなメンバーが解説を担当されています。
九州仏教美術の専門家陣による執筆です。

「福岡県の仏像」執筆者


コンパクトな福岡県の仏像の紹介本は、これまでなかっただけに、大変有難い本だと思います。

福岡県の仏像と云うと、なんといっても大宰府・観世音寺の巨大な仏像群のことが思い浮かびます。
観世音寺の仏像を別格とすれば、意外に、知られていないのかもしれませんが、なかなか魅力あふれる仏像が、数多く残されています。


私が、強く印象に残っている仏像は、鞍手郡の長谷寺・十一面観音立像と糸島市の浮嶽神社の諸仏です。
共に、お気に入りの仏像です。

かつて、神奈川仏教文化研HP・埃まみれの書棚から「地方佛~その魅力に ふれる本~」で、九州の仏像についてふれたとき、「私の好きな九州の仏像」NO1・NO2に、この二つの仏像を採り上げています。
思い出すと懐かしくなりましたので、少々恥ずかしいのですが、その時の文章を転載させていただきます。

次のような文章です。

九州地方は、中国、四国地方にくらべて、これといった平安木彫の優作が少ないように思うが、そのなかで私の好きな仏像を選んでみると、

観世音寺の諸像は、別格番外として、

 NO1は、福岡鞍手郡、長谷寺の十一面観音像

 NO2は、福岡糸島郡、浮嶽神社の薬師如来ほか諸像

 NO3は、大分豊後高田市、国東半島の熊野磨崖仏

この仏像たちがBEST3になったが、いかがだろうか?


鞍手郡長谷寺・十一面観音像
鞍手郡長谷寺・十一面観音像
鞍手町長谷にある長谷寺は、福岡 と小倉の中間辺り、遠賀川沿いの炭鉱の街・筑豊直方からそう遠くない所にある。
私が、同好の人たちとこの長谷寺を訪れたのは、今か ら2年ほど前、H16年の秋のことであった。
長谷寺・十一面観音像については、これまで写真では知っていたが、さほど大きな期待を していない仏像であった。

「まあこの像も、平安中期仏のひとつとして観ておくか」

こんな気持ちで長谷寺を訪 ねたのだが、ご住職に案内され、お堂で十一面観音像を拝し、その堂々たる力強い姿を眼の当たりにした途端、
「私の好きな九州の仏像NO1」
に、一気にラン クアップしてしまった。

「ドーンと腹に応えるように、迫ってくる。
それも、鋭利な刃物で切り込んでくるといったものではなく、鉈で ドスンと打ち下ろしてくるような重厚なパワーを感じる。」

そんな魅力を訴えてくる仏像であった。

びっくりす るほどに太く造られた腕、グリッと抉られ粘るようにうねる衣文、引き締まってはいるが何処か固い感じのするモデリング、そのそれぞれがこの仏像の力強さを 誇示しているようで、その迫力に引き込まれてしまう。

鞍手郡長谷寺・十一面観音像
鞍手郡長谷寺・十一面観音像

じっくりと拝していると、

「この 十一面観音は、古代の金銅仏を手本にしたりイメージしながら、貞観仏の手法、形式で造った仏像なのじゃないだろうか?」

あり得ない こととは思いつつ、そんな気持ちになって来る。

それは、この像がクスノキという堅材で造られていること、顔面 や肌の表現がなにか金属質な感じをさせること、両眉を連続させた表情や姿態に異国的・外来的要素を意識させることなどが、そんな気分に誘い込むのかもしれ ない。

鞍手郡長谷寺・十一面観音像
鞍手郡長谷寺・十一面観音像

単なる貞観彫刻が地方化した仏像という概念では捉えきれない、不思議な魅力を発散する仏像である。


NO2 は、浮嶽神社の仏像。

浮嶽神社は、筑後富士と呼ばれる「浮嶽」の中腹にある。頂上には、浮嶽神社上宮という社 があり、航海の神として祀られている。
浮嶽からは、すばらしい眺望が開け、眼下に唐津湾や虹の松原を望み、はるかに玄界灘を見晴る かすことが出来る。

浮嶽から望む玄界灘
浮嶽から望む玄界灘

そしてまた、浮嶽神社では、この美しい景色にふさわしいような、伸びやかな古佛たちに出会うことが出来る。

浮嶽神社の諸像
浮嶽神社の諸像

地蔵菩薩立像、如来立像、仏坐像の3体が、重要文化財に指定されているが、まさに、オーソドックスな平安前期仏。
ゆったりと落ち着いた気分で、そのすばら しさに触れることが出来る。

浮嶽神社・地蔵菩薩像....浮嶽神社・如来立像
浮嶽神社・地蔵菩薩像(左)・如来立像(右)

それぞれの造像時期には違いがありそうだが、奈良・中央の優作である元興寺薬師像や橘寺日羅像、融念寺 地蔵菩薩像といった、いわゆる典型的貞観木彫の系譜の延長線上にある像だ。
伸びやかで堂々たる量感、厚い肉取り、力強い彫りや衣文 の処理など、しっかりバランスよくまとまった造形の像で、

「ああ、九州にも中央の貞観の息吹が、そのまま伝わったのだなー」

と、素直に好きになれる仏像たちだ。


ちょっと本題と関係のない、自己満足的な文章を、載せてしまいました。


本の紹介の話に戻りたいと思います。

近年までは、福岡県の仏像について解説した一般向けの本は、なかったのではないか思います。

昭和43年(1968)に明治百年記念で出版された、
「福岡県の文化財」(福岡県教育委員会刊)

昭和51年出版の
「国宝・重要文化財 仏教美術 九州1(福岡)」(奈良国立博物館刊)

昭和58年(1983)出版の
「福岡県の美術工芸品Ⅱ・彫刻」(西日本文化協会刊)

などが、
これまで出された本だと思いますが、いずれも教育委員会発刊の文化財記録や調査研究用の専門書的な本ばかりでした。

「福岡県の文化財」...「国宝・重要文化財 仏教美術 九州1(福岡)」

「福岡県の美術工芸品Ⅱ・彫刻」


今回出版された「福岡県の仏像」は、コンパクトなガイドブックといっても良いような本で、解説も大変平明で、かつきっちりした内容になっています。
福岡の仏像を知るハンドブックとしては、必携といっても良い本なのではないかと思います。
お手元に置かれることを、お薦めします。


ところで、この秋、特別展「九州仏」という展覧会が、福岡市博物館で開催されるということです。
丁度、「本書の発刊」のタイミングに合わせてというか、相呼応して「九州仏展」が開催されるということなのでしょうか?

博物館HPによると、

「九州の仏像の特色に注目し、普段は非公開とされる『秘仏』や、最近の調査で確認された新発見の仏像など約100点を公開します。

九州全体を対象とした仏像展としては、約半世紀ぶりの開催となり、これを機に奈良や京都の仏像とは違った魅力を持つ『九州仏』の魅力を紹介します。」

とあり、大変魅力ある展覧会になりそうです。

「九州仏展」ポスター..「九州仏展」ポスター
「九州仏展」ポスター

先ほど紹介した、長谷寺・十一面観音、浮嶽神社・諸仏も出展されます。
大変楽しみで、ぜひとも九州まで出かけねばと思っています。


8年前の平成18年(2006)には、同じ福岡市博物館で、「空海と九州のみほとけ展」が開催されました。

この展覧会は、
弘法大師空海が唐から帰朝して1200年の節目に当たり、古くから日本における大陸の接点を担ってきた福岡と入唐僧の九州における活動に注目しながら、北部九州の仏像100点を紹介する。
というものでした。

「空海と九州のみほとけ展」ポスター
「空海と九州のみほとけ展」ポスター

数多くの福岡県の古仏が出展されました。
これだけの仏像展を、よくぞ開催することが出来たものと、展覧会を観て、大いに驚いた記憶があります。
福岡の仏像については、この展覧会の図録が、一番参考になるのかもしれません。

「空海と九州のみほとけ展」図録
「空海と九州のみほとけ展」図録

福岡市博物館では、この「空海と九州のみほとけ展」に引き続いて、この秋「九州仏展」の開催です。
またまた、これだけ大規模な九州の仏像展を、市の博物館が開催するというのですから驚きです。
展覧会の企画、推進をされている方々の意気込み、素晴らしき展覧会の実現への「大拍手」を、送りたい気持ちです。

仏像愛好者にとってみれば、本当に嬉しき限りです。


皆さん、この秋には、「福岡県の仏像」の本を携えて、「九州仏展」に出かけられてはいかがでしょうか。

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