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観仏日々帖

トピックス~三重・見徳寺の薬師如来像の発見・・・白鳳展に寄せて⑤ 【2015.9.19】


今回は、三重県伊賀市にある見徳寺から発見された薬師如来坐像についてご紹介します。

見徳寺・薬師如来坐像

見徳寺・薬師如来坐像
見徳寺・薬師如来坐像


【白鳳展に出展された新発見の白鳳木彫仏】

見徳寺・薬師像が発見されたのは、平成に入ってからのことでした。
平成10年(1998)に発見されました。
ご覧のとおりの、白鳳時代の木彫仏です。
この見徳寺像、昔から知られている仏像と違って、ここ十数年の新顔ですので、おなじみの仏像とは言えないかもしれません。

奈良博「白鳳展」にいらっしゃった方は、見徳寺の薬師如来像をご覧になったでしょうか?

法隆寺の六観音像にそっくりの童顔の仏像で、像高65.7cmもある木彫像です。
六観音像や金龍寺の菩薩立像と並んで展示されていました。
結構、目を惹く展示でしたので、覚えておられるのではないかと思います。


【意外! 近年いくつも出現している新発見仏像】

「いまどき、重文級の仏像の新発見なんて、あるものなのだろうか?」

戦後は、全国各地で、仏像を始め文化財の悉皆調査などがくまなく実施されています。
考古遺物が出土して新発見という話なら判るけれども、社寺のお堂などに安置されている仏像などは、とっくに調べ尽くされている筈じゃないか。
新発見仏像などそうあるものではない。
そのように思えてしまうのですが、意外にも、近年、新発見の重文級の仏像がいくつも出現しているのです。
なんとも不思議なものです。

ちょっと頭に思い浮かぶだけでも、結構あります。

運慶仏で言えば、平成に入ってから、こんな新発見仏像がありました。

平成初年頃、光得寺大日如来像が運慶作の可能性が強いことが判明して話題を呼びましたが、
平成15年(2003)には、光得寺像に似た大日如来坐像が出現、運慶作の可能性が高いとニュースになりました。
この新発見仏像、2008年にニューヨークでオークションにかけられ、14億円という巨額でで落札されるという大騒動になったことは、記憶に新しいことと思います。

その後も、平成19年(2007)には、称名寺・光明院で平成10年(1998)に発見された大威徳明王像の像内から、運慶作と判明する納入文書が見つかり、新発見運慶仏として大きなニュースとなりました。

真如苑蔵・大日如来坐像..称名寺・大威徳明王像(運慶作)
運慶作と推定される大日如来坐像(真如苑蔵)     運慶作と判明した称名寺・大威徳明王像


また、ここ数年、新たに重要文化財に指定された仏像をみても、いくつか新発見仏像が出現しています。
新指定文化財で「美術史上の新発見」といって良いのではと思った仏像を挙げると、次のようなものがあります。

ここ数年の新指定重要文化財のうち新発見仏像リスト


千手院・千手観音立像
長浜市千手院・千手観音像(平安前期)

大賀島寺・千手観音立像
瀬戸内市大賀島寺・千手観音立像(平安前期)

箱根神社・男女神坐像..箱根町箱根神社・男女神坐像
箱根神社・男女神坐像(平安)

高成寺・千手観音立像..弥勒寺・弥勒仏坐像
小浜市高成寺・千手観音立像(平安前期)      弥勒寺・弥勒仏坐像(平安)
      
清水寺・摩多羅神坐像
安来市清水寺・摩多羅神坐像(鎌倉)

みなさんも、予想外に新発見仏像があるものだと思われたのではないでしょうか?

なかでも、大賀島寺の千手観音像は、
「これほど惹きつける魅力ある平安古仏が、知られざる秘仏として、隠されていたのだろうか!」
と、息を呑む素晴らしい造形の仏像でした。

ただ、近年の新発見仏像が結構あるといっても、平安から鎌倉にかけての仏像ばかりです。
平安時代以降の古仏像は、全国にある程度の数が遺されているからだと思います。
各地を調査してみると、実は文化財級の作品であったという「美術史上の発見」がある可能性も、まだまだあるのかも知れません。


【想定外で、驚きの白鳳木彫仏の発見】

ところが、今回ご紹介の見徳寺・薬師如来像は、なんと白鳳仏です。

それも小金銅仏というのではなくて、80センチほどもある大きな木彫仏です。
ご存じのとおり、飛鳥白鳳の木彫仏の遺品は、きわめて少なく、十余点を数えるに過ぎません。
それも皆、法隆寺をはじめとする南都の諸寺に遺されたものばかりです。

見徳寺・薬師如来坐像
見徳寺・薬師如来坐像

こんな大型の白鳳木彫仏が、名も知らぬお寺から見つけ出されるなどといったことを、誰が想像していたでしょうか?
「奈良の古寺の倉庫から発見」という話ならあり得るとしても、三重県伊賀市にある田舎の小さなお寺から発見されたのです。
常識的には、まず「あり得ない!!」ことです。
そんなことが現実に起こったのですから、誰もが信じられないと思ったに違いなく、その驚きも並大抵のものではなかったでしょう。


【童顔童形の白鳳木彫仏、見徳寺・薬師如来坐像】

発見物語のご紹介に入る前に、どのような仏像なのかを、見てみたいと思います。

一見して、すぐの感じるのは、お顔の造形が、法隆寺の六観音と呼ばれる菩薩像や、金龍寺の菩薩像などにそっくりなことです。
「白鳳の童顔」の典型のようなお顔をしています。
このタイプの童顔で如来形坐像というのは、ちょっとなじみがないのですが、像高も、法隆寺・六観音像とほぼ同じです。

法隆寺六観音像・文殊菩薩立像.......金龍寺・菩薩立像

法隆寺六観音像・文殊菩薩立像..金龍寺・菩薩立像
法隆寺六観音像・文殊菩薩立像          金龍寺・菩薩立像

用材も、飛鳥白鳳時代特有の用材であるクスノキだそうです。
この仏像の姿をみると模古作でない限り、誰が見ても白鳳仏のスタイルに違いないと感じることでしょう。

奈良博「白鳳展」図録には、このように解説されています。

「平成10年(1998)に発見された白鳳彫刻である。
三重県旧上野市(現伊賀市)東郊に所在する見徳寺に客仏として伝わった。
伝来の経緯については不詳だが、広い意味では南都の文化圏に属する地域ということができ、大和盆地のいずこかからもたらされた可能性も考えうる。

クスノキ材を用いた一木造の像。
底部に約2センチメートル程の厚みをもつ板材を貼り、背中にも針葉樹の別材を矧ぎつけているが、これらは後補の所為である。
また左手首から先や右手の肘から先の部分、また表面の漆箔などは、平安時代後期の補作かと思われる。
とはいえ、7世紀にまでさかのぼる木彫像、しかも如来像の存在はまことに稀有のものであり、きわめて貴重な作例である。

やや面ながの顔に少年を思わせる愛らしい表情を浮かべ、着衣の衣文は金銅仏に類例を見ることのできる、板を連ねたような素朴な表現をとる。
脚部前面には大きな『品』字状の衣文を示す。
これらの点は、法隆寺文殊菩薩立像や金龍寺菩薩像に通じる特徴であり、同じ工房の作であることを推定させる。」
(岩田茂樹氏解説)

見徳寺・薬師如来坐像..見徳寺・薬師如来坐像
見徳寺・薬師如来坐像~側面・背面

当時、南都で造られた白鳳仏が、何時の頃にか、三重県伊賀市にもたらされ、最終的に、見徳寺に安置されるようになったと考えられるということなのでしょう。


【発見のきっかけは、市史編纂のための文化財調査】

それでは、どのようないきさつで、見徳寺・薬師如来像は発見されたのでしょうか?

見徳寺というのは、三重県伊賀市中友生という処にあります。
JR関西本線・伊賀上野駅から東南へ5~6キロの、水田に囲まれた小さな集落の中にあるお寺です。

見徳寺のある近郊風景
見徳寺のある伊賀市中友生近郊風景

壇家が三十数戸しかないという小さなお寺で、同じ伊賀市の広禅寺の末寺となっています。
創建年代は不明ですが、寺の記録では350年ぐらい前、江戸時代までさかのぼることが出来るということです。

薬師像発見当時の見徳寺
薬師像発見当時の見徳寺

薬師如来像は客仏で、観音堂に十一面観音、大日如来、腰折地蔵、行者菩薩と並んで安置され、檀信徒が日頃からお参りしていました。

当時の清原宏昌住職は、薬師像は
「古いものだろうとは判っていたが、室町時代くらいかな。」
と、思っていたそうです。

仏像発見の引き金となったのは、平成9年(1997)に始まった、上野市史編纂のための文化財調査でした。
(当時は上野市で、現在は市町村合併で伊賀市に変わっています。)
177か所1880点が調査対象になりました。
平成9年(1997)11月、調査にあたった伊賀文化財研究会の委員の一人が、見徳寺に予備調査に訪れました。
その時撮影された仏像写真が、翌年の春、市史編纂・彫刻担当の山崎隆之氏(愛知県立芸術大学教授)に送られたのでした。
写真撮影された委員の方も、この薬師像の白鳳様の姿に注目し、
「これはひょっとしたら?」
と考え、写真を山崎氏に送られたのではないでしょうか。


【撮影写真を見てビックリ~研究者の本格調査始まる】

山崎隆之氏は、送られてきた薬師像の写真が、白鳳仏の特徴を備えていることに驚き、早速その年の夏(1998年8月)、自ら見徳寺の調査に訪れたのでした。
薬師像を詳しく観察した結果、後世の模古作ではなく白鳳仏に間違いないと確信、本格的調査に入ることとなったのでした。

山崎隆之氏
山崎隆之氏(愛知県立芸術大教授)
「仏像の秘密を読む」
「一度は拝したい奈良の仏像」
などの著作で知られる
新聞報道は、その当時のいきさつを振り返り、このように報じています。

「白鳳の仏像は、一昨年11月に写真撮影され、彫刻担当の山崎隆之委員(愛知県立芸大教授)のもとに送られた。
『これは異様な感じだ。とんでもなく古いかもしれない』
仏像の写真に山崎委員は引き付けられた。
昨年夏に、安置されていた見徳寺を訪れ、表面観察をした。
米粒ほどの漆のはく落から見た本肌は茶色く変色し、古色を帯びていた。
『心配された後代の模倣ではない。飛鳥仏ではないか』」
(1999.9.12付中日新聞)


「山崎教授は
『最初は半信半疑。まさか伊賀の小さな禅寺で、飛鳥時代後期の木造仏にお目にかかれるとは』
と振り返る。」
(1999.9.9付読売新聞)

これは大発見かも知れないということで、その秋から、本格的調査が始まりました。
同じく市史編纂委員の松山鉄夫氏(大東文化大教授・三重大名誉教授)と、伊賀文化財研究会代表の河原由雄氏(愛知県立大教授)が加わり、綿密な調査が行われるとともに、美術院国宝修理所でX線透視による構造確認調査も実施されました。

見徳寺薬師像を調査する川原由雄氏.見徳寺薬師像を調査する松山鉄夫氏
見徳寺薬師像を調査する川原由雄氏(左写真)、松山鉄夫氏(右写真)

その結果、7世紀後半、白鳳時代制作の仏像であると断定されたのです。
両手首先、耳朶、背板、底板、表面の漆箔などは後補であるものの、ほぼ白鳳時代当初の姿を留めていることが判明しました。

いわゆる童顔童形系の白鳳仏の一つで、法隆寺の六観音や金堂天蓋天人像と同系列の様式に属する仏像とされたのでした。

平成11年(1999)9月8日、上野市史編纂室は、この調査結果を記者発表しました。
松山鉄夫、川原由雄、山崎隆之の三氏が調査委員として、記者会見に出席、「驚きの白鳳木彫仏発見」の説明を行いました。

見徳寺薬師像発見の記者会見をする松山鉄夫、川原由雄、山崎隆之の三氏
見徳寺薬師像発見の記者会見をする山崎隆之、川原由雄、松山鉄夫(左から)の三氏


【白鳳木彫仏の発見発表に、大興奮の新聞報道】

新聞各紙は、この驚きの大発見を、大見出しで報じました。
新聞記事の数々をご覧ください。

伊勢新聞(1999.9.9付)
1999.9.9付け・伊勢新聞

中日新聞(1999.9.12付)
1999.9.12付け・中日新聞

中日新聞(1999.9.9付)
1999.9.9付け・中日新聞

発見記事の一つをご紹介すると、このように報じています。

自鳳時代の童顔  表情も優しく
     重文級の如来坐像  上野で発見

中日新聞(1999.9.9付け)
1999.9.9付け・中日新聞
「三重県上野市の寺院に伝わる木造薬師如来坐像が、七世紀後半の自鳳時代(飛鳥時代後期)に製作されたことが八日までに、同市の文化財調査をしている伊賀文化財研究会(代表:河原由雄愛知県立大教授)の調査で分かった。

像の保存状態は良好。
童顔童形の白鳳時代特有の作風を示しており、この作風の木造の如来像としては初めての発見。
仏教彫刻史上貴重な資料で、国重文級の価値があるという。
木造の白鳳仏がほぼ完全な形で見つかることは極めて珍しく、しかも奈良以外の、比較的歴史の新しい寺院に埋もれていたことに、研究者は驚いている。

寺院は同市中友生、見徳寺(清原宏昌住職)。
本堂に隣接する観音堂の左脇壇に安置されていた。
仏像に関する伝承は何もなく、伝来の時期や由来は不明だ。
同研究会が一昨年から始めた文化財調査が発見のきっかけ。
・・・・・・・・・・・・・・・
造形の基本を損なうほどの改変はなく、金ぱくも多く残り、保存状態はおおむね良好。
衣の流れるような線や表情のやさしさなど、美術品としても優れている。
まゆと目の間が広く、鼻が小さい童顔の特徴がある。
童顔童形の仏像は白鳳時代特有の作風の一つで、類例の年代と作風から7世紀後半の作と断定された。
・・・・・・・・・・・・・・・・・」

各紙とも、白鳳仏の大発見を興奮気味に報じています。

なにしろ、十数体しか遺されていない飛鳥白鳳時代の木彫仏が発見されたのです。
法隆寺の救世観音、百済観音、六観音、法輪寺の薬師如来、虚空蔵菩薩などの超有名仏像などに連なって列せられる白鳳木彫仏という訳です。
かけて加えて、飛鳥白鳳の木彫仏は奈良・南都にしか遺されていないのに、三重県・伊賀の地で発見されたというのですから、大騒ぎになったのだと思います。


【白鳳仏が何故見徳寺に、由来不明の流転の謎】

それにしても、この白鳳木彫像、どうして伊賀上野の小さなお寺で発見されることになったのでしょうか。
薬師如来像は客仏ですし、見徳寺は近世以降の創建です。
その由来は、全くわからないというのが現実のようです。
造形からみると、南都中央で制作された像であることは間違いないのでしょう。

飛鳥~奈良時代に、伊賀の地にもたらされたのでしょうか?
あるいは、近世、近代になってから、誰かが何処かで白鳳仏を買い取るなどして、当地に運ばれたという可能性も考えられるでしょう。

飛鳥~奈良時代、伊賀の国は、奈良から伊勢の国に至る街道の中継地といって良い要所にあります。
伊賀の地には、白鳳時代の塑像片やセン仏が出土したことで有名な夏見廃寺(名張市)や、白鳳~奈良期の古瓦が出土する鳳凰寺廃寺、三田廃寺などが遺されています。

夏見廃寺出土セン仏(奈良国立博物館蔵)
夏見廃寺出土セン仏(奈良国立博物館蔵)

そうしたことからすれば、白鳳時代に伊賀の地に、この薬師像がもたらされていたとしても、不思議なことではないのかも知れません。
伊賀の地で幾多の流転を経て、見徳寺に落ち着いたのでしょうか?


【博物館に寄託された薬師如来像~現在は奈良博寄託】

さて、見徳寺では、驚きの白鳳木彫仏が発見された後は、
「それこそ蜂の巣をつついたようになって、壇家の手ではどうしようもなくなった」
というほどの騒ぎで、
「小さなお寺で保管管理するのは、それこそ大変」
ということになり、四日市市立博物館に寄託されました。

寄託の2か月後、1999.10.31~11.3の4日間に限って、新発見の見徳寺薬師像は、四日市市立博物館で特別公開されました。

四日市市博物館で開催された見徳寺薬師像特別公開図録
四日市市博物館で開催された
「見徳寺薬師像特別公開」解説パンフレット


その後は、地元の上野歴史民俗資料館に寄託保管が移されました。

発見の翌年には、早速、県指定文化財に指定されています。
いずれは、重要文化財に指定されるということになるのでしょうか?

見徳寺・薬師如来像は、普段は公開展示されておらず、残念ながら観たくてもかなわなかったのですが、昨年からは奈良国立博物館に展示されるようになり、いつでもその姿を観ることが出来るようになりました。

仏像は、上野歴史民俗資料館に寄託保管されていたのですが、必ずしも保管状態が良いという状況ではなかったため、奈良国立博物館に保管を打診した処、正式に寄託が決まったのです。
薬師如来像は、2013年9月に奈良国立博物館に移送されました。

見徳寺薬師像の移送
奈良博移送のため運び出される見徳寺薬師像

見徳寺薬師像の奈良博移送を報じる中日新聞記事(2013.9.24付)
奈良博移送を報じる中日新聞記事(2013.9.24付)

奈良博では、なら仏像館に見徳寺薬師如来像を展示しています。
(なら仏像館は、現在改修のため休館中で、2016年春、リニューアルオープン予定です。)


薬師如来像は、発見後、博物館に寄託保管されて、文化財の保存という観点からは万全ということになったのでしょうが、お寺さんや檀家の方々にしてみれば、日頃から親しく拝していた薬師如来様がおられなくなってしまったわけですから、寂しきことに違いありません。
見徳寺・薬師如来像は、毎年、秋のお彼岸の時にだけ、博物館からお寺に里帰りをし、檀家さんと共に法要が営まれています。



白鳳木彫仏の大発見、見徳寺・薬師如来坐像の発見物語をご紹介しました。



なお、見徳寺薬師如来像発見のきっかけとなった、市史編纂のための伊賀文化研究会による文化財調査は無事終了し、2004年に調査結果をまとめた
「上野市史・文化財編」(上野市編・746P、頒価2500円)
が刊行されました。

上野市史・文化財編..上野市史・文化財編
上野市史・文化財編

トピックス~般若寺・伝阿弥陀如来像の発見物語~白鳳展に寄せて④  【2015.9.5】


白鳳展出展仏像の発見物語の第4回目は、般若寺の小金銅仏、伝阿弥陀如来像です。

昭和39年(1964)に発見されました。

般若寺・伝阿弥陀如来金銅立像
般若寺・伝阿弥陀如来金銅立像


【般若寺のシンボル・十三重石塔から発見された、白鳳の小金銅仏】

般若寺は、東大寺・転害門の前の道を北に行き、奈良坂と呼ばれる登り坂を登りきったあたりに在り、コスモス寺という通称で知られています。
鎌倉時代の国宝の楼門が、我々を迎えてくれます。

般若寺・本堂
般若寺・本堂

般若寺・楼門
般若寺・楼門

般若寺の伝阿弥陀如来立像(重要文化財)は、境内の十三重石塔の中から、発見されました。
般若寺・十三重石塔といえば、境内地のど真ん中に堂々とそびえ立つ、あのシンボルタワーのような石塔です。

般若寺・十三重石塔
般若寺・十三重石塔

この石塔が、昭和39年(1964)に解体修理が行われた際に、石塔内から、白鳳時代の小金銅仏・伝阿弥陀如来像が発見されたのでした。

般若寺の伝阿弥陀如来立像は、像高28.8cmの小金銅仏です。
短躯で大きな頭部が印象的、いかにも白鳳仏といった雰囲気の仏像です。

般若寺・伝阿弥陀如来金銅立像
般若寺・伝阿弥陀如来金銅立像

白鳳展の図録には、このように解説されています。

「額が狭く四角ばった面貌や、大ぶりな手足の表現などは、朝鮮半島三国時代の金銅仏を想起させる。 
一方、衣や台座の稜線に特殊な鑿で二列の点線を刻む複連点文を施す点や、衣端の周縁帯に半裁九曜文を表す点などは、法隆寺観音菩薩像(伝月光)のような白鳳金銅仏に共通し、本像も三国時代の渡来仏に倣って、日本で制作されたとみるのが穏当であろう。」

我国で制作された、白鳳小金銅仏の一類型といえるものだと思います。

般若寺・伝阿弥陀如来金銅立像

般若寺・伝阿弥陀如来像~衣端の周縁帯の文様..法隆寺観音菩薩立像(伝月光)
般若寺・伝阿弥陀像の衣端周縁帯の文様と、同様文様のある法隆寺観音菩薩像(伝月光)

この小金銅仏像が、十三重石塔の中に埋納されていたのです。
昭和39年の仏像発見に至るいきさつを知るためには、まず、この十三重石塔の鎌倉時代の建造から今日に至るまでの、歴史、道程をたどってみる必要があると云えるでしょう。


【般若寺・十三重石塔の歴史をたどる~建立・修復】


〈鎌倉時代の石塔建立の由来〉

般若寺十三重石塔は、総高13.3mの大石塔です。
鎌倉時代、建長5年(1253)頃に完成したといわれています。

「般若寺文殊縁起」の叡尊願文中には、石塔建立の由来が、このように語られています。

「件の寺、聖武天皇の草創、観賢僧正の遺跡なり。
星霜頻りに移りて空しく礎石を遺し、春秋しばしば仏像を改めて早く灰燼に変ず。
野干、居を卜して、古墓、列を成す。厳重の伽藍、名のみ有りて無実なり。
ここに大善巧の人有り。時に懐旧の悲しみを含みて、ついに興隆の願を起こす。
時、将に十三重の塔婆を立てんとす。
・・・・・・・・・・・・・・・・」

即ち、聖武天皇草創の般若寺は、その後空しく荒れ果てていたが、或る大善巧の人がその有様を悲しみ、十三重の塔を建立せんとしたというのです。

般若寺文殊縁起
般若寺文殊縁起

願文は、この後、このように続きます。

大善巧の人は、初重の大石を基礎に重ね、願を成就しないうちに死去し、その後一人の禅侶が完成を果たしたが、ただ石塔のみ成り、未だ仏殿が無かったので、かの上人(良恵上人)が仏殿造立を発願した。

般若寺の草創については、諸説あってはっきりしないそうですが、出土瓦などから奈良時代にこの地に寺が造営されていたことは間違いないようです。
その後、般若寺は荒廃し、「般若寺文殊縁起」にあるように、鎌倉時代に至り再興されることになります。

再興にあたって、まず十三重石塔が発願、建立されます。

塔建立のいきさつを想定すれば、
初め塔の建立を発願した人(大善巧の人)があって、初重の石を据え、完成を見ずに死去した後を継いで、良恵上人が完成したもので、延応2年(1240)頃には既に五重目を組上げ、建長5年(1253)頃に最上部を積上げ、間もなく完成をみた、
と考えられています。

その後、西大寺の中興と仰がれる叡尊上人が、般若寺の復興を始め、周丈六の文殊菩薩像を発願、造立(善慶作、文永4年・1267開眼)、その後、楼門(現存)をはじめとする諸堂も建立され、伽藍が整備されました。

このような由来で、建立された十三重石塔が、今も残る般若寺・十三重石塔で、伝阿弥陀如来・小金銅仏もこの建立時に、石塔内に納入されたものであろうと想定されているようです。

般若寺十三重石塔

石塔初層軸部には四方仏が線刻されている
般若寺十三重石塔~初層軸部には四方仏が線刻されている


〈石塔を造った宋渡来石工・伊行末~花崗岩石彫技術の確立者〉

この石塔を制作したのは、「宋渡来石工の伊行末」でした。

伊行末は、俊乗坊重源が東大寺復興のため、宋から招請した石工人の一派です。

この伊行末は、我国では加工が難しかった、硬質花崗岩の石彫技術の確立に成功します。
それまで、我国では、軟質の凝灰岩の石彫技術しかなく、我国に広く分布する硬質花崗岩の彫刻が技術的に難しかったのです。
有名な臼杵石仏(平安後期)は、軟質の溶結凝灰岩に彫られた石仏です。
伊行末の制作した宇陀大蔵寺・十三重石塔
伊行末の制作した花崗岩石塔
宇陀大蔵寺・十三重石塔

宋工人・伊行末は、硬質の花崗岩を克服し、その石彫技術を確立しました。
これにより、鎌倉時代以降、花崗岩による石仏、石塔などの石造彫刻美術の制作が一般化する時代が到来するのです。

我が国、石造技術史の進展にとって、画期的な時代を到来させたのが伊行末であったといえるのでしょう。
般若寺・十三重石塔は、伊行末による硬質花崗岩の石彫技術確立を象徴する、シンボリックな作品といえるのだと思います。

「伊行末と花崗岩石彫」についての話は、神奈川仏教文化研究所HP・埃まみれの書棚から~、仏像の素材と技法・石で造られた仏像編~で、ふれたことがありますので、参照いただければと思います。


〈石塔の損傷と修復~元禄・明治の納入品取出しと再納入〉

伊行末の話はさて置き、十三重石塔の歴史をたどっていきたいと思います。

般若寺・十三重石塔は、鎌倉時代・建長5年(1253)頃完成したのち、現在に至るまで、相輪が取り替えられるなど、何度かの修復がされています。
室町時代、江戸時代の慶長~元禄年間(1596~1073)、嘉永~安政年間(1854~1860)、明治2~3年(1868~9)などに、損傷した石塔の修理が行われました。

これらの中で、まずふれておかねばならないのは、「慶長~元禄年間の損傷と修理」についてです。

慶長元年(1956)7月12日、大地震が発生し、相輪と上部の二重が墜落してしまいます。

慶長元年の地震で墜落した石製相輪~現在は十三重石塔の脇に建てられている
慶長元年の地震で墜落した石製相輪
現在は十三重石塔の脇に建てられている
その後、地に落ちたまま百年余放置されたままとなりますが、元禄13年(1700)に至り、修理に着手されます。
この時、従来の石相輪が、銅製のものに取り換えられました。
旧石製の相輪は、石塔の近くに今も立てられています。
この修理時に、第四重以上の壇を積み替えました。
元禄13年(1700)、5月のことです。

そうすると、石塔の重ね目から、いろいろな奉納物が発見されたのです。
紺紙金字の経巻、仏舎利入りの琥珀玉、閻浮檀金阿弥陀如来、十一面観音像、唐本法華経などが、発見されたのでした。
この「閻浮檀金阿弥陀如来」というのが、今回取り上げた小金銅仏・伝阿弥陀如来像のことです。

これら納入物の発見は、当時、大変な出来事であったのでしょう。

般若寺では、これらの霊宝を諸人に結縁することを企画します。
そして、なんと霊仏等を、江戸まで運んで、出開帳まで行っているのです。
石塔再建資金の調達に充てるためであったのでしょう。
その後も、元禄14年から15年にかけて、般若寺で、また大阪・浄国寺で、開帳が行われています。

石塔の修復は、元禄16年(1703年)に、無事完成しました。
そして、発見された納入物は、石塔内に再度奉納されたのでした。


もう一つ、ふれておかなければならないのが、明治初年における、十三重石塔の破壊とその修復の話です。

明治2年(1868)3月、なんと十三重石塔が引き倒されて破却されてしまったのです。
廃仏毀釈の嵐の吹き荒ぶさなかのことでした。

住侶隆恵が西大寺僧と共に還俗し、楼門を閉ざして塔を破却、本尊・文殊菩薩を経蔵へ押し込め、本堂に神壇を構えて、八意思兼命(ヤゴコロオモイカネノミコト)を祀るという事件が起こったのでした。
幸いにして、この事件は寺存続派の人々の意向が通り、8月には再び寺院に復し、年末から壊された石塔の修造が始められました。
翌明治3年(1864)、石塔の積み上げが完了し、旧に復しました。

この時、石塔の破却によって取り出された塔内納入品については、「般若寺宝塔出現霊仏奉納目録」がつくられ、再度、木箱に詰められたりして、石塔内に再納入されたということです。

明治の修復時に作られた「般若寺宝塔出現霊仏奉納目録」
明治の修復時に作られた「般若寺宝塔出現霊仏奉納目録」



【白鳳・金銅仏はじめ石塔納入物の発見~昭和39年の解体修理】


〈解体修理のはじまり〉

そして、昭和39年(1964年)に至り、この十三重石塔の解体修理が行われることになったのです。

この石塔は、積み重ねられた各層(重)の石と石とのの間にホゾが入っていないため地震などでずれてしまって弓なりとなっており、大きいところで20㎝のひずみが出て危険な状態になっていました。
また風化により、軸石に描かれた線仏の傷みが激しいことから、解体修理に踏み切られたのでした。

この解体修理によって、石塔内から納入品が発見されるであろうことは、予想されていました。
一方、巷のうわさには、明治初年の暴徒による石塔破壊の時に、納入品は殆ど散逸したかとも伝えられ、解体修理、調査にあたった人たちは、本当に納入物がおさめられているのだろうかと半信半疑の状態であったということでした。

石塔の解体調査は、4月27日から始められました。
調査員の人々は、一層、一層がクレーンで順に吊り降ろさるのを、かたずをのんで見守ったことと思います。

石塔解体修理の有様
クレーンを使って行われる石塔解体修理の有様


〈納入物の発見と新聞報道〉

果たして、納入品は、各層から出現したのでした。

4月28日、五重目から、白鳳時代と思われる小金銅仏が発見されました。
元禄時代修理の時「閻浮檀金阿弥陀如来」と称されていた仏像です。

「閻浮檀金阿弥陀如来」と称されていた伝阿弥陀像
発見された閻浮檀金阿弥陀如来」と称される伝阿弥陀像

5月4日には、初層から、鎌倉時代の五輪塔型舎利容器6基が発見されました。
その他の各層からも、種々の納入品が発見されたのです。

初層に納入されていた五輪塔型舎利容器

初層に納入されていた五輪塔型舎利容器
初層に納入されていた五輪塔型舎利容器

これら納入品の発見は、ある程度予想されていたとはいえ、大発見でありました。

新聞各紙は、十三重石塔の解体から始まって、白鳳小金銅仏の発見、舎利容器の発見を、大きな見出しでスペースを割いて報じています。

ご覧ください。

毎日新聞・大阪本社版1964.4.27朝刊
毎日新聞・大阪本社版1964.4.27朝刊

毎日新聞・大阪本社版1964.4.29朝刊
毎日新聞・大阪本社版1964.4.29朝刊

朝日新聞・大阪本社版1964.4.29朝刊
朝日新聞・大阪本社版1964.4.29朝刊

毎日新聞・大阪本社版1964.5.5朝刊
毎日新聞・大阪本社版1964.5.5朝刊

4月29日付の小金銅仏像発見報道の内容を、少しご紹介してみましょう。

「穴から絶品の金銅仏~奈良般若寺の十三重石塔」

という見出しの朝日新聞は、このように報じています。

「天平時代、聖武天皇の創建と伝えられる奈良・般若寺にある十三重塔(重要文化財)は、さる26日から奈良県教委で解体修理しているが、28日、下から五重目の石をくり抜いた穴の中からキリの箱に入った金銅仏が見つかった。

奈良国立文化財研究所小林剛所長の話では、約1250年前白鳳時代を下らない仏像で、旧御物の法隆寺四十八体仏(現東京国立博物館)とよく似た貴重なもの。
衣のひだから台座に至るまで克明にタガネのきざみが図案化された様式は他の例がなく、同所長は『絶品の金銅仏』と折紙を付けた。
・・・・・・・・・・・・・・
五重目の穴は直径30㎝、深さ45㎝、この中に『明治3年修理した際に元からあった仏像を納めた』と書かれた箱があり、中から高さ40.9cm、右手を上、左手をさげた仏像が出てきたもので、阿弥陀如来らしいという。
・・・・・・・・・・・・・」


〈五重目軸石内から発見された白鳳金銅仏像~納入品発見の状況〉

この小金銅仏のほかに、各層から様々な納入品が発見されたのですが、この図をご覧いただければ、その概要をお判りいただけるのではないかと思います。

十三重石塔・納入物の一覧図
十三重石塔・納入物の一覧図

この図は、般若寺で春秋に開かれている、「秘仏秘宝特別公開」の時に、いただける説明書です。

各層からどのような納入物が発見されたのかが、一覧で大変わかりやすくまとめられています。
ご覧のように、数々の納入物がおさめられていました。
【赤マル】のところが、白鳳小金銅仏が発見された、第五重の処です。
納入物は、明治の破却修復時に記された寺蔵の「般若寺十三重宝塔修理明治三年記」の「塔内霊仏目録」にあった納入品が、そのまま残されていました。
幸いにして、廃仏毀釈の時に石塔が壊された時に、巷間云われたような「納入品の散逸」は無かったのでした

伝阿弥陀如来小金銅仏をはじめとした納入品の数々は、普段は公開されていませんが、春秋の特別公開の時には、宝蔵堂で拝見することが出来ます。


伝阿弥陀如来金銅仏の発見状況などについて、もう少し詳しくご紹介したいと思います。

伝阿弥陀如来小金銅仏は、第5重軸石内から発見されました。
発見時の納入状況などの写真をご覧ください。

五重軸石内に奉納されていた木箱~箱書きがされ伝阿弥陀金銅仏等が収められていた
五重軸石内に奉納されていた木箱
箱書きがされ伝阿弥陀金銅仏等が収められていた


木箱の蓋を開けた状況
木箱の蓋を開けた状況

取り出された伝阿弥陀金銅仏~赤地錦の裂に包まれていた
取り出された伝阿弥陀金銅仏~赤地錦の裂に包まれていた

軸石の中央に円筒形の納入孔が穿たれ、その中に桐箱がおさめられていました。
縦横約20㎝、高さ43センチの桐箱でした。
箱の表裏には、このような墨書きがありました。

木箱の空間に詰め物として入れられていた「閻浮檀金阿弥陀如来」の刷仏
木箱に詰め物として入れられていた
「閻浮檀金阿弥陀如来」の刷仏
明治三庚午年四月初三日

閻浮檀金如来御丈八寸五分
御腹仏
金 大日如来    木像一躰
  十一面観世音  金像一躰
  地蔵菩薩    木像一躰
明治三庚午四月三日納之

この箱は、明治3年の石塔修造の時に新造して納められたようです。
箱を開けると、中には赤地錦の裂に包まれた如来形金銅仏が納められ、その周囲に刷仏が詰め物として入れられ、舎利、般若心経の一包が添えられていました。

箱書きにある、御腹仏は、文字通りの胎内仏で、伝阿弥陀如来金銅仏の台座裏の空間に紙に包んで納入されていたのでした。

伝阿弥陀如来胎内納入仏
伝阿弥陀如来の胎内納入仏


さて、新発見の伝阿弥陀如来金銅仏は、いつの時に、この石塔に納入されたものなのでしょうか?

金銅仏は、間違いなく白鳳仏ですので、この十三重石塔が建造された鎌倉時代に納入されたと考えるのが、素直なところのように思えます。
軸石にも、相応しい納入孔が穿たれています。

ただ、記録を遡ってみると、元禄年間、明治年の目録に、はっきりと「閻浮檀金阿弥陀如来」と指摘され、法量も一致することから、納入の下限が元禄年間であることは間違いありません。
記録上は、これ以上さかのぼることが出来ないので、鎌倉時代建立時の納入とは断言できないということになるそうです。

胎内仏の方はどうでしょうか?

胎内仏は、像高5~11㎝の小仏で、共に鎌倉時代の制作とされています。
この3躯の胎内仏については、明治目録には記載されていますが、元禄目録には記載されていません。

修理報告書には、

「包紙その他底面に入れられた刷仏の状況からは、明治修理時に納めたか、又は元禄修理時に納めたものを、明治修理時に納めなおしたものと想像されるものである。」
(「重要文化財・般若寺塔婆修理工事報告書」奈良県文化財保存事務所編・1965刊)

と述べられています。
これもまた、推定がなかなか難しいようです。


いずれにせよ、昭和39年(1964)の十三重石塔の解体修理で、新たな白鳳の小金銅仏が、我々の眼前によみがえったのでした。
何度もの層塔の積替え修理があったにも関わらず、よくぞ取り出されずに、石塔内に奉納し続けられたものだと思います。
これも、信仰の力なのでしょうか。
もし、いずれの時代かに、この小金銅仏が取り出されてしまっていたらば、散逸してしまったり、明治の廃仏毀釈の時に売り払われてしまっていたかもしれません。

般若寺・伝阿弥陀如来立像..般若寺・伝阿弥陀如来立像
般若寺・伝阿弥陀如来立像

今も、白鳳のやさしさ、清明さを伝える、金銅仏を拝することが出来ることは、本当に嬉しいことです。


【春秋・特別公開されている伝阿弥陀如来金銅仏などの納入物】

この伝阿弥陀如来金銅仏をはじめとする、十三重石塔から発見された納入物の数々は、発見から3年後の昭和42年(1967)6月に、「大和般若寺石造十三重塔内納置品」という呼称で、一括して重要文化財に指定されました。
現在は、般若寺の宝蔵堂に安置、保管されています。

昭和46年(1971)10月には、奈良県文化会館で「般若寺名宝展」と題した展覧会が開催され、十三重石塔から取り出された納入物の数々が一般展観されました。
もちろん、伝阿弥陀如来金銅仏も展示されました。

現在は「大和般若寺石造十三重塔内納置品」は、常時は公開されていませんが、春秋には「白鳳秘仏特別公開」と称して宝蔵堂が開かれ、拝見することが出来ます。

「般若寺名宝展」図録..春秋の「白鳳秘仏特別公開」パンフレット
「般若寺名宝展」図録      春秋の「白鳳秘仏特別公開」パンフレット



今回は、般若寺の伝阿弥陀如来金銅仏の発見と、金銅仏が奉納されていた般若寺のシンボル、十三重石塔の歴史を振り返ってみました。




【ご参考~追記】

この般若寺十三重石塔の建立、修復の歴史や、納入品の発見などの詳しい話は、次の資料に詳しく記されています。

①「重要文化財・般若寺塔婆修理工事報告書」 奈良県文化財保存事務所編・1965刊

②「般若寺石造十三重塔」 奈良県教育委員会(元田長次郎・村野浩) 月刊文化財14号・1964.11刊

③「大和古寺大観・第3巻」(般若寺の解説部分) 岩波書店1977.6刊

特に、①の「重要文化財・般若寺塔婆修理工事報告書」には、石塔の解体修理と納入品発見の詳細な報告、写真が掲載されているとともに、般若寺十三重石塔の歴史についての詳しい論考、解説が収録されています。

ご関心のある方は、一度、ご覧になってみていただけると、ご参考になると思います。


トピックス~千葉龍角寺・薬師如来坐像の発見・・・白鳳展に寄せて③ 【2015.8.22】


白鳳展出展仏像の発見物語の第3回目です。

今回は、千葉県印旛郡栄町にあるにある龍角寺の薬師如来坐像の発見について振り返ってみたいと思います。


【関東地方の数少ない古代金銅仏~龍角寺・薬師如来坐像】

龍角寺の薬師如来坐像は、関東に残る数少ない白鳳~奈良時代の金銅仏として知られています。

残念ながら、首から下は江戸時代、元禄年間に後補されたものに変わっており、頭部のみが白鳳~奈良時代のものが遺されています。

龍角寺・薬師如来坐像

龍角寺・薬師如来坐像
龍角寺・薬師如来坐像(頭部のみ白鳳~奈良時代)

関東では、古代の金銅仏は4躯が遺されているにすぎません。
そのうち2躯は、小金銅仏です。
(東京八王子市・真覚寺薬師如来倚像、東京三宅島・海蔵寺・観音菩薩立像)
大型の金銅仏の遺作は、龍角寺・薬師如来坐像と、先に発見物語をご紹介した深大寺・釈迦如来倚像の2躯だけで、関東の古代彫刻を語るうえでは、大変重要、貴重な作例となっています。

真覚寺薬師如来倚像..海蔵寺・観音菩薩立像
真覚寺薬師如来倚像          海蔵寺・観音菩薩立像

深大寺・釈迦如来倚像
深大寺・釈迦如来倚像


龍角寺の薬師如来坐像は、昭和7年(1932)に発見されました。

仏像そのものが、新たに出現して発見されたというものではありません。
昔から龍角寺のご本尊として、祀られていました。
像高92cmもある、立派な金銅仏です。

お堂(収蔵庫)に安置されている龍角寺・薬師如来坐像
お堂(収蔵庫)に安置されている龍角寺・薬師如来坐像

この仏像の頭部が、古代の金銅仏であるということが判明し、白鳳仏であることが発見されたのが、昭和7年(1932)のことというものです。
倉庫や納屋の片隅から、仏像が見つけ出されたというわけではありませんので、この発見は
「美術史上の発見」
と云えるものでしょう。

そうはいっても、関東の地で、白鳳時代まで遡り得る大型の金銅仏像が見出されたのです。
「関東における白鳳仏像の大発見」といって間違いないものだと思います。
ただ、以前から知られていた仏像が、白鳳~奈良時代であると判明したという話ですから、それほどドラマチックな発見物語があるわけではありません。

あまり面白くない発見物語のご紹介になろうかと思いますが、ご容赦ください。


【最初に薬師像に注目した人~氏家重次郎氏】

龍角寺・薬師如来像の第一発見者は、氏家重次郎という人でした。
氏家重次郎氏は、建築家ということです。

氏家氏は、仏像発見の数年前に、偶然に龍角寺に来合わせ、本堂の建築が優れているのに心を止め、昭和7年の3月、再度、龍角寺の撮影に赴きました。

龍角寺境内と本堂
龍角寺境内と本堂

本堂は、江戸時代、元禄10年の建立で、氏家氏は、この本堂が特別保護建造物に指定できないかと思っていたようです。

氏家氏は、この時の龍角寺訪問時に、本尊の薬師如来像の写真を撮影しました。
また、椎名寅吉氏所蔵の、当地出土の古代の鐙瓦も預かったのでした。

昭和7年当時に撮影された龍角寺・薬師如来坐像.龍角寺出土の古代鐙瓦
昭和7年当時に撮影された龍角寺・薬師如来坐像(左)龍角寺出土の古代鐙瓦(右)

元々龍角寺は、和銅2年(709)創建と伝えられ、境内には古代の塔心礎が残されているという古刹です。

境内に遺る塔心礎
龍角寺境内に遺る塔心礎

龍角寺・仁王門址礎石
龍角寺・仁王門址礎石

氏家氏も、
「鐙瓦は、創建時のものではないか?」
「薬師如来像も、存外古いのではないか?」
と、感じとったのではないかと思います。


【調査に赴いた、文部省の丸尾彰三郎氏】

氏家氏は、この薬師如来像の写真を、当時、文部省・国宝監査官であった丸尾彰三郎氏に見せたのでした。

丸尾彰三郎氏(1892~1980)という人は、仏像彫刻史にご関心のある方なら、名前を御存じのことと思います。
文部省で、文化財保護行政に長らく携わった仁で、戦前は国宝鑑査官を長らく務め、戦後は、1956年文部省退官後、文化財専門審議会専門委員を務めた仏像彫刻の専門家です。
今も刊行が続く「日本彫刻史基礎資料集成」の編集者でもありました。

丸尾氏も、この仏像写真を見て、強い関心を抱いたようです。
早速、その年(昭和7年)の4月に、龍角寺に調査に出かけたのです。

丸尾氏は、発見の年の8月、雑誌「宝雲」(第3冊)に、龍角寺・薬師像のことを採り上げ、このように記しています。

龍角寺・薬師如来像頭部
龍角寺・薬師如来像頭部
「本年の始でしたか、この像の発見者建築士氏家重次郎氏からその話を聞き、其後その小さな写真を見せられて『おや』と思い、この4月17日それを実査して『これは』と認めた次第、その後関野先生も実査されて新聞にも報道されることとなったのです。」
(「龍角寺薬師如来像」宝雲第3冊、1932.8刊所収)

文中の
「『おや』と思い、・・・『これは』と認めた」
というのは、丸尾氏は、薬師像の頭部が、白鳳時代の制作と考えたということでした。

「厳然として、奈良朝前期と言いますか、天平時代より早い頃の、即ち奈良薬師寺や蟹満や、この辺では深大寺の諸銅像の時代の様式が存しております。」

このように語っています。

丸尾氏も、この仏像の存在は、それまで認識していなかったのでしょう。

なんといっても、龍角寺のある場所は、国鉄成田線安食駅の東2~3キロの辺鄙な田舎といっても良いところです。
訪れる人めったになかったに違いありません。
古代伽藍があった場所とは知られていても、そんなに古い仏像が遺されているなどとは考えられもしていなかったのだと思います。
また、薬師如来像は、首から下は江戸時代の後補ですから、仏像全部が江戸時代(龍角寺再建の元禄年間)に制作された仏像だと思われていたのでしょう。


文部省の丸尾氏が龍角寺を訪れて、「奈良朝前期」の仏像と認めたということなのですが、この「白鳳仏像の発見」は、世に大きく発表されるとか、新聞報道されるということはなかったようです。
丸尾氏の方が、積極的に世間に発見を発表しなかったのではないでしょうか?


【重鎮、関野貞氏の調査と、大発見の新聞報道】

丸尾氏の龍角寺調査の翌月、昭和7年(1932)5月、今度は、関野貞氏が調査に訪問します。

関野氏は、龍角寺調査のいきさつについて、このように述べています。

「龍角寺は千葉縣印幡郡龍角寺に在り、成田線安食駅より約一里、今すこぶる衰微すれども昔時は有名の大伽藍であつた。
近頃建築家氏家重次郎氏偶然寺に詣り、其本堂と本尊の写真と境内出上の古瓦片とを余に示された。

余は其本尊と古瓦片の寧楽時代初期の者たるに驚き、去る5月15日文部省国宝建造物保存室の諸氏と往訪し、仕職及び有志諸氏の好意により調査かつ必要の撮影を為すことができた。」
(「龍角寺銅造薬師如来像及古瓦片」歴史教育7巻4号1932年刊所収)

氏家重次郎氏は、龍角寺薬師像の写真と、出土の古代の鐙瓦を関野氏にも見せたようです。
丸尾彰三郎氏経由だったのかどうかは、良く判りません。
関野貞氏も、調査の結果、薬師如来像頭部は白鳳期の制作と認めます。

仏教美術好きで、関野貞氏(1868~1935)の名前を知らない人はいないでしょう。
「明治期の古建築の文化財指定」「法隆寺再建非再建論争の非再建論者」「平城宮址の発見」「天竜山石窟寺院の発見」などで知られています。
建築史、仏教美術史の研究者、文化財保護行政の大御所として余りに著名です。
龍角寺・薬師像発見当時は65才、東京帝国大学名誉教授、古社寺保存会委員という重鎮です。

その関野貞氏が、お墨付きを与えたからか、重鎮・関野氏出馬の調査ということで新聞記者の取材対象になったのか、
「龍角寺薬師如来坐像の発見」「白鳳期大型金銅仏の大発見」
が新聞紙上に大々的に報じられたのでした。

「奈良の大仏より古い国宝的佛像発見さる
1250年を経た寧楽初期の傑作
関東最古の珍しいもの」


「大昔の千葉県に驚異の伽藍
国宝と史蹟の価値は充分
鑑定した関野博士談」


6月4日付の都新聞には、このような大見出しで白鳳仏像の発見が報じられ、龍角寺の薬師像は、広く世に知られることになりました。

新聞記事は、ご覧のとおりです。

龍角寺・薬師如来像発見報道記事(都新聞)

龍角寺・薬師如来像発見報道記事(都新聞)

龍角寺・薬師如来像発見報道記事(都新聞)

都新聞は、龍角寺・薬師像の発見を、このように報じています。

「従来、学者、専門家にも全く知られずにいた国宝的佛像が発見された。
千葉県印旛郡安食町近傍龍角寺の従来殆ど扉の鎖された薬師堂内にある一躯の薬師如来の坐像がそれである。

発見の端緒は、数年前建築家氏家重次郎氏が偶然ここへ来合せて、寺の建築の優れているのに心を止め、今春3月再び同寺撮影に行きついでに古色蒼然たる仏像も写して文部省の関野貞博士に鑑定を乞うたところ、寺の建築は元禄時代のものだが、仏像は稀に見る古い。

早速、5月中旬から同博士が龍角寺に出張調査すると、これは丈4尺の銅造りの薬師如来坐像で、残念にも胴体は当寺が元禄5年に全焼した際破損し、元禄10年本堂再建の際に継足したもののようであるが、頭部は正しく美術史上の寧楽時代初期(白鳳期)の傑作で、すでに1250年を経、奈良の薬師寺の東院堂の聖観音、法隆寺の夢違観音等と同時代であり、有名な奈良の大仏より古いというのである。

従来寧楽時代初期の彫刻は、関東には府下北多摩郡神代村の深大寺釈迦如来像唯一つであったのだが、この深大寺像より多少古いとみられる仏像がここに新たに発見せられたわけである。」

この龍角寺・薬師像発見のニュースは、都新聞のスクープだったのか、当時の朝日新聞などの有力紙は報道していないようです。


奈良とか京都とかではなくて、関東地方、それも千葉の田舎から、白鳳の大金銅仏が発見されたわけですから、全く想定外の大ビックリだったのだと思います。
「本当に、本当? 嘘じゃないの?」
と疑ってしまいます。

ところが、当時、撮影された龍角寺・薬師像の写真を見てみると、その頭部は、
「誰が見ても堂々たる白鳳~奈良期の金銅仏」
です。

発見の年・昭和17年当時の龍角寺薬師如来像の写真.発見の年・昭和17年当時の龍角寺薬師如来像の写真
発見の年・昭和17年当時の龍角寺薬師如来像の写真(「宝雲」第3冊掲載)

切れ長の眉目、鎬線が立ち美しいカーブを描く鼻筋、ふくよかさを示す頬など、いわゆる白鳳仏の特長を備えています。
それも、小金銅仏というのではなくて、等身ほどの大型金銅仏であったのですから。
実際に、この薬師像を目の前にした人達は、本当に、びっくりしたのだろうなと思います。


関野貞氏も、この発見の調査報告的に書かれた「龍角寺銅造薬師如来像及古瓦片」(歴史教育7巻4号1932年刊)という文章で、このように語っています。

深大寺・釈迦如来倚像~頭部
深大寺・釈迦如来倚像~頭部
「要するに其様式手法は、明かに寧楽時代の初期の特色をあらわし、薬師寺東院の聖観音に次ぎて法隆寺の夢違観音や新薬師寺の香薬師如来及び深大寺の釈迦如来と殆んど同時代に成つたもので.稀れに見る所の傑作である。

唯惜むべきは 頸以下の体躯は全部後世の補修であることである。
頭部は人災に遭った形跡が明かに,膚が處々荒れている。
・・・・・・・・・
要するに龍角寺の其本尊は寧楽時代初期の傑作でみる。
其当初屋上に用ひられた巴瓦唐草瓦亦同様寧楽時代初期の代表的優作で、共に寺伝の創立と称する和銅までは下るものとは考えられぬ。
蓋し和銅創立説は恐らぐは後世の附會で、寺はそれよりも前に既に建立せられでゐだのであろう。

兎に角従来あまり世間に知られていなかつた大伽藍が、其本尊と新たに発見された瓦當とにより、寧楽時代の初頭に都を遠く離れたかヽる僻遠の地に建てられたことが明かになったことは, 極めて興味あることに属する。」
(「龍角寺銅造薬師如来像及古瓦片」歴史教育7巻4号1932年刊所収)

この龍角寺の薬師如来坐像、美術史上の重要な作例であると認められたのでしょう。
発見の翌年、昭和8年1月に、早速、国宝(旧国宝・現重要文化財)にスピード指定されました。


【おわりに】

皆さん、奈良国立博物館の白鳳展で、もう龍角寺の薬師如来坐像をご覧になったでしょうか?

確かに、首から下が江戸時代の後補なので、展示された周りの立派な白鳳仏を較べると、全体的には、ちょっと見劣りしてしまうような気もしますが、頭部だけに目を凝らして、じっくり見てみると、大変完成度の高い優作であることが判ります。


この金銅仏像、奈良などの中央で造られたのでしょうか?
それとも、関東の当地で造られたのでしょうか?

制作年代は、7世紀後半の白鳳期なのでしょうか、
それとも8世紀和銅年間に入って以降のものなのでしょうか?

薬師像の前に立ち、そのお顔を眺めていると、そんな疑問が、ちょっと湧いてきます。

専門家は、蟹満寺・釈迦如来像の頭部、面貌との類似を指摘しているものが多いようです。

蟹満寺・釈迦如来坐像~頭部.龍角寺・薬師如来坐像~頭部
蟹満寺・釈迦如来坐像~頭部      龍角寺・薬師如来坐像~頭部

龍角寺縁起は、寺の創建を和銅2年(709)と伝えますが、出土瓦の編年からは、龍角寺の創建年代はもっと古い650年から660年代とみられると云われています。
薬師像の制作時期についても見方も定まっていないようで、なかなか興味深いところです。

皆さん、どのようにみられるでしょうか?

なかなか、難しいところのように思えます。
私は、これまでなんとなく8世紀に入ってからの制作なのかなと感じがしていたのですが、今回、白鳳展でじっくりとその顔部の造形表現を観てみて、白鳳期に造られた像のように思えてきました。
感覚的な話ですが、龍角寺薬師像には、大陸風というか渡来系の造形の空気感が、より漂っているように強く感じました。
そのあたりの処は、発見物語のテーマから外れていってしまいますので、この辺にしておきたいと思います。


今回は、龍角寺・薬師如来坐像の昭和7年(1932)の発見のいきさつを振り返ってみました。

トピックス~野中寺・弥勒半跏像の発見とその後・・・白鳳展に寄せて②【その2】   【2015.8.15】


【その1】では、野中寺金銅弥勒像の劇的発見物語と、発見報道の真相についてたどってきました。
    
近年になって、本像の銘文、制作年代に疑問を投げかける、センセーショナルな問題提起がなされました。

ここからは、この問題提起をめぐる論争や研究を振り返ってみたいと思います。


【その後の野中寺像研究と、近年の偽名、擬古作の可能性の問題提起】

野中寺像の発見の経緯には、振り返るといろいろあったようですが、弥勒半跏像そのものが、白鳳の冒頭期を飾る基準作例であるという位置づけは定着し、長らく変わることはありませんでした。
即ち、丙寅、天智5年(666)の制作であり、斉随様から初唐様式の影響を受けた作品であるということでした。
昭和40年代までは、この点についての大きな異論は、唱えられなかったのではないかと思います。

野中寺・弥勒半跏像
野中寺・弥勒菩薩半跏像

どんな仏像の本を読んでも、白鳳時代の処には、必ず野中寺弥勒像が採り上げられています。
天智5年(666)の制作で、白鳳らしい明るくのびやかな造形表現への転換を感じ取れる作品としています。


こうしたなかで、議論があったのは、刻銘文の、判読、解釈に関することでした。
・銘文の「四月大八日」のにあたる文字は、「朔」なのか、「旧」なのか、あるいは「洎」と判ずるのではないか?

・「栢寺」というのは、橘寺のことか、そのほかのいずれかの寺を指すのか、野中寺そのもののことなのか?

野中寺像台座の「四月大□八日」と刻された□の文字...野中寺像台座の「栢寺」と刻された栢の文字
野中寺像台座の「四月大八日」と刻されたの文字(左)と「栢寺」と刻された栢の文字(右)

・「中宮天皇」とは誰のことをさすのか?

・天皇号が用いられるようになった時期は、いつ頃と考えられるのか?

このような事柄が、野中寺弥勒半跏像にまつわる問題として議論されていたのではないでしょうか。


〈野中寺像は、偽銘・擬古作か?~センセーショナルな問題提起〉

ところが、近年、平成12年(2000)に至って、センセーショナルな問題提起がなされました。

結論から言いますと、

・野中寺弥勒半跏像の銘文は、明治末年以降に撰文された偽銘の可能性がある。

・野中寺像そのものの制作年代にも疑問が生ずる。

という問題提起でした。

これこそ、大正時代の野中寺像の大発見よりも、大ビックリ、驚きの問題提起でした。
この問題提起は、東野治之氏によってなされたものです。

その論旨は、
野中寺弥勒像台座銘の再検討(東野治之) 国語と国文学・77巻11号所収 (2000.12刊)
に、詳しく述べられています。

東野治之氏は、日本古代史、文化財史料学者で、奈良国立文化財研究所文部技官、大阪大学教授、奈良大学教授を歴任した、大変著名な研究者です。
「正倉院文書と木簡の研究」「日本古代木簡の研究」「日本古代金石文の研究」などの著作で知られています。
その東野氏の問題提起ですから、センセーショナルで注目を浴びる出来事であったのではないかと思います。

東野氏は、それまでにも、
「野中寺像は、その銘文も含め7世紀末ごろに作られた可能性が大きい。」
(「正倉院文書と木簡の研究」1977.9塙書房刊所収)
と述べていましたが、
そんなレベルの異説どころではなく、これまでの美術史の定説を根本から覆させるものでした。

私には、古代金石文学とか文字資料学といった話は、全くわかりません。

東野氏の論文の結論部分の処をそのまま転記すると、このように述べられています。

「造像銘の撰文時に空白符が使われているという特異さと、右述のような特徴を総合すれば、この銘文は古写本や古代の暦注・文章・書風などに詳しい人物によって後代に撰文されたと考える余地もあるのではなかろうか。
・・・・・・・・・・・・・
もしそうであるとすれば、撰文の年代は極めて新しいことになる。
もちろん理屈の上では、古い銘文が伝えられていて古像に追刻されるということも想定できるが、銘文の書風は伝聖徳太子筆『法華義硫』のそれに極めて近い。
このような書風に則って刻銘することが、中世や近世前半になされるとはまず考えられないであろう。

しかも十二直の知識が再発見されるには、明治末年の山田孝雄の研究を俟たねばならなかった。
銘文が新たに撰文されたとすると、その時期は野中寺像が、学界や世間に知られるようになった大正7年(1918)に比較的近い時点とならざるをえない。

私自身、空白符の問題に思い至るまで、本銘文は古代のものとして何ら疑ったことはなかった。
現時点でこれを偽銘と断じる気は更々ないが、これまで説き来たった通り、この銘文に奇異な点が残るのは打ち消しがたい。
仄聞するところでは、美術史研究者の中にも、野中寺像そのものの制作年代を疑う意見があるという。」

また、東野氏は、冒頭の「丙寅年四月大八日癸卯開記」のを「旧」と読み、元嘉暦(旧暦)と儀鳳暦(新暦)の併用された持統4年(690)以前の銘ではありえないとしました。

これに対して、この後の論争でご紹介する、麻木脩平氏は、
「野中寺弥勒菩薩半迦像の制作時期と台座銘文」(『佛教美術』256号 2001年5月)
で東野氏に反論し、
銘文の(旧)を「朔」と読み、像の作成直後に入れられたものと主張しています。

この論旨、お判りいただいたでしょうか?
私には難しすぎて、全く理解できません。
ただ、東野氏が、銘文は明治末年以降の偽名・追刻、仏像は後世の擬古作という疑問を提起していることは、間違いありません。


野中寺像の制作年代を、擬古作とか、現代の偽作である可能性について、美術史の世界で論じられたものはみたことがありませんが、疑問を感じられていたこともあったのかも知れません。

「日本仏像史」(2001年美術出版社刊)に、こんなことが書かれていました。

「しかし、野中寺像については最近、銘文内容に若干の疑問がもたれ、発見の経緯にも疑問があるなど、なお検討すべき点が残される。」(浅井和春氏執筆)


〈論争の展開と深められた検証研究~近代擬古作の疑問払拭へ〉

この、東野治之氏の論文の問題提起を発端に、野中寺の銘文と制作年代についての論争や、検証研究が行われました。
目についた関係論文をピックアップしてみると、こんな感じです。

・野中寺弥勒半跏像の制作時期と台座銘文(麻木侑平)仏教芸術256号2001.5

・野中寺弥勒像銘文再説~麻木侑平氏の批判に接して(東野治之)仏教芸術258号2001.9

・再び野中寺弥勒像台座銘文を論ず(麻木侑平)仏教芸術264号2002.9

・野中寺弥勒菩薩像の銘文読解と制作年についての考証(松田真平)仏教芸術313号2010.12

・野中寺菩薩半跏像をめぐって(礪波恵昭)「方法としての仏教文化史」2010.11勉誠社刊所収

・野中寺弥勒菩薩像について(藤岡穣)ミューゼアム649号2014.4

このように、続々、研究論文が発表されました。
論争もありましたし、実証研究も行われました。

東野氏の疑問、問題提起を契機として、新たに野中寺弥勒半跏像の研究が、より一層深められることになったといって良いのでしょう。


昨年4月には、大阪大学大学院助教授の藤岡穣氏によって、野中寺像を多面的に検証した研究論文が発表されました。
この論文、「野中寺弥勒菩薩像について」は、野中寺像の伝来をめぐる問題、蛍光X線による科学的組成分析、様式検討、銘文検討などを総合的に検証研究した、大変充実した論文です。

この論文で、藤岡氏は、野中寺像を、
「銘記の丙寅年を、666年と解釈し、それを制作ないし銘記鐫刻の時期とみなすのが妥当」
と結論付けています。

この研究成果によって、「偽銘、偽作(擬古作)」という疑問は、払拭され、白鳳期の仏像と考えてよいとされるようになったのではないかと思います。


その論拠のポイントは、どんなものであったでしょうか?

野中寺像が、近代の偽作(擬古作)ではないかという疑問を解いていくには、
「そもそもこの野中寺像の存在が、記録上、何時頃まで遡れるか」
ということが、最重要問題となります。

先にもふれましたが、江戸後期、享和元年(1801)に刊行された「河内名所図会」の野中寺の条には、
「経蔵  又弥勒佛金像を安置す。これは聖徳太子悲母追福の為に鋳させられし霊尊也」
と記されています。

「河内名所図会」の野中寺の条「河内名所図会」の野中寺の条・詞書
「河内名所図会」の野中寺の条~詞書の経蔵のところに「弥勒金仏」についての記述がある
この弥勒金仏像が現存野中寺弥勒象かどうかの議論があった



この「弥勒佛金像」が、現在の弥勒半跏像と同一であれば、江戸後期には当該像が間違いなく存在していたこととなり、少なくとも近現代の偽作(擬古作)とは考えられないことになります。

麻木侑平氏は、
本論争の中で、「河内名所図会」にあえて「弥勒佛金像」と記しているのは、台座銘に弥勒という文字が刻まれていたからと考えるのが自然として、現存像のことを指していると主張しました。

一方、東野治之氏は、
「河内名所図会」に記される「弥勒佛金像」に銘文があったのならば、作者は必ずそのことに言及している筈である。
図会に銘文についての記載がないので、現存像とこの「弥勒佛金像」を結びつけることはできないと、主張しました。


やや水掛け論的に膠着していたこの問題に対して、藤岡氏は、新史料を提示し、一つの結論を示しました。

藤岡氏は、これまで未紹介の野中寺蔵「青龍山野中律寺諸霊像目録」という文書に、
「弥勒大士金像坐身長八寸聖徳太子為悲母而鋳之 有銘
と記されていることを見出したのです。
この目録は、元禄12年(1699)に記されたものです。

野中寺蔵「青龍山野中律寺諸霊像目録」
野中寺蔵「青龍山野中律寺諸霊像目録」
右から3行目に「弥勒大士金像坐身長八寸聖徳太子為悲母而鋳之 有銘」の記述がある


この目録にある「弥勒大士金像」には、はっきりと「有銘」と記されているのです。
従って目録記載の像が、現存の弥勒半跏像であることは、間違いないと考えられることを指摘しました。

この新史料の発見により、現存像は、元禄年間に存在し、刻銘のあったことが明らかになったのです。
また、大阪府八尾市の「下之太子」大聖勝軍寺の如意輪観音半跏像が、寛文5年(1665)の再興造像時に、衣文、文様などを現存野中寺弥勒像から模刻しているとみられると想定しました。

大聖勝軍寺・如意輪観音半跏像..野中寺・弥勒半跏像
大聖勝軍寺・如意輪観音半跏像(左)と野中寺・弥勒半跏像(右)

この事実によって、現存像が、近現代の「偽銘、偽作(擬古作)」ではないことが、明確になったといって良いと思われます。

今般の奈良博「白鳳展」の図録でも、このように解説し、擬古作説を否定しています。

「刻銘をめぐっては従来さまざまな疑義が呈され、像そのものを近代の作とみるむきもあつた。
これに対し、近年の研究で元禄12年(1699)成立の『青龍山野中律寺諸霊像目録』に『弥勒大士金像』の文言が見出され、大阪・大聖勝軍寺で江戸時代の作とみられる本像の模刻像が再確認されたことにより、少なくとも擬古作との疑念は払拭された。」


藤岡氏は、このほかにも、
・蛍光X線による科学的組成分析の結果、青銅の成分は日本の古代金銅仏として許容範囲内にあること。
・細かな技法的を検討しても、擬古作とは考えられないこと。
・様式的には、随様式を基調としつつ、北斉様式との関連を想定すべきだと思われること。
などを示して、
野中寺弥勒半跏像は、白鳳期、天智5年(666)の制作、刻銘も制作当時とみて良いとの結論に達しています。



【おわりに】

センセーショナルとでも言ってよい、野中寺像擬古作、偽銘追刻問題でしたが、数々の論争、研究を経て、「白鳳初頭期の基準作例」という、元の鞘に戻ったようです。

この問題提起、大波乱といった様相でしたが、それにより論争が起こり、より深い実証研究がすすめられ、野中寺像についての研究が進展した、また白鳳期の金銅仏研究が深められたという、大きな成果があったのではないかと思います。


近年の擬古作、偽銘問題のいきさつをたどってみましたが、話のまとめ方があまりにも拙劣で、よくお判りにならなかったことと思います。
金石文解読、検証などといった分野は、ど素人も良いところで、研究論文を読んでいても、何が何だか全くわからず、参ってしまいました。
何が云いたいのか、何が論点なのか、整理できないまま、つまみ食い的にポイントを羅列しただけになってしまいましたが、何卒、ご容赦ください。

こんな問題提起、論争があったことを知っていただければ、それだけで有難く思います。



駆け足でしたが、野中寺弥勒半跏像の発見物語、その真相と背景、近年の擬古作・偽銘論争などを振り返ってきました。

このテーマ、調べれば調べるほど、ドラマチックなサスペンスやミステリーになかに身を置いているような思いに駆られます。
何やらドキドキ、心ときめくようで、「歴史探偵になったような気分」とでもいうのでしょうか?

野中寺弥勒像の姿を眺めていると、そんな発見物語や、擬古作論争などがあったことなど、知るや知らぬや、穏やかな表情を、こちらに投げかけています。
我々観るものを、やさしい雰囲気に包みこみ、親しみを与えてくれるようです。

野中寺・弥勒半跏像
野中寺・弥勒半跏像

奈良博・白鳳展では、もう一体の丙寅銘像「法隆寺献納宝物156号像」と並んで展示されていました。

法隆寺献納宝物156号・丙寅銘菩薩半跏像
法隆寺献納宝物156号・丙寅銘菩薩半跏像

こちらの丙寅銘は「606年」なのでしょうか?「666年」なのでしょうか?
皆さんは、それぞれにお考えをお持ちのことと思います。
こうして並べられると、今更ながらにいろいろと考えさせられてしまいます。

野中寺像のミステリーのような物語を振り返りながら、この二つの「丙寅銘像」を鑑賞いただければ、白鳳とはどのような時代であったのだろうかという思いも、より深まるのではないでしょうか。


トピックス~野中寺・弥勒半跏像の発見とその後・・・白鳳展に寄せて②【その1】    【2015.8.8】


今回は、大阪府羽曳野市にある野中寺の小金銅仏・弥勒半跏像発見の話です。

野中寺・弥勒半跏像

野中寺・弥勒半跏像
野中寺・弥勒菩薩半跏像


【野中寺・金銅弥勒半跏像~大正年間の新発見から今日まで~】

野中寺の弥勒半跏像は、大正7年(1918)5月に、野中寺宝蔵の塵埃の中から発見されました。
ほぼ100年も前のことです。
この発見、当時、仏教美術史の世界では、「驚きの発見」と云って良いものであったに違いありません。
発見された金銅仏が、飛鳥~白鳳時代の古代仏像であったのはもちろんです。
なんといっても最大の驚きは、その台座に、造像銘文がはっきりと刻されていたことでした。

野中寺・弥勒半跏像~台座に刻された銘文

「丙寅年」と刻された干支
野中寺弥勒像・台座に刻された銘文~「丙寅年」と干支が刻されている

その刻銘には、「丙寅」の干支が刻されていたのです。
その後の研究によって、「丙寅」年は、間違いなく天智5年(666)をさすことが明らかになりました。

野中寺弥勒半跏像は、飛鳥白鳳時代の数少ない年紀銘がある作例として、就中、天智5年(666)の制作が確定できる、極めて重要な基準作例となったのです。
天智5年(666)と云えば、所謂「白鳳」と呼ばれる時代の初頭にあたります。
これまでなかった、白鳳初期に制作年代が特定できる基準作例が発見されたのでした。

以来、野中寺像は、仏像彫刻の造形・様式が、飛鳥から白鳳に転換していく節目の典型的な作例として、必ず論じられるようになりました。
白鳳冒頭の基準作例としての認識が、長らく定着していったのです。


ところが、近年、15年ほど前、この野中寺像をめぐって、一波乱が起こりました。

なんと、この台座に刻された銘文が、「近代に刻された偽銘、追刻」なのではないかという疑いが提起されたのです。
本像の銘文が、天武持統朝頃の追刻であったのではないかという説はあったのですが、そんな次元の話ではありません。
加えて、仏像本体そのものについても、擬古作である可能性が疑われるなどといった物議をかもしたのです。

「そんな馬鹿な! 本当に本当!」と、目が点になるビックリです。

センセーショナルな問題提起で、「大正年間の大発見」そのものに、大きな疑問が呈されたのでした。

この問題については、その後、様々な論争があり、研究がすすめられました。
その結果、現在では、「銘文の偽名説、擬古作の疑い」は払拭され、従来の見解のとおり、野中寺像は「天智5年(666)の制作像と認めてよい」と、考えられているのではないかと思います。

それにしても、この野中寺弥勒半跏像、白鳳彫刻を語るうえでの、極めて重要な基準作例でありながら、大正の発見物語から、近年の偽名、擬古作の疑いなど、人騒がせというか、センセーショナルな波乱の中に身をさらしてきた仏像になりました。

そこで、この野中寺弥勒半跏像について、発見物語の色々ないきさつから、近年、物議をかもした問題に至るまで、しばらく振り返ってみたいと思います。


【白鳳の貴重な基準作例~天智5年作・野中寺弥勒半跏像】

野中寺は、大阪府羽曳野市野々上にある、真言宗の寺院です。

野中寺・山門
野中寺・山門

寺伝では、聖徳太子建立四十八寺院の一つとされ、太子の命を受けた蘇我馬子が開基とされています。
また「上之太子」叡福寺、「下之太子」大聖勝軍寺とともに、河内三太子の一つに数えられ、野中寺は「中之太子」と呼ばれています。
伝承はともかくとして、飛鳥時代創建の古代寺院であったことには間違いなく、当地が百済系渡来氏族、船史のちの船連の本拠であったから、その氏寺でのではないかとみられているようです。

境内には、今でも整然と並ぶ、古代の礎石が遺されており、塔心礎も現存していて、半円形の支柱孔を三つそなえた、花びらのような柱穴が美しい姿を顕わしています。
同じく聖徳太子創建を伝える、飛鳥・橘寺の塔心礎の柱穴と同じ形です。

野中寺の古代伽藍の建物礎石
野中寺に遺された古代伽藍の建物礎石

野中寺・塔心礎~3つの支柱孔を備えている.飛鳥・橘寺塔心礎~野中寺と同じく支柱孔がある
野中寺(左)と飛鳥橘寺(右)の塔心礎~3つの支柱孔を備えている


弥勒菩薩半跏像は、現在では毎月18日に開帳され、眼近に拝観することが出来ます。


ここで野中寺弥勒半跏像について、極々簡単に、ポイントだけ復習しておきたいと思います。

像高・18.5cmの小金銅仏で、重要文化財に指定されています。

野中寺・弥勒半跏像
野中寺・弥勒半跏像

なんといっても、この仏像が白鳳期の基準作例として語られる重要作品となったのは、その台座に刻銘が刻まれていたことによるものです。

刻されている銘文は、ご覧のとおりです。

野中寺弥勒象の台座に刻された銘文

野中寺弥勒象の台座に刻された銘文
野中寺弥勒象の台座に刻された銘文


縦に2字ずつ、31行に刻されているのですが、横書きにすると、次のように判じられるそうです。

丙寅年四月大八日癸卯開記寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時誓願之奉弥勒御像也友人数一百十八是依六道四生人等此教可相之也
(「朔」は、「旧」「洎」の異説あり。「栢」は、「柏」「橘」「楢」の異説あり。「等」は「共」の異説あり。)

この銘文の判読、解釈については、いろいろ議論のある処ですが、ここではふれないことにして、銘文から判明した最重要ポイントをあげると、次の2点です。

第1点は、
「丙寅」の刻銘があり、この年が天智5年(666)に確定できることです。
銘にある4月8日が「癸卯」にあたるのは、天智5年(666)のみで、本像の制作年が特定できる、白鳳初頭期の基準作例となったことです。

第2点は、
この半跏思惟像が「弥勒」として造像されたことが、刻銘に記されていることです。
飛鳥時代以来の半跏思惟像が、悉多太子として造られたのか、弥勒菩薩として造られたのかは、議論のある処なのですが、この時期に、半跏思惟スタイルの菩薩像が弥勒菩薩として信仰されていたことが明らかになったことです。

この2点は、仏教美術史の研究上、きわめて重要な新事実となりました。

この弥勒像は、その造形をみても、白鳳の冒頭を飾る作品として考えるのに相応しい表現をしています。
鍍金も良く残っており、双髻や三面頭飾、衣の縁の花文や連珠文などが斉随様の新様式の表現といわれています。

野中寺・弥勒半跏像~頭部
野中寺・弥勒半跏像~頭部

顔貌は、丸みを帯びて穏やかな表情で、体躯のモデリングも、胸のふくらみや背筋のへこみを抑揚ある表現で造形するなど、飛鳥時代の硬直した菩薩表現から、新たな表現への転換を感じさせるのです。

野中寺・弥勒半跏像~背面~背筋のへこみが抑揚ある表現になっている
野中寺・弥勒半跏像~背面~背筋のへこみが抑揚ある表現になっている

白雉2年(651)とされる法隆寺献納宝物165号・辛亥銘像から見ると、造形感覚の違いは、誰が見ても明らかです。

法隆寺献納宝物165号・辛亥銘観音立像(651年)
法隆寺献納宝物165号・辛亥銘観音立像(651年)

まさに、白鳳様式への新たな展開を実感させる造形になっているのです。

解説書などには、
「完全に止利派の造形感覚と決別している。」
(日本の美術NO21~飛鳥白鳳彫刻、至文堂刊)
とか、
「写実的な肉身表現や、所謂古拙の笑いが消えた面貌は、飛鳥彫刻との訣別をうかがわせる。」
(仏像集成、学生社刊)
などと述べられています。

このように、野中寺弥勒半跏像は、飛鳥様式から白鳳様式への転換を象徴する基準作例として、また当時、半跏思惟像が弥勒菩薩として造像されていたことを証する作例として、飛鳥白鳳彫刻史上、重要な位置づけにある仏像として、語られるようになっていったのです。


【野中寺弥勒像の発見物語を振り返る】

さて、この野中寺弥勒半跏像、どうのようにして発見されたのでしょうか?


〈塵芥のなかから、偶然発見された金銅仏〉

大正7年(1918)5月21日付の大阪毎日新聞に、このような記事が掲載されました。

「塵埃の中から金銅佛~河内野中寺から発見」

という見出しです。

大阪毎日新聞の野中寺弥勒象発見記事
大阪毎日新聞の野中寺弥勒象発見記事

ご覧のとおりの新聞記事ですが、その記事をここに書き出してみましょう。

「5月17日田澤、中両氏と河原古市町の西野々上の野中寺を訪ひ、塵挨にまみれつつ宝蔵内を検索したるに、蔵の一隅塵芥中から偶然にも一つの金銅佛像を見出した。

像は高さ一尺に満たないが行相から見ると疑いもない弥勒像で,八角獅子座の上に半跏趺坐した円満具足の霊像であつた。
左手を膝に右手を届めて、指頭で軽く左頬を指し、隻足を座から浮き出た八分開きの蓮座の上に軽く置いて居る。
・・・・・・・・・・・・・・
昔、橘寺から法隆寺に移して、今は帝室の御物になって居る四十八体の金銅佛像とよく似た優作で、之が今国宝にならないつた事に不思議とせなければならぬ。
更に台座の下縁には造像の切銘がある。

(ここに銘文全文が掲載されています)

其の刻銘も見事で決して新しいものでにない。
丙寅の年は何時であるか、此の像の様式から当ってみると、先ず推古十四年か天智の五年かに当たる。
或は比の銘文に就いて其の文体から疑間を挟む餘地が無いでもあるまいが、其の佛像の作に至つては所謂推古佛であることは、一点疑いがない。」

なんと、
「塵挨にまみれつつ宝蔵内を検索」したところ、「蔵の一隅塵芥中から、偶然にも一つの金銅佛像を見出した。」
というのです。

埃まみれになりながら、蔵の一隅の塵芥のから、偶々、見つけ出したというのですから、発見は全くの想定外であったのでしょう。
かけて加えて、「丙寅」と刻された銘文まであったのですから。
記者は、「丙寅」を推古14年(606)と考えたようですから、まさに、「飛鳥時代の金銅仏の大発見」にビックリ、という快挙であったということです。
記事の文章の調子からも、大発見の驚きと感動が伺えます。

記事執筆の「雍南生」というのは、大阪毎日新聞記者・岩井武俊氏のことです。
岩井氏が他の2名(田澤金吾、中幸男)と共に野中寺を訪れて、金銅仏像を発見したのですから、この記事は、大阪毎日新聞のみの特ダネとなったのでした。


〈野中寺像は飛鳥・橘寺の旧仏? 御物四十八体仏に付属の像?〉

さて、仏像発見直後、この像に対してどのような見解が出されたのでしょうか?

発見記事の1週間後の5月28日、同じ大阪毎日新聞に、喜田貞吉氏談として、「金銅弥勒像研究」という記事が載せられました。

喜田氏はこの文中で、
「銘文の4月8日が癸卯に該当するのは、天智5年(666)である」
として、弥勒像は白鳳時代の造像であると指摘しています。


2か月後の8月、金石学の木崎愛吉氏(1866~1944)は、考古学雑誌8巻20号に、「野中寺の金銅弥勒菩薩」を発表しました。
木崎氏は、刻銘にある「栢寺」を、「橘寺」と解しました。

そして、このような仮説を展開しています。

「『橘』の字、いとおぼつかなけれど、仮に爾(それ)かく読み得べしとすれば、御物四十八体仏の伝来上、又格段なる有力の資料として尊重すべきなり。

四十八体佛は最初橘寺より法隆寺に伝はり、近歳更に献納されて御物となるに至れりといふ記録上(法隆寺の写本古今一陽集)の実証を提供せるものというべく、殊に当初四十九体ありきといえるその不足の一体は、この新発見の弥勒仏を得て、何となくその件数を補へるもののように思い当るをなしとせず。」

野中寺弥勒像は、橘寺から法隆寺に伝わり、その後皇室に献納された御物48体仏に付属していたものではないか。
古今一陽集に49体あったという記述があるが、果たして、野中寺像は49体目の金銅仏ではないか、と木崎氏は考えたのでした。

飛鳥・橘寺~遠景
飛鳥・橘寺~遠景

「栢」の字を「橘」と判ずるのは、なかなか難しいとのことですが、その後、昭和40年代ぐらいまでは、この橘寺説が最有力とされてきました。
現在では、橘寺と考える見方は、あまりないのではないかと思います。

このように、野中寺弥勒半跏像の発見は、法隆寺、橘寺、そして野中寺と、「聖徳太子ゆかりの古寺と宝物」という延長線上に、イメージづけられていったようです。
発見者の岩井氏は、この発見時に
「宝蔵で大阪四天王寺縁起流記資財帳ともいうべき古写本を見出した」
という報道も行っており、「聖徳太子ゆかり」という印象が、強められたのではないかと思われます。

以上が、野中寺弥勒半跏像新発見の模様と、その直後の状況です。


〈発見物語の真相をさぐる~偶然、塵芥中からは本当か?〉

最近、野中寺弥勒半跏像の「新発見の真相」を、追求した研究が発表されました。

大阪毎日新聞記者・岩井武俊氏の金銅仏の発見は、
「塵芥のから、偶々、見つけ出した」
などという、偶然の発見物語ではなくて、作為的に計算された発見報道ではなかったかというものです。
野中寺弥勒像の発見報道の背景を検証すると、ある意図をもって、このタイミングで、作為的に発見記事が報じられたのだというのです。

早稲田大学の竹田慈子氏による研究で、
「野中寺弥勒半跏像発見報道について」と題して、奈良美術研究第15号(2014.3 )に掲載されています。
ミステリーの謎解きものをみているようで、惹き込まれるように一気に読んでしまいました。
詳しくは、この論文を読んでいただくとして、そのエッセンスをご紹介しておきます。


まずは、「偶然に、塵芥のから、見つけ出したというのは、本当なのか?」という話です。

竹田慈子氏は、
野中寺側(住職)が、この金銅仏像の存在を認識していなかったということが、考えられず、大阪毎日新聞記者・岩井武俊氏は、それ以前よりこの金銅仏像の存在を知っていて、大正7年(1918)5月に野中寺を訪れたとき、初めて発見したように装って、センセーショナルな記事にしたのではないか?
と推測しています。

この点については、野中寺像発見後に、金石学の木崎愛吉氏が発表した論文、「野中寺の金銅彊勒菩薩」の文中に、このような記述があるのです。

「予は超えて二十四日、同寺に就きてこの像を観、その造像記の刻文を手拓するを得たり。
住職耕野覚龍師は、この像、古来黄金の秘佛と称し、特に貴重の宝像として、庫中に保存されありしよしを語り、叉先年一たび新納忠之介氏の鑑識を経たることありしと云えり。」

木崎氏は、野中寺像発見新聞報道の3日後に、野中寺を訪れた処、住職は、新発見といわれる金銅仏は、特に貴重な仏像として保存し、奈良の美術院の新納忠之介に鑑識をしてもらったことがあると話しているのです。

岩井氏が、新聞記事に
「蔵の一隅塵芥中から偶然にも一つの金銅佛像を見出した。」
と書いているのと大違いで、そのようには考えられないのです。
新聞記事の表現には、随分違和感があります。
岩井氏は、野中寺に、世に広く知られていない古代の小金銅仏像が蔵されているのを、以前から知っていたのだろうと想像されるのです。


〈野中寺像発見は、何故か「聖徳太子御忌奉賛会」発会と同タイミング〉

岩井氏は、いずれの時にか、野中寺宝蔵に金銅仏像が蔵されているのを知っていたのでしょう。

実は、江戸後期、享和元年(1801)に刊行された「河内名所図会」の野中寺の条に、

「経蔵  又弥勒佛金像を安置す。これは聖徳太子悲母追福の為に鋳させられし霊尊也」

と記されているのです。

「河内名所図会」の野中寺の条「河内名所図会」の野中寺の条・詞書
「河内名所図会」の野中寺の条~詞書の経蔵のところに「弥勒金仏」についての記述がある

岩井氏は、「河内名所図会」にある「聖徳太子悲母追福の為という、弥勒佛金像」が、宝蔵に保管されている小金銅仏像だと考えたのでしょう。


それでは、どうして大正7年(1918)5月下旬に、わざわざ専門家2人を伴って、野中寺を訪れたのでしょうか?
岩井氏は、
「この大正7年5月のタイミングを狙って、聖徳太子ゆかりの金銅仏像の新発見という記事を発表したかったのだ」
竹田慈子氏は、このように想像しています。

なぜ、このタイミングであったかというと、「聖徳太子一千三百年御忌奉賛会」設立の日程に合わせたようなのです。
聖徳太子一千三百年御忌奉賛会というのは、法隆寺において古例に準じて聖霊会を修し、叡福寺においては追遠の御式を行なうために組織されたものです。
この奉賛会は、大正7年5月25日に発会式が催されており、5月17日にその旨の新聞報道がされています。
野中寺弥勒半跏像発見の特ダネ記事が大阪毎日新聞に掲載されたのは、5月21日です。
まさに、絶妙にタイミングです。

大阪毎日新聞は、「聖徳太子一千三百年御忌奉賛会」に協力しています。
岩井氏は、聖徳太子の御忌奉賛会を盛り上げ、これに寄与するため、「聖徳太子ゆかりの金銅仏像新発見」の記事を、このタイミングで掲載すべく、野中寺を訪れたと考えられるというものです。

こうした聖徳太子奉賛盛り上げの意図があったことは、発見2か月後に刊行されている雑誌「歴史と地理・聖徳太子号」(第2巻1号)の目次をみると、

「聖徳大手千三百年御忌と奉賛会設立………太子に関する種々の遺物発見(金銅仏と四天王寺縁起)」

という項立てがされ、
「野中寺金銅仏像発見」「喜田貞吉談・金銅弥勒像研究」「野中寺から四天王寺縁起発見」
という3本の大阪毎日新聞報道記事が再掲されていることからも伺えます。

「歴史と地理・聖徳太子号」(第2巻1号)の目次「歴史と地理・聖徳太子号」(第2巻1号)の目次
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左から二番目・「彙報」に「聖徳大手千三百年御忌と奉賛会設立………
太子に関する種々の遺物発見(金銅仏と四天王寺縁起)」の項立てがある


野中寺弥勒仏像の発見報道の背景には、このような事情があったようです。
ただ、真相がいずれであったとしても、これまで世に知られることが無かった、白鳳の金銅仏像が見出されたというのは、大きな発見であったのは事実でした。

ちょっとばかり、細か過ぎることにこだわってしまったのかも知れません。
「どうでもいいような事をほじくりかえしても、仕方ないじゃないか」と感じられたのではないでしょうか?
今でも、文化財の新発見などが、あるタイミングを狙って記者発表されるなどということは、よくあるように思います。

しかしながら、野中寺金銅弥勒仏像の発見が、「聖徳太子御忌奉賛会」設立タイミングと併せられ、野中寺の縁起と共に「聖徳太子ゆかりの金銅仏」としての盛り上げが図られたことにより、この金銅仏像が橘寺伝来の仏像であるとか、御物48体仏との関連が想定されるなどといった効果をもたらした側面があったのではないでしょうか?

銘文の「栢寺」を、「橘寺」と解する見方が、長らく最有力の説であったのも、また事実でした。


野中寺仏像発見物語とその真相をたどる話は、これぐらいにしておきたいと思います。


【その2】では、近年、問題提起された、野中寺像の銘文、制作年代への疑問と、それをめぐる論争、研究などを振り返って、ご紹介していきたいと思います。


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