観仏日々帖

古仏探訪~京都府精華町・常念寺の菩薩立像 【その2】  【2014.7.12】


ここからは、「神仏習合と常念寺菩薩立像」についての話です。

常念寺・菩薩形立像
常念寺・菩薩立像

この菩薩立像は、祝園神社の神宮寺であった薬師寺から、神仏分離の運動の中で、常念寺に移坐されてきた像であることは、【その1】でふれたとおりです。

明治11年(1878)のことでした。
祝園神社の有力氏子の人物が、常念寺の檀徒でもあったことから、常念寺で預かることになったということです。

祝園神社
祝園神社

祝園神社・神宮寺の本尊であったであろう、この菩薩形像。
その姿からだけでは尊名がはっきりしないのですが、いかなる尊像として祀られてきたのでしょうか?

実は、「薬師菩薩」という尊名の、神仏習合像として祀られていたようなのです。

「薬師菩薩??」

聞いたこともないような呼び方です。

「薬師」なのに、何故「菩薩」なのか?
「薬師は如来でしょう!」
と言いたくなります。
如来の尊格しかありえない筈です。


しかし、「薬師像」、すなわち「菩薩形の薬師像」として、祝園神社の神宮寺・薬師寺に祀られて来たのは、間違いないようです。

その証拠とも云えるのは、本像が安置される堂内には、薬師の眷属である十二神将像(江戸時代)が祀られていることや、薬壺を持つ江戸時代の左手先が、遺されていることです。
この薬壺を持つ手先は、昭和25年の修理時に、新しく後補された現在の左手先に変えられています。

常念寺・菩薩形立像の脇に祀られる十二神将像
常念寺・菩薩形立像の脇に祀られる十二神将像

昭和修理前につけられていた薬壺を持つ左手先(江戸時代)
昭和修理前につけられていた薬壺を持つ左手先・江戸時代
(この写真は「ブログ・然るを訊く」から転載させていただきました)



そうはいっても「菩薩形の薬師像」というものは、本当に存在したのでしょうか?

実は、古文献に「菩薩形の薬師像」が造られていたという記録が残されています。
六国史の第五「文徳実録」の天安元年(857)年の条に、

「在常陸国大洗磯前・酒列磯前両神、号薬師菩薩明神」

とあって、この両神が「薬師菩薩明神」と号されているのです。

神仏習合思想の初期においては、「神」には「菩薩」の尊格が与えられているようです。
こうしたなかで、平安前期には、薬師菩薩という神の概念が生まれてきたということのようです。

常念寺・菩薩形像は、神仏習合思想による、「薬師菩薩像のきわめて貴重な遺例」と考えられている訳です。

そうだとすると、この菩薩形像は、祝園神社・祝園神を化体する

「神像」すなわち「「薬師菩薩明神像」

であったのだ、ということになるのです。


こうした薬師菩薩という観念で造られた神仏習合像としては、

太秦・広隆寺の吉祥薬師と呼ばれる薬師如来像、
京八幡・薬薗寺の薬師如来像

が知られていますが、これらの像は吉祥天に似た天部形の姿をしています。

広隆寺・吉祥薬師像..京八幡薬薗寺・薬師如来像
広隆寺・勅封薬師像         京八幡薬薗寺・薬師如来像

祝園神社伝来の常念寺・菩薩形像は、これらの像と違って、「普通の仏菩薩の姿を顕した薬師菩薩像」ですが、この姿の遺例は他にはなく、唯一のものだということです。

神仏習合思想史、神像彫刻史を語るうえでは、誠に貴重で、興味深い像だということなのです。


伊東史朗氏は、祝園神が平安前期に遡るものであること、常念寺像がその神仏習合像とみられることの歴史的根拠を、このように述べています。

「『新抄格勅符抄』には、大同元(806)年、祝園神の封戸を認定する文書を収録しており、平安時代の初頭にはこの神社が存在していたことは明らかである。

その後貞観元(859)年5月、京畿七道の諸神267社に進階および新叙が授けられた際、祝園神も従五位上に進んだ。

本像の古風な表現は、平安時代前期(9世紀)をくだるものではないことを示すので、製作の時期は、従五位上に進階した貞観元年ごろが、可能性として考えられよう。」
(精華町史~古代中世の仏教美術・精華町史本文編所収1996年)


【その1】では、この像のことを、「菩薩像」とか「仏像」とか呼んできました。
しかし、造像時の本来の造像意図に則って呼ぶとすれば、神仏習合による「神像彫刻」とか「薬師菩薩像」と呼ぶべき、ということになるのでしょうか?

常念寺・菩薩形立像
常念寺・菩薩形立像
「仏力を以て神威を増す」薬師菩薩神像であったのだろうか


この像が、9世紀に神像として造られたのだとすれば、

「凛とした男らしさ」とか「堂々たる雄渾さ」

といった造形表現も、十分納得できるように思えてきました。

「仏力を以て神威を増す」

という神の願いを体現した、造形表現のあらわれとも云えそうです。


さて、このような「仏様」の姿をした像が、本当に「神像」なのでしょうか?

「神像」と言えば、奈良・薬師寺の八幡三神坐像や嵐山・松尾大社の三神坐像などのような姿をした像のことを言うのではないでしょうか?
常念寺の菩薩像は、どう見ても仏様の姿をしているように思えます。

薬師寺・三神像~僧形八幡神像

薬師寺・三神像~仲津姫命像(向かって左)...薬師寺・三神像~神功皇后(向かって右)
薬師寺・三神像~真中・僧形八幡神像、向かって左・仲津姫命像、向かって右・神功皇后像


松尾大社・神像~男神像

松尾大社・神像~男神像...松尾大社・神像~女神像
松尾大社・神像~真中・男神像、向かって左・男神像、向かって右・女神像

従来語られてきた神像の考え方からすれば、常念寺の菩薩像などを神像と考えるかどうかも、まだまだ異論があるのかもしれません。

神像彫刻というものの概念につては、いまだにしっかり確立したものがないようですが、
近年は、神像の概念を、僧形八幡神や俗体の姿の像よりも広げて、地蔵菩薩のような僧形、吉祥天のような天部形をした像のなかにも、数多くの神像が含まれているのではないかという考え方が、強まってきているようです。

「神像とは、どのような像のことを云うのか?」

これまで、どのように考えられてきたのでしょうか?

私は、神像のことや、神仏習合といったことは勉強不足で、全くもって良く判りません。
たどたどしく、おぼろげながらという処ですが、ちょっと振り返ってみたいと思います。


神像彫刻の研究については、ご神体の神像の多くが厳重に秘され、拝することが難しいことから、あまり深く考究されることが少なかったようです。
所説の発表も、多くはありません。

戦前、渡辺一氏が「神像彫刻」(日本美術大系2巻・1916誠文堂新光社刊)という所論で、このように述べています。

・神像は、平安時代初期に神仏習合思想を背景に出現した。

・神像は、仏像の手法で制作されたが、面貌表現において仏像との差異化を目指している。

・平安後期になると、形態・彫法が簡素になり、脚部を省略する素朴な像も出現する。

この頃、初期の神像とされていたものは、
松尾大社三神像、薬師寺八幡三神像、石清水八幡神像(1945焼失)、熊野速玉大社諸神像など
です。

戦後になって、東寺・八幡三神像が発見され、これに加わります。

ご覧のとおり、僧形の八幡神像か、俗体の衣装・装束の姿の像のことを、神像としています。
一般常識的な「神像」のイメージだといえます。
仏像の姿のイメージとは、全く異なっています。
渡辺氏も、
「神像は、仏像との差異化を目指してる。」
と論じています。


こうした神像出現の時期や、神像の概念を、大きく覆すような新説が、戦後、昭和30年代に発表されました。
長らく奈良博物館に籍を置いた岡直己氏の説です。
氏の博士論文「神像彫刻の研究」(1966角川書店刊)におさめられています。

岡直己著「神像彫刻の研究」


岡氏はこの中で「僧形神像考」「薬師菩薩神社の神体考」という、ユニークな論文を発表しました。

思い切って、端折って説明しますと、次のようなものです。

【その1「僧形神像考」】

・従来、平安前期の地蔵菩薩像とされてきた像のうち、以下の像は、地蔵菩薩ではなく「僧形の神像」であると考えられる。

・その由緒、表現などから神像と考えられるのは、橘寺・伝日羅像、融念寺・地蔵菩薩像、法隆寺・地蔵菩薩像(大御輪神社伝来)である。
(弘仁寺・明星菩薩像、当麻寺・伝明幢菩薩像も対象候補者群に入る)

・8世紀の神像の一形態としては、僧形八幡神像以外にも、このような立像の僧形神像があり、神像発生期には、地蔵菩薩のような仏像の形式をとる神像が存在した。


橘寺・伝日羅像...融念寺・地蔵菩薩像
橘寺・伝日羅像           融念寺・地蔵菩薩像

法隆寺・地蔵菩薩像(大御輪寺伝来)
法隆寺・地蔵菩薩像(大御輪寺伝来)

弘仁寺・明星菩薩像...当麻寺・伝明幢菩薩像
弘仁寺・明星菩薩像           当麻寺・伝明幢菩薩像


【その2「薬師菩薩神社の神体考」】

・初期神像の形態として、菩薩形の(薬師菩薩という)像が存在した。

・太秦・広隆寺に残る2体の薬師像、即ち「勅封薬師像」「祖師堂薬師像」と呼ばれる天部のような菩薩形像や、京八幡・薬薗寺の吉祥薬師と呼ばれる「薬師如来像」がこれにあたる。

・広隆寺像は、乙訓社・向日明神の神像であったと考えられ、薬薗寺像は、石清水八幡関係の像と考えられる。

・ここでいう「薬師」とは、大乗仏教の云う薬師如来を意味するのではなく、現世の医薬的霊験あるという意味に解される。

・こうした神仏習合による神像造立の思想は、古文献(先に挙げた六国史の第五『文徳実録』の例等々)に見られるとおりである。


広隆寺・祖師堂薬師像...広隆寺・勅封薬師像
広隆寺・祖師堂薬師像          広隆寺・勅封薬師像

薬薗寺・薬師如来像
薬薗寺・薬師如来像

大胆に端折りましたが、以上のようなものです。

平安初期における神像の発生形態として、従来のイメージの神像に加えてというか、それらの先行形態として、地蔵菩薩形や、天部形・菩薩形をした仏像のような神像の存在を想定したのです。


この説は、初期神像の発生について、大きな一石を投ずるものであったようですが、即座に支持を得るということもなかったようです

井上正氏は、この新説について、このように回想しています。

「同氏が行った提言は、いずれも当時の常識を大きく超える大胆な所説で、その魅力ある内容にもかかわらず、学界に賛否の論を巻きおこすことなく、時には奇説のような扱いを受けて今日におよんだ。」
(神仏習合の精神と造形「図説日本の仏教第6巻」所収1988年)

当時は、「地蔵菩薩形や、天部形・菩薩形の神像」という発想は、突飛で大胆に過ぎたのかもしれません。
橘寺・伝日羅像や融念寺・地蔵菩薩像、法隆寺・地蔵菩薩像などが「僧形神像」だといわれただけでも、

「エッ!!あの地蔵菩薩が、神像?」
「お寺でも、展覧会でも、地蔵菩薩と書いてあるじゃないか!」

と思ってしまう処です。


岡氏の説が発表されてから20余年の後、井上正氏は、岡氏の説を継承し、もっと大胆な神像論を展開しました。

井上氏は、「神仏習合の精神と造形」(「図説日本の仏教第6巻」所収1988年)という著作で、神像というものをこれまでにない新たな視点でとらえ直すべきとし、次のように提唱しました。

・神仏習合像は神像、僧形神像、菩薩・天部形神像のみではなく、通形の仏像形式のものも、幅広く加えられるものが存在する

・神仏習合の原初的発生経緯をたどってみれば、岡氏の主張する諸像のほかにも、
兵庫・満願寺天部形像、大阪・勝尾寺天部形男神像、京都・常念寺菩薩像、
福島・勝常寺天部形像、奈良・定林寺僧形像、奈良・正覚院僧形像、
京都・神応寺伝行教律師像、神奈川・箱根万巻神社万巻上人像
なども、皆、神像と考えられる

というものです。

兵庫・満願寺天部形像..奈良・定林寺僧形像
兵庫・満願寺・天部形像          奈良・定林寺・僧形像

神奈川・箱根万巻神社万巻上人像
神奈川・箱根神社・万巻上人像

京都・神応寺伝行教律師像
京都・神応寺・伝行教律師像

井上氏は、「霊木化現像」というかねてからの所論と、神仏習合という問題を融合させてとらえて、古式の木彫像は神仏習合思想によって造られたもので、その制作は行基によって行われたとしています。

これらの造像を、「下からの神仏習合」と位置づけ、宇佐八幡のような「国家による神仏習合」が進められる先駆けをなしたものとしています。
したがって、登場する諸像の制作年代は、皆8世紀に遡るという、井上氏流の結論となっています。

井上氏の言う、行基伝承とか、制作時期を8世紀に遡らせるという話は、ちょっと別においておくとして、
このように神像の概念を幅広く考えるという見方は、近年、段々と市民権を得はじめているのではないかと思います。


ちょうど10年前(2004)、「神像の美」と題する、別冊太陽のムック本が発刊されました。
紺野敏文氏の監修で、神像の美しいカラー写真が満載されています。

別冊太陽「神像の美」


ここに掲載されている諸像を見ると、「神像」というイメージが一変してしまうような、アッ!と驚くラインアップです。
神像の概念を広角でとらえたものです。

いわゆる一般イメージの神像のほかに、岡直己氏、井上正氏が、神像と考えた、
「僧形諸像、菩薩天部形諸像」
が全部掲載されています。

そのほかにも、
大阪貝塚・孝恩寺・難陀龍王像・跋難陀龍王像、
福岡・浮嶽神社・地蔵像・薬師像、
三重・金剛証寺・雨宝童子像
なども、神像の一形態として掲載されています。

大阪貝塚・孝恩寺・難陀龍王像
大阪貝塚・孝恩寺・難陀龍王像

福岡・浮嶽神社・薬師像
福岡・浮嶽神社・薬師像


ちょっと冗長で退屈な話が、続いてしまいました。

これまでの初期神像発生についての所説を振り返ると、神仏習合思想による造像、神像というものを考えるとき、結構、広角で多面的な視点で「カミとホトケとの関係」を見ていくことも必要なのだろうと、今更ながら思った次第です。


常念寺の菩薩像が「薬師菩薩」なのか?
神仏習合による神像なのか?

そんなことを考えているうちに、初期の神像の色々な有様に、眼を拡げてみることができました。


神仏習合の初期においては、神には菩薩の尊格が充てられたようで、「神」と「菩薩」は、切っても切れないもので一体化していきます。

八幡神は8世紀末頃には「大菩薩」と呼ばれたことが知られていますし、八幡神を「護国霊験威力神通大菩薩」と呼ばれていたという史料もあるそうです。
多度神宮寺の伽藍縁起資財帳(801)には「多度神の多度大菩薩像」という記録も残されています。

そういえば、今でも

「南無八幡大菩薩」

と唱えるなどというのを、耳にすることがあります。

こんなことをつらつら考えていると、常念寺像のような姿の「薬師菩薩像」が、もっと遺されていても良いんじゃないか?
という気がしてきました。


これまで、三度も常念寺を訪れて、菩薩像を拝してきましたが、

「薬師菩薩という神像」

ということについて、深く考えて拝したことはありませんでした。

にわか勉強の「神仏習合像と薬師菩薩」の話でしたが、
綴り終えて、また新たな気持ち、新たな眼で、もう一度、この菩薩像を拝しに、常念寺を訪れたくなってしまいました。

古仏探訪~京都府精華町・常念寺の菩薩立像 【その1】  【2014.7.4】


前回は、南山城の和束町薬師寺・薬師如来坐像をご紹介しました。

南山城の仏像を採り上げたついで、というのも如何かと思うのですが、この地に遺る「かくれた仏像」をご紹介したいと思います。

先般、京都国立博物館で「南山城の古寺巡礼展」が開催されました。
禅定寺の十一面観音立像、寿宝寺の千手観音立像など数多くの仏像が出展されましたが、
「この展覧会なら、是非とも出展して欲しかった」
と思う、南山城の魅力ある仏像がいくつかありました。

和束町薬師寺像もその一つで、その姿を見られなかったのは残念でした。

出展されなかった仏像で、私が大変魅力を感じている仏像を、ここで1~2ご紹介しておきたいと思います。


精華町・祝園にある常念寺の菩薩立像をご紹介します。

写真をご覧ください。

常念寺・菩薩立像

常念寺・菩薩立像~顔部
常念寺・菩薩立像

一目見ただけで、平安前期の一木彫の優れた像であるのは、一目瞭然だと思います。

この仏像は、素晴らしい像ですので、もう拝されたことのある方も多いのかと思います。
その割に、意外と知られていないのは、展覧会などに出展されることが無いからではないかと思います。
私の記憶では、この菩薩像が、博物館などに展示されたことは、一度も無いように思います。

今更ご紹介ということでもないのかもしれませんが、私の大変お気に入りの仏像ですし、また神仏習合に由来する像として興味深い像でもあり、採り上げてみたいと思います。


この像の祀られる、常念寺は、京都市精華町大字祝園という処にあります。
「祝園」は「ほうぞの」と読みます。

常念寺・門前
常念寺・門前

京都の南部、あと3キロも南に行けば奈良県、奈良駅までも5~6キロという場所です。
最寄駅は、JR・祝園、近鉄・新祝園駅で、駅から東へ歩いて7~8分の古い集落の一角にあります。
もう少し東へ歩くと、すぐそこに木津川が流れています。

この菩薩像は、常念寺の境内に在る、薬師堂という小さなお堂に祀られています。

常念寺・薬師堂
常念寺・薬師堂

常念寺のご本尊は、阿弥陀如来像(江戸時代)で、この菩薩像は客仏です。

事前にご連絡を入れて、拝観のお願いをすると、ご都合がつけばいつでも拝することができます。
私も、三度ほどお伺いしましたが、いずれも快く拝観のご了解をいただきました。
薬師堂の扉を開いて、なかへ入れていただき、菩薩像を間近に拝することができます。

この像は概要は、解説書などによると、次の通りです。

「像高:170.5㎝、ケヤキ材、一木造。
木心を体部右前に籠め、両手首まで共木で彫出する。
背面の上半身、下半身の各内刳りを入れ、背板を当てる。」
(仏像集成・解説)

昭和24年(1949)に旧国宝に指定され、現在、重要文化財となっています。


この像を初めて拝したのは10年ほど前のことです。
その姿を見たとき、
「オゥー!!」
と、思わず声を上げてしまいそうになりました。

常念寺・菩薩立像
常念寺・菩薩立像

堂々たる立派なお姿に、見惚れてしまいました。
見事な出来です。
当代一流のレベルの高い作品です。

平安前期の一木彫ですが、強烈な厳しさとか、激しいオーラを発散しているというのではありません。
衣文の彫口などを観ても、深く鋭く抉ったようなものではなく、やや浅めの粘りのある彫口です。
しかし、大変腕の立つ丁見事な彫技によるものであることは、間違いありません。
ある意味、丁寧な彫りで整った感じがするとも言えそうです。

平安初期特有の気迫勝負、迫力勝負の仏像という感じはしないのですが、ハイレベルな造形力で静かに迫ってくる像という感じです。


菩薩像の正面に立って、そのお姿をじっくり拝してみました。

堂々としているのです。
菩薩形の像なのですが「凛とした男の強さ」を感じるのです。
「堂々と雄々しい」とか、「雄渾なる精神」といったような修飾語が当たっているように思えます。

菩薩形の像では、聖林寺の十一面観音にも結構「男」を感じるのですが、この常念寺の菩薩像にも「男」を感じてしまいます。

とりわけ魅力的なのは、お顔の造形です。
連眉で鼻筋の通った目鼻立ちは、キリリと引き締まった緊張感を感じさせます。

常念寺・菩薩立像~キリリと引き締まった面貌
常念寺・菩薩立像~キリリと引き締まった緊張感あふれる面貌

鋭く反転した唇の表現は、驚くほどシャープで、強い意志力を秘めているようです。
「静かなる厳しさ」「凛々しさ」を際立たせて、魅力的です。

常念寺・菩薩立像~鋭く反転した唇の表現
常念寺・菩薩立像~凛々しさを際立たせる鋭く反転した唇の表現

私は、この菩薩像が大変好きになってしまいました。

「凛として、静かなる雄渾さ」

を感じさせる見事な造形に、思わず惹き込まれてしまいます。

そして、その後、飽きもせずに三度も拝しに訪れてしまいました。


この菩薩像の造形について、専門家はこのように解説されています。

中野玄三氏の解説です。
常念寺・菩薩立像~臂釧
常念寺・菩薩立像~彫り出された臂釧

「両眉を連ねる連眉といわれる形、部厚く突き出た唇、瞑想的な細い目など、表情は重々しく神秘的で、
右足を少し浮かし、腰を左にひねって立つ姿は堂々としており、
両膝の前に複雑に交叉する天衣を彫り出している点にも特色がある。」
(「木津川流域の薬師悔過とその仏像」国華1348号2008年)

伊東史朗氏は、

「いかり肩で堂々と立つ姿は雄偉であり、体に密着しながら細かに揺れる着衣には粘りある刀法を感じさせる。

高い宝冠、連なる眉、小さめの臂釧、W字状に絡む天衣などの形式も極めて古様である。
類品の少ない特異な像で、平安時代初期を降らない優品といえる。」
(日本古寺美術全集15~平等院と南山城の古寺~解説1980年)

と述べ、貞観元年(859)頃の制作年代を想定されています。

常念寺・菩薩立像~身体に密着した粘りある衣文表現
常念寺・菩薩立像~身体に密着した粘りある衣文表現
W字状に絡む天衣表現は珍しく、茨城楽法寺・雨引観音像、
山形宝積院・十一面観音像に類例があります



一方、岩佐光晴氏は、

「観心寺の観音菩薩立像と同様に高い円筒形の宝冠を戴く姿に表されるが、翻波をまじえた衣文の彫りは浅く整えられ、制作時期は観心寺像よりも遅れ、10世紀の初め頃と考えられる。」
(至文堂刊・日本の美術457巻「平安時代前期の彫刻」2004年)

と述べ、少々制作時期を下げて考えられているようです。

いずれにせよ、平安前半期の大変古様な表現の像です。
堂々として雄偉、雄渾な空気感が漂う優作であることには間違いありません。


ついでながら、用材については、私が調べた文献では皆「ケヤキ」材と書かれていました。
唯一、井上正一氏は「像は八世紀の造立と思われ、唐栴檀による代用檀像」とされています。
ケヤキと唐栴檀とどう違うのか、私には良く判りません。
近づいて木肌を見ると、堅木の広葉樹材であることは、間違いありません。


ところで、この菩薩像は、お顔が「連眉」で表わされているのが、特徴といえます。

連眉というのは、左右の眉が真ん中で連なっていることを云います。
日本の仏像には、連眉の表現の像はあまり見られません。
常念寺・菩薩像は、この連眉の表現が、キリリと締まった印象を与え、凛としたお顔になっているのだと思います。

常念寺・菩薩立像~連眉表現の顔

常念寺・菩薩立像~連眉表現の顔
常念寺・菩薩立像~連眉表現の面相


連眉の仏像について、ちょっと見てみたいと思います。

連眉の表現というのは、インドや中央アジアの民族に見られる顔の相で、インドではごく普通にみられるようです。
最も有名なのは、アジャンタ石窟・第1窟の蓮華手菩薩像壁画でしょう。

アジャンタ石窟第1窟・蓮華手菩薩像壁画(5~6世紀)...マトゥラー石仏釈迦像(グプタ朝時代・5世紀)
アジャンタ石窟・蓮華手菩薩(5~6世紀)      マトゥラー釈迦像(グプタ朝時代・5世紀)

この連眉表現が、遠く日本まで伝わってきたのです。


我が国の仏像で、「連眉の仏像」には、他にどのような像があるのでしょうか?
結構、少ないようです。

安藤佳香氏によれば、連眉表現の作例として、次のような像が挙げられています。
このほかにも作例があるのかどうかは、私には良く判りません。

連眉表現の仏像の作例

これら連眉表現の仏像の写真をご覧ください。

法隆寺・銅像観音立像(白鳳時代)
法隆寺・銅像観音立像(白鳳時代)

勝尾寺・薬師三尊像中尊(平安前期)
勝尾寺・薬師三尊像中尊(平安前期)

護国寺(紀三井寺)・千手観音立像(平安前期)
護国寺(紀三井寺)・千手観音立像(平安前期)

長谷寺・十一面観音立像(平安前期)
長谷寺・十一面観音立像(平安前期)

二上観音堂・十一面観音立像(平安前期)
二上観音堂・十一面観音立像(平安前期)

慈尊院・弥勒仏坐像(寛平4年・892)
慈尊院・弥勒仏坐像(寛平4年・892)

奈良国立博物館・如意輪観音坐像(9~10世紀)
奈良国立博物館・如意輪観音坐像(9~10世紀)

温泉寺・十一面観音立像(平安中期)
温泉寺・十一面観音立像(平安中期)

長源寺・薬師如来立像(平安中期)
長源寺・薬師如来立像(平安中期)

こうしてみると、連眉の像は、作例は多くないものの、その造形表現は、結構バラエティーに富んでいるようです。

総じていえば、連眉表現は、

「エキゾチックでキリリと締まりのある顔の表現」

といえそうですが、いずれの像も、単なるインド風のエキゾチックな顔の表現というのではないようです。

勝尾寺・薬師三尊像や、護国院・十一面観音像などは、「厳しく恐ろしい威相」を表わしています。

一方、慈尊院・弥勒坐像、二上観音堂・十一面観音像などは「インド風のエキゾチックさ」が強調されているようです。

また、長谷寺・十一面観音像や奈良博・如意輪観音像などは、エキゾチックさを漂わせながらも、連眉の表現が、「目鼻の筋の通った締りのある面貌表現」を際立たせているように思います・
常念寺の菩薩像も、こちらのタイプのように感じます。

連眉表現の作例が、どのような意図や系譜の中で造られたのかは、なかなか一律に律しきれないように感じます。

勝尾寺・薬師三尊像~中尊・薬種如来像
勝尾寺・薬師三尊像~中尊・薬種如来像
安藤佳香氏は、勝尾寺・薬師三尊像や、護国院・十一面観音像などの、エキゾチックとかけ離れた、恐ろしげな「威相の連眉表現」は、

「連眉形式がその本来の意味を離れ、
インド・西域における「常相」から、
極東においては異国人の相として「異相」となり、
さらに「威相」へと進む価値の転化が認められ、
拝する者にあたかも眉根を寄せた忿怒相のように感じさせる効果をもたらしている。」
(「勝尾寺薬師三尊像考」仏教芸術163号1985年)

と、述べられています。

連眉表現の仏像を取り上げ、その明確な特性や系譜を知ることができるかと思いましたが、
「何やらどっちもつかずで、はっきりしない」
という感じになってしまいました。

ただ、
「我が国の連眉表現の仏像の作例を、ひと通り見て比較してみる」

といった意味はあったのではないかと思います。
ご容赦ください。


常念寺・菩薩立像の話に戻りたいと思います。

「凛と雄渾な、堂々たる菩薩像」

それだけでも、平安前期の一木彫の優作として、素晴らしき魅力あふれる必見仏像だと思うのですが、
この菩薩像、もう一つ大変興味津々の、珍しい彫像として知られています。

それは、この菩薩像の、来歴に関わる話です。
冒頭に、
「常念寺の客仏として祀られている」
と記しましたが、この菩薩像が常念寺に移されてきたのは、明治11年(1878)のことです。

ご想像のとおり、神仏分離、廃仏毀釈の嵐の中の出来事です。
近くの祝園神社の神宮寺であった薬師寺から、縁のあった常念寺に移されて預かることになったということだそうです。

薬師堂に安置された常念寺・菩薩立像
薬師堂に安置された常念寺・菩薩立像

「そもそもこの菩薩形像、どういう尊名の菩薩像なのだろうか?」

「神社でどのような像として造られ、どのように祀られていたのだろうか?」

そんな疑問が、思い浮かんできます。

専門家によると、この像は、

「神仏習合思想の中で、珍しい彫像として注目される像」

だということです。

興味深いものを感じます。


そのあたりの、「神仏習合と常念寺菩薩立像」についての話は、【その2】で見ていきたいと思います。

古仏探訪~京都府相楽郡和束町・薬師寺の薬師如来坐像【その2】  【2014.6.21】


南山城の和束町薬師寺の薬師如来像を拝してから、もう10年近くも経ちました。


この仏像のことも、もう忘れかけていたのですが、つい最近、京都国立博物館で開催中の「南山城の古寺巡礼展」を見に出かけた処、和束町薬師寺のことを思い出させてくれる像に出会ったのです。

「南山城の古寺巡礼展」の目玉の出展は、禅定寺の十一面観音立像、寿宝寺の千手観音立像、浄瑠璃寺の四天王中の多聞天像あたりという処でしょうか。
ほかにも、多くの南山城の仏像が出展されていました。

その出展仏像の一つに、蟹満寺の阿弥陀如来坐像がありました。

蟹満寺・阿弥陀如来坐像
蟹満寺・阿弥陀如来坐像

像高31.5㎝の小さな像で、目立たない感じで展示されていましたが、私にとっては注目仏像でありました。
和束町薬師寺の薬師如来坐像によく似ているのです。
和束町像の半分ぐらいの、小さな木彫漆箔像です。

図録の解説文には、大変興味深いことが書かれています。
ご紹介します。

蟹満寺・阿弥陀如来坐像
蟹満寺・阿弥陀如来坐像
「近年再興なった蟹満寺の本堂で、巨大な国宝の金銅釈迦如来坐像の斜め後方の檀上に安置される小像で、寺では阿弥陀如来と伝える。
伝来が不詳なのは残念だが、小像でありながらも量感あふれる力強い像の姿などから、平安初期の9世紀にさかのぼると考えられる像である。

乾漆を一部に用いて整形している点など、奈良時代の名残がある。
足先までしっかりと衣でくるむ点は、本像の大きな特徴の一つだが、よく似た姿の像が和束町の薬師寺にも伝来しており、そちらは薬師如来である。

・・・・・・・・

おそらくは、奈良時代に制作され両像が手本とした像が存在したものか、とも想像される。
後世のことではあるが、鎌倉時代の慶派仏師が足先まで衣で包んだ姿の薬師如来をしばしば造立している。

現在では失われたものの、中世頃までは同様の姿の著名な薬師如来が、いずこかに伝来していたのではなかろうか。」

京博の淺湫毅(アサヌマタケシ)氏の解説です。

和束町薬師寺像ほど、天平の乾漆造り像そのものに見紛うほどの表現とまでは言えませんが、奈良風の雰囲気を強く持った像で、この解説の通りです。

淺湫氏は、

足先までしっかりと衣でくるんだ姿の、奈良時代に制作され両像が手本とした像が存在したのではないか?

との、興味深い想像をされています。

和束町薬師寺・薬師坐像の脚部~足先を衣でくるんでいる
和束町薬師寺・薬師坐像の脚部~足先を衣でくるんでいる

足先を衣でくるんだ9世紀以前の古像といえば、皆さんご存知の通り、唐招提寺の廬舎那仏坐像が有名です。
天平時代を代表する、脱活乾漆像です。

唐招提寺・盧舎那仏坐像(脱活乾漆像)

唐招提寺・盧舎那仏坐像~脚部
唐招提寺・盧舎那仏坐像(脱活乾漆像)
下段・足先が衣で包まれた脚部


他には、大阪交野市の獅子窟寺・薬師如来坐像、福島会津の勝常寺・薬師如来坐像(左足先の一部を包む)が知られていますが、いずれの像も奈良の地の影響を強く受けたといわれている仏像です。

獅子窟寺・薬師如来坐像
大阪獅子窟寺・薬師如来坐像

福島会津勝常寺・薬師如来坐像
福島会津勝常寺・薬師如来坐像

奈良時代の後半期には、この2像のような造形表現をそのまま大きくしたような、手本となる仏像が本当にあったのでしょうか?


この蟹満寺の阿弥陀如来坐像を見て、淺湫氏の解説を読んで、急に和束町薬師寺の薬師像についての関心がよみがえってきました。

これまでに、和束町薬師寺・薬師如来像や蟹満寺・阿弥陀如来像について、論究したり解説したりした本や論文はないのでしょうか?
調べてみると、いくつか見つかりました。

それらのなかから、参考になりそうなもの、興味深い解説などをご紹介したいと思います。

和束町薬師寺・薬師如来像についてです。

「解説版・新指定重要文化財3・彫刻」(1981・毎日新聞社刊)

の解説では、本像の特徴についてこのように記されています。

「臂を強く張った上体は、著しく幅広につくられ、これに応じる膝の張りも大きく、巨像を想起させる重厚さを示すが・・・・・・
・・・・・・
面奥の深い頭部や、やや猫背気味に突き出した側面観にも、東大寺の弥勒仏坐像など平安初期一木彫に通じる特色がある。

一方目鼻立ちは穏やかで、衣褶の彫り口もさほど鎬立てず、殊に胸のぼってりした肉取りや両足先を包む衣の柔軟な表現には、奈良時代に盛行した乾漆像の影響が認められ、多様な作風を示す9世紀彫刻遺品のなかにあっても、とりわけユニークな作例として注目されよう。」

この薬師像が昭和53年(1978)に重要文化財に指定された時の解説です。

和束町薬師寺・薬師如来坐像~正面

和束町薬師寺・薬師如来坐像~側面..和束町薬師寺・薬師如来坐像~像底部
和束町薬師寺・薬師如来坐像~正面・側面・像底
(膝前まで一木、内刳り無し)



「日本古寺美術全集15・平等院と南山城の古寺」(1980・集英社刊)

には、伊東史朗氏が、このように記されています。

「木彫で、これほど忠実に乾漆の感じを出す例はまれであろう。
それは薬師寺が奈良に近い和束の地にあるためばかりではなく、いまだ乾漆の技法が生きていて、その本質が理解されていた時期に造られたからであろう。」


続いて、蟹満寺・阿弥陀如来坐像についてです。

中野玄三氏は、「山城町史」(1987刊)において、このように解説されています。

「この如来形坐像は、頭部が完全にのちのものと代わっているが、来迎印に似た印相を結び、両足先まで衣にくるんで結跏趺坐する姿は、和束町原山薬師寺の薬師如来坐像と酷似している。
その造形の特色は一木造でありながら、木心乾漆的表現を試みている点にある。

・・・・・・・・

この両像は、東大寺の「試みの大仏」と称せられる弥勒仏像と、その気宇の広大な点で一致するが、その表現技法はまったく相違し、東大寺像が貞観彫刻独特の素木造の典型であるのに対して、これは天平彫刻の様式に属する。

・・・・・・・・・

おそらくその制作年代は薬師寺像が先行し、蟹満寺像がそれを継承したものと推定される。」

東大寺の弥勒仏坐像、通称「試みの大仏」がイメージに浮かんでくる。
そのとおりだと思いました。

東大寺・弥勒仏坐像(試みの大仏)

東大寺・弥勒仏坐像
東大寺・弥勒仏坐像(試みの大仏)

肉身や衣文の表現が大きく隔たりますが、体躯のシルエット、重量感、重厚感は、「試みの大仏」のフィーリングです。
特に、和束町薬師寺像は、そのように感じます。

蟹満寺・阿弥陀如来像のお顔の表現が、9世紀にしてはどうもしっくりこないと感じられたのは、後世のものだからのようです。

これらの解説を読むと、この二つの如来像の特色は、

・平安初期彫刻の代表例、東大寺・弥勒仏坐像に相通じる造形

・奈良時代の乾漆像を写したような肉身、衣文表現

・多様な9世紀彫刻のなかでも、とりわけユニークな作例

であるということになるようです。

私もまったく同感です。
特に和束薬師像の姿を見ると、その意をたいへん強くします。


この革新と伝統が同居するという、矛盾をはらんだような造形表現は、多様な平安前期の彫刻のなかで、どのように位置づけられるのでしょうか?

和束町薬師寺像について考証した論文を見つけました。

「京都・薬師寺の薬師像について」仏教芸術167号(1986)

という論考で、根立研介氏の執筆です。
和束薬師像について、15ページに亘ってじっくり論じられています。

長文なのですが、思い切って大胆に端折って、エッセンスのみをご紹介したいと思います。

根立氏はこのように論じられています。

和束町薬師寺像の特色は2点に整理できる。

・第一は、像全体の量感を強調し、木塊状に構成する点である。

・第二は、豊かな肉付けを柔軟な面で構成する肉身表現、写実に基づき襞の形態と質感を自然、柔軟にあらわす着衣の表現である。

和束町薬師寺・薬師如来坐像
和束町薬師寺・薬師如来坐像

平安初期の彫刻は、「純木彫系」と「乾漆系」に分類されるという考え方が一般的である。

・「純木彫系」は、神護寺薬師如来像、新薬師寺薬師如来像、東大寺弥勒仏像などが代表作例。

神護寺・薬師如来立像...新薬師寺・薬師如来坐像
神護寺・薬師如来立像         新薬師寺・薬師如来坐像

・「乾漆系」は、広隆寺講堂阿弥陀如来像、観心寺如意輪観音像、東寺講堂諸尊などが代表作例。

広隆寺講堂・阿弥陀如来坐像..観心寺・如意輪観音坐像
広隆寺講堂・阿弥陀如来坐像        観心寺・如意輪観音坐像

和束町薬師寺像は、第一の特色(量感・木塊状構成)は、「純木彫系」像の特色と共通する。
また、漆箔仕上げという技法の点では、「乾漆系」像と共通するが、肉付や衣文の表現などは相当に隔たりがある。

和束薬師寺像の肉付や衣文表現は、「純木彫系」「乾漆系」のどちらの系譜に含めることができないもので、天平の乾漆像をそのまま受け継いだものといえる。
その類例を、広隆寺不空羂索観音像に見ることができる。

広隆寺・不空羂索観音立像
広隆寺・不空羂索観音立像

和束薬師寺は、南都寺院と関係の深い地にあり、本寺にあたる南都大寺の仏像を手本に、これを模倣したのではないだろうか。

平安初期彫刻が「純木彫系」「乾漆系」ともに、新時代の独自の作風を完成させているのに対し、
和束薬師寺像は、体躯全体構成については、平安初期の一般的傾向従いながらも、天平時代乾漆像と平安初期木彫という二つの彫刻の交流になかにあって、あくまでも保守的な位置を出ることがなかった木彫像と考えられる。


引用が長くなってしまいましたが、

「なるほど、そういうことなのか!」

と、判りやすい整理と平安初期における本像の位置づけの考え方に、すっかり納得してしまいました。

先にご紹介したいくつかの解説文も、この根立氏の論考を踏まえて、記されているように思えます。

ただ、和束薬師寺像が、

「あくまで保守的な位置を出ることがなかった」

というコメントを読むと、
なんだか、和束薬師寺像に、ネガティブな雰囲気が漂い、一寸かわいそうな感じがしてしまいます。
決して、そうした主旨で書かれたものではないと思いますが・・・・・・


つい、話が冗長になってしまいました。

この像は、確かに保守的ですが、大変出来がよくて、気宇壮大で、おおらかに包み込んでくるような魅力のある、惹きつけられる仏像です。

前回ご紹介した、廣智寺の観音菩薩像もエキゾチックで魅力あふれる仏像でした。
そして、対極にあると云えそうな和束薬師寺像も、また別の魅力にあふれ大変気に入った仏像です。

今更ながらに、

「平安前期の彫刻は、多様で彩りに富んでおり、革新的、伝統的、様々な表現が入り乱れ、それぞれが大きく花開き、百花繚乱となった時代であったのだ」

という思いを新たにしました。

いわゆる天平時代、平安後期(藤原時代)のような、一つのパターンの表現様式の時代とは、全く違った多様性の時代であったのだと思います。
それだからこそ、私たちは、平安前期の彫刻に、惹き込まれてしまうような、強い魅力を感じてしまうのかしれません。


こうした多様な平安前期の彫刻の、分類・整理の仕方については、なかなか難しいものがあるようです。
平安時代彫刻を論じた専門家の本を読んでも、様々な切り口、アプローチで多様性の区分が試みられているようです。
このあたりの話も面白いのですが、踏み込むと混み入ってきそうですので、またの機会に考えてみたいと思います。

それにしても、魅力ある仏像にあふれた時代です。

■廣智寺観音立像、宝菩提院菩薩踏下像のように、彫技の冴えを誇示するような、異国風・エキゾチックな仏像。

廣智寺・観音立像..宝菩提院・菩薩踏下像
廣智寺・観音立像          宝菩提院・菩薩踏下像

■神護寺薬師立像、新薬師寺薬師坐像のような、鋭角的な彫口で、森厳さ強い精神性あふれる、迫力十分の仏像。

神護寺・薬師如来立像..新薬師寺・薬師如来坐像
神護寺・薬師如来立像            新薬師寺・薬師如来坐像

■東寺講堂諸尊、観心寺如意輪観音坐像のように、密教系で豊満で官能的、妖しい魅力を秘めたといえるような仏像。

東寺講堂・梵天像..観心寺・如意輪観音坐像
東寺講堂・梵天像             観心寺・如意輪観音坐像

■和束薬師寺薬師坐像、広隆寺不空羂索観音立像のような、天平乾漆像の伝統的世界をそのまま継承したような造形の仏像。

和束町薬師寺・薬師如来坐像..広隆寺・不空羂索観音立像
和束町薬師寺・薬師如来坐像             広隆寺・不空羂索観音立像

これくらいにしておきますが、挙げれば、またまだ挙げることが出来るでしょう。
ちょっと思いつくだけでも、あまりの多様さに幻惑されてしまいそうです。

それが、平安前期一木彫の、こたえられない魅力なのだと思います。

「9世紀の一木彫」といわれれば、血が騒ぎます。

そして、これからも懲りもせず、磁力にひきつけられるように訪ねていくことになるのでしょう。



【追記】

「足先を衣でくるんだ像」の9世紀以前の例についての話ですが、
読者の方から、この最古の例は「711年制作といわれる法隆寺五重塔塔本塑像」とのご指摘をいただきました。
早速にお教えいただき、有難うございます。
これからも、何かとよろしくお願いいたします。

私は、法隆寺塔本塑像の例については、気がついておりませんでした。
お恥ずかしい限りです。
衣のスタイルや飾り物、姿勢などの類例をピックアップしていくというのは、結構難しいですね。
一覧表でもあればよいのですが、なかなかそういったものもなく、解説・論文からの孫引きや記憶に頼るしかないようです。

いずれにせよ、「足先を衣でくるんだ」スタイルは、唐の形式からの影響によるものなのでしょう。

法隆寺塔本塑像の文殊菩薩坐像(東面2号像)、2躯の菩薩坐像(東面3・4号像)にこの形式が見られます。

写真をご覧いただければと思います。

法隆寺五重塔塔本塑像・文殊菩薩像(東面・2号像)..法隆寺五重塔塔本塑像・菩薩像(東面3・4号像)
法隆寺五重塔塔本塑像・文殊菩薩像(東面・2号像)        菩薩像(東面3・4号像)


古仏探訪~京都府相楽郡和束町・薬師寺の薬師如来坐像 【その1】  【2014.6.14】


京都府相楽郡和束町にある、薬師寺の薬師如来坐像をご紹介します。


前回は、大阪府高槻市の廣智寺・多臂観音菩薩立像をご紹介しました。

中国・唐の匂いがプンプンする、異国風、エキゾチックな一木彫像でした。
奈良末・平安初期の、渡来仏工の手になるかと思うほどの、中国の新たな様式の造形です。
まさに、新たな時代、新たな造形感覚の到来の波が押し寄せるのを、感じさせる像でした。

この廣智寺観音像の次には、どんな知られざる仏像をご紹介しようかと考えました。
そうすると、どうしても和束町薬師寺の薬師坐像を採り上げたくなりました。

この薬師像も、9世紀の一木彫像です。
こちらの方は、国の重要文化財に指定されています。
この薬師像は、廣智寺観音像とほぼ同時期の制作とみられているものですが、表現の感覚が全く違う像なのです。

ご覧のとおりです。

和束町薬師寺・薬師如来坐像
和束町薬師寺・薬師如来坐像~正面

奈良時代の乾漆像の造形表現をそのまま引き継いだような仏像です。

廣智寺像と和束薬師寺像は、ともに優れた魅力あふれる仏像ですが、その造形表現は、対極的なコントラストを感じるといってよいかもしれません。

高槻市廣智寺・観音菩薩立像
高槻市廣智寺・観音菩薩立像

和束町薬師寺の薬師如来坐像は、9世紀一木彫の世界では、ちょっと異色の仏像と云えるのでしょう。
京都府の南の端、南山城の地にある、この「かくれ仏」を、これからご紹介していきたいと思います。

和束町薬師寺は、京都府といっても奈良の方に近く、奈良駅の東北15キロぐらいのところにあります。
最寄駅は、JR関西本線・笠置駅です。
海住山寺の東5キロぐらいの処といった方が、判りやすいかもしれません。

私が訪れたのは、もう10年近く前になりますが、相当辺鄙なところで、交通手段が少なく、車で行かないと厳しいところです。
車がやっと一台通れるような狭い坂道を登っていくと、ようやく薬師寺に到着します。
薬師寺のあたりには、美しい茶畑が広がっていました。

和束町薬師寺のあたりから見はるかす美しい茶畑
和束町薬師寺のあたりから見はるかす美しい茶畑

和束町は、お茶の産地として有名で、お茶畑の景観は「茶源郷」と呼ばれています。
私が訪れたとき、薬師寺の近くから眺められたのは、ご覧のような景観です。
見渡すばかり茶畑の風景は、癒しの空間、心洗われる空間に身を置くような気持になりました。

和束薬師寺は、収蔵庫を兼ねた小さなお堂が一つあるだけです。
このお堂に、薬師如来坐像が安置されています。
拝観のお願いのご連絡を差し上げましたら、ご了解いただき、お堂の扉を開けてお待ちいただいておりました。

像高56.4cmの小像です。
ヒノキ材と思われる一木彫の漆箔像です。
膝前まで全て一木で木取りされており、内刳りはありません。

お像の傍まで寄って、眼近に拝することができました。
ビックリしました。
大変出来の良い、素晴らしい仏像です。

和束町薬師寺・薬師如来坐像

和束町薬師寺・薬師如来坐像(日本古寺美術全集掲載写真)
和束町薬師寺・薬師如来坐像(下段は日本古寺美術全集掲載写真)

それも、単に技巧的に出来が良いというのではなく、「雄大」というか「おおらか」というか、「気宇壮大という四文字熟語」が似つかわしい、というような雰囲気を醸し出しています。
50センチ余の小さな像なのに、大きな姿に見えるのです。

「のびやかで、ゆったりと堂々とした」

こんなフレーズがぴったりという、大きな器に感じさせる、造形表現です。

9世紀、平安初期の仏像というと、
「鋭い彫口、森厳で強い精神性の造形」
というフレーズに象徴される仏像を想像してしまいますが、全く違う空気感です。

この仏像を訪ねることにしたのは、和束町に9世紀制作の重要文化財の薬師像が在ることが、何処かの本に出ていたのを見つけたからです。

私にとっては、「9世紀制作」の平安古仏といわれると、これは拝さねばならぬと出かけたのです。
小さな写真を見ただけで訪ねたものですから、さほど大きな期待感も抱いていませんでした。
南山城のはずれの和束町という鄙の地にある仏像なので、少し田舎っぽいような、月並みな像ではないかと、勝手に思っていたのです。

ところが、案に外して、「気宇壮大」「堂々雄大」な造形の仏像に遭遇したのです。
大変優れた技量、造形力を備えた仏工の手によって作られた像に違いありません。
それだけに、和束町までわざわざ出かけてきた甲斐があったと、感動もひとしおで、一層強いインパクトを感じたのです。

穏やかに包み込んでくるようで、すっかり気に入ってしまいました。
気迫勝負で迫ってくるといったようなところは全くないのですが、なにか惹きつけるものを感じる、魅力ある仏像なのです。

それにしても、この薬師如来像は、ちょっと不思議な仏像です。

この像を拝した瞬間、

「あれ? この薬師像は乾漆造りの仏像なのかしらん?」

と思ったのです。

平安初期の仏像特有の鎬だった鋭い衣文の彫口などは、どこにも見当たりません。

和束町薬師寺・薬師如来像の衣文の造形~乾漆による造形そのもののよう~

和束町薬師寺・薬師如来像の衣文の造形~乾漆による造形そのもののよう~
和束町薬師像の衣文の造形~乾漆による造形そのもののよう

衣文の造形の、弾力的な盛り上がり、ふっくらと柔らかな様は、天平時代の木心乾漆像の衣の造形そのものです。

胸から腹にかけての肉身の表現をご覧ください。

和束町薬師寺・薬師如来像の胸、腹の柔らかな肉身表現
和束町薬師像の胸、腹のムッチリと柔らかな肉身表現

おだやかで豊満な肉身の盛り上がりが印象的です。
乳部の下、腹には深いくびれの線をしっかり入れ、内側から膨らんだような柔軟な、ムッチリとした表現が強調されています。
肉厚に木屎漆のモデリングで盛り上げたようにしか見えません。

しかしながら、この薬師像、木屎漆のモデリングなどは、どこにも施されていません。
純然たる木彫像なのです。
あたかも、乾漆像のような表現を、木彫で彫りあげ、漆箔像に仕上げているのです。

「なるほど、天平時代の乾漆造りの仏像に倣って、木彫で乾漆像の造形表現をした仏像なのか!」

そのように思いました。

奈良後期の木心乾漆像~聖林寺・十一面観音像 奈良後期の木心乾漆像~観音寺・十一面観音像
奈良後期の木心乾漆像~聖林寺・十一面観音像(左)と観音寺・十一面観音像(右)

そして、もう一度、じっくり薬師像を拝すると、また不思議なことに気づきました。
天平時代の乾漆造りの仏像のスタイルをまねて作られた像にしては、全体のシルエット、姿かたちが、天平仏のシルエットではないのです。

和束町薬師寺・薬師如来像側面~平安前期彫刻のシルエット、量感がうかがえる
和束町薬師像側面~平安前期彫刻のシルエット、量感がうかがえる

肥満体というほどまでではないのですが、量感豊かというか、ボリューム感があるのです。
天平仏に見られるような、締まるところはしっかり引き締まった、理想的肉体表現、写実表現という感じは見られません。
量感を強調した、大きな塊りのような表現で、重厚感を感じさせます。

このシルエット、ボリューム感は、平安前期の木彫特有のものです。

この和束町の薬師如来像は、

・衣文の表現、肉身の表現は、木彫なのに奈良時代の乾漆像そのもの

・全体のシルエット、造形は、平安初期彫刻の塊量的ボリューム感そのもの

という仏像といえそうです。

「奈良時代の伝統的表現と、平安初期の革新的表現が、一つの仏像に同居しているという不思議な仏像だな」

という感じを強く持ちました。

大変出来の良い仏像ですので、優れた仏工の手によるものでしょう。

「どうして二律背反する、伝統と革新が同居したような仏像が造られたのだろうか?」

「奈良に近い地では、このような仏像が平安時代に入っても造られるということが、在ったのだろうか?」

そんな思いを、少しばかり抱いたのです。

こんな、天平の乾漆像の表現に倣ったような木彫像は、他にあったでしょうか?

私には、広隆寺の不空羂索観音立像のことが、すぐに頭に思い浮かびました。
この仏像は、純粋木彫像でありながら、天平の乾漆像のような造形表現が特徴的にみられる像です。

広隆寺・不空羂索観音像~奈良時代の乾漆像表現に倣った木彫像

広隆寺・不空羂索観音像脚部衣文~乾漆像の表現そのもの
広隆寺・不空羂索観音像~奈良時代の乾漆像表現に倣った木彫像
脚部の衣文は乾漆像の表現そのもの


ご覧のとおり、衣文の柔らかで弾力的な表現は、木彫像なのに、乾漆像の表現そのものです。
文献から、弘仁2年(818)の広隆寺炎上を免れた古像と考えられ、8世紀の制作ともいわれています。
肉身も締りと弾力性があり、全体のシルエットも天平彫刻の古典的写実に倣った表現です。

和束町薬師像の体躯が、平安初期の塊量性、ボリューム感が顕著にみられるのとは、大きく違っています。

広隆寺不空羂索観音は、奈良時代の正統的な乾漆像の伝統を、そのまましっかり引き継いだ、数少ない木彫像なのだと思います。
和束町の薬師寺像は、奈良時代の伝統表現と平安初期の革新表現が、何故か同居しているというところが、不思議に思う処です。

そんな疑問はさておき、大変良き仏像に出会うことができました。
わざわざ鄙びた処まで足を伸ばした甲斐があった。
そんな満足感を一杯に、美しい茶畑が一面に広がる、南山城和束町の地を後にしたのでした。

茶源郷と呼ばれる和束町の風景
茶源郷と呼ばれる和束町の風景

今から、10年近く前のことでしたが、心に残る古仏探訪となりました。


【その2】では、それから10年、和束町薬師寺の薬師坐像を拝した思い出が、よみがえってきた話をさせていただきたいと思います。

古仏探訪~大阪高槻市・廣智寺の多臂観音菩薩立像  【2014.5.23】


廣智寺の観音菩薩像。

この仏像は、是非、皆さんにご紹介しておきたい、興味深い仏像です。
あまり知られていませんが、魅力あふれる仏像です。
大変出来の良い、見事な仏像だと思います。

廣智寺・多臂観音菩薩立像

廣智寺・多臂観音菩薩立像
廣智寺・多臂観音菩薩立像

実は、廣智寺の観音立像のことは、8年前までは、その存在を全く知りませんでした。

8年前、平成18年(2006年)に、同好の方数名で「摂津の古仏探訪」に出かけました。
いくつもの摂津の古仏を拝しましたが、その折、目当てのお寺のご都合がつかず、空いてしまった時間の埋め草に訪ねることになったのが、広智寺なのでした。
大阪府の指定文化財に指定(平成5年・1993指定)されている古仏があるというので、訪ねてみたのです。
まったくノーマークの仏像でした。

廣智寺の本堂に祀られたこの仏像を眼前に拝した時、思わず「オゥー!」という声を上げてしまいました。

その見事さに、本当に驚いたのです。

「これはすごい。これだけの古像が、どうして知られていないのだろうか?」

と、びっくりするとともに、見惚れてしまいました。

廣智寺・多臂観音菩薩立像
廣智寺・多臂観音菩薩立像~正面

皆さん、写真をご覧になった、印象はいかがでしょうか?

「大変出来の良い、一流の腕の手による仏像だ。」
「ボリューム感充分、相当古い時期に造られた一木彫に違いない。」

きっと、こんな印象を感じられたのではないでしょうか。


像高は、ほぼ等身の164.5cm。
カヤ材の一木彫で、内刳りはありません。

全体の姿は、ボリューム感豊かで、堂々たるものです。

どっしりとした重量感と、きりっとした締まりある緊張感を併せ持っているようです。
真横からは拝せませんが、かなりの奥行きがあるように思われ、相当の肥満体といっても良い、太造りです。
とりわけ、肩から胸にかけては、肩太りで豊満でむっちりした肉付きですが、肥満の緩みとか弛みといったものがなく、締りと緊張感ある造形に仕上がっています。

廣智寺・多臂観音菩薩立像~上半身
肩太りでむっちり締りある造形の廣智寺・観音菩薩像

一番の魅力は、お顔の造形でしょう。

ちょっと下膨れで、引き締まった口唇、真ん中に寄せたキリリとした目鼻立ちは、クォリティー高く見事なものです。
惹きつけるものがあります。

廣智寺・多臂観音菩薩立像~顔部
廣智寺・観音菩薩立像~顔部

面貌や上半身の体躯の造形をみると、唐招提寺講堂の伝衆宝王菩薩像や伝獅子吼菩薩像の造形や雰囲気を思い起こします。
大陸風のエキゾチックな雰囲気を醸し出しているところが、そのように感じさせるのでしょう。

唐招提寺講堂・伝衆宝王菩薩像...唐招提寺講堂・伝獅子吼菩薩像
唐招提寺講堂・伝衆宝王菩薩像         伝獅子吼菩薩像

唐招提寺講堂・伝衆宝王菩薩像~顔部
唐招提寺講堂・伝衆宝王菩薩像~顔部


宝菩提院の菩薩踏下像(国宝)や、道明寺の十一面観音立像(国宝)を思い起こされた方も、結構いらっしゃるのではないかと思います。

宝菩提院・菩薩踏下像
宝菩提院・菩薩踏下像

道明寺・十一面観音立像
道明寺・十一面観音立像

宝菩提院像、道明寺像は、

・唐渡来かと思わせるエキゾチックな風貌、
・しつこいほどの粘りのある衣文表現、
・彫技の冴えを競い誇るかのような鋭い彫口

が印象的です。

何やらヌメッとしたというか、ねっとりした粘着質の感覚表現は、唐代彫刻特有のもののように思えます。

廣智寺像をみると、頭上の髻の結い方は、宝菩提院像にそっくりですし、幅の広い天冠台は道明寺像に類似しています。
また、瞳に石か練物を嵌入していたと思われますが、この点も両像と同じです。

それよりも何よりも、宝菩提院像、道明寺像の持つ、中国風というか唐風の匂いがぷんぷんとする、独特の雰囲気、空気感を、廣智寺像にも色濃く感じられることと思います。
異国風の表現というのでしょう。

廣智寺観音像の衣文表現や彫技の冴えの程は、像の表面が相当傷んですり減っているため、良く判りませんが、宝菩提院像や道明寺像を思わせるようなものであったのかもしれません。

廣智寺・多臂観音菩薩立像~脚部
相当傷んですり減っている廣智寺・観音像~脚部衣文

唐招提寺の伝衆宝王菩薩像・伝獅子吼菩薩像は、奈良時代後期の制作です。
宝菩提院像、道明寺像は、9世紀半ば頃の作ともいわれますが、近年、長岡京時代(延暦3~13年・784~794)か、それに近い平安初期の制作という見方もされています。

これをそのまま引き直せば、廣智寺観音像も、奈良時代末期から平安時代初期(8末~9世紀)の制作と考えられるということになります。

皆さん、どのように感じられるでしょうか?

いずれにせよ、廣智寺多臂観音菩薩立像は、相当の修理の手は入っていますが、大変レベルの高い造形の仏像であることには間違いなく、当代一流の仏工の手によるものであろうと思われます。
その、異国風のエキゾチックな造形表現は、この像が渡来系か、唐渡来の彫刻技術を受け継いだ仏工の手による像であることを物語っているのでしょう。



廣智寺は、大阪と京都のちょうど中間点あたり、高槻市天神町に在ります。
古代の摂津の国の地です。
JR高槻駅から真北へ500メートルほど、歩いて6~7分の市街地の真ん中にあります。

階段を上っていくと山門があり、その姿を見ると禅宗の寺院であることが、すぐにわかります。
曇華山広智寺といい、黄檗宗の寺院です。

廣智寺・山門..廣智寺・本堂
廣智寺・山門               廣智寺・本堂

廣智寺・観音菩薩立像が安置される厨子
廣智寺・観音菩薩立像が安置される厨子

観音像は、本堂の大きな厨子の中に祀られています。

観音様のご拝観については、事前に連絡を入れてお願いすると、ご都合がつく限り気軽にご了解いただけるようです。
私は、平成18年と今年(平成26年)の二度、お伺いしましたが、いずれの時も快く拝観のご了解をいただきました。
堂内は、少々暗いですが、観音像の祀られている厨子の中は適度の照明がされており、眼近にじっくりと拝することができます。

この像が、かつてあまり知られていなかったのは、像の痛みが相当に激しくその尊容を著しく損じていたことにあるようです。
廣智寺さんで拝見した修理前の写真を見ると、多臂の腕は皆亡くなってしまっており、肉身部には後補の金泥が塗られていたとのことです。

余りに痛みが激しいため、平成3~5年(1991~1993)に、美術院国宝修理所で解体修理が行われました。
修理前は、六臂の十一面観音に改変されていましたが、解体修理の結果、八臂の観音菩薩立像であることが判明しました。
修復にあたっては、八臂に戻され腕・手先が新たに造られるとともに、足先も後補されました。
一面八臂の「不空羂索観音」を意識して、修復されたとのことです。

修理前の廣智寺・多臂観音菩薩立像......修理後の廣智寺・多臂観音菩薩立像
廣智寺・観音像~修理前の写真           修理後の写真

観音像は、この修理修復で、すっかり像容を一新し、その堂々たる見事な造形がよみがえることになりました。
そして、奈良末平安初期の制作、唐風の優れた彫技を思わせる仏像であることが注目されるようになったのではないかと思います。

平成5年(1993)当時の、美術院での修理結果を伝えるとともに、奈良時代にさかのぼりうる古像であることを報じる新聞記事を、ご紹介します。

廣智寺・観音菩薩立像について報道した新聞記事

見出しには、

「広智寺・十一面観音。実は不空羂索観音だった!」
「解体修理で判明、重文級・・・奈良時代にさかのぼる!」

と書かれています。

井上正氏の、次のようなコメントが載せられています。

「衣の衣文などから、奈良時代にさかのぼるのではないか。
近くにある霊松寺は、奈良時代に活躍した僧、行基開創の伝承を持っており、行基に関わる像とも考えられる。」

井上氏は、行基に関わる像とのコメントですが、どうなのでしょうか?
これは、ちょっと無理筋のような気がします・・・・・・

ただ、修理結果の知見によると、相当の古像であることは間違いないような感じです。

この像の、来歴は辿れるのでしょうか?
元々不空羂索観音なのか?
という問題についても、気になります。

この点について、浅見隆介氏は、このように述べられています。
本像が、平成13年(2001)、「天神様の美術展」(大阪市立美術館)に出展された時の、図録の解説です。
天神様の美術展図録掲載の廣智寺・観音菩薩像写真
天神様の美術展図録掲載の
廣智寺・観音菩薩像写真

「大阪府高槻市の廣智寺は、上宮天満宮に隣接し、その本尊である本像は江戸時代・慶安年間(1648~52)に、おそらく菅原道真没後750年を期して十一面観音菩薩像に造り変えられ、天神の本地仏として信仰された。
近年の修理を経て、現在、不空羂索観音像としてまつられるが、額に第三眼がないこと、鹿皮をまとわないことから、その確証はない。

髻の形は宝菩提院の菩薩踏下像、醍醐寺の聖観音菩薩立像に、天冠台の形は道明寺十一面観音立像などに通じる。
一木造りで内刳りを施さず、瞳に黒い石などを嵌めていたらしい。

制作は、奈良時代末から平安時代初頭とみられ、地理的に長岡京と近いことが興味を引く。」

もともと不空羂索観音であったかどうかは、さて置くとして、廣智寺観音像は、井上氏の云う行基関連というよりは、天満宮に関わるとみたほうが、納得的に思えます。

廣智寺は江戸時代の開創ですので、観音像は隣接の上宮天満宮から移されたことは間違いないようです。

上宮天満宮
上宮天満宮

しかし、天満宮は、903年に没した菅原道真を祀る神社です。
観音像は、それよりもはるかに古い年代の制作と考えられますので、つじつまが合いません。

ただ、上宮天満宮は、菅原道真を祀るとともに、その始祖である野見宿禰をともに祀っています。
また、近接して、菅原氏・土師氏の始祖・野見宿禰を祀った野身神社があります。

野身神社
野身神社

この野身神社は、野見宿禰の墳墓と伝わる小墳丘(宿禰塚古墳)の上に位置しています。

当地は土師氏に関わる地であり、この観音像は、土師氏由来の仏像として、古来、当地に伝わってきた古像ではないかという見方もあるようです。

そのように見てみると、当地に奈良末・平安初期にさかのぼり得る古像が残されていることも、土師氏ゆかりの像と考えれば、納得できるように思えてきます。


ご存じのことかと思いますが、土師氏は野見宿禰を祖先とする有力豪族です。

土師氏は、桓武天皇にカバネを与えられ、大江氏・菅原氏・秋篠氏に分かれていきます。
「野見宿禰⇒土師氏⇒菅原氏」は、一本の系譜でつながっており、天神信仰は土師氏につながっていくのです。
因みに、土師氏の氏寺は、国宝・十一面観音像を祀る道明寺で、道明寺天満宮が隣接しています。

ここまで、平安初期以前にさかのぼる可能性のある、廣智寺観音像が、この摂津・高槻の地に遺されている訳について、想像を逞しくしてきました。



ここで、廣智寺観音像の異国風、唐風といった「エキゾチックな造形表現」について、もう少し深めて考えてみたいと思います。

二つの視点から、見てみたいと思います。

一つは、瞳に石や練物などの異物を嵌入するという、特異な造形表現についてです。

もう一つは、桓武天皇・土師氏・紀氏の血脈トライアングルと長岡京遷都に関わる仏像という観点です。


先ず、瞳に異物を嵌め込んだ木彫像についてです。

廣智寺観音像のほかには、どのような例があるのでしょうか?
主なものを、ピックアップしてリストにしてみました。

奈良時代の塑像や乾漆像には、黒い石やガラス玉を瞳に使った例が多くあるのは、ご存じのとおりですが、奈良~平安期の木彫像で、瞳を嵌め込んだ例はそう多くはなく、主には次のようなものが見られます。

瞳に異物を陥入した平安仏リスト

ご覧いただくと、一目瞭然ですが、どの仏像も中国(唐)からの渡来像か、中国風(唐風)の匂いがプンプンとするエキゾチックな仏像ばかりです。

法隆寺・九面観音立像...法隆寺・九面観音立像
法隆寺・九面観音立像

唐招提寺講堂・大自在菩薩立像...唐招提寺講堂・大自在菩薩立像
唐招提寺講堂・大自在菩薩立像

東寺・兜跋毘沙門天立像...東寺・兜跋毘沙門天立像
東寺・兜跋毘沙門天立像

東寺観智院・五大虚空蔵菩薩像.東寺観智院・五大虚空蔵菩薩像
東寺観智院・五大虚空蔵菩薩像

法華寺・十一面観音立像..法華寺・十一面観音立像
法華寺・十一面観音立像

宝菩提院・菩薩踏下像
宝菩提院・菩薩踏下像

道明寺・十一面観音立像
道明寺・十一面観音立像

廣智寺・観音菩薩立像
廣智寺・観音菩薩立像

中山寺・十一面観音立像..中山寺・十一面観音立像
中山寺・十一面観音立像

清凉寺・釈迦如来立像..清凉寺・釈迦如来立像
清凉寺・釈迦如来立像

元興寺薬師像、新薬師寺薬師像、神護寺薬師像をはじめとした、いわゆる奈良末平安前期の有名どころの一木彫像の表現、空気感と一線を画する処があると思います。

木彫像の瞳に何かを嵌入するという技法は、中国渡来(系)の像特有にみられるもののようです。
宝菩提院像や法華寺像などは、唐からの渡来像ではないかとの考え方もあるようです。
いずれにせよこれらの像は、わが国で製作された像だとしても、唐代木彫の技術を持った渡来系工人の技術をそのまま受け継いだ仏工の手による像なのは間違いないでしょう。

廣智寺観音像も、失われてしまってはいますが、瞳が嵌入されていました。
この点だけを見ても、広智寺の観音像が唐渡来風一木彫の範疇に属する仏像であることが、明らかなのだと思います。

廣智寺・観音菩薩立像

廣智寺・観音菩薩立像
廣智寺・観音菩薩立像

もう一つ、廣智寺観音像の制作背景について、桓武天皇、長岡京、土師氏といったキーワードから、想像を逞しくしてみたいと思います。

先ほど、廣智寺観音像は、高槻の地に縁ある豪族、土師氏ゆかりの古像として、上宮八幡宮の本地仏という形で伝わってきた可能性があることについてふれました。

また一方、浅見龍介氏は、
「制作は、奈良時代末から平安時代初頭とみられ、地理的に長岡京と近いことが興味を引く。」
と述べられています。

「土師氏」とか「長岡京」というキーワードからは、道明寺・十一面観音像、宝菩提院・菩薩踏下像のことが、すぐに思い浮かんできます。
いずれの像も、廣智寺観音像と同系統の造形表現、雰囲気を持つ仏像です。


道明寺は、菅原道真の祖先である土師氏によって創建された寺院です。

古くは土師寺と呼ばれていました。
道明寺天満宮が隣接するのも、廣智寺のケースを連想させます。
そして十一面観音像は、道真の自刻像と伝えられています。
制作年代は、9世紀半ばごろではといわれてきましたが、唐風そのものの像で、平安初期にさかのぼるという見方もされるようになっています。

道明寺・十一面立像
道明寺・十一面立像

宝菩提院は、長岡京内の北端に在った願徳寺の後身寺院といわれています。

願徳寺は、7世紀創建の秦氏の関係寺院でした。
宝菩提院は、鎌倉時代(13世紀)にこの土地に、願徳寺の後身寺院として再興されたお寺なのです。
現在は、大原野の地に移転されています。
宝菩提院・菩薩踏下像は、元々この長岡京内に在った願徳寺の安置仏で、桓武天皇による長岡京遷都の延暦3年(784)からの10年間に制作されたものではないかという考えが、有力になってきています。
南都・平城京の地を去って、長岡京に都を移し、新たなる時代の風を吹き込む新様式で造られた仏像ということになるのでしょうか。
それ故に、南都の旧来の仏工ではなく、唐渡来の中国工人かその系譜の仏工によって、唐風色濃いエキゾチックな仏像が造られたのかもしれません。

宝菩提院・菩薩踏下像
宝菩提院・菩薩踏下像


そしてまた、長岡京に都を移した桓武天皇の母方の祖母は土師氏の出身、父方の祖母は紀氏の出身なのです。
系図を見ると、ご覧のとおりです。

紀氏・土師氏・桓武天皇系図

父方の祖母、紀氏のゆかりの寺である、奈良・璉城寺にも唐風の色濃い観音菩薩立像が残されています。

こうしてみてみると、桓武天皇、土師氏、紀氏という血脈のトライアングルと、新京・長岡京に関わるとみられる仏像に、中国風・唐風のエキゾチックな造形表現の仏像が残されているような気がします。

これらに関係しそうな仏像をまとめると、次のようなものです。

桓武天皇長岡京遷都と土師氏、紀氏に関わると思われる仏像

いずれの仏像も、唐風のエキゾチックなにおいプンプンの木彫像です。

璉城寺・観音菩薩立像...秋篠寺・十一面観音立像
璉城寺・観音菩薩立像           秋篠寺・十一面観音立像

技法的な面もありますが、何やらねっとりとした粘着的な感覚表現は、唐代彫刻特有の空気感を感じさせるものばかりです。

秋篠寺・十一面観音像は、そこまでのエキゾチックさは感じさせませんが、彫技の冴えをこれでもかと誇るかの、煩雑なまでのうねりと粘りのある衣文表現は、唐風そのものといえるでしょう。

桓武天皇の、長岡京遷都・平安京遷都の一つの動機は、朝廷の保護の下、力を持ちすぎた奈良仏教の影響を排除することにあったといわれています。

そのことが、桓武天皇周辺に関わりそうな仏像に、いわゆる奈良風の系譜にある仏像があまり見られず、唐風のエキゾチックな表現の仏像が目立つということと、関係しているということになるのでしょうか?

「桓武天皇と周辺氏族、長岡京遷都」という括りと、
「唐風渡来新様の色濃い仏像群」には、
結構深いかかわりがあるような気がしてきました。

都合の良さそうな話ばかりをピックアップして、ストーリーを繋げていったような感じもなきにしもあらずですが、ちょっと大胆に想像を逞しくしてみました。

このように考えると、廣智寺観音像の仏教彫刻史的上の意味や位置づけは、ずいぶん重みを増してくるように思えます。
まことに興味深い、唐風一木彫像だと云えるのでしょう。

廣智寺・観音菩薩立像
廣智寺・観音菩薩立像

廣智寺を訪ね、思いもかけず見事な観音菩薩像を拝することができました。
そのことをきっかけに、長岡京時代・平安初期の「唐風色濃いエキゾチックな表現の仏像」について、あれこれ考えてみることができました。

皆さん、拝されると、きっと

「なかなかの一流の一木彫像」「興味深い仏像」

だと、感じられることと思います。

是非、一度、廣智寺を訪ねて見られることを、お勧めします。


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